愛着障害と支援者

今日の午前中は、頭の中からこの言葉が離れませんでした。
「愛着障害と支援者」
今朝、このことについて考えるきっかけをいただいたからです。


私は、愛着障害を持つ支援者は嫌いです。
というか、愛着障害をまったく持たない人はいないので、自分のそれに気が付いていない支援者が嫌いです。
なぜなら、子どもに自分自身を重ねちゃうから。
なぜなら、私に寄りかかってくるから。


自分の愛着障害に気が付いていない、または意識が及んでいない支援者というのは、自分がしてほしい(してほしかった)支援、言ってほしい(ほしかった)言葉を子どもに行おうとします。
本当は自分自身の内なる声なのに、あたかも目の前の子どもから発せられているように感じてしまう。
よりリアルに感じられるので(もともと自分の内なる声だから)、その子の状態、発達段階、ニーズが目に入らなくなっちゃうんですね。
見ているのは自分自身ですから。
これじゃあ、子ども側のニーズと自分が行いたい支援の間で不一致が生じてしまいます。


また、「その支援、子どものニーズに合っていない」「こっちの支援のほうが良いのでは」などと他の人から言われると…
自分の支援が否定された→自分(過去も)否定された→(私はこんなにも子どもの気持ちがわかるのに←いやいや、それはあなたの内なる声だから)あなたは子どもの気持ちがわからない支援者だー、となってメンドクサイことになります。
全然、話し合いにならないんですね、支援ミーティングとかでも。
途中から感情論みたいになって、純粋に子どもの話ができなくなってしまう。
いつの間にか、支援者自身の話みたいになっちゃうことが多々あります。
より良い支援を作り上げるのではなく、自分の支援、というか、自分自身を認めてもらうことがメインに。


このように、自分自身の愛着障害に気が付いていない支援者というのは、子どもの支援をやっているようで、自分の愛着障害を癒そうと動いてしまっていることがあります。
そうなると、ひと様の支援なんてできないですよね。
たまたま自分のニーズと、子どものニーズが一致すればよいでしょうが。


あと、私自身が困るのは、支援者同士だったはずなのに、途中から寄りかかってくることです。
「私は、あんたの支援者じゃねー」というヤツです。
普通の大人同士、ビジネスパートナー同士だったら、「やらんだろう!」というのを平気でやってきます。
失礼な態度、目的が“反対”になっちゃってる意見、支援の話と言いつつ自分の話を一方的にして聞いてもらおうとする、なんでも認めてもらおうとする、称賛を受けたいなって態度をする、注目を集めようとわざと場にそぐわない行動をする…。
私は「支援者のマスターベーション」と呼んでいるのですが、目的のわからない不必要な支援ミーティングを度々開き、お互い称賛しあうってヤツも、一種の甘えであり、愛着障害の表れだと思っています。
まあ、「私を使って自分の回数券を切ろうとするんじゃない」って思いますね。


ひと様の支援を行う者は、自分自身の愛着障害に気が付いてほしいし、意識してほしい、と思います。
また、その愛着障害について、自分自身で乗り越えようと行動できる人、そして乗り越えられる人が、より良い発達援助ができるようになるのだと考えています。

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