子ども時代の自分を教育、支援している人たち

子どもと関わる仕事をしている人の中には、子どもを支援、教育しているのではなく、"子どもの頃の自分"を支援、教育している人がいるように感じる。
つまり、どういうことなのかというと、自分が子どもだったときにやってほしかったことを目の前にいる子どもに投影し、実践している。
子どもの頃から引きずり続けている心の傷や穴を埋めようとしているかのごとく。

こういった人たちは、よく言うのは「自分はこの子の気持ちがわかるんです」ということ。
こんなセリフが出たら、要注意だ。
冷静に考えれば、子どもというか、他人の気持ちを100%理解することはできないし、そんなことを大人に対して言ったら、相手から「何が分かるんだ」と言って顰蹙をかってしまう。
そもそも、例え子どもに対してだったとしても、一人の別の人間として捉えられないような人に支援も、教育もできないだろう。
自分と他人の境界線が曖昧な人は、その子の評価を見誤る。

子どもの姿に自己を投影している人は、支援や教育に対する信念が非常に固い。
固いというか、融通が利かない。
まあ、融通が利かないというか、他の視点を受け入れられないのだろう。
何故なら、他の視点を受け入れることは、自分の支援、教育観を否定されることであり、それは子どものときに自分が望んでいたことを否定することにつながるから。
もっと言えば、「こうしてもらいたかった」と思っていた子どもの頃の自分が否定されるように感じる。

福祉でも、教育でも、医療でも、子どもの関わる仕事をしている人の中に、おやっと思う人と出会うことがある。
そういった人たちと一緒に仕事をしてみると、引っかかったままの子どもの頃のエピソードを話してくれることがある。
無意識のうちに、子どもと関わる仕事を選び、そして自分自身を癒そうとしている。
ある意味、子どもと関わる仕事は、生活するお金を得るためであると同時に、生き続けるためには必要な営みなのかもしれない。

子どもの成長を促すには、その子どもに合った支援方法、教育方法が必要である。
別の言い方をすれば、自分が受けてきた教育やしつけ、価値観から離れられる必要がある。
その子の資質を開花させるためには、己の教育観、価値観が邪魔になる場合もある。

子どもに自分の教育観、価値観を押し付けてしまえば、成長を促せないだけでなく、足を引っ張りかねない。
また、いくら自分が望んでいた教育、支援をしたからといって、自分自身を癒すことはできない。
こういった幼少期から引きずっているものがある人は、自分自身で自覚し、それと向き合う必要がある。

心の傷や穴を自分で認識しない限り、癒えてはいかない。
中には、今なら誰が見ても「虐待」と言える経験をしている人もいる。
自分の心の中にある素晴らしい教育者、支援者の姿は、自分が子どものときに現れて欲しかった親の姿だったかもしれない、と気が付くことから癒しが始まるのではないかと思っている。

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