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【No.1410】自己治療を応援する

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「良いところを見つけ、良いところを伸ばす」 特別支援学校の先生も、支援者も、大学の先生も、みんな、口をそろえて言っていた。 だけど、私は一瞬でそれは一種の”慰め”だとわかった。 「あなたに、あなたの子に発達障害はあるけれども、良いところもあるでしょ」 「全部が全部、ダメなわけじゃない」 そんな慰めの言葉はお作法として有難く受け渡しされていた、親と支援者の間で。 「良いところを伸ばす」という実践はどこでどんな風に行われているのだろう? 色のマッチングができる子に、ひたすら色分けされたカードを分別させるのは「良いところを伸ばす」なのだろうか。 ゴミにこだわりがある子に、回収されたペットボトルのラベルはがしをさせるのは「良いところを伸ばす」なのだろうか。 日常生活をルーティン化させる子に、ルーティンで物事を習得させるのは「良いところを伸ばす」なのだろうか。 色に強く意識が向くのは目の未発達かもしれないし、ゴミのこだわりはトラウマから逃れようとしている行為かもしれない。 すべてのルーティン化は洪水のように押し寄せる刺激への対処かもしれないし、脳内の情報処理がうまくいかない”もがき”かもしれない。 私は「良いところ」ではなくて、「資質」なんだと思う。 その子の持って生まれた資質。 それはある程度、年齢が上がったあとに見えるものではなくて。 学校や施設で見える「良いところ」は往々にして環境との折り合いをつけた対処法だったり、作られた学習形態だったりする。 だから、それらをいくら取り入れ、繰り返し、褒めちぎったとしても、治療にはつながっていかない。 発達の課題はその人の内側にあるものであって、だから治すのもその人本人。 発達障害を治すのは自分自身であって、”自己”治療が真実だから。 資質というのは、言葉を獲得する前、2歳くらいまでの時期にどんな動き、遊び、興味を持っていたかで見えてくる。 言葉を獲得したあとは学習するが、それ以前は教わっていない自らで編み出した形のまま。 「心地よい」に突き動かされる行動こそ、その子が引き継ぎ、持って生まれてきた資質。 「”心地よい”を大切にしよう」というのは、その子の資質の表れだから。 そんな資質は、生まれ出た世界で生き抜くための発達のエンジン。 生活の中に資質を活かした活動がある子は、日々治っていく。 仕事の中に資質を活かした活動がある人は、年

【No.1409】”胎児期のヌケ”に新たな視点

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昨日は「制限を取っ払った状況、なにものにも縛られず、自由な環境こそが、その子本来の支援、治療、学習の姿が現れる」というお話をしました。 でも、だからといってみんながみんな、無人島のような環境の中にいれば、「勝手に育つ、勝手に課題をクリアしていく」とは言い切れないと思っています。 いや、確かに現代における「発達障害」という課題の大部分はそれでクリアされるはずです。 ただもう一つ重要なポイント、視点があると考えているのです。 それは「制限も、重要な発達を促す要素の一つ」ということです。 私は胎児期も大事な発達期だと考えています。 お母さんのおなかにいるときも、絶えず刺激を受け、心身共に発達をしている。 だからこそ、想像してほしいのです。 胎児は身体が大きくなるにつれて、動きに制限が加わります。 それまで羊水の中を泳いでいたのに、日に日に大きくなり、妊娠後期にはほぼ動けない状況になります。 だけれども、それがいいのです。 それが必要なのです。 手足は屈曲し、動かせる部位が限られていく。 そうなると、胎児の赤ちゃんは動かせる部位を必死に動かそうとする。 それが手や指、口などの顔の筋肉であり、捻じるというそれまでになかった動きを生むことになる。 いろんな事情により早期に生まれた子ども達は、そういった「制限された環境での発達」を抜かしていることがあります。 そして抜かしているからこそ、欲しているように見えることがあるのです。 自ら狭い空間に入っていったり、私たちから見れば物理的にも、心理的にも、行動的にも不便そうな環境づくりをしたり。 中には自らの身体を縛ったり、固定したり、敢えて動かそうとしなかったり。 環境を変え、身体機能を変えることで、自らに制限を加えている。 それは一見すると、障害児っぽさであり、障害特性であり、その子自身で行う発達援助。 発達相談でお子さんのアセスメントをしていると、このような姿、子ども達からのメッセージを感じることがあります。 「発達のヌケ」には運動発達のヌケ、進化の過程のヌケだけではなく、こういった制限された状況で育つはずのヌケもあるような気がしています。 「胎児期のヌケ」に一つ新たな視点が加わった印象です。 ======================= 【発達相談のご案内】 11月に熊本、12月に宮崎に出張予定です。 もしこの機会に「発達の悩み

【No.1408】発達援助のコツは「無人島」

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「発達援助のコツは?」と訊かれることがあります。 コツと言われても、いろいろあって一言で表現するのは難しいのですが、今日はその中の一つについてお話ししようと思います。 私の発達相談では実際におうちに伺って数時間、お子さんと一緒に過ごします。 そしてその時間の中で私は想像するのです、「もし、なにもない環境で過ごしていたら?」と。 ”なにもない環境”とは、つまり、なにも支援も、援助も、医療も、教育も、受けていない、ということです。 もしそんな環境の中で生きていたら、この子はどうやって自身の困難と折り合いをつけ、対処し、治療していたのだろうか、と想像します。 私たちは発達障害の子がいれば、無意識的に「支援・医療・教育」を連想し、そのために行動しています。 とくにこれだけ特別支援や教育、医療や福祉が整備された現代社会においては、「なにもしない」という選択肢はないようなものです。 一度発達の遅れが指摘されれば、医療⇔福祉⇔教育という無限ループの中にパッケージング化されていく。 だけれども、本当に「支援・医療・教育」は必要なのでしょうか。 それがないと、受けないと、どうにもこうにもならないものなのでしょうか。 受ける前は、子ども自身、何もできていない?していない? そうじゃないと思うんです。 子どもさん自身をよく観察すると、自分で自分を支援し、治療し、学んでいることがわかります。 「偏食」と言われる子は、心地よい食感、匂い、色の食べ物を選択し、不快・不必要な食べ物を自らで取り除いている。 それを支援者が行えば支援となる。 「食べられるものが増えるように」と先生が張り切れば、偏食”指導”となる。 でももしこの子が自然の中で生きていれば、食べられるものを食べ、生きていくだろう。 内なる欲求、判断力で自ら食べるものを狭めたり、広げたりするのは問題なのでしょうか。 部屋の中を動き回る子がいれば、「多動」「ADHD気質」などと問題視される。 だけれども、彼は動き回ることでリラックスしているかもしれない。 情報過多になった頭の中を整理しているかもしれない。 息のあがる運動をすることで、酸素をより多く取り込んでいるかもしれないし、幸せホルモンを放出されているのかもしれない。 きっと彼も無人島にいれば、健康的で幸せな日々を送っていることでしょう。 独り言だって、言葉の学習かもしれないし、リズム

【No.1407】援助・支援・余計なお世話

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発達障害は「マイノリティ」「少数派」と言われていた。 少数派の人たちだからこそ、その一人ひとりの事情や特徴、ニーズに合わせた配慮が必要だと説かれている。 だけれども、診断名を見れば、みんな、「発達障害」で一括り。 しかも、その括りは広がるばかりでとどまることを知らない。 医療や支援の目標は、この国の人全員を、発達障害にすることじゃないかとすら思えてくる。 「健康でいたければ、医者の言うことと逆をする」 「長生きしたければ、病院に行かない」 ここに「発達障害をよくしたければ、病院と支援機関に行かない」が加わるだろう。 「発達障害」は、その対象が「発達」である限り、動きを伴うものである。 しかし、診断基準を見れば、どの項目も固定されている。 文字で表現される限り、動きを捉えることはできず、まるで写メを撮るようにその子の一部分を切り取り、静止させる。 切り取った静止画を見て悪趣味の人たちが「ああ、よく撮れた」と発達障害コレクションを増やしていき、儲け主義の人たちが加工アプリを使って発達障害を盛っていく。 研究対象は決まった形がなければならない。 研究者同士で会話ができないからである。 だけれども、私たち一人ひとりは自分の人生を生きている。 ”発達”は生きているのだから、”発達の遅れ”も生きている。 生きている限り、常に動き、曖昧な存在。 それぞれの人生の目的、幸せが曖昧なように。 発達の遅れが不幸であると、誰が決めたのだろうか。 そもそも発達の遅れというものは、本当に発達が遅れているのだろうか。 その子固有の発達の仕方、育ち方、歩み方だとしたら、「余計なお世話」と言われても仕方がない。 もしかしたら子ども達にとって医療も、支援も、療育も「余計なお世話」かもしれない。 少なからず私の中には余計なお世話をし続けてきた自覚がある。 一人ひとりが示す症状は、バランスをとるために必要不可欠な創造物。 なんの「バランスをとる」といえば、「生きるための」となる。 この世界と折り合いをつけ、生命維持のためにおのおのの症状が生まれる。 だから症状は一定でなく、揺れ動く。 発語がないのは、発語がないことでバランスをとっているように見えることがある。 右脳と左脳とのバランス。 原始的な脳と新しい脳とのバランス。 本能と知性とのバランス。 私の感情と親の感情とのバランス。 人工的な社会と動物であ

【No.1406】待つ

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少年野球のコーチになって初めての公式戦が終わりました。 結果は初戦負け。 まだまだ課題が多いというか、勝負をする以前の段階かもしれません。 でもそれだけ伸びしろがあるということで、可能性の塊の子ども達とともに汗を流す日々は新たな生きがいを私に与えてくれているように感じています。 少年野球は「教える」がメインのようなイメージがあると思いますが、中に入って実際にやってみると「待つ」がメインのような気がしています。 当然、教えるべきことはある。 だけれども、その選手が教えられる準備ができているか、その段階にあるか見分けなければなりません。 いくら熱心に、また丁寧に教えても、その子の理解が届いていないことはある。 たとえ理解できたとしても、身体を使ってそれを表現できないことはある。 そこを見極めないで、教え方をころころ変えたり、「根性が足りない」と練習量を増やしたり、「だから今どきの子は」なんて愚痴ってもいけませんね。 子どもの発達は踊り場付きの階段系なので、ずっとできなかったことが急にできるようになることがある。 踊り場をゆっくり歩いて次の階段に向かっている最中に、いかに「待てるか」が重要だと感じています。 また子ども達を見ていると(もちろん、少年野球の子ども達だけじゃなくて)、学ぶ機会の喪失を感じることがあります。 親御さんは忙しいので、「自分がやった方が早い」とあれこれ手を出してしまう。 きょうだいがいなかったり、少なかったりするので、我が子に手をかけすぎる。 そうなると、子どもはやってくれるのを「待つ」 だからいざ集団活動になると、みんな、動くことができない。 大人が大きな声を出して指示をすれば、それは素直に実行することができる。 でも、その指示がなければ、立ち尽くすか、おのおの自分勝手な行動へ向かってしまう。 全体を見て、「ああ、これをやらなくては」とはなりにくい。 だって、そのように考え、行動する前に、大人が行動してくれたから。 この前、うちの下の子が水筒を忘れて学校に行くと、学校から電話がかかってきて、「水筒、忘れてますよ」って担任の先生がわざわざ(遠足とかじゃなくて普通の日)。 水筒を忘れても、蛇口から水を飲めばいいし、忘れたのは自分が悪いんだから「今度忘れないようにするにはどうしたらいいかな」と考えるのも大事だと思うんですが。 大人になっても片付けができな

【募集】関西で発達相談を行います(2024年6月)

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大阪府にお住いのご家族から発達相談の正式なご依頼がありました<m(__)m> ありがとうございます! 【日程】 6月1日(土)函館→伊丹/ PM「大阪」 6月2日(日)AM 「  」 / PM 「大阪」 「大阪」 もし大阪、近畿地方にお住いのご家族で「この機会に発達相談を受けてみたい!」という方がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。 現在生じている我が子の発達の遅れや課題にはどのような理由があり、今後どのように育てていけばよいかをご家族と一緒に考え、お伝えします。 『支援』ではなく、よりよく育つための『発達援助』と『子育て』。 【今後の流れ】 SNSで募集(一週間くらい)→ご希望やお住まいの地域を踏まえ日程調整→訪問スケジュール決定→各ご家庭に日時と料金の連絡→当日を迎える てらっこ塾HPは こちら 発達相談の内容は こちら お問い合わせ・お申し込みは こちら お問い合わせ、お申し込みをお待ちしております!

【No.1405】ありのまま

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「ありのままでいい」というが、「そんなわけないだろう」と私は思っていた。 ありのままでいいのなら、勉強する必要はないし、努力する必要もない。 向上心だって必要ない。 だって、ありのままはそのままってことだから。 支援者は当事者に向かって、この言葉を使う。 「あなたはあなたのままでいい」 「障害も個性の一つだと思えばいい」 これは発達の凸凹に苦しんでいる人、いま、生きづらさを感じている人、ずっと感じてきた人に対して、「その苦しみを受け入れろ」「我慢しろ」と言っているように聞こえる。 裏を返せば、その当事者の苦しみに対して、「私はなにもできない」と白旗を上げているようなものだ。 ありのままでいいのなら、支援者などいらない。 ここに愛着障害の視点を持ってくると、聴こえ方が変わってくる。 「ありのままでいい」という言葉は、当事者に向けられた言葉ではなく、支援者自身が反芻したい言葉なのだろう。 ありのまま、つまり、存在そのものを認めてほしいという欲求。 それはまさに胎児期から乳幼児期における愛着形成。 その時期に、「あなたはそこに存在しているだけで愛おしい」という感情を身体で受け取ることができなかった子ども達が外側を大人に変え佇んでいる。 「ありのままでいい」という人は、ありのままでいられなかった人たち。 だから、自分が何かをしないと認められないと思っている。 だから、常に他人の評価を気にしている。 だから、多数派に流されてしまう。 みんなが打つから打ち、みんながするからして、みんなが「発達障害は治らない」というから「治るもんか」と思ってしまう。 見ている先はいつも外で、自分の内側、内言に目や耳を傾けることがない。 「我が子にどうなってほしいか?」 「今後、どのように育ってほしいか?」 という質問に、答えられる親御さんは案外少ない。 「発達障害を治したい」 「発達のヌケを埋めたい」 そんなふうに答える人もいるが、それは治したい派の模範解答であって、その親御さんの内側から出た生身の言葉ではない。 心の奥底から、湧き出るような、その親御さんの”ありのまま”の言葉、声はなんだろうか。 ☆『医者が教えてくれない発達障害の治り方』のご紹介☆ まえがき(浅見淳子) 第一章 診断されると本当にいいことあるの? 〇医者は誤ることはあるけど謝ることはない 〇早期診断→特別支援教育のオススメルー