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【NO.1490】自閉症と筋トレ

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パターン的な動き、一定のリズムを刻む動きは、心身を癒します。 反対に複雑な動き、強弱が入れ替わる動きは脳に負荷を与えます。 だけど、その負荷は悪いものというものではなく、むしろ脳神経を刺激し、発達に繋がることもあります。 くるくる回ったり、手を叩いたり、飛び跳ねたり。 そんな自閉っ子を見かけたとき 「これは癒しの時間だな」 「それを行うことで、どんな負荷に対処しているのかな」 「そのパターン化された動きにちょっぴり広がりを持たせられないかな」 この3段階のイメージが膨らんでいければ、良い援助者になると思います。 「運動は脳にも良い」 そんな認識が広がりましたので、「どんな運動が合ってますか?」「どんな運動を我が子にやらせれば?」と相談されることもあります。 マラソンや水泳を子ども時代から継続している自閉症の人はよく見かけます。 球技やダンスなどと異なり、直線的な動き、パターン的な動きは相性が良いのでしょう。 市のプールなどで見かける障害を持った人たちのサークル活動、日中活動ではみなさんの柔らかい表情が印象的です。 日頃、刺激だらけで疲労しきった脳にとって癒しの時間です。 しかし、先に入っている私よりも、後から来てさらに先に上がっていく様子を見るたびに「もったいないな」と思います。 癒しの効果だけじゃなくて、脳神経を発達させる視点もあったらな、と。 運動すると乳酸が溜まると言われています。 筋肉で生成された乳酸は血液脳関門を突破することができ、脳の神経細胞のエネルギー源になり、さらにエネルギーとして消費されるだけではなく、脳神経の働きを調節したり、新しい脳神経を作るきっかけになったりするのです。 ですから、できるだけ乳酸が出るように、もっと時間を伸ばしたり、泳ぐといった筋肉活動を増やしたりしたら良いのにな、と思うのです。 「運動全般が苦手」 「走るのもイヤ」 でも「なにか運動したい」という大学生の自閉症の若者がいました。 一緒に散歩をしたり、ヨガやストレッチなどをしましたが、どうもこれじゃあ、刺激として足りないな、と思い、筋トレを勧めたことがあります。 力を抜くことが苦手で、身体をギュッと固めるのが得意だからというのもありました。 もともと細い子だったのでムキムキにはなりませんでしたが、自分でダンベル買ったり、YouTube観ながらスクワットしたり、結構な期間、続けて...

【No.1489】胎児期の愛着障害

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支援者に依存してしまう人っていますね。 当事者の人でも、親御さんでも。 「先生、どうしたらいいですか?」 「これで合ってますか?」 「次は何をしたらいいのでしょうか?」 ベテランの親御さん達は「ああ、愛着障害ね」って瞬時にわかると思います。 このギョーカイ、あるあるですから。 だけど、自分で調べて、自分で行動して子育てしている親御さんを見て、「あっ、愛着障害かも」と気が付く親御さんは少ないかもしれませんね。 「えっ、なんで、自立心のある人が愛着障害になるの」って思ったでしょう。 愛着をうまく形成していった先に“自立”があるって思うでしょ、普通。 もちろん、多くは順調な、時々、遠回りしながらも愛着形成がうまくいった人が自立した大人になるんです。 しかし愛着障害の人はちょっと違うんです、自立したときが。 最初にお話しした依存体質の人は生後に生じた愛着障害の人です。 依存は他者への甘えですから。 おなかの赤ちゃんは他者に甘えませんね。 他者への依存は依存先ができてから生じますし、つまるところ、関係性の、対人関係の問題といえます。 一方で自立心の強い愛着障害はというと、胎児期の愛着障害なんですね。 胎児期の赤ちゃんを想像してみると、お母さんのおなかの中で羊水にぷかぷか浮かんでいる。 自分の身を委ねてますね。 だけど、なんらかの理由があって、そのぷかぷかができなかったり、ぷかぷかが短かったりすることもあります。 そうすると、お腹にいる赤ちゃんは「早く自立しなさい」「早く自立しなきゃ、だって生きられないもん」となるんですね。 愛着形成が積み上がった先の自立じゃなくて、やむを得ない胎児期からの自立。 そういった胎児期からの自立の人は、子どもさんでもなんでもかんでも自分でやろうとしますね。 手を貸されるのを嫌がります。 知的障害の重い子ばかりの施設内でも、明確な違いがありましたね。 うまくいくいかないに関わらず、全部、自分でやろうとする子。 また大人の場合も、相談はするけど、手助け無用という人ですね。 そういった人の成育歴を辿れば、失敗続きの転んでは起き、転んでは起きの人生を歩んできたのが共通しています。 極端な場合は我が道を突き進み、周りは常に振り回され、という人もいますよ。 本人は困っていないけど(笑)、周囲が疲弊して相談のパターン。 いつから始まる愛着障害かを確認する方法は、...

【No.1488】感情の交流としての会話に癒しの効果がある

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私のキャリアの始まりは、言葉をもたない子ども達、自閉症の人達との関わりでした。 彼らが発するのは赤ちゃんのような「バババ」だったり、唸り声や奇声に近いものばかり。 私からの言葉掛けもどこまで理解できるのか、そもそも理解できているのか、わかりません。 20年ほど言葉中心で生きてきた私は、ひたすら彼らの行動を観察する日々を過ごしました。 あるとき、彼らが発している声から感情が読み取れるようになりました。 「そうか、言葉には意味を伝える面と、感情を伝える面があるのか」 無意味な発声としか認識できなかった私が、彼らの豊かな感情表出に気が付いた瞬間でした。 私が今も支援者、援助者でいられることの核には、この気づきがあります。 施設を退職し、今の仕事をしている中で、言葉を話す自閉症の子ども達、人達と関わるようになりました。 そしてどの子も例外なく、言葉による傷つき体験を抱えているのがわかりました。 大学に入学するような人でも、言葉は不便なもので、できれば使いたくないものであり、「外国語のようなもの」でした。 私達は言葉に情報だけではなく、感情を乗せることも行っています。 しかも場面や目的、相手に合わせて、情報を強くして感情を抑えたり、反対に情報を限りなくゼロに近づけ感情を中心に表現したりといったことを無意識に行っています。 この微妙な加減を瞬時に読み解くことが苦手なのが自閉症の人達です。 ですから、彼らが表現するときも、情報伝達の側面しか持たない言葉だったり、言葉にほぼ意味はなく感情を表出するためだけの言葉だったりするのだと思います。 言葉の意味だけの側面を見ても、発する人の体験や知識が意味の範囲を決めますので、受け取る側はそこを想像しつつ解釈する必要があります。 幼少期から運動面での不具合、感覚を中心とした体調面での不具合を抱えていることが多いため、自閉症の人達の体験や知識に偏りが生じています。 ですから知的障害がない人であったとしても、話をしていく中で、言葉の意味の範囲が狭いと感じることが多々あります。 とても限られた意味の範囲でその言葉を使っている。 そうすると、友達同士の会話にズレが生じたり、親や先生からの言葉を狭い範囲でしかとらえられていないので、いつも「聞いてない」と怒られたり。 さらに言葉には皮肉があったり、たとえ話があったり。 またもう一つの側面である感情を伝え...

【No.1487】行動を支援するのではなく、その行動をする本人を支援する

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通常なら、しない行動をする。 通常なら、もうしないであろう年齢でその行動をする。 ぴょんぴょん飛び跳ねたり。 独り言を言ったり。 急に飛び出したり。 誰でも彼でも触ったり。 そういった行動をやめさせたい、やめてほしいと願う。 それは共に暮らす家族にとって、他の子ども、ヒトがいる場で教育や支援を行っているものにとって、自然な気持ちだといえます。 しかし、やめさせようとしてやめさせるのはほぼ不可能です。 行動支援、援助などと綺麗な言葉でまとめていますが、現実はするための選択肢を排除しているにすぎません。 「施設ではやらないのに、家に帰った途端、行う」というのは施設に自由がない証拠です。 施設を見学すれば、看守のような支援者の姿に出会うことができるでしょう。 「強度行動障害に対する行動支援」という題名の講座はできても、実践はできないのです。 行動支援=行動をやめさせる、変容させる。 これが可能なのは、お互いに信頼関係があり、また行動を変える側に納得感が得られる必要があります。 そのためには当然、交渉に応じること、妥協点を探っていくための能力が必要です。 知的障害がある人、重い人に、また幼い子どもに、この能力が備わっていることは稀。 となれば、行動を変えてほしい側の一方的な交渉が進み、本人の納得が得られないまま、行動支援が始まってしまいます。 そこに本人支援の視点がありません。 行動を支援するのではなく、その行動をする本人を支援する。 それが本来の行動支援となります。 そのためにはその行動をする本質をつかむ必要があります。 行動は本人にとって必要だから行っているのです。 同じ飛び跳ねるのでも、一人ひとりその様相は異なっているということは、そこにその人個人の要素と行動を作り上げるまでの歴史、物語があるのです。 自閉症の人達のその行動にもがきの雰囲気を感じましょう。 自閉症の人の多くは内なる環境(発達の凸凹、感覚の違いなど)と外との環境(様々な刺激)の間で不快を中心とした生きづらさを抱えています。 その不快感、生きづらさを和らげるための自らへの援助活動として特定の行動を生む。 周囲から見て、その行動に異質性、独特さを感じるのは、それがかなりパーソナルな背景と繋がっているからです。 また繰り返し、繰り返しその行動をするというのは、その不快な環境が「私のそばにあり続けている」という...

【No.1486】わかるけど、わからない

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「自閉っ子は素直な子が多い」 と言われることがありますね。 実際、お会いする子ども達はみんな、子どもらしい純粋さを持っていると感じます。 ある程度、年齢を重ねても、中学、高校、中には大人になった人でも、素直な態度、言動が見られます。 それは「言葉の裏を読むことが苦手」だったり、「空気感を読むのが苦手」だったりすることが関係していると思います。 嘘をつく場合も、相手の視点に立った巧妙な嘘は苦手ですね。 そういった脳の情報処理の関係から、周りから素直に映ることもあるのでしょう。 正直者で、嘘が苦手な自閉症の人達。 だけど、彼らが言う「はい」という返事、言葉には気を付けなければなりません。 素直に「はい」と言うから伝わったものだと思っても、あとから同じ過ちをしたり、理解してなかったりすることがあって、それはどこのおうちでも経験済みだと思います。 「とにかく『はい』といえば、いいと思っている」 そんな愚痴がこぼれる日々を過ごしている家庭も少なくないでしょう。 これは子どもだけの話かと言えば、そうではありません。 大人でも、そして知的に障害がない人達でも。 さらにその「はい」という意味には深さがあります。 子どもさんがママの言っていることがわからないから、とにかく「はい」と言っておけばその場が収まるから、という単純な話ではないのです。 大人なら、知的に障害がないのなら、理解できる話の内容で、しかも自分の意思を表面することが難しくない場面でも、反射的に意に反して「はい」と言う、言ってしまう。 日常会話やメール、SNSなどでは自由に意思を発信できるのに。 じゃあ、なにが彼らに反射的な「はい」を言わせているか。 私も最初はわかりませんでした。 とにかく「はい」が本心からの「はい」ではないことは分かったのですが。 こういった人たちは小さい頃から周囲とのディスコミュニケーションが多くあったんだと思います。 言っていることがわからない。 相手の表情、ノンバーバルなコミュニケーションが読み取れない。 読み取れたとしても、同じ台の上に乗せて情報を整理して、意図や意味を解釈することが難しい。 言葉をそのままの意味で受け取っても、「そうじゃない」とネガティブな反応が返ってくることがある。 彼らは「わかるけど、わからない」といった体験をとくに対人関係で多くしてきたのだと思います。 さらに彼らは学習...

【No.1485】「ねえ、ジェミニ、エビデンスのある効果的な療育法を教えて」

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いつも行っているスーパーのレジが2か所を除いてすべてセルフレジに替わっていました。 もちろん、私は有人レジに並びます。 顔馴染みの昭和のお姉さまと会話するためにね(笑) 私の顔を見かけたら手を振ってくれるし。 世の中、セルフレジばっかりになったら、人に接客してもらえることが高級なことに感じるかもしれないな。 こぞってレジ打ちしてくれる店員さんのところに並んだりして。 やっぱり人は、言葉でも、言葉以外でも、交流しているし、それを愉しんでいるところがあると思います。 私の唯一の特技、資質と言える「おばさまと仲良くなるスキル」 小さい時から「あなたは気がついたら、知らないおばさんと仲良くなっている」と両親に言われてたし、妻も「おばさんの心をつかむのがうまい」と言います。 姉さん女房がそういうので私の特技といって間違いないでしょう(笑) 社会で起きているデジタル化、機械化、AI化の流れは、当然、特別支援の世界にも入ってきます。 近頃では脳画像を撮り、それを机に並べての発達相談も増えてきました。 発達障害や自閉症、ADHDや知的障害などの大きな括りではなく、「うちの子のここの脳機能が低下していて、こことここの繋がりが悪い」というように、個々の脳の状態を踏まえたうえでの相談、支援、援助がスタンダードになっていくでしょう。 「ねえ、ジェミニ、エビデンスがあって、効果的な療育法を教えて」なんてこともね。 そんな中、こういったデジタル化、AI化の流れに疑問を持つ親御さんから、「大久保さんはどう考えますか?」と意見を聞かれることがあります。 では一緒に想像してみましょう。 デジタル化された脳機能の状態をスマホやタブレットで共有し、治療プログラムを話し合いが始まろうとしている。 たぶん、特定の脳機能を刺激し、治療するのならすべて機械がオートマチックに行っていくでしょう。 そこの機械操作とモニタリングは医師や専門家が担う。 で、親御さんは病気の治療のように説明を聞き、同意書にサインする、というのが参加の仕方。 「あとは先生、お任せします」という流れです。 発達障害は治ったほうが良い。 だけど、「あとは先生、お任せします」で幸せになるのだろうか、親も子も。 遺伝的な脆弱性と環境の影響を受け、発達の遅れ、違いが生じた。 そんな発達に課題を持つ子が親と出会い、家族としての形、物語を紡いでいく。 ...

【No.1484】発達障害の「認知と診断」の広がりなら、とっくに頭打ちしているはずですが…

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2000年代、高機能ブームが起きました。 そして同じような時期に特別支援教育も始まりました。 「これだけ発達障害が増えたのは、世の中の認知の広がりと、診断を受ける人が増えたからだ」 それがギョーカイが出した結論です。 しかし当時から私はおかしいと考えてたんですね。 だって増加の仕方が、グラフなんか見ると、急激に上がっているんだから。 学生時代、ちょっと統計学も勉強してたから鋭角に上がり続けるグラフを見て、「単なる診断だけの問題じゃないな。もっと根本的なことが起きなきゃ、こうはならないな」なんて考えていました。 数年経過を見ていても、発達障害のグラフは上がりっぱなし。 認知と診断といった外的な要因なら環境が整えば、全国どこでもある程度、診断が受けられるようになったら、頭打ちするはずでしょ。 子どもの数自体は減っているんだし。 だけど、10年が経ち、平成が終わって令和になっても、一向に頭打ちなる気配はない。 というか、まだまだ勢い止まらずに増え続けている。 「スペクトラムだから、あなたも、私も、発達障害」なんていうフレーズもあったが、このままいったら、どの子も発達障害になるでしょう。 発達障害がない子の方が少数派。 1組が普通級で、2組、3組が支援学級となるのが近い将来で、「だったら、みんな、支援学級みたいに教育しなければ」となるのが孫の世代かな、なんてことを想像します。 発達障害が増えることに悲観していてもしようがないですね。 でポジティブな想像をしてみる。 社会の変化に真っ先に反応するのが子ども達だから、その影響が先に出るのが子どもだから、きっと今までの社会構造が土台から壊れ、新しい世界になっていくんだろう、と。 教育でいえば、明治以降、優秀な兵隊さんを作るために、全国どこに住む子も読み書きそろばんができて、指示通りにきちんと行動できるように仕立ててきた。 だけど、そういった均一の教育はもう、いや、とっくの前に役割を終えている。 だから一人ひとりの能力を伸ばすような、もって生まれた資質を最大限伸ばし、活かしていくような教育へと変わる必要があるでしょう。 江戸時代の寺子屋のような、実学を重視した、その子が学びたいもの、将来必要となる知識と技能を得るための教育。 学校という枠もとっぱらい、より自由に学べるようになっていく。 資格はあまり好きじゃないけど、「私はこの知識、...