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運動発達のヌケも世代をまたぐ

ハイハイをやらずに立った子。 実は、その子の親も、赤ちゃんのとき、ハイハイを飛ばしていた、なんてことはよくある話です。 親子2代で、ハイハイを飛ばす。 こういった運動発達に関しても、遺伝が疑われることもあります。 我が子が特徴的なハイハイをしているのを見て、「私もそんな感じだったって聞いたことがある」なんて思いだすことも。 なので、若者たちの相談に乗るときは、将来、親になったとき、自分が飛ばした発達のヌケを同じように子どもも飛ばす可能性があるということを伝えるようにしています。 また、こちらは主に子どもさんの場合ですが、兄弟がいる場合、その兄弟にも、発達援助を見てもらい、どういった理由で何を育てているのか、説明するようにしています。 すると、若者たちも、兄弟児たちも、真剣に聞いてくれます。 もちろん、遺伝的な観点から、お伝えした方が良いと思っている部分もあります。 しかし、それよりもまず知ってもらいたい、頭の片隅にでも治っていくんだ、あとからでも育つんだ、育てていけばいいんだ、ってことを残してもらいたい想いの方が強くあります。 そうすれば、将来、もし子どもが生まれたとき、早く立って歩くことよりも、発達段階を一つずつやりきることが大事だと分かったうえで、子育てをしてくれるかもしれません。 もし、運動発達を飛ばすようなことがあれば、「足りないかも」と感じるようなことがあれば、そこですぐに気づくことができ、発達の後押しができるかもしれません。 そうすれば、以前 ブログ に書いたように発現する前に治っている、治す時代がやってくるのだと思います。 若者は、自分の発達のヌケを育て直していく過程で、治るを実感し、変わっていく素晴らしさを実感しています。 また兄弟児たちも、間近で兄弟が変わっていく姿、発達、成長してく姿を感じることができています。 彼らが大人になったとき、親になったとき、治ること、育むことの素晴らしさを我が子に、同世代の親たちとその子達に伝えていってほしいと思います。 未来の大人、親たちをイメージしながら今の仕事をすることも、どういった振る舞い、発言をするかも、大事な姿勢であり、役割だと考えています。 それが結果的に、未来の子ども達の発達を後押しすることに繋がるからです。 私は直接、未来の子ども達の援助はできないけ...

情報量で優位さを持てなくなった専門家

若い世代の人達とお話をすると、元気が出てきます。 自分の意見をちゃんと持っているし、「絶対に治してみせる」「自立してみせる」「幸せになってやる」、そんな強い気持ちがひしひしと伝わってくるからです。 自分で立てた目標のために、調べ、行動する姿からは、明るい未来、より良い社会を感じることができます。 「ゆとり世代」などと、どちらかといえば、ネガティブな感じで語られることが多い世代ですが、全然そんなことはなく、むしろ、その主体性と行動力は素晴らしく、見習わなければならないと思います。 だいたい、「ゆとり世代」などと言っている人間は、自分が社会からどんどん取り残されていくことを感じていて、その反動として、自分より下の世代を揶揄しているだけですね。 自分の不安を、下の者を想定することで安心しようとする、といった古典的な対処法。 自分が常に向上心を持って成長できているのなら、「〇〇世代」などとクダラナイことを言って、自分を慰める必要はないのです。 今の若者たちも、いずれ結婚し、家族を持つことでしょう。 そういった世代の人達に、発達に遅れのある子どもが生まれたとします。 そのとき、彼らはどういった行動をとるでしょうか。 今の若い親御さん達もそうですが、発達に遅れがあるなしに関わらず、子どもの発達、子育てについてネットで小まめに調べています。 保健師さんが気づく前に、発達障害に気が付いていた親御さんが多くいます。 健診を待たずとも、手元で情報を得られますし、それが当然の環境で育ってきた親御さん達。 情報量だって、ベテラン保健師さんよりも多い可能性だってあるのです。 以前ですと、持っている情報量は、圧倒的に専門家の方が多かったといえます。 だから、論文、原書を平気で誤訳したり、意訳したり、自分の都合の良いように端折ったりしても、大丈夫だった。 だって、一般の人は自分で調べる手段がなかったから。 江戸や明治と一緒。 留学した人達が言ったことを、権威が言ったことを、御上が言ったことを、「ははぁ~」と聞いて、それに従うのが一般庶民であり、ムラ社会で生きる術だった。 しかし、現在は、調べようと思えば、誰だって調べられる社会です。 圧倒的、優位さを持って抑えられていた情報量において、専門家も、素人も、違いはなくなってきました。 むし...

興奮→抑制の順番で育つ

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幼児期から、座る練習をしたり、指示通りに動ける練習をしたりするのを見ると、悲しくなります。 だって、子どもは小さな大人ではないのですから。 大人と同じ基準で、大人と同じ視点で、子どもが育てられている。 「小学生になったら、ちゃんと座っていられる子の方が良いから、今のうちに練習しておこう」 「文字は少しでも早く理解している方が、後々、勉強でも有利になる」 そんな風に、早く早くと急かされ、「大人になって必要はことは今のうちに」と先に先にと背中を押される。 こんな雰囲気は、発達障害の子ども達が受けているソーシャルスキルトレーニングでも感じます。 「この子が話を聞けないのは、話を聞くことの大切さ、意図がわかっていないからだ」 「先生が話をしているときは、どのような振る舞い方が良いのか、教えてあげよう」 そんな風に、教える人間が考える望ましい生徒像に近づけようと指導がなされる。 巷のSSTがうまくいかないのは、子どもの視点、発達の視点が抜け落ちていることが大きな理由として考えられます。 でも、もう一つ、「興奮ではなく、抑制ばかり」という育ちも関係していると私は思います。 幼児教育を見てもそうですし、特別支援の中で行われているSSTもそうですが、どうも抑制することばかり求め、教えているような気がします。 自分の本能、欲求、思いよりも、それを律することばかり。 しかし、それは本来の子どもの発達とは逆だと思うのです。 確かに、成長と共に、自分を律する力、コントロールできる力を身に付けていくことは必要なことです。 でも、だからといって、抑制することだけを教え、訓練しても、そういった力は身についていきません。 何故なら、発達の順番から言えば、大いに興奮する体験をやりきることで、思いっきり力を出せるようになったあとで、抑制の力が育っていくからです。 興奮→抑制という流れがあるのに、その流れを切って、抑制ばかり訓練する。 これもある意味、興奮という発達段階のヌケを人工的に作っているということ。 だから、幼少期から抑制ばかり教わり、しっかり興奮がやりきれなかった子どもは、大きくなっても自分を律する力が育っていかない。 お行儀の良い幼稚園に行っていた子が、小学校で暴れる、家ではわがまま放題という話は珍しくありません。 これも、ある...

「〇〇“だけ”で」という言葉が漂わす寒々しさ

「遊ぶ“だけ”で」「運動“だけ”で」「栄養“だけ”で」 「治るはずがない!」「良くなるはずがない!」と言う人がいます。 こういう言葉が出てしまう背景には、「自分はいろんなことをやったけれども、ダメだった」という無念さや喪失感、敗北感などの思いがあって、「そんなはずはない」と言わなきゃやってられない、言うことで何とか過去と現在と向き合えている、自分自身のバランスが取れている。 そんな風に捉えていました。 でも、そういう思いだけの問題ではない人もいるような気がしてきました。 私は、この“だけ”という言葉に引っかかりがありました。 “だけ”と聞くと、無機質で、血の通っていない冷たさを感じるのです。 どうして、そこに冷たさが漂うのか。 子どもの発達、成長を諦めている感じがするための冷たさ…。 でも、それよりも、もっと底冷えするような冷たさなのです。 “だけ”という言葉には、その大人の子育て感、子ども感がにじみ出ていると感じます。 「プロテイン飲むだけで、治るわけないだろ」 もちろん、素晴らしい発達、成長をみせているご家族、治っていくご本人たちは、いくらプロテインが発達の後押しになったとしても、それだけを飲んでいるわけではありません。 栄養面からも、運動面からも、遊びや学習面からも、いろんな試行錯誤をし、より良い子育て、育みを日々実践され、積み重ねられています。 それに発達に関わることだけやっているわけでもありませんし、むしろ、発達の後押しに一生懸命なご家族ほど、日々の生活や家族での思い出作り、自分たちの趣味、楽しみを味わっていられるように思えます。 「〇〇が良かった、効果があった」という発言を、「〇〇“だけ”で治った」という風に変換してしまうのは、その人自身の脳内において。 つまり、子育てに効率性を求めているわけです。 少ない労力で、大きな成果。 そんな論理を、子育てに、子どもの姿に当てはめようとしてしまっていること自体、寒々しさを感じてしまいます。 そういえば、こういった「だけ」と言ってしまう人は、一つの療育や療法、特定の医師や専門家にこだわっている場合が多いですね。 子育てに、“だけ”は存在しません。 子どもも、大人も、たくさん試行錯誤していく過程に、発達があり、成長があり、自立があるからです。 「〇〇療法だけ...

発達とは、「気持ち良い」の探索

せっかくお問い合わせいただいたのに、せっかく出張のご依頼をしてくださったのに、断らざるを得ない状況が続いています、申し訳ございません。 本当に生意気だし、自分でも嫌になってしまいます。 私一人の個人経営ですし、共働きで子どももいますし、函館からどこかに行くにしても、一度羽田をバウンドさせないと行けませんし…。 このように物理的に難しいケースもありますし、何よりもお金の負担が大きくなってしまうことが気になってしまいます。 正規の旅客券に、宿泊場所もどこでも、となれば、良いのかもしれません。 でも、皆さんが働いて得た大事なお金ですし、「我が子のために」という想いの詰まったお金ですので、そういった計算はできません。 一番安いチケットで、一番安いホテル。 物事には妥当な値段というのがあります。 依頼してくださったご家族が納得してくれる金額があり、私自身、仕事をする上で気持ちよく仕事ができる金額があると思っています。 私が訪問し、直接的な関わりをすれば、その子の発達のヌケが忽ちに埋まってしまう、言葉が出なかった子がしゃべるようになる、長年抱えていた生きづらさから解放される。 そんなことができるのなら、金額で悩むことはなくなるでしょう。 でも、実際、私が行っているのは、直接的なかかわりというよりも、後方支援。 自分自身で課題の根っこを掴み、そこを自ら育んでいけるような後押し。 親御さんが手繰り寄せられなかった課題の根っこを一緒に見つけ、我が子に必要な育み方を提案、伝授することで、より良い子育てを作り上げていくための後押し。 本人、親御さんに主体があり、育てる力があるのですから、私は補助であり、考えるきっかけ、アイディアの一つでしかないのです。 ですから、その役割には、適正価格が存在します。 親御さんが変わり、それによって子どもが変わっていく。 子どもがより良く変わっていく、発達、成長する姿を見せてくれる。 それがまた親御さんのエネルギーとなり、より良い育みにつながっていく。 そういったポジティブな循環が家族の中に生まれると、私は自分の役割が果たせたと感じます。 こういったポジティブで、お互いを高め合えるような空気感が生まれると、自然と治る道を進むことになり、その先には自立が待っているからです。 訪問すると、なんらかの要因...

発達のヌケを育てることに、どんな副作用があると言うのだろうか

タンパク質の量を増やしたり、鉄を意識的に摂ったり、食事+サプリで栄養素を補助したり…。 食事の面から子どもの発達を後押ししようとされている親御さん達がいます。 ヒトは生き物ですから、食べ物が必須なわけで、その食事の量と質が神経発達に関わるのは、当然だといえます。 それなのに、「栄養面からのアプローチのエビデンスは?」と言ってしまう人もいます。 家庭での食事にエビデンス(笑) どっかの誰かが出したエビデンスとやらがなければ、食事も作れない人がいるのかと思うと、それはもうギャグでしかありませんね。 家庭での食事にエビデンスが必要ないように、家庭での子育てにだってエビデンスが必要なわけはありません。 「専門家の指示通りに、療育機関と同じように、家庭でもやらなければならない」 「家庭での取り組みは、一度、専門家に相談してからじゃないと、やっていはいけない」 こういった類のことを信じている人は、少なくないように感じます。 人生で最も揺れ動く時期に、「専門家」という既存のイメージから、冷静な判断ができず信じてしまう人がいるのも分かります。 でも、普通に考えれば、親御さん達の願いは、この子に合った子育てがしたい、より良い子育てができるようになりたい、というもの。 決して我が子の支援者になる方法を知りたいのではありません。 我が子の支援が上手になる方法を知りたいのではありません。 支援者というのは、利用してもらうことで成り立つ仕事です。 子どもが自立できたとか、親御さんが主体的に子育てができるようになったとか、そこは評価になりません。 シンプルに回数が大事。 1回で終わる人より、10回利用してくれる方が良いお客さん。 10回よりも定期的に一生涯、せめて自分が仕事をしている間は利用し続ける人が何と有難いことか、といった感じです。 だから、土足でズカズカと、家庭の子育てに踏みこんでくるのです。 たとえば、普通の子の家庭に、「あなたのおうちの夕食にエビデンスはあるのですか?」と言う人がいますか。 「あなたの子が、タンパク質を多く摂るのは間違っている!」 「ちゃんと専門家に確認してから、トイレットトレーニングしているの!?」 「その勉強の教え方、資格でもお持ちですか~」 そんなことを言ってくる人がいたら、怒るのは当然ですし、いちい...

発達が子育ての中に存在するからこそ

一般的なお父さんよりは、ヒトの発達について知っていると思います。 発達のヌケを見つける眼も、育て直すアイディアも、少しは多く持っていると思います。 でも、じゃあ、自分の息子たちに良い子育てができているか、自信を持って父親をやれているか、と言ったら、ぜんぜんそんなことはなく、みなさんと同じように、悩み、考え、試行錯誤し、一喜一憂する親の一人です。 自分の中の父親像のベースは、私の父でしょう。 だって、私は、自分の父以外に育てられたことも、一緒に暮らしたこともないから。 でも、私と父の関係と、私と息子の関係はまた違いますし、育つ環境、時代、社会も異なっています。 ですから、私自身も学び、試行錯誤しながら、同時に、主に仕事を通して関わったご家族、お父さんの姿から学ばせてもらっています。 私がいくら教員免許を持ち、発達に関わる仕事をしていたとしても、父親になるのは初めてのこと。 子どもが生まれてから成長を続けているように、私自身も成長しなければなりません。 私の仕事は、直接的な発達援助というよりも、親御さんがより良い子育て、育みができることを目指す後方支援になります。 ですから、話題の中心は、子育てです。 子育ての話になると、どうしても後悔の感情に触れてしまうことになります。 「より良い子育て」について話せば話すほど、「もう少し早く、それが分かっていれば、もっと良い育みをしてあげられたのに」という後悔。 でも、この後悔は、我が子を愛するが故。 自然な親心がもたらす後悔です。 相談の最中、涙を流される親御さんは少なくありません。 でも、涙を流すことは、決して悪いことではないと思います。 むしろ涙は、身体を弛ませ、心を弛ませる。 涙を流された親御さんは、その瞬間からずっと背負っていた緊張を解かれていく。 完璧な親がないように、完璧な子育てなどありません。 弛んだ身体は、完璧な親を演じていた自分自身を気づかせてくれる。 弛んだ心は、完璧な親から、より良い子育てへと、視点を変えさせてくれる。 より良い子育てなら、いつからでも、我が子がいくつになっても、大丈夫。 子どもが自立するまでが子育て。 「もっと良いものを」と、親自身が歩み続けるからこそ、子どもも成長し続けられる。 「子どもが変わらない」「子どもが成長しない」と...