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ADHD=多動性が原因?

ADHDの男の子。 学校の授業中、席に座っていられなくて、離席や教室からの飛び出しが日常茶飯事とのことでした。 学校の先生も注意して指導(?)しているのだけれども行動は変わらず・・・。 お母さんは半分諦めの状態でした。 その子の座っている様子を見てみると、気が付くことがありました。 常に足はふらふら状態で床にしっかり足の裏をつけていることがなく、姿勢も猫背で、かつ右側に傾いていました。 お母さんの話では、運動は得意とのこと。 でも、片足立ちをしてもらうと、しっかり立っていることができずにふらふら揺れるし、1秒くらいでバタッと倒れてしまっていました。 なんとか片足立ちできたとしても、背中をまっすぐにすることはできず、頭が後ろに傾き、重心が後方にずれていました。 こういった様子を見て、私はADHDの"多動性"というよりは、姿勢が保持できないという身体機能面が影響しているのではないかと考えました。 姿勢が崩れた状態で椅子に長時間座っていると、しんどいに決まっていますよね。 しかも、猫背で縮こまっているなら、その反動で自然に身体を伸ばすもの。 それが離席として現れていると想像しました。 支援の方向性としては、変な部分に緊張が見られるので、身体を緩ませることを学ぶこと。 足の裏の使い方が未発達なので、下半身がしっかりするようなバランスのトレーニング。 また学校の机は見ていないので何とも言えませんが、足がふらふらしているようなら足を置く台を置いて足を安定させるのが良いと思います。 ときに診断名が、金太郎飴のような支援につながることもあります。 その人をしっかり見ることが、すべての始まりですね。

"上から目線"の意味は?

いわゆる"上から目線"の人にも、ときどき出会います。 簡単に言うと、上から目線の人は"狭い"。 なにがと言われると、視野が狭いです。 このような人は、自分の意見をどんどん主張してきます。 それも自分の意見に対して絶対的な正しさを感じている様子。 周りが異を唱えようとするもんなら、徹底的に攻撃することも。 こういった人は、どんなところでもいると思います。 でも、ただ迷惑な人だけではもったいない。 しっかり背景を分析してみましょう。 意見や主張というのは、"正確さ"だけが求められているのではありません。 相手や状況によって受け入れられる意見や主張は違います。 ときに、正確さよりも、相手の言ってほしい意見を求めれることも。 正義は様々な兼ね合いで変わるのが真理ですね。 自分の意見や主張を通すには、相手や状況を読み、戦略を立て、実行できる力が必要になる。 これには高度な想像力が求められる。 視野を広げるには、様々な意見、考え方を知る必要があります。 そして、様々な意見を今までの自分の考え方と混ぜて、再構築する。 そんな作業を繰り返し、幅を広げていくのだと思います。 でも、1つの意見に固執したり、反対に今までの自分の考え方を一気に捨て別の意見に切り替えたり。 やっぱり背景には、想像力の違いが影響していると考えられます。 こういった方と話をするときは、"提案する"のが良いと思います。 最初に否定されたと感じると、それ以降の話も否定と捉える場合がありますので、一旦受けとめて(×受け入れて)望ましいと考えられる意見を提案する。 元々、根拠がはっきりとしたことを好む傾向がありますので、良い意見なら受け入れてくれます。 そして、少しずつ固い思考を柔らかくし、視野を広げ、意見の幅を広げていく。 そういった支援が必要なのだと思います。 "上から目線"だと、誤解を生み、学校を続けられない、仕事をやめなければならない、ということにもつながってしまうかもしれません。 本人は相手を威圧したいという気持ちはない場合がほとんどなので、誤解を解くためにも、社会で活躍してもらうためにも、"上から目線"という印象を与えないよ...

嘘をつく意味は?

主に子どもさんなのですが、嘘を言ったり、事柄を大きくしたり、事実と正反対のことを言ったりする自閉症者と出会います。 例えば、「夕食はすべて自分が作っている」「40度の熱が出たけど、今朝、治った」など。 客観的に状況から考えれば、すぐにわかるような嘘なのですが、当の本人たちは嘘をついているような雰囲気はありません。 それがまるで事実のように話しています。 ですから、事実との違いを指摘されても、受けいられないといった反応を示すことが多いです。 こういった言動の背景には、いろいろな理由が考えられます。 まず言葉の内容のやりとりよりも、相手とやりとりをしていること自体を楽しんでいる場合が考えられます。 このような場合、言葉の内容や意味には注目しておらず、相手から反応を得られることのみに注目がいっています。 コミュニケーションとはお互いのやりとりであり、円滑なコミュニケーションとはお互いが心地良くなるようなやりとりであるということに気が付いていない状態とも言えます。 相手の視点を想像する力の苦手さが影響していると考えられます。 また同じように想像力に関係して、自分と他人の境界線が曖昧、または捉えられていない場合、こういった言動が見られることもあります。 自分というものをしっかり捉えることができていないと、自分とその他の世界がつながってしまい、結果として現実と空想がくっついてしまうことがあります。 そういった場合、空想上の話なのですが、現実とごちゃまぜになってしまい、空想上の話をあたかも現実の話のようにしてしまうことがあります。 本人は嘘をついているといった感覚はなく、本当の話として行っています。 ですから、「それは嘘だ」なんて相手から言われると、受け入れられずに怒ってしまうことがあります。 その他にも、話を続け、維持することの苦手さから、なんとか話をしようと思い(話の維持にばかり注目してしまい)突拍子なことを言ってしまったり、無意識で「YES(NO)」と言ってしまったりすることもあります。 またパターン化を好む傾向があるため、相手の反応に対しても自分の意図通りにコントロールするために発言していることもあります(ex.「やめなさい」と言われることが分かってて、危険なことを言うなど)。 いずれにしても、自閉症の人たちが苦手な"想...

「芋づる式に治そう!」(花風社)を読んで③

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1990年代、それまでの"賞罰"と"薬"の支援から、日本にTEACCHの考え方が入ってきて、自閉症支援の雰囲気はガラッと変わりました。 TEACCHの考え方や構造化が自閉症療育で広まると同時に、2000年代に入ると、高機能自閉症ブームになり、ソーシャルスキル、感情コントロールなどの本や研修が盛んになりました。 そして2010年以降は、早期療育などでも、脳への直接的なアプローチがメインになっているような印象を受けます。 ですから、花風社さんはギョーカイとは異なる道を歩いてきましたが、流れは「身体面からのアプローチ」でシンクロしているのだと思います。 あちこちで「ソーシャルスキル」と言っていた2000年代後半、私はアメリカの専門家の間で、ソーシャルスキルを教えることの限界について言及されていたことを知りました。 簡単に言うと、「ある場面で必要なソーシャルスキルを教えたとしても、場面は刻一刻と変わり、多様なのだから、すべての場面について教えていくのには限界がある」ということです。 これは自閉症の人たちの特性を考えてもわかることです。 このような話が聞こえ出したあと、欧米では早期発見、早期療育が研究の中心に移り変わったように感じます。 具体的には、1歳くらいに診断できるようにし、そこから定型発達の子どもが辿るような発達課題を意図的にトレーニングするというものです。 (これは私が研修や書籍、専門家の話などから想像したストーリーなので、合っているかはわかりません) ずっとソーシャルスキルについてモヤモヤしていた私にとって、身体を整え、脳の余裕を作ることで、自閉症の人たちが苦手な社会性の部分がつかめるようになる、そして発達&成長するという"芋づる式"は、一気に頭の中の雲を蹴散らしたような印象を与えてくれました。 これから想像されることは、エビデンスを叫ぶ人たちからの批判が挙げられるでしょう。 でも、芋本や黄色の本を読んで、「これは実践しよう」と感じた人たちが、どんどんやっていけば良いと思います。 本を読んだお母さんが、我が子と一緒に取り組み、お子さんにポジティブな変化が見られれば、それが1つのエビデンスとなります。 すでに私は、不登校からひきこもりになった成人の方の支援でポジティブな変化を...

「芋づる式に治そう!」(花風社)を読んで②

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2つ目は、「療育は専門家が行うもの」という常識です。 ギョーカイだったら、このような本で紹介されているアプローチは、ウン万円のお金を取って研修に来た人のみに教えるというのが普通の流れです。 しかも、公認制度も作ったりして、「〇回以上、研修を受講した者」「実践報告をして認められたもの」「公認資格は3年ごとの更新」なども考えられます。 第一、こんなにもお求めやすい価格(♪)なんかにしませんし、親御さんなど専門に勉強していない一般の人が読んでも分かるようにはしません。 横文字と統計学のオンパレード。 それが芋本に出てくる横文字は、トレーニング、アプローチ、ワークなどしかありません。 専門知識がない人でも本当にわかりやすく、すらすらと読むことができます。 花風社さんから出版される本は、自閉っこシリーズからずっとわかりやすく、読みやすい、というのが魅力の1つだと思っています。 ギョーカイの専門家というのは、どうも療育を難しくしたいようです。 それはまるで「自閉症療育は専門家のもの」と言っているようにも見えます。 アメリカ人のあの有名なプログラムの研修を受けたとき、「専門家は10歳の子どもが読んでも分かるような資料を作成しなければならない」と教わりましたし、「療育は本人と家族と支援者が作り上げていくもの」と叩き込まれました。 しかし、日本の専門家は、療育を本人や家族の手の届かないところまでどんどん高くしているような印象を受けます。 本来、療育とは、本人やその家族の側にあるものだと思います。 この事業を起ち上げたときも、そんなギョーカイの流れに違和感を持ち、専門家の方に行ってしまった療育を本人とその家族の側に取り戻す、ということをコンセプトに掲げました。 ですから、なるべくやっていることが難しいと感じないように、また本人や家族がやっている意味がわかるような療育に、というのを目指しています。 花風社さんの本を読んでいると、本人や家族が"触れられる"アプローチだと感じています。 お金はかからず、すぐその場で実践できる。 しかも、それでいて効果があるし、副作用はない。 これこそが、本人、家族の求める究極のアプローチ。 でも、これが出回ってしまうと、ギョーカイの方々は困ってしまいます。 療育を利用してくれるからこそ、成...

「芋づる式に治そう!」(花風社)を読んで①

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本日の午後、花風社さんの新刊「芋づる式に治そう!」が届きました。 夕方、まず一読し、先ほど2回目を読み終えました。 1回目よりも、2回目の方で、ハッとさせられることもあり、じわじわと情報が身体の中に入ってきている感じです。 今年の春がまずは楽しみですが、春夏秋冬と実践してみた来年の今頃が一番の楽しみです。 本の内容や素晴らしさは、私がとやかく言うよりは、みなさんが読めばわかるので省きます。 ここからは、ちょっと視点をずらして私が感じたことを書かせていただきます。 それは、この本が2つの常識をぶち破っているということです。 1つ目は、「季節は乗り切る」という常識。 自閉症の人たちは、季節の移り変わりが苦手であるというのは、ずっと前から知られていました。 特に春、変化が多い季節ということもあり、冬から春に変わる時期は不安定になったり、崩れたりする自閉症の人がたくさんいます。 しかし、根本的な解決方法はわからず、支援者が行っていることは「どうしたら、その崩れる幅を小さくするか」でした。 著名な方や先輩の支援者たちに尋ねてみても返ってくるのは、「嵐が過ぎるのを待つのみ」ということばかり。 今でも「憂鬱な季節がやってくる」「また耐える日々だ」などと言う声を聞こえますし、ある方は春になったら家ではみられなくなるので、毎年、施設に短期入所させる人もいます。 これくらい季節の移り変わりが大きな影響を与えるのに、ずっと対処方法でしか支援できていませんでした。 それが今回の新刊では、春夏秋冬と一年を通したアプローチの仕方が紹介されています。 このような"季節"に焦点を当てた本を、今まで私は見たことがありません。 もしかしたら、世界初かもしれませんね。 四季のはっきりしている日本に住む自閉症の人たちにとっては、とても価値のある本だと思います。 「季節は乗り切る」というギョーカイの常識を崩しただけではなく、それぞれの季節を利用して状態を良くし、さらに発達させる! この本が10年前に出ていたら、あのときの子ども達をもっとラクにさせ、成長させることもできたのでは、という思いが強く出てきました。 → 「芋づる式に治そう!」(花風社)を読んで② 芋づる式に治そう!発達凸凹の人が今日からできること 栗本啓司、浅見...

"自立"を深く掘り下げていく

妻と「自立」について、ディスカッション。 私「学校や福祉では、自立、自立っていうけれど、そもそも自立ってなに?」 妻「一人でできること」 私「じゃあ、一人でできることは、どうして必要なの?」 妻「一人でできるって、良いことじゃない」 私「はい、アウト」 「一人でできることが良い」というのは、個人の価値観でしかありません。 反対に、「周りが全部サポートして、本人はなにもできなくても、苦労なく生きられれば、それで良い」という人と同じ土俵です。 どちらも個人の価値観だから。 個人の価値観で支援を進めると、必ずぶつかり合う。 これが学校でも、福祉施設でも、親御さんと支援者の関係でも起きていること。 だから、"自立"をもっと掘り下げる必要がある。 なぜ、一人できることを目指し、一人でできることを増やそうとしているのか? それは「支援の量を減らすこと」 つまり、可能な限り、支援者の手を借りずに生きていけるようにすること。 これに尽きる。 周囲の人間がなんでもやってあげて、本人には何の苦労も、嫌なこともなく生きていってもらうこと。 こんなことは現実にはあり得ない。 限りある予算と人と環境の中を対象者で分けているのが、厳しいようですが現実です。 私は、資源の問題だけで「支援の量を減らすこと」と言っているのではありません。 支援者からの立場からすると、支援を受ける量が少ない人ほど、支援者から好かれることを知っているからです。 問題行動がある人より、まったく何もできない人より、少しでも自分でできることがある人の方が支援者から好かれます。 完全に支援を必要としない人ならともかく、少しでも支援を受けながら生きていく人は、やっぱり支援者から好かれ、愛される人の方が幸せな人生だと思います。 よく学校は福祉に対して「ぜんぜん何もしてくれない」「行事もしない」「もっと手助けしてあげれば、できることもあるのに」などと言います。 反対に、福祉は学校に対して「手を貸しすぎ」「お花畑」「逆に人がいないとできないようにしている」などと言います。 これはお互い"自立"を目指しているのに、その自立の意味が違うから。 私は福祉に合わせた"自立"に統一するべきだと考えています。 だって、...