2021年2月24日水曜日

【No.1141】科学的によりも、人為的に造られてきた世界

自閉症や発達障害が「治らない」という根拠は、それが「生まれつきの障害だから」ということになっています。
しかし「生まれつきの障害」と言ってはいるものの、出生時に診断される赤ちゃんはいないわけです。
これだけ長い年月、「生まれつき」と言っているのですから、誰か一人でも、出産に立ち会い、その新生児の脳を調べてみればよいのに、と思いますが。
「生まれつき」というのに、生まれたときに診断された人がいない。
じゃあ、「生まれつき」ってなんなのでしょうか。


結局、「生まれつき」に科学的な根拠はありません。
だって、誰も確かめた人、確認した人、証明した人がいないのですから。
ということは、この「生まれつき」は、「たぶん、生まれつきだろう」という専門家の意見です。
「脳の機能障害」という仮説が出てから、世界中の専門家がその原因を脳に確認しようと、長年研究してきました。
しかし莫大なお金と時間をかけても、その根拠が出てこなかったのです。
それを受けて、2013年、DSM-5では「脳の機能障害」ではなく、「神経発達症」という捉え方になりました。
もちろん、この「神経発達症」も仮説であり、現在、その原因と根拠を探っている最中です。


このような歴史と事実があるのにも関わらず、「生まれつき」という意見に固執する人達というのは、それがその人たちにとって都合の良い言葉だからだといえます。
もともとは「冷蔵庫マザー」の時代があり、私が学生時代も、「しつけがなっていない」「子を自由にさせているからだ」と親族や他人に言われた、と話してくれた親御さん達がいました。
つい20年くらい前までは、しつけ、特に親の問題という時代があったのです。
まあ、どっちにしろ、しつけや訓練、指導では発達のヌケは埋まりませんので、一応、「生まれつき」という言葉は、親御さん達を守るためには必要だったといえます。


しかし過ちはここからです。
当時の専門家たちが「生まれつき」という個人的な意見を述べることは問題なかったと思いますが、その「生まれつき」を検証することなく、仕組み、制度づくりがなされてしまったのです。
もちろん、生まれつきを検証するために、脳の研究をしているグループもいましたが、その人達は今の特別支援をリードし、作ってきたグループの外だったのです。
じゃあ、中心は誰か、いわゆるギョーカイを作ってきた中心は何かと言えば、そうです、我が子に発達障害を持つ親でかつ医師や専門家だった人達です。


この世界に入って20年くらいです。
しかし一度たりとも、当事者、子どもが中心になり、制度設計や支援方針が決定されたことがありません。
どちらかといえば、親のために、また親のほうを見て進んできた印象が強いです。
早期診断、早期療育のシステムができて、子ども達はどうなりましたか?
幼児期は近しい関係の家族との信頼関係、愛着形成が重要な時期です。
発達に遅れがあるから愛着形成が遅れるのか、発達に遅れがある子が療育機関で過ごすようになったから愛着形成が遅れるのか。
そのどちらかはわかりませんが、実にこの問題、課題を抱えている家庭が増えたように感じます。
そもそも、早期診断、早期療育が二次障害の予防、将来の自立につながっているとはいえないのが、結果として表れています。


養護学校が支援学校に変わり、特別支援教育が始まりました。
でも教育の内容、子ども達の卒業後の進路は大きく変わっていません。
何が変わったかと言えば、従来、支援の対象ではなかった子ども達が診断名がつけられ、教育の対象になっただけです。
その子達は、特別支援教育によって救われたのでしょうか。
確かに普通教育の中で味わったであろう困難は回避できたかもしれませんが、卒業後の生活、長い人生はより良いものになったのでしょうか。
同時に、知的障害や症状の重い子ども達の学びの機会と保障、そして卒業後の進路が、新しく支援対象になった子ども達に奪われていないか、その枠が埋められていないか、考えるべきだと思います。


社会に理解を求めて、当事者の人の感覚過敏の苦しさは良くなったのでしょうか。
発達障害の若者たちが、特性や症状はそのままで、周囲に理解されるだけで働けるようになったのでしょうか。
コロナ騒動でのマスコミの姿を見れば、困難をセンセーショナルに映し、視聴者を獲得しようというのは明白です。
「あなたも、私も発達障害かも」というメッセージを送り、多くの関心を得ようとしているのです。
いくら自閉症の特性がわかっても、その特性で苦しむ人がラクになるわけではないのは、百も承知でしょうから。


このように、直接的な困難の解決、生活の質の向上、人生の選択肢の拡大など、本人目線で、また本人のためになされたことはないのです。
本人たちからすれば、生まれつきだろうが、脳の機能障害だろうが、神経発達症だろうが、どうでもよいわけで、「どうにかしろよ、専門家たち」というわけです。
その専門家たちというと、「生まれつき」という言葉がとても便利な言葉であり、少しでも良くなれば、「私のお蔭。支援のお蔭」となり、良くならなくても「生まれつきの障害だから」と逃げることができる。
このような激甘の商売を続けている人たちに、自浄努力ができると思いますか?
未だに「生まれつき」なんて言っているんですから、そこにしがみついているのですよ。


「生まれつき」が否定されると、じゃあ、支援者の質は、専門家の質は、となるので、そこを恐れているわけです。
制度設計から見ても、特別支援は成果ではなく、利用回数で評価されているのですから、支援者、支援機関同士の競合ではなく、共存共栄を図ります。
地域の支援者、支援機関同士なんかは繋がっていて、「今回はそっちに回すから、次回はこっちね」なんて当たり前です。
学校だって、来年度の職員配置のために、「誰かいない?」「あのうちはプッシュしたら、診断受けてくれるんじゃない」なんてこともよく耳にします。
その子の人生よりも、利用回数の「1」、3の倍数で3番目、6番目の子が重要。


あとは「生まれつき」が他人に迷惑をかけて良いことにも、子育てや家庭の責任を放棄しても良いことにはなりません。
一部の成人、保護者に「生まれつき」つまり、私のせいではないと言いたい人たちがいます。
そういう一部の人達に忖度することで、未来ある子ども達の人生を犠牲にしてはいけないと思います。


「生まれつき」を証明した人がいなければ、「自閉症」を証明できた人もいない。
つくづく発達障害の世界は、特別支援の世界は、政治的な意図、社会全体ではなく一部の人の利益のために作られた人為的な世界なんだと感じます。
彼らが「生まれつき」を手離さない限り、本人ではなくて、周囲にいる人達の都合の良い未来が造られていきます。
コロナ騒動同様に、一人ひとりが賢くなるしかありません。
ましてや、子の人生に関わる親の責任は重大です。
今の特別支援の世界に専門家の意見があっても、科学的な根拠はないのですから。




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