社会の中で学級会は行われません
学校のクラスの中でトラブルが起きれば、学級会などで話し合いの機会が設けられる。
最初から「クラスの仲間と仲良くする」というゴールが設定されていて、その終着地点に向かって、あーすれば良い、こーすれば良いと進んでいく。
そういった様子を見て、「クダラナイ」と傍観している子がいれば、「〇〇くんは、どうしたら良いと思う?」などと指名されたりする。
ゴールは決まっているし、「全員でそのゴールまで向かう」というルールも決まっている。
全員一致で、「みんな仲良く!はい、おしまい、ジャンジャン」が学校の文化。
小学校の低学年くらいは、本気で「クラスのみんなと仲良くするにはどうしたらよいだろうか?」と考えますが、学年が上がるにつれて、自分たちが求められているゴールが決まっていることに気が付いてきます。
だから、高学年子たちは、早くゴールまで到達しようと阿吽の呼吸で、みんなが模範解答を述べるようになります。
同時に、めんどくさくなりそうな子とは、最初から距離を置こうと思うし、上辺だけ仲良いふりをし始めます。
これが学校という文化の中で適応する方法だから。
私はというと、同級生よりは早い段階で、この学校ルールに気が付いていました。
何故、そう言えるのかというと、学級会が始まった時点で答えが決まっているのに、「どうしてみんなはクドクドと回り道する発言をするのだろうか」と思っていたからです。
ズバッと模範解答を言って、早く終わらせようとしてばかりいる子でした。
社会人になって、すぐに福祉施設で働き始めました。
職員に人権のない職場ではありましたが、職員同士仲が良く、職員間で悪口を言うようなことはなかったです。
しかし退職して、学校で働き始めると、同僚の悪口ばかりで、その違いに驚きました。
でも、一緒に授業をしたり、会議をしたりする場では、そんなそぶりは見せず、むしろお互い信頼しきっている仲間のように振る舞っているのです。
学校の文化なんて、とうの昔に必要がなくなり、忘れていたことだけれども、まさか30になって思い出すとは思いもよらなかったです。
そして、あのとき、学校の先生が教えていた文化は、クラス内でうまく立ち振る舞うためのルールではなく、職員室でのルール、職場での適応の仕方を教えていたのだと思いました。
「嫌いな人とも仲良くする(振る舞う)」は、組織の中で必要なことなのかもしれません。
特に、自らの主体性を発揮しづらいような職場は。
小学校のクラスの担任が管理職に変わり、同級生が同僚に変わった感じです。
多くの方達が指摘されているように、自閉症の人達と学校の文化は相性が悪いといえます。
学校のルールと社会のルールが同じではないことに気が付かないことがあります。
学校で教わった文化を、年を重ねていっても引きずっている人が多いです。
学校の中では「みんな仲良く」が求められますが、社会の中ではそんなことは求められていません。
この部分で求められていることがあるとすれば、自分が嫌いな人の存在を否定しないこと。
好きな人と嫌いな人が同じくらいいて、その他圧倒的多数は自分が知らない人であり、好きでも嫌いでもない人。
久しぶりに啓発ネタを昨日、一昨日と書きましたら、普段の倍ほどアクセス数が上がりました。
もしかしたら、啓発熱心系の人達が、攻撃されないクローズのSNS上で慰め合っているのかもしれませんが、意外にも、私が書いたような事実を支援者から、家族から教えてもらっていない人、また気が付いていない人が多いのかもしれません。
その気が付いていない当事者の人が、気が付いていても敢えて伝えていない支援者が、もしくは学校の文化「みんな仲良く」が社会にも適応すると思ってしまっている支援者が、啓発活動に傾倒していくのだと思います。
ですから、啓発活動が実を結ばなくて、良く分からない方向へと向かってしまう。
良く見る啓発活動は、圧倒的多数の無関心な人達に向かって展開されています。
その中から好意的に思ってくれる人が出てくる確率は、宝くじにあたるようなものです。
世の中の圧倒的多数の人は、発達障害に特別の興味も、関心も、好意というか感情も持たないのです。
建物が青くなっていても「今日は何の日だろう?」と思う人はほとんどいなくて、せいぜい「青いな」「普段と違うかな」「いつもは何色だっけ」くらいしか思わないのです。
そして最悪なのが、嫌っている人にも近づいていこうとすること。
これは「話し合えば、最後には分かり合う」というようなお決まりの学級会パターンを引きずっている証拠。
嫌いな人はどこまでいっても嫌いであり、興味関心のない人は、いつまで経っても好意を向けてくれない。
社会の中には、いろんな人がいる。
自分と意見の合わない人、感情的に嫌いな人もいるけれども、その人の存在を否定しないでいる。
それが社会のルール。
こういった社会のルールを知っていれば、啓発活動というのは、発達障害に興味関心のある人、好意的な感情を持っている人に向けて行うのが良いのだといえます。
興味関心のある人に、よりよく知ってもらう。
好意的な感情を持つ人に、応援者になってもらう…。
まさに今、私は上杉謙信の心情です。
まあ、すぐに塩は捨てられそうですけどー。
もし当事者の方で、このブログをご覧になっていたとしたら、学校のルールが社会に当てはまらないこと、違いがあることを知っていただきたいと思います。
また、こういった真実を教えていない親御さんがいらっしゃいましたら、子どもさんにも明確に伝えられた方が良いと思います。
学校文化に引きずられて、それが足かせとなり、うまく社会に出ていけない、適応していけない成人の方たちがいますので。
支援者は担任の先生ではありません。
最初から「クラスの仲間と仲良くする」というゴールが設定されていて、その終着地点に向かって、あーすれば良い、こーすれば良いと進んでいく。
そういった様子を見て、「クダラナイ」と傍観している子がいれば、「〇〇くんは、どうしたら良いと思う?」などと指名されたりする。
ゴールは決まっているし、「全員でそのゴールまで向かう」というルールも決まっている。
全員一致で、「みんな仲良く!はい、おしまい、ジャンジャン」が学校の文化。
小学校の低学年くらいは、本気で「クラスのみんなと仲良くするにはどうしたらよいだろうか?」と考えますが、学年が上がるにつれて、自分たちが求められているゴールが決まっていることに気が付いてきます。
だから、高学年子たちは、早くゴールまで到達しようと阿吽の呼吸で、みんなが模範解答を述べるようになります。
同時に、めんどくさくなりそうな子とは、最初から距離を置こうと思うし、上辺だけ仲良いふりをし始めます。
これが学校という文化の中で適応する方法だから。
私はというと、同級生よりは早い段階で、この学校ルールに気が付いていました。
何故、そう言えるのかというと、学級会が始まった時点で答えが決まっているのに、「どうしてみんなはクドクドと回り道する発言をするのだろうか」と思っていたからです。
ズバッと模範解答を言って、早く終わらせようとしてばかりいる子でした。
社会人になって、すぐに福祉施設で働き始めました。
職員に人権のない職場ではありましたが、職員同士仲が良く、職員間で悪口を言うようなことはなかったです。
しかし退職して、学校で働き始めると、同僚の悪口ばかりで、その違いに驚きました。
でも、一緒に授業をしたり、会議をしたりする場では、そんなそぶりは見せず、むしろお互い信頼しきっている仲間のように振る舞っているのです。
学校の文化なんて、とうの昔に必要がなくなり、忘れていたことだけれども、まさか30になって思い出すとは思いもよらなかったです。
そして、あのとき、学校の先生が教えていた文化は、クラス内でうまく立ち振る舞うためのルールではなく、職員室でのルール、職場での適応の仕方を教えていたのだと思いました。
「嫌いな人とも仲良くする(振る舞う)」は、組織の中で必要なことなのかもしれません。
特に、自らの主体性を発揮しづらいような職場は。
小学校のクラスの担任が管理職に変わり、同級生が同僚に変わった感じです。
多くの方達が指摘されているように、自閉症の人達と学校の文化は相性が悪いといえます。
学校のルールと社会のルールが同じではないことに気が付かないことがあります。
学校で教わった文化を、年を重ねていっても引きずっている人が多いです。
学校の中では「みんな仲良く」が求められますが、社会の中ではそんなことは求められていません。
この部分で求められていることがあるとすれば、自分が嫌いな人の存在を否定しないこと。
好きな人と嫌いな人が同じくらいいて、その他圧倒的多数は自分が知らない人であり、好きでも嫌いでもない人。
久しぶりに啓発ネタを昨日、一昨日と書きましたら、普段の倍ほどアクセス数が上がりました。
もしかしたら、啓発熱心系の人達が、攻撃されないクローズのSNS上で慰め合っているのかもしれませんが、意外にも、私が書いたような事実を支援者から、家族から教えてもらっていない人、また気が付いていない人が多いのかもしれません。
その気が付いていない当事者の人が、気が付いていても敢えて伝えていない支援者が、もしくは学校の文化「みんな仲良く」が社会にも適応すると思ってしまっている支援者が、啓発活動に傾倒していくのだと思います。
ですから、啓発活動が実を結ばなくて、良く分からない方向へと向かってしまう。
良く見る啓発活動は、圧倒的多数の無関心な人達に向かって展開されています。
その中から好意的に思ってくれる人が出てくる確率は、宝くじにあたるようなものです。
世の中の圧倒的多数の人は、発達障害に特別の興味も、関心も、好意というか感情も持たないのです。
建物が青くなっていても「今日は何の日だろう?」と思う人はほとんどいなくて、せいぜい「青いな」「普段と違うかな」「いつもは何色だっけ」くらいしか思わないのです。
そして最悪なのが、嫌っている人にも近づいていこうとすること。
これは「話し合えば、最後には分かり合う」というようなお決まりの学級会パターンを引きずっている証拠。
嫌いな人はどこまでいっても嫌いであり、興味関心のない人は、いつまで経っても好意を向けてくれない。
社会の中には、いろんな人がいる。
自分と意見の合わない人、感情的に嫌いな人もいるけれども、その人の存在を否定しないでいる。
それが社会のルール。
こういった社会のルールを知っていれば、啓発活動というのは、発達障害に興味関心のある人、好意的な感情を持っている人に向けて行うのが良いのだといえます。
興味関心のある人に、よりよく知ってもらう。
好意的な感情を持つ人に、応援者になってもらう…。
まさに今、私は上杉謙信の心情です。
まあ、すぐに塩は捨てられそうですけどー。
もし当事者の方で、このブログをご覧になっていたとしたら、学校のルールが社会に当てはまらないこと、違いがあることを知っていただきたいと思います。
また、こういった真実を教えていない親御さんがいらっしゃいましたら、子どもさんにも明確に伝えられた方が良いと思います。
学校文化に引きずられて、それが足かせとなり、うまく社会に出ていけない、適応していけない成人の方たちがいますので。
支援者は担任の先生ではありません。
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