お腹で地面を嘗めくり回すことで育つ感覚

昨日、両手でちょこっと前に進めるようになったと思ったら、今朝は、ずりばいであちこち家の中を移動している息子。
昨日まで自力で移動できなかったことを忘れてしまったように、思いのままに、気のままに、床を味わう。


赤ちゃんにとってずりばいは、相当激しい運動ではないか、と思う。
汗を垂らしながら移動する姿には、生命のたくましさと、進化の歩みがみえる。
海から上がり、地上での生活が始まる。


お腹を地面につけての移動は、その小さな身体を育てると同時に、距離感を養っているように思えてくる。
「あそこに扉が見える。行ってみよう」と手で地面を掴みがら、そして自分の移動した道のりをお腹で感じながら前に、前にと進んでいく。
こうやってお腹で地面を嘗めくり回すことで、空間を味わい、立体感のある世界を知るのではないだろうか。
ちょうどこのくらいの時期から、目が育ち始めるのも面白い。


仕事を通して、「ずりばい」や「はいはい」を育て直すことが多い。
成育歴を尋ねると、「やらずに立った」と返ってくることが多いからだ。
だから、私は一緒になって「ずりばい」や「はいはい」をして遊ぶ。


同じ視線で「ずりばい」をしていると、「この子は全身を育てているな」と感じることと、「この子は感覚を育てているな」と感じることがある。
同じ段階の発達のヌケなのに、違う雰囲気が伝わってくるのだ。
全身を育てるとは、動きであり、筋肉であり、弛緩である。
一方、感覚を育てるとは、距離感のようなものだと私の中では捉えている。
「人との距離感が掴めない」と表現されるような感覚だと思っている。


自閉症や発達障害の子は、運動面の発達の遅れ、左右の脳の未分化と連携の不具合が指摘されることがある。
また人間関係において、距離が近すぎたり、遠すぎたり、といった距離感が掴めないことによるトラブルや友人関係などを築くことの困難さが指摘される。
これは想像力の障害、対人面での障害などと、ざっくり言われている特性である。


このざっくりした特性、診断基準の項目を見聞きすれば、「それが自閉症だから」「それが脳機能の不具合だから」と頭をよぎる。
だが、本当はお腹での感覚が満たされていないからではないか、お腹で地面を嘗め回す経験が足りなかったのではないか、と思えてくる。
そう思えてくると、お腹で地面を感じる時間を作りたいな、もっとこの子には感じてほしいな、と発達援助の仕方が変化する。


近頃、ずりばいのヌケがある方の発達援助では、その子の雰囲気によって、ずりばいの運動だけではなく、「お腹で地面を感じる」「お腹で地面を嘗め回す」の2つを足したり、引いたりするようにしている。
いつからか、どの方の援助からかは忘れてしまったが、自然とこのような変化が生じている。
地面の凹凸を味わったり、固さを味わったり、温度を味わったり、高さを味わったり…。
歩いて感じる距離感、目で感じる距離感、頭で感じる距離感と、お腹で感じる距離感の違いを味わうこともする。


私も一緒に味わいながら、自分もこうやって赤ちゃんのときにお腹で地面を嘗めくり回し、空間の距離感を感じ、人との距離感を掴んでいったのだと想像する。

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