2018年11月14日水曜日

「頑張ったから」ではなく、適応を望まない心身が『二次障害』という表現をしているのだ

私が出会ってきた人達の中に、頑張ったために心身を病んだという人はいなかった。
心身を病んだ人というのは、むしろ、頑張ることを止められた人達。
「頑張りたいけれども、頑張れない。頑張らせてくれない」という叫びが心を蝕み、向かう場所を失ったエネルギーが身体を滅ぼしていく。


おぎゃあと生まれた瞬間から、いや、精子と卵子が出会った瞬間から、ヒトはより良い次の瞬間を求めて歩み続ける。
細胞を分化させ、神経を伸ばし、環境に適応するための身体を作り上げていく。
環境に適応できるというのは、より良く生きることに繋がる。
より良く生きるために、環境からの刺激を受け取れる感覚器を育み、対応できる動き、身体を育む。
受精した瞬間から命が尽きるその瞬間まで、より良く環境へ適応しようと、ヒトは進化、発達、成長を続ける。


「頑張る」というのは、本来、心と身体が同じ方向を向く、とても心地良いことである。
「〇〇ができるようになりたい」
「この目標を達成したい」
これらも、高度な環境適応といえる。
頭で思い描いた目標、理想という環境へ、身体を適応させていく。
絶えまなく続く身体の進化に、心が一致する瞬間。
頑張ることは、心地良い。
頑張ることは、心身を一致させ、伸びやかな発達、成長を促す。
だから、頑張ることで心身が病むことはあり得ないのである。


支援者は「頑張ると、二次障害になる」と言う。
支援を受けさせるための脅し文句として使っている者もいれば、本当に信じて疑わない者もいる。
信じて疑わない者は、先人から与えられたフィルターを通して、心身を病む当事者を見たに違いない。
「ああ、やっぱり、頑張ると二次障害になる」


しかし、現実は違う。
ただの偏見、ただの解釈の誤りである。
頑張ったから二次障害になったのではなく、その人は頑張れなかったから、心身を病んだのだ。
環境に適応できなかったから、心身を病んだのだ。
ヒトは頑張って進化を求める動物であると同時に、適応を目指す動物でもある。
だから、頑張ろうとしているのを止められると、身体を病む。
だから、適応したくない環境に適応し始めると、心を病む。


「普通になりたい」と子どもが言う。
「仕事して自立したい」と若者が言う。
すると、「普通になんかならなくて良い」「一般の仕事しても続かないし、あなたには支援を受けて生きる方が合っている」と制止が入る。


自分が心地良く描いた目標、理想の環境へ向かうことを止められる。
つまり、環境適応を人為的に止められるということである。
心身が一致して、環境適応を目指し動き出している。
心は、支援者からの言葉で抑え込められる。
しかし、すでに動き出している身体、エネルギーはどうだろうか。
せっかく一致していた心身が離れ、身体だけが動き続ける。
行き場を失ったエネルギーが、自傷、他害、パニックという形で消耗される。


普通になりたい子どもが、特別支援の中に入れられると、心を病む。
働いて自立したい若者が、福祉の中で頑張らなくてもできる仕事をすると、心を病む。
頑張らなくて良い環境の方が、心を病ませる。
何故なら、身体が適応を始めてしまうから。


長く特別支援の中にいた子どもは、特別支援適応を始める。
長く福祉の世界にいた若者は、福祉適応を始める。
「自分の居場所はここじゃない」と思い続けても、長らく特殊な環境にいると、身体の方が先に適応を始めてしまう。
心は望んでいないが、身体が適応してしまっている状態。


「私には支援が必要です」「一般就労は無理です」「社会の理解があれば」と言い、言葉通りの環境に身を置いているのにも関わらず、心が晴れず、ついには病んでしまっていく人達。
その人達は、ただ言葉で心を押し込めているだけで、本当は心の中でこの環境に適応することを拒否している。
動かしたい身体が動かない。
まさに鳥かごの中にいるような心は、変わらない風景を眺め、寒々しく凍えていく。


主体性のある頑張りの機会が奪われると、心身を病む。
主体性を奪われた頑張りを強要されると、心身を病む。
本来、主体的な頑張りは、心身を解放させ、伸びやかな発達、成長へと繋がっていくのだ。
「頑張ると二次障害」の実情は、主体性を奪われた環境に対する抵抗と、「適応できず」という自然治癒力の表れである。

2018年11月13日火曜日

「選ばせない」じゃなくて、「選ばれよう」でしょ

「てらっこ塾を利用するな」「あんな、おかしい人間の支援なんか受けるな、相談するな」「治るなんて、詐欺に決まっている」と、支援者たちが言うのは、何とも思いません。


「あなたの子は、一生涯支援が必要です」
「頑張らせると、二次障害になりますよ」
「普通級には行けません。良くて支援級です」
「知的障害がなくなることはありませんよ」


そんな風に言われていた子ども達、若者たちが、次々、予言を覆し、勉強ができるようになり、姿勢や動きが自由にできるようになる。
一般の高校に入り、一般就労し、支援がなくても、自分の力で生活ができるようになる。


縁日のくじみたいに、年齢や症状、知的障害の有無に関わらず、みんなスケジュール、みんな衝立、困ったらSSTと出てくる景品は同じもの。
そして、本人に変化が見られないと、「社会ガー」と十八番の責任転嫁。
これじゃあ、「利用するな」と言うくらいしかできないでしょう。


支援者たちが、そのように言うのはわかります。
自分達を守るために仕事をしている人達だから。
でも、学校の先生はそうじゃないでしょ。


「利用するな」は、学校の先生から言われることもあります。
もちろん、直接ではなく、利用してくださっている親御さんに対して。
でも、放課後、しかも親御さんの意思で利用しているものに、どんな権限があって、教員がモノ申すのか。
だって、家庭で習い事していて、それに対して、担任が「止めた方が良い」なんて言ってこないでしょ。
「あの塾、やめてください」「野球クラブは止めた方が良いですよ」なんて言わないでしょ、普通。


来年度を見据えた時期的なものもあるのでしょう。
止めた方が良い、という理由が、「本人が頑張りすぎていると思うから」
意味不明ですね。
本人の成長は認めるが、頑張りすぎているように感じるから、利用しない方がいい。
この言葉を教員の口から聞くと、悲しさは倍増しますね。


教員って、子どもの成長を願い、そしてそれを心から喜ぶ人達ではないのでしょうか。
たとえ、塾や放課後の習い事だったとしても、子どもが成長していく姿を見て、一緒に喜ぶのが教員じゃないのでしょうか。
身体面からのアプローチ、言葉以前のアプローチで、授業をしっかり聞けるようになり、成績が上がり、支援級へと言っていた子が、普通級で堂々と学校生活が送れるようになった。
良い方向へ予想が外れたなら良かったでしょ。


結局、「田舎特有の公務員偉いんだぞ、民間よりも」と、自分たちが何年もかけて解決できなかった問題を、家庭での取り組みで解決してしまったから面白くないだけ。
なんとかコーディネーターは、学校内で権限があるのかもしれないけれど、民間人の私からしたら、どっかの知らないオヤジ、オバサンです。
私が提案したことに、家庭と一緒に取り組んだことに納得ができないのなら、「こっちの方が、良いアイディアです。取り組みです」と持ってくればいいだけのこと。
それができずに、ただ「止めた方が良い」「本人が頑張りすぎているから」なんて言うだけでは、社会人として相手にされませんね。


恨むのなら、自分たちの腕を恨んだ方が良い。
元はと言えば、ずっと必要だと言われ、受け続けてきた支援が、本人により良い変化をもたらさなかったのが問題の発端。
だから、私に依頼が来た。
しかも、本人は成長し、自ら「僕は支援はいらない。必要なのは運動とトレーニング。みんなと同じようにできるようになりたい」と意思表示している。


本人が受けたくない、必要ではないと言っているものを、「いいや、受けた方が良い」と言い続けるのは、たとえ子どもであっても、本人の意思をないがしろにすることであり、自由と権利を侵害しているといえます。
配慮や支援を求める主体は、学校の先生でも、専門家でもありません。
そこをはき違えている支援者が何と多いことか。
「あなたは支援が必要」は、他人の主観。
本人がいらないと言っている支援を押しつけるのは、人権侵害。


商売がたきがブーブー言うのは想定内。
言いたいヤツが勝手に言っていればいいだけだし、喧嘩は腕でするもの。
私のところを利用してほしくないのなら、自分たちが金太郎飴の支援から脱却し、 過去の先進地域を捨て去り、より良い支援、援助を学び、選ばれるようにすれば良いだけの話。
結局、早期から診断を受けようとも、療育を受けようとも、構造化しようとも、自立しないし、一生涯の支援だったら、今の親御さん達は別の道を探します。
一生涯支援を受け続けるか、発達のヌケや未発達の部分を探し、そこを育て直して自立を目指すのか。


こういった閉鎖的で、未だに数十年前の先進地域の幻影で支援している地域で事業を起ち上げたのは、別のアプローチを提示することで、お互い喧嘩して、切磋琢磨できたら、結果的に地域のためになると思ったから。
でも、相変わらず、「こんな良い支援があるぞ」という話ではなく、ただの悪口、妨害だけ。
ホント、レベルが低い。
しかも、上記のような学校の中からも、子どもの成長よりも、自分たちが主導権を握りたい、自分たちの教育が認められたい、という足の引っ張りがくる。


函館は住みやすいところで、海も山もあって食べ物が美味しく、好きな場所だけど、なんかがっかりすることばかり。
ちゃんとケンカすらできない。
子どもや家族を中心に討論ができない。
発達障害の人達が公共事業みたいになっている。
冬は雪が降って、外でランニングできないし、もともと暑いところの人間だから、南下したいな、なんて思うこともありますね。
仕事も、相談も、道外が増えたし、一年中走れるところで仕事を探そうかな。
満平さん、雇ってくれないかな。

2018年11月11日日曜日

我が子と一緒に歩む道は、どこか懐かしさを感じるもの

虫歯ではなく、麻酔をかけるわけでもなく、歯垢を取るだけなのに、どうしてこんなにも通わないといけないのでしょうかね。
100歩譲って、上の歯と下の歯で2回に分けるならまだしも、上の歯を3回に分け、下の歯を3回に分ける。
どうして一気にできないのか尋ねると、「歯に負担がー」と、それ以上、ツッコミを入れさせませんよ、というような定型文が返ってくる。


歯の負担というけれども、通う方の負担はどうでも良いのか。
結局、「患者さんのために」と言いながら、回数を稼ぎたいだけでしょ、と思ってしまう。
自営業だから、なんとでもなる、時間の融通が利く、と思っているのかもしれませんが、自営業は働いてナンボの世界。
働かない時間は、無収入。
だから、毎日、せっせと働いています。


訪問するお宅が、函館だろうが、泊りがけで伺う場所だろうが、一発勝負と思って仕事をしています。
発達のヌケを探り、その子の物語を完成させる。
発達のヌケの育て直し方と、そのご家庭の雰囲気、流れにあった育み方を提案する。
限られた時間で、これらすべてをやりぬくことが、私に依頼してくれた方への誠意だと思っていますし、子どもの貴重な発達の時間を守ることだと考えています。
なので、「上の歯、三本でおしまい。また来週」みたいな支援を見ると、つまんない商売してんじゃねーよ、と思ってしまいます。


お金は後からでも稼げばいいですが、時間というのは後からどうしようもありません。
ですから、私が帰ったあとから、すぐに本人が、家族が動き出せる形まで持っていく必要があります。
いや、理想で言えば、一緒にお話しし、考えている最中から、本人、家族の意識や気持ち、雰囲気が動き出している状態です。


私が確認し、見たて、提案する。
それを本人、家族が受け取り、「はい、ありがとうございました」では、つまらんのです。
私はきっかけの一つであり、本人と家族がより良い未来に向かって歩みだす後押しの一つにすぎません。
私がいくら限られた時間の中で、一つの形を作ったとしても、動きが生じなければ意味がないのです。
そういった意味で、私自身が問われます。
家族の流れに沿った発達援助ができているか、を。


家族の流れに沿いながら仕事ができていると感じられるのは、親御さんから次のような言葉が聞かれたときです。
「そういえば、自分も、子どもの頃、そうだった」
「この子の〇〇というところは、自分にそっくりなのかもしれない」
話題の中心は子どもさん。
でも、子どもを通して、過去の自分を呼び起こし、そして自分と子どもが繋がりを見せる。
その瞬間、「今日は良い仕事ができた」と感じることができるのです。


発達障害の子は突然変異で生まれてくるわけではなく、天使が「あなたのおうちに決めた」と連れてくるわけでもなく、両親から資質や特徴を受け継ぎ、生まれてくるもの。
ですから、我が子と自分の繋がりを感じることが重要です。
特に、自立した人に育てるためには。


鹿児島の神田橋先生がおっしゃられているように、親が仕事をし、結婚して、子どもを授かれているのだから、子どももそれくらいにはなれるだろう、というのがあります。
つまり、親御さんの人生の中に、子どもさんをよりよく育て、自立まで後押しできるヒントがある、ということです。
それが子ども時代、熱中したことかもしれない。
それが両親の育て方だったのかもしれない。
それが、誰々との縁であり、育った環境なのかもしれない。
その辿ってきた道に、今、親として自立し、子どもをもうけ、家族を形成している理由があるはずです。
似た遺伝子を持った自分がある意味で治り、資質を開花させられた理由が。


私が発達のヌケを確認し、その子の物語を紡ぎ、具体的な発達援助を形作る。
そこには面白みがないのです。
でも、そこに親子の繋がりが生まれると、一気に発達援助が躍動し始め、その家族ゆえの発達援助が彩られます。
そうなると、私が同じ空間にいても、家族が揃ってより良い未来へと動き始める。
支援者などという他人を介さずとも、家族の力で歩んでいける、進んでいけるのが理想であり、自然な姿だと思います。


ただ口を開けて、やられるがまま、言われるままの治療は、面白くも何ともありません。
しかも、その本人の力を引き出すことも、育てることもない。
だから、与える、与えられるの発達援助はつまらないのです。


発達援助は、子どもの力を引き出すことが肝心です。
しかし、同時に親御さんの力を引き出すことも大事。
その大事な親御さんの力とは、自分の歩んできた道から、素晴らしいアイディアとエッセンスを抜き取ること。
そのためには、我が子と自分の発達が繋がることが必要です。
私が作ったものを土台にし、家族が彩り豊かに仕上げていく。
気が付いたら、家族の自分たちだけで治る道を歩き始めているのが理想です。


我が子と一緒に進む道は、どこか懐かしさを感じるはずです。
だって、親の自分が辿ってきた道と、どこかでつながっているから。

2018年11月10日土曜日

親が治るから子も治る、子が治るから親も治る

エビデンスにこだわる人というのは、エビデンス以外の世界を想像できない人なのだと思います。
エビデンスに忠実というよりは、エビデンスのような記号的で、揺らぎや想像、解釈の余地がないものに、すがらざるを得ない脳みその持ち主なのでしょう。
そういった意味で、その人自体が実生活の中で生きづらさを抱えている。


ましてや、子育てといった原理原則が存在せず、余白こそが主戦場となる営みに対し、恐怖すら感じているかもしれません。
ですから、子どもの発達、成長よりも、子どもの健康、幸せよりも、エビデンスを取る。
いや、取るしか選択肢がないのです。
エビデンスの外を想像できないから。
揺らぎや想像、解釈といった流動的なものが脳内に侵入してくるのを防ぐために。


目の前にいる我が子よりも、どっかの誰かが唱えたエビデンスを取る、ということは、その親自身、発達障害を持った人だと想像できます。
当然、親の特徴は子どもに遺伝しますから、子どもが発達障害の場合、親にもその要素が大なり小なりあるといえます。
なので、エビデンスしか信じられないというような特徴が前面に押し出ている人以外でも、何かしら発達の課題を持って生きていると考えられます。


エビデンス原理主義のような極端に特徴が出てしまっている場合は、自ら治す方向へと踏みだすことはできませんし、もし踏みだしたとしても、治るまで歩き続けることはできないでしょう。
当然、子どもは治らない。
しかし、こういった極端な家庭でなくとも、発達障害を持つ子の親御さんは、自身の発達と向き合い、治していくことが重要です。
何故なら、治るとは親子の協働作業だからです。


発達障害が治るには、子どものみが頑張れば良いのではありません。
子どものみが発達援助を受け、それで治っていく、という話は聞きません。
親御さん自身が、自分の発達の課題と向き合い、治そうとする、治っていく。
そうすることで、子どもが治っていく。


子どもの発達に注目することで、自分の発達の課題に気が付く。
子どもの発達を促す試行錯誤が、自分の発達を育て直すアイディアへと繋がる。
ですから、子どもが治ると、親も治る。
親が治ると、子どもが治る。
このような歯車が回りだすと、家族が一緒に治るまで到達するのです。


親御さん自身に発達障害があり、生きづらさを抱えたままですと、治り切るまで踏ん張れないのです。
子どもの視点の想像、子どもの未来の想像。
より良い遊び、関わり方、刺激、環境の創造。
考え、実行し、反省し、修正と工夫を繰り返す試行錯誤。
目に見える変化が見えなくとも、発達の鼓動を感じ、より良い未来の姿を脳裏に映し出すことができること。
課題を持ち続けたままですと、これらのどこかに支障が出るものです。


親御さん自身が、自分の発達障害を強く意識し、それと向き合ってきた人ほど、子どもは治っているように感じます。
もちろん、似たような感覚を持っているからこそ、分かり合え、より良い営みへとつながっている、とも考えられます。
しかし、それよりも、「私が治ったんだから、我が子も治る」というような実感があり、揺らぎない信念があるようにも感じます。


親御さん自身が、自分の発達障害を治してきた人は強い。
エビデンスなどといった記号にすがることなく、揺らぎの世界へと突き進むことができる。
それは、ご自身の中に信念があるから。
我が子を治すための想像と創造、試行錯誤とやり切れるためだけではなく、こういった揺るぎない信念を持つためにも、親御さん自身、発達障害を治した方が良いと思います。


子どもだけ治ることは珍しい。
「親が治るから子も治る、子が治るから親も治る」
子育ての本質は、身体を使った対話であり、親子の交流ですから、これは当然で自然な姿だといえますね。

2018年11月9日金曜日

「できない現実」と「できるはず」の狭間に生きづらさが存在する

私はいつも「この子の、この家族の未来が少しでも良くなってほしい」と想い、仕事をしています。
実際に子どもと関わるときも、親御さんと発達援助の方法を考えるときも、いただいたメールに返信するときも。
「ちょっぴり成長できたな」「こうして子育てしていけばいいんだな」「気持ちがすっきりした」「少し元気が出た」
受け取り方は人それぞれでも、何か前に進む力の一つになれれば、私は嬉しく思います。


発達障害の方達と接していると、皆さん、治りたいという想いを持った人達なんだと感じます。
身体、機能障害の方達とは異なり、なんとなく、漠然とした、言葉で表せないような違和感や生きづらさを抱えている。
その掴めそうで掴めない、見えそうで見えない存在から解放されたいという想いをひしひしと感じます。
ですから、現状維持や保護された環境に身を置くと、皆さん、どんどん病んでいくのだと思います。


親御さんの中には、今はしゃべらないけれども、知的障害があると判定されたけれども、コミュニケーションが成立していないけれども、「この子は、ちゃんと理解していると思う」「この子は、普通級で学んでいける」などとおっしゃる方達がいて、十中八九正しかったりします。
こういった親御さん達は、感じることができています。
我が子の漠然とした違和感と、治る未来を。


生きづらさとは、感覚的なもの。
もちろん、何かができない、うまくいかないという行動の結果から生きづらさを感じます。
しかし、単に「〇〇ができない」のではなく、「〇〇ができると思えるんだけれど、できない」というギャップ、違和感に生きづらさを感じているのだと思います。
だからこそ、支援が一番に向かう先は、本人の気持ちであり、違和感からの解放。


治りたい本人がいて、治したい親がいる。
なので、その気持ちに添うのが支援というもの。
「少し治ったな」「一歩でも、治る方向へ進んだな」
そんな感覚を得られることが、支援の存在意義だといえます。


世の中に、治る人も、治る知見も、増えてきました。
それを見て、必死になって治そうとする人も出てきました。
しかし、中には気持ちを横に置いた、発達援助をされている人がいるような気がします。
発達援助と名を変えた行動変容。
「ここに発達のヌケがあるから、こういった動きを続けよう」
「腰を育てる遊びをどんどんしよう」


治るには、対話が必要です。
子どもの場合は、親子の対話であり、大人の場合は、自分の心、身体との対話です。
対話があるから、自らの発達、成長を、そして心地良さを感じられ、より良いアイディアへと発展していけます。
対話は言葉ではなく、心を介した交流。
心の声を聞かずして、本当の発達援助は行えないと思います。


周囲から見れば、その子の「できない」「困った」をどうにかしようとするもの。
でも、その子の生きづらさに心を傾けることも大事だと思います。
「どうして生きづらさを感じているのだろう?」
「何がクリアされれば、生きづらさから解放されるだろう?」
そういった問いを持ち続けることも必要です。
すると、ただの行動変容ではなく、ただのトレーニングではなく、発達援助になります。


生きづらさの正体である「できない現実」と「できるはず」のギャップ、ズレ。
そのズレこそ、本人の生の声であり、その人の発達が向かいたい先。
発達を援助するとは、その人の気持ちと発達が向かいたい方向へと後押しすることをいう、と私は考えています。


世の中に、より良い未来を願わない人はいません。
特に発達障害の方達の一番の願いは、物質的なものより、違和感からの解放であり、治ること。
そのために私は、気持ちが前に向かうこと、治るに近づいた感覚を得られることを願う言葉、行動、雰囲気を選んでいます。

2018年11月2日金曜日

「見えないものは、ない」は障害特性?先天的な障害?活かすべきもの?

「見えないものは、ない」というのは、自閉症、発達障害の人達に多く見られることです。
ですから、「想像力の障害」という言葉で片づけられ、それが障害特性で、それこそ、変わらない部分で、支援や配慮が必要なものとして捉えられます。
でも、本当にそうなのでしょうか。


「見えないものは、ない」人達と接して感じるのは、情報処理の問題ということです。
定型発達と言われる私達だって、見えていないものは、どう頑張っても見えません。
でも、この部分において日常生活での問題にならないのは、見えないものを想像して補っているからです。


じゃあ、どうやって見えないものを想像しているのかといったら、複数の情報を同じテーブルの上に乗せ、過去の経験や体感などを駆使し、「多分、こうだろう」と想像している。
で、もちろん、外れることもあるが、想像はだいたい合っている。
だから、見えるものと、見えていないものを総合しながら、人と付き合ったり、仕事をしたり、生活したりしている。
ちなみに、子どもが面白い、突拍子もない想像をするのは、まだ経験が少ないのと、複数の情報を同時に処理する力が育っていないなど、まだ脳(特に大脳皮質、前頭前野)が育つ過程だから。


自閉症、発達障害の人達は、定型発達と情報処理の仕方が異なると言われます。
確かに、情報処理の仕方が違うな、というのは、この「見えないものは、ない」からも感じますが、それは独特な情報処理の仕方を持って生まれたというよりは、成長の過程の中で作られた処理形式、脳の使い方のようにも思えます。


例えば、感覚面に発達の遅れ、未発達があれば、特に視覚情報などの偏った情報しか入ってこなくなって、視覚に頼った情報処理の仕方ができてしまう。
例えば、爬虫類の脳や哺乳類の脳など、脳の表面よりも深い部位に発達のヌケや遅れがあれば、ヒトの脳の部位に発達の遅れが見られ、結果的にいろんな情報を整理、統合することが難しくなってしまう。


よく「自閉症の人は視覚的な情報処理が得意なので、その得意なことを活かしましょう」などと言われます。
でも、本当に得意なことで、生きていく上で武器となるような特性だとしたら、世の中の自閉症の人達はこんなに困っていないはず。
だから、得意と言うよりは、仕方なく、そうなるしかなかったというのが本当のところだと思います。
視覚以外の部分が平均くらいで、視覚的な情報処理が飛び抜けて優れているのならわかりますが、総合的に見れば、偏りであり、偏りによって作られた情報処理の仕方じゃないですかね。


受精後4ヶ月くらいで眼ができ、開くのが6ヶ月くらいから。
しかし、器官ができても、神経と繋がって情報処理ができるようになるためには刺激が必要。
ということは、やっぱり生まれつきじゃない、出生後の発達過程で作られていくもの。
だから、「活かす」というよりは、活かさざるを得ないというのが事実であって、そうだったら、偏りの根っこにあたる未発達、遅れのある部分を育てましょ、という方が良いと思います。


「見えないものは、ない」という人が、まったく見えないものを想像できないか、と言ったら、そうではありません。
見えなくても、想像できることもある。
想像するために持ってくる情報は少ないかもしれないが、そこから考えて、導き出すことができる。


「見えないものは、ない」という人は、「見えるものがすべて」という人であり、見えた情報のみで想像してしまう人ともいえます。
当然、生きている世界が狭いし、想像が妄想になりやすい。
なので、根っこからの解決じゃないけれども、経験することが何よりも大切。
経験することで、現実と想像のギャップを埋めることができる。
経験することで、情報が増え、妥当な想像ができることにつながっていく。
経験することで、妄想から想像へ発達させることができる。


「見えないものは、ない」というのは、障害特性でもなんでもなく、誕生後、偏った刺激の中で育まれた情報処理の仕方。
もちろん、特異な情報処理がとっても優れたものなら武器にして活かした方が良いけれども、ほかの部分に発達の遅れや未発達があるのなら、そちらを育ててからじゃなければ、本当の武器にはならないし、それを活かして、より良い人生を歩むことはできません。
結局、想像するとき、テーブルの上に乗せる情報が少ないということ。
そのため、見えていないものを想像する力が弱かったり、独りよがりの想像、妄想になりやすい。


想像するために必要な情報を、より多くテーブルの上に乗せるためには、身体、感覚面の発達のヌケ、遅れを育て直し、いろんな感覚、身体全部を使って情報を受け取れるようにすること。
同時に、こういった育て直しは、脳の深部を育てることになるので、ここが埋まりだすと、脳の表面、ヒトの脳の部分に広がりが出てくる。
そうなれば、想像するための材料を置くテーブルのスペース自体が広くなるし、いろんな情報を整理して見やすく置けるようにもなる。


そして、対処療法としては、経験すること。
経験すれば、自分の想像の正しさ加減がわかるし、次の想像の材料を増やすことにもなる。
だから、「視覚的な強みを活かして」などと言って、どんどん視覚情報を与え、どんどんそれ以外の情報を制限し、どんどん偏らせちゃダメ。
一般的な感覚として、一日中、眼ばっかり使っていたら疲れるでしょ、耳ばっかり使っていたら疲れるでしょ。
いろんな感覚、身体全体を使って処理しているから、私達は自然な生活を営むことができるのです。
こうやって改めて「見えないものは、ない」を考えてみると、想像力自体に問題があるのは、支援者の方かもしれませんね(ブ)

2018年11月1日木曜日

流れを大切にした仕事をしたいから、アンケートは作りません

新規や出張支援を利用される方から、「事前に記入しておくアンケートはありますか?」と尋ねられることがあります。
療育機関や相談事業所などでは、そういったアンケートの記入が一般的なのでしょう。
でも、うちにはアンケートはありませんし、今後も作るつもりはありません。
だって、実際にお会いするから。
だって、一緒に作り上げていこうと思っているから。


アンケートとは、効率化の象徴のように思えます。
事前に情報を集めておくことで、ポイントを絞って準備ができるし、支援ができる。
より少ない労力で、その時間を収め、次から次へとさばいていく。
労力は少なく、利益は多く。
もちろん、効率的に仕事をするのは当たり前のことだと思いますが、療育に、いや、人を育てるのに、この考え方はそぐわないと思います。


きちっとしたアンケートが渡されると、記入する方は「ちゃんとやってくれる事業所だ」「事前に聞いてくれるなんて熱心だ」というように感じる方もいると思います。
しかし、私はそうは思いません。
「あなたの声を聞きますよ」と言っているようで、枠が決められているから。
「自由になんでも」と言いながらも、誘導している主は、本人でもないし、親御さんでもない。
子育てに効率化が侵入するのも悲しいですが、知らず知らずのうちに支援する側と支援される側の関係が出来上がっているのも悲しいといえます。


アンケートを書いてもらった支援者側は、どうやって、それを利用するのか、支援に繋げるのか、私にはわかりません。
と言いますか、私はアンケートを貰っても、そこから支援を組み立てていくことはできません。
何故なら、アンケートとは切り抜きだから。
その子のある部分の切り抜きであり、親御さんの見立て、想いの切り抜きであり、時間の切り抜きです。


アンケートに、我が子のすべてを記入することはできません。
また記入を求められた部分が、その子の発達のヌケ、課題の根っこであるとも限りません。
アンケートとは、作った人の視点が入るもの。
やりたい支援、得意な支援に引っかかる部分が項目になっていることもあります。
ですから、人為的な切り取りになってしまい、本当にその子が必要な援助が届かないこともあるのです。


それに、アンケートを書いた時点と受け取った時点、実際に支援する時点は、すべて別の時間になります。
時間は常に流れているものなのですから、アンケートに書かれたその子と、実際に目の前にいる子は別の人。
大事なのは、目の前のいるその子を基点とし、過去と未来を流れで見ることです。
アンケートという過去を基点とした支援を始めようとすると、ズレが生じるもの。
その子の流れ、発達の流れをしっかり掴めないと支援はできません。


私に天才的な腕があり、治す力があるのなら、次々に治していくためにアンケートがあった方が良いと思います。
でも、私にはその才も、腕もない。
だから、一生懸命、お話を聞いて、一緒に発達のヌケ、課題を探そうと思っています。
そして、本人と家族が主となり、どうやって発達の後押しをしていくか、より良い育みを行っていくかを考える補助ができれば、と考えています。


治すのは、本人であり、家族です。
だから、本人、家族の生の声が重要なのです。
その生きた声には、単に情報だけではなく、想いや願い、それぞれの視点が漂っています。
そういった雰囲気から、その子の流れ、発達の流れ、家族の流れが伝わってくるのです。


何をどういった順番でお話しされるか。
どんなときに感情が揺らぎ、想いが溢れてくるのか。
どんな場面で、家族の息、動作がシンクロするのか。
そのすべてが過去から現在に繋がっている流れの表れ。
その子の流れに沿った援助の仕方でなければ、未来は伸びやかに発達してきません。
家族の流れに沿った育み方でなければ、未来に活き活きとした家族の時間が流れません。


個人で仕事を行っている意義であり、強みは効率化と真逆の方向へ進んでいけることだと思っています。
その子に、その家族に、とことん付き合うことができる。
発達のヌケ、課題の根っこが掴めなければ、それが見えるまで、一緒に土の中を掘り続けることができる。
そこには時間の切り抜きはありません。
ある意味、その子と、その家族と同じ時間の流れの中に身を置くことができる。
同じ時間の流れに身を置くことができるのは、オーダーメイドの発達援助を作る上での第一歩。
流れを大切にした仕事をしたいから、アンケートは作りません。

2018年10月30日火曜日

本人の前に立つ支援者、本人の後ろに立つ支援者

下手くそな支援者というのは、本人の前に立つ。
うまい支援者というのは、本人の後ろに立つ。
これは、実際の立ち位置のことではなく、支援の立ち位置のことです。


「私は支援をしています」と言いながら、子どもの前をスタスタ歩く支援者がいます。
スタスタ歩いて、どこに連れていくかといったら、自分たちの推し進める支援の中、一生涯支援の囲いの中。
ギョーカイというのは、「支援している」と言いながら、誘導しているのです。


ギョーカイの支援を受けて、心身共に不調をきたす人達がいます。
そういった人達は、身体が賢い人達です。
頭では支援を受け入れていますが、身体が受け入れていません。
あらぬ方向へと引っ張られているから、身体がそれに対して反発しているのです。
一見すると、従順に支援を受けているように見える人でも、心のベクトルは逆の方向へと進んでいる。


親御さんに対して、私は「リードではなく、後押しです」と言っています。
公的機関、標準療育を通る中で、たくさん悔しい思いをし、たくさん不満を持った親御さん程、支援ではなく育てる方法、治る道を知ると、勢いよく、その一歩を踏み出します。
でも、子どもの前に出てはいけないのです。


私は、一生涯の支援を受ける道ではなく、治る道があると確信しています。
しかし、同じ治る道を進んでいる子でも、その治し方、治り方は一人ひとり異なっています。
「この道を通れば、治る」という道があるのではなく、それぞれの歩き方で、それぞれの道を通り、最終的にその人の治るがあるのだと思います。
発達の仕方が一人ひとり違うのと同じように。


私達がしたい支援とは、子どもを特定の場所に誘導することではなく、子どもの発達を後押しすることではないでしょうか。
何らかの理由から、発達にヌケがあり、遅れが生じている。
だから、その部分を育て直そう、より良く発達してもらおうとするのが、望む支援のあり方。
生きづらさの根本に対する支援ではなく、子ども達の発達を支援するのではなく、第三者が決めた世界に誘導していくから、公的機関、標準療育から離れていくのです。


発達援助は、子どもの前に立ってはできないと思います。
子どもの後ろに立って、発達が伸ばしていきたい方向、その子が進みたい方向を見定める必要があるからです。
向かいたい方向とは異なる方向へ引っ張ろうとすると、綱引きの綱がピンと張るように反発が起きるものです。
綱を引くのではなく、子どもが進みたい方向へ、ポンと背中を押す。
それこそが、発達を後押しすることだと考えています。


発達の仕方が一人ひとり異なるのですから、そもそもリードなどできないのです。
どの道を辿ったら、その子が治るかなんか、誰にも分からないからです。
そのとき、そのときで、子どもが進みたい方向、発達が伸びていきたい方向へと後押ししていった積み重ねが、治るであり、振り返ってその子の治った道になるのだ思います。


私達は、発達を支援してほしいのであって、子ども達の人生を誘導していってほしいのではありません。
どうも支援者というのは、子どもの前に立ちたがります。
そして視界を狭めようとする。
でも、本来、どの道を進むのか、選択するのかは、本人が決めること。
だから、本人が主体的に、より多くの選択肢の中から選べるようにするために、可能性を広げるのが支援者の仕事。
支援者にできる可能性を広げる方法とは、発達の後押しに他なりません。
そのために、本人の前ではなく、後ろに立ち、進みたい方向を見極める必要があるのです。

2018年10月27日土曜日

親子の育み合いに誘うために

「それは、何回くらいやればいいですか?」
「一日、何分ですか?」
「登校前がいいですか?それとも、寝る前がいいですか?」
具体的な発達援助を提案すると、このような質問が返ってきます。


以前は、「本人の様子を見て、判断してくださいね」「本人が要求するなら続けてください」「本人が乗る気じゃなくなったら、無理してやることはないですよ」などとお伝えしていました。
でも、こういった表現ですと、戸惑ってしまったり、悩んでしまったりする方が少なくありません。
一番良くないのは、それが一歩を踏みさせないことにつながってしまうこと。
「何もしない」では、お子さんの発達の後押しはできません。
それに、いつまで経っても、「こんな感じかな」という雰囲気が掴めないままになってしまいます。


発達援助に、「良い発達援助と悪い発達援助がある」と思うのは勘違いです。
あるとしたら、やるか、やらないか、の二つだけ。
子どもの発達を後押しするとは、答えを見つけることでも、ある基準に近づけることでもありません。
創造すること、クリエイティブな営みです。
もし理想的な発達援助があるとするならば、それは、その子に合った発達援助を作ること。
もし良い発達援助があるとするならば、それは、その子が昨日よりも今日、今日よりも明日が良くなっていること。


我が子に合った発達援助を創造できなくなっているのは、子どもの変化、反応に気づけなくなっているからのように感じます。
親御さん自体が忙しくて気づけていない場合もあれば、子育てを外注してしまい、子どもを見る時間が少ない場合もあります。
あとは、親御さんの持つ課題として、主体性が育っていないこと、他人軸で生きていること、身体の感覚が乏しいことなどが挙げられます。


発達援助の核として、「心地良い」があります。
本人が「心地良い」と感じるとき、伸びやかな神経発達が起こるのです。
そういった本人の「心地良い」を感じるには、親御さん自身が「心地良い」が分からないといけません。
発達援助の最中とは、親子の交流、親子の一体化が生じます。
親子で交流し、一体化したとき、親御さんの身体に「心地良い」という受容器がなければ、我が子の「心地良い」は掴めないのです。
そうなると、「何回やればいいか」「どのくらいの頻度でやればいいか」といった枠組みが必要になる。


最近、私は「育み合い」という言葉を使うようになっています。
我が子の発達を後押ししているつもりでも、親御さんが育てられている場合がある。
そんな風に感じるからです。
発達援助という営みの中で、親子で交流し、一体化する。
その際、身体を動かし、身体を通して「心地良い」を感じる。
我が子の「心地良い」を感じようとすればするほど、自分の内側にある「心地良い」が育っていく感じです。


我が子の発達を後押しする。
そのためには、親御さん自身の身体、感覚、主体性が必要です。
でも、中にはそれらが育っていない親御さんもいます。
じゃあ、親御さんが育つまで、発達援助はできないか、しない方がいいか、と言ったら、そうでもないと思います。
先ほど、言った通り、「何もしない」では、発達を後押しすることはできないから。
それに発達援助自体が、親御さんの課題を育てる作用があるから。


以前は答えないようにしていたのですが、今は「何回やればいいですか?」と訊かれれば、「〇回ですね」と具体的に言うようにしています。
その数字は、私の見立てです。
そうして、言われた通りに行っていくうちに、徐々に親御さんの方も育っていき、感覚が掴めるようになっていく場合があるからです。
なんとなく、「これくらいかな」というのが掴めてくれば、自然と「何回やれば」が出なくなってきます。


「何回やれば」がなくなれば、具体的な回数を言うのを止めます。
親御さん自ら主体的に考え、試行錯誤が始まれば、距離を置くようにします。
そして、我が子に合った発達援助を創造するようになれば、サヨナラします。


発達援助自体のゴールは、親御さんが創造できるようになること。
発達援助にマニュアルも、正解不正解もないのですから、創造できるところまで親御さんを後押しするのが、私の仕事の役割だと考えています。
そのためには、親御さん自身も、課題をクリアし、育ってもらう必要があるのです。
その入り口が「〇回、やってくださいね」という具体的な言葉であり、育つ場が親子の交流と一体化の中だと思っています。
親子の育み合いに誘うために。

2018年10月24日水曜日

諦めさせるのは、支援じゃない

繰り返される激しい行動障害を目の当たりにすると、どこから支援していけばよいか、わからなくなり、いっそのこと、逃げ出してしまいたい、と思うことが多々ありました。
でも、施設職員を続けていく中で、気が付かされることがありました。
「この子達は、逃げだしたくても、逃げ出すことすらできない」のだと。


職員の入れ替わりは頻繁でした。
3年も続けていれば、ベテランみたいな役回りと扱いになります。
それだけ辞めていく人が多かった。
新人が入ってくれば、「この子は、いつまで持つか」なんていう音のない言葉が漂っていた。
次々に、職員は辞めていく。
でも、利用者の人達は、そこに居続ける。
本来なら、行動障害が収まり、生活が整い、自立するための力を養って、家庭や地元に帰っていくのが社会的な役割だったのに…。


施設職員として数年が経ったとき、気が付いたのです。
職員は辛くなったら、辞めることができる。
同じ福祉だとしても、ここ以外の場所はあるし、仕事を選ばなければ、いろんな選択肢がある。
でも、この子達には選択肢すらないのではないか、と。


当然、施設ですので、物理的にも逃げれないようになっています。
しかし、そもそも彼らに選択肢はなかった。
家庭や前の施設から離れた方が、心身が安定し、良かったと思える子達もいました。
でも、誰一人、望んで、自らの意思と選択で来た子はいなかった。
いくら措置制度から、契約制度に変わったとしても、子ども達の手の中に選択肢があったわけではなかったのです。


この子達に選択肢がなかったことに気づいてから、「逃げだしたらいけない」と、私は思うようになりました。
できることは少ないかもしれないが、しっかり向き合い続けようと決心したのです。
すると、以前は頭の中が真っ白になっていた大変な状況に、ある言葉が浮かんでくるようになりました。
どんなに激しい行動障害を持っていたとしても、「生まれたときは、強度行動障害ではなかった」という言葉です。


赤ちゃんのとき、幼児のときは、強度行動障害じゃなかったのなら、何かやりようはあるんじゃないか、環境によって行動障害が作られたのなら、環境によって良くしていくことができないだろうか。
そんな風に考えるようになりました。
そこから退職するまでの間、一度たりとも「逃げ出す」「諦める」という考えは出てきませんでした。


私は、発達障害の人達と関わる仕事をしてきて、一番心が痛むのは、以前の私のような「逃げ出す」「諦める」気持ちを持った人と出会ったときです。
本人が自分の可能性を、きっと良くなるという想いを、自分の人生を諦めていないのに、周囲の人間が諦めるなんてもっての外だと思います。
でも、実際は、「障害受容だ」「頑張らせない」「ありのままを受け入れよう」というきれいな言葉を使い、諦めている人が多い。


みんな、どうせ治らない、どうせ変わらない、どうせ福祉のお世話になるんでしょ、という想いを持っている。
だから、真剣にその人の課題と向き合おうとしないし、その課題を絶対に解決してみせるんだ、という熱意を感じない。
上辺だけの、その場だけの、表面的で取り繕われた対処療法をして、「僕は、支援をやってます」「私の子は支援を受けてます」と言い合っているように見えるのです。
「諦め」の気持ちをさとられないように。


今は、激しい行動障害があったとしても、過去は違った。
だから、未来も違う可能性はある、と思って施設職員をしていました。
その想いは今も続いていて、今、困難がある子も、今、言葉が出ない子も、今、知的障害が重い子も、未来は違う可能性はあるし、その可能性を信じて頑張ろうと思い、仕事をしています。


成人した方でも、長年、困難を抱えていたかもしれないし、今、自立できていないかもしれない。
でも、1年後、2年後はわからないわけです。
本人たちが、治そう、自立しよう、幸せになろう、と思っているのなら、その可能性を信じ、自分にできる応援をするのが、真の支援者だと思います。
知識を振りかざし、「今のあなたが、これからのあなただ」というような諦めさせ方をさせるのは、自らの利益のために動いている者。
ひと様を支援する者とは言えないのです。


数々の困難、課題をクリアし、治っていっている人達は、こういった諦めの雰囲気の中でもがいている本人たちの希望だと思います。
私は、そのような希望にはなれませんが、最後まで未来と可能性を諦めない他人もいる、というメッセージを姿勢を通して送り続けられたら、と思っています。


今、言葉が出ない、知的障害が重い、できないことがある、問題を抱えている、自立できていない、働いていない、がなんですか。
人間は常に発達し、動き続けている生き物なのです。
今までうまくいっていなかったのは、やり方が合わなかったのかもしれない、足りない部分があったのかもしれない。
そうではなく、じっと蓄え、大きな発達、成長を遂げるための準備期間なのかもしれない、しっかりとした根を伸ばしている時期なのかもしれない。


今の姿を求めるのは、諦めた人間と、「シメシメ、今の姿のままの方がありがたい」と思っている人間。
本人と家族は、今のままを求めているわけではありません。
悪い状態なら良い状態に。
良い状態ならより良い状態に。
育ってほしいし、歩んでいってもらいたいと願うのが親心。
そして、その道を歩んでいくのが、自分の人生の主人公である本人。


施設にいた子ども達に選択肢はなかった。
でも、誰一人、自分の人生を諦めようなどという想いの子はいなかった。
だから私は、その人が自分の可能性、未来を信じている限り、応援し続けようと思います。
諦めさせるのは、支援じゃない!

2018年10月22日月曜日

『自傷・他害・パニックは防げますか?』(花風社)を読んで

花風社さんの本が出版されると、私は必ず読みます。
本の中に、知識や情報だけではなく、希望が詰まっているからです。
私は今、発達援助で関わっている子ども達、若者たち、大人たちに不便なところは治ってほしいと思っていますし、開花した資質を自分の人生と社会のために活かしながら自立してほしいと願っています。
これは親御さんの想い、願いと同じだと思います。


だからこそ、「本人と親御さんのより良い明日と人生のために」という想いがあっての本ですから、素晴らしい著者の方達の知見だけではなく、そこに希望も感じるのです。
希望を感じない知見は、ただの自己満足であり、読み手の着想を生みません。
受け取った人の中でアイディアの自由な発展に繋がる動力は、花風社さんや著者の方達の希望という力だと思っています。


私は、多くの読者の方達と同じように、花風社さんの本から希望を感じます。
でも、それだけではないのです。
私は、新刊を手にし、読むたびに、希望だけではなく、後悔の気持ちに苛まれるのです。


新刊を読み、新しい知見、素晴らしい知見と出会うたびに、「これで、もっとその子に合った発達援助ができるかもしれない」と思い、「ああ、あのとき、あの子に、この知見があれば…」と思います。
私の言う「あのとき」は、施設で働いていたとき。
特に、栗本さんが著者である本が出版されるようになってからというもの、後悔の気持ちは強くなるばかりです。
施設で働いていた私は、対処療法しかできませんでした。
苦しむ彼らを見て、ただただ一緒に悲しむことしかできませんでした。
投薬の量が増えていく場面に立ち会い、彼らの想い、願いを代弁することができませんでした。


あのとき、言語以前のアプローチを知っていれば…。
あのとき、心身をラクにする方法を知っていれば…。
あのとき、四季を上手に乗り越えるアイディアを知っていれば…。
そして今回の新刊で教えてもらった身体作り、対応法を知っていれば…。
そうすれば、対処ではなく、育むことで、彼らの発達を支援できていたかもしれない。
そうすれば、彼らも、支援者も、お互い傷つかずに良い関係が築けていたかもしれない。
読み進める中、当時関わっていた子ども達の顔を思いだす頻度は、今回が一番多かったように感じます。


基本的に入所施設の職員の役割は、利用者さんの命を守ることと、生活介助です。
当然、生活介助ですから、いろんな生活場面で身体接触しなければなりません。
身体接触が必要な場面で、何より悲しいのが、利用者さんが身体を触らせてくれないこと。
特に、新入所できた方が、身体接触を拒む姿が悲しかった。
拒み方を見れば、それまでの人生で、どのような介助をされてきたか、がわかるからです。
どこに立たれるか、どこに触れられるか、で反応の仕方が一人ひとり異なります。
触れられた後の行動も。


自閉症や発達障害の人達、強度行動障害の人達が、身体に触られるのを嫌がるのは、「感覚の問題」と言われていました。
でも、現場の職員は知っています。
感覚面の問題よりも、どういった身体接触、関わられ方、介助のされ方をされてきたのかが大きく関係していることを。
初めて会ったはずなのに、私に向けられる「不信感」という眼差しが辛かったのを覚えています。


この本の中で、距離感、間合いについて記されていた箇所がありました。
こういった知識はありませんでしたが、拒絶する方との距離をどう近づけていくか、大丈夫だと思ってもらえるか、また行動障害の方とは、どの位置で、距離で関わるかを真剣に考えていました。
と言いますか、これが掴めなければ、支援ができないので、やらざるを得なかったのです。
もし心身の距離が縮められなければ、身体に触れることを受け入れてもらえなければ、服薬も、怪我の治療も、歯の仕上げ磨きも、入浴支援もできません。
そうなれば、施設職員が一番に守らなければならない利用者さんの命が守れなくなってしまいます。


本で紹介されました介助法を開発された廣木道心氏は、武道家であり、介護士であり、自閉症の子のお父様でもあります。
だから、単にテクニックではなく、その介助法には心があり、対話がある。
そして育みもある。
ここに一番、心が揺さぶられました。
素晴らしい希望と共に、深い後悔です。
施設職員だった私が一番知りたかったこと、望んでいたことは、彼らとの対話であり、育みだった。


確かに、経験年数が上がっていく上で、自分が傷つくことも、彼らが傷つくことも少なくなりました。
でも、私は月日が経てば経つほど、自分が嫌になっていきました。
「こんな施設職員になんかなりたくない」と、新人の頃から思っていた施設職員になっていったのがわかった。
利用者さんのことはわかるようになったけれども、対処療法はうまくなっていたけれども、対話と育みをどんどん失っていった。
利用者さんの人に対する不信感に溢れた眼差しが辛かったのに、もしかしたら自分自身がその眼差しを作る一人になっているかもしれないことに気が付きました。
だから、私はこのまま仕事を続けてはいけない、と思ったのです。


私は、この本から「対話」と「育み」を感じました。
副題にもある「二人称のアプローチで解決しよう!」という言葉に表されていると思います。
ですから、現在、自傷や他害、パニックと向き合っているご家族、支援者はもちろんのこと、子どもの発達、成長と関わっているすべての人に大切なことを教えてくれるように感じます。


自傷や他害、パニックという行動だけではなく、言葉や発信の問題から、周囲の人間に解釈される行動というものがあります。
見ている側がその行動の意図が分からないとき、不適切な行動、障害故の行動として制止されることがある。
だけれども、そんなときこそ、「対話」と「育み」の視点が大事なのだと思います。


「対話」と「育み」のある対応は、子ども達に不信感を芽生えさせないと思います。
人に対する不信感を育てるのは、対処そのものです。
療育を受ければ受けるほど、辛くなる本人たちがいるのは、そこに対話も、育みもない対処のみだから。
対処療法しかしないのは対話の拒否であり、そんな関係性に信頼など生まれるはずはありません。


是非、多くの方にも、著者の御三方の素晴らしい知見に触れられ、「対話」と「育み」のある子育て、支援に繋げていって頂きたいと願っています。
自傷や他害、パニック等、大変な状態にある人達のことを遠ざけるのではなく、見て見ぬふりをするのではなく、見過ごすのではなく、本気で考え、真剣に治したいと思う人達がいるということは、本人、家族、そして社会にとって希望です!


 
   
 

2018年10月19日金曜日

「行政に訴えてやるぅ~」と言うだけの人は大概、睡眠に問題あり

「治る」という言葉を発すると、ああだこうだ言ってくる人達がいます。
「医学的にー」とか、「脳の機能障害だからー」とか、いろんな理由を言ってきますが、結局、「治る」という言葉を使われるのが、「嫌だ」ということ。
たった一言で済む話なのです。
それを言葉を塗りたぐって、ダラダラと文字をつないでいく。
シンプルな表現ができないのは脳の無駄遣いであり、脳も、身体も育っていない証拠ですね。


中には、「消費者庁が」「弁護士が」「厚生労働省が」などと言ってくる人もいます。
もうそのネタは飽きましたね。
私のところに監査や指導が入るなら、「そのとき、その人にきちんと説明します」と言っています。
だけれども、事業を始めて6年半。
一度も、そういったことはありません。
つまり、言葉で脅しをかけているつもりなのでしょう。


言葉で脅しをかけているつもりなら、それは想像力の問題がある人だとわかります。
本当に脅しをかけるのなら、行動が伴わなければなりませんし、そのためには行動できる身体と、情報を整理し、計画を立て、実行できる脳みそが必要です。
それがないから、安易に言葉で脅そう、脅せるはずだなどと考える。
こういった人には、相手が見えていないし、相手の周りにいる人、支持する人達の姿が見えていない。


「自分が嫌だと思うから、みんなも嫌だと思う」という思考は、問題です。
「自分が嫌だと思うから、行政に訴えれば、聞いてくれる」と思うのは、妄想です。
今回は「治る」に関してですが、これが「自分が好きだから、きみも僕が好き」となればストーカーになり、独りよがりの正義を振りかざせば、迷惑者、犯罪者になる。
想像力の問題は、妄想段階ならまだマシだが、行動と結びつくと大問題になるのです。
だから私は、想像力の問題は重く捉えます。
どんな小さな芽だろうとも直言しますし、できるだけ早く想像力の土台から育て直していきます。


「行政に訴えてやる」と言ってくる人には、共通する部分があるように感じます。
そういった人はみんな、睡眠に問題を抱えている。
SNSの更新時間を見ても深夜ですし、脇が甘い人になると、自分で睡眠薬を飲んでいることまで呟いている。
結局、寝れないから妄想するし、寝れない身体だから頭がグルグルするし、想像を外す。
健康体の人から見れば、「何言ってんの、この人」となるようなことを、論理を恥ずかしげもなく、堂々と語るのは、頭の中の世界で生きている人だからですね。


問題を抱えている子がいて、その子の親御さんがいる。
当然、問題の根っこ、想像力の問題なら、その前に自他の区別、そして自分という存在、主体性、身体から育てていく必要があります。
でも、同時に快食、快眠、快便へ整えていくことでも対処はできます。


「問題行動を治そう」と掲げると、遠く、難しいような気がします。
しかし、日付が変わる前に寝られるようにしよう、ぐっすり寝られるようにしよう、というのなら、できそうに思えますし、何よりも家庭が主で行えることに変わります。
睡眠が変わるだけでも、妄想の大きさは小さくなると思います。


施設では、利用者の命を守ることが最優先でしたし、コミュニケーションを取るのが難しい方達が多かったので、「食べる」「寝る」「排泄する」には特に注目していました。
「食べる」に偏りがあれば、気分の上下、小食なら鬱っぽい
「寝る」に乱れがあれば、イライラ、自傷、衝動的。
便が緩ければ過敏で、便秘なら停滞、活動の低下。
もちろん、個人差、個体差がありますので、大まかな見立てではありましたが、とにかくチームで意見を出し合い、「食べる」「寝る」「排泄する」に気になるところがないか、と「快食、快眠、快便」を目指していました。


施設で働いていた当時の私は、経験則で見立てたり、改善を目指したりしていましたが、今は素晴らしい知見をお持ちのプロフェッショナルな方がいらっしゃいます。
花風社さんから出版されている『自閉っ子の心身をラクにしよう!』『芋づる式に治そう!』などを読まれると、快食、快眠、快便を整えるためのアイディアが頂けますし、直接、著者の栗本先生のセッションを受けられるのも良いと思います。
全国どの県にも空港はありますし、羽田までは直通便が出ているはずです。
羽田からは小田原までリムジンバスも出ていますし、電車でも乗り継ぎ1回で行けます。


せっかく同じ時代を生きていて、素晴らしい知見をお持ちの方と会えるチャンスがあるのなら、すぐに行動に移されるのが良いと思います。
「どうしようどうしよう」と思っているだけでは時間が過ぎるだけで、何も解決していきませんし、何より動かないと、妄想ばかり膨らんでいってしまいます。
身体を整えるのは、ただ健康になるだけではなく、問題の回避と自立への後押しになりますので、子どもさんはもちろんのこと、育む親御さんも留意し、整えていっていただければ、と思います。

2018年10月18日木曜日

支援者の多くは、「今」を切り取っているだけ

「この子は、治りますか?」と、尋ねられることが多いです。
でも、私は未来を視ることができませんので、「治る」とも、「治らない」とも、言い切ることはできません。
ただ、その可能性の大きさ、今後の成長の様子、大人になったときのスタイルは、想像できます。


こういったことを想像するのは、何も難しいことではありません。
言語化できなかったとしても、親御さんの多くは、我が子の未来を直感的に捉えることができています。
違いがあるとすれば、それは、いろんな方たちの人生を見させて頂いたかどうか、です。


支援者の多くは、「今」を切り取ります。
当然、医師や支援者の前にいるのですから、今、何らかの課題を持っているのは確かでしょう。
でも、その課題が、この先もずっと続くとは限らない。
むしろ、今の課題は治る途中経過だったりする。
その流れを掴めない人には、「この子は、高校くらいになれば、普通学校に行きますね」「この子は、将来、働いて自立しますね」「この子は、治る子ですね」という言葉が、戯言にしか聞こえません。


医師も、支援者も、出会った専門家たちも、みんな気づかず、むしろ否定的な見解を述べるばかりだった。
でも、最後の最後まで、我が子の未来、可能性を信じたのは、親御さんだけだった、ということは、よくある話です。
これを「単なる親バカ」「独りよがりの想い」と捉える人もいるでしょう。


しかし、こういった親御さん達には、本当に見えているのです、我が子の未来の姿が。
何故なら、流れの中で、我が子を見ているから。
ちゃんと受精、誕生、現在までの我が子の物語を捉え、描けている親御さんには、今後の流れる先が分かる。
だからこそ、ただ一人になろうとも信じられるし、その流れを見て、上手に軌道修正もできる。


私は、いつも思います。
どうして流れを見て、支援できないのだろうか。
どうして今を切り取っただけで、未来の姿を決め付けることができるのだろうか、と。
支援者と意見がぶつかるのは、いつもここです。


発達のヌケが埋まっての「今」とヌケが埋まっていない「今」では意味合いが違います。
今までの発達のリズムとスピードを見れば、今、重度かどうかは、将来の決定因子にはなりません。
問題行動のある子の今を切り抜けば、自立は不可能かもしれませんが、問題行動が前面に出てきてるために、まだ隠れている資質、本来の姿を見れば、十分、働いて生きていける子だとわかることもあります。


支援者の多くは、「今」を切り取る。
でも、「今」だけを切り取っても、未来は見えない。
大事なのは、その子の流れであり、物語。
その子の持つ流れを掴めさえすれば、行く先が見え、より良い流れを作ることもできます。
その子の物語を感じさえすれば、1年後、5年後、10年後の未来の姿を描くことができます。


「この子は、知的障害もあるし、言葉も出ていないし、将来は福祉と施設です」と、医師からも、支援者からも言われ続けた子が、今、一般就労で働いている。
この子の親御さんと、「専門家なのに、何でわからないんだろうね~。うちの子は、一般就労できると思うもん」と、よく言っていたものです。
流れが分かるから、ここさえ埋まれば、一気に変わることがわかる。
物語が分かるから、大人になった我が子の姿がちゃんと描ける。


案外、知らない親御さんが多いのですが、支援者というのは「今」を切り取って助言や支援をするものです。
彼らの言う「将来はわかりませんよ、お母さん」は、本当に分かっていないということ。
彼らの言う「将来、他人のサポートを受けながら」「将来は福祉で、施設で」「この子はずっと特別支援」という予言は、血液型占いと一緒。


今を切り抜いただけで、未来が分かるのは、神様くらいなもの。
だけれども、その子の流れと物語をしっかり掴めば、未来の姿を見ることができます。
それが一番できるのは、親御さん。
だから、支援者みんなが否定しても、最後まで信じ切れる。
今を切り取って、検査結果の数値だけを見て、助言や支援をする者は二流、三流であり、親御さんには敵わないのです。
支援者の意見に惑わされることなく、親御さんご自身で想像できる我が子の未来の姿を信じて頂ければ、と思います。

2018年10月16日火曜日

「この子が小さいときに戻って、“子育て”をやりなおしたい」

先日、私よりも年齢が上の方の発達援助に行ってきました。
依頼の電話をくださったのは、その方の親御さんです。
発達援助の始まりは、その人の物語を掴むことからですので、数十年間に渡る物語を本人と家族の方達との会話から一緒に辿っていきました。
そして課題の根っこを見たて、今日からできることをお伝えしてきました。
すると、親御さんは涙を流し、「できることなら、もっと早くにお会いしたかった」と言ってくださったのです。


「もっと早く出会いたかった」というのは、年齢を重ねたご家族だけではなく、成人していない子の親御さんも、就学前の子の親御さんも、そう言われます。
それは、私に会いたかったというよりは、「表面の課題ではなく、根っこを教えて欲しかった」「具体的な育て方を知りたかった」という意味だと感じます。
皆さん、お子さんの年齢に関わらず、「できるだけ早く」「もっと早くに」と思われるのです。


「早くに出会いたかった」と親御さんに言わせるのは、何でしょうか。
迷っていた過去、右往左往して動けなかった自分、遠回りしてしまったという後悔もあるかもしれません。
でも、お話ししていて一番に感じるのは、「なんだ、療育じゃなくって、子育てだったんだ」という気づきです。
発達援助に特別な技術や知識はいりません。
だって、子どもの発達を後押しするというのは、子育てそのものだから。


発達とは育んでいくものです。
特に受精から言語獲得する前の段階の育みは、家族の中で営まれます。
そんな自然な現象を何故見失うようになったのか。
それは、子育てを否定する言葉の数々。
「療育」「支援」「連携」「〇〇療法」…。
テレビ業界の言葉が、日常会話で使われるようになったように、特別支援ギョーカイの言葉が子育てを浸食したのです。
主体を自分たちに移し替えるために、「子育て」を「療育」にした。


発達のヌケの育て直しは、いつからでも行えますし、成人した方達もどんどん発達し、治っている姿があります。
でも、そのスピードで言えば、子どもには敵いません。
同じ子どもでも、神経発達が盛んな時期というのがあります。
また少しでも早く発達のヌケを育てておいた方が、その上に重なっていく発達のデコボコも、それに伴う困難も小さくすることができます。
「過去の苦労も愛おしい」などと言う人もいますが、発達のヌケ、生きづらさで生じる苦労などはしない方が良いに決まっています。
同じ苦労をするのなら、自分の全身を使い切ったチャレンジに伴う失敗、挫折の方がいい。


冒頭で紹介した親御さんの「できることなら、もっと早くにお会いしたかった」という言葉に、表現できない重みを感じました。
ですから、今、子育て中の方は、すぐに動いた方が良いと思います。


「情報の乏しいまま、気持ちが安定しないまま、親御さんが動くと、失敗する、判断を誤る」というようなことを言う失礼極まりない支援者がいました。
何を寝ぼけたことを言ってるんだと憤りを感じます。
みんな、初めての子育てで迷い、悩むのは当然なことです。
子育てに正解はないのですから。
こういった寝ぼけたことをいう支援者というのは、子育てじゃなくて、療育をしようとしているから、「情報がー」「正解がー」とか言うのです。


療育の中に育みは無いのです。
発達障害の子ども達に必要なのは、どこかの場所、特定の人に適応するためのテクニックではありません。
必要なのは、より我が子に合った育みです。
そのために、いろんな人に会い、場所に行き、あれこれ情報や知見、アイディアを集めてくる。
それで我が子に合ったものを選び、合わなかったら捨てる、不十分なら別のところに行く。
そういった親御さんの主体的な動き、試行錯誤が、我が子に合ったオリジナルの子育ての形を創造していくことになるのです。


「どうしようかな」と立ちどまっているのは、周囲の人間の都合です。
50分で、しかも治らない療育に、1万5千円払うなら、今すぐ飛行機のチケットを取って、神奈川県の小田原や鹿児島に行けば良いのです。
その人の持つ何十年もかけて積み重ねてきたものを、我が子のより良い子育てのために活かしていけるのなら、こんな贅沢なことはないと思います。
お金は稼ぐことができますが、時間はどうやっても後から手に入れることはできません。


冒頭の親御さんは我が子を前にして、こうも言っていました。
「この子が小さいときに戻って、“子育て”をやりなおしたい」
皆さんには、その子育てをしている時間が、今あるのです。
是非、子どもさんの神経発達が盛んな時期を大事にしていただきたいと思います。
親御さんが心を込めて手と足を動かせば、必ずお子さんの身体と心に響き、より良い発達として返ってくるはずですから。




2018年10月15日月曜日

疑い尽くした先に、その子の本質がある

「うちの子、睡眠障害があるんです」と、相談がある。
それで、詳細にお話を聞いていくと、寝る前にゲームをやっていることがわかる。
「じゃあ、そのゲームの刺激が眠りを遠ざける可能性もあるので、寝る前は止めるようにしたり、時間をずらしたりするのは、どうですか?」と提案すると、「ゲームは本人のこだわりだから」「禁止すると、怒るから」と返ってくる。
この子は、本当に睡眠障害があるのかもしれません。
でも、その結論を出す前に、やるべきことがあるのではないか、と思います。


他にも似たケースがあって、「授業中、ボーとして、注意散漫だ」という子の相談がありました。
ADDの診断を受けていましたが、話を聞くと、朝食を食べずに学校に行っているという。
脳を動かすエネルギーが足りなければ、頭が働かず、ボーとするのは当たり前だと思います。
発達障害の前に、ヒトであり、動物なんですから。
水分摂って、陽にあたっていれば生きていける植物とは違う。
衝動的に手が出てしまう子の話を聞けば、甘いお菓子ばかりを食べている。
何年も引きこもっている人の相談に伺えば、カップ麺とコンビニ弁当しか食べていないという。


快食、快眠、快便は、基本中の基本。
発達障害とか、知的障害が重いとか、まったく関係がありません。
施設に子どもが入所してきたとき、まず最初に整えていくのが、この快食、快眠、快便です。
ここがクリアされない限り、特に強度行動障害の人達の支援は始めることができません。
だから、上記のようなケースの相談があるたびに、本人ではなく、周囲が障害、困難さ、生きづらさを決めてしまっている、と感じます。


本来なら、やれることがあれば、それをすべてやってから、受診なり、支援なり、相談を受けるべきだと思います。
上記のようなケースの中には、そのまま、つまり、やれるべきことをやりつくす前に、医療、支援者と繋がったばっかりに、その子の本質的な問題として投薬、治療、支援が行われてしまった人がいます。
寝る前に何時間もゲームをしたり、布団に入ってからもテレビをつけ続けていたりしているのを伝えず、ただ「眠れない」「睡眠が乱れている」だけが伝わる。
そうすると、睡眠薬が処方される、「9時になったら寝ます」という絵カードが提示される、9時までに布団に入れたら、ボーロが貰えるという異質なルールが誕生する…。
こうやって、本質からどんどんズレていき、これが何年も続けば、作られた生きづらさの完成です。


私は、発達援助をする上で、必ず疑いから入ります。
「睡眠導入剤を飲んでいるけれども、本当に薬が必要なのだろうか?本当に睡眠障害なのだろうか?」
「検査結果では、重度の知的障害となっているが、本当に重度なのか?これ以上、伸びていかないのだろうか?」
そんな風に、一旦、必ず疑問を持つようにしています。


この姿勢は、施設職員時代に形成されたのだと思います。
強度行動障害の人の支援をする際、その人のことを「強度行動障害」と見た瞬間、何も支援ができなくなるのです。
いろんな施設を渡り歩き、辿りついた人もいる。
実際の行動、日々は激しいもの。
そんなとき、疑うことをしなければ、向かう先は抑制、抑圧。
物理的に制限を加えるか、薬の力を使って行動を起こせないようにするか。


疑うことは、着想を生みます。
「こだわり」と言われているけれども、それ以外、知らないからかもしれない。
傍を通る人に手を出してしまうのは、周囲の空気を感じる感覚が育っていないのかもしれない。
身体をつねってくるのは、相手を呼ぶための手段を持ち併せていないからかもしれない。
疑問から着想が生まれ、実際にやってみる。
そうやって繰り返していく中で、直ることも多々あります。


睡眠障害、一つとっても、本当にやり尽くして、最後に残ったのがその症状なのか、と思うことがあります。
寝やすい環境を整えること、睡眠に入りやすいリズムを作ること、眠れる身体を育てること…。
それらをやり尽くす前に、「はい、睡眠障害だ」「はい、不登校になった」では、その子の本質を見誤ることになる。
そして何よりも、その子の未来の選択肢を、周囲の頭の中で狭めてしまうことにもなる。
このように不幸になってしまう子ども達は、少なくないように感じます。


人と関わる仕事、ヒトを育む営みに、100%はありません。
だからこそ、疑う視点が大事なのです。
脳画像を見せられ、「この子の言語野は白くなっていますから、一生しゃべることはないでしょう」と告げられた子が、今、普通にしゃべっている。
就学時に言葉がなく、知的障害も重度だった子が、今、普通の人として一般就労している。
こういった若者たちの陰には、専門家から言われたことに対しても、ちゃんと疑う視点を持てた親御さん達がいます。
治す親御さんと言うのは、みなさん、こういうのです。
「あのとき、そう言われたけれども、私は違うと思ったんだ」
「具体的な方法はわからなかったけれども、別のところに解決する方法があると思ったんだ」と。


「発達障害は治りません」
「この子は、一生支援を受けて生きていく子です」
そんな専門家の言葉を聞いて、「はい、そうですか」と思う人が治るわけないのです。
人が人の人生をどうやって見通すことができるでしょうか。
医学免許を持っていたら、ナントカ療法の免許を持っていたら、その子の神経発達の仕方が見えるというのでしょうか。


神経発達の仕方がわからないのだったら、必要なのは神経発達を促すアイディアです。
治る治らないという結果ではなく、プロセスが重要なのです。
プロセスを豊かにしていくには、試行錯誤。
その試行錯誤の源は、疑問に思うことです。
睡眠障害という結果からは何も生みません。
でも、睡眠障害を疑うことで、解決の糸口が見えてくる。
そして、その子の本質を見ることに繋がります。


症状で診断される発達障害。
ということは、見える部分だけでレッテルがついてしまうということ。
疑問という視点がなければ、生きづらく見えることが本質になってしまう危険性があります。
全国から相談をお受けしていますが、まるで流れ作業のようにレッテルがついているように感じます。
「本当に、発達障害なのだろうか?」という疑問が削ぎ落されている雰囲気の中、元気な子まで発達障害になっている姿を連想します。


「治らない」に疑問を投げかけることで、治る部分と治る道が見えてくる。
だから、専門家の言う「治らない」は罪なのです。
疑う姿勢を否定し、プロセスを排除するから。
「治る」は結果。
神経発達を促すはプロセス。
そのプロセスとは、子育てそのもの。
つまり、「治らない」というのは、専門家からの子育ての否定なのです。
子育てを奪おうとする専門家に対して、親御さんは疑問に思うことで対抗してもらいたいと願っています。

2018年10月14日日曜日

「全員、治らない」と、どうして言えるのだろう

もう過去の話になりますが、自閉症、発達障害の人たちは、「脳の機能障害」と言われている時代がありました。
2013年5月に「神経発達の障害」と改訂されたのですから、もう5年以上前のお話になります。
でも、いまだに「脳の機能障害」と言い続けている人がいます。
しかも、発達障害が治らない根拠として、それを用いているのです。


まあ、100歩譲って、「脳の機能障害」でもいいです。
しかし、じゃあ、なんで「脳の機能障害」なら、治らないといえるのでしょうか?
機能障害とは、損傷とか、機能不全の状態のことを表しています。
発達障害は、脳に損傷ができたためになる障害ではありませんので(だって、先天的な障害なんでしょ)、脳に機能不全の状態の箇所があるということ。


脳に機能不全の箇所があるのなら、その状態を回復させればよいのです。
というか、専門家なら、医師なら、その方法を研究し、目指すのが当たり前。
欠損した脳を回復させるのは難しいでしょうが、機能不全の状態を回復させるのは不可能ではないはずです。
だって、脳の素晴らしい性質である「可塑性」があり、病気や交通事故で脳に損傷した人たちには、当たり前のように昔からリハビリが行われているのですから。


必要な刺激を与えることで、脳の機能不全を改善しようとするのは自然なことで、可能性のないことだとは思えません。
現に、発達障害の子ども達も、ずっと赤ちゃんのような発達段階のままということはなく、定型ではなくとも発達し、成長するのですから。
排せつや身辺処理、勉強や運動など、成長とともにできるようになっている姿は、ただ単に適応や暗記しているだけではなく、発達している、発達する可能性があることを示しています。
だったら、脳の機能不全の部位だって、その状態のレベルだって、発達のスピードだって、一人ひとり同じなわけはないのですから、「発達障害」というラベルが同じでも、みんながみんな、治らない、治る可能性がないとは言えないのです。


「脳の機能障害」だから発達障害は治らない、というのは答えになっていません。
それは発達障害が治らないんじゃなくて、脳の機能不全の状態を回復させるアイディアを持っていない、という意味。
むしろ、発達障害、本人の問題というよりは、専門家の方の問題ではないでしょうか。
そもそも誰が最初に「脳の機能障害だから、発達障害は治らない」と言い出したんでしょうかね。
というか、脳の機能障害と言われ始めたのは、もう何十年も前のことですから、いつまでその当時の知識をひっぱるのか、と思います。
「脳の機能障害」は、冷蔵庫マザーを否定するという意義は十分果たしたのですから。


「神経発達の障害」と言われてから、もう5年以上が経ちました。
どう見ても、知的障害の重い軽いに関わらず、発達障害の子ども達はみんな、神経発達が起きています。
決して、神経発達が起きる可能性がない人たちではありません。
発達障害のあるなしに関わらず、神経発達の仕方は多様ですし、受精後の環境と刺激の影響を受けて変わっていきます。
定型発達の子との違いがあるとすれば、発達の順序。
発達の順序が違ったり、段階を抜かしたりすることが、「治らない」という証明にはなりません。


この5年間の間にも、神経発達を促すための知見や情報、実際、子ども達で見られた素晴らしい結果が集まってきました。
神経発達の仕方は、一人ひとり違う。
そして、その子にあった促し方、育み方も、一人ひとり違う。
だからこそ、こういった知見や実践で得られたものは、本人、親御さん、支援者にとって貴重な着想となります。
発達障害全体を一色単にしたような概念的な知識は、目の前の子のより良い発達の仕方には役に立ちません。


発達障害を概念、文字、知識として捉えている人の前には、治る人も、治った人も現れないでしょう。
学問の発達障害は固定されたものになるが、目の前の人に固定など存在しません。
神経発達の仕方も多様。
神経発達のヌケや遅れている箇所の多様。
その人自身を見ても、今と次の瞬間には、異なる神経発達が起きている。


ですから、常に変化し、神経発達が起きているヒトに対して、「全員治らない」とは言えないのです。
確かに治らない人はいるかもしれない。
でも、確実に治る人はいるし、全部が治らなくても、部分的に治る人はいる。
だって、みんな発達する力、可能性を持っているし、生まれた後の環境と刺激の影響を受けて発達の仕方が変わっていくから。
発達の可能性があるのなら、その可能性にかけ、できることは何でもしようとするのが親心。
その親心が向かう先は、学問としての言葉、概念ではなく、全国で積み重なってきた知見と実践の成果だと思います。
そうして試行錯誤し、得られた結果が、また誰かの神経発達を後押しすることになるのです。

2018年10月11日木曜日

身体と選択の育ちが主体を育み、主体の育ちが想像力の育ちと繋がっている

この仕事をするまで、「主体性」なんて考えることはなかったですね。
自分に主体があるのは当たり前ですし、自分以外の人だって、それぞれ主体を持っている。
自分に主体があるから選択し、行動することができる。
他人にも主体があるから、その選択、行動を侵すようなことはしてはならない。
そんな風に思っていました。
でも、この主体が「わからない」人がこんなにもいるのか、と感じるのが、この仕事を始めてから続いています。


「自分と同じように、他人にも主体がある」という視点がない人は、自分の脳内のみで物事を完結させます。
また、自分から見える他人の行動のみで、物事を判断します。
だから、平気で他人に対し、自分の価値観を押しつけてくるし、自分と異なる意見や考えを理解することができません。
これは、想像力の問題。
そんな想像力の土台になっているのは、感覚、内臓、身体、動きなど。
一言で言えば、自分という主体がちゃんと育っていないということです。
自分が分からずして、他人の視点を想像することはできません。


はっきりしない自分が、想像力の問題の正体です。
それを、いつまで経っても「それが障害特性ですから」というレベルから抜け出せない人が、「理解をー」と叫び、応用の利かないパターンで想像力を補うことを教えます。
でも、これは想像力の問題を補っているのではなく、当然、想像力を育てようともしていません。
ただのその場しのぎであり、支援者が「ちゃんと支援やってますよ」とアリバイを作っているだけ。
真の支援者、専門家だったら、想像力を構成する神経発達に目を向け、その発達自体を促せなければ責務を果たしているとは言えないでしょう。


他人の主体を侵すまでに至らなくても、主体が乏しいと感じる人は、親御さんの中にもいます。
その人の物語を辿っていくと、主体を育てる機会の乏しさと突き当たります。
親が常に先回りしていた子ども時代。
自分の意思よりも、親の意思が優先された子ども時代。
親が思い描く姿になることが、自分のすべてだった人が大人になり、子どもを授かると戸惑います。
また、子ども時代の親の意思というよりも、環境、空気感を読み、自ら主体を無くしてきた人もいます。
それが主体性のない支援者であり、有名支援者、エビデンスなどの言葉に従ってしまい、自らの意思や感覚が押しだせない支援者たち。


想像力の問題は、固定された障害ではなく、未発達という意味。
だから、必要なのは、育んでいく機会です。
でも、想像する力を養おうとして、いくら相手の気持ちを考えさせる練習をしても意味がありません。
想像力が育つには、主体が育っている必要がある。
それには身体を育てていくことが重要です。
またそれと同時に、選択する機会が重要。


自らで選択することで、自分が何が好きで、何が嫌いかがわかってくる。
最初は、食べ物や遊び道具など、具体的なものから。
そして徐々に、何がしたいか、したくないか、抽象的なものの選択を行っていく。
そうすることで、自分というものが何なのかはっきりしてきて、自分という主体が掴めるようになってくる。
主体を育むというのは、身体からと選択からの両方があると考えています。
先回りする親も、失敗させない支援者も、この選択の機会を奪うことに繋がるため、その子の主体性が育たず、結果的に想像力の問題へと繋がっていくように思います。


私も施設では、自閉症、行動障害だけではなく、重度、最重度、また測定不能と言われるような方達の支援に携わっていました。
今も、知的障害の重い方の発達援助に関わっています。
でも、知的障害が重かったとしても、選択することはできますし、選択する力は養っていけると思います。
それが例え限られた範囲で、具体的な物だったとしても。
どんな重い子でも、私は選択する機会を尊重し、大事な育ちだと考えています。
拒否だとしても、それは本人にとっては、大事な主体の一部です。
拒否できない、拒否できなかった姿は、愛着障害の人の姿と重なります。


決められたスケジュールを淡々とこなしているようでは、主体は育っていきません。
生活、育ちの中に、選択がないからです。
特に支援者というのは、当事者の主体性を嫌いますので、こういった選択のない支援が横暴しているのです。
ですから、いつまで経っても、「想像力の障害」から抜け出せませんし、育もうなんていう視点は出てきません。


主体の育ちと想像力の育ちは繋がっていると思います。
主体は、身体という土台の育ちと、選択の機会が育んでいくと思います。
選択の発達過程は、具体的なものから抽象的なものへ。
2つの選択から3つの選択、そして最後は選択肢のない中での選択です。
「これが好きだから、このおやつ」ではなく、「こっちとこっち、どっちにする?」というひと手間が大事な育ちになるかもしれません。
選択の機会だったら、今日、今からすぐにおうちで行うことができますね。

2018年10月10日水曜日

想像力の問題は、自立を妨げる本丸

いつも疑問に思うのですが、「治るなんてインチキだー」「トンデモだー」と言っている人、それは何を見て、そう言っているのでしょうか?
そうやって、見ず知らずの当事者の方や親御さん達のことを批判し、また治るという考えの元、発達援助、後押しをしている人達のことを、人を騙して儲けているかのように表現する。
それくらいの発言をしているのですから、それなりの覚悟と根拠があるのでしょう。


「治る」と言っている人達が、どのような育て方をしているのか、また「治った」と言っている人が、どういう人なのか、それを自分の目で確かめない限り、本当の意味で批判することはできないと思います。
というか、そういった確認をしないで、相手のことを調べもせず、ただ自分の考えのみで批判するのは、便所の落書きレベル。
本来なら、見向きもされないのが普通です。
でも、ツイッターとかで反応を貰っちゃうと、あたかも自分が正しいことを言っているかのように勘違いする。
何故なら、こういった自分の身体を通した確認ではなく、自分の頭の中で作った物語で生きているから。
つまり、想像力に問題があるから、勘違いを起こすのです。


昔、発達障害の子ども達は天使だ、なんて言っていた支援者がいました。
天使なんかであるものですか。
発達障害の人も、定型発達の人と同じように他人を傷つけることもある。
特に、想像する力の問題が、引き金になることが多い。
相手の気持ちを想像することの欠如。
自分勝手な脳内論理で善悪を判断し、独りよがりの行動を起こすことは珍しくない。
社会や周囲の理解よりも、この想像の問題が問題なのです。


支援者から「様子を見ましょう」と言われた経験は、どの親御さんもあることだと思います。
でも、その理由が「敢えて引き延ばすことで、自分たちの推奨する支援を利用してくれること」という本音を聞いたら、みなさん、どう思うでしょうか。
治る道を進む人、標準療育の道を進む人、そんなのは関係なく、どの親御さんも怒りがこみあげてくるのではないでしょうか。
自分の命を分けて生んだ子に障害があると分かったとき。
そして、その子の障害と向き合うことを決め、我が子のためにできることは何でもするという腹をくくり、頼った専門家が「様子を見ましょう」と繰り返す。


様子を見たいから、相談に行ったのではなく、何でもするし、したいから相談に行く。
「様子を見ましょう」という答えのない答えを聞くために、相談する親御さんなどいないはずです。
相談に行けるまでの心情の動きを想像するだけで、親御さんの悲しみや苦しみが伝わってきます。
完全に親御さんの心情を理解し、共感することはできなくとも、想像することはできます。
でも、もしこの想像する力に問題があったとしたら、そんな親心を踏みにじる行動をしてしまうのでしょう。
それがまさに自分の利益、自分の脳内論理のみで、引き延ばしをする行為なのです。


想像力の問題は、他人を傷つけることになり、またそれによって自分も孤立し、傷ついていくことになる。
極端なことをいえば、身の回りのこと、収入を得ること、移動や余暇のサポートは他人にやってもらうことができる。
でも、それだけでは、社会の中で生きていくことはできません。
想像する力が重要なのです。
そこに大きな問題があれば、自分をサポートしてくれる人がいなくなってしまうのです。


どこに他人のことを平気で傷つける人のことをサポートしたいと思う人がいるでしょうか。
例え仕事だったとしても、そんな人と関わりたくないと思うのが人の心です。
実際、福祉の仕事を離職する理由の中で、仕事が金銭的、体力的、心理的にきついのもそうだけれども、もうこの人達の支援がしたくなくなった、関わりたくなくなった、と言う人が多いのです。


ヒトは損得のみで行動するのではありません。
ここが分からない人は、行動療法を盲信するように感じます。
心があり、意思があり、主体性がある。
ここが分からない人は、自分の意思で選択した「治る」という道で頑張る親御さんを見て、「騙されている」「甘言につられてしまった」と解釈するように感じます。
どっかの新興宗教と違って、一度入ったら抜けられない、などということはないのです。
自分の意思で選択、行動し、育んでいるのが、多くの親御さん。
もし、良いと思った育て方が我が子に合わなくなったと感じたら、すぐに止めるに決まっています。


「治るなんてインチキだ」という人は、その治るという方法も、人たちのことも自分の目で確かめることをしない。
すべて自分の脳内でできた物語で、独りよがりのことを言っているだけ。
普通、「治るなんてインチキだ」というのは、実際にやった人達が言うものです。
「治ると言っていたけれども、全然、治らないじゃないか。子どもは成長しないじゃないか、変わらないじゃないか」という声は、実際を知らない、知ろうともしない者が言うセリフではありません。


治る道を歩んでいる本人、家族からは、「この知見と出会ってよかった」「子どもはどんどん発達するし、課題が解決していっている」という声ばかり。
そして、「インチキ」「トンデモ」と言っている人は何も知らない人であり、聴こえてくるのは、自分は、我が子は「生きづらーい」という声ばかり。
この図式を見れば、特別支援の知識があるとかないとか関係なく、想像する力がちゃんと育っている人は真実を理解することができます。


想像する力が育っていないとしたら、ちゃんと育てなきゃなりません。
「ここの場面では、こう振る舞う」などといった方法ではなく。
空気が読めないのなら、自分の感覚面を育て直す。
他人の心情、視点が想像できないのなら、まず自分の主体性を、内臓、背骨など身体面から育て直していく。
「私、発達障害があって、相手の気持ちがわからず、傷つけてしまうことがありますので」と言われても、許されないのが自然な社会。
想像力の問題は、自立を妨げる本丸なのです。

2018年10月9日火曜日

「問題行動は無視」は、半分あおい

「問題行動は無視」という標語は、腐るほど、耳にしました。
で、この「問題行動は無視」というのは、ある部分は合っていて、半分足りません。


自閉症児施設で、かつ、強度行動障害の人達の支援をしていましたので、問題行動と向き合うことが仕事とも言える状態でした。
問題行動に対して、その知識や技能がない、何ら手立てが浮かばない、というのでは、仕事ができませんし、何より自分の身を滅ぼすことにもなります。
ですから、その当時、良いと言われているものは、すべて学びましたし、有休は使えなかったので(そもそも存在していない!?)、休みをどうにかやりくりし、全国どこでも行って研修を受けました。


今から10年以上前になるその当時から、「問題行動は無視」という標語はよく耳にしていました。
でも、これは問題行動なら何でも無視すればいい、という話ではありませんし、大事な後半部分が抜けているのです。
問題行動は無視ししても、良くなることはありません。
いや、良くなることなんか、あり得ません。
私が施設で働いていたときも、そんなことをする人なんか、現場に一人としていませんでした。
もし、それをやっていたとしたら、支援者は死んでいます。


私も、臨時で急遽、いつもとは違う寮に入ったとき、ちょっと気を抜いた瞬間、ある利用者の人が後ろ向きに倒れ掛かってくることがありました。
その利用者は、体重100㎏オーバーで180㎝以上の大きな人。
その人の側を通った瞬間、倒れ掛かってきたので、そのまま、下敷きになりました。
一人勤務でしたし、持ち上げることも、抜け出すこともできない状態でしたので、こりゃあ、終わったかな、とも思いました。
でも、この利用者さんが男性だったから、助かった。


まあ、このように飛んでくるのは大男だけではなく、手も、足も、食器も、家具もです。
噛みつき、頭突きは日常茶飯事。
だから、現場の職員は、問題行動を無視しないし、そもそも単に「無視しましょう」という話ではなかったはずです。


私が学んだ知識としても、現場での経験としても、他人を巻き込む問題行動はコミュニケーションとして捉えます。
どういった意図を持ち、相手に向かって来ているか、その意図、伝えたいことを確認します。
そのとき、例えば、「喉が渇いた」「水が飲みたい」という要求の意図で、噛み突きを行っていたとしたら、噛み突かれて、すぐに水を手渡すのではなく、噛み突き自体には要求に応えるという反応はしないで(ここが無視)、コップを持ってくる、蛇口を指さしする、「ミズ」と言葉で言うように促す、といったように、適切な要求の仕方を教えます。
つまり、他人に向けられた問題行動は、コミュニケーションと捉え、その意図を分析し、適切な行動を教えていく。
だから、「問題行動は無視」は、部分的に合っていて、教える部分が表現されていないので足りないのです。


あと、問題行動と一口に言っても、状況や本人の発達状態によっても様々です。
上記のような他人を巻き込まない問題行動だってある。
たとえば、排泄物をいじったり、衣類や置いてある物を破壊したり、叫んだり、自傷したり、不適切なものを食べたり。
こういった一人で完結する問題行動は、背景に虫歯や病気が隠れていたり、睡眠や食事、栄養、トラウマ、フラッシュバックなどが影響していたり、感覚や内臓、身体、動きなどの発達課題をクリアするための自らの育ち直しだったりします。
当然、こういった問題行動に対処、直していくには、細かい分析と根気がいる指導、支援が必要です。


「問題行動は無視」が現実を表していないのは、時間を部分で区切れない入所施設の職員と親御さん、家族は分かっています。
逆に言えば、こんなことを信じるのは、現場を知らない支援者、情報を得ただけで勉強した気になっている支援者くらいなもんです。
というか、一般的な感覚なら、「無視しても意味ないでしょ」「ちゃんと教えなきゃダメでしょ」となる。
というか、特別支援に少しでも関わっているのなら、これだけ問題行動に困っている本人、家族、支援者がたくさんいるのだから、無視だけでうまくいかないのは、考えれば分かるはず。
問題行動を無視しただけで解決するなら、専門家はいらない。


「問題行動は無視」という言葉を聞くと、小学校のクラス目標を連想します。
先生役の専門家が、「問題行動は無視ですよ」と言う。
それを児童役の支援者たちが「分かりました」と言って、それに沿った行動をしようとする。
何故、それが正しいのかを教えない先生と、「先生が言ったから」と理由を深めていこうとしない児童。
そんな姿が、「問題行動は無視」と聞いただけで、実際にやってしまっちゃう支援者たちと重なります。


「問題行動は無視」もそうですが、他の療育方法でも、なんだか表面的な意味で捉え、しかもそれを頑なに信じ、実行していることが少なくないように感じます。
どうも支援者というのは、自分の頭で考えるのが苦手なようです。
誰か有名な先生が言っているから、正しいみたいな人が多すぎです。
多分、支援者の多くは、発達障害の人と部分的にしか接していないからでしょう。


学校や療育機関、児童デイなど、問題行動を無視していても、時間が経てば、子ども達は帰っていきます。
だから、「その時間だけでも」とか思って、無視し続けることができてしまう。
でも、家庭ではそうはいかない、入所施設も。


私が施設職員だった当時ではありますが、行動障害がある子ども達は学校に行っても、教室の隅に作られた小さな囲いで一日を過ごし、また移動や活動をするのにも、横に先生が付き、でも、一言も話さず、関わらず、そんな学校生活を送っていました。
いくら「無視しだけしても仕方がない」「ちゃんと学習、勉強させてください。正しいことを教えてください」と言っても、施設職員の言葉に耳を傾ける人はいませんでした。
学校で刺激のない時間、また関わろうとしても無視され続けた子ども達は、いくら施設で正しいことを教えようとしても、一日の感情を爆発させるだけで、そしてその爆発し散らばった感情、心身を拾って集めるだけで、学びが入る余地がなかったのです。


あるとき、研修で招かれた講師が、エラソーに行動障害の支援の仕方について語ったのです。
でも、その人に訊いたら、家族に発達障害、行動障害の人がいるわけでも、入所施設で働いた経験があったわけでもなかった。
つまり、お勉強として、たまたま関わっているだけ、研究対象になっただけ。
別に、行動障害を持つ人じゃなくても、イルカでも、モルモットでも、良かったのです。
そんな人が語る支援方法を、そのまま信じる方も悪いと思います。
誰が言ったかではなく、自分がどう感じ、どのように考えるか。
それこそが大事なことですし、一人ひとり違うヒトと関わり、支援し、育む人達は、自分の頭で考える癖と他人の言っていることを一度疑う癖を持つ必要があると思います。


本を読んだだけで、研修に行っただけで、分かった気になっている。
そんな人に、良い支援ができるはずはありませんし、人を育てる仕事はできません。
別の言い方をすれば、そんなレベルで支援者面ができるのが、支援者という仕事なのです。
いろんなことを疑ってみる。
そして、自分の頭で考えてみる。
わからなければ、その本人に会いに行き、実際の支援の様子、考え方をこの目で、この身体で感じてみる。


リアルを拾う。
想像は負ける。
好きなやつがいたらガンガン会いに行く。
空想の世界で生きているやつは弱い。
心を動かされることから逃げてはならない。
そこに真実がある。


それをやらない支援者がいたとすれば、そういった支援者が多数だとしたら、支援者も、特別支援の先生も、介護者になるのだと思います。
発達障害の人も、行動障害を持つ人も、必要なのは介護をしてくれる人ではなく、正しいこと、適切なことをしっかり教えてくれる人なのです。

2018年10月7日日曜日

「現状維持」という負の遺産

未だに「現状維持できていたら、良い支援」と言っている支援者がいるそうですね。
それって、私が学生時代に、支援者たちがよく言っていた言葉です。
脳機能の障害から神経発達の障害だと明らかになった今でも、そんなことを堂々と面前の前で言える根性がすごいと思いますよ。
だって、「私には現状維持できることで精一杯ですから」と言っているようなものだからです。


この発言を最初に聞いたときは、感じませんでしたが、仕事を続けていく中で、この言葉の持つ意味の恐ろしさを感じるようになりました。
「現状維持を目指す支援」とは、どういった支援のことでしょうか。
ヒトは現状維持できない生き物です。
外面的には変化はないように感じますが、その内部を見れば、1秒たりとも同じ状態はないのです。
特に、神経発達が盛んな時期を過ごす子ども達は、環境から伝わってくる刺激に反応し、発達と成長へ向かって常に変化し続けています。


ということは、「現状維持を目指す支援」とは刺激を与えない支援のことを表しています。
なるべく変化はなく、いつもと変わらない一定の刺激を与える、または刺激自体を調整し、遮断してしまう。
これは、「いつも同じ日課、スケジュール、流れを崩さない」といった独自の解釈で構造化された支援を続けていた人達の姿と重なります。
あの当時、「現状維持」と言っていた支援者たちは、みんな視覚支援、構造化信仰の人達だったので、自分たちの支援の妥当性を「現状維持」という言葉で表していたのでしょう。


「現状維持」を鵜呑みにしていた人達は、どうなったか。
一日、一日をなるべく変化がなく、混乱のきっかけになるような刺激をすべて排除していった。
感覚過敏で苦しまないように、いつも同じ食事を用意し、苦手な音が聞こえてこないように神経をとがらせ、本人を誘導していった。
その結果、当然、発達の機会は奪われたために課題は残りっぱなし。
現状維持を目指しいても、どんどん課題は大きくなるばかり。
結局、現状維持は、生きづらさの現状維持という意味になったのです。


名のある支援者の「現状維持」という言葉を聞いて、それを信じた親と支援者。
でも、この人達には想像する力が足りなかった。
その支援者の言葉の裏に隠された意味を。
そして、自分の目の前にいる子どもが、その言葉を聞いたら、どう思うのか。
「私にできることは、あなたの今の状態を保つことよ」と言っている人の支援を受け続けないといけない子の絶望感を。
私が子どもだったら、自分の可能性を否定する人、信じない人の元で生きていくのは、生きづらさが変わらないことと同じくらい辛かったと思います。


「現状維持」という言葉は、子どもの視点に立てば、恐ろしい言葉。
でも、視点を変えれば、もう一つの恐ろしさがあります。
それは、一般の人たちに与えるイメージがもたらす恐ろしさ。


身近に発達障害の人がいない、特に発達障害を意識して生活していない人が、ぽっと「現状維持」という言葉を聞いたらどうなるでしょうか。
「発達障害の人達は、現状維持を目指すことしか望めないような人達なのか」と、まったく変化も、成長も、発達もない人達だと誤った印象を持たれるかもしれません。
本人たちが望んでいる特別支援教育や福祉サービスなども、介護の名前が変わっただけという印象を持たれるかもしれません。
そうなれば、「現状維持」と言っている支援者、親たちだけではなく、一般の人達からも、その人の持つ発達、成長の可能性を否定されることになります。
こんなに悲しいことはありません。


これから、時代が進み、どのような未来がやってくるか、わかりません。
超高齢化社会が続いていけば、国としての余力も、成長も乏しくなっていくでしょう。
大きな自然災害、経済の混乱、国同士のトラブルに巻き込まれたり、当事者になったるすることも十分に考えられます。
そんなとき、「どうせ、現状維持しかできないのなら、そこまで予算も、人も割く必要がないんじゃないか」という意見が出てこないとも言えません。
現在でも、早期療育の効果に対する疑問、特別支援教育、福祉サービスに対する疑問が上がってきているのですから。
歴史を振り返れば、可能性がない人、乏しい人とみなされた人たちには、 支援や制度の充実ではなく、効率化という方向への道が用意されてきたのです。


「現状維持」という言葉の持つ恐ろしさとは、可能性の否定なのです。
本人の発達、成長する可能性の否定。
彼らを支援していく可能性の否定。
本当は、「現状維持」という言葉しか出てこないような支援者、実際、現状維持することもままならない支援しかできていない者たちが自らの至らなさを謝罪する必要があるのに。
いつしか、本人の可能性の問題としてメッセージを送り続けている結果になっているのです。


社会の空気、流れを変えるのは、当事者の方達だと考えています。
決して、現状維持がゴールとなるような私達ではない。
きちんとした育み、サポートがあれば、どんどん発達も、成長もしていき、自立した人生を送ることだってできる。
そういったメッセージを言葉だけではなく、行動として、実際の姿として見せていくことが、未だに「現状維持」などと言っているような人達を退場させることと、これから生まれてくる子ども達の未来を後押しすることになると思います。
「発達障害の人達は、発達もするし、成長もする。仕事もするし、自立もする」
そんな風に思う人達が増えてくれば、支援というバトンを次世代につなぐことができる。
「現状維持」などという言葉を、これ以上、残しておくわけにはいかないのです。

2018年10月6日土曜日

「治る」は甘い言葉なのか?

睡眠障害や行動障害で悩んでいた子が、寝られるようになり、落ち着いて、みんなと活動できるようになった。
「一生、支援を受けて生きる人です」と言われていた子が、クローズで一般就労して何年も経っている。
支援級の子が、普通級で学べるようになり、手帳を持っていた子が返納している。
そういった姿を間近で見てきた人達が、その様子を見て「治った」と言う。
それのどこが甘言になるのか、わかりませんね。


何らかの理由から、神経発達にヌケや遅れが生じた人達がいる。
だから、そのヌケや遅れの根っこを確認し、そこから育て直していけば、神経発達が起きるでしょうし、障害と言われている状態から飛びだして発達していく人がいても不思議ではありません。
そういったことが想像できない方が問題な脳みそなんだと思います。


治った本人、治った人を傍で見てきた人が「治る」と言うと、その歩みに興味がひかれ、自分でもやってみよう、そのアイディアを取り入れてみようとする人達が出てくるのは自然な流れです。
でも、「自分も治りたい」「我が子も治ってほしい」と願い、治る道を選択する人達を見て、「甘い言葉につられてしまう可哀想な人」というように捉える人がいます。
これまた想像力の欠如と言わざるを得ません。


「発達障害は脳の機能障害だから一生治らない」と思うのも、考えるのも、信じるのも、個人の自由です。
自分自身の、我が子の課題が、ずっと直らず、改善せず、むしろ現状維持もできていない、だからこそ、治るなんて嘘だ、と思いたいのはわからなくもありません。
でも、自分の見える範囲以外にも、事実があり、現実がある、という想像ができないのは、大問題だと思います。
というか、それでは人生、生きづらい。
というか、見える範囲がすべての人間、想像する力が乏しい人間には、人を育てることはできません。
できるのは、現状維持のみ。
最初から、他者の視点を想像できない人間には、育つも、発達も、治すも、生まれる余地がないのです。


「治る」に惹かれ、心から望む本人と親の自然な内面の動きが想像できず、あたかも「治るなんて現実的ではない言葉に騙された可哀想な人達」と捉えてしまう人。
その人が間違えているのは、他者の心情だけではなく、「治る」が甘い言葉だと捉えていることもです。


本人や親御さん、家族にとっては、「治る」は希望の言葉になると思います。
しかし、決して甘い言葉にはなりません。
むしろ、ある意味、厳しい言葉でもある。
何故なら、「治る」は、「あなた次第」と言っているのだから。


想像力が欠如した人というのは、「治る」と言っている支援者に騙され、お金と労力、時間を獲られてしまう、と誤った解釈をしています。
実際、治す支援者は何万も、何十万も、料金を要求しないで、一般的な料金で経営しています。
逆に、治さない支援者の方が、50分、1万5千円とか、アセスメントだけで何十万円も請求している。
こういった事実を見ようとしないのも、いつまで経っても想像力が発達していかない理由の一つですが、何よりも誤った解釈の始まりは、治すのは本人であり、家族ということなんです。


「治る」と言っている人達の中に、私が「治す」と言っている人はいないのです。
ここも想像すればわかることですが、本人と家族が動かないと神経発達など起きるわけがありません。
気功でも、治る塩でも、何か他者が与え、勝手に神経発達が起きるのなら、こんなラクなことはありませんし、世の中の発達障害の人、みんな治って、いなくなっているはずでしょ。
神経発達を促すには、本人が行動し、家族が育んでいかなければならないのです。


そういった意味で、「治す」は厳しい言葉になるのです。
本人は受け身ではなく、主体的に行動していかないといけませんし、コツコツと積み重ねていく必要があります。
親御さんは、課題がクリアされるまで試行錯誤を続け、育み続けなければなりません。
ある意味、「治らない」というままの方が、「治る」という言葉と出会わない方が、ラクな場合もあるのです。
だって、支援者という他人に任せられるから。
治らなくて、問題がそのままでも、障害のせいに、支援のせいに、社会のせいにできるから。
少しでも成長が見られれば、頑張っている親として見られ、何か起きても自分は責められない。


私はいつも思います。
「治りたいんです」と言われる方、治る道を選択し、歩んでいる方は、本当に強い人間だと。
朝、学校に出したら、夕方、児童デイの車が家の前に着くまで、子の責任を持たなくてもよい選択もあったのです。
何かトラブルが起きれば、「うちの担任、普通級から来たばっかりだからダメなんだよ」「この子達が生きづらいままなのは、多様な子の個性を理解できない社会が悪いんだよね」と言っていられたのです。


でも、自ら子の人生、未来に責任を負うことを選択し、そして日々、試行錯誤と地道な積み重ねの道へと歩まれた。
きっと我が子は治ると信じていても、それがいつなのか、必ず来るかはわかりません。
そんな不安も、心細さもある道を、我が子の視点を想像しながら歩んでいく。
「この子自身が治ることを望んでいるし、大人になった我が子は、治っている方が幸せになる」と。


治る道を選択した人達は、決して甘言につられた弱い人達ではありません。
むしろ、我が子の未来も、自分自身の人生も、受け止める覚悟と責任がある強い人達。
本当に強い人間は、弱い人間のことも、ちゃんと想像できるものです。
弱い人間こそ、強い人間のことを想像することができない。
弱い人間は、みんな弱い人間であって欲しいと願うものです。
弱い人間に合わせて、自分も、我が子も、弱くなる必要はありません。
厳しい道だとしても、力強く歩き続けた先に、発達と成長、自立と幸せが待っているのだと思います。
弱い人間が望むように、幸せの方からやってきたはくれないのですから。

2018年10月5日金曜日

障害者雇用の水増し問題で、まだ頭を下げていない人達がいるのでは?

なにか勘違いをされているのではないでしょうか。
確かに、障害者雇用の水増しはいけないこと。
でも、雇用する側ばかりが責められている論調には納得ができませんね。
水増しは表面の問題。
その下にある問題の根っこは、特別支援でしょ、ギョーカイでしょ。


「雇いたくないな」と思わせるような人ばかりを送り込んできたのは誰なのか。
それ早期発見だ、それ早期療育だ、と言って、発達障害を持った人達を囲いこんできたのは誰なのか。
「障害の特性に合わせた専門的な療育、支援を受ければ、自立するんです。彼らも働けるようになるんです」と言っていたのではないでしょうかね。
でも、実際は一般就労しても仕事が続けられないし、そもそも大学出るような人にまで福祉的就労を勧める始末。


何のため、10年も、20年も、療育や支援、服薬を続けてきたのでしょうか。
みんな、こうやって専門的な支援や教育を受けて頑張れば、きっと自立できる、仕事ができる、と思って歩まれてきたのだと思います。
それなのに、「一般就労?無理ですね。みんな、すぐに離職しますし。それより無理して二次障害になったらどうするんですか??」と言って、はい、終わり。
結局、一般就労して自立していく人達は、支援のおかげじゃなくて、本人と特に親御さんが頑張ってきたご家庭ですね。


知的障害、特性の重い軽い、早期から療育を受けたかどうか、職場の理解があるかどうか、そんなのは、自立や一般就労を左右するような要因にはなりません。
何よりも、本人が自立したいと願い、親御さんもそれに向けて、幼少期からしっかり育み、準備をされてきたかどうかが一番大きな要因です。


普通に考えて、「特別支援にお任せしておけば、将来、就職も、自立もさせてくれる」と思っているような人では無理に決まっています。
働くのは本人ですし、働く土台は、本人の身体だから。
利用してくれることで儲かる仕事の人達が、やすやすと手を離してくれるわけはありません。
それに、もう特別支援が始まって10年以上経つのですから、支援を受け続けてきた人達の中から自立できる人も、一般就労できる人も少ないという事実が明らかになっています。
そもそも特別支援、特別支援教育がうまくいっていたら、このたびのこれ程大きな水増しは起きなかったのではないでしょうか。


ですから、水増しした行為は責められても、公官庁が、雇う側がすべて悪い、みたいなことはおかしいと思うのです。
財源や権限を要求するときには、こぞって出てくるギョーカイがダンマリしています。
誰か、「雇いたくないと思わせるような支援、療育しかできていなくて、ごめんなさい」というような筋の通ったギョーカイ人はいないのでしょうかね。
まあ、いないか。
彼らの主張の根底は、「支援と理解が足りないから」ですから。
根っこがヒトのせい、他人のせい、僕のせいじゃないよ、の人達には、本当の支援はできないでしょうし、他人様の人生と向き合う気概はない。


国や行政、社会にいろんな要求をしてきたギョーカイ達、そして実際に財源や権限を受け取り、本人たちと関わってきた支援者たち。
本当に頭を下げないといけない人達は、この人達だと私は思います。
社会のみんなから預けられたお金や権限を、ギョーカイはこれまでどのように使ってきたのでしょうか。
12年間の特別支援教育は、福祉につなぐための時間をただ埋めるものだったのでしょうか。


結局、支援がなければ働けない、理解がないと働けないと言うのなら、「そもそも自立は無理です」と言っているようなもの。
「自立は無理」と言っている人達に、何を期待するのでしょう。
だったら、特別支援なんか止めてしまって、その分の財源と人材を本人と家族に渡せばよいのです。
ヘンに間に支援者が入るんじゃなくて、本人と家族が人生を設計していけば良いのだと思います。


子育て中の親御さん達に向けて記します。
今、一般就労して働いている人達の多くは、クローズの人達。
つまり、発達障害の特性は持っているし、持っていたかもしれないけれども、子ども時代に課題はクリアし、就職するときには周囲に問題があると認識されないくらいまで治っている人。
就職や自立を左右するのは、子ども時代の過ごし方であり、親御さんの子育てにかかっています。
実際、一般就労している人達の親御さんは、子育てを頑張ってこられた人達。


将来、我が子が働いている姿を思い浮かべ、今の食事ではどうか、生活ではどうか、体力ではどうか、コミュニケーションではどうか、と常に考え、試行錯誤されてきた方達です。
決して、療育熱心だったから、障害、支援に対する知識が豊富だったから、ではなくて、障害の有無に関係なくヒトとして大事な育ちを諦めず、コツコツと積み重ねられた、それだけ。
障害や特性が、我が子の育み方を変えたとしても、ヒトとして自立するために必要なことは、定型の子と一緒。
「障害があるから、ヒトとして自立するために必要なことはやらなくていい。そこは免除ね。そこは特別支援が担ってね」という姿勢では、子が自立できないのは当然です。
自立する力がない人は、自立できない。
働く力がない人は、働くことができない。
これって至極当然のことだとは思いませんか。


療育の中には、神経発達はありません。
神経発達とは、日常生活の中にあり、家族との交流の中に存在するのです。
その子の土台を作るのも、未来を作るのも、家庭が舞台だと思います。
今日できることからやっていく。
自立に必要なことは教え、育てていく。
家庭、子育てという基盤がしっかりしているからこそ、子ども達は上へ上へと大きく育っていけるのだと思います。


子どもの姿を思い浮かべながら、夕食の献立を考えるのも、思いっきり一緒に遊び、心身共に交わることも、発達援助であり、自立への後押し。
何も特別なことはありません。
特別にしたいのは、特別なことのように見せることで儲かる人達なのですから。

2018年10月4日木曜日

今を切り取った育みではなく、明日へ、未来へと続いていく育みを

開業当初から幼い子を持つ親御さんからの相談のほとんどが「言葉の遅れがあるんです」というものです。
「うちの子、なんか違うかも」という感覚は、みなさん、それよりずっと前に持たれています。
でも、「言葉が出ない」「同世代の子と比べて発語が遅れている」という我が子の姿、事実が、その違和感を確信へと変えるきっかけになっている場合が多いと感じます。
言葉の遅れが、親御さんを相談へと向かわせる一つの大きな出来事になるのは、今も、昔も変わりがないと思います。


相談や発達援助を依頼される親御さんの多くは、私のところに来る前に、公的な機関で相談、療育を受けられています。
当然、そこで言葉の発達が促されたなら、私のところに来るわけはないので、子どもさんや親御さんのニーズが満たされなかったということになります。


私の仕事は、発達のヌケを見つけ、言葉の遅れと繋がっている根っこを育て直すことですから、そういった公的な機関で、どのような相談や療育を受けたのか、敢えて知る必要がないものです。
しかし、どうしても話の展開として耳にすることになります。
もう最近では、なるべく聞かないようにしてるのですが…。


やっぱりここでも、時間が止まったまま、ずっと昔と同じことが繰り広げられています。
言葉が出ないから、たくさん話しかける、一音ずつゆっくり話すように促す。
まったくもって発達の視点が抜けた療育ですね。
言葉に課題があるから、言葉でどうにかしようとする。
これは誰にでもすぐに思いつくアイディアです。
そんなのは言われなくてもやっています、親御さんは。


一方で、「お母さん、気にし過ぎですよ」「男の子は、一人っ子は、そんなもんですよ」「成長は、一人ひとり違うから、焦らないで」という下手くそなカウンセリング。
そりゃあ、10年も、20年も前の世代の親御さん達には通用した手でしょうが、今の親御さん達はスマホで瞬時に情報を集めている世代ですよ。
相談機関に向かう前に、ネットで知識も、実際の子育て、当事者さんの様子も調べ尽くしている。
調べ尽くし、ヘタな支援者、相談員より情報と知識を持った親御さんに対し、気休めは通用しません。
ネットで得た情報と同じか、それ以下の支援者というのは、ただただ不信感を持たれるだけの存在になってしまうのが今の時代というもの。
これからどんどん淘汰されていく時代になるので、ギョーカイにとっては厳しい未来が、本人と家族にとっては素晴らしい未来がやってくると思いますね。


チンパンジーがしゃべらなくて、ヒトはしゃべる。
子どもが言葉を話すようになる前には、古今東西、今も昔も、共通した発達過程を通る。
この2点だけで、言葉をいじくりまわしても、言葉が出るようにならないのは明らかです。
大事なのは、言葉が出るように促すのではなく、言葉が出る身体に育てること。
言葉が自然と出るような身体に育っていないのに、無理やり声を出さそうとしても、お互いに辛いだけですし、遠回りもいいとこです。
足りないのは言葉ではなく、言葉を話す準備。


以前、「食事で発達障害を改善する」というアプローチを、全然治りも、改善もしていない人達が批判していたのを目撃しました。
目の前の子を良い方向へと導けない人達が批判するということは、もしかしたら「食事で発達障害を改善する」と言っている人の方が正しいかも、と思い、そこから情報を集め、勉強したことがあります。


そこでも感じたのですが、食事は生きる上でも、発達成長する上でも土台には違いありませんが、目指すべきド真ん中ではないということ。
つまり、何らかの理由から、発達障害の人が栄養素を十分にとり込めていない、吸収できていないことは十分に考えられることではありますが、じゃあ、栄養を十分に与えれば万事解決とはならないし、そこが目指すべきところでもないということです。
やっぱり栄養素を普通の食事からちゃんと吸収できる身体に育てることが一番ですし、偏食が合って栄養が偏っているのなら、それを治すことが先だと思いました。


偏食がある子はもちろんのこと、受精から現在に至るストーリーの中で「栄養」が連想できる子の場合には、食事のお話、アイディアを提案することもあります。
実際、自分が子どもだったら、その食事、栄養じゃあ、心身共に落ち着かないわ、というご家庭があるのも事実。
でも、私の捉え方、考え方としては、食事、栄養は、より良く神経発達を促すための補助。
大事なこと、私が目指す中心は、その子の神経発達を後押しすることで、生きやすい身体、学習できる身体、自立できる身体を育てていくことです。
生きていく上で土台となる身体をしっかり育てるためのアイディア、後押しの一つとして栄養がある、といった捉え方をしています。


言葉が出ることも、十分な栄養素をとり込むことも、今、必要なこと。
でも、受精から現在、そして未来という一人の人間の物語で見れば、それは部分であり、ゴールではありません。
大事なことは、その子の未来へと繋がる土台作りです。
土台がしっかり育つから、次の発達へと進むことができる。
土台がしっかり育つから、自分の人生を自分の足で歩いていくことができる。
未来の我が子に、言語指導も、配慮された食事も、サプリも、与え続けることはできなくても、言葉が出る身体、栄養をとり込める身体が育めれば、その子、自ら発達、成長していくことができます。


今を切り取った育みではなく、明日へ、未来へと続いていく育みを。
表面を見るのではなく、根っこを見る。
それこそが発達援助の中心であり、一番の近道だと私は考えています。

2018年10月2日火曜日

そのエビデンスとは、科学なのか、宗教なのか

エビデンス原理主義の人達を見ると、どうしてそんなにエビデンスを気にするのかが、ずっと不思議でした。
多分、そのデータが意味するところよりも、宗教に近いんだろうな、と解釈していました。
そのエビデンスの元になる論文をしっかり読んでいる人はほとんどいないでしょうし、「誰それが言っているから」くらいなもんでしょ。
でも、ある本を読んでいて、それまでの私の解釈が違ったのかも、と思うことがありました。
多くの人は、「エビデンス=効果がある」と思っているのでは?と気が付いたのです。


学生時代、私は教育心理学が専門でした。
心理学ですから、統計についても学びます。
研究結果を評価するには統計学の知識が必要ですし、研究論文を読むのにも必要な知識です。
ちなみに卒論のテーマは、「生活習慣が心身の健康に及ぼす影響」というので、どういった生活習慣が、どのくらいの頻度から、心身へ影響を与えるのかを研究しました。
一言で言えば、生活習慣の中で、心身と関係があるものを探したのです。


こういった経験と知識は、就職してからも活かすことができ、いろんな「効果がある」と言われている療法の論文を読んで勉強することにつながりました。
今で言う「エビデンスのある療法」の元になった論文は、内容は違えど、学生が学ぶ基本的な統計学で進められたものがほとんどでした。
ですから、特定の介入と、介入後の変化の関連性を調べているのです。


とってもシンプルな表現をすれば、こうです。
Aという方法があります。
グループを二つに分けます。
1つのグループは何もしない、もう1つのグループはAという方法を行います。
結果、何もしないグループと、Aという方法を行ったグループに違いがあるのか?を調べます。
Aという方法を行ったグループに変化があって、それが偶然の違いじゃなければ(←ここで統計学)、じゃあ、Aという方法は、〇〇という効果があるよね、っていうこと。


私の卒業論文もそうでしたが、特定の方法や活動が、個人に変化を与えることは確かめられます。
でも、どうして変化が起きたのか、何が変化の元、理由なのかは分かっていないのです。
よくエビデンスが「科学的根拠」と表現されていますが、「全然科学的じゃないじゃん」「関係性があっただけしかわかってないじゃん」というもの少なくないのです。


観察する目と治す腕のない支援者というのは、エビデンスにすがるものです。
実際、目の前の人が発達、成長し、可能性を広げて自立できれば、それでいいのです。
そういった支援者は、「私のやる方法にはエビデンスがあるから」「エビデンスが無い方法は、インチキだ」と言います。
でも、じゃあ、その根拠、理由を尋ねて、答えられるか、といったら、難しいでしょう。


私が、「『エビデンスがある方法』と言われるが、どうして〇〇さんに効果があると言い切れるのですか?」と尋ねると、「だって、エビデンスがあるから」と返ってきました。
でも、「エビデンスがあるから」は、全然答えになっていないんですね。
だって、「その介入と介入後の変化には関係がある」と言っているだけだから。
関係があるのはわかったから、どうして〇〇さんに効果があると言い切れるのか、それを知りたかったのですし、それが分からないままじゃ、同意することはできませんね。


巷にあふれる「エビデンスがある方法」というのは、やると変化があるのはわかるけれども、どうして変化が起きたのか、本当のところは分かっていないものばかりなんですね。
しかも、その「関係性があります」と示された研究だって、欧米の会ったこともない子ども達に、発達障害の人達に「関係がありました」ということ。


先日書いたブログの内容の通り、住む場所が違えば、環境も、育ちも違うものです。
同じ日本でも、北海道と沖縄の子ども達の発達の仕方、適した発達援助の仕方は異なるはずですし、実際、私の感じ方、助言の仕方に違いがあります。
気候や風土、食べ物が、その子の発達と関係するのは当然ですし、同じ地域に住む子でも、もちろん、兄弟であっても、その発達の仕方、環境からの影響の受け方は違います。
なので、文化も、風土も、環境もまったく異なる欧米の子ども達、発達障害の人達、それも十人とか、数十人とかの単位で「この方法と、その後の変化には関係性がありますよ」と言われても、どこまで信じてよいものかと思いますし、目の前の人にそのまま当てはめて考えてはならないと捉えるのが妥当だと思います。


エビデンス原理主義の人達が、宗教を連想させるのは、そこにサイエンスがないからです。
科学的根拠というのなら、どうして効果があるのか、特に発達障害の人たちへの介入方法だとしたら、こういった理由で神経発達に影響を与え、結果的に課題が解決する、より良い発達へと繋がる、と明らかにできなければ、目の前の人に「絶対に良い」「効果がある」とは言い切れないのです。
ですから、ナントカの一つ覚えのように「エビデンス」「エビデンス」と言っている支援者が介入しても、全然良くならない。
挙句の果てに、「僕の療育方法はエビデンスがあるし、資格も取ったのにおかしいな」なんてモンダイナ思考になり、ちゃんと効果が出ないあなたが悪い、と本人や家族を責める始末。
本当の意味がわからないのに、「エビデンスがー」と叫ぶ人達を見ると、蟹の甲羅を借りるカニカマ支援者みたいです。


エラソーに「エビデンス」と言っている人達も、その意味が分からず、ただやっているのが現実です。
それだったら、何を信じ、どう行動するのが良いか。
その答えを知っているのは、自分自身であり、目の前にいる我が子。
自分が良いと感じる方法を、どんどん取り入れて、その人オリジナルの方法を創造していけばいいのです。
そのためにも、子どもの日々の変化をしっかり見つめつつ、いろんなアイディア、知見を求め、実際に手と足を動かすという行動を起こすことが重要です。


パソコン画面で検索してるだけでは、地域にある機関に外注しているだけでは、「エビデンスがあるって言ってたもん」と言って、自分の頭で考えずにただ特定の方法をやっているだけのおさぼりさん達と同じになってしまいます。
「治ったらいいな」「問題が解決したらいいな」では、何も変わっていきません。
自分で行動するから、子どもが変わっていく、家族が変わっていく、現状が変わっていく…そして未来が変わっていく。
そんなことを、勉強会が開催されれば、いつも全国から大勢の方達が集まってきて、終了後は参加者の皆さまの熱気と変化に包まれる様子を見聞きして、私は感じたのでした。

2018年10月1日月曜日

母体のような変化の少ない環境

構造化された支援は、愛着障害と親和性が高い。
愛情や信頼など、手に取ることができないものを実感できない支援者は、見える形の支援を作り続けることで、愛情や信頼を確かめようとする。
愛着という土台が脆い親御さんというのは、変化に対処するための支援を、いつしか変化が生じないための支援へと変えていく。


我が子のもとに変化が訪れようとすると、必死にその変化から遠ざけようとする親御さんがいる。
我が子が不調になるたびに、以前の落ち着いていた頃の環境に戻そうとする親御さんがいる。
そんな親御さんと接すると、まるで我が子をお腹の中に戻そうとしているかのように見えてくることがある。


ヒトは十月十日、変化の少ない母体の中で心身を育んでいく。
親御さんの本能が、我が子に生じた胎児期の発達のヌケを見抜き、変化の少ない環境の中で、もう一度育もうとしているように見える。
だが一方で、親御さん自身が「自分の親の母体に戻りたい」、そんな想いから変化の少ない環境を求める場合もあると感じる。


母体のような変化の少ない環境は、生きていく上で土台となる部分をじっくり育て、発達させるには適した条件だといえる。
特定の刺激を十分に味わい尽くすことができるから。


変化の少ない環境が育む環境だとしたら、実生活の中で「変化のない環境を」「構造化された環境を」と求めることが違和感に感じる理由もはっきりしてくる。
学校や職場、社会の中は、発達のヌケを育む場所ではない。
言語獲得後の発達、成長の場ではあるかもしれないが、言語以前の部分を育て直すことが主ではない。
言語獲得後の学びと育ち、そして身につけ、磨いた資質を活かし、実践する場である。


私は、あくまで母体は親御さんであり、家族、家庭なのだと思う。
つまり、変化の少ない環境を用意できるのは、親子の関係の間だけであり、家庭の中だけの話ということ。
「学校が構造化してくれない」「行事に参加させようとする」「変化に対する配慮が足りない」と言う人達がいる。
「学校でも、児童デイでも、療育機関でも、発達のヌケを育て直すことをやってくれたらいいのに」と言う人達がいる。
しかし、学校は学校の目的があり、先生も一人ひとり違う。
その多様性こそ自然な姿であって、多様な刺激だからこそ、育つ部分がある。
家庭の外を母体化するのには、賛同できない。


愛着という土台に脆さを抱える人が、変化の少ない環境を求め、引き寄せられていくのはわからなくもない。
しかし、学校や職場、社会に変化の少ない環境を求めることと同じように、それは甘えなのだと思う。
変化に苦手な我が子だから、社会に変わることを求める。
本当は、変化に苦手な我が子を育てる方が先なのに。


私に「発達のヌケを育て直してほしい」という依頼がくることがある。
ひと様の子を私のおなかの中に入れて育てることはできない。
それに子育ての丸投げはいただけない。
親子で育む部分を、他人に外注する人が増えたのも、その違和感を感じなくなったのも、昨今の治せないことによる発達障害の増加に繋がっていると感じることもある。


胎児期から始まる発達のヌケ、遅れは、本人か、親御さんにしか育て直すことができない。
他人が治し、育てられることがあるとすれば、言語獲得以降の発達と成長だろう。
社会に変化の少ない環境を求めるのも、他人に言語以前の発達のヌケ、遅れを育て直してもらおうとするのも、甘えがその根っこにあるように思える。

2018年9月26日水曜日

家庭の空気に馴染む発達援助を

出張で発達援助をする場合、可能な限り、前日から入るようにしています。
そして街を歩き、その土地の雰囲気を感じます。
風土によって、発達の仕方、発達援助の方法も、それぞれだと考えているからです。
その土地に馴染む発達援助でなければ、一過性のものになってしまう。
そんな感覚もあります。
私は、その土地の雰囲気を感じ、その風土の流れに沿った発達援助が提案できることを目指しています。


土地が子どもを育てる舞台であるのと同じように、家庭も大事な舞台です。
ですから、家庭に流れている空気を感じなければなりません。
家庭に伺った私は、非日常の遺物的な存在です。
そんな私が、その空気を乱す存在になってはならないのです。
家庭に流れている空気に身を委ねつつ、空気が停滞している箇所があれば、そこがスムーズに流れていくようなお手伝いをする。
家族の一人ひとりが持っている空気が重なり合い、自分たちで心地良い風を流し続けられるようなお手伝いをする。
私はその家庭の自然な空気になれませんので、そよ風みたいな扇風機になれたらいいな、なんて思っています(笑)


私の主の職場は、各ご家庭です。
同じ家族だといっても、その一人ひとりは、異なる資質を持っています。
異なる資質を持った者同士が、一つの家庭を築いている。
ですから、目指すべき姿は、一人ひとりの資質が発揮され、馴染んだ形だと思っています。


それは子育ての仕方、発達援助の仕方も同様で、同じ胎児期に発達のヌケのある子を育てるにしても、各家庭で育て方が違うのが自然だと思います。
どんなことを通して育てていくのか、どのように育てていくのかは、親御さんの資質によっても変わってくるはずです。
親御さんの資質を活かした子育てでないとしたら、息が続かないものです。
その息苦しさは、当然、子どもにも伝わります。
子どもが伸びやかに発達、成長していくためにも、家庭の中に自然な空気が流れていること、そして、その空気は、親御さんの資質から流れていることが大切です。


子どもさんに成長や良い変化が見れたなら、それが親御さんの気持ちを穏やかにさせ、もっと子育てを頑張ろうというエネルギーを生む。
そうやって子育てを頑張れば、また変化が見られ、新たなエネルギーを生む。
そういった良い流れは、どのご家庭も一緒だと思います。
しかし、必ずしも、お子さんの変化が一番のスタートになるとは言えない場合もあります。
「このご家庭は、お母さんが資質に合わない子育てをしているから、子どもさんが伸び悩んでいるんだな」
「お父さんがネガティブな空気を出しているのが、母子に影響を与えているんだな」
中には、ジジババが空気を歪ませているケースもあります。


もちろん、私の仕事、依頼されていることは、子どもさんの発達援助です。
しかし、アイディアの提供のみなら価値のないことだと思っています。
「遠く北海道から支援者を呼んだ」
「我が子のための発達援助のアイディアをもらった」
それだけでは自己満足に終わってしまいますし、治っていきませんし、これからも続いていく子育てを本当の意味で後押しできたことにはなりません。


やっぱりその家庭に馴染む発達援助でなければ、流れが途絶えてしまいます。
治る、発達、成長するというのは、継続こそ大事なのですから。
また、より良く子どもさんが発達、成長していくためには、伸びやかさが重要です。
「伸びやかさ」=親御さんの資質の開花であり、その資質を活かした子育ての形だと考えています。


「子どもさんの発達のヌケを埋める前に、お父さん、お母さんの方が先ですね」ということも、少なくありません。
そうやって、親御さんのモヤモヤや資質の向け方、活かし方を調整すると、グッと家庭の空気が心地良く流れていくこともあります。


習ってきた型にハマった療育ではなく、資質に合った子育てを始めたら、お母さんが活き活きし始め、子どもが伸びやかに発達した、というご家庭。
お父さんの資質を活かせる子育ての場面ができたら、お父さんの持っていたネガティブな感情が消え、それを感じたお母さんが前向きになり、主体的に子育てができるようになった、というご家庭。
両親がパーフェクト、統一した支援などを捨て、お互いの資質を活かしながら分担した子育てに方向転換したら、家族みんなの気持ちが楽になって、良い空気が流れるようになった、というご家庭。


私は家庭支援を行ってきて、私が具体的な発達援助のアイディアを提供するよりも、そのご家庭の一人ひとりが自分の資質を発揮した子育て、お互いが良い影響を与え合うような空気感を作っていける方が重要なことだと思うようになりました。
どうしても、発達援助を仕事としている身になれば、中心が発達援助になりがちです。
でも、そのご家庭にとっては、発達援助はすべてではなく、一部。
私がその一部に気持ちを込めて仕事をするのは当然ですが、それよりも家庭の中に良い空気が流れている方が大事なこと。


発達援助をきっかけに、家族の一人ひとりが自分の資質に気が付き、その資質を活かしながら、一つの家族の形として馴染ませていく。
その形を作る部分に、発達援助があり、子育てがある。
究極を言えば、家族が幸せを感じながら生きていければよいのだと思います。
資質を活かすとは主体性を発揮することにつながり、主体性こそ、発達援助に必要なこと。
子どもの発達に必要なことを主体的に選択していった先に『治る』がある。
ですから、良いアイディアの発達援助を取り入れるのではなく、その家庭の空気にあった発達援助を作っていく方が大事だと考えています。

2018年9月25日火曜日

プロセスにこだわる支援者、結果にこだわる支援者

治す支援者と治さない支援者、良い支援者と悪い支援者の見分け方は簡単です。
その人の言動をみれば、一発です。
良い支援者というのは、行動がシンプルで、分かりやすい言葉を使います。
難しい言葉、また意味が分かりづらい言動になればなるほど、支援を受ける側にとっては良くない支援者になる。


治すためには発達を語る必要がある。
そうなれば、シンプルな方向に向かうのは当然です。
また、シンプルで分かりやすい言動は、受け手を第一に考えていることの現れです。
自分主体の言葉を使っているか、相手主体の言葉を使っているか。
それこそが、その支援者の腕と、どの視点からモノ申しているかを教えてくれるのです。


支援者とは、支援する相手がいて、初めて存在価値が生まれるものです。
特別支援に関わる支援者で言えば、本人が今よりもラクになり、成長発達し、可能性を広げ、自立した人生へと向かう後押しができればよい。
だから、本人がどう変化したか、つまり、結果がすべて。
そのプロセスや方法は、二の次、三の次、いや、本人からしたらどうでも良いのです。


しかし、特別支援に関わる支援者というのは、どうも結果よりも、プロセス、方法の方が大事なようです。
本人がいくらもがき苦しんでいても、自分の選択する手法以外は用いないし、それらを否定すらする。
本人が「自分には合わないから、別の方法を」と言い始めると、自分の選択する手法が唯一無二のものであると言い放ち、良くならないのは障害のせいだと屁理屈をこねる。
そして、それでも別の方法を選ぼうとする人に対しては、「問題行動あり」というレッテルを張り、周囲の人間から洗脳し、逃げられないようにする。
これを一般社会では、人権侵害と言います。


本人により良い変化が訪れれば、それで良いのです。
どんな方法を選ぼうとも、まったく構わないのです。
サプリでも、体操でも、プラセボ効果でも、支援の世界と全然関係ない人の助けでも、何でもよい。
唯一悪いのが、何も変わらないことであり、そればかりか悪くなる一方なこと。


目の前にいる子が、少しでもラクになり、成長し、気持ちが穏やかになれば、それだけで嬉しくなるのが、親御さんであり、支援者というものです。
本人の心身の安定、成長を心から喜べない人間、それを第一の望みであると自分の腹の底から思えない人間には、支援者は無理なのです。
後付けの知識や技能を身に付けても、人を癒し、発達成長させることはできません。
主が自分だから。


結果ではなく、プロセスや方法にこだわる支援者というのは、目の前にいる人を支援しているのではありません。
支援しているのは、自分自身。
自分自身の過去と愛着の課題を癒すために支援しているのです。
ですから、自分のプロセスと自分の方法にこだわっている。


彼らは、自分が関わったことで、本人に良い変化が起きることを望んでいるのです。
つまり、自分の関わっていない変化は望んでいない。
むしろ、自分が関わらない中で良い方向へ進んでいくのなら、それは自分の内側にある淋しさ、孤独感が揺さぶられるため、否定、妨害したいという想いすら噴き出してしまうのです。


敢えて専門用語、横文字を使ったり、表現に癖を付け、相手に「う?」と思わせたり、そんな敢えて分かりにくくするような表現を使う支援者がいます。
また、すでにあるアイディアを寄せ集めてきて、「うち、オリジナルのアセスメントシートです。療育方法です」などというように、「中身は一緒、でも、パッケージングだけ違う」みたいな売り方をする支援者がいます。
こういった人達は、敢えて複雑にしていくことで、自分がいないとダメ、自分が関わって初めて意味が通る、というような状況を作っているのです。


本人と家族のことを一番に考えたら、分かりやすい言葉を使うし、大変にならないようにシンプルな方向性に持っていくはずですね。
寄せ集めのアセスメント、療育に、何十万も払わせようとするのではなく、「一度かかった獲物は放さないよ」みたいに何度も何度も通わせようとするのではなく、「息子さんは、この部分だけでいいですね」「このアセスメント形式、項目は、過去の〇〇と一緒ですよ」「家でできることなんで、全部教えましょうね」とすると思います。
だって、それが本人も、家族も、喜ぶことだから。


自分が支援に携わっているとき、その人が自発的にいろんなことを試すのも、自分以外の人の支援を頼るのも、問題ないばかりか、むしろ喜ばしいこと。
そうやって自発的に試行錯誤ができるのは、心身の安定や将来の自立の可能性を見ることになるから。
そして何よりも、自らの内側から溢れ出ている良くなるための行動なのですから、一緒に喜べばいいのです。
もし支援者が喜んでいないとしたら、面白くなさそうな態度をしていたら、それこそ、自分自身を主にしたヤブ支援者です。


世の中には、福祉に携わる人間=善人、マザーテレサのような博愛の精神の持ち主みたいな勘違いをされている人がまだまだ多い気がします。
もし本当にそうだとしたら、本人がより良くなることだけを願い、一緒に喜んでくれるはずです。
分かりやすい言葉で話してくれて、シンプルな方向へと導いてくれるはずです。
敢えて複雑で分かりにくい言葉を使い、本人と家族の負担よりも、自分との関わりを深めようとする支援者が、目の前の人の心身と未来を明るくしてくれるはずがないのです。
その瞳に映っているのは、淋しくて、孤独な自分自身の姿。


支援者というのは、「連携」「連携」言う割には、他の支援者、派閥の違う支援者のことを、本人、家族に紹介しませんね。
自分よりも、目の前の人のためになる、と思う支援者がいるのなら、その人を紹介するのが自然だと思います。
でも、決して紹介しない。
紹介しているのは、自分と利益を共有する支援者のみ。
「紹介されて頼った支援者が、紹介してくれた支援者と同じことを言う」のって、よくあることでしょ。


結局、本人と家族の幸せは第一ではなく、小さな特別支援というムラ社会の中で、陣地と利益の取り合いっこをしているだけ。
そろそろ気が付いた方が良いですね、「治るVS治らない」「エビデンスありVSなし」は対外工作であり、障害者支援という既得権益を守ろうとしているだけのことを。


一番大切なことは、本人がより良く変化し、幸せになること。
そこに辿りつく道は、一人ひとり違っても良いのです。
その道を通せんぼしているのが誰か、その顔をしっかり見て、覚えていた方が良いですね。

2018年9月18日火曜日

感情の伴わない発達援助は、存在しない

まず前回のブログの補足からです。
ブログを読んでくださった方から率直な感想をいただいたことで、浮かんできた内容です(気づきをを頂戴し、ありがとうございます!)。


家族での思い出は、特別なイベントに限ることはありません。
遊園地や旅行に出かけなくても、また出かけられなくても、一緒に誕生日を祝ったことでも、近くの公園に家族で遊びに行ったことでも良いと思います。
自分の両親ではなくても、おじいちゃんやおばあちゃんとの思い出でも良いでしょうし、生まれたとき、祖父母の腕の中で抱かれた写真が心の支え、愛されたことを実感するものになる場合もあると思います。
大事なのは、そこに温かい感情があるかどうか。


子どもは、自分の赤ちゃんのときの写真もよく見ますし、大人になってからも、自分が幼い頃の写真を見て、心が温かくなることがあると思います。
みんな頭の中ではそのときのことを覚えていないのに、です。
きっと記憶として残っていなかったとしても、身体はそのときの感情、周囲の空気感を覚えているのだと思います。
思い出の写真は、そのときの感情、心地良さを呼び起こすきっかけ。


ですから、子育て中のご家庭やおじいちゃん、おばあちゃんには、みんなで共に過ごした時間を写真として残しておいてほしいと思います。
また、そういった写真が残っていない、そういった思い出が残るような子ども時代ではなかったという方は、これから思い出を作っていけば良いのだと思います。
友だちと一緒に撮った写真が、10年後、20年後の自分へのメッセージになるかもしれません。


思い出の写真のように、感情の伴う活動こそが発達につながると私は考えています。
もし、感情がないまま活動をしていたとしたら、刺激は身体を通して脳に送られると思いますが、ただ脳内に刺激の通り道ができるだけだと思います。
その新しくできた通り道は、同じ活動を行う際、スムーズな動作をもたらすでしょう。
でも、動作を身に付けること、その動作をスムーズに、効率よくできるようになることが発達だとは思いません。
脳内全体で、同時に電気が走るような、脳の奥底から連動し合うような、そんな変化が発達と言えるのではないか、と私は思うのです。


発達を促すために、いろいろな遊び、活動を行います。
でも、発達とは、動作の獲得ではないと思います。
その動作を通して、脳全体を刺激し、奥底から脳全体を育てているといったイメージです。
そこが学習や技能獲得とは違うのだと思います。
新しい神経回路を作るのと、脳全体を育てていくのとの違い。
発達障害の子ども達が困っているのは、新しい神経回路を作っていけないからではなく、脳全体の育ちに課題があるからではないでしょうか。
だからこそ、私達は、上辺だけのテクニック獲得ではなく、発達のヌケの育て直し、土台から育てていこうとしています。


活動を発達に繋げる方法は、動作に感情をプラスすることだと思います。
感情を伴う動作、行動にこそ、発達を促す力があるのだと思います。
感情が司る部位は、脳の表面ではなく、中心部、土台に存在します。
だからこそ、脳全体的な発火が起き、刺激が駆け巡っていく。


感情を伴う活動は、脳全体を刺激し、育てていくと思います。
でも、その感情は、本人だけではなく、発達の後押しに関わっている人達も大事な要素になるはずです。
発達の後押しをしているものが、感情を伴っていないと、本人と感情を共有できていないと、活動自体が「動作をこなす」と意味になってしまうから。
本人の感情の動きに意識が向いていなければ、動作しか目に入ってこなくなります。
そうなると、いかにその動作をやらせようか、たくさん、しかも上手にやらせようか、になってしまうのです。


「言われた通りにやってみたんですが…」と言われる方は、子どもさんの感情に意識が向いていませんし、その感情と共有できるだけの気持ちを持っていないことが多いといえます。
ただ「発達を促そう」「とにかく今日の分は、ここまでやらせよう」
そんな一方的な感情しか持っていないこともあるように感じます。
それでは発達は起きません。
やっているのは、新しい神経回路を作っているだけ。
巷の療育が場面限定、応用が利かないのは、支援者が決めた行動を脳に刻んでいるだけだから。
そういった療育、支援、子育ての仕方が嫌だからこそ、発達援助、発達のヌケを育て治す道を選択されたのではないでしょうか。


私は、施設で働いていたとき、感情を伴っての支援していませんでした。
一つひとつ感情を持っていたら、一日として仕事ができなかったでしょう。
限られた人数で、大勢の利用者さんを見なければならない、また守らなければならない、しかも24時間連続勤務の中で。
そうなったとき、感情を捨て、淡々とこなすしかなかった。
支援する側がこなしている支援の中で、発達は起きません。
あるのは、支援者が管理しやすい行動を身に付けていくこと。
これは、支援者が描いた神経回路を脳内に刻んでいく作業ともいえます。


こういった過去を経験してきた私だからこそ、特に親御さん達にじっくり子どもと向き合うこと、発達を育んでいくことを願うのです。
そのためには、親御さん自体が忙しく、感情を伴わない私のような施設職員みたいな接し方をしてほしくないのです。
悲しいことに、まるで施設職員を見ているような親御さんがいます。
忙しくて、忙しくて、今日一日を終えるだけで精一杯。
そうなると、いつしか感情を伴わない関わりになる。
感情を伴わない時間では、思い出の写真も、発達も残っていかない。


子どもの発達を一番促すのが遊びなのは、そこに感情が伴っているからです。
また親御さんが、一緒になって楽しんで遊ぶと、発達がより進んでいくのは、感情を共有することで、より大きな感情を生み、そして親御さん自身も、その感情の動きに注目できるようになるからです。
発達援助がうまくいかないのは、やり方が間違っているわけではありません。
それよりも、親御さん自身の感情が伸びやかではないことの方が問題の場合があります。


感情を伴うからこそ、その動作は脳全体を育てることになる。
脳全体が育っていけば、新しい神経回路を作るのも、どんどんできるようになる。
私達は、新しい神経回路をその子の脳内にどんどん作っていきたいのでしょうか。
それとも、新しい神経回路を自分自身でどんどん作っていけるような脳を育てていきたいのでしょうか。
感情の伴わない発達援助は、存在しないはずです。

2018年9月16日日曜日

発達援助と思い出の家族写真

実際にお会いすると、その人の発達のデコボコは想像以上でした。
私は「相当、生きづらかったでしょう」と、感じたままの言葉が出ていました。
本人は生きづらさを抱えたまま、必死に生きてきたことを話してくれました。


「これだけ発達の課題を抱えたまま、どうして頑張ってこれたのだろう」と、私は率直に思いました。
しかし、その人の物語に心を傾けていると、理由がわかりました。
その人には、親から愛されたという実感がある。
そして家族で過ごした楽しい思い出があったのです。


成人した方達と接すると、感じることがあります。
みなさん、生きづらさを抱えたまま生きてこられたのは同じですが、その中でもなんとか自立した生活が送られている人達がいます。
じゃあ、生きづらさを抱えて、仕事ができない、一人で生活できない人と何が違うのか。
そこで感じるのが、子ども時代に家族との楽しい思い出があるかどうかが大きいのではないか、ということなんです。
どんなに今、生きづらかったとしても、最後の最後で踏ん張れるのは、愛された記憶と楽しい思い出だと私は思います。


発達のヌケや遅れを育て直すことは、子どもの人生を考えれば、とても大事なことです。
でも、子ども時代の中心が、「発達のヌケや遅れを育て直すこと」であって良いのだろうか、私は正直思います。
子どもが大人になり、自分の子ども時代を振り返ったとき、一番に思いだす記憶が発達援助というのは、本人にとって悲しいことではないでしょうか。


私は、発達援助とはシンプルな育みだと考えています。
ですから、親御さんにはシンプルな発達援助を提案します。
でも、そうやってシンプルにし、余裕のある発達援助にするのは、親御さんに伸びやかになってほしい、子どもさんに存分に刺激を味わってほしい、という願いからだけではないのです。
私のもう一つの大事な願いは、家族での思い出を作ってほしい、ということ。


発達課題の根っこを掴み、発達援助をシンプルにしたあとは、必ず「あとは家族みんなで、いろんな思い出をたくさん作ってください」と言っています。
それが将来、自分自身を支える杖になるからです。
人生、発達障害があるなしに関わらず、失敗や挫折もすれば、転んで起き上がれないこともあります。
そういったとき、踏ん張れる支えになるのが、起き上がるときの支えになるのが、家族との思い出だと思うのです。
本人が身に付けた技術や知識と同じように、家族との思い出も、生涯、誰にも奪われることはありません。


発達のヌケを育て直すのは、他人にはできません。
そして家族との思い出を作るのも、他人にはできないことなのです。
だからこそ、発達援助はシンプルに、あとは家族での思い出を作ることを心掛けてほしいと願うのです。


発達のヌケや遅れがなくても、生きづらさを抱えている人はいますし、自立した生活を送れない人もいます。
でも、発達のヌケや遅れがあり、生きづらさを抱えたままでも、自立して生活している人がいます。
そう考えると、弱肉強食のサバンナで生きる動物ではなくなったヒトにとって、愛されたという実感の方が生きてく上での支えになるのだと思います。


子どもというのは、自分の映った写真を見るのが大好きです。
何度も、何度も、アルバムを引っ張りだしてきては、同じ写真を一つずつ眺めていきます。
これは施設で働いていたとき、関わっていた子ども達も同じでした。
写真を眺める子ども達を見て、私は思うのです。
子ども達は写真を見ることで、そのときの感情を再び味わっているのではないか、と。
写真は、そのときの感情を呼び起こすための入り口。
実際は、写真を見ることで、愛されていた実感を、家族で伴に過ごした時間を感じ、愛着という土台を育てている。


発達援助を謳っている私が「家族での思い出を」と言うと、おかしなことのように感じられるかもしれません。
でも、成人した方達と関わる中で、家族との思い出のあるなしが大きな違いを生んでいるように感じるのです。
私の仕事は発達援助ですが、願っているのは、その人が自分の人生を伸びやかに、そして自立して生きていってもらうこと。
だから、発達援助と同じように、家族での思い出を作ってもらうことを提案しています。
発達のヌケを育て直すのと、家族での思い出作りは、自立した人生を歩んでいくための両輪だと思っています。


大人になっても、発達のヌケを育て直すことはできます。
でも、家族みんなの思い出を作れるのは、子ども時代という限られた時間であることが圧倒的に多い。
実際、過去には「家族でいっぱい写真を撮ってください」というアドバイスしかしていないご家庭もありました。
愛されている実感を得ると、発達のスピードが安定し、加速するということもあります。


家族みんなで過ごせる時間は、思っているより短いもの。
発達援助も大事ですが、それだけにならないようにしていただければと思います。
家族での思い出作りこそ、どんな有名な専門家にもできないことなのですから。

2018年9月15日土曜日

治そうとすればするほど、発達援助はシンプルになる

私が直接、相談や支援に関わらせていただくときは、やることを増やしていくよりは削っていく方が圧倒的に多いと言えます。
それまで、一生懸命いろいろな試みをやられていた親御さん程、「これだけでいいんですか」と驚かれます。


私がやってもらうことを削っていくのは、親御さんの力を信じていないからではなく、むしろ、子どもさんの発達のヌケを育て直せるのは親御さんしかいないと心から信じているからです。
親御さんの育てる力を信じているからこそ、私は発達の根っこを掴もうとするのです。


行ってもらう発達援助がシンプルになっていくのは、発達課題の根っこを手繰り寄せていくからです。
発達課題は一部分として存在するわけでも、いろいろなところに点在しているわけでもありません。
発達とは全体の調和と連動です。
ある発達課題があるとして、その発達課題は様々な部分と連動し合っています。
同時に、その発達課題の手前には別の発達があり、その別の発達の前にも発達がある。
発達は幾重にも重なり合っていながらも、全体としてつながっているのです。


発達にヌケや遅れがある子は、姿勢が保てなかったり、勉強ができなかったり、会話が難しかったり、人間関係が築けなかったり、様々な課題が見て取れます。
しかし、姿勢が保てないから体操、勉強ができないから家庭教師、会話が難しいから言葉の教室、人間関係が築けないから児童デイというように、表面に表れている課題を一つずつクリアしていこうとすると、やるべきことがどんどん増えていきます。
まるでモグラたたきをしているかのようです。
課題が出ては叩き、課題が出ては叩く。
そもそも課題が全くない人生などあり得ないですし、その子の持つ課題を親でも、他人でも、対応し続けることは不可能だといえます。


私は、その人の課題と向き合うとき、見えている課題とは枝葉だと考えています。
ですから、その枝葉が出ている幹を辿り、そして土の中の奥深くまで掘り続け、その課題の始まりである根っこを探ります。
掴んだ根っこを本人と親御さんに手渡し、そこを育ててもらうまでが私の仕事だといえます。


根っこの部分といえる発達のヌケから育てていくと、土台から元気になっていきます。
土台がしっかりし、幹がたくましくなり、枝葉が輝き始める。
発達障害の子どもの成長は「ドカン」というように表現されますが、それは根っこが元気になったため、土台から一気に成長したためだといえます。
しっかり発達課題の根っこを掴み、そこを育てた子は、急激な発達と成長を見せるものです。


「LDの子に合わせた学習支援」
「ASDに特化したソーシャルスキルトレーニング」
「発達障害の子向けの運動教室」
枝葉に合わせた支援や療育が溢れています。
でも、こういったところに通ったとしても、根本から生きづらさ、課題が治っていくことはありません。
課題の根っこに手が届いていないからです。
またサービスを提供する側も、枝葉を整えるというお客様が見て実感できる部分を整えているにすぎないからです。
別の言い方をすれば、私を含め、本人でも、家族でもない第三者の人間に、根っこを育てることはできないからこそ、枝葉を整えるしか提供できないのです。


土の上から出ている幹や枝葉は育てられますが、根っこは本人と家族にしか育てられません。
土の上は成長であり、根っこは発達だからです。
発達は、じっくり時間をかけて、育んでいかなければなりません。
また、それには発達の流れ、その子の物語を感じ、それに沿って行う必要があります。
第三者にはそれができないのです。


発達障害の人達は、受精から出生後、主に言語を獲得する以前の段階に発達のヌケや遅れが見られます。
この時期の自然な発達を見ると、主体である本人は、育む運動を存分に、時間という概念の無い世界で、とことんやり切ります。
言語を獲得した後の成長と比べると、明らかに違うのです。
勉強やスポーツなど、学習や技術の習得は、時間という概念の中、効率的に、かつ表面的に繰り広げられます。
しかし、ヒトとして生きていく上での大事な土台作りは、知識や技術、情報のやりとりではないのです。


「勉強ができるように育てる」と、「勉強ができる身体に育てる」は、全然違います。
その違いは、成長と発達、学習と育み、部分と全体、マニュアルとオートマの違いと似ています。
私達は、勉強ができる身体を育てたいわけですし、彼らの課題も、勉強ができないことではなく、勉強ができる身体に育っていないことが根本になります。
発達にヌケや遅れのある人は、勉強する年代になったから困っているのではなく、勉強、いや、言語を獲得する以前から困っていて、その生きづらさが勉強をきっかけに表面化しているに過ぎないのです。


以前関わっていた親御さんは、我が子のことを心から愛し、将来、自立できるようになってもらいたいと願っていたからこそ、いろんなところに通い、いろんなことを実践していました。
しかし、その子を目の前にして、どれも枝葉に対するアプローチにしかなっていないことがわかりました。
枝葉に対するアプローチがまったく無意味か、発達成長の刺激になっていないかと言われれば、そうではないと思いますが、発達課題の根っこが育たない限り、ドカンというような成長は見られませんし、治っていきません。
ですから私は、改めて親御さんと一緒にその子の発達課題の根っこを探っていき、突き当たった部分のみを集中して育ててもらうように提案しました。


私の提案に納得していただいた親御さんは、とことんその部分を育てるようになりました。
幾日も、幾日も、我が子がその発達課題と刺激を味わい尽くせるように付き合い続けました。
その結果、ドカンがやってきた。
発達の根っこから育ったその子は、ガラッと変わり、自らの足で発達、成長を始めました。
自らの足で歩み始めた子は、それまでの枝葉の刺激をも養分とし、たくましく育っていったのです。


私は、枝葉の療育、支援が好きではありません。
その療育や支援をしている人間が、「発達障害に特化したことをやっている」という雰囲気を出すのも嫌いです。
私は特化した療育、支援など、必要ないとすら思っています。
発達障害を持つ子に必要なのは、発達のヌケを育て直すことであり、根本から育っていくこと。
決して、特化した支援、サービスを受けるのがゴールではないと思います。
それに、その人自身の内側には、特化した療育、支援を飛び越えられるだけの成長する力、可能性を持っていると思います。
なんだか、「特化した療育、支援」には、提供する側が決めた枠が見えるのです。


発達課題の根っこから育てようとすれば、どんどん発達援助はシンプルになると思います。
私はできるだけシンプルになるようなお手伝いをし、その部分を家庭の中でじっくり育てて欲しいと願っています。
シンプルになればなるほど、その子は十分に発達と刺激を味わい返すことができます。
私は、発達の土台がしっかり育つと、自らの力で発達、成長していく子ども達をたくさん見てきました。
決して、彼らと二人三脚するのが素晴らしい支援だとは思いません。
それは真の意味で自立したことにならないからです。


私の仕事、役割は、土の中を掘っていき、課題の根っことなる部分を探り当てること。
課題の根っこを掴んだら、それを本人と家族に手渡し、じっくり育むことをお願いします。
今、定期的に利用してくださっている皆さんは、私の次の訪問まで、とことん根っこを育ててもらいます。
そして私は育ち具合を確認し、感想と今後の見通しを伝えます。
枝葉の仕事は、生きている限り、永遠に仕事を作り続けることができます。
しかし、根っこから育てれば、必ず終わりが来るもの。
ドカンが来れば、私の援助は終了です。

2018年9月13日木曜日

子育てをきっかけに、溢れ出てくる自分の課題

子育てをきっかけに、自分の内側にある課題が表れてくる人がいます。
「どのように育てたら良いか分からない」
「どのように愛したら良いか分からない」
「何が正しくて、何が間違っているか分からない」


こういった発言は、発達障害を持つ子ゆえの悩みにも聞こえます。
でも、実際は、子どもと向き合うこと自体の悩み。
大なり小なり、子育てに悩みはつきもの。
ただ悩みの根っこが違うのです。


子どもと向き合おうとすると、子ども時代の自分が投影される。
その自分の顔が穏やかなら、“我が子”の子育てについて悩みます。
しかし、投影された子ども時代の自分の顔が辛そうだったり、悲しそうだったり、寂しそうだったりすると、我が子と向き合うこと自体に悩むのです。
いや、本当は、子ども時代の“自分”と向き合うことに悩み、苦しんでいる。


地域には、「子育て相談室」のようなものが常設されているが、いつも閑古鳥が鳴いています。
そんなにそんなに、第三者の他人に、我が子の子育ての相談はしないもの。
だけれども、我が子に「発達の遅れ」が見つかった瞬間から、第三者に相談する機会がやってくる。


子どもに発達の遅れがあると、第三者に子育ての相談をすることが違和感でなくなる。
だからこそ、本来は発達障害の子を育てるための相談をしているはずが、いつしか私の子どもとの向き合い方、そして最後の砦、私の子ども時代の苦しみまで辿りついてしまう。
普通、特別支援の世界に入らなければ、最後の砦まで辿りつくまで相談の機会は得られないもの。


特別支援の世界は、愛着に課題を残したままの人で溢れています。
そういった支援者は、悩み、苦しんでいる親御さんを傍に置くことで、自分の存在価値を確認し、自己治療を行います。
よく仕事上だけではなく、プライベートまで入っていく支援者がいます。
仕事の時間が終わったあとも、親御さんに連絡したり、個人的な携帯で連絡をとりあったり、自分の職責が及ばないところまで介入しようとしたり…。


子ども時代、満たされなかった想いがある親御さんが支援者に依存し、丸抱えされることを心地良く感じてしまう。
支援者は、悩み、苦しむ親御さんが、自分の傍から離れないことを実感することで、自己治療を行う。
その両者の間には、子どもの存在が見えなくなっている。
子どもは、子どもの発達障害は、大人たちの自己治療のきっかけになる。
だから、支援者と親御さんの距離が近すぎる家庭の子は、成長しないし、生きづらさを抱えたまま。


「発達のヌケを育てるには、どうしたらよいか分からない」と、「どのように育てたらよいかわからない」は、意味することが全然違います。
前者が、我が子の子育てに関する悩みであるのに対し、後者は自分の存在が掴めずに悩んでいる。
そもそも子どもの育て方にマニュアルも、正解もありません。
だからこそ、自分自身の土台がしっかりしている必要がある。
主体性が育っていることが大事で、その主体性を発揮することで、そのとき、そのとき、ベストだと思う選択を繰り返していく。
主体性が育っていないから、「どのように育てたらよいか分からない」という疑問が出てくる。


自分自身の土台は、胎児、乳幼少期、子ども時代に培われる。
しかし、その土台作りが十分に行えず、課題を残したまま、大人になり、親になると、再びその課題と向き合わなければなくなる。
学校の中ではマニュアル人間でも卒業できるし、仕事も選べば、主体性や選択をしないで済むものもある。
でも、子育てにマニュアルはないし、親としての主体性が求められる。
なので、子どもと向き合ったとき、自分自身の課題が表面化してくるし、特別支援の世界は、とことんその課題を味わい尽くそうとする支援者がいるために、課題の大部分が溢れ出てしまう。


支援者に依存している親御さんは少なくない。
また親御さんを丸抱えすることで自己治療をしている支援者も少なくない。
だから、居場所をなくした子どもが別のところに行ってしまう。
自己治療に忙しい支援者と親御さんが、子育てを外注してしまう。


子育てとは、育むもの。
その育みは、家庭、親子の間で、十分に交わり、味わい、やり切ることで、実を結ぶ。
じっくりと子どもの発達と向き合い、育んでいくには、親御さん自体、しっかり地面を掴み、立てている必要がある。
子どもを育んでいくには、親御さんの踏ん張れる身体、土台が必要なのです。
そのために、インスタントに支援者に依存するのではなく、自分の課題と向き合い、治していく必要があります。

2018年9月12日水曜日

スケベ読者

当地には、スケベ読者がいるようですね。
私が言ったこと、書いたことを、そのまま言ったり、実践したりしている人達がいるそうです。
「大久保さんが書いたまんま、言っていましたよ」
なんて話も聞きます。
でも、私は気にも留めません。
別に、特別な情報を載せているわけでもありませんし、私しか知り得ない情報でもありませんから。
書いてある情報をどのように料理するかは、個人にかかっていますので。


私が「スケベ読者」というのは、言葉をそのまま持っていくからではありません。
本当は実際の発達援助が気になるし、「治る」をもっと知りたいのに、個人的にアプローチしてこないからです。
「なんかおいしい情報がないかな」と、陰からこそっと覗き見て帰っていくその姿からの連想です。
しかも、覗き見だけで止めてしまう理由が、地元の支援者に目を付けられないためって、オイ。
たとえ利用回数を減らされたとしても、嫌味の一つ二つ言われたとしても、治ってしまえばこっちのものなのにね。


いろんな方から、「ブログに情報を載せ過ぎじゃないか」と言われることがあります。
まあ、考えてみれば、匂わす程度に情報を抑え、「ご利用はこちら」とすれば、商売としては利益につながるのかもしれません。
でも、私の仕事は、本人や家族の間で治っていくための後押しですし、腕の見せ所は、発達の物語を描くことと、発達のヌケと育て方を見抜くこと。
ですから、私がいくらブログに情報を載せようとも、仕事のニーズに変化はないと思います。


それに時々、ブログを読んでくださった方からメールを頂くことがあります。
ブログからヒントを得て、発達援助を行ったら、治っていった、と。
こういった方たちのように、私がブログを書く意図を見抜き、書かれている情報から着想を得て、治していける人たちもいます。
事業としては利益を出すことが大事ですが、それよりもより良い社会になる方がずっと大事。
私が情報を小出しにして小銭を稼ぐよりも、ブログを読んだ方の中から治っていく人が一人でも出る方がはるかに社会のためになると思います。
事業を起ち上げたのも、ブログを書くのも、必要があるからこそ、やっているのです。


そういった意味では、いくらスケベ読者が増えようとも構いません。
どんどん情報を持っていけば良いのです。
だからといって、治るかどうかは別の話ですから。
というか、情報を得ただけでは治りません。
その情報からキモを読み解き、自分や我が子に作り変えなければ無理です。
私のブログは、マニュアルではなく、日々の子育てに活かすアイディアの欠片。


笑った話が、私が花風社さんの本を皆さんにお勧めしていたら、当地で5本指ソックスを履く人が増えたこと。
「お腹の中の育ちが」といえば、プールに通い始めた人がいて、身体を育てるといえば、体操教室に通い始めた人がいる。
どこまで素直なんだか、ものを考えていないのか分かりませんが、得た情報を目の前の子に落とし込まないとダメでしょ。


私が書いたブログや他から得た情報をそのままやっていたら、一週間、いくら時間があっても足りません。
私は「刺激の幅」「バリエーション」などとも言いますので、ありとあらゆる良いと思うものをどんどんやらせようとする親御さんがいます。
で、実際に私と接点があった方はお分かりでしょうが、やることを増やす方向性ではなく、削っていきますよね。
そして、本当に今、その子の発達で必要なものだけを残していく。
発達援助とは、ヒトを育てるとは、シンプルなんです。


さあ、ここからが当地在住のスケベ読者さんのお待ちかね、今日のおいしい情報。
私達は、子どもの発達のヌケを育てたいわけです。
発達援助がシンプルになるのは、ヒトの育ちをみればわかります。
たとえば、お腹の中の発達をやりなおそうとしたら、胎児の姿を連想する必要があります。
胎児は羊水の中で、たくさん動いていますね、その中にいる間中。
つまり、お腹の中をやり直す=プールや海で遊ぶ、までは良いのですが、プール教室に週に1回2回、1時間や2時間通っても足りないということ。
発達に必要な時期には、それをやりつくさなければならないのです。


ハイハイする赤ちゃんは、一日中、ハイハイしています。
ハイハイして疲れては休み、またハイハイをする。
それを眠る直前まで繰り返すのが赤ちゃん。
「今日の午前中は、ハイハイを頑張って、午後からはつかまり立ちをやろう。明日は、ズリバイの復習」などとはしないのです。
必要な時期に、とことんそれだけをやりつくすのがヒトの発達。
ハイハイをやり切ったあと、次の発達課題へと移っていくのです。
それが自然な発達の姿です。


不安や焦る気持ちから、いろんなことを目一杯に詰め込む親御さんは少なくありませんし、その気持ちもわかります。
でも、詰め込んで、いろんな経験をさせようとするのは、親御さん自身の焦りから目を背けているだけ。
親御さんが疲れて、こなしている活動に、子どもはその活動を楽しみ、育ちを味わうことができているといえるでしょうか。
大人が疲れるのですから、子どもはもっと疲れているはずです。


今、必要な刺激、今、必要な発達を、とことんやりつくす。
それこそが、発達することであり、ヒトを育てること。
週に数回、プール教室に行くよりも、毎日、ちょっとの時間でも、一緒に水で戯れる。
バリエーションをつけるとは、水での遊び方を変えたり、プール、お風呂、海など、環境を変えたりすること。
やみくもに、いろんな刺激を与えているだけでは、子ども自身が楽しめませんし、タスクのようにこなすだけになってしまいます。


赤ちゃんを見れば、発達がわかります。
赤ちゃんは、その時期、その時期でとことんやり続ける。
しかも、自ら楽しんで行っています。
ですから、情報を集めるだけではダメなのです。
その情報から着想しなければ。
「今、我が子は、何を育てたいのだろうか」と想像することが大事なのです。
そのためのアイディアの欠片です、このブログに書かれていることは。

2018年9月11日火曜日

変化に強いはずだよ、構造化された支援は

イレギュラーな状況にこそ、構造化された支援は力を発揮するのだと思います。
スケジュールやワークシステム等で、見通しを持たせると同時に、変更を伝えていく。
常日頃から変わらない部分と変わる部分を知り、経験することで、状況や環境の変化に対応できるようになるのです。


10年前、私が熱心にトレーニングを受けていたとき、まず最初に「日課、活動のルーティン化は避けなければならない」と教わりました。
“変化が苦手で、同じパターンを好むタイプの人達だからこそ、変化に対応できることを彼らは学ばなければならない。
もし変化に対応できず、同じパターンでしか行動できないとしたら、彼らの生活、人生は乏しいものになってしまうのだから。”


日本では、構造化された支援は「情報を整理し、彼らにわかりやすく伝える」「混乱を避けるためのもの」という側面ばかり強調されていますが、どちらかというと、トレーニングでは「変化に対応できる」という側面の方が強調されていたと感じます。
まあ、それは考えてみればわかることです。
もし、安定だけを目指すのなら、日課も、手順も、すべてパターン化してしまえばよいのですから。
まったく変化のない環境と日課を用意し、いつも同じようなことをやり続けさえすれば、混乱することはないでしょう。
でも、それではいけないから、構造化された支援を通して、変化と変更に対応できるように学んでいくのです。


今回もそうですが、自然災害等でイレギュラーな状況が起きたとき、常日頃、構造化された支援を熱心に行っている人達から悲痛の叫びと「配慮を」「理解を」の訴えが聞こえてくるのが不思議でなりません。
こういったイレギュラーな状況でも、落ち着いて生活できるために、日々、構造化された支援を学び、実施していたのではないでしょうか。
変化を伝え、変化に対応できるように育てるための構造化された支援なのに、「変化で困っています」「落ち着ける環境を用意してください」というのは、おかしなこと。
待ってましたとは言わないけれども、こういった状況でも、「私達は対応できるし、落ち着いて生活できています!」と日頃の成果を見せ、本領発揮するときだと思いますが…。


構造化された支援の本質を見抜き、大事なことは、ただ「視覚的に示す」「衝立を立てて刺激を統制する」「情報を整理する」ではなく、「変化に対応できる人に育てること」と理解している人もいるでしょう。
でも、大部分の人は本質ではなく、表面的なマネだけで終わっているのだと感じます。
だって、日本の構造化、ティーチ系支援者、保護者たちは、環境調整ばかりを訴える。
だから、自然災害が起きたときですら、避難所の環境ガー、周囲の理解ガーと、一般的な感覚とズレた主張を展開するのです。


私も、20代のときは熱心にティーチと構造化された支援を学んでいましたので、とても多く感じるのです。
ティーチや構造化に熱心な人というのは、ラクをしたがる人だ、と。
別の言い方をすれば、頑張れない人、コツコツと積み上げられない人、批判されると立ち直れない人が、ラクな方法へと飛びつく。


「構造化された支援は、準備が大変だし、みんな熱心に多くの支援グッズを作っているじゃないか」と言われるかもしれません。
確かに見た目では、スケジュールを作ったり、部屋の環境を整えたり、準備、手数が多いように見えます。
でも、私には「支援グッズを用意し“さえ”すればよい」「部屋の環境を整え“さえ”すればよい」という風に見えるのです。


支援グッズをたくさん作り、部屋を改良すれば、それで万事うまくいく、というのは勘違いですし、浅はかな考えだと私は思います。
その人のことをしっかり見て、人を育てようとしたら、そんなインスタントな発想にはなりません。
中には、自分がちゃんとやっていないと見られないために、支援グッズをせっせと作っている人もいるように感じます。
支援グッズが、支援する側のエクスキューズになっていることも。


いつも構造化された支援を推奨している支援者たちが、緊急時に不安定になっている人達を目の前にしても、「配慮ガー」「理解ガー」とやっている。
あなた達の推し進める支援とは、変化に対応でき、本人たちの生活と人生の幅を広げる支援ではなかったのか。
結局、平時も、緊急時も、社会や環境側に変わることを求めるのなら、その支援は無力ということではないのか。


社会と環境が問題の本質だとしたら、支援センターも、早期療育も、全部やめてしまえばよいのです。
そして、その分の人とお金で、まったく変化のない頑丈なシェルターを各地域に作ればよいと思います。
でも、そういった発想は出てこない。
ということは、当事者の人達というのは、支援者にとっての金を産むメンドリであり、主義主張のための道具なのです。
本当に目の前の人に幸せになってほしいと心から願うのなら、その人自身がより良い変化をし、自立した人生を歩めるような後押しに心血を注ぐはずですから。


変化のない環境を用意するよりも、変化に対応できる人に育てる方が現実的ですし、近道です。
確かに、変化に苦手な人達といえるでしょう。
でも、だからといって、変化に対応できる可能性がない人、ではありません。
変化が苦手なら、変わらない部分と変わる部分を作り、幅を広げていけば良いのです。
刺激にバリエーションをつけ、幅を広げていくのは、人を育てていく基本中の基本です。


日頃の刺激を統制しつつ、緊急時になって慌てて「ここに変化があります」と、いくら視覚的に伝えても、対応できるわけがありません。
だって、そもそも、その人自身、幅が狭いから。
でも、それは本人の特性ではなく、周囲の人間が刺激を統制し続けた結果だといえるのです。


構造化された支援を熱心にやっていたはずなのに、「うちは、構造化された支援やってます」と誇らしげに言っていたはずなのに、肝心なときに、その力が発揮できていない。
それは、日頃、手抜きをしているから。
人を育てるというのは、時間がかかるし、結果がすぐに出るものではありません。
でも、少しずつ手を変え、品を変え、受け入れられる刺激を増やしていくという試行錯誤を通して、その人自身の幅を広げていく。


これは感覚を育てるのも一緒。
「うちの子、発達障害で~、食べれるものが限られているんです。でも、私が甘やかしているからではないんですよ。特性です、特性。だから、配慮をー。残しますカードをー」
じゃなくて、食べられるものの幅を広げていこうと、試行錯誤するのが育てるということでしょ。
そして、食べられるものが増えるということは、それ自体、より良く生きることに繋がる、不測の事態でも生きぬける力となる。


「育てる手間を省くために、構造化された支援を頑張る」じゃあ、悲し過ぎます、本人が。
私は、本人の中に幅を作ってあげたいと思います。
育てるというのは、地味で、コツコツと積み上げていく時間のかかる営みではありますが、本人たちがどんな状況でも生き抜き、豊かな人生を歩んでいけるようにしていきたいのです。

2018年9月10日月曜日

当事者をお客様扱い

深夜の緊急地震速報に驚いて目を覚まし、スマホの画面を見ると、「北海道 道南」という文字が目に飛び込んできました。
ちょうど一年前くらいはミサイルが何発か飛んできましたが、北海道が大きな地震の震源地になるのは1、2度あったかな、という感じ。
ですから、「こりゃ、マズイな」と思った瞬間、家族で身を寄せ合っていました。


地震の揺れが止まって、テレビをつけようとしても、つきません。
そこで停電に気が付きました。
地震で停電になるのは初めてのことでしたので、北海道で大変なことが起きたと直感しました。
スマホやラジオで情報を集めると、胆振地方で震度7の大きな地震があったことがわかりました。


カセットコンロで調理した朝食を摂ったあと、小学生の息子を連れて街を歩きました。
止まったままの信号、真っ暗なお店、次々に出動する救急車、警察の方達が交通整理している姿…。
食材はストックがあったので、カセットコンロのガスボンベを買うためにお店にも並びました。
薄暗い店内で、何とも言えない重苦しい雰囲気の中、並び続け、1つだけガスボンベを購入しました。


余震が続いている中でしたので、息子を家において、私だけ買い出しに行くというのが適切だったかもしれません。
でも、息子には肌身で、今回のことを感じてほしかった。
当事者であることを求めたのです。
家にいて、ただの停電、お客様のような感じにはなってはならないと思ったのです。


函館の停電は、当日の夜くらいから段階的に復旧していきました。
私の家も、比較的早い段階で電気が通りましたので、充電やお手伝いすることがあれば、と思い、現在、発達援助で関わっているご家庭に連絡をしました。
すると、すぐに皆さんから返事が来て、無事であることがわかりました。
そして、子ども達が成長した様子も伝わってきました。


以前は、変化があるたびに不安定になっていた子が、急遽、学校が休みになっても、電気がつかないで、いつもの生活ができなくても、いい意味で淡々と過ごしていました。
家族を手伝うために買い出しをする子もいました。
親戚や知り合いの家に物を届けたりしていた子もいました。
真っ暗な中、反対にその非日常的な生活を楽しみ、遊びを考えていた子もいました。
震源地周辺の方達やこの夏の豪雨災害に遭われた方達と比べれば、直接的な被害があったわけではないので大したことはないかもしれませんが、子ども達の様子からは不測の事態の中でも、たくましく生きる姿を感じました。


今年の夏は、ご縁を頂き、広島に伺いました。
広島に伺う前には、休校になった学生たちや子ども達が、ボランティアとして復興のために汗を流していることを知り、伺ったときには、発達障害を持つ若者が仕事を頑張り、また仕事が終わったあとや休日などに、地域のために頑張っていることを知りました。


東日本大震災のときもそうでしたが、大きな災害が起きると、発達障害の人達は、こういったことに困っています、こういった配慮が必要です、と訴える支援者たちがいます。
しかし、私には違和感でしかありません。
訴えている内容が、平時のときと同じなのです。
「視覚的に伝えよう」
「見通しを持たせよう」
「一人になるスペースを作ろう」
「落ち着ける活動ができるようにしよう」


誰一人、見通しが持てない状況の中で、発達障害の人には「見通しを持たせよう」と訴える。
平時と同じ環境や活動は用意できないのに、「刺激の少ないスペースを用意しよう」と訴える。
中には、変化に弱いから、「なるべく日課は変えないようにしましょう」という人さえいる。
当然、こういった要望は叶えられるわけはないのに、「配慮が足りない」と周りのせいにしてしまう。
でも平時と同じことを言っているのですから、緊急時には役に立たない支援をしているということ。
責めるべきは、不測の事態に対応できるだけの育ちがない支援をしている自分たち、支援者ではないでしょうか。


人によっては、自然災害が起きたとき、配慮が必要な人もいるでしょう。
でも、みんながみんな、配慮を求めるだけの存在というわけでもないですし、いつまで経っても、配慮を求めるだけの存在でい続けるのも違うと思います。
自然災害が起きるたびに、「配慮を」「理解を」と訴える支援者の姿を見るたびに、発達障害の人達の持つ力、可能性を信じていないのだな、彼らの力を見くびっているのだな、と感じます。
どうして、発達障害の人達を、いつまでもお客様にしておこうとするのでしょうか。


同じ場所で被害にあったなら、彼らも同じ被災者。
そして、広島で地域の復興のために汗を流す若者たちと同じように、彼らも地域を担い、その地域を作っていく当事者のはずです。
社会、地域の一員として力を発揮できるように支援するのが、私達の大事な役割の一つだと思います。
いつまでも、「特別な存在」「配慮と理解を求めるだけの存在」に、彼らを留めておくのは間違っている。


オバケが怖い息子は、いつもあちこち電気をつけまくっていました。
でも、停電が終わったあと、自ら「ここは電気つけなくていいや」と、必要以上に電気をつけないようになりました。
息子は、今回、当事者になり、いろいろ感じたのだと思います。


日頃、発達援助で関わっている子ども達も、不安定にならないだけではなく、当事者として家族の手伝いをしていました。
たった数日の出来事ではありましたが、彼らは傍観者ではなく、当事者として主体的に過ごしたのだと思います。


息子や関わっている子ども達、若者たちの長い人生を考えると、彼らは何度も自然災害や不測の事態に遭遇するでしょうし、当事者になることもあるでしょう。
そんなとき、自分の命を守れることはもちろんのこと、守った命を誰かのために、地域、社会のために使える人になってほしいと思います。
そのための発達援助なのだと、今回、改めて感じました。


発達のヌケが埋まり、土台がしっかりすると、不測の事態が起きたときに、身体が自在に動かせるようになると思います。
まさに地を足に付けているからこそ、変化に合わせて動くことができるし、主体的に力を発揮できる。
土台がフワフワしていると、いつまで経っても、当事者意識が芽生えず、傍観者になってしまいます。
広島は大変な状況でしたが、汗を流す若者たちの姿に希望と未来を感じました。
そういった地域、社会の希望と未来になる若者たちを育てられるよう、私は発達援助を通して、子ども達と家族の後押しをしていきたいと思います。


今回、震災直後から、沢山の方達に心配して頂きました。
メールやSNS等で心配してくださった方たちの顔を想像すると、過去に災害の当事者になったことがある方であり、そういった不測の事態にすぐに身体が動く方達だったと感じました。
我が身のことのように感じたあと、そのまま怖がり続けるのではなく、行動に移せること。
そういった方達から頂いたメッセージには、力強さと優しさが溢れていました。
心配してくださった皆様、本当にありがとうございました。

2018年9月4日火曜日

決められた回数をこなしても、発達にはつながらない

この前、書いた『発達のヌケが埋まると、赤ちゃん返り、幼児返りが始まる」というブログにアクセスが集中しています。
これは日々、実践している人なら珍しくない現象ですし、ヒトの発達から考えれば、当然のお話。


初めての子育てで、こういったことがわからないというのは不思議ではありませんが、そんな親御さんのそばには一人や二人、支援者という人がいるはずですから、一言伝えれば済むだけだと思います。
タイトルの通り、「〇〇くんが赤ちゃん返りしているのは、発達で抜けたり、遅れていたりした部分が埋まったため、赤ちゃんのときにできなかった課題を育て始めたのですよ。退行が始まったわけではありません」と。
そうすれば、親御さんも悩むよりも、ポジティブに捉えられ、 「じゃあ、またそこの部分を育てていこう」と進んでいけるのに、と思うのです。
ナントカ療法も良いですが、発達障害の人達と関わっているのですから、もう少し、いや、ちゃんと発達について学ぶ必要があると思います。


「ちゃんと発達について学ぶ」といえば、最近、「運動を通して、発達を促そう。脳を育てていこう」という事業所が増えたような気がします。
発達障害の人達の身体や感覚、脳に注目し、運動を通して育てていく方向性を持ったところが増えたのは好ましく思いますが、中身を見ると、う~んと感じてしまうことも多々。
「これって、私が学生時代のとき、やっていたのと同じじゃん」と思うこともあります。


あの~、そろそろ回数の絵カードを使って、その提示されている数がすべてなくなったら終わり、みたいなのやめませんかね。
一回、抱っこされたら、一枚カードを処理する。
タイマーが鳴ったら、トランポリンを止めて、次のスケジュールに向かう。
確かに、運動を通して刺激し、育てていくことにはなっているのでしょうが、発達って、そういったもんじゃないでしょ。
支援者が決めた回数やって、「はい、10回、トランポリン跳んだから、発達ね」みたいなのは、違和感でしかないです。


発達って、子ども自身の内側にあるものであって、支援者が見たり、コントロールしたりするものではありません。
発達には回数も大事な要素ですが、それよりも、子ども自身が自主的に、楽しんで、やりきる、遊びきることで満たされ、進んでいくもの。
結局、回数を決めているのは、発達を保障しているのではなく、支援者がその子とその場をコントロールしているだけに感じます。
運動、身体を通して、より良く発達を促していくと謳っているのなら、子どもの発達を中心とした営みが行われるべきだと思います。


当地で言えば、構造化一辺倒の支援から、少しずつ変化しようとしているのでしょうが、まだまだ根深く残っているようにも感じます。
それは親御さんも同じで、「提示されたカードの枚数だけ行う」という支援が子育ての中にも入っていることがあります。


自分の親に対し、ベタベタしたり、身体接触や抱っこを求めたりする子がいます。
その理由は、発達が遅れているからかもしれませんし、発達のヌケが埋まり、やり残した課題を育てようとしているのかもしれません。
いずれにしろ、子どもの場合は特に自分自身を育てている場合が多いといえます。


しかし、そこで視覚的なコントロールをしてしまうと、十分に育っていけないのです。
本当は、親の匂いや感触、温かさを感じ、安心感を味わいたいのに、目の前でカードが減らされていく。
親御さんの方も、支援者の言葉を鵜呑みにしてしまい、「大きくなってもやったら問題になる」「他人にやってしまったら問題になる」と、親子の育みや交流よりも、回数とルールに意識が向いてしまう。
こうなると、子育てが療育になり、発達が満たされていかなくなります。


確かに、大きくなった子が、母親に抱っこを求めたらおかしいですし、体力的にも応じられないでしょう。
でも、そこで発達の欲求に応じず、制限を掛け続けていたら、そこの部分の発達は育っていきません。
ですから、現実的な姿で応じていくのが、基本だと考えています。
幼児の子なら抱っこはできますが、小学生くらいからは難しくなる。
だったら、本人が育てたい課題、要素を見極めた上で、抱っこじゃなくてハグにする、身体接触を伴う運動を一緒に楽しむなどに代えていくのです。


しかし、現実問題として限界がありますので、早いうちに、子どもが小さいうちに、発達を満たしていくのが良いのは確かです。
あまり詳しいことはいえませんが、性に関する問題を抱えている人達とも関わりがありましたし、あります。
そういった人達を見ていると、身体接触、求める欲求が赤ちゃん、幼児期の発達課題のやり残しからくるものという点で始まりは同じですが、問題となる人は、そこに思春期と重なった、という要件が加わった人ともいえます。
赤ちゃん、幼児期の発達課題のやり残しの上に、思春期が加わったとき、大きな問題となる。


いくら発達課題が残っていたとしても、身体面の発達は同世代の人達と同じように進んでいきます。
小学校の高学年、中学生くらいになれば、第二次性徴が始まり、身体的変化、ホルモンの盛んな分泌が行われます。
そういったときに、本当は母子の間での身体接触を通した発達だったのに、異性を求める欲求があらぬ方向へと向かわせます。
性に関する問題を抱える子、若者には、母子間の身体接触のやり残しが、異性の身体を執拗に求める行為として表れることがあるように感じます。


発達とはやり切ることで満たされ、そこには本人の主体性と楽しむ心が必要です。
決められた回数をやるという行動には、本当の意味で発達は存在しません。
発達とは、誰かが決めたメニューをこなせば達成するものではありません。
ましてや、親子での子育て、育みの中に、「5回やったら終わりね」「3分のタイマーが鳴ったら終わりね」などはあり得ないのです。
親が支援者になった途端、子育てが療育になり、支援になり、最後には介護になります。
時間や言葉を飛び越えた自然の中にこそ、本当の発達があるのです。
家庭こそ、自然であって欲しいと私は思います。