2018年9月18日火曜日

感情の伴わない発達援助は、存在しない

まず前回のブログの補足からです。
ブログを読んでくださった方から率直な感想をいただいたことで、浮かんできた内容です(気づきをを頂戴し、ありがとうございます!)。


家族での思い出は、特別なイベントに限ることはありません。
遊園地や旅行に出かけなくても、また出かけられなくても、一緒に誕生日を祝ったことでも、近くの公園に家族で遊びに行ったことでも良いと思います。
自分の両親ではなくても、おじいちゃんやおばあちゃんとの思い出でも良いでしょうし、生まれたとき、祖父母の腕の中で抱かれた写真が心の支え、愛されたことを実感するものになる場合もあると思います。
大事なのは、そこに温かい感情があるかどうか。


子どもは、自分の赤ちゃんのときの写真もよく見ますし、大人になってからも、自分が幼い頃の写真を見て、心が温かくなることがあると思います。
みんな頭の中ではそのときのことを覚えていないのに、です。
きっと記憶として残っていなかったとしても、身体はそのときの感情、周囲の空気感を覚えているのだと思います。
思い出の写真は、そのときの感情、心地良さを呼び起こすきっかけ。


ですから、子育て中のご家庭やおじいちゃん、おばあちゃんには、みんなで共に過ごした時間を写真として残しておいてほしいと思います。
また、そういった写真が残っていない、そういった思い出が残るような子ども時代ではなかったという方は、これから思い出を作っていけば良いのだと思います。
友だちと一緒に撮った写真が、10年後、20年後の自分へのメッセージになるかもしれません。


思い出の写真のように、感情の伴う活動こそが発達につながると私は考えています。
もし、感情がないまま活動をしていたとしたら、刺激は身体を通して脳に送られると思いますが、ただ脳内に刺激の通り道ができるだけだと思います。
その新しくできた通り道は、同じ活動を行う際、スムーズな動作をもたらすでしょう。
でも、動作を身に付けること、その動作をスムーズに、効率よくできるようになることが発達だとは思いません。
脳内全体で、同時に電気が走るような、脳の奥底から連動し合うような、そんな変化が発達と言えるのではないか、と私は思うのです。


発達を促すために、いろいろな遊び、活動を行います。
でも、発達とは、動作の獲得ではないと思います。
その動作を通して、脳全体を刺激し、奥底から脳全体を育てているといったイメージです。
そこが学習や技能獲得とは違うのだと思います。
新しい神経回路を作るのと、脳全体を育てていくのとの違い。
発達障害の子ども達が困っているのは、新しい神経回路を作っていけないからではなく、脳全体の育ちに課題があるからではないでしょうか。
だからこそ、私達は、上辺だけのテクニック獲得ではなく、発達のヌケの育て直し、土台から育てていこうとしています。


活動を発達に繋げる方法は、動作に感情をプラスすることだと思います。
感情を伴う動作、行動にこそ、発達を促す力があるのだと思います。
感情が司る部位は、脳の表面ではなく、中心部、土台に存在します。
だからこそ、脳全体的な発火が起き、刺激が駆け巡っていく。


感情を伴う活動は、脳全体を刺激し、育てていくと思います。
でも、その感情は、本人だけではなく、発達の後押しに関わっている人達も大事な要素になるはずです。
発達の後押しをしているものが、感情を伴っていないと、本人と感情を共有できていないと、活動自体が「動作をこなす」と意味になってしまうから。
本人の感情の動きに意識が向いていなければ、動作しか目に入ってこなくなります。
そうなると、いかにその動作をやらせようか、たくさん、しかも上手にやらせようか、になってしまうのです。


「言われた通りにやってみたんですが…」と言われる方は、子どもさんの感情に意識が向いていませんし、その感情と共有できるだけの気持ちを持っていないことが多いといえます。
ただ「発達を促そう」「とにかく今日の分は、ここまでやらせよう」
そんな一方的な感情しか持っていないこともあるように感じます。
それでは発達は起きません。
やっているのは、新しい神経回路を作っているだけ。
巷の療育が場面限定、応用が利かないのは、支援者が決めた行動を脳に刻んでいるだけだから。
そういった療育、支援、子育ての仕方が嫌だからこそ、発達援助、発達のヌケを育て治す道を選択されたのではないでしょうか。


私は、施設で働いていたとき、感情を伴っての支援していませんでした。
一つひとつ感情を持っていたら、一日として仕事ができなかったでしょう。
限られた人数で、大勢の利用者さんを見なければならない、また守らなければならない、しかも24時間連続勤務の中で。
そうなったとき、感情を捨て、淡々とこなすしかなかった。
支援する側がこなしている支援の中で、発達は起きません。
あるのは、支援者が管理しやすい行動を身に付けていくこと。
これは、支援者が描いた神経回路を脳内に刻んでいく作業ともいえます。


こういった過去を経験してきた私だからこそ、特に親御さん達にじっくり子どもと向き合うこと、発達を育んでいくことを願うのです。
そのためには、親御さん自体が忙しく、感情を伴わない私のような施設職員みたいな接し方をしてほしくないのです。
悲しいことに、まるで施設職員を見ているような親御さんがいます。
忙しくて、忙しくて、今日一日を終えるだけで精一杯。
そうなると、いつしか感情を伴わない関わりになる。
感情を伴わない時間では、思い出の写真も、発達も残っていかない。


子どもの発達を一番促すのが遊びなのは、そこに感情が伴っているからです。
また親御さんが、一緒になって楽しんで遊ぶと、発達がより進んでいくのは、感情を共有することで、より大きな感情を生み、そして親御さん自身も、その感情の動きに注目できるようになるからです。
発達援助がうまくいかないのは、やり方が間違っているわけではありません。
それよりも、親御さん自身の感情が伸びやかではないことの方が問題の場合があります。


感情を伴うからこそ、その動作は脳全体を育てることになる。
脳全体が育っていけば、新しい神経回路を作るのも、どんどんできるようになる。
私達は、新しい神経回路をその子の脳内にどんどん作っていきたいのでしょうか。
それとも、新しい神経回路を自分自身でどんどん作っていけるような脳を育てていきたいのでしょうか。
感情の伴わない発達援助は、存在しないはずです。

2018年9月16日日曜日

発達援助と思い出の家族写真

実際にお会いすると、その人の発達のデコボコは想像以上でした。
私は「相当、生きづらかったでしょう」と、感じたままの言葉が出ていました。
本人は生きづらさを抱えたまま、必死に生きてきたことを話してくれました。


「これだけ発達の課題を抱えたまま、どうして頑張ってこれたのだろう」と、私は率直に思いました。
しかし、その人の物語に心を傾けていると、理由がわかりました。
その人には、親から愛されたという実感がある。
そして家族で過ごした楽しい思い出があったのです。


成人した方達と接すると、感じることがあります。
みなさん、生きづらさを抱えたまま生きてこられたのは同じですが、その中でもなんとか自立した生活が送られている人達がいます。
じゃあ、生きづらさを抱えて、仕事ができない、一人で生活できない人と何が違うのか。
そこで感じるのが、子ども時代に家族との楽しい思い出があるかどうかが大きいのではないか、ということなんです。
どんなに今、生きづらかったとしても、最後の最後で踏ん張れるのは、愛された記憶と楽しい思い出だと私は思います。


発達のヌケや遅れを育て直すことは、子どもの人生を考えれば、とても大事なことです。
でも、子ども時代の中心が、「発達のヌケや遅れを育て直すこと」であって良いのだろうか、私は正直思います。
子どもが大人になり、自分の子ども時代を振り返ったとき、一番に思いだす記憶が発達援助というのは、本人にとって悲しいことではないでしょうか。


私は、発達援助とはシンプルな育みだと考えています。
ですから、親御さんにはシンプルな発達援助を提案します。
でも、そうやってシンプルにし、余裕のある発達援助にするのは、親御さんに伸びやかになってほしい、子どもさんに存分に刺激を味わってほしい、という願いからだけではないのです。
私のもう一つの大事な願いは、家族での思い出を作ってほしい、ということ。


発達課題の根っこを掴み、発達援助をシンプルにしたあとは、必ず「あとは家族みんなで、いろんな思い出をたくさん作ってください」と言っています。
それが将来、自分自身を支える杖になるからです。
人生、発達障害があるなしに関わらず、失敗や挫折もすれば、転んで起き上がれないこともあります。
そういったとき、踏ん張れる支えになるのが、起き上がるときの支えになるのが、家族との思い出だと思うのです。
本人が身に付けた技術や知識と同じように、家族との思い出も、生涯、誰にも奪われることはありません。


発達のヌケを育て直すのは、他人にはできません。
そして家族との思い出を作るのも、他人にはできないことなのです。
だからこそ、発達援助はシンプルに、あとは家族での思い出を作ることを心掛けてほしいと願うのです。


発達のヌケや遅れがなくても、生きづらさを抱えている人はいますし、自立した生活を送れない人もいます。
でも、発達のヌケや遅れがあり、生きづらさを抱えたままでも、自立して生活している人がいます。
そう考えると、弱肉強食のサバンナで生きる動物ではなくなったヒトにとって、愛されたという実感の方が生きてく上での支えになるのだと思います。


子どもというのは、自分の映った写真を見るのが大好きです。
何度も、何度も、アルバムを引っ張りだしてきては、同じ写真を一つずつ眺めていきます。
これは施設で働いていたとき、関わっていた子ども達も同じでした。
写真を眺める子ども達を見て、私は思うのです。
子ども達は写真を見ることで、そのときの感情を再び味わっているのではないか、と。
写真は、そのときの感情を呼び起こすための入り口。
実際は、写真を見ることで、愛されていた実感を、家族で伴に過ごした時間を感じ、愛着という土台を育てている。


発達援助を謳っている私が「家族での思い出を」と言うと、おかしなことのように感じられるかもしれません。
でも、成人した方達と関わる中で、家族との思い出のあるなしが大きな違いを生んでいるように感じるのです。
私の仕事は発達援助ですが、願っているのは、その人が自分の人生を伸びやかに、そして自立して生きていってもらうこと。
だから、発達援助と同じように、家族での思い出を作ってもらうことを提案しています。
発達のヌケを育て直すのと、家族での思い出作りは、自立した人生を歩んでいくための両輪だと思っています。


大人になっても、発達のヌケを育て直すことはできます。
でも、家族みんなの思い出を作れるのは、子ども時代という限られた時間であることが圧倒的に多い。
実際、過去には「家族でいっぱい写真を撮ってください」というアドバイスしかしていないご家庭もありました。
愛されている実感を得ると、発達のスピードが安定し、加速するということもあります。


家族みんなで過ごせる時間は、思っているより短いもの。
発達援助も大事ですが、それだけにならないようにしていただければと思います。
家族での思い出作りこそ、どんな有名な専門家にもできないことなのですから。

2018年9月15日土曜日

治そうとすればするほど、発達援助はシンプルになる

私が直接、相談や支援に関わらせていただくときは、やることを増やしていくよりは削っていく方が圧倒的に多いと言えます。
それまで、一生懸命いろいろな試みをやられていた親御さん程、「これだけでいいんですか」と驚かれます。


私がやってもらうことを削っていくのは、親御さんの力を信じていないからではなく、むしろ、子どもさんの発達のヌケを育て直せるのは親御さんしかいないと心から信じているからです。
親御さんの育てる力を信じているからこそ、私は発達の根っこを掴もうとするのです。


行ってもらう発達援助がシンプルになっていくのは、発達課題の根っこを手繰り寄せていくからです。
発達課題は一部分として存在するわけでも、いろいろなところに点在しているわけでもありません。
発達とは全体の調和と連動です。
ある発達課題があるとして、その発達課題は様々な部分と連動し合っています。
同時に、その発達課題の手前には別の発達があり、その別の発達の前にも発達がある。
発達は幾重にも重なり合っていながらも、全体としてつながっているのです。


発達にヌケや遅れがある子は、姿勢が保てなかったり、勉強ができなかったり、会話が難しかったり、人間関係が築けなかったり、様々な課題が見て取れます。
しかし、姿勢が保てないから体操、勉強ができないから家庭教師、会話が難しいから言葉の教室、人間関係が築けないから児童デイというように、表面に表れている課題を一つずつクリアしていこうとすると、やるべきことがどんどん増えていきます。
まるでモグラたたきをしているかのようです。
課題が出ては叩き、課題が出ては叩く。
そもそも課題が全くない人生などあり得ないですし、その子の持つ課題を親でも、他人でも、対応し続けることは不可能だといえます。


私は、その人の課題と向き合うとき、見えている課題とは枝葉だと考えています。
ですから、その枝葉が出ている幹を辿り、そして土の中の奥深くまで掘り続け、その課題の始まりである根っこを探ります。
掴んだ根っこを本人と親御さんに手渡し、そこを育ててもらうまでが私の仕事だといえます。


根っこの部分といえる発達のヌケから育てていくと、土台から元気になっていきます。
土台がしっかりし、幹がたくましくなり、枝葉が輝き始める。
発達障害の子どもの成長は「ドカン」というように表現されますが、それは根っこが元気になったため、土台から一気に成長したためだといえます。
しっかり発達課題の根っこを掴み、そこを育てた子は、急激な発達と成長を見せるものです。


「LDの子に合わせた学習支援」
「ASDに特化したソーシャルスキルトレーニング」
「発達障害の子向けの運動教室」
枝葉に合わせた支援や療育が溢れています。
でも、こういったところに通ったとしても、根本から生きづらさ、課題が治っていくことはありません。
課題の根っこに手が届いていないからです。
またサービスを提供する側も、枝葉を整えるというお客様が見て実感できる部分を整えているにすぎないからです。
別の言い方をすれば、私を含め、本人でも、家族でもない第三者の人間に、根っこを育てることはできないからこそ、枝葉を整えるしか提供できないのです。


土の上から出ている幹や枝葉は育てられますが、根っこは本人と家族にしか育てられません。
土の上は成長であり、根っこは発達だからです。
発達は、じっくり時間をかけて、育んでいかなければなりません。
また、それには発達の流れ、その子の物語を感じ、それに沿って行う必要があります。
第三者にはそれができないのです。


発達障害の人達は、受精から出生後、主に言語を獲得する以前の段階に発達のヌケや遅れが見られます。
この時期の自然な発達を見ると、主体である本人は、育む運動を存分に、時間という概念の無い世界で、とことんやり切ります。
言語を獲得した後の成長と比べると、明らかに違うのです。
勉強やスポーツなど、学習や技術の習得は、時間という概念の中、効率的に、かつ表面的に繰り広げられます。
しかし、ヒトとして生きていく上での大事な土台作りは、知識や技術、情報のやりとりではないのです。


「勉強ができるように育てる」と、「勉強ができる身体に育てる」は、全然違います。
その違いは、成長と発達、学習と育み、部分と全体、マニュアルとオートマの違いと似ています。
私達は、勉強ができる身体を育てたいわけですし、彼らの課題も、勉強ができないことではなく、勉強ができる身体に育っていないことが根本になります。
発達にヌケや遅れのある人は、勉強する年代になったから困っているのではなく、勉強、いや、言語を獲得する以前から困っていて、その生きづらさが勉強をきっかけに表面化しているに過ぎないのです。


以前関わっていた親御さんは、我が子のことを心から愛し、将来、自立できるようになってもらいたいと願っていたからこそ、いろんなところに通い、いろんなことを実践していました。
しかし、その子を目の前にして、どれも枝葉に対するアプローチにしかなっていないことがわかりました。
枝葉に対するアプローチがまったく無意味か、発達成長の刺激になっていないかと言われれば、そうではないと思いますが、発達課題の根っこが育たない限り、ドカンというような成長は見られませんし、治っていきません。
ですから私は、改めて親御さんと一緒にその子の発達課題の根っこを探っていき、突き当たった部分のみを集中して育ててもらうように提案しました。


私の提案に納得していただいた親御さんは、とことんその部分を育てるようになりました。
幾日も、幾日も、我が子がその発達課題と刺激を味わい尽くせるように付き合い続けました。
その結果、ドカンがやってきた。
発達の根っこから育ったその子は、ガラッと変わり、自らの足で発達、成長を始めました。
自らの足で歩み始めた子は、それまでの枝葉の刺激をも養分とし、たくましく育っていったのです。


私は、枝葉の療育、支援が好きではありません。
その療育や支援をしている人間が、「発達障害に特化したことをやっている」という雰囲気を出すのも嫌いです。
私は特化した療育、支援など、必要ないとすら思っています。
発達障害を持つ子に必要なのは、発達のヌケを育て直すことであり、根本から育っていくこと。
決して、特化した支援、サービスを受けるのがゴールではないと思います。
それに、その人自身の内側には、特化した療育、支援を飛び越えられるだけの成長する力、可能性を持っていると思います。
なんだか、「特化した療育、支援」には、提供する側が決めた枠が見えるのです。


発達課題の根っこから育てようとすれば、どんどん発達援助はシンプルになると思います。
私はできるだけシンプルになるようなお手伝いをし、その部分を家庭の中でじっくり育てて欲しいと願っています。
シンプルになればなるほど、その子は十分に発達と刺激を味わい返すことができます。
私は、発達の土台がしっかり育つと、自らの力で発達、成長していく子ども達をたくさん見てきました。
決して、彼らと二人三脚するのが素晴らしい支援だとは思いません。
それは真の意味で自立したことにならないからです。


私の仕事、役割は、土の中を掘っていき、課題の根っことなる部分を探り当てること。
課題の根っこを掴んだら、それを本人と家族に手渡し、じっくり育むことをお願いします。
今、定期的に利用してくださっている皆さんは、私の次の訪問まで、とことん根っこを育ててもらいます。
そして私は育ち具合を確認し、感想と今後の見通しを伝えます。
枝葉の仕事は、生きている限り、永遠に仕事を作り続けることができます。
しかし、根っこから育てれば、必ず終わりが来るもの。
ドカンが来れば、私の援助は終了です。

2018年9月13日木曜日

子育てをきっかけに、溢れ出てくる自分の課題

子育てをきっかけに、自分の内側にある課題が表れてくる人がいます。
「どのように育てたら良いか分からない」
「どのように愛したら良いか分からない」
「何が正しくて、何が間違っているか分からない」


こういった発言は、発達障害を持つ子ゆえの悩みにも聞こえます。
でも、実際は、子どもと向き合うこと自体の悩み。
大なり小なり、子育てに悩みはつきもの。
ただ悩みの根っこが違うのです。


子どもと向き合おうとすると、子ども時代の自分が投影される。
その自分の顔が穏やかなら、“我が子”の子育てについて悩みます。
しかし、投影された子ども時代の自分の顔が辛そうだったり、悲しそうだったり、寂しそうだったりすると、我が子と向き合うこと自体に悩むのです。
いや、本当は、子ども時代の“自分”と向き合うことに悩み、苦しんでいる。


地域には、「子育て相談室」のようなものが常設されているが、いつも閑古鳥が鳴いています。
そんなにそんなに、第三者の他人に、我が子の子育ての相談はしないもの。
だけれども、我が子に「発達の遅れ」が見つかった瞬間から、第三者に相談する機会がやってくる。


子どもに発達の遅れがあると、第三者に子育ての相談をすることが違和感でなくなる。
だからこそ、本来は発達障害の子を育てるための相談をしているはずが、いつしか私の子どもとの向き合い方、そして最後の砦、私の子ども時代の苦しみまで辿りついてしまう。
普通、特別支援の世界に入らなければ、最後の砦まで辿りつくまで相談の機会は得られないもの。


特別支援の世界は、愛着に課題を残したままの人で溢れています。
そういった支援者は、悩み、苦しんでいる親御さんを傍に置くことで、自分の存在価値を確認し、自己治療を行います。
よく仕事上だけではなく、プライベートまで入っていく支援者がいます。
仕事の時間が終わったあとも、親御さんに連絡したり、個人的な携帯で連絡をとりあったり、自分の職責が及ばないところまで介入しようとしたり…。


子ども時代、満たされなかった想いがある親御さんが支援者に依存し、丸抱えされることを心地良く感じてしまう。
支援者は、悩み、苦しむ親御さんが、自分の傍から離れないことを実感することで、自己治療を行う。
その両者の間には、子どもの存在が見えなくなっている。
子どもは、子どもの発達障害は、大人たちの自己治療のきっかけになる。
だから、支援者と親御さんの距離が近すぎる家庭の子は、成長しないし、生きづらさを抱えたまま。


「発達のヌケを育てるには、どうしたらよいか分からない」と、「どのように育てたらよいかわからない」は、意味することが全然違います。
前者が、我が子の子育てに関する悩みであるのに対し、後者は自分の存在が掴めずに悩んでいる。
そもそも子どもの育て方にマニュアルも、正解もありません。
だからこそ、自分自身の土台がしっかりしている必要がある。
主体性が育っていることが大事で、その主体性を発揮することで、そのとき、そのとき、ベストだと思う選択を繰り返していく。
主体性が育っていないから、「どのように育てたらよいか分からない」という疑問が出てくる。


自分自身の土台は、胎児、乳幼少期、子ども時代に培われる。
しかし、その土台作りが十分に行えず、課題を残したまま、大人になり、親になると、再びその課題と向き合わなければなくなる。
学校の中ではマニュアル人間でも卒業できるし、仕事も選べば、主体性や選択をしないで済むものもある。
でも、子育てにマニュアルはないし、親としての主体性が求められる。
なので、子どもと向き合ったとき、自分自身の課題が表面化してくるし、特別支援の世界は、とことんその課題を味わい尽くそうとする支援者がいるために、課題の大部分が溢れ出てしまう。


支援者に依存している親御さんは少なくない。
また親御さんを丸抱えすることで自己治療をしている支援者も少なくない。
だから、居場所をなくした子どもが別のところに行ってしまう。
自己治療に忙しい支援者と親御さんが、子育てを外注してしまう。


子育てとは、育むもの。
その育みは、家庭、親子の間で、十分に交わり、味わい、やり切ることで、実を結ぶ。
じっくりと子どもの発達と向き合い、育んでいくには、親御さん自体、しっかり地面を掴み、立てている必要がある。
子どもを育んでいくには、親御さんの踏ん張れる身体、土台が必要なのです。
そのために、インスタントに支援者に依存するのではなく、自分の課題と向き合い、治していく必要があります。

2018年9月12日水曜日

スケベ読者

当地には、スケベ読者がいるようですね。
私が言ったこと、書いたことを、そのまま言ったり、実践したりしている人達がいるそうです。
「大久保さんが書いたまんま、言っていましたよ」
なんて話も聞きます。
でも、私は気にも留めません。
別に、特別な情報を載せているわけでもありませんし、私しか知り得ない情報でもありませんから。
書いてある情報をどのように料理するかは、個人にかかっていますので。


私が「スケベ読者」というのは、言葉をそのまま持っていくからではありません。
本当は実際の発達援助が気になるし、「治る」をもっと知りたいのに、個人的にアプローチしてこないからです。
「なんかおいしい情報がないかな」と、陰からこそっと覗き見て帰っていくその姿からの連想です。
しかも、覗き見だけで止めてしまう理由が、地元の支援者に目を付けられないためって、オイ。
たとえ利用回数を減らされたとしても、嫌味の一つ二つ言われたとしても、治ってしまえばこっちのものなのにね。


いろんな方から、「ブログに情報を載せ過ぎじゃないか」と言われることがあります。
まあ、考えてみれば、匂わす程度に情報を抑え、「ご利用はこちら」とすれば、商売としては利益につながるのかもしれません。
でも、私の仕事は、本人や家族の間で治っていくための後押しですし、腕の見せ所は、発達の物語を描くことと、発達のヌケと育て方を見抜くこと。
ですから、私がいくらブログに情報を載せようとも、仕事のニーズに変化はないと思います。


それに時々、ブログを読んでくださった方からメールを頂くことがあります。
ブログからヒントを得て、発達援助を行ったら、治っていった、と。
こういった方たちのように、私がブログを書く意図を見抜き、書かれている情報から着想を得て、治していける人たちもいます。
事業としては利益を出すことが大事ですが、それよりもより良い社会になる方がずっと大事。
私が情報を小出しにして小銭を稼ぐよりも、ブログを読んだ方の中から治っていく人が一人でも出る方がはるかに社会のためになると思います。
事業を起ち上げたのも、ブログを書くのも、必要があるからこそ、やっているのです。


そういった意味では、いくらスケベ読者が増えようとも構いません。
どんどん情報を持っていけば良いのです。
だからといって、治るかどうかは別の話ですから。
というか、情報を得ただけでは治りません。
その情報からキモを読み解き、自分や我が子に作り変えなければ無理です。
私のブログは、マニュアルではなく、日々の子育てに活かすアイディアの欠片。


笑った話が、私が花風社さんの本を皆さんにお勧めしていたら、当地で5本指ソックスを履く人が増えたこと。
「お腹の中の育ちが」といえば、プールに通い始めた人がいて、身体を育てるといえば、体操教室に通い始めた人がいる。
どこまで素直なんだか、ものを考えていないのか分かりませんが、得た情報を目の前の子に落とし込まないとダメでしょ。


私が書いたブログや他から得た情報をそのままやっていたら、一週間、いくら時間があっても足りません。
私は「刺激の幅」「バリエーション」などとも言いますので、ありとあらゆる良いと思うものをどんどんやらせようとする親御さんがいます。
で、実際に私と接点があった方はお分かりでしょうが、やることを増やす方向性ではなく、削っていきますよね。
そして、本当に今、その子の発達で必要なものだけを残していく。
発達援助とは、ヒトを育てるとは、シンプルなんです。


さあ、ここからが当地在住のスケベ読者さんのお待ちかね、今日のおいしい情報。
私達は、子どもの発達のヌケを育てたいわけです。
発達援助がシンプルになるのは、ヒトの育ちをみればわかります。
たとえば、お腹の中の発達をやりなおそうとしたら、胎児の姿を連想する必要があります。
胎児は羊水の中で、たくさん動いていますね、その中にいる間中。
つまり、お腹の中をやり直す=プールや海で遊ぶ、までは良いのですが、プール教室に週に1回2回、1時間や2時間通っても足りないということ。
発達に必要な時期には、それをやりつくさなければならないのです。


ハイハイする赤ちゃんは、一日中、ハイハイしています。
ハイハイして疲れては休み、またハイハイをする。
それを眠る直前まで繰り返すのが赤ちゃん。
「今日の午前中は、ハイハイを頑張って、午後からはつかまり立ちをやろう。明日は、ズリバイの復習」などとはしないのです。
必要な時期に、とことんそれだけをやりつくすのがヒトの発達。
ハイハイをやり切ったあと、次の発達課題へと移っていくのです。
それが自然な発達の姿です。


不安や焦る気持ちから、いろんなことを目一杯に詰め込む親御さんは少なくありませんし、その気持ちもわかります。
でも、詰め込んで、いろんな経験をさせようとするのは、親御さん自身の焦りから目を背けているだけ。
親御さんが疲れて、こなしている活動に、子どもはその活動を楽しみ、育ちを味わうことができているといえるでしょうか。
大人が疲れるのですから、子どもはもっと疲れているはずです。


今、必要な刺激、今、必要な発達を、とことんやりつくす。
それこそが、発達することであり、ヒトを育てること。
週に数回、プール教室に行くよりも、毎日、ちょっとの時間でも、一緒に水で戯れる。
バリエーションをつけるとは、水での遊び方を変えたり、プール、お風呂、海など、環境を変えたりすること。
やみくもに、いろんな刺激を与えているだけでは、子ども自身が楽しめませんし、タスクのようにこなすだけになってしまいます。


赤ちゃんを見れば、発達がわかります。
赤ちゃんは、その時期、その時期でとことんやり続ける。
しかも、自ら楽しんで行っています。
ですから、情報を集めるだけではダメなのです。
その情報から着想しなければ。
「今、我が子は、何を育てたいのだろうか」と想像することが大事なのです。
そのためのアイディアの欠片です、このブログに書かれていることは。

2018年9月11日火曜日

変化に強いはずだよ、構造化された支援は

イレギュラーな状況にこそ、構造化された支援は力を発揮するのだと思います。
スケジュールやワークシステム等で、見通しを持たせると同時に、変更を伝えていく。
常日頃から変わらない部分と変わる部分を知り、経験することで、状況や環境の変化に対応できるようになるのです。


10年前、私が熱心にトレーニングを受けていたとき、まず最初に「日課、活動のルーティン化は避けなければならない」と教わりました。
“変化が苦手で、同じパターンを好むタイプの人達だからこそ、変化に対応できることを彼らは学ばなければならない。
もし変化に対応できず、同じパターンでしか行動できないとしたら、彼らの生活、人生は乏しいものになってしまうのだから。”


日本では、構造化された支援は「情報を整理し、彼らにわかりやすく伝える」「混乱を避けるためのもの」という側面ばかり強調されていますが、どちらかというと、トレーニングでは「変化に対応できる」という側面の方が強調されていたと感じます。
まあ、それは考えてみればわかることです。
もし、安定だけを目指すのなら、日課も、手順も、すべてパターン化してしまえばよいのですから。
まったく変化のない環境と日課を用意し、いつも同じようなことをやり続けさえすれば、混乱することはないでしょう。
でも、それではいけないから、構造化された支援を通して、変化と変更に対応できるように学んでいくのです。


今回もそうですが、自然災害等でイレギュラーな状況が起きたとき、常日頃、構造化された支援を熱心に行っている人達から悲痛の叫びと「配慮を」「理解を」の訴えが聞こえてくるのが不思議でなりません。
こういったイレギュラーな状況でも、落ち着いて生活できるために、日々、構造化された支援を学び、実施していたのではないでしょうか。
変化を伝え、変化に対応できるように育てるための構造化された支援なのに、「変化で困っています」「落ち着ける環境を用意してください」というのは、おかしなこと。
待ってましたとは言わないけれども、こういった状況でも、「私達は対応できるし、落ち着いて生活できています!」と日頃の成果を見せ、本領発揮するときだと思いますが…。


構造化された支援の本質を見抜き、大事なことは、ただ「視覚的に示す」「衝立を立てて刺激を統制する」「情報を整理する」ではなく、「変化に対応できる人に育てること」と理解している人もいるでしょう。
でも、大部分の人は本質ではなく、表面的なマネだけで終わっているのだと感じます。
だって、日本の構造化、ティーチ系支援者、保護者たちは、環境調整ばかりを訴える。
だから、自然災害が起きたときですら、避難所の環境ガー、周囲の理解ガーと、一般的な感覚とズレた主張を展開するのです。


私も、20代のときは熱心にティーチと構造化された支援を学んでいましたので、とても多く感じるのです。
ティーチや構造化に熱心な人というのは、ラクをしたがる人だ、と。
別の言い方をすれば、頑張れない人、コツコツと積み上げられない人、批判されると立ち直れない人が、ラクな方法へと飛びつく。


「構造化された支援は、準備が大変だし、みんな熱心に多くの支援グッズを作っているじゃないか」と言われるかもしれません。
確かに見た目では、スケジュールを作ったり、部屋の環境を整えたり、準備、手数が多いように見えます。
でも、私には「支援グッズを用意し“さえ”すればよい」「部屋の環境を整え“さえ”すればよい」という風に見えるのです。


支援グッズをたくさん作り、部屋を改良すれば、それで万事うまくいく、というのは勘違いですし、浅はかな考えだと私は思います。
その人のことをしっかり見て、人を育てようとしたら、そんなインスタントな発想にはなりません。
中には、自分がちゃんとやっていないと見られないために、支援グッズをせっせと作っている人もいるように感じます。
支援グッズが、支援する側のエクスキューズになっていることも。


いつも構造化された支援を推奨している支援者たちが、緊急時に不安定になっている人達を目の前にしても、「配慮ガー」「理解ガー」とやっている。
あなた達の推し進める支援とは、変化に対応でき、本人たちの生活と人生の幅を広げる支援ではなかったのか。
結局、平時も、緊急時も、社会や環境側に変わることを求めるのなら、その支援は無力ということではないのか。


社会と環境が問題の本質だとしたら、支援センターも、早期療育も、全部やめてしまえばよいのです。
そして、その分の人とお金で、まったく変化のない頑丈なシェルターを各地域に作ればよいと思います。
でも、そういった発想は出てこない。
ということは、当事者の人達というのは、支援者にとっての金を産むメンドリであり、主義主張のための道具なのです。
本当に目の前の人に幸せになってほしいと心から願うのなら、その人自身がより良い変化をし、自立した人生を歩めるような後押しに心血を注ぐはずですから。


変化のない環境を用意するよりも、変化に対応できる人に育てる方が現実的ですし、近道です。
確かに、変化に苦手な人達といえるでしょう。
でも、だからといって、変化に対応できる可能性がない人、ではありません。
変化が苦手なら、変わらない部分と変わる部分を作り、幅を広げていけば良いのです。
刺激にバリエーションをつけ、幅を広げていくのは、人を育てていく基本中の基本です。


日頃の刺激を統制しつつ、緊急時になって慌てて「ここに変化があります」と、いくら視覚的に伝えても、対応できるわけがありません。
だって、そもそも、その人自身、幅が狭いから。
でも、それは本人の特性ではなく、周囲の人間が刺激を統制し続けた結果だといえるのです。


構造化された支援を熱心にやっていたはずなのに、「うちは、構造化された支援やってます」と誇らしげに言っていたはずなのに、肝心なときに、その力が発揮できていない。
それは、日頃、手抜きをしているから。
人を育てるというのは、時間がかかるし、結果がすぐに出るものではありません。
でも、少しずつ手を変え、品を変え、受け入れられる刺激を増やしていくという試行錯誤を通して、その人自身の幅を広げていく。


これは感覚を育てるのも一緒。
「うちの子、発達障害で~、食べれるものが限られているんです。でも、私が甘やかしているからではないんですよ。特性です、特性。だから、配慮をー。残しますカードをー」
じゃなくて、食べられるものの幅を広げていこうと、試行錯誤するのが育てるということでしょ。
そして、食べられるものが増えるということは、それ自体、より良く生きることに繋がる、不測の事態でも生きぬける力となる。


「育てる手間を省くために、構造化された支援を頑張る」じゃあ、悲し過ぎます、本人が。
私は、本人の中に幅を作ってあげたいと思います。
育てるというのは、地味で、コツコツと積み上げていく時間のかかる営みではありますが、本人たちがどんな状況でも生き抜き、豊かな人生を歩んでいけるようにしていきたいのです。

2018年9月10日月曜日

当事者をお客様扱い

深夜の緊急地震速報に驚いて目を覚まし、スマホの画面を見ると、「北海道 道南」という文字が目に飛び込んできました。
ちょうど一年前くらいはミサイルが何発か飛んできましたが、北海道が大きな地震の震源地になるのは1、2度あったかな、という感じ。
ですから、「こりゃ、マズイな」と思った瞬間、家族で身を寄せ合っていました。


地震の揺れが止まって、テレビをつけようとしても、つきません。
そこで停電に気が付きました。
地震で停電になるのは初めてのことでしたので、北海道で大変なことが起きたと直感しました。
スマホやラジオで情報を集めると、胆振地方で震度7の大きな地震があったことがわかりました。


カセットコンロで調理した朝食を摂ったあと、小学生の息子を連れて街を歩きました。
止まったままの信号、真っ暗なお店、次々に出動する救急車、警察の方達が交通整理している姿…。
食材はストックがあったので、カセットコンロのガスボンベを買うためにお店にも並びました。
薄暗い店内で、何とも言えない重苦しい雰囲気の中、並び続け、1つだけガスボンベを購入しました。


余震が続いている中でしたので、息子を家において、私だけ買い出しに行くというのが適切だったかもしれません。
でも、息子には肌身で、今回のことを感じてほしかった。
当事者であることを求めたのです。
家にいて、ただの停電、お客様のような感じにはなってはならないと思ったのです。


函館の停電は、当日の夜くらいから段階的に復旧していきました。
私の家も、比較的早い段階で電気が通りましたので、充電やお手伝いすることがあれば、と思い、現在、発達援助で関わっているご家庭に連絡をしました。
すると、すぐに皆さんから返事が来て、無事であることがわかりました。
そして、子ども達が成長した様子も伝わってきました。


以前は、変化があるたびに不安定になっていた子が、急遽、学校が休みになっても、電気がつかないで、いつもの生活ができなくても、いい意味で淡々と過ごしていました。
家族を手伝うために買い出しをする子もいました。
親戚や知り合いの家に物を届けたりしていた子もいました。
真っ暗な中、反対にその非日常的な生活を楽しみ、遊びを考えていた子もいました。
震源地周辺の方達やこの夏の豪雨災害に遭われた方達と比べれば、直接的な被害があったわけではないので大したことはないかもしれませんが、子ども達の様子からは不測の事態の中でも、たくましく生きる姿を感じました。


今年の夏は、ご縁を頂き、広島に伺いました。
広島に伺う前には、休校になった学生たちや子ども達が、ボランティアとして復興のために汗を流していることを知り、伺ったときには、発達障害を持つ若者が仕事を頑張り、また仕事が終わったあとや休日などに、地域のために頑張っていることを知りました。


東日本大震災のときもそうでしたが、大きな災害が起きると、発達障害の人達は、こういったことに困っています、こういった配慮が必要です、と訴える支援者たちがいます。
しかし、私には違和感でしかありません。
訴えている内容が、平時のときと同じなのです。
「視覚的に伝えよう」
「見通しを持たせよう」
「一人になるスペースを作ろう」
「落ち着ける活動ができるようにしよう」


誰一人、見通しが持てない状況の中で、発達障害の人には「見通しを持たせよう」と訴える。
平時と同じ環境や活動は用意できないのに、「刺激の少ないスペースを用意しよう」と訴える。
中には、変化に弱いから、「なるべく日課は変えないようにしましょう」という人さえいる。
当然、こういった要望は叶えられるわけはないのに、「配慮が足りない」と周りのせいにしてしまう。
でも平時と同じことを言っているのですから、緊急時には役に立たない支援をしているということ。
責めるべきは、不測の事態に対応できるだけの育ちがない支援をしている自分たち、支援者ではないでしょうか。


人によっては、自然災害が起きたとき、配慮が必要な人もいるでしょう。
でも、みんながみんな、配慮を求めるだけの存在というわけでもないですし、いつまで経っても、配慮を求めるだけの存在でい続けるのも違うと思います。
自然災害が起きるたびに、「配慮を」「理解を」と訴える支援者の姿を見るたびに、発達障害の人達の持つ力、可能性を信じていないのだな、彼らの力を見くびっているのだな、と感じます。
どうして、発達障害の人達を、いつまでもお客様にしておこうとするのでしょうか。


同じ場所で被害にあったなら、彼らも同じ被災者。
そして、広島で地域の復興のために汗を流す若者たちと同じように、彼らも地域を担い、その地域を作っていく当事者のはずです。
社会、地域の一員として力を発揮できるように支援するのが、私達の大事な役割の一つだと思います。
いつまでも、「特別な存在」「配慮と理解を求めるだけの存在」に、彼らを留めておくのは間違っている。


オバケが怖い息子は、いつもあちこち電気をつけまくっていました。
でも、停電が終わったあと、自ら「ここは電気つけなくていいや」と、必要以上に電気をつけないようになりました。
息子は、今回、当事者になり、いろいろ感じたのだと思います。


日頃、発達援助で関わっている子ども達も、不安定にならないだけではなく、当事者として家族の手伝いをしていました。
たった数日の出来事ではありましたが、彼らは傍観者ではなく、当事者として主体的に過ごしたのだと思います。


息子や関わっている子ども達、若者たちの長い人生を考えると、彼らは何度も自然災害や不測の事態に遭遇するでしょうし、当事者になることもあるでしょう。
そんなとき、自分の命を守れることはもちろんのこと、守った命を誰かのために、地域、社会のために使える人になってほしいと思います。
そのための発達援助なのだと、今回、改めて感じました。


発達のヌケが埋まり、土台がしっかりすると、不測の事態が起きたときに、身体が自在に動かせるようになると思います。
まさに地を足に付けているからこそ、変化に合わせて動くことができるし、主体的に力を発揮できる。
土台がフワフワしていると、いつまで経っても、当事者意識が芽生えず、傍観者になってしまいます。
広島は大変な状況でしたが、汗を流す若者たちの姿に希望と未来を感じました。
そういった地域、社会の希望と未来になる若者たちを育てられるよう、私は発達援助を通して、子ども達と家族の後押しをしていきたいと思います。


今回、震災直後から、沢山の方達に心配して頂きました。
メールやSNS等で心配してくださった方たちの顔を想像すると、過去に災害の当事者になったことがある方であり、そういった不測の事態にすぐに身体が動く方達だったと感じました。
我が身のことのように感じたあと、そのまま怖がり続けるのではなく、行動に移せること。
そういった方達から頂いたメッセージには、力強さと優しさが溢れていました。
心配してくださった皆様、本当にありがとうございました。

2018年9月4日火曜日

決められた回数をこなしても、発達にはつながらない

この前、書いた『発達のヌケが埋まると、赤ちゃん返り、幼児返りが始まる」というブログにアクセスが集中しています。
これは日々、実践している人なら珍しくない現象ですし、ヒトの発達から考えれば、当然のお話。


初めての子育てで、こういったことがわからないというのは不思議ではありませんが、そんな親御さんのそばには一人や二人、支援者という人がいるはずですから、一言伝えれば済むだけだと思います。
タイトルの通り、「〇〇くんが赤ちゃん返りしているのは、発達で抜けたり、遅れていたりした部分が埋まったため、赤ちゃんのときにできなかった課題を育て始めたのですよ。退行が始まったわけではありません」と。
そうすれば、親御さんも悩むよりも、ポジティブに捉えられ、 「じゃあ、またそこの部分を育てていこう」と進んでいけるのに、と思うのです。
ナントカ療法も良いですが、発達障害の人達と関わっているのですから、もう少し、いや、ちゃんと発達について学ぶ必要があると思います。


「ちゃんと発達について学ぶ」といえば、最近、「運動を通して、発達を促そう。脳を育てていこう」という事業所が増えたような気がします。
発達障害の人達の身体や感覚、脳に注目し、運動を通して育てていく方向性を持ったところが増えたのは好ましく思いますが、中身を見ると、う~んと感じてしまうことも多々。
「これって、私が学生時代のとき、やっていたのと同じじゃん」と思うこともあります。


あの~、そろそろ回数の絵カードを使って、その提示されている数がすべてなくなったら終わり、みたいなのやめませんかね。
一回、抱っこされたら、一枚カードを処理する。
タイマーが鳴ったら、トランポリンを止めて、次のスケジュールに向かう。
確かに、運動を通して刺激し、育てていくことにはなっているのでしょうが、発達って、そういったもんじゃないでしょ。
支援者が決めた回数やって、「はい、10回、トランポリン跳んだから、発達ね」みたいなのは、違和感でしかないです。


発達って、子ども自身の内側にあるものであって、支援者が見たり、コントロールしたりするものではありません。
発達には回数も大事な要素ですが、それよりも、子ども自身が自主的に、楽しんで、やりきる、遊びきることで満たされ、進んでいくもの。
結局、回数を決めているのは、発達を保障しているのではなく、支援者がその子とその場をコントロールしているだけに感じます。
運動、身体を通して、より良く発達を促していくと謳っているのなら、子どもの発達を中心とした営みが行われるべきだと思います。


当地で言えば、構造化一辺倒の支援から、少しずつ変化しようとしているのでしょうが、まだまだ根深く残っているようにも感じます。
それは親御さんも同じで、「提示されたカードの枚数だけ行う」という支援が子育ての中にも入っていることがあります。


自分の親に対し、ベタベタしたり、身体接触や抱っこを求めたりする子がいます。
その理由は、発達が遅れているからかもしれませんし、発達のヌケが埋まり、やり残した課題を育てようとしているのかもしれません。
いずれにしろ、子どもの場合は特に自分自身を育てている場合が多いといえます。


しかし、そこで視覚的なコントロールをしてしまうと、十分に育っていけないのです。
本当は、親の匂いや感触、温かさを感じ、安心感を味わいたいのに、目の前でカードが減らされていく。
親御さんの方も、支援者の言葉を鵜呑みにしてしまい、「大きくなってもやったら問題になる」「他人にやってしまったら問題になる」と、親子の育みや交流よりも、回数とルールに意識が向いてしまう。
こうなると、子育てが療育になり、発達が満たされていかなくなります。


確かに、大きくなった子が、母親に抱っこを求めたらおかしいですし、体力的にも応じられないでしょう。
でも、そこで発達の欲求に応じず、制限を掛け続けていたら、そこの部分の発達は育っていきません。
ですから、現実的な姿で応じていくのが、基本だと考えています。
幼児の子なら抱っこはできますが、小学生くらいからは難しくなる。
だったら、本人が育てたい課題、要素を見極めた上で、抱っこじゃなくてハグにする、身体接触を伴う運動を一緒に楽しむなどに代えていくのです。


しかし、現実問題として限界がありますので、早いうちに、子どもが小さいうちに、発達を満たしていくのが良いのは確かです。
あまり詳しいことはいえませんが、性に関する問題を抱えている人達とも関わりがありましたし、あります。
そういった人達を見ていると、身体接触、求める欲求が赤ちゃん、幼児期の発達課題のやり残しからくるものという点で始まりは同じですが、問題となる人は、そこに思春期と重なった、という要件が加わった人ともいえます。
赤ちゃん、幼児期の発達課題のやり残しの上に、思春期が加わったとき、大きな問題となる。


いくら発達課題が残っていたとしても、身体面の発達は同世代の人達と同じように進んでいきます。
小学校の高学年、中学生くらいになれば、第二次性徴が始まり、身体的変化、ホルモンの盛んな分泌が行われます。
そういったときに、本当は母子の間での身体接触を通した発達だったのに、異性を求める欲求があらぬ方向へと向かわせます。
性に関する問題を抱える子、若者には、母子間の身体接触のやり残しが、異性の身体を執拗に求める行為として表れることがあるように感じます。


発達とはやり切ることで満たされ、そこには本人の主体性と楽しむ心が必要です。
決められた回数をやるという行動には、本当の意味で発達は存在しません。
発達とは、誰かが決めたメニューをこなせば達成するものではありません。
ましてや、親子での子育て、育みの中に、「5回やったら終わりね」「3分のタイマーが鳴ったら終わりね」などはあり得ないのです。
親が支援者になった途端、子育てが療育になり、支援になり、最後には介護になります。
時間や言葉を飛び越えた自然の中にこそ、本当の発達があるのです。
家庭こそ、自然であって欲しいと私は思います。

2018年9月1日土曜日

診断名は範囲であり、どの人にも飛び越えるチャンスがある!

「どうして、その支援方法なんですか?」と尋ねると、「自閉症だから」「LDだから」「発達障害だから」という言葉が返ってくることがあります。
「いやいや、障害名を訊いているのではなくて、その支援方法を選択した根拠、理由を尋ねているんです」と言っても、同じことしか返ってきません。
こういった噛みあわない問答が支援者同士で繰り返されるのですから、一般の人との間で理解し合える日は、当分、来ないと思います。


「自閉症」という診断名が付いたとしても、自閉症という人種や違う惑星から来た人というような意味ではありません。
でも、なんだか「自閉症」という言葉を、あたかも、そういった個体がいるような意味で使っている人が少なくないような気がします。


「自閉症」という略語です。
本当の意味は、「自閉症という人工的な診断の基準を満たす人」という意味です。
つまり、「ここからここまで自閉症ね」と、誰かが便宜上、引いた線と線の間の中に入っているよ、ということ。


ですから、私が尋ねる「どうして、その支援方法なんですか?」という質問に対し、「自閉症だから」は答えたことになりません。
「自閉症という人工的な診断の基準を満たす人です」と言っているようなものですから。
私が聞きたいのは、その個人のどういった部分に対し支援が必要で、その支援を選択したのかということなのですから。


その支援方法を選択した理由を尋ねて、その子の状態から導かれた説明が返ってこなければ、その支援方法は、支援者の趣味嗜好のレベルです。
それか、とにかく教科書通りに、「自閉症だから視覚支援」「LDだから、電子機器を使って」というようなマニュアルに従って支援しているフリをしているだけ。


そもそも人と向き合う仕事、それも発達という複雑でバラエティに富んだものと向き合っている仕事に、マニュアルなど作れるはずがありません。
マニュアルが存在するというのなら、それは下手くそでも支援者のフリができる道具にすぎません。
だいたいマニュアルが存在する組織や、マニュアルやメソッドなどをせっせと作ろうとする組織に、一人ひとりの個人と向き合った支援ができるわけありません。


マニュアルやメソッド、ナントカ資格、レベルⅠ・Ⅱ・Ⅲがでてきたら、その支援者の目はすでに仲間、支援者の方を向いているという証拠です。
本当に、一人ひとりと真剣に向き合い、個人に合わせた支援をしているのなら、そんなマニュアルなど作れないこと、作っても意味がないことがわかりますし、そもそもそんなものに時間を使っている暇がないものです。


私は親御さんにこのようなお話をします。
マニュアルのない営みなのですから、専門家も、親御さんも、意見の重みに違いはない。
むしろ、親御さんの方が、ずっと側で子どもと発達と向き合ってこられたのですから、感じるものは貴重であり、重みのあること。
だからこそ、支援者というのは、子どもの発達が躍動するように、また親御さんが資質を活かして伸びやかに子育てできるよう後押しするのが仕事であり、役割。
あたかも、支援者が答えを持っているかのように振る舞うのは誤りである。
本当は、そんなもの、持っていないのだから。


「自閉症」や「アスペルガー」、「LD」や「ADHD」「知的障害」など、その診断名にとらわれる必要はないのです。
そして、その診断名に、親御さんの心や行動、願い、直感、本能が制限をかけられてはならないのです。
あくまで、人工的に引いた線と線の間に、現時点で入っているということだけ。
範囲に入っているのなら、その範囲から飛びだせば良いのです。


一気にジャンプして飛びだすのは難しいかもしれません。
でも、一歩、一歩だったら、その線のそばまで進んでいけます。
それが「治しやすいところから治す」ということ。
発達のヌケがあるのなら、一つずつ育て直していけばいい。
そこにマニュアルも、専門知識も、資格も存在しないのです。
あるのは、親子の間で育まれる日常。


同じ診断名の範囲に入っていたとしても、一人ひとり飛び越える線までの距離は違います。
でも、それは歩みを止める理由にはなりません。
障害の程度や重さ、課題の多さは違っても、歩を進める機会、可能性はみんなが平等にあります。


ブログには、どちらかといえば、軽度や知的障害のない人の話題が多いですが、実際にはとても重い子からの依頼もあります。
当然、障害の範囲を飛び越えるまでの距離は遠いです。
でも、親御さんが歩を進めようする限り、私は全力でお手伝いしています。
それに、その子を見れば、同じように発達するエネルギーを持っているのです。


「どうせ軽度の人しか治せない」
「重い子には、何もできないのだろう」
と言われることがあります。
でも、その子の発達する力を信じ、後押しすることはできます。
診断名は範囲であり、範囲ならどの子にも、その線を飛び越えるチャンスはあると私は信じているのです。

2018年8月31日金曜日

障害者雇用の問題が、どういった現実を表しているのか

意図的か、計算間違いか、認識の誤りかは個別に違うのでしょうが、8月は障害者雇用に関する問題があからさまになりました。
最初は特定の自治体だけと思いきや、全国の自治体でも同様のことが起きており、障害者雇用を促進し、リードする立場の中央省庁でも…。
この問題を「水増し」と表現している媒体や人が多いことからも、ネガティブな出来事として見ている人が多数なのだと感じました。


もちろん、言い出しっぺの、先頭になってモデルを示さないといけないところが水増しに見られるような行為をしていたのはいけないと思います。
でも、私個人としては、特に驚くことはなく、「そりゃそうだよな」って思いました。
本音を言えば、雇うのなら、一緒に働くなら、「できれば障害のない人の方が良い」とみんな思うのが自然です。
私としては、「障害を持った人が入ってくれてよかった」と言っている人の方が信じられませんね。


田舎なんかでは、天下りは日常茶飯事であって、どこどこの元校長先生なんかが公的機関の中で働いていたりします。
そのOBが、自分の教え子なんかを引っ張ってきて、優先的に雇ってしまう。
で、障害者枠で入ってきた若者は、特にすることはなく、やってもやらなくても良いような仕事をして一日を過ごす。


民間の障害者雇用だって、ペナルティを受けたくないから、企業イメージアップのためにと、大なり小なり、障害を持った人を雇う理由になっていると感じます。
何故なら、障害者雇用で働いている人達のほとんどが、適切な仕事を与えられていないから。
ずっと仕事場の奥の部屋に入れられている人もいますし、周囲の掃き掃除だけが仕事という人もいます。
そんな状況に耐えられなくなり、「仕事をください」と言うと、「あなたにやらせる仕事はない」と突き返される人もいる。


つまり、雇用している企業であっても、こういった扱いしかできていないのですから、障害を持った人は雇いたくない、というのが本音であり現実です。
できれば雇いたくないからこそ、いろんな逃げ道、工作が行われる。
その一つの表れが、今回の障害者雇用の問題だといえます。


この問題に対して、ブーブー言うのは簡単です。
でも、現実としてこういった実態があるのですから、当事者の方、ご家族、また支援する立場の人間も、冷静に受け止め、対策を練る必要があると思います。


私が関わる人達に対しては、障害者枠での就労を勧めません。
先ほど記したような実態を知っていることもありますし、「私は障害者です」が社会の中で通用しないことの方が多いからです。
たとえ、理解しようとする職場、同僚であったとしても、その理解がギョーカイ支援者の先導する「理解」ですから、「無理させない」「頑張らせない」「できないのは本人ではなく、環境側の問題」なので、意味のないというか、職場の人にただ負担を強いるだけで、仕事の力が向上するわけでもないので、ヘタな理解ならやめた方が良いと思います。


「理解するのは、周囲の人間」
「障害者は配慮と理解を受けるのが当然」
「わからないのは、本人の問題ではない」
というメッセージが、職場の人達を萎縮させ、面倒に感じさせ、できれば遠ざけたい、関わりたくないという想いを懐かせる。
結果的に、雇用自体の水増し、雇われた本人が職場内で心理的にも、物理的にも端っこに追いやられることに繋がっているのだと思います。


支援者の多くは、この問題に対して、遺憾の意を述べていますが、「いやいや、どの口が言っていますか」と私は思うのです。
就職する前までに関わってきたのは、誰なのでしょうか?
しかも仕事として、専門として。
「支援があれば、理解があれば、働くことができる人達」
それは言葉としては伝わっていますが、実態が伴っていません。


だって、ジョブコーチだ、支援ミーティングだと言って関わっているのに、一向に職場内で自立して働くことができていない。
結局、やっているのは、職場の人に支援者の代わりをさせているだけです。
この世の中に、社員として働くことを求め、雇った人に対し、支援者の仕事をさせたいと思う企業があるでしょうか。


障害をオープンにして就職するのなら、求められる水準で働ける能力と、ハンディの部分を自分自身で支援できる段階までになっておく必要があります。
自分自身で支援できないのなら、それは誰かの手を借りないといけないということになりますので。
現実として、そのような手を貸す人になってくれる余裕がある職場はほとんどないのです。
となると、今、障害者雇用で就職する人は、仕事の質や昇進昇級などを諦めなければならない可能性が高いといえます。


でも、これって、たとえ就職できたとしても、自立して生活できるだけの賃金を得ることは難しいですし、結婚や子どもも諦めざるを得ない。
そして何よりも、仕事を通して得られる生きがいや達成感、誰かの役に立っているという実感が得られない日々を送らないといけないことになる。
だからこそ、私は障害者枠での就職は勧めませんし、発達のヌケを育て直し、ハンディの部分は自分自身で支援できる段階まで成長してから、一般の人として働くことをお勧めしています。


世の中を見渡せば、変わった人はたくさんいます。
というか、典型的な「普通の人」ってどういう人か分かりません。
みんな、大なり小なり、変わった部分があり、個性的。
じゃあ、何が違うのかといったら、ちゃんと求められるレベルの仕事ができ、自分自身で苦手なところを対処している、ということ。
つまり、社会の中は、個性的な人で溢れているし、他人様に迷惑をかけない限り、その個性は侵害されないのです。


だったら、障害者枠で就職するより、きちんと働ける力、自分自身を支援できる力をつけてから、一般枠で就職した方が良いんじゃないのって思うのです。
そのためのアイディアが発達援助であり、発達のヌケを育て直し、治せるところから治していこう、というお話。
端的に言って、その企業で働けるだけの能力と自立する力がない人を、「障害者」というラベルだけで雇うから、こういった問題が起きるということ。
障害者雇用の取り組みが始まってから年数が経ちますが、こういった小さな積み重ねが全国であり、今回、問題として公に表れたのだと思います。


国が雇用率という形で示したことは間違えではないと思います。
もし、数として出していなければ、もっと障害を持った人が仕事に就く機会は少なかったはずです。
こういった数が先行した形であったとしても、中には、それで就職の機会を得て、持っていた能力を発揮して働けている人もいるのですから。


これから数から質への流れになってくると思いますが、それがいつになるかはわかりません。
だったら、今の現実に合わせて、どう動くのか、自分はどうしていくのかが大事です。
理解と制度が充実した未来を思い描き、歩んでいくのか。
それとも、理解や制度が整ったとしても、働けるかは本人の問題と思い、それに向けて準備をしていくのか。


ただ事実として、今後も変わらないのは、職場は仕事をするところであって、発達のヌケを育てる場所でも、支援や介護を受ける場所でもないということ。
そして、国の建前は「多様性のある社会」「障害を持った人も存分に働ける社会」ですが、本音は一人でも多く働く力をつけてもらい、自立してほしい、ということ。
すべての障害を持った人を一生涯、社会で抱えていくつもりも、余裕もないのがわかります。
ですから、「治るが勝ち」で、障害者枠ではなく、変人枠で伸びやかに働き、人生を謳歌する道を選びましょう、と私は言っています。

2018年8月30日木曜日

発達のヌケが埋まると、赤ちゃん返り、幼児返りが始まる

以前、発達のヌケが埋まった大人の女性が、若い頃にできなかった青春を楽しむような生活を送るようになったというお話を書きました。
私が「青春の育て直し」と表現したお話です。
生きづらさを抱えていて、十分に味わえなかった青春時代に戻り、そのとき、同世代の人達が味わい、育てていた部分を戻って育て直しをされているのだと私は捉えています。


こういった過去に戻っての育て直しは、子どもの場合でもよく見られます。
発達のヌケが育ち、埋まると、子どもは赤ちゃん返り、幼児返りが起きます。
赤ちゃんのときにできなかった愛着を育む行動をしたり、普通の子が楽しむような遊びに熱中し始めたり、人とのやりとりを楽しむようになったり…。
中には、子ども同士で喧嘩ができるようになった、という子もいました。


呼吸や内臓、感覚や動きなど、生きる上で土台となる部分の発達のヌケが育ち、埋まり始めると、今度は定型発達の子ども達が成長過程の中で何気なくやっているようなことを辿り始める。
そんな姿を見て、生きるための土台作りが終わった人は、人間として生きるための土台作りを始めるのだと感じます。


「ヒトの発達の次は、人間の発達へと進む」
でも、これは自然で、当たり前のことだと思います。
受精した瞬間から進化の過程を辿り、ヒトとしての発達を遂げていく。
そして、ヒトとしての発達が進んでいくと、人間としての発達を始め、自分の身を守り、自分で生活できる「自立して生きる」まで発達を続けていく。
600万年の人類の歴史を見れば、同じ道を辿っていることがわかります。


発達障害の人達は、ヒトとしての発達の部分にヌケがあり、人間として生きるに支障、生きづらさが表れます。
年齢は、すべての人と同じように重ねていきますが、人間としての発達課題はそのまま、未経験、満たされないまま。
こういった状況の人に対して、年齢相応のことを求めたりしても難しいのは当然です。
年齢は時の流れを示すだけであって、ヒトしての発達段階、人間としての発達段階を表していないからです。


発達のヌケが埋まると、赤ちゃん返り、幼児返りするのは、当然だといえます。
赤ちゃんのとき、お母さんが抱っこしても何だか違和感を感じていた子が、大きくなってから抱っこを求め始めることもあります。
「あれ、みてみて」と共同注視を求めたり、「あれ何?」「これ何?」と質問魔になったり、“しりとり”や“にらめっこ”など、幼児が楽しむような遊びにハマりだしたり。
こうやって、赤ちゃんのとき、幼児のとき、同世代の子がやっていたけれども、自分はやってこなかった部分をやりなおし、育てていく。


発達のヌケが埋まり、ホッとしたところに、赤ちゃん返りが始まると、驚かれる親御さんがいます。
でも、大丈夫です。
赤ちゃんのやり残し、幼児のやり残しが埋まると、同世代の子ども達と同じように心身共に発達を遂げます。
子どもの赤ちゃん返り、幼児返りに、とことん付き合ってもらうと、「あっ、うちの子、お兄ちゃんになった、お姉ちゃんになった」と思う瞬間がやってきます。
身体が育ったあと、心が育つといった感じです。


「もう小学生なのに、こんな小さい子がやるような遊びをやって」と悩まれるのではなく、「ああ、小さいときにできなかった、味わえなかった遊びをやりなおしているのね」と捉えられるのが良いと思います。
土台となる部分の発達と同様、やり切るとちゃんと発達段階は進んでいきます。


街を歩いていると、年齢よりも若い格好をしている人を見かけることがあります。
ただの趣味嗜好の場合もあるでしょうが、もしかしたら、当時、何らかの理由でできなかった部分を育て直している途中なのかもしれません。
発達課題は、いつからでもクリアできるし、クリアしない課題は、クリアするまで残り続ける。


発達のヌケが埋まったら、赤ちゃん返り、幼児返りするのは自然なことです。
それがヒトの、人間の自然な発達の流れですから。
同じようなご相談が続きましたので、みなさんにお話ししていることを記事にしてみました。

2018年8月29日水曜日

障害受容ってする必要ある??

「私、障害受容ができていないんです」と言われる親御さんには、「それは良かったです。治るための手数が一つ減りました」と言っています。
治るためには、障害受容など必要ありません。
むしろ、足かせになったり、治り切るのを阻害する要因になってしまいます。


そもそも「障害受容」という言葉はどうして生まれたのでしょうか。
誰のためになる言葉なのでしょうか。
「私、障害受容できています」という人に限って、心の底では障害を受け入れることができず、自分に言い聞かすように、いや、自分自身を洗脳するために使っていたりします。


支援者も「障害受容」という言葉をよく用いますが、その意味するところは
障害受容できている親=自分が行う支援の方針に従う親
障害受容できていない親=自分が行う支援の方針に従わない親、支援よりも育てるを重視する親、治そうとする親
がほとんどです。
つまり、端的に言えば、自分の言うことを聞きやすい従順な親かどうか、なのです。
「お母さん、全然わかってないね」と直接的な表現をする代わりに、「障害受容することが大事ですよ、お母さん」と言っているだけ。


私は、「障害を受容しちゃってどうするの」と率直に思います。
障害はその名の通り、その子の能力、生活、選択肢の障害になっている部分なので、そのままにしちゃだめでしょ、と思います。
本人が生きづらさを感じている部分を、「それが障害ね。私は受け入れるわ」と言ったら、誰がその子の生きづらさを解いていくのか。
誰がその子の発達のヌケを育てていくのか、わかりません。


受容したことで、障害を含めて「その子」みたいな感じになり、結果的に育てるよりも、見守る、介護する、という方向へ流れていきます。
これって、本人のためにならないでしょ、「生きづらいのも、あなた」みたいな感じって。
じゃあ、誰が得をする言葉か、誰のための言葉か、と言ったら、本人以外の人が妥協するための言葉。
「何もできないのではなく、何もしないのではなく、私はちゃんと障害を受容しているの」
「障害受容」という言葉は、自立してほしいと願う親心に覆いかぶさる蓑であり、支援者が思いのままにコントロールしたいという本心を隠す笠なのです。


一度は通る「障害受容」という響きの中。
これは「治そう」「治ってほしい」と願い、日々育てている親御さんも同じこと。
もともと持っていた「治ってほしい」「自立してほしい」という想いを、「障害受容できていないダメな親」という言葉を使って、自分を何度も何度も傷つけ、ようやく飲みこんだ。
そういった親御さん程、お子さんが治り切るラインをまたごうとすると、揺らぎ始めます。
目の前に、自分も望んでいた治るがあるのに、心がざわつき、ラインを超えそうな我が子の手を掴んでしまう、といった感じです。


お子さんが治り切らないケースを見ていますと、最後の最後で親御さんが治るを阻んでいることがあります。
それは実際に、発達援助を止めるですとか、妨害するということではありません。
治り切らない子の側に、障害児として見ている目がある、ということです。
その目が、子どもに伝わり、そして治るラインの手前で立ち止まってしまう。


子ども達と日々、接していますと、自分が普通の子として見られているか、障害を持っている子として見られているか、どの子もわかっています。
だから、いくら生きづらさがなくなり、自分で大丈夫だ、治ったと思っても、その周囲の目がメッセージを伝えてくるのです。
「いや、治っていないよ。障害児のままだよ。ただ状態が良くなっただけ」
そういったメッセージが、僕は一人の人として治ったのではなく、障害児として治った、という想いと繋げてしまう。


「障害受容できていない」のではなく、それは親としての本心であり、本能、自然な願いと感情だったのに、自分を何度も傷つけ、障害をひっくるめて我が子の姿と無理やり飲みこんだ。
そのため、我が子の障害の部分が育ち、治ったではなく、障害児の息子が治った、という意識が残り続ける。
この意識の違いが、最後の最後で治り切るかどうかを分ける、と私は考えています。
障害児として見られている自分を知っている子は、社会や生活、人生の中で揺らぎが起きたとき、障害児に戻ろうとする。


ここ数か月間、発達的には治ったのに、障害児の雰囲気を出している子ども達の存在について考えていました。
そこで出た答えが、この「障害児として見る目」でした。
そして、この問題の根を辿っていくと、着いたのが、「障害受容」という言葉。
「障害受容」という言葉が、障害を固定化し、「障害=我が子」という認識を作り上げていくのだと思いました。


親御さんの中には、明らかに障害があるのに、「うちの子には障害はない」と言う人もいます。
こういった親御さんに対し、周囲の人は「障害受容ができていない親」「そこの子はかわいそうな子」という声が上がります。
でも、見方を変えれば、「障害=我が子」という認識を持ちたくない、という表れにも感じます。
この親御さんに必要なことがあるとすれば、それは我が子をしっかり見る目だといえます。
「障害=我が子」と見ていない目があるのですから、必要なのは障害となっている部分を見る目であり、その根っこを辿る根気強さでしょう。


私は「発達援助」という言葉と出会い、治るを肌身で知ることができました。
そして、私が関われた方達の中からも、治っていった人達が増えました。
そこで初めて、治った人と治り切った人がいると気が付いたのです。
治り切った人は、障害が部分でした。
治った人は、障害を持った人が治った、でした。


私は、常々、「障害者として生きるのではなく、一人の人として生きて」と伝えています。
世の中では、障害者、障害児と呼ばれているけれども、〇〇さんは、みんなと同じ時代、社会で生きる一人の人。
あったのは、発達のヌケや課題、未発達の部分。
だから、そこを育て直すというだけの話。
〇〇さんが、今よりも生きやすくなって、自分の資質を磨き、社会の中で活かしていけるように治していく。


「私、障害受容できていませんし、するつもりもありませーん」と明るくおっしゃっていた親御さんがいました。
この親御さんのお子さんは、発達のヌケが育ち、埋まったあと、あっという間に治るのラインを駆け抜けて行き、同世代の子ども達の世界に溶け込んでいきました。
だから私は、「障害受容できていないんです」と言われる親御さんにこう言います。
「発達のヌケが埋まったら、あっという間に治っていく子ですね」と。

2018年8月28日火曜日

「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」という思いこみ

北海道はすでに2学期が始まっていますが、本州でも昨日から2学期が始まったところがあるそうですね。
有難いことに、お子さんの夏休みの変化、成長を伝えてくださるメールがたくさん届いています。
学校から離れ、とことん発達と向き合える1ヶ月は、子どもにとっても、家族にとっても、貴重な時間になったと感じます。
あちらこちらで、発達の「ドカン!」が起きているようです。


夏休みは、子どもの心身に発達する余白を与えるとともに、多忙な先生方にも余裕を生みます。
ですから、2学期の先生というのはエネルギーとやる気に満ちています。
で、特に熱心な先生は、夏休みの研修で得た知識や成果を子どもに還元しようとする。
この姿勢自体は、素晴らしいことなのですが、得てきた成果によっては、先生と生徒の間でギャップを生むこともあります。


たくさん遊び、たくさん心身を動かし、発達と向き合った子ども達にとっては、夏休み前後で、発達自体が変わっているのです。
ですから、2学期の始まりは、その子の発達を確認し、そこから指導を組み立てていく必要があります。
必要だった支援が、必要ではなくなっていることもある。
支援の形態を、よりナチュラルな形態へと変える必要性も出てくる。
そこに、夏休み中、特別支援を学んだ先生が、「さあ、やってやるぞ」と待ち構えていたら溝ができていくのです。


2学期の始まりは、このギャップに悩む親御さんが多いです。
夏休み中、発達のヌケを育て直し、中には「ドカン」と発達した子どもさんもいる。
だけれども、2学期が始まってみれば、1学期の延長だったり、「ドカン」が来る前の子どもの状態から教育内容が組み立てられたり…ということが。
そこで親御さんが、「こんな風に変わりました。成長しました」と伝えても、共感してくれるが、指導の内容は変わらない、特別支援のまま。


これは学校の先生に限らず、支援者というのは、家庭での成果、成長を認めたくないもの。
だって、愛着障害を持っている支援者というのは、「ぼくが いなくても だいじょうぶ っていわないで」と潜在的に思っているから。
また、これに関連して、「学んだことを実践したい」という想いは、「より良い支援ができるようになった僕は、これまで以上に、いろんな人から必要とされるはず、もっともっと必要としてくれる」という本心が隠れているから。


こういった支援者が、「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」という認識を持ち、夏休みの流れを切ってしまいます。
本人や親御さんが、2学期が始まると、それまでの教育、支援に違和感を感じるのは、このためです。
発達は日々起きていますし、途切れることなく流れているものです。
夏休みを切り落とし、1学期と2学期を繋げてしまうと、加速した流れが分断されてしまいます。
残念ですが、夏休みでついた勢いがしぼんでしまう、学校の中に反映されていかない、という子ども達は少なくないように感じます。


今日は、先生をメインに書いてしまいましたが、「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」というのは、先生と支援者の間でも溝を作ることがあります。
コンサルテーションと言って、何か月かに1回、学校に来る支援者がいる。
支援者は、いかに自分が専門知識を持っているかを披露して帰っていく。


で、私のところに学校の先生から相談が来て…
「子どもの実態に合わないことを指示してくる」
「親御さんが、学校よりも支援者に重きをおいているから、やらないとクレームがくる」
「でも、やっても、当然、子どもはできないし、効果が出ない」
「効果が出ないと、『先生のやり方が悪い』と言われ、次回のコンサルテーションの時期を早めましょうとなる or 親御さんが個人的に支援者と連絡を取り合って、どんどんチグハグになっていく」
という最悪なパターンが出来上がります。


専門家だと自負している支援者は、自分が一番だし、専門性を持っていると思っているものです。
だから、「私が関わると効果がある」「関わらないと、できないだろうし、効果がないのは、その支援者の腕が悪いから」と捉える傾向があります。
ですから、学校の先生と支援者の間でも、「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」問題が起きるのです。


こういった相談が先生たちからくると、「学校での子どもの姿、成長を一番側で見ているのは先生でしょ」「介護をするために、先生になったわけじゃないでしょ」と伝えます。
コーディネーターか、専門家かわかりませんが、数か月に1回、しかも短時間しか見ていないような人間の意見に負けてどうする、ちゃんと意見や考えが述べられなくてどうする、と私は思います。
せっかく教員免許をとり、教員試験に受かり、志を持って教壇に上がっているのなら、子どもと子どもの成長のために闘わないでどうするのでしょうか。


コンサルテーションも、学校の指導も、“間(ま)”ができます。
コンサルテーションとコンサルテーションの間には、数か月があり、学校にも、休日と家庭生活があります。
だから、支援者というのは、間を埋めなければなりません。
そのために、発達の流れ、受精から現在に至る一人ひとりの物語を掴んでおく必要があるのです。


一方で、家族には、間のつなぎ目がほとんどありません。
本人に至っては、間ができるはずはなく、流れに乗り続けています。
ですから、本人が流れの中で感じている主観が一番的確な答えであり、家族の感覚が支援者よりも優先されるべきだと思います。
私が「家族の中でこそ、発達が育まれる」と言っているのは、発達の流れを分断することなく、流れに沿って発達とその後押しができるからです。


不登校の記事でも書きましたが、知識や技能を得る、バリエーションのある刺激を受ける、自立するための基礎を養うには、学校が最適な場所だと思います。
でも、発達を考えると、そうは思いません。
やはり発達の舞台は、家庭生活であり、家族との営みの中。
発達の時間は、言語を獲得する前、勉強をする前だと思います。


だからこそ、2学期の教育内容に違和感を感じた親御さんは、夏休みの中で、どういった発達、変化があったのかを伝え、それに伴った学習の変化を求められると良いと思います。
ただその前に、私が学校に求めようとしているのは、学習の部分なのか、発達の部分なのか、整理されるのが良いです。


時々、学校に対して、発達を求めている方がいます。
もちろん、学校でも発達が促されれば良いのですが、やっぱり学校のメインは学習だと思います。
でも、発達のヌケを育て直し、埋めていくのは、発達の流れを掴んでおかないといけませんので、子どもの人生の、生活の部分にしか関わらない人間に、それを求めるのは違うような気がします。
なので、当然、私も、発達のヌケの確認と育てるアイディア、発達の流れと掴み方をお伝えするだけで、発達のヌケの育て直しはやってませんし、できません。


発達は家庭で担い、学習は学校で担う。
これが自然で、良い形だと思います。
ここに「支援機関」が入っていないのがミソです(笑)

2018年8月26日日曜日

「気づく前に治っている」という理想を追い求めて

私が訪問すると、毎回、「僕、治った?」と訊いてくる子がいました。
その言葉を合図に、私は「どれどれ」と言って、発達の進み具合を確認します。
「ここは育ったね」「ここはもう少し頑張る必要があるね」と私が受けた印象を伝えると、「僕も、そう思ってた」と言って、その日のレッスンが始まります。
そして、次回までに頑張ることを確認し、お別れするというのを続けました。


ある日、訪問しても、「僕、治った?」と言ってこないことがありました。
そのときは、「別に話したいことがあるんだな」と思いましたが、同時に「もしかしたら」とも思いました。
玄関を開けて、顔を合わせた瞬間、雰囲気がガラッと変わっていたのです。
そうです、発達のヌケが埋まり、その子の本来の歩みが始まっていたのです。
私は一通り確認したあと、こう言いました。
「もう教えることなくなっちゃった」


「治るとは、どういう状態のことを指すのか?」と尋ねられることがあります。
つまんない言い方をすれば、「症状の程度や頻度が減り、生活に支障がないくらいになった状態」でしょう。
でも、治るって、言葉で表現できないというか、言葉で表現できているうちはまだ治っていないような気がします。
「ああ、この人は治ったな」と思う方達にお会いしてきましたが、言葉じゃなくて、雰囲気なんです。


「これができるようになり、ここがだいたいこのくらいまで育っているから、治った」なんてことはありません。
発達のヌケが埋まったかどうかも、状態の確認は行いますが、それよりも本人が育て直す動き、活動をやらなくなった、心地良く感じなくなった、などを重視します。
「〇〇ができるようになったから、治った」
「〇〇という症状がこのくらいの頻度でしか表れなくなったから、治った」
というようなモノサシはないと思ってます。


ですから私は「治った」を雰囲気で感じますし、「治った」とは本人の主観だと考えています。
本人が「治った」と感じれば、治ったんだと思います。
「ああ、私はずっと〇〇という症状に苦しめられていたけれども、それに苦しめられることはない」
「今の私はラクに生きられている」と感じられれば、それは治った状態だと思います。


時々、治った人に出会ったことがない人が「全然、治ってないから」「発達障害は、そもそも治るもんじゃないから」と、自分のモノサシで判断してくることがあります。
しかし、本人の主観と、他人のモノサシ、どちらが本人の状態に近くて、どちらが本人をより良い明日へ向かわす原動力になるのでしょうか。
私は、本人の主観こそが尊いと思います。
発達援助とは、発達のヌケや遅れを育て直す後押しをする行為ではありますが、その目的は、特定の行動ができるようになることでも、特定の症状をゼロにすることでもなく、本人がラクになり、そして前向きに人生を歩めるようになることですから。


自分が治ったかどうか、尋ねてくる方は少なくありません。
でも、尋ねてくるうちは、治っていないと感じます。
「自分は治ったような気がする」
「私は治ったと思う」
というような実感が持てれば、治った状態に入ったと思います。
しかし、それでも、まだ「治り切った」には入っていません。


治り切った人というのは、「治った」と実感する状態を抜けた人だと感じます。
別の言い方をすれば、主観にすら入ってこない状態。
私が治った雰囲気を感じる人は、みなさん、「治る」を忘れている人であり、「治る」がその人の生活の中に入ってこない人。
冒頭のお子さんのように、「治った?」と訊かなくなるのが、治り切っただと思います。


そもそも「治る」「治らない」を話題にすること自体が間違っていると思います。
支援する対象は、本人の内側にある生きづらさ、発達のヌケだから。
本人が生きやすくなって、ラクになって、自分の目標とより良い人生のために「頑張ろう」という活力が出てきたら、それで十分。
本人の主観が喜び、伸びやかになれば良いのです。
そこに外部の思惑が乗っかってくるから、話がややこしくなる。
本人の主観を「障害」や「生きづらさ」「特別支援」から解き放ち、主観を開放することこそが「治る」です。


幼い子ども達の内側には、「障害」という概念も、「治る治らない」という概念も、感じません。
伝わってくるのは、「今よりもラクになりたい」という想いであり、伸びていきたいというエネルギーの鼓動です。
なので、概念を植え付けられる前に、そのまま気づくことなく、治ってほしいと願っています。
幼い子ども達との関わりを通して、「気づく前に治っている」という理想を見ます。


「治った」と実感できること。
「治った」と実感すること自体を忘れてしまうこと。
これが治り切る。
そして、主観が「障害」や「治る治らない」と出会う前に、治ってしまっていることが理想です。
私は、この理想を求め、日々、特別支援の匂いのしない、残らない発達援助を目指しています。

2018年8月25日土曜日

不登校と発達障害、不登校と特別支援

不登校中である発達障害の子の親御さんからの相談も、結構な頻度でいただきます。
あっ、正確に言うと、「発達障害の子が不登校になった」というよりは、「不登校になったから、発達障害の診断を受けて、発達障害になった子」ですかね。


というのも、最初から発達障害の診断を受けている子は、普通学級に適応できなくなると、すぐに支援学級が勧められますし、支援学級では、そこまで登校を刺激されませんし、そもそも個別対応が主ですし…。
なので、支援学級に通えなくなる子は少ないですし、普通学級で不登校よりも切迫感が少ない気がします。


発達障害で悩まれる方が最初、公的な支援機関へ足が向かうように、不登校の子の場合も、最初は公的な機関、不登校メインの機関に足が向かいます。
そして、そこで答えが見つからないために、私のようなところにいらっしゃいます。


私のところにくる不登校を相談される方は、100%このように仰います。
「不登校関係のところに行くと、『受容しなさい』、『今は休みなさい』としか言われない。それでは解決しないし、問題もそこじゃないと思うんです」と。


不登校のきっかけは、イジメなど、様々あると思います。
しかし、不登校の原因は、外にではなく、本人の内側にあるはずです。
何故なら、同じ条件、きっかけになるような出来事があったとしても、みんながみんな、不登校にならないからです。
不登校になる子とならない子がいるのなら、その違いは個人の違いだといえます。


このように言うと、「本人が弱いと言うのか」「ただでも傷ついている子を、さらに苦しめるのか」などと批判を受けます。
酷いレベルのイジメに関しては、どの子も行けなくなりますし、心身に大きなダメージを与えるものなので「個人が」とは言いませんが、それ以外は個人に起因すると考えています。


不登校になる子の多くは、きっかけになる出来事の前から生きづらさを抱えています。
もともと学校に行くのが、授業を受けるのがしんどかったり、人付き合いが苦手。
勉強が遅れていたり、ついていけなかったり、そもそも登校する前の家庭生活で乱れがあったり…。
そして「きっかけが不明確」「学校に行けない理由がわからない」という子も、少なくありません。


イジメは、加害者が100%悪いといえます。
でも、このように不登校になる原因は、個人の側に存在しています。
だったら、不登校をいくら受容しようが、肯定しようが、生きづらさは変わりません。
理由が分からないというのは、言語以前の発達段階のやり残しと考えられるので、そこを育て直す必要があるのです。
つまり、ここでも言語、大脳皮質に向けたアプローチではなく、言語以前へのアプローチ、育てるということが大事なのだといえます。


特別支援の世界と同じで、受容と理解で仕事が成り立つのなら、支援者など必要はありません。
ですから、不登校で相談に来られる方に対しても、その子の受精から現在に至るストーリーを見ながら、発達のヌケを確認していきます。
そうすると、発達のヌケが見つかるもので、そこを育てなおしていくと、生きづらさが薄れていき、もう一回頑張ろう、挑戦しようと動き始めます。


同じ学校に戻っていた子もいますし、別の学校、道へ進んだ子もいます。
発達のヌケが埋まると、心身が動き始めるのは当然です。
発達が前へ前へと進むものなのですから、人の身体も、心も、連動して同じように動き始めるのです。
反対に、いつまでも発達のヌケが埋まらず、生きづらさ、発達課題が残ったままですと、たとえ別の道に進むことができたとしても、何らかのきっかけで不登校と同じような状況に陥りやすいといえます。


特別支援のアプローチと同じで、「ありのままで」は、急場しのぎであって、根本解決になりません。
それに長期的に見れば、不登校の状態を続けることはマイナス面が大きいと考えられます。
刺激の制限、刺激のマンネリ化があるからです。
神経発達が盛んな時期に、刺激のバリエーションが乏しく、同じような刺激、少ない刺激の中で過ごすと、どうでしょうか。
勉強は家でも、いつからでも取り戻せますが、神経発達が子ども時代ほど、盛んな時期はもう戻ってきません。


学校は勉強がメインですが、それ以外にも、多くの発達、成長につながる機会でもあります。
ただ単に、情報と知識を得るだけでしたら、同じ時間に、同じ場所に集まって勉強する必要、意義はありません。
しかし、学校は通うこと自体に心身を育て、生活の土台を築く力がありますし、何よりも刺激のバリエーションが多く、複雑です。
同じような刺激を学校以外で作ろうと思えば、大変な労力がいるものです。


よく「ゲームすることを否定しない」と言う人がいますが、目と身体の一部しか使わない活動を長時間やり続けることのマイナス面を考えないのか、敢えて言わないようにしているのか、と疑問に思います。
あれだけ強烈な視覚的刺激を、単一な刺激を入れ続けると、ヒトはどうなるか。
ただでも発達に遅れがある子、デコボコがある子が、強くて単一的な刺激を入れ続ければ、デコボコが大きくなるに決まっています。
現実を忘れ、誰かと繋がれるというポジティブな面もありますが、同時にネガティブな面もある。
どちらか一方だけの情報を伝えるというのは、その伝える人の意図が乗っかっていると言われても仕方がないと思います。


著名人を起用し、「不登校は不幸じゃない」キャンペーンが行われています。
でも、著名人の発言を見てみると、不登校は不幸じゃないと言っているけれども、何もしない状態を良しとはしていない、肯定しているわけではないことがわかります。
学校以外の学ぶ場所がある、学校だけが唯一の価値観ではない、と言っています。
第一、その著名人たちの現在と歩みを見れば、ただ単に家にいたわけではない、学校の勉強はしなかったかもしれないが、それ以外の場所で発達、成長していたことがわかります。
その著名人たちは、決して棚ぼたがあった人達ではありません。
「自分も待っていれば、棚ぼたがある」というのは、勘違い。


不登校の方達の相談が増える中で、不登校の世界を見聞きしていくと、特別支援のギョーカイと似ているなと感じます。
違うのは、不登校支援をしている人達の多くが特別支援でいうところの支援者ではなくて、当事者ということ。
そして特別支援でいうところの支援者は、私立の学校や塾ギョーカイの人達。
当事者の人が多い分、特別支援ギョーカイのような金、金はしていませんが、私怨と自己治療が充満している印象です。


いずれにせよ、受容と理解では課題は解決しませんし、「ありのままで」では時間が流れていくばかり。
「ありのままで」は、救いの手を差し伸べているようで、自分たちの世界へと引っ張っているようにも思えます。


学校がすべてじゃないのは、学校に通っている子ども達も同じこと。
しかし、神経発達が盛んな時期に、バリエーションのある刺激の中に行かないこと、通うという自立する上で基本的な力を養わないことの差は大きい。
だからこそ、発達のヌケを育て、学校に通える身体にしておくことは大事。
それは学校に行く、行かないに関わらず、人生を見据えた上で。


不登校状態を受け止め、理解してくれた人達も、神経発達が盛んな時期、時間を巻き戻し、与えてくれることはできないし、一生涯を丸抱えしてくれるわけではありません。
学校を批判しても、生きづらさはなくならない。
日本の教育制度を批判しても、不登校につながった発達課題の根っこを掴むことはできない。
子ども達は、不登校を認めて欲しいんじゃなく、根本的な生きづらさを解決してほしいというメッセージを日々、私は感じています。

2018年8月23日木曜日

治り切るを妨げていたものは…

今朝、きみか先生が言っていたように、人間、仕事とか、生きがいとか、誰かのためになっているという実感とかが、生きる力の源だと思いますね。
病気だからといって、いつまで経っても病人扱いするのは、「病人」というキャラクターを作ることになる。
お年寄りに「もう年だから」と言うのは、老化を加速させるだけ。
山口の行方不明になった子を見つけた男性は、元気な足腰があったから見つけられたのではなく、「誰かの役にたちたい」という想いが活力を生み、行動として表れたのだと思います。


障害があるからといって、障害者扱いをするから、「障害者」というキャラクターが出来上がり、無理をさせない、頑張らせないという姿勢が、生きる力を奪っていく。
私は、子ども達には家庭の中での役割を、若者たちには地域の中での活動を、大人になった人達には社会の中で働くことを勧めています。
「自分が誰かの役になっている」という実感は生きる力につながります。
そういった意味で、社会には人を癒し、発達、成長を促す力があるのだと思います。


発達のヌケが埋まり、治った人達が最後に通る道があります。
それは「発達障害」というラベルを剥がすこと。
支援グッズ、連絡ノート、支援者とのお別れ。


家族の後押しによって、発達のヌケを育て直し、「もう治ったね」と言えるくらいの状態までになった子がいました。
本人も、「もう配慮も、支援もいらない」と言っていました。
そこで私が関わるのを止めたのですが、このくらいで治り切るだろう、本来持っていた発達の流れに戻っただろうという時期になっても、治り切らないし、グラついている。
発達に後戻りはないので、何か治り切る力を押し返しているものがあるのではと思い、再び訪問したのです。


お宅に訪問し、すぐにその原因がわかりました。
治り切るを押し返していたのは、支援グッズだったのです。
この子は、長い間、特別支援を受けていて、私が初めて訪問したときには、家中、支援グッズで溢れていたのです。
当然、必要なものは残しつつも、役割を終えた支援グッズは取り外していくようにお願いしていました。
本人の発達、成長と共に、支援グッズは減っていき、徐々に自然な部屋に変わっていきました。


「もう大丈夫です」と言って支援を終了したときに残っていた支援グッズが、再び訪問したときにも残っていたのです。
親御さんに理由を尋ねることはしませんでしたが、本人に「この支援グッズを見てどう思う?」と尋ねました。
すると、本人は一言「気持ちが悪い」と言ったのです。


この子は、自分でも自信をつけ、「もう大丈夫です」と言う子でした。
でも、部屋にあるその最後に残った支援グッズを見るたびに思い出すそうです、生きづらかった自分、障害者として見られていた自分を。
そして、そのたびに気持ちが落ち込み、結果として治り切るをストップさせる要因になっていた。
発達が満たされると、それまでやっていた遊びや運動をまったくしなくなったり、「気持ちよくない」「もうやりたくない」という気持ちになったりすることがあります。
それと同じで、必要のなくなった支援グッズに対し、思いや見え方が変わってくることもあるように感じます。


最後に残った支援グッズを外すように、親御さんに提案しました。
そのあと、すぐに実行していただき、ほどなく本人の気持ちの揺らぎがなくなりました。
そして、そのまま順調に発達、成長の流れに乗っていったのです。
このような経験から、ちゃんと障害名や特別支援とお別れすることも、治り切るには大事な儀式であり、通過儀礼のようなものだと考えるようになりました。


治った方たちからは、「日常生活で障害を意識しない、意識することなく生活できている状態が治った」というお話を聞きました。
私も、本当にその通りだと思います。
発達的に言えば、ちゃんと埋まり、もう治っているはずなのに、という方が、治る手前で行ったり来たりしていることがあります。
そのような人を見ると、障害や過去を連想するものが側にあったり、定期的な支援者との関わりがあったりします。


当然、完全に切ってしまわない方が良い状態の人もいるでしょうが、治るに関して言えば、完全にお別れするのが良いと思います。
そして社会に出て、同世代の人達と同じような環境、人間関係を新しく築いていった方がしっかり治っていくし、そのあとの成長に繋がると感じます。


必要のない支援グッズや支援、支援者を減らしていくのは、刺激を減らし、心身の余裕を生むと同時に、自然な環境、新しい世界に飛び立つ準備、助走を始めることだと考えています。
ですから、私の支援、関わりは、極力回数を減らすことが大事であり、私の余韻を残さないようにするのが重要なのです。


ある一般就労している若者が、「未だに学校の先生がやってくる」と怒っていました。
小さな街ですので、そのお店を支援の先生が利用することもあるでしょう。
でも、ちゃんとこうして一般就労し、普通の人として何年も働いているのに、「支援学校の〇〇ちゃん」としてやってきて、話しかけてくるのが許せないそうです。
学校の先生というのは、卒業後も先生で、プライベートも先生という人が少なくないような気がします。
学生時代は、特別な支援が必要だった子かもしれないし、あなたの教え子だったかもしれない。
でも、卒業し、社会人として働いているのだから、一般の人同士で接する必要があると思います。


愛着障害を抱える支援者というのは、いつまで経っても支援者でいようとし、いつまで経っても生徒、利用者から離れられないものです。
支援グッズも、配慮&支援も、支援者も、必要なときに利用するもので、あとは気持ちよく捨てていくものだと思います。
それが、本当の意味での「自立する」ということですから。


「支援を受けながら自立する」という矛盾した言葉同士をくっつけちゃうのは、どうにかこうにか続けさせたい、という想いから生まれた寂しいアイディア。
自立や治るためのプロセスには支援が必要であっても、ゴールテープを切る瞬間には必要がないもの。
別の言い方をすれば、支援が必要だと思っている限り、自立も、治るも、ないということなのだと思います。

2018年8月22日水曜日

理由が分からない生きづらさの根っこを探しに行く

この仕事をするようになって、世の中には、こんなにも生きづらさを抱えている人がいるんだ、と思うようになりました。
「学校に行けない」「仕事が続かない」「対人関係がうまくいかない」というような実生活での躓きからの生きづらさ。
過去のいじめや失敗経験からの生きづらさ。
聴覚過敏や疲れやすい身体、片づけられない、順序立てて物事が行えないような特性からくる生きづらさ。


このように、自らで生きづらさの端を掴んでやってこられる人がいる一方で、なんとなく生きづらさを抱えている人、理由が分からないけれども生きづらい人がいます。
上記のように、ご自身で生きづらさを掴まれている人は、その口調に苦しさがにじみ出ていますが、言葉が流れていきます。
そして語られていることと、目の前の姿が一致します。
しかし、「なんとなく」ですとか、「理由がわからない」という人は、たとえ自分ではこう思います、と論理的に説明していても、理由が伝わってこないのです。
本人や家族が説明した通りの部分に、発達課題を見つけようとしても、見つからないことが多いのです。


この夏、集中的に関わったお子さんは、自分の気持ちを話さなければならない場面になると、しゃべられなくなり、涙が止まらなくなります。
幼少期、言葉の遅れがあったために、発達障害の診断を受け、この自分の気持ちがしゃべられなくなるのも、言語発達の遅れや求められていることを想像する力の障害として見立てられ、お決まりの視覚支援とSSTで支援されていました。
でも、一向に良くならないし、変わっていかない。
それで、私のところに依頼がきたわけです。


親御さんは、支援者の言う通りに「障害からくるもので」と説明されていました。
でも、挨拶や雑談、質問には自然な反応が返ってくるし、足の親指やふくらはぎの発達に問題はなさそう。
会話の中に概念が出てきましたし、学校の勉強も遅れがない。
だから私は、障害特性ではないと思ったんです。
そして、その見立ては、この子の発言から決定的になりました。
私が「どうして、自分の気持ちを話そうとしても、言葉が出てこないんだろう?」と尋ねると、「わからない」と返ってきたのです。


「生きづらさの理由が分からない」と言われる人は、子どもに限らず、大人でもいます。
お子さんの発達援助で伺ったけれども、親御さんが言葉にできない生きづらさを抱えていた、なんてことは珍しくありません。
子どもの場合、また知的障害を持った人の場合、表現や論理的な思考などに制限があって、ということもありますが、ほとんどの場合は、本当に「分からない」という人ばかりです。


この「分からない」という言葉を聞いて、心理系の人は「過去の心の傷を自らで記憶の外に追いやっているのでは」と言いがちですし、特別支援系の人は「言語の遅れ」「想像する力の障害」と言いがちです。
もちろん、そういったケースもあると思います。
でも、私が出会ってきた方達は、上記の見立てに当てはまらないし、その見立てで支援をしようとしても、うまくいかないことが多かったです。
本人の受精から今までのストーリーから見ると、私の中では違和感を感じ、流れから外れた感じがします。


私は「分からない」という言葉を聞いて、こんな連想をします。
「分からない」というのは、言葉にできないということ。
つまり、言葉を獲得する前の段階に、発達のヌケがあるのではないだろうか、と。


言葉にならない不安、生きづらさを抱えている人の多くは、発達のごく初期に課題、やり残しがあるように感じます。
夏休みに関わった子も、生きづらさの根っこは胎児のときの発達にありました。
「もしかして、お子さんがお腹にいたとき…」と言うか言わないかのうちに、親御さんから言葉と感情が溢れ出ていました。


生きづらさの根っこを掴むことができたので、あとはそのときのやり残しの育て直しを行いました。
発達課題は、発達のヌケは、いつからでもやりなおせる、育て直せるが原則ですから。
夏休みの間、毎日コツコツと親子で育まれた結果、少しずつ気持ち、要求、欲求に関する言葉が出せるようになり、それに伴う不安感も減ってきたそうです。


「なぜ、学校に行けないんだろう?」
「なぜ、他人と顔を合わせると、逃げ出したくなるんだろう?」
「なぜ、お子さんが失敗しそうになると、苦しくなるのだろう?」
「なぜ、子どもの泣き声を聞くと、涙が出るのだろう?」
理由が分からない生きづらさというものがあります。
そんなときは、言葉にできない生きづらさであり、言葉を獲得する前の段階、時期に何かやり残しがあるのではないだろうか、と想像するのも良いかもしれません。


もちろん、目の前の人の状態や発達段階をしっかり見てから判断する必要がありますし、当然、受精から出産、現在に至るストーリー、流れを捕まえておくことも大事です。
それでも、本人が意識しているところ、表現し、説明している内容を聞いて違和感を感じたら、言語以前、意識が芽生える前の段階に、根っこを探しに行く必要があると思います。
「理由が分からない」というのは、それ自体が答えだったりするのです。

2018年8月21日火曜日

目の前にいるのは「重度の自閉症」ではない

先日、お話しさせていただいた成人の方達の支援をしている方が、こんなことを仰っていました。
「一人ひとりがよく見えるようになった」
「何かやりようがあると思えるようになってきた」
と。
お話をした前後で、顔が明るくなり、前向きな発言と態度が出るようになっていたので、私も嬉しい気持ちになりました。


「重度の障害者」というのは、その人を表す言葉ではありません。
記号であり、便利で効率的にするための言葉です。
一人の人を正確に、かつ具体的に表現することは不可能です。
身長が、年齢が、性別がとなり、どんな性格で、どんな能力があり、どんな課題があり、運動面は、感覚面は、学習能力は、今までの経験は・・・。
その個人を構成する要素は無限にあり、いつまで経っても、その人を正確に表現することはできません。
同じ「自閉症」「重度」「行動障害」の人であったとしても、その背景は一人として同じではないのです。
だから、便宜上、「重度の障害者」「自閉症」「発達障害」などと表現し、その大枠の情報だけが必要で、利用している人同士が効率よくコミュニケーションできるように使っている言葉だといえます。


こういった個人を特定するわけではなく、大枠を伝えるための言葉は、その存在を知らない人たちに紹介するために、サービスを利用するための必要なグループ分けをするために、統計や制度作成、運用に利用する目安を得るために用いられたものでした。
しかし、いつの間にか、直接的な支援を行う者たちのところまで浸食し、今となっては、その違和感すら感じない人たちが多くなってしまいました。
便利に、効率的にするための言葉が、支援に用いられるようになってしまったのです。


「重度の人だから、自立は無理だ。できるのは介助しかない」
「自閉症の人だから、環境調整と視覚支援だ」
「行動障害には、薬と賞罰で行動を変えさせる」
「発達障害は生まれつきの障害だから治らない、一生支援を受け続ける」
インスタントに伝えあうための言葉が、インスタントな支援を生みました。
最初は便宜上、また必要な場面で限定的に使うために人間が生んだ言葉が、人間を食ってしまったのです。
生みだした言葉にコントロールされる人、その人に直接支援を受ける本人たちの生活、人生はインスタントラーメンのような消費のされ方になってしまいました。


特別支援の過ちは、注目を集めるために生みだした言葉に、いつの間にか自分たちが踊らされるようになったこと。
本来、人と人との関わりは原始的なものであり、人を育てるとは非効率的な営みであるはずなのに、工場で作られる製品のような効率重視の仕事にしてしまったのです。
本人とその家族を流れ作業のように、右から左へ流していく。
少ない労力とお金で、より多くの利益を上げようとする。


「ああ、アスペルガーの診断受けてるんですね。じゃあ、障害者枠ではこんな仕事があって、福祉的就労なら、こことここの事業所が利用できますね」と流していく就労支援。
一箇所に利用者を集めて、決められた時間まで怪我がないことだけを目指す児童デイ。
100均で集めてきた材料を使って授業を行い、そこでできた製品を行事のときに売って、「はい、作業学習ね」「はい、キャリア教育」と言ってしまえる学校。


目の前に「重度の自閉症の人がいる」と思えば、支援者の手は止まってしまうのです。
熱意のある人ほど、動きたいけれども動けない、何から手をつければ良いか分からない、という状態にもがき苦しみます。
冒頭のお話しさせていただいた方も、そんな方でした。
でも、目の前にいるのが「発達のヌケがある人」だとしたらどうでしょうか。
「重度の自閉症の人」よりも、動きが生まれてきます。


では、もっと部分的に、具体的に見ていくと、どうでしょう。
「汗がかきづらい人」
汗がかけるようになるにはどうしたらよいだろう、そもそも汗をかくって、どういうことだろう、と連想が浮かんできます。
「足の親指が使えていない人」
足の親指を使う遊び、活動はないかな、足の指がうまく使えないということは、ちゃんと寝返り運動ができていたのだろうか、と想像が連なってきます。
「発達にヌケている部分があるなら、そこを育て直そう」
「未発達の部分があるのなら、そこを育てていこう」
そんな風に見ていくと、目の前にいるのは、重度の自閉症者ではなく、私たちと同じ一人の人に見えてきます。
一人の人として自分の目にその姿が映るのなら、何かできることが見えてきますし、共に育て合おうという自然な交流が生まれてきます。


部分的に、より具体的に見えるようになるためには、基本となるヒトを学ばなければなりません。
でも、その前段階として、「重度の障害」も、「自閉症」も、伝え合うための効率化された言葉という認識を持つのが大事だと思います。


このように偉そうに言っている私も、学生時代は、施設で働く前は、冒頭の支援者のように、目の前に自閉症者がいて、行動障害を持つ人がいる、としか見えていませんでした。
自分とは別の人達と思っていた時期もありました。
でも、こういった大事なことに気づかせてもらったのは、寝食を共にした施設で暮らしていた子ども達。
言葉がない子も、寝たあとは寝言を言うし、お母さんと別れるときは涙を流して、服の袖を掴んでいる。
そういった姿を見て、私は自閉症者を支援しているのではなく、一人の人を支援しているのだと感じました。


私の話が聞きたい、いろいろ教えて欲しいと言ってこられる方達にお話しすることや、こうやって綴っているブログ等の内容も、そのほとんどが私の失敗と反省が集まったものです。
私が経験してきたことが、誰かのお役に立てれば、誰かの背中を後押しすることができれば、と思い、事業も、ブログも続けています。
冒頭の支援者の方のように、人と人との自然な関係、交流の中で、発達と成長が育まれていく、そんな人たちが増えていくことを私は願っています。

2018年8月20日月曜日

「発達障害バブル」という嫌な言葉

支援が必要なら、堂々と支援を利用すれば良いと思います。
そして支援が必要ではなくなったら、返せばよいだけのこと。
もし、再び支援が必要になったときがきたら、また利用すれば良いと思います。
私も含め、民間のサービスは、必要なときに利用し、必要がなくなったら利用を止めるのが、普通のことです。


でも、お金の出所が自分の財布じゃなくなると、一度得たものを手放そうとしなくなるのはどうしてでしょうか。
いつも私は、私の事業を利用する必要がなくなったら、親御さんに「もう止め時ですよ」と言います。
中には、それでも利用を続けたいという人がいますが、その場合は「お金の無駄遣いになってもよろしいですか」と断りを入れます。
しかし、これ以上は言いません、個人のお金なので。


ですから公的なお金を扱う人たちは、私以上に慎重になる必要があると思います。
公的なお金は、自分のお金ではありませんので。
みんなのお金であり、別の言い方をすれば、今の子ども達が将来背負っていく借金でもあります。


支援者の間では、「発達障害バブル」と言われていたりします。
今は発達障害に対する社会的な注目、意識が高まっている時期なので、発達障害の診断がつけやすいし、いろんな申請も通りやすい、サービスも受けやすい、という意味です。
私はこの言葉が支援者の姿勢をよく表していると思いますし、私はこの言葉が大嫌いです。
発達障害の人達を飯のタネ、金の生る木のように見ている感じがよくわかるからです。


都市部では、だんだん蛇口が閉まってきているようですが、地方ではタイムラグがあるので、まだまだバブルの中。
診断も、申請も、希望通り、求めた通りに進むことが多いです。
しかし、平成のバブルがはじけたように、発達障害のバブルだって、必ず終わりがきます。
昨日のブログで紹介したように、少なく見積もっても、自閉症の人、一人が生涯支援を受け続けたら1億円くらいの税金が必要なのですから。
10人で10億円、100人で100億円、1000人で1000億…。


国も、地方も、「発達障害の診断を受けました。じゃあ、サービス提供してください」と言われて、「はい、わかりました」と言えない状況になってくるのは、容易に想像できます。
サービスの申請は通りにくくなるでしょうし、利用できても日数や金額は減る一方。
今、高齢者福祉の世界で起きているのと同じように、施設に入るには、福祉サービスを受けるにはお金が必要になり、富める者とそうではない者の差が開いてくる。
自宅で介護が大多数になり、サービスを受けられても週に1時間だけ、というような未来は、障害者福祉の世界も近い将来というか、今の子ども達が大人になる頃には必ず来ていると思います。


歴史を学ぶのは、暗記して受験で点数を取るためではなく、自らの人生、より良い社会のために活かすためです。
公共サービスは、最初にドバっと水を流し、魚を集める。
そしてある程度、数が集まったところから、水の量を減らしていく。
そうやって公は土台を作ったあと、民に切磋琢磨させるものです。
平成のバブルがはじけたように、発達障害バブルも必ずはじけますし、そのあとは自己責任の流れになっていきます。


「家事のできるひきこもりを目指そう」
「発達障害の人達は、生涯に渡って支援を受け続けるもの」
「この子達は充分頑張っているのですから、頑張るのは社会の方です」
など、無責任な発言をしている人達だって、あと10年、20年もすれば、現役を引退します。
こういった人達は、ちゃんとお金を貯め、老後は悠々自適に過ごしていくはずです。
何故なら、「じゃあ、先生は家事のできるひきこもりになりたいですか?生涯に渡って支援を受け続けたいですか?それが可能な社会がやってくると思いますか?」と尋ねられれば、「YES」と言わないからです。
どうして、自分がやれないこと、できないことを他人様に本気で勧めることができるのでしょうか。


「児童施設なのに、成人になっても利用し続ける人がいて、そのために、今サービスが必要な子どもが利用できない」なんて話は、あちこちで聞かれます。
他にも、利用できなくなるからといって、みんなでグルになり、行動障害があるようにしたり、重い判定がでるような工作をする人たちもいますし、利用に制限がかかりそうになると、役所に行って、脅迫まがいに怒鳴り散らしてくる、なんて話も珍しくありません。
私も嫌と言うほど、こういった自分のことしか考えられない人達、公的なものは貰えるもんはもらっておこうとする人達を見てきました。
そしてその陰には必ず「この子が利用できたら」「この家族が救われるのに」という人達の存在があるのです。


必要なときには、安心して支援を利用でき、必要がなくなったら、その分を誰かに渡す社会が理想だと思います。
頑張りたい人が、いつからでも、何度でも頑張れる社会が望ましいですし、健全だと考えています。
私のところには、成人した方達からも依頼や相談がきます。
私よりも、一回りも、二回りも年上の方からの依頼だってきます。
みなさん、いつからでも頑張りたい、治せるところから治していきたい、と思われている方達ばかりです。
何度でも起き上がり、挑戦し、頑張っていきたいという姿から、私は人生の先輩として刺激を受けるとともに、本来なら私のような民間ではなく、公的な機関で、こういった方達の想いを後押しできたら良いのに、と思うのです。


事業を開始してから利用された方の最年長は、50代の方。
短い間でしたが、いろいろとやりとりを行い、定職に就かれた方です。
もう何年も前ですし、連絡は取っていませんが、最後に「仕事が楽しい」「遅れてきた青春を楽しんでいる」と言っていました。
ちょっと話が逸れますが、発達のヌケが埋まったあと、若い頃にできなかった青春、楽しみをやりなおす人が少なくないように感じます。
若者のファッションを楽しんだり、アイドルや趣味を楽しんだり…。
青春のヌケも育てなおしているのかな、なんて思うこともあります。


結局、言いたいのは、支援が必要なら堂々と支援を使えばいい、ということ。
そこに後ろめたさや批判されているような雰囲気を感じるのなら、それはその人の問題。
社会や他人の問題にすり替えてはいけません。
後ろめたさは、本当は必要のないものであり、前向きに行動を表せない自分に気づいている証拠。
批判されているように感じるのなら、主体性が育っていない、他人軸、他人の評価で生きている、恐怖麻痺反射が残っている証拠。


社会は頑張るための支援、後押しをしようとしている。
そして側にいる人達は、発達障害の理解云々以前に、頑張る人が好きだし、応援したいと思っている。
それを政争の具にしてしまうのは、いつだって、それによって利益を得る者。
発達障害の生活、人生を政争の具にするのはナンセンスであり、そうさせてはならないのです。
みんなが見る先は、本人がより良い人生を歩むということ。
そのために支援する人、療育する人、指導する人、治す後押しをする人がいる、というシンプルな話だと私は思っています。
あるのは役割の違いだけ。


歴史に永遠はありません。
時代の変化に生き残れる者は、過去から学び、未来に活かせる人達。
発達のヌケを育てなおす、治しやすいところから治していくは、子ども達の10年後、20年後をより良く生きるための道なのです。

2018年8月19日日曜日

必要なくなった支援を手渡していける社会

発達障害と経済的な負担というテーマでも、多くの研究、調査が行われています。
たとえば、2014年ペンシルベニア大学の研究グループの試算では、自閉症の人が生涯に渡って使うお金が、知的障害を伴わない場合は約140万ドル、伴う場合は240万ドル、日本円にすると約1億4千万~2億4千万円となっています。
もちろん、家族の負担だけではなく、税金も含みます。
他にも、こういった研究、調査はされていますが、あまり日本では、というか、身近な支援者からこういった話は聞きませんよね、話題にも上がりませんよね。


発達障害による心理的な負担は話題にするのに、経済的な負担は話題にしない。
これはおかしい話だと思いますね。
家族の経済的負担だって、みんながみんな、お金に余裕があり、ずっと負担し続けられるわけではありません。
当然、国のお金、税金だって、無限にあるものではなく、ある意味、日本全体で共有している財産だといえます。
特に、自分の給料や事業の収入の主が税金からのお金である場合、経済的な負担にも目を向ける必要があると思います。
いや、同じ国に住む社会人なら税に対する意識を持つのは当然でしょう。
それなのに、ほれ、支援を利用しよう、もっと国に訴えていこう、とだけ言い続けるのは無責任と言われても仕方がないと思います。


支援を利用することは悪いことではありませんし、必要な人が安心して利用できる世の中の方が良いに決まっています。
でも、支援者たちが「利用しよう」という支援は、治すことが目的でもなければ、軽度化することが目的でもありません。
敢えて言うのなら、二次障害にならないのが目的。
その二次障害だって、支援者は「なる前の予防が大事です」と言って、結局、なった人を治せるわけでもない。
それに、そもそも予防もできていないし、本人の意思を無視した支援者の介入を受けることによって病んでいく人が後を絶ちません。


発達障害というのが、発達しない障害であり、支援を受け続けることで、より良い生活と選択肢を増やすことになるのなら、生涯に渡る支援は必要な支援であり、その人達が安心して支援やサービスを利用できる社会を目指すのは、私も賛成です。
しかし、発達障害の人達も発達しますし、たとえすべての発達課題をクリアできなかったとしても、軽度化し、部分で見れば治っていくところもある。
ですから、「治しやすいところから治していく」というのは、本人や家族の心理的、経済的負担を減らし、自立や選択肢を増やすことにつながります。


それなのに、「治るなんておかしい」「治るというヤツが怪しい」などと言うだけで、大卒の若者を就労支援Aとか、Bに送り込んで「支援やってます」というギョーカイは、結局、既得権益が揺さぶられそうだから、必死に抵抗しているだけにしか見えません。
昔、流行った抵抗勢力ってやつです。
郵政族、道路族、特支族…。


本当に、その人の人生を考えるのなら、「一生涯の支援」などとは言えないはずです。
支援は必要なときに利用するものであり、生涯利用するものではありません。
もし生涯利用する必要があるとしたら、それ以上、伸びないし、改善しないし、治らない部分においてです。
人そのものが障害なのではないのですから。


必要ない支援を受け続けることは、心理的、経済的負担を増すだけではなく、その人の可能性を制限することにもつながりかねません。
親御さん達とお話ししていると、「同級生の〇〇くん、うちの子よりも伸びる可能性があると思うんです」「あの子も、本気でやったら、治っていくと思うんです」などと言われます。
治る道を歩んでいる親御さん達というのは、他の子を見ても、治る可能性がわかるんです。


親御さんのお話や支援者や先生方からの相談で、間接的に関わったり、知ったりする子の中にも、「もうちょっと頑張れば、治っていくのに」と思う子ども達がいます。
でも、実際は治っていかないし、ある程度で伸びがとまってしまう。
何故なら、生涯に渡る支援が前提になっているからです。


よくあるパターンが、幼い頃、発達の遅れが目立つし、心身共に安定しない、行動も大変という子がいて、支援を受けることで安定し、伸びが見られてきた。
就学後は、普通級や支援級で支援を受けながら学び、放課後は児童デイに通う、幼いときから関わってもらった医師や支援者と定期的に関わる。
で、本人の発達、成長に伴い、もっとチャレンジしても大丈夫、支援を減らしても大丈夫、特別な支援ではなく、同世代の子と同じ習い事や環境で大丈夫なくらいまでになったのに、そのまま、支援を受け続ける。
親御さんの想いとしては、支援を受け続けた結果、幼かったときの不安定さはなくなり、伸びてもきているから、このまま支援を受け続けるのが良い、と考える。
それもわからなくもありませんが、ある段階からピタッと伸びが止まり、逆にどんどん障害者っぽくなっていく、というパターン。


これは、支援は必要なときに利用するものではなく、「生涯に渡って受けるもの」という誤解が、子どもの内なるメッセージを見落とす結果につながった例です。
本当は、支援が必要な時期を過ぎたのに、昨日のブログで書いたように、より自然な環境の中で、複雑な刺激が、その子の発達に必要な段階まできていたのに、不安定な時期に合わせた支援を継続してしまったため、伸びが止まってしまったということ。
伸びが止まっただけならまだしも、小学生くらいの頭の柔らかい子ども達の場合は、特別な環境、単一な刺激に、脳も、身体も適応していってしまうこともあります。
それが「どんどん障害者っぽくなっていく」ということ。


シンプルに言えば、支援が必要な時期があり、安定する時期があり、支援を減らす時期があり、同世代と同じ環境に移行する時期がある。
地域の習い事や活動で、十分楽しめ、学ぶことができる段階まで発達した子が、ずっと児童デイに通い続け、卒業後は福祉なんてことはよくあります。
「地域のスイミングに通い始めたら、ぐっと伸びました」
「その習い事の中では、だれも特別支援級の子だと気づかれず、うちの子も、みんなと一緒に活動できています」
なんていう家族は少なくありません。
特別支援の世界では、「障害がある子」「支援が必要な子」だとしても、地域の習い事に行けば、ちょっと変わった子になり、そうこうしている間に、そこら辺にいる子になる。


私は民間人で、税金による援助は受けておりません。
私の事業の収入のすべては、利用してくださる方のお金です。
飛行機代や宿泊費を、個人で、または仲間内で割って出し、私を呼んでくださる方達がいます。
このときは、経済的な負担が大きいかもしれませんが、生涯に渡ってかかる1億、2億という金額からしたら少ないといえます。
民間人の私が、「発達のヌケを育てなおしたい」「少しでも、一つでも課題をクリアし、今をラクに、そして将来の可能性を広げたい」という方達に対し、助言やアイディアによって後押しするのは、何の問題もないと思います。
むしろ、社会のニーズとも合致しているのではないでしょうか。


誤診でも、軽度でも、なんでもいいです。
一人の人が、支援が必要な段階を脱し、自分の足で生きていけるのなら、それでいいのです。
10ある支援が必要な部分の中で、1つでも支援がなくても大丈夫、という状態になれれば、その1は、他の誰かにお渡しすることができる。
そうやって、必要な人に支援が渡っていく世の中の方が、安心して暮らせる社会、多様な人達が生きやすい社会になると思います。


治るという人が詐欺師なら、治しも、改善も、軽度化もせず、ただただ社会に負担を求める人達のことを何と呼べば良いのでしょうか。
本人や家族の心理的な負担だけではなく、経済的な負担、そして社会の目も持つ必要があると思います。
社会は発達障害の人達を排除しようとしていませんし、むしろ、彼らに社会の一員として活躍してほしいと願っています。
国の発達障害の人達に対する予算だって、制度だって、年々拡充しているのです。
既得権益を守りたい人達の言葉を鵜呑みにしてはなりません。
そのために、実社会に出て、学ばないといけないのです。
実社会は、特別支援の世界で教えてくれないことをたくさん教えてくれるところですから。

2018年8月18日土曜日

自然の中にある揺らぎが多様な刺激を生み、自然な発達を後押しする

ツイッターに流れてきた「ロボット言葉」のお話を見て、そんなこともあったな~と思いだしました。
私が学生の頃、どこの養護学校でもやっていましたね。
「Aくん、~はいけません」
「~しません」
「~します」
「~は、バッテンです」
「~は、マルです」


「~しません」と何度も言いながら、走り回る子どもを追いかけている姿は、学生だった私でも「こりゃあ、ダメやね」と思いましたよ。
耳ふさぎをしている子に向かって、「バッテン」「バッテン」を言い続け、挙句の果てには指で×を作って見せる。
福岡生まれの私は、「あの先生は、博多の出身かね」と言って、友人や親御さん達を笑わせていました。


これは統一した支援の勘違いですね。
統一するのは支援の方向性であって、声がけの仕方、何と言うかを同じにするという意味ではありません。
こういった誤った解釈が、関わる大人が全員同じ言葉を繰り返す、それ以外は言わないという異様な光景を生み、そのロボットのように同じ言葉を繰り返し続けるのが、子どもの口調に移っていく。
だから昔は、ロボットのような話し方をする子ども達が多かったですね。
今どきの子ども達の中には、そんな子は見かけませんが(私だけ?)、20代、30代の養護学校に支援や療育が入りこんできたときの世代の若者たちには、こういったロボットのような話し方をする人をよく見かけます。


このように支援を統一するのは、刺激を単調にするという弊害がありますね。
いっつも同じ言葉しか耳にしていなかったら、覚える言葉も、出てくる言葉も、同じになってしまいます。
だから、自然が一番なんです。


私は、発達援助において、「自然」を核にしています。
その子の持つ自然な流れ、家族が形成する自然な空気感、自然の中で自然な動き、遊びを楽しむ…。
ヒトが生きている限り発達するのは自然なことですし、長い長い人類の歴史を見れば、自然と共に発達、進化の道を歩んできたのがわかります。
「発達とは自然の営みであり、自然の中で育まれる」が、私のモットーです。


自然というのは、常に揺らぎがあります。
不規則であり、ひと時として同じ状態がありません。
一瞬たりとも同じがなく、常に揺らぎが存在するから、複雑が生まれる。
この複雑が発達に必要なのです。


複雑ということは、多種多様な刺激ということです。
多種多様な刺激は、ヒトをより良く発達させます。
複雑な刺激を受け、その刺激を基に発達していくから、ヒトは同じ動きではなく、ナチュラルな動きができるようになる。
自然な環境の中で育っていくから、自然な動き、思考ができるように育っていく。
これが管理された環境で、何の変化もなく、一定の刺激だけの中で育ったら、みんな、ロボットのようなヒトになってしまいます。
そうです、冒頭のロボット言葉を話す子ども達のように。


未発達の状態のため、周囲の情報、刺激の渦の中で混乱する人は、統制された環境が必要でしょう、今、生きるために。
しかし、育つ可能性のある人達、特に子ども達の場合には、刺激を統制し続けることは、自然な発達の機会を奪うことにもなります。
統一された支援が、統一された人間を造る、なんて恐ろしい事態を生みます。
「その子らしさ」「個性を大事にする」「多様性を大切に」などと言いながら、みんな同じスケジュールで、同じ支援の仕方で、同じ声がけ、なんてこともあるのです。
「個性豊かな子ども達に育てたい」と言いながら、「あの学校、事業所を利用している子はすぐにわかるね」というくらい、みんながみんな、統一された方向へ育っていく。


環境側をコントロールする必要があるのも、私は否定しません。
しかし、ある程度の発達段階にきたら、そこから飛びだす必要があると思います。
一番発達が遅れていた段階から利用していた事業所に、ずっとずっと通い続けている子どもがいます。
こういった子どもさんを見て、私は「発達が止まってしまったの」「本人ではなく、親のニーズ、そのままがラクだから通わせてるんじゃないの」と、率直に思います。


「ここの事業所の開設当時から利用しています」と自慢げに話をする人がいますが、同じ刺激の中で、お子さんの発達刺激は満たされているのか、「障害のある人もない人も同じ社会で」と言うのは、ただの理想なのか、とも思います。
同じ社会の中で生きていってほしいと願うのなら、ある程度発達した後は、自然な環境、社会の中で学んでいく必要があるのは当たり前です。
同じ支援、環境を使い続けるのなら、それは発達が止まってしまったか、諦めたか、本人以外の怠慢なのでしょう。


私は「ずっと利用するものではない」と言うので、児童デイや事業所から目の敵にされています(笑)。
「ここまで発達のヌケが埋まったら、一般的な習い事や公園で遊んだ方がこの先伸びます」「逆に利用し続けると、伸びないし、障害者っぽくなりますよ」とも言いますから。
でも、これが真実です。
子ども自ら「つまらない」「もう行きたくない」と言う子もいますし、表現しなかったとしても、刺激の物足りなさが伝わってくるのです。
あとは、「そこ以外の刺激を知らない」という子もいて、その子からは子どもらしい躍動感、生命力を感じない、なんてことも、悲しいけどあるのです。


子どもによっては、長い時間かけて療育機関に通うよりも、その同じ時間があるのなら、公園で思いっきり遊んだ方がより良い発達に繋がる、という子もいます。
療育機関は、刺激が統制されている場合が多い。
ある意味、不自然な環境なのです。
刺激を統制することで、情報がキャッチでき、その分、成長や学習につながる子もいるのは確か。
でも、いつかはその段階から飛びだす時期がくる。
そして、飛びだす先は、複雑で多種多様な刺激に溢れる自然な環境。
この自然の中にある常に動き、不規則で、変化に富んだ刺激が、発達に幅を持たせてくれる。


ヒトは、どんな環境にも、あとから対応して生きていけるように、胎児の状態で一年早く生まれてくる道を選択したのです。
どんな環境にも適応できるだけの余白、幅、柔軟性を持ったヒトが、統一された環境の中で生きる、それも発達目まぐるしい子ども時代を過ごすのは不自然なこと。
私は、発達障害の持つ限界よりも、ヒトの持つ可能性の方を信じます。
だからこそ、発達のヌケが埋まった人達に、「ここからは社会が、自然な環境が、あなたを育てます」と言っています。
そして、私の支援を受けるのを止めるよう提案しています。
必要のない支援、援助を利用し続けるのは不自然ですから。

2018年8月17日金曜日

苦手なままの夏にするよりも、味わえる夏に育てる

今日は午後から晴れているものの、すでに空気が夏ではなくなっています。
私の大好きな季節、夏が終わろうとしていて、寂しい気持ちになります。


個人的に好きな夏ですが、私がこの夏にお会いした子ども達は「夏が嫌い」「夏が楽しめない」という子でした。
発達障害の人達の中には、夏が苦手な人が多いです。
当然、発達の遅れは認知の発達のみを指すのではないのですから、内臓や感覚の発達の遅れから夏が苦手になっている、と考えるのが自然です。
夏が苦手なのは、社会性の問題でも、コミュニケーションの問題でも、想像力の問題でもないのですから。
まさか今どき、自閉症=変更が苦手=季節の変化、夏が苦手、とは…。


でも、そのまさかと思うような捉え方で、そこを基に支援や助言がなされていました。
「この子は夏が苦手です。なので、外には出ないようにして、家の中の室温と湿度をしっかり管理しましょう」
いやいや、夏の間、ずっと家の中にいたら、経験が偏るし、健康にだって良くないでしょ。
クーラーがない施設は、「理解ガー」とやるんですか。
暑い日は、学校にクーラーが無いから休ませるのでしょうかね。


で、実際に休ませるを助言する支援者がいてビックリ。
「毎年、夏になると不調になるから、7月8月は無理に登校しなくて良いですね。学校に行っても、集団で授業を受けるのは負担になるので、個別対応をお願いしましょう。配慮として授業の代わりにプリントを用意してもらうのも」と言って、年度初めにカレンダーに書きこんだ、なんて話がありました。
なんでもかんでも「障害のせい」で「理解だー」「配慮だー」とは、なんとラクな仕事でしょうか、支援者というのは。


その子の抱える問題に対し、何も手がなくて、ただ「理解だ―」「配慮だー」とやっているのならまだしも、親でも、親戚でもない赤の他人が、子どもの学ぶ権利を奪い、あたかもそれが正しいことをしているように振る舞う現実。
この話を聞いたときは、さすがの私も絶句でした。
「夏が苦手だから、学校を休むのを許可する」
これは理解でも、配慮でもありませんね。


ここまでひどい話ではありませんが、いつから「夏が苦手」が障害特性になったのか、診断基準に入ったのか、と思うような支援、支援者がいるのは事実です。
そんなに「夏が苦手」を障害にしたいのなら、人体や生理学も学び、支援に取り入れたらいいのに。
でも、そういった発想にはつながらず、あくまで「自分たちが対処できない問題=障害のせい」で、かつ支援方法は自分たちがしたい支援。


夏が苦手な人の多くは、汗がかきにくいことと関係しています(@栗本啓司氏『芋づる式に治そう!』花風社2015発行)。
じゃあ、汗をかいた人の絵を描いて「汗をかきましょう」とするの??
じゃあ、汗がかけたらお菓子、とするの??
じゃあ、「汗をかくことは良いことです。身体の中にある悪いものを排出し…」と物語を書いて、読ませるの??
エビデンスのある標準療法では、太刀打ちできないのが良く分かります。
汗がかけるようになり、夏を乗り切れる身体に育てるアイディアを持ち併せていないからって、それは「障害のせい」にして、理解と配慮の問題にすり替えるなんて、卑怯以外のなにものでもありませんね。


この夏は、夏が苦手だった子ども達と一緒に、たくさん身体を動かして遊びました。
親御さんにも、夏が乗り切れる身体を育てることの意義を理解してもらい、家族で夏を楽しんでもらうようにお願いしました。
たとえ障害があったとしても、幼い子ども達がずっとクーラーの利いた部屋の中で一日中いたら健康にも、発達にも良くないと思うのが自然。
毎年、夏が来る日本に住む人なら、夏が乗り切れ、できれば楽しめる身体にするほうが、生活の質は良くなるはずです。
夏が来るたびに、会社を休む人は、「クーラーがない場所以外では働けません」という人は、自立した生活を送るのが難しくなります。
だからこそ、特に成長著しい時期の子ども時代にしっかり汗がかける身体に育てていくのが、大事な発達援助だといえるのです。


ある親御さんから、家族で行ったキャンプの写メが送られてきました。
たくさん陽を浴びて、たくさん遊んだようです。
皆さんの額には汗がにじんでいました。
特別支援の世界で、我が物顔をしている標準療法では、この汗を出させることはできません。


この親御さんは、夏休みの間に、しっかり発達を後押しし、2学期からどんどんチャレンジできる身体に育てたい、と言っていた方でした。
何をしても「頑張らせてはならない」という特別支援から、「我が子と共に飛びだしたい」と電話を頂いた方です。
2学期からは、ちゃんと失敗を味わうことができ、またそこから立ち上がられると思います。
それくらいこの夏で心身共に育った子どもさんですから。
苦手なままの夏にするよりも、味わえる夏にした方が将来の可能性と選択肢を増やし、人生を豊かにすると私は考えています。

2018年8月14日火曜日

発達と向き合っているから前向きで元気になる

この夏は、いろんな方とじっくり時間をかけてお話ができているように感じます。
そして、お話をしていると、「元気が出ました」「希望が見えてきました」「頑張ってみようと思います」というように、みなさん、前向きな言葉を言ってくださいます。


本人や家族の方達から前向きな言葉が聞かれると、お伺いして良かったと心から思います。
大事なことは、前に足を動かすことですから。
一歩でも、半歩でも、昨日より今日、今日より明日、前に進んでいれば、より良い人生を歩んでいる証です。
時間は後戻りできませんし、前へ前へと進むのが自然の原理というものです。


時々、「話をさせてもらうと、元気になる」「私が前向きな気持ちになるように、前向きな言葉を使うようにしているのですね」などと言われることがあります。
しかし、私は敢えて前向きな言葉を使おうとは思っていませんし、本人のためだったら厳しいこともガンガン言います。
もし意図的に前向きな言葉を使っているとしたら、それは私が特別支援の世界に見た接待していることになりますし、本人の幸せではなく、自分の仕事や自分自身を見て仕事をしていることになりますので、そんなことはあり得ないのです。
接待や支援者自身のための支援は、本人の成長と自立を阻むのを散々見てきましたから。


では、なぜ、前向きな話になるのか。
それは、私の仕事が発達に関わることだからです。
この前も書きましたが、成長には良い成長と悪い成長がありますが、発達には良い発達しかない、ということです。


発達は、前に前にしか進むことができません。
発達が後戻りするなどということはなく、やったらやっただけ発達の器には水が溜まっていきます。
発達にヌケを持ったまま成長したお兄さん、お姉さんも、発達のヌケが埋まった瞬間、どどどっと一気に成長することがあります。
それは、もっと幼かった頃、ちゃんと発達の器に水を溜めていたからです。


当時、その取り組みは、結果として表れなかったけれども、少しずつ水は溜まっていた。
発達のヌケが埋まって堰が切られた瞬間、その水が溢れ出した。
よく「一気に変わった」というような場面に遭遇しますが、それは単に発達のヌケが埋まっただけではなく、それ以外の部分での育み、蓄積がちゃんとあったからだといえます。
たとえ、そのとき、意味がないように見えたことでも、将来を見据え、「きっとこの子の将来に活きてくるはず」「これも大事な学び、成長につながる」と思って、コツコツと取り組まれていた親御さんのお子さんには、こういった堰を切ったような発達、成長の波がやってくるように感じます。


この夏、出会った親御さんが、「子どもの発達っておもしろい」とおっしゃっていました。
本当に、その通りだと思います。
本来、発達とはおもしろいものです。
だって、前に前に進むものですし、やったらやっただけ発達につながっていくわけですから。
もし、子どもさんと関わっていて、そのおもしろさを感じられず、ただ辛いもの、どうなるかわからず不安なもの、というようにしか感じられていないとしたら、それは発達と向き合えていないのだと思います。


良い方向にも行くし、悪い方向にも行く。
そんな風に感じているのでしたら、それは発達ではなく、成長を、いや、成長ではなく、ただ単に行動のみを見ているのかもしれません。
子どもの行動のみを変えようとしているのでしたら、それは不安や緊張感、ときに無力感を感じるもの。


行動の主体は、子ども本人であり、行動を思うがままに変えるのは不可能ですし、もしそれができるとしたら洗脳するか、その子の主体性を奪ってしまうしかないからです。
意のままに操るのも、主体性を奪ってしまうのも、親心もそうですし、自然の摂理にも反することです。
ですから、行動のみに注目し、それを変化させようとしている人達は、ずっと苦しさが漂っている。
「〇〇ができるようになった」と言って喜んでいるようでも、それが本人が発達した結果ではなく、行動変容がもたらした結果だとしたら、心の奥底からは喜べない、むしろ、心の奥底で苦しみ、涙を流していることもある。


また発達を後押しするのではなく、対処をし続けている人にも、同様の苦しさを感じます。
「困ったことが起きたから対処する」
「これができないから、こうやって対処する」
対処には、その場に留める、流れを止める、というようなニュアンスがあります。
たとえ、問題行動であったとしても、その根っこは本人の内側から流れる自然な発露。


もちろん、問題には対処する必要がありますが、それだけではいつまで経って課題は解決しませんし、周囲の人間は本人の流れ、エネルギーを止め続けなければなりません。
問題行動こそ、発達のヌケを育て直し、埋めていく必要があると思います。
課題を抱える子を育てている親御さんが、「毎日、大変」「子育てが辛い」と感じるのは、その問題行動というよりも、その問題に対処し続けないといけない、子どもから出ているエネルギー、流れを止め続けないといけないことに対する悲鳴のように感じることがあります。


治るを目指している本人たちや親御さん達には、エネルギーに溢れ、明るい雰囲気が漂っています。
それは、前に前にと進んでいく発達と向き合っているからであり、自然な流れに沿っているから。
自然と言葉や態度が前向きになるのは当然だといえます。
自然な流れに沿った子育て、生き方というのは、心地良さがあります。
心地良い流れが、子どもの発達を後押しし、親としての本能を存分に発揮させる。
そして何よりも、自分の人生に動きを生み、彩を与える。


治るを目指している人たちは、明るい言葉、前向きな言葉で溢れています。
治るのは、発達だからです。
その子が発達しないから、「行動くらいは変えよう」「対処くらいはしよう」とするのではなく、自然の原理である発達が何らかの理由でうまく進めていけないのだから、そこをどうにかして、本来の前向きな流れにしようとするのが発達援助。


発達は、やったらやっただけ器に水が溜まっていくし、前にしか進めないもの、良い方向にしか進まないもの。
だから、発達と向き合うのはおもしろいことですし、発達援助は本人だけではなく、周りも元気にしてくれるもの。


この夏も、いろんな子ども達の発達、成長の話を聞くことができました。
ガラッと変わった子ども達の周りに、親御さん達の明るく、元気な声が溢れています。
秋の気配を感じる北海道のように、すでに豊かな実りの便りが届いています。

2018年8月11日土曜日

治っていくと、本来の姿が現れる

明確な発語がなくて、表情も、動きも乏しいお子さんのところへ行ってきました。
このような状態ですと、当然、重い知的障害と判定され、医師や支援者からも「無理せず」「この子のペースで」「支援を受けながら」と言われていました。


昔の言い方ですと、カナー型の自閉症の子。
私が部屋に入ってきても、注意を向けることはありません。
まるで、一人の世界で生きているようです。


しかし、一瞬ではありますが、同世代の子どものように、自然な表情で、柔らかい身のこなしを見せることがありました。
それは一緒に思いっきり遊んだときです。
この子は、大きな声を出して笑って、「もっともっと」と要求するのです。


その瞬間の姿は、とても子どもらしく、重い障害のある子には見えませんでした。
たぶん、この子の本来の姿なのだろう、と私は思いました。
と同時に、この子の課題は「神経同士の繋がり」 なのだと感じました。


こういった自然な姿が垣間見れる瞬間というのは、他の子でも見られることです。
特に、感情が揺さぶられるような状態のとき、まるで全身に電気がビビっと駆け巡るみたいで、表情や動きがとても自然になります。
「発達の遅れ」という言葉からは、その部位、機能自体の遅れ、未発達が連想されますが、このように繋がりに課題がある場合もあると感じます。
ですから、このケースの場合の発達援助のテーマは「神経同士の繋がり」となるのです。


神経同士の繋がりが良くなれば、その子らしさが出てくる、という視点は大事だと思います。
もしそういった視点がなければ、表情が乏しいのも、動きが固いのも、障害だから、自閉症だから、となってしまいます。
「障害だから」という言葉は、症状の固定化を生みます。
症状の固定化は、本来の姿を見えなくするものです。


ある意味、発達援助の目的は、本来の姿を取り戻すことだといえます。
障害によって、その人らしさ、本来の姿が表れていない、資質が開花せずにいる。
だからこそ、発達のヌケを育て直す、神経同士の繋がりを育てる。
発達障害が治ったあと、本来の姿、資質が表に出てくると考えています。


バリバリ発達の遅れがあり、バリバリ症状が出ている状態で、それをその人の「個性だ」なんて言う人もいます。
でも、それは障害以外のなにものでもなく、治す対象だと思います。
「障害は個性だ」というのは「障害だから」と同じで、症状の固定化を生みますし、その症状に何の手も打てないことを言い換えているだけです。


その人の個性というのは、最後の最後まで残り続けるものだと思います。
発達のヌケや遅れという普遍的ではないもの、育て、治していけるものは個性とは言いません。
発達のヌケや遅れを育て、治しきった先に、それでも残るものが、その人の個性だと言えます。
治しきっていないのに、それもこれも「個性です」というのは、「私は何もしないけれども、あなたはすべて受け入れてね」という一種の甘えです。


発達のヌケや遅れが育ち、治ってくると、別人のようにガラッと変わる人達がいます。
治ると、本来の姿が表れてくるのだと思います。
言葉の遅れがあり、他人とコミュニケーションを取るのが難しかった子が、陽気で社交的な若者になっていました。
もともと明るくて、人といるのが好きな子が、発達のヌケや遅れによって、その人らしさが出ていなかっただけなのですね、という感じです。


「重い自閉症ですね」と言われていた子が、感情が大きく揺さぶられたとき、自然な表情、動き、姿が表れる。
こういった場面と巡り合うと、「重い自閉症」は本来の姿ではないと思います。
本来の姿ではないものを、その人の「個性だ」と言ってしまう恐ろしさ。
しかも本人ではない他人が。
私は、一瞬見たその子らしい自然な姿が本来の姿であり、もっと表に出てこれるように、治す後押しをしていきたいと思うのです。

2018年8月5日日曜日

成長には良い成長、悪い成長があるが、発達には良い発達しかない

子どもが、自分自身の発達のヌケを育てようとしている行為を、「年齢にそぐわないから」といって止めてしまう。
その行為は誤学習であり、問題行動なのに、「障害だから」といって、すべて受け入れてしまう。
こういったチグハグな対応をする支援者は少なくありませんね。


だいたいこういったチグハグな対応をしてしまう人は、子どもが軸ではなく、自分の軸で支援しているのだと感じます。
興味関心があるのは、目の前にいる子どもではなく、その子の行動のみ。
だから自分から見て、問題に見えるその行動を止める、抑え込む。
障害に関係なく、誤った経験、学習を積み重ねていった結果であるのに、「障害はかわいそうだ」「障害を持った子ども達は100%頑張っている」「障害を持った子は、全面的に受け止め、受け入れる存在だ」という個人的な思想により、注意や制止しないばかりか、その行為を認め、強化することすらある。


子どもを軸に、もっと具体的に言えば、発達を軸に支援する人は、こういった過ちは犯しません。
発達の軸がわからないとしたら勉強不足ですし、そもそも発達にヌケや遅れがある人と関わるべきではないと思います。
人がどのように発達するのか。
これがわからなくして、どうして発達援助ができる、やっていると言えるのでしょうか。
まあ、支援者の多くは、人の発達が分からないから、支援グッズを作ること、支援技法と知識の量を比べること、啓発活動に向かっていくのでしょう。


親御さんからも、「我が子のどんな行動が発達を育てなおしているのか、問題があり、止めるべき行動なのかわからない」と相談されることがあります。
基本的に支援者とは異なり、親御さんは我が子が育てなおしているのか、問題を起こしているのか、直感的に、本能的にわかると思います。
もし、それがわからなければ、頭でっかちになっているか、親御さんにも課題があるかですので、そこを治していきます。


「わからない」という親御さんには、このようなお話をしています。
「成長には良い成長と悪い成長がありますが、発達には良い発達しかありません」と。
好青年に成長する子もいれば、どうしようもない大人に成長する子もいます。
まったく成長しないということもあります。
でも、どうしようもない発達、まったく変化のない発達などありません。
発達は、常に前に前にと進み、満たされ、成熟するという良い方向にしかいきません。
発達には良い発達しかないことがわかると、多くの親御さんは自信と元気が出てきます。
子育ては技法ではなく、正解、不正解があるわけではないことがわかるからです。


支援者によって決まった技法があり、正解不正解があると洗脳されているだけ。
ですから、本能の部分に蓋がされ、頭で判断しようとするから迷うのです。
親御さんの資質が一番発揮されるのは、我が子の発達という舞台。
「良い発達しかない」という言葉は、自分の直感、本能の声に従う美しさを呼び起こすのだと感じます。
正解、不正解などというデジタルを超えたところに、ヒトの発達というアナログがあり、美しさが存在する。


年齢だ、IQだ、障害だ、という人工的な基準から子どもを見ても、ただ息苦しいだけで、発達は見えてきません。
親御さんには、我が子の発達を見てほしいですし、後押ししてほしいと思います。
発達には良い発達しかありませんので、とことん付き合い、とことんやり切ってほしいです。
またそれができるのが、家族です。


親御さんが感じるまま、本能のままに発達を楽しみ、喜ぶ。
発達は良い方向へ、後戻りせず前へ前へと進むものですから。

2018年8月4日土曜日

資質が喜ぶ声を聞く

聴覚過敏がバリバリで、人混みの中は辛くていられない。
発語は小学校に入学してからで、ずっと話すのが苦手だった子。
でも、今、その子は社会人として週40時間以上働き、休みの日にはライブハウスに通うようになっています。
好きなバンドの演奏を聴きながら、踊ったり、同じ会場にいる人達と会話を楽しんだり。
仕事も、プライベートも充実し、「今、私は幸せ」と言っていました。


この言葉を聞いて私は、資質が開花したのだと感じました。
聴覚過敏やその他の課題が治った、ただそれだけではないと思います。
治った先に、本来持っていた資質が飛びだしてきたのです。
しゃべることが苦手で、人と関わること、人と一緒にいることすら苦痛だった姿は、本来の姿ではなかった。
本来の姿は、社交的で、みんなと一緒に盛り上がるのが好きな人。
治った先にあった今の姿は、本人や家族だけではなく、本人の持っていた資質も喜んでいるのだと思います。


「資質が喜ぶ」
これは本人のみの目標ではありません。
子どもの発達を後押しする家族も同じだと思っています。
家族一人ひとりの資質が喜んでいるだろうか?
家族が自分たちの資質が喜ぶ子育てをしているだろうか?
そんな視点で、ご家族とも関わらせていただいています。


発達障害を持つ子は、どっか別のところから急に現れたのではありません。
少なからず、両親から資質を受け継ぎ、また兄弟児も似たような資質を持っています。
ですから、家族の資質を見ること、特に資質が開花し、喜んでいる様子を見ることは、本人の発達援助をする上で、重要な気づきを与えてくれます。
充実した生活、人生を送っているという親御さん、兄弟の背中には、資質を開花させた物語があるものです。
その物語の中には、本人の資質を喜ばせるヒントがあると、私は信じています。


子どもが伸びやかに成長していかない、発達が埋まっていかないのは、親御さんの資質に合っていない子育てをされている、ということが多々あります。
うまくいかないとき、「私の勉強不足」「私のやり方が間違っている」と考える親御さんがいますが、間違っているのは方法ではなく、資質と子育ての関係性です。
直感的に行動してきた人が、知識を詰め込み、考えて子育てしようとするとドツボにハマります。
じっくり考えて行動してきた人が、感覚的に子育てをすると選択を誤ります。
親御さんも、一人の人間であり、その資質と資質を喜ばせる方法は一人ひとり違うのです。
だからこそ、親御さん自身の資質が喜ぶような、活かされるような子育ての仕方をしなければ、子どもも伸びやかに発達、成長していきません。


夫婦も、元を辿れば、赤の他人。
育ってきた環境、歩んできた物語も違えば、資質も違います。
でも、異なる資質同士が刺激し合い、開花した資質が融合した先に、その家族ならではの子育てがあり、一つの家族としての成長があるのだと思います。
お母さんも、お父さんも、自分の資質に合った子育てを行っていく。
そうすると、子どもの内側にある受け継いだ資質も共鳴し、花が開いていこうとするのです。


発達障害を治すのは、途中経過であり、ゴールではありません。
冒頭の若者のように、治ったあと、資質が開花した瞬間、発達援助の役割が終わるのだと思います。
我が子を治す親御さんは増えてきたと感じます。
発達のヌケや遅れを育て直すアイディアが広がってきたからです。
これからも、どんどん治していく親御さん、治っていく子ども達は増えていきます。
だからこそ、私はその先を見つめていきたいと思います。
治ったあと、資質を開花させ、喜ばせる生き方をする人達を増やしていくことです。


私も、たくさんのご家族と関わらせていただきました。
そして今思うのが、子どもの資質を開花させるところまで後押しできる親御さん、ご家族というのは、一人ひとりがご自身の資質を開花させ、資質が喜ぶような生活、子育てをされているということです。
発達援助とは、ただ発達のヌケ、遅れを育て直す行為のことではなく、その子の持つ資質を開花させるまでの営みだと私は考えています。
「資質が喜んでいるだろうか?」という問いかけは、本人だけではなく、家族にも向けられるのです。

2018年7月25日水曜日

ロマンを感じる発達援助

「それは発達障害だから」ってロマンがないじゃないですか。
そこから先に進んでいかない。
何も連想が浮かんでこない。
正しいことを言っているようで、何も応えていないただのセリフです。


私のところにも、「発達障害だ」「アスペルガーだ」「ADHDだ」と診断名を持った方達がいらっしゃます。
でも、そんなラベルはどうでも良いのです。
自閉症さん、発達障害くんという名の人は、いないのですから。
私が知りたいのは、人工的に分類された名ではなく、本人たちが発する声。
どんな刺激が欲しいのか、何を後押ししてほしいのか、という声。


以前は、自閉症と診断されれば、視覚支援、構造化なんていう時代もありました。
しかし、そこに真の意味での個別化はない。
そして、人がいない。
診断名から支援方法が連想されたとすれば、それは目の前にいる存在を人ではなく、支援対象としてみている証拠です。
目の前の人から支援が連想されていかなければ、対人援助とは言えませんし、行うこともできないでしょう。


連想の源は、その人自身です。
目の前にいる一人の人と真剣に対峙したとき、連想の世界へと誘われるのです。
連想とは動的な存在。
本人の動きを感じ、支援する側の人間も、心身共に動きがなければなりません。
そういった意味で、支援者の解き放つ「それが発達障害だから」という言葉には動きがなく、むしろ動きを止めようとする作用すらあります。
それに、その言葉を受け取った人間が、ワクワクするような、自分でもやってみようと思うような、未来へ向かわせるロマンがないのです。


課題を挙げれば、きりがないかもしれません。
でも、そんな課題の中から一つでも改善する、治っていく、そんな糸口が見えてくれば、人は前へ前へと進むことができる。
特に発達障害の人達は、一つが治れば、次々に連動して治っていく、育っていくことがあります。
発達には流れがあり、繋がりがあるからです。
発達のヌケが埋まれば、堰を切ったように発達していく、それがヒトの発達というものです。


私は仕事をする上で、本人や親御さんにちゃんとロマンを感じてもらえているか、ロマンを言動や雰囲気で伝えられているか、を考えています。
地球が46億年前に誕生し、最初の生命体が生まれたのはそこから6億年後の40億年前。
そして、途方もないくらいの数の生命体と進化が繰り返され、私達人類のご先祖様は600万年前から歩み始めた。
そして、今、自分がいて、同じ時代を生きる人達がいる。
私達の身体に流れる生命の歩みを想像するだけでロマンを感じます。
発達というロマンを感じられない人に、ロマンのある対人援助はできないと思います。
ロマンのない対人援助を行う人は、たまたま人と関わる、人を対象とする仕事に就いた人。


こういったことを考えるようになった源流は、支援員として働いた20代。
数え切れない程の行動障害、課題を持っていた方達の中に、たった一つでも良くなる兆しを見つけたとき、私はそこを追い求めたい、そこだけでも良くなってほしい、というエネルギーに溢れました。
「強度行動障害」という文字からは、何も浮かんでこなかった。
むしろ、絶望や諦め、同情という感情すら出てきてしまった。
でも、一筋の、たった一つの兆しだけで、自分は変わり、本人も変わっていった。
だからこそ、今、私はロマンのある仕事をしたい、しなければならないと思います。


明日から西の方へ伺いますが、こういったロマンをお届けできるか、それが私のテーマでもあります。
数日間ではありますが、お会いする皆さま、よろしくお願いいたします!

2018年7月22日日曜日

何を訊いても、返ってくるのは「それが障害だから」

親御さんの心配事や質問に対し、「それが自閉症だから」「発達障害だから」と言う。
でも、これって答えになっていないと感じます。


「どうして、変更を受け入れられないんでしょうか?」
「それは自閉症だからです」
別に、親御さんは診断基準のクイズをしているのではないですね。


「言葉の発達が遅くて、まだ出ないんですが、どうすれば良いのでしょうか?」
「焦らず、お子さんの発達を温かく見守っていきましょう」
温かく見守るだけで言葉が出るのなら、親御さんも、先生も、社会のみんなも、喜んで温かく見守りますね。
嫌味な見方をすれば、日頃、「エビデンスガー」と言っている人間が温かさを発達要因にするのも矛盾していますし、言葉の遅れは親御さんの温かさが足りないからと言っているようにも聞こえます。
これって冷蔵庫マザーの考え方と同じじゃないですかね。


このような問答は、以前から親御さんと専門家の間で繰り返されており、平成最後の夏にもまだ続いているかと思うと、頭が痛いですし、そのやりとりで仕事がなり立つならおめでたい話だな、と思ってしまいます。
平成が始まった頃からずっと親御さんは、我が子についたラベルを知りたいのではなく、親としての心構え、精神論を聞きたいのではありません。
我が子に、どんな遅れや課題があり、どうすれば改善していくのかを知りたいのです。


自閉症も、発達障害も、遺伝性の障害ではありません。
もちろん、前の世代から遺伝する部分もありますが、それが100%でなければ、決定要因でもありません。
遺伝要因と環境要因の相互作用と言われています。
たとえ遺伝的要因を持っていたとしても、環境要因によって発症しなかったり、重症化しなかったりするということです。


これまたよく言われていることですが、「発達障害は生まれつきの障害だから治らない」というのも、おかしいと思いませんか。
生まれつきの障害だとしたら、遺伝要因100%なのでしょうか。
影響する環境というのは、受精から出産する瞬間までの限定的な環境ということなのでしょうか。
もしこの約10か月間のみの環境が重要だとしたら、「3歳から早期療育!」じゃあ、遅すぎるということになりませんかね。


というか、早期療育の意義すら怪しくなる。
早期療育だって、早くから介入することで、より良い発達と症状の軽度化を目指しているはずです。
というか、「発達障害は生まれつきの障害だから治りません」と言っている人間だって、環境側からの働きかけをすることに意義があると考えているから、療育だ、支援だ、とやるわけです。


「生まれつきの障害だから」と言いつつも、受精から出産までの期間の環境要因、環境的リスク要因については、まるで禁句のように口を閉ざし、否定する支援者たち。
それでいて、生まれる前の母子にはアプローチするわけではなく、生まれたあとになってから「早期療育が大事です」「支援が」「エビデンスのある方法が」とやり始める。
生まれつきの障害で、一生治らないんだったら、ほとんどの支援者はやることも、できることもないでしょうに。
治すのも、軽度化も、目指さないんだったら、何を目指しているの?
生涯にわたる雌鶏化??雌鶏を増やすこと??


「それが障害だから」という言葉は、「これ以上、訊くな」「これ以上、掘り下げるな」という不誠実な空気感が漂っているように感じます。
「それが障害だから」としか返ってこない相手に、これ以上、何も訊けなくなりますよね。
だから、親御さん達は専門家と呼ばれる人に相談するとモヤモヤする。
診断受けたあとに相談に行って、「それが自閉症です」って何にも答えていない。
「自閉症はわかったから、どうすれば発達、成長していくかを教えて」って訊いているのですから。


平成の次はまだわかりませんが、次の年号の時代は、支援者たちの言動の矛盾、論理が破綻している事実を多くの人に気づいていただき、こういった実生活に、明日につながらない問答がなくなることを願っています。
「どうして山に登るんですか?」に対し、「そこに山があるから」という答えにはロマンがありますが、「どうして、こちらの話が伝わらないんでしょうか?」に対し、「それが自閉症だから」という答えには不満しか出てきませんね。

2018年7月20日金曜日

水→泥→砂→土→木…そして本

出張前には、決まって過去の記録を読み返したり、書棚に並ぶ本を思いのままに手に取って読み返したりします。
何度も読んだ本なのに、その時々で新たな気づきがあります。
以前読んだときには、ぼやっとした理解だったのに、今なら手に取るようにわかる、という体験もよくあります。
本というのは、ただ単に文字と情報の集まりではなく、自分自身の成長を確認できるものであり、時間や距離を超え、著者と自分とを結びつけてもらうものだと感じています。


私は本を読む前、その著者の声を調べる癖があります。
ネット等で、実際の声を聞くと、その声で本を読みます。
そうすると、スラスラ読めますし、内容やその言葉の背景への想像が膨らむのです。
私にとって本とは、著者の息づかいを感じることであり、その表現に至った著者の経験、思考を疑似体験することだといえます。
本を通して、著者と対話できなければ、活きた実践へとつながらないからです。


幼いときから本に親しんで生きてきた私は、本が自分を成長させてくれる、という想いがあります。
特に、この仕事に関しては、師匠と呼べる人と出会うことなく、独立まで至ったので、すべての本が私の師匠という感じです。
本は人としても、仕事人としても成長させてくれるものだと考えています。
ですから、日頃、出会う若者たちには、本を読むことを勧めますし、本が読める、また味わえるくらいまで発達、成長することが大事だと考えています。


ある支援学校に通っていた若者は、文字の勉強をし直し、簡単な本が読めるくらいまでになると、自分で本を読むようになり、次々に視野を広げていきました。
ある程度の年齢になると、親が教えられること、また私のような人間が教えられることは薄っぺらくなるものです。
でも、本は地平線に広がる海のように、知識、知恵、考える機会を与えてくれます。


進化の過程を考えると、赤ちゃん、幼児は水と戯れることで魚類の発達段階をクリアするのだと考えています。
この年代の子はもちろんのこと、この発達段階にヌケがある子には、水が大事な発達刺激になります。
また両生類の発達段階の子には、泥が大事な発達刺激になり、爬虫類の発達段階の子には、砂や土、大地が発達刺激になる。
そして、哺乳類の発達段階の子には、草木が大事な発達刺激になる。
最後にヒトの発達段階まできた子には…。
私は、それこそ、絵や文字であり、本だと思っています。


ヒトは、水から泥、泥から砂や土、砂や土から草木、草木から絵や文字へと戯れることを通して、発達していくのだと思います。
人間になるまでの発達の刺激、パートナーは、自然のはずです。
そうやって700万年もの間、進化と発達を繰り返してきたのですから。
私達が行っている発達援助も、自然と共に歩む必要があると思います。


発達障害は現代病とも言えるかもしれません。
ヒトが自然から離れれば離れる程、遠くへ行こうとすればするほど、発達のヌケが埋まる機会は少なくなっていき、そのヌケが際立ってくる。
ヒトとしての土台の部分に、発達の遅れやヌケがあることの多いのが発達障害と呼ばれている方達です。
ですから、どういった環境で、どういった刺激と共に進化、発達してきたかを想像する視点が大事だと思います。


以前、相談に乗っていた方は、近くにある砂浜を素足で歩いているうちに心身共に発達が見られた、ということもありました。
砂浜には、ライセンスも、エビデンスも必要はなく、あるのはただ私達のご先祖様達が歩まれてきた道があるだけです。
発達を促す必要な刺激の中に、こういった自然という視点も入れられると良いかもしれません。

2018年7月18日水曜日

私達支援者は主観から逃れられることはできない

激しい行動障害を持っていた子が、支援が入ることによって、その行動が落ち着くことがある。
介入した支援者は、その姿を見て、良かったと思う。
自傷にしろ、他害にしろ、どんな行動障害も、本人の姿からは何とも言えない悲しさが漂い、そして見ている方もどんどん辛くなっていく。


しかし、どんな行動障害だとしても、その行動が出ないように支援することが、本当に本人が望んでいるかはわからない。
たとえ痛ましい自傷行為だったとしても、100%、止めることが善であるとは言い切れない。
何故なら、その激しい行動が障害だと見るのも、止めた方が良いと思うのも、支援者の主観だから。


施設で働いていたとき、私達支援者は「主観から逃れられることができない」と言っていました。
行動障害への対処だけではなく、コミュニケーションの幅を広げたい、身の周りのことが自分でできるようになってほしい、という支援においても、すべて支援者の主観になります。
知的障害が大変重い方も多く、測定不能という方も少なくありませんでした。
ですから、本人の意思を確認する方法は限られていましたし、ほとんど確認することができない方もいました。
そういった方達と生活していましたので、どこまでいっても主観から逃れられないという想いがあったのだと思います。


エビデンス(科学的根拠)というのは、客観なのかもしれません。
でも、エビデンスのある支援、方略と言っても、100%、どの人にも効果が得られるというものは存在しません。
ということは、エビデンスがあると言われている方略の中から選んだ行為自体、支援する側の主観となります。


我が子に、私が担当している子に、「エビデンスのある方略をやっています」と、あたかも自分は正しい行動をし、子どものことを一番に考えていると言いたげな人がいます。
しかし、そうとは言い切れません。
もしかしたら、その子は望んでいないかもしれない、満足していないかもしれない。
子どもが成長したように見えても、本人は息苦しさを感じているかもしれない。


支援者、もちろん親御さんもですが、「これは自分の主観」という想いを忘れた瞬間、あらぬ方向へと進んでしまう危険性があると感じます。
主観ということが抜けてしまうと、自分の行為が100%になり、子どもも同じように思っている、子どもが望んでいると錯覚してしまいます。
錯覚の先に、「子どもの主体を奪う」という恐ろしさがあるのです。


施設の中には、可哀想が充満しています。
「家で暮らせなくて可哀想」
「行動障害を持っていて可哀想」
「自由と選択と自立がなくて可哀想」
そんな可哀想の空気の中で過ごしていると、いつの間にか自分の主観という意識が薄くなり、この子が望んでいると思うようになります。


「自分は正しいことをしている」「この子が望んでいることをしている」と思うのは、支援者の傲慢で一方的な想い。
本人の主観がわからない、見えないからといって、本人以外の他人が勝手に解釈してはなりませんし、自分の主観で解釈しているんだという意識を失ってはなりません。
どんなに支援を頑張ったとしても、本人の主観が満足しない限り、100%の支援、療育などはないのです。


昔、「主観から逃れられることはできない」と仲間たちによく言っていたのを思い出したのは、ある成人の方と出会ったからです。
彼は、かつて多動児と呼ばれていました。
でも、私が会った若者は、その面影が感じられないくらい動き、躍動感がなかった。
ボーと私の顔を見て、頷くばかりだった。


多動児と言われていた方達が、部屋の片隅で静かにしている姿を20代の私もたくさん見てきました。
その当時、一緒に生活していた方達と先ほどの若者の姿が重なったのでしょう。
そして、こんな物語が見えたのです。
「多動で大変だから、動きまわるのを抑えるのが良い」
これは周りの主観だったはずなのに、いつの間にか本人の主観、望みのようにされてしまった。


多動児が多動児らしく発達し、成長し、大人になっていく。
それが資質を磨き、活かしていくことではないかと思います。
誰か「この支援は私達の主観である」と気づく人がいなかったのか…。
支援者の主観が、本人の主観を浸食し、主体性を犯す。


多動児の面影を消し去るくらいの薬の量ってどれくらいだろう、どれくらい飲んできたのだろう。
「多動が落ち着いて良かった」という声が聞こえてこない若者の姿を前にし、私はただただ切なさに溢れ、溺れそうになっていたのでした。

2018年7月12日木曜日

子どもに直接、話をします

「私に話してくれて嬉しい」
こんな風に言ってくれる子がいました。
私は、小学校の2,3年くらいの子から、直接、本人に話をするようにしています。


おじさんは、今、どのくらい成長しているか調べる仕事をしていること。
「まだ育っていないところを見つけたら、それを教えるから、一緒にどうやって育てていけばよいか考えていきましょう」と話をします。
そして、「おじさんは、一気に育てるような魔法や薬は持っていないし、〇〇くんの代わりに育てることはできない。育てる手伝いはできるけれども、育てていくのは、〇〇くんだよ」と話をします。


冒頭の子は、今までずっと自分の話題になるけど、自分はその輪に入っていないと思っていました。
いろんな場所に連れていかれ、いろんな大人と会ったけれども、話しかけられるはすべて横にいるお母さん。
自分のことを話しているのに、自分には向けられない意識。
そんな雰囲気や疎外感を感じられる子が、生涯に渡る支援の中に入りかけていたのです。


定期的に関わっている子ども達には、前回と比べて、何か変わったことがあるか、尋ねるようにしてます。
「ラクになった」「不安な気持ちが減った」「学校行くのがあまり大変じゃなくなった」「たくさん寝れるようになった」「話が聞こえるようになった」など、いろんな気づきを教えてくれます。
中には、「何か分かんないけど、いいね」と言う子もいて、一人ひとり違う感じ方と表現を、私も楽しみにしています。


当然、何も変化を感じない子や悪くなったと言う子もいます。
でも、それで良いと思っています。
大事なのは、自分自身の内面に目を向けることであり、自分を育てている自分という意識を味わってもらうことです。
育てる主体は自分で、治していくのも自分です。


自分自身の変化により気づけるようになると、主体性が出てくるような気がします。
主体性が出てくると、より自分の変化に気が付けるようになる気がします。
主体性と内面の気づきは、お互いが高め合う存在だと私は考えています。
内面の育ちが主体性を育て、主体性の育ちが内面を育てる。


治っていくプロセスとは、変化に主観的に気づき、その変化に合わせて主体的に行動する、の繰り返し。
主という自分の意識がなければ、治っていきません。
ですから、私は子ども達に対しても、「何か変わったことある?」と尋ねます。


私が、子どもさんと向き合って話をしている様子を見て、親御さんはハッとさせられる、とよく言われます。
診断を受けたときから、ずっと親の私が話しをするものだと思っていた。
そして、その受け答えは、いつしか親の自分がこの子にやってあげなければ、という思いを作り、それに合わせて行動してきた、それを疑うことすらなかった。
でも、発達の遅れを育てていくのは、私ではなく、この子自身なんだ、と。


ある子は、こんなことを言っていました。
「この人は、自分のことを障害を持った子と見ていない」
幼い子だとしても、この辺の雰囲気、大人が発する感情はすぐに見抜くものです。
子どもの方が、言葉以外から察します。
「遅れているところ、苦手なところがあるのなら、そこを育てていけばいいでしょ」
そんなシンプルな一言に、子どもは目を輝かせます。
「僕は手伝ってほしいんじゃなくて、どうすれば治るか知りたかったんだよ」と言う子もいました。


このブログの文面だけでも、この子達に可能性を感じた方は多いのではないでしょうか。
でも、こういった子ども達に、『一生涯の支援』という線路の上を歩ませようとする大人たちがいる。
進みかけていた道以外にも、いや、それよりも可能性を広げる道があることを、彼らに伝えられたとき、私はこの仕事を作って良かった、社会のお役に立てることがあったと感じます。
この仕事を続けている限り、私は子ども達に直接話しかけようと思います。

2018年7月9日月曜日

楽しむ心が発達の出発点

赤ちゃんは、「ハイハイが上達するように」と思って、ハイハイしているのではありません。
見たいものがあり、触りたいものがあり、行きたい場所があるから、ハイハイをする。
自らの意思と自発性、喜びや興奮に付随してハイハイがあり、その先に発達がある。
そんな風に私は考えています。
ですから、発達援助とは心地良い雰囲気が重要であり、「やらせよう」「もっともっと」「これは良くて、あれはダメ」と思った瞬間、成り立たなくなるものだと思います。


ある親御さんが、特別支援とは「ダメ出しに耐えること」と表現していました。
我が子に発達の遅れがわかったときから、ずっと「ダメだダメだ」と言われ続けてきた、そんな印象しか得られなかった、と。
だから、初めて家族以外の人からダメ出しではなく、希望の言葉が聞けて、本当に嬉しいと涙を流されていました。


私もダメ出しはします。
生活の流れを見て、子どもさんの発達の流れを悪くしているものがあれば、指摘しますし、当然、どこに発達のヌケや遅れ、育っていない部分があるか、将来の問題の根っこが見えれば、そのリスクもはっきりと言葉にします。
だけれども、そのダメ出しを誘導する力に使っていません。


支援者の中には、ダメ出しを自らの支援への誘導に使っている人がいます。
「発達の遅れがある。だから、特別支援学級へ」
「二次障害というのがある。だから、無理はさせずに支援を受けながら生活を」
「就職してもすぐに退職する人ばかり。だから、福祉的就労に」
発達の遅れという事実を恣意的に色付ける支援者の存在があります。


しかし、発達の遅れというのは、何か特別な色があるわけではありません。
発達に遅れがあるのなら、どうすれば発達していくか、発達が取り戻せていくか、そこが重要なのです。
発達の遅れの状態から一歩前に行く、その後押しこそが人を支援するということ。
自分のしたい支援に誘導するのは、ただの勧誘です。


私とのセッションが終わったあと、「楽しかった」「前向きになれた」と感想を言われる親御さんが多くいます。
それは私がどうのこうのではなく、それだけ今までの歩みの中で抑圧されてきた、自らを抑圧してきたという証です。
親御さん達は、特別支援をやってきたのであって、子どもを育てることは行えていなかったのでしょう。


本来、発達とは楽しいことです。
赤ちゃんが楽しいからハイハイするように、大人たちも楽しいから発達を後押しする。
そこにはノウハウも、賞罰も、資格も、経験年数も、支援グッズも、アセスメントシートも、診断名も、入る余地はなく、価値や意味すら持たないのです。
必要なのは、楽しむ心。


気持ちが前向きになれただけで、どんどん発達の後押しができていく親御さんがいます。
「発達が遅れているのなら、ヌケているのなら、そこを育てる」
たったこの一言と出会っただけで、本人は治り始め、親御さんは何をすれば良いかわかるようになる。
それくらい気持ちと雰囲気は大事です。
楽しむ心が持てず、「やらせよう」と義務感で接している子は、成長するかもしれませんが、いつまで経っても発達はしません。
発達の遅れやヌケを残したまま、大きくなっているように感じます。


発達したいなら、発達してほしいなら、赤ちゃんの目になること。
赤ちゃんは、発達しようと思って行動するのではなく、楽しくて、ワクワクするから自ら行動し、結果として発達していく。
この順序、流れを忘れてはなりません。


重苦しい雰囲気の中に発達はありません。
ましてや療育施設など、日常生活から切り離されたような不自然な環境の中で発達が生まれることはありません。
あるのは成長であり、発達ではない。
成長には良い成長と悪い成長がありますが、発達には良い発達、前向きな発達しかないのです。
私たちの役割は、発達にヌケや遅れがある子に、より良く発達してもらえるよう後押しすること。
支援者の扱いやすい人に成長してもらうのを後押しすることではありません。

2018年7月4日水曜日

「父親の理解ガー」

「父親の理解が…」とおっしゃるお母さんには、「お父さんに理解がなくても、稼ぎがあれば大丈夫です」と言っています。
まあ、理解があるに越したことはありませんが、父親が子育ての全面に出てくる家庭は、往々にしてうまくいっていないことが多い印象です。
だいたい子どもさんが伸びやかに発達、成長していかない家庭というのは、父親の理解が足りない家庭というよりは、父親がお勉強好きで子育ての主導権を握っている家庭だといえますね。
別の言い方をすれば、お母さんが伸びやかに子育てできていない、母親の感性、本能が活かされていない家庭というのは、治りにくいし、治っていかない、と感じます。


もちろん、お子さんの発達のヌケを埋めるのには、父親の力が必要な場面もあります。
全身を使った運動や大きな動きの遊び、ワクワクするような冒険心を刺激する活動など、お父さんならではの発達援助がある。
でも、子どもさんのことを理解するという点では、母親の右に出るものはいないと思います。


父親の理解というのは、知識からの理解です。
「発達障害には、こんな特性があって、こんな場面で困難を見せる。そういえば、息子にも同じ困難があるから、きっとこういった特性が強いんだろう」って感じ。
しかし、母親の理解っていうのは、物語としての理解。
受精した瞬間から現在に続く物語。
ですから、お母さんの話を聞いていると、流れを感じることができますので、発達のヌケが流れの中からパッと浮かんできて掴みやすく、そして未来像、今後どうなっていくかがよりリアルに描けるのです。


まあ、男というのは、コンプレックスをまとって生きている存在みたいなもので、子育てにも、そのコンプレックスが投影されることがあります。
SNS等で発信している父親をみますと、だいたい自分を納得させるために文字を書いている匂いがプンプンしています。
そういったとき、私はその人のことを父親ではなく、オスなんだと察します。


オスの本能は、より多くの子孫を残すこと。
でも、現代社会では、動物の雄のような繁殖行動はできません。
となると、少ない子孫をより優秀で、より強い子として残そうとするものです。
そういったときに、我が子に障害があることがわかる。
自分が一生懸命勉強して大学に行き、一流の会社に勤めたように、我が子にも社会の、集団の頂点を目指し、強い人間に育ってほしいと願っていた矢先に。
だから、オスとしての本能を抑え込むためにSNSで文字を綴っていく。
周りを納得させることよりも、自分自身を納得させるために。


「発達障害は治らないんだ」と主張するオスたちの文章というのは、読んでいて本当につまらない。
論理の上に、論理を重ねているだけで、結局、結論は最初から決まっているから。
オチが分かるドラマは誰も観ないし、心を動かされません。
ただ自分を納得させたいだけの独りよがりの言葉の羅列の中からは、ロマンも感じなければ、未来も感じません。
そこにいるのはオスである自分自身なのですから、当然、子どもの姿はないのです。
「治らない」という父親ほど、我が子を受け入れられていないと感じます。


オスとしては、子どもに治ってほしい。
でも、父親としては治ってほしくない。
何故なら、治ったところで、この社会の中で自分と同じような強くて、勝ち抜けるような人間に育つとは思えないから、自分が育てられるとは思わないから。
だから、論理をこねくり回すことで、自分の頭の中の世界のバランスを保とうしている。


ちなみに、母親の「発達障害は治らないんだ」の原動力は、愛着障害が多い気がします。
一言で言えば、ダメ親と見られたくない。
他人軸で生きていた人が、自分がこう思うから、こうするんだ、という生き方をしてこなかった人が、急に「治していくのは、あなたですよ」と主導権を渡されれば、慌てふためき、恐怖を感じる。
つまり、根っこは感情だから、父親のSNS、主張と比べて、論理臭を感じません。
「治ってほしいけれど、私次第って言わないで」って感じです。


子どもの発達を論理的に読み解こうとしても無理な話です。
子どもは生命体で、ひと時も同じ状態がありません。
発達は前に進むのみで、後戻りはしない。
「こうやったから、こうなる」なんて単純な図式化はできないのです。
当然、場面場面を区切って、子どもを見ても、わかるものは限られています。


じゃあ、どうやって子どもの発達を理解していくのか。
それは子どもと同じ息づかいをするということ。
子と親が同化していくのです、母体にいたときのように。
お母さんとお話ししていて、お子さんの姿がリアルに見えてくるときは、まるでお母さんが子どもさんの内側に入ってしゃべっているような感覚があります。
同じ子の生きづらさを語るときでも、父親と母親では、伝わってくるものが全然違います。
父親は『生きづらさ』という文字から語り、母親は子どもと同じ感覚から語る。


父親はダイナミックな遊びや冒険心をくすぐるような活動のとき、能力を発揮するのだと思います。
また、発達のヌケを育て直すときよりも、そこが埋まったあと、どう生きるのか、生きていくのか、という場面に子どもが立ったとき、大切な役割があるのだと思います。
私の今までの経験からも、お子さんの発達のヌケを育て直すのは、お母さんが主体的に行っていく方がうまくいくといえます。
何より、発達という連続体、流れを的確に感じられるのは、お母さんが一番です。


発達を掴むのは、いくらお勉強ができてもできることではありません。
発達を掴むには、子どもと同じ息づかいができること、感覚的に変化がわかることが重要です。
発達は情報ではなく、流れであり、物語です。


お母さんが活き活きと我が子の物語を語れる家庭というのが、素晴らしい発達の場だと思います。
ですから、父親が「こうせい、ああせい」と言うのは、よくありません。
問題が絡み合っている家庭というのは、だいたい父親が、お母さんの話を聞かずに頑張っちゃう家庭でしょ。
「この子のことは、妻に任せています」と、堂々と言われるお父さんのところは、お子さんも、お母さんも、伸びやかです。


論理的な説明はないけれども、「なんかおかしいと思うんだよね」「このままだと、将来まずいことになりそうな気がする」と感覚的に察することができるお母さん。
そのお母さんに対して、「妻が言うなら」と立ちどまり、そして共に考えられるのが父親です。
少なくとも、「なに訳のわからないことを」「そんなの気にし過ぎだ」とオス発言して、お母さんの感覚を否定しないくらいには発達すべきですね。


オスでいたいなら、しっかり稼いでくる。
そして、子育ての主導権を奪わない。
オスとしての生き方を我が子に伝えたいのなら、発達のヌケが埋まり、土台が育ったあと。
コンプレックスを抑え込むなら、独りよがりの文章を書いていると自覚することと、意見の違うひと様に絡まないこと。
日頃、オス丸出し、コンプレックス丸出しなのに、急に父親面するから問題が絡まるばかり。


発達援助に関しては、お母さんが主体的に、かつ伸びやかにやられるのが望ましいと思います。
必要なのは、お母さんの持つ感覚と、我が子と同化する息づかい。
お子さんが治っていく家庭は、お母さんが能力を存分に発揮できる家庭。
父親が協力的か否かは、お子さんの治るには、そこまで関係しないと感じますね。

2018年7月3日火曜日

雰囲気の一つになる

日曜日に行われた函館マラソンは、朝から土砂降りの雨でした。
スタート30分前には、競技場内で待機しなければならなかったのですが、その時点で、頭から水が滴り落ちているし、靴はすでにおもおもの状態。
会場には8千人以上の人達がいたのにもかかわらず、シーンと静まり返っており、耳に入ってくるのは雨が激しく地面を叩く音ばかり。
皆の息づかいは、ただただ早くスタートの瞬間を迎えたい、その一心だったと思います。


とても長く感じたスタートまでの時間。
しかし、スタートのピストルが鳴った瞬間、雨の音は聞こえなくなり、会場の雰囲気も一気に明るくなりました。
聞こえてくるのは沿道の声援、近くを走るランナーの息づかいと足音。
そして、目に入ってくるのは、前を走るランナー。
マラソンは、他人と競うのに、自分自身との闘い。
マラソンは、一人で走るのに、前を走るランナー、沿道で声援する人、ボランティアのスタッフに引っ張られ、引き出される。
そんな雰囲気を感じた今回の大会でした。


メールというのは、無機質な文字の羅列だといえます。
特に、私がいただくメールは、実際にお会いしたことのない方からのものがほとんどですから、余計にその側面が強調されやすいと思います。
しかし、その文面を読み進めていくうちに、自然と引きこまれていくメールが多くあります。
そして、お会いしたことのない親御さんの息づかい、子どもさんの持っている体温が伝わってくることもあるのです。


気が付いたら、お返事の文面が出来上がっている、なんてことはしょっちゅうです。
それも聞かれていないことまで、答えていることがある。
我に返り、文章を読み返してみると、「どうして、自分はこんな文を書いたのだろうか」と思うことも多々あります。


実際にお会いしたときは、もっと顕著で、自分でしゃべっているのに、途中から自分じゃない人がしゃべっているような気になります。
自分が溶けていき、目の前にいる方の想いと馴染んでいく感じです。
予定していた時間はあってないようなもの。
家につくと、どっと出てきた疲れを感じることで、今日も出しきれたんだ、と思うのです。


施設で働いていたとき、学校で働いていたとき、私は「引き出される」という感覚も、「溶け込む、馴染んでいく」という感覚も、感じたことがありませんでした。
自分自身が成熟していなかったこともありますし、立場という存在がそれを許さなかったこともあるでしょう。
また伝わってくる感情がネガティブなものばかりだったので、馴染むことを拒否したのもあると思います。


でも、今は違います。
これ程までに「治りたい」「治ってほしい」で溢れている。
その想いに、私は引き出され、そして溶け込んでいく。


支援者や先生だったときは、支援する主体である自分、指導する主体である自分がいました。
目の前にいる子を引き出すのが自分であり、教え導くのが自分でした。
しかし、その自分は今いません。
今いるのは、溶け込むことを厭わない私という雰囲気です。


治りたい人、治したい人が、今、必要なエッセンスを抜き取り、それを実生活の中に馴染ませていく。
常々申しますが、治すのは私ではなく、自分自身であり、家族です。
ですから、私に必要なことは主体性を出すことではなく、本人たちが主体性を発揮しやすいような雰囲気の一つになることだと思います。


子どもが親の、親が子どもの息づかいを感じられるようになる。
子どもさんが持つ「治りたい」と親御さんが持つ「治したい」が溶け込み、馴染んでいくと、一気に治っていきます。
反対に言えば、お互いの息づかいに気づけていない家族、想いが馴染んでいかない家族は、いくら治っていくアイディアや情報があったとしても、治りません。


私が治りたい雰囲気の一つになりきれたとき、それぞれの方達がそれぞれの抜き取り方、感じ方をするのだと思います。
そして、各自で治っていく。
各自で治っていくものを、他人が「治るはずはない」「治っていない」と言うもんじゃないのです。


過去の自分の反省からも、支援者が主体性を発揮すると、ろくなことが起きません。
何故なら、支援者は治すことが不可能だから。
治せない主体性は、本人の想い、親心と馴染めませんし、反発し合うのです。
支援者の主体性が強いとき、支援者に自分が、親が主体性を預けてしまったとき、『治る』は無機質な文字になる。


私は直接的な援助を終えるとき、「いい雰囲気になったから、もう終わりにしましょうね」と言います。
これだけ見ると、怪しげなやりとりに聞こえますが、実際は「そうですね」「私もそう感じていました」と言われる方がほとんどです。
発達は家族の営みの中で自然に育まれることなので、その場の雰囲気、親子の息づかいが重要なのです。




2018年6月26日火曜日

発達課題の見つけ方(年齢を重ねていった方の場合)

昨日は、「子どもは自分で発達に必要な刺激を求めていく」というようなことを書きました。
また文章の中で、「お勉強を始める前の子ども」「就学前の子ども」などの表現も用いました。
すると、このブログを読んでいた方から、「年齢が上がっていくと、どうなるの?」「大人はわからないのでしょうか?」といった質問がありました。


質問された方が気づかれたように、昨日のブログでは子ども、特に就学前の子どもという印象を持たれるような書き方をしていました。
もちろん、就学以降の子どもさんでも同じように、自分の発達で足りない部分を埋めようとする行動は見られます。
しかし、私の印象ではありますが、年齢が上がっていくと、本人も、周りも、「見えづらくなる」というのは感じます。
幼い子ども達のように、ストレートに行動に表れないのです。


その大きな理由の一つは、勉強を始める、言葉で考えるようになるからだと考えています。
幼い子ども達は、本能的な、直感的な動きを見せます。
その子の頭の中には、「自分に必要な刺激」「発達課題」などの言葉もなければ、概念もないでしょう。
しかし、お勉強を始めると、言葉で考えるようになるので、段々分からなくなっていくのです。


たとえば、自分で必要な刺激を求めて動いている子どもに対して、「きみの発達課題はなんですか?」と尋ねても、答えられるはずはありません。
彼らは、言葉で発達課題を捉えているのではなく、身体で発達課題を捉えています。
実際に、本人たちの言葉で聞いたことはありませんが、傍から見ている私などは、必要な刺激に身体が引きこまれている風に見えます。
身体が欲し、感覚が欲している、といった感じです。


一方で、年齢が上がり、勉強を始め、言葉で考えるようになってくると、自分の身体の叫び、感覚の叫びよりも、頭の中の言葉に耳を傾けるようになります。
言葉で発達を捉えるのは難しいことです。
発達とは、外側で得られる情報ではなく、身体の内側で起きている変化だからです。


内から外への発達、つまり、身体という土台が育ったあと、知識や技術といったものを身に付けていのが自然なのですが、発達障害の人達は、土台が育ちきる前に、知識や技術の獲得へ歩みを進めてしまうことがよくあります。
そうなると、あとから言葉で考えて、「自分に足りない刺激って何だっけ」と思っても、なかなか感じとることができません。
それが就学前の子ども達との違いだと思います。


言葉で考えることが普通になると、自分に必要な刺激になかなか気づかなくなる。
また「発達のヌケ」というのも、「こういった場面で、いつも失敗するから、自分にこんな課題があって、その課題の背景は…」という具合にパッと見ることができなくなりますし、同時に迷いや間違いが生じやすくなります。
特に成人した方達は、言葉で考えてきた期間が長いだけではなく、そこにいろんな経験も加わりますので、益々、「自分に必要な刺激って何だろう??」となる。
頭と経験で考えると、迷路の中に入りこんでいきます。


ですから、ある程度の年齢の方には、言葉を通して、感覚を呼び起こす工夫が必要になります。
そのとき、用いられるのが、「気持ちいい」であり、「幸せ」であり、「ワクワクする」などです。
その人の内側が動き出すような、その動きと共に、自分の内側に意識が向いていくような言葉を使って、身体へと誘います。
そういったやりとりを通して、徐々に意識が頭から解放され、自分が求めていた刺激に辿りつく。
そこまでくれば、あとは、自分自身で育てなおしていくのみです。


自分の発達に必要な刺激は、いくつになっても自分自身が一番わかることだと思います。
しかし、言葉で考えるようになってくると、お勉強が始まり、知識や経験が増えていくと、見えづらくなるものだとも思います。
「自分の発達に必要な刺激がわからない」という方には、上記のような言葉を使った誘いも行いますし、それより前に身体をラクにすることから始めることもあります。
また、それでも見えてこない状態が続きますと、親御さんから幼少期のお話を伺い、当時夢中になっていた遊び、活動を確認し、そこから皆さんと一緒に読み解くことも行います。


「そういえば、うちの子、〇〇という遊びばっかりしていたよね」
そういった思い出の中から、当時の本人に「発達に必要な刺激はなに?」と尋ねると、結構、見えてくるものです。
ですから、今、就学前のお子さんを育てられている親御さんは、どんな遊び、運動に夢中になっているかを心に留めておくことが、未来の発達援助へとつながることがあると思います。


『子どもも、青年も、大人も、自分自身が発達に必要な刺激を一番知っている』というのは変わりないですが、その見え方、見つけ方に違いが出てくる点だけ押さえておくのが良い、というのが、私が仕事をする中で感じたことです。
どなたかの参考になれば、と思い、文章にしました。

2018年6月25日月曜日

『発達機会の障害』の時代を見据えて

就学前、特にお勉強を始める前の子ども達の中に、発達障害が治っていくヒントが隠されているように感じます。
ここ1,2年は就学前の子ども達と関わる機会が多くなっていますので、そんな風に感じるのです。


ギョーカイの言う『早期療育』には賛同しませんが、やっぱりお勉強を始める前の子ども達は反応が早いし、反応が大きい。
「同世代の子ども達と比べると、1,2年遅れている…」と言われていたお子さんが、ある日、突然大きな発達を見せる。
このような場面に出会うのは、珍しくありません。


「何も変化がないな」「同世代の子ども達と発達の違いは大きくなるばかり」
そんな風に心配される親御さんは多いですが、それは目に見える世界の話で、子どもさんの内側では日々神経発達が行われている。
特に、就学前の子ども達の内側は、人生で最も神経発達が盛んな時期であり、神経同士がつながり合う時期でもありますので、同時進行的につながっていき、その分、大きな変化が一気に現れるのが、子どもの発達の特徴になるのだと思います。


また子どもの発達の特徴として、「自分で自分に必要な刺激を求めていく」というのもあります。
これは相談メールのやりとりからモロに感じることです。
「我が子のこんなところに課題があるんです」というようなメールを頂くと、「最近、熱心にやる行動、遊びは何ですか?」と尋ねるようにしています。
そうすると、ほとんどの子どもさんは自分自身の発達課題を育てる活動をやっているのです。
子どもは自分で発達のヌケや遅れを育てているんですね。
それが周囲からは、意味のない行動に見えることがある。
同世代の子どもがもうやらなくなった行動だったりすると、止めさせようとしたり、ここぞとばかりにヘンな支援が入ってこようとしたりする。


親御さんは、本能的に我が子の発達の課題を見抜く力を持っていると思います。
いろんな悩み、気になることがあるのにも関わらず、メールの文章にはすべてが書かれているわけではありません。
ピンポイントで気になる行動が記されており、それについて助言を求められている。
ということは、その行動が子どもさんにとって重要な課題であると、本能的に見抜いているのです。
ですから私は、親御さんが見抜いた重要な発達課題と、お子さんが自ら行っている育てる行動を結びつけるのが役割になります。


クドクドしいお返事を書いたとしても、かかるのは10分くらいなものです。
お子さんが熱中して行っている行動の意味を解説するだけ。
我が子が自分自身で発達課題を育てようとしているのがわかると、親御さんはすぐに納得され、その行動を見守り、存分にやり切ることを後押しするようになります。
そうすれば、発達の歯車はクルクルと元気よく回り始めるのです。
そこに療育も、私の直接的なセッションも必要ありません。


こういった子どもさんの発達の特徴を見てきますと、療育や支援が子どもの発達にかすっていないばかりか、むしろ足を引っ張っているんではないか、と思うことすらあります。
子ども時代に必要なのは、発達課題を自分でやり切ることだと考えています。
やり切る前に、療育だ、支援だ、とやってしまうから、中途半端に終わり、発達課題を残したまま、その上に知識や情報を積みあげてしまって、いびつな発達、成長としてしまう。
「一人ひとり発達の仕方、スピードは違う」とよく支援者は言いますが、結局、やり切る機会を奪い、支援グッズの使い方、支援者に気にいられる行動を身に付けさせようとしてばかりいるのでは、と思ってしまいます。


子どもは自分で自分の発達課題をクリアしようとするのですから、余計なことをしないのが一番です。
周囲の人間にできることがあるとすれば、その子の行動の意味を理解し、存分にやり切れる環境と機会を用意することではないでしょうか。
そういった環境の中で、自由に、自分自身でやり切れた子ども達が、診断や支援を受ける前に治っていった子ども達。


冷蔵庫マザーの時代に、これはヒトの内的な問題だと気づいた人がいた。
脳の機能障害の時代に、脳は神経の集まりであり、神経を刺激することで治っていくことに気づいている人がいた。
では、神経発達の障害の時代に、どんな一歩先の気づきがあるのか。


子ども達と関わりの中で、私はこんなことを想像します。
神経発達の障害の次は、『発達機会の障害』の時代。
つまり、十分に発達する機会が得られなかった人に発達の凸凹が見られる、ということ。
もちろん、全員が全員、機会の問題とはならず、生理的な問題で発達障害になる人もい続けると思います。
でも、今のように、どんどん診断される人が増える未来ではなく、生理的な問題、障害の人と、そうではない人で分かれていくはずです。


そのとき、ほとんどの発達障害の人は治っていき、ほとんどの支援者はいらなくなる。
治すのは、子ども自身であり、発達を後押しするのは親御さん。
「必要なのは、支援や療育ではなく、存分にやり切る発達の機会である」
そんな言葉が聞かれる時代を見据えながら、私は見たての力を磨き、持っているものを少しでも多くの方達にお渡しできれば、と思っています。