2018年6月25日月曜日

『発達機会の障害』の時代を見据えて

就学前、特にお勉強を始める前の子ども達の中に、発達障害が治っていくヒントが隠されているように感じます。
ここ1,2年は就学前の子ども達と関わる機会が多くなっていますので、そんな風に感じるのです。


ギョーカイの言う『早期療育』には賛同しませんが、やっぱりお勉強を始める前の子ども達は反応が早いし、反応が大きい。
「同世代の子ども達と比べると、1,2年遅れている…」と言われていたお子さんが、ある日、突然大きな発達を見せる。
このような場面に出会うのは、珍しくありません。


「何も変化がないな」「同世代の子ども達と発達の違いは大きくなるばかり」
そんな風に心配される親御さんは多いですが、それは目に見える世界の話で、子どもさんの内側では日々神経発達が行われている。
特に、就学前の子ども達の内側は、人生で最も神経発達が盛んな時期であり、神経同士がつながり合う時期でもありますので、同時進行的につながっていき、その分、大きな変化が一気に現れるのが、子どもの発達の特徴になるのだと思います。


また子どもの発達の特徴として、「自分で自分に必要な刺激を求めていく」というのもあります。
これは相談メールのやりとりからモロに感じることです。
「我が子のこんなところに課題があるんです」というようなメールを頂くと、「最近、熱心にやる行動、遊びは何ですか?」と尋ねるようにしています。
そうすると、ほとんどの子どもさんは自分自身の発達課題を育てる活動をやっているのです。
子どもは自分で発達のヌケや遅れを育てているんですね。
それが周囲からは、意味のない行動に見えることがある。
同世代の子どもがもうやらなくなった行動だったりすると、止めさせようとしたり、ここぞとばかりにヘンな支援が入ってこようとしたりする。


親御さんは、本能的に我が子の発達の課題を見抜く力を持っていると思います。
いろんな悩み、気になることがあるのにも関わらず、メールの文章にはすべてが書かれているわけではありません。
ピンポイントで気になる行動が記されており、それについて助言を求められている。
ということは、その行動が子どもさんにとって重要な課題であると、本能的に見抜いているのです。
ですから私は、親御さんが見抜いた重要な発達課題と、お子さんが自ら行っている育てる行動を結びつけるのが役割になります。


クドクドしいお返事を書いたとしても、かかるのは10分くらいなものです。
お子さんが熱中して行っている行動の意味を解説するだけ。
我が子が自分自身で発達課題を育てようとしているのがわかると、親御さんはすぐに納得され、その行動を見守り、存分にやり切ることを後押しするようになります。
そうすれば、発達の歯車はクルクルと元気よく回り始めるのです。
そこに療育も、私の直接的なセッションも必要ありません。


こういった子どもさんの発達の特徴を見てきますと、療育や支援が子どもの発達にかすっていないばかりか、むしろ足を引っ張っているんではないか、と思うことすらあります。
子ども時代に必要なのは、発達課題を自分でやり切ることだと考えています。
やり切る前に、療育だ、支援だ、とやってしまうから、中途半端に終わり、発達課題を残したまま、その上に知識や情報を積みあげてしまって、いびつな発達、成長としてしまう。
「一人ひとり発達の仕方、スピードは違う」とよく支援者は言いますが、結局、やり切る機会を奪い、支援グッズの使い方、支援者に気にいられる行動を身に付けさせようとしてばかりいるのでは、と思ってしまいます。


子どもは自分で自分の発達課題をクリアしようとするのですから、余計なことをしないのが一番です。
周囲の人間にできることがあるとすれば、その子の行動の意味を理解し、存分にやり切れる環境と機会を用意することではないでしょうか。
そういった環境の中で、自由に、自分自身でやり切れた子ども達が、診断や支援を受ける前に治っていった子ども達。


冷蔵庫マザーの時代に、これはヒトの内的な問題だと気づいた人がいた。
脳の機能障害の時代に、脳は神経の集まりであり、神経を刺激することで治っていくことに気づいている人がいた。
では、神経発達の障害の時代に、どんな一歩先の気づきがあるのか。


子ども達と関わりの中で、私はこんなことを想像します。
神経発達の障害の次は、『発達機会の障害』の時代。
つまり、十分に発達する機会が得られなかった人に発達の凸凹が見られる、ということ。
もちろん、全員が全員、機会の問題とはならず、生理的な問題で発達障害になる人もい続けると思います。
でも、今のように、どんどん診断される人が増える未来ではなく、生理的な問題、障害の人と、そうではない人で分かれていくはずです。


そのとき、ほとんどの発達障害の人は治っていき、ほとんどの支援者はいらなくなる。
治すのは、子ども自身であり、発達を後押しするのは親御さん。
「必要なのは、支援や療育ではなく、存分にやり切る発達の機会である」
そんな言葉が聞かれる時代を見据えながら、私は見たての力を磨き、持っているものを少しでも多くの方達にお渡しできれば、と思っています。

2018年6月22日金曜日

自分の分を頑張る!

「みんな、自分の分しか頑張れない」
本当にそうだと思いますね。
いくら我が子が愛おしくても、代わりに頑張ってあげることはできません。
だって、子どもの人生は子どものものだから。
親にできることは、親としてできることを頑張るのみ。
そこから先は、子どもの頑張り次第。
自分の分をしっかり頑張れる人に育てるのが、親の頑張りなのかもしれませんね。


「自分が自分の分を頑張れていない」、ただそれだけなのに、頑張っている他人を見ては、足を引っ張ろうとする。
どうも頑張る方向性を間違えている人がいますね。
一人ひとり別人格で、みんな違う存在なのですから、自分で自分の人生を頑張るだけだと思います。
だから、他人が自分の人生を頑張っているのを見て、不安や焦りなど感情が揺れ動くとしたら、まずそこを治す必要がある。
自分の人生を頑張るには、自分という主体がはっきりしていないとできませんから。
他人が頑張る姿は、自分とは何かを明確にしてくれます。


ここ数年、自閉症の有病率は68人に1人と言われていたのですが、今年の4月26日、アメリカで発表された報告書によると、有病率は59人に1人になっていました。
私が学生時代は、だいたい1%くらいと言われていたのですが、最新の発表では1.7%くらいになったわけです。
ASD以外の発達障害の人たちもいるわけですから、日本の中にも、いや、それぞれの地域の中にも、多くの人達がいることが推測されます。


よく用いられる『発達障害の子どもが6.5%いる』というデータは、2012年のものであり、医療機関による診断を受けた数ではなく、教職員の見立てによる調査数ですから、どこまで正確に実態を表している数字かはわかりませんが、大きく外れた数字だとは思いません。
日本の人口が、約1億2652万人(H30.6)なので、単純計算で822万人くらい、発達障害を持つ人達がいることになります。
厚生労働省の調査(H27.12)では、医療機関に通院、または入院している発達障害の人達が19万5千人(推定値)です。
ということは、推測の域は出ませんが、800万人くらいの人が医療機関にかかっていないということになります。


現在の子ども達に発達障害を持つ子が増えてきているのは、診断そのものの影響も考えられるし、環境要因として何らかの影響があり、実数が増えているとも考えられます。
ただはっきり言えるのは、有病率と比べて、実際に診断や医療機関に通院している人が少ないということ。
つまり、何が言いたいかと申しますと、私達の地域、社会の中には、診断を受けずに生活している発達障害の人が大勢いるということです。


発達障害に関する啓発では、自分の障害に気づかず年齢を重ね、学校や仕事で躓き、心身の不調から心療内科医に行くと、「あなたは発達障害がありますね」というお決まりのパターンがあります。
これは、それこそ、まだ診断を受けていない人に「診断を受けましょう」キャンペーンであり、支援を受ける利用者を増やしたい、という意図があります。
だから、診断を受けないとマイナス、診断を受けるとプラス、という筋書きが最初から決まっているのです。
でも、実際は、もちろん、自分の生きづらさの原因がわからず、苦しまれている人もいるでしょうが、反対に、社会で適応できている人もいるでしょうし、自立し、家庭を持っている人もいるはずです。
また、生きづらさや発達の凸凹があったとしても、それを医療機関に頼らずとも、育て、治していった人がいるのだと考えられます。


啓発のイメージ戦略により、診断を受けることがプラスになる、生きづらさが改善する、また発達障害の人の多くは、医療機関に通院している、と思っている人も多いと思いますが、実際は診断を受けずに、通院もせず、社会の中で生きている人が大勢いるのです。
厚生労働省によると、精神疾患の患者数は、平成26年で約392万人なので、大袈裟に言って全員発達障害を持つ人だと仮定しても、400万人くらいは精神疾患になるくらいの生きづらさは抱えていない、抱えたとしても、自分自身で対処できている、または治しているとも考えられます。


まあ、簡単に言えば、発達障害=「生きづらさ」「生涯にわたる支援」「治らない障害」というのは、ギョーカイのイメージ戦略だといえます。
こんなことを言うと、「生きづらさを抱えているが、自分の障害に気づいていない人、医療機関と繋がれていない人が大勢いるんだ」という声が聞こえてきそうですが、それだったら、青いお祭りが全然社会のためになっていないと認めたようなものです。
青いお祭りや各地でのギョーカイによる啓発活動が的を得ていないか、医療機関を利用せずとも、自分たちで育て、治し、自立した人生を送られている人がたくさんいるかです。
私は、両方だと思いますが。


是非、これからの若い支援者、専門家の皆さんの中から、医療機関を利用することなく、自立した人生を送られている人達のことを調査、研究する人が出て欲しいと思っています。
有病率と診断数、患者数を比べれば、多くの人が医療機関にかかっていないことがわかります。
だからこそ、この多くの人達が、どうして医療機関にかからず、生活できているのか。
その要因を調べていけば、生きづらさを抱えている人を助ける道標になりますし、発達障害が一生涯の支援が必要な障害ではないこと、そして神経発達とともに治っていく障害だということが証明されると思っています。


人それぞれには役割があるのだと考えています。
私の役割は、臨床を通して、今、生きづらさを抱えている人、治っていきたい人、自立して生きたい人を後押ししていくことだと思います。
そしてお医者さん、研究者の中から、今までの常識を覆すような論文が、いいえ、今、「治った」と実感されている人達が決して偽物なんかじゃなく、自分自身で頑張った人だということが証明されるような発表を願っています。
そのためには、治る人を増やしていくこと。
まさに『私の頑張る分を頑張る』ですね!

2018年6月21日木曜日

100%の効果が得られるアプローチなどありません

論文を読むと、こんな表現がよく出てきます。
「〇〇というアプローチをする前と後では、介入後の方が37%問題行動が減った」
「〇〇というアプローチをしたグループと、別の△△というアプローチをしたグループ、何も介入しないグループで、3か月間の変化を見たところ、最もポジティブな変化があったのが〇〇というアプローチのグループの子ども達で65%の子どもにその効果が見られた」
もちろん、これは意訳であって、実際の論文はもっと難しい表現がされています。


エビデンスのあるアプローチと言われているものは、こういった検証とデータが積み重なっていき、その科学的根拠が明らかにされています。
「科学的根拠がある」というのは、効果があるという証でもあります。
じゃあ、そのエビデンスのあるアプローチを選択したら、証明された効果が同じように得られるか、といったら、そうではありません。
私が知る限り、このアプローチをすれば、「100%同じ効果が得られる」というような論文には出会ったことがありません。


つまり、効果があるけれども、全員が全員、同じ効果が得られるとは限りませんし、その効果だって到達度には差があるのです。
例えば、「37%問題行動が減った」というのは、「63%の問題行動は変化がなかった」ということであり、「グループの65%の子にポジティブな変化があったというのは、35%の子には変化がなかった。またはネガティブな変化があった子もいる」ということでもあります。
「エビデンスがある」=「効果がある」というのは正しいのですが、どうもすべての人に効果があるといった誤解や、その効果が永続的で、100%到達するといった誤解をしている人がいるような気がします。
「エビデンスのあるアプローチをしているから、うちの子に効果がある」とは、必ずしも言えないのです。


こういった人は、元になった論文まで読んでいないのでしょう。
だから、「エビデンス」と聞いただけで想像を膨らましてしまったり、言った人を見て、そのまま受け売りしてしまったりしているのだと思います。
そもそも「100%誰にでも効果がある」という方法があれば、みんな、こんなに苦労していないはずですし、国を挙げて、そのアプローチをやるでしょう。
こんなに特別支援の世界が揺れ動き、いろんな療法に溢れているのは「100%がない」という一番の表れだといえます。


じゃあ、なんで100%がないのか?
それは人だから。
いくら高度に環境を統制し、優秀な専門家たちが集まって研究したとしても、その人まではコントロールすることができません。
同じ人間であったとしても、親から受け継いだものは異なり、受精した瞬間からの歩み、環境は一人として同じ人はいません。
同じ人間がいないからこそ、同じアプローチをしても、刺激の受け取り方、効果の表れ方は異なる。
これが自然なのです。


「エビデンスのあるアプローチしかやらない」というのは、「オーガニック食品しか食べない」に近いものがあると思います。
オーガニック食品は身体に良いかもしれませんが、それだけで必要な栄養素がすべて賄い続けらるとはいえません。
どうしても偏りが出てくる。
エビデンスのあるアプローチも一緒で、偏りが出てしまいます。
エビデンスのあるアプローチをいくつか組み合わせて足していけば、100になるかと言ったら、そんな単純な話にはならないのです。


発達障害の人達は、個人差が大きいと言われています。
ただでも個人差が大きい子ども達が、特定のアプローチで、みんな同じ結果が出るとは考えにくい。
ある子には、とっても良かったけれども、別の子には全然効果がなかった、またはマイナスだった、ということも十分考えられることです。


ですから、組み合わせることが大事なんです。
一つの方法で100%を目指そうと横着したら、どっちに転ぶか運次第になります。
我が子の子育て、人生をサイコロを振るように考えてはいけません。
大事なのは、どのアプローチが我が子に合うかであって、成長と共に変化する必要な刺激に合わせてどんどん変えていく必要があるのです。
特定のアプローチにこだわるのは、リスクを犯すことだといえます。
大事なのは、親の好みではなく、子ども主体の選択です。
あと、そのアプローチの限界の見極めです。


特定のアプローチにこだわり続けた結果、子どもに望んでいた変化のないまま、大人になってしまった、という人達は少なくありません。
エビデンスを見て、子を見ていなかった人の典型です。
私が関わっている子ども達、若者たちも、エビデンスのあるアプローチもすれば、そうではないアプローチも上手に組み合わせながら、その時々で最適な形を作り、発達、成長しています。
自立して働いたり、同世代の子ども達と同じように学んでいったりした人こそ、上手にいろんなアプローチを利用しながら発達、成長していった姿がありました。


そういった意味では、いろんなアプローチ、考え方、支援者と出会うのが良いと思います。
出会ってきたものの中から、その時々で取捨選択し、オリジナルのアプローチ、いや、子育ての仕方を見つけていく。
そして成長と共に、その子自身で自分自身をより良く成長させる方法を確立していく。
そういった試行錯誤と小さな積み重ねが、100%に近づかせていくのだと思います。
私達が目指しているのは、発達障害のある子ども達を治療することではなく、より良く育ってもらうための子育てをすることなのですから。

2018年6月20日水曜日

情報のヌケやズレが独自の世界観を生む

自分の文章を読み直すと、「相変わらずクドイ文章だな」と思います。
どちらかというと、性格はさっぱりしている方だと思いますし、学生時代までクドクド書くのも、クドクドしい文章を読むのも嫌いでした。
そんな自分の文章がクドイ。
自分自身で胸焼けすることもある。
もっとシンプルに、さらっと書けば、文章の量は半分くらいに減らせるだろう、と思いながら、ブログやメール、レポート等を書いています。


この仕事を続けるにつれて、どんどん文章が脂ぎってきたような気がします。
それは「こんなところまで詳しく書かなくて良いよな、わかるよな」という感覚のものが、相手によっては抜け落ちていたり、別の想像で埋めてしまったりする可能性があるからです。


私が若手の頃、トレーニングを受けた専門家たちがこういっていました。
「10歳の子がわかるような文章にしなければならない」
アメリカの人達でしたので、いろんな人種、文化の人達がいるアメリカだからこそ、10歳というレベルの表現にしなさい、と言っているんだろうと、そのときは思っていました。
しかし、この仕事を続けていると、というか、自閉症、発達障害の人達と接する機会が増えていくと、この「10歳レベル」は知的なレベル、読解力のレベルを指しているのではなく、ある程度の年齢の人ならすぐにわかることでも、わかない部分がある、基本的な知識、情報の部分で抜け落ちがある、ということを意味しているのだとわかりました。


「10歳の子どもでもわかる」というのは、子どもニュースのようなイメージです。
大人なら当然、わかっているだろうと思う部分も、子どもは知らないことがある。
もちろん、自閉症、発達障害の人達は、みんな子どもでなければ、10歳程度の知識しかないということではありません。
それくらい「当然、わかっているだろう」と思うところが抜け落ち、そのまま年齢を重ねていることもあるという意味です。
こういった方達が大人になっていくと、コミュニケーションですれ違いが落ちたり、また独自の切り取り方、想像の仕方で、その穴を埋めようとすることもあります。
だから、自然と言葉が長くなってしまいます。


例えば、「炎上商法」という言葉がありますね。
意味とすれば、『意図的に刺激的な表現を使って注目を集め、商売に繋げること』といったところでしょうか。
私も「治る」という言葉を使うから、「炎上商法」と言われることもありますが…。


実際、炎上商法というものが存在するのでしょうが、自分の仕事に注目を集めることは悪いことではありませんし、どの商売も基本です。
表現方法は違えど、自分の事業、仕事を知ってもらわなければ、お客さんはきませんから。
正当な(?)宣伝、普通の宣伝と、炎上商法の宣伝の仕方の違いは、私にははっきりとわかりませんが、とにかく宣伝するのは商売の基本。
だから、騙すような宣伝をしなければ、問題ないと思います。
それに一度、注目を集めたとしても、そのあとも商売が続いている、お客さんがいる、増え続けるのなら、その商売自体に魅力があり、ニーズを掴んだ本物を売っているということであります。
炎上くらいで、商売がうまくいったら、こんなラクなことはありません。


「炎上商法」と叫ぶ人の多くは、上記のような仕組みの理解はあります。
だから、「炎上商法」とわざわざ言うのは、その相手に何か一言いいたいだけの人です。
ただ気に食わないだけ。
感情的な問題です。
たとえば、私の仕事に対して「炎上商法」と言ってきたとしても、それで利用している人が「やめよう」とはなりません。
と言いますか、自分ではなく、我が子の生活と未来を真剣に考えているのが親御さん達ですから、自分自身で納得しなければ利用などしません。
まあ、悪評も含め、そんなことで商売が潰れると思ってしまうのは、その人がお客さんが自動的に流れてくる仕事しかしていない人か、そもそも仕事をしたことがない人、字面の表面だけで想像し、理解した気になっている人でしょう。


またまたクドク書いてしまいましたが、それは「炎上商法」という意味を誤って使っている当事者の人がいたからです。
「炎上商法」という字面から、字面だけで、なんか悪いことをしているような気になっていたのです。
まあ、上記のような情報が抜け落ちていれば、なんか悪いことをしているような想像だけが膨らむのも無理がないかもしれません。
「悪いことをして人を集め、商売を続けている人」みたいな解釈、というか偏った独自の想像ですね。
世の中に、わざと炎上させて商売している人がいるのかはわかりませんが、基本的に普通の商売は、普通に宣伝しますし、「私、炎上商法しています」なんて言いません。
言うのは、その相手が感情的に嫌いな周りにいる人です。


大学に通ったり、働いたりしている発達障害の人達でも、「こういったことも情報が抜け落ちているんだ」と思うことが多々あります。
ということは、会話や説明するときにも、お互いが持ち併せている情報量に差があるかもしれない、ということです。
そういった差を前提に、またそこを読みとりながらコミュニケーションをしていくと、どうしても言語化する部分が増えていきます。


周囲も、本人も、情報の抜け落ちに気づかず、年齢を重ねていくと、知らず知らずのうちにその穴を想像で埋めようとすることがあるように感じます。
その想像が、周囲の情報と併せてなら問題ないのでしょうが、どんどん自分の頭の中だけで膨らんでいってしまうと、トラブルの元になる場合もあります。
先の「炎上商法」の例でも、「何か悪いことをしているんじゃないだろうか」という偏った想像が、その相手を執拗に責めることになり、また後から「あなたはいけないことをしている」と指摘されても、「いいや、違う。私は悪いことをして商売している人を注意しているだけだ。お客さんは騙されているから、それを救っているんだ」など、最悪なパターンが出来上がることもあります。


トラブルを起こしたり、世の中を恨んだりしているような人の中には、自分の頭だけの想像の世界で生きている人が少なくないと感じます。
こういった人の多くは、子ども時代からの小さな抜け落ちが積み重なっていき、それを想像で埋めていった結果、独自の世界観が出来上がったと思われます。
だからこそ、「こんなことは当然、知っているだろう、気が付いているだろう」ではなく、子ども一人ひとりをしっかり見て、「どこかに情報のヌケやズレがあるかもしれない」などという視点を持つのが良いと思います。

2018年6月17日日曜日

昨日の子のような笑顔が見たいから

昨日、伺ったお宅の子どもさんが、急に余所余所しくなったので、どうしたのかなと思いましたら、背中の方からあるものを渡してくれました。
算数テストの答案です。
表も、裏も、満点の数字が見えました。
そして、私の顔を見て、この子はニコッと笑ったのです。


小学校のテストで100点を取るのは、それ程、大きな出来事ではないかもしれません。
しかし、この子の場合は、特別な意味があったのです。
人生初の100点満点の答案。
しかも、低学年のとき、医療機関で正式な診断を受けており、「〇〇ちゃんは、アスペルガーだけでなく、LDもありますね。学年が上がれば、勉強についていくのも難しくなりますし、この子は福祉を利用しながら生きていくでしょうから、無理せず、早めに支援級へ移った方が良いですね」というようなことを言われていたのです。


そんな子と出会ったのは、実際、支援級へ転籍することが具体的に進み始めていた頃でした。
親御さんは、医師の診断と見たてを聞き、「無理させないで、福祉の中で生きた方が幸せなのかもしれない」と思いかけていました。
でも、心の中では「本当に幼い我が子の未来は決まっているのだろうか、他の可能性は無いのだろうか」「本当に何もやってあげられることがないのだろうか」という想いがあった。
そんな揺れ動く心情のとき、我が子の言葉を聞いたのです。
「私、みんなと一緒に勉強がしたい」


もし、あのとき、医師の言葉を信じ、転籍していたらどうなっていたでしょうか。
少なくとも、昨日の笑顔は見ることができなかったでしょう。
ある意味、医療を超えた瞬間でもありました。
現代医療を、親御さんとの二人三脚で、この子は跳び越したのです。


ご存じの通り、発達障害に対し「治る」という言葉を使うと、「医療的に誤りだ」「そんな医学的な知識、見解もないのに、よく専門家を名乗れるな」などと言ってくる人達がいます。
中には、「そんなこともわからず、よく教員免許が取れたな」などという反論するのもバカバカしくなるようなクソリプを飛ばしてくる人もいました。
多分、こういう人は、我が子の学校の先生に対しても、こんな上から目線のバカにしたような態度でいるのだと思います。
こういう人は、いつの時代の教職員を想像しているのか、と思いますね。


今どき、特別支援教諭の免許取得に限らず、どの種類の教員免許を取るにも、障害について学びますし、特に発達障害については、以前よりもましてしっかり学ばなければなくなりました。
当然、国が定めた教員免許を取得するには、一定以上の知識を獲得する必要があるのです。
しかし、学校の先生は支援者でなければ、療育や介護をする仕事ではありません。
学校の先生は、勉強を教えることが一番の目的です。
勉強を教える際、特別なニーズがある子の場合には、その子に合ったアイディアと方法で、勉強を教えていく。
勉強を教えていく、子どもの知識や技能の獲得を後押ししていくのは変わりがないことです。


中途半端に特別支援について勉強したり、地域の支援者とつながったりしていると、「そんなことも知らないの」「そんな療育方法もできないの」というような態度をとる親御さんがいます。
こういう人は先生の役割を誤解している人であると同時に、我が子の成長を後押しできない人だといえます。
何故なら、求める療育とは対処療法であり、子どもが身に付けるのは適応だからです。
ちなみに、こういった親御さんは態度に表さなくても、相手はすぐにわかるもので、当然、すこぶる評判が悪いですね。
こういう親御さんと連携して、その子により良い教育をとは…以下略。
まあ、自業自得です。


「治った、と言っているのは、適応できるようになっただけ」と言うような人もいます。
ここまでくれば、そんな発言をひと様に聞かれて恥ずかしくないのか、と同情すら覚えます。
多分、こういう人は、動物の曲芸のようなものを療育であり、教育であると思っているのでしょう。
場面に合わせた振る舞い方ができるようになる。
それは、発達しているわけでも、成長しているわけでもなく、ただの条件反射です。
条件に合わせて、求められる振る舞いをしているだけ。
動物の曲芸のように、芸をいくら覚えても生きやすくならないし、ましてや自立なんて不可能です。
だって、人生100年時代を生きる中で、子どもが出会う場面は、限りないくらい多くあるから。


私達が言っている「治る」は、適応といった表面的なことではなく、根本的な意味。
発達障害は「神経発達の障害」なのですから、一人ひとり異なる発達の課題の部分を見極め、そこを丁寧に育てなおしていく。
ヘンなサプリや水を飲むだとか、壺を買ったり、お祈りしたりだとのオカルト的なものではなく、とても合理的で、科学的だと思います。
こういう発言をすると、また「医学的に証明されていない」など、もう屁理屈みたいなことを言ってくる人もいますが、じゃあ、逆に質問しますが、「医学的に証明されていないこと以外、すべて誤っているといえるのか?まったく効果がないといえるのか?」「世の中全ての事象を科学で検証することができているのか?可能なのか?」と思うのです。


私が学生時代、それこそ、障害児教育の講義で学んだ「自閉症は脳の機能障害」「生来的な障害で、治ることはない」という知識が、すでに変更されています。
「脳の機能障害」が「神経発達の障害」と変わったのは、「脳の機能障害」と言われた時期に、すでにそれに当てはまらない人が存在していたということであり、「神経発達の障害」とした方が実態に適していると、世界の専門家の中で判断する材料が揃い、コンセンサスがとれたということ。
時代は動き、医療は日進月歩で進歩しているのに、いつまで、あなた様の頭の中は、「脳の機能障害」で止まっているのですか?
また今後も変わりうる医療の前に、「医学的にそう言っているから、それに従います」という姿勢でい続けるのですか?
未だに、発達障害の診断だって、目に見える、確認できる症状を診て判断している状態で、生物学的なマーカーで科学的に診断できているわけではないのです。


いつ来るかわからない、またどうなるかわからない医療の見解を待っている間にも、目の前のこどもたちは日々、大人に向かって歩みを進めています。
医療が言っていることと外れないことを選択するのと引き換えに、子どもの発達と成長の機会を犠牲にする覚悟があるのか、と思います。
冷蔵庫マザーの時代の親御さん、支援者の中にも、「いや、この子達が必要なのは親の愛情ではなく、適切な支援だ」と思う人がいて、実践し、結果を出してきたからこそ、「脳の機能障害」という見解が生まれた。
同じように、「脳の機能障害」と言われた時期に、「いや、脳の機能障害と言われているけれども、根本的な課題は、感覚や内臓も含め、生きる上で土台となる身体の発達にバグがあるのでは」と思う人がいて、そういった部分を育てていった結果、苦しめられていた障害がなくなり、同世代の人達と同じような生活ができる人が出てきた。
どうしてこんな当たり前のことを勘違いしているのかと思ってしまいますが、このように「人がいて、医療が追い付くこともある」というか、それが自然な流れです。


山中教授のように、不治の病に挑み、医療技術の進歩に人生をかけている医師たちがいます。
その一方で、そういった可能性と未来を信じず、「あ~、この子はアスペで、LDもあるから、将来は福祉ね。普通級?ムリムリ」と言う医師もいる。
私は、医療の可能性を信じられない人は、そもそも人間の可能性を信じることのできない人だと思います。
たとえ、自分が関わる医師が、支援者が人間の可能性を信じられない人だったとしても、親御さんは我が子の可能性を信じるのではないでしょうか。
そして、子ども自身も、表現しなかったとしても、自分の可能性と未来を信じているはずです。
親が子どもの可能性を信じず、誰が信じるのです。


治るの道を進む人達は、決して理想主義で、楽観的で、医学的な知識が全くない人ではありません。
みなさん、医学的に「治らない」と言われているのも知っています。
でも、目の前の子の中に、そういった知識を飛び越える可能性が見えている人たちなのです。
だから、何も知らず、あたかもただの無知のような、またインチキをやっているような発言をする人間を私は許せません。
だからといって、そういった人達に考えを改めてもらうつもりもないし、治らず、支援と理解を求めて生きていけば良いと思います。
医学的見解から外れてない自分に酔いながら、目の前で生涯生きづらいままの子を見続ければよいでしょう。


何を言われようとも、治りたい人達と共に私は歩んでいきます。
昨日の子のような笑顔が見たいから。
私は子どもの笑顔を犠牲にし、医療と心中するつもりはないのです。

2018年6月14日木曜日

『発達障害者支援法は誰を救ったか?【電子版】』(花風社)を読んで

今朝、花風社さんから電子版の新刊が発売されたことを知り、早速ダウンロードして、今、読み終えたところです。
それこそ、発達障害者支援法が施行された13年前では考えられないくらい便利で早く、そして求めている知見や情報を得られるようになったと感じます。
今日、世に出た知見や情報を、今日、全国にいる皆さんと共に享受することができる。


13年前は、当時のリーダー達が言っていた言葉をそのまま信じていました。
主に夏に行われていた全国の都市部開催の講習会へ出かけて行き、そこで必死にメモを取り、各地域に持ち帰る。
そして有名な支援者たちが書いた本で勉強する。
今のように、様々な種類の本は出ていませんでした。
いわゆる専門書と呼ばれるもので、専門家が専門用語を使い、読者よりも専門家の方を向いた本だったように思います。


そんな専門書から伝わってくるのは、「脳の機能障害」と「生来的な障害」であるということ。
「治らない障害に対して、私達は何ができるのか?」
それが支援者の頭の中にはあり、そして私も含め多くの支援者が「環境を整え、一人でできることを増やし、より自立“的”な人生を歩めるように支援する」という方向へと進んでいきました。
あの当時、みんなが同じ方向を突き進んだのは、その支援を否定する声がなかったから。
いや、あったのかもしれないが、多くの人の耳には届いてこなかった。
そして一番の理由は、治った人を見たことも、いることも知らなかったからだといえます。


ちょうど昨晩、SNS上で、2014年に発売された『自閉っ子の心身をラクにしよう!』を読み、実践してからどれくらいで、どのような変化があったかが話題になっていました。
住む場所も、年代も、違う人達が、「我が子には」「私自身には」と情報のやりとりがされている。
そんな様子を拝見させていただき、4年前に出版された本、また著者の栗本さんの知見が多くの方達の成長と生活を支え、後押ししたことがわかりました。
それと同時に、13年前では考えられなかった睡眠障害や感覚過敏等で苦しんでいた人達が、それに悩まされないくらいまで変わったこと、普通学級や一般就労は無理と言われていた人達が、元気に学び、働く毎日が過ごせていることが、全国どこにいても瞬時に知ることができるようになった、そのように変わったんだと思いました。


今振り返ると、先進地域の人達は、有名支援者を地元に呼ぶことができ、他の地域よりも新しい知識を得ることができている、ということ自体に満足し、盲目的に、疑問を持つことなく、突き進んだのだと思います。
また、そうではない地域は、「自分たちは遅れている」などと思いながら、時々、先進地域に出かけていって得られた僅かな情報を基に支援を展開していったのでしょう。
いま、「自分たちは遅れてるもんね」という地域の人達の方が治ってきているのは、より良い情報が外にある、と思っているからだと感じます。
「この地域になければ、他のところにあるかもしれない」という考えは、こういった歩みと得たい情報をすぐに得ることができるという今の時代と有利にマッチしたのだといえるでしょう。


今回の新刊『発達障害者支援法は誰を救ったか?』は、その名の通り、2005年に施行された発達障害者支援法を軸に、13年前の当時の空気感、そしてその13年間で、本人たち、親御さん達、支援者たちがどのように捉え、行動していきたのかがわかる本になっています。
私の感覚では、特別支援が始まったのが、ついこないだという感じでいますので、もう13年の月日が流れたのか、と思ってしまいます。
13年前の小学1年生がもう成人したのですね。
そう考えると、今、幼い子ども達を育てられている親御さん達は、当然、当時の空気感や推移がわからなくても仕方がないのだと思います。
本を読み進めている中で、私自身も13年間を振り返りながら、「こんなはずじゃなかったよな」と改めて思うのでした。
今、子育て真っ只中の親御さん達は、どうして「治るが勝ち」なのか、本を読まれることでより深くわかることがあると思いました。


まだ出版されたばかりですし、内容に関わることは避けますが、「発達援助の非医療化」には大いに賛同しますし、自分自身、その道を推し進める一つになりたいと思いました。
そして、「勝ち逃げ世代の支援者」という表現からは、私達、中堅、若手の世代の支援者たちに向けた熱い叱咤激励のメッセージと想いを受け取りました。
13年前のリーダーたちは、当時からおじいさん、おばあさんばかりでした。
前世代の人達が果たした役割は、あの当時、大きかったと思います。
今から振り返れば、おかしいなと思うことでも、それは今、知見が集まり、進化していった結果から見れば、なのだと思います。


しかし時代は大きく変わっています。
それに今よりも少しでも本人と家族がラクに、より良い子育て、より良い人生と自立した生活のために前進しようという想いと行動がなければならないのだと思います。
そういった積み重ねが、次の10年を変えていくはずです。


10年後、今を振り返ると、治る、治らないで言い合っているのが笑えてくると思います。
すでに結果は出ているでしょうし、国の考えや方針、これから進んでいく未来の状況からも、治りやすい人から治っていく、本当の意味での自立していく人が今よりもずっと増えて、自然な状態になっているはずです。
治りたい人、自立したい人を応援し、後押しする時代にどんどんなっていくと考えています。


いくら治ってほしくない人が「治りません」と言い続けても、「治ったよ」「自立したよ」「働いているよ」という情報は、瞬時に広がっていきます。
より良い情報や知見、求めているものを持っている人がいれば、直接つながっていける時代です。
13年前を振り返り、当時の空気感を思い出しながら、10年後の素晴らしい未来を想像する。
これが今朝から今に至る私の時間でした。
当時を知る人も、当時を知らない人も、是非、読まれると良いと思います。
特別支援に対する考え方と、自分が何を求めているのか、が明確になってくるはずです。


 


2018年6月13日水曜日

特別支援の外にこそ、真のニーズがある

日本の場合、お医者さんしか診断することができません。
ですから、発達障害の人達が通る医療の中で軽度化や症状が出ない状態までの治療がなされれば、医療が入り口であり、出口になります。


しかし、現在の医療では、発達障害を治療し、治すことができません。
なので、発達障害の人達の生活を支えるケアの必要性が生まれます。
それが支援や介助といった福祉です。


制度的、金銭的、人的、環境的な支えは必要ではありますが、生涯支え続けることは、本人も、社会も求めていないといえます。
「治らない障害の人たちなのだから、何もせず、ずっと福祉の中にいればよい」
決してそのようなことはなく、個々に合った学びがあれば、成長していく人達です。
そして特別支援教育が生まれました。


特別支援教育の目的は、その子の持つ資質を最大限伸ばし、将来の可能性を広げ、自立して生きていける社会人を育てることです。
そのために、普通学校の教育とは異なり、より個別的に、より柔軟な教育が行われます。


医療があって、福祉があって、教育がある。
それも公的に、誰でも利用することができます。
ある意味、定型発達の子どもを育てるよりも、多くの選択肢があり、多くの資源、サポートがあるといえます。
それなのに、どうして公的な機関を頼るのを止める人がいて、どうして民間の機関を頼る人がいるのでしょうか。


それは公的な機関に満たせないニーズがあり、公的な機関の外にニーズがあるからだと思います。
医療→福祉→教育と、特別支援がニーズと共に生まれてきたのと同じように、ニーズが民間の選択肢を生んだのです。
ニーズがないところに民間が出ていけば、いくら肩書や資格、資金等あっても淘汰されるのが当たり前です。


私は公的な機関を通って、民間になった人間です。
公的な機関で働いていたときにヒシヒシと感じていました。
公的な機関の限界を。
そして、本人、親御さん達のニーズを満たせていないことを。


私が感じた限界は、特別支援の中だけで、子どもを育てていくこと。
診断名をつけたところから、ずっと特別支援の中でどうにかしようとしているのがわかります。
結局、間に特別支援教育が入るけれども、医療と福祉の行ったり来たりであり、特別支援の世界から外に出ていく人がほとんどいない状況があります。


「親元を離れ、自立して生きる」
これは動物としての本能であり、長い進化の過程の中で遺伝子に組み込まれたものだと思います。
本人と家族の想いであり、ニーズです。


特別支援の中で完結できないのは、自立が存在しないからです。
特別支援の中で言われる「自立」とは、支援を受けながら自立“的”に生きていく、という意味ですから。
そして一番の問題は、子育てのニーズに応えず、治療と教育と支援にしてしまったこと。


発達障害とは受精した瞬間から現在まで続く発達の中に課題が存在するということ。
決して診断された瞬間から障害が生まれたわけではありません。
特別支援は診断から始まりますが、子育ては、子どもの発達は、その前から始まっているのです。
つまり、発達に障害がある子をどう育てていくか、どうすればより良く育っていけるか、これこそがニーズの中心だといえます。


親御さんがしたいのは、療育ではなく、子育てです。
本人が望むのは、特別支援の世界で生きることではなく、より良く発達、成長し、社会の中で自立して生きていくことです。
子育てに、資格も、エビデンスも必要はありません。
必要なのは、我が子がより良く発達、成長する姿のみ。
だから、親御さんは公的、民間にこだわらず、より良いものを求めて行動します。
「資格だ」「エビデンスだ」は、支援者間の陣取り合戦であって、子どもも、親御さんも興味が無いのです。
そういったものは、本人と親御さんの「自立したい」という欲求の前では、ただの音であり、文字でしかありません。


親御さんが求める子育てのニーズ、本人が望む自立のニーズが満たされない限り、民間の機関はなくなることがないでしょう。
むしろ公的だ、民間だ、という声がなくなるのが望むべき未来です。
何故なら、子どもを育てるとは、社会全体で営まれることだから。


今のように、特別支援の中だけで育つ子ども達の未来は良くないと思います。
発達障害を持った子ども達も、同世代の子ども達と同じように、地域の資源を使い、より良く育っていく。
必要なのは、特別なニーズを満たす場所を作り、分けることではなく、同じ地域の資源を使いながら成長していくこと。
ですから私は、子育ての中にニーズがあり、家庭での子育ての中に発達を促す力があるのだと考えています。
特別支援の外にこそ、真のニーズがある。

2018年6月12日火曜日

「はい、誤診でした」では許されない

発達障害という診断を受けた人の中で、感覚過敏などが治まり、学校や職場、地域で問題なく、生活できている人のことを、みなさんは何と表現するでしょうか?
私は「治った」と表現します。
実際にそういった方達とお会いすると、「治った」という表現がピッタリだと感じるのです。
でも、支援者の中には「治った」とは言わず、こう考える人がいるようです。
「それは治ったんじゃなくって、誤診だった」と。


「治らないから障害なんだ」という主張は、いろんなところで言われていることです。
だからこそ、症状に苦しまなくなり、支援を受けなくても、自立して生活できるようになった人は、「最初から発達障害ではなかった」ということになる。
じゃあ、最初から発達障害ではなかった人を「発達障害があります」と診断したのは誰か。
その人間の罪は大きいといえます。


障害じゃない人が、障害を持った人として生きる。
それは、その人の人生を大きく変えることであり、あったはずの選択肢と可能性を奪ったことになります。
また、障害者として治療され、教育され、支援サービスを受けてきたということは、必要のない人にみんなから集めた税金を使ったということにもなります。
これは社会的損失でもあります。
社会は、社会を担っていく人間を一人失ったことになりますし、限りある資源を不必要なことに使ってしまったのです。
一人の人間の人権を侵害した上に、社会的損失もあった。
これは大きな罪になります。


「治るはずのない障害を持った人が治ったんだったら、その人にはもともと障害がなかったんだ」
そうだとしたら、ずっと症状は変わらず存在し、支援を必要とし、支援がないと生活できない状態が続く人が「障害を持った人」ということになります。
じゃあ、改めて問います。
発達障害の人達に対し、医療は何をしているのか、どんな役割を果たしているのか。
そして、支援者は本当に支援をしているのか、それは介護ではないのか。
ずっと苦しみが続くのだったら、医療も、支援も、療育も、すべて無力だということになりませんか。


「治らないから障害です」という認識は、いわゆる専門家と呼ばれている人達が白旗を挙げたということ。
私達には、根本から苦しみをとり、自立した人生を送るだけの働きかけができないから、せめて当事者と家族に寄り添わせてください、と言っているようなものです。
だから、本人の苦しみには手をつけず、「社会ガー」「理解ガー」とやっている。
そして発達障害を持った人が犯罪を犯すと、「誤った認識が広まる」「偏見につながる」と、決まって声をあげる。
一般の人達が「また発達障害者か」「報道に抗議する前に、専門家ならどうにかしろよ」と思ってしまうのは、社会の方ではなく、当事者と親の顔を見て仕事をしている表れだと感じます。


治らない派と治る派は、一生交わることはないでしょう。
そして、それぞれの道を歩んでいく。
それで良いのだと思います。
何故なら、どちらの道を選択するかは、本人であり、家族が決めることだから。
一人ひとりが、自分の頭と腹で考え、選択していけば良いのです。
そういった一人ひとりの選択と歩みが、どちらの道が正しかったか、どちらの方が真実かを決めてくれます。
時代と未来の大人たちが答えを出してくれると思っています。


私は治るを信じ、治る道を進んでいこうと思います。
私が出会ってきた治った人達は、ただ誤診された可哀想な人ではないから。
みなさん、本人しかわからない苦しみを経験され、そして、そこから自らの足で這い上がってきたのです。
決して、「もとから障害じゃ無かったよね」「そもそも軽かったんだ」という一言で言い表せられるような方達ではありません。


「脳の可塑性」と「神経発達の障害」という言葉だけでも、治っていくと考える方が自然だと思います。
状態の固定化とは、欠損したのか、そもそも生きていないか、のどちらか。
今、目の前にいる発達障害の人達は、脳や神経が欠損しているわけではなく、同じ時代を同じように生きているのです。


「治らないから障害です」と言う人と、「神経発達を促し、治していきましょう」と言う人。
対処方法と寄り添ってくれることを求めるか、より良く育てていくことを求めるのか。
どちらが正しいとは言えないでしょう。
でも、今の親御さん達はラッキーです。
それぞれの道を歩んできた成人した人たちの姿を見ることができるから。
専門家がいくら理屈をこねくり回しても、成人した人達の姿から感じることは変えられません。


個人的には誤診でも、偽物でも、なんでも結構です。
誤診すら治せない人よりマシです。
どんどん治り、治ったあとはしっかり「発達障害だ」と言った人達に責任をとってもらいましょう。
誤診の人が増えれば、診断のあり方が問われます。
誤診の人が増えれば、「治らない」という認識が問われます。
ですから、今、治す道を歩まれている本人と親御さん達には、時代を動かす力があるといえます。
きっと今の子ども達が成人したときに、彼ら自身で答えを述べてくれると思っています。
彼らが望んだ未来が、彼らの作っていく社会です。

2018年6月7日木曜日

啓発に費やした時間は戻ってこない

いま、どんな状況に置かれていても、自分は「自立の道へ進んでいる」「困難をクリアする道へ進んでいる」「少しずつだけれども、発達しているし、治ってきている」と感じられている人というのは、「社会の理解ガー」などと言わないし、そのような活動もしません。
反対に、年がら年中、「理解ガー」とやっている人は、誤学習している人であり、進む道を見失っている人だと感じます。


啓発ばかりやっている支援者というのは、日頃の支援で無力感を感じている人か、新しい顧客獲得のために市場開拓をしている人くらいなものです。
治すのに忙しかったら、啓発に携わる時間はありません。
こういった支援者によって、本人や親御さんは誤学習したり、進む道を誤ったりします。


社会が理解しても、本人の生きづらさは解決しないのは当たり前です。
感覚過敏は、社会の理解がないから起きるのではないし、社会性が乏しいのは、世の中の人が発達障害の知識に乏しいからではありません。


第一、本人にしろ、家族にしろ、支援者にしろ、社会に対して「自閉症の知識を」「発達障害に対する理解を」と言っていますが、その目的を辿っていけば、自分の置かれている状況が良くなってほしい、この状態から抜け出したい、と言っているにすぎません。
だいたい世の中全ての発達障害者の理解や幸せを願っているわけではないと思います。


そういったことを考えられるくらいの思考力があり、世の中の空気を読めるくらいまでの感覚が育っていたとすれば、自分の困難と社会の理解は関係ないことが分かるでしょうし、ほとんどの人間が発達障害に興味関心がないことも分かるはずです。
厳しいことを言うようですが、それが分からないからこそ、啓発に傾倒してしまうのだと思います。
社会全体、発達障害者全体のことを考えられる人は、違う道に進みます。


「理解ガー」とやっている人を見たら、普通、支援者だったら「その道、間違っているよ」と伝えるし、その人の苦しみ、困難の根っこをどうやったら治していけるか、考えると思います。
結局、社会全体に投げかけていますが、自分自身がラクになりたい、自立していきたい、と個人的な悩み、困難のことを言ってるのですから。
そういった人を自分の仕事の宣伝道具に使うのは、支援者の風上にも置けない人間だと私は思いますがね。


過去に、啓発活動ばかりやっている人に、「本当に、社会全体、発達障害を持つ人全員のことを考えて活動しているのですか?」と尋ねたことがあります。
その人は言葉巧みな人でしたので、いろんな理由を述べながら「そうだ」と言っていました。
でも、その人の悩みは、他人との距離感が分からないことであり、他人と協働して活動できないことでした。
申し訳ないですが、他人との距離感が掴めない人、自分自身の感覚が育っていない人には、社会全体のこと、発達障害者全員のことを考え、適切に捉えられることは難しいと思います。


私は「社会全体のことを考えるな」「発達障害者全体のことを思うな」とは申しませんし、啓発活動をしたい人はすれば良いと考えています。
しかし、私は支援者の一人なので、「まずは自分の課題を解決しよう」「発達のヌケや遅れを育て直す方が近道」だと思ってしまいます。


ちなみに、上記の啓発活動に熱心な人は、バリバリ支援機関を利用している当事者の方。
本人の課題を見ず、直そうとせず、「啓発いいよいいよ」「理解が足りないよね」と言っているだけでお仕事になるのなら、誰の何を支援しているんだか、と思ってしまいますね。


「理解ガー」の当事者の方達の多くは、ずっと生きづらさを抱えたままですし、ずっと世の中を恨んでいるように感じます。
そして悲しいことに、新しい啓発系当事者の人が現れると、支援者がそっぽを向き出す、その人を
大事にしなくなるということもあります。
支援者にとって、「当事者の一人だったんだ」「広告塔の一つ」だったんだと感じることもあります。


啓発に費やした時間は戻ってきませんが、発達と成長に費やした時間は、必ず後からでも活きてきます。
だからこそ、自分の時間は、自分の発達、成長、そして幸せのために使ってもらいたいと願っています。

良い地域は無い、良い支援者もいない

「(近くに)良い支援者がいない」
「私の地域は遅れている」
というのは、事実でしょう。
でも、多くの場合、情報提供という意味ではなく、一種の逃げ道、言い訳の意味で使われているように感じます。
もし危機感を持っているのなら、行動するはずです。
でも、行動しない人に限って、年中、同じことを愚痴っています。


第一、子どもをより良く育てられている親御さんというのは、支援者の有無、住む地域に関わらず、いらっしゃいます。
私が関わった若者の親御さんは、当地が「先進地域バンザイ!」と浮かれている間、どの支援者にも頼らず、ご自身で我が子の発達課題を一つずつクリアしていき、自立できるようにと身の回りのことを一つずつコツコツと教えていきました。
結果として今は社会人として働く若者の一人になっています。


だいたい「良い支援者」「悪い支援者」なんて言っているところからして間違えだと思います。
良い支援者ってなんでしょうか?
自分の愚痴を聞いてくれる人?
「お母さんは頑張っているよ」と励ましてくれる人?
子どもの支援がうまい人?
子どもを発達、成長させる人?


私は良い支援者も、悪い支援者もいないと思っています。
いるのは、職業として支援する人。
同じ支援者だって、時と場合、人によって良くもなれば、悪くもなる。
すべてが良い支援者もいなければ、すべてが悪い支援者もいないと思います。
子どものとき、良い支援者だと感じていたのに、成長した我が子とは合わない、なんてことはよくあることです。


基本的に、支援者は利用するものです。
必要なときに、必要な部分の支援、アイディアを求める。
そして必要がなくなったとき、本人の課題が変わったときには、支援者から離れるのが自然です。
また、それこそが自立に向かうということ。
全権を任せる人でも、我が子の人生が左右される人でもありません。


だからこそ、我が子をより良く育てられている親御さんの口からは、「良い支援者」「悪い支援者」という言葉が出てきません。
「自分がこの子の苦しみを取ってあげるんだ」
「自分がこの子を治し、自立の後押しをするんだ」
という気持ち、主体性と覚悟があるからです。
ですから、地域や支援者の状況を理由にせず、そのとき、そのときで、我が子に必要なことを選択し、行動することができるのだと感じます。


私は支援者の一人だから思います。
「良い支援者」「悪い支援者」と言うのはやめましょう。
その言葉を聞いた若い世代の親御さん達が主体性を発揮する前に、外側に答えがあるように錯覚させてしまいます。
また存在しない「良い支援」「良い地域」を求める旅へと向かわせてしまいます。
「そんなものはありません」とはっきり言うのが、先を生きた者の役割だと思います。
我が子をより良く発達、成長させられる人のことを「良い支援者」と呼ぶならば、それは本人自身ですし、親御さんだけだと思います。

2018年6月5日火曜日

生命を維持するための育ち、生き抜くための育ち、人間として生きるための育ち

治る否定派は、勘違いしていることがあります。
それは、私達が「治す」とは言っていないことです。
発達障害を治すのは、支援者ではなく、本人であり、家族です。
また発達障害は治すものではなく、治るものです。
ここを読み違えると、「私達が支援すれば治るから、こっちへ来なさい」というような安っぽい詐欺師に見えてしまいます。
実際は、本人の困難を解決するわけでもなく、育てるわけでもなく、みんなの税金を使って「社会ガー」と言っているだけの専門家の方がよっぽど詐欺師に見えるのにね。


「発達障害の人も発達するのは当たり前だろ。でも、治らないから障害なんだ」と言う人もいます。
意味不明ですね。
発達障害のことを、遺伝性の障害ですとか、機能障害、身体障害と同じように捉えているのでしょう。
神経発達の障害である発達障害の人が、発達を続けたら、障害の部分が軽度化されていくし、その先には日常生活に影響を及ぼさない状態、本人が自覚することのない状態になっていくものです。
別に絵に描いたような普通の人(というか普通の人がどんな人かわかりませんが)になることが治ったということではありません。
そんなこと言いだしたら定型発達の人はいなくなり、世の中みんな発達障害を持つ人になります。


「治らないけど、発達する」という奇妙な説を唱える支援者や親御さんを見ますと、「子どもさん、ぜんぜん発達してませんけど」という場合が少なくありません。
発達するんだったら、治る一歩前まで、ちゃんと発達できるようにしたらよいのに、と思いますね。
こういった人の多くは、「発達するもん」と言いながら、子どもの発達を後押しするようなことをやっていない。
というか、育てる意味の勘違い、育てる方向性の違いがあります。


ヒトを育てるというのは、根気がいる営みです。
だけれども、どうもインスタントに結果を求めてしまう。
繰り返し、繰り返し、しかも見えない土台の部分から丁寧に育てていくことが「ヒトを育てる」なのに、見える部分で、すぐに結果が出るようなところばかりチョチョッといじくって、「はい、私は育てています」と言っちゃう感じ。
そういった人が療育に飛びついてしまいがちです。


そもそも『療育』とは治“療”と教“育”が合わさった言葉。
まあ、見事にギョーカイは、「治す」を捨ててしまっていますがね。
治さない療育は、デコボコの土地の上に家を建てようとしているようなもの。
当然、そんな土地の上に家が建てられるわけでもなく、だから昔の映画のセットのようなベニヤ板に絵を描いた家を吊るしてしまう。
見せかけの育ちですね。
いくら絵カードが使えるようになっても、いくらSSTで知識を得たとしても、いくらご褒美で特定の行動ができるようになっても、その子が育ったわけでも、発達したわけでもありません。
ただ適応しただけ、ただ振る舞い方を覚えただけ。


ヒトを育てるとは、三段構造になっていると私は考えています。
まず『生命を維持するため』の育てる。
子どもに必要な食事を用意し、しっかり休息できるような環境を整える。
病気や危険から守り、心身共に安心感を得られるような育てるです。
いわゆる快食快眠快便を整えることが土台の育ち。


その上には、動物として生きるための育てるがあります。
『生き抜くため』の育ちです。
神経を育て、内臓を育て、感覚を育て、動きを育てる。
生き抜くためには、生き抜ける身体が必要です。
自由自在に動かせる自分の身体となるように、遊びや運動、日々の生活を通して、子どもを育てていく。
子どもが主体的に伸びやかに成長できる環境を整えることと、子どもの発達に課題があれば、そこを丁寧に育て直すのが、ここで求められる育ちです。


そして一番上に、『人間として生きるため』の育てるがあります。
勉強をして知識を得る、技術を身につける、より良い人間関係の築き方、集団でのルールや協働の仕方を学ぶなど、多数の育ちがあり、育てるがあります。
人間として生きるための育ちとは、社会の中で生きるための育ちともいえます。


ヒトを育てるとは、このように『生命を維持するため』の育ちがあり、『生き抜くため』の育ちがあり、『人間として生きるため』の育ちがあるはずですし、それぞれの育ちが満たされることが必要だと思います。
どこかが満たされていなければ、次の段階の育ちがうまくいくはずもありません。
「社会の理解ガー」と言う前に、ちゃんと栄養のある食事を用意しなよ、しっかり眠れるように整えろよ、と思うことがあります。
「支援ガー」と言う前に、身体を育てなよ、子どもの発達の課題に注目しなよ、しっかり遊びきれる環境を用意しなよ、と思うことがあります。


生命を維持するための育ちが脆弱で、生き抜くための育ちに無頓着。
それなのに、人間として生きるための育ちを詰め込もうとする。
そんな表面だけを育てようとしているうちは、子どもは真の意味で発達しませんし、育っていきません。


年端もいかない子どもが診断を受ける。
で、快食快眠快便よりも、神経を育て、発達させることよりも、「重要なのは療育です」と言って、絵カードの使い方や模範的な振る舞い方の勉強、餌付けによる芸事ばかりやる。
神経発達が盛んな時期の子どもが育ちよりも、大人による対処ばかりされている現実。
これではいつまで経っても課題は解決しないし、本人の苦しみは治っていかない。
だから、親御さんは悩む。
そして専門家から返ってくるのは「発達はしますが、治りません」という一言。
治らないのは、そもそも療育によって育てていないからであって、ヒトの発達を無視しているからだといえます。


治すことを目指している人というのは、ヒトを育てる人達だと感じます。
見せかけの育ちではなく、根本から、土台からじっくり育てようとする人達。
だから、目の前にいる子をより良く発達させるアイディアや、それを持つ人を、特別支援という特殊な世界の中からだけではなく、広い世界から見つけようとします。
そういった姿勢や親子の営みの中、いつの間にか治っていく。
発達障害とは神経発達の障害なのですから、刺激を与え、育てようとしている限り、その子の発達は止まらないものなのです。
特定の集団にとって不都合な事実だったとしても。

2018年6月4日月曜日

早期療育の目的は、障害の軽度化であり、治すこと

早期療育の最大の目的は、障害の軽度化であり、より早い段階で治すということだと思います。
というか、それ以外ないと思います。
爬虫類の脳→哺乳類の脳→人間の脳という3段構造で発達していく脳。
中枢から末端へ、大きな動きから小さな動きへという発達の流れがあるのですから、神経発達の盛んな時期であって、ヒトとして生きる上での土台を育てる時期に、しっかり育てていくことが、その子の人生にとって大変意義のあることだといえます。


しかし、早期療育を謳っている支援者の中で、「障害の軽度化」と言う人はほとんどいません。
ましてや、「治す」なんて言う人はいません。
どうして軽度化も、治すも言わないのでしょうかね。


一般の人は、早期療育と聞けば、軽度化や治すを連想すると思います。
これは親御さんでも、そうではない人も。
反対に、早期から介入する目的が、障害の軽度化でもなければ、治すことでもないとしたら、「なんのためにするのか」「じゃあ、やる必要ないんじゃん」と思うでしょう。


そこでギョーカイが作りだしたのが「二次障害ガー」です。
二次障害で苦しんでいる成人の方達を使い、「この人達は、診断と支援を受けられなかったから、二次障害になった」と言う。
だから、「二次障害にならないために、早期診断、早期療育だ」と主張する。
でも、もう平成も終わるかという今、その手法は使い古された感があるし、誰もひっかからないんじゃないの、と私は思うのです。
これって、私が学生時代から言われていたことですから。


そもそもギョーカイがいくら早期療育を主張したとしても、軽度化も、治すも目指していないわけですから、その子は苦しいまま、課題を持ったまま大人になるはずです。
結局、苦しむ子を前にしてやるのは、環境調整か、服薬か、親御さんの対応と考えを変えるように促すか、です。
ここに育てるの視点がない。


育てる視点がなければ、いくら早期から介入したとしても、根本的な発達の課題は解決してきません。
つまり、課題に触れず、課題を見ずに、ただただ早期から介入しているだけ。
その子が将来、必ずなるか分からない二次障害を使って脅しをかけるのは、商売の手法としてはいただけませんし、もともと目的がなかったところに無理くり目的を作った感が否めません。


もし二次障害が起きないことが目的だとしたら、早期療育が必須ではありません。
むしろ、特別支援という世界に、支援者が扱いやすいような人物になるように促されるギョーカイの支援だったら受けない方がマシの場合もあります。
二次障害を治した支援者、二次障害を防いだ支援者はあまり耳にしませんが、支援者のせいで二次障害になった人はよく耳にします。


このようにギョーカイの行う早期療育は、育ちの視点がなければ、根本的な部分へのアプローチもないので、その子の持つ困難さ、発達のヌケや遅れは変わっていきません。
ですから、「早期療育のおかげで、問題行動が出なかった。二次障害にならなかった」というのは、根本的な苦しさを持ちつつ、ただ問題行動や二次障害が表れる機会をなくしているだけ。
「うちの施設にきたら、問題行動が見られないんです」と意気揚々と言う支援者のところに見学に行くと、四方囲まれた衝立の中で、ずっとDVDを観ているだけ、ということもあります。
これは問題行動が直ったわけでも、軽度化されたわけでもなく、ただ刺激がないから起こしていないだけ。
こういった育ちのない対処療法が、それ早期療育だ、それ支援の効果だ、なんて言っているのは、もう聞き飽きましたし、お腹いっぱいです。


100歩譲って、本当に早期療育が二次障害を予防するという目的と効果があったとしても、それってどうなのかなと思いますし、「じゃあ、早期療育やってみよう」と思うこと自体、私にはわかりません。
よく考えてみてください。
就学前の3,4歳の子どもを特定の機関に通わせて、絵カードの練習したり、トランポリンを跳んだりさせる。
それも、みんなから集めた税金を使って。


幼いときから、本人はもちろんのこと、家族にとっても大変な負担をかけながら、ずっと療育、支援を受け続け、最後に辿りつくのが、「はい、二次障害になりませんでしたね。おめでとうございます。パチパチ」で終わりです。
いやいや、年端もいかない子どもを大変な思いをしながら通わせて、それも小学校、中学校にあがっても、で、治ってないし、障害や症状が軽くなっていないのってなんなのさ、ってなりませんかね。
それだけの思いをして、早期から療育を受けてきたんだから、治せよ、せめても軽度化させろよ、って思いませんかね。
私なら当然、思います。


長い人なら、15年くらい支援を受け続け、結局、その子の持つ困難さは変わらず、自立せずだったら、もっと親子共々、楽しい子ども時代があり、もっと発達、成長する道があるのだと思います。
あるかないかわからない二次障害に恐れるよりも、今、子どもに必要な刺激だったり、育ちだったり、楽しい思い出を作る方がより良い人生につながるはずです。
振り返ったら、大変だった思い出ばかりで、浮かんでくるのは支援グッズと支援者の顔ばかり、というのは寂しいと思います。


ずーと「支援ガー」と言って、ずーと支援を受けてきた成人の人達が、「それが障害だから」という一言によって、治りたい希望が否定され、育つ機会と刺激を奪わられ過ごしている。
挙句の果てに、ずーと支援を受けてきた人が二次障害を持っていたりする。


私は思います。
二次障害は私が想像できないくらい辛いことだと思いますが、それと同じくらい育つ機会と刺激が奪われ、二次障害につながるようなきっかけすら与えられない人生も辛いことだと思います。
二次障害を忌み嫌うもののように言いますが、元を辿っていけば、人として成長するための必要な揺らぎ、ということもあると思います。


二次障害にならないことが早期療育の最大の目的だとしたら私は賛同できません。
「二次障害にならないための人生」
「二次障害にならない方が、扱いやすい人になる」
という言葉が聞こえてくるからです。
本来、早期療育とは、障害の軽度化、治すが目的になるはずであり、そこには『育ち』がなければなりません。


我が子をどう育てていくか、という選択肢には、特別支援での支援、ギョーカイの言う早期療育以外にも、たくさんあるのです。
それこそ、一人ひとり違うのですから、同じ発達障害という診断名だけで、同じ療育を受ける、受けるように促すのは辻褄が合いません。


早期療育=特別支援という捉えでしたら誤りです。
早期療育とは、子どもの発達の課題を見つけ、そこをその子に合わせて育てていく営み、すべてのことを指すのです。
そして向かう先は、課題の先送りではなく、扱いやすい子に育てることでもなく、障害の軽度化であり、治すだと思います。

2018年6月1日金曜日

その子の内側にある発達、成長の流れ

学生時代、講演会で聞いた(当時の)ローカル有名支援者の言葉が印象に残っています。
「この子達は、現状維持できただけで良しとしなきゃダメだよ。悪くなるのが普通だから」
学生だった私は、「自閉症の人は年齢を重ねていくと症状が重くなる傾向があるのか」なんて素直に受け取りましたが、今思い返してみれば、なんとも失礼で、本人たちの内なる力を低く見積もった言動だなと思います。
結局、言っているのは「自分たちにはどうしようもできない」ということであり、当時から続く、構造化信仰の地ですから、「構造化された環境の中で穏やかに過ごすのがベスト」ということだったのでしょう。


「〇〇療法だって、子どもの成長を促す」
「〇〇療法をやるようになってから、子どもが落ち着いた」
「少しずつだけれども、成長しているんです」
と言われる支援者や親御さんがいます。
当然、みなさん大好きなエビデンスのある療法ですから、子どもさんは成長するのでしょう。
子どもは発達するし、成長する。
でも、これって当たり前じゃないですかね。
別の言い方をすれば、支援や〇〇療法を受けなくたって、子どもなんだから、生きているんだから、日々発達するし、成長する。


私のブログは癖が強え~ため、「大久保は、〇〇療法、全否定派だ」なんて思っている方がいます。
実際に相談に来られる方、依頼される方も、「どうぞ今まで私達がやってきた〇〇療法をぶった切ってください」「もう切られる覚悟はできていますから」なんて雰囲気が漂っている場合もあります。
でも、むしろ私は「治る」という知見に出会うまでの10年間くらいは、対処療法ばかり行っていましたし、あらゆる対処療法、エビデンスのある方法を学んできました。
対処療法が必要な場合や人がいることもわかりますし、その分、限界もわかります。
ですから、私のところにいらっしゃる方には、特定の療法を続けたければ続ければいいし、良い効果が得られていると感じているのならそれでいいのですと伝えています。


こんな風に書くと、「あのとき、〇〇療法を否定したじゃないか」と思われる方がいるはずです。
じゃあ、なぜ、私が〇〇療法を否定したのか、なぜ、〇〇療法よりも、発達のヌケや遅れを育て治す方を勧めたのか。
それは発達のスピード、成長の勢いに問題が見えたからです。


先ほど述べたように、特に子どもの場合、特定の療法や機関に通わなくても、快食快眠快便という基本的な部分が満たされていれば、自らの力で発達し、成長するものです。
「発達障害を持つ子には支援ガー、療育ガー」なんていうのは、ギョーカイの営業トークであり、「療育を受けないと、うちの子は育たないかも…」と親御さんを思わせるのが目的の一つです。
何か月も待機者名簿に載り続け、時間をかけて通った機関でトランポリンを跳ぶくらいだったら、近くの公園に行って思いっきり遊んだ方が成長しますね。
療育は部分的だけれども、遊びは全面的な発達、土台作りにつながりますから。
700万年、ヒトの子どもは遊ぶことを通して、身体を動かすことを通して発達、成長してきたのであって、人工的な道具や座ってのお勉強をして発達、成長してきたのではないのです。


子どもであっても、5年なら5年の、10年なら10年の流れというものがあります。
その流れを見たとき、その支援、療育がその子の持つ発達、成長の流れと調和しているのか、加速させているのかが重要なのです。
「この支援、療育をしてから成長した」と言われる子を見ますと、確かに成長しているのがわかります。
でも、その成長の度合いが、その子に流れている成長の流れと比べると、明らかに減速しているのがわかることもあります。
そういった場合、本当にその療育がよい選択なのだろうか、他の発達の後押しの仕方があるのではないかと思うのです。


ましてや、「この療育をしてから落ち着いた」というのは、危険な状態、最悪な状態から抜け出したという意味では良いのかもしれませんが、同時に発達、成長の流れが堰止めされた状態ではないかと心配になることもあります。
発達のヌケや遅れの部分が育ったために「落ち着いた」なら良いのですが、刺激を統制しきることで「落ち着いた」なら、問題を起こせないことと引き換えに、発達、成長の機会を無くしたともいえます。


極端なことを言えば、何もしなくても、子どもは発達するし、成長します。
特に人間としての土台の部分は。


その療法をやるようになってから成長したのかもしれませんが、それは以前よりも子どもの成長に注目するようになったからかもしれませんし、そもそも「その療育をやった“から”」成長したのかは言い切ることができません。
私が出会ってきた子ども達の中には、拒絶や問題行動として表出しないけれども、その療法が発達、成長する勢いを止めていたという子もいました。
そういった子の多くは、発達のヌケや遅れを育てなおす方向性に変えると、驚くような成長を遂げるのです。
そんな我が子の変化を目の当たりにして、子どもの内なる力を感じる親御さんの姿があります。


冒頭の支援者の言葉のように、「発達障害を持つ子ども達は現状維持できたら、安定して過ごせたら良い」なんてことは決してないと思いますし、特別な支援や療育がなければ、育つことのできない子達だとは思いません。
定型発達、非定型発達に関わらず、子どもは、ヒトはみんな自らの内側に発達、成長させる力を持っている。
ただ違いがあるとすれば、言語を獲得する以前の発達段階にヌケや遅れがあるために、それこそ、発達、成長の流れが堰止められている状態だという点でしょう。


私は、「支援、療育がなければ」「支援、療育があったから」という言葉が嫌いです。
何故なら、直接的ではありませんが、発達障害を持っている子ども達の力を低く見積もっている感じがするからです。
だから私は、子ども達の内側にある一人ひとりの流れを懸命に感じようとします。
その流れを邪魔せず、調和し、加速させるアイディア、方法なのかが重要なのです。
ただ「成長を感じるからイイや」「落ち着いたからイイや」では、本当にその子に合った支援、療育だとはいえません。

2018年5月31日木曜日

臆病者のSST

どうしてSST(ソーシャルスキルトレーニング)がほとんど役に立たないのでしょうか、実際の場面になると使えないのでしょうか。
そこには般化しづらい特性があるでしょうし、そもそも知識として教えようとすること自体が間違っているということもあるでしょう。
でも、それよりも根本的な問題として、そもそも伝えようとしている方向性が間違っている場合が多いのです。
取り上げる内容は様々ですが、結局、みんな同じことを言っています。
それは一言で言えば、「どうしたら嫌われないか」です。


支援者の多くは、嫌われることを恐れます。
それは支援者自身が持つ愛着面の課題からであり、嫌われないこと=仕事につながると思っているからです。
嫌われることを恐れる人間というのは、嫌われないことが生きる術として染みついています。
だから、何の疑問を持つこともなく、「嫌われないことが社会性だよ」と教えようとする。
特に困難を持った子どもに対しては、寒々しさを持って生きていた子ども時代の自分自身の姿を重ねてしまいます。
子どもと関わる支援者の中に、必死に嫌われない生き方を教えようとし、必死に自分だけはこの子を嫌いになるまいとする人がいるのをよく見かけます。


ギョーカイに属している支援者というのは、自分一人で支援するよりも、連携することを求められます。
自立させる支援者よりも、上手にパスできる支援者が良いこととされているのです。
サッカーで言うと、得点を決めるストライカーは必要とされず、とにかく仲間にパスを回す選手が良い選手になります。
何故なら、ゴールを決めれば1で終わりますが、パスを回せば、その分、数が増えていくから。
支援者が「連携連携」というのは、「こっちにも支援する回数をくれ」と言っているだけ。
一人の利用者でも、何度も通わせれば、いろんなところに誘導すれば、それだけ利用回数が増えていき、結果、お金につながります。


パスを回す方が効率的に利用回数が増やせるから、いつまでもパスばっかりしていて、「いろんな専門機関と連携して」なんて言いながら、何一つゴールが決められない。
ギョーカイ内で自立させちゃう支援者が嫌われて、反対に「連携連携」「支援支援」と言っているだけの支援者が重宝されるのは、こういったお仕事の仕組みがあるわけで、プレーヤーと外から見ている一般の人達とのギャップが生まれるのは、そもそもルールが違うのです。
だから、決して仲良くもなく、裏ではお互い悪口を言いながらも、一緒に研修し、連携し、作り笑顔で撮った集合写真をSNSにあげる。
私なんかは、全然思想も、考え方も、支援方法も違う支援者同士が、よくもまあ、一緒に仕事をするな、と思いますね。
こんなんで、本人のための良い連携ができるのかな、とも思います。
そもそも妥協点が見つからないでしょって。
「連携」と言うわりに仲が悪く、「連携」と言うわりに連携した支援ができないのは、ギョーカイあるあるです。


「嫌われないこと」というのは、ソーシャルスキルでもなんでもなく、ただ単に臆病なだけ。
嫌われないことなんて、社会の中で何の役にも立ちません。
しかも、嫌われないことばかり考えていたら、仕事はできないし、社会も、学校も、職場も、ただただ怖い場所と錯覚するだけです。
それこそ、特別支援の世界でよく言われる多様性があるのが社会なのですから、自分のことを好きな人間もいれば、嫌いな人間もいます。
もし教えるとしたら、嫌われないことではなく、嫌われながらも生きることを教えた方がよっぽど意味があると思います。
嫌いな人間と距離を置く方法、蹴散らす方法、嫌われて凹んでいる暇があるのなら勉強しな、仕事しな、というSSTなら良いですね。


まあ、流行りのSSTがほとんど意味をなしていないのは、社会性を知識、情報の量という薄っぺらい解釈しかできていないことと、そもそも教える側の根底に誤学習が流れているということです。
例えば、授業中、離席して歩きまわる子に対し、多くの支援者は「他人からどう見られるか」という視点ばかりで教えようとします。
確かに、他人の視点を想像しにくい子どもさんには、こういった情報を確認することも大事です。
でも、それよりも、離席しないで授業を受け続けられる土台作り、他人の気持ちを察せられる土台作りの方が大事だと思います。
逆に言えば、そういった土台ができていない子に、いくら他人の視点、ルール、暗黙の了解を知識として教えても、実際の行動にはつながりません。


そればかりか、支援者から「嫌われないように」「嫌われないように」と言い続けられてきたら、そんなメッセージを送り続けられたら、その子まで他人が、学校が、社会が怖いものだと認識するようになってしまいます。
他人を、学校を、社会を、怖がるのは支援者だけで十分です。
自立のための支援ができないばかりではなく、自立の足を引っ張るのは迷惑千万。
SSTに限らず、怖がる大人のそばには、怖がる子どもがいるのは、こういった価値観の伝達が行われているからだと感じます。


嫌われないように振る舞える人のことを「社会性のある人」「ソーシャルスキルが高い人」と思ってしまうのは、愛着面に課題がある人か、誤学習している人だといえますね。

2018年5月30日水曜日

受容すること、理解すること

「受容する」ということは、期待値を下げることを言うのだろうか。
「理解する」ということは、現状をそのまま受け止めることを言うのだろうか。
『受容』という言葉も、『理解』という言葉も、本来、より良い関係性を築いていくために必要な言葉。
しかし、その言葉が、親御さんの心の重りとなり、親と子の距離を遠ざけているように感じるのです。


私も子育て世代の一人であり、同世代の方達からの相談がきます。
中には、私よりも年齢の若い親御さんと関わる場面も出てくるようになりました。
当然、子育ては喜びや楽しみだけではありません。
でも、同世代、また自分より年下の親御さん達があまりにも苦しそうに日々子どもさんと接しているのを見聞きすると、心苦しく思うのです。


親御さん達の口からは、こんな言葉が出てきます。
「私がまだ受容できていないから…」
「私がちゃんと理解してあげられていないから…」
しかし、親御さん達の姿からは、障害を持っているという事実を受け入れ、我が子のことをより良く理解しよう、理解したい、という想いが感じ取れます。
じゃあ、親御さん達の言う『受容』とは、『理解』とは…。


親御さん達の『受容』『理解』という言葉を辿っていくと、支援者の言葉とぶつかります。
誰しもが抱くであろう自然な親心を否定する言葉です。
我が子の未来の可能性を知りたい、いや、信じたい親御さんに対して、すでに未来は決まっているかのごとく、「この子は、生涯支援を受けていく」「特別支援の世界で生きる子だ」と言う。
この子に合った育て方を知りたいのに、返ってくるのは親の振る舞い方と、世の中にはどんな支援があるかということばかり。


我が子の可能性を信じたい、より良く育つ方法を知りたい親御さん達は、支援者から返ってくる言葉によって、その想いに蓋をするようになります。
最初はどの親御さんも持っていた自然な想いなのに、段々1人消え、2人消え、と減っていく。
本当は蓋をしたくないと思っている親御さんからは苦しさがにじみ出ています。
そして、蓋を閉めるとき、親御さんは自分を納得させるためにこう言うのです。
「悩む私が間違っている」
「私が想いを捨てられないのは、受容や理解ができていないからだ」と。


特別支援の世界では頻繁に使われている『受容』や『理解』という言葉。
でも、この言葉によって苦しんでいる親御さんは少なくないと感じます。
何故なら、特別支援の世界で用いられる意味は、一般的な意味とは持ちいられ方が違うから。
全体ではなく、部分。
自然ではなく、人工的。
つまり、一人の人間としてではなく、障害にのみスポットライトが当てられた受容と理解なのです。


一般的な子育て、言うならば、一人の人間として接し、子育てをしようとしている親御さんに対して、ときに「受容できていない親」「理解ができていない親」なんていう言葉が飛んでくることがあります。
一方で、まるで親子ではなく、支援者と対象児のような子育てをされている親御さんが持ち上げられたりすることもあります。
それってただ単に抜け駆けさせないための集まりじゃないですか?というナントカ会や、同じ親同士なのに多様性は認めず、足を引っ張るのが目的ですか?というナントカメンターとかいうのもある。
そういった言葉と先輩たちの姿に、徐々に『受容』と『理解』というのが重みを持つようになり、重苦しさをまとうようになっていく。


『受容』と『理解』という言葉を否定することは難しいです。
本来、前向きな言葉であり、より良い関係性を築くのに必要な言葉だから。
でも、特別支援の世界では誘導する言葉になってしまっている。
その誘導とは、特別支援の世界で生きることへの誘導です。


「考え方を変えたら、ラクになった」という親御さんがいます。
でも、話に耳を傾けると、期待値を下げているだけ、現状を良しとしただけ、ということもあります。
最初は、自立する姿を望んでいたはずなのに、支援を受けながら生きていってくれればいい、無理して働かなくてもいい…と変わっていく。
自立を目標にすると辛くなるから、支援を受けながら生きていければ、と思うようにする。
「発達障害の人は、家事のできるひきこもりを目指す」と言うのも、周りの大人たちがラクになるためのもの。


特別支援の世界で用いられる『受容』と『理解』は、「普通の子育ては止めましょう」「一般的な願いを持つのは止めましょう」と言っている場合があります。
また支援を提供する私達を、私達のやること、言うことを「受容して」「理解して」と言っている場合も。
そしてその言葉が誘導する先は、「支援を受けよう」なのです。


子どもが生まれたから親になるのではなく、子育てをしていくうちに親になるのだと私は思います。
そんなまだ親になる途中である親御さん、右も左もわからない親御さんに対し、寄って集って普通の子育てではなく、障害児としての子育てをするように、と言う。
だから、親御さんは内側にある自然な親心、障害を持っていても大事な我が子であり、一人の人間であるという想い、より良く育ち、自立してほしいという自然な願いを、「こんなものを持っていてはダメだ」と否定するようになってしまう。


親御さん達を苦しめているのは、その子の持つ困難さだけではなく、自然な親心を否定する言葉達であり、否定し続けることを求められることなのだと思います。
だからこそ、私は相談にいらした親御さんに対し、自然な感情を否定する必要はありませんと伝えています。
むしろ、親心があるからこそ、他の誰よりも真剣で力強く、その子の発達と成長の後押しができるのだと思います。


「受容する」「理解する」というのは、子どもと真剣に向き合い、しっかり過去と現在と未来を見る、ということだと思います。
決して自然な感情を否定することではなく、その子の可能性を否定することではありません。
一般の社会では、子どもの想いを受け止められない人のことを受容できていない人間、子どもの可能性を決めつけてしまう人のことを理解できていない人間と呼ぶのです。

2018年5月29日火曜日

もう一度伝えたい『感覚過敏は治りますか?』(花風社)の意義

当地の書店で並ぶようになったら、再び書こうと思っていました。
みなさま、もうお読みになられたでしょうか。
今月、出版された花風社さんの新刊『感覚過敏は治りますか?』のことです。


新刊を読んですぐに書いたブログには、時計の針を進める本と記しました。
それくらい画期的で、また今いる人だけではなく、これから生まれてくる子ども達も含め、多くの人の苦しみを解決すると同時に、その人達の可能性を広げる本だと感じたからです。


素晴らしい知見をお持ちのプロフェッショナルだと感じた方の場合、その著書だけではなく、必ず参考文献も読むようにしています。
今回の新刊にも、著者の栗本さんが学ばれた参考文献の数々が紹介されていました。
この『感覚過敏は治りますか?』は、幅広い知識と栗本さんの長年積み重ねてこられた経験が合わさり、生まれたものだとわかります。
参考文献を読めば、読むほど、私達読者に分かりやすいようにさらっと述べられている言葉の持つ深みを感じます。
改めて、この本の持つ素晴らしさと、時が経つにつれ、ますますここに記されている知見の価値と意義が高められていく未来を感じています。


私には、この本を読まない理由が見当たりません。
全国どこでも購入することができるのに、ギョーカイのように講習を受けないと手に入れられないような本ではないのに、どうして読まずにいられるでしょうか。
私は、発達援助という仕事を続けている限り、この本を何度も開き、何度も読み続けると思います。


「治る」という言葉に拒否反応がある人もいることはわかります。
また神経発達の障害である発達障害を持つ人が、刺激によってどんどん発達していき、あと一歩で診断基準も満たさなくなるし、本人の感じる困難さが消えていく段階までくると、ピタッと発達が止まる(だから、治らない)と、もはや信仰に近い考えを持っている人がいるのもわかります。
治りたくないし、我が子を治したくないと思うのは個人の自由。
発達するけれども、治る手前に限界があると妄想するのも個人の自由。
でも、治る治らないを抜きにしても、自分の、我が子の神経、感覚を育てたい、神経や感覚が育つと思わない人はいないと思うのです。


花風社さんが私達に届けてくれるものは『育ち』です。
どのようなことを確認し、どのようなことを育てていけば良いのか。
そのアイディアと知見を、全国にいる素晴らしい実践家、ご本人、ご家族の言葉で届けてくれます。
現在の特別支援の世界に溢れている療育のほとんどが対処療法であり、その人を育てるものではないのです。
ただただ知識を与えるだけのもの。
形式的な社会での立ち振る舞い、マニュアルは一つの知識であり、情報です。
人として生きていくために必要なヒトの土台を育てるところまで至らないのです。


刺激に混乱し、苦しむから環境側をコントロールしよう。
失敗したり、うまくいっていなかったりする状況を本人が、または家族がネガティブに思わないように、思われないように啓発し、社会に理解してもらおう。
これらは一時的に必要な状況、場面もありますが、そこに本人の育ちはないのです。
育ちの視点と発達がなければ、生涯苦しみや困難はなくなりません。
それで良いと思っているのは、自分のそばを離れていってもらいたくない人と、支援し続けたい人だけです。


支援者の立場から言えば、たとえ治らないと思っていても、自分の腕を磨く行為を止めてはいけないと思います。
決して「一生涯の支援」などとは考えてはなりません。
何故なら、支援し続ける、それで良しとするとは、腕を上げる努力を放棄することと同じだからです。
発達し続ける先に「治る」があるように、腕を上げ続けた先に「治す」があるはずです。
腕が上がったのに治せない、関わっている人が治っていかないとしたら、それは見せるための支援のバリエーションが増えただけ。


腕が上がれば、本人がラクになる、発達できる後押しが的確にできるようになる。
しかも、その後押しは洗練されていき、よりシンプルなものになるはずです。
ずっと支援し続けるとしたら、そこに腕、専門性への問いは入らなくなります。
うまい、ヘタに関わらず、ずっと関わってくれる人が重宝される世界。
そこには、本人の願いがあるのでしょうか。
関わり続けること自体に価値があるならば、支援者は繋ぎ止めること、また本人のニーズよりも、どう見せるかに意識が向いていくことになる。


以前、私が関わっていた子の親御さんに、はっきり言われたことがあります。
「私は、治るとは思っていない」と。
でも、その子の親御さんは、こう言いました。
「治るとは思わないけれど、少しでも良くなるように育てたい」


私は、意見の違う人に対して、自分の考えを押しつけようとは思っていません。
でも、特に子どもさんと関わる人達には、「育てる」という視点を持ってほしいと願っています。
日々、大変で、落ち着かず、対処、対処の繰り返し、ということもあると思います。
こういう私も、施設で働いていたときは、日々、対処するだけで精一杯でした。
対処と比べたら、育てるという行為はほとんどできなかったのが事実です。
だからこそ、今、私は「育てる」を中心に置く支援者でいたいと思うのです。


そういった私に、多くの学びと刺激を与えてくれるのが、花風社さんの本たちであり、新刊の『感覚過敏は治りますか?』です。
敢えて、治る治らないは抜きにして、多くの人に読んでいただきたいと思います。
そして、一人でも多くの人達の生活、人生の中に「育つ」「育てる」が芽生え、馴染んでいくことを願っています。
それが本人の可能性を広げ、幸せと自由のある人生へとつながっていく近道だから。


 
 

2018年5月28日月曜日

関わるほど、負担の増える支援者という存在

私が理想とする仕事は、1回のセッションで終わる仕事です。
私は本人の発達の課題を確認し、その育て方、目の付け方を本人や家族にお伝えする。
以降は、自分たちで試行錯誤しながら発達、成長していく。
何かまた疑問に思うことがあれば、メール等でやりとり。
実際に関わるのは、一度きり、というのが理想です。
その一度の仕事の中に、課題の根っこを的確に見抜き、その人の発達の流れを掴み、そして本人や家族に発達援助の視点を伝授する、そんな力を持ち併せてるかが問われます。


支援回数が増えて喜ぶのは、支援者くらいなものです。
どうして自分の友達でもなければ、家族でもない他人と何度も会わなければならないのでしょうか。
子どもだったらなおのこと、自分が頼んだわけでもない他人と何度も会いたいとは思わないはず。
しかも、その他人が自分の発達のヌケや遅れを育てなおしてくれるわけでもなく、自分の苦しみをとるラクにしてくれるわけでもなく、ただその人がやりたい対処療法をやる、しかもその対処療法は一生受け続けなければならない。
私だったらストレス以外のなにものでもありません。
子どもだって、自分の意思があり、自分の時間をどう使うか選択する権利があると思います。
だからこそ、私は子どもさんの発達援助に関わるときは、本人の意思を尊重し、必要以上に関わりません。
一番大事なことは、ご家族が主体となり、発達援助が行えるように導くことであり、私がやらなくても、家族ができたらそれでいい、と思っています。


家族にとっても、支援者との関わりはストレスだといえます。
自分たちでできるのなら、敢えて支援者に頼ろうと思う人などいないはずです。
ですから、できないと思っているから、必要だと思っているから関わるのであって、自ら進んで関わりを持とうと思っているのではありません。
ここは支援者が勘違いしているところだと思います。


また親御さん達とお話しすると、支援者の言葉によって、更なる混乱を招いているということがあります。
支援者というのは、自分のやりたい支援、信仰している支援、派閥に属している支援がありますから、その支援がナンバーワンであり、オンリーワンであるかのごとく、押し売りしてくるものです。
いろんな支援者が、支援者の数だけ、自分の支援を売りこんでくる。
しかも、その支援のほとんどは、最初から「治る」を除外し、一生涯利用することを前提としてやってくる。


だから、親御さんというのは、情報過多になり、言っていることも人によって違うから、どれを選んで良いのか、どれが必要な情報で、どれが不必要な情報かが見えなくなりやすい。
ただでも、初めて出会った『発達障害』というものに不安を感じ、混乱しているのに、支援者が輪をかけて混乱させてくる。
本来、支援者なんだから、親御さんのこともラクにしないといけなはいはずです。
それなのに、自分の支援を売ることばかり考えて、親御さんの気持ちをないがしろにしている場合もあります。


中には、親御さんが悩み、苦しむのが当然だと思っているような支援者もいて、最初から眼中にないような態度をとる人もいます。
検査や療育に大金を吹っかけてくる支援者。
一度で終わるのを何度も来させて本人も、家族も疲弊させる支援者。
「いや、うちには他にも家族がいて…」というのに、障害を持った本人を中心にすべて家庭も、生活も、人生も回せ、という支援者。
自分たちの仕事を親の会に振ったり、参加者のいない講演会にサクラとして動員させたりするのも、そういった考えの表れでしょう。


好きでもない他人の支援を受け続ける。
これのどこが、本人、家族の幸せにつながるというのでしょう。
重い障害があり、誰かの手助けを借りないと生活が成り立たない人もいます。
しかし、これは支援ではなく、介護であり、その介護だって、常にたくさん受けたいと思っているわけではありません。
施設で関わってきた子ども達も、みなさん、大変な困難を持っていましたが、私達支援者の手を常時借りたいとは思っていませんでした。
彼らは彼らなりに、自分一人でできること、他人の手を借りずに行えることをやろうとしていましたし、それが達成できたときの心身の安定は違いました。
彼らは手助けを受けなければならない場面の方が、不安定になっていたのです。
多くの困難を持っている人ほど、シンプルな関わりを求めていたように感じます。


私は常に、「私と関わるよりも、もっと関わりたい人間が、この子にはいるはず」と思って接しています。
それは家族であり、友人たち。
それにできることなら、同世代の子ども達と同じように、習い事や趣味での人たちとの交流を持ちたいはずだと思っています。
だからこそ、できるだけ私との関わりは必要最小限になるよう心掛けています。
いま、定期的に関わっている子ども達も、目標は地域の塾や家庭教師、習い事を利用できることです。


親御さんにとっても、私はできるだけ負担にならないように、ラクになるように、と心掛けています。
できるだけセッションの回数は減らし、料金的な負担を減らします。
敢えて回数を増やそうとするのは、詐欺だと思うようにしています。
何故なら、不安や混乱している親御さんには、誘導されやすい要素があるからです。
実際、私がさらに不安を煽るようなことを言ったら、利用回数が増やせる、と思った親御さんもたくさんいます。
また「いくらでもお金は出します」というような親御さんもいます。
しかし、ここで私が弱みに付け込むようなことをしてしまったら、起業した意味がなくなってしまいます。
私が起業した目的は、『一生涯の支援』の否定であり、本当の意味で一人でも多くの人に自立し、社会の中で自分の資質を活かし、生きていってもらうことです。
私が、そのご家庭のお金も、時間も、労力も、そして将来の可能性も搾取するのなら、一番望んでいなかった姿になってしまいます。


支援者との関係性は、親御さんにとっても不自然なものです。
自然な気持ちの発露ではなく、必要に迫られてからの縁だからです。
だからこそ、支援者は親御さんにラクになってもらわないといけないと思います。
支援者と関わったことで、子育ての方向性が見え、頭の中が整理されていく。
子育ての悩みは、ずっと続くものですが、悩みつつも、自分で解決し、歩んでいけるようになる。
「我が子のためなら、なんでもやりたい」という自然な親心、エネルギーを、「頑張らせてはならない」「あなたは障害受容ができていない」などと言って抑え付けるのではなく、伸び伸びと解放され、それを活かしていけるようにする。
こんな風に、親御さんがラクになる存在にならないといけないのだと思います。
支援者が、親御さんを混乱させ、さらに悩ませる存在にはなってはならないのです。


支援者は、本人の発達のヌケや遅れを育て直し、よりラクに生きていけること、その人の持つ可能性を広げる存在にならなければなりません。
そのためには、おのれの腕を磨き、日々、自己研鑽を積んでいく必要がある。
そして一回の支援が最後の支援になり、本人と家族の中に溶け込むような後押しを行う。


「継続利用が必要です」と言われたら、それは「3ヶ月飲み続けたら効果が出ます」という通信販売のサプリメントみたいなものです。
3ヶ月購入してもらったら十分利益がとれる、という意味。
その人の健康を第一に考えたものではありません。
まだサプリなら腹の足しになりますが、支援者は食うことができません。
むしろ金食い虫になることも。
子どもを養っているはずが、いつの間にか支援者を養っているなんてことがないようお気を付けくださいませ。

2018年5月25日金曜日

その答えは、特別支援の中にあるのか?

始めた当初は、本人や親御さんの相談のみを想定していたのですが、現役の教員や支援者、相談機関の人達からもメールが届きます。
中には、実際にお会いしてレクチャーしてほしい、といったお話もあります。


支援者側の人達との交流が増えていきますと、私が若いときの悩みと重なることがあります。
自分の支援がしっくりしていない感じがする。
自分がしている支援は、本当に本人たちのためになってるのだろうかという迷いがある。
その答えを必死に探そうとするが、今いる職場にも、特別支援の世界にも見当たらない。
昨日のブログで、『迷子になっている特別支援』と表現しましたが、その中にいる想いのある支援者たちも迷子になっているような気がします。
私も20代の頃は、迷っている自分を打ち消すかのごとく、あらゆる療育方法や研究、新しい知識を得ようと、いろんな人や場所を訪ねていました。


私もたくさん悩み、迷ったからこそ、言えることがあります。
それは特別支援の中に答えはないこと。
こんな言葉を伝えると、みなさんは驚かれます。


多くの人達は、自分がより良い支援ができない理由を「勉強不足」「専門性の未熟さ」と捉えます。
確かに、この仕事は生身の人間と真剣に向き合う仕事ですから、幅広い知識と深い技術が必要です。
でも、いくら特別支援の知識や技能を増やしていったとしても、その人の発達を後押しすることはできません。
何故なら、例えると、発達は木の幹であり、特別支援は枝葉だから。
枝葉だけを育てようとしても難しい。
枝葉に問題があるのなら、その幹から観ていき、治していかないと、より良い枝葉には育っていかないのです。


今の特別支援は、知識偏重型で、ある程度の知能を持った人にしか使えないものばかりです。
見方によっては、支援する側がかっこよく見える作りになっています。
つまり、特別支援をしたい人のための特別支援。
ちゃんと障害を持った人がいてくれて、それを特別支援する俺、みたいな。
これまた私がよく言う言葉ですが、「特別支援がしたい人は、治せない人」ということ。
障害を持った人前提でしか支援していない人が、障害以外にアプローチはできないのです。


発達障害とは、枝葉の違いを指していっている言葉だと思います。
花が咲かない枝があるのなら、それは幹から枝が伸びていく過程を観る必要がありますし、幹がしっかり育っているかを確認する必要があります。
そして枝葉の違いの根っこは、まさしく幹にあり、根にある場合が多い。
ですから、いくら枝葉をいじくりまわしても、その木の持つ花を咲かすことができないのです。


いつから特別支援は、見える部分、見せる部分ばかりに気を取られるようになったのでしょうか。
700万年のヒトの進化の歩みをみれば、たかだか数十年の特別支援、専門知識が根本から逆転させるような何かができるはずもありません。
特別支援があれば、専門性があれば、と求めますが、大前提であるヒトの発達を抜かしては何の効果もありません。
子ども達の発達を後押しし、治している人は、ヒトの発達を大切にしている人です。


自閉症の人達を別の惑星から来た人かのように表現される時期がありました(本人がわかりやすく伝えるための表現で使っている場合ではなく)。
でも、自閉症の人は異星人ではなく、同じヒト。
違いがあるとすれば、発達過程の中にヌケや遅れがあるということ。
どうも支援者の中には、ヒトではなく、障害者の支援がしたい人がいるように感じます。
「私、人好き合いが苦手で」なんて言っている人が、障害者支援を望んでやっていたりする。
この時点で向いてないし、自己治療のために弱者だと捉えている障害を持った人達を使っているのだから辞めた方がいい、と私は思います。


ヒトの発達という視点を抜かしては、支援することも、治すこともできません。
今の特別支援の中で、ヒトの発達を大事にしている方法、支援者はどれくらいいるのでしょうか。
私には、障害好きによる見せるための特別支援ショーに見えることも正直あるのです。
だからこそ、心ある支援者、先生たちには、人を育てるプロになってもらいたいと思うので、特別支援の中だけではない世界に目を向け、ヒトを核に学んでいってほしいと考えています。

2018年5月24日木曜日

♫迷子の迷子の特別支援

世の中に、『褒め方』を本気で勉強したい人はどれくらいいるのでしょうか。
心が動かされ、思わず出る言葉が本当の褒め言葉でしょ。
「今日は褒めてやろう、へっへっ」と思って意図的に褒めるのは調教と一緒。
曲芸したイルカに餌をあげるのと同じように、褒め言葉というものを与えているだけ。


時々、本屋で「子どもの褒め方」「部下の褒め方」なんてタイトルを目にすることがありますが、あれを買う人がいるのかなって思いますね。
自分の親の本棚にそんな本があったら、ぐれますね、私なら。
まあ、買う人がいても、問題の根っこは違うはず。
子どもが勉強しないのは、うまく褒められないからではなく、部下が育たないのは上司の自分の褒め方が悪いからではなく、本人の問題。
その本人の問題だと認識がある人は、「褒め方」を切り口に改善を図ろうと考える人であり、本人の問題だと認識がない人は、ただ自分の思い通りにその人をコントロールしたいだけの人。
まあ、ほとんどの人は、褒め方の本を見ても、「そこじゃないよな」って手を伸ばさないと思いますね。


でも、不思議なことに、「褒め方」の前に、「自閉症児の」とか、「発達障害の人のための」とかいう文字が付くと、手に取る人が増えてくる。
書いてあることは、一般向けの「褒め方」の本と大きく変わらないのに。
違いがあるとすれば、「視覚的に伝えましょう」と「何を褒めたか分かるように具体的に伝えましょう」くらいなものです。


もうほとんど行くことはないのですが、書店の特別支援コーナーを見ると、特別支援が迷子になっているのがよくわかります。
それと商売臭が強くなったのも感じます。
ブームだからって、今のうちに儲けとこ、というのが見え見えです。
なんでも、タイトルに障害の文字をつけりゃいいのかって思わないですか、みなさま。


私も、マラソンが趣味だから「自閉症児のためのマラソン練習法」なんて本を書いたら売れますかね。
一般ランナーと同じような知識と情報にプラスして、「練習のスケジュールは視覚的に示してね。休憩も大事なスケジュールですよ」とか、「始まりとゴールは明確に伝えましょう」とかですかね。
あと喰いつきの良い「自己肯定感」なんて文字もいれて、「自分で振り返るために記録をつけましょう。それを見て達成感、自己肯定感が育ちます」と入れれば完璧です。
これだけだとページ数が稼げないので、後半部分にエクセルで作った記録を書きこめるワークシートを入れて、1,780円ってとこでしょうか。


心の澄んだ人は、または不安が強い人は、特別支援の出版物が増えること=理解が進んだ、方法論がたくさん出てきた、と映るでしょうが、私なんかは、みんなが微妙にタイトルだけいじくって似たような内容の本ばかりを作るから数だけ増える、と思ってしまいます。
THE特別支援の本がたくさん出るようになったけれども、自立し、治っていく人は比例して増えていないでしょ。
まあ、最初から治らない前提、一生涯の支援前提で書かれている本ばかりですから、いくら増えても、読んでも…。


「褒め方」もそうですが、他のSST(ソーシャルスキルトレーニング)に関する出版物でも、対象は「発達障害の人」になってはいますが、そのほとんどが知的障害のない人向けですよね。
ある有名な療育方法の総本家の人に尋ねたことがありますが、「私達のアイディアは、他の療育と互換性があり、良いものはどんどん取り入れていくが、知的障害のない人にしか使えないような方法とは組む気はない。私達はあくまでも、すべての自閉症の人達に有効なアイディアを目指していく」と言っていました。
つまり、特別支援の大前提は個別化であり、一人ひとりに合わせたアプローチなのに、マーケティングされちゃっている。


どんどん出版される本の多くは、文字が読めて、字が書けて、ある程度の学力と知識を持ち併せているのが前提になっていて、それ以外の人が対象から外れている。
まあ、出版する側は、発達障害の人全員に使ってもらいたいと思っているかもしれませんが、実際、この内容を理解するには難しい人ばかり、というのが多い。
中には、定型発達の子でも難しいんじゃないかな、これって実際の場面で使える知識かな、というものも少なくありません。


特別支援の大前提が個別化ですし、発達障害は神経発達の障害であり、知的障害のある人のことのみを指すのではありません。
それなのに、できる人が限られた内容で、神経発達を促すような話のものはほとんどないのです。
知的障害のない人のための本なら、特別支援コーナー以外で探した方が専門的な情報、知識が得られると思いますね。
特別支援の人が書いたSSTの本よりも、現在、社会で成功している人が書いた本の方がよっぽど社会性の富んでいると思うのは私だけ!?


どんどん発達し、成長するアイディアの詰まった本なら、その本や出版社さんの本だけ買えば良いと思います。
手を替え品を替え、タイトルをいじくって似た本ばかりが出版されるのは、特別支援が進む道を見失っている証拠です。
これぞという道がわからなくなっているから、発達にアプローチしない知識偏重のものばかりになっている。
知識偏重になるのは、それを手に取る親御さんや支援者たちを意識した作りになっているから。
本気で、本人のためを思った本だったら、本人たちが分かりやすい、またやりやすい、そして一番大事な個別化、自分たちでカスタマイズしやすい内容になっているはずです。


一冊本を買ってきて、それを読んだからって身につくわけではありませんね。
実践することが大事ですし、自分で試行錯誤しなければ、本当の力はつきません。
知識を知るのと、育てるのは違います。
「人前で上がらない方法」という本を読むだけで、人前でのしゃべりがうまくなるわけではありません。
それと同じこと。
特に、ヒトの発達は丁寧に、地道にやるしかないのですから、インスタントな方法などありません。
インスタントなタイトルのインスタントな本を買って安心してしまうのは、参考書を買ってきただけでなんかやった気になっている受験生に似ていますね。
手を動かし、自分の頭で考え、深めていかなければ、知識は知恵に変わっていかないのです。

2018年5月23日水曜日

アセスメントから生まれた言葉を方法論に転用して商売にする

前回のブログに対する反応を見ていますと、もしかしたら他のスキルに関しても、ご存じない方が多いのかな、と思いました。
ソーシャルスキル同様に、コミュニケーションスキルですとか、余暇スキル、職業スキルなんていう言葉があって、それに対するアプローチみたいなのもあるような感じがしますが、そんな特定のスキルだけをピンポイントに当てて伸ばすような方法ってないですよ。


ヒトの発達は特定の部分だけが伸びたりするのではなく、全体的な発達の中で、つまり、様々な発達が繋がり合って伸びるものです。
時期によっては、特定の領域がググッと伸びるということもあるでしょうが、その背景には土台となる発達過程があるものです。
受精から胎児期、出生後のヒトの発達の姿を見れば明らかなように、細胞が組織化され身体ができ、内臓や感覚器が育ち、動きの発達に繋がっていく。
そして運動を通して、神経がより良く育っていき、言語や知能を発達させていく。
こういった複雑で、繋がり合う発達というものを、どうして「〇〇スキル」といって取りだすことができるのでしょうか。
本当に、特定の能力、スキルを伸ばそうと思ったら、全体的な発達を促すしか方法はないのです。


じゃあ、コミュニケーションスキルだ、職業スキルだ、というのは、どこから発生したものなのか。
ここがポイントですね。
ナントカスキルというのは「アセスメント」を作ったために、生まれたものだといえるのです。


『社会性の障害』という言葉が診断基準から生まれたように、『〇〇スキル』はアセスメントから生まれました。
よくいろんなところで実施される診断とは違う評価です。
本人の能力を見て、課題を見つけるために、様々な検査が行われます。
「お子さんはコミュニケーションの面で苦手さが見られますね」というやつですね。


私個人的な考えとしては、アセスメントというものは、どこかの誰かが勝手に言葉をつけて、勝手に区分けしたものという捉えです。
人間の能力をいくつかの項目で表せるはずがありませんね。
何かの目安にはなるでしょうが、具体的なアプローチにはつながりません。
だって、発達は複雑で、繋がり合うものだから。
例えば、「言語理解が弱い」と出たとしても、じゃあ、言葉がけをたくさんすれば良いか、なんて単純な話にはなりません。


なぜ言葉の理解が弱いのかには、注意の向け方の課題があるかもしれないし、聴覚の発達に課題があるかもしれない、そもそも言葉を捉える認知の面で遅れがあるかもしれない。
そして、いくつも考えられる要因は連動し合っているし、そのすべての課題をクリアしていかないと、真の意味での成長とはいえないはずです。
で、すべての要因の根っこを辿っていくと、ヒトが辿ってきた進化と発達の過程へとつながっている。
だから、ヒトの発達、その人の発達を丁寧に辿り、育て治していくことが、土台から、全体的に発達を促していくことに繋がるのです。


まあ、アセスメントというのは、支援者にとっては何かやっている感がありますし、受け手の本人、親御さんにとっても何かやってもらっている感が得られるくらいなものです。
よくセンスの良い親御さんが、「検査してもらって、評価表ももらったけれども、それをどう活かすのか見えない」と言われます。
「あなたのお子さんは言語理解が弱い」から、じゃあ、どうするのって感じ。
時々、ご丁寧に「視覚的に伝えると理解しやすい」などと対処方法も一緒に書かれているいることがありますが、それって育てる方法ではないし、支援の仕方。
幼児期、学齢期の子ども達が主にアセスメントを受けるのですから、対処じゃなくて、育てる方法が知りたいよねって普通は思いますね。


〇〇スキルなんて勝手にくり抜いて、命名しているのは、支援者側の都合です。
本人や家族にとっては、自分の一面を知るきっかけにはなると思いますが、厳密なものでなければ、そこだけ取りだして育てられるものでもありません。
名前を付けた分だけ仕事は増えるし、名前を付けた分だけ飛びつく人もいる。
で、治らない。
何故なら、その人を部分的に切り取っても、全体的な視点がなければ、真の発達が見られないから。


もともとあるのは一人の人間であったはずなのに、それを勝手に能力というものさしで線を引く。
線を引けば、その人を知る上で見やすくなることもあるけれども、それだけでは具体的な発達援助にはつながらない。
で、線を引くだけならまだしも、その命名したスキルを「伸ばします」「アプローチする方法です」と商売にしちゃう人達が出てきてしまったのが、今の特別支援という商売なのだといえますね。
本屋をのぞけば、棚いっぱいに「〇〇スキル」「〇〇アプローチ」のオンパレード。
じゃあ、我が子を自立するように育てようと思ったら、その全部の本を買わなきゃいけないの、そのすべてのスキルを実践しなきゃいけないのって思いますね。


ヒトの発達を特別支援の商売のタネにしてはいけないと思います。
発達障害は、その自然なヒトの発達過程の中にヌケや課題があるということなのですから、特に言葉を獲得する以前の発達段階を育て直すアプローチ以外は、部分的な効果、場面限定の効果にしかならないですね。
アセスメントから生まれた言葉を方法論に転用して商売にする。
だから、そこから出てくるのは売る側が売りたい対処療法ばかりになってしまいますね。


対処療法も、仕事を増やすタネ。
おーい、やっているのは支援者の仕事を増やしてることばかりじゃないか。
支援者が支援を増やしていってどうする!?
支援者というのは、支援がいらなくても生きていけるようにするのが仕事。
よりシンプルに、より自分たちで、が目指すべき姿です。

2018年5月21日月曜日

「社会性の障害」のみを切りぬく不自然さ

「SST(ソーシャルスキルトレーニング)の指導をお願いできますか?」
「息子に対するSSTがうまくできなくて…。(私の)やり方が悪いからだと思うんです」
こんな依頼や相談を受けることがあります。
子どもが対人面で、また学校や地域などの集団の中でうまく振る舞えなかったり、トラブルが起きてしまったりすると、すぐに「社会性の障害」という文字が浮かび、その指導へと向かおうと気持ちが動く。
これは情報が増えた現在だからこその姿だと思います。


実際にお会いしたり、行っているSSTを拝見させていただいたりすると、SSTに問題は見当たらないことが多いです。
そこら辺の支援者よりも、丁寧に準備し、指導されているように感じます。
親御さん達がよく勉強され、我が子のためにと頑張る姿が見えると同時に、知識が増え過ぎて反対に見えなくなっているのだと思うのです。
ある程度やってみて効果がなければ、「我が子に合わなかったんだ」と別の道を探すのが自然だと私は思います。
でも、「自分のやり方がまずいんだ」と思ってしまうのは、「この方法を言われた通り、きちんとやれば効果がある」という情報が頭の中を占拠しているからなのでしょう。


私なんかは、いろんな宗派のあるSST、療育方法はただの道具だと思っていますし、どちらかというと、本人ではなく、支援者側が無理やり、人工的に区分けしたものだと考えています。
そもそも「社会性の障害」なんていうのは、診断するために作られた言葉であり、療育するために生まれた言葉ではありません。
だって、おかしいと思いませんか。
一人の人間の社会性の部分だけを切りぬいて療育しようなんていうのは。
どうやって、その子の社会性の部分、課題へと、ピンポイントでアプローチできるのでしょう。


社会性、対人面のスキルとは、知識なのでしょうか、情報なのでしょうか。
発達障害の人達は、その知識、情報が足りないから、適切に振る舞えないのでしょうか。
だとしたら、知的障害の有無で、社会性が身につくかどうかが決まってしまいます。
でも、現実には、知的障害があったとしても、人間関係を築き、適切な振る舞いができる人が大勢います。
反対に、大学まで出るような能力を持ちつつも、トラブルや人間関係を築き、維持することができない人もいます。
つまり、社会性とは、ソーシャルスキルとは、知識でもなければ、情報でもない。
巷に溢れる「上司に好かれる〇〇テクニック100」みたいなハウツー本に書かれているテクニックがあるのではなく、問われるのはその人、人間だと思います。


ヒトは、集団で生活するようになったあと、社会性の部分が進化、発達したのですから、社会性の土台はヒトの発達過程にあるといえます。
言葉も、文字も持たない遠いご先祖様たちが、社会性の部分を育んでいった。
きっと子ども達は、自然の中を駆け巡り、遊びを通して社会性を発達させてきたのでしょう。
お教室に通って、絵を見せられたり、「この場面ではどう振る舞ったらよいでしょうか」なんて模擬の劇をやったりはしていないはずです。
ちゃんと座ってお話を聞けたら、食べ物を与えてた、なんてこともなかったでしょう。


社会性も、その人の一部であり、発達過程の中で育んでいくもの、という視点で見ると、理解しやすくなります。
発達障害の人は、その発達過程にヌケや遅れがあるのですから、当然、社会性の部分にもヌケや遅れがあるのも不思議ではありません。
ですから、特に言葉を獲得する以前の発達段階のヌケや遅れを育てなおしていくと、自然と社会性の部分でも良い変化がみられてきます。


他人との距離感が分からないから、「両親は一番親しい人のグループ。親戚のオジサンは、二番目に親しい人のグループで、学校の親友は…」なんて、一個ずつ知識として教えるよりも、そもそも他人との距離感の前に、自分の身体の範囲が掴めているの?という部分に課題があったりすることもあります。
自分の範囲がしっかり捉えられるようになれば、他人との距離が掴めるようになり、その他人が別の存在であると理解できるからこそ、他人の存在、言動を尊重することへつながっていきます。


ちなみに、人間関係の距離を知識で教えようとするなんて不可能です。
両親だから、なんでも打ち明けられる人、一番親しい人とは限りません。
人間関係は流動的ですし、いくら親戚でもセクハラ親父は親しいグループには入りません。
つまり、社会性を知識で教えようとすれば、関わる人の数、出くわす場面の数だけ教える必要があります。
ですから一言で言えば、支援回数を効率よく、ほぼ永久に増やすためのアイディア。
そのために、勝手に「社会性」の部分を切り取って、SSTという新しい商売を生みだしただけです。


いくらSSTを極めようとしても、極められるものではありません。
部分的に、人によっては効果がある人もいますが、それで万事解決ということはないのです。
だから、繋ぎ止めておくために「ちゃんと形式の則れば」「資格を取れば」「講習を受ければ」としているだけ。
支援者と、親御さんの腕の差なんてないと思います。
よくあるSSTのマニュアル読んでも、曖昧なことしか書いてないでしょ。
あれは、どうにでも解釈できるようにしているのです。
そうすることで、効果が出ない場合の問題を、その方法、療法ではなく、支援者の腕の問題にすり替えているだけです。
ですから、冒頭の親御さん達のように、「自分のやり方が悪いからかも」と思ってしまう人が出てきてしまいます。


「あの先生が指導すると、あの教室の中では、きちんとできるのに…」というのは、親御さんのやり方だけの問題とは言えません。
もちろん、親御さんと本人との間にズレがあり、うまくいかないこともあります。
でも、別の見方をすれば、「あの先生との間だけしか成り立たないソーシャルスキル」「あの教室の中だけのルール」ともいえます。
私が実際にお会いする方達の多くは、SSTの問題でも、社会性の問題でもなく、発達の土台のヌケや遅れが対人面、集団の中でのズレを生じさせているのでした。
ですから、一見関係ないような部分を育てていくと、人間関係や振る舞い方が集団に馴染んでくるようになります。


最後に、20代の頃、受けたSSTの研修でのお話。
その療法の第一人者の有名支援者が受講生のSSTを評価する形式です。
で、どう見ても内容に大差がないし、実際に子どもさんに指導しているのではない模擬指導なのに、その講師の総評に大きな違いがありました。
片方は医師で、片方は学校の先生。
どっちがべた褒めされ、どっちがケチョンケチョンにされたかは、もうお分かりですね。
こういった立場の違いで評価を変えるのが社会性、ソーシャルスキルだと思っているからこそ、堂々とSSTサイコー、SSTで社会性の問題はすべて解決できると言えるのだと、そのとき、私は思ったのでした。

2018年5月10日木曜日

同世代の子と比べるのは、いけないこと!?

あれは何なんでしょうね。
「我が子に発達の遅れがあるかも」と思い、相談にきた親御さんに対して、支援者たちが言うセリフ。


「〇〇ちゃんは、のんびりやさんの性格かもしれませんね」「子どもの成長は一人ひとり違うから、焦らないでね」というどうにか個性の範疇にねじ込もうとする系の発言。
「愛情をたっぷり与えて育てていけば大丈夫」「まだ何かが言える段階じゃないから、様子を見ましょう」という良いこと言っていそうだけれども、結局、相談に来る前と何も変わってないよね、いや、むしろ来ただけ疲れるし、余計モヤモヤするよ系の発言。
「他人の子と比べるのはよくありませんよ」「その子の良い面を見ていきましょう」という親の直感全否定で、かつ考え方を変えましょうという精神修行かって系の発言。


私は、親御さんの直感ってとても鋭くて、そこら辺の支援者が太刀打ちできないくらい的を得ていると思っています。
確かに、支援者や専門家と比べて、知識やその状態を表す言葉は持ち合わせていないこともあるけれども、「うちの子、何か違う」「このままにしていたら、今後問題が大きくなる」というような直感というのは、親御さんの強みであり、活かすべき力だといえます。
それに真摯に耳を傾けなくて、何が“支援”者だと思います。


親御さんが、我が子に対する違和感を強めていくのは、同世代の子どもと比べたとき。
「あの子は、もうあんなことができるのに、うちの子はまだできない」
そういった積み重ねが、直感を確信に変えていきます。
そして確信から行動へと移っていく。
だから、他人の子と比べるのは悪いことではないと思います。


でも、なんだか特別支援の世界にはルールがあるのか、他人と比べることがタブーみたいになっています。
もちろん、その人間の価値などは比べられるものではないですし、比べるものでもありません。
比べるのは、同世代の子との発達です。
定型発達と比べると、どのくらい差があり、遅れているのかを観るのは、子どもの優劣を決めるわけでもなく、その子の発達を援助するには必要なことです。
ほとんどの親御さんは、我が子の優劣を見ているのではなく、他の子との発達の違いを見ています。
その理由は、子どもの課題にいち早く対処するためであり、子どもを守るため。


親御さんとお話をしていると、冒頭のような発言をされて、ネガティブな気持ちになった方が多いことがわかります。
発達の遅れを疑ったこと自体が、疑った自分自身が否定されたような気持ちになった。
発達の遅れがあるのも含めて我が子なのに、なんだか子ども自体が否定されたように感じた。
中には、こりゃあ、専門家は当てにならないと、自分で動かなきゃダメだと思った方もいました。


障害を受け入れられない、認めたくないという段階の親御さんに対しては、寄り添うことや心のケアも重要でしょう。
でも、親御さんによっては、「子どものために動きたい」とすでに向かっている方もいます。
そういった親御さんにとっては、支援者の優しい(?)言葉が却って傷つけることも、子育ての力を削ぐこともあります。
大事なことは、親御さんの直感を活かし、エネルギーを子どもさんの発達の後押しへと導くことだと思います。


枕詞のように「同級生と比べてはダメなんですけど…、うちの子は幼くて、〇〇ができなくて」と言われる親御さんがいます。
そういったとき、私は「比べることは悪いことではないですよ」と言っています。
だって、同世代の子達と比べるのが、発達の違いを知るきっかけですし、発達援助の始まりでもありますから。
それに親御さんがいの一番に訴える部分と言うのは、お子さんが感覚的に一番訴えてくる部分であり、いろんな課題につながっている大元の根っこという場合が多いですので。


「大人になると、そういった凸凹、違いは気にならなくなるから」という人もいますが、だからと言って、発達の遅れやヌケをそのままにしておいても良いということにはなりません。
第一、今、子どもの生活する場は、学校であり、同世代の子ども達との集団の中。
そういった中で経験し、刺激を受け、成長していくのですから、そして大人になっていくのですから、同世代の子の発達とズレている部分があれば、そこを補い、育てていくのは当然のことだと思います。
その方法を具体的に示せるのが専門性であり、支援者の役目。
ヘタな慰めならしない方がマシですし、そもそも親御さんに対して失礼なことだと思います。


心に寄り添い、慰めるのは、家族や大切な人達の間で行われるのが自然なことです。
お金を払って、税金を使って、形式的に慰めるのは不自然。
お金貰って仕事として支援している身なら、発達を促し、治す具体的な方法の一つや二つ、さっと出てこなければ、特にこれからの時代の支援者はダメだと思いますね。

2018年5月9日水曜日

特別支援から子育てを取り戻す悲しさ

他人様の子を預かって、子育てをしているのなら分かります。
でも、目の前にいるのは我が子。
それなのに、なにか他人様の子を育てているような余所余所しさや緊張した雰囲気が漂っている。
そんなご家族と関わらせてもらうことがあります。


これは子育てが、特別支援になった弊害だと思います。
特別支援は新しい言葉ですが、その概念は何も珍しくも、新しくもないものです。
特別支援は、端的に言えば、一人ひとりに合った教育なり、援助なり、環境づくりを行うということ。
このようなことは、ずっと昔から家庭の中で、学校や古くは寺子屋のようなところでも行われていました。
そして今も、障害のあるなしに関わらず、また子ども、大人に関わらず、家庭や職場、学校や習い事、部活動などで自然と行われているのです。
一人ひとりをよく観て、その人に合った方法で教えていく、伝えていくというのは、人を育てる基本中の基本だといえます。


私の仕事の始まりは、その家庭の中に流れている緊張感を弛め、子育てを特別支援から取り戻すことという場合もあります。
何故なら、親御さんの緊張感はお子さんに伝わりますし、そうなると、自然な交流が生まれなくなるからです。
お子さんの発達を促し、育てていくのは私ではなく、親御さんなのですから、そのご家庭に、親子間に自然な空気感が流れていることが重要です。
大人の側が何か特別なことをしようと身構えると、子どもは瞬時に察し、受け入れるために構え始めてしまいます。


すべての動物がそうであるように、また我々の進化の過程を振り返るとわかるように、発達は自然の中で育まれ、自然な関係性、空気感の中で営まれてきました。
知識や技能の伝達は、文字や言葉など人工的なもので行われてきましたが、発達は自然の中で行われるものなのです。
私達は、発達に遅れやヌケのある子ども達に対し、特別な知識や支援を伝えたいのではありません。
彼らに必要なのは、その発達の遅れやヌケを育て、発達の遅れを取り戻すことであり、そのヌケを埋めることです。
ですから、人工的な支援ではなく、自然な環境、関係性、雰囲気が必要なのです。


家庭の中に自然な雰囲気が漂い始めますと、障害や症状の重い軽い、お子さんの年齢に関わらず、伸びやかに成長が始まります。
まるで、自然の中を駆け巡り、自由を手に入れた動物のようです。
そこに生命力と躍動感を感じます。
遅れやヌケを一気に取り戻そうとする子ども達もいます。


お子さんの姿から解放感を喜ぶ空気が見えますと、私の仕事は次の段階に進みます。
その子の内側から湧き出ている伸びようとする力が、何に対して、どこに向かおうとしているのかを親御さんに伝えます。
そして、私は陰になり、徐々に姿、存在感を消していく。
親子の間に自然な空気が流れ、満ち溢れてきたら、私の役割はおしまいです。
特別支援が子育てに戻ったとき、発達の遅れやヌケは障害ではなくなっていく。


一緒に子育てのひと時を関わらせてもらった親御さんが、最初の険しかった表情が和らぎ、力の入っていた身体が弛み、そして「子どもと関わるのが楽しい」「成長する姿を見るのが喜び」と言われることがあります。
私はその姿と出会うたびに喜びを感じます。
でも、それと同時に悲しみも、怒りも感じるのです。
なぜ、最初に出会った専門家たちは、この親子から子育てを取り上げたのだろうか、と。


彼らがちゃんと言ってあげれば良かったのです。
これから行っていくことは、特別なことではなく、子育てである、と。
子どもを育てるとは、一人ひとりをよく見ること。
そして遅れているところ、気になるところがあれば、それをゆっくり丁寧に育てていけば良い。


子育てを特別支援にし、特別支援で生きるすべを教えようとする。
使えるサービスや診断基準に、特性よりも、どうやって発達を促していけばよいか、具体的な方法の方が重要なはずです。
「子育てが楽しい」と言う親御さんを見て、親御さんは特別支援がしたかったわけでも、支援者になりたかったわけでもないと感じます。
ただ普通に子育てがしたかっただけ。
育てにくいところ、発達の気になるところがあれば、そこを後押しするアイディアがほしいだけ。


専門家にとって、その子は障害児の一人であり、その親は障害児の親の一人。
でも、その親子からすれば、この世に唯一の人。
「一人ひとりをよく見る」と言いながら、障害児の一人としてしか見ていないのは誰なのか。
親も、子も、生まれたときはお互いを自然に見つめ合っている。

2018年5月8日火曜日

親御さんの勘違い

失敗するのが怖いからなのか、支援は完璧にやらないと問題が起きてしまうと考えているからなのか、親御さんの中には、我が子にピタッと合った支援を考え、完璧に準備し、思い描いた結果を出す、みたいに思っている人が少なくないように感じます。
機械を相手にしているのではないのですから、完璧なプログラミングをして、適切な結果を出すみたいに考える必要はありませんし、できるはずもありません。


子どもは生きていますし、自分の意思もあります。
常に動き、変化する存在ですから、いくら完璧な支援をしようとしてもズレは生じますし、思い描いた結果など出るはずもありません。
ただ私たちにできることは、彼らの発達、成長の後押しをし、より良い方向へ導くお手伝いをすることなのです。


そもそもそこら辺にいる支援者だって、完璧な支援をしているわけでも、できるわけでもありません。
一回で、ピッタリ合った支援をしているのではなく、何度も軌道修正しているのです。
ですから、親御さんは良いと感じたこと、我が子に必要だと思うことをどんどんやれば良いのだと思います。
ある程度やってみて、子どもが伸びたなと思えば続けたり、バリエーションを持たせたりすれば良い。
効果がないな、悪い方に向かっているなと思えば、止めれば良い。


極端なことを言えば、親御さんが良いと思ったことを全部やったら良いのです。
その中で、一つでも、二つでも、本人のためになったらそれで万々歳の気持ちで良いと思います。
何も百発百中みたいな支援をする必要はありません。
だって、それが普通の子育てだから。
みんな、完璧な結果を求めて習い事を決めているわけではないし、日々の声かけ、接し方を決めているわけでもないはずです。
結構、直感や何となくで物事を決めたり、その場の感情で物事を言っていたりする。
なぜ、発達障害を持った子の子育てだと完璧さを目指すのか。
なぜ、普通の子育てではなく、療育や支援を目指すのか。
実際に接していると、そんな疑問が浮かんでくる親御さんがいます。


きっと支援者の言葉に、頭でっかちになっているのだと思います。
彼らは「自閉症の子に失敗経験をさせてはならない」「その子に合った支援ができれば、問題行動は起きない」など、テキトーな理想論を語っていますが、それは自分たちの推し進める支援に振り向かせるための営業トークです。
親御さんにプレッシャーを掛けて、自分たちに依存させようとしているか、そもそも効果のない支援を押し売りしているのを隠すために大きなことを言っているかです。


よく考えてください。
失敗しない動物はいませんし、失敗から学ぶから成長するのです。
失敗する経験がなければ、そもそも自分が正しい行動をしているのか、何のために行動しているのかがわかりません。
ただただ誰かに言われた通りに動いているだけになります。
まあ、そういった人を作りたいのがギョーカイ系支援者の目指すところなので、そういってるのかもしれませんが。


でも、私達が育てたい未来の大人たちは、自分の頭で考え、行動できる人。
そのために失敗から学び、起き上がれる人を育てるのであって、「ASDの子は失敗すると、その活動自体をしようとしなくなるから、失敗させないようにする」などは違うと思います。
失敗すると、その活動を拒否するようになるのであったら、必要なのは失敗する機会を避けていくことではなく、失敗と向き合えない脳と身体をラクにすること、そして発達させ、育てていくことではないでしょうか。


失敗なんて生きていれば、その辺にゴロゴロ転がっているようなものです。
そういった怖がる必要のないものを、あたかも大ごとかのようにするのは支援者側の戦略であり、そうかなと感じるのは親御さんの勘違いです。
どうも支援者から「完璧な支援」というプレッシャーを受け続け、それに捉われて、子育て自体を苦しいものに感じている親御さんが多いような気がします。


「なんで、すぐに分かるんですか?」などと訊かれることがありますが、それは私が今までにたくさん失敗したからであり、一般的な親御さんよりも浅いけれども、広くいろんな方達と接してきたからです。
それに、直接お金をいただいて援助をしているのですから、下手くそで回数を稼いだりしてしまえば、詐欺になってしまいます。
ですから、理想は利用回数一回で終わる仕事であり、そのために精進し、ピンポイントな援助ができることを目指しているのです。


商売として支援者になろうと思っていないのでしたら、ここまで目指す必要はありません。
それよりも、完璧な支援というプレッシャーに押しつぶされ、我が子と関わることが辛くなり、何も行動に起こせなくなる方がよくありません。
特別な支援などというものが存在しているのではなく、そこにあるのは親子の自然な営み。
そんな風に思えるご家族が増えていくことを願っています。
何故なら、それが一番伸びやかに発達し、成長していく形だからです。

2018年5月7日月曜日

支援者の勘違い

この仕事を始めて6年目に入りましたが、「最初の支援者があなたです」というような方は一人か、二人ぐらいなもので、あとの方達は、みなさん、誰かしらの支援や助言を受けてきています。
まあ、それは当然と言ったら当然であって、公的な機関でうまくいっていれば、わざわざ私のところまでやってくる必要がないのですから。


過去に受けてきた支援や、各地の支援機関の現状、学校の先生の様子等をお聞きすると、10年前、20年前とは異なり、言うことが専門家らしくなったと感じます。
特別支援以前の支援者たちは、ただその人の人生哲学によって日々接しているという雰囲気がありました。
そのときから比べれば、どの支援者も勉強されており、多くの知識を持っていることが伝わってきます。


では、たくさん勉強し、知識を持った支援者が増えたのに比例して、本人たちの成長や可能性が増えたかというと、そうとは言えないと思います。
むしろ、特別支援以前の支援者の方が、人を育てるのはうまかった、と感じることさえあります。
とにかく、増えた知識が活かされていないと思うのです。


いろんな支援者、支援機関のお話を聞くと、どうも支援者の多くは勘違いしているのではないかと思います。
本人や親御さんよりも、知識を多く持っているのが支援者であり、専門家だという勘違い。
支援者が特別な知識や技能を与えることが支援だという勘違い。
いつから支援者は学者になり、仕事が講釈になったのでしょうか。


その支援や療法がその子に合う合わないは別にして、そんな伝え方ではうまくいかないと思うことばかりです。
支援者が持っている知識を右から左に渡すような伝え方では、いつまで経っても、その子に合った支援はできません。
知識の受け渡しは、その瞬間瞬間の支援にしかなりませんし、第一、本人や親御さんが個別化し、アレンジできる生きた力がつきません。
また、本人や親御さんに代わって支援を組み立て、実行していくのでは、考え工夫する力がつかないばかりか、本人たちの試行錯誤する機会すら奪ってしまいます。


どうして支援者は、本人や親御さんが自立できるように育てないのだろうか、と私は思うのです。
自分は、その子のどこを観て、何を感じ、どう援助していくのか、そこを教えずして、自立も、より良い成長もないと思います。
ですから、私は自分の見る世界を本人や親御さんに伝えます。
知識や療育の形式など、いくら持っていたとしても幸せにはつながりません。
必要なのは自分自身で支援できる力であり、それこそがその時々で合った支援と自立した人生につながるのです。


いつまで経っても、自立できない人ばかりなのは、支援者の勘違いだといえます。
支援者とは知識をたくさん持った人のことを言うのではなく、支援すること自体が役割でもありません。
自立を支援するのが役割です。
そのために、本人も、親御さんも育つ後押しをする。


自分が得た知識や経験を血肉にするのは、敢えて言う必要もないくらい職業人としては当たり前のこと。
そうやって見えるようになった世界を、より分かりやすく本人や親御さんに伝え、自分たちの力で支援できるようになって、初めて仕事をしたということになると私は考えています。
「ああ、息子のこんなところを観ているんですね」
「この行動の意味は、そんな風に捉えることもできるんですね」
そのような視点の共有によって、本人だけではなく、親御さん自身も成長していくのだと思います。


私は、特別支援という言葉が、勘違いを誘発したのだと思っています。
本人と親御さんにとって、発達障害の歴史、グレーゾーンや診断基準の話、なんとか療法の正しい手順などは、どーでも良いことなのです。
自分の、我が子の人生を豊かにし、可能性を広げるには、自分自身で支援を考え、成長し、治していけるように育つことが必要です。


ある意味、そのときの支援方法を伝えるのはラクなことです。
人を育てるのには時間と労力がかかります。
でも、その手間をお金を貰って仕事をしている人間が惜しんではなりません。
今はその手間をラクしようとするコンビニ支援が溢れているように感じます。
発達を援助する、自立を援助する、それこそが本人たちが求めていることだと思いますし、自分の役割だと考え、私は仕事をしています。

2018年5月6日日曜日

支援者の中に答えはない

誰しも、「自分の育て方が良かったのだろうか」と立ち止まり、悩むことがあります。
そんなとき、自分のもがき苦しむ姿を感じ、「ああ、自分は親なんだ」と認識するのだといえます。
子のために、もがくから人は親になり、他人の子のために、もがくから先生は教師になる。
ただ食事の用意をし、寝る場所を確保するのみでは、共に生活する者。
ただ知識の伝達をするのみでは、先に生きる者。
他人のために、もがき苦しむくらい悩むからこそ、親は親になり、教師は教師になる。
だから、もがき苦しむ姿を見て、他人が余計な手を出してはならないのです。


こういった仕事をしていますと、「こんな風にやってみたんですけど、合ってますか?」と尋ねられることがあります。
「子育てに正解、不正解がある」
「その正解、不正解を他人が持っている」
「支援者、専門家は、親の自分が知らない答えを知っている」
そんな風に思う時点で、いろんなことを想像してしまいます。


支援者の中には、親御さんに子育てではなく、支援を求める人がいます。
「こういった支援が必要です」
「この方法を使って教えれば、理解できます」
その言葉を信じ、一生懸命支援者の示す支援を行う親御さん達。
でも、支援は発達の根本にアプローチするわけではありませんので、なかなか良い結果が出ません。
そうすると、親御さんは落ち込みます。
「私の支援が悪かった」
「私の理解が足りなかった」
「だって、支援者が言うには、ちゃんと支援すれば良くなるって言ってたから」


支援者の中には、支援を通して親御さんと本人をコントロールする傾向があります。
それは支援者の持つ愛着の課題と、支援を受け続けることで儲かる仕組みがあるからです。
インチキ宗教と一緒で、結果が出ようが、出まいが、自分の示す支援をやってくれれば、それでいい。
良いことが起きれば、「それは一生懸命お祈りしたから」で、悪いことが続けば、「まだまだ信仰心が足りない」というやつです。


支援者の示す支援をやってみて上手くいけば、「ほら、私の言った支援をしたからでしょ」となり、親御さんはどんどんその支援者、支援に傾倒していくようになる。
反対に上手くいかなければ、「ほら、やり方が合っていないからだ」「もっと勉強しなきゃ」となり、講演会や研修会へ導かれ、必死に結果を出そうと傾倒していくようになる。
だから、結果はどっちに転んでも良いのです。
こうやって、知らず知らずのうちに「子育てに正解、不正解があって、支援者がそれを知っている」という思考が築き上げられていく。
「そもそもその支援方法自体が合っていない」という選択肢を隠してあるところがミソです。


ちなみに支援者バージョンの洗脳が、ライセンス制度です。
「〇〇療法をきちんと習得するには、講習に参加が必要です」
講習に参加したあと、実践でうまくいければ、「やっぱり資格を取ったからだ」となる。
で、うまくいかなければ、「レベル2も取りましょう」「はい、わかりました」となる。
これの繰り返し。
洗脳する側の支援者は、資格の名前を変えるのと、研修の内容を少し変えるのをやるだけ。
喰いつく人を集めれば、あとは勝手に洗脳されていくので、人を集めがメインになります。
ですから、洗脳系ビジネスの教祖様はFacebookの友達の数が千人単位。


私に答えを訊いてくる親御さんというのは、支援者の洗脳を受けた人が多いといえます。
また親御さん自体に、洗脳を受けやすい器質があります。
子どもが親の顔を伺うように、支援者の顔を伺っている。
顔を伺うのは、誕生後すぐの子どもにとっては大事な生存戦略。
でも、その生存戦略を残したまま、大人になっている。
自らの足で行動し、自らの意思で選択していく経験が乏しかった雰囲気を感じます。
こうなると、子を育てる不安、さらに発達障害を持っているという不安が、支援者への傾倒、支援への傾倒を後押ししてしまいます。


支援者に答えを求めている状態では、子どもはより良く育っていきません。
何故なら、子どもの顔よりも、支援者の顔をよく見るようになるからです。
テストの答えのように、子育ての方法は一つではありません。
子どもは生きていて、常に活動し、成長しています。
その時々で、より良い方法は違うのです。
ですから、親御さんに求められるのは、しっかり子どもを見ることであり、その変化に注目すること。
支援者の顔を見ている間に、ある意味、別の子に変わっているといえます。
週に1回、月に1回の支援者に、その変化は見えていませんし、変化した瞬間、アプローチを変えることはできません。


支援者の口から出たアイディアが、家につく頃には合わなくなっていることさえあります。
だからこそ、親御さんがそのときの子どもさんの姿に合わせて子育ての仕方を変えられることが大事なのです。
そのためには、支援者から受けた洗脳を解く必要がありますし、親御さん自身に主体性を持ってもらう必要があります。
赤ちゃん時代の生存戦略からの脱却、発達です。


子育ての善し悪しとは、結果論だと思います。
他人が子どもの成長する姿を外から見て、良い悪いと言っているにすぎません。
それに第一、子どもの内側には自らを発達させ、伸ばす力があります。
子どもの持てる力を発揮できるような環境作りと後押しが、ヒトの子育てだといえます。


子どもが伸び伸びと成長している親御さんというのは、子どもさんの顔を誰よりもよく見ている親御さんです。
「子どもの中に真実がある」といった信念も感じます。
問題が起きれば支援者を頼りたくなるのもわかります。
でも、治せる支援者は、結局、その子の中に真実を見ようとします。
ノウハウや経験、知識を内側にたくさん持っていたとしても、その子の内なる声に耳を傾けなければ、治すことはできません。


支援者が自らの手の中に答えがあるように見せるのは洗脳です。
本物の支援者は、子どもさんのどこを見ているかを伝え、親御さん自身に真実の見つけ方を教える支援者のことを言うのだと思います。
そして、親御さんが子のために、もがき苦しむ時間を奪うことなく、大切にする。
親が親になり、対処ではなく、じっくり子育てが行えるようになる時間を待つ人なのです。

2018年5月1日火曜日

『感覚過敏は治りますか?』(花風社)を読んで

「感覚過敏」と聞いて、すぐに思いだす子がいます。
縁あって就学前から関わっている子でした。


その子の口癖は、「あの音なんだ?」でした。
ちょっとした音が聞こえると、近くにいた大人に尋ねたり、自分でその音がした方向へ行ったりして確認していました。
その行動は、就学後まで続いていました。


あるとき、突然、それまで見られていた「あの音なんだ?」がなくなり、音を恐れるようになりました。
それを見た親御さんは聴覚過敏が強くなったのだと思い、イヤーマフを購入した方が良いか、相談されたのでした。


私は幼少期から関わらせてもらっていたその子の姿から「聴覚過敏」という言葉は連想できませんでした。
むしろ興味関心の方だと捉えていました。
ですから、興味関心が満たされたからといって、いろんな音が認識できるようになったからといって、急に恐怖感まで振り切るものなのか、疑問に思ったのです。


そんな疑問を持っていたとき、その子が耳に物を入れようとするのを見かけました。
最初に耳の内部の病気を疑いましたが、そうではありませんでした。
で、私はもしかしたら、と思いました。


そう、その「もしかしたら」がきっかけでした。
学校で耳栓をつけるようになったのです。
しかも、親御さんに報告がなく。
理由としては、授業中、いろんな音に反応し、集中できないからだと、あとから説明がありました。


報告がなかったのはもちろんのこと、発達、成長が著しい子どもさんに、大人側の理由から刺激を統制するのはひどいことだと思いました。
本人が耳から入る刺激が辛くて、どうにかしてほしいと訴えるのならまだしも、「気になる」というレベルです。
発達障害のあるなしに関わらず、まだ未経験が多く、狭い世界で生きている子どもにとっての世の中は気になることに溢れた世界だといえます。


ちょうどその頃、高機能ブームの波が当地にも来ていまして、またちょうど運よく(悪く)、高機能ブームの中心にいた有名支援者が度々来ていました。
当時、養護学校に通っていた生徒さんが突然、みなさんイヤーマフをつけだしたのを見て、「どうしたんだ」と思ったら、その方がいらした直後でした。
あれだけ「個別化が大事」「一人ひとりをよく見ることが大切」と言っていたのに、受け取った側がみんな同じ支援。
自閉症の人の中には、聴覚過敏や視覚過敏を持つ人が多くいることは知っていましたが、ある日を境に、みんながみんなイヤーマフに、サングラスという姿に、支援の答えは持ち併せていませんでしたが、違和感だけはっきり持っていたことは覚えています。


今朝、朝ランのときに五稜郭公園を通りましたが、桜が満開になっていました。
そして、そんな満開の桜のように、発達障害の人達が悩み、生きづらさを感じる感覚過敏に対し、希望の花を咲かせてくれるような本が届きました。
花風社さんから出版された新刊『感覚過敏は治りますか?』です。
今回も、著者の栗本啓司さんが貴重な知見を教えてくださっています。


私は、この本を開いた瞬間、「生きている知見」という文字が浮かんできました。
この「生きている」には、2つの意味があります。
それは、栗本さんの知見はまだ完成したものではなく、これから益々発展し、より良いものへと変化していくであろうという意味の生きているです。


栗本さんの著書や講演に参加させていただくと、知見の深さと広さ、思い浮かべることのないような知識と知識の繋がり、経験と知識の繋がりを感じ、毎回、驚き、ただただ納得するばかりです。
しかし、それだけではなく、栗本さんの知見に触れさせていただく次の機会には、さらに前回よりも研ぎ澄まされており、再び驚くのです。
それを私は必死に噛み砕き、自分の血肉にしようと試みますが、またより純度の増した知見がやってくる、といった感じです。
私は、特に栗本さんの著書は皆さんにお勧めしていますが、過去の三冊の著書よりも、もっと素晴らしい知見が私達の日々のアイディアを刺激してくれると思います。


もう一つの「生きている」は、より実践的という意味での生きているです。
栗本さんのお話を聞いていると、人を大切にしているのがよくわかります。
今回の著書に記されている文字にも、日々、どういった姿勢で人と向き合っているのか、そしてその人の姿が見えてくるようでした。
自分の知見を披露しよう、高度な知識を与えてやろう、などの雰囲気はまったくなく、本当に一人ひとりに良くなってもらいたい、ラクになってもらいたい、自分の人生を豊かに生きていってほしい、という想いを感じます。
そういった姿勢と想いが文字に含まれているので、栗本さんの知見は、それを受け取った人を通して、すぐに実践されていくのだと思います。
アレンジしやすく、また治っていく人が多いのは、そんな文字に込めた栗本さんの生きている熱があるからなのだと私は考えています。


以前に、時計の針を進める仕事についてブログに記しました。
まさに今回の新刊は時計の針を進める本だといえます。
きっといつかは、本の中に記されていた方向で感覚過敏への支援、援助が進められるようになるのだと思います。
でも、今回の新刊が世に出たおかげで、その未来が10年、20年早く訪れたような気がします。


「感覚過敏は治りますか?」という親御さんの問いかけに、今までずっと「それが自閉症だから」という答えしか返ってきませんでした。
しかし、「感覚過敏は治りますか?」に対して、栗本さんは明確に回答してくださっています。
長らく「それが自閉症だから」「それが特性だから」という言葉で止まっていた時計が進み始める音が聞こえます。
私達は、ある意味、10年後の未来を手に入れることができたといえます。
その未来を手に、今を生きる人達、そしてこれから生まれてくる子ども達のために活かしていくことが大切だと思います。


是非、感覚過敏に悩まされている方だけではなく、発達障害を持った子を育てている親御さんに読んでいただきたいです。
どうやって育てていけばよいか、どこから育てていけばよいか、の大きなヒントが得られると思います。
私は、今後もこの仕事を続けている限り、今回の著書も何度も何度も読み返すはずです。
きっと10年後、20年後の人たちも、同じように読み返す本になると思います!




2018年4月27日金曜日

子どもの側から診断名を見る

現在のところ、自閉症の診断は風邪の診断に近いといえます。
脳波やレントゲン、血液、遺伝子などの数値化されるデータから診るのではなく、風邪のように症状を診て、その種類、重さ、組み合わせから診断されています。
ということは、画像や数値から判断する病気や障害よりも、人が入り込む余地があるのです。


「人が入り込む余地がある」=「医師が恣意的に診断している」と言いたいわけではありません。
診断には、様々な要素が混じり合っています。
診断する側の“人”のみではなく、そのときの本人の心身の状態であったり、家族からの情報、見たてだったりが存在します。
症状だって、強く出るときもあれば、ほとんど確認できないときもあります。
このようなことが考えられるからこそ、事象を反対側から見ることも大事だと私は思います。


私が関わっている方達の多くは、診断を受けています。
医療機関で正式な診断を受けているのですから、その診断自体をどうのこうのいうつもりはありません。
ですが、私は診断名をそのまま鵜呑みにし、前提として支援、援助を進めていかないように心掛けています。
必ず、疑うのではなく、反対側から見るようにします。
例えば、自閉症という診断を受けた方でしたら、「自閉症ではない」というのを否定する作業を私の頭の中で行います。
「私は自閉症である」は、「私は自閉症ではない、ということはない」とイコールになります。


どうして、こんなややこしいことをしているのかと言いますと、自閉症を前提として出発してしまうと、すべての言動が自閉症の特性に見えてしまうからです。
例えば、こだわり一つとっても、それが変化に対応できない、不安や恐怖を感じるからかもしれませんし、単にその対象が好きだから、それ以外を知らないから、たまたま今、マイブームだからかもしれません。
定型発達の子ども達だって、たくさんこだわりは持っていますし、「やめなさい」と言われても止めないことも多々あります。
症状の強度や頻度にかかわる部分でも、障害からくるものなのか、幼さや脳が発達途中、経験不足、練習不足だから自制できないのか、同世代の子と比べて大きな差があるのか、など考えるべきことがあります。


走り回っている子を見て、それが「多動」だとするのなら、「いや、同世代の子と同じような活発さだ」という見立てを否定する作業が必要です。
「同世代の子と同じような活発さ」が否定できないと、多動に見えるし、子どもらしさにも見える、では支援が定まりません。
また「多動だ」とする一方的な見方では、もし子どもらしさ故の活発さだったときに、それを制止したり、「静かに過ごしましょう」と指導したり、動きまわれない環境に変えたりしてしまえば、同世代の子ども達と同じような発散し、発達する機会が失われることにつながりかねません。


咳が出ているので、ただの風邪だろうと思っていたら、肺に重大な病気があった。
症状のみで判断する風邪の場合は、その他の病気が隠れているという点を否定する作業が必要だと思います。
もちろん、この考え方がそのまま当てはまるとは思いませんが、障害名から子どもを見るだけではなく、子ども側から診断名を見る必要もあるのだと思います。
これはひと様の人生に関わらせてもらう仕事をしている者として大事なこと。
「もし私が見誤ってしまい、別の視点から援助してしまえば、その子の可能性を潰しかねない」という恐怖感を常に持っています。
ですから、支援者という立場の心構えとして、診断名の、症状、特性の否定の否定を行っています。


最後にちょっと話が逸れますが、関連したお話。
「支援がないと二次障害になる」と真実のようによく言われますが、この場合は、「支援があると、二次障害にならない」ということが証明されないといけませんし、「支援がなくて二次障害にならない」ということが否定されないといけません。
私の周りにも、全然公的な支援は受けていなくて、二次障害になっていないし、自立して働いている人もいます。
と言いますか、自閉症の特性みたいに二次障害が語られますが、どこの診断基準を見ても二次障害が自閉症の特性であり、診断の必須条件とはなっていません。
長く支援を受けてきた人の中にも、二次障害になっていない人はいますが、それがすべて支援のおかげと言うのなら、親御さんの子育ての影響、学校の先生の影響、そもそも二次障害を起こすような人ではなかった、というのをすべて否定する必要もあります。


まあ、最後と言いながらクドクドと書いてしまいましたが、オチは「話し半分に聞きましょう」です。
ときに支援者は一方からの視点、事実しか言っていないことがあるからです。
診断する人も、支援する人も、そして本人も生きている人。
生きている人間は、留まることなく、常に変化し、発達するものですから、反対側に立って見ることで、その人をより立体的に捉えることが重要だと思います。

2018年4月26日木曜日

「診断できる医師がいない」という訴え

特別支援が始まった当初は、「診断できる医師がいない」とよく言われていたものです。
でも、あれから10年程が経ち、そういった声はあまり聞かれなくなったように感じます。
診断できる医師が増えたという理由からかはわかりませんが、診断を受けた人はたくさん増えました。
現在は昔のサザエさんの歌のように、「あなたもASD、私もASD。こだわるものまでおんなじね」みたいな感じがします。


ASDをはじめ、発達障害の診断を受ける人達が増えました。
当時の人たちから言えば、望んでいた状況に近づいたといえます。
でも、診断を受けた人が診断を受けることによって、自立できるようになった、自分の人生の選択肢が増えた、というような状況になったかといえば、そうとは言えない実態があるように思えます。
特に、以前はそれこそ診断できる医師がいなかったために、診断を受けることの少なかった高機能の人達は、診断を受けることで得られたラクと、その反面で失った選択肢、自立があるように見えます。


では、何故、診断を受けられる人が増えたのに、自立していく人が増えていかないのか。
それは「診断=サービスを受ける手形」になっているという実態があるからだと思います。


そもそも診断とは、自分自身をより良く理解し、成長や自立、選択肢や可能性を増やしていくことが一番の目的であるといえます。
特別支援が始まった当初に診断できる医師を求めていた人達だって、「はい、あなたは自閉症ですね」「あなたはADHDですね」という診断名のみが欲しかったのではなく、どういう特性があるのか、そしてそういった特性に対してどのような対処、方法、支援を行っていけば良いのか、まで診てくれる医師が増えて欲しいと言っていたはずです。
しかし、現状はそこまで診てくれる医師が少なく、診断書を書いて終わり、という話をよく見聞きします。


全国からくる相談メールには、面白いくらい同じことが書いてありまして、診断してくれた医師に行動の原因や特性の背景、どうやって育てていけば良いかを尋ねても返ってくるのは「自閉症だから」と「支援サービスを受けて」の二つ。
確かに、感覚過敏も、こだわりも、問題行動も、大雑把に言えば、その根のどこかに「自閉症だから」というのがあるのでしょうが、それで事足りるなら、ぶっちゃけ医師以外でも言えます。
ある有名支援者が「日本で診断の権限を医師会が手放さないのは、それが利権になっているからだ」と、憤慨しながら言っていましたが、そう言われても仕方がない現状もあるのだと感じます。


ですから、診断の実態が「サービス利用の手形」みたいになっているため、学校や民間の支援者がこぞってアセスメントを行っているのです。
また、そこで新たな利権みたいになっていて、ライセンスが必要なアセスメントだったり、いろんなアセスメントシートから付け足しして独自のアセスメントを作ったりして、何万も、何十万も徴収する。
これってすべて利用者負担になりますし、子どもさんだったら診断を受ける負担、アセスメントを受ける負担が大きいといえます。
で、すべて終わって着いた先が、「一生涯の支援」だったら、なんだそれってなりませんかね。


この頃は、何かあるとすぐに「診断受けたら」「薬飲んだら」と言われるそうです。
実際に関わっている子どもさんも、相談を受けた親御さんのお子さんも、普通級にいるのですが、学校の先生からそう言われたそうです。
そして、親御さんが同意しないと、「前の学校で担任してた子はすぐに受診した」「あそこの病院に行くと、すぐに診断が受けれる」なんて言う。
このように、身内以外の人間が言うのも、また軽々しく言うのも、診断という現状があらぬ方向へ歩を進めていることを教えてくれていると思うのです。


支援者の中にも、「この子には支援が必要。だから、診断を受けた方が良い」なんて言う人もいます。
また、「合理的配慮が求められるから」「金銭的にも支援が受けれるから」「働けなくても、福祉がみてくれるから」なんて言う人もいます。
確かに、診断があることで様々なサービス、支えを得ることができます。
でも、こういったサービスは、本人をラクさせようというのが目的ではなく、本人の可能性をより広げるものであり、また福祉は個人ではどうしようもない状況になったときの支えがその役割です。
なので、サービスを利用するが先にある診断も、支援したい他人が発端である診断も、違うと私は考えています。
というか、民間で支援している私から言えば、診断あるなしは関係なく、治せるなら治せ、ですね。


綺麗事と言われるかもしれませんが、診断も、本人がより良い成長と人生を送るための手段、選択肢の一つだと考えています。
よく医師も、支援者も、「診断はゴールではなく、スタートです」と言いますが、スタートしたあとの道が決まっている、というのはおかしいと思います。
診断というスタートを切ったら、線路が敷かれていて、その線路を進んでいく。
進んでいった先はギョーカイに続き、ゴールが一生涯の支援…。
障害名をオープンにしている人の多くが福祉的就労で、一般就労している人の多くがクローズで就職した人というのは、診断を受けることで得られたものと失ったものを考える事象だといえます。


10年前よりも、診断できる医師は増えたし、診断を受けた人も増えた。
でも、その人の可能性、選択肢を最大限増やすことにつながっているかと言ったら、そうとは言えない現実もあります。
診断を受けることで幸せになれなかったとしたら、それはまだ支援や制度、社会の理解が足りないからなのでしょうか。
私個人としては、診断受けて、アセスメントも受けて、支援サービスを受けて、結局、治らない、一生涯の支援、というのは、本人の幸せとは違う方向へ進んでおり、間違った流れだと考えています。


2018年4月24日火曜日

特別支援の正体

ある日、突然、養護学校は特別支援学校へと名前を変えた。
子ども達は、障害を持っているのではなく、特別なニーズを持っている子ども達になった。
発達支援センターができ、児童デイもどんどん生まれていった。
そして、それまでは支援の対象ではなかった子ども達も、それらのサービスを利用することができるようになった。


大規模な福祉施設からグループホームへ、人里離れた福祉施設からより地域生活の中心地へと社会の空気は流れを変えていった。
ある意味、養護学校時代の象徴と言うべき施設で働いていた私にとっても、これから始まる特別支援は期待を寄せる変化だった。
早期から、そして軽度の子達も、一人ひとりに合った支援を受けられることで、より良い成長と未来へと進んでいけると思っていた。
きっと彼らが大人になったときは、それまでの時代とは異なり、障害のあるなしの線は薄れ、多くの人には見えない線になると思っていた。


今、当時を振り返り、改めて特別支援を見ようとしても、その姿を捉えることはできません。
特別支援とは何ぞや?という問いに、明確な答えが見つからないのです。
私達が「大きく変わる」と感じた空気感は、今も空気のままだった。
いや、今も当時も変わらず、特別支援とはもともと空気だったと私は感じるのです。


それぞれの立場で期待を寄せていた特別支援。
でも、実際は特別支援という何か具体的なものがあるのではなく、それは空気でした。
「何かが変わるぞ」という空気。
その空気に期待を寄せていた人達が多くいた一方で、特別支援とは実態のないもので、空気のような存在であることにいち早く気が付いた人達がいます。
それが一部の支援者たちです。


その支援者たちは、空気を先導し、作る役割を与えられた人達でした。
「特別支援によって、障害を持った子ども達の未来は変わる」という空気を流しました。
その空気は心地良く、本人や家族たちの期待と合わさり、大きな風を生みました。
その風を受け、支援者たちは全国を、また世界を飛び回ったのです。


全国、世界を飛び回っている支援者の姿を見ていた人達は、「自分たちのより良い明日のために、支援者たちが頑張ってくれている」そう思っていました。
しかし、一向に自分たちの元にやってこないのです。
やってきたかと思えば、輸入してきた知識や技能を披露するだけで、いつの間にか、共に頑張るという姿が見えなくなりました。
彼らは一段高い位置から、本人や家族、その他の支援者を見るようになった。


今にして思えば、空気を先導し、作っていた支援者たちの多くに、本人や家族の期待という空気を勘違いする要素があったことが始まりだったように感じます。
彼らにはコンプレックスがあり、愛着形成に課題があった。
また彼らは支援者であったが、当事者の家族でもあった。
だから、特別支援が目指した自立が、真の自立にはならなかったのです。
私達がいう自立は、一人で生きていくための自立。
でも、彼らは口で「自立」と言いながら、心の底では自立してほしくなかった、自分から離れていってほしくはなかった。
彼らの求めていた自立は、自分たちの手の届く範囲での自立であり、自分と当事者、家族が穏やかに暮らせる楽園であった。


そもそも特別支援が始まる前にも、一人ひとりに合わせた支援は存在していました。
本人や学校、家族、地域の人達の間で、みんな自立を目指しての試行錯誤が行われていました。
何も特別支援が始まって初めて、障害を持った子たちへの教育、支援が行われたのではありません。
特別支援が始まる前から、成長し、自立していく障害を持った人達はいました。
「それは今と時代、社会が違うから」と言われるかもしれませんが、今で言えば、知的障害を持った人が一般就労をして生活し、家族を作って生活している人もいます。
特別支援はありませんでしたが、彼らには今よりも自由と選択があったと感じることもあるのです。


特別支援とは、空気のようなもので、掴もうと思っても掴むことができないものです。
ですから、支援者は見えない空気に線を引く作業を行いました。
「ここからは支援が必要ね」「ここからは私達の範囲ね」って具合に。
そして、その線がいつしかどんどん広がっていき、また線の色も濃くなっていきました。
それがこの10年間の特別支援だったように感じます。
結局、特別支援の範囲は広がったけれども、その範囲にいる人達が求めている自立は進んでいかなかった。
むしろ、一度引かれた線の内側に入った人を出ていかないようにするのが支援であり、線の内側をどれだけ支援者を含めた当事者たちにとって楽園にするかが目的地だったようにも見えます。


今こそ、特別支援が生まれた当初の空気感を思い出す必要があると思います。
障害を持った人も、持っていない人も、同じ地域で自立して生きていく社会が私達の望んでいた未来ではなかったでしょうか。
「スペクトラム」なんて言葉が流行ったように、人はみんなつながっており、人と人との間に線引きするのが目的ではなかったはずです。
どんな人も自分の資質を活かし、そして自分と社会の幸せのために生きていけるような多様性のある社会を目指していたのだと思いますし、そういった社会がやってくるのです。


今の特別支援は、支援対象者を区別し、サービスを区別し、選択を区別するような流れがあります。
これは支援者側が作った特別支援だということが明らかです。
本来、特別支援とは本人と家族、そして社会のために生まれたはず。
支援者のために特別支援が生まれたわけではないことのです。
支援者に特別な権限を与え、本人を特別扱いするのを特別支援と言うのなら、私はまだなかった時代の方が良かったと思うのです。

2018年4月23日月曜日

公園内に見える特別支援の線引き

息子と歩いていたとき、通りかかった児童デイの建物を指し、「これは何をするところ?」と言ってきました。
外から中にある遊具が見えていたので、何か遊ぶ場所や習い事の教室だと思ったのでしょう。
小学生の息子に、児童デイの本来の目的と現状について話をするわけにはいかないので、「学校が終わったあと、身体を動かしたり、みんなで遊んだりしながら、自分でできることを増やしていく勉強をする場所」だと説明しました。
そうすると、「僕も行きたい!」というのです。


現在、診断名、療育手帳を持っていない息子は、いくら本人が望んでも児童デイに行くことはできません。
でも、息子の習い事には、障害のあるなしに関わらず、みんな通うことができます。
もちろん、習い事の種類、指導者側の考え方によっては断られる場合もあるでしょう。
しかし、原則、学びたいものを、習いたいことを、自分で選ぶことができます。


雪が解け、温かくなると、放課後の公園には子ども達がたくさん遊んでいます。
そんな中には、児童デイの子ども達もいます。
私はセッションでも、プライベートで子どもと遊ぶのでも、よく公園に行きますので、大型の車に乗って、スタッフの方達と共に遊びに来ているのを見かけるのです。


児童デイの車でやってきた子ども達も、他の子ども達と同じように遊んでいます。
時々、名札を付けた大人が「鬼ごっこをするぞ」と声を掛け、それに集まってくる子ども達を見て、「ああ、児童デイに通っている子達なんだ」と思うくらい。
子ども同士で楽しそうに遊んでいますし、名札を付けた大人も、ベンチに座っている時間が多いので、たぶん、問題なく遊べる子ども達なんだと思います。


で、私は率直に思う。
本当に彼らにとって児童デイは必要な選択なんだろうか。
彼らに教えるべき生活スキル、彼らが身に付けるスキルは、放課後、公園に行き、遊んで帰ってこれるスキルではないだろうか。
もしトラブルや不測の事態が起きるのが心配だとしたら、それこそ、どう対処するかを学び、実践するのが必要な援助ではないだろうか、と。


児童デイを利用するのは、本人のニーズだけではなく、親御さんの事情やニーズというのもあると思います。
でも、どう見ても、彼らは自分たちで遊びを形成し、楽しんでいます。
うちの子は、他の学校、違う学年の子とも、公園に行ったら一緒に遊びますが、彼らは児童デイの子同士、スタッフと一緒に遊ぶように促される。
同じ公園で、同じ位の年代の子ども達が遊んでいるのに、馴染んでいけない集団があるのが私には違和感に感じてしまいます。
トラブルが起きれば、間に入る必要もあるかと思いますが、子ども同士馴染みあっていく方が楽しいだろうし、よい経験になると感じます。


私が学生の頃は、毎日、誰かしらのお宅に訪問し、子ども達の放課後の時間を一緒に過ごしていました。
たった1時間、2時間でも、親御さんに大変喜ばれましたし、学生&素人ゆえのエネルギーで重度の子や行動障害を持った子とも、どんどん公園や公共施設に行っていました。
あのときの私達は、何かを教えることはできなかったですが、一緒に経験することはできたと思います。
何度も通えば、その場に馴染むこともできました。


そんな児童デイがなかった時代、学生に放課後頼るしかなかった時代から、大きく変わった現在。
果たして、本当に子ども達のニーズ、願いは満たされるようになったのか、子ども達の選択肢は増えたのか、と思います。
私は、児童デイに限らず、特別支援が突き進み、もたらしたものは、定型、非定型の線引きであり、親の選択肢を増やすことだったと感じています。


たまたま私が公園で見た子ども達が、自分たちで遊べるくらいの子ども達だったかもしれませんし、そのときは何のトラブルもなかっただけなのかもしれません。
しかし、もし児童デイのない時代だったら、放課後の彼らの過ごし方は違ったかもしれないと思うのです。
地域の習い事に行っていた子もいたでしょう。
同じ公園で遊んで過ごすにしろ、子ども同士の自由な交流は阻まれなかったはずです。
もし足りないスキルがあれば、必死に教えてくれる親や先生がいたと思います。
でも、今は特別支援の名の元に、親ですら手を出そうとしなくなった雰囲気があります。
「ここからここは学校」「ここからここは児童デイ」
定型、非定型の線引きは、時間の線引き、役割の線引きへと浸食してきているように、私はこの10年の歩みを見ています。


冒頭の息子のように、定型発達の子が通いたいけれども、通えない場所がある。
ノーマライゼーションの考え、多様性を認める社会と同じ方向を見ているのでしょうか。
何も、定型発達の子にも、児童デイに通えるようにしろ、と言っているのではありません。
ただ今の子ども達は、将来、多様性のある社会を担い、その中で生きていく人達なのですから、特別支援の名の線引き、分離が進んでいくことは、彼らのためにならないと思うのです。
特別な支援は必要ですが、「ここからここは特別支援ね」という線引きはいらないと私は思います。


私が関わっている子ども達の親御さんの中には、児童デイを辞めた方も多くいます。
親御さんが一緒に公園に通い、そこで我が子に必要なスキルを教えている方がいます。
地域の学習塾や習い事に通わせ、そこで様々な経験をさせ、育てていこうとされた方がいます。
みなさん、特別支援の線を取っ払ったら、自分にできること、そして我が子に必要な機会が、特別支援の外にあったことに気がつけたのです。


「特別支援の内側にいることが幸せ」というのは支援者側の戦略であり、そもそもそんな線引きなど存在していなかったのだといえます。
ないはずの線を引くのは、囲い込みのためです。
社会には特別支援と非特別支援の線引きなどありません。
子ども達が思いっきり遊ぶ公園は、彼らの未来の社会の姿。
本来の支援とは、公園に入る前までの支援のことを言うのだと思います。
公園に入れば、思い思いに、自由に遊ぶ。
「ここからここまでは入っちゃいけませんよ」なんて言って付いて回るのは、支援ではなく、お節介だといえますね。


それにしても、私たちが学生の頃とは違って、重度の子ども達の姿を見かけなくなりました。
彼らも公園で思いっきり遊ぶのは好きだと思いますし、学生時代関わってきた子ども達は、みんな公園に行くとはしゃいで走り回っていました。
重度の子ども達は、放課後、どこに行っているのか。
まさか同じ児童デイの中でも外には行かず、衝立の中で淡々と課題やDVDを観て過ごしていることなどはないと思いますが…。
成長へのエネルギーが使えず、また消化できなかったエネルギーが更なる問題へと向かわせるなんてこともあったり、なかったり。

2018年4月20日金曜日

成仏系支援者

懐かしい歌声が聞こえてくるなと思ったら、息子が熱心に『ゲゲゲの鬼太郎』を観ていました。
近頃、夕方に再放送がやっていて、毎日、そして時々怖がりながら観ています。
私が子ども時代に観ていた話の再放送なので懐かしくもあり、そういえば、同じように妖怪や幽霊はいるのかな?死んだら魂が抜けていくのかな?なんて真剣に考えていたような気がします。


その当時から、もう30年くらい経ちましたが、未だに妖怪や幽霊は見たことがありません。
でも、この仕事をするようになってから、成仏できずに彷徨っている幽霊みたいな人達に出会うことがありました。
成仏系支援者の存在ですね。


成仏系支援者というのは、一見すると熱心な人であり、正義感の強いような人物です。
自分の主義主張をしっかり持っていて、その実現のために世の中に訴えかけます。
行動力もあって、いわゆる“良いこと”を言うので、好印象を持たれ、一定の支持者が周りにはいます。
しかし、その周りにいる人達の入れ変わりは激しい。
その理由は「信じるものは救われる」だから。


成仏系支援者は、悲しい人、辛い人、過去に傷を負った人が好物です。
現在進行形で生きづらい人に対して、「私は、あなたの気持ちがわかります」「私は、あなたを全面的に受け入れます」と、手を差し伸べてきます。
当然、今、辛い人は、その差し伸べられた手を温かく感じ、つないでいきます。
それが周囲にいる人達の中心になります。


このように書くと、良い支援者じゃないか、優しい支援者じゃないか、と感じられると思います。
でも、その裏の顔が出る瞬間があるのです。
それは周りにいる人の辛さが和らぎ、弱々しい存在でなくなると、急に冷たくなることです。
また、その支援者の主張と違う意見を述べると、あれだけ優しく、すべて受け入れるような雰囲気が出ていたのに、頑なに同意しなくなるのです。
成仏系支援者は、雨が降ろうが、やりが降ろうが、決して自分の主義主張を変えることはありません。


ここに成仏系支援者と、私が思う素顔があります。
成仏系支援者は、自分の過去に、自分自身の内側に、行き場のなくなった想いを持っています。
分かりやすく言えば、コンプレックスであったり、過去の自分への後悔や惨めさ、特に子ども時代に負った心の傷があります。
そういった行き場のない想いをはらすために、支援者をやり、主義主張を行っている。
落語家の立川談志さんが「落語は人間の業の肯定」と言っていましたが、それに近い印象です。
「支援は自分の業の肯定である」といった感じで、自分の過去の行い、過去の後悔や惨めさ、傷を肯定するために支援をやっているように見えます。


ですから、自分と同じような弱々しさ、生きづらさを持っている人を見ると、手を差し伸べたくなる反面、自らの足でより良い未来へ進んでいく人には興味がない、または拒否感すらある。
結局、そういった支援者の根本には、自分自身への支援がありますので、生きづらい人を見ては、「そうだ、私の過去は間違っていなかった」と肯定感を感じる。
その一方で、過去と決別し、未来に向かって歩んでいく人からは、未だに決別できずに、成仏できない思いを持っている自分が否定されているように感じてしまう。
なので、周囲にいる人達は、現在進行形で生きづらい人か、過去と決別できずにいる人ばかりですし、当の支援者本人も、強い主張の反面、弱々しさ、生きづらさを漂わせています。


優しい言葉をかけてくれるし、受け入れてくれる広さを感じるのに、他人の意見、特に自分の主義主張に触れそうな意見に関しては、頑として受け入れない固さを感じる。
それは主義主張を固めることで、なんとか心のバランスを保っているからです。
もし揺らいでしまったら、決別できない想いが出てきてしまい自分自身が辛くなってしまうのです。


自分自身で決別できない、処理できない想いを持っていると、周囲や状況、環境を変えることで正当化しようとします。
それに、自分の想いを周囲にいる人達の代弁という形で解き放つこともあります。
たとえば、自分が子ども時代、学校や教師に対するネガティブな感情、出来事があり、大人になった今もそれを引きずって生きている。
そうすると、生きづらい子ども達に対して「原因は学校だ」とやり、学校が悪いところだから、今、あなたは苦しんでいるんだ、と主張する。
でも、これは、今の子ども達を守りたい、救いたいからの言動ではなくて、昔の自分に対して、「子ども時代、僕は苦しんだけれども、それは学校が悪いからだよ」と伝えているだけ。
ある意味、自己治療であり、それによって成仏させようとしているんですね。


自分が子ども時代、親から愛情を感じられなかった、また恨むようなこともあった。
でも、その親に直接想いを伝えることができなかったから、今の子どもを代わりに使って、原因のすべてを「親が悪い」にしちゃう人もいる。
反対に、自分自身が惨めだったと思いたくないから、認めたくないからこそ、親は愛情がなかったわけではない→愛情を持っていたけれども、できなかっただけ→それは社会が母親に冷たかったから、制度を整えていない国が悪いから、と主張する人もいる。


つまり、本来支援者というのは、目の前の子どもや親御さんの課題を解決し、より良い未来に歩んでいけるように後押しするのが仕事です。
ですから、どんな手段や選択、道を通ったとしても、より良くなれば、それが支援者にとっても喜びになるはずです。
でも、やっていることといったら、受容と主張のみ。
受容するのは、その人に重なって見える過去の自分に対する肯定であり、受け入れです。
主張するのは、未だに決別できない想いを、今、苦しんでいる人の口を使って解き放っているのであり、環境を変えたり、主張に同意してもらったりすることで、自分自身の過去は間違えではなかった、辛い思いをしたのは自分のせいじゃなかった、と納得しようとしているのです。


受容も、主張も、本来、当事者の方達、家族の方達が行うものだと思います。
それを率先して支援者の立場の人間がやっているのが、そもそも違和感を感じます。
支援者だったら、具体的なアドバイス、後押しをするのが仕事。
よっぽど精神的に参っていなければ、第三者の知らないおじさんやおばさんに受け入れてもらっても嬉しくはないはずです。
主張だって、どなたかの依頼があって主張しているのか。
治す支援者が、「治らないなんて間違っている」「治っていくのが自然です」とやるのなら分かりますが、何も直接的なプラスになる支援ができていないのに、主張するだけというのもおかしなことだと思います。
ですから、こういった支援者たちを見ると、当事者の方達のためではなく、自分のために支援者でいるのだと感じます。


みなさんの周りにもこういった支援者はいないでしょうか。
生きづらい人が好き、過去に傷を負っている人が好き。
具体的な支援ではなく、受容と主張だけ。
自分の主義主張に触れようとすると、激しく抵抗する。
そして何よりも、支援者の明るさ、やさしさ、行動力に無理が見え、時折、悲しさ、生きづらさを漂わせいる。


そういった支援者というのは、成仏系支援者かもしれません。
成仏系支援者は、自分の中にある成仏できない想いと過去を持っていて、それを肯定するために支援者でいる。
だからこそ、治せないし、そもそも他人を治すことを目的としていない。
「良いこと言っているし、優しいんだけれども、それだけ」という支援者の裏の顔は、他人の不幸、生きづらさを自分の主義主張のために使っている人かもしれません。
こういった支援者は、妖怪や幽霊よりも怖い存在に思えますね。

2018年4月17日火曜日

オーブンレンジに記されていた注意書き

朝ランが心地良い気候になりました。
ほのかな温かさを感じながら走る朝は気持ちが良いものです。
朝日を浴びて、身体を動かすと、一日元気に過ごせますし、ごはんがよりおいしく感じ、より深く眠ることができます。
私は、食べること、走ること、寝ることが好きなので、狩猟採集民の血が色濃く流れているのだと思います。


働いてお金を得ることは、おいしいご飯を食べるためであり、大事な人達と共にその時間を過ごすのが、何よりの至福の時だと感じています。
食べることが好きな私は、料理も好んで行っています。
何を作ろうかと考えるのが面白く、どうやったら効率よく、さらにおいしくなるか、思いを巡らせながら手を動かすのも面白いですね。
健康を考え、油を減らしたいと思っていますので、最近はよくオーブンレンジを使って調理しています。


オーブンの中の焼き具合をチェックするときに、初めて気がついたのですが、サイドに注意書きがありまして、そこには「技術のあるサービスマン以外の人は“絶対に”キャビネットを開けないでください」と太字で強調されて書かれてありました。
確かにむやみに開けると、危険があったり、壊してしまうかもしれません。
でも、その何で?は書かれておらず、すぐ下にはカスタマーサービスの連絡先が書かれていたのでした。


支援者の中には、家庭で起きた問題を「自分のところで支援してどうにかする」という人がいます。
もちろん、根本から発達を促し、発達のヌケを育て直そうとする場合には、そういった別の場所での支援や療育が結果的に家庭での問題解決へとつながることもあります。
でも、基本的には問題が起きた場所に問題があるから問題が起きるわけです。


いくら別の場所でのイライラや不満、疲れが溜まっていたとしても、その場所が本人にとって安定した場所であり、そこにいる人との関わりが心地良いものであったとしたら、問題までに発展しないはずです。
ですから、最優先に変えないといけないのは、その問題が起きた場所であり、そこにいる人。
それなのに「うちの支援機関に来なさい」というのは、自分で原因を探らず、対処せず、「とにかくカスタマーサービスへ」と言うのと同じように感じました。
「素人がやると危ないぞ」というのを醸し出しつつ、自分のところへ誘いだす感じです。


オーブンレンジならカスタマーサービスで治せるかもしれませんが、家庭で起きた問題は支援機関では治せません。
「一緒に協力して問題解決へ向かって頑張りましょう」というのはただの営業トーク。
本気で解決しようと思ったら、家に行って支援するし、ダメ出しもします。
でも、それはやらないから意味不明です。


意味不明と言えば、「家事のできるひきこもりを目指す」と言う支援者に支持者がいること。
まあ、支援者がこのようなことを言うのはわかります。
障害を持った人をめんどりにしたいだけ。
でも、この表現はストレート過ぎるというか、正直過ぎるというか、表現があからさま過ぎる。
他のギョーカイ人は、もう少しうまい表現を使うので、その意図がわからず、支持する人達もいるのがわかるのですが、どうしてこの言葉に共感できるのか、私には理解できないのです。


ひきこもりの人の中には、発達障害を持っている人もいて、実際に家族の相談にのらせてもらったりすると、「せめて家事ぐらいしてほしい」と言われる場合もあります。
また、ひきこもりとは言わないまでも、自立して生活できるくらいまでの仕事を行っておらず、趣味と家の手伝いをして暮らしている人もいます。
でも、彼らだって、最初から「家事のできるひきこもり」を目指していたわけではありませんし、本人も、家族も、今の状態のままで良いとは思っていません。
それは社会だって同じです。


いわゆる知的障害のない発達障害の人達、軽度と言われている人達を支援対象にしたのは、彼らに学ぶ機会を保障し、しっかり学び、自立して生きていけるような、将来の社会を担っていくような人に育ってほしいからです。
どこの社会、国が、皆が働いて納めた税金を家事のできるひきこもりになってほしいと使うというのでしょうか。
特別支援の理念だって、そうだったはずです。
それを国の制度、理念、社会のニーズをぶっ飛ばし、「家事のできるひきこもりを目指そう」などと言う人がいる。
そのこと自体が、そういう考え、思想を持った支援者がいるのはわかるけれども、私には到底理解できません。


さらに、それを支持する人達がいることは、ただただ驚くばかりです。
本当に、自分自身が、自分の子どもが、家事のできるひきこもりになることを目指し、願っているのでしょうか。
やむをえず、また、せめても、という状態の人がいるのも分かります。
でも、心身の状態が安定したら、きっとその先を目指すはずです。
もし本気で、家事のできるひきこもりを目指している本人、家族がいるとしたら、その先が見えないくらい辛い状態の本人や家族が、私の見ぬところに大勢いるということなのでしょう。
きっと、こういった発言を堂々とできる支援者の側には、その支援者が治せない人達で溢れているのだと想像します。


私は料理以外にも、家事全般行います。
掃除だって好きです。
でも、家事だけやって、ひきこもっていなさい、と言われれば、日々辛くなっていくのは明らかです。
私は大事に育てられ、多くの学ぶ機会を得ることができました。
世界や歴史から見れば、恵まれた国で、恵まれた時代に生きていると思います。
たとえ、秀でた能力はなかったとしても、自分に与えられた資質を世のため、人のために少しでも活かしたいと私は考えています。
それは、どんな人も同じであって、そういった想いは内側に存在しているのだと思います。


だからこそ、社会の願いに逆行するのも間違いですが、一人ひとりの想い、資質を否定し、他人がこうあるべきだなどと言うのは大きな間違いだと思います。
幼いときから、一生懸命しつけをし、家事を教えていくのは、将来、家事のできるひきこもりになってもらうためではありません。
その子が将来、より良く生きられるようになるためであり、そして自分の資質を開花させ、社会のために活かしてもらうためです。


問題が起きたら、すぐに助けを求めるのではなく、その場で考え、対処し、行動する。
それでも解決できないときに、専門家に支援を求める。
でも、そのときも、自分の主体性を奪ったり、自分や家族、社会の願いに反する支援をしたりする人は選んではなりません。
自分で問題や課題を解決し、より良い人生を歩むための後押しするのが支援者です。
「あなたの問題、課題、人生をすべて請け負います」という人には気を付けましょう。

2018年4月16日月曜日

「頑張り続けることに疲れました…」

「ずっと頑張り続けることに疲れました」
このような相談を受けることが少なくありません。
不登校やひきこもりの方に多いですね。
また親御さんでも、同じようなことを言う方がいます。


そもそも頑張るのは、自分のためですから疲れれば休んで、元気になったら再び頑張ればいい。
そこに自分の意思があるはずです。
何か目標達成のために、自分の未来を変えるために頑張るのは、心地良い疲れを運んできてくれると思います。
でも、どうも心地良く感じていない、それが辛さとつながっている。
ということは、自分のためではなく、他人のために頑張っている。


その他人が、一番近く、愛情が欲しい人なのは想像するのも難しくないと思います。
頑張る、頑張らないにかかわらず、存在をそのまま受け止めてもらった感覚に乏しい人は、このように頑張る姿を見せることで認めてもらおうと、もがきます。
そのもがき続けることに疲れたというのが、頑張り続けることに辛さを感じている人だといえます。
よく彼らは言います。
「頑張れない、頑張っていない今の状態の自分には価値がない」と。


本人側の背景として、発達の遅れやヌケがあったために、うまく愛着が育っていかなかった、そこにもヌケがあるという場合もあります。
でも、そういった子の親御さんを見ると、「それ何の役に立つの??」みたいな民間の資格を取ったり、ナントカコーディネーターと名乗っていたり、ギョーカイ活動に熱心だったりする。
「私達も輝かなくっちゃ」「輝いている私を見て見て」と言って、Facebookにキラキラ、モリモリ写真をあげているタイプ。
そういうときに、私は思うんです。
あー、親御さん自体が心の底に寒々しさを抱えているのねって。


今でにも、いろいろな方に紹介したり、プレゼントしたりしたのが、花風社さんから出版された『愛着障害は治りますか?』です(kindle版も出ました!)。
この本を読んでから、改めて過去を振り返ってみると、愛着形成に課題を抱えた人が多かったこと、そして今も出会う方達の中に多くこういった課題を持っている人が多いことに気が付きます。
自分を高めるために、またその知識、技能をひと様に活かすために、いろんな資格を習得される方もたくさんいると思います。
でも、そういった人達の中に、頑張ることで自分の存在を確かめている人がいることを感じます。
自分自身のために資格を取り、「私を見て見て」という姿に、自分の寂しさを隠すように高価な物、派手なもので着飾る姿が重なります。


本来、ボランティア活動とは、自分に満たされ感があり、自分に心身の余裕がある人が行うものだと思います。
だけれども、ボランティアをする人自体が苦しそうだったり、援助が必要な状況だったりする人がいます。
誰でも他人から認めてもらうことは嬉しいことではありますが、それが目的でボランティアに従事するのは、それも一種の自己治療なのでしょう。
「嫌だ嫌だ」と言いながらも、講演会のサクラになったり、青いお祭りのボランティアを続けたりするのは、それによって満たしたい何かがあるから。
正直、ボランティアする前に、もっと我が子と向き合った方が良いはずです、という方が少なくありません。
ある親御さんは、「青い光を見ると、現実逃避できるのかな(ブ)」と言っていました。


「頑張り続けないと自分の存在価値がない」と思いながら生きるとは、どんなに生きづらいことかと思います。
それでは疲れ果てて、成長云々以前に、生活するだけで辛いことでしょう。
だからこそ、愛着についても治していく必要があるのだと思います。
で、下手くそな支援者は、「頑張らなくて良いんだよ」「あなたが生きているだけで素晴らしい」とやっちゃうから、何も育たず、変わらず、生きづらいまま。


「ありのままを受け入れる」というのは、主語が親でも、支援者でもありません。
「ありのままでも存在していいんだ」という感覚を本人が持てること、そこまで育つことだと思います。
子育てに悩み、苦しむ親御さんがいるのは、子の成長がわからない、先が見えないだけではなく、「頑張り続けないと、母親として、いや自分自身の存在価値が掴めないから」というのもあると思います。


頑張り続けることに疲れた子のそばに、自分自身を認め、受け止めて欲しい親がいる。
そして弱い立場の人を利用し、自分自身が必要とされることで、愛着不全を治療している支援者がいる。
問題の長期化の背景には、このような三者三様の寒々しさが隠れていることが少なくないと思います。