2018年12月31日月曜日

私の価値はご縁によるもの

昨日までに、すべてのご家庭へ報告書を発送することができました。
子どもさんの一日、一時間、一分は、かけがえのない時間であり、その瞬間に発達の息吹が詰まっていると思っています。
ですから、できるだけ早く、特にこのお正月休み、冬休みを親子の育み合いのより良い時間にしていただきたいと願っていますので、「どうにか年内に。いや、絶対に完成させる!」という思いで報告書を作成していました。
12月中旬くらいまでは余裕があったのですが、気がついたら大晦日って感じで、ブログを書いています。


2018年の始まりは、福岡出張で、最後が北海道の旭川。
ありがたいことに、函館以外のご家族、支援者から声をかけていただくことがあった一年でした。
依頼してくださることは大変嬉しかったのですが、そのたびに「どうして私なのだろうか」と思うのでした。


私は、今まで出会った子ども達や家族から教わったこと、素晴らしい実践家の皆さんから教えてもらったことを自分なりに咀嚼してお伝えしているだけです。
私自体に、何かスペシャルなものがあるわけではありません。
ですから、わざわざ交通費や宿泊費を負担して頂いてまでも、私がお伺いする価値があるのだろうか、と悩むことがありました。
実際、「ご家庭でできることがあります」「私を呼ばなくても、方法はあります」「小田原の方が近いですよ」「同じお金で、鹿児島に行けます」などお伝えし、ご依頼を取り下げていただいたご家族もいました。


改めて、こうして一年を振り返ってみますと、自分に価値があるから依頼があったわけではないのだと感じます。
そして、訪問したご家族、相談のやり取りをさせてもらったご家族が、みなさん、我が子を治し、より良い育みをされているから、私に依頼があったのだと思いました。
みなさんがどんどん治し、子どもさん達が伸びやかに成長していく姿を見せてくれるから、「じゃあ、うちも相談してみようか」となるのでしょう。
なので、私が持っているのは、素晴らしいご家族との縁だと考えています。


いろんな縁や経験、知見をいただいた一年でした。
いただいたものを、また次の人へ、新たなご家族へ、少しグレードアップしてお渡しするのが、私の役割のような気がしています。
私に依頼、仕事が来るのは、我が子の将来を世界のだれよりも真剣に考え、より良い子育て、発達の後押しをしたいと試行錯誤されている親御さん達と、日々、発達し、伸びやかな成長を見せてくれる子ども達のお陰だと思います。


皆さまのお蔭で、こうして一年間、仕事を続けることができました。
心から感謝申し上げます。
あと5時間ほどで、2019年を迎えますが、新年がもっともっと子ども達の笑顔と可能性で溢れる一年になりますようお祈りいたします。
良いお年をお迎えください!




2018年12月23日日曜日

内側に流れている時間がズレている

「学校の授業に集中できない」
「指示されたこと、やらなければならないことを、すぐに忘れてしまう」
「人の話を聞くことができない」
こういった状態像を報告すれば、すぐに発達障害、ADHDの診断名が付きますね。
それで、お決まりの服薬が始まります。


集中力の問題で、診断を受け、それから相談に来られる方は少なくありません。
「うちの子、集中できないんです」
「注意散漫で困っています」
と親御さんは言われるのですが、子どもさんは横でゲームに没頭しているんですね。
相談の間中、ずっとゲームしていますので、「お子さん、集中力あるじゃないですか」と言うと、ゲームに関しては、自分が好きなことに関しては、と返ってきます。


ゲームに集中するのが、「好きだから」と捉えている限り、一生答えは出ませんね。
じゃあ、授業が面白くなれば、集中するのか、と言ったら、そうではありませんし。
第一、興味関心の問題だとしたら、服薬する意味がなくなってしまいます。
こういった子ども達の多くは、ゲームが好きだからやっているのではなく、ゲームに主体、身体、生活が浸食されてしまっているんです。


発達の物語を見ても、特に発達のヌケが見当たらない。
親御さんからも、遺伝的な雰囲気を感じない。
でも、本人はADHD。
そうなると、環境要因が匂います。


私は、子どもさんに訊きますね、「ゲーム、面白いの?」と。
すると、ほとんどの子どもさんが「わからない」と答えます。
わからないけれども、やっている。
本人たちも、どうして、こんなにもゲームをしているか、わからなくなっているんですね。
それくらい、圧倒されてしまっている、生活の一部になってしまっている、ということなんです。


ゲームをすること自体は、悪いことではないのかもしれません。
でもね、700万年の人類の歴史の中で、こんなに強い光、スピードの速い刺激は存在しなかったのです。
700万年中、699万9980年くらいは、自然界になかった刺激。
それに対応できるだけの脳も、身体も、まだ進化していないといえます。
ですから、まず第一に、「ゲームのやり過ぎが、人体に影響しているんじゃね」と思わなくちゃいけません。


タブレット、動画、DVDも同じです。
目から、耳から入ってくる刺激に対し、子どもの感覚、脳はすべて反応して処理しています。
洪水のように、今までの人類が経験したことのない自然界に存在しえない刺激に対し、反応と処理を繰り返す。
当然、エネルギーを消費しますし、子どもなら神経発達に使うためのエネルギーが枯渇してしまいます。
同時に、洪水のような刺激に対応するための神経発達が進んでいく。
そうなれば、自然な流れ、スピードと合わなくなります。


授業に集中できない子も、言葉の指示、周囲から求められていることがわからない子も、その子の内側に流れている時間、脳が適応してしまったスピードとズレが生じてしまった結果のように感じます。
遺伝や発達のヌケ、愛着障害の子とは異なり、接していても、「なんか流れる時間のスピードが合わないな」と感じるものです。


本当に多いんですね。
普通級在籍。
今まで発達の遅れを指摘されたことはない。
でも、授業中、ボーとしている、周囲に合わせられない、指示ややるべきことを忘れる。


こういったお子さんのご自宅に訪問しますと、1回で相談が終わります。
圧倒されてしまっている刺激から、本人を遠ざけるだけ。
結局、食事中も、ゲームやタブレット。
起きている間も、布団に入っても…。
それを許しているのは誰ですか、というお話です。
依存するくらいまで、集中力の問題という症状が出るくらいまでも。
こういった子ども達に、いくら薬を飲ませても変わりません。
変わるのは、体調くらいなものです。


スマホ育児を「悪くないよ」と言うのは、忙しい親御さんをターゲットにしたメディア、サービスだけ。
罪悪感を持ちつつも、スマホを乳幼児に与えてしまっている親御さんに、「あなたは悪くないから」と言うことで、雑誌やアプリを買ってもらおうとしているだけですね。
「スマホ育児も、与えすぎなきゃ大丈夫」とか言う医師や専門家は、ちゃんとお金というもらうものはもらってから言っています。


結局、幼い子ども達に精神科薬を風邪薬のように処方する医師も、「ゲームも、タブレットも、スマホも、悪くない」と言うような専門家も、親御さんに忖度しているだけですね。
子どもの発達や健康、将来への影響なんか眼中にはないのです。
たとえ、親御さんにムッとされても、「四六時中、ゲームを許していることが問題でしょう」と言えるかどうか。
本気で子どもに影響がないと考えているのなら、その専門家は終わっている。
影響を知っていて、親に忖度しているのなら、やめちまえ。
一言で解決できることを、薬を飲ませたり、親御さんに忖度したり、学校や社会のせいにしたりするのなら、専門家、支援者なんていなくなれ、と私は思いますね。

2018年12月21日金曜日

『藤家寛子の減薬記』(花風社)を読んで

先週に引き続き、花風社さんから藤家寛子さんが書かれた新刊(Kindle版)が発売されました。
今回の内容は、薬。
長年、薬を服用されてきた藤家さんが減薬を遂げるまでの出来事、内面の変化。
それがリアルに伝わってくる文章でした。


文章の中には、具体的な薬の名前が出ていました。
出てきた精神科薬を見て、正直、私は驚きました。
もちろん、どのくらいの量を飲まれていたかまではわかりませんが、出てくる薬の名前は、私が施設で働いていたとき、強度行動障害を持った方、しかも、みなさん、重度、最重度、測定不能とまで言われるような知的障害を持たれた方が日常的に服薬されていたものでした。
薬の管理と服薬の介助は、職員である私達が行っていましたので、「あの薬を藤家さんも飲まれていたのか」と思うと、驚くばかりでした。


藤家さんが服薬されて体験されたこと、感じられたことは、当然、施設にいた方達も同じように体験され、感じられていたと思います。
もしかしたら、彼らのみせた激しい行動、気分の上下も、副作用の表れだったかもしれない、と感じました。
すべてがすべて、彼らの特性であり、強度行動障害ゆえ、だったとは言えないかもしれません。


服薬の種類や量が変わったとき、彼らはそれまで以上に不安定さをみせることがありました。
しかし、それが副作用かどうか、薬の変化から起きたものなのかを証明することはできませんでした。
何故なら、薬を体内に入れた本人しか、その感覚はわからないからです。
ましてや、薬が変わるということのほとんどは、本人の状態や行動障害がネガティブな方向へ進んだからであり、それらを落ち着かせるために処方がされたのです。
薬の変更後の“荒れ”は日常であり、医師からも「ある程度、飲み続けないとわからないから」と言われますので、ときが過ぎるのを待つわけです。


一方で、薬の変更後、すぐに激しい行動が収まることもあります。
でも、その場合の多くは、激しい行動と同時に、覇気、精気まで失うのです。
行動障害が収まったのではなく、行動障害が起こせなくなるから収まった、というのが実態だと思います。
そのため、「覇気や精気、気力が失ってしまいました。これでは学校や作業、日常生活に支障が出ます」と報告しますが、「じゃあ、元の激しい行動のときに戻っていいの?」と返ってきます。


薬が変わったあと、眼に光を失っても、簡単に戻すことはできません。
なので、いくら状態が安定しても、減薬の方向に進むのはさらに難しいことでした。
比較的、服薬期間が少なく、年齢が低い子どもさんで、しかも、親御さんが強く希望された方で、施設でも、学校でも生活に支障が出ているね、となって初めて、減薬に進めました。
しかし、その場合も、細心の注意を払い、時間をかけて、ゆっくり減らしていく。
当然、その経過の中で、問題や不安定さが見られれば、すぐにドクターからストップがきますので、支援も、指導も、より一層頑張る必要がありました。
減薬のペース以上に、本人が発達、成長し、環境を最適化していく必要があったのです。


藤家さんの体内で起きたことは、藤家さんという一人の人間の中で起きたことです。
でも、そこで感じたこと、体験したことは、貴重な証言だといえます。
現状を見れば、薬を体内に入れる人間ではない人が、服薬を決めている“日常”があります。
いくら医師でも、飲んだ本人しかわからないことがあるのです。
だからこそ、本人との対話、感覚、主観と共に、薬を決めていく必要があります。
しかし、本当にその本人の意思、主観が尊重されているか疑問に思います。
幼い子どもの場合、重い知的障害を持ち、言葉で表現する力が、自らの内側で起きている変化を認識する力が限られている方の場合。


個人の貴重な体験が書かれた本でしたので、「はい、読みました」「はい、本の紹介です」というのは、一人の人生を簡単に消費している感じがして、私個人としては失礼な気がします。
でも、今回、発売と同時に購入し、すぐに読み、こうして紹介のブログを書いているのは、少しでも早く、多くの方に読んでほしいからです。
この仕事をしていて、「どうして、こんなに小さな子が、この精神科薬を、こんな量飲んでいるのか」と思うことが多いのです。
施設にいた成人した人達が飲んでいた睡眠障害の薬が、幼児の子どもさんに処方されている現実。
衝動的な行動があるからといって、小学生が日常的に精神科薬を服用している現実。


なんだか、精神科の服薬のハードルが、全体的に下がっている感じがします。
困った行動が見られなくなったけれども、朝起きれなくなった、学校の授業中、ボーとするようになった、過食で体重が極端に増加した…。
この子達の未来と、発達の可能性を考えると、悲しくなります。
だからこそ、特に親御さんは、今回の新刊『藤家寛子の減薬記』を読んでいただきたい、と思います。
今まで精神科薬との接点がなかった親御さんも、想像し、考えるきっかけを与えてくれるはずです。


私のところに来る相談でも、学校から、支援者から、医師から服薬を勧められた、どうしましょう、というのが少なくありません。
それだけ精神科薬を勧められる機会が増えたということであり、実態を知らずに安易に勧める専門家もどきが増えたということです。
そんな今だからこそ、大事なことを伝えてくれる貴重な本だと思います。
知って、考えることが、子どもと子どもの未来を守ることになるはずです。


2018年12月15日土曜日

『藤家寛子の沖縄記:治ってよかったの旅』(花風社)を読んで

昨晩、更新された藤家さんのブログを拝見し、新刊が発売されたことを知りました。
そして即効で購入!
Kindle版、電子書籍の良い面は、このように読みたい本を、出版された瞬間に読むことができることですね。
全国どこにいても、「時間の差が生まれない」というのは、「住んでいる場所に関係なく治していけるんだ」という花風社さんのメッセージを連想します。


一方で、今回の新刊は、「時間の差」「時間の移り変わり」を強く意識する内容でした。
今年の5月に沖縄に行かれたときのお話を軸に、最初に沖縄に行かれたときのお話、学校時代、闘病していた頃のお話、作業所から一般就労、そして現在のお話とを結びながら、私達読者に「時間の差」を感じさせてくれます。
時間の差とは、つまり、治っていくまでの経過、治ってからも、さらに治り続けていく時の流れです。


私も、ある程度の経験を積みましたので、どのくらいで変化が出てくるか、どのような順序で発達していくのか、本人の発達の流れを見て、将来の姿をイメージすることができます。
そういったお話を、親御さんにしますと、皆さん、喜ばれ、希望を感じられる方もいます。
でも、その喜び、希望は、朝の占いで「今日の〇〇座が一位!」というレベルなのです。
私が、今後いくら経験を積み、発達の流れが読めるようになったとしても、朝の2分間の占いから脱することはできません。


私には、ご本人や親御さんに、心からの希望を与えることはできません。
しかし、それができるのは、当事者の方の声であり、体験であり、その人が一生懸命歩まれてきた時間の流れなのです。
特に治っている方のお話は、今まさに治る道を歩まれている子ども達、親御さん達の内面、内側に届く希望です。
だからこそ、今回も私は藤家さんの本を読まれることをお勧めします。
藤家さんの本、文章、メッセージは、内側を響かせるパワーを持っているから。


藤家さんの本は、すべて読みましたし、持っています。
最初の頃の本と比べると、文章から伝わってくる雰囲気が全然違います。
文章からも、治っていることが伝わってきます。
しかも、どんどんまろやかに、伸びやかに、楽しさが伝わってくる文章に変わっています。
それは、今もなお、治り続けているから、そしてご自身の資質が磨かれ、それを人生、社会のためにどんどん活かされているからだと思うのです。


親御さんに「治る」話をすると、治った姿、ゴール、基準があるように思われる方がいらっしゃいます。
でも、「はい、この症状とこの症状が見られなくなったから、治りました」というような決まった姿があるわけではありませんし、症状がなくなり、一般の人と同じような状態になったら終わりというわけでもありません。
治ったあとも、治り続ける。
そんなことを藤家さんは教えてくれているように感じました。


ヒトは、生命が尽きるその瞬間まで変化、発達し続けます。
「治る」というのは、本人を苦しめ、生きづらさを生んでいる症状を治していくことを指すのかもしれません。
でも、そこがゴールではないのは、発達障害のあるなしに関わらず、みんな同じです。


多くの人間が、食事や生活習慣の改善を目指したり、より良く働けるよう学んだり、考えたりしていきます。
健康も、仕事も、人生も、これがゴールということはなく、生涯をかけて、より良く変わっていこうとします。
子どものときのような盛んな神経発達は起きないかもしれないけれども、より良い発達を望み、行動しているのです。


そのように考えると、治ったあとも、治り続けるのは、自然なことのように思えてきます。
どんどん良い変化が起きてくる、休むことなくより良く発達していく。
ですから、生きている間、ずっと治り続けられる姿が、目指すべき姿なのかもしれません。


今、発達障害を抱えている子どもを目の前にしますと、「すぐに治さなければならない」「早く治さなければならない」と思われる親御さん達が多いと思います。
でも、藤家さんの歩まれた“とき”からは、「大人になっても治り続ける」「子ども自身が、大人になって治し続ける」という心地良さを感じられるはずです。
「この子も、大人になって、自分自身で治していくよね」
そう思えると、今の子育てに伸びやかさが出てくるように思います。


藤家さんとは、ほぼ同世代で、私も『あぐり』は毎朝、熱心に見ていましたし、『ちゅらさん』は続編2,3,4のDVD、ゴーヤーマンのフィギアも持っているくらい好きでした。
BSで朝観てから、登校する毎日(笑)
『君の名は』『おんなは度胸』くらいから記憶アリ。
同じ時代を生きる方として、私にとっても元気や頑張る意欲、刺激を頂ける存在です。
沖縄のような温かい空気が漂う、クスッと笑えて、エネルギーを頂ける新刊でした!
高校の修学旅行以来、沖縄に行っていないので、私も旅行したくなりました。


 

2018年12月13日木曜日

未発達ゆえに、十分な発達の保障がされなかったゆえに

友人から、「教室の中には発達障害の子がいっぱいる」という話を聞きました。
他人の感情が読めない子。
離席や衝動的な行動が目立つ子。
ボーとしていて集中できない子。
一つひとつ指示がないと動けない子。


確かに症状や様子を聞けば、発達障害が疑われますし、ギョーカイ系の医療機関にかかれば、すぐに診断名もつくでしょう。
でも、私は「未発達な子ども達」のように感じます。
どちらかといえば、遺伝的な要素よりも、後天的に、育つ環境の中で、発達障害になっていったという雰囲気を感じます。


就学前の子ども達の中にも、夜の10時、11時になっても起きている子ども達が増えているそうです。
子どもは、夜になれば、起きていたくても起きれないのが自然なのに。
まだ言葉がはっきりしていない時期からタブレットで動画を何時間も観て過ごしている子どももいます。
食事も、食べたくないものは食べない、また食べなくてもいい、という家庭が普通になっている。
こういった話を聞くたびに、子どもの発達する権利は守られているのだろうか、と思います。


「寝られない子」ではなく、「寝れない子」
「食べられない子」ではなく、「食べない子」
「タブレットの刺激に圧倒されている子」ではなく、「タブレットが好きな子」
私が、子どもの神経発達について指摘すると、こういった言葉が返ってきます。
あたかも、それがその子の「個性」であるかのように。


大人の中には、寝られない人もいるし、食べられない人もいます。
四六時中、タブレットを見たり、スマホをいじったりしている人もいます。
もちろん、大人であっても、それは不健康な状態といえますが、大人ならなんとかやり過ごすことができます。
しかし、それが子どもとなれば、しかも、乳幼児となれば、影響の大きさは比べものになりません。
ある程度、神経発達が完成し終わった大人と、今まさに神経発達をしている最中の子ども。
人類の歴史の中で、たった数年、数十年の間に生まれた刺激に対し、適応できるだけの身体にはなっていないのです。


不登校の子ども達の相談もよくきます。
学校の人間関係、トラブルなどが理由として挙げられ、それに対しカウンセラーが、教員が、学校が、家庭が話し合いを続けたりします。
そして、それでも解決の糸口が掴めなければ、医療機関にかかり、発達障害という診断を受ける。
「そうか、発達障害があったから、学校に行けなくなったんだ。人間関係でトラブルが起きたんだ。勉強、学校というシステムに馴染めなかったんだ」と、周囲が一応の納得をするための答えとして診断を受けるのが、お決まりのパターン。
でも、日々の生活を振り返れば、「そりゃあ、朝起きれないよね」「学校行けないよね」「一度のトラブルで心が折れるよね」「勉強に集中できないよね、ついていけなくなるよね」ということが多いのです。


夜通し起きていれば、朝学校に行けないのは当たり前。
栄養が偏っていれば、登校する力、授業を受ける力、何事にも意欲が出なくなるのは当たり前。
しかも、それが乳幼児期から続いているとしたら。
神経発達に問題が出るのは、自然と言うか、必然だと言えます。


人類史上、経験したことのないような急激な変化、強烈な刺激の中で子育てをしている現代の私達。
当然、人間の脳みそも、身体も、そういった環境に適応するだけの準備はできていないわけです。
昔は、「子どもは勝手に育つ」なんて言われていました。
でも、今は違います。
環境の揺り戻しを、親自らが行わなければなりません。
今ある環境のまま、育てようとすると、未発達な子ども達の神経は、強い刺激の中に吸い込まれていくのです。
ですから、これからの親は、学ばなければなりません、知らなければなりません。
そして、その家庭の差が、今まで以上に、子どもの発達、成長の差になって表れるはずです。


未発達ゆえに、十分な発達の保障がされなかったゆえに、「発達障害」と診断されてしまう子ども達。
正直、いろんなご家族と関わらせてもらっていますが、「遺伝的要素って、親御さんから、そんなに感じないな」という発達障害の子が増えたように感じます。


現状の医療、診断基準なら、未発達の子も、発達保障がされてこなかった子も、「発達障害」となります。
そういった子ども達が、ギョーカイの推進するスローガン「発達障害は治りません」によって、支援と配慮と環境調整にまみれ、発達障害者っぽくなる。
挙句の果てに、飲む必要のない精神科薬を処方され、福祉の世界に収まっていく。
これは、本人、家族、社会にとって不幸なことです。


この哀しさのねっこは、乳幼児期の環境に繋がっていることもあります。
なので、知ってほしい。
子どもは、大人ではないこと。
子どもは、神経発達の真っ最中であること。
子どもと大人では、その刺激の大きさ、インパクト、影響力がまったく異なることを。
せめて、未発達、発達保障がされなかった子ども達だけでも、全員治ってほしい、いや、治すべきだし、治さないといけないと私は思うのです。

2018年12月10日月曜日

支援者が評価されるとすれば、2つしかない

「早期から療育してきたのに…」「何年間も、療育機関に通ってきたのに…」、一向に改善がみられない、課題が解決しないままでいる、といった場合があります。
その理由は、そこの療育が、子どもさんに、子どもさんの発達のニーズに合っていなかっただけ、というシンプルなもの。
しかしかながら、親御さんの中にはそう思わない人が少なくなく、「我が子の障害が重いから、改善や解決が見られないんだ」「ゆっくりしか成長できない子なんだ」と捉えるのです。


子ども自身、発達障害があろうがなかろうが、発達、成長する力を持っています。
ですから、基本的な栄養や睡眠、心身の安全が守られていれば、自然と伸びていくもの。
支援者が仰々しく、「私達の支援でここまで伸びた」なんて言うことがありますが、本人の発達の流れから見れば、ただ単に本人の持っている発達の力で進んだだけ。
支援者が関わろうが、関わらまいが、「それくらいは伸びるよね」というのが少なくありません。
第一、週に数時間関わっただけで、良いも悪いも、変化を与えられるわけはないのですから。


支援者が評価されるとすれば、2つしかありません。
本人の発達を堰止めているものを取り除いたとき。
具体的に言えば、発達のヌケを埋める、本人の誤学習をぶった切り、修正する。
もう一つは、本人の持っている発達の力、スピードよりも加速させれたとき。
「発達の流れからいって、自然とこれくらい発達するだろうな」という地点より先に、より早く進んだ場合、良い後押しができたと評価されて良いと思います。


つまり、あの支援者と関わって、「止まっていた発達が動き出したな」「発達の大きさ、スピードが変わったな」という実感を得られなければ、あまり意味がない、ということ。
「公的な機関だから」「有名な先生だから」「一回通ったら、途中で止めにくいから」「どうせ無料だし」というのは、言っちゃあ悪いけれども、親御さんの趣味嗜好。
療育を受けるのも、支援を受けるのも、子どもが主体であるのですから、子どもにとって効果があるかないか、可能性を広げるものか、という視点で考えなければなりません。


「療育に通って効果が得られないのは、我が子が重いから」というのは、支援者にまんまと洗脳されてしまっています。
「障害が重いから効果が出ない」のでしたら、支援者も、療育も、そもそもが必要ないということになります。
障害が重い子に何もできないのなら、通う必要がないのです。
じゃあ、何をしに行っているの?ですね。


障害が軽くても、重くても、症状を改善し、より良く発達、成長させるために支援者がいて、ほら、早期診断、早期療育といっているんでしょ。
それに、そもそも障害が軽い、軽度だと言っていた子ども達だって、療育機関に通えば通うほど、ギョーカイの支援を受ければ受けるほど、障害者っぽくなっていき、特別支援の世界に留まることが多い現実。
大学出た若者に、福祉的就労させて喜んでいるレベルです。
生活面だって、作ったグループホームに住まわせて、「はい、自立です」と言うのです。


ですから、「障害が重いから」は、自分たちが責められないように先手を打っているだけの話。
少しでも成長が見られれば、本人の持っている発達、成長する力には触れず、「自分たちの療育、支援のおかげ」。
もし変化が見られなければ、「それは障害が重いから」となる。
挙句の果てには、「障害受容できていないね、お母さん」と責められる始末。
そんな療育、支援を受け続ける必要、意義はどこにあるのでしょうか。


ある親御さんが、専門機関に通っていたときの話をしてくれました。
うちの子が定期的に通っていたとき、大きいお兄ちゃん、お姉ちゃん、成人した本人とその親御さんの姿をたくさん見てきた、と。
その姿を見て、「ここを利用するのは止めよう」と決心がついた、と言っていました。
つまり、ここに通い続けても、何年療育を受け続けても、改善、解決はしないと悟ったのです。
様々な世代、若者、大人たちを見てきて、障害の重さが理由ではなかったことに気がつけたそうです。


大事なのは、本人の持っている発達の力を加速できるかどうか。
その発達の後押しができるのは、親御さんだと思います。
よって無条件に療育機関や支援者に頼る必要はないのですから、ちゃんと子どもの発達、成長を加速させられているか、という視点で判断してもらいたいと思っています。

2018年12月7日金曜日

心地良いリズムを作っていく

一生懸命、子どものために情報を集めたり、試行錯誤されたりするのと、子どもにあれもこれもさせるのは、ちょっと違う話だと思います。
「早く治ってほしい」と願うのは自然な感情だといえますが、植物が水や肥料をあげ過ぎると枯れてしまうように、子どもも多すぎる刺激は、却って良くないこともあるのです。


子どもが起きている時間は、「なにか発達に繋がるものを」というように、いろんな活動をされる家庭があります。
そういった想いを持たれるのは自然だと思いますが、いつしか「そう動かなければ、うちのこは治っていかない」というようなプレッシャーを自らにかけている親御さんも少なくないように感じます。
そういった親御さんに対し、私は空白の時間の大切さを伝えています。


何もしない時間、していない時間というのは、外から見える世界です。
子どもの内側に目を向ければ、脳内のネットワークを繋げている時間であり、刺激によって起きた興奮を静め、次の発達に向けて整え、準備している時間だといえます。
特に幼少期の子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですので、特別なことをしていない時間だったとしても、内側では神経が伸びたり、繋がったり、整理したりしているのです。
ですから、空白の時間、刺激が少ない時間を過ごすのは、決して無駄な時間ではなく、むしろ、今まさに神経発達が行われている瞬間と言うこともできます。


また、空白の時間は、子どもが自ら主体的に、自分に必要な刺激、動き、遊びに向かっていける時間だといえます。
どんなに頑張っても、子ども本人になることはできません。
なので、どうしても、良かれと思ってやっている活動、与えている刺激、環境も、本人が求めているものとズレが生じてしまいます。
本人が今、求めている発達刺激と、こちらが与えようとしている発達刺激とのズレです。
そのズレを埋めるのが、空白の時間であり、その空白の時間を使って、本人が主体的に、自由に自らを育てていくのだと考えています。


子どもを治すため、より良く育てるために、日々頑張られている親御さん達の中から、「もう限界です」「私には無理です」という相談を受けることがあります。
お話を伺うと、親御さんがヘトヘトであり、子どもさんもヘトヘトという場合が多いのです。
こういった親御さん達は、能力や頑張りが足りないのではなく、バランスが崩れている、リズムが良くないだけだと思います。


朝起きてから寝るまで「強・強・強」の生活を送っていると、じっくり育つ時間、育つ準備をする時間がありません。
結果的に、親子共々、一日をこなすだけで精一杯になってしまい、ヘトヘトな毎日を過ごされることになります。
一日を終えたとき、心地良い疲れ、やりきった疲れと、ヘトヘトになる疲れは、意味合いが大きく違うと思います。
ですから、その家族、親子に合ったリズムを作っていくことも大事になります。


私の仕事のメインは家庭支援ですので、「強・強・強」のご家庭には、「弱」「静」「間」の大切さを伝えています。
つまり、発達や成長を促す頑張る部分の他に、子どもさんが休み、整理し、主体性と自由を謳歌する時間を作るということです。
そういった個々の状況や状態に合わせたリズムができてくると、親御さんもただ疲れるだけではなく、一日やり切ったという心地良い疲れを感じながら布団に入ることができます。
発達障害を治すのも、子育てするのも、短距離走ではなく、持久走です。
リズムを感じ、リズムよく歩を進めることが、継続できること、確実にゴールすることにつながります。


「治ってほしい」が、いつしか「治さないと」「治さねばならない」となると、空白の時間が苦しく感じてしまうような気がします。
でも、子どもは自分に必要な刺激、発達がわかっていて、自ら育んでいこうとすることが多々あります。
ですから、空白の時間を「何もしない時間、していない時間」ではなく、子どもが自ら育つ時間と捉えられると良いと思います。
それでも「何かしないと気が休まらない」というのでしたら、子どもが主体的に選択し、遊んでいるものを一緒になって遊ぶ。
思いっきり子どもがやりたい遊びを一緒にやるのも、発達援助です。


「あれもこれもやらなきゃ」と、しんどい思いをされているのでしたら、家族の心地良いリズムを見つけ、作られていくと良いような気がします。
心地良いリズムは、子どもの発達を伸びやかにし、心地良い疲れを得ることができます。
心地良い疲れは、明日へのエネルギーになるはずです。

2018年12月5日水曜日

言語発達とリズム

「言葉の遅れ」と一言で言っても、その状態には幅があります。
まったく言葉を発しない、発声のみの状態から、言葉は話すけれども、単語レベルだったり、語彙が少なかったり、心情などの抽象的な概念の表現ができなかったり…。
当然、状態によって、背景や課題が異なりますから、ざっくり「言葉の遅れ」などとはいわず、詳しく確認する必要があります。


同時に、言葉に関して、どのような流れ、変化があったかを確認することも必要になります。
例えば、ずっと言葉を発しない状態が続いているのか、それとも、同世代の子ども達と比べて、1,2年の遅れはあるものの、ゆっくり発達、変化が見れれているのか。
ある程度の段階まで順調に発達が見られていても、ある段階にきたら、そこで急に止まった、なんてこともあります。


でも、大事なのは、変化があるか、あったのか、です。
変化が見られたなら、そこに発達の芽があるということ。
ゆっくり発達しているのなら、方向性は間違っていないので、あとは加速させる後押しを考えれば良いだけです。


以前、関わったご家族から「言葉が出るようになりました!」というお話を聞くことができました。
まだ幼い子どもさんだったのにもかかわらず、専門家からは「言葉の遅れがあるのが自閉症だから」ということで、言葉が出るのを望むよりも、代替手段を使ってコミュニケーションすることを勧められたとのことでした。
で、ご縁があって、相談に乗らせていただいたのです。


その子とお会いしたとき、確かに言葉は発していませんでした。
でも、多分、この子は言葉が出るんじゃないか、と思ったのです。
「もう少ししたら、しゃべると思いますよ」とも言いました。
その理由は、私が話している言葉の理解があったこと。
そして何よりも、「あー」とか、「うー」といった発声の段階ではありましたが、節が見られたことが大きな理由です。
節、つまり、リズムですね。
ただ「あー」とか、「うー」とか伸ばすだけだったり、空気を吐くに近いような短い音だけだったりすると、まだ言葉が出るのは先かな、と思いますが、そこに長短や強弱、リズムが出だしたら、そろそろ言葉が出るな、言葉の準備を頑張っているな、と思います。


どうして「節」「リズム」が言葉が出る予兆になるのか、と言われたら、経験則に基づくというのが正直なところ。
「言葉が出る前には、節の段階があったな」
「単調な発声だったはずだけど、なんか節が見られるようになったな」
そういった経験の積み重ねが、いつしか発達の予測に繋がりましたし、言葉を促す発達援助の方法として『リズム』をキーワードにするようになりました。
「言葉が出るようになりました!」と教えていただいたご家族にも、『リズム』から連想した遊び、運動を提案したのでした。


後付けの理由としましては、「音楽、メロディーに合わせて身体を動かす乳幼児は、言葉の発達が早い、豊かになる」という話と、まだ言語を持たなかった私達のご先祖様も、踊りやダンスはしていたそうですし、ヒト以外の動物でもリズムのある動きをするという話。
つまり、言葉、音声言語の前段階として、リズムがあると考えられます。


『リズムに合わせて身体を動かす』から…
「動きに強弱をつけられる身体」
「一定のリズムから変更ができる身体」
「リズムがわかる耳」
「空気振動がわかる耳、感覚、身体」
「重力と付き合える身体」
「刺激過多ではなく、刺激にも強弱、リズムを」
「生体のリズム、リズムのある生活」
なんていうような連想が生まれます。


施設で働いていたとき、利用者のほとんどの方は、明確な音声言語を持っていませんでした。
ですから、みなさん、「言葉の遅れ」があった。
でも、一人ひとりをみれば、「言葉の遅れ」にも段階、違いがあったのです。
ということは、ざっくり言えば、「言葉の遅れ」は診断基準にもなっている障害特性ではありますが、段階があるということは、発達してきた過去があり、発達する芽があるということだと、当時、私は思いました。
発達した過去があるのなら、可能性のある未来だってあるはずです。


言葉の遅れは、選択肢を狭めるのが現状です。
就学時、言葉の遅れがあれば、十中八九、支援級、支援学校を勧められます、というか、ほぼ決定されてしまいます。
そうして特別支援の世界に入っていくと、ざっくり「言葉の遅れ」になって、代替手段の使用、獲得、訓練へと進んでしまうのが大部分の子ども達。
ですから、「障害特性」などと言わず、できるだけ早い時期から取り組み、発達を促しておく必要があると思います。


極論ではありますが、意味が伴わなくても、意味理解まで育っていなかったとしても、ベラベラしゃべっていれば、ある程度、明確な言葉でしゃべっていれば、普通級にいけます、いける可能性が高いのです。
現実の話として、診断を受けていないアスペルガー、高機能の子ども達は、普通に教室の中にいますので。
また小学校低学年、中学年くらいまでは、どの子も、結構、意味不明なことを言っています。
まあ、そうやって定型発達と呼ばれる子ども達も、経験し、学び、言葉、言語の面でも発達していくということ。
つまり、話すのも、理解するのも、「完璧!」だから普通級に入るのではないということです。


定型発達の子ども達には、言語の面に関しても発達の猶予が小学校時代にあるのに、診断を受けた子ども達、特に言葉の遅れがある子ども達には、その猶予が与えられない場合もあります。
私は、学力の面で普通級で学んだ方が伸びるか、支援級、支援学校で学んだ方が伸びるか、だと思っています。
トラブルを起こさず、席に座ることができて、授業がわかったら、普通級で学べばいいと思います。
でも、現実は「言葉」の部分のウエイトが大きい。


いつになったら、真の特別支援教育、一人ひとりに合わせた学びができるのかはわかりませんので、言語発達の後押しを頑張ることですね。
まずは、言葉の遅れは障害特性という頭を切り替えることから。
重度、最重度で、行動障害も激しかった方達も、言葉の発達には違い、グラデーションがありました。
ですから、諦める必要はなく、子どもの内側にある発達の芽を見つめることが大事だと思います。

2018年12月3日月曜日

発症する前に治す時代

仕事の関係で、また我が子の学校行事等で、幼稚園や保育園、学校へ行くことがあります。
そういったとき、感じるのが、定型発達と言われている子ども達の発達の課題。
特に、身体面、運動面で課題がある子、まだ未熟な子があっちも、こっちも、といった感じです。


私も子育てしていて思いますが、自然に任せておけば、勝手に発達していく、だいたいの発達課題をクリアして育っていく、というのは難しい。
遊びがどんどん乏しくなっていると感じます。
まだ私が子どもの頃なら、放課後も時間がいっぱいあったし、遊ぶ場所もたくさんありました。
公園の遊具だって、今みたいに守られたものではなく、スリルやワクワクがあったものでした。 
虫もたくさんいたし、川とか、木登りとか、あまり何々してはいけない、どこどこにいってはいけない、なんてことはなく、自由な時間を謳歌することができました。
そういう中で、当然、私の中にもあった発達の課題はいつしか育まれ、クリアされていったのだと想像します。


一方で、今の子ども達は忙し過ぎます。
学校も、小学校一年生から15時近くまで授業があるし、みんな、習い事で忙しい。
結局、親も忙しいから、子どもも習い事や学童で時間を埋めているのでしょう。
チコちゃんに怒られそうですが、ボーと生きる時間が、子ども達の脳を育む時間だったりすると思うのです。


創意工夫、身体が遊び道具の遊びから、インスタントで、部分的な遊びへの変化。
子ども達の遊びが乏しくなれば、当然、発達課題のやり残しが出てくるし、刺激の乏しさが脳の偏りを作ります。
また、食事もどんどん貧しくなっています。
長年、浴び続けてきた農薬と化学肥料により、土の栄養が貧しくなったから。
当然、その土から育った作物は、昔のような栄養素を蓄えていません。
野菜を食べても、得られたのは水分のみ、なんてことも。
栄養の偏り、乏しさは、子ども達の心身の発達にダイレクトに影響します。


私達、親世代の体内にも、いろんな要素が蓄積されているでしょう。
環境面のリスク因子を体内に貯め込み、それを子どもの世代に渡してしまったのは確かです。
そう考えると、子ども達の世代、そしてその次の子ども達の世代へと移っていくたびに、発達の課題やリスクを持った子が増えていくのは、想像に難しくありません。


きっと近い将来、赤ちゃんや幼児を対象にした運動教室、訓練が一般的になると思います。
現在でも、スポーツクラブや運動教室に通おうとしても、その前段階、基礎となる運動ができていない、身についていない子ども達も多いのですから。
基本的な動作に遅れがあるということは、乳幼児期に根っこがあるということ。
ですから、そういった子ども達が当たり前に見られる未来は、ハイハイ運動や寝返り運動など、生きる上で土台となる運動、動作を習ったり、敢えてやり直したりするニーズが生まれているはずです。
「呼吸教室」なんていって、呼吸を育てるための習い事ができたりして。


つい数年前までは、仕事で出会う親御さん達はみんな年上の方ばかりでしたが、いつしか、年下の方ばかりになりました。
子どもさんの年齢が幼いですし、その下に兄弟児もいたりします。
ですから、近頃、発達に課題がある本人だけではなく、兄弟児も一緒にみるようにしています。
最初は、自然な運動発達を見て感じてもらうため、本人の子育てのアイディアとして、兄弟に協力してもらっていたのですが。
兄弟児もより良く育ってほしいという想いから、気づいたことをアドバイスさせてもらっています。


兄弟児ですから、遺伝的要素も少なからず持っていると考えられます。
なので、早期から、お兄ちゃん、お姉ちゃんに課題が見つかる前の年齢から発達援助をやれば、発達障害の有無に関わらず、より良く育つだろうし、もし要素を沢山持っていたとしても治りが早いはずです。


次の世代、その次の世代の子ども達と併せて考えれば、発症する前に治す時代がくるでしょう。
本当の早期療育とは、そのことを言うはずです。
今みたいに、早い段階からギョーカイが唾をつけておくシステムとは根本から違っているのです。


神経発達に課題やヌケがある子ども達に対して、神経発達を促す刺激、環境を整えれば、治っていくのも、脳内で代替のネットワークが構築されるのも、当たり前の話。
ですから、もうちょっとしたら、発症する前の子ども達を治す仕事をやろうかな、なんて思います。
あとは、治っていった元発達障害の大人たちが、家族を作り、子どもを授かったとき、その子の発達援助サービスも。
社会を変えるのも、子ども達の環境を変えるのも、土壌や食物を変えるのも、私にはできませんので、将来的には発症する前に治す仕事ですかね。
その時代を見据えて、今から準備、日々精進です。

2018年11月29日木曜日

情報提供しているだけ

「出張に行った、行く予定」に対して、「売名行為だ」「自慢している」と言われました。
生きづらーい(;´∀`)


出張に行ったのも、行く予定も事実だし、何よりも道外に出張に行ったからといって、偉くもなんともない。
徒歩圏内で相談、発達援助を行うのも、飛行機に乗って相談、発達援助をするのも、何ら違いはありません。
やることは一緒。


むしろ、我が子のために、今後のより良い子育てのために、時間とお金をかける親御さんの方が何百倍も偉い。
だって、それだけ真剣に子どもと向き合い、今という時間を大切に感じているのだから。
世の中にはエラソーなことは言えるのに、行動できない人がたくさんいる。
だからこそ、私は行動できる人を尊敬するし、その人の願い、要望なら全力で応えたいと思います。


出張の話をしたのは、全国に同じ想いをしている親御さん達がいることを伝えたかったから。
時々、ブログに載せる子どもさんの話も、親御さんの話も、そう。
治る人、治った人、治るための知見やそれを持っている人は増えてきたけれども、まだまだ多数派にはなっていないし、まだまだこういった事実を知らない人が大勢います。
治る道を歩みだした人だって、身近に共感してくれる人がいなくて、孤独感を持ちながら進んでいる人だっています。
だからこそ、私が関わらせてもらった子どもさん、親御さんで、ヒントになるエピソード、励まし、希望になるエピソードがあれば、それを紹介させてもらっています。


私が関わった人達のエピソードを載せるのは、ただ単純に知っているからです。
知らないことはブログに書けません。
しかも、私が関わったから良くなった、治ったなんてことは思ってもないですし、そんなはずはありません。
何度も言うようですが、私に治す力はありませんし、治すのは本人であり、家族です。
本人が発達のヌケを育て直す行動をし、家族がそれを後押しするための行動をしたから、治ったのです。


今までにも、いろんな方達の育み方、発達のヌケの育て直し方を一緒に考え、伝えてきました。
でも、治らなかった人、治っていない人もたくさんいます。
「ああすれば、根っこが育っていき、伸びやかに成長できるのに」
「ここから育てていけば、ラクになるのに」
私がそう思っても、やるかやらないかは、本人、家族が決めることです。
その行為、行動自体を私が決めることも、やらせることもできないのです。


やればいいのに続かなかった、そもそもやらなかった、なんてこともあります。
当然、私は残念な気持ちになりますし、悲しいですし、自分の力のなさを痛感します。
でも、それは仕方がないのです。
治す主体は本人で、子育ての主体は親御さんだから。


治そうと思っていない人を治すことはできません。
治すか、治さないか、どう子育てを行っていくかは、本人と親御さんが決めることです。
ですから、私の仕事は情報提供すること。
「こうしたら治るかもしれない」「こうしたらグッと成長できるかもしれない」「こうしたら今よりもラクになれるかもしれない」
そういった情報を言葉で、行動で、雰囲気で、ニュアンスで伝えていくのが、私の仕事。
その情報をどう受け取り、どう判断し、どう行動に結びつけるかは、私の範囲ではありません。


素晴らしい本や知見、実践家の方を知れば、それを伝える。
関わった方の中に、素晴らしい取り組みやアイディア、エピソードがあれば、それを伝える。
全国で治す道を懸命に歩んでいる方達がいれば、それを伝える。
これらはすべて、私が多くの方達、特に子ども達に治ってほしい、と願っているから。
私が全国の子ども達のうちに行くことも、私自身が治してあげることもできない。
だからこそ、自分ができるギリギリのラインである治るための情報を伝えているのです。


相談や出張の依頼からは、身近に共感してくれる人、治す道を進んでいる人がいなくて、孤独感を感じている、という雰囲気があります。
なので、そういった方達の希望や励みに繋がるような治る情報と治る道を歩んでいる人達のエピソードを伝えようと思っています。


最初から「私には治せません」と言っている人物の『治ったエピソード』は、なんの売名行為にもならないでしょう(笑)
出張に行くのだって、私の事業形態が可能なものになっているから、依頼がきて、それに応じているだけです。
偉いのは、大きなお金を出してまでも、我が子のために頑張ろうとしている親御さん。
そして、その親御さん達を後押ししているのは、その地域の支援者たち、ギョーカイたち(ブ)


だから、私はなんも偉くないし、すごいわけでもありません。
私は、したい仕事を自分で作って、しているだけ。
仕事ができて幸せなのは、函館でも、道外でも変わりがありません。
なので、敢えて「道外からも、出張の依頼が来たぜ、イエーイ」なんて言う必要はなく、言っても自分の仕事の腕が上がるわけではありません。
まあ、ひがんでいる暇があるのなら、ご自分たちの腕を上げるために研鑽を積むことだと思うだけですね。

2018年11月28日水曜日

支援者に手柄などあるわけがない

数年に渡って、一人の若者を鳥かごの中に押し込めようとしていたのにも関わらず、本人が仕事を始めると、「あなたは自立できる人だと思っていた」と言ってしまう、あまちゃん県の支援者。
散々、人権侵害してきたし、同県のギョーカイ人達がひどいことを行ってきたのを見聞きしていたのにも関わらず、そこで本人のことを守ろうともしなかった、「それはおかしい!」と同県のギョーカイに抗議をすることもしなかった。
本当に、この若者のことを信じ、自立できるような人だと思っていたのだったら、必死に守るし、一緒に闘うはず。


言葉なんて、あとからでも、なんとでも言えます。
100万歩譲って、本当に可能性を信じていたとしても、ボーと見ているだけだったら、それは同県のギョーカイと同じ。
身近に、自分を助けてくれる人、応援してくれる人、そして何よりも一緒に理不尽と闘ってくれる人がいなかった、その孤独感、喪失感を想像したことがあるのか、と言いたい。
行動が伴って初めて、言葉に信用が生まれるもの。


本来なら、「申し訳なかった」と謝り、自分の見る目の無さ、ウデの悪さ、行動に移せなかった卑怯者の心を悔やむのが、ヒトとして、ひと様を支援する者として自然な姿。
自らの過ちに気が付くからこそ、今までの己の支援、同県のギョーカイのあり方から、切り離すことができる。
そして、より良い支援、支援のあり方へと変わっていくチャンスを得る。
本人が変わったのに、支援する側が変わらない、というのはあり得ないこと。


結局、こういった支援者の変わり身、手の平返しは、あわよくば自分の手柄にしたい、という想いの表れです。
あまちゃん県に限らず、こういった類の話は、よくあることです。
だって、私だって、何度も経験しているから。
あれだけ「この子が、一般就労を目指すって(笑)」「IQが上がるわけないでしょ」「感覚過敏は治らないの、それが障害だから」と言っていたのにもかかわらず、治ったり、一般就労したりすると、「うちの支援が良かったから」「うちの学校の教育が良かったから」と言う。
しかも、それを対外的にも言ってしまう。
学校見学のときの実績として、講演会のネタとして。
「てらっこ塾??そんなのやめちまえ」と言っていたのにね。


ギョーカイというのは、一般就労した人、自立した人、治った人の話を欲しているんですね。
だって、自分たちの関係者にはいないから。
みんな、年がら年中、「生きづらい」と言い、その生きづらさの一つすら解決したことがないんですもん。
挙句の果てに、「治らないのは障害だから」「生きづらいのは社会のせいだ」とまで言ってしまう。
だからこそ、少しでも接点のある人が、一般就労したり、治ったりすると、それを外に向かって言ってしまうのです。
というか、言わないと、結局、治せず、対処療法と青いお祭りしかしてないことがバレチャウからね。


支援者が大きく勘違いしているのは、自分たちが手柄を得られると思っていることです。
支援して、その人が自立したり、就職したりしても、支援者の手柄にはなりません。
動いたのは、本人であり、家族だから。
コネと力関係でねじ込む福祉的就労やグループホーム入所は、そりゃあ、支援者の手柄といえるかもしれません。
でも、自立や就労、特に治るに関しては、本人が治したから治ったのです。


昨日のブログと通じますが、本人と家族がしっかりと土台を育んだから、発達のヌケを育て直したから治るのですし、そこから本当の意味での自立や就労が始まります。
支援者なんていうのは、万能な能力を持っているわけではありません。
一般の人より、経験と情報を持っているくらいなもの。
その限られたものの中から、本人と家族が主体的に利用するのが自然な関係性。


私も仕事で、見たてや育み方の提案、技術転移を行いますが、それだって情報提供しているにすぎません。
関わった家族の方達から治った報告を頂くことがありますが、それだって本人が治そうと動き、家族が育み、後押しをした結果です。
治したのは、本人と家族であり、私はただ情報提供をしただけ。


だからね、支援者が「手柄」なんていう言葉を考えた時点で終わっているのです。
支援者は、本人と家族に利用してもらうもの。
主は、絶対に支援者側になりません。
支援者側に主体が来ないのだったら、そこに手柄などあるわけがないのです。


治ったのは、本人の頑張りの結果。
自立できたのは、家族の育みと後押しの結果。
支援者とは、その姿を見て喜ぶのが仕事。
「一般就労できたのは、私の支援のおかげよ」というようなヤツは、支援者の風上にも置けない人だといえますね。
その考え方自体、ギョーカイ臭が漂っています。

2018年11月27日火曜日

治したいと思うのは、誰か?

支援者や学校の先生からも相談や助言を求められることがあります。
自傷や他害などをどうにかしたい。
対処療法ではなく、根本から育てていきたい。
そういった熱い想いをぶつけてくれます。


根本から解決したい、育てていきたい、というのは、親御さんに近い視点です。
ということは、それだけ目の前の子どもとしっかり向き合えている証拠。
だからこそ、私はそういった支援者、先生たちを応援したいと思います。


でも、治すのは支援者でも、先生でもありません。
治すのは、本人であり、家族。
発達の土台、根本を育てようとすればするほど、家庭に突き当たるのです。
自然な家庭での営み、子育ての中に、根っこを育てる舞台がある。


いくら療育機関や学校で解決しよう、治そうとしても、時間も、環境も、日常の部分であり、断面でしかありません。
発達とは、本人の主導で育まれていくもの。
「さあ、療育の時間です」という具合にはならないのです。
生活の土台、生きる土台である家庭の中で、やりたいときに、やりたい育ちをとことんやり尽くすことによって、発達が満たされていきます。
安心した雰囲気の中、本人のペースで発達が育まれていく。


発達のヌケは、支援機関に通う前に、学校に入学する前に、できているものです。
なので、やっぱり支援機関も、学校も、“治す”にふさわしい場所ではありません。
発達のヌケは、ヌケが生じた環境で育んでいくのが良いといえます。
ですから、支援者や先生が、根っこに注目し、それを掴もうとすると、家庭と繋がっている。


家庭での育みがなければ、いくら外で頑張っても、課題の解決には至りません。
脆弱な土台の上に、何かを建てようとしても、不安定で、すぐに崩れてしまうからです。
相談やアドバイスを求められる方達の悩みの本質はここ。
結局、問題行動も、発達の課題も、根っこから育てなければ、という想いを抱いている。
でも、自分たちが関われるのは、生活の一部。
だから、どう頑張っても、自分たちの関わりが根っこを養う力までに及ばない。
支援者や先生が頑張れば頑張るほど、その支援、指導が、上辺へのアプローチになってしまい、バランスを崩すことに繋がるというジレンマを抱えている。
案外、何もしない同士の方が、子どもは安定しているもの。


家庭という土台、発達の土台がしっかり養われて初めて、支援者や先生の支援、指導が活きてくるのだと思います。
家庭で、快食快眠快便を整えること、身辺スキル、基本的な生活習慣を身に付けること、しっかり遊び、親子の間で愛着の土台を養うこと、これらが育まれてから、本当の学びが始めるのだといえます。
栄養も十分に摂れず、夜も遅くまで起きていて、不満やイライラを抱えて登校してくる。
その子の問題行動、発達の課題を、どうしたら学校で解決できるというのでしょうか。
支援者、先生からの相談のほとんどは、「それって家庭の問題でしょ」という一言で終わるものが多いのです。


私も、以前は、同じような悩みを抱えていました。
だからこそ、私は家庭支援を始めたのです。
本人が変わる前に、家族、特に親御さんが変わる必要がある。
何故なら、発達の土台、根っこは、家族であり、家庭に存在するものだから。
「学校や療育機関がどうにかしてくれる」「専門家がどうにかしてくれる」ではなく、親である私が治す、私達が自立するまで育ててみせる。
そういった想い、主体性を持つことが、治るための一歩だと言えます。


本人を中心とし、家庭が頑張り、学校が頑張る。
家庭が土台を養い、学校が学力や技術を養っていく。
そうやって自立までの後押しをしていく。
家庭がしっかりしていれば、支援機関に通わなくとも、学校が残念だったとしても、ちゃんと育っていくものです。
反対に、家庭が残念だと、いくら支援者、先生が頑張っても、ほとんど効果はありません。


ですから、支援者、先生の役割は、きちんと直言すること。
言うべきことは、きちんと言わなければなりません。
私も、たくさん直言してきました。
その結果、利用が終わった家庭もたくさんあります。
でも、仕事のために接待するのは決して良くないこと。
子どもにとって、家族にとっても。


ですから、療育機関、学校で起きる問題にどう対処したら良いか、育てたらよいかが悩みなのではなく、家庭に直言できない自分と向き合うのが悩み、ということ。
本気で治そうと思えば、家庭に変わってもらう必要があります。
また家庭に、その気が無いのなら、諦めるのも一つのアイディア。
治そうと思っていない人、支援を受けて生きていければいいや、という人は治せません。
「治したいと思うのは、誰か?」
そういった問いかけを自分自身にすることも大事だと思います。

2018年11月24日土曜日

個人が、個人で治していける時代へと移り変わる時期

相談にいらっしゃる方達から、「どうして、同じ地域に大久保さんのような人がいるのに、支援機関の人達は教えてくれなかったのでしょう」と言われることがしょっちゅうです。
いつものことですから、私は「組合に入っていないからでしょうね」と答えています(笑)


支援センターとは、公的な機関であり、その地域の資源でもあります。
だから、本来は「この地域には、こんな資源、サービス、人がいて、現在の相談内容からしますと、こういった選択肢が考えられます」と提示すること、そして相談者の意思と選択を尊重した上で、相手の機関とつなぐことが役割だと思います。
最初から、紹介するところ、除外するところを決めておいたり、支援者側の都合で勝手に相談者の選択を誘導したり、決めたりするのはもっての外。


なんとか“センター”というくらいですから、地域という円の中心に存在していて、相談者の利益につながるような情報とアイディアと結びつける。
でも、実際は、地域という円ではなく、自分たちを中心とした円を勝手に引いてしまい、そこに入る組織と入らない組織かを見定めている。
青いお祭りは、いわゆる踏み絵です。
だから私は、誘われても「NO」と言い続けた。


結局、自分たちで引いた円の中に入った組織、人間だけで、パスを回し続けます。
障害者支援とは、利用すればするほど、儲かる仕組みだからです。
ちゃんとパスを返してくれる組織にだけ、パスを出す。
一つの機関で抱えていたら、その機関のみしか、回数が増えていきません。
ましてや、自分自身で解決したり、家庭での取り組みだけで治ってしまったら大変です。
だからこそ、お互い裏で悪口を言いながらも、支援機関、支援者同士で繋がりを持つ。
だからこそ、相談者に提供する情報は、支援者が事前に選別しているのです。


事業を起ち上げた当初、「あそこには挨拶行っといた方が良い」「あっちとは敵対しない方が良い」「あの人とはつながっておいた方が良い」などと言ってくる人達がいました。
その人達は親切心で言っていたのかもしれませんが、私には意味が分かりませんでした。


私が組織の中にいる人間なら、そういった振る舞い、行為をすることが、組織に適応し、地域に適応することへとつながったのかもしれません。
でも、私は事業を起ち上げたのです、独立したのです。
起業の醍醐味は、自分が掲げる理想的な社会、地域に向けての挑戦ではないでしょうか。
少なくとも、私はその挑戦権を得るために、独立したともいえます。


第一、私の挑戦は、この地域に選択肢を作ること。
「支援一辺倒ではなく、育ちを」
「子育ての主導権を、もう一度、家庭に」
「一生涯の支援から、自らの足で歩む人生へ」
既存の大きな組織、影響力を持った人間と手を結ぶというのは、地域の目で見れば、ただ既存の組織の外部機関が一つできた、ということと違いがありません。
既存の組織、特別支援の焼き増しをやるくらないなら、最初から起業などしないのです。


起業から6年目。
当初の理想であった地域の選択肢の一つになる、ということはまだまだ実現していません。
しかし、その一方で、この地域以外の方達から相談や出張の依頼が来るようになりました。


全国から依頼が来るようになったのは、私が地域の既存の組織と手を結ばなかったからだと思います。
起業当初に言われた「あそこに挨拶」「あっちの仲良く」をやっていたら、こういった今はなかったはずです。
どこの地域にもある従来の特別支援、療育を行う人間だったら、わざわざ他県から依頼が来るわけがないのです。
つまり、事業を起ち上げてから言われたアドバイスはすべて「この地域でうまく商売するには」という前提があったということです。
もちろん、起業時には「全国に出張して」などとは考えていませんでしたので、アドバイスの本当の意味には気が付いていませんでした。
でも、私に言い寄ってくる面々を見ますと、惹かれるような仕事、子育てをされていなかったため、「この人達の言うことは聞かない」と判断することができました。


どこの地域も同じだと思いますが、従来の組織は、「回数を増やせば儲かる」という仕組みに、体制として組み込まれてしまいました。
既存の組織、支援者たちに、この凝り固まった体制を批判することも、ぶっ壊すこともできません。
支援者のバイアスのかかった情報、アイディアしか得られない支援センターに、自立も、治るも存在しないのです。


これからは、自立した人、治った人とが、個人と個人でつながる時代。
自立したい人は、自立した人と繋がる。
治したい人は、治した人と繋がる。
地域の大きな組織、中心的な組織、支援者と繋がることの意義はなくなったのです。
むしろ、既存の体制に組み込まれる危険性があり、マイナスにすらなります。


自立や治すには、組織との繋がりは必要ありません。
必要なのは、主体的に考え、選択し、実行する力。
個人が、個人で治していける時代ですから、従来の「一生涯の支援」「支援者との繋がり」なんていう価値観をいち早く捨てたものから、治っていけるのだと思います。
まあ、既に若い世代の親御さん達は、そういった価値観すら最初から持っていない場合もありますが。
今、変化の時期なので、従来の価値観とこれからの価値観が混在しているのだと言えますね。



2018年11月20日火曜日

地域が問われない時代、問われるものは?

スマホを使えば、簡単に情報が得られる時代です。
ですから、治したい人、一生涯の支援ではなく、育んでいきたい人にとっては、良い時代になったのだと思います。
以前ですと、地域によって違いがありました。
どういった資源があり、どういった学校、支援者がその地域にいるかが、子ども達、親御さん達に大きな意味をもたらせていたといえます。
「先進地域」などという言葉が使われたことが、それを物語っていたと思います。


でも、今は「先進地域」などと言われません。
何故なら、先進的な“地域”はなくなったから。
あるのは情報であり、その情報を得ているか、どうかの違いになりました。
地域に関係なく、治したい人が治していける時代になったのは歓迎すべきことだと思います。


特に、成人した方達にとって、「地域が問われなくなった」というのは素晴らしいことです。
自らの意思と主体性で支援を、生活を、人生を選択できるようになったのです。
昔のように、障害を持った人を地域の支援者、支援機関が結託して鳥かごの中に押し込めようとしても、「こんな支援、方法がある」「全国には、違った選択をし、自立できた人もいる」と闘うことができます。
そして全国の心ある人達と繋がることで、自分の身を守ることができるようになったのです。
どんなに辛い状況だったとしても、主体性を失っていない限り、自ら治していけるし、治すアイディア、育むアイディアを持っている人と繋がることができます。
ですから、どんな地域に住んでいようとも、たとえ味方が周りにいなかったとしても、応援してくれる人を求め、全国に心と身体を動かすことができるのです。


若者や成人した人達にとって、素晴らしい時代になったと言えますが、子どもにとってはそうとは言えない現実があると思います。
何故なら、自分以外の意思と選択に左右される可能性があるから。
つまり、親御さん次第で、大きく変わるということです。


情報を自由に選べるということは、偏りが生じるのです。
情報がたくさんあるからこそ、親御さんの選択によって近道にもなれば、遠回りにもなる。
ある意味、迷子になる子が出てくる時代。


地域に固定されていた時代、左右されていた時代は、みんな同じ方向に進むので、良い結果、残念な結果というゴールは違いますが、その子だけ迷子になる可能性はなかった。
地域も、その子ども達、若者たちに合わせて設計されていきますので、そういった面での生きづらさはなかったといえます。


でも、今は違います。
情報を自由に選択できるということは、同じ地域にいたとしても、その子の未来に大きな違いが出てくるのです。
治そうとする親御さん、育もうとする親御さん、自立を目指す親御さんと、一生涯の支援、社会の理解ガー、対処療法と外注子育ての親御さんとは、まったく異なる道を歩むことになります。
つまり、親御さんの姿勢、情報の選択、主体性と行動力が問われるのです。


素晴らしい実践家の先生を求め、各地に足を運んだり、書籍やネットから情報を得たり、治している親御さんとつながったりする親御さんがいます。
一方で、当日が近づいているのにもかかわらず、定員の数の1割も満たない高名な先生方、特別支援の世界をリードされている方達の講演会に、サクラとして動員させられる親御さんもいます。
地域の支援者から、同じ親御さん同士から目を付けられないように、ポイントを稼ぐために、やりたくない雑用を断らず、引き受けちゃう親御さんもいます。
こういった姿勢の違いが、子どもの未来に関わってくるのは当然です。


自分のポジションを守るため、自分の愛着の課題を癒すために情報収集している親御さんの子は、後回しになります。
まずは、親御さん自身が治る必要があるから。
自己治療のための情報を得たあとに、子どものための情報を探すことになるから。
でも、実際は、子どもの情報を得るまでに至らない親御さんが多い。


「うちの地域は…」という文言は、ただの言い訳という意味しか持たなくなりました。
地域に関係なく、治している人は治っているし、自立している人は自立しているから。
しかも、地域の支援を利用することなく、自分自身で、家族とともに育むことで。
せっかく全国どこでも治していける時代になったのですから、支援者の一生涯の支援を受けなくても働き、自立できる時代になったのですから、その時代の素晴らしい面を享受していきましょう。


生物は強いものが生き残るのではなく、環境に適応できたものが生き残る。
これからの時代で言えば、自らの手足を使い情報を得て、主体的に選択しながら、より良い未来を築いていける者が、豊かな人生を歩んでいけるのだと思います。

2018年11月19日月曜日

先輩たちが歩んでこられた途中から、堂々と子育てを始めれば良い!

一般の教科書』と『特別支援学校・知的障害者用教科書』というブログに対する反響が続いていまして、わざわざメールで感謝の言葉をくださる方もいらっしゃいます。
それだけ存在を知らなかった人が多かったということだと思います。
メッセージをくださる方達の様子をお聞きすると、どうも都会だから知っている、地方だから、小さい学校だから知らない、ということはなく、学校、それこそ、担任の先生たちの考え方が大きいような印象を受けました。


どんな背景があるにせよ、「その教室内で教科書がどのような扱われ方をしているか?」は、その学校、教室、先生の教科学習に対する考え方が表れていると思います。
どう考えても、プリントのみで、教科書の内容を網羅することも、教科書で得られる知識、学力を身に付けることも難しいでしょう。
いつも批判され、この地域では存在しない事業となっているので、たまに感謝の言葉を頂くと嬉しく思いますが、せっかく情報が得られたのですから、その情報を活かし、お子さんのために時間を使ってもらいたいな、と思っています。


「情報を得ながら、子育てをしていく」というのは、すでに一般的になっていますし、必要なことだと思います。
子どもの数は減る一方ですし、核家族化なんて、わざわざ言われもしなくなりました。
おばあちゃんと地域にいた先輩ママ達が、スマホに替わったのです。
「今の親はスマホばかり」と言う人たちもいますが、スマホに頼らざるを得ない現実もあるのだと思います。
遠くの親戚より、近所の知らない他人より、スマホが助けてくれる時代。


スマホが助けてくれる時代を生きているのですから、上手に利用すれば良いと思います。
特に、発達障害の子ども達の育み方は、大いに利用すべきだと思います。
治った子の親御さん達、治ってきている親御さん達の子育てにはアイディアが詰まっています。
もちろん、そのまま真似をしても、うまくいくことはないでしょうが、我が子の子育てを考えるきっかけになります。
そして、我が子に対する育みに、より多くの時間を注ぐことができるようになります。


情報を得ることは、時間を生みます。
例えば、今回の教科書の話。
これを知るだけで、知らなかったときよりも時間を有効に使うことができるのです。
「うちの子、学力が身についていかないな」
「支援級に行かせたのは、本人のペースで、しっかり学んでほしかったはずだよな」
「このまま、プリント学習のみだったら、普通級の子ども達との差が広がるばかりだよな」
そんなモヤモヤした時間を一気に吹っ飛ばすことができる。
親がモヤモヤして動けない時間は、子どもにとっても動いていけない時間になります。
だけれども、「一般の教科書以外にも、教科書がある」という情報を知っているだけで、先生に尋ねることができる、要望することができる、家庭で学ぶようにシフトチェンジすることができる…。
「疑問を感じる→教科書の存在を調べる」という時間を、子どもへの後押しの時間に変えることができるのです。


治している親御さん達というのは、ご自身の手と足でいろんな情報を掴み、そしてそれを基にたくさんの試行錯誤をされてきた方達だといえます。
「こんな取り組み、教え方、育み方をしたら、治った、治らなかった」という経験をたくさんされている。
そんな先輩たちが一生懸命歩んできた道、切り開いてきた道を、今の親御さん達は途中から始めることができる。
ですから、ありがたく、そこから始めればいい、と私は思います。
治している親御さん達というのは、他の子ども達が治ることも、心から喜ぶ方たち。
そして何よりも、社会が彼らが治り、活躍することを願っている。


私は、苦労も、失敗も、悩むことも、より良く生きることに繋がる意義のあることだと考えています。
でも、必要な苦労と、そうではない苦労があると思います。
親御さんが「おかしいな、特別支援って」と思うところ、理由に辿りつくまでの時間は、悩む必要のない時間。
「一生涯の支援」は、ギョーカイのセールストーク。
「社会の理解ガー」は、治せない腕を隠すためのカモフラージュ。
「自立を目指す」と言いながら、ずっと支援者がくっついてくるのは、支援者自身の愛着障害。
違和感を感じ、モヤモヤし、やっとギョーカイの仕組み、残念な特別支援へと気が付いた頃には、子どもが大きくなっている。
これはとってもモッタイナイこと。
支援者は愛着障害を持っている人が多く、支援は利用してくれることで儲かる仕組み。
これを知っていれば、不必要な苦労をしなくて済みます。


支援者との関係、特別支援との関係に悩む時間があるのなら、子どもの生きづらさが解決し、より良く育ち、治っていくための時間に使った方が良いです。
そのために、情報を得ること。
支援者が垂れ流す情報、選別されて渡してくる情報を受動的にただ受け取るのではなく。
主体的に、治っている親御さんから、治った親御さんから、子どもを幸せにする情報を掴んでいくことが、これからの子育ての姿、発達援助の姿。


同業者から、私の事業を紹介されることは、まずありません。
でも、相談、依頼してくださる方が、この地域にも、全国にもいらっしゃる。
そんな皆さんに共通するのは、「きっと子どもをより良く育てる方法がある。私がまだ見つけられていないだけで」という想いを持ち続けていること。
ある親御さんは、一年以上、いろんなところを尋ね歩いた、ネットで検索し続けた、という方がいました。
そんな姿勢を知り、私はこのご家族は治していける方達だ、と思うのです。


このブログを読んで、連絡をくださる方も少なくありません。
私は、素晴らしい実践家や親御さん、素晴らしい本も、どんどん紹介します。
私を呼ぶ前に、家庭でできることもお教えしますので、ご安心下さい(笑)
ギョーカイのように、先に選別し、自分に都合の良いような情報しか伝えない、なんてことはしませんので(ブ)

2018年11月18日日曜日

自然治癒力に期待し、沿う仕事

相談を受けた親御さんが仰っていました。
「公的な機関は、すべて行きました」と。
役所の相談窓口、保健所、児童相談所、教育相談所、支援センター、子育てセンター、学校のコーディネーター、カウンセラー・・・。
考えらえるところはすべて行き、相談されてきたそうです。
でも、誰一人、訊きたいことに答えてくれる人はいなかった、と。


親御さんは、お子さんの生きづらさを解決したかったのです。
親としての心構え、対応の仕方を知りたかったのでも、考え方を改め、悩む気持ちを抑え込む方法を知りたかったのでもありません。
親の代わりに支援をしてくれる場所、その利用手続きの仕方を知りたかったわけでもありません。
一緒に悩みを共感してくれること、そういった仲間、居場所を作りたかったわけでもありません。


子どもの生きづらさの原因を知り、そこへのアプローチを、どうやって育てていけばよいか、育んでいけばよいかが知りたい。
その想いを持ち続けた結果、私との縁が生まれました。
本人とお会いし、発達のヌケ、未発達の部分を確認。
そして、親御さんと一緒に、受精から今までの物語を紡いでいきました。
その物語を聞き、最後に親御さんは「数年間、ずっと靄がかった中を生きてきましたが、一気に晴れた気がします」と言っていました。


一回目の相談を終えたあと、次にお伺いすると、親御さんも、子どもさんも、一気に変わっていました。
間隔も短かったですし、具体的な発達援助のアイディアは1つ、2つと言ったところでした。
でも、これだけ一気に変わった。
ですから私は、このご家族には、「生きづらさには、原因がある。根っこがある。そして育てる方法がある」ということを知る、というのが、一番の望みであり、発達援助だったと思いました。


別のお子さんですが、最初の面談のとき、「ぼく、ふつうになりたいんです。ふつうになれますか?」と言ってくる子がいました。
私はすぐに、「ふつうになりたいんだ。いいね。おじちゃんが、普通になるお手伝いするよ」と返すと、ガラッと表情が変わり、子どもらしい笑顔が出るようになりました。
まるで、抑え込んでいたものが一気に飛びだしてきたみたいです。


あとから親御さんに聞いた話では、ずっと「普通になりたい」という気持ちを抑え込んできたそうです。
先生や支援者などに言うと、「普通にならなくて良い」「〇〇くんは、そのままで良いんだよ」と言われ続けてきたそうです。
そのたびに、その子は悲しい想いをしてきたとのこと。
そして初めて、普通になることを応援してくれる人、間違えじゃないと言ってくれる人と出会え、とても喜んでいたことを教えてくれました。


確かに、「普通」ってなんだろう、どういう状態を言うのだろう、と私もわかりません。
でも、その子は、その子の考える普通があり、その言葉の深くには、成長という方向へ向かって進んでいきたい、という想いが脈々と流れていたのです。
私は、その匂いを感じたので、「普通、いいじゃん!」と言ったのです。
その子の想い、エネルギー、発達が向かいたい方向へ後押しするイメージを込めて。


「普通になりたい」と言った子は、今でも感謝されるのですが、本当に私は何もしていません。
ちょっと一緒に発達に繋がる遊びをやっただけ。
その子が自分自身で「普通」に向かって進んだだけ、いや、走っていっちゃった、というのが私の感想です。
この子の場合は、普通に向かいたかった流れを解放させるお手伝いが必要だったのでしょう。


私は発達援助、相談を通して、いろんな方達とお会いしますが、このように一人ひとり、心身と発達が欲するものが違っています。
本人と家族に技術転移をする前に、治っていく人達がいるのです。
そんな姿から私は思うのです。
その人の内側に、発達、成長する力、治っていく力があるのだ、と。
その力が何らかの原因により発揮できていないから、本人は悩み、家族も悩むのだ、と。


発達、成長する力、治っていく力が発揮できない理由が、発達のヌケ、遅れである場合があります。
そのときは、見たてとアイディアをお伝えし、自分たちで育んでいけるよう教えていくのが私の仕事。
しかし、実際は発達のヌケ、遅れだけが原因なのではなく、言葉や知識など、外部から侵略してきたものにより、内側に力が留められていることもあります。
だからこそ、本人の言動には表れない本当の願いに耳を傾け、その匂いを感じられることが大事だと思います。


発達援助という仕事にはマニュアルが入る余地がありません。
一人ひとり欲するものが異なっているから。
ただ支援して、構造化して、では勤まらないのです。
その人の内側から聞こえてくる発達の鼓動、流れを掴むことが必要。
自然治癒力を信じ、沿うのが仕事だといえます。
本人が欲していない支援を提供されても、その人の心身は喜ぶはずはなく、伸びやかな発達、成長も起きるわけがないのですから。

2018年11月16日金曜日

習い事ができるようになったら、卒業!

私の援助を卒業した子と、久しぶりにお会いする機会がありました。
子どもの1年、2年はとても大きなもの。
見違える程、たくましく成長した姿から、会わなくなってからの時間に流れた本人の頑張りを感じました。


このご家族と初めてお会いしたときから、私はこう言っていました。
「〇〇くんは、社会や地域の中で育ち、成長していく子。だから、地域の資源が利用できる、社会の中でより良く成長できる段階までお手伝いします」と。
当初の親御さんの希望、依頼内容とは異なりましたが、本人と接し、本人の気持ち、可能性を確認したあと、「地域の習い事に通えるくらいまで育ったら、卒業」と決め、それに向けて発達援助を行いました。


実際に本人と関わらせてもらったのは半年もありませんが、本人も、親御さんも、私も、発達のヌケ、課題の根っこをしっかり捕まえられたという実感が得られてからというもの、加速度的に成長のスピードが高まっていきました。
まさに発達はドカン!
本人が自分の変化、自信を感じ始めたタイミングを見て、地域のイベントに参加。
いろんな子ども向けのイベントに参加するうちに、友達ができ、これをきっかけに興味が広がる。
興味が出たものに関して、個人でやっている教室があり、そこに見学→通うようになりました。
今では、苦手だった運動に関する習い事もやっているそうです。


一般の習い事に通えるようになったとき、親御さんは本当に喜ばれていました。
まさかこんな日がくるとは思わなかった、と言います。
学校では教科学習の時間10分。
親御さんが「勉強は…」と言うと、「この子達には自立できる力を養うことが大事」と、身辺面と体力面、一人で過ごせる余暇ばかりのカリキュラム。
だから、同世代の子どもと同じような姿は想像できなかった、と言っていました。


私は、「最後のところは、社会が治す」と信じています。
それは、社会に出て、働き始めると、どんどん治っていく若者たちを見てきたから。
支援者に「まだダメだ、まだダメだ」と止められていた人が、その手を振り切り、社会に飛びだしていくと、一気に治っていきました。
社会には治す力がある。
いや、「社会にこそ、治す力があるのだ」と、そういった若者たちの姿から思うようになりました。


支援者、専門家に治せる部分は、社会と比べれば、ごく限られた部分です。
私の仕事は、発達障害の人達を飼い殺しにすることではなく、発達援助なのですから、社会に飛び立つ、その手前までが役割になります。
子どもで言えば、学校の勉強ができるようになる、地域にある資源を活用できるようになる、放課後、家庭や地域で自由に遊ぶことができるようになる、まで。
これらの一つでも可能になったなら、そこは、それぞれが担っていけば良いのだと思います。
だって、子ども達の目指す先は、社会だから。


社会で暮らすこと、自分の資質を役立てていくことが、子ども、家族、社会の願いです。
だからこそ、社会に出ていけるように後押しするのが支援者の役目であり、責任になります。
社会、地域に出ていける力を育もうとしない、社会、地域で利用できるものがあるのに、そこまで支援者が手を出そうとする。
放課後、友達と遊びに行けるのに、一般の習い事に通えるのに、学習塾や家庭教師を利用できるのに、学校卒業するまで児童デイ。
社会に出ていくことが自立ではないのでしょうか。
支援者の手の中で、問題を起こさず、おとなしく立っていられるのが自立なのでしょうか。


支援者の中に、一部の親御さんの中にも、子ども達を社会から遠ざけている人達がいます。
社会に出ていってほしいはずなのに、社会資源、地域資源を活用しない、そこで学び、経験させようとしない、それを利用できるくらいまでに育てようともしない。
いつになったら支援が終わるの!?っていう支援者が多すぎる。
いつになったらお腹の中から子どもを出してあげるの!?っていう親が多すぎる。


「自立を支援する」と言っている支援者が、子どもが小学生になり、中学生になり、高校になり、大学生になっているのに、一向に支援から離れようとしない。
さらに、成人後の支援まで始めようとする。
まったくもって理解不能です。
私は仕事をしていて、いつも思います。
できるだけ早く、社会に送りだそう、と。


子どもなら、柔軟な頭と身体、より自然な心を持っている時期に、社会、地域の中でたくさんのことを感じて経験してほしい、と願います。
だって、私が援助できることは限られているから。
社会、地域の中の方が、バリエーション豊かな刺激、自然で自立につながる刺激にあふれているから。
そして何よりも、彼らの進む先、飛び立つ先、人生の舞台は、社会だから。


別の子ですが、身体の軸が育っていなく、ぐちゃっとした子がいました。
すると、療育機関で「軸を育てましょう」と取り組みが始まった。
何をするかと思えば、トランポリン。
わざわざ時間と労力と税金をかけて、トランポリン。
私は発達のヌケは育て直しますが、「軸だったら」「この子の身体を育てるんだったら」と、家庭でできる遊び、活動や、利用できる地域資源を連想します。


申し訳ないけれども、軸が育っていないからトランポリン跳ばせとけばいい、というぐらいの発想しかない療育機関だったら、地域で一般の人、子ども達に教えている習い事の先生、人達の方がよっぽど豊かなアイディアと引き出しを持っていると思います。
だから、基本的に、地域の資源、人達が担えない部分が私の担当、役割と考えています。
私と遊ぶより、友達と遊んだ方が何百倍も刺激が多いし、楽しい。
私が教えるよりも、習い事の先生、地域の人達が教えてくれることの方が何千倍も豊かな学びになる。


支援者の役割は、家庭と地域の橋渡し。
橋を渡るまでが支援者の役割。
いや、橋を自分で渡っていけるようになるまで、橋の前に立つまでが役割かもしれません。
近頃、というか、特別支援が始まってからずっと、橋を一緒に渡っていこうとする支援者、橋の前に立ち、渡らせようようとしない支援者が減らず、困ったものです。




2018年11月15日木曜日

『一般の教科書』と『特別支援学校・知的障害者用教科書』

教科書が貰えない問題に対して、多くの反響がありました。
ブログのアクセス数も多かったですし、SNSやメール等で感想や経験されたこと、各地域の実態などを教えてくださった方たちがいました。
ほとんどの方達の反応は、「あり得ない!」という驚き、怒り、呆れでした。


昨日のブログで、私は意味が通るからと思い、「教科書」と記していました。
でも、よく考えたら、「教科書」という表現だけでは、普通級の一般的な教科書だと捉える方がいると思いました。
特に、まだ就学前の子ども達の親御さんは。
実は、教科書には、一般の教科書(私達が使い、イメージする教科書)と、特別支援学校・知的障害者用教科書(通称☆本:ホシボン)があるのです。
というか、多くの人は知らないですよね。


私だって、大学の講義で存在は知りましたが、実物は見たことがありません。
学生時代は、支援学校で補助をし、施設職員時代では子ども達を学校に送り、支援学校教員として働き、そして今、家庭支援事業を行っている。
でも、一度たりとも、見たことがないのです。
そして使った、使っているという声も聞かない。
私が実物を見たのは、盲学校の拡大教科書と点字の教科書のみ。
でも、それだって、普通の教科書を拡大したり、点字にしたりしていたものですから。
ですから、私にとっては、ツチノコみたいなもの(←昭和)


ということで、教科書には、普通の教科書を分かりやすくした特別支援学校・知的障害者用教科書があるのです。
しかも、その特別な教科書は、☆の数によって難易度が異なっており、「☆」「☆☆」「☆☆☆」という具合に小学生版は3段階、つまり、3種類の教科書があります。
ちなみに、中学生版は「☆☆☆☆」の1種類。
私も、この事業を始めて、「教科書をくれない、やらない」「自分で買えと言われる」という相談を受けるようになってから調べ、びっくりしたのが正直なところ。
だって、こんなに丁寧に種類を分けて作られている教科書があるのです。
普通級の子は、選択肢がないのに。
だから、初めに思ったのが、どうしてこんなに配慮されて作られた教科書があるのに使わないんだ、しかもその存在すら見えてこないんだ、という疑問と憤りです。


改めて教科書を使わない、渡されもしない、というのは、どういうことなのか考えてみます。
まず、どの子にも教科書が渡されます。
で、違いがあるとすれば、一般の教科書か、特別な教科書かの違い。
だから、教科書自体がないはずはない。
1冊も貰っていないのに、「教科書を買われるなら、ご家庭で」というのはおかしい。
紛失か、転校か、特別な教科書をもらったうえで、一般の教科書も欲しい場合に限る。


そして、教科書を使わない授業、指導には妥当性があります。
でも、その場合、特別な理由が必要(学校教育法附則第9条)。
まずは、一般の教科書を検討。
で、子どもの実態に合わなければ、学年を下げて一般の教科書を使用する。
それも難しいなら、特別な教科書を検討。
しかも、3段階=3種類の中から合うものを探す。
しかし、それでも難しいなら、学校教育法施行規則第139条により、一般図書を教科書として使用できることになります。
でも、一部の内容しか載っていない図書はダメで、たとえば問題集などは認められていません。
つまり、問題集を買ってきて、そのプリントをやらせるだけではダメ、教科書の代わりは認めませんよ、ということ。
さらにさらに、代替にする一般図書だって、文部科学省の教科書課が「一般図書一覧」を提示しているのです。


シンプルに言ってしまえば、教科書を使わないという判断は、「お子さんには、一般の教科書はもちろんのこと、特別支援学校・知的障害者用教科書、しかも3段階、すべて適切ではない、難しい」ということ。
これって、すごく重い判断だと言えませんかね。
しかも、この重大性は、判断した教員も、親御さんも理解しているのでしょうか、説明や検討は十分にされていると言えるのでしょうか。


当地でも、私が疑問を投げかけると、「えっ、支援級は教科書使わないのが普通って言われました」なんて反応が返ってくることがあるのです。
普通って何だよ、と思います。
普通じゃなくて、異常なんです。
学校で、教科書を使わないなら、何をしているのでしょうか。


学校で勉強しているというプリントを見せてもらうと、書店で見かける問題集のコピー。
問題集をやるなら、学校に行く意味はないでしょ。
家で、問題集買ってきてやらせるのと何が違うの?
衝立、スケジュールのあるなし??
こうなってくると、学校は通う練習、思い出作りになります。
実際、教科書貰えず、教科学習なしの学校生活を送った親御さんは、そのように言っていました。
だから、私は腹をくくって、この子が自立できるために必要なことは何でも教えるし、地域の人に協力して育ててもらう、といって、見事、一般就労しました。


小学校4年生の学力の重要性から、私は教科書を改めて見直しました。
本当に大事なこと、基礎基本となることが丁寧に記されています。
だから、教科書を使わないという選択ができる教員というのは、よっぽど腕に自信があるか、よっぽどの怠けものか、でしょう。


特別支援は、どうして教員の数が多いのか、普通級よりも余裕を持たせているのか。
それは教員をラクにするためでも、働き方改革でもないはずです。
一人ひとりに合わせた細やかな教育をするためでしょ。
「私達は、一人ひとりに合わせてプリントを作っているんです」と言ってきた教員がいましたが、作るって言ってるけど、問題集をコピーしているだけじゃん。
プリントを作るって、どこをコピーするか決めることじゃないでしょ。
作るって言ったら、本人の特性、認知に合わせて、学習教材を作り、用意することじゃないの。
せめて、コピーしたプリントに色を付けるとか、コントラストをつけるとか、手を加えなよ、と思います。


教科書を使わないという重大な判断をしたのにもかかわらず、問題集のコピー。
6年間、小学校1年(上)の教科書。
6年間、ひらがな、かたかな、足し算、引き算…終了。
☆本すら使わない、注文しない、卒業式に一般の教科書6年分持ち帰る。


まさかとは思いますが、一人ひとりの実態に合わせて、特別支援学校・知的障害者用教科書を選択し、注文するのがメンドクサイから、「来年度の教科書どうします?」「別に授業で使わないから、一般の教科書に数足しといてください(笑)」みたいなことはないでしょうね。
卒業式、終業式の日に持ち返ってくる、めくられた形跡のない新品の教科書を見て、施設職員だった私も悲しかったですよ。
これが親御さんなら…。
せめて、特別支援学校用の教科書があるのなら、☆が一つのものだとしても、それを渡してほしかったし、使って勉強してほしかったですね。


「教科書がもらえない、使われない」って、支援級、支援学校にいたら、特別なように思えませんが、実は根が深い問題、特別支援教育が歩んできた十数年の課題を象徴するような話なんです。
養護学校時代なら、「あなたは情緒学級じゃなくて、養護学校ね」みたいな子どもも、支援学級を選択することもあります。
だから、学校の体制、環境上、難しいこともあると思います。
でも、そうだとしても、学ぶ権利は大事にしなければなりません。
未だに、重度の子に合わせた授業。
軽度、知的障害がない子が、お世話係ってなくならないでしょ。
この子達が大人になったら、どうなるのか。


普通に受け答えができて、働く力があるのに、「小学校の勉強がわからない!?じゃあ、福祉ね」になるでしょ。
障害や認知機能ゆえの「学力が身についていない」と特別支援教育の中で勉強してこなかった、機会がなかった、時間が足りなかったの「学力が身につていない」は全然違います。
そういった若者たちが、作業所や福祉サービスを利用することになると、ショックを受けて心身を病んでいくんです。
だから、私は「知的障害は作られる」と表現するのです。


メッセージをくださった方、本当にありがとうございました。
SNSのおかげで、一瞬にして全国の心ある方達とつながることができました。
特に、一生懸命子育てをされ、我が子を自立へと大きな後押しをされてきた親御さん達は、しっかり闘ってこられたことがわかります。
我が子の学ぶ権利と成長の機会を守るための闘い。
その一つが、ちゃんと調べ、情報を集めること。
親自体が、支援者、先生、専門家に任せっきりにするのではなく、いろんなことを見聞きし、経験をされてきた。
だからこそ、素晴らしい後押しができたし、いろんな情報をもっていらっしゃる。


ですから、若い世代の親御さん達は知ることが大事です。
教科書には、一般の教科書と、特別支援学校・知的障害者用教科書がある。
しかも、☆の数で難易度が異なる。
親御さん達が情報、知識を持つことが、我が子を守り、より良い教育を作っていくのだと思います。

2018年11月14日水曜日

学校に教科書がないわけはない

公立の小学校、中学校の教科書は無償です。
無償の教科書を、「支援学級の子だから」ということで、最初から数に入れない、購入しないということはないでしょう。
特にこのご時世、「障害があるから、その子たちの分は購入しませんでした」なんてことはあり得ないし、教育委員会もツッコミを入れられるようなリスクは取らないはず。
ということで、子どもに教科書が渡されない、というのはおかしいですね。


学校教育法附則第9条には、特別支援学校、支援学級において、適切な教科書がないなど、特別な場合には定められた教科書以外の使用が許されることもある、と記されています。
教科書を使わなくても良い教育と、「教科書を購入しない」「教科書は必要ない」は別の話だと思います。
実際のところ、教科書を使わない学校もありますが、教科書自体はある、というのがほとんどのはず。
施設で働いていたとき、支援学校に通っていた子ども達も教科書ありましたもん。
毎年、卒業式の日に、1ページもめくられていないままの教科書6年分、持って帰ってきてましたから。


「教科書をくれない」という話は、当地の相談でよく聞きます。
いやいや、教科書使わないんだったら、何を勉強しているのって訊いたら、当地御自慢の構造化支援。
ブースの中で、ワークシステムを使い、簡単な計算、文字のプリントをやる。
いやいや、より良く学ぶための構造化された支援なのに、構造化された支援を使うことメインじゃん、6年間、ひらがな、足し算引き算でおしまいですかってことも。


どうして教科書をくれないのか尋ねると、「知的障害があるから」「発達障害があるから」と返ってきます。
知的障害も、発達障害も、教科書で学べない根拠にはなりませんね。
中には、教科書で学ぶことが難しい子もいるでしょうが、支援級にいる子全員が、ということはないでしょう。
教科書で学べる子もいれば、教科書以外で学んだ方が良い子もいる。
それが普通です。


教科書をくれない、使わないという学校とはやりあってきましたが、明確な根拠を述べられるところはありませんでしたね。
先ほど述べたように、「障害があるから」の一点張り。
で、そういうところに共通してみられるのが、教科書を使っている子がいない、ということ。
教科書で勉強できる子、勉強した方が良い子もいるのに、その子すら使っていない。
つまり、これって予防線を張っているということ。
一言で言えば、教師の怠慢。


クラスに教科書を使っている子が一人でもいれば、「うちの子も」と当然なる。
そういった声を封じるためにも、みんな使わない。
で、そんな本音は言えないから、「教科書よりも」とか、「障害があるから」とか言っているだけ。
結局、めんどくさいんでしょ、こっちで教科書、こっちでプリントが、こっちで身辺スキルが。


特別支援教育とは、個々がより良い学びができるよう保障するものだったはずです。
じゃあ、みんながいる教室内では刺激が多くて勉強ができない子のニーズは?
少人数で刺激のない環境だと、しっかり学ぶことができる子のニーズは?
そういった子が支援学級に在籍していて、もし「うちのクラスは教科書を使いません」という教師が担任をしたら…。
実際、教科書を配られない学校があり、教科書で学べる力を持った子達も、衝立の中で簡単なプリントをやって、あとは自由時間みたいなことが起きているのです。


「教科書を渡されない」という出来事は、「教科書がない」のではなく、「渡さない人がいる」ということでしょう。
前例主義だから、前年度の担任が使わなかった教科書を持ちだすのは、同僚、管理職、親たちを刺激するからひっこめる。
大学の同級生たちもよく言っていました、「はりきって頑張ろうとすると、新しいことをすると、横やりが入る」と。
でも、そう言っていた同級生たちも、しっかり染まって、「どうせ足を引っ張られるだけだから、何もしない。前年度通り」となっている。
で、結局、そういった同級生たちも中堅になり、若手の足を引っ張るようになる、自分が頑張っていないのがバレるから。
こうやって文化は引き継がれる。


まあ、話を戻すと、学校に届いているはずの教科書を、子どもに、家庭に配っていないだけ。
将来の自立のため、いろんなリスクを減らす要因として、小学校4年生レベルの学力を身につける、というのは有名な話。
その大事な学びの教科書を配られない、使おうとしないっていうのは、それだけで大変な選択をしているということになります。
大袈裟に言えば、子どもの将来を左右しかねない選択を本人でも、家族でもない人間がやっちゃっている、というのが現状です。
しかも、その人間は、大人になった子どもを見るわけでも、保護するわけでも、食べさせてくれるわけでもない。
私が一番憤りを覚えるのは、ここ。
安易に、「教科書使わない」「プリントで学習するから必要ない」「勉強よりも、生活スキル、社会性」などと言うのが許せません。


いま、教科書が使えない、理解できないのなら、それができるように育てなよ、と思います。
無償だから、配られるものだから、使わなくても良いことが認められているから、そんな気持ちで教科書を棚の奥にしまっているように感じてしまうのです。
教科書を貰えない親の気持ちを想像したことがあるのか。
もし自分の子が、全国の子ども達、元子ども達が学び、身に付けている教科書で学ぶことを認められなかったら、それを「はい、わかりました」といえるのだろうか。
私にも子どもがいるが、ちゃんとまずは教科書の内容をしっかり身に付けて欲しい、と願っている。


教科書の問題の本質は、教師の怠慢だと思います。
一人ひとりに合わせた学びを提供できない怠慢。
子どもの将来を左右しかねない判断をしていることに気が付いていない怠慢。
就学時に出された知能検査、診断名のまま、6年間、3年間を過ごさせる怠慢。
親御さんに、教科書を使わない理由をきちんと説明できない怠慢、合意形成ができるようコミュニケーションを取らない怠慢。
教科書を使うよりも、子どもがより良く成長した、という実感を持たせられない怠慢。


私は特別支援教育に期待していたし、否定しない。
でも、こういったことが起きると、どうしても「支援学級がいいですよ」とは言えなくなる。
だから私は、支援級在籍の子は普通級で学べるよう後押しするし、最初から普通級に行ける可能性がある子は、そちらを勧めます。


こうやって教師の怠慢と結論付けた私ではありますが、親の方にも怠慢があると思います。
それは「教科書が欲しい」と訴えた親御さんではなく、「支援級だから仕方ないよね」「問題起こさず、楽しく学校に行ってくれればいい」と声に出してこなかった親御さん。
再三言いますが、小学校4年生の学力が大事なのです。
もしその学力が身についていなかったら、あとから自分で学び直さないといけないのです。
学校に通っていた9年間、12年間で身につかなかった学力は、いつだれが教えていくのでしょうか。
学校卒業後、自立できないのは、障害だけのせいでしょうか、本人の問題だけでしょうか。
ですから、みなさん、もっと教科書にこだわった方が良いと思います、声を挙げるべきだと思います。


特別支援教育から漂っている怠慢の空気は、親御さんが作っている部分もあると思います。
期待外れの特別支援教育ではなく、子ども達が一人ひとりに合った教育の場に変えるのは、親御さんと社会の声です。

「頑張ったから」ではなく、適応を望まない心身が『二次障害』という表現をしているのだ

私が出会ってきた人達の中に、頑張ったために心身を病んだという人はいなかった。
心身を病んだ人というのは、むしろ、頑張ることを止められた人達。
「頑張りたいけれども、頑張れない。頑張らせてくれない」という叫びが心を蝕み、向かう場所を失ったエネルギーが身体を滅ぼしていく。


おぎゃあと生まれた瞬間から、いや、精子と卵子が出会った瞬間から、ヒトはより良い次の瞬間を求めて歩み続ける。
細胞を分化させ、神経を伸ばし、環境に適応するための身体を作り上げていく。
環境に適応できるというのは、より良く生きることに繋がる。
より良く生きるために、環境からの刺激を受け取れる感覚器を育み、対応できる動き、身体を育む。
受精した瞬間から命が尽きるその瞬間まで、より良く環境へ適応しようと、ヒトは進化、発達、成長を続ける。


「頑張る」というのは、本来、心と身体が同じ方向を向く、とても心地良いことである。
「〇〇ができるようになりたい」
「この目標を達成したい」
これらも、高度な環境適応といえる。
頭で思い描いた目標、理想という環境へ、身体を適応させていく。
絶えまなく続く身体の進化に、心が一致する瞬間。
頑張ることは、心地良い。
頑張ることは、心身を一致させ、伸びやかな発達、成長を促す。
だから、頑張ることで心身が病むことはあり得ないのである。


支援者は「頑張ると、二次障害になる」と言う。
支援を受けさせるための脅し文句として使っている者もいれば、本当に信じて疑わない者もいる。
信じて疑わない者は、先人から与えられたフィルターを通して、心身を病む当事者を見たに違いない。
「ああ、やっぱり、頑張ると二次障害になる」


しかし、現実は違う。
ただの偏見、ただの解釈の誤りである。
頑張ったから二次障害になったのではなく、その人は頑張れなかったから、心身を病んだのだ。
環境に適応できなかったから、心身を病んだのだ。
ヒトは頑張って進化を求める動物であると同時に、適応を目指す動物でもある。
だから、頑張ろうとしているのを止められると、身体を病む。
だから、適応したくない環境に適応し始めると、心を病む。


「普通になりたい」と子どもが言う。
「仕事して自立したい」と若者が言う。
すると、「普通になんかならなくて良い」「一般の仕事しても続かないし、あなたには支援を受けて生きる方が合っている」と制止が入る。


自分が心地良く描いた目標、理想の環境へ向かうことを止められる。
つまり、環境適応を人為的に止められるということである。
心身が一致して、環境適応を目指し動き出している。
心は、支援者からの言葉で抑え込められる。
しかし、すでに動き出している身体、エネルギーはどうだろうか。
せっかく一致していた心身が離れ、身体だけが動き続ける。
行き場を失ったエネルギーが、自傷、他害、パニックという形で消耗される。


普通になりたい子どもが、特別支援の中に入れられると、心を病む。
働いて自立したい若者が、福祉の中で頑張らなくてもできる仕事をすると、心を病む。
頑張らなくて良い環境の方が、心を病ませる。
何故なら、身体が適応を始めてしまうから。


長く特別支援の中にいた子どもは、特別支援適応を始める。
長く福祉の世界にいた若者は、福祉適応を始める。
「自分の居場所はここじゃない」と思い続けても、長らく特殊な環境にいると、身体の方が先に適応を始めてしまう。
心は望んでいないが、身体が適応してしまっている状態。


「私には支援が必要です」「一般就労は無理です」「社会の理解があれば」と言い、言葉通りの環境に身を置いているのにも関わらず、心が晴れず、ついには病んでしまっていく人達。
その人達は、ただ言葉で心を押し込めているだけで、本当は心の中でこの環境に適応することを拒否している。
動かしたい身体が動かない。
まさに鳥かごの中にいるような心は、変わらない風景を眺め、寒々しく凍えていく。


主体性のある頑張りの機会が奪われると、心身を病む。
主体性を奪われた頑張りを強要されると、心身を病む。
本来、主体的な頑張りは、心身を解放させ、伸びやかな発達、成長へと繋がっていくのだ。
「頑張ると二次障害」の実情は、主体性を奪われた環境に対する抵抗と、「適応できず」という自然治癒力の表れである。

2018年11月13日火曜日

「選ばせない」じゃなくて、「選ばれよう」でしょ

「てらっこ塾を利用するな」「あんな、おかしい人間の支援なんか受けるな、相談するな」「治るなんて、詐欺に決まっている」と、支援者たちが言うのは、何とも思いません。


「あなたの子は、一生涯支援が必要です」
「頑張らせると、二次障害になりますよ」
「普通級には行けません。良くて支援級です」
「知的障害がなくなることはありませんよ」


そんな風に言われていた子ども達、若者たちが、次々、予言を覆し、勉強ができるようになり、姿勢や動きが自由にできるようになる。
一般の高校に入り、一般就労し、支援がなくても、自分の力で生活ができるようになる。


縁日のくじみたいに、年齢や症状、知的障害の有無に関わらず、みんなスケジュール、みんな衝立、困ったらSSTと出てくる景品は同じもの。
そして、本人に変化が見られないと、「社会ガー」と十八番の責任転嫁。
これじゃあ、「利用するな」と言うくらいしかできないでしょう。


支援者たちが、そのように言うのはわかります。
自分達を守るために仕事をしている人達だから。
でも、学校の先生はそうじゃないでしょ。


「利用するな」は、学校の先生から言われることもあります。
もちろん、直接ではなく、利用してくださっている親御さんに対して。
でも、放課後、しかも親御さんの意思で利用しているものに、どんな権限があって、教員がモノ申すのか。
だって、家庭で習い事していて、それに対して、担任が「止めた方が良い」なんて言ってこないでしょ。
「あの塾、やめてください」「野球クラブは止めた方が良いですよ」なんて言わないでしょ、普通。


来年度を見据えた時期的なものもあるのでしょう。
止めた方が良い、という理由が、「本人が頑張りすぎていると思うから」
意味不明ですね。
本人の成長は認めるが、頑張りすぎているように感じるから、利用しない方がいい。
この言葉を教員の口から聞くと、悲しさは倍増しますね。


教員って、子どもの成長を願い、そしてそれを心から喜ぶ人達ではないのでしょうか。
たとえ、塾や放課後の習い事だったとしても、子どもが成長していく姿を見て、一緒に喜ぶのが教員じゃないのでしょうか。
身体面からのアプローチ、言葉以前のアプローチで、授業をしっかり聞けるようになり、成績が上がり、支援級へと言っていた子が、普通級で堂々と学校生活が送れるようになった。
良い方向へ予想が外れたなら良かったでしょ。


結局、「田舎特有の公務員偉いんだぞ、民間よりも」と、自分たちが何年もかけて解決できなかった問題を、家庭での取り組みで解決してしまったから面白くないだけ。
なんとかコーディネーターは、学校内で権限があるのかもしれないけれど、民間人の私からしたら、どっかの知らないオヤジ、オバサンです。
私が提案したことに、家庭と一緒に取り組んだことに納得ができないのなら、「こっちの方が、良いアイディアです。取り組みです」と持ってくればいいだけのこと。
それができずに、ただ「止めた方が良い」「本人が頑張りすぎているから」なんて言うだけでは、社会人として相手にされませんね。


恨むのなら、自分たちの腕を恨んだ方が良い。
元はと言えば、ずっと必要だと言われ、受け続けてきた支援が、本人により良い変化をもたらさなかったのが問題の発端。
だから、私に依頼が来た。
しかも、本人は成長し、自ら「僕は支援はいらない。必要なのは運動とトレーニング。みんなと同じようにできるようになりたい」と意思表示している。


本人が受けたくない、必要ではないと言っているものを、「いいや、受けた方が良い」と言い続けるのは、たとえ子どもであっても、本人の意思をないがしろにすることであり、自由と権利を侵害しているといえます。
配慮や支援を求める主体は、学校の先生でも、専門家でもありません。
そこをはき違えている支援者が何と多いことか。
「あなたは支援が必要」は、他人の主観。
本人がいらないと言っている支援を押しつけるのは、人権侵害。


商売がたきがブーブー言うのは想定内。
言いたいヤツが勝手に言っていればいいだけだし、喧嘩は腕でするもの。
私のところを利用してほしくないのなら、自分たちが金太郎飴の支援から脱却し、 過去の先進地域を捨て去り、より良い支援、援助を学び、選ばれるようにすれば良いだけの話。
結局、早期から診断を受けようとも、療育を受けようとも、構造化しようとも、自立しないし、一生涯の支援だったら、今の親御さん達は別の道を探します。
一生涯支援を受け続けるか、発達のヌケや未発達の部分を探し、そこを育て直して自立を目指すのか。


こういった閉鎖的で、未だに数十年前の先進地域の幻影で支援している地域で事業を起ち上げたのは、別のアプローチを提示することで、お互い喧嘩して、切磋琢磨できたら、結果的に地域のためになると思ったから。
でも、相変わらず、「こんな良い支援があるぞ」という話ではなく、ただの悪口、妨害だけ。
ホント、レベルが低い。
しかも、上記のような学校の中からも、子どもの成長よりも、自分たちが主導権を握りたい、自分たちの教育が認められたい、という足の引っ張りがくる。


函館は住みやすいところで、海も山もあって食べ物が美味しく、好きな場所だけど、なんかがっかりすることばかり。
ちゃんとケンカすらできない。
子どもや家族を中心に討論ができない。
発達障害の人達が公共事業みたいになっている。
冬は雪が降って、外でランニングできないし、もともと暑いところの人間だから、南下したいな、なんて思うこともありますね。
仕事も、相談も、道外が増えたし、一年中走れるところで仕事を探そうかな。
満平さん、雇ってくれないかな。

2018年11月11日日曜日

我が子と一緒に歩む道は、どこか懐かしさを感じるもの

虫歯ではなく、麻酔をかけるわけでもなく、歯垢を取るだけなのに、どうしてこんなにも通わないといけないのでしょうかね。
100歩譲って、上の歯と下の歯で2回に分けるならまだしも、上の歯を3回に分け、下の歯を3回に分ける。
どうして一気にできないのか尋ねると、「歯に負担がー」と、それ以上、ツッコミを入れさせませんよ、というような定型文が返ってくる。


歯の負担というけれども、通う方の負担はどうでも良いのか。
結局、「患者さんのために」と言いながら、回数を稼ぎたいだけでしょ、と思ってしまう。
自営業だから、なんとでもなる、時間の融通が利く、と思っているのかもしれませんが、自営業は働いてナンボの世界。
働かない時間は、無収入。
だから、毎日、せっせと働いています。


訪問するお宅が、函館だろうが、泊りがけで伺う場所だろうが、一発勝負と思って仕事をしています。
発達のヌケを探り、その子の物語を完成させる。
発達のヌケの育て直し方と、そのご家庭の雰囲気、流れにあった育み方を提案する。
限られた時間で、これらすべてをやりぬくことが、私に依頼してくれた方への誠意だと思っていますし、子どもの貴重な発達の時間を守ることだと考えています。
なので、「上の歯、三本でおしまい。また来週」みたいな支援を見ると、つまんない商売してんじゃねーよ、と思ってしまいます。


お金は後からでも稼げばいいですが、時間というのは後からどうしようもありません。
ですから、私が帰ったあとから、すぐに本人が、家族が動き出せる形まで持っていく必要があります。
いや、理想で言えば、一緒にお話しし、考えている最中から、本人、家族の意識や気持ち、雰囲気が動き出している状態です。


私が確認し、見たて、提案する。
それを本人、家族が受け取り、「はい、ありがとうございました」では、つまらんのです。
私はきっかけの一つであり、本人と家族がより良い未来に向かって歩みだす後押しの一つにすぎません。
私がいくら限られた時間の中で、一つの形を作ったとしても、動きが生じなければ意味がないのです。
そういった意味で、私自身が問われます。
家族の流れに沿った発達援助ができているか、を。


家族の流れに沿いながら仕事ができていると感じられるのは、親御さんから次のような言葉が聞かれたときです。
「そういえば、自分も、子どもの頃、そうだった」
「この子の〇〇というところは、自分にそっくりなのかもしれない」
話題の中心は子どもさん。
でも、子どもを通して、過去の自分を呼び起こし、そして自分と子どもが繋がりを見せる。
その瞬間、「今日は良い仕事ができた」と感じることができるのです。


発達障害の子は突然変異で生まれてくるわけではなく、天使が「あなたのおうちに決めた」と連れてくるわけでもなく、両親から資質や特徴を受け継ぎ、生まれてくるもの。
ですから、我が子と自分の繋がりを感じることが重要です。
特に、自立した人に育てるためには。


鹿児島の神田橋先生がおっしゃられているように、親が仕事をし、結婚して、子どもを授かれているのだから、子どももそれくらいにはなれるだろう、というのがあります。
つまり、親御さんの人生の中に、子どもさんをよりよく育て、自立まで後押しできるヒントがある、ということです。
それが子ども時代、熱中したことかもしれない。
それが両親の育て方だったのかもしれない。
それが、誰々との縁であり、育った環境なのかもしれない。
その辿ってきた道に、今、親として自立し、子どもをもうけ、家族を形成している理由があるはずです。
似た遺伝子を持った自分がある意味で治り、資質を開花させられた理由が。


私が発達のヌケを確認し、その子の物語を紡ぎ、具体的な発達援助を形作る。
そこには面白みがないのです。
でも、そこに親子の繋がりが生まれると、一気に発達援助が躍動し始め、その家族ゆえの発達援助が彩られます。
そうなると、私が同じ空間にいても、家族が揃ってより良い未来へと動き始める。
支援者などという他人を介さずとも、家族の力で歩んでいける、進んでいけるのが理想であり、自然な姿だと思います。


ただ口を開けて、やられるがまま、言われるままの治療は、面白くも何ともありません。
しかも、その本人の力を引き出すことも、育てることもない。
だから、与える、与えられるの発達援助はつまらないのです。


発達援助は、子どもの力を引き出すことが肝心です。
しかし、同時に親御さんの力を引き出すことも大事。
その大事な親御さんの力とは、自分の歩んできた道から、素晴らしいアイディアとエッセンスを抜き取ること。
そのためには、我が子と自分の発達が繋がることが必要です。
私が作ったものを土台にし、家族が彩り豊かに仕上げていく。
気が付いたら、家族の自分たちだけで治る道を歩き始めているのが理想です。


我が子と一緒に進む道は、どこか懐かしさを感じるはずです。
だって、親の自分が辿ってきた道と、どこかでつながっているから。

2018年11月10日土曜日

親が治るから子も治る、子が治るから親も治る

エビデンスにこだわる人というのは、エビデンス以外の世界を想像できない人なのだと思います。
エビデンスに忠実というよりは、エビデンスのような記号的で、揺らぎや想像、解釈の余地がないものに、すがらざるを得ない脳みその持ち主なのでしょう。
そういった意味で、その人自体が実生活の中で生きづらさを抱えている。


ましてや、子育てといった原理原則が存在せず、余白こそが主戦場となる営みに対し、恐怖すら感じているかもしれません。
ですから、子どもの発達、成長よりも、子どもの健康、幸せよりも、エビデンスを取る。
いや、取るしか選択肢がないのです。
エビデンスの外を想像できないから。
揺らぎや想像、解釈といった流動的なものが脳内に侵入してくるのを防ぐために。


目の前にいる我が子よりも、どっかの誰かが唱えたエビデンスを取る、ということは、その親自身、発達障害を持った人だと想像できます。
当然、親の特徴は子どもに遺伝しますから、子どもが発達障害の場合、親にもその要素が大なり小なりあるといえます。
なので、エビデンスしか信じられないというような特徴が前面に押し出ている人以外でも、何かしら発達の課題を持って生きていると考えられます。


エビデンス原理主義のような極端に特徴が出てしまっている場合は、自ら治す方向へと踏みだすことはできませんし、もし踏みだしたとしても、治るまで歩き続けることはできないでしょう。
当然、子どもは治らない。
しかし、こういった極端な家庭でなくとも、発達障害を持つ子の親御さんは、自身の発達と向き合い、治していくことが重要です。
何故なら、治るとは親子の協働作業だからです。


発達障害が治るには、子どものみが頑張れば良いのではありません。
子どものみが発達援助を受け、それで治っていく、という話は聞きません。
親御さん自身が、自分の発達の課題と向き合い、治そうとする、治っていく。
そうすることで、子どもが治っていく。


子どもの発達に注目することで、自分の発達の課題に気が付く。
子どもの発達を促す試行錯誤が、自分の発達を育て直すアイディアへと繋がる。
ですから、子どもが治ると、親も治る。
親が治ると、子どもが治る。
このような歯車が回りだすと、家族が一緒に治るまで到達するのです。


親御さん自身に発達障害があり、生きづらさを抱えたままですと、治り切るまで踏ん張れないのです。
子どもの視点の想像、子どもの未来の想像。
より良い遊び、関わり方、刺激、環境の創造。
考え、実行し、反省し、修正と工夫を繰り返す試行錯誤。
目に見える変化が見えなくとも、発達の鼓動を感じ、より良い未来の姿を脳裏に映し出すことができること。
課題を持ち続けたままですと、これらのどこかに支障が出るものです。


親御さん自身が、自分の発達障害を強く意識し、それと向き合ってきた人ほど、子どもは治っているように感じます。
もちろん、似たような感覚を持っているからこそ、分かり合え、より良い営みへとつながっている、とも考えられます。
しかし、それよりも、「私が治ったんだから、我が子も治る」というような実感があり、揺らぎない信念があるようにも感じます。


親御さん自身が、自分の発達障害を治してきた人は強い。
エビデンスなどといった記号にすがることなく、揺らぎの世界へと突き進むことができる。
それは、ご自身の中に信念があるから。
我が子を治すための想像と創造、試行錯誤とやり切れるためだけではなく、こういった揺るぎない信念を持つためにも、親御さん自身、発達障害を治した方が良いと思います。


子どもだけ治ることは珍しい。
「親が治るから子も治る、子が治るから親も治る」
子育ての本質は、身体を使った対話であり、親子の交流ですから、これは当然で自然な姿だといえますね。

2018年11月9日金曜日

「できない現実」と「できるはず」の狭間に生きづらさが存在する

私はいつも「この子の、この家族の未来が少しでも良くなってほしい」と想い、仕事をしています。
実際に子どもと関わるときも、親御さんと発達援助の方法を考えるときも、いただいたメールに返信するときも。
「ちょっぴり成長できたな」「こうして子育てしていけばいいんだな」「気持ちがすっきりした」「少し元気が出た」
受け取り方は人それぞれでも、何か前に進む力の一つになれれば、私は嬉しく思います。


発達障害の方達と接していると、皆さん、治りたいという想いを持った人達なんだと感じます。
身体、機能障害の方達とは異なり、なんとなく、漠然とした、言葉で表せないような違和感や生きづらさを抱えている。
その掴めそうで掴めない、見えそうで見えない存在から解放されたいという想いをひしひしと感じます。
ですから、現状維持や保護された環境に身を置くと、皆さん、どんどん病んでいくのだと思います。


親御さんの中には、今はしゃべらないけれども、知的障害があると判定されたけれども、コミュニケーションが成立していないけれども、「この子は、ちゃんと理解していると思う」「この子は、普通級で学んでいける」などとおっしゃる方達がいて、十中八九正しかったりします。
こういった親御さん達は、感じることができています。
我が子の漠然とした違和感と、治る未来を。


生きづらさとは、感覚的なもの。
もちろん、何かができない、うまくいかないという行動の結果から生きづらさを感じます。
しかし、単に「〇〇ができない」のではなく、「〇〇ができると思えるんだけれど、できない」というギャップ、違和感に生きづらさを感じているのだと思います。
だからこそ、支援が一番に向かう先は、本人の気持ちであり、違和感からの解放。


治りたい本人がいて、治したい親がいる。
なので、その気持ちに添うのが支援というもの。
「少し治ったな」「一歩でも、治る方向へ進んだな」
そんな感覚を得られることが、支援の存在意義だといえます。


世の中に、治る人も、治る知見も、増えてきました。
それを見て、必死になって治そうとする人も出てきました。
しかし、中には気持ちを横に置いた、発達援助をされている人がいるような気がします。
発達援助と名を変えた行動変容。
「ここに発達のヌケがあるから、こういった動きを続けよう」
「腰を育てる遊びをどんどんしよう」


治るには、対話が必要です。
子どもの場合は、親子の対話であり、大人の場合は、自分の心、身体との対話です。
対話があるから、自らの発達、成長を、そして心地良さを感じられ、より良いアイディアへと発展していけます。
対話は言葉ではなく、心を介した交流。
心の声を聞かずして、本当の発達援助は行えないと思います。


周囲から見れば、その子の「できない」「困った」をどうにかしようとするもの。
でも、その子の生きづらさに心を傾けることも大事だと思います。
「どうして生きづらさを感じているのだろう?」
「何がクリアされれば、生きづらさから解放されるだろう?」
そういった問いを持ち続けることも必要です。
すると、ただの行動変容ではなく、ただのトレーニングではなく、発達援助になります。


生きづらさの正体である「できない現実」と「できるはず」のギャップ、ズレ。
そのズレこそ、本人の生の声であり、その人の発達が向かいたい先。
発達を援助するとは、その人の気持ちと発達が向かいたい方向へと後押しすることをいう、と私は考えています。


世の中に、より良い未来を願わない人はいません。
特に発達障害の方達の一番の願いは、物質的なものより、違和感からの解放であり、治ること。
そのために私は、気持ちが前に向かうこと、治るに近づいた感覚を得られることを願う言葉、行動、雰囲気を選んでいます。

2018年11月2日金曜日

「見えないものは、ない」は障害特性?先天的な障害?活かすべきもの?

「見えないものは、ない」というのは、自閉症、発達障害の人達に多く見られることです。
ですから、「想像力の障害」という言葉で片づけられ、それが障害特性で、それこそ、変わらない部分で、支援や配慮が必要なものとして捉えられます。
でも、本当にそうなのでしょうか。


「見えないものは、ない」人達と接して感じるのは、情報処理の問題ということです。
定型発達と言われる私達だって、見えていないものは、どう頑張っても見えません。
でも、この部分において日常生活での問題にならないのは、見えないものを想像して補っているからです。


じゃあ、どうやって見えないものを想像しているのかといったら、複数の情報を同じテーブルの上に乗せ、過去の経験や体感などを駆使し、「多分、こうだろう」と想像している。
で、もちろん、外れることもあるが、想像はだいたい合っている。
だから、見えるものと、見えていないものを総合しながら、人と付き合ったり、仕事をしたり、生活したりしている。
ちなみに、子どもが面白い、突拍子もない想像をするのは、まだ経験が少ないのと、複数の情報を同時に処理する力が育っていないなど、まだ脳(特に大脳皮質、前頭前野)が育つ過程だから。


自閉症、発達障害の人達は、定型発達と情報処理の仕方が異なると言われます。
確かに、情報処理の仕方が違うな、というのは、この「見えないものは、ない」からも感じますが、それは独特な情報処理の仕方を持って生まれたというよりは、成長の過程の中で作られた処理形式、脳の使い方のようにも思えます。


例えば、感覚面に発達の遅れ、未発達があれば、特に視覚情報などの偏った情報しか入ってこなくなって、視覚に頼った情報処理の仕方ができてしまう。
例えば、爬虫類の脳や哺乳類の脳など、脳の表面よりも深い部位に発達のヌケや遅れがあれば、ヒトの脳の部位に発達の遅れが見られ、結果的にいろんな情報を整理、統合することが難しくなってしまう。


よく「自閉症の人は視覚的な情報処理が得意なので、その得意なことを活かしましょう」などと言われます。
でも、本当に得意なことで、生きていく上で武器となるような特性だとしたら、世の中の自閉症の人達はこんなに困っていないはず。
だから、得意と言うよりは、仕方なく、そうなるしかなかったというのが本当のところだと思います。
視覚以外の部分が平均くらいで、視覚的な情報処理が飛び抜けて優れているのならわかりますが、総合的に見れば、偏りであり、偏りによって作られた情報処理の仕方じゃないですかね。


受精後4ヶ月くらいで眼ができ、開くのが6ヶ月くらいから。
しかし、器官ができても、神経と繋がって情報処理ができるようになるためには刺激が必要。
ということは、やっぱり生まれつきじゃない、出生後の発達過程で作られていくもの。
だから、「活かす」というよりは、活かさざるを得ないというのが事実であって、そうだったら、偏りの根っこにあたる未発達、遅れのある部分を育てましょ、という方が良いと思います。


「見えないものは、ない」という人が、まったく見えないものを想像できないか、と言ったら、そうではありません。
見えなくても、想像できることもある。
想像するために持ってくる情報は少ないかもしれないが、そこから考えて、導き出すことができる。


「見えないものは、ない」という人は、「見えるものがすべて」という人であり、見えた情報のみで想像してしまう人ともいえます。
当然、生きている世界が狭いし、想像が妄想になりやすい。
なので、根っこからの解決じゃないけれども、経験することが何よりも大切。
経験することで、現実と想像のギャップを埋めることができる。
経験することで、情報が増え、妥当な想像ができることにつながっていく。
経験することで、妄想から想像へ発達させることができる。


「見えないものは、ない」というのは、障害特性でもなんでもなく、誕生後、偏った刺激の中で育まれた情報処理の仕方。
もちろん、特異な情報処理がとっても優れたものなら武器にして活かした方が良いけれども、ほかの部分に発達の遅れや未発達があるのなら、そちらを育ててからじゃなければ、本当の武器にはならないし、それを活かして、より良い人生を歩むことはできません。
結局、想像するとき、テーブルの上に乗せる情報が少ないということ。
そのため、見えていないものを想像する力が弱かったり、独りよがりの想像、妄想になりやすい。


想像するために必要な情報を、より多くテーブルの上に乗せるためには、身体、感覚面の発達のヌケ、遅れを育て直し、いろんな感覚、身体全部を使って情報を受け取れるようにすること。
同時に、こういった育て直しは、脳の深部を育てることになるので、ここが埋まりだすと、脳の表面、ヒトの脳の部分に広がりが出てくる。
そうなれば、想像するための材料を置くテーブルのスペース自体が広くなるし、いろんな情報を整理して見やすく置けるようにもなる。


そして、対処療法としては、経験すること。
経験すれば、自分の想像の正しさ加減がわかるし、次の想像の材料を増やすことにもなる。
だから、「視覚的な強みを活かして」などと言って、どんどん視覚情報を与え、どんどんそれ以外の情報を制限し、どんどん偏らせちゃダメ。
一般的な感覚として、一日中、眼ばっかり使っていたら疲れるでしょ、耳ばっかり使っていたら疲れるでしょ。
いろんな感覚、身体全体を使って処理しているから、私達は自然な生活を営むことができるのです。
こうやって改めて「見えないものは、ない」を考えてみると、想像力自体に問題があるのは、支援者の方かもしれませんね(ブ)

2018年11月1日木曜日

流れを大切にした仕事をしたいから、アンケートは作りません

新規や出張支援を利用される方から、「事前に記入しておくアンケートはありますか?」と尋ねられることがあります。
療育機関や相談事業所などでは、そういったアンケートの記入が一般的なのでしょう。
でも、うちにはアンケートはありませんし、今後も作るつもりはありません。
だって、実際にお会いするから。
だって、一緒に作り上げていこうと思っているから。


アンケートとは、効率化の象徴のように思えます。
事前に情報を集めておくことで、ポイントを絞って準備ができるし、支援ができる。
より少ない労力で、その時間を収め、次から次へとさばいていく。
労力は少なく、利益は多く。
もちろん、効率的に仕事をするのは当たり前のことだと思いますが、療育に、いや、人を育てるのに、この考え方はそぐわないと思います。


きちっとしたアンケートが渡されると、記入する方は「ちゃんとやってくれる事業所だ」「事前に聞いてくれるなんて熱心だ」というように感じる方もいると思います。
しかし、私はそうは思いません。
「あなたの声を聞きますよ」と言っているようで、枠が決められているから。
「自由になんでも」と言いながらも、誘導している主は、本人でもないし、親御さんでもない。
子育てに効率化が侵入するのも悲しいですが、知らず知らずのうちに支援する側と支援される側の関係が出来上がっているのも悲しいといえます。


アンケートを書いてもらった支援者側は、どうやって、それを利用するのか、支援に繋げるのか、私にはわかりません。
と言いますか、私はアンケートを貰っても、そこから支援を組み立てていくことはできません。
何故なら、アンケートとは切り抜きだから。
その子のある部分の切り抜きであり、親御さんの見立て、想いの切り抜きであり、時間の切り抜きです。


アンケートに、我が子のすべてを記入することはできません。
また記入を求められた部分が、その子の発達のヌケ、課題の根っこであるとも限りません。
アンケートとは、作った人の視点が入るもの。
やりたい支援、得意な支援に引っかかる部分が項目になっていることもあります。
ですから、人為的な切り取りになってしまい、本当にその子が必要な援助が届かないこともあるのです。


それに、アンケートを書いた時点と受け取った時点、実際に支援する時点は、すべて別の時間になります。
時間は常に流れているものなのですから、アンケートに書かれたその子と、実際に目の前にいる子は別の人。
大事なのは、目の前のいるその子を基点とし、過去と未来を流れで見ることです。
アンケートという過去を基点とした支援を始めようとすると、ズレが生じるもの。
その子の流れ、発達の流れをしっかり掴めないと支援はできません。


私に天才的な腕があり、治す力があるのなら、次々に治していくためにアンケートがあった方が良いと思います。
でも、私にはその才も、腕もない。
だから、一生懸命、お話を聞いて、一緒に発達のヌケ、課題を探そうと思っています。
そして、本人と家族が主となり、どうやって発達の後押しをしていくか、より良い育みを行っていくかを考える補助ができれば、と考えています。


治すのは、本人であり、家族です。
だから、本人、家族の生の声が重要なのです。
その生きた声には、単に情報だけではなく、想いや願い、それぞれの視点が漂っています。
そういった雰囲気から、その子の流れ、発達の流れ、家族の流れが伝わってくるのです。


何をどういった順番でお話しされるか。
どんなときに感情が揺らぎ、想いが溢れてくるのか。
どんな場面で、家族の息、動作がシンクロするのか。
そのすべてが過去から現在に繋がっている流れの表れ。
その子の流れに沿った援助の仕方でなければ、未来は伸びやかに発達してきません。
家族の流れに沿った育み方でなければ、未来に活き活きとした家族の時間が流れません。


個人で仕事を行っている意義であり、強みは効率化と真逆の方向へ進んでいけることだと思っています。
その子に、その家族に、とことん付き合うことができる。
発達のヌケ、課題の根っこが掴めなければ、それが見えるまで、一緒に土の中を掘り続けることができる。
そこには時間の切り抜きはありません。
ある意味、その子と、その家族と同じ時間の流れの中に身を置くことができる。
同じ時間の流れに身を置くことができるのは、オーダーメイドの発達援助を作る上での第一歩。
流れを大切にした仕事をしたいから、アンケートは作りません。

2018年10月30日火曜日

本人の前に立つ支援者、本人の後ろに立つ支援者

下手くそな支援者というのは、本人の前に立つ。
うまい支援者というのは、本人の後ろに立つ。
これは、実際の立ち位置のことではなく、支援の立ち位置のことです。


「私は支援をしています」と言いながら、子どもの前をスタスタ歩く支援者がいます。
スタスタ歩いて、どこに連れていくかといったら、自分たちの推し進める支援の中、一生涯支援の囲いの中。
ギョーカイというのは、「支援している」と言いながら、誘導しているのです。


ギョーカイの支援を受けて、心身共に不調をきたす人達がいます。
そういった人達は、身体が賢い人達です。
頭では支援を受け入れていますが、身体が受け入れていません。
あらぬ方向へと引っ張られているから、身体がそれに対して反発しているのです。
一見すると、従順に支援を受けているように見える人でも、心のベクトルは逆の方向へと進んでいる。


親御さんに対して、私は「リードではなく、後押しです」と言っています。
公的機関、標準療育を通る中で、たくさん悔しい思いをし、たくさん不満を持った親御さん程、支援ではなく育てる方法、治る道を知ると、勢いよく、その一歩を踏み出します。
でも、子どもの前に出てはいけないのです。


私は、一生涯の支援を受ける道ではなく、治る道があると確信しています。
しかし、同じ治る道を進んでいる子でも、その治し方、治り方は一人ひとり異なっています。
「この道を通れば、治る」という道があるのではなく、それぞれの歩き方で、それぞれの道を通り、最終的にその人の治るがあるのだと思います。
発達の仕方が一人ひとり違うのと同じように。


私達がしたい支援とは、子どもを特定の場所に誘導することではなく、子どもの発達を後押しすることではないでしょうか。
何らかの理由から、発達にヌケがあり、遅れが生じている。
だから、その部分を育て直そう、より良く発達してもらおうとするのが、望む支援のあり方。
生きづらさの根本に対する支援ではなく、子ども達の発達を支援するのではなく、第三者が決めた世界に誘導していくから、公的機関、標準療育から離れていくのです。


発達援助は、子どもの前に立ってはできないと思います。
子どもの後ろに立って、発達が伸ばしていきたい方向、その子が進みたい方向を見定める必要があるからです。
向かいたい方向とは異なる方向へ引っ張ろうとすると、綱引きの綱がピンと張るように反発が起きるものです。
綱を引くのではなく、子どもが進みたい方向へ、ポンと背中を押す。
それこそが、発達を後押しすることだと考えています。


発達の仕方が一人ひとり異なるのですから、そもそもリードなどできないのです。
どの道を辿ったら、その子が治るかなんか、誰にも分からないからです。
そのとき、そのときで、子どもが進みたい方向、発達が伸びていきたい方向へと後押ししていった積み重ねが、治るであり、振り返ってその子の治った道になるのだ思います。


私達は、発達を支援してほしいのであって、子ども達の人生を誘導していってほしいのではありません。
どうも支援者というのは、子どもの前に立ちたがります。
そして視界を狭めようとする。
でも、本来、どの道を進むのか、選択するのかは、本人が決めること。
だから、本人が主体的に、より多くの選択肢の中から選べるようにするために、可能性を広げるのが支援者の仕事。
支援者にできる可能性を広げる方法とは、発達の後押しに他なりません。
そのために、本人の前ではなく、後ろに立ち、進みたい方向を見極める必要があるのです。

2018年10月27日土曜日

親子の育み合いに誘うために

「それは、何回くらいやればいいですか?」
「一日、何分ですか?」
「登校前がいいですか?それとも、寝る前がいいですか?」
具体的な発達援助を提案すると、このような質問が返ってきます。


以前は、「本人の様子を見て、判断してくださいね」「本人が要求するなら続けてください」「本人が乗る気じゃなくなったら、無理してやることはないですよ」などとお伝えしていました。
でも、こういった表現ですと、戸惑ってしまったり、悩んでしまったりする方が少なくありません。
一番良くないのは、それが一歩を踏みさせないことにつながってしまうこと。
「何もしない」では、お子さんの発達の後押しはできません。
それに、いつまで経っても、「こんな感じかな」という雰囲気が掴めないままになってしまいます。


発達援助に、「良い発達援助と悪い発達援助がある」と思うのは勘違いです。
あるとしたら、やるか、やらないか、の二つだけ。
子どもの発達を後押しするとは、答えを見つけることでも、ある基準に近づけることでもありません。
創造すること、クリエイティブな営みです。
もし理想的な発達援助があるとするならば、それは、その子に合った発達援助を作ること。
もし良い発達援助があるとするならば、それは、その子が昨日よりも今日、今日よりも明日が良くなっていること。


我が子に合った発達援助を創造できなくなっているのは、子どもの変化、反応に気づけなくなっているからのように感じます。
親御さん自体が忙しくて気づけていない場合もあれば、子育てを外注してしまい、子どもを見る時間が少ない場合もあります。
あとは、親御さんの持つ課題として、主体性が育っていないこと、他人軸で生きていること、身体の感覚が乏しいことなどが挙げられます。


発達援助の核として、「心地良い」があります。
本人が「心地良い」と感じるとき、伸びやかな神経発達が起こるのです。
そういった本人の「心地良い」を感じるには、親御さん自身が「心地良い」が分からないといけません。
発達援助の最中とは、親子の交流、親子の一体化が生じます。
親子で交流し、一体化したとき、親御さんの身体に「心地良い」という受容器がなければ、我が子の「心地良い」は掴めないのです。
そうなると、「何回やればいいか」「どのくらいの頻度でやればいいか」といった枠組みが必要になる。


最近、私は「育み合い」という言葉を使うようになっています。
我が子の発達を後押ししているつもりでも、親御さんが育てられている場合がある。
そんな風に感じるからです。
発達援助という営みの中で、親子で交流し、一体化する。
その際、身体を動かし、身体を通して「心地良い」を感じる。
我が子の「心地良い」を感じようとすればするほど、自分の内側にある「心地良い」が育っていく感じです。


我が子の発達を後押しする。
そのためには、親御さん自身の身体、感覚、主体性が必要です。
でも、中にはそれらが育っていない親御さんもいます。
じゃあ、親御さんが育つまで、発達援助はできないか、しない方がいいか、と言ったら、そうでもないと思います。
先ほど、言った通り、「何もしない」では、発達を後押しすることはできないから。
それに発達援助自体が、親御さんの課題を育てる作用があるから。


以前は答えないようにしていたのですが、今は「何回やればいいですか?」と訊かれれば、「〇回ですね」と具体的に言うようにしています。
その数字は、私の見立てです。
そうして、言われた通りに行っていくうちに、徐々に親御さんの方も育っていき、感覚が掴めるようになっていく場合があるからです。
なんとなく、「これくらいかな」というのが掴めてくれば、自然と「何回やれば」が出なくなってきます。


「何回やれば」がなくなれば、具体的な回数を言うのを止めます。
親御さん自ら主体的に考え、試行錯誤が始まれば、距離を置くようにします。
そして、我が子に合った発達援助を創造するようになれば、サヨナラします。


発達援助自体のゴールは、親御さんが創造できるようになること。
発達援助にマニュアルも、正解不正解もないのですから、創造できるところまで親御さんを後押しするのが、私の仕事の役割だと考えています。
そのためには、親御さん自身も、課題をクリアし、育ってもらう必要があるのです。
その入り口が「〇回、やってくださいね」という具体的な言葉であり、育つ場が親子の交流と一体化の中だと思っています。
親子の育み合いに誘うために。

2018年10月24日水曜日

諦めさせるのは、支援じゃない

繰り返される激しい行動障害を目の当たりにすると、どこから支援していけばよいか、わからなくなり、いっそのこと、逃げ出してしまいたい、と思うことが多々ありました。
でも、施設職員を続けていく中で、気が付かされることがありました。
「この子達は、逃げだしたくても、逃げ出すことすらできない」のだと。


職員の入れ替わりは頻繁でした。
3年も続けていれば、ベテランみたいな役回りと扱いになります。
それだけ辞めていく人が多かった。
新人が入ってくれば、「この子は、いつまで持つか」なんていう音のない言葉が漂っていた。
次々に、職員は辞めていく。
でも、利用者の人達は、そこに居続ける。
本来なら、行動障害が収まり、生活が整い、自立するための力を養って、家庭や地元に帰っていくのが社会的な役割だったのに…。


施設職員として数年が経ったとき、気が付いたのです。
職員は辛くなったら、辞めることができる。
同じ福祉だとしても、ここ以外の場所はあるし、仕事を選ばなければ、いろんな選択肢がある。
でも、この子達には選択肢すらないのではないか、と。


当然、施設ですので、物理的にも逃げれないようになっています。
しかし、そもそも彼らに選択肢はなかった。
家庭や前の施設から離れた方が、心身が安定し、良かったと思える子達もいました。
でも、誰一人、望んで、自らの意思と選択で来た子はいなかった。
いくら措置制度から、契約制度に変わったとしても、子ども達の手の中に選択肢があったわけではなかったのです。


この子達に選択肢がなかったことに気づいてから、「逃げだしたらいけない」と、私は思うようになりました。
できることは少ないかもしれないが、しっかり向き合い続けようと決心したのです。
すると、以前は頭の中が真っ白になっていた大変な状況に、ある言葉が浮かんでくるようになりました。
どんなに激しい行動障害を持っていたとしても、「生まれたときは、強度行動障害ではなかった」という言葉です。


赤ちゃんのとき、幼児のときは、強度行動障害じゃなかったのなら、何かやりようはあるんじゃないか、環境によって行動障害が作られたのなら、環境によって良くしていくことができないだろうか。
そんな風に考えるようになりました。
そこから退職するまでの間、一度たりとも「逃げ出す」「諦める」という考えは出てきませんでした。


私は、発達障害の人達と関わる仕事をしてきて、一番心が痛むのは、以前の私のような「逃げ出す」「諦める」気持ちを持った人と出会ったときです。
本人が自分の可能性を、きっと良くなるという想いを、自分の人生を諦めていないのに、周囲の人間が諦めるなんてもっての外だと思います。
でも、実際は、「障害受容だ」「頑張らせない」「ありのままを受け入れよう」というきれいな言葉を使い、諦めている人が多い。


みんな、どうせ治らない、どうせ変わらない、どうせ福祉のお世話になるんでしょ、という想いを持っている。
だから、真剣にその人の課題と向き合おうとしないし、その課題を絶対に解決してみせるんだ、という熱意を感じない。
上辺だけの、その場だけの、表面的で取り繕われた対処療法をして、「僕は、支援をやってます」「私の子は支援を受けてます」と言い合っているように見えるのです。
「諦め」の気持ちをさとられないように。


今は、激しい行動障害があったとしても、過去は違った。
だから、未来も違う可能性はある、と思って施設職員をしていました。
その想いは今も続いていて、今、困難がある子も、今、言葉が出ない子も、今、知的障害が重い子も、未来は違う可能性はあるし、その可能性を信じて頑張ろうと思い、仕事をしています。


成人した方でも、長年、困難を抱えていたかもしれないし、今、自立できていないかもしれない。
でも、1年後、2年後はわからないわけです。
本人たちが、治そう、自立しよう、幸せになろう、と思っているのなら、その可能性を信じ、自分にできる応援をするのが、真の支援者だと思います。
知識を振りかざし、「今のあなたが、これからのあなただ」というような諦めさせ方をさせるのは、自らの利益のために動いている者。
ひと様を支援する者とは言えないのです。


数々の困難、課題をクリアし、治っていっている人達は、こういった諦めの雰囲気の中でもがいている本人たちの希望だと思います。
私は、そのような希望にはなれませんが、最後まで未来と可能性を諦めない他人もいる、というメッセージを姿勢を通して送り続けられたら、と思っています。


今、言葉が出ない、知的障害が重い、できないことがある、問題を抱えている、自立できていない、働いていない、がなんですか。
人間は常に発達し、動き続けている生き物なのです。
今までうまくいっていなかったのは、やり方が合わなかったのかもしれない、足りない部分があったのかもしれない。
そうではなく、じっと蓄え、大きな発達、成長を遂げるための準備期間なのかもしれない、しっかりとした根を伸ばしている時期なのかもしれない。


今の姿を求めるのは、諦めた人間と、「シメシメ、今の姿のままの方がありがたい」と思っている人間。
本人と家族は、今のままを求めているわけではありません。
悪い状態なら良い状態に。
良い状態ならより良い状態に。
育ってほしいし、歩んでいってもらいたいと願うのが親心。
そして、その道を歩んでいくのが、自分の人生の主人公である本人。


施設にいた子ども達に選択肢はなかった。
でも、誰一人、自分の人生を諦めようなどという想いの子はいなかった。
だから私は、その人が自分の可能性、未来を信じている限り、応援し続けようと思います。
諦めさせるのは、支援じゃない!

2018年10月22日月曜日

『自傷・他害・パニックは防げますか?』(花風社)を読んで

花風社さんの本が出版されると、私は必ず読みます。
本の中に、知識や情報だけではなく、希望が詰まっているからです。
私は今、発達援助で関わっている子ども達、若者たち、大人たちに不便なところは治ってほしいと思っていますし、開花した資質を自分の人生と社会のために活かしながら自立してほしいと願っています。
これは親御さんの想い、願いと同じだと思います。


だからこそ、「本人と親御さんのより良い明日と人生のために」という想いがあっての本ですから、素晴らしい著者の方達の知見だけではなく、そこに希望も感じるのです。
希望を感じない知見は、ただの自己満足であり、読み手の着想を生みません。
受け取った人の中でアイディアの自由な発展に繋がる動力は、花風社さんや著者の方達の希望という力だと思っています。


私は、多くの読者の方達と同じように、花風社さんの本から希望を感じます。
でも、それだけではないのです。
私は、新刊を手にし、読むたびに、希望だけではなく、後悔の気持ちに苛まれるのです。


新刊を読み、新しい知見、素晴らしい知見と出会うたびに、「これで、もっとその子に合った発達援助ができるかもしれない」と思い、「ああ、あのとき、あの子に、この知見があれば…」と思います。
私の言う「あのとき」は、施設で働いていたとき。
特に、栗本さんが著者である本が出版されるようになってからというもの、後悔の気持ちは強くなるばかりです。
施設で働いていた私は、対処療法しかできませんでした。
苦しむ彼らを見て、ただただ一緒に悲しむことしかできませんでした。
投薬の量が増えていく場面に立ち会い、彼らの想い、願いを代弁することができませんでした。


あのとき、言語以前のアプローチを知っていれば…。
あのとき、心身をラクにする方法を知っていれば…。
あのとき、四季を上手に乗り越えるアイディアを知っていれば…。
そして今回の新刊で教えてもらった身体作り、対応法を知っていれば…。
そうすれば、対処ではなく、育むことで、彼らの発達を支援できていたかもしれない。
そうすれば、彼らも、支援者も、お互い傷つかずに良い関係が築けていたかもしれない。
読み進める中、当時関わっていた子ども達の顔を思いだす頻度は、今回が一番多かったように感じます。


基本的に入所施設の職員の役割は、利用者さんの命を守ることと、生活介助です。
当然、生活介助ですから、いろんな生活場面で身体接触しなければなりません。
身体接触が必要な場面で、何より悲しいのが、利用者さんが身体を触らせてくれないこと。
特に、新入所できた方が、身体接触を拒む姿が悲しかった。
拒み方を見れば、それまでの人生で、どのような介助をされてきたか、がわかるからです。
どこに立たれるか、どこに触れられるか、で反応の仕方が一人ひとり異なります。
触れられた後の行動も。


自閉症や発達障害の人達、強度行動障害の人達が、身体に触られるのを嫌がるのは、「感覚の問題」と言われていました。
でも、現場の職員は知っています。
感覚面の問題よりも、どういった身体接触、関わられ方、介助のされ方をされてきたのかが大きく関係していることを。
初めて会ったはずなのに、私に向けられる「不信感」という眼差しが辛かったのを覚えています。


この本の中で、距離感、間合いについて記されていた箇所がありました。
こういった知識はありませんでしたが、拒絶する方との距離をどう近づけていくか、大丈夫だと思ってもらえるか、また行動障害の方とは、どの位置で、距離で関わるかを真剣に考えていました。
と言いますか、これが掴めなければ、支援ができないので、やらざるを得なかったのです。
もし心身の距離が縮められなければ、身体に触れることを受け入れてもらえなければ、服薬も、怪我の治療も、歯の仕上げ磨きも、入浴支援もできません。
そうなれば、施設職員が一番に守らなければならない利用者さんの命が守れなくなってしまいます。


本で紹介されました介助法を開発された廣木道心氏は、武道家であり、介護士であり、自閉症の子のお父様でもあります。
だから、単にテクニックではなく、その介助法には心があり、対話がある。
そして育みもある。
ここに一番、心が揺さぶられました。
素晴らしい希望と共に、深い後悔です。
施設職員だった私が一番知りたかったこと、望んでいたことは、彼らとの対話であり、育みだった。


確かに、経験年数が上がっていく上で、自分が傷つくことも、彼らが傷つくことも少なくなりました。
でも、私は月日が経てば経つほど、自分が嫌になっていきました。
「こんな施設職員になんかなりたくない」と、新人の頃から思っていた施設職員になっていったのがわかった。
利用者さんのことはわかるようになったけれども、対処療法はうまくなっていたけれども、対話と育みをどんどん失っていった。
利用者さんの人に対する不信感に溢れた眼差しが辛かったのに、もしかしたら自分自身がその眼差しを作る一人になっているかもしれないことに気が付きました。
だから、私はこのまま仕事を続けてはいけない、と思ったのです。


私は、この本から「対話」と「育み」を感じました。
副題にもある「二人称のアプローチで解決しよう!」という言葉に表されていると思います。
ですから、現在、自傷や他害、パニックと向き合っているご家族、支援者はもちろんのこと、子どもの発達、成長と関わっているすべての人に大切なことを教えてくれるように感じます。


自傷や他害、パニックという行動だけではなく、言葉や発信の問題から、周囲の人間に解釈される行動というものがあります。
見ている側がその行動の意図が分からないとき、不適切な行動、障害故の行動として制止されることがある。
だけれども、そんなときこそ、「対話」と「育み」の視点が大事なのだと思います。


「対話」と「育み」のある対応は、子ども達に不信感を芽生えさせないと思います。
人に対する不信感を育てるのは、対処そのものです。
療育を受ければ受けるほど、辛くなる本人たちがいるのは、そこに対話も、育みもない対処のみだから。
対処療法しかしないのは対話の拒否であり、そんな関係性に信頼など生まれるはずはありません。


是非、多くの方にも、著者の御三方の素晴らしい知見に触れられ、「対話」と「育み」のある子育て、支援に繋げていって頂きたいと願っています。
自傷や他害、パニック等、大変な状態にある人達のことを遠ざけるのではなく、見て見ぬふりをするのではなく、見過ごすのではなく、本気で考え、真剣に治したいと思う人達がいるということは、本人、家族、そして社会にとって希望です!


 
   
 

2018年10月19日金曜日

「行政に訴えてやるぅ~」と言うだけの人は大概、睡眠に問題あり

「治る」という言葉を発すると、ああだこうだ言ってくる人達がいます。
「医学的にー」とか、「脳の機能障害だからー」とか、いろんな理由を言ってきますが、結局、「治る」という言葉を使われるのが、「嫌だ」ということ。
たった一言で済む話なのです。
それを言葉を塗りたぐって、ダラダラと文字をつないでいく。
シンプルな表現ができないのは脳の無駄遣いであり、脳も、身体も育っていない証拠ですね。


中には、「消費者庁が」「弁護士が」「厚生労働省が」などと言ってくる人もいます。
もうそのネタは飽きましたね。
私のところに監査や指導が入るなら、「そのとき、その人にきちんと説明します」と言っています。
だけれども、事業を始めて6年半。
一度も、そういったことはありません。
つまり、言葉で脅しをかけているつもりなのでしょう。


言葉で脅しをかけているつもりなら、それは想像力の問題がある人だとわかります。
本当に脅しをかけるのなら、行動が伴わなければなりませんし、そのためには行動できる身体と、情報を整理し、計画を立て、実行できる脳みそが必要です。
それがないから、安易に言葉で脅そう、脅せるはずだなどと考える。
こういった人には、相手が見えていないし、相手の周りにいる人、支持する人達の姿が見えていない。


「自分が嫌だと思うから、みんなも嫌だと思う」という思考は、問題です。
「自分が嫌だと思うから、行政に訴えれば、聞いてくれる」と思うのは、妄想です。
今回は「治る」に関してですが、これが「自分が好きだから、きみも僕が好き」となればストーカーになり、独りよがりの正義を振りかざせば、迷惑者、犯罪者になる。
想像力の問題は、妄想段階ならまだマシだが、行動と結びつくと大問題になるのです。
だから私は、想像力の問題は重く捉えます。
どんな小さな芽だろうとも直言しますし、できるだけ早く想像力の土台から育て直していきます。


「行政に訴えてやる」と言ってくる人には、共通する部分があるように感じます。
そういった人はみんな、睡眠に問題を抱えている。
SNSの更新時間を見ても深夜ですし、脇が甘い人になると、自分で睡眠薬を飲んでいることまで呟いている。
結局、寝れないから妄想するし、寝れない身体だから頭がグルグルするし、想像を外す。
健康体の人から見れば、「何言ってんの、この人」となるようなことを、論理を恥ずかしげもなく、堂々と語るのは、頭の中の世界で生きている人だからですね。


問題を抱えている子がいて、その子の親御さんがいる。
当然、問題の根っこ、想像力の問題なら、その前に自他の区別、そして自分という存在、主体性、身体から育てていく必要があります。
でも、同時に快食、快眠、快便へ整えていくことでも対処はできます。


「問題行動を治そう」と掲げると、遠く、難しいような気がします。
しかし、日付が変わる前に寝られるようにしよう、ぐっすり寝られるようにしよう、というのなら、できそうに思えますし、何よりも家庭が主で行えることに変わります。
睡眠が変わるだけでも、妄想の大きさは小さくなると思います。


施設では、利用者の命を守ることが最優先でしたし、コミュニケーションを取るのが難しい方達が多かったので、「食べる」「寝る」「排泄する」には特に注目していました。
「食べる」に偏りがあれば、気分の上下、小食なら鬱っぽい
「寝る」に乱れがあれば、イライラ、自傷、衝動的。
便が緩ければ過敏で、便秘なら停滞、活動の低下。
もちろん、個人差、個体差がありますので、大まかな見立てではありましたが、とにかくチームで意見を出し合い、「食べる」「寝る」「排泄する」に気になるところがないか、と「快食、快眠、快便」を目指していました。


施設で働いていた当時の私は、経験則で見立てたり、改善を目指したりしていましたが、今は素晴らしい知見をお持ちのプロフェッショナルな方がいらっしゃいます。
花風社さんから出版されている『自閉っ子の心身をラクにしよう!』『芋づる式に治そう!』などを読まれると、快食、快眠、快便を整えるためのアイディアが頂けますし、直接、著者の栗本先生のセッションを受けられるのも良いと思います。
全国どの県にも空港はありますし、羽田までは直通便が出ているはずです。
羽田からは小田原までリムジンバスも出ていますし、電車でも乗り継ぎ1回で行けます。


せっかく同じ時代を生きていて、素晴らしい知見をお持ちの方と会えるチャンスがあるのなら、すぐに行動に移されるのが良いと思います。
「どうしようどうしよう」と思っているだけでは時間が過ぎるだけで、何も解決していきませんし、何より動かないと、妄想ばかり膨らんでいってしまいます。
身体を整えるのは、ただ健康になるだけではなく、問題の回避と自立への後押しになりますので、子どもさんはもちろんのこと、育む親御さんも留意し、整えていっていただければ、と思います。

2018年10月18日木曜日

支援者の多くは、「今」を切り取っているだけ

「この子は、治りますか?」と、尋ねられることが多いです。
でも、私は未来を視ることができませんので、「治る」とも、「治らない」とも、言い切ることはできません。
ただ、その可能性の大きさ、今後の成長の様子、大人になったときのスタイルは、想像できます。


こういったことを想像するのは、何も難しいことではありません。
言語化できなかったとしても、親御さんの多くは、我が子の未来を直感的に捉えることができています。
違いがあるとすれば、それは、いろんな方たちの人生を見させて頂いたかどうか、です。


支援者の多くは、「今」を切り取ります。
当然、医師や支援者の前にいるのですから、今、何らかの課題を持っているのは確かでしょう。
でも、その課題が、この先もずっと続くとは限らない。
むしろ、今の課題は治る途中経過だったりする。
その流れを掴めない人には、「この子は、高校くらいになれば、普通学校に行きますね」「この子は、将来、働いて自立しますね」「この子は、治る子ですね」という言葉が、戯言にしか聞こえません。


医師も、支援者も、出会った専門家たちも、みんな気づかず、むしろ否定的な見解を述べるばかりだった。
でも、最後の最後まで、我が子の未来、可能性を信じたのは、親御さんだけだった、ということは、よくある話です。
これを「単なる親バカ」「独りよがりの想い」と捉える人もいるでしょう。


しかし、こういった親御さん達には、本当に見えているのです、我が子の未来の姿が。
何故なら、流れの中で、我が子を見ているから。
ちゃんと受精、誕生、現在までの我が子の物語を捉え、描けている親御さんには、今後の流れる先が分かる。
だからこそ、ただ一人になろうとも信じられるし、その流れを見て、上手に軌道修正もできる。


私は、いつも思います。
どうして流れを見て、支援できないのだろうか。
どうして今を切り取っただけで、未来の姿を決め付けることができるのだろうか、と。
支援者と意見がぶつかるのは、いつもここです。


発達のヌケが埋まっての「今」とヌケが埋まっていない「今」では意味合いが違います。
今までの発達のリズムとスピードを見れば、今、重度かどうかは、将来の決定因子にはなりません。
問題行動のある子の今を切り抜けば、自立は不可能かもしれませんが、問題行動が前面に出てきてるために、まだ隠れている資質、本来の姿を見れば、十分、働いて生きていける子だとわかることもあります。


支援者の多くは、「今」を切り取る。
でも、「今」だけを切り取っても、未来は見えない。
大事なのは、その子の流れであり、物語。
その子の持つ流れを掴めさえすれば、行く先が見え、より良い流れを作ることもできます。
その子の物語を感じさえすれば、1年後、5年後、10年後の未来の姿を描くことができます。


「この子は、知的障害もあるし、言葉も出ていないし、将来は福祉と施設です」と、医師からも、支援者からも言われ続けた子が、今、一般就労で働いている。
この子の親御さんと、「専門家なのに、何でわからないんだろうね~。うちの子は、一般就労できると思うもん」と、よく言っていたものです。
流れが分かるから、ここさえ埋まれば、一気に変わることがわかる。
物語が分かるから、大人になった我が子の姿がちゃんと描ける。


案外、知らない親御さんが多いのですが、支援者というのは「今」を切り取って助言や支援をするものです。
彼らの言う「将来はわかりませんよ、お母さん」は、本当に分かっていないということ。
彼らの言う「将来、他人のサポートを受けながら」「将来は福祉で、施設で」「この子はずっと特別支援」という予言は、血液型占いと一緒。


今を切り抜いただけで、未来が分かるのは、神様くらいなもの。
だけれども、その子の流れと物語をしっかり掴めば、未来の姿を見ることができます。
それが一番できるのは、親御さん。
だから、支援者みんなが否定しても、最後まで信じ切れる。
今を切り取って、検査結果の数値だけを見て、助言や支援をする者は二流、三流であり、親御さんには敵わないのです。
支援者の意見に惑わされることなく、親御さんご自身で想像できる我が子の未来の姿を信じて頂ければ、と思います。

2018年10月16日火曜日

「この子が小さいときに戻って、“子育て”をやりなおしたい」

先日、私よりも年齢が上の方の発達援助に行ってきました。
依頼の電話をくださったのは、その方の親御さんです。
発達援助の始まりは、その人の物語を掴むことからですので、数十年間に渡る物語を本人と家族の方達との会話から一緒に辿っていきました。
そして課題の根っこを見たて、今日からできることをお伝えしてきました。
すると、親御さんは涙を流し、「できることなら、もっと早くにお会いしたかった」と言ってくださったのです。


「もっと早く出会いたかった」というのは、年齢を重ねたご家族だけではなく、成人していない子の親御さんも、就学前の子の親御さんも、そう言われます。
それは、私に会いたかったというよりは、「表面の課題ではなく、根っこを教えて欲しかった」「具体的な育て方を知りたかった」という意味だと感じます。
皆さん、お子さんの年齢に関わらず、「できるだけ早く」「もっと早くに」と思われるのです。


「早くに出会いたかった」と親御さんに言わせるのは、何でしょうか。
迷っていた過去、右往左往して動けなかった自分、遠回りしてしまったという後悔もあるかもしれません。
でも、お話ししていて一番に感じるのは、「なんだ、療育じゃなくって、子育てだったんだ」という気づきです。
発達援助に特別な技術や知識はいりません。
だって、子どもの発達を後押しするというのは、子育てそのものだから。


発達とは育んでいくものです。
特に受精から言語獲得する前の段階の育みは、家族の中で営まれます。
そんな自然な現象を何故見失うようになったのか。
それは、子育てを否定する言葉の数々。
「療育」「支援」「連携」「〇〇療法」…。
テレビ業界の言葉が、日常会話で使われるようになったように、特別支援ギョーカイの言葉が子育てを浸食したのです。
主体を自分たちに移し替えるために、「子育て」を「療育」にした。


発達のヌケの育て直しは、いつからでも行えますし、成人した方達もどんどん発達し、治っている姿があります。
でも、そのスピードで言えば、子どもには敵いません。
同じ子どもでも、神経発達が盛んな時期というのがあります。
また少しでも早く発達のヌケを育てておいた方が、その上に重なっていく発達のデコボコも、それに伴う困難も小さくすることができます。
「過去の苦労も愛おしい」などと言う人もいますが、発達のヌケ、生きづらさで生じる苦労などはしない方が良いに決まっています。
同じ苦労をするのなら、自分の全身を使い切ったチャレンジに伴う失敗、挫折の方がいい。


冒頭で紹介した親御さんの「できることなら、もっと早くにお会いしたかった」という言葉に、表現できない重みを感じました。
ですから、今、子育て中の方は、すぐに動いた方が良いと思います。


「情報の乏しいまま、気持ちが安定しないまま、親御さんが動くと、失敗する、判断を誤る」というようなことを言う失礼極まりない支援者がいました。
何を寝ぼけたことを言ってるんだと憤りを感じます。
みんな、初めての子育てで迷い、悩むのは当然なことです。
子育てに正解はないのですから。
こういった寝ぼけたことをいう支援者というのは、子育てじゃなくて、療育をしようとしているから、「情報がー」「正解がー」とか言うのです。


療育の中に育みは無いのです。
発達障害の子ども達に必要なのは、どこかの場所、特定の人に適応するためのテクニックではありません。
必要なのは、より我が子に合った育みです。
そのために、いろんな人に会い、場所に行き、あれこれ情報や知見、アイディアを集めてくる。
それで我が子に合ったものを選び、合わなかったら捨てる、不十分なら別のところに行く。
そういった親御さんの主体的な動き、試行錯誤が、我が子に合ったオリジナルの子育ての形を創造していくことになるのです。


「どうしようかな」と立ちどまっているのは、周囲の人間の都合です。
50分で、しかも治らない療育に、1万5千円払うなら、今すぐ飛行機のチケットを取って、神奈川県の小田原や鹿児島に行けば良いのです。
その人の持つ何十年もかけて積み重ねてきたものを、我が子のより良い子育てのために活かしていけるのなら、こんな贅沢なことはないと思います。
お金は稼ぐことができますが、時間はどうやっても後から手に入れることはできません。


冒頭の親御さんは我が子を前にして、こうも言っていました。
「この子が小さいときに戻って、“子育て”をやりなおしたい」
皆さんには、その子育てをしている時間が、今あるのです。
是非、子どもさんの神経発達が盛んな時期を大事にしていただきたいと思います。
親御さんが心を込めて手と足を動かせば、必ずお子さんの身体と心に響き、より良い発達として返ってくるはずですから。




2018年10月15日月曜日

疑い尽くした先に、その子の本質がある

「うちの子、睡眠障害があるんです」と、相談がある。
それで、詳細にお話を聞いていくと、寝る前にゲームをやっていることがわかる。
「じゃあ、そのゲームの刺激が眠りを遠ざける可能性もあるので、寝る前は止めるようにしたり、時間をずらしたりするのは、どうですか?」と提案すると、「ゲームは本人のこだわりだから」「禁止すると、怒るから」と返ってくる。
この子は、本当に睡眠障害があるのかもしれません。
でも、その結論を出す前に、やるべきことがあるのではないか、と思います。


他にも似たケースがあって、「授業中、ボーとして、注意散漫だ」という子の相談がありました。
ADDの診断を受けていましたが、話を聞くと、朝食を食べずに学校に行っているという。
脳を動かすエネルギーが足りなければ、頭が働かず、ボーとするのは当たり前だと思います。
発達障害の前に、ヒトであり、動物なんですから。
水分摂って、陽にあたっていれば生きていける植物とは違う。
衝動的に手が出てしまう子の話を聞けば、甘いお菓子ばかりを食べている。
何年も引きこもっている人の相談に伺えば、カップ麺とコンビニ弁当しか食べていないという。


快食、快眠、快便は、基本中の基本。
発達障害とか、知的障害が重いとか、まったく関係がありません。
施設に子どもが入所してきたとき、まず最初に整えていくのが、この快食、快眠、快便です。
ここがクリアされない限り、特に強度行動障害の人達の支援は始めることができません。
だから、上記のようなケースの相談があるたびに、本人ではなく、周囲が障害、困難さ、生きづらさを決めてしまっている、と感じます。


本来なら、やれることがあれば、それをすべてやってから、受診なり、支援なり、相談を受けるべきだと思います。
上記のようなケースの中には、そのまま、つまり、やれるべきことをやりつくす前に、医療、支援者と繋がったばっかりに、その子の本質的な問題として投薬、治療、支援が行われてしまった人がいます。
寝る前に何時間もゲームをしたり、布団に入ってからもテレビをつけ続けていたりしているのを伝えず、ただ「眠れない」「睡眠が乱れている」だけが伝わる。
そうすると、睡眠薬が処方される、「9時になったら寝ます」という絵カードが提示される、9時までに布団に入れたら、ボーロが貰えるという異質なルールが誕生する…。
こうやって、本質からどんどんズレていき、これが何年も続けば、作られた生きづらさの完成です。


私は、発達援助をする上で、必ず疑いから入ります。
「睡眠導入剤を飲んでいるけれども、本当に薬が必要なのだろうか?本当に睡眠障害なのだろうか?」
「検査結果では、重度の知的障害となっているが、本当に重度なのか?これ以上、伸びていかないのだろうか?」
そんな風に、一旦、必ず疑問を持つようにしています。


この姿勢は、施設職員時代に形成されたのだと思います。
強度行動障害の人の支援をする際、その人のことを「強度行動障害」と見た瞬間、何も支援ができなくなるのです。
いろんな施設を渡り歩き、辿りついた人もいる。
実際の行動、日々は激しいもの。
そんなとき、疑うことをしなければ、向かう先は抑制、抑圧。
物理的に制限を加えるか、薬の力を使って行動を起こせないようにするか。


疑うことは、着想を生みます。
「こだわり」と言われているけれども、それ以外、知らないからかもしれない。
傍を通る人に手を出してしまうのは、周囲の空気を感じる感覚が育っていないのかもしれない。
身体をつねってくるのは、相手を呼ぶための手段を持ち併せていないからかもしれない。
疑問から着想が生まれ、実際にやってみる。
そうやって繰り返していく中で、直ることも多々あります。


睡眠障害、一つとっても、本当にやり尽くして、最後に残ったのがその症状なのか、と思うことがあります。
寝やすい環境を整えること、睡眠に入りやすいリズムを作ること、眠れる身体を育てること…。
それらをやり尽くす前に、「はい、睡眠障害だ」「はい、不登校になった」では、その子の本質を見誤ることになる。
そして何よりも、その子の未来の選択肢を、周囲の頭の中で狭めてしまうことにもなる。
このように不幸になってしまう子ども達は、少なくないように感じます。


人と関わる仕事、ヒトを育む営みに、100%はありません。
だからこそ、疑う視点が大事なのです。
脳画像を見せられ、「この子の言語野は白くなっていますから、一生しゃべることはないでしょう」と告げられた子が、今、普通にしゃべっている。
就学時に言葉がなく、知的障害も重度だった子が、今、普通の人として一般就労している。
こういった若者たちの陰には、専門家から言われたことに対しても、ちゃんと疑う視点を持てた親御さん達がいます。
治す親御さんと言うのは、みなさん、こういうのです。
「あのとき、そう言われたけれども、私は違うと思ったんだ」
「具体的な方法はわからなかったけれども、別のところに解決する方法があると思ったんだ」と。


「発達障害は治りません」
「この子は、一生支援を受けて生きていく子です」
そんな専門家の言葉を聞いて、「はい、そうですか」と思う人が治るわけないのです。
人が人の人生をどうやって見通すことができるでしょうか。
医学免許を持っていたら、ナントカ療法の免許を持っていたら、その子の神経発達の仕方が見えるというのでしょうか。


神経発達の仕方がわからないのだったら、必要なのは神経発達を促すアイディアです。
治る治らないという結果ではなく、プロセスが重要なのです。
プロセスを豊かにしていくには、試行錯誤。
その試行錯誤の源は、疑問に思うことです。
睡眠障害という結果からは何も生みません。
でも、睡眠障害を疑うことで、解決の糸口が見えてくる。
そして、その子の本質を見ることに繋がります。


症状で診断される発達障害。
ということは、見える部分だけでレッテルがついてしまうということ。
疑問という視点がなければ、生きづらく見えることが本質になってしまう危険性があります。
全国から相談をお受けしていますが、まるで流れ作業のようにレッテルがついているように感じます。
「本当に、発達障害なのだろうか?」という疑問が削ぎ落されている雰囲気の中、元気な子まで発達障害になっている姿を連想します。


「治らない」に疑問を投げかけることで、治る部分と治る道が見えてくる。
だから、専門家の言う「治らない」は罪なのです。
疑う姿勢を否定し、プロセスを排除するから。
「治る」は結果。
神経発達を促すはプロセス。
そのプロセスとは、子育てそのもの。
つまり、「治らない」というのは、専門家からの子育ての否定なのです。
子育てを奪おうとする専門家に対して、親御さんは疑問に思うことで対抗してもらいたいと願っています。

2018年10月14日日曜日

「全員、治らない」と、どうして言えるのだろう

もう過去の話になりますが、自閉症、発達障害の人たちは、「脳の機能障害」と言われている時代がありました。
2013年5月に「神経発達の障害」と改訂されたのですから、もう5年以上前のお話になります。
でも、いまだに「脳の機能障害」と言い続けている人がいます。
しかも、発達障害が治らない根拠として、それを用いているのです。


まあ、100歩譲って、「脳の機能障害」でもいいです。
しかし、じゃあ、なんで「脳の機能障害」なら、治らないといえるのでしょうか?
機能障害とは、損傷とか、機能不全の状態のことを表しています。
発達障害は、脳に損傷ができたためになる障害ではありませんので(だって、先天的な障害なんでしょ)、脳に機能不全の状態の箇所があるということ。


脳に機能不全の箇所があるのなら、その状態を回復させればよいのです。
というか、専門家なら、医師なら、その方法を研究し、目指すのが当たり前。
欠損した脳を回復させるのは難しいでしょうが、機能不全の状態を回復させるのは不可能ではないはずです。
だって、脳の素晴らしい性質である「可塑性」があり、病気や交通事故で脳に損傷した人たちには、当たり前のように昔からリハビリが行われているのですから。


必要な刺激を与えることで、脳の機能不全を改善しようとするのは自然なことで、可能性のないことだとは思えません。
現に、発達障害の子ども達も、ずっと赤ちゃんのような発達段階のままということはなく、定型ではなくとも発達し、成長するのですから。
排せつや身辺処理、勉強や運動など、成長とともにできるようになっている姿は、ただ単に適応や暗記しているだけではなく、発達している、発達する可能性があることを示しています。
だったら、脳の機能不全の部位だって、その状態のレベルだって、発達のスピードだって、一人ひとり同じなわけはないのですから、「発達障害」というラベルが同じでも、みんながみんな、治らない、治る可能性がないとは言えないのです。


「脳の機能障害」だから発達障害は治らない、というのは答えになっていません。
それは発達障害が治らないんじゃなくて、脳の機能不全の状態を回復させるアイディアを持っていない、という意味。
むしろ、発達障害、本人の問題というよりは、専門家の方の問題ではないでしょうか。
そもそも誰が最初に「脳の機能障害だから、発達障害は治らない」と言い出したんでしょうかね。
というか、脳の機能障害と言われ始めたのは、もう何十年も前のことですから、いつまでその当時の知識をひっぱるのか、と思います。
「脳の機能障害」は、冷蔵庫マザーを否定するという意義は十分果たしたのですから。


「神経発達の障害」と言われてから、もう5年以上が経ちました。
どう見ても、知的障害の重い軽いに関わらず、発達障害の子ども達はみんな、神経発達が起きています。
決して、神経発達が起きる可能性がない人たちではありません。
発達障害のあるなしに関わらず、神経発達の仕方は多様ですし、受精後の環境と刺激の影響を受けて変わっていきます。
定型発達の子との違いがあるとすれば、発達の順序。
発達の順序が違ったり、段階を抜かしたりすることが、「治らない」という証明にはなりません。


この5年間の間にも、神経発達を促すための知見や情報、実際、子ども達で見られた素晴らしい結果が集まってきました。
神経発達の仕方は、一人ひとり違う。
そして、その子にあった促し方、育み方も、一人ひとり違う。
だからこそ、こういった知見や実践で得られたものは、本人、親御さん、支援者にとって貴重な着想となります。
発達障害全体を一色単にしたような概念的な知識は、目の前の子のより良い発達の仕方には役に立ちません。


発達障害を概念、文字、知識として捉えている人の前には、治る人も、治った人も現れないでしょう。
学問の発達障害は固定されたものになるが、目の前の人に固定など存在しません。
神経発達の仕方も多様。
神経発達のヌケや遅れている箇所の多様。
その人自身を見ても、今と次の瞬間には、異なる神経発達が起きている。


ですから、常に変化し、神経発達が起きているヒトに対して、「全員治らない」とは言えないのです。
確かに治らない人はいるかもしれない。
でも、確実に治る人はいるし、全部が治らなくても、部分的に治る人はいる。
だって、みんな発達する力、可能性を持っているし、生まれた後の環境と刺激の影響を受けて発達の仕方が変わっていくから。
発達の可能性があるのなら、その可能性にかけ、できることは何でもしようとするのが親心。
その親心が向かう先は、学問としての言葉、概念ではなく、全国で積み重なってきた知見と実践の成果だと思います。
そうして試行錯誤し、得られた結果が、また誰かの神経発達を後押しすることになるのです。

2018年10月11日木曜日

身体と選択の育ちが主体を育み、主体の育ちが想像力の育ちと繋がっている

この仕事をするまで、「主体性」なんて考えることはなかったですね。
自分に主体があるのは当たり前ですし、自分以外の人だって、それぞれ主体を持っている。
自分に主体があるから選択し、行動することができる。
他人にも主体があるから、その選択、行動を侵すようなことはしてはならない。
そんな風に思っていました。
でも、この主体が「わからない」人がこんなにもいるのか、と感じるのが、この仕事を始めてから続いています。


「自分と同じように、他人にも主体がある」という視点がない人は、自分の脳内のみで物事を完結させます。
また、自分から見える他人の行動のみで、物事を判断します。
だから、平気で他人に対し、自分の価値観を押しつけてくるし、自分と異なる意見や考えを理解することができません。
これは、想像力の問題。
そんな想像力の土台になっているのは、感覚、内臓、身体、動きなど。
一言で言えば、自分という主体がちゃんと育っていないということです。
自分が分からずして、他人の視点を想像することはできません。


はっきりしない自分が、想像力の問題の正体です。
それを、いつまで経っても「それが障害特性ですから」というレベルから抜け出せない人が、「理解をー」と叫び、応用の利かないパターンで想像力を補うことを教えます。
でも、これは想像力の問題を補っているのではなく、当然、想像力を育てようともしていません。
ただのその場しのぎであり、支援者が「ちゃんと支援やってますよ」とアリバイを作っているだけ。
真の支援者、専門家だったら、想像力を構成する神経発達に目を向け、その発達自体を促せなければ責務を果たしているとは言えないでしょう。


他人の主体を侵すまでに至らなくても、主体が乏しいと感じる人は、親御さんの中にもいます。
その人の物語を辿っていくと、主体を育てる機会の乏しさと突き当たります。
親が常に先回りしていた子ども時代。
自分の意思よりも、親の意思が優先された子ども時代。
親が思い描く姿になることが、自分のすべてだった人が大人になり、子どもを授かると戸惑います。
また、子ども時代の親の意思というよりも、環境、空気感を読み、自ら主体を無くしてきた人もいます。
それが主体性のない支援者であり、有名支援者、エビデンスなどの言葉に従ってしまい、自らの意思や感覚が押しだせない支援者たち。


想像力の問題は、固定された障害ではなく、未発達という意味。
だから、必要なのは、育んでいく機会です。
でも、想像する力を養おうとして、いくら相手の気持ちを考えさせる練習をしても意味がありません。
想像力が育つには、主体が育っている必要がある。
それには身体を育てていくことが重要です。
またそれと同時に、選択する機会が重要。


自らで選択することで、自分が何が好きで、何が嫌いかがわかってくる。
最初は、食べ物や遊び道具など、具体的なものから。
そして徐々に、何がしたいか、したくないか、抽象的なものの選択を行っていく。
そうすることで、自分というものが何なのかはっきりしてきて、自分という主体が掴めるようになってくる。
主体を育むというのは、身体からと選択からの両方があると考えています。
先回りする親も、失敗させない支援者も、この選択の機会を奪うことに繋がるため、その子の主体性が育たず、結果的に想像力の問題へと繋がっていくように思います。


私も施設では、自閉症、行動障害だけではなく、重度、最重度、また測定不能と言われるような方達の支援に携わっていました。
今も、知的障害の重い方の発達援助に関わっています。
でも、知的障害が重かったとしても、選択することはできますし、選択する力は養っていけると思います。
それが例え限られた範囲で、具体的な物だったとしても。
どんな重い子でも、私は選択する機会を尊重し、大事な育ちだと考えています。
拒否だとしても、それは本人にとっては、大事な主体の一部です。
拒否できない、拒否できなかった姿は、愛着障害の人の姿と重なります。


決められたスケジュールを淡々とこなしているようでは、主体は育っていきません。
生活、育ちの中に、選択がないからです。
特に支援者というのは、当事者の主体性を嫌いますので、こういった選択のない支援が横暴しているのです。
ですから、いつまで経っても、「想像力の障害」から抜け出せませんし、育もうなんていう視点は出てきません。


主体の育ちと想像力の育ちは繋がっていると思います。
主体は、身体という土台の育ちと、選択の機会が育んでいくと思います。
選択の発達過程は、具体的なものから抽象的なものへ。
2つの選択から3つの選択、そして最後は選択肢のない中での選択です。
「これが好きだから、このおやつ」ではなく、「こっちとこっち、どっちにする?」というひと手間が大事な育ちになるかもしれません。
選択の機会だったら、今日、今からすぐにおうちで行うことができますね。

2018年10月10日水曜日

想像力の問題は、自立を妨げる本丸

いつも疑問に思うのですが、「治るなんてインチキだー」「トンデモだー」と言っている人、それは何を見て、そう言っているのでしょうか?
そうやって、見ず知らずの当事者の方や親御さん達のことを批判し、また治るという考えの元、発達援助、後押しをしている人達のことを、人を騙して儲けているかのように表現する。
それくらいの発言をしているのですから、それなりの覚悟と根拠があるのでしょう。


「治る」と言っている人達が、どのような育て方をしているのか、また「治った」と言っている人が、どういう人なのか、それを自分の目で確かめない限り、本当の意味で批判することはできないと思います。
というか、そういった確認をしないで、相手のことを調べもせず、ただ自分の考えのみで批判するのは、便所の落書きレベル。
本来なら、見向きもされないのが普通です。
でも、ツイッターとかで反応を貰っちゃうと、あたかも自分が正しいことを言っているかのように勘違いする。
何故なら、こういった自分の身体を通した確認ではなく、自分の頭の中で作った物語で生きているから。
つまり、想像力に問題があるから、勘違いを起こすのです。


昔、発達障害の子ども達は天使だ、なんて言っていた支援者がいました。
天使なんかであるものですか。
発達障害の人も、定型発達の人と同じように他人を傷つけることもある。
特に、想像する力の問題が、引き金になることが多い。
相手の気持ちを想像することの欠如。
自分勝手な脳内論理で善悪を判断し、独りよがりの行動を起こすことは珍しくない。
社会や周囲の理解よりも、この想像の問題が問題なのです。


支援者から「様子を見ましょう」と言われた経験は、どの親御さんもあることだと思います。
でも、その理由が「敢えて引き延ばすことで、自分たちの推奨する支援を利用してくれること」という本音を聞いたら、みなさん、どう思うでしょうか。
治る道を進む人、標準療育の道を進む人、そんなのは関係なく、どの親御さんも怒りがこみあげてくるのではないでしょうか。
自分の命を分けて生んだ子に障害があると分かったとき。
そして、その子の障害と向き合うことを決め、我が子のためにできることは何でもするという腹をくくり、頼った専門家が「様子を見ましょう」と繰り返す。


様子を見たいから、相談に行ったのではなく、何でもするし、したいから相談に行く。
「様子を見ましょう」という答えのない答えを聞くために、相談する親御さんなどいないはずです。
相談に行けるまでの心情の動きを想像するだけで、親御さんの悲しみや苦しみが伝わってきます。
完全に親御さんの心情を理解し、共感することはできなくとも、想像することはできます。
でも、もしこの想像する力に問題があったとしたら、そんな親心を踏みにじる行動をしてしまうのでしょう。
それがまさに自分の利益、自分の脳内論理のみで、引き延ばしをする行為なのです。


想像力の問題は、他人を傷つけることになり、またそれによって自分も孤立し、傷ついていくことになる。
極端なことをいえば、身の回りのこと、収入を得ること、移動や余暇のサポートは他人にやってもらうことができる。
でも、それだけでは、社会の中で生きていくことはできません。
想像する力が重要なのです。
そこに大きな問題があれば、自分をサポートしてくれる人がいなくなってしまうのです。


どこに他人のことを平気で傷つける人のことをサポートしたいと思う人がいるでしょうか。
例え仕事だったとしても、そんな人と関わりたくないと思うのが人の心です。
実際、福祉の仕事を離職する理由の中で、仕事が金銭的、体力的、心理的にきついのもそうだけれども、もうこの人達の支援がしたくなくなった、関わりたくなくなった、と言う人が多いのです。


ヒトは損得のみで行動するのではありません。
ここが分からない人は、行動療法を盲信するように感じます。
心があり、意思があり、主体性がある。
ここが分からない人は、自分の意思で選択した「治る」という道で頑張る親御さんを見て、「騙されている」「甘言につられてしまった」と解釈するように感じます。
どっかの新興宗教と違って、一度入ったら抜けられない、などということはないのです。
自分の意思で選択、行動し、育んでいるのが、多くの親御さん。
もし、良いと思った育て方が我が子に合わなくなったと感じたら、すぐに止めるに決まっています。


「治るなんてインチキだ」という人は、その治るという方法も、人たちのことも自分の目で確かめることをしない。
すべて自分の脳内でできた物語で、独りよがりのことを言っているだけ。
普通、「治るなんてインチキだ」というのは、実際にやった人達が言うものです。
「治ると言っていたけれども、全然、治らないじゃないか。子どもは成長しないじゃないか、変わらないじゃないか」という声は、実際を知らない、知ろうともしない者が言うセリフではありません。


治る道を歩んでいる本人、家族からは、「この知見と出会ってよかった」「子どもはどんどん発達するし、課題が解決していっている」という声ばかり。
そして、「インチキ」「トンデモ」と言っている人は何も知らない人であり、聴こえてくるのは、自分は、我が子は「生きづらーい」という声ばかり。
この図式を見れば、特別支援の知識があるとかないとか関係なく、想像する力がちゃんと育っている人は真実を理解することができます。


想像する力が育っていないとしたら、ちゃんと育てなきゃなりません。
「ここの場面では、こう振る舞う」などといった方法ではなく。
空気が読めないのなら、自分の感覚面を育て直す。
他人の心情、視点が想像できないのなら、まず自分の主体性を、内臓、背骨など身体面から育て直していく。
「私、発達障害があって、相手の気持ちがわからず、傷つけてしまうことがありますので」と言われても、許されないのが自然な社会。
想像力の問題は、自立を妨げる本丸なのです。