2020年11月10日火曜日

【No.1127】ラジオチャンネル開局のお知らせ

発達って目に見えないものですよね。
その見えないものを商売にしている私は、とても危ない橋を渡っているといえるのです。
実際に商品が合って、それを売り買いする商売でしたら、モノが残り、またその価値を感じることができます。
しかし、私の行う発達相談、援助はサービス業であり、お客さんが満足するかどうか、そのニーズに応えるかどうか、それが唯一の価値になります。


標準療法は、エビデンス、科学的根拠を重視します。
何故なら、みんなの税で成り立っている商売だからですね。
サービスを利用しない多数の人がいて、少数の人がサービスを利用している。
そのとき、エビデンスが必要になるわけです。
よく勘違いされている人がいますが、少数の利用している人のためにエビデンスがあるわけではありません。
利用していない大多数の人のために、「皆さんから集めた税金は、ちゃんと科学的根拠のあるものに使用していますから」というある意味、建前のためにエビデンスが使われているのです。


親御さんによっては「エビデンスのある療法しか信じない」という人もいますが、たぶん、その人は基になる論文を読んでいないのでしょう。
論文には、こう書かれています。
「被験者〇名のうち、〇%の人に効果があった」と。
つまり、どの論文も100%の人に効果があるとは言っていませんし、そんなことは不可能です。
被験者という括りは同じですが、もっている資質、生活している環境、影響を受けた刺激、その人が歩んできた歴史が違うのですから。
よって、エビデンスがあるから、我が子にも効果があるとはいえないわけです。
エビデンスの根底に流れているのは、「効果があるかないか、やってみなきゃわからない」


70%の人に効果があるけれども、必ずしもその70%に自分の子が入る保証はありません。
効果のない30%に入る可能性だってあるのです。
しかも、その70%も同じように再現できる可能性は少ないから、実際は35%というようなこともある。
さらに論文に書くような実験は、先に挙げたような個別の違いを極力排除というか、見ないようにします。
そこを見たら、研究などできないからです。
それこそ、冒頭でお話ししたように発達とは目に見えないものですし、ある発達課題1つをとってみても、そこに関わる要因は、環境、遺伝とはず、複数あり、それも複雑に絡み合っているのです。
Aというエビデンスがある療法をやったからといって、Bという結果が見られたなんてあり得ませんね。
それはすべて解釈です。


実験室のモルモットの場合、遺伝子も、環境も、ある程度、コントロールすることができます。
でも、それと同じことは人間にできない。
が、一応、できていることにしているのが現在のエビデンスのある療法とやらです。
子どもの発達は一人ひとり違いますので、ある特定の療法にこだわるのはリスクが大き過ぎると思いますし、どうせやってみなきゃわからないのでしたら、いろんな方向からアプローチした方が良いでしょう、確率的に言っても。


そう考えると、他人である支援者と言うのは、幅広い情報、選択肢を伝えられなければなりません。
自分が好きな療法のみを伝えるのは、押し売りです。
しかも、ひと様の税金を使って押し売りしてはなりません。
でも、地方は特に、ここで診断を受けたら、次にここの相談機関を紹介して、その紹介機関はここの療育機関を紹介し…というズブズブのシステムが出来上がっているところがばかりです。
公共事業の元請けがあって、下請けがあって、孫請けがあってと同じですね。
まあ、そこを見えなくするために、「私が紹介しているところはエビデンスがある支援をやっているところですよ」なんてしているわけです。


家族にとっては、その子ひとりであり、その子が良くなるのが望みです。
そんなとき、他人である私たちのような支援者が、他の子どもさん、家族から得た経験、そこで磨かれた実践を伝えていくという意義が生まれます。
一人の子育てはできないけれども、100人、200人、300人…というような子ども達と家族と関わってきたからこそ、見えるもの、感じるものがあります。
私が思うに、どっかの誰かがやって一応「エビデンスがある」と言っている1つの方法よりも、こういった生きている情報、生の知恵の100、200、300のほうが、子育てをカスタマイズするには有効だといえます。


この世界に入って20年弱。
そして起業後も、関わる人たち、家族の人数は増えていっています。
そういった中で、「言葉で伝えること」がとても重要だと感じ、このブログを書こうと始めました。
ありがたいことにのべ33万人以上のアクセスをいただいています。
ですが、自分の中でもっと伝える力を、特に専門家がいう「雰囲気」という感じ方を表現できるようになるためには、別の方法でも磨いていく必要があると思うようになりました。
そしていろいろと検討した結果、音声によるブログ、発信に行き着きました。


私も共働きで、子育て世代です。
久しくタイムリーでテレビを観ることがありません。
観ても録画で、倍速で見ていますし、ながら見ばかりです。
ネットの動画でも、画面を見ているよりも、音だけ聞いている人が多いはずです。
たぶん、近い将来、動画から音声発信の時代が来ると思います。
そのときになってから準備していては、民間企業はおしまいです。
なので、それを見据えてのチャレンジでもあります。


昨日、開局し、今日も音声ブログを更新しています。
取り上げてほしいテーマや、もちろん、個人情報は落としますが、聴取してくださるみんなと共有できるようなリアルな相談があれば送ってくだされば、と思っています。
私の知識も生き物なので、そのとき、その瞬間感じたものを音声を通じてお伝えしていきたいです。
こちらのブログも引き続き更新していくつもりですが、徐々に重きが変わっていくと思います。
『てらっこ塾 大久保の【発達援助のこころ】』もよろしければ、今後とも御贔屓くださいませ。
どうぞよろしくお願い致します!
会員登録する必要はなく、スマホでも、パソコンでも、アクセスすれば聞くことができます。


ご聴取はこちら


2020年11月6日金曜日

【No.1126】名も無い遊びが連なっていくイメージで

「子どもは自分に必要な発達刺激が分かり、自らで育てようとしている」というのは、日々の発達相談で感じることです。
この視点を1つもつことができれば、子にとっても、親にとっても、気持ちが前向きになり、どれほどラクになるのかと思います。
ですから、私はせっせとその話を方々でしています。


その一方で気を付けなければいけないな、私の説明に足りないところがあったな、と思うことがあります。
「子どもが主体的に育てようとしている」がひっくり返って、「主体的に行おうとしないことには育ちがない」という解釈です。
確かに今、お子さんが主体的に、それこそ時間を忘れるくらい没頭しているような名も無き遊びがあるのなら、それをやりきれる環境を作ることが発達の後押しになります。
しかし、じゃあ、見向きもしない遊びは全部必要ないかと言ったら、そうではないと思うのです。


あるお子さんは、内耳(前庭感覚)に発達の遅れがありました。
シーツブランコをキャッキャキャッキャと楽しむお子さんでしたが、身体が大きくなりましたので、公園のブランコで揺れる感覚を味わってみたら、と試みました。
そうすると、ブランコに乗って揺らした瞬間、嫌だと降りました。
その姿を見て、親御さんは「やっぱり早かったかも」と止めようとされていましたが、その子は揺れる前までは座っていたのです。
ということは、「揺れの大きさを変えてみたら…」と思いました。
実際に、揺れの幅を小さく、ゆっくりにすると、その子はその揺れを感じるように座っていました(その後も10分ほど)。
たぶん、この子にとっては、ブランコに座り、ちょっとだけ揺れるも、名も無い遊びだったのです。


子どもさんの場合、「知らない」「わからない」がたくさんあります。
ですから、自ら進んで育てようとする名も無い遊びは、どうしても体験したことや見聞きしたことの範囲で選択されることが多くなるのです。
もしかしたら、その子がもっともっと熱中するような名も無い遊びは、ほかにもあるかもしれません。
よって、子どもの世界を広げるためにも、いろんなチャレンジ、体験をすることが重要になります。
そういったときに、一見見向きもしないような遊び、活動の中にも、やり方を変えれば、発達につながるような遊びに変わることもあるのです。


もちろん、そういったことができる前提には、「今、我が子がどこを育てたがっているか」「どこが発達のヌケか」を捉えている必要があります。
ですから、ここからは発展形になるのですが、たとえば、先ほどのお子さんのようにシーツブランコを楽しんでいるというのなら、同じような揺れに対しても、発達刺激になる可能性があると考えます。
ブランコも同じ前庭感覚を刺激する揺れがあります。
でも、それを嫌がるということは、私達が捉えている「揺れ」はざっくりし過ぎで、もっとこの子が何を欲しているか、どういった揺れ、刺激に発達刺激を見出しているかを掘り下げていく必要があります。
「仰向け、つまり、重力と平行になっているのが良いのだろうか」
「強い揺れが良いのだろうか、小さな揺れが良いのだろうか」
「横揺れ?縦揺れ?リズムが一定が良い?変化がるほうが良い?」
など、同じ揺れにしても、連想は広がります。


そういった連想を元に、別の遊びへ誘うことも重要です。
何故なら、同じ刺激は確かに心地良いですが、それが慣れまでになってしまうと、発達刺激になる変化が生じなくなってしまうから。
神経発達というよりも、どちらかといえば、癒しになってしまいますね。
発達援助の基本は、発達刺激にバリエーションを付けること、いろんな発達刺激を味わってもらうことです。
発達刺激と癒しの境目は慣れになります。


子どもさんが主体的に行っている名も無い遊びには、発達の機会があるといえます。
一方で、ある程度、年齢が上がっていけばいいのですが、まだ知らないこと、体験していないことが多いお子さんの場合には、主体的な名も無い遊びの幅、バリエーションが限られていることもあります。
「もしかしたら、彼がまだ知らない世界に、もっと豊かにしてくれる名も無い遊びがあるかもしれない」
そういった視点を持つことが大事です。
最初は見向きもしなかったことでも、やり方を変えれば、一気に熱中する遊びに変わることもあります。
同じシーツブランコでも、揺らし方を変えてみる。
同じような揺れを味わえるブランコや吊り橋、スキンシップ遊びなど、バリエーションの広がりを目指してみる。
そういった工夫が、発達のヌケを育てきるまで必要です。


案外、最初の名も無い遊びのまま、年齢を重ねていき、いつの間にか、それが慣れであり、癒しになり、結局、そこのヌケが埋まっていっていない人も少なくないように感じます。
「子どもが主体的に育てるから、親は見守っているだけでいい」というのは、半分合っていて、半分間違っていますね。
子どもの主体性は邪魔してはなりません、特に時間を忘れて没頭しているような名も無い遊びの場合は。
でも、「もっと心が躍るような名も無い遊びがあるかもよ」と誘っていくのも、親、大人の役目です。
「我が子がどんな刺激を今、欲しているか?」
そういったことを日々考え、連想できるのは一緒に生活している家族だからできること。
是非、お子さんがいろんな名も無い遊びを見つけられるような、それがどんどん連なっていけるような後押しをしていただければ、と思います。




2020年11月4日水曜日

【No.1125】日によってできたり、できなかったり

自閉っ子は、発達障害の子は「凸凹がある」というような言い方をされます。
確かに、アセスメントをしていても、こっちは同年代と同じくらいで、あっちは数年遅れている、なんてことは多々あります。
まあ、神経発達に不具合がある子ども達なので、というか、神経の繋がりにバラつきがあるのですから、「ああ、ここが抜けた分、迂回してこっちと繋がったのかな」「本来、必要ないくつかの繋がりの部分が少し足りないな」と感じます。
イメージで言えば、たとえ同じようにできていることでも、定型の子どもさんよりも迂回や繋がっている本数が違う分、目一杯でできている感じ。
よって、応用するような場面で、それらの回路がうまく使えなかったりして、能力の凸凹ができてしまうように思えます。


能力の凸凹ですので、「数学はできるけれども、国語がまったくできない」ですとか、「素晴らしい文章は書けるけれども、他人の気持ちを察することが苦手」などというようなことを指すのだと思いますし、実際、そのような人達が多いと言えます。
知的障害を持つ人達の場合、全体的な発達が遅れている、全体的な認知機能で遅れがある、という様相を見せるので、ここが神経発達症の人達に特徴的なところでしょう。
しかし、どうも、この能力の凸凹が拡大解釈されているようです。


子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですし、気分や体調によって、できることができなかったり、やれるのに「今日はやりたくない」とやらなかったりします。
これは幼ければ、幼いほど、当たり前ですし、自然な子どもの姿だといえます。
一度、できるようになったことは、コンスタントにできるというのは、心身共に年齢を重ねないと見られない姿です(大人でも難しいww)。
それなのに、この「できたり、できなかったりする」が能力の凸凹であり、発達障害の特徴である、故に自閉症である、なんてことを言う人たちがいるのです。
最初は、親御さんの口からそういった話が出ていましたので、その都度、説明はしてきたのですが、なんと「支援者からそうやって言われた」という親御さんがいたり、中にはそれが診断の決め手だという風に言われ、診断名をつける材料にされてしまったご家族もいるのです。


いつからコンスタントにできる=定型になり、それができないと発達障害になったのでしょうか。
日によってできたり、できなかったりするのが子どもであって、そんなことを言ったら、世の中の子ども全てが発達障害になってしまいます。
もともと認知機能の検査をすると、自閉症の子の多くに能力間の差が大きい傾向が見られたため、それが1つの判断材料となっていただけなのに、いつの間にか同じ活動の日ごとの差までをも、障害の特性、または根拠に使われてしまうような事態になってしまいました。
ギョーカイというのは、どこまで発達障害を増やしたら気が済むのでしょうか。


同年齢の子の発達から見て、同じようにできる能力がある一方で、大きく定型から外れるような能力がある。
だからこそ、同年齢と同じ環境で学ぶには配力が必要であり、そもそもそこが本人の生きづらさに繋がっているのです。
たとえば、昨日は友達と集団で遊ぶことができた。
でも、今日は友達と遊べず、ずっと一人で活動をしていた。
これって本人の生きづらさにはつながっていませんよね。
そりゃあ、昨日と今日で体調も、気分も違うわけですし、遊ぶ内容だって違う。
しかも、本人が納得して一人で遊んでいるならいいじゃないですか。
っていうか、一人で遊ぶのは障害ではありませんね。


私だったらここで注目するのは、昨日、友達と集団で遊ぶことができたこと。
たとえ、それが昨日一日の出来事だったとしても、集団で遊べたというのは、素晴らしい能力であり、ちゃんと育っている証拠です。
365日あって一度もない、今まで生まれてから一度も友達と遊んだことがないというのでしたら、そこに配慮や発達のヌケ、遅れを生めるようなアプローチ、トレーニングが必要になるといえますが、そうじゃないんですね。
まだ不安定かも知れないし、それこそコンスタントに見られるわけではないけれども、ちゃんと育ちの息吹を感じる、友達を意識し、遊びの場を共有しようとする動きがみられる。
それこそが、この子をより良く育てる糸口であり、子どもらしい発達のプロセスだと思うんです。


でもね、その一方で、「今日、友達と遊べなかったじゃないか」「一人で遊ぶなんて、自閉症の子の特徴だ」などと言って、そっちばっかりに注目し、挙句の果てに診断の根拠にしてしまう人たちがいるのです。
今までに数えくれないほど、親御さんからの相談がありましたよ、「できないことばかり言われて、そこは諦めなさいと言われました」「『いくら家ではできるんです。検査室でできなかったのは、緊張したからだと思うんです』と言っても、『検査結果がすべてだから』『私には分かるんですよ、お母さん』と言って聞く耳を持ってくれませんでした」という話が。


家でもできなくて、園でもできなくて、検査室でもできなくて、初めて一致するんじゃないですかね。
家でできるのなら、その子の内側には能力があるし、それが育つ可能性があるということではないでしょうか。
どうして家や園でできることが、いつもじゃなくても時々できることが、過去にできていたことが、その子のアセスメントに加えられないのでしょうか。
たぶん、ここには専門家特有の「親の言うことは当てにならない」「親よりも、専門家の見立てのほうが正しい」というおごりがあるのだと思います。
だから、家でできたことが検査室でできない=検査者の腕が悪い、というのを認めたくなくて、親御さんの見立てを一蹴しているのでしょう。
あとは、発達障害の診断自体が微妙なものなので、必死にできないところを集めて、無理くり診断名をつけている場合も少なからずあると思います。


とにかくたまったもんじゃないですよ、日による違いまであたかも「発達の凸凹」「能力の凸凹」にされてしまい、だから自閉症ですね、あなたの子には生涯支援が必要ですね、とされてしまうのは。
本当に無茶苦茶な話です。
「支援者って、どうしてあんなにも揚げ足取りなんですか?」
「療育機関に行っても、ダメ出ししかされないのは、どうしてなんですか?」
こういったのは、よく質問されることですので、私は「まあ、悪趣味なんでしょうね」って答えています。
それくらい診断もそうですし、療育機関も、とにかく"できない"に注目し、いったんそこを切り捨てることから始めます。
そして「できないことは諦めましょう」「できることを支援していきましょう」と進んでいく。


でも、支援者、専門家があっさり言い放つ"できない"って本当にできないことなのでしょうか。
一方的に決め付ける"できない"の中にも、環境を工夫すれば、発達のヌケや遅れを育て直せば"できる"に変わるものも少なくないと思います。
それに"できない"の中には、支援者が見逃している"できる"もたくさんあると思います。
というか、親御さんが"できない"と諦めているものの中から、"できる"や可能性を見つけるのが支援者の役目でしょ。
今、反対になっているんですよ、支援者が「できない」とばかり言い、親御さんが「できる可能性があるんです」と言う。


「発達障害は治らない」「自閉症は支援するしかない」と言っている親御さん達の中には、こういった支援者からの"できない"を信じ、可能性を見つけることを諦めてしまった人たちが少なくないように感じます。
普通、考えてもみてください。
どこの世界に、子どもの可能性、将来を最初から諦めている親がしますか。
子どもが生まれれば、期待し、将来の可能性を夢み、楽しみにするのが親です。
この前、お会いした親御さんは、1歳半の時点で、専門家から「もう諦めなさい」と言われたんですよ。
生まれてたった1年半。
そこで諦めろなんてひどい話です。
でも、それが現実に起きていることなんです。


日によってできたり、できなかったりするのは当たり前。
能力間の差だって、定型の範囲まで育っている能力が1つでもあるのなら、他の能力も定型の範囲まで育つ可能性は十分にあるでしょ。
どうして一番低い能力、育っていない能力に、子どもの姿を見る必要があるの??
育っていないのなら、どうやったら育つかを考えるのが支援者であり、その可能性を最後まで信じるのが親。
ダメなところしか見えていない人に、子どもの発達を後押しすることはできませんし、子どもさんも迷惑です、そんな人に関われることは。




2020年11月2日月曜日

【No.1124】「長所を伸ばすか、短所を減らすか」ではなく、「資質を磨く、未発達を育てる」

時々、「発達障害だから私なんだ」「自閉症の特性があって良かったんだ」というような人を見かけます。
たぶん、これは自閉症を一つの才能として捉えているというか、そこに極端にフォーカスしているんだと思いますね。
裏を返せば、それだけ生きづらいということです。
単にポジティブな才能だとしたら、「私、絶対音感があるんです」とか、「私、過敏に相手の気持ちを察することができるんです」とか、「私、一度見た景色をそのまま覚えていられるんです」と言えば良いのですから。


何だかわからないんですが、私にとってかけがえのないものなんだ、それこそが私なんだと言う一方で、「生きづらい生きづらい」と言い、「理解を」と訴えます。
これだと良くなりたいのか、なりたくないのか、わかりませんね。
中にはアクロバティックな主張もあって、「この長所(?)を無くすくらいなら、ずっと発達障害でいい」などという人たちもいます。
まさに、これこそが医原病というか、特別支援病というか…。
育つ部分、治る部分、活かす部分がごちゃまぜというか、良く分かっていないんでしょうかね。
流れ作業のように、マニュアル支援によって「脳の機能障害」という言葉で、「はい、おしまい」になってしまう現状。
一人ひとりの"人"に対するアセスメントが行われていないという実態と、「大人の発達障害はちょっと…」と敬遠しがちで、子ども以上に諦めの態度で臨んでいる支援者たちが、生きづらさに目を閉じて、やたらめたらに「長所長所」と言い続け、こういった人たちを育てているのでしょう。
まあ、支援の目的がいまだに「二次障害にならないように」というのですから、文章を見せられれば「文の才能がある」、絵を見せられれば「絵の才能がある」、こだわりのものを見せられれば「その道を極めてみたら」と、無責任発言が繰り返されるのだと思います。


少なからず、こういった大人たち、特別支援の中の戯言の影響を受けているのでしょう。
お子さんを育てている親御さんの中にも、「特性が良くなる」「症状が育ってみられなくなる」と「長所も消える」という関係性について疑問に思われている人たちがいますね。
ほとんどが感覚の過敏性に関連する部分だといえますが。
結論から言えば、過敏性がなくなる、つまり、聴覚が育つ、前庭感覚が育つ、嗅覚が育つ、味覚が育つ、視覚が育つが、優れて育っている部分まで打ち消すことはありませんね。
私が見てきた子どもさん達は、未発達が育ち、過敏性がなくなったあとも、それまでの長所、資質の部分は残ったままです。


どういうことかと申しますと、たとえば一番多いのが聴覚過敏。
聴覚過敏によって苦しいけれども、絶対音感みたいなことが見られる場合。
聴覚過敏の大元は、前庭感覚の未発達なので、そちらが育ってくると、聞き取りが育っていくんですね。
音の聞き取りが良くなる、人の言葉の聞き洩らしが減る。
で、絶対音感みたいなものも残り続けるんです。
でも、これは一つ条件が合って、「この子は音の聞き分けが素晴らしいな。だから、ピアノを一緒に楽しもう」などと、そちらの方面でも育てようとしている場合に、です。
「うちの子、絶対音感がある。音楽の才能がある」と喜んでいるだけではダメで、その才能に気づき、一方で聴覚過敏、聴覚の未発達をどうにかしよう、育てようと、イメージで言えば両方から刺激し、育てている場合、それが聴覚が育ったあとも才能の一つとして残り続けるのです。
よく見かける「聴覚過敏は障害特性。でも、絶対音感は才能。だから、普段はイヤーマフを付け、家では音楽をたくさん聞かせる」という方向では、絶対音感を持った生きづらい人にしかなりませんね。
生きづらさ、未発達を育てるからこそ、資質が開花するのです。
もちろん、未発達を育てるだけでも、資質を伸ばそうとするだけでもダメで、よりバリエーションをもって豊かに育てることが重要です。


この前の発達相談でも、「心を育てるってどうしたらいいんですか?」と尋ねられました。
これもギョーカイ支援あるあるで、生きづらさの根っこにアプローチできない支援者が「心が育てば、できる子です、この子は」なんていうわけです。
障害特性はそのままで、できることは周囲の理解と支援だから、「心」という曖昧なものに注意をそらそうとするんですね。
身体が不調だと、気持ちも不調になります。
だから、身体の不調から整えていくんですね。
自由自在に動けない身体だから、心がいつまで経っても伸びやかになっていかない。
それと一緒で、才能、資質も、土台となる身体が整っていないと発揮できないし、磨きもできない。
いくらお題目のように、「あなたには才能がある」なんて言っても、その才能が発揮できなきゃ意味がないわけです。
文を描くのも、絵を描くのも、何かに詳しいのも、全部、身体がないとできない、身体が動かせないと表現することができない。
口先は妄想で、動いて初めてそれが現実となる。
お子さんを育てている親御さんは、本人の資質を見極め、そこを刺激しつつ、一方でその裏にある未発達を育てることをお忘れなく!