2019年11月29日金曜日

発達障害と療育・支援は、相関関係にあらず

栄養面からのアプローチで、精神疾患や発達障害をどんどん治してしまう広島の藤川徳美医師。
その藤川医師の本が、障害児教育部門の書籍で1位になった、という情報を目にしました。
まあ、親御さんだったら、「我が子の発達障害を治したい」「治ってほしい」と願うのは自然な感情ですし、実際に、藤川医師のアプローチを取り入れ、治った人達が大勢いますので、書籍が1位になるのは不思議ではありません。


でも、私はその書籍ランキングを見て、不思議に思うことがありました。
それは、2位以下に「コグトレ」に関する書籍が複数入っていること。
たぶん、これも最近、新書で話題になった『ケーキの切れない非行少年たち』の治療プログラムとして「コグトレ」が紹介されていた影響だと推測されます。
本当に皆さん、なんとかプログラム、療法がお好きなんですね。
どうしても、発達障害がある子に対して、指導や支援をしたいんですね。


この新書は、発売後すぐに読みましたし、コグトレに関しても勉強のため、一通りは学んでいました。
しかし、それを敢えてプログラムとして、私が行う援助サービスの一つとしてやろうとは思いませんでした。
何故なら、これも他の療法と同じように、枝葉へのアプローチだから。
と言いますか、受精から2歳前後までに生じている発達のヌケを育てたら、これらの課題も治っちゃうから必要ないよね、って感じです。


ケーキが切れない課題の根っこは、視覚や認知の問題と繋がっており、そこにアプローチするのがコグトレ。
でも、視覚や認知に発達の遅れや未発達があるのは、原始反射が残っていたり、ハイハイ等の運動発達にヌケがあったり…。
だったら、ここが根っこなので、根っこから育てれば、そこに端をなす課題はすべてポジティブな方向へ進みます。
しかも、ハイハイのやり直しに、研修や資格は必要ありませんので、家庭でやれるときにいつでもできるもの。
第一、こういった療法は、ある程度、席に座っていられる、鉛筆が持てる、指示に従える、といった条件が入ります。
でもでも、ハイハイは、どの子も赤ちゃん時代に通った道ですので、遊びの延長として行えますね。


なにか、新しい療法が出たり、誰かが「イイ」って言ったりしたら、一時的なブームになるのは、今までずっとありました。
TEACCHに始まり、コミック会話だ、ソーシャルストーリーだ、PECSだ、平成初期の映画のCMのように「全米ナンバーワン!」みたいに鳴り物入りで輸入されてきたものも、今、どれくらいが残っているのでしょうか。
やっているところがあるとすれば、かつての先進地域と、増えすぎた有資格者が食い扶持ゲットのために地方で細々とやっているくらい。
部分的な効果しか得られないようなものは、支援者が食いついても、親御さんはすぐに撤退するものです。


発達障害は、療育や支援によって、改善、解決するものなのでしょうか。
別の言い方をすれば、療育や指導の不足が、症状の悪化、または改善していかないことに繋がるか、ということ。
私は、発達障害と療育、支援は、影響することはあっても、相関関係にはないと考えています。
つまり、療育や支援が、神経発達を促すものではない、という意味です。


発達障害とは、なんらかの要因によって、神経発達に滞りが生じている状態だといえます。
なので、重要なのは、その滞りがどこかを確認し、その原因を取り除くこと。
私の捉えでは、本来、その子が持っている自然な発達の流れがあって、そこからズレている状態が「発達障害」と呼ばれる状態。
どの子も、発達する力は自身の内側に持っているものであり、与えられるものではない。


ですから、発達のヌケがその後の発達の遅れにつながっているのなら、そのヌケの段階に戻って育て直す。
栄養面の問題なら、摂取する栄養を改善していき、本来の発達の流れに戻っていけるよう後押しする。
左右の脳のバランスが崩れているのなら、そこを整え、本来の能力が発揮できるようにしていく。
心身に余裕がなくて、脳に余白がないのなら、身体を整えることによって、発達、成長の余白を作っていく。


私がなんとか療法に傾倒していかないのは、発達援助の本質が、「その子の内側に流れている発達の流れに戻していく」というイメージだからかもしれません。
ですから、決められたプログラムがあって、その型通りにやっていくみたいなのは、本人の流れとは別の流れを作ろう、というような雰囲気がするので嫌なのだと思います。
発達は授ける物、訓練し習得するものではなく、後押しするものでしょ。
だって、もともと、本人の内側に存在しているものだから。


本来の発達の流れに戻れば、それ以降、何を学び、成長していくか、は本人次第です。
なので、治すのは、本来の発達の流れに戻る手前まで。
治すを矯正と勘違いする人がいますが、治すのは、その人の持つ資質を開花させるため。
つまり、その人らしく自由に、伸び伸びと人生を歩んでもらうために治すのです。
私の仕事も、そういった本来の姿を、自然な姿を取り戻すためのお手伝い。
ですから、表面的なアプローチではなく、発達の流れが生じた最初のズレまで戻り、根っこから育てることを仕事の核にしています。

2019年11月28日木曜日

名も無い遊びが脳を育てる

上の子は学校から帰ってくると、一分も経たないうちに遊びに出かけます。
まるで昭和のアニメのような、ランドセルを置くために帰ってくるような感じです。
「子どもの仕事は、遊ぶこと」と常々言ってきましたので、その教えを守り(?)、毎日、友達と一緒にあちこち行って遊んでいます。
この地域は、学年関係なしに、男女問わず、みんなで遊ぶ文化があるので、そういった面で大変ありがたいと思っています。


「子どもの仕事は、遊ぶこと」はキャッチフレーズのようですが、それくらい遊びは、子どもにとって、発達、成長にとって、とても重要なことだと考えています。
何故なら、遊びの中に様々な要素が入っているからです。
運動発達はもちろんのこと、危険への対処、答えのないものから遊びを考える想像性(創造性)、友達との交流を通して押したり、引いたりといった社会性を培っていきます。
また概念を培うのは、遊びを通してが一番だといえます。


その子が将来自立できるかどうか、非行やメンタルヘルスのリスクを回避できるか。
その基準が、「小学校4年生レベルの学力」と言われています。
これは小学生のうちに小学校4年生レベルの学力を身につけなければならないという意味ではなく、大人になるまで、また大人になってからも、この学力レベルが獲得できれば良いという意味です。
しかし、この『小学校4年生レベル』というのがミソになります。


小学校1,2年生というのは、暗記で乗り越えられます。
たとえ、知的障害があったとしても、繰り返し、繰り返し、学習を積み上げていけば、学力として獲得できます。
でも、3年生辺りから、学習の中に『概念』が入ってきます。
この概念は、単に暗記や反復学習では理解できません。
ですから、発達障害のある子ども達の多くは、3,4年生辺りから学習の遅れが出てくるのです。
学習面の躓きをきっかけとした相談は、このあたりの学年の家庭が多いです。
『概念』理解は、『自立』の条件の一つとも言えます。


概念が掴めない子ども達は、幼少期、または現在も、「外遊びをしない」「友達と遊ばない」という子がほとんどです。
なので、相談を受けたときに最初に尋ねるのが、「ちゃんと遊んでいますか?」というもの。
物事を1通りの理解しかできない子は、早期教育として絵カードを見せて、それに答えるような訓練をやってきた子か、遊びが乏しい子。
よって、発達援助の方向性としては、身体を使った、五感を使った、遊びを行うことになります。
この遊びとは、子ども主体で自由な、特に意味を求めない遊びです。
必ずしも人との交流は求めませんし、遊びの発達段階が進んでいけば、「感覚遊び」「一人遊び」「平行遊び」「交流遊び」「ルールのある遊び」というように発達していきますので。


特に就学前の子ども達は、「思いっきり遊べるようになるために“治す”」というイメージで、発達相談、援助を行っています。
理由は何度も述べているように、遊びが大きな発達に繋がるから。
ヒトは社会性の動物であり、その社会性の土台は、子ども時代の遊びで培われます。
よく遊んだ子が、高度な社会性を身につけ、同時に自立するために必要な概念、想像性、心身を育む。
子ども時代、よく遊んだ子は「前頭葉がとても発達している」という研究結果は、ヒトという種を考えれば、自然なことだといえます。


遊びによって、前頭葉が大きく発達するのなら、そして小学校4年生レベルに必要な概念が養えるのなら、幼少期の子ども達に対する援助は、まさに遊べるようになるための援助。
ですから、私は伺った地域の雰囲気、文化を感じながら、どうしたら、この子が外で思いっきり遊べるようになるのか、同世代の子ども達と遊べるようになるのか、を考えます。
遊べるようになったら、あとは遊びを通して治っていくので。
まだ小さい子の親御さんには、「遊べるようになったら、最初のゴール」というお話をすることもあります。


児童デイが雨後の筍みたいにできる前は、放課後、障害を持つ子ども達の余暇はとても寂しいものでした。
しかし、児童デイができ、みんな、通えるようになった。
以前と比べれば、放課後の過ごし方は雲泥の差です。
でも、将来の自立につながるどころか、社会性、発達は変わっていかない。
何故なら、同じ遊びでも、遊ばされているから。


子どもの発達、社会性、想像性に繋がる遊びとは、目的の無い遊びであり、ときに危険を伴う遊びです。
子どもの遊びを発達の観点で見れば、子どもは名の無い遊びをひたすら繰り返すことで、遊びを発達させていきます。
つまり、遊びの時間と場所が決まっていて、道具も決まっていて、遊ぶ人も決まっていて、「さあ、遊べ」というのは、最初から発達に繋がる遊びにはならないのです。
意図しない遊び方をすると、決まった遊び方に修正するのが、支援であり、療育だと思っている節がありますし。
また、常に大人の目があれば、そこには危険、スリリング、できるかできないかギリギリのところ、といった要素が排除されてしまいます。
ひと様の子を預かっている児童デイなら、なおさら、危険を回避します。
そうすると、名の無い遊びが行うことができず、大人によって期待された遊びをこなしている、になります。


「名の無い遊び」「目的のない遊び」「思う存分、繰り返せる遊び」「危険を伴う遊び」
この条件を整えるのには、大人の目がないところで遊べるスキルが必要です。
大人がいれば、ついつい手と口が出てしまいますので。
私達が子ども時代、親の目の届かない場所で、どれだけ危険な遊びをしたことか。
でも、それが社会性を培い、物理的にも、社会的にも、危険を回避する、対処するスキルの元となった。
それは、発達障害があろうがなかろうが、どの子にとっても必要な体験であり、学習です。
なので、親がいないところでも自由に遊べる、友だちと一緒に遊べる、という状態を目指すのが、幼少期の発達援助になります。


幼少期の子ども達を「何故、治す?」と訊かれれば、「思いっきり自由に遊べるために治す」と、私は答えます。
それが小学校4年生の壁を飛び越え、将来の自立、資質の開花へと繋がるから。
最終的な目標は、社会の中で自立し、自分の資質を自分のために、社会のために活かすこと。
そして、人生の自由を謳歌すること。
これが目標であり、治すはその過程の一つ。


今日は最高気温でも氷点下。
でも、外には雪がなく、太陽が見えている。
息子よ、さあ、今日も暗くなるまで、思いっきり遊んでおいで。
日が暮れるのと、子ども時代は、あっという間だから。

2019年11月25日月曜日

身体を遊び道具にする発達段階

11月中旬くらいから、おもちゃのチラシが入るようになります。
おもちゃ屋さんはもちろんのこと、いろんなところで「クリスマスラッピングやってます」「今なら玩具、20%オフ」など、クリスマスモード。
子ども、兄弟は少ないうえに、元気なジジババサンタが大勢いますので、貰えるプレゼントは多くなります。
孫が喜ぶ顔が見たくて、たくさんおもちゃを買ってあげたい気持ちもわからなくはないですが、子どものブームというのは、ほんの一瞬。
もらったその日に見向きもしなくなるなんていうのは、よくある光景ですし、それが自然な子どもの姿です。


「子どもに発達障害がある」となれば、なるべく興味関心があるものを、子どもの知育につながるようなものを、そばに置きたくなるのは、自然な感情だと思います。
特に、「手先が不器用」という様子があれば、手先をいっぱい動かせるようなおもちゃを、と考えます。
「おもちゃでたくさん遊んで、手先を育ててほしい」
そういった家族、親戚の願いが、おもちゃの数として表れます。


新しいおもちゃでも、すぐに飽きてしまうのは、発達障害だからではなく、子どもの特徴です。
しかし、不器用さが改善していかないと、エネルギーが「より良いおもちゃへ」と向かいます。
そして、ちょっとでも長く遊んでくれるおもちゃが見つかると安心し、また子が飽きると焦ってしまう。
そうこうしているうちに、月日とおもちゃが増えていくわけです。


おもちゃがたくさんある家庭は、そうではない家庭と比べて、子どもさんは上手におもちゃで遊べているように感じます。
でも、「おもちゃで遊べる」=「手先の発達」ではありません。
結論から言ってしまえば、手先が不器用な子に、道具(おもちゃを含む)は早すぎる。
もう少し手前の発達段階を育て切る必要があります。
道具を使うから手先が動くようになるのではなく、手先が自由自在に動くようになって初めて道具が使いこなせるようになるのです。


たとえ、おもちゃで上手に遊べるようになったとしても、結局は、そのおもちゃ限定の遊び方を習得したにすぎません。
おもちゃが変われば、また上手に遊べなくなる。
おもちゃ、また道具なども同じですが、そのモノの形態に身体を合わせている限り、根本的な課題は解決していかないのです。
自由自在に動かせる身体→道具を使いこなす、が自然な流れ。


赤ちゃんは、起きている時間が長くなると、腕や足をバタバタと動かします。
これは意識的な運動ではなく、付随運動である反射によって引き起こされます。
この段階では、赤ちゃんはまだ自分の手足という意識はなく、例えるのなら頭中心で生きている状態です。
見えているもの、聞こえているもの、匂っているもの、口を中心に触れているもので世界が成り立っています。


その段階から一歩進むと、徐々に自分の手が自分のものである、という意識が芽生えていきます。
最初は舐めて確認できた手が、見て自分の手だと理解できるようになる。
そうしているうちに、反射の段階から意識して動かせる段階に発達していく。
でも、まだこの段階では、手先まで自由自在に動かすことができません。


手先、指を発達させるには、他の身体、運動機能と同じように、『重力を感じる』ことが必要です。
うつ伏せになり、自分の身体を支え、起き上がる。
ズリバイに始まり、ハイハイ、高這い、動物歩きなど、立位に至るまでの運動発達をやり切る。
その過程において、手先がしっかり開くようになり、自由自在に動かせる手、指への一歩が始まります。


指が開くようになったら、すぐに手先が器用に動かせるわけではありません。
大事なのは、『自分の手を遊び道具にする』という過程です。
いろんなものに触れる、そして、手から、指から刺激を感じる。
手で押す、引く、手を叩く、手を振る。
モノを持つ、掴む、つまむ。
手で砂を掘る、手で積み重ねる、手で固める。
このような道具以前に、自分の手をまるで道具のように使う段階、手で遊ぶ段階を経て、子ども達は自由自在に動かせる手、指を手に入れていくのです。


ですから、「手先が不器用」というお子さんがいらっしゃいましたら、手に持っているその道具、おもちゃを一旦置いてみるのも必要かもしれません。
手全体が丸まっていたら、手がまだ重力との付き合い方を学びきっていないかもしれません。
土や泥などに直接、触ろうとしなかった。
砂場で、泥で遊ぶよりも、おもちゃで遊んでいる方が多かった。
砂場にいたけれども、手ではなく、スコップばかりで遊んでいた。
そういった場合、手を遊び道具として使う発達段階を飛ばしているかもしれません。


いろんなお子さん達と出会い、そしてこの仕事が長くなるにつれ、子どもにとって一番の遊び道具は、「子どもの身体そのもの」だと思うようになりました。
デジタル技術やいろんな道具、テクノロジーが身近で利用できるようになりましたが、どんな素晴らしい道具があったとしても、それを使いこなす身体に不自由さがあれば、恩恵を得ることができません。
特別支援の世界も、どんどん専門化していき、アプローチの仕方がマニアックになっています。
でも、発達障害は、発達にこそ、答えがあるのだと思います。


赤ちゃんがどのように手を育てていくか、自由自在に動かせる身体を培っていくか。
赤ちゃんは、手先をピンポイントで育てているのではなく、付随運動から始まる運動発達の過程を通して、ゆっくりゆっくり、全身を通して育んでいくのです。
だからこそ、子どもは全身を使った遊びが大好きであり、本能的な活動になります。
おもちゃで遊ぶのは学習。
なので、子どもが身体を遊び道具にして思いっきり遊べるような環境と、モノの数の配慮が必要です。


「遊び道具を片づけたら、全身を使って遊ぶようになった」
こうやって発達のヌケを育て直し、手先の不器用さを治した子ども達も多くいます。

2019年11月21日木曜日

発達に基づいたアセスメント、具体的な育み方の助言、そして結果、以上!

「親御さんの情報収集能力はすごいな」と感心することばかりです。
とても勉強熱心ですし、そこら辺の支援者よりも専門的な知識、情報を持っていると感じます。
専門家と呼ばれる人の中にも、自分の専門以外には疎かったり、価値がないものと最初から見向きもしなかったりする人がいますので、ヘタに頼るよりも、親御さん自ら突き進んだ方が良い場合もあります。


専門家、支援者は『対多数』ですが、親御さんは『我が子一人』のエキスパートになれば良いのです。
論文を書くわけでもありませんし、その専門領域内での権威の顔を伺う必要もありません。
ただシンプルに、我が子にプラスになること、より良く育つことができればいいだけ。
支援者、専門家のほとんどは、利用回数が増えると儲かる仕組みになっています。
でも、親御さんの希望は、我が子の自立。
つまり、支援、子育ての手が徐々に離れていくことが目指すべき方向。
なので、同じ知識、情報を持っていたとしても使い方が異なりますし、そもそも自立や治るという情報収集、研究をハナからしていないのです。


発達障害に関しては、親御さんと専門家&支援者との関係性が整理されていくと思います。
発達を促す場、育む場は家庭であり、それを後押しするのが専門家。
具体的には、現在の発達状況を確認し、具体的な育て方の助言を行う。
つまり、『アセスメント』と『具体的な育て方の助言』です。


今までのように、寄りそうとか、傾聴するとか、自己肯定感とか、褒めるとか、そんな抽象的で何とでも言えるようなものは、支援ではなくなりますし、公金で賄われるべき価値もなくなるでしょう。
人がどんどんいなくなっている社会ですので、共感は犬やイルカ、馬。
傾聴は近所の人か、ボランティア。
自己肯定感、褒めて欲しければ、ホステス、ホストさん。
あと、現行の〇✖クイズのような診断ならAIがやってくれると思います。


こういう私も支援者の一人であり、民間で公金なしにやっている身です。
ですから、『発達に基づいたアセスメント』と『具体的な育み方の助言』を磨き続けないと、真っ先にいなくなると思います。
あとは、それにプラスして、今の親御さん達が持つニーズに応えることです。


私のところにいらっしゃる親御さん達の中には、すでに色々な専門家のところに行ったり、自分で情報を集め実践されたりしている方達が少なくありません。
それなのに、私のところに相談があるということは、そこに自分たちで育み、治していく世代のニーズがあるわけです。


よく私が感じるのは、例えば、「習った通りにやっているのに…」「本に書かれているようにやっているのに…」、なかなか成果が感じられないというものです。
実際に、家庭で育んでいる様子を拝見しても、本人に合わない方法をやっているわけではない、特別、目的と違った動きをしているわけではない。
でも、成長がゆっくり、変化がない。


この要因は様々ありますが、多いのが他の発達がヌケているため、課題の根っこが解決していないため、思うように育っていかないというもの。
特に、背骨に固さや芯の通っていない雰囲気があると、刺激が全身を駆け巡らず、それでやっても成果が得られないということがあります。
背骨が自由自在に動かせるようになると、背骨が背骨としての役割を果たせるようになると、刺激と成長のバランスが釣り合う感じがします。
これはヒトが魚類→両生類→爬虫類→哺乳類という具合に進化してきたことと、脊椎動物であることが関係していると思います。


また、もう一つ、多くの子ども達に共通しているのが、その刺激、感覚を味わい切れていない、ということです。
身体を整えるアプローチ、感覚や発達のヌケを育てるエクササイズを、毎日、コツコツ行っている。
でも、それをやっている環境が騒がしい。
テレビが付いていたり、光の刺激が強かったり、メニューのように次々にあれもこれもやったり、「どう気持ちいい??」「こんな感じでいい??」と親御さんが常に話しかけていたり…。
これでは、自分の身体を通して伝わってくる刺激に集中できませんし、味わうことができません。


厳しいようですが、型は合っているけれども、「子どもの心はここにあらず」状態の家庭もあります。
心身の状態を整えたいのに、育ちきっていない感覚を育てたいのに、その環境が騒然とし、刺激に溢れていたら、子どもはどうなるでしょうか。
子どもが周囲の刺激に注意が奪われるのは自然なこと。
ですから、集中してもらいたい刺激に意識が向くように環境を調整すること。
そして、子どもの視点に立ち、本人がその刺激を充分に味わってもらえるよう配慮すること。
こういったことが大事になります。


このように、実践の場、生きている現場では、情報として表に出ていないコツ、ポイントというものがあります。
もし、私に誇れるものがあるとすれば、唯一、親御さんに勝てるところがあるとすれば、関わってきた人達、家族の人数であり、そこから見いだせる気付きだといえます。
「味わう」「雰囲気」「自然/不自然」「心地よい」「リズムが良い/悪い」「発達の流れ」「受精から現在までの物語」など、こういった部分は、言葉にしづらい感覚的なものであり、その人個人の経験の積み重なりから見えてくることですので、どうしても知識や情報から汲みとりにくい部分でもあります。
言葉は同じでも、どうしてその言葉が出たのか、どういった意味で、どういった体験、実践から使用しているか、は発信者に委ねられている部分ですので。


知識や情報の面で言えば、専門家と親御さんの差はほとんどないと思います。
もし専門家を頼る場面があるとすれば、それは、その人しか知り得ない情報、知見、技術を持っている人に限りです。
そして、その価値は、そこを利用している人にポジティブな効果があったかどうか。
つまり、結果がすべてです。


今まで、障害を持った人に関わっているだけで、支援者になれ、仕事をしているという時代でした。
しかし、今の親御さん達のニーズはそこにありませんし、利用できる支援サービスにも限りが見えてきました。
「治らない障害だから、成果が問われなくても良いよね」と、支援者がのほほんとしていた時代はもう終わりです。
発達に基づいたアセスメント、具体的な育み方の助言、そして何よりも結果。
この3つの視点で、きちんと専門家、支援者を見て、選択していってください。
良いものを残し、悪いものを切り捨てるのは、今の親御さん達の役割ですし、次の世代に負の遺産を受け渡さないための役目です。

2019年11月20日水曜日

他人に配慮できる人、気を使える人に育つには?

啓発活動では、「私達に、特性に、配慮を!」という具合に、支援だけではなく、配慮を求め、訴えていることがあります。
配慮が必要な場面で配慮するのは、当然です。
しかし、どうも、この『配慮』が一般的な人達の心に響いていきません。
何故なら、配慮とは、“お互い”が配慮し合うことだから。


常に配慮する側と、配慮を受ける側が替わらない。
とすれば、それは配慮を求めているのではなく、特別扱いを求めていると捉えられても仕方がありません。
職場でも、学校でも、仲間でも、一方的な配慮は、結果的に関係性を維持することができなくなるのです。
職場なら配慮するから、「仕事の成果を」
学校なら配慮するから、「しっかり勉強を」
仲間なら配慮するから、「お互いが楽しい時間を」
配慮を受けた側がそれに応えることと、反対に相手に配慮すること。
それは人と人の間で生きる人間が基本となす部分だといえます。


ですから、発達障害があるなしに関わらず、社会の中で、人との間で生きることを目指すなら、配慮を求めるだけではなく、配慮できる人に育つことが重要です。
では、どうやったら、配慮できる人に成長していけるか。


配慮をもう少し具体化すると、「気を使う」ということになると思います。
幼少期なら、それができなくても当然ですが、ある程度、大きくなったのに、気が使えないというのは、社会性の部分での未熟さを感じます。
学校だけではなく、家の中でも、啓発活動のように一方的な配慮を求める。
お母さんに対し、「僕に気を使え」というような要求をするのに、お母さんには全然配慮をしない、気を使わない。
「うちの中だからイイか」と思いがちですが、それが学校で、社会で、他人に対して表出すると、嫌われるか、仲間外れにされるだけ。
と言いますか、うちの中も、小さな社会ですので、家の中での言動も成長と共に変わっていかなければならないのです。


他人に気が使えるようになるには、2つの要素が必要になります。
まずは、空気が読めること。
そのためには、周囲からの情報をキャッチできる身体が必要であり、皮膚感覚が育っていることが重要。
同じように、内臓感覚や前庭覚、固有受容覚…の育ち、つまり、自己の確立。
自分という存在が感覚的に把握できている状態であることが、自分と空間、自分と他人を分ける大前提になります。
自分の境界線が曖昧ですと、環境からの情報をキャッチすることができません。
その姿が、「空気が読めない人」と、周囲に映ってしまうことがあります。


そしてもう一つの要素は、予測できること。
他人に気を使えるためには、他人の行動を予測できなければなりません。
「たぶん、お母さんは次に〇〇をするだろうな。だから、私はこう動こう」
この予測する力がなければ、いくら環境からの情報をキャッチすることができても、実際の行動にはつながりません。
例え情報がキャッチでき、「行動した方が良いかも」と気づけたとしても、相手の視点がない行動は、独りよがりの行動になってしまいます。


ですから、幼少期に感覚を育てることと同じように、予測する力を育てることが重要です。
予測する力は、予想や推測の問題をたくさん解けば、身につくものではありません。
予測する力にも、その土台があります。
それは、幼少期の遊び、特に名の無い遊び。


石を積み上げていくと、ある程度の高さで倒れてしまいます。
こういった遊びを繰り返すことで、「このくらい積んだら倒れるな」と体験的に学んでいくのです。
これも、予測する力の原形。
蛇口をひねったら水が出る、スプーンから手を離したら床に落ちる、砂場を掘ったら穴ができる…。
いろんな遊びを通して、予測する力を培っていきます。


さらに予測する力の原形は、身体活動へとつながります。
ジャンプしたら視線が変わる、必ず下の方へ行く、足の裏に刺激がある…。
赤ちゃんがガラガラを持ったとき、最初はどうして音が鳴るのかわからず、泣いてしまう子もいます。
でも、何度も、ガラガラを動かしているうちに、自分が起点となり、「腕を動かしたら音が鳴る」という流れがわかるようになります。
乳首を吸ったらおっぱいが飲めるというのは反射の動きですので、こういった身体を通した出来事と結果が結びつく瞬間が、最も初期の予測する力、その原形だといえるかもしれません。


一方的な関わりをしてしまう子が、予測する遊びをたくさんするようになって、相手の気持ちを汲むような行動ができるようになった、というご家庭もありました。
「今までお手伝いはしていたけれども、決まり事のようにやっていました。でも、近頃では、私の気持ちを考え、行動してくれるような様子を感じます」と教えてくれました。


「気を使う」というのは、遠慮するという意味ではなく、積極的な行動、前向きな配慮です。
お互いが配慮し合う、気を使い合う。
それこそが、人間関係を円滑にし、維持するために必要なことだといえます。
そのために、身体を通して、名の無い遊びを通して、行動→結果の体験を増やしていくこと。
それが積み重なっていくと、予測する力が培われていき、最も高度である人間関係における予測、他者の視点を想像することに繋がります。


ASDだから、発達障害だから、「空気が読めない」「相手の視点が想像できない」「一方的な関わりしかできない」のではなく、そういった能力に必要な育ちがなされていないからです。
常々言ってるように、未発達と障害は異なります。
そういった社会性の特性なのではなく、社会性が未熟であり、育っていないのです。
「気を使える人に育てよう」というのはボヤッとした目標ですが、「予測の要素の入った遊びをたくさんやり切ろう」というのは、今日から、家庭で今すぐにできることです。


子ども達は、運動を通して、原因と結果、地球に重力があることを学びます。
子ども達にとって遊びは、まさに科学の実験なのです。
科学者の生い立ちを聞けば、皆、子ども時代、よく遊んだ子ども達ですね。

2019年11月19日火曜日

土踏まずは、言語、認知、手先の発達へと続く道標の一つ

ヒトは、二足歩行ができるようになって、言語や知性、手先を発達させていきました。
ですから、二足歩行ができる身体に育てることは、とても重要だといえます。
二足歩行ができていないのに、言語訓練をしたり、勉強を教えたり、ソーシャルスキルを暗記させたりしても、効果は期待できないでしょう。


中には、自然な二足歩行ができていないのにも関わらず、しゃべったり、学校の勉強ができたりする子もいます。
しかし、そういった子ども達の多くは、脳みそ、特に大脳皮質が頑張って、なんとかこなしているという雰囲気があります。
私達が意識することなく、しゃべり、学ぶことも、脳をフル回転させながら、考える力でカバーしながら進んでいる感じです。
なので、小学校低学年のときは良いですが、3年生、4年生くらいになって、概念や考える力が求められるようになると、ついていけなくなるのです。


ある意味、丸暗記の会話、パターンによる会話、小学校低学年の概念があまり入ってこない学習においては、発達の凸凹があろうとも、発達の遅れ、ヌケがあろうとも、続けていけば、身に付けることができます。
しかし、重要なのは、丸暗記や型が決まった会話ではなく、自然な会話、やりとりです。
それは学習面でも同じ。
決められた計算式で答えを出す、文章に当てはまる文字を書きぬく、文字を覚える…。
こういった基礎、土台から一歩進み、自ら考え、さらに答えのない答えを導き出していけるところまで成長していけることが、学ぶ目的でもあります。
そのために、単に「二足歩行ができる」ではなくて、“自然な”二足歩行ができることが必要になります。


普通級に在籍している子で、勉強や人間関係で躓き、初めて「発達障害では?」というようになる場合があります。
幼少期、物静かな子、勉強や運動が苦手な子も、小学校に上がり、概念と複雑性の世界に入ると、徐々にしんどくなっていきます。
そういったとき、「発達障害の子どもに合わせた方法で勉強を教えてほしい」と依頼が、私のところにきます。
しかし、そういった家庭教師としての役割は、ほとんど行うことがありません。


振り返れば、幼少期から何らかの発達の遅れ、ヌケはあったのでしょうが、特に指摘されることなく、診断を受けることなく、普通級に在籍しているわけです。
ということは、認知の面での根本的な問題があるわけではありません。
よく勉強についていけなくなると、それ知的だ、認知面の問題だ、それが発達障害の特性だ、となりがちですが、そうではないと思います。
ついていけなくなったのは、大脳皮質でカバーしきれなくなった表れ。
別の言い方をすれば、認知面が優れていた、そこは普通だからこそ、幼少期、指摘されることなく、普通級で勉強が続けられてきたわけです。


家庭教師の依頼があり、相談に伺うと、こういった共通した姿があります。
姿勢が悪い、長く座ってられない、鉛筆の持ち方が不自然、身体が傾いている…。
そして足の裏を見せてもらうと、みなさん、まるで赤ちゃんのような綺麗な足をしていて、土踏まずがない状態。


もちろん、個別のヌケがあり、個人の発達の物語がありますので、一概には言えませんが、「勉強を教える前に、土踏まずを作りましょう」という提案をさせてもらうことがあります。
まさに土踏まずを作るのは、あらゆる活動の土台作りです。
「勉強がしんどくて家庭教師」ではなく、「勉強がしんどくならないような家庭教師」
「発達障害は治らない!」と主張する人も、土踏まずを作ることに異論はないと思います。
土踏まずを作るのにエビデンスは必要ありません。


土踏まずができれば、自然な姿勢が保てるようになります。
何故なら、立位後、重力と一番お付き合いしている身体は足の裏だから。
足の裏に土踏まずがないということは、たとえ立ったり、座ったり、歩いたりしていたとしても、それはどこか別のところ、機能がカバーしているのです。
つまり、土踏まずができ、自然な姿勢ができるようになれば、そこに使っていた分、カバーしていた機能が、本来、自らが受け持つ役割に専念できるということ。
脳みそに余白ができれば、その分、考えること、発達することにエネルギーを回せます。


土踏まずを作るのには、お金も、薬も、療育も、必要ありません。
その方法は、とてもシンプル。
足の指で踏ん張ることと、踵に重心を置くこと。
この運動の繰り返しで、土踏まずが育っていきます。


足の指で踏ん張る運動は、寝返り、ズリバイや高這い、動物歩きなど。
こういったトレーニング的な運動が嫌なら、坂道を上ったり、下りたりすれば、良いのです。
あとは、砂場や海辺、土の上を裸足で歩く。
イメージで言えば、「地面を足の指で掴む」です。


踵は、階段の昇り降りが良いでしょう。
そして重いものを背負うのも良いです。
飛んだり、跳ねたりしていれば、自然と足の裏が重力との付き合い方を学んでいきます。
自分のリュックにお弁当を入れて、山登り、ピクニックに行けば、楽しいし、土踏まずもできるから一石二鳥。
ただし、高性能の子ども靴は、勝手に足が進んでしまいますし、足の裏への刺激が軽減されてしまいますので、どういったものがいいか、考える必要はありますね。


先日、会った小学生のお子さんは、「土踏まずができた」と、足の裏を見せてくれました。
家庭教師の依頼から、私が土踏まずの提案をし、「また半年後に」と言って終わったご家庭でしたが、お母さんが言うには、「以前よりも、勉強の遅れが気にならなくなった。会話の内容が変わった」とのことでした。
土踏まずができたから、勉強や会話の面で良い発達があったのか、土踏まずができ、脳に余裕が生まれたから、本来の力が発揮できるようになったのか、はわかりませんが、それでもお金をかけず、楽しみながら、遊びながら足の裏を育てたのは良かったと思います。


発達障害ぬきに、足の裏に土踏まずがない足は、不便ですよね。
「土踏まずぐらいで」と思う人もいるはずですが、進化の過程、人類が600万年、ほとんどの時間を舗装されていない道を歩いたり、走ったりしていたと思えば、その重要性はわかるはずです。
自然な二足歩行がどういったものか、ちゃんと運動発達しているかどうか、がわからなくても、土踏まずがあるかないか、は皆さん、確認することができます。
土踏まずは、言語、認知、手先の発達へと続く道標の一つです。


*土踏まずや母指球の育て方、その意義については 『自閉っ子の心身をラクにしよう!』 (栗本啓司著 花風社)に詳しくありますので、是非、参考になさってください。Kindle版(電子書籍)もあり。



2019年11月15日金曜日

「発達障害=療育」「診断→療育」「療育を受けさせるのが良い親」は誤り

ついこの間までは、「発達の遅れを指摘され、診断を受けたら、気が付いたときには申請書に記入し、療育施設に通っていた」とおっしゃる親御さんが多かったです。
でも、最近では、その療育とやらも、どこも枠がいっぱいらしく、利用できるまで間が開くようです。
ですから、その間にいろいろと調べて、自分で行動する親御さん達が出てきたように感じます。


私のところにも、そういった方達からの相談が来るようになり、半年待機なら、一年待機なら、「その間で1つでも治しちゃいましょう!」という具合に、せっせと発達援助を行い、ヌケや未発達を育てていきます。
半年あれば、できることはたくさんありますし、年齢が幼ければ幼いほど、発達は加速度的に進むものなので、育つのも早いです。
「結局、療育施設への希望は取り下げました」というお話を聞けば、公的な資源を使わず、自らの力によって必要性がなくなるほどに治したのだから、これも一種の社会貢献であり、やっぱり治すことは本人にとっても、家族にとっても、社会にとっても、喜ばしいことだな、と改めて感じます。


現状の療育では、治すことを目的としていませんし、症状の軽度化も達成できていません。
とにかく「適応力を上げる」が主であり、その適応力とは、社会への適応ではなく、支援への適応。
つまり、支援しやすい子に育つような支援です。
もっといえば、支援者が介護しやすい子にどう育てるか、というもの。
どうして、そんなことが言えるのか、と問われれば、早期診断→早期療育→特別支援15年で、ほとんどの人が自立できていないから。


ギョーカイの掲げる目標は、「支援を受けながらの自立」なので、まあ、見方を変えれば、思い通りに育てることができているわけです。
「生涯に渡る支援」を高々に謳っていますので、支援の仕方、指導の仕方は、どうしてもそのゴールに向かったものになります。
早ければ、1歳から人生を終えるその瞬間まで、支援を利用してもらいたい。
こういう事情がありますので、また結果として出ていますので、「どうして、早期から頑張って療育、支援を受けたのに、自立しないんだ」と怒ったところで意味がないのです。
社会の中の自立、症状の軽度化、発達のヌケや未発達を育て、治すことを目的としていないので。


これもつい最近まであった不思議な相談なのですが、「幼稚園(保育園)を休んで、療育に行くことを促されるのですが、どう思いますか?」というもの。
促してくる人は、医師であり、療育先の支援者であり、子育て相談の人であり、中には日頃通っている幼稚園、保育園の先生まで。
こういったのは、ナンセンスの一言です。


子どもにとって、毎日通う幼稚園、保育園は、そこも立派な社会であり、発達の場です。
本来、社会の中で、自分の資質を活かし、自立して生きていくことが、目指すべき姿。
そのための方法の一つとして療育があるのであって、療育を受けるために療育があるのではありません。
子どもが社会で過ごす時間、同世代の子ども達と共に発達する機会を減らしてまでも、その療育を受ける必要があるのでしょうか。
それは幼稚園で過ごす以上の素晴らしい学び、成長の機会となるのでしょうか。
今まで一番驚いたのは、園での遠足の日と療育の日が重なったとき、「療育に行ってください」と言われた人がいたこと。
子どもにとって、ワクワクするような行事、大切な思い出よりも、トランポリンを跳ぶのは必要ですか?絵カードの使い方を練習する方が大事ですか?イラストを見て、その名前を声に出すのは必要ですか?


私は常々言っていますが、「診断→療育の流れ」はおかしいと思います。
診断を受けたとき、もちろん、診断を受けずに発達の課題を指摘されたとき、「この子にとって何がベストか?」「どんな選択がより良い発達に繋がるか?」を検討し、その上で療育なら療育、それ以外の方法、また支援を受けるにしても、すぐなのか、家でもう少し育てたあとからでもよいのか、という話し合い、助言があってしかるべきです。
それなのに、申し合せたように「診断→療育」をひとセットのごとく、伝えてくる。


中には、そんな勧め方をしてこない専門家もいる一方で、療育を受けないことが悪いことのように、また「受容できていないダメな親」というように言ってくる人もまだいるようです。
精神的に、どうしても冷静になれない時期ですから、なおのこと、言われるがままに進んでしまう親御さんがいるのは仕方がないことです。


地方ですと、田舎ですと、診断も、療育も、相談も、支援事業所も、全部、同じ法人ということも少なくありません。
また、一人の人が利用しても、「利用回数①」にしかなりませんが、複数の事業所が関われば、②にも、③にもなります。
その利用回数に応じて、公金を受け取る仕組みですので、同じ法人同士じゃなくても、繋がっているところ同士でパスし合う、ということもあります。
なので、同じ相談事業所を利用している人は、療育も、通所も、病院も一緒のことが多いのです。
これって、本当に個人の利を一番に考えている行為だといえるでしょうかね。


発達障害だから、療育を受ける、受けなきゃならない、というのは誤りです。
今、その子の発達にとって、何がベストか。
幼稚園、保育園、同世代の子ども達との関わり、家庭生活において、より良く活動できるためには、どういった援助が必要か。
それを真剣に考えたとき、「幼稚園を休ませてまでも療育に行く必要はないな」と思えば、行かなくて良いのです。
幼稚園での経験、発達と、療育機関での経験、発達との間に差はありません。


よく「幼稚園と違って、療育施設は専門的だから…」と言われる親御さんもいますが、その専門は、優れているという意味の専門ではなく、質を担保するための専門ではなく、「うちは(健常児ではなく)障害児を専門しています」というだけ。
お米屋さんが「お米の専門店です」と言っているようなもの。
そのお米が美味しいかは、個人によって違います。


発達の専門は、療育施設だけではないのです。
幼稚園も、保育園も、公園も、習い事も、友達との間も、もちろん、家庭も、すべてが発達の場。
そこに優劣はなくて、あるのは、その子に合った組み合わせ、重きの置き方だけです。
つまり、発達は、そのとき、そのときで、ベストな組み合わせを作っていくということ。
「診断→療育」という決まり切った流れは、個人の発達、子育てにおいて最も重要なカスタマイズする行為を妨げてしまいます。
子どもの発達が多様なように、その育ち方、育て方も、もっと多様であって良いのです。
そこに子育てを始めたばかりの親御さんが気づけることが大事ですし、伝えることが専門家の本来の役割でもあります。


「発達障害だから療育」は、思考も、育ちも、家庭の養育力も、貧相にしてしまいます。
大事なのは、今、その子に合った育ちは何かであり、その育ちが将来の自立へと繋がっているか、ということ。
そして忘れてはならないのは、その瞬間、今の子ども時代はもう戻ってこない、ということです。
私は親御さんに良く言います。
「お子さんからしたら、大きくなって振り返ったとき、子ども時代の思い出が療育に通っただけ、だったら悲しくないですか。一番に思いだされるのは、やっぱり家族の思い出、友達との思い出であってほしいですね」と。
家族との思い出も、将来の自立には必要です。
二度と戻ってこない今を、子どもさんも、親御さんも楽しんでほしい、と私は願っています。

2019年11月14日木曜日

診断基準は変わる、進歩と人為によって

DSM-5が発表される際、アメリカ国内では騒動が起きました。
新しい診断基準になると、それまで該当していた人達の中に基準から外れてしまう人達が出る、と。
それでは、「今まで受けられていた支援、サービスが受けられなくなる!」「それは問題だ!」ということで、当事者、家族から声が上がったのです。


新しい診断基準へと改定を進めた人達も、当然、こういった反応は予想できたと思います。
(まあ、結論から言ってしまえば、ロビー活動によって、改訂前に診断を受けていた人は、それまでと同様に支援が受けられるようになりましたが)。
では、何故、改定する必要があったのか。


当然、多くの臨床からより実態に合ったものへ、それまで分からなかったことが明らかになったことによって、診断基準が変更されるという面があります。
DSM-5では、自閉症やADHD、LDなどが神経発達症という大きな括りの中に入ることになりました。
「どうも、“神経”発達が大きくかかわっているようだ」という具合に。


一方で、純粋に医学的、科学的な進歩によってのみ、診断基準が変わるわけではないこともわかります。
端的に言えば、診断基準に該当する人を減らしたかった。
先進国では、韓国、日本の順に、発達障害が増加していますが、アメリカでも同様に、ますます発症率も、発症者数も増えているのです。
ある程度、支援サービスが整っている国では、それに伴って、どんどん公的な予算、費用が増えていきます。
そこで有限であるリソースを効率的に分配するためにも、いや、もう予算がないから勘弁してくれ、ということかもしれませんが、開いた蛇口を閉め始める。
そういった側面も、あるのは当然だといえます。


このように人間が行うことには、少なからず思惑が入る余地があるのです。
発達障害が、神経の問題になったとき、神経なら育てられるし、アプローチできることが示されるようになりました。
また、長らく言われていた「生まれつきの障害」という言葉も根拠がなくなり、『発達期に生じる』という言葉によって、環境、アプローチの仕方によって変化が生じるという可能性、希望が見いだせるようになりました。
しかし、私達は医学、科学の進歩による恩恵だけではなく、その裏側にある意図にも目を向け、理解する必要があると思います。
つまり、未来は引き締めの方向へ進んでいくことと、その社会状況によって人為的に診断基準すら変わるということ。


日本は、世界の中で2番目に発達障害が増加している国です。
しかし、その増加に歯止めをかけるような環境要因に対する手は打たれていません。
しかも、その原因に関する研究結果、不都合な真実を否定し、隠そうとする人達も存在するくらいです。
それでいて、増加の一途を辿る発達障害者に対する支援は、「“支援を受けながら”、より良い生活を目指していく」という方向性のまま。
「支援を受けながらの自立」という具合に、官僚の答弁みたいなことが言われる始末。
支援を受けていたら、その時点で自立とはいえない。
自立とは、その名の通り、自分の足で立つこと。
結局、支援者も、支援を受け続けてもらうことが前提で、本気で自立など目指していないのです。


少子高齢化の社会なのに、どんどん発達障害の子ども達が増えている。
それでいて医療は治すことを目指さず、支援者は自立させることを目指さず。
親御さんの中には、我が子の自立よりも、どれだけ支援を、サービスを勝ち取るか、というような人達も少なくない。
この状況で、将来、診断基準が変わったり、支援サービスが利用できる人に制限がかかったりしたとき、どうなるのでしょうか。


国が、「もうこれ以上、発達障害者に対する公的なサービスの負担はできない」と言ったとき、私はアメリカのように、それまで支援を受けてきた人が大きな声を上げると思います。
そして現実問題として、支援を受けること前提で育ち、支援が染みついた人達からは取り上げることができないはずです。
制度が変わったから、「明日から支援サービスは受けられません」「事業所に来ないでください」「グループホームから出て行って」「飲んでいた薬、全部中止」とはならないでしょう。
となると、この世代は勝ち逃げ世代、逃げ切り世代になるのです。


限りある資源に、今の逃げ切り世代が大部分を占める。
医療、ギョーカイは、今まで通りの方向性で進もうとするでしょうが、今の子ども達は、その流れに乗ってはいけないのです。
どう考えても、出口戦略のない、そこに穴の開いた壺の中に、貴重な水を注ぎ続けるような支援は、近い将来、破綻します。
2025年、団塊世代が後期高齢者になる時期、ですから、早ければ5年後には、見直しが行われると思います。
子ども達とその家族の割合、しかも、その中で発達障害を抱えている家族の割合は、それ以外の国民の数からしたら少数ですから、選挙で、政策として勝てるわけがありません。


日本は自然災害から逃れられない国ですし、社会だって、どうなるか予測ができない不確実性に溢れています。
そして、いくら叫んでも、勝ち逃げ世代は勝ち逃げするだろうし、今までのような支援を前提とした人生設計はなり立たない。
ですから、確実なことを増やしていく。


発達は後戻りしません。
一度クリアした発達課題は、確実にその子の内側に残ります。
テクニックや知識は後付けできるし、忘れ、失うこともありますが、その感覚、動き、身体は生涯、その人の人生を支え続けます。
そうです、発達課題をクリアし、獲得していくことは、自らの内側に生涯の支援者を育てるということ。
与えられる支援は、いつどうなるかわかりませんが、内側にある支援は裏切らない。


自らの足で立って生きることを自立というのなら、自らの内側の支えを作ることです。
そのために、子ども時代、家庭の中でできることはたくさんあります。
『快食快眠快便』と『自由自在に動かせる身体』
これらを育てることは、自立の土台作りだといえます。
別の言い方をすれば、これは、どんな優れた社会、福祉制度、支援でも、担えない部分。


動き出すのは早い方が良い。
すでに私達は、逃げ切り世代にはなれません。
従来のままの医療、支援、専門家に別れを告げ、私達は確実なものを子ども達の内側に育てるという道を進むのです。
どんな未来が訪れようとも、子ども達が自分の人生を、自らの足と意思によって自由に謳歌できるように。

2019年11月13日水曜日

寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えます!

福祉の世界では、「障害者に“寄り添う”」という言葉が大切にされています。
私が施設職員として働き始めたときの入社式でも、福祉事業所が主体である会議、研修会、講演会でも、書籍やギョーカイ新聞においても、「寄り添う」という言葉が出てきます。
あたかも、その言葉を入れないといけない決まりがあるような、まるで締めくくりの定型句のような。
「寄り添う」は伝統芸能のように、代々受け継がれてきています。


しかし、その「寄り添う」の流れの始まりを見てみると、昭和の初め、何十年も前にさかのぼります。
当時は、障害を持った人達が座敷牢に入れられていました。
その社会的に消し去られた時代から、障害者の保育、福祉、教育に移り変わるとき、「寄り添う」という言葉が生まれ、本人、家族、福祉に携わる人達にとって意義をもったのだといえます。
社会的に排除され、地域、家族からも存在が否定されていた時代。
その時代においては、障害を持った人に寄り添う、それ自体に価値があったのだといえます。


では、現在においても、「寄り添う」は大きな意義を持つことなのでしょうか。
職業として、仕事として関わっている人間が、その職務の一番に「寄り添う」を掲げて良いのでしょうか。
今は、福祉だけではなく、医療や教育、行政など、あらゆる分野で「寄り添う」「共感する」「認め合う」などと言われています。
でも、寄り添い、共感し、認め合うのなら、赤の他人が税金を使ってやることではないと思います。
寄り添うだけだったら、犬の方が優れているのでは。


本人が福祉の世界に入ると、成長が止まる、むしろ、できたことすらできなくなるのは、未だに福祉の中心に「寄り添う」があるからだといえます。
その施設内で問題が生じても、その問題を解決するよりも、「その人はやりたくてやっているのではない。困っている人である。だから、私達が寄り添うのだ」という具合に流れてしまう。
本人の生きづらさを改善するよりも、生きづらさを抱えている本人を一人にしない、孤立させないと流れてしまう。


「これのどこが仕事なんだろうか」
「この作業を続けていくと、キャリアアップに繋がるのだろうか」
「この自立訓練では、一生、自立できないだろう」
そのような福祉が今もなお存在し続けるのは、職員の質の問題もあるでしょうが、それ以前に福祉が「寄り添う」ことを第一に考え、寄り添うことが自分たちの使命、役割という価値観が続いているからだといえます。


日本の場合、福祉がリードしてきた歴史がありますので、特別支援教育においても、福祉の色が出ています。
さらに医療の分野においても、障害を持った子の親であるドクター達がリードし発展させてきた流れがありますので、本人の成長を後押しする教育でも、本人の生きづらさの元を治す医療でも、「無理をさせない」「頑張るのは本人ではなく、周り」という姿勢が強く出ています。
多分、福祉の中核である「寄り添う」が、それぞれの領域に派生したのでしょう。
言葉は違えど、弱い立場である人たちを守り、寄りそうという雰囲気は一緒です。


発達障害という分野でお金を貰っている以上、具体的な助言ができないようでは、プロとしては失格です。
子育てで悩んでいる親御さんに、「お母さん、その子の良い面を見ましょう」「お母さんがラクになると、子どもさんも成長しますよ」と言う。
これは良いことを言っているようで、何の足しにもならないことを言っています。
良い面を見ようとしても見れないくらい子育てが大変、本人の発達が不安。
だから、相談しているのに、寄り添った風の綺麗事を言うだけ。
こういう専門性がない言葉が堂々と発せられ、繰り返されている。
これはとても恥ずかしいことですし、日本の公的な支援の質が停滞している象徴的な場面でもあるのです。
「時間が解決する」なら、支援者はいらない。


「私の地域は、遅れています」
このような言葉は、いろんな相談者の方からお聞きします。
でも、住んでいる地域の支援の質が遅れているのではなく、現在の発達障害に関わる公的な支援全体が遅れているのです。
本来は、常に質の向上を目指し、前の世代よりも良いものに進歩させていくために、日々、研鑽を積んでいく必要があるのに。


どういったサービスを提供し、利用者にとって、どのくらい利益があったか。
そういったことが問われることなく、利用した数字によって、公的な資金が得られる、その仕組みに胡坐をかき、座敷牢の時代に芽生えた「寄り添う」だけで飯を食っている。
こういった現状に、公的な支援に、「NO」をつきつけるのは、令和の時代に子育てをしている親御さん達なら、またその原資を担っている社会人なら、当然の権利。
これは反社会的な行動ではなく、むしろ、社会をより良くしていくための心ある行動です。


発達障害は、その名の通り、発達に関わる障害なので、どうすれば、発達が促されるか、発達のスピードが加速するか、具体的に助言ができなければなりませんし、実際にやり方を示せる必要があります。
自分ができないのに、自分がやったことがないのに、良いも悪いもありません。


①生きづらさ、困難、悩みの根っこは、どの発達と繋がっているのか。
②その発達は、どのような順序で、どのようなアイディアによって、育っていくのか。
③実際に言葉で、実践で、示していく。
④そして、それを本人、家族がやった結果、ポジティブな変化が見られた。
そこで初めて、その支援、援助、相談が価値あるものとなります。
現状の多くは、①に入る手前で終わっています。
だって、治らないし、個性だし、無理させないから。


公的な支援サービスが変わるには、まだまだ時間がかかりそうです。
たとえ、単に「寄り添う」だけから、結果が問われる仕組みに変わったとしても、今の子育て世代には間に合わないでしょう。
ですから、自分自身で学び、行動していくのみ。


「発達は診察室のみで起きるのではない」
「療育施設のみで起きるのではない」
「学校のみで起きるのではない」
あらゆるところに、発達の機会があります。
当然、一番長く過ごす家庭生活が発達の中心です。
寄り添うのも、発達を後押しするのも、家族が行えるのです。

2019年11月12日火曜日

生きづらさ保全の会

不登校や不登校気味の子の相談で多いのが、「クラスの子が泣いたり、叱られたりしていると、自分も悲しくなる、辛くなる」というものです。
その状況に耐えられなくなると、だんだんと心身に不調をきたし、学校に行けなくなる。
勉強や友人関係に問題はないのに、こういった理由から不登校になる子も少なくありません。


だいたい最初の対応として、「担任の先生にあまり叱らないように」とお願いをするようです。
しかし、いけないことをしたら指導するのは当然ですので、叱る場面をゼロにはできません。
それに子ども同士のやりとり、個人の感情はコントロールできませんので、クラスの子がネガティブになる状況はあり続けます。
となると、結局、本人が辛くなることは変わりませんので、もう一度、要望、話し合いが行われます。


先生としても、本人を叱っているわけではありませんし、クラスの子の感情をコントロールできるわけではありませんので、困ってしまいます。
一方、親御さんの方も、状況が変わらないことに焦り始める。
そういったとき、両者の流れが「発達障害」に向かい始めます。
担任が抱え込めない部分を受け持ってもらうための「発達障害」
特別な配慮をより認めてもらえるようにするための「発達障害」
ちなみに不登校になってから、診断を受けるケースが本当に多いです。
診断を受けると、その学校の不登校数にカウントされないというルールがあるのでしょうかね。



特別支援に関わる人、支援者、専門家の中には、こういった子どもさんに対し、「とても優しいお子さん」「他人の気持ちに共感できるのは長所」などと言います。
でも、本当に優しい子、他人の気持ちに共感できることが長所と言えるまでになる子というのは、ただ悲しんでいるだけではなく、行動に移せる子です。
悲しんでいる子の横で泣いている子は、ただ泣いている子。
そこから一歩成長し、悲しんでいる子に対して、どういった行動ができるか、それを考え実行できる子に育てるのが、また育ってもらうのが、子育てであり、教育でもあると思います。


このようなお子さん達は、一言で言えば、「自分が確立できていない」のでしょう。
自分と他人の境界線が曖昧ですし、その曖昧さは、自分の身体の範囲がわかっていない、ということ。
それは内臓の発達の遅れ、皮膚感覚、前庭覚などの未発達などがあるのであり、感覚の育ちに遅れがあるということは、呼吸や運動発達にヌケがあるかもしれないし、原始反射が残っているために発達が滞っているかもしれない。
また、その名の通り、きちんと地に足がついていないかもしれない(浮き足など)。
こういった連想は、発達に関わる職業人なら瞬時にできるはずなのに、なんでもかんでも、保全に努めるのが特別支援に関わる者の性。
他人の生きづらさをコレクションするのは、悪趣味としか言いようがありません。


個性を”活かす”には、行動が伴わなければなりません。
「自閉症の人はルーティンワークが得意だから」「覚えるのが得意だから」「間違いに気づくのが得意だから」
そういった個性にスポットライトを当て(別名「苦手なところは無視」)、就職に向けた学習をし、ジョブマッチングをし、どれほどの人達が卒業後、仕事が続けられているのでしょうか。
結局、活かすための土台ができていない、ゆえに行動が伴わず、ただ個性を持っている人で終わってしまっている。
こういった状況は、本人の人生はもちろんのこと、社会にとっても大きな損失だといえます。


個性を活かすには、それに見合った行動ができること。
行動ができるようになるために、発達障害は治す。
私は、「発達障害ゆえに素晴らしい個性を持った人」というのは間違っていると思います。
素晴らしい個性にするためには、それが発揮できるだけの育ちが必要。
なので、「発達障害が治ったゆえに、素晴らしい個性を持った人」と言われるのだと思います。
発達障害を治すことなく、治そうとせず、個性だけ抽出しようとしても、無理。
人間をひと部分切り取るのが無理なように。


冒頭で紹介した子ども達も、未発達の部分が育ち、自分が確立できると、他人の感情に振り回されなくなります。
自分という主体があったうえで、悲しむ人に共感できる。
そのようなもう一段回進んだ、発達した共感が、行動できる姿へとつながります。
悲しむままは、個性ではなく、発達段階が幼いのです、周りの子が泣くと、一緒に泣き出す幼児のように。


不登校→診断→支援→障害の保全→生きづらさは変わらない、の無限ループ。
私はつくづく「どうして生きづらいままの人が、他人のため、社会のために、個性、資質を活かすことができるだろうか」と思います。
ですから、特別支援を見ていると、「子ども達の資質を伸ばそう!活かそう!」と、真剣に考えていないように感じます。


ある学生さんが、支援者から「その嗅覚過敏を活かして、匂いに関する卒業研究をしたらいいんじゃない」と助言されたそうです。
でも、その学生さんは、こう言っていました。
「私は嗅覚過敏で苦しんでいるのに、どうやって、それを使って研究ができるといえるのでしょうか」と。
過敏を活かすにしても、それに圧倒される段階から、しっかり自分で掌握できる段階まで発達しておくことが必要ですね。
個性も、資質も、磨いてナンボ、育ててナンボ。
行動が伴って初めて、長所、素晴らしい個性、資質だといえるのです。

2019年11月11日月曜日

「障害ゆえに生きづらい」と「生きづらいゆえに障害」という連想

誤学習ランキングをつけるとすれば、「発達障害ゆえに生きづらい」が上位に食い込んでくると思います。
面談でお話ししていると、「それって、発達障害、関係なくね」と思う場面がよくあります。
「私は発達障害だから勉強ができないんだ」
「僕は発達障害だから、みんなに嫌われる」


詳しくお話をきくと、同じ勉強方法にこだわっていたり、そもそも勉強していなかったり。
周囲の人達は、発達障害を嫌っているのではなく、迷惑行為を嫌っていたりする。
「そんなことをしていたら、発達障害じゃなくても、嫌われるよね」ということがあります。
失敗や嫌われるにしても、因果関係が掴めていない。
ゆえに、また同じミスを繰り返す、の無限ループ。


因果関係が掴めないのは、情報が読みとれない、空気感が捉えられない、という本人側の理由が考えられます。
まあ、これが「発達障害ゆえ」と言われたら、そういう面もあるでしょう。
しかし、こういった部分は脳の機能障害ではなく、感覚系の未発達。
ですから、育てれば発達するし、感覚的にわかるようになる。


感覚系に未発達がある→情報が読みとれない、となると、頭先行で物事を捉えてしまいがちになります。
そこに脳の余白がないと、先着一名様の思考と重なって、特定の考え方に縛られてしまう。
それが「発達障害ゆえに生きづらい」という考え方(?)文言(?)スローガン(?)


本やネット、メディアなどでは、「〇〇ができない」「〇〇で失敗する」という具合に、ネガティブワードで溢れています。
そもそも診断基準の記述が、そのような「できない探し」で構成されているので無理もありません。
因果関係は載っていないで、「〇〇ができない」という文言ばかりなら、「発達障害=できない」という図式が出来上がってしまいます。
本当は、できないことよりも、「何故、できないか?」が重要なのに。


当事者会に行けば、形式的な自己紹介後は、「今、困っていることは何ですか?」と、みんな、困っていること大前提で会が進行していく。
その困っていることは、悩んでいることは、同世代の人達も同じように悩んでいるかもしれない。
そういった視点が持てなければ、当事者会は「同じ悩みが共有できた」という心の軽さよりも、「発達障害は、あんな困難も、こんな困難もある」という心の重さが増すばかり。
だから、当事者会を居場所にしてしまう人達は、ますますその重みで身動きがとれなくなるのだと思います。


愛着障害のある支援者は、自分が必要とされているという実感を得続けたいため、発達障害の人達には、心のどこかで、ずっと生きづらい存在でいてほしい、と願うもの。
ですから、その生きづらさをどうにかしようと思うよりも、その生きづらさに共感し、想いを受け止めようとする。
それが結果的に、当事者の人達の生きづらさの固定化につながります。
その生きづらさに、真っ正面からぶつかろうとする支援者は少ない。
「できることを活かして」「長所を活用して」は、問題の本質から逃げるための綺麗事。


さらに本人たちにとっては、家庭さえも生きづらさを強化する場にもなります。
当事者会同様に、親の会も、よろしくない。
聞けば、それは単なるわがまま、しつけの問題でしょ、というのも、会のルールなのか、誰も指摘しない。
指摘するような人がいたら、あとから「あの人も、自閉入っているよね」と言う始末。
「苦しいのは、うちだけじゃない」というような決して心をラクにしない確認をするために通い、家に帰れば、あらゆる困難を「障害ゆえに」と割り切る。
でも、そういった視線、態度、子育ては、本人にも伝わるもの。
ある若者は、「親の会に行って帰ってきた後の親がイヤ」と言っていました。


厳密に言えば、その生きづらさの正体は、どのくらい障害が影響しているか、なんてわかりっこありません。
ただ確実に言えるのは、生きづらさを感じている主体がいて、生きづらさが存在しているということ。
そして、同じ場所、同じことを繰り返している限り、その生きづらさは軽くならないということ。


その会に参加し続けて、現実の問題は解決したのでしょうか。
その支援者の支援で、その施設の療育で、自分の生きづらさは薄れていったのでしょうか。
生きづらいと訴えている人に、「その生きづらさがあなただ」「生きづらさばかりではなく、良い面を」と言うのは、支援しているといえるのでしょうか、その人は職責を果たしているといえるのでしょうか。
生きづらさが変わらないなら、そこは、あなたの場所ではない。


いろんな悩み事もそうですし、二次障害のエピソードなんかもそうですが、それ自体は誰にでも生じることだと感じます。
では、発達障害を持つ人は、何が違うのか。
私は、土台の脆さだと感じます。
結局、その出来事以前に、日頃から身体がしんどい、感覚刺激に圧倒されている、季節や環境の変化に翻弄されてしまっている、疲れから回復しづらい、というような生き物としてのしんどさがベースにあり、そこにネガティブな出来事が重なると、より生きづらさ、心身の不調へと繋がるのだと考えています。


人生、生きていれば、困難、ネガティブな状況と出逢うなんて当たり前です。
それは発達障害の有無に関わらず。
環境や未来の出来事はコントロールできないけれども、ベースにある日々のしんどさは改善、治すことができます。
特に、それが未発達だったり、発達のヌケだったりすれば、育てなおすことができる。
そのために、行動すること、何かを変えることが大事です。


「発達障害ゆえに生きづらい」というメッセージの一番の問題は、本人、周囲の動きを止めてしまう点にあると思います。
だって、思考停止でしょ、この言葉、この言葉の持つニュアンスは。
「あなたには発達障害がある。ゆえに生きづらさがある。しかも、その生きづらさは生涯変わらない」
そんなメッセージを長年受け続けていたら、行動を起こす気力が失われていくのも当然です。
その行き場を失った絶望感が、無駄に社会に向けられ、社会や困難がなさそうに見える人へぶつけられていく。
そういう人が嫌われ者になるのは仕方がないことですし、それは障害ゆえではありません。


以前、関わった若者が、「身体がラクになったら、いちいちネガティブな出来事に乱されなくなった」と言っていました。
だから、生きづらさは固定化されたものでも、障害特性でもありません。
夏に会った不登校の子は、緩い便から変わり、普通便が出るようになったら、自ら学校に行くようになりました。
やはり生き物としての土台が整うと、ストレス、刺激にも耐えられるようになるものです。
「障害ゆえに生きづらい」は、「生きづらいゆえに障害か?」という連想で打ち消すことができるのです。

2019年11月8日金曜日

強度行動障害と排便

施設では、管理栄養士が365日、朝昼晩のメニューを考え、それが提供されていました。
メニューに自由はありませんでしたが、偏り、過不足なく、必要な栄養が得られていたので、ある意味、同世代の大人たち、子ども達よりも、健康的な食事だったといえます。


そんな考えられ、健康的な食事が毎食摂れていたのにも関わらず、入所されている人達の多くは、排泄面で課題を抱えていたのです。
便秘の人は多かったですし、便が緩い人も多かったです。
当時、「どうして、こんなにも栄養バランスが整った食事を続けているのに…」とよく思いましたし、同僚とも話をしていました。


強度行動障害の人達は、精神科薬を服用していました。
ですから、当時は「精神科薬の副作用だろう」と捉えていましたが、今振り返ると、やはり内臓系の発達の遅れがあったのだと思います。
それは、新入所として入ってくる子ども達にも、排泄が未自立な子が多かったから。


排泄の課題の根っこを辿っていけば、幼少期からの排泄の課題、また排泄の自立がなかなかできない、という姿が見えてきて、さらに進めば、運動や感覚面だけではなく、内臓の発達の遅れとつき当たる。
精神科薬の束と、内科の薬の束が同じ高さくらいだったのが印象に残っています。
精神科薬を服用する前から、ずっと排泄の課題を抱えてきた、という人が多いのだと感じます。


便秘の人は、多動性が強かった。
便が緩い人は、衝動性が強かった(ちなみに、便が緩い場合、未消化物が多い)。
行動障害が激しい人は、排泄面で課題が多く、排泄の課題が大きい人は、行動障害が激しかった。
こういったのは、施設職員なら感覚的に理解しているような気がします。
排泄に課題がある人は特に、便の状態を確認することが、私達の大事な仕事の一つ。
なかなか健康状態を訴えることができない人も多かったので、排泄の状態は、体調の変化にいち早く気づくために重要な情報でした。
ですから、行動障害を持つ人や、知的障害、発達障害を持つ人の中には、排泄の課題を持った人が多いことがわかります。


またまた今思えば、行動障害を視覚支援や賞罰などで制止、改善しようとするだけではなく、「排泄の課題をクリアする」という視点があれば、内側から良い変化が得られたのではないか、と思います。
「他害を治す」と思えば、時間もかかるし、身体的、心理的な負担も多くなります。
「いつか治まるのだろうか」なんて思いながら過ごしていると、そのいつかが来る前に、「精神科薬で抑え込む」という誘惑にかられることがある。
ここの気持ちのせめぎ合い、揺れは、どの施設でも、職員でもあると思います。


でも、「他害を治す」のではなく、「排泄面を改善しよう」であったら、生活を共にする支援員たちはアイディアもあるし、前向きにもなれる。
ということは、今、発達に課題がある子を育てている、他害等の気になる行動がある子を育てている親御さんなら、将来のリスク、または今起きている気になる行動を治すことができるのではないか、と思うのです。


私は施設職員として、多くの発達障害の子ども達、大人たち、そして強度行動障害を持った人達の生活支援を行ってきました。
そのとき、排泄に課題がある人達が多くいました。
今でこそ、「腸は第二の脳」「腸と脳は繋がっている」と言われていますが、当時の私にはわかりませんでした。
もちろん、最初に「内臓の未発達」という視点を与えてくれたのは、栗本啓司氏の著書『自閉っ子の心身をラクにしよう!』です。


親御さんなら、子どもさんがまだ幼いうちなら、排泄の状態をチェックすることは自然なことですし、内臓を育てることも家族が行いやすいと思います。
排泄の課題は、後々の心身状態、行動に影響を及ぼす可能性があるといえます。
なので、トイレットトレーニングというよりも、「どうやったら、気持ちよく、排泄ができるだろうか」という視点で、食事から、運動から、内臓を育てていってもらえたら、と思います。
まさに「快食快眠快便」が整うことが、重要な発達援助であり、大切な子育てだといえます。

2019年11月7日木曜日

本人が治そうとするその日まで

私は、良い縁に恵まれているな、と思うことが多々あります。
先日も、「仕事が続けられています。新しい仕事を任されました!」というような報告をいただきました。
そして今日も、「仕事が決まりました。一般の人として」という喜びの報告があったところです。
メディアやネットでは、生きづらさ120%の大人たちばかり登場しますが、ご縁があるのは前向きで、頑張っている若者たちばかり。
本当にありがたいことだな、と思っています。


私は、そんな大人の方達と接するときと、子どもさんとその親御さんと接するときで、相談、援助の方向性を変えているところがあります。
それは、治せるところ、未発達&ヌケを、すべて言うか、聞かれるまで言わないか、という違いです。
お子さんの場合は、特に親御さんに対して、そのセッションの間で気がついたこと、確認できたことを余すことなくすべて伝えるようにしています。
もちろん、後日の報告書においても、より詳しく、考えられることはすべて記述します。


一方で、当事者である若者たちに対しては、基本的に尋ねられるまで、相談があるまで、私からは言わないようにしています。
何故なら、育てる立場ではなく、育てる主体であり、選択する主体だからです。
どこを治し、どこを育てるか。
もっと言えば、どう生きるか、は本人の考えと行動によって決められるものであって、他の誰からも侵略されてはいけないものだと、私は考えているのです。


仕事をしている人、自立して生活している人。
そのような若者たちであっても、すべての発達課題がクリアされているわけではありません。
と言いますか、発達課題は人生全てをかけて育て、治していくものなので、未発達やヌケがある状態が自然なのです。
それこそ、生涯が「発達期」


たとえ、未発達やヌケ、発達課題が残っていたとしても、社会生活が送られていれば良いわけで、悩みや生きづらさを抱えつつも、「今日一日頑張って、ちゃんと休息して、また明日元気に活動できる」で良いのです。
ゲームの世界とは異なりますので、すべての課題がクリアできた人から、次のステージへ、みたいなことはありません。
大なり小なり、すべてのヒトが、未熟さを抱えつつ、社会生活を営んでいる。
それが実社会というものです。


本人と出会った際、「ここを治せば、もっと生きやすくなるだろう」と感じることがあります。
でも、本人が今の状態で、とても前向きに、社会生活が送られているのなら、それで良いのではないか、と私は思うのです。


「まだまだ未発達、発達のヌケを多く抱えている。
でも、本人はとっても明るく、幸せそうに生きている。
それは今日この日が来るまで、何倍も、何十倍も、多くの未発達、ヌケ、課題を抱えていたのだろう。
それを一つひとつ育て、治してきたからこそ、今、幸せな雰囲気が出ているんだ」
こういった連想が、私がお節介な支援者になるのを止めてくれています。


成人した人に関しては、治すことよりも、本人の充足感だと思っています。
治すことの優先順位は最上位ではありませんし、すべてを治す必要はありません。
しかも、治すのは本人の選択と意思によって。
それに今、治さなくても、時期がくれば、そのとき、治せば良いのだと思います。


子どもの場合は、親が、家庭が、育つための一番の環境になります。
ですから、すべて伝えます。
より良い子育てのために、材料は一つでも多い方が良いから。
いつか、本人自ら育てよう、治そうとする、その日まで試行錯誤は続きます。

2019年11月6日水曜日

一方的な配慮ではなく、お互いに配慮し合う社会へ

「治らないから、”障害”なんだ!」と言われる人がいます。
確かに、身体などに障害を持った人たちは、そうかもしれません。
しかし、そもそも発達障害というのは、そういった確認できるような障害でなければ、何かが欠損しているような障害でもありません。


もし、発達障害と呼ばれる人達が、「神経が欠損している人」または、「神経発達が生じない人」ということを指しているのなら、発達障害は治らないし、治らないから障害だといえるでしょう。
でも、実際は発達障害ではない人と同じように、身体全身に神経が張り巡らされていますし、刺激によって神経同士が繋がっていくという機能も持っているのです。
違いがあるとすれば、その神経同士の繋がり方。


「この月齢なら繋がっているだろう神経ネットワークができていない」
「最も盛んな時期を過ごしているはずなのに、神経同士の繋がりがゆっくりだ」
すべての神経同士は、お互いに関連し合っていますので、発生初期から誕生後すぐの時期に生じるべき神経ネットワークが築かれなければ、それ以降の発達に影響が出ます。
これが発達のヌケ。
栄養不足や刺激の偏りによって、神経ネットワーク作りに滞りが生じれば、それが発達の遅れとなって、表面化するのだといえます。


発達のヌケや遅れがあるからといって、それが即、障害にならないのは、昨日、記した通り。
子どもなら子どもの、青年なら青年での、大人なら大人での、社会生活が支障なく、営まれていたのなら、発達の凸凹、違いは問題にならないのです。
ちなみに、どんな人にも発達の偏り、違いがあるのは当たり前であり、それと同じように、悩みや苦労のない人などはいませんので、社会生活に”まったく悩み、苦労がない”ではなくて、”支障がない”という表現になります。


じゃあ、「発達障害を治す」という表現を使わなかったとしても、共に生活している我が子に”支障”が生じたら、それを取り除こう、治そうと思うのは、どの親御さんでも一緒だと思います。
社会生活を送るのに支障となっているものの根っこを辿っていけば、神経発達に繋がります。
だったら、その神経発達を後押ししよう、運動、栄養、環境、遊び、家族の育みによって。
これは自然な親心であり、発達障害を治そうとするのは当然です。
どこの世界に、我が子が苦しむ姿を見て、「そのままでいなさい。それが個性だから」という親がいるというのでしょうか。


「発達障害を治す」に抵抗感を持つ人というのは、その意図を深く理解していない人、理解しようとしない人だと感じます。
特に、反射的に拒否反応を示している人が多いような印象を受けます。
そういった人は、「治す」から「矯正」を連想し、「発達障害でなくなる=普通の人になる」と思っているようです。


私も小さい頃には、散々叱られたものです。
そんなとき、親からは、「どうして普通にやらないの」「普通、そんなことしないでしょ」というような表現で叱られたこともあったでしょう。
でも、そこで用いられている”普通”は、「普通になれ」という意味ではなく、ただの叱り文句の一つ。
こういったのは、子どもでも、瞬時にわかるものです。


でも、中には、それを真っ正面から受け止める、字義通りに捉える、といった弛めない身体、察することの苦手な身体、意図や行間を想像するのが難しい脳を持った子もいたと思います。
そういった子どもが大人になり、家族ができると、似ている子どもが生まれる。
そんなとき、「発達障害を治す」という言葉と出会うと、その言葉、発信者の意図を理解しようという前向きな行動よりも、「普通になれなかった”自分”」「普通という言葉に息苦しさを感じていた”自分”」が思いだされ、反射的に拒否反応を示すのだと感じます。
それこそ、普通、我が子が困っている状況で、他の家族、お子さんで良くなった、治ったと聞けば、「どんなものだろうか」と興味関心、前向きな行動が生じるものです。


「発達障害を治す」という言葉に、必要以上に拒否反応を示し、執拗なまでにその言葉を打ち消そうとする人達というのは、「あなたこそ、まず治った方が良い」と感じる人です。
つまり、日々、生きづらさを感じ、社会生活がままならないくらい困難と支障がある人。
昭和、平成と学校生活を送ってきた世代は、現代よりも強く「同じ」が求められた人達。
さらに、まだ家の文化がある地方で育った人なら、余計、同じこと、はみ出さないことを求められ育ってきた。
そんな時代に生きた30代以降の大人たち。


診断を受けることなく、ずっと生きづらくて、ずっとみんなと同じようにできなかった。
「みんなと同じように、普通にやれ」と叱られ、何度もやり直しさせられた。
「発達障害を治す」という言葉は、「今の自分ではダメなんだ」という息苦しさと、望んでもなれない「普通」への強迫性を思い起こされる。
そうです、彼らに必要なのは、トラウマ処理。
言葉以前の問題を抱えている人に、言葉で説得、理解、やりとりをしようとしても、それは無理な話。


「発達障害を治す」という言葉をどうしても受け入れられない、反射的に拒絶してしまう人達がいるのは仕方がないことです。
大事なのは、今、より良い社会生活を送るために頑張っている人と、これからの社会を担っていく子ども達。
将来の社会を担っていく子ども達が、社会生活を送る上で支障が出ているのなら、それを治すのは、親の役目であり、大人たちの責任です。


ますます社会は、多様性のある社会へ変化しています。
文化や思想、考え方が異なる人達と共に歩んでいく社会です。
そんな社会で生きていくとき、「私には発達に凸凹があって、配慮してほしいんです」と言って、どれほどの配慮を得られるでしょうか。
きっと、今の子ども達が生きていく社会は、一方的な配慮ではなく、お互いがいろんな場面で配慮していかなければ、生きていけない社会になると思います。
発達の違いも、文化、思想、考えの違い、と同列になる。


ですから、大切なことは、社会に出ること。
そのために、社会生活を送る上で支障になる部分を治しておく。
発達の凸凹も、社会の中に入ってしまえば、目立たぬ違い、と言いますか、みんな、発達の凸凹は持っているのです。
子どもが、社会生活を送るためにできることは、身近に、家庭の中に、子育ての中にたくさんあります。
そうやって、多くの若者たちが治り、社会に出て行っています。
彼らに凸凹は残っていますが、今日も、自分の資質を、自分のために、社会のために活かして、社会生活を営んでいます。

2019年11月5日火曜日

治すのは、より良い社会生活が送れるために

「発達障害が治る」と言うと、すべての困難が治り、普通の人になることをイメージされる方が多いと感じます。
しかし、「普通の人になる」というのが治るだとしたら、それは不可能です。
何故なら、普通の人などいないからです。


一人ひとり遺伝子は異なりますし、その遺伝子がどのタイミングで、何が発現するか、しないかは環境側が握っています。
当然、発達の仕方も、学習の仕方も、生まれたあとの環境によって違いを生みます。
同じような時代、環境の中で生きた人間でも、一人として同じ人間はいません。
つまり、定型発達と呼ばれる発達の順序があったとしても、偏りもあれば、バリエーションもありますので、どの人も個性的で、発達に凸凹、違いがあるといえるのです。


「じゃあ、発達障害が治るって何だよ」という疑問が生じます。
その疑問に答えるためのポイントは、『障害』という言葉、概念です。


発達障害、もっと丁寧に言えば、神経発達の障害であり、神経発達に遅れがありますよ、ということ。
でも、神経発達に遅れがある子は少なくありません。
乳幼児健診でも、指標となる行動と月齢がありますが、発達には幅があるという前提がありますので、月齢よりも発達が遅れていたとしても、すぐに問題にはなりませんし、当然、障害にもなりません。


神経発達が遅れていても、あとから追いつけば良いのですし、遅れたままであったとしても、社会生活に支障がなければ問題ありません。
そもそも個々の神経を詳細に調べることはできませんし、健診等でも、それこそ、発達障害の診断でさえも行えないし、行っていません。
発達障害と無縁と思われる人、いわゆる定型発達で育ってきた人の中にも、知られていないだけで神経発達の遅れや、一般的な神経同士の繋がり方とは異なる人もいるはずなのです。


そこで、『障害』という言葉、概念です。
発達障害、神経発達障害などと言われていますが、本当に神経の発達が遅れているか、そこに不具合が生じているか、は確認しているわけではありません。
つまり、「神経発達に遅れ→社会生活に支障」ではなく、「社会生活に支障→神経発達に遅れ“だろう”」ということ。
よって、障害の有無は医学的、生物学的、神経学的に決定しているのではなく、社会生活に支障があるかないか。


世の中に、変人、変わった人はごまんといます。
かつては、総理大臣にもいました。
と言いますか、あなたも、私も、隣にいる人も、ご近所さんも、変人だらけ。
何も個性のない典型的な普通の人を見つける方が苦労します。
ヒトの神経発達に多様性があるからこそ、世の中、変人に溢れている。


「発達障害を治す」というのは、変人を普通の人に矯正することではありません。
社会生活に支障をきたしている原因に対処する、改善する、治していく、という意味だと、私は考えています。


社会生活に支障をきたさないように、サポートしよう、物理的にも、心理的にも、金銭的にも。
そういう考え方、選択肢がありますし、今の特別支援、発達障害を取り巻く環境は長らく福祉リードで発展してきたため、色濃く残っています。
ですから、本人が変わるよりも、周囲が、環境が変わろう、配慮しよう、という流れ。
それにプラスして、「長所を活かす」「個性を伸ばす」という教育が加わると、できないところはそのままで、配慮で、可能な部分を使って適応力を上げよう、となります。


こういった特別支援教育は、個性的な人達を育てていきました。
でも、社会の中で自立して生きていける人を多く育てられたわけではありませんでした。
早期に診断を受け、早期から療育と支援を受け、特別支援教育で育ってきた若者たちの中には、18歳以降の長い人生を福祉の中で、また福祉作業所にも週に1回くらいしか通えない人、卒業後、自宅待機という人もいるのです。
「できるところを活かして適応力を上げる」には限界があるといえます。


社会生活に支障をきたしている原因は、確実に本人の内側に存在しています。
ですから、支援でも、教えるでもなく、“治す”なのです。
感覚過敏は、社会生活の営みに大きな影響を及ぼします。
いくら能力があったとしても、環境からの刺激に右往左往していたら、学業も、仕事も、生活もなりゆかない。
ですから、未発達である感覚を育て、刺激を受容する身体を整え、感覚過敏を治していく。


子どもにとって、幼稚園、保育園、そして家庭はリッパな社会です。
その中で思いっきり遊べない、友達と交流が持てない、同じような体験ができないとしたら、それも社会生活に支障あり、といえます。
神経発達が最も盛んな時期に、遊べないのは子どもにとって大きなリスクです。
そういった子ども達の多くは、胎児期から2歳ごろまでの間に、抜かしたこと、少ししかやらなかったことがあります。
吸う力が弱くて、母乳をあまり飲めなかった。
ハイハイを飛ばして、立ってしまった。


古今東西、ヒトは同じような発達段階を踏みます。
もちろん、個人差がありますし、子どもによっては、ある発達段階を飛ばしても、問題なく社会生活が遅れている子もいます。
でも、あとからでもやり直せるのなら、抜かした運動発達をやってみる、育てなおしてみる。
600万年におよぶ人類の歴史の中で、脈々と続けられてきた運動発達。
発達の遅れも、ヌケもあることが問題なのではなく、障害なのではなく、そのままにしておくことが問題で、障害になる可能性が高いといえるのです。


「栄養で発達障害を治す」というのも、人によっては正しい治し方になります。
栄養の偏り、不足によって、脳や身体にエネルギーがまわらない。
結果的に学習や運動、発達に影響が出て、社会生活に支障が出る。
社会生活に支障が生じれば、障害になりますが、その原因の根っこが栄養なら、食事の改善で発達障害は治っても不思議ではありません。
同じように、脳の準備が整っていない段階からの文字教育、知識偏重な指導、過度なメディア視聴が心身の発達に影響を及ぼし、結果的に社会生活に支障をきたしているのなら、それらを排除することが発達障害を治すことに繋がるといえます。


変人だから、社会生活に支障があるのではなく、発達の遅れやヌケをそのままにしておくから、心身の発達に影響を及ぼす状態をそのままにしておくから、結果的に社会生活に支障が出るのです。
社会生活に支障がない状態まで、どうやって育てていくのか。
これは、お子さんを持つすべての親御さんに共通した視点、考えです。


快食快眠快便を整える。
基本的な生活習慣を身につける。
発達に遅れがあったら、やらなくていいの?
いや、そうではなく、これらをきちんと整えるのは、社会生活を送るための土台です。
同じように、発達の遅れや抜かしている部分があれば、あとからでもやり直し、育て直していく。
発達の遅れ、ヌケをそのままにしておかないことが、社会生活に影響を与えるリスクを減らすことに繋がります。


発達障害を治すのは、変人を矯正することでも、発達の凸凹をまったいらにすることでもありません。
より良い社会生活が送れるように育てること。
社会生活に支障が生じている原因の部分を改善、治していくこと。
いわゆる自閉脳でも、超個性的でも、奇人変人でも、脳に凸凹があったとしても、本人が社会の中で伸びやかに暮らし、生きていければ良いのです。
そのために治すのは、本人そのものではなく、内側にある生きづらさの根っこ。
根っこなら育て、治していくことはできます。

2019年11月1日金曜日

正常と異常の判断は、どうやるの?

支援者の腕の見せ所が、正常と異常の判断だといえます。
その言動は、その子の発達は、正常なのか、異常なのか。
異常と見えるような事象でも、正常発達における個人差、発現のパターンだったりします。


母子手帳や育児書などには、この月齢はこんなことができる、こんな様子がみられる、という情報が載っています。
新生児、乳幼児、子どもの発達は、世界各国で研究されていますし、だいたいどこの国でも同じような発達パターンを辿ります。
いわゆる、その共通する発達パターンが定型発達と呼ばれるものです。
一方で、発達障害の子ども達は、その定型発達から外れたり、異なるパターンを辿ったりします。


しかし、定型発達のパターンから外れた、その通りに進まないからといって、すべてが発達障害になるわけではありません。
「この月齢ではこの運動」というような大体の目安はあったとしても、個人差がありますので、それよりも早い月齢でできたり、遅い月齢でようやくできるようになることもあります。
発達に関しては、早ければ良いものでも、遅ければ悪いものでもありません。
重要なことは、飛ばさず、ちゃんとやり切ること。
たとえ他の子ども達より遅れたとしても、やりきり、発達課題をクリアすればよいのです。


親御さんは、この子の言動は、正常なのか、異常なのか、その判断で迷い、悩まれます。
でも、その悩みに拍車をかけているのは、近くにいる支援者、専門家だと感じるのです。
ここ数年多いのが、達成する月齢から少しでも遅れようなら、「発達障害では」と言う支援者の存在。
面談し、お子さんの様子を確認すれば、ただの個人差の範疇というのに、それが発達障害の疑いとなってしまう。
もちろん、発達の指標は、障害やリスクがある子を見抜くためのものではありますが、そこから外れたら、即、発達障害ということではないのです。
あくまで、そういった可能性に早く気付き、経過を丁寧に見ていきましょう、という話です。


啓発活動の成果によって、発達障害が身近なものになり、できるだけ早く見つけるのが、そして支援に繋げるのが良いことである、というような認識が広がったような気がします。
その結果、発達の意味を深く理解し、学ぶことなく、流れ作業のように発達のリスク、障害というレッテルがつけられるようになりました。
何か一つでも異常な部分を見つけると、すぐに発達障害となる。
私のイメージですと、障害名を早くつけ、支援に繋げるために、異常を見つけている、といった感じです。
早期から支援を受けることで助かった子もいれば、早期から支援を受けたばっかりに、障害者っぽくなった子がいると思います。


1つの項目で異常な部分があったからといって、部分的に異常があったからといって、発達障害にはなりません。
よくあるのが、「ASDと診断されました」という子に言葉の遅れなど、1つの症状しか当てはまらないケース。
ASDと診断されるには、他にも社会性の部分や、いわゆるこだわりの部分での異常も複数確認される必要があります。
でも、他が見当たらない。
よく良く聞くと、こだわりと判定された部分は、ただの興味関心だけだった。
社会性の部分は、言葉が遅れていることによるものだった。
結局、部分から障害を判断しようとすると誤りますし、障害名をつけること、「この子に障害がある」という前提から見れば、個人差、個別の表現パターンをも、障害として捉えてしまうのです。


実際はもっと詳細かつ多面的に確認していきますが、私が面談、セッションするときの正常、異常の判断の仕方です。
まず定型発達から外れている部分を確認します。
その外れている部分が、1つ、全体から見て部分的なら、それは個人差、個別の発達パターンとして捉えます。
ある発達が異常でも、それ以外の発達が正常なら、正常、問題なしの可能性が高いといえます。
また、異常な部分が複数あったとしても、発達には順序がありますので、そのすべてを辿っていくと、1つの異常と突き当る、つまり、異常の根っこが同じだとしたら、それも障害というよりも、個別の発達パターンだと捉えることができます。


他にも、親御さんが子ども時代、同じような発達の仕方をしているですとか、脳や身体などに機能的な障害がないですとか、本人が困らず社会生活が遅れているですとか、そういった面が確認できれば、通常の子育てで問題ないといえます。
と言いますか、個人差ならもちろんのこと、部分的な発達の異常、根っこが同じである複数の発達の異常なら、一般的な子育て、自然な中で、同世代の子ども達と一緒に活動していれば、自然と追いつき、普通の生活が送れるようになるもの。
発達の遅れ、ヌケは、支援では埋まりませんので。


結局のところ、母子手帳等に載っている発達の目安は、リスクを見つけ、丁寧に経過観察をしていくためのもの。
決して、障害の有無の判断に使われるものではありません。
障害か、異常か、正常かは、何故、その言動が現れているのか、丁寧に多角的に見ていかなければわからないものです。
「言葉が遅れているから自閉症」ではなく、「どうして言葉が遅れているのだろうか?」「それは以上なのだろうか、個人差なのだろうか?」「環境の影響は?神経発達の状態は?家族歴は?他の発達の部分は?」など、全体を通して、また私が繰り返し使っている受精から現在までの発達の流れ、ストーリーを見なければなりません。


発達障害が知れ渡るということは、それだけ「発達障害」という言葉、概念が軽くなったように感じます。
「どうして、あなたが」というような人が、他人様の子どもさんに「発達障害じゃないですか?」「一度、病院に行かれた方が良いですよ」「早く支援を受けなきゃ」「お母さん、障害受容できていないから」などを軽々しく言ってしまう。
その言葉は、親御さんにとって、そのときだけではなく、何年も、それこそ、子どもさんが正常発達になったとしても、心の傷、重みとして残り続けるものです。
普通に勉強し、実践している者からすれば、その認識は誤りである、個人差、個別の発達パターンだというものが、安易な「障害」という言葉から親御さんがそうだと思い込み、我が子を障害児として育てようとしてしまう。
その結果、同年齢の子ども達が得る自然な刺激、経験、体験ができず、発達が偏る、遅れる、知的な障害ができてくる、ということもあるのです。
それだけ「障害」という言葉、概念には重みがあり、子どもや家族の人生をも変えてしまう威力があります。


ある発達、1つの項目に異常があったとても、他が普通に育っていれば、問題ありません。
それは神経発達、ネットワークの表現型の一つです。
大まかな発達の流れは決まっていますが、発達のパターンは個人差が大きく、環境からの影響を大きく受けるものです。
友達と遊べなくても、心身共に健やかに育っているのなら問題なし。
言葉が遅れていても、運動発達が順調に進んでいるのなら、あとから育つ可能性がある。


子どもが少なくなったのと、気軽に情報がたくさん得られるようになったのと、ギョーカイが発達障害を軽くしたおかげで、みんなが定型に厳密になり過ぎるようになっただけ、こだわり過ぎるようになっただけ。
発達は、神経発達の表現型は、子どもの数だけあるのです。
「早く見つけ、早く診断を受け、早く支援を受ける」は、ギョーカイの青田買い。
その言葉を真に受け、部分的な異常で、突っ走ってはなりません。


早産児、未熟児は、発達がずれるのは当たり前。
早期から文字学習、外国語習得、メディア視聴をしていれば、発達のパターンが変わるのは当たり前。
だからこそ、その異常が、本当の異常かを見抜く目が必要です。
その異常の原因がわかれば、根っこが分かれば、発達させることができますので。
部分的な異常は、自然な子育てで育ちます。