2019年7月31日水曜日

中途半端にではなく、きちんと嫌う

メールでの相談がくるようになってから何年も経ちますが、返信を受け取った人から「こんなにズバッと言われたのは初めてです」と言われることがあります。
問題があれば、それが問題であると指摘するのは当然のことです。
だって、今まで通りで、うまくいかないから、わざわざ相談しているわけです。
これは、メール相談でも、実際にお会いしての相談でも、一緒。


カウンセラーなら、共感するとか、否定せず受け入れるとかが大事なのかもしれません。
でも、私の仕事は、子どもさんがより良く発達、成長するための後押し。
親御さんが、主体的に子育てができる後押し。
ですから、具体的な行動として現れるくらいまでの後押しができなければ、意味がないと思っています。


中には、接待慣れしている当事者の人や親御さんからの相談もあります。
「あなたは悪くないよ、頑張っている。周囲の理解がないよね」
「お母さんの子育ての方向性は間違っていないですよ、今は結果が出ていないですが」
という私からの言葉が欲しいのがありありで、の人もいます。
そういった場合には、その問題点を指摘して、やりとりを終了します。


接待慣れしている人に、「誰それ構わず、接待を求めるのは間違いである」と指摘するのは、本人のためであり、社会のため。
接待はその場しのぎで合って、何も解決はしません。
接待しても、発達のヌケは埋まっていかない。
ただただ周りの人に迷惑をかけるだけであり、挙句の果てに、接待に応じてくれない一般の人に対して、抱く必要のない嫌悪感まで抱いてしまう危険性があります。
恨まれた一般の人は迷惑。
恨まなくていい人まで恨み、余計な社会への恨みを持つのは、自立を自ら遠ざけているようなもの。


ですから、嫌うときも、しっかり嫌います。
中途半端に嫌いません。
何が嫌だったか、問題だったかを具体的に言葉にして伝え、あとは拒否。
嫌いな人達にヘコヘコしたくないし、自分の時間を使いたくもない。
何より、そういった中途半端な対応が、誤った人間関係を学習させ、どれだけ多くの迷惑な人達を育ててきたのかって感じです。


支援者というのは、直言する人がほとんどいない。
それは、当事者、保護者をお客様だと思っているから。
それもあるけれども、根本的なところでいえば、愛着の土台が育っていないからだと思います。
しっかり嫌わないのは、嫌えないのは、相手のことを思っているのではありません。
もし、本気で相手のことを考えているのなら、耳の痛いことでも、ダメなものはダメというもの。
それが支援者の仕事であり、相談者の役割。
都合の良いときだけ、カウンセラーになってはダメ。


結局、相手を嫌えない人というのは、自分が嫌われたくない人。
支援者同士、とても仲が悪いのに、陰で悪口言いまくりなのに、表では仲の良いふりをする。
だって、みんな仲良く愛着障害で、嫌われることを何よりも恐れているから。
そういったいびつな人間関係を築いている支援者達に、そういったもので成り立っているギョーカイに、そもそも社会の常識、自然な人間関係を教えるのは、無理なことなのかもしれません。


親御さんの中にも、愛着の問題を抱える人達がいます。
親族でも、友だちでもない見ず知らずの私に接待を求めてくるのは、どちらかといえば、地方の人達が多い気がします。
個人情報が筒抜けの地域で、抜け駆けは許さない、みたいな文化。
私は、そういった世界で生きてきませんでしたので想像になりますが、個よりも大事なものがあると言われて育つのでしょうから、その文化自体が愛着障害作成機。


愛着の発達の流れは、無条件の愛で個がしっかり育つ。
内面が育ち、身体、感覚が育つ。
そうやって個が確立された人が、初めて他人を尊重できるようになる。
ですから、愛着の土台、個が育っていない人に、いくら処世術のようなマニュアルの人間関係を教えたとしても、それではうまくいくわけがない。


発達障害の人はどちらかといえば、身体性、感覚の未発達がゆえに、個が確立できていないことが多いといえます。
ですが、理由はなんにせよ、個が確立できていない人に、中途半端な対応をしてしまうと、それが誤学習のもとになってしまいます。
ですから、ダメなものはダメと伝えること、嫌なことをされた場合は、きちんと嫌うことが重要だと考えています。


一人に嫌われると、それだけで自分の生きる価値がない、世の中全ての人に嫌われている、と捉えてしまうのは、長い接待の歴史と愛着の土台の脆さの表れです。
私には、愛着の土台を直接的に育てることはできません。
でも、長い接待の歴史を否定し、誤学習をぶっ壊すことはできる。
そう思って、どなたとも接しています。
ですから、ズバッと切ってもらいたい方がいれば、私にご相談を。
接待を受けたければ、お住まいの地域の支援者をお訪ねください(笑)
しかし、問題の根本、根っこは、自ら行動しなければ変わっていきません。


未発達、発達の遅れ、ヌケは、接待では育っていかない。
言葉以前の発達段階を育てようとするならば、言葉での接待ではなく、身体を通した育みしかありません。
選択するのは、他の誰でもなく、あなたご自身です。
地域も、ママ友も、関係ない。

2019年7月30日火曜日

我が子を授かったときの想い

以前、面談した親御さんから連絡をいただきました。
あれから毎日、コツコツ育て直しをやっています、と。
目が回るようになったし、背中の過敏さが落ち着いてきた、とのことでした。
本人も前向きに取り組んでいるようですが、何よりもお母さん自体が、とっても前向きで、元気になったような印象を受けました。


面談の際、何度も、「私が子育てをしていたとき、この子の子ども時代は、そんな話を誰もしてくれなかった」とおっしゃっていました。
とにかく支援が大切なんですと「支援」「支援」「支援」の子育てだったそうです。
問題が起きるのは、「事前の準備が足りないからだ」と言われ、事前に先回りし、問題が起きそうなものは取り除き、そういった場所には行かず、周囲に配慮を求め続けた。
自分の中でも理解しきれないままに、「家庭でも視覚支援を」と言われ、見よう見まねで作ったカードの数々。


先回りに、視覚支援、挙句の果てに、我が子のパニックは、無視をする…。
生まれつきで、脳の障害だから、特別な支援が必要。
問題が起きれば、配慮が、支援が、知識が、足りなかっただからと自分自身を責める。
そんな月日を、成人した我が子の年齢の分だけ経験してきた親御さんは、このご家族以外にも多くいるのだと思います。


我が子を授かったとき、親は「あんなことがしたい、こんなことがしたい」と思うもの。
どこの世の中に、最初から「我が子の支援がしたい、療育がしたい」と考える親がいるのでしょうか。
きっとこの親御さんも、そうだったはず。
でも、我が子の障害がわかり、必死に専門家、支援者、先生の言うことを聞いて、今日まできたのです。


この親御さんは、きっと動きたいタイプの人。
他人のために何かをすることが喜びで、それでご自身がますます元気になる、という雰囲気がありました。
ですから、本人が一人で育てていく方法よりも、育み合って育てていくような方向でお話をしました。
すると、お母さんはみるみるうちに顔が明るくなっていき、最後には「成人した我が子だけれども、この子のためにまだできることがあるってわかって本当にうれしい」と涙を流されていました。
その涙の中には、したかった子育てができなかった、という想いも含まれているような感じがしたのです。


実は、世代に関わらず、未発達の部分、ヌケている部分の育てる方法を提案や紹介しますと、同じように涙を流される親御さんが少なくありません。
その様子をそばで拝見していますと、「治る」という希望が見えたこと以上に、普通の子育てができる、していいんだ、という安堵感の方が強いような気がします。
どの親御さんも、療育や支援が良いと言われるからやっているのであって、本心では葛藤があり、自分の気持ちに正直になれていない部分があるのだと思います。
たとえ、同年齢の子ども達と比べて発達の遅れがあったとしても、普通の子育て、自然な子育て、そして何よりも自分が思い描いていた子育てがしたい、というのが皆さんの本心ではないでしょうか。


昭和は、「親の育て方、しつけが」と言われていた時代です。
その揺り戻しで、「親のせいではありません」が強調された平成。
確かに、発達障害になるのは、親のせいではないかもしれません。
でも、出生後の発達の仕方、その歩み方には、大きな影響を与えるのが親であり、家族です。
育て方では発達障害にはならないけれども、未発達な部分を親が育てようとしなければ、発達のヌケや遅れは残り続け、同世代の子ども達の差は広がるばかり。


なんでもかんでもが「親のせいではない」になってしまった結果、親は責められることが減ったと思います。
でも、いつしか、普通の子育て、しつけの部分まで、「親のせいじゃないよ」と言われるようになってしまった。
そうやっていくうちに、「いいよ、母さん、私達、専門家がやるから」と、普通の子育ての部分にまで支援者が入り込んでいき、その主体性まで奪ってしまった。
それが私の見てきた平成の特別支援の世界。


日本の特別支援の創成期に活躍した有名支援者が、私の上司だったとき、こんなことを良く言っていました。
「入所施設に入ってくるとき、排泄が未自立、一人で食事が摂れない、ってどういうことなんだ。これは、障害云々ではなく、家庭でのしつけ、子育ての範疇だろう。でも、それをいいよいいよ、という支援者がいて、学校の中で教えますよ、なんていう教師がいる。そんなことをしていたら、この国の障害児者は、どんどん何もできなくなっていくんだ」
まさに予想通りの未来がやってきています。
支援者が、子育ての主導権を奪ってから、障害を持った人達の自立は遠のいていっています。


私の事業の目的も、私のライフワークも、『親御さんが伸びやかに、楽しみながら行える子育て』です。
なので、本来は、どうやったら、より良い子育てができるか、子どもの資質だけではなく、親御さんの、家族の資質と併せて、考えていくことが仕事だと思っています。
でも、それ以前に、奪われた子育ての主体性を取り戻す、ということも仕事の一つになっています。
令和の時代になって、超早期診断を受けるような親御さんであっても、未だに「普通の子育てではダメ。それはできない」というようなメッセージを受け取り、悩み苦しんでいる人達がいます。
早期診断は、より良い子育てのための一歩であるはずなのに、特別支援という枠へ組み込まれるための通過儀礼になってしまっている。
時代が変わっても、支援者はまだ親御さんから子育ての主導権を奪おうとするのだろうか。
そんなにも、支援者でいること、支援することが大事なのだろうか。


冒頭で紹介した親御さんは、育て直し、いや、子育てを楽しんでいるような雰囲気を感じました。
ずっと抑えてきた感情、エネルギーがやっと解放できた感じです。
本人もよく「気持ちいい」というそうですし、その姿を見て、お母さんも嬉しい気持ちでいっぱいだということです。
「うちの子を、もう一度、育て直して、ラクな身体に育ててあげることが、私の目標です」とおっしゃっていた親御さん。
その言葉には、喜びと前向きな感情がにじみ出ていました。
子どもを授かったときの想いと繋がるお手伝いができて、私自身も嬉しかったです。


言葉以前の発達段階へのアプローチなのですから、本人にとって名も無い遊びが大事なように、自然な親子の育みが大事なのは当たり前なのです。
子育ての主導権を奪われてはいけませんし、誘導されて渡してもいけません。
ごく自然に流れる親子の歩みの中に、発達がある。
普通のことはしないで、特別なことをしようとするから、特別な子になってしまうのです。

2019年7月28日日曜日

動物的な感覚を研ぎ澄ます

出張の楽しみは、その土地の名物、食事です。
でも、思いっきり食べるのは、すべての仕事が終わったあと。
何故なら、満腹になると、仕事の質が下がるから。


以前は、セッション中にエネルギー不足になってしまったら大変と、仕事の前には多く食べるようにしていたのですが、どうも、勘が鈍くなる感じがしました。
反対に、空腹になるくらいの方が、直感が働き、いつも以上に見えるような気がしたのです。
それ以降、仕事の前は、なるべく少量にしています。


発達のヌケ、遅れの根っこは、言葉以前の発達段階にある場合がほとんどです。
ですから、それは確認するのではなく、感じなければなりません。
「マニュアルを見て、1つずつ確認」みたいな方法では、言葉や文字を使った思考になりますので、本当の意味で確認することはできないと思います。
ある人から、一切メモを取らないことを驚かれましたが、メモは文字ですし、雰囲気を掴むには、その作業が邪魔になります。


声なき声のように、言葉なき身体、発達のメッセージを受け取る。
そのためにも、自分自身が動物に近くならないといけない。
その入り口として、腹いっぱいでも、腹八分目でもなく、腹五分目くらい。
断食している人が、「感覚が鋭くなった」と言うことがあるので、あながち間違った方法ではないと思っています。


「言葉以前のアプローチ」と出会い、ますます私は直感、雰囲気を大切にするようになりました。
なので、知識や勉強などは、確かめに近いです。
「なんだか気になった」「違和感を感じた」「ここが踏ん張りどこだと思った」
その理由を探すために、後付けの勉強をしています。


先日、親子での相談をお受けしました。
子どもさんは、すでに成人されていた方でしたが、部屋に入ってきた瞬間、なんだかしんどそうな雰囲気を感じました。
ですから、椅子に座った瞬間、「ここに来るということ自体が、相当しんどかったんじゃない?」と私は言いました。
すると、すぐに顔をあげ、私に足の指を見せてきたのです。
足の指の爪が極端に短くなっていました。
自分でやったようです。
親御さんも知らなかったことでした。


ノンバーバルの方でしたが、私の言葉や、自分のしんどさに気が付いたということは分かってくれたようでした。
ですから、日頃、関わっている支援者にも見せなかった足の指を見せてくれた。
本人からの訴えもあったのだと思います。
結局、自分のしんどさを訴える手段もなかったし、それに気が付いてくれる人が側にいなかったということです。
しんどさの根っこは、発達のヌケと脳の左右差の大きさでしたが、人知れず、辛い想いをぶつけていた自傷行為を見せたかったのかもしれません。
ちなみに、セッション以降、自傷はなくなったとのこと。


ノンバーバルの人は特に、誤解されやすいですね。
重い障害で、こちらの言っていることが分からないだろう、と思われがちだし、本人の意思もはっきりしていない、と捉えられてしまう。
周囲の人からも、本人はしんどさを抱えているのはわかるんだけれども、それが障害ゆえ、障害が重いがゆえ、と見られてしまうことが多い気がします。
そういった関係性が長く続いてしまうと、訴えること、伝えようとすることすら、やめようとしてしまう。
でも、障害者の前に、同じヒトなのですから、しんどければ、それをどうにかしてほしい、と願うのは当然のこと。


ノンバーバルの人、知的障害が重い人以外にも、コミュニケーションが苦手な人もいますし、自己認知、身体感覚に気づきづらい人もいます。
だからといって、相談を受けることが難しい、支援することが難しい、とはならないと私は思います。
繰り返しになりますが、発達のヌケ、遅れの根っこは、言葉以前の発達段階にある場合が多いのです。
ということは、本人からの言葉がなくても、訴えが明確じゃなかったとしても、アセスメントはできるし、育てることもできる。
何故なら、その人の身体、発達がメッセージを発しているから。
それが雰囲気となって、伝わってくる。
それを感じられるかどうかが、支援者としての分岐点になると思います。


そういった意味で、親御さんが一番治せる人になるのです。
だって、言葉にならないような小さな変化、些細な出来事に最初に気が付くのは親御さんだから。
よく相談で、「なんとなくおかしいと思う」ですとか、「今、私が頑張らなければいけない時期だと思うんです」とか、「適当にやってみたら、バッチリはまった」ですとか、こういった抽象的なことを言われる親御さんが多くいらっしゃいます。
それ自体に、エビデンスも、アセスメントシートも、何もない。
でも、気がついたし、察したし、やったことが素晴らしい発達の後押し、導きになっている。
専門家が「治らない」「受け入れろ」といっていたことが、親御さんには治せているのが何よりの証拠。


いろんな親御さん達とお会いしてきましたが、親子の雰囲気がいいのは、やっぱり動物的な子育てをされているご家族。
「気持ちいい」「心地良い」「なんとなく良いと思う、避けた方が良いと思う」
そういった知識や言葉ではなく、感情や雰囲気を大切にされているご家庭は、伸びやかな子育てができているし、発達も豊か。
まあ、それは当然なことだといえます。
だって、言葉以前の発達段階にヌケと遅れがある子ども達なのですから。


「ノンバーバルの子は、難しい」
「知的障害がある子の支援は、難しい」
そういう支援者は、言葉を獲得した以降の発達しか見れていない人。
脳の表面にはアプローチできるけれども、脳の深い部分にはアプローチできない。
反対に、「言葉がある人は」「知的がない人は」というような支援者もいるけれども、それも同じこと。
そういった発言が出ること自体、同じように脳の表面しかアプローチできない証拠。
言葉があっても、知的障害がなくても、しっかり身体、発達からのメッセージを受け取らなければなりません。
そこが課題、生きづらさの根っこだから。

2019年7月26日金曜日

その空間は、地域に、社会に馴染んでいるのか?

都市部では借家や間借りが一般的なのに、地方に行くと、まあ、立派な建物を一から作り、福祉事業を展開している姿を見かけます。
ほとんど人が歩いていないような場所に、最新の設備が整えられた施設。
どうして、ここに最新の設備が必要なのだろうと思うと、「他人の金(税金)だからね」という答えが返ってきます。


田舎では、未だに個人的な権力、権威、業績の証として、その地域一番の建物を建てようとする傾向があるようです。
それくらい立派な建物を、障害を持った方達のために作ったのですから、よほどの福祉への想いがあると思いきや、まったく関係ない人がトップだったりします。
福祉って、建前としては、とっても使いやすい分野。
結局、本音のところは、「この地域で俺はすごいんだ」「こんな立派な建物を建てられたんだ」というちっぽけな私心。


一方で、それを認可する行政の方も、できるだけ大きなモノを、できるだけ工期がかかり、地元にお金が落ちるように、という思惑が感じられます。
そもそも空き家だらけなんだから、それを活用すれば良いのです。
どうして、わざわざ時間と金がかかる方法を選択するのでしょうか。


本当に、障害を持った方達の生活を考えるのなら、できるだけ早く利用できる方が良いに決まっています。
大きな変化を嫌がる人も少なくないのに、本人が、というか、スタッフも含めて初めて見て、びっくりするような環境にしてしまう。
一番大切なのは、なじむこと。
その人の生活に、その地域に。


そういった場違いな施設に限って、「見学はご自由に」「いつでも歓迎」というような心のこもっていないA4の紙が玄関に貼られています。
どうして、その地域に馴染んでいないような建物が、さらにただでも障害を持った人の施設として敷居が高いのに、地域の人達が気軽に訪ねてくるといえるのでしょうか。


私が思うのは、結局、障害を持った人、本人の意思や気持ちが一番最後になっているということ。
立派な建物を一から作ることは、その地域にとっては、ありがたいことなのかもしれない。
建てようと思った中心の人達だって、いくら「借金をする」といっても、自分で営業して、試行錯誤して、質を高めて、投資して…というようなことはせず、利用すれば、お金が降り込まれる仕組みになっているから、自分の腹が痛むわけでもなんでもなく、自分の功績を示せるわけです。
スタッフも、「こんなきれいな施設で働けてラッキー」
親御さんも、「こんな立派な設備の整ったところに預けられてラッキー」
じゃあ、そこを利用している人達の安心はあるのか、生活の質は保たれているのか、他の人達と同じような失敗や成功、試行錯誤からの成長はあるのか、できるのか。


相談の電話やメールは、全国各地からいただきます。
その際、「私の住む地域、県に、治った人はいますか?紹介していただけませんか?」というようなことを言われることもあります。
もちろん、治った人を知らないわけではありません。
でも、勝手に教えてはいけませんし、そもそも治った人達は、その地域にすでに馴染み、一般の人として生きているわけです。
ですから、治りたい人にとっては、治った人やそのご家族と繋がることは大きな意義があると思いますが、すでに馴染んで生活している人からしたら、「どうかな」と思うのです。


治った人達、親御さん達を見ていますと、徐々に特別支援の世界から遠ざかっていくような印象を受けます。
といいますか、興味関心、考えること、悩みが、同世代の人達と同じようなものに移り変わっていくような気がします。
でも、そういった変化も、「治る」なんだと思います。
なので、私が面談するときも、そういった話題が増えたかどうか、が発達状況を確認する以外に、重要な部分として捉えています。
精神状態の確認は、今と過去と未来の話の割合。
脳の状態の確認は、表情のバリエーション。
治っている状態の確認は、興味関心の幅。


発達障害が治った人達に対して、「もともと発達障害じゃなかったんだ」と負け惜しみを言う人がいます。
本人や家族のそれまでの歩み、気持ちを想像すると、それ自体、とても腹立たしいことなのですが、一方でそれくらい社会に馴染んでいるのだと思うのです。
「もともと違った」と言わせてしまうくらい、自然な発達、治り、馴染み。
究極は、本人が気づく前に成長と共に治ってしまうことが理想ですが、他人から「もともと違った」と思わせるくらい発達し、治しちゃうのも、とても素晴らしいことだと思います。


スペクトラムなのですから、発達を続けていれば、いつか発達障害という域を飛び越える瞬間があります。
それに発達とは、ある一つの要素ではなく、様々な要素の発達が折り重なった総和です。
なので、より良く学ぶための空間、快適に切るための空間は分けても、生きる世界までは分ける必要はありません。
今の特別支援は、社会に馴染むのではなく、遠ざかっていくような印象を受けます。
そもそも社会には多様性があり、学びも、発達成長させてくれる機会も、溢れています。
社会に馴染むのは、マイノリティの敗北とは言わない。

2019年7月25日木曜日

エビデンスは見えないけれども、治った人は見ることができる

昨日のブログ『障害名(仮)』には、多くの反響がありました。
その反応は、私が実際にお話しした親御さん達の反応と似ていましたので、それだけ大前提を抜かされた説明、支援に囲まているのだと思います。


一方で、「私が診断を受けたときは、ちゃんと“障害名は変わることがある”と説明があった」という話を教えてくださった親御さん達がいました。
そういった親御さん達に共通していたのが、実際、お子さんの診断名が変わり、というか、診断名が外れ、治っていった方達でした。
最初に説明してくれたお医者さんの説明は正しかったですし、お子さんもそのように成長していったのです。


もちろん、親御さんの力もあると思います。
しかし、じゃあ、診断された当時、我が子が幼く、突然の「障害」と出会ったときに、「障害名は変わることがあるよ、お母さん」と言われていなかったら…。
もしかしたら、今、治って、社会の中で同世代の人達と同じように生きている子ども達の未来が変わっていたかもしれません。
その障害名をそのまま丸飲みし、思いっきり療育、支援、理解の世界へと突き進んでいた可能性もあるのではないでしょうか。
医師、専門家の一言は、家族のあり方、子どもの未来を変えてしまう。


現在の知見、科学では、発達障害かどうかの根拠を誰も示すことができません。
だったら、その無力さをまず自分たちが受け入れた上で、アドバイスなり、サポートなりすべきだと、私は思うのです。
診断基準に照らし合わし、スコアを付けることはできても、何故、発達障害なのか、その原因と理由を説明できません。
それなら、そのようにちゃんと話をするべきです。


「スコアをつけたら、自閉症の診断基準に該当していた。だけれども、これは今日見た中での結果であって、明日、1年後、将来、どのようになるかまでを示したものではありません。知的障害があると判定された子も、成長と共に正常域になっていったなんて珍しくないんですよ」
そういった一言が添えられていれば、どれだけ多くの親御さん達が、子育てを諦めず、我が子がより良く成長できるように頑張ろう、と前向きになれたか。
同時に、子どもは基本的に親を選べないし、育てられ方の選択肢もないのです。
ということは、極端なことを言えば、1歳とか、2歳とか、人生が決まるかもしれない、本人の意思表明ができるようになる前に。
何も分からないまま、少なくとも子ども時代は、障害児として生きる道が用意されてしまう。


実は、発達障害が治るも、治らないも、その根拠はどちらにもないのです。
ただ分かっているのは、発達とともに障害名は変わっていくこと。
そして揺るぎがない現実として、幼少期に障害名が付いた子の中に、診断基準を満たさなくなった子がいること、社会の中で、学校の中で、同世代の人達と同じように生きていること。
研究や論文では、肯定も、否定もできますが、実際に治った人の存在まで否定することはできません。
だって、その人がそこにいるから。
エビデンスは見えないけれども、治った人は、この目で見ることができる。


真面目な話として、最初にどういった専門家と出会うか、がとても重要だと思います。
未だに(昭和じゃなくて令和ですよ、令和!一年後は東京オリンピックなのに!!)、「一度付いた障害名は変わることがない」と本気で思っている専門家たちがいるのですから。
また中には、こういった大前提を知っていても、敢えて説明しない人もいるのです。
だって、支援したいから、僕の存在意義を確認するために、私が食べていくために。
発達障害は、“発達期”に生じるのですから、発達の仕方によって変わっていくのは当たり前でしょ。
治った人と治らなかった人の違いは、些細なきっかけなのかもしれない。
だからこそ、治った人達がいることを発信していくのは、今の子ども達のためにも、社会のためにも必要なことなのです。


根拠のないインチキ占いよりも、治った人の生の声。
「治った人がいるんだ」
「一生涯の支援ではなくて、自立できた人がいるんだ」
それがわかるだけで、どれだけの親御さん達が前向きに歩んでいけるか、子ども達の可能性が広がっていけるか。
たとえ、診断時に(仮)の説明がなかったとしても、自分が住んでいる地域に、そういった考えの人、治った人がいなかったとしても、全国には大勢の治った人達と、治ってほしいと願っている人達がいます。


お会いした人達にはお伝えしていますが、まだブログでは紹介できていませんでした。
【治そう!発達障害どっとこむ】
会員登録が必要なわけでも、料金がかかるわけでもありません。
同じ志を持つ人達が、ただただ心から治ってほしいと願い、交流しているサイトです。
自由に覗けて、いろんな方達の物語が見られます。
インチキ臭い私のブログですが、このサイトをご覧いただければ、(仮)が本当だったんだと分かって頂けると思います(笑)

2019年7月24日水曜日

障害名(仮)

幼少期についた診断名には、(仮)がつくのは当たり前のこと。
特に、自閉症、ADHD、LD、知的障害というような診断に関しては、“現時点で”、“検査、診断したとき”は、「〇〇障害だよね」「〇〇障害の診断項目に該当するね」って感じです。
今まさに人生の中で一番盛んな発達期を過ごす子ども達なのですから、これからの発達によって、どのようにも変わっていくのです。


現在、いかに早く診断名が付けられるかが、世界的なトレンド、専門家の同士の腕比べになっているようですが、本来、そんなことはどう~でもよいこと。
大事なことは、その子がより良く発達していけるにはどうしたら良いか、という未来のお話なのですから。
いくら1歳で診断ができるようになったとしても、「じゃあ、その1歳までの発達のヌケをどう育てるか?」という視点がなければ、意味がないのです。
まさに、昆虫採集と一緒。
それは、本人、家族のためではなくて、診断する者の趣味嗜好のレベル。


診断名が変わっていくのは、当たり前。
ですから、本当は診断名によって、「支援級だ」「支援学校だ」と決められるのはおかしなことなのです。
さらにいえば、一度支援級に入った子が、普通級に転籍するのに相当な労力がいるのもおかしい話。
何故、就学前についた(仮)の障害名をそのまま、6年間、引き継ぐのでしょうか。
挙句の果てに、中学まで引き継ごうとする。


いやいや、就学前と今を比べれば、大きく変わるに決まっているでしょ。
就学前に知的障害があったって、その後の発達によって、知的障害が軽度化していくし、標準域に入ることも普通にあります。
自閉症という診断だって、未発達な部分が育てば、治ります。
ですから、支援級の場合は特に、同じ学校内に普通級もあるのですから、そのときの発達段階、状態によって、柔軟に行き来できれば、と思いますし、それが本来の個別支援、インクルーシブ教育だったのではないのでしょうかね。
どうも、教育という名のお役所仕事のように思えることが多々あります。


私のところに相談をくださる方達の年齢が、本当に低くなったと感じます。
事業を始めた当初は、就学前の子どもさんからの相談があれば、早いなと思ったのですが、今は1歳、2歳、3歳くらいの子どもさん達が多くなっています。
明らかに利用される方達の年齢の中心が低い年齢へ、低い年齢へと移ってきています。


そんな年齢の低い子の親御さんに対して、最初に尋ねるのが、「診断を受けたときに、ちゃんと(仮)の説明がありましたか?」ということです。
皆さん、「そんな話は聞いたことがない」と口をそろえて言われます。
それどころか、「風邪のように治らない障害」「生涯、支援が必要になります」「早期に療育を受ければ、その子らしく成長することができますよ」というような平成初期から続く定型文ばかり。
超早期診断に熱を上げ、それが一般的になるのは良いけれども、説明は平成のままってやめてくれよな、って思います。


1歳で診断がついたけれども、向かった先が、「治りません」というギョーカイ団体。
いくら治る時代になっても、いくら診断名は(仮)であるという前提になっても、運用する先が、行き着く先が、旧来のままなら、なんも意味がない。
ただ支援が早く始まり、支援期間が伸びるだけ。
就学前後の診断だったら、その間に治ってしまう子もいただろうに、その可能性、機会すら奪ってしまいかねない現状。
1歳、2歳で診断しても良いけれども、そのとき、ちゃんと「(仮)だからね、お母さん」「発達していく中で、診断名は変わっていくし、外れていくこともあるからね」と説明してもらわなきゃ困ります。


どこの世界に、1歳、2歳の子どもの未来がわかる人がいますか。
DNAが、その子の人生のすべてを決定づけているわけではないし、そもそも発達障害の診断で遺伝子検査は行われていない。
超早期診断だって、表情とか、視線とか、共同注視があるか、指さしがあるか、といった行動観察。
1歳児に指さししなかった子が、あとから指さしするようになることなんて珍しくもなんともないですし、反対に目が合って、指さしもあった子が、2歳以降、急にやらなくなることもあります。


そんなのは当然なんです。
ヒトが、どのように発達していくのか、遺伝的な面を発現させていくか、なんか予測はできません。
この子が、どんな環境、刺激の中で育っていくかがわかったら、それこそ、オカルトの世界です。
超早期診断も、普通(?)の診断も、血液型占いか、星座占いかの違いみたいなものです。
ですから、せめても「これは占いですよ。信じる信じないかはあなた次第」くらいは言ってほしい。
それが(仮)の説明だと思うのです。


1歳とか、2歳とか、3歳の子の親御さんが、(仮)を知らなかったばかりに、「この子には、たくさん支援を受けさせることが幸せになる」と思い込み、未発達な部分を育てるよりも、我が子の子育ての時間を楽しむよりも、幼い子を連れて、何時間もかけて、何か月も待って、蕎麦屋の出前みたいな療育、支援を受けに行く姿を見るたびに、私は悲しくなります。
何百回も言いましたが、早期診断早期療育で突き進んでいった先進地域の元子ども達は、バスに揺られて、今日も明日も明後日も変わらぬ日々を過ごしているのです。
早期診断、早期療育は、「自立して生きていくために」と言われてたのですよ。
これだったら、先進地域以外の障害を持った人達の方が、自由な子ども時代を過ごし、ガチガチな脳、身体にならずに、作業所に通えています。
先進地域で早期療育を受けてきた高機能の人達までも、作業所に行く現実を見た方が良いのです。


「診断名(仮)」を流行らそうと、私は思っています。
だって、せっかく授かった命、我が子ですから。
子ども時代で一番かわいい時期、愛しい時期を、とにかく必死で療育に通ったという思い出だけで埋めて欲しくなのです。
「泣いている我が子を抱きかかえて、療育に通っていました」というお話は、親にとっても、子どもにとっても、不憫で仕方がありません。


朝のテレビの占いで12位だったとしても、明日は1位かもしれない。
そんな感じでいいんじゃないですかね。
だって、どんな明日が来るかは、誰にも分からないのですから。
(仮)だからこそ、治る可能性だってありますし、治っていく子がいるのも自然なのです。

2019年7月23日火曜日

生涯をかけて治していく

「完璧な発達」というのは、ないと思います。
大なり小なり、みんな、発達の偏りはあるでしょうし、凸凹しているでしょう。
でも、それでいいんです。
それが自然な姿だと思います。
ヒトは、生涯かけて発達していくもの。
人生の途中を切り取って、「発達が整っていない」と指摘するのは、意味のあることなのか、という思いもあります。


人生の始まりの頃に、発達の遅れがあると、今の世の中では「発達障害」となります。
しかし、早期療育を受けた結果、発達の遅れには手をつけず、刺激を与えず、グレーがグレーのまま、むしろ、色が濃くなっていく若者たちを見ますと、早期に診断されるということが果たして良いことなのだろうか、と思うのです。
発達障害保存の会・・・。


発達の遅れを指摘することが、その子の発達につながらない。
ただの言いっぱなしになっている現在。
本来、生涯かけて発達するものが、幼少期にストップがかけられているような現状。
だったら、発達の遅れを、わざわざ指摘してくれるなよ、と思います。


親御さんの中にも、発達の凸凹を感じることがあります、その名残を、雰囲気を感じることがあります。
「子ども時代の私もそうだった、同じだった」という話は、よくあることです。
お子さんと同じように、お父さん、お母さんも、子ども時代、発達の遅れがあった。
じゃあ、何が違うのか。


今、仕事をし、結婚をし、子どもを授かり、生きている親御さんと子は何が違うのか。
発達障害が産業の一つ、子育てが商売の一つになってしまった社会の違いもあるでしょう。
自由自在に遊べた環境の違いもあるでしょう。
でも、一番の違いは、生涯かけて発達するという前提が保障されているかどうか。
私は、この世界に入ってつくづく思うのが、発達が急かされ、余白がどんどん失われていく窮屈さ。


できるだけ早く発達し、小さな"大人"になることが求められる。
元発達障害を持っていた親御さん達が、自由な人生を謳歌している一方で、1歳、2歳、3歳で「発達障害です」と告げられ、相談に来られる子ども達の「生き苦しさ」ではなく、息苦しさ。
私は、親御さんが自分自身を育て、治してきたように、子どもも同じような子ども時代、人生を歩めばよいと思うのです。
野山を駆け巡り、呼吸を育て、感覚を育て、動きを育てたように。
でも、今は時代が許そうとしない。


ヒトは、生涯をかけて発達するのだから、人生のある時点で発達の遅れがあろうとも、本当はどうでもよいことなのでしょう。
それなのに、就学前の子どもに、「字が書けるか?」「計算ができるか?」と尋ね、それで普通級、支援級の判断をするような教育者がいる。
これからの社会、日本も、いろんなバックグランドを持った多様な人達と共に生きていく時代になっていくのに、それに抗うような下校時、校門の前にずらっと並ぶ車の数々。
早期療育だなんだといって、同世代の子ども達が体験することが体験できず、受けれる刺激が受けられず、人工的な環境へと隔離されていく。
挙句の果てに、「発達障害を持った人が住みやすい社会を」という意味不明な主張さえ展開される。
私には、発達の機会から敢えて離れることで、発達障害というマイノリティを保持し続けようとしているようにさえ見える。


私は、お会いした人には、よく言います。
「発達に遅れがあることが問題なのではなく、発達する機会、猶予、自由が与えられないことが問題なんだ」と。
元発達障害の親御さん達も、生まれる時代が遅ければ、診断名が付き、早期療育という名の分断の中に組み込まれてしまっていたかもしれません。
そうなれば、今の自由な生活があったかどうか。
今、共に歩むパートナーと出会えたかどうか、我が子と出会えたかどうか。


発達とは長距離走です。
自分のペースで、足を前に出し続ければいいのです。
途中で歩いたっていいし、走ったっていい。
でも、今は短距離走のような雰囲気になっています。
就学というゴールテープに向かって、みんなが脇目も振れず、全速力で走っている感じ。
しかし、人生100年時代の子ども達でいえば、たった6年間の話であり、発達する時間はまだ十二分に残っています。


20歳を過ぎてからも、発達のヌケを育て直し、どんどん治っている若者たちがいます。
元発達障害の親御さん達だって、今もなお、発達の途中であり、治している最中だといえますし、そのように感じることもあります。
そうやって人生をかけて、治していく人がいても良いのではないでしょうか。


神田橋先生のお言葉を借りれば、「あなたも、私も、みんな発達障害」
だからこそ、生涯かけて発達し、治していく。
「治るなんてインチキだ」という人もいますが、私はそうは思いません。
だって、あなたも、私も、生涯かけて治しているのだから。
どうせ治すのなら、自分で試行錯誤しながら、楽しくいこうじゃありませんか!

2019年7月22日月曜日

この夏のテーマは?一つに絞るとして

基本的に一発勝負ですので、伝えられることはすべて、お教えできることはすべて、という気持ちで仕事をしています。
さらに、私は早口ですし、頭の中に浮かんだこと、連想したことを次々にしゃべるので、どうしても情報量が多くなってしまいます。
ここが私の課題でもあります。


ですから、情報を受け取った親御さんが、「これもやろう」「あれもやろう」と思いがちになります。
これは、メール相談でも同じでし、ブログを読んでくださっている方からも言われることがあります。
だからこそ、私は必ず次のことを伝えるようにしています。
「どれか一つをやってください」「全部を一気にやる必要はないです」と。


どれもこれもではなく、一つを、というのには理由があります。
別に親御さんが大変だから、プレッシャーになるから、という理由ではなく。
あくまで、子どもさんを中心に考えたとき、一つに絞って、やり切る方が重要だと考えるのです。


よくたとえに出すのが、赤ちゃんの発達の様子です。
赤ちゃんは、寝ても覚めても、一つのことをやり続ける時期があります。
起きている間はずっとハイハイして動きまわっている。
疲れたら寝て、また起きたらハイハイをする。
そうやって、一つの発達課題をやりきったあと、ある日突然、ハイハイをやらなくなり、次の発達課題へと向かっていく。
そうやって、一つのことを寝ても覚めてもやりきるのが、自然な発達の姿だといえるのです。
ですから、あれもこれもではなく、本人が今、やりたいこと、育てたいことを樹分にやり切らせてあげる。
それこそが、自然な発達の姿ですし、言葉以前の発達段階をクリアするポイントだと、私は考えています。


一方で、親御さんにとっても、一つのことに絞って、十分にやり切らせてあげるのは、とても意義のあることだと考えています。
何故なら、バリエーションが生じてくるからです。


例えば、呼吸を育てようと決めます。
そうすると、自然と意識が「呼吸」に集まってきます。
「普通のとき、ちゃんと息が吸えているだろうか?」
「走っているときはどうだろう?」
「寝ているときは?」
「もしかしたら、思いっきり吸うことができていないかも」
「そういえば、飲みこみも弱い」
「じゃあ、噛む回数が多くなるような食事を徐々に入れていくかな」
「放課後、一緒にシャボン玉で遊ぼうかな」
「ストローの太さを大きくしたらどうだろう」
「タピオカが流行っているから、それを飲んだら、吸う練習になるかも」


親御さんが、我が子の一つの発達に目を向けるようになりますと、そこがよく見えてくるようになります。
日常的にも、気になるようになってくる。
親御さん同士で、その一点に関して話題が多くなり、そこから新たな発想が生まれることもあります。
それこそが、バリエーションが生じる、という意味です。


ここでは、一つのことに絞っているように見えますが、実は一つのことにバリエーションをつけているのです。
呼吸を中心に、吸うこと、吐くこと、そのいろんな育て方、という具合に、刺激に幅をもたらしています。
それが、子どもの豊かな発達につながります。
だって、同じハイハイでも、その動きは微妙に異なっているので。
床をハイハイしたり、段差をハイハイしたり、逆走ハイハイをしたり、早くハイハイしたり、ゆっくりハイハイしたり…。
そうやって、赤ちゃんは自分自身でバリエーションをつけながら、存分に一つの発達課題を味わい、育てていくのです。
それは呼吸でも、感覚でも、運動発達でも、同じです。


福岡、広島、ここ1ヶ月くらいに出会ったご家族には、このようなことを提案しています。
「夏休み、一つのテーマに絞って、それを存分に味わい、楽しんでみたらどうでしょうか」と。
私の仕事は、発達の物語を読み解くことであり、どうやったら本来の発達の流れに戻っていくか、をお伝えすること。
それには、ここを育て、あそこを育て、というお話する必要があります。
ですから、それを聞いた親御さんは、「あれもこれも」と思ってしまいます。
でも、実際は、私が挙げた育てた方が良いところよりも、子どもさん自身が育てたいところの方が、何百倍も正しいですし、優先すべき発達だといえます。
子どもは、自分自身で必要な育ちがわかるものですから。


夏休みは、学校がお休みになるからというよりも、夏という季節だからこそ、存分に味わえることがあるのだと思います。
出張して各地に訪問させていただければ、そこの土地土地の環境があり、文化があるのを感じます。
夏祭りの伝統的な太鼓があるのなら、その太鼓を思いっきり練習する夏休みでも良いと思います。
呼吸や感覚、背中を育てるために、とにかく毎日、近くの海で遊ぶ、というのも良いと思います。
子どもの意向、今まさに育てたいと思っている部分と合致すれば、時間を忘れて、時間という概念から解き放たれて、子どもは存分に遊んだり、活動したりするものです。


やりきってから、次の発達段階へ進む。
同じ動き、発達課題であったとしても、そこにはバリエーションがあり、そのバリエーションの豊かさが発達の豊かさに繋がる。
そういった視点で、夏休みを過ごされると、良い時間が過ごせると思います。
この夏のテーマは、なんですか?
子どもさんが、今、育てたい、やりきりたい、存分に味わいたいのはなんでしょうか?

2019年7月21日日曜日

就学前の6年間が、生涯学習の土台作り

闇営業はしていないけれども、私も謝らないといけないことがあります。
私はブログ等で、再三「小学校4年生の学力を身につける」と発言しています。
ですから、それを見た親御さんの中には、一生懸命文字を書くことや計算することに取り組まれている方達がいます。


もちろん、勉強すること、教科学習に力を入れることは、とても大事です。
長い間、知的障害があったり、支援級、支援学校に通っていたりしたら、教科学習は二の次、三の次になって、身辺自立と職業訓練が中心となっていました。
まあ、それが中心だったからといって、卒業後、自立する子はほとんどいませんが…。
義務教育の9年間、ずっとひらがなの練習、足し算引き算で終わっていた子ども達も多い時代があったのです。


「自立した生活を送る」「就職して、仕事を続ける」には、ただ身辺スキルを身につければ良いわけでも、働くための体力をつければ良いわけでもありません。
それだけでは不十分。
やはり自立した生活と仕事には、自らの頭で考える力が必要です。
そのためにも、世の中の原理原則を学び、考える為の道具である文字や計算、教科の内容を学ぶ必要があります。
その最低ラインが、小学校4年生の学力ということになるのです。


私のところに相談、依頼をくださる親御さんの中には、「教科学習を頑張っています」と言われる方達がいます。
ですが、お子さんが就学前の場合もあります。
焦る気持ちもわかりますし、きちんと学力をつけさせてあげたいと思うのもわかります。
でも、就学前から教科学習を焦って行う必要はないと思います。


学校に見学に行くこともありますが、そこで感じるのは、学習の土台が育っていない子が多いということです。
今は、幼稚園などで英語や国語、算数の勉強をしている子が多く、小学校入学時で、ある程度の学力を先取りしています。
そういった子ども達は、当然、小学校の授業はわかりますし、テストも100点ばかりです。
でも、きちんと椅子に座れていなかったり、鉛筆が持てなかったり、4教科とその他の教科の差が大きかったりするのです。
集中できる時間が短かったり、午後は疲れてしまって、ボーとしている子もいます。


小学校4年生の学力とは、目安としての表現です。
大事なことは、自分の頭で考えられる力を持つことと、学び続ける姿勢を養うことだと思います。
ですから、そのためにも、教科学習ができる土台の育ちが重要だといえます。


文字の読み書き、計算はできるけれども、文章問題になった途端、まったくできなくなる。
暗記科目は得意だけれども、考える問題、自分の意見をまとめる問題は苦手。
このような子どもさんは、少なくありません。
そして皆さんに共通してみられるのが、数の概念が育っていないこと、右脳&2歳前&言葉を獲得する前の発達にヌケや遅れがあることだといえます。


こういった育ちのヌケや遅れがあると、小学校低学年くらいまでは、授業についていけますが、学年が上がるごとに理解が難しくなっていきます。
授業数が多くなる、授業の内容が多くなる。
そうなれば、基本となる身体が育っていない子は、授業を受け続けること、集中し続けることがしんどくなります。
学校に通う、椅子に座る、授業を受けるに多くのエネルギーを使わざるを得ない子、もともとのエネルギーが不足している子は、学習の方に振り分けができなくなるのです。


同じように、教科学習の土台と言いますか、考えることの土台、基礎は、概念理解です。
その概念を養っていくのは、就学前。
まずは、モノを数えることを通しての概念学習。
身の回りにあるいろんな概念を体験を通して理解していく。
そして、友達と遊びながら、ルールや人間関係等、さらに高度な概念を養っていく。
そういった積み重ねが、就学後の教科学習とつながり、真の意味での学びが始まるのです。


自由で、自立した生活、人生を送るためには、生涯を通して、学び続ける姿勢、考える力が必要だといえます。
そのためには学校生活の中で、教科学習を通して、培っていく必要があります。
で、その前段階として、就学前までに概念と土台である身体を育てておくのです。
概念と身体を育てる方法は、ただ一つ。
思いっきり身体全体を使って遊び、いろんなことを体験することです。
やはり子ども時代に思いっきり遊んだ子は、高校生、大学生、大人になっても、学び続けるし、成長し続けます。
だって、生涯に渡って学び続ける土台を子ども時代にしっかり培っているから。


本来、教科学習は就学後から始めて遅くないといいますか、それが自然な発達だといえます。
それなのに、これから秋にかけて行われる就学相談では、「文字が書けますか?」「計算できますか?」なんて質問がされるのです。
それで、「できません」と答えれば、「じゃあ、支援級」となってしまうことすらある。
まったくもって、ナンセンスだといえます。
就学前に字が書けて、計算ができる前提なら、小学校1年生の授業はまるまる必要なくなるわけです。
だって、普通級では、一年間かけて、ひらがなとカタカナ、漢字、足し算引き算を学ぶのですから。


こういった話、情報が、親御さん達を必要以上に焦らすのだと感じます。
生涯を通して、学び続ける人に育ってもらうためには、子ども時代の遊びと体験が必要です。
だからこそ、親子で、家族で、思いっきり全身を使って遊んでほしい、と思うのです。
言葉以前の発達が育つ→思いっきり遊ぶ→教科学習→考える力→学び続ける姿勢が自然な流れ。
発達の遅れがある子、ない子に関わらず、いきなり「教科学習」が、土台が育つ前の「教科学習」が多いような気がします。


今、自立して生活している若者たちを見ますと、就学時、まったく国語も、算数もできなかった人もいますし、小学校高学年、中学生くらいから急に勉強が分かるようになり、4年生の学力を身に付けた人もいます。
発達の土台がしっかりすると、ヌケや遅れが埋まってくると、いつからでも教科学習は身についていく印象です。
ですから、就学前の子ども達は特に、言葉以前の発達を育て直し、発達のヌケを埋めていくこと。
思いっきり遊び、いろんな体験をしていくことが大事だと思います。


就学は、学び始めるスタートです。
ゴールは死ぬとき。
ヒトは、生涯学び続け、発達、成長し続けるもの。
今の子ども達は、100年時代の人達。
学び続ける土台作りは、たった6年しかありません。
あとの94年間、ずっと学び続ける。
小学校4年生の学力は、年齢がいくつになろうとも、身に付ければ良いのです。

2019年7月19日金曜日

志を共にする支援者さんと

共働きの子育て世代ですから、子どものことに、家のことに、仕事のことに、てんやわんやの毎日を送っております。
ですから、私が出張するのにも、妻の理解と協力が必要です。
福岡→函館マラソン→広島という週末を快く送りだしてもらいました。
そんな妻が、広島から帰ってきた私に一言。
「あなたの仕事は、必要とされなくなるのが目的だもんね。また一歩、目標に近づけたね」と。


基本的に、私は支援者という人達を信じていません。
だって、支援することで成り立つ仕事でしょ。
支援される人がいるから支援者でい続けられる。
そして何よりも、「私には支援する人がいる」と思いたがっている。
つまり、弱い立場の人を使って、「必要とされる自分」を感じ、自分の存在意義を確かめたり、愛着障害を癒そうとしたりしている。
ですから、口では自立だ、なんだ、と言っているけれども、本気で自立を望んでいる支援者はほとんどいません。
というか、それを心から望めないのが支援者の性なのです。


じゃあ、お前はどうなんだ、支援者だろう、と言われそうですが、私は出発地点から異なります。
私が支援したいのは、親御さんであり、もっといえば、子育てです。
あくまで、私の仕事の中心は家庭支援。
それは、学生時代からずっと思い描いていたことです。
だからこそ、「24時間の生活を知らなければならない」と思い、大学卒業後は24時間型の入所施設に就職したのです。


支援者、学校の先生からも、「勉強させてほしい」「うちの施設に来て、アドバイスが欲しい」「一緒に連携して活動を」などというお話をいただくことがあります。
しかし、だいたいそういった依頼は上辺だけで、私が関わった家庭を紹介してほしい、ですとか、名前や人脈を頂戴したい、ですとかばかりです。
勉強したいという気持ちが伝わってくる人でも、なぜ、スキルアップしたいかが、私の考えと違います。
私は、支援者という職業を無くすために仕事をしてます。
でも、スキルアップすることで、「自分のとこにお客さんがたくさん来てほしい」「良い支援、助言ができる自分を見て欲しい」というように、支援を止める気がない、むしろ、支援し続けるためにスキルアップを目指す、というのは、私と考え方、方向性が異なるのです。


親御さんから求められれば、私は自分の持っている視点、技術、アイディア、あらゆるものをすべて差し出します。
だって、親御さんは心から自立してほしいと願っているから。
目の前の我が子をラクにしたい、治ってほしい、とただそれだけを願い、真っ直ぐな目で私を見つめてくれるから。


そんな真っ直ぐな眼差しを向けてくれる支援者さんがいます。
私は、この人だったら、すべてをお渡ししたいと思えるような支援者さんです。
広島での出張では、この支援者さんと3泊4日、朝8時半くらいから夜は22時くらいまで、トイレ以外の時間はほぼ一緒という具合に過ごしました。
移動中の車内でも、「どうして、あのようなアドバイスになったのか?」「これから、どうすれば、ラクになってもらえるだろうか?より良く育っていくか、治っていくか?」と途切れることなく投げかけてくださいました。


この支援者さんは、心から子ども達に、親御さん達に「ラクになってもらいたい」「治ってほしい」と思っていることが伝わってきます。
私よりも、キャリアも、経験も、ずっと上の方です。
でも、「私には力がないから」と言いながら、だからこそ、「この地域のために、子ども達、家族のために」と私に声をかけてくださいました。
しかも、自腹を切って呼んでくださった。


だいたい支援者というのは、自腹を切らないものです。
というか、自分を磨くことに自腹が切れない人、金の出し渋りをする人は、どの職業でも大成しません。
自分を磨くのに、お金をかけずに、何に出すんだ、と思います。
自慢じゃないけれども、組織に所属していたときだって、研修に行くときは全部自腹でした。
あるけれども、見たこともない有休をどうにかお願いして使い、貯めたお金で、全国に研修に行っていました。
自分を磨くには、自分でお金を出さなければ、身につかない。


「勉強させてくださ~い」というメールや電話がきますが、タダで教えてもらおうとする人が多すぎです。
冒頭で述べたように、私は支援者を信用していないし、考え方も違うから、支援者を育てようと思うこともないですし、興味もない。
というか、同じ時間を使うのなら、我が子のことを一生懸命に想う親御さんのために使いたい。
私だって、いつまで生きるか分からない。
だったら、与えられた時間を、自分の家族のために、そして同じ志を持つ全国の人達と共に使いたいと思うのです。


実は、広島のこの支援者さんも、昨年呼んでくださったときには、「本当に治るん?」「改善とか、成長なんじゃないの」という半信半疑の気持ちだったのです。
しかし、昨年も同じように地域を周り、そして、一年間、身体アプローチ、言葉以前のアプローチについて本や研修、講座で学ばれたそうです。
子ども達、親御さん達が変わっていく様子を見て、気持ちや考えが変わっていきました。
何よりも、「治るという方向性は、子ども達、親御さん達に前向きな話と歩みができるから、本当にうれしい」と仰っていました。


出張するときは、私一人ですし、お会いするご家族とは、ほとんどがその日、一回限りの面会になります。
「初めまして」と「さようなら」が同じ日。
ですから、自分自身の変化には気づきづらい状況です。
支援者さんから、「一年前よりも、見たてと方向性を出すスピードが早くなった」と最後に感想をいただきました。
もしかしたら、一年前よりも、自分自身も成長できたかもしれない、と思い、嬉しかったです。
しかし、早くなった分、雑になる危険性もありますので、より質の高い見立て、アドバイスができるようになることが、これからの目標だと思います。


3泊4日で、講演会と9家族の訪問支援を行いました。
帰りの飛行機の中で、最初に思ったのが、「もっと勉強したい」ということです。
ということは、この4日間で、自分の持っているものを出しきれたということ。
空っぽになったから、新たなものを入れたくなる。
全力を出しきったから、また一段階、次に進むことができる。
これは、子育て、発達援助でも、同じこと。
子ども達は、一つのことをやり切ると、次の発達段階へ進んでいく。
この支援者さんと過ごした4日間は、私にとっても、幸せな時間でした。


地元の人達から人気のあるお店に連れていってもらいました♪
他にも美味しい連れていってもらったのですが、写メできませんでした( ;∀;)


2019年7月10日水曜日

「一貫性のある支援」の意味

ジョギングの記録をスマホのアプリで行っていましたので、「古いままでいいや、どうせ汚れるし」と思っていたのですが、そろそろ新しいものに換えなきゃならないくらい不具合が出てきました。
仕事が一段落したら、機種変しに行こうと思います。
そんなことを考えていたら、今の通信会社に変えてから、だいぶ時間が経ったのに気が付きました。


高校、大学くらいは、通信会社を変えるのはそんなに大変じゃなかったのですが、それ以降、長らく「ナントカ縛りだ」「高額な解約料だ」「データ移行がー」と言って、他社に変えづらい時期が続きました。
でも、最近は他社への移行もスムーズです。
一つの通信会社のままなら、ラクは楽かもしれませんが、それによって選択できないサービスも生まれてしまいます。
本来、もっと自由で選択肢があるものが。
自分の生活、ニーズに合わせて、カスタママイズするものが。


特別支援の世界では、「一貫性のある支援」などと言われます。
私も、若いときには、そのように教わりました。
「一貫性がないと、自閉症の人達は混乱してしまう」と。


しかし、年齢と経験を重ね、いろんな研修やトレーニング、文献から学び続けていると、「一貫性のある支援」という意味の使われ方に違いがあることがわかりました。
特に、欧米と日本の間で。
欧米では、「一貫性のある支援」を、それぞれの組織、療法の理念という意味で使っていました。
たとえば、「アセスメントから始めましょう」「その人に合った最適なものを作るために、絶え間なく工夫や見直しをしましょう」など。
でも、日本は、特定の療法、方法、宗派、はたまた支援者までをも、「一貫性」にしてしまう。
「一貫性=最初に決めた療法、方法、宗派を貫こう」という意味で使われている場合が少なくありません。


世の中には、いろんなアイディアがあるわけです。
それぞれ、療法には組織があって、推奨し、専門にしている支援者たちがいます。
どちらかといえば、その支援者達に向けて、支援者達の方向性を統一させるために、「掲げた理念に一貫性を持たせて支援にあたるように」という意図だと思います。
決して、ある療法を選んだら、「その療法を生涯、ずっと選択し続けるように」「他の療法には手を出さないように」という本人や親御さんに対するメッセージではないはずです。


アメリカのある療法のトレーニングを受けていたとき、そこのトップの人に質問したら明快な答えが返ってきました。
「私達の療法は、私達の理念と整合性のあるものだったら、他の療法、考え方を積極的に取り入れていく。そうやって今までも、進化させてきました」と。
つまり、一貫性のある支援とは、「私達の支援方法を生涯選択し続けなさい」という意味ではないのです。


人間の発達は多様ですし、ひと時も同じ状態だということはありません。
常に揺らぎ、変化しています。
ですから、特定の療法、方法、支援者にこだわるのは、賢い選択だとはいえません。
幼少期、必要だった支援が、就学後にはマイナスになることもあり得るのです。
同じ自閉症といわれた子どもであっても、うちの子と〇〇くんは、必要な支援、アイディアは違うのです。
支援者だって同じこと。
ある時期、大変お世話になった支援者だとしても、本人の状態、生活、発達が変われば、足を引っ張るような存在にもなる。
だからこそ、その時々で、本人の状態、ニーズを見極め、ベストな選択をしていかなければなりません。


それなのに、日本では、一部(?)のギョーカイでは、親御さんに対して「一貫性のある支援」を、特定の療法に絞るように、という誤ったメッセージを与えてしまっています。
一時期の「ケータイ2年縛り」みたいなものです。
他社に、他療法に、お客さんを奪われないために、という意味で使っている。


マジメな親御さんは、「そうか、いろんなアイディアのいいとこどりではなく、一貫してやり続けなければ、効果が出ないのか」なんて思い、必死に特定の療法に傾倒していくわけです。
ですから、地域ごとに色が出てしまう。
当地なら、視覚支援一本。
だって、最初に支援者が取り入れたのが、視覚支援だから。
それぞれの地域で、誤った「一貫性のある支援」ができてしまうのです。
自分の子に合うか合わないかではなく、その地域で最初に提供された支援をやり続ける。
大人になっても、幼児期に使っていた視覚支援を使い続けている人達を見ると、誰のための支援なのか、と思ってしまいます。


最初に入った通信会社のスマホを使い続けているように、幼少期に勧められた支援をいくつになってもやり続ける。
もちろん、それによって、本人も、家族も、助かる部分はあると思います。
でも、特に発達に関しては、失った選択肢が多いように思えます。
「うちは、視覚支援しかやりません」などと言っている親御さんがいます。
ずっと視覚的な手立てを使い、活動をするときは、個別で、パーティションの中。
もしかしたら、幼少期は、頭の中が混乱していた時期は、それがベストな支援だったかもしれません。
だけれども、成長と共に、他の刺激も必要だったかもしれません。
情報や刺激を統制するよりも、バリエーションのある刺激が、その子の発達を促したかもしれません。
支援よりも、発達のヌケを育て治す方が、その子の未来の選択肢を増やしたかもしれません。


意図的かどうかはわかりませんが、未だに「一貫性のある支援」を、一つの療法を幼児期から大人まで使い続けましょう、という意味で使っている人達がいます。
支援する側としたら、一度勧誘に成功すれば、営業活動はしなくていいし、自分たちの支援の質をせっせと向上させる必要もありません。
自由競争が機能しているのなら、支援者は選ばれなくてはならないので、常に進化し続ける必要がありますので。


同時に親御さんとしては、一つの療法に決めたら、それだけを見ていけばいいので、ある意味、その支援者を信じさえすればいいので、ラクです。
本当は、日々変化する子どもの状態によって、選択し続ける必要があるのに。
そこを「一貫性のある支援」という言葉が免除してくれる。
「12年間、放課後、児童デイでトランポリンを跳んでて大丈夫??」と思ってしまう。


ある程度、大きくなれば、言葉による表現ができる子なら、自分のニーズを表明することができます。
でも、それができない子もいるわけです。
本当は、その支援は今の僕には必要ない、と思っていても、そういった選択肢が目の前に現れないこともあるのです。
だからこそ、こういった子ども達のそばにいる大人は、子どもの状態、発達、ニーズの変化に敏感になる必要があるのです。


私がトレーニングを受けた療法の指導者たちは、毎朝、始まる前に、私達に自分たちの理念を暗唱させていました。
その一つが、「アセスメントから始める」
何か、新しい指導、支援を始めるときだけではなく、問題が起きたときだけではなく、常に子どもと顔を合わせたらアセスメントを行う。
朝、おはようと顔を合わせたその瞬間から、その子の状態は、変化はないか、と見る姿勢。
そうやって常にアセスメントを意識し、支援者の思い上がりで支援を組み立ててはならない、と教わりました。
もし、親御さん達に伝える「一貫性のある支援」を挙げるとすれば、しっかり子どものことを見て、そこから支援や援助を考えましょう、ということになりますね。


同じ療法、方法、考え方、支援者に縛られるのは、ラクを手に入れると同時に、子どもの可能性と選択肢を失うことでもあります。
子どもの発達、可能性、ニーズは、一つの療法でカバーできないのですから。

2019年7月1日月曜日

敢えて「未発達」を言葉に

「どれが障害で、どれがこの子の個性だかわからない」
そんな風におっしゃる親御さんは少なくありません。
確かに、わかりませんね。
ここが発達障害で、ここからが個性などと明確な線などは引けるわけがないのですから。
もっと人間は複雑ですし、一つの言葉、行動をとっても、その背景には複数の要因が影響し合っているのです。
単純に線が引きたいのは、複雑な人間、生物というものを便宜上、区別したい人達がいるからです。
線を引くことは、グループに括るということは、ニーズを新しく作ることでもあります。


医師から、専門家から、「あなたの子は、発達障害ですね」「自閉症ですね」と言われてしまうと、子どもの言動全てが発達障害ゆえ、自閉症ゆえに見えてしまいます。
そうなると、「障害故に配慮せよ」というメッセージが迫ってきて、その子を教え育てるよりも、私が変わり耐えるへシフトチェンジしてしまいます。
そうなると、親子共々、ネガティブな方向へと歯車が回りだすことに。


当然、子どもは未発達な存在です。
これからまさに、未発達な部分を育てていこうとしている時期です。
そんな時期に、周囲から「仕方がない」「教えるよりも、配慮支援」と思われたりすることが、発達の機会を奪われることにもなります。
それでは、発達の機会が乏しいために、同世代の子ども達が経験することが経験できずに、ますます発達の差、遅れが大きくなるばかりです。
ある意味、発達の差を広げるのは、本人の能力の問題ではなく、環境、つまり、周囲の姿勢、考え方による、といえます。


また、親御さんにとっても、「私が変わればいい」「私が耐えればいい、受け入れればいい」と考えるのは、マイナスが多いといえます。
我が子の自立と幸せを願わない親などいません。
というか、我が子を自立させようとするのは本能だと思います。
そのために、自分が身に付けたこと、学んだことを、我が子に伝えようとするのは自然な流れ。
そういった本能があるのにも関わらず、頭で無理やりストップをかけるようなものです。
教え育てたいのに、知識と言葉で、「いやいや、配慮が、支援が、理解が必要な子」「変わるのは、この子ではなく、親である私であり、社会の方」などと、自分自身を否定し、洗脳していく。
ですから、「育てていこう!」と思っている親御さんは明るく前向きであり、「理解だ」「配慮だ」と言っている親御さんは、いつまで経っても、子どもだけじゃなくてご自身も生きづらそうなのです。


もし「未発達」という視点がなければ、幼稚園や保育園に行けば、どの子もみんな発達障害であり、ADHDです。
先生が話をしても聞いていないし、走り回っているし、あちこちで喧嘩をしている。
でも、それでいいのです、それが自然なのです。
偉そうにしている大人たちだって、みんな、子ども時代は未発達だった。
いろんな未発達な部分を、発達が凸凹している部分を、家庭生活や遊びを通して、育てていったのです。
ですから、大事なのは、未発達な部分があるかないかではなくて、育てるか育てないか、ということ。
その「育てる」視点を持つためにも、大人が責任をもって子ども達を育てていくためにも、幼少期のレッテル貼りも、「生涯変わらない」といったエビデンスのない予言も、百害あって一利なしです。


「どこが障害で、どこが個性で」と訊かれたとき、私は「未発達だと捉えましょう」というお話をします。
「ここが自閉症で、ここがその子の個性」などと区別する必要性はないですし、そもそもそんなことができるわけがありません。
だったら、「この子の未発達な部分を育てていく」という想いをもって、お子さん達と接した方が、お互いにとって幸せなことだと思います。
特に、子ども時代なんて、未発達だらけです。
その未発達な部分をより良く育てようとするのが、子育ての中心ではないでしょうか。


と言いますか、本来、「未発達だと捉えましょう」なんて、敢えて言葉にするまでもないことです。
だけれども、早期に診断するのに熱中している人達がいて、どれだけ早期に診断できるかをお互いに競っている。
そういった人達が、「幼少期の診断とは、現時点のものであり、(仮)のものであり、発達とともに変わっていくのが自然なこと」という説明を怠っている。
そして多数の専門家、支援者達が、一度付いた診断名をベースに支援をしていく。
ほら、もともと線引きできるような次元じゃないものを敢えて線引きするのは、新しいニーズを作るためのもの、つまり、新しいお客さんを作るということに過ぎないのです。
本来、診断とは、その人がより良く変わるためのもの、より良い治療を始めるためのものなのに。
ですから、敢えて「未発達」を言葉にする必要があるのです。


子どもが未発達なのは当然。
親が、周囲の大人たちが、その未発達な部分を育てていくのは当然。
未発達な部分がたくさんあれば、全体像として発達が遅れるのは当然。
だから、未発達な部分がたくさんある子を目の前にして、「これは障害だ」「これは生涯変わることがない」と言い切るのが異常。
どこが障害で、未発達かはわからないから。
というか、未発達な部分が育ち、身体が整っていけば、全体像も、全体的な発達もガラッと変わるのは当然なこと。
未発達な部分が育ち、ガラッと変わったのが、大人の姿。
大人のニーズを満たすために、まさに今、発達しようとしている子ども達がお付き合いする必要など、まったくありませんね。