治すのは、より良い社会生活が送れるために

「発達障害が治る」と言うと、すべての困難が治り、普通の人になることをイメージされる方が多いと感じます。
しかし、「普通の人になる」というのが治るだとしたら、それは不可能です。
何故なら、普通の人などいないからです。


一人ひとり遺伝子は異なりますし、その遺伝子がどのタイミングで、何が発現するか、しないかは環境側が握っています。
当然、発達の仕方も、学習の仕方も、生まれたあとの環境によって違いを生みます。
同じような時代、環境の中で生きた人間でも、一人として同じ人間はいません。
つまり、定型発達と呼ばれる発達の順序があったとしても、偏りもあれば、バリエーションもありますので、どの人も個性的で、発達に凸凹、違いがあるといえるのです。


「じゃあ、発達障害が治るって何だよ」という疑問が生じます。
その疑問に答えるためのポイントは、『障害』という言葉、概念です。


発達障害、もっと丁寧に言えば、神経発達の障害であり、神経発達に遅れがありますよ、ということ。
でも、神経発達に遅れがある子は少なくありません。
乳幼児健診でも、指標となる行動と月齢がありますが、発達には幅があるという前提がありますので、月齢よりも発達が遅れていたとしても、すぐに問題にはなりませんし、当然、障害にもなりません。


神経発達が遅れていても、あとから追いつけば良いのですし、遅れたままであったとしても、社会生活に支障がなければ問題ありません。
そもそも個々の神経を詳細に調べることはできませんし、健診等でも、それこそ、発達障害の診断でさえも行えないし、行っていません。
発達障害と無縁と思われる人、いわゆる定型発達で育ってきた人の中にも、知られていないだけで神経発達の遅れや、一般的な神経同士の繋がり方とは異なる人もいるはずなのです。


そこで、『障害』という言葉、概念です。
発達障害、神経発達障害などと言われていますが、本当に神経の発達が遅れているか、そこに不具合が生じているか、は確認しているわけではありません。
つまり、「神経発達に遅れ→社会生活に支障」ではなく、「社会生活に支障→神経発達に遅れ“だろう”」ということ。
よって、障害の有無は医学的、生物学的、神経学的に決定しているのではなく、社会生活に支障があるかないか。


世の中に、変人、変わった人はごまんといます。
かつては、総理大臣にもいました。
と言いますか、あなたも、私も、隣にいる人も、ご近所さんも、変人だらけ。
何も個性のない典型的な普通の人を見つける方が苦労します。
ヒトの神経発達に多様性があるからこそ、世の中、変人に溢れている。


「発達障害を治す」というのは、変人を普通の人に矯正することではありません。
社会生活に支障をきたしている原因に対処する、改善する、治していく、という意味だと、私は考えています。


社会生活に支障をきたさないように、サポートしよう、物理的にも、心理的にも、金銭的にも。
そういう考え方、選択肢がありますし、今の特別支援、発達障害を取り巻く環境は長らく福祉リードで発展してきたため、色濃く残っています。
ですから、本人が変わるよりも、周囲が、環境が変わろう、配慮しよう、という流れ。
それにプラスして、「長所を活かす」「個性を伸ばす」という教育が加わると、できないところはそのままで、配慮で、可能な部分を使って適応力を上げよう、となります。


こういった特別支援教育は、個性的な人達を育てていきました。
でも、社会の中で自立して生きていける人を多く育てられたわけではありませんでした。
早期に診断を受け、早期から療育と支援を受け、特別支援教育で育ってきた若者たちの中には、18歳以降の長い人生を福祉の中で、また福祉作業所にも週に1回くらいしか通えない人、卒業後、自宅待機という人もいるのです。
「できるところを活かして適応力を上げる」には限界があるといえます。


社会生活に支障をきたしている原因は、確実に本人の内側に存在しています。
ですから、支援でも、教えるでもなく、“治す”なのです。
感覚過敏は、社会生活の営みに大きな影響を及ぼします。
いくら能力があったとしても、環境からの刺激に右往左往していたら、学業も、仕事も、生活もなりゆかない。
ですから、未発達である感覚を育て、刺激を受容する身体を整え、感覚過敏を治していく。


子どもにとって、幼稚園、保育園、そして家庭はリッパな社会です。
その中で思いっきり遊べない、友達と交流が持てない、同じような体験ができないとしたら、それも社会生活に支障あり、といえます。
神経発達が最も盛んな時期に、遊べないのは子どもにとって大きなリスクです。
そういった子ども達の多くは、胎児期から2歳ごろまでの間に、抜かしたこと、少ししかやらなかったことがあります。
吸う力が弱くて、母乳をあまり飲めなかった。
ハイハイを飛ばして、立ってしまった。


古今東西、ヒトは同じような発達段階を踏みます。
もちろん、個人差がありますし、子どもによっては、ある発達段階を飛ばしても、問題なく社会生活が遅れている子もいます。
でも、あとからでもやり直せるのなら、抜かした運動発達をやってみる、育てなおしてみる。
600万年におよぶ人類の歴史の中で、脈々と続けられてきた運動発達。
発達の遅れも、ヌケもあることが問題なのではなく、障害なのではなく、そのままにしておくことが問題で、障害になる可能性が高いといえるのです。


「栄養で発達障害を治す」というのも、人によっては正しい治し方になります。
栄養の偏り、不足によって、脳や身体にエネルギーがまわらない。
結果的に学習や運動、発達に影響が出て、社会生活に支障が出る。
社会生活に支障が生じれば、障害になりますが、その原因の根っこが栄養なら、食事の改善で発達障害は治っても不思議ではありません。
同じように、脳の準備が整っていない段階からの文字教育、知識偏重な指導、過度なメディア視聴が心身の発達に影響を及ぼし、結果的に社会生活に支障をきたしているのなら、それらを排除することが発達障害を治すことに繋がるといえます。


変人だから、社会生活に支障があるのではなく、発達の遅れやヌケをそのままにしておくから、心身の発達に影響を及ぼす状態をそのままにしておくから、結果的に社会生活に支障が出るのです。
社会生活に支障がない状態まで、どうやって育てていくのか。
これは、お子さんを持つすべての親御さんに共通した視点、考えです。


快食快眠快便を整える。
基本的な生活習慣を身につける。
発達に遅れがあったら、やらなくていいの?
いや、そうではなく、これらをきちんと整えるのは、社会生活を送るための土台です。
同じように、発達の遅れや抜かしている部分があれば、あとからでもやり直し、育て直していく。
発達の遅れ、ヌケをそのままにしておかないことが、社会生活に影響を与えるリスクを減らすことに繋がります。


発達障害を治すのは、変人を矯正することでも、発達の凸凹をまったいらにすることでもありません。
より良い社会生活が送れるように育てること。
社会生活に支障が生じている原因の部分を改善、治していくこと。
いわゆる自閉脳でも、超個性的でも、奇人変人でも、脳に凸凹があったとしても、本人が社会の中で伸びやかに暮らし、生きていければ良いのです。
そのために治すのは、本人そのものではなく、内側にある生きづらさの根っこ。
根っこなら育て、治していくことはできます。

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