2018年6月17日日曜日

昨日の子のような笑顔が見たいから

昨日、伺ったお宅の子どもさんが、急に余所余所しくなったので、どうしたのかなと思いましたら、背中の方からあるものを渡してくれました。
算数テストの答案です。
表も、裏も、満点の数字が見えました。
そして、私の顔を見て、この子はニコッと笑ったのです。


小学校のテストで100点を取るのは、それ程、大きな出来事ではないかもしれません。
しかし、この子の場合は、特別な意味があったのです。
人生初の100点満点の答案。
しかも、低学年のとき、医療機関で正式な診断を受けており、「〇〇ちゃんは、アスペルガーだけでなく、LDもありますね。学年が上がれば、勉強についていくのも難しくなりますし、この子は福祉を利用しながら生きていくでしょうから、無理せず、早めに支援級へ移った方が良いですね」というようなことを言われていたのです。


そんな子と出会ったのは、実際、支援級へ転籍することが具体的に進み始めていた頃でした。
親御さんは、医師の診断と見たてを聞き、「無理させないで、福祉の中で生きた方が幸せなのかもしれない」と思いかけていました。
でも、心の中では「本当に幼い我が子の未来は決まっているのだろうか、他の可能性は無いのだろうか」「本当に何もやってあげられることがないのだろうか」という想いがあった。
そんな揺れ動く心情のとき、我が子の言葉を聞いたのです。
「私、みんなと一緒に勉強がしたい」


もし、あのとき、医師の言葉を信じ、転籍していたらどうなっていたでしょうか。
少なくとも、昨日の笑顔は見ることができなかったでしょう。
ある意味、医療を超えた瞬間でもありました。
現代医療を、親御さんとの二人三脚で、この子は跳び越したのです。


ご存じの通り、発達障害に対し「治る」という言葉を使うと、「医療的に誤りだ」「そんな医学的な知識、見解もないのに、よく専門家を名乗れるな」などと言ってくる人達がいます。
中には、「そんなこともわからず、よく教員免許が取れたな」などという反論するのもバカバカしくなるようなクソリプを飛ばしてくる人もいました。
多分、こういう人は、我が子の学校の先生に対しても、こんな上から目線のバカにしたような態度でいるのだと思います。
こういう人は、いつの時代の教職員を想像しているのか、と思いますね。


今どき、特別支援教諭の免許取得に限らず、どの種類の教員免許を取るにも、障害について学びますし、特に発達障害については、以前よりもましてしっかり学ばなければなくなりました。
当然、国が定めた教員免許を取得するには、一定以上の知識を獲得する必要があるのです。
しかし、学校の先生は支援者でなければ、療育や介護をする仕事ではありません。
学校の先生は、勉強を教えることが一番の目的です。
勉強を教える際、特別なニーズがある子の場合には、その子に合ったアイディアと方法で、勉強を教えていく。
勉強を教えていく、子どもの知識や技能の獲得を後押ししていくのは変わりがないことです。


中途半端に特別支援について勉強したり、地域の支援者とつながったりしていると、「そんなことも知らないの」「そんな療育方法もできないの」というような態度をとる親御さんがいます。
こういう人は先生の役割を誤解している人であると同時に、我が子の成長を後押しできない人だといえます。
何故なら、求める療育とは対処療法であり、子どもが身に付けるのは適応だからです。
ちなみに、こういった親御さんは態度に表さなくても、相手はすぐにわかるもので、当然、すこぶる評判が悪いですね。
こういう親御さんと連携して、その子により良い教育をとは…以下略。
まあ、自業自得です。


「治った、と言っているのは、適応できるようになっただけ」と言うような人もいます。
ここまでくれば、そんな発言をひと様に聞かれて恥ずかしくないのか、と同情すら覚えます。
多分、こういう人は、動物の曲芸のようなものを療育であり、教育であると思っているのでしょう。
場面に合わせた振る舞い方ができるようになる。
それは、発達しているわけでも、成長しているわけでもなく、ただの条件反射です。
条件に合わせて、求められる振る舞いをしているだけ。
動物の曲芸のように、芸をいくら覚えても生きやすくならないし、ましてや自立なんて不可能です。
だって、人生100年時代を生きる中で、子どもが出会う場面は、限りないくらい多くあるから。


私達が言っている「治る」は、適応といった表面的なことではなく、根本的な意味。
発達障害は「神経発達の障害」なのですから、一人ひとり異なる発達の課題の部分を見極め、そこを丁寧に育てなおしていく。
ヘンなサプリや水を飲むだとか、壺を買ったり、お祈りしたりだとのオカルト的なものではなく、とても合理的で、科学的だと思います。
こういう発言をすると、また「医学的に証明されていない」など、もう屁理屈みたいなことを言ってくる人もいますが、じゃあ、逆に質問しますが、「医学的に証明されていないこと以外、すべて誤っているといえるのか?まったく効果がないといえるのか?」「世の中全ての事象を科学で検証することができているのか?可能なのか?」と思うのです。


私が学生時代、それこそ、障害児教育の講義で学んだ「自閉症は脳の機能障害」「生来的な障害で、治ることはない」という知識が、すでに変更されています。
「脳の機能障害」が「神経発達の障害」と変わったのは、「脳の機能障害」と言われた時期に、すでにそれに当てはまらない人が存在していたということであり、「神経発達の障害」とした方が実態に適していると、世界の専門家の中で判断する材料が揃い、コンセンサスがとれたということ。
時代は動き、医療は日進月歩で進歩しているのに、いつまで、あなた様の頭の中は、「脳の機能障害」で止まっているのですか?
また今後も変わりうる医療の前に、「医学的にそう言っているから、それに従います」という姿勢でい続けるのですか?
未だに、発達障害の診断だって、目に見える、確認できる症状を診て判断している状態で、生物学的なマーカーで科学的に診断できているわけではないのです。


いつ来るかわからない、またどうなるかわからない医療の見解を待っている間にも、目の前のこどもたちは日々、大人に向かって歩みを進めています。
医療が言っていることと外れないことを選択するのと引き換えに、子どもの発達と成長の機会を犠牲にする覚悟があるのか、と思います。
冷蔵庫マザーの時代の親御さん、支援者の中にも、「いや、この子達が必要なのは親の愛情ではなく、適切な支援だ」と思う人がいて、実践し、結果を出してきたからこそ、「脳の機能障害」という見解が生まれた。
同じように、「脳の機能障害」と言われた時期に、「いや、脳の機能障害と言われているけれども、根本的な課題は、感覚や内臓も含め、生きる上で土台となる身体の発達にバグがあるのでは」と思う人がいて、そういった部分を育てていった結果、苦しめられていた障害がなくなり、同世代の人達と同じような生活ができる人が出てきた。
どうしてこんな当たり前のことを勘違いしているのかと思ってしまいますが、このように「人がいて、医療が追い付くこともある」というか、それが自然な流れです。


山中教授のように、不治の病に挑み、医療技術の進歩に人生をかけている医師たちがいます。
その一方で、そういった可能性と未来を信じず、「あ~、この子はアスペで、LDもあるから、将来は福祉ね。普通級?ムリムリ」と言う医師もいる。
私は、医療の可能性を信じられない人は、そもそも人間の可能性を信じることのできない人だと思います。
たとえ、自分が関わる医師が、支援者が人間の可能性を信じられない人だったとしても、親御さんは我が子の可能性を信じるのではないでしょうか。
そして、子ども自身も、表現しなかったとしても、自分の可能性と未来を信じているはずです。
親が子どもの可能性を信じず、誰が信じるのです。


治るの道を進む人達は、決して理想主義で、楽観的で、医学的な知識が全くない人ではありません。
みなさん、医学的に「治らない」と言われているのも知っています。
でも、目の前の子の中に、そういった知識を飛び越える可能性が見えている人たちなのです。
だから、何も知らず、あたかもただの無知のような、またインチキをやっているような発言をする人間を私は許せません。
だからといって、そういった人達に考えを改めてもらうつもりもないし、治らず、支援と理解を求めて生きていけば良いと思います。
医学的見解から外れてない自分に酔いながら、目の前で生涯生きづらいままの子を見続ければよいでしょう。


何を言われようとも、治りたい人達と共に私は歩んでいきます。
昨日の子のような笑顔が見たいから。
私は子どもの笑顔を犠牲にし、医療と心中するつもりはないのです。

2018年6月14日木曜日

『発達障害者支援法は誰を救ったか?【電子版】』(花風社)を読んで

今朝、花風社さんから電子版の新刊が発売されたことを知り、早速ダウンロードして、今、読み終えたところです。
それこそ、発達障害者支援法が施行された13年前では考えられないくらい便利で早く、そして求めている知見や情報を得られるようになったと感じます。
今日、世に出た知見や情報を、今日、全国にいる皆さんと共に享受することができる。


13年前は、当時のリーダー達が言っていた言葉をそのまま信じていました。
主に夏に行われていた全国の都市部開催の講習会へ出かけて行き、そこで必死にメモを取り、各地域に持ち帰る。
そして有名な支援者たちが書いた本で勉強する。
今のように、様々な種類の本は出ていませんでした。
いわゆる専門書と呼ばれるもので、専門家が専門用語を使い、読者よりも専門家の方を向いた本だったように思います。


そんな専門書から伝わってくるのは、「脳の機能障害」と「生来的な障害」であるということ。
「治らない障害に対して、私達は何ができるのか?」
それが支援者の頭の中にはあり、そして私も含め多くの支援者が「環境を整え、一人でできることを増やし、より自立“的”な人生を歩めるように支援する」という方向へと進んでいきました。
あの当時、みんなが同じ方向を突き進んだのは、その支援を否定する声がなかったから。
いや、あったのかもしれないが、多くの人の耳には届いてこなかった。
そして一番の理由は、治った人を見たことも、いることも知らなかったからだといえます。


ちょうど昨晩、SNS上で、2014年に発売された『自閉っ子の心身をラクにしよう!』を読み、実践してからどれくらいで、どのような変化があったかが話題になっていました。
住む場所も、年代も、違う人達が、「我が子には」「私自身には」と情報のやりとりがされている。
そんな様子を拝見させていただき、4年前に出版された本、また著者の栗本さんの知見が多くの方達の成長と生活を支え、後押ししたことがわかりました。
それと同時に、13年前では考えられなかった睡眠障害や感覚過敏等で苦しんでいた人達が、それに悩まされないくらいまで変わったこと、普通学級や一般就労は無理と言われていた人達が、元気に学び、働く毎日が過ごせていることが、全国どこにいても瞬時に知ることができるようになった、そのように変わったんだと思いました。


今振り返ると、先進地域の人達は、有名支援者を地元に呼ぶことができ、他の地域よりも新しい知識を得ることができている、ということ自体に満足し、盲目的に、疑問を持つことなく、突き進んだのだと思います。
また、そうではない地域は、「自分たちは遅れている」などと思いながら、時々、先進地域に出かけていって得られた僅かな情報を基に支援を展開していったのでしょう。
いま、「自分たちは遅れてるもんね」という地域の人達の方が治ってきているのは、より良い情報が外にある、と思っているからだと感じます。
「この地域になければ、他のところにあるかもしれない」という考えは、こういった歩みと得たい情報をすぐに得ることができるという今の時代と有利にマッチしたのだといえるでしょう。


今回の新刊『発達障害者支援法は誰を救ったか?』は、その名の通り、2005年に施行された発達障害者支援法を軸に、13年前の当時の空気感、そしてその13年間で、本人たち、親御さん達、支援者たちがどのように捉え、行動していきたのかがわかる本になっています。
私の感覚では、特別支援が始まったのが、ついこないだという感じでいますので、もう13年の月日が流れたのか、と思ってしまいます。
13年前の小学1年生がもう成人したのですね。
そう考えると、今、幼い子ども達を育てられている親御さん達は、当然、当時の空気感や推移がわからなくても仕方がないのだと思います。
本を読み進めている中で、私自身も13年間を振り返りながら、「こんなはずじゃなかったよな」と改めて思うのでした。
今、子育て真っ只中の親御さん達は、どうして「治るが勝ち」なのか、本を読まれることでより深くわかることがあると思いました。


まだ出版されたばかりですし、内容に関わることは避けますが、「発達援助の非医療化」には大いに賛同しますし、自分自身、その道を推し進める一つになりたいと思いました。
そして、「勝ち逃げ世代の支援者」という表現からは、私達、中堅、若手の世代の支援者たちに向けた熱い叱咤激励のメッセージと想いを受け取りました。
13年前のリーダーたちは、当時からおじいさん、おばあさんばかりでした。
前世代の人達が果たした役割は、あの当時、大きかったと思います。
今から振り返れば、おかしいなと思うことでも、それは今、知見が集まり、進化していった結果から見れば、なのだと思います。


しかし時代は大きく変わっています。
それに今よりも少しでも本人と家族がラクに、より良い子育て、より良い人生と自立した生活のために前進しようという想いと行動がなければならないのだと思います。
そういった積み重ねが、次の10年を変えていくはずです。


10年後、今を振り返ると、治る、治らないで言い合っているのが笑えてくると思います。
すでに結果は出ているでしょうし、国の考えや方針、これから進んでいく未来の状況からも、治りやすい人から治っていく、本当の意味での自立していく人が今よりもずっと増えて、自然な状態になっているはずです。
治りたい人、自立したい人を応援し、後押しする時代にどんどんなっていくと考えています。


いくら治ってほしくない人が「治りません」と言い続けても、「治ったよ」「自立したよ」「働いているよ」という情報は、瞬時に広がっていきます。
より良い情報や知見、求めているものを持っている人がいれば、直接つながっていける時代です。
13年前を振り返り、当時の空気感を思い出しながら、10年後の素晴らしい未来を想像する。
これが今朝から今に至る私の時間でした。
当時を知る人も、当時を知らない人も、是非、読まれると良いと思います。
特別支援に対する考え方と、自分が何を求めているのか、が明確になってくるはずです。


 


2018年6月13日水曜日

特別支援の外にこそ、真のニーズがある

日本の場合、お医者さんしか診断することができません。
ですから、発達障害の人達が通る医療の中で軽度化や症状が出ない状態までの治療がなされれば、医療が入り口であり、出口になります。


しかし、現在の医療では、発達障害を治療し、治すことができません。
なので、発達障害の人達の生活を支えるケアの必要性が生まれます。
それが支援や介助といった福祉です。


制度的、金銭的、人的、環境的な支えは必要ではありますが、生涯支え続けることは、本人も、社会も求めていないといえます。
「治らない障害の人たちなのだから、何もせず、ずっと福祉の中にいればよい」
決してそのようなことはなく、個々に合った学びがあれば、成長していく人達です。
そして特別支援教育が生まれました。


特別支援教育の目的は、その子の持つ資質を最大限伸ばし、将来の可能性を広げ、自立して生きていける社会人を育てることです。
そのために、普通学校の教育とは異なり、より個別的に、より柔軟な教育が行われます。


医療があって、福祉があって、教育がある。
それも公的に、誰でも利用することができます。
ある意味、定型発達の子どもを育てるよりも、多くの選択肢があり、多くの資源、サポートがあるといえます。
それなのに、どうして公的な機関を頼るのを止める人がいて、どうして民間の機関を頼る人がいるのでしょうか。


それは公的な機関に満たせないニーズがあり、公的な機関の外にニーズがあるからだと思います。
医療→福祉→教育と、特別支援がニーズと共に生まれてきたのと同じように、ニーズが民間の選択肢を生んだのです。
ニーズがないところに民間が出ていけば、いくら肩書や資格、資金等あっても淘汰されるのが当たり前です。


私は公的な機関を通って、民間になった人間です。
公的な機関で働いていたときにヒシヒシと感じていました。
公的な機関の限界を。
そして、本人、親御さん達のニーズを満たせていないことを。


私が感じた限界は、特別支援の中だけで、子どもを育てていくこと。
診断名をつけたところから、ずっと特別支援の中でどうにかしようとしているのがわかります。
結局、間に特別支援教育が入るけれども、医療と福祉の行ったり来たりであり、特別支援の世界から外に出ていく人がほとんどいない状況があります。


「親元を離れ、自立して生きる」
これは動物としての本能であり、長い進化の過程の中で遺伝子に組み込まれたものだと思います。
本人と家族の想いであり、ニーズです。


特別支援の中で完結できないのは、自立が存在しないからです。
特別支援の中で言われる「自立」とは、支援を受けながら自立“的”に生きていく、という意味ですから。
そして一番の問題は、子育てのニーズに応えず、治療と教育と支援にしてしまったこと。


発達障害とは受精した瞬間から現在まで続く発達の中に課題が存在するということ。
決して診断された瞬間から障害が生まれたわけではありません。
特別支援は診断から始まりますが、子育ては、子どもの発達は、その前から始まっているのです。
つまり、発達に障害がある子をどう育てていくか、どうすればより良く育っていけるか、これこそがニーズの中心だといえます。


親御さんがしたいのは、療育ではなく、子育てです。
本人が望むのは、特別支援の世界で生きることではなく、より良く発達、成長し、社会の中で自立して生きていくことです。
子育てに、資格も、エビデンスも必要はありません。
必要なのは、我が子がより良く発達、成長する姿のみ。
だから、親御さんは公的、民間にこだわらず、より良いものを求めて行動します。
「資格だ」「エビデンスだ」は、支援者間の陣取り合戦であって、子どもも、親御さんも興味が無いのです。
そういったものは、本人と親御さんの「自立したい」という欲求の前では、ただの音であり、文字でしかありません。


親御さんが求める子育てのニーズ、本人が望む自立のニーズが満たされない限り、民間の機関はなくなることがないでしょう。
むしろ公的だ、民間だ、という声がなくなるのが望むべき未来です。
何故なら、子どもを育てるとは、社会全体で営まれることだから。


今のように、特別支援の中だけで育つ子ども達の未来は良くないと思います。
発達障害を持った子ども達も、同世代の子ども達と同じように、地域の資源を使い、より良く育っていく。
必要なのは、特別なニーズを満たす場所を作り、分けることではなく、同じ地域の資源を使いながら成長していくこと。
ですから私は、子育ての中にニーズがあり、家庭での子育ての中に発達を促す力があるのだと考えています。
特別支援の外にこそ、真のニーズがある。

2018年6月12日火曜日

「はい、誤診でした」では許されない

発達障害という診断を受けた人の中で、感覚過敏などが治まり、学校や職場、地域で問題なく、生活できている人のことを、みなさんは何と表現するでしょうか?
私は「治った」と表現します。
実際にそういった方達とお会いすると、「治った」という表現がピッタリだと感じるのです。
でも、支援者の中には「治った」とは言わず、こう考える人がいるようです。
「それは治ったんじゃなくって、誤診だった」と。


「治らないから障害なんだ」という主張は、いろんなところで言われていることです。
だからこそ、症状に苦しまなくなり、支援を受けなくても、自立して生活できるようになった人は、「最初から発達障害ではなかった」ということになる。
じゃあ、最初から発達障害ではなかった人を「発達障害があります」と診断したのは誰か。
その人間の罪は大きいといえます。


障害じゃない人が、障害を持った人として生きる。
それは、その人の人生を大きく変えることであり、あったはずの選択肢と可能性を奪ったことになります。
また、障害者として治療され、教育され、支援サービスを受けてきたということは、必要のない人にみんなから集めた税金を使ったということにもなります。
これは社会的損失でもあります。
社会は、社会を担っていく人間を一人失ったことになりますし、限りある資源を不必要なことに使ってしまったのです。
一人の人間の人権を侵害した上に、社会的損失もあった。
これは大きな罪になります。


「治るはずのない障害を持った人が治ったんだったら、その人にはもともと障害がなかったんだ」
そうだとしたら、ずっと症状は変わらず存在し、支援を必要とし、支援がないと生活できない状態が続く人が「障害を持った人」ということになります。
じゃあ、改めて問います。
発達障害の人達に対し、医療は何をしているのか、どんな役割を果たしているのか。
そして、支援者は本当に支援をしているのか、それは介護ではないのか。
ずっと苦しみが続くのだったら、医療も、支援も、療育も、すべて無力だということになりませんか。


「治らないから障害です」という認識は、いわゆる専門家と呼ばれている人達が白旗を挙げたということ。
私達には、根本から苦しみをとり、自立した人生を送るだけの働きかけができないから、せめて当事者と家族に寄り添わせてください、と言っているようなものです。
だから、本人の苦しみには手をつけず、「社会ガー」「理解ガー」とやっている。
そして発達障害を持った人が犯罪を犯すと、「誤った認識が広まる」「偏見につながる」と、決まって声をあげる。
一般の人達が「また発達障害者か」「報道に抗議する前に、専門家ならどうにかしろよ」と思ってしまうのは、社会の方ではなく、当事者と親の顔を見て仕事をしている表れだと感じます。


治らない派と治る派は、一生交わることはないでしょう。
そして、それぞれの道を歩んでいく。
それで良いのだと思います。
何故なら、どちらの道を選択するかは、本人であり、家族が決めることだから。
一人ひとりが、自分の頭と腹で考え、選択していけば良いのです。
そういった一人ひとりの選択と歩みが、どちらの道が正しかったか、どちらの方が真実かを決めてくれます。
時代と未来の大人たちが答えを出してくれると思っています。


私は治るを信じ、治る道を進んでいこうと思います。
私が出会ってきた治った人達は、ただ誤診された可哀想な人ではないから。
みなさん、本人しかわからない苦しみを経験され、そして、そこから自らの足で這い上がってきたのです。
決して、「もとから障害じゃ無かったよね」「そもそも軽かったんだ」という一言で言い表せられるような方達ではありません。


「脳の可塑性」と「神経発達の障害」という言葉だけでも、治っていくと考える方が自然だと思います。
状態の固定化とは、欠損したのか、そもそも生きていないか、のどちらか。
今、目の前にいる発達障害の人達は、脳や神経が欠損しているわけではなく、同じ時代を同じように生きているのです。


「治らないから障害です」と言う人と、「神経発達を促し、治していきましょう」と言う人。
対処方法と寄り添ってくれることを求めるか、より良く育てていくことを求めるのか。
どちらが正しいとは言えないでしょう。
でも、今の親御さん達はラッキーです。
それぞれの道を歩んできた成人した人たちの姿を見ることができるから。
専門家がいくら理屈をこねくり回しても、成人した人達の姿から感じることは変えられません。


個人的には誤診でも、偽物でも、なんでも結構です。
誤診すら治せない人よりマシです。
どんどん治り、治ったあとはしっかり「発達障害だ」と言った人達に責任をとってもらいましょう。
誤診の人が増えれば、診断のあり方が問われます。
誤診の人が増えれば、「治らない」という認識が問われます。
ですから、今、治す道を歩まれている本人と親御さん達には、時代を動かす力があるといえます。
きっと今の子ども達が成人したときに、彼ら自身で答えを述べてくれると思っています。
彼らが望んだ未来が、彼らの作っていく社会です。

2018年6月7日木曜日

啓発に費やした時間は戻ってこない

いま、どんな状況に置かれていても、自分は「自立の道へ進んでいる」「困難をクリアする道へ進んでいる」「少しずつだけれども、発達しているし、治ってきている」と感じられている人というのは、「社会の理解ガー」などと言わないし、そのような活動もしません。
反対に、年がら年中、「理解ガー」とやっている人は、誤学習している人であり、進む道を見失っている人だと感じます。


啓発ばかりやっている支援者というのは、日頃の支援で無力感を感じている人か、新しい顧客獲得のために市場開拓をしている人くらいなものです。
治すのに忙しかったら、啓発に携わる時間はありません。
こういった支援者によって、本人や親御さんは誤学習したり、進む道を誤ったりします。


社会が理解しても、本人の生きづらさは解決しないのは当たり前です。
感覚過敏は、社会の理解がないから起きるのではないし、社会性が乏しいのは、世の中の人が発達障害の知識に乏しいからではありません。


第一、本人にしろ、家族にしろ、支援者にしろ、社会に対して「自閉症の知識を」「発達障害に対する理解を」と言っていますが、その目的を辿っていけば、自分の置かれている状況が良くなってほしい、この状態から抜け出したい、と言っているにすぎません。
だいたい世の中全ての発達障害者の理解や幸せを願っているわけではないと思います。


そういったことを考えられるくらいの思考力があり、世の中の空気を読めるくらいまでの感覚が育っていたとすれば、自分の困難と社会の理解は関係ないことが分かるでしょうし、ほとんどの人間が発達障害に興味関心がないことも分かるはずです。
厳しいことを言うようですが、それが分からないからこそ、啓発に傾倒してしまうのだと思います。
社会全体、発達障害者全体のことを考えられる人は、違う道に進みます。


「理解ガー」とやっている人を見たら、普通、支援者だったら「その道、間違っているよ」と伝えるし、その人の苦しみ、困難の根っこをどうやったら治していけるか、考えると思います。
結局、社会全体に投げかけていますが、自分自身がラクになりたい、自立していきたい、と個人的な悩み、困難のことを言ってるのですから。
そういった人を自分の仕事の宣伝道具に使うのは、支援者の風上にも置けない人間だと私は思いますがね。


過去に、啓発活動ばかりやっている人に、「本当に、社会全体、発達障害を持つ人全員のことを考えて活動しているのですか?」と尋ねたことがあります。
その人は言葉巧みな人でしたので、いろんな理由を述べながら「そうだ」と言っていました。
でも、その人の悩みは、他人との距離感が分からないことであり、他人と協働して活動できないことでした。
申し訳ないですが、他人との距離感が掴めない人、自分自身の感覚が育っていない人には、社会全体のこと、発達障害者全員のことを考え、適切に捉えられることは難しいと思います。


私は「社会全体のことを考えるな」「発達障害者全体のことを思うな」とは申しませんし、啓発活動をしたい人はすれば良いと考えています。
しかし、私は支援者の一人なので、「まずは自分の課題を解決しよう」「発達のヌケや遅れを育て直す方が近道」だと思ってしまいます。


ちなみに、上記の啓発活動に熱心な人は、バリバリ支援機関を利用している当事者の方。
本人の課題を見ず、直そうとせず、「啓発いいよいいよ」「理解が足りないよね」と言っているだけでお仕事になるのなら、誰の何を支援しているんだか、と思ってしまいますね。


「理解ガー」の当事者の方達の多くは、ずっと生きづらさを抱えたままですし、ずっと世の中を恨んでいるように感じます。
そして悲しいことに、新しい啓発系当事者の人が現れると、支援者がそっぽを向き出す、その人を
大事にしなくなるということもあります。
支援者にとって、「当事者の一人だったんだ」「広告塔の一つ」だったんだと感じることもあります。


啓発に費やした時間は戻ってきませんが、発達と成長に費やした時間は、必ず後からでも活きてきます。
だからこそ、自分の時間は、自分の発達、成長、そして幸せのために使ってもらいたいと願っています。

良い地域は無い、良い支援者もいない

「(近くに)良い支援者がいない」
「私の地域は遅れている」
というのは、事実でしょう。
でも、多くの場合、情報提供という意味ではなく、一種の逃げ道、言い訳の意味で使われているように感じます。
もし危機感を持っているのなら、行動するはずです。
でも、行動しない人に限って、年中、同じことを愚痴っています。


第一、子どもをより良く育てられている親御さんというのは、支援者の有無、住む地域に関わらず、いらっしゃいます。
私が関わった若者の親御さんは、当地が「先進地域バンザイ!」と浮かれている間、どの支援者にも頼らず、ご自身で我が子の発達課題を一つずつクリアしていき、自立できるようにと身の回りのことを一つずつコツコツと教えていきました。
結果として今は社会人として働く若者の一人になっています。


だいたい「良い支援者」「悪い支援者」なんて言っているところからして間違えだと思います。
良い支援者ってなんでしょうか?
自分の愚痴を聞いてくれる人?
「お母さんは頑張っているよ」と励ましてくれる人?
子どもの支援がうまい人?
子どもを発達、成長させる人?


私は良い支援者も、悪い支援者もいないと思っています。
いるのは、職業として支援する人。
同じ支援者だって、時と場合、人によって良くもなれば、悪くもなる。
すべてが良い支援者もいなければ、すべてが悪い支援者もいないと思います。
子どものとき、良い支援者だと感じていたのに、成長した我が子とは合わない、なんてことはよくあることです。


基本的に、支援者は利用するものです。
必要なときに、必要な部分の支援、アイディアを求める。
そして必要がなくなったとき、本人の課題が変わったときには、支援者から離れるのが自然です。
また、それこそが自立に向かうということ。
全権を任せる人でも、我が子の人生が左右される人でもありません。


だからこそ、我が子をより良く育てられている親御さんの口からは、「良い支援者」「悪い支援者」という言葉が出てきません。
「自分がこの子の苦しみを取ってあげるんだ」
「自分がこの子を治し、自立の後押しをするんだ」
という気持ち、主体性と覚悟があるからです。
ですから、地域や支援者の状況を理由にせず、そのとき、そのときで、我が子に必要なことを選択し、行動することができるのだと感じます。


私は支援者の一人だから思います。
「良い支援者」「悪い支援者」と言うのはやめましょう。
その言葉を聞いた若い世代の親御さん達が主体性を発揮する前に、外側に答えがあるように錯覚させてしまいます。
また存在しない「良い支援」「良い地域」を求める旅へと向かわせてしまいます。
「そんなものはありません」とはっきり言うのが、先を生きた者の役割だと思います。
我が子をより良く発達、成長させられる人のことを「良い支援者」と呼ぶならば、それは本人自身ですし、親御さんだけだと思います。

2018年6月5日火曜日

生命を維持するための育ち、生き抜くための育ち、人間として生きるための育ち

治る否定派は、勘違いしていることがあります。
それは、私達が「治す」とは言っていないことです。
発達障害を治すのは、支援者ではなく、本人であり、家族です。
また発達障害は治すものではなく、治るものです。
ここを読み違えると、「私達が支援すれば治るから、こっちへ来なさい」というような安っぽい詐欺師に見えてしまいます。
実際は、本人の困難を解決するわけでもなく、育てるわけでもなく、みんなの税金を使って「社会ガー」と言っているだけの専門家の方がよっぽど詐欺師に見えるのにね。


「発達障害の人も発達するのは当たり前だろ。でも、治らないから障害なんだ」と言う人もいます。
意味不明ですね。
発達障害のことを、遺伝性の障害ですとか、機能障害、身体障害と同じように捉えているのでしょう。
神経発達の障害である発達障害の人が、発達を続けたら、障害の部分が軽度化されていくし、その先には日常生活に影響を及ぼさない状態、本人が自覚することのない状態になっていくものです。
別に絵に描いたような普通の人(というか普通の人がどんな人かわかりませんが)になることが治ったということではありません。
そんなこと言いだしたら定型発達の人はいなくなり、世の中みんな発達障害を持つ人になります。


「治らないけど、発達する」という奇妙な説を唱える支援者や親御さんを見ますと、「子どもさん、ぜんぜん発達してませんけど」という場合が少なくありません。
発達するんだったら、治る一歩前まで、ちゃんと発達できるようにしたらよいのに、と思いますね。
こういった人の多くは、「発達するもん」と言いながら、子どもの発達を後押しするようなことをやっていない。
というか、育てる意味の勘違い、育てる方向性の違いがあります。


ヒトを育てるというのは、根気がいる営みです。
だけれども、どうもインスタントに結果を求めてしまう。
繰り返し、繰り返し、しかも見えない土台の部分から丁寧に育てていくことが「ヒトを育てる」なのに、見える部分で、すぐに結果が出るようなところばかりチョチョッといじくって、「はい、私は育てています」と言っちゃう感じ。
そういった人が療育に飛びついてしまいがちです。


そもそも『療育』とは治“療”と教“育”が合わさった言葉。
まあ、見事にギョーカイは、「治す」を捨ててしまっていますがね。
治さない療育は、デコボコの土地の上に家を建てようとしているようなもの。
当然、そんな土地の上に家が建てられるわけでもなく、だから昔の映画のセットのようなベニヤ板に絵を描いた家を吊るしてしまう。
見せかけの育ちですね。
いくら絵カードが使えるようになっても、いくらSSTで知識を得たとしても、いくらご褒美で特定の行動ができるようになっても、その子が育ったわけでも、発達したわけでもありません。
ただ適応しただけ、ただ振る舞い方を覚えただけ。


ヒトを育てるとは、三段構造になっていると私は考えています。
まず『生命を維持するため』の育てる。
子どもに必要な食事を用意し、しっかり休息できるような環境を整える。
病気や危険から守り、心身共に安心感を得られるような育てるです。
いわゆる快食快眠快便を整えることが土台の育ち。


その上には、動物として生きるための育てるがあります。
『生き抜くため』の育ちです。
神経を育て、内臓を育て、感覚を育て、動きを育てる。
生き抜くためには、生き抜ける身体が必要です。
自由自在に動かせる自分の身体となるように、遊びや運動、日々の生活を通して、子どもを育てていく。
子どもが主体的に伸びやかに成長できる環境を整えることと、子どもの発達に課題があれば、そこを丁寧に育て直すのが、ここで求められる育ちです。


そして一番上に、『人間として生きるため』の育てるがあります。
勉強をして知識を得る、技術を身につける、より良い人間関係の築き方、集団でのルールや協働の仕方を学ぶなど、多数の育ちがあり、育てるがあります。
人間として生きるための育ちとは、社会の中で生きるための育ちともいえます。


ヒトを育てるとは、このように『生命を維持するため』の育ちがあり、『生き抜くため』の育ちがあり、『人間として生きるため』の育ちがあるはずですし、それぞれの育ちが満たされることが必要だと思います。
どこかが満たされていなければ、次の段階の育ちがうまくいくはずもありません。
「社会の理解ガー」と言う前に、ちゃんと栄養のある食事を用意しなよ、しっかり眠れるように整えろよ、と思うことがあります。
「支援ガー」と言う前に、身体を育てなよ、子どもの発達の課題に注目しなよ、しっかり遊びきれる環境を用意しなよ、と思うことがあります。


生命を維持するための育ちが脆弱で、生き抜くための育ちに無頓着。
それなのに、人間として生きるための育ちを詰め込もうとする。
そんな表面だけを育てようとしているうちは、子どもは真の意味で発達しませんし、育っていきません。


年端もいかない子どもが診断を受ける。
で、快食快眠快便よりも、神経を育て、発達させることよりも、「重要なのは療育です」と言って、絵カードの使い方や模範的な振る舞い方の勉強、餌付けによる芸事ばかりやる。
神経発達が盛んな時期の子どもが育ちよりも、大人による対処ばかりされている現実。
これではいつまで経っても課題は解決しないし、本人の苦しみは治っていかない。
だから、親御さんは悩む。
そして専門家から返ってくるのは「発達はしますが、治りません」という一言。
治らないのは、そもそも療育によって育てていないからであって、ヒトの発達を無視しているからだといえます。


治すことを目指している人というのは、ヒトを育てる人達だと感じます。
見せかけの育ちではなく、根本から、土台からじっくり育てようとする人達。
だから、目の前にいる子をより良く発達させるアイディアや、それを持つ人を、特別支援という特殊な世界の中からだけではなく、広い世界から見つけようとします。
そういった姿勢や親子の営みの中、いつの間にか治っていく。
発達障害とは神経発達の障害なのですから、刺激を与え、育てようとしている限り、その子の発達は止まらないものなのです。
特定の集団にとって不都合な事実だったとしても。

2018年6月4日月曜日

早期療育の目的は、障害の軽度化であり、治すこと

早期療育の最大の目的は、障害の軽度化であり、より早い段階で治すということだと思います。
というか、それ以外ないと思います。
爬虫類の脳→哺乳類の脳→人間の脳という3段構造で発達していく脳。
中枢から末端へ、大きな動きから小さな動きへという発達の流れがあるのですから、神経発達の盛んな時期であって、ヒトとして生きる上での土台を育てる時期に、しっかり育てていくことが、その子の人生にとって大変意義のあることだといえます。


しかし、早期療育を謳っている支援者の中で、「障害の軽度化」と言う人はほとんどいません。
ましてや、「治す」なんて言う人はいません。
どうして軽度化も、治すも言わないのでしょうかね。


一般の人は、早期療育と聞けば、軽度化や治すを連想すると思います。
これは親御さんでも、そうではない人も。
反対に、早期から介入する目的が、障害の軽度化でもなければ、治すことでもないとしたら、「なんのためにするのか」「じゃあ、やる必要ないんじゃん」と思うでしょう。


そこでギョーカイが作りだしたのが「二次障害ガー」です。
二次障害で苦しんでいる成人の方達を使い、「この人達は、診断と支援を受けられなかったから、二次障害になった」と言う。
だから、「二次障害にならないために、早期診断、早期療育だ」と主張する。
でも、もう平成も終わるかという今、その手法は使い古された感があるし、誰もひっかからないんじゃないの、と私は思うのです。
これって、私が学生時代から言われていたことですから。


そもそもギョーカイがいくら早期療育を主張したとしても、軽度化も、治すも目指していないわけですから、その子は苦しいまま、課題を持ったまま大人になるはずです。
結局、苦しむ子を前にしてやるのは、環境調整か、服薬か、親御さんの対応と考えを変えるように促すか、です。
ここに育てるの視点がない。


育てる視点がなければ、いくら早期から介入したとしても、根本的な発達の課題は解決してきません。
つまり、課題に触れず、課題を見ずに、ただただ早期から介入しているだけ。
その子が将来、必ずなるか分からない二次障害を使って脅しをかけるのは、商売の手法としてはいただけませんし、もともと目的がなかったところに無理くり目的を作った感が否めません。


もし二次障害が起きないことが目的だとしたら、早期療育が必須ではありません。
むしろ、特別支援という世界に、支援者が扱いやすいような人物になるように促されるギョーカイの支援だったら受けない方がマシの場合もあります。
二次障害を治した支援者、二次障害を防いだ支援者はあまり耳にしませんが、支援者のせいで二次障害になった人はよく耳にします。


このようにギョーカイの行う早期療育は、育ちの視点がなければ、根本的な部分へのアプローチもないので、その子の持つ困難さ、発達のヌケや遅れは変わっていきません。
ですから、「早期療育のおかげで、問題行動が出なかった。二次障害にならなかった」というのは、根本的な苦しさを持ちつつ、ただ問題行動や二次障害が表れる機会をなくしているだけ。
「うちの施設にきたら、問題行動が見られないんです」と意気揚々と言う支援者のところに見学に行くと、四方囲まれた衝立の中で、ずっとDVDを観ているだけ、ということもあります。
これは問題行動が直ったわけでも、軽度化されたわけでもなく、ただ刺激がないから起こしていないだけ。
こういった育ちのない対処療法が、それ早期療育だ、それ支援の効果だ、なんて言っているのは、もう聞き飽きましたし、お腹いっぱいです。


100歩譲って、本当に早期療育が二次障害を予防するという目的と効果があったとしても、それってどうなのかなと思いますし、「じゃあ、早期療育やってみよう」と思うこと自体、私にはわかりません。
よく考えてみてください。
就学前の3,4歳の子どもを特定の機関に通わせて、絵カードの練習したり、トランポリンを跳んだりさせる。
それも、みんなから集めた税金を使って。


幼いときから、本人はもちろんのこと、家族にとっても大変な負担をかけながら、ずっと療育、支援を受け続け、最後に辿りつくのが、「はい、二次障害になりませんでしたね。おめでとうございます。パチパチ」で終わりです。
いやいや、年端もいかない子どもを大変な思いをしながら通わせて、それも小学校、中学校にあがっても、で、治ってないし、障害や症状が軽くなっていないのってなんなのさ、ってなりませんかね。
それだけの思いをして、早期から療育を受けてきたんだから、治せよ、せめても軽度化させろよ、って思いませんかね。
私なら当然、思います。


長い人なら、15年くらい支援を受け続け、結局、その子の持つ困難さは変わらず、自立せずだったら、もっと親子共々、楽しい子ども時代があり、もっと発達、成長する道があるのだと思います。
あるかないかわからない二次障害に恐れるよりも、今、子どもに必要な刺激だったり、育ちだったり、楽しい思い出を作る方がより良い人生につながるはずです。
振り返ったら、大変だった思い出ばかりで、浮かんでくるのは支援グッズと支援者の顔ばかり、というのは寂しいと思います。


ずーと「支援ガー」と言って、ずーと支援を受けてきた成人の人達が、「それが障害だから」という一言によって、治りたい希望が否定され、育つ機会と刺激を奪わられ過ごしている。
挙句の果てに、ずーと支援を受けてきた人が二次障害を持っていたりする。


私は思います。
二次障害は私が想像できないくらい辛いことだと思いますが、それと同じくらい育つ機会と刺激が奪われ、二次障害につながるようなきっかけすら与えられない人生も辛いことだと思います。
二次障害を忌み嫌うもののように言いますが、元を辿っていけば、人として成長するための必要な揺らぎ、ということもあると思います。


二次障害にならないことが早期療育の最大の目的だとしたら私は賛同できません。
「二次障害にならないための人生」
「二次障害にならない方が、扱いやすい人になる」
という言葉が聞こえてくるからです。
本来、早期療育とは、障害の軽度化、治すが目的になるはずであり、そこには『育ち』がなければなりません。


我が子をどう育てていくか、という選択肢には、特別支援での支援、ギョーカイの言う早期療育以外にも、たくさんあるのです。
それこそ、一人ひとり違うのですから、同じ発達障害という診断名だけで、同じ療育を受ける、受けるように促すのは辻褄が合いません。


早期療育=特別支援という捉えでしたら誤りです。
早期療育とは、子どもの発達の課題を見つけ、そこをその子に合わせて育てていく営み、すべてのことを指すのです。
そして向かう先は、課題の先送りではなく、扱いやすい子に育てることでもなく、障害の軽度化であり、治すだと思います。

2018年6月1日金曜日

その子の内側にある発達、成長の流れ

学生時代、講演会で聞いた(当時の)ローカル有名支援者の言葉が印象に残っています。
「この子達は、現状維持できただけで良しとしなきゃダメだよ。悪くなるのが普通だから」
学生だった私は、「自閉症の人は年齢を重ねていくと症状が重くなる傾向があるのか」なんて素直に受け取りましたが、今思い返してみれば、なんとも失礼で、本人たちの内なる力を低く見積もった言動だなと思います。
結局、言っているのは「自分たちにはどうしようもできない」ということであり、当時から続く、構造化信仰の地ですから、「構造化された環境の中で穏やかに過ごすのがベスト」ということだったのでしょう。


「〇〇療法だって、子どもの成長を促す」
「〇〇療法をやるようになってから、子どもが落ち着いた」
「少しずつだけれども、成長しているんです」
と言われる支援者や親御さんがいます。
当然、みなさん大好きなエビデンスのある療法ですから、子どもさんは成長するのでしょう。
子どもは発達するし、成長する。
でも、これって当たり前じゃないですかね。
別の言い方をすれば、支援や〇〇療法を受けなくたって、子どもなんだから、生きているんだから、日々発達するし、成長する。


私のブログは癖が強え~ため、「大久保は、〇〇療法、全否定派だ」なんて思っている方がいます。
実際に相談に来られる方、依頼される方も、「どうぞ今まで私達がやってきた〇〇療法をぶった切ってください」「もう切られる覚悟はできていますから」なんて雰囲気が漂っている場合もあります。
でも、むしろ私は「治る」という知見に出会うまでの10年間くらいは、対処療法ばかり行っていましたし、あらゆる対処療法、エビデンスのある方法を学んできました。
対処療法が必要な場合や人がいることもわかりますし、その分、限界もわかります。
ですから、私のところにいらっしゃる方には、特定の療法を続けたければ続ければいいし、良い効果が得られていると感じているのならそれでいいのですと伝えています。


こんな風に書くと、「あのとき、〇〇療法を否定したじゃないか」と思われる方がいるはずです。
じゃあ、なぜ、私が〇〇療法を否定したのか、なぜ、〇〇療法よりも、発達のヌケや遅れを育て治す方を勧めたのか。
それは発達のスピード、成長の勢いに問題が見えたからです。


先ほど述べたように、特に子どもの場合、特定の療法や機関に通わなくても、快食快眠快便という基本的な部分が満たされていれば、自らの力で発達し、成長するものです。
「発達障害を持つ子には支援ガー、療育ガー」なんていうのは、ギョーカイの営業トークであり、「療育を受けないと、うちの子は育たないかも…」と親御さんを思わせるのが目的の一つです。
何か月も待機者名簿に載り続け、時間をかけて通った機関でトランポリンを跳ぶくらいだったら、近くの公園に行って思いっきり遊んだ方が成長しますね。
療育は部分的だけれども、遊びは全面的な発達、土台作りにつながりますから。
700万年、ヒトの子どもは遊ぶことを通して、身体を動かすことを通して発達、成長してきたのであって、人工的な道具や座ってのお勉強をして発達、成長してきたのではないのです。


子どもであっても、5年なら5年の、10年なら10年の流れというものがあります。
その流れを見たとき、その支援、療育がその子の持つ発達、成長の流れと調和しているのか、加速させているのかが重要なのです。
「この支援、療育をしてから成長した」と言われる子を見ますと、確かに成長しているのがわかります。
でも、その成長の度合いが、その子に流れている成長の流れと比べると、明らかに減速しているのがわかることもあります。
そういった場合、本当にその療育がよい選択なのだろうか、他の発達の後押しの仕方があるのではないかと思うのです。


ましてや、「この療育をしてから落ち着いた」というのは、危険な状態、最悪な状態から抜け出したという意味では良いのかもしれませんが、同時に発達、成長の流れが堰止めされた状態ではないかと心配になることもあります。
発達のヌケや遅れの部分が育ったために「落ち着いた」なら良いのですが、刺激を統制しきることで「落ち着いた」なら、問題を起こせないことと引き換えに、発達、成長の機会を無くしたともいえます。


極端なことを言えば、何もしなくても、子どもは発達するし、成長します。
特に人間としての土台の部分は。


その療法をやるようになってから成長したのかもしれませんが、それは以前よりも子どもの成長に注目するようになったからかもしれませんし、そもそも「その療育をやった“から”」成長したのかは言い切ることができません。
私が出会ってきた子ども達の中には、拒絶や問題行動として表出しないけれども、その療法が発達、成長する勢いを止めていたという子もいました。
そういった子の多くは、発達のヌケや遅れを育てなおす方向性に変えると、驚くような成長を遂げるのです。
そんな我が子の変化を目の当たりにして、子どもの内なる力を感じる親御さんの姿があります。


冒頭の支援者の言葉のように、「発達障害を持つ子ども達は現状維持できたら、安定して過ごせたら良い」なんてことは決してないと思いますし、特別な支援や療育がなければ、育つことのできない子達だとは思いません。
定型発達、非定型発達に関わらず、子どもは、ヒトはみんな自らの内側に発達、成長させる力を持っている。
ただ違いがあるとすれば、言語を獲得する以前の発達段階にヌケや遅れがあるために、それこそ、発達、成長の流れが堰止められている状態だという点でしょう。


私は、「支援、療育がなければ」「支援、療育があったから」という言葉が嫌いです。
何故なら、直接的ではありませんが、発達障害を持っている子ども達の力を低く見積もっている感じがするからです。
だから私は、子ども達の内側にある一人ひとりの流れを懸命に感じようとします。
その流れを邪魔せず、調和し、加速させるアイディア、方法なのかが重要なのです。
ただ「成長を感じるからイイや」「落ち着いたからイイや」では、本当にその子に合った支援、療育だとはいえません。