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6月, 2018の投稿を表示しています

発達課題の見つけ方(年齢を重ねていった方の場合)

昨日は、「子どもは自分で発達に必要な刺激を求めていく」というようなことを書きました。 また文章の中で、「お勉強を始める前の子ども」「就学前の子ども」などの表現も用いました。 すると、このブログを読んでいた方から、「年齢が上がっていくと、どうなるの?」「大人はわからないのでしょうか?」といった質問がありました。 質問された方が気づかれたように、昨日のブログでは子ども、特に就学前の子どもという印象を持たれるような書き方をしていました。 もちろん、就学以降の子どもさんでも同じように、自分の発達で足りない部分を埋めようとする行動は見られます。 しかし、私の印象ではありますが、年齢が上がっていくと、本人も、周りも、「見えづらくなる」というのは感じます。 幼い子ども達のように、ストレートに行動に表れないのです。 その大きな理由の一つは、勉強を始める、言葉で考えるようになるからだと考えています。 幼い子ども達は、本能的な、直感的な動きを見せます。 その子の頭の中には、「自分に必要な刺激」「発達課題」などの言葉もなければ、概念もないでしょう。 しかし、お勉強を始めると、言葉で考えるようになるので、段々分からなくなっていくのです。 たとえば、自分で必要な刺激を求めて動いている子どもに対して、「きみの発達課題はなんですか?」と尋ねても、答えられるはずはありません。 彼らは、言葉で発達課題を捉えているのではなく、身体で発達課題を捉えています。 実際に、本人たちの言葉で聞いたことはありませんが、傍から見ている私などは、必要な刺激に身体が引きこまれている風に見えます。 身体が欲し、感覚が欲している、といった感じです。 一方で、年齢が上がり、勉強を始め、言葉で考えるようになってくると、自分の身体の叫び、感覚の叫びよりも、頭の中の言葉に耳を傾けるようになります。 言葉で発達を捉えるのは難しいことです。 発達とは、外側で得られる情報ではなく、身体の内側で起きている変化だからです。 内から外への発達、つまり、身体という土台が育ったあと、知識や技術といったものを身に付けていのが自然なのですが、発達障害の人達は、土台が育ちきる前に、知識や技術の獲得へ歩みを進めてしまうことがよくあります。 そうなると、あとから言葉で考えて、「自分に足りない刺激って

『発達機会の障害』の時代を見据えて

就学前、特にお勉強を始める前の子ども達の中に、発達障害が治っていくヒントが隠されているように感じます。 ここ1,2年は就学前の子ども達と関わる機会が多くなっていますので、そんな風に感じるのです。 ギョーカイの言う『早期療育』には賛同しませんが、やっぱりお勉強を始める前の子ども達は反応が早いし、反応が大きい。 「同世代の子ども達と比べると、1,2年遅れている…」と言われていたお子さんが、ある日、突然大きな発達を見せる。 このような場面に出会うのは、珍しくありません。 「何も変化がないな」「同世代の子ども達と発達の違いは大きくなるばかり」 そんな風に心配される親御さんは多いですが、それは目に見える世界の話で、子どもさんの内側では日々神経発達が行われている。 特に、就学前の子ども達の内側は、人生で最も神経発達が盛んな時期であり、神経同士がつながり合う時期でもありますので、同時進行的につながっていき、その分、大きな変化が一気に現れるのが、子どもの発達の特徴になるのだと思います。 また子どもの発達の特徴として、「自分で自分に必要な刺激を求めていく」というのもあります。 これは相談メールのやりとりからモロに感じることです。 「我が子のこんなところに課題があるんです」というようなメールを頂くと、「最近、熱心にやる行動、遊びは何ですか?」と尋ねるようにしています。 そうすると、ほとんどの子どもさんは自分自身の発達課題を育てる活動をやっているのです。 子どもは自分で発達のヌケや遅れを育てているんですね。 それが周囲からは、意味のない行動に見えることがある。 同世代の子どもがもうやらなくなった行動だったりすると、止めさせようとしたり、ここぞとばかりにヘンな支援が入ってこようとしたりする。 親御さんは、本能的に我が子の発達の課題を見抜く力を持っていると思います。 いろんな悩み、気になることがあるのにも関わらず、メールの文章にはすべてが書かれているわけではありません。 ピンポイントで気になる行動が記されており、それについて助言を求められている。 ということは、その行動が子どもさんにとって重要な課題であると、本能的に見抜いているのです。 ですから私は、親御さんが見抜いた重要な発達課題と、お子さんが自ら行っている育てる行動を結びつけるのが役

自分の分を頑張る!

「みんな、自分の分しか頑張れない」 本当にそうだと思いますね。 いくら我が子が愛おしくても、代わりに頑張ってあげることはできません。 だって、子どもの人生は子どものものだから。 親にできることは、親としてできることを頑張るのみ。 そこから先は、子どもの頑張り次第。 自分の分をしっかり頑張れる人に育てるのが、親の頑張りなのかもしれませんね。 「自分が自分の分を頑張れていない」、ただそれだけなのに、頑張っている他人を見ては、足を引っ張ろうとする。 どうも頑張る方向性を間違えている人がいますね。 一人ひとり別人格で、みんな違う存在なのですから、自分で自分の人生を頑張るだけだと思います。 だから、他人が自分の人生を頑張っているのを見て、不安や焦りなど感情が揺れ動くとしたら、まずそこを治す必要がある。 自分の人生を頑張るには、自分という主体がはっきりしていないとできませんから。 他人が頑張る姿は、自分とは何かを明確にしてくれます。 ここ数年、自閉症の有病率は68人に1人と言われていたのですが、今年の4月26日、アメリカで発表された報告書によると、有病率は59人に1人になっていました。 私が学生時代は、だいたい1%くらいと言われていたのですが、最新の発表では1.7%くらいになったわけです。 ASD以外の発達障害の人たちもいるわけですから、日本の中にも、いや、それぞれの地域の中にも、多くの人達がいることが推測されます。 よく用いられる『発達障害の子どもが6.5%いる』というデータは、2012年のものであり、医療機関による診断を受けた数ではなく、教職員の見立てによる調査数ですから、どこまで正確に実態を表している数字かはわかりませんが、大きく外れた数字だとは思いません。 日本の人口が、約1億2652万人(H30.6)なので、単純計算で822万人くらい、発達障害を持つ人達がいることになります。 厚生労働省の調査(H27.12)では、医療機関に通院、または入院している発達障害の人達が19万5千人(推定値)です。 ということは、推測の域は出ませんが、800万人くらいの人が医療機関にかかっていないということになります。 現在の子ども達に発達障害を持つ子が増えてきているのは、診断そのものの影響も考えられるし、環境要因として何らかの影響があ

100%の効果が得られるアプローチなどありません

論文を読むと、こんな表現がよく出てきます。 「〇〇というアプローチをする前と後では、介入後の方が37%問題行動が減った」 「〇〇というアプローチをしたグループと、別の△△というアプローチをしたグループ、何も介入しないグループで、3か月間の変化を見たところ、最もポジティブな変化があったのが〇〇というアプローチのグループの子ども達で65%の子どもにその効果が見られた」 もちろん、これは意訳であって、実際の論文はもっと難しい表現がされています。 エビデンスのあるアプローチと言われているものは、こういった検証とデータが積み重なっていき、その科学的根拠が明らかにされています。 「科学的根拠がある」というのは、効果があるという証でもあります。 じゃあ、そのエビデンスのあるアプローチを選択したら、証明された効果が同じように得られるか、といったら、そうではありません。 私が知る限り、このアプローチをすれば、「100%同じ効果が得られる」というような論文には出会ったことがありません。 つまり、効果があるけれども、全員が全員、同じ効果が得られるとは限りませんし、その効果だって到達度には差があるのです。 例えば、「37%問題行動が減った」というのは、「63%の問題行動は変化がなかった」ということであり、「グループの65%の子にポジティブな変化があったというのは、35%の子には変化がなかった。またはネガティブな変化があった子もいる」ということでもあります。 「エビデンスがある」=「効果がある」というのは正しいのですが、どうもすべての人に効果があるといった誤解や、その効果が永続的で、100%到達するといった誤解をしている人がいるような気がします。 「エビデンスのあるアプローチをしているから、うちの子に効果がある」とは、必ずしも言えないのです。 こういった人は、元になった論文まで読んでいないのでしょう。 だから、「エビデンス」と聞いただけで想像を膨らましてしまったり、言った人を見て、そのまま受け売りしてしまったりしているのだと思います。 そもそも「100%誰にでも効果がある」という方法があれば、みんな、こんなに苦労していないはずですし、国を挙げて、そのアプローチをやるでしょう。 こんなに特別支援の世界が揺れ動き、いろんな療法に溢れているのは「100%が

情報のヌケやズレが独自の世界観を生む

自分の文章を読み直すと、「相変わらずクドイ文章だな」と思います。 どちらかというと、性格はさっぱりしている方だと思いますし、学生時代までクドクド書くのも、クドクドしい文章を読むのも嫌いでした。 そんな自分の文章がクドイ。 自分自身で胸焼けすることもある。 もっとシンプルに、さらっと書けば、文章の量は半分くらいに減らせるだろう、と思いながら、ブログやメール、レポート等を書いています。 この仕事を続けるにつれて、どんどん文章が脂ぎってきたような気がします。 それは「こんなところまで詳しく書かなくて良いよな、わかるよな」という感覚のものが、相手によっては抜け落ちていたり、別の想像で埋めてしまったりする可能性があるからです。 私が若手の頃、トレーニングを受けた専門家たちがこういっていました。 「10歳の子がわかるような文章にしなければならない」 アメリカの人達でしたので、いろんな人種、文化の人達がいるアメリカだからこそ、10歳というレベルの表現にしなさい、と言っているんだろうと、そのときは思っていました。 しかし、この仕事を続けていると、というか、自閉症、発達障害の人達と接する機会が増えていくと、この「10歳レベル」は知的なレベル、読解力のレベルを指しているのではなく、ある程度の年齢の人ならすぐにわかることでも、わかない部分がある、基本的な知識、情報の部分で抜け落ちがある、ということを意味しているのだとわかりました。 「10歳の子どもでもわかる」というのは、子どもニュースのようなイメージです。 大人なら当然、わかっているだろうと思う部分も、子どもは知らないことがある。 もちろん、自閉症、発達障害の人達は、みんな子どもでなければ、10歳程度の知識しかないということではありません。 それくらい「当然、わかっているだろう」と思うところが抜け落ち、そのまま年齢を重ねていることもあるという意味です。 こういった方達が大人になっていくと、コミュニケーションですれ違いが落ちたり、また独自の切り取り方、想像の仕方で、その穴を埋めようとすることもあります。 だから、自然と言葉が長くなってしまいます。 例えば、「炎上商法」という言葉がありますね。 意味とすれば、『意図的に刺激的な表現を使って注目を集め、商売に繋げること』といったところでしょう

昨日の子のような笑顔が見たいから

昨日、伺ったお宅の子どもさんが、急に余所余所しくなったので、どうしたのかなと思いましたら、背中の方からあるものを渡してくれました。 算数テストの答案です。 表も、裏も、満点の数字が見えました。 そして、私の顔を見て、この子はニコッと笑ったのです。 小学校のテストで100点を取るのは、それ程、大きな出来事ではないかもしれません。 しかし、この子の場合は、特別な意味があったのです。 人生初の100点満点の答案。 しかも、低学年のとき、医療機関で正式な診断を受けており、「〇〇ちゃんは、アスペルガーだけでなく、LDもありますね。学年が上がれば、勉強についていくのも難しくなりますし、この子は福祉を利用しながら生きていくでしょうから、無理せず、早めに支援級へ移った方が良いですね」というようなことを言われていたのです。 そんな子と出会ったのは、実際、支援級へ転籍することが具体的に進み始めていた頃でした。 親御さんは、医師の診断と見たてを聞き、「無理させないで、福祉の中で生きた方が幸せなのかもしれない」と思いかけていました。 でも、心の中では「本当に幼い我が子の未来は決まっているのだろうか、他の可能性は無いのだろうか」「本当に何もやってあげられることがないのだろうか」という想いがあった。 そんな揺れ動く心情のとき、我が子の言葉を聞いたのです。 「私、みんなと一緒に勉強がしたい」 もし、あのとき、医師の言葉を信じ、転籍していたらどうなっていたでしょうか。 少なくとも、昨日の笑顔は見ることができなかったでしょう。 ある意味、医療を超えた瞬間でもありました。 現代医療を、親御さんとの二人三脚で、この子は跳び越したのです。 ご存じの通り、発達障害に対し「治る」という言葉を使うと、「医療的に誤りだ」「そんな医学的な知識、見解もないのに、よく専門家を名乗れるな」などと言ってくる人達がいます。 中には、「そんなこともわからず、よく教員免許が取れたな」などという反論するのもバカバカしくなるようなクソリプを飛ばしてくる人もいました。 多分、こういう人は、我が子の学校の先生に対しても、こんな上から目線のバカにしたような態度でいるのだと思います。 こういう人は、いつの時代の教職員を想像しているのか、と思いますね。 今どき、特別支援教諭の免許取

『発達障害者支援法は誰を救ったか?【電子版】』(花風社)を読んで

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今朝、花風社さんから電子版の新刊が発売されたことを知り、早速ダウンロードして、今、読み終えたところです。 それこそ、発達障害者支援法が施行された13年前では考えられないくらい便利で早く、そして求めている知見や情報を得られるようになったと感じます。 今日、世に出た知見や情報を、今日、全国にいる皆さんと共に享受することができる。 13年前は、当時のリーダー達が言っていた言葉をそのまま信じていました。 主に夏に行われていた全国の都市部開催の講習会へ出かけて行き、そこで必死にメモを取り、各地域に持ち帰る。 そして有名な支援者たちが書いた本で勉強する。 今のように、様々な種類の本は出ていませんでした。 いわゆる専門書と呼ばれるもので、専門家が専門用語を使い、読者よりも専門家の方を向いた本だったように思います。 そんな専門書から伝わってくるのは、「脳の機能障害」と「生来的な障害」であるということ。 「治らない障害に対して、私達は何ができるのか?」 それが支援者の頭の中にはあり、そして私も含め多くの支援者が「環境を整え、一人でできることを増やし、より自立“的”な人生を歩めるように支援する」という方向へと進んでいきました。 あの当時、みんなが同じ方向を突き進んだのは、その支援を否定する声がなかったから。 いや、あったのかもしれないが、多くの人の耳には届いてこなかった。 そして一番の理由は、治った人を見たことも、いることも知らなかったからだといえます。 ちょうど昨晩、SNS上で、2014年に発売された 『自閉っ子の心身をラクにしよう!』 を読み、実践してからどれくらいで、どのような変化があったかが話題になっていました。 住む場所も、年代も、違う人達が、「我が子には」「私自身には」と情報のやりとりがされている。 そんな様子を拝見させていただき、4年前に出版された本、また著者の栗本さんの知見が多くの方達の成長と生活を支え、後押ししたことがわかりました。 それと同時に、13年前では考えられなかった睡眠障害や感覚過敏等で苦しんでいた人達が、それに悩まされないくらいまで変わったこと、普通学級や一般就労は無理と言われていた人達が、元気に学び、働く毎日が過ごせていることが、全国どこにいても瞬時に知ることができるようになった、そのように変わったんだと思い

特別支援の外にこそ、真のニーズがある

日本の場合、お医者さんしか診断することができません。 ですから、発達障害の人達が通る医療の中で軽度化や症状が出ない状態までの治療がなされれば、医療が入り口であり、出口になります。 しかし、現在の医療では、発達障害を治療し、治すことができません。 なので、発達障害の人達の生活を支えるケアの必要性が生まれます。 それが支援や介助といった福祉です。 制度的、金銭的、人的、環境的な支えは必要ではありますが、生涯支え続けることは、本人も、社会も求めていないといえます。 「治らない障害の人たちなのだから、何もせず、ずっと福祉の中にいればよい」 決してそのようなことはなく、個々に合った学びがあれば、成長していく人達です。 そして特別支援教育が生まれました。 特別支援教育の目的は、その子の持つ資質を最大限伸ばし、将来の可能性を広げ、自立して生きていける社会人を育てることです。 そのために、普通学校の教育とは異なり、より個別的に、より柔軟な教育が行われます。 医療があって、福祉があって、教育がある。 それも公的に、誰でも利用することができます。 ある意味、定型発達の子どもを育てるよりも、多くの選択肢があり、多くの資源、サポートがあるといえます。 それなのに、どうして公的な機関を頼るのを止める人がいて、どうして民間の機関を頼る人がいるのでしょうか。 それは公的な機関に満たせないニーズがあり、公的な機関の外にニーズがあるからだと思います。 医療→福祉→教育と、特別支援がニーズと共に生まれてきたのと同じように、ニーズが民間の選択肢を生んだのです。 ニーズがないところに民間が出ていけば、いくら肩書や資格、資金等あっても淘汰されるのが当たり前です。 私は公的な機関を通って、民間になった人間です。 公的な機関で働いていたときにヒシヒシと感じていました。 公的な機関の限界を。 そして、本人、親御さん達のニーズを満たせていないことを。 私が感じた限界は、特別支援の中だけで、子どもを育てていくこと。 診断名をつけたところから、ずっと特別支援の中でどうにかしようとしているのがわかります。 結局、間に特別支援教育が入るけれども、医療と福祉の行ったり来たりであり、特別支援の世界から外に出ていく人がほとんどいない状況があります。

「はい、誤診でした」では許されない

発達障害という診断を受けた人の中で、感覚過敏などが治まり、学校や職場、地域で問題なく、生活できている人のことを、みなさんは何と表現するでしょうか? 私は「治った」と表現します。 実際にそういった方達とお会いすると、「治った」という表現がピッタリだと感じるのです。 でも、支援者の中には「治った」とは言わず、こう考える人がいるようです。 「それは治ったんじゃなくって、誤診だった」と。 「治らないから障害なんだ」という主張は、いろんなところで言われていることです。 だからこそ、症状に苦しまなくなり、支援を受けなくても、自立して生活できるようになった人は、「最初から発達障害ではなかった」ということになる。 じゃあ、最初から発達障害ではなかった人を「発達障害があります」と診断したのは誰か。 その人間の罪は大きいといえます。 障害じゃない人が、障害を持った人として生きる。 それは、その人の人生を大きく変えることであり、あったはずの選択肢と可能性を奪ったことになります。 また、障害者として治療され、教育され、支援サービスを受けてきたということは、必要のない人にみんなから集めた税金を使ったということにもなります。 これは社会的損失でもあります。 社会は、社会を担っていく人間を一人失ったことになりますし、限りある資源を不必要なことに使ってしまったのです。 一人の人間の人権を侵害した上に、社会的損失もあった。 これは大きな罪になります。 「治るはずのない障害を持った人が治ったんだったら、その人にはもともと障害がなかったんだ」 そうだとしたら、ずっと症状は変わらず存在し、支援を必要とし、支援がないと生活できない状態が続く人が「障害を持った人」ということになります。 じゃあ、改めて問います。 発達障害の人達に対し、医療は何をしているのか、どんな役割を果たしているのか。 そして、支援者は本当に支援をしているのか、それは介護ではないのか。 ずっと苦しみが続くのだったら、医療も、支援も、療育も、すべて無力だということになりませんか。 「治らないから障害です」という認識は、いわゆる専門家と呼ばれている人達が白旗を挙げたということ。 私達には、根本から苦しみをとり、自立した人生を送るだけの働きかけができないから、せめて当事者と家族に寄り添

啓発に費やした時間は戻ってこない

いま、どんな状況に置かれていても、自分は「自立の道へ進んでいる」「困難をクリアする道へ進んでいる」「少しずつだけれども、発達しているし、治ってきている」と感じられている人というのは、「社会の理解ガー」などと言わないし、そのような活動もしません。 反対に、年がら年中、「理解ガー」とやっている人は、誤学習している人であり、進む道を見失っている人だと感じます。 啓発ばかりやっている支援者というのは、日頃の支援で無力感を感じている人か、新しい顧客獲得のために市場開拓をしている人くらいなものです。 治すのに忙しかったら、啓発に携わる時間はありません。 こういった支援者によって、本人や親御さんは誤学習したり、進む道を誤ったりします。 社会が理解しても、本人の生きづらさは解決しないのは当たり前です。 感覚過敏は、社会の理解がないから起きるのではないし、社会性が乏しいのは、世の中の人が発達障害の知識に乏しいからではありません。 第一、本人にしろ、家族にしろ、支援者にしろ、社会に対して「自閉症の知識を」「発達障害に対する理解を」と言っていますが、その目的を辿っていけば、自分の置かれている状況が良くなってほしい、この状態から抜け出したい、と言っているにすぎません。 だいたい世の中全ての発達障害者の理解や幸せを願っているわけではないと思います。 そういったことを考えられるくらいの思考力があり、世の中の空気を読めるくらいまでの感覚が育っていたとすれば、自分の困難と社会の理解は関係ないことが分かるでしょうし、ほとんどの人間が発達障害に興味関心がないことも分かるはずです。 厳しいことを言うようですが、それが分からないからこそ、啓発に傾倒してしまうのだと思います。 社会全体、発達障害者全体のことを考えられる人は、違う道に進みます。 「理解ガー」とやっている人を見たら、普通、支援者だったら「その道、間違っているよ」と伝えるし、その人の苦しみ、困難の根っこをどうやったら治していけるか、考えると思います。 結局、社会全体に投げかけていますが、自分自身がラクになりたい、自立していきたい、と個人的な悩み、困難のことを言ってるのですから。 そういった人を自分の仕事の宣伝道具に使うのは、支援者の風上にも置けない人間だと私は思いますがね。 過去に、啓発活動ば

良い地域は無い、良い支援者もいない

「(近くに)良い支援者がいない」 「私の地域は遅れている」 というのは、事実でしょう。 でも、多くの場合、情報提供という意味ではなく、一種の逃げ道、言い訳の意味で使われているように感じます。 もし危機感を持っているのなら、行動するはずです。 でも、行動しない人に限って、年中、同じことを愚痴っています。 第一、子どもをより良く育てられている親御さんというのは、支援者の有無、住む地域に関わらず、いらっしゃいます。 私が関わった若者の親御さんは、当地が「先進地域バンザイ!」と浮かれている間、どの支援者にも頼らず、ご自身で我が子の発達課題を一つずつクリアしていき、自立できるようにと身の回りのことを一つずつコツコツと教えていきました。 結果として今は社会人として働く若者の一人になっています。 だいたい「良い支援者」「悪い支援者」なんて言っているところからして間違えだと思います。 良い支援者ってなんでしょうか? 自分の愚痴を聞いてくれる人? 「お母さんは頑張っているよ」と励ましてくれる人? 子どもの支援がうまい人? 子どもを発達、成長させる人? 私は良い支援者も、悪い支援者もいないと思っています。 いるのは、職業として支援する人。 同じ支援者だって、時と場合、人によって良くもなれば、悪くもなる。 すべてが良い支援者もいなければ、すべてが悪い支援者もいないと思います。 子どものとき、良い支援者だと感じていたのに、成長した我が子とは合わない、なんてことはよくあることです。 基本的に、支援者は利用するものです。 必要なときに、必要な部分の支援、アイディアを求める。 そして必要がなくなったとき、本人の課題が変わったときには、支援者から離れるのが自然です。 また、それこそが自立に向かうということ。 全権を任せる人でも、我が子の人生が左右される人でもありません。 だからこそ、我が子をより良く育てられている親御さんの口からは、「良い支援者」「悪い支援者」という言葉が出てきません。 「自分がこの子の苦しみを取ってあげるんだ」 「自分がこの子を治し、自立の後押しをするんだ」 という気持ち、主体性と覚悟があるからです。 ですから、地域や支援者の状況を理由にせず、そのとき、そのときで、我が子に必要なことを選択し、行動するこ

生命を維持するための育ち、生き抜くための育ち、人間として生きるための育ち

治る否定派は、勘違いしていることがあります。 それは、私達が「治す」とは言っていないことです。 発達障害を治すのは、支援者ではなく、本人であり、家族です。 また発達障害は治すものではなく、治るものです。 ここを読み違えると、「私達が支援すれば治るから、こっちへ来なさい」というような安っぽい詐欺師に見えてしまいます。 実際は、本人の困難を解決するわけでもなく、育てるわけでもなく、みんなの税金を使って「社会ガー」と言っているだけの専門家の方がよっぽど詐欺師に見えるのにね。 「発達障害の人も発達するのは当たり前だろ。でも、治らないから障害なんだ」と言う人もいます。 意味不明ですね。 発達障害のことを、遺伝性の障害ですとか、機能障害、身体障害と同じように捉えているのでしょう。 神経発達の障害である発達障害の人が、発達を続けたら、障害の部分が軽度化されていくし、その先には日常生活に影響を及ぼさない状態、本人が自覚することのない状態になっていくものです。 別に絵に描いたような普通の人(というか普通の人がどんな人かわかりませんが)になることが治ったということではありません。 そんなこと言いだしたら定型発達の人はいなくなり、世の中みんな発達障害を持つ人になります。 「治らないけど、発達する」という奇妙な説を唱える支援者や親御さんを見ますと、「子どもさん、ぜんぜん発達してませんけど」という場合が少なくありません。 発達するんだったら、治る一歩前まで、ちゃんと発達できるようにしたらよいのに、と思いますね。 こういった人の多くは、「発達するもん」と言いながら、子どもの発達を後押しするようなことをやっていない。 というか、育てる意味の勘違い、育てる方向性の違いがあります。 ヒトを育てるというのは、根気がいる営みです。 だけれども、どうもインスタントに結果を求めてしまう。 繰り返し、繰り返し、しかも見えない土台の部分から丁寧に育てていくことが「ヒトを育てる」なのに、見える部分で、すぐに結果が出るようなところばかりチョチョッといじくって、「はい、私は育てています」と言っちゃう感じ。 そういった人が療育に飛びついてしまいがちです。 そもそも『療育』とは治“療”と教“育”が合わさった言葉。 まあ、見事にギョーカイは、「治す」を捨ててしまって

早期療育の目的は、障害の軽度化であり、治すこと

早期療育の最大の目的は、障害の軽度化であり、より早い段階で治すということだと思います。 というか、それ以外ないと思います。 爬虫類の脳→哺乳類の脳→人間の脳という3段構造で発達していく脳。 中枢から末端へ、大きな動きから小さな動きへという発達の流れがあるのですから、神経発達の盛んな時期であって、ヒトとして生きる上での土台を育てる時期に、しっかり育てていくことが、その子の人生にとって大変意義のあることだといえます。 しかし、早期療育を謳っている支援者の中で、「障害の軽度化」と言う人はほとんどいません。 ましてや、「治す」なんて言う人はいません。 どうして軽度化も、治すも言わないのでしょうかね。 一般の人は、早期療育と聞けば、軽度化や治すを連想すると思います。 これは親御さんでも、そうではない人も。 反対に、早期から介入する目的が、障害の軽度化でもなければ、治すことでもないとしたら、「なんのためにするのか」「じゃあ、やる必要ないんじゃん」と思うでしょう。 そこでギョーカイが作りだしたのが「二次障害ガー」です。 二次障害で苦しんでいる成人の方達を使い、「この人達は、診断と支援を受けられなかったから、二次障害になった」と言う。 だから、「二次障害にならないために、早期診断、早期療育だ」と主張する。 でも、もう平成も終わるかという今、その手法は使い古された感があるし、誰もひっかからないんじゃないの、と私は思うのです。 これって、私が学生時代から言われていたことですから。 そもそもギョーカイがいくら早期療育を主張したとしても、軽度化も、治すも目指していないわけですから、その子は苦しいまま、課題を持ったまま大人になるはずです。 結局、苦しむ子を前にしてやるのは、環境調整か、服薬か、親御さんの対応と考えを変えるように促すか、です。 ここに育てるの視点がない。 育てる視点がなければ、いくら早期から介入したとしても、根本的な発達の課題は解決してきません。 つまり、課題に触れず、課題を見ずに、ただただ早期から介入しているだけ。 その子が将来、必ずなるか分からない二次障害を使って脅しをかけるのは、商売の手法としてはいただけませんし、もともと目的がなかったところに無理くり目的を作った感が否めません。 もし二次障害が起きないこと

その子の内側にある発達、成長の流れ

学生時代、講演会で聞いた(当時の)ローカル有名支援者の言葉が印象に残っています。 「この子達は、現状維持できただけで良しとしなきゃダメだよ。悪くなるのが普通だから」 学生だった私は、「自閉症の人は年齢を重ねていくと症状が重くなる傾向があるのか」なんて素直に受け取りましたが、今思い返してみれば、なんとも失礼で、本人たちの内なる力を低く見積もった言動だなと思います。 結局、言っているのは「自分たちにはどうしようもできない」ということであり、当時から続く、構造化信仰の地ですから、「構造化された環境の中で穏やかに過ごすのがベスト」ということだったのでしょう。 「〇〇療法だって、子どもの成長を促す」 「〇〇療法をやるようになってから、子どもが落ち着いた」 「少しずつだけれども、成長しているんです」 と言われる支援者や親御さんがいます。 当然、みなさん大好きなエビデンスのある療法ですから、子どもさんは成長するのでしょう。 子どもは発達するし、成長する。 でも、これって当たり前じゃないですかね。 別の言い方をすれば、支援や〇〇療法を受けなくたって、子どもなんだから、生きているんだから、日々発達するし、成長する。 私のブログは癖が強え~ため、「大久保は、〇〇療法、全否定派だ」なんて思っている方がいます。 実際に相談に来られる方、依頼される方も、「どうぞ今まで私達がやってきた〇〇療法をぶった切ってください」「もう切られる覚悟はできていますから」なんて雰囲気が漂っている場合もあります。 でも、むしろ私は「治る」という知見に出会うまでの10年間くらいは、対処療法ばかり行っていましたし、あらゆる対処療法、エビデンスのある方法を学んできました。 対処療法が必要な場合や人がいることもわかりますし、その分、限界もわかります。 ですから、私のところにいらっしゃる方には、特定の療法を続けたければ続ければいいし、良い効果が得られていると感じているのならそれでいいのですと伝えています。 こんな風に書くと、「あのとき、〇〇療法を否定したじゃないか」と思われる方がいるはずです。 じゃあ、なぜ、私が〇〇療法を否定したのか、なぜ、〇〇療法よりも、発達のヌケや遅れを育て治す方を勧めたのか。 それは発達のスピード、成長の勢いに問題が見えたからです。 先ほど述べ