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5月, 2013の投稿を表示しています

見ている角度の違い

「ちゃんと我が子のことを見てくれているの??」 「お母さんの要望は、この生徒にとって高すぎじゃない??」 同じ子どもを見ているはずなのに、評価のギャップが生まれてしまう。 どういったことが背景にあるのでしょうか? ①自閉症の特性  自閉症の特性として、一つの状況で学んだことが別の状況になると、できなくなってしまうことがあります。家でできていたことが、学校でできていたことが、違う状況になるとできなくなる。このような特性からくるギャップは、支援者同士で理解し、その前提で話を進めていくことが大切です。 ②立場の違い  親が子どもに期待することは当たり前だと思います。一つできることが増えたら、もっとできることが増えてほしいと思うのは当然の感情です。一方、支援者はあくまで他人です。自分が関わる子どもがどんなに好きでも他人には変わりません。親が持つ責任や将来の希望と不安は完全に共有することはできません。また、生まれてから現在までのこと、24時間の生活のことは、親より知っている人はいません。お互いの立場の違いから生まれるギャップは、相手の立場を想像し、尊重することが大切です。 ③支援者自体がヒント  気が付かないうちに、自閉症の人が活動を行う際のヒントに自分がなっているといったことがあります。自閉症の人が支援者の動き自体を活動の要素の一つとして身につけてしまったパターンと、支援者が結果の方に注意が向いてしまい、手助けしていることに気が付いていないパターンがあると思います。支援者の行動から生まれるギャップは、違う人や場所でも同じようにできるのかという視点を持つことが大切です。 ④自閉症に関する知識の乏しさ  自閉症の特性が個人の行動や考え方に大きな影響を与えていることを理解する必要があります。自閉症に関する知識が少ない人が個人を見ると、「やる気がない」「調子が悪い」「〇〇の影響」など、個人の内面や周りの環境のせいにしてしまい適切な支援につながっていかない可能性が高くなります。知識の違いからくるギャップは、支援者同士の関係性に大きな溝を作ってしまう危険性がありますので、支援者は自閉症に関する正しい知識を持つことが大切です。 支援者同士で子どもの評価を出し合うとき、「それは違う!」と思うのではなく、「そういった面もあるのか」と受け入れることが大切だ

空気が読めなくたって大丈夫!

"空気を読む"ことは、自閉症の人が苦手とするスキルの一つです。 では、"自閉症の人が空気を読んだ行動できないか"というと、それは違うと思います。 自閉症の人を"空気の読める人"にすることは難しいですが、"空気を 読んだ 行動ができる"ようになることは可能だといえます。 私たち定型発達の人たちとは異なり、自閉症の人たちが周囲の状況や相手の表情などを自然に読み取ることは難しいことです。 そのため、その場に即した行動がとれないことも多々あります。 でも、"空気を読んだ行動"は、周囲の状況や相手の表情が完全に読み取れなくても行うことができます。 一つ一つの場面で、どのように振る舞えば良いのかを学習すれば良いのです。 つまり、自閉症の人たちが苦手な状況判断の仕方を学ぶのではなく、得意な行動の形、パターンで学ぶということです。 自分の話ばかりしてしまう人は、相手が退屈しているか表情を読み取ることよりも、1つの話題を話し終えたら、相手の話を1つ聞くようにすることを学習します。 職場で周りがどんなに忙しそうにしていても自分の仕事以外は行わない人は、自分の仕事が終わったら上司に「何か他に仕事はありませんか」と尋ねるようにすることを学習します。 形やパターンで学習することは気持ちが入っていないといって否定的な意見を持たれる方もいらっしゃると思います。 しかし、空気を読むために必要な周囲の状況などの複数の情報を一度に捉え、処理し、判断することは自閉症の人の苦手なことです。 第一、行動を見た人は、その行動が周囲の状況を理解しての行動なのか、パターンで行動しているのかはわかりません。 その場に即した行動ができれば良いと私は考えています。 空気が読める人になれなくても、空気を読んだ行動ができれば、より円滑な人間関係が築いていけるのではないでしょうか。

"顔の見える"お金

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街でATMに並ぶ人たちを見て、今日が給料日だと気が付きました。 サラリーマンのときは、毎月楽しみにしていた日だったのに。 自営業を始めて早2ヶ月。 私には給料日がありません。 お金をいただくときは働いたときです。 しかも利用していただいた方から直接手渡しで頂戴します。 毎月、給料明細を上司や事務からもらっても特に感謝の気持ちは起きませんでした。 でも、今は違います。 利用料を頂戴するとき、心から感謝の気持ちが溢れ出てきます。 それは"顔の見える"お金を頂戴しているからだと思っています。 お金を受け取り、私が「ありがとうございます」というと、みなさんも同じように感謝の言葉を言ってくださいます。 お礼を言うのは私の方なのに・・・。 みなさんの温かい言葉をいただくと、私は恐縮する気持ちとより満足していただけるサービスを届けたいという気持ちでいっぱいになります。 みなさんが得たお金で私のサービスを利用していただいている。 私は利用していただいたみなさんに生かされているのだと感じます。 ですから自分の持っているものをすべて出し、利用していただく方のために頑張っていきます。 また、いつかたくさんお金をいただけるようになったら、自閉症の人たちがより生活しやすい地域にするために使っていきたいと考えています。 "顔の見える"お金は、私にサラリーマン時代に気づけなかった大切なことを教えてくれています。

やり取りの楽しさを伝えたい

2歳を過ぎたあたりから、ジェスチャーを駆使して何かを伝えようとすることが増えた長男。 足を指さし(靴下=外出) 両手をグーにして左右交互に上下させる(ハンドル=車) 手を洗う動作(て=テーオー(地元のデパート)) 左手首を指さす(腕時計=時計) 体を上下に揺らす(リズム=音楽) つまり、解読すると 『車に乗ってテーオーに行って、店内にある大きな時計の音楽(〇時になると人形が出てきて音楽が流れる)を聴いた』(たぶん) こんな風に答えると長男は喜びます。 まだまだはっきり言える言葉は少ないですが、伝えたいことがいっぱいあるのだなと感じます。 コミュニケーションで大切なことは、"言葉で伝えること"ではなく、"何かを媒介にしてやり取りをすること"だと思います。 よって、人とやり取りする楽しさを学ぶことがコミュニケーションの第一歩になります。 もし、言葉を話すことができなくても、人とのやり取りの楽しさを知っている人は、自ら信頼できる人と関わろうとします。 年齢の低い子どもやコミュニケーションの発信が少ない自閉症の人には、少しでも発信があったらオーバーでも良いのでしっかり反応することが大切だと考えています。 あなたの支援する人は、ボールを投げる回数が少なかったり、コロコロ転がすくらいしかできなかったりするかもしれません。 でも、支援者がしっかりボールを受け取り、返してあげることがコミュニケーションをしたいという心を育んでいくのだと思います。 こんなことを偉そうに書きながらも、隣でいろいろ言っている君の発信に聞こえないふりをしたり、「そうそう」など適当な返事をしているお父さんを許してね☆

将来を見通す力

「〇歳になったから」「中学生になったから」 という理由で、今までやっていたことが禁止されることがあります。 言った方としては、周囲からの見た目や年齢を考慮してのことだと思います。 一方、言われた方からすると、「なんで今までOKだったことがダメになるのかな・・・」と感じることがあると思います。 自閉症の人の中には、時間の概念を捉えることが苦手な人がいます。 時間の経過は目で見て確認することができません。 ですから、「〇歳になったから」「中学生になったから」と言われても、自分で変化したことに気づきづらいため、「突然、禁止された」と捉えてしまうかもしれません。 また、自分以外の視点に立つことも自閉症の人たちは苦手です。 ですから、周囲から見て自分の行動が違和感を持たれていることにも気づきづらいため、何で禁止されるかがわからないこともあると思います。 このような人には、将来、望ましくない行動は、できるだけやらないようにしておくことが大切です。 また、時間の概念を捉えられる人に対しても、急に禁止するのではなく、事前にいつからやめるかを伝えておくことが大切です。  そして、支援者は現在の行動が将来どのような行動に結びついていくのかを見通す力が求められています。

魅力的な特別支援教育

特別支援教育を受けていることが羨ましがられる・・・ こんな時代が来ないかなと、私はひそかに楽しみにしています。 個人のニーズに合わせて、目標や方法、環境が変わっていく教育。 そんな教育ができたら、魅力的ではないでしょうか? 現在の特別支援教育では、普通学校と比べて多くの教員が配置されています。 また、特定の教科や教育内容が厳密に決まっているわけではありません。 教える内容と方法も子どもの実態に合わせて行うことが求められています。 このように、一人ひとりに合わせた教育を行える可能性を持っているといえます。 近い将来、普通学校に通う子どもが 「特別支援学校に通う子たちは、僕たちのように決まった教科書で勉強しないで、自分たちが勉強したいことをたくさん勉強できるんだ。羨ましいよな~」と言う日が来るかもしれません。 私は、普通学校に通う子どもに対しても、基礎学力から上は、個人が好きなことをとことん学べるようにした方が、子どもたちの興味関心の目を摘まずに可能性を広げていけると考えています。 教えることが先に決まっているのではなく、一人ひとりの子どもに合わせて教えることが決まっていく特別支援教育。  そのような意味での特別支援教育を実現するには、更なる専門性の向上と教育システムの変化が必要だと考えています。 一人一人の"特別"なニーズを"支"え"援"助する"教育" このような個人の学びに寄り添える教育が、すべての子どもたちの未来をますます輝かせるのではないかと私は考えています。

声を掛けたらダメですか?

自閉症の人にまったく声を出さずに支援している人を見かけます。 指さし、ジェスチャー、顔の表情を駆使して。 客観的にみると、私たちでも何を伝えたいのかなと「?」になることがあります。 案外、言葉で伝えた方がわかりやすい場面も。 このような支援者は、 『自閉症=言葉の理解が苦手=声を掛けてはいけない』 という考えを持っているように思えます。 確かに、自閉症の人は"視覚優位"で、"伝えるときは視覚的に"と言われます。 しかし、だからといってまったく声を掛けてはいけないということではありません。 アメリカの支援者たちは、言葉でよくコミュニケーションをとっていました。 「やあ、今日の調子はどうだい?」 「よくできてるじゃない!」 「いい仕事してるね!」 もちろん、指導中は声掛けを減らす配慮はしていましたが、日本のように極端に声を掛けないことはありませんでした。 "声を掛けることはダメ"というのは、少し極端な気がします。 自閉症の人の中には、言葉を理解できる人もいますし、言葉の理解を広げる可能性を持っている人もいます。 また、視覚優位ではなく、聴覚優位の自閉症の人もいます。 ですから、言葉の何が苦手かを一人ひとりみる必要があると思います。 ●たくさん話しかけられることが苦手 ●早口で言われることが苦手 ●特定の声が苦手 ●いろいろな人の声が同時に聞こえることが苦手 ●指導中に声を掛けられると集中できないので苦手 ●分からない言葉があると苦手 ●音がまったくの苦手 どのようなことが苦手かを知ることも大切だと思います。 苦手なことで支援を続けることは賛成できません。 でも、言っていることが完全に分からないこともしれませんが、言葉で挨拶を交わしたり、褒めたり、雑談をしたりすることも悪くないと私は思っています。

集団は最適な学習環境か?

定型発達の子どもたちにとっては、多くのことを学ぶことのできる集団の中も、 自閉症の子供たちにとっては、最適な学習環境とはいえません。 何故なら、集団の中には学習を妨げる"刺激"が多いからです。 "刺激"が多いと、学習すべきことに集中ができなかったり、ストレスを多く受けたりします。 対人面やコミュニケーション、社会性の部分で苦手なことが多い自閉症の人たちに対して、集団の中で多くのことを学んでほしいと考える気持ちもわかります。 しかし、自閉症の人たちは、脳の働き方が定型発達の人たちとは異なっています。 ですから、自閉症の人たちに合った学習環境を設定することが支援者には求められます。 まずは、刺激の少ない環境で、指導者と1対1で集団の中で必要なスキルを学びます。 それから、刺激の多い集団の中でも、同じスキルが発揮できるように、再び集団の中で同じスキルの学習を行います。 そして、やっと集団の中で、独りでスキルを用いることができる。 このように、自閉症の人たちに合った学習環境で進めていくことが重要だと考えています。 あくまで"個人"が確立されての"集団"です。 "集団"があるから"個人"が確立されるわけではないと思います。

障害の程度を左右するものは・・・

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「障害を重くするのも、軽くするのも支援者次第だな」 これがアメリカに行って率直に感じたことでした。 日本だと、「卒業後は作業所だね」と言われるような重度の知的障害を持つ人でも、民間の企業で働いていました。 日本だと、町から離れた施設で生活することが多い行動障害を持つ人でも、町の中にある住居で生活し、地域のお店や施設を利用し余暇を過ごしていました。 いずれの人たちも、日本でもアメリカでも診断や知能検査などでは同じ結果が出ると思います。 しかし、生活の質を見ると大きく異なっているように感じました。 その違いはどこからくるのか? それは『支援者の考え方の違い』だと考えられます。 重度の知的障害を持っているから、「就労が難しい」と判断するのではなく、 重度の知的障害を持っているが、「何かできることはないだろうか?」「どんなアイディアがあれば働くことができるか?」と考えます。 行動障害を持っているから、「町での生活は無理」と判断するのではなく、 行動障害を持っているが、「行動障害の背景は何だろうか?」「どういう支援があれば行動が落ち着くことができるだろうか?」と考えます。 このような「もしも、このような支援をしたら・・・」という考え方を持った支援者から見ると、同じ診断で同じ知能検査の結果を持った人でも別の姿として見えるのではないでしょうか。

みなさんの"自立"のイメージは??

自閉症支援において"自立"というキーワードがしばしば出てきます。 みなさんは、"自立"という言葉を聞いてどのようなイメージを持たれますか? 一人で身支度をし、職場まで行く。 自炊したり、洗濯したり、掃除したり、買い物に行ったり・・・。 自分で予定を立てて生活すること。 などをイメージされるかもしれません。 実際にTEACCHプログラムでも、"自立"を目指すことが強調されていますので、何でも独りでできるようになることが最終目的のように思われている方も多いと思います。 しかし、この"自立"には、援助を受けることも含めた"自立"となります。 確かに、スキルを身につけたり、環境を調整することで自立して活動できることが増えることを目指しています。 でも、実際は援助が必要な場面ではサービスを受けながら、より自立的な生活が送れることを目指していく。 これが自閉症支援で目指す本当の意味での"自立"の姿になります。 実際に、アメリカ・ノースカロライナ州のTEACCHプログラムのサービスを受けている成人の自閉症の人たちも、ほとんどが親元を離れ地域で暮らしていますが、完全に独りで生活しているわけではなく、必要な場面ではサポートを受けながら生活しています。 「子どもが成人するまでに独りで何でもできるようにしなくては」と思われている保護者や支援者の方もいらっしゃるかもしれません。 でも、そんなに肩に力を入れる必要はないと思います。 サポートを受けることも自立した生活には重要な要素になります。 独りでできることを増やしていく。 でも、できないことはサポートを利用すればいい。 そう考えると、"自立"という言葉が身近なものになるのではないでしょうか。

"見える"障害と"見えない"障害

目や身体の不自由な人に対しては、自然と手を貸すことができるのに 自閉症の人に対しては、自然と手を貸せる人が少ない。 これは、"見える"障害と"見えない"障害の違いだと思います。 身体の違いについては、一般の人たちでも見てわかるし、不自由さを想像することもできる。 でも、自閉症の人たちの不自由さは、脳の違いからきているので見ることも難しいし、一般の人たちが想像することは難しい。 ですから、一般の人たちから誤解されたり、理解されなかったりすることが多いと思います。   では、私たち支援者はどうしたら良いのでしょうか? もちろん、自閉症などの発達障害について一般の人たちに理解してもらうように、地道な啓発をしていくことが大切だと思います。 しかし、身体の不自由を持っている人たちのように見てわからない違いですので、一般の人たちが100%理解することは難しく(専門家すら難しい)、さらに時間のかかることが想像できます。 だったら何をするべきか・・・。 私は、日頃関わる支援者が正しい知識を持ち、理解できるようになることの方が先決だと思います。 一般の人たちから理解が得にくい分、この社会でも生活がしやすくなるためには、本人たちがスキルを身につけていくことが求められます。 そのためには、正しく理解し、支援や教育ができる人を増やさなければならないと考えています。 社会に変わることを求めるよりも、コアな支援者を増やしていくこと。 それが今生きている自閉症の人たちのためになるのではないでしょうか? まだまだ自閉症の人たちが理解されにくい社会ですが、そんな社会の中でも自分らしく力強く生きられる人たちが増えるように、一緒に頑張っていきましょう!!

"特別"の意味

今日の朝日新聞に、代筆支援を受けて、高校受験、大学受験をし進学できた人の記事が載っていました。 大学のセンター試験で特別な措置を受けるには、診断書と受験生の実情を詳細に示す書類が必要とのこと。 しかし、申請通りの配慮(ex.試験時間の延長、別室での受験など)が認められないケースもあるということです。 2007年から特別支援教育が始まったが、学校への機器の持ち込みや入試での個別対応が広がっているとはいえない現状が報告されていました。 "特別"という言葉を聞くと、 「優遇されている」 「ずるい」 「平等ではない」 など、マイナスのイメージを思い浮かべてしまうのは日本人特有かなと思います。 日本は島国で、和を尊ぶ文化です。 こんな文化的背景も、個人のニーズに合わせる特別支援が広がっていかない一要因かなと思います。 書くことが苦手ならパソコンを使えばいい。 黒板の字が追えないなら、黒板の写真を撮ればいい。 話すことが苦手なら書いて伝えればいい。 話を聞くことが苦手なら、録音すればいい。 アメリカのように、個人の"特別"なニーズに応えられるシステムが確立されると、もっと才能が開花できる人たちが増えていくのではないでしょうか? そのために、私は"特別"という言葉をプラスのイメージにしたいと考えています。 "特別"は集団を乱すマイナスな言葉ではなく、 "特別"は個人の可能性を広げるプラスの言葉! 「学びたい」という思いがある人なら、誰でも教育を受けられるチャンスを!!

納税する誇り

『福祉の対象者から、納税者へ』 これが私の目指しているテーマです。 障害を持っていても、一人ひとり優れているところを持っていると思います。 その優れた力で製品やサービスの提供者になり、また、得たお金で納税者にもなる。 アメリカでは、障害を持っていたとしても最低賃金(約7ドル)が保障されています。 また、「納税することがアメリカ国民としての誇り」という考え方を持っているそうです。 アメリカで見た働くことに誇りを持っている人たちは、日本の現状を「モッタイナイ」と言っているようでした。 学校を卒業し、そのあとの長い人生の大部分を福祉の枠組みの中で過ごしている現状。 勿論、手助けやサポートが必要な部分は、国や地域が担っていく必要があると考えています。 でも、もっと彼らの力を活かし、社会に貢献できる場所がたくさんあるのではないでしょうか?? 製品やサービスを受け取った人のためになり、 また、税金を納めることで、地域や国を支えることにもなる。 このような考え方や実践、社会のシステムが成り立って初めて障害を持った人たちに対しても平等な社会になると考えています。 "誰かの役に立った"という実感は、人生を豊かにしてくれると思います。 そんな実感が持てる人たちが一人でも多くなるように頑張ります!!

ギリギリまで元気な子

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体調を崩していた息子も元気になり、端午の節句を一緒にお祝いすることができました。 おととい、元気に走り回っていたかと思うと、急に「抱っこ抱っこ」が始まり、熱を測ると38.5度。 そこからずっと眠り続けていました。 子どもは体調が悪くなる直前まで遊ぶんですね。 このようなことは自閉症の人たちと関わる中でも見られることでした。 "疲れている"ってどんな状態? "体調が悪い"ってどんな状態? このような個人の感覚による症状を自閉症の人たちは気づきにくいといわれています。 「腕から血が出た」 「頭が痛い」 などの見て確認できたり、痛い箇所が限定されている方が不調を把握しやすいです。 ですから、ギリギリまで疲れや具合の悪さに自分で気づかずにいつも通りに活動してしまう。 そして、限界を超えたときに、パタッとダウンというようなことが起こりやすいです。 一方、定型発達の人たちは、目に見えない"疲れや不調"に気がつけるので、ダウンする前に自分の行動をセーブすることができます。 自閉症の特性でもある"感覚の違い"から、自分で疲れや不調に気がつきづらいので、支援者が体調の変化に気がつき、手助けする必要がある部分だと思います。 また、日々の生活の中に、休みや休憩を計画的に入れておくことも重要だといえます。 顔が愛らしい九州地方の焼き物

偏食への対応

お子さんの偏食に悩まれている親御さんも多いのではないでしょうか? 私も施設で働いているとき、いろいろと悩むことがありました。 子どもたちの将来のことを考えると、いろいろと食べられるものがある方が良いのでは。 しかし、同時に自閉症の人たちの"感覚の違い"にも配慮しなくてはと。 ここからは、私が今までに経験したことをお話しさせていただきます。 <思春期になって突然食べる子> 子どもの頃から、偏食が強く、野菜などが食べられなかった子が、突然、中学生ぐらいからいろいろなものを自分から食べ始める。 このパターンの子は、けっこう多くいました。 食べ始めたら、今度は"食べ過ぎ"に注意の子も(笑) <ちょっと頑張ってみて食べれるようになる子> 好きなおかずのおかわりの前に、苦手なメニューも一口頑張るようにする。 苦手なメニューでも、意外に食べてみたらおいしかったりする経験から食べれるものが増えていったといった子も。 ただし年齢の低いときに(小学部くらいまで)に限定して行っていました。 思春期を過ぎても食べたくないものは、本当に苦手なものだと思います。 <盛り付け方を変えてみると食べる子> 混ぜご飯が苦手な子に白米と具材を分けて盛り付けたり、サラダも野菜を1つずつ混ぜずに出したり、特定の苦手な具材だけ取り除いて出したりすると食べる子もいました。 「忙しくて毎日そんなことできない」という方は、余裕があるときに試してみては? <どうしても食べない子> 中にはどうしても食べられない子がいました。 その子は、本当に苦手だということなので、それでOKとしてました。 偏食については、無理をしないことが大切かなと思っています。 食事は一生続くことで、その人にとって楽しい時間であることが一番! 食べられないものがあったって、生きていけます! 別の食材で栄養が補えるならそれで良し! サプリメントもある! と考えるようにしていました。 大人になって自ら「俺はピーマンが食べられないから、頑張って食べるようにしよう」とする人はいますか?? 大人は苦手なものを食べなくても誰からも怒られていないはずです(笑) 食べれるようにチャレンジしたあと、食べれるようになったらラッキー♪ 食べれるようになら

愛情たっぷりのカレー

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昨晩、『レッドカレー』を作りました! 具材は、鶏肉、玉ねぎ、パプリカ、トマト。 生クリームをたっぷり入れて、豆板醤でピリッと辛くして食べるカレーです。 家で作るカレーとは違って、ちょっとおしゃれなレストランのランチのカレーといった感じ☆ 息子(豆板醤抜き)も妻も喜んで食べてくれます。 この『レッドカレー』は、あるお母さんから教えていただいたレシピです。 いつも連絡ノートに、「昨晩の夕食、息子がよく食べてました♪」と書かれていたので、 お子さんがよく食べるメニューをいろいろと教えてもらっていました。 どのメニューも味はもちろんでしたが、それよりも息子さんがおいしくて、かつ食べやすいように考えられたメニューだなと思っていました。 その子は、食べることにいろいろと配慮が必要でした。 その子が、たくさん食べられて、食事の時間が楽しくなるようなメニューをお母さんはいつも考え、作っている様子が伝わってきました。 母親の愛情がたっぷり入った『レッドカレー』です。 作るたび、その子がたくさん口を動かして食べる様子とお母さんの笑顔が思い出されます。 そして、我が家の家族も笑顔にしてくれます。

"自閉症スペクトラム障害"への一本化

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今年の5月より ◎知的障害を持つ自閉症 ◎高機能自閉症(知的障害を持たない) ◎アスペルガー症候群 と言われていた分類がすべて 『自閉症スペクトラム(連続体)障害』に一本化されます。 *アメリカの精神医学会の診断の手引き(DSM)の改訂により 私も以前から細かく分類する必要はないと考えていました。 理由としては、"自閉症"の特性が個人に影響していることは同じであり、 生活しにくささも"自閉症"の特性からきていること。 そのため、支援者は個人に影響を与えている"自閉症"の部分にアプローチする点はどの分類の人たちに対しても同じであると考えていたからです。 しかし、一本化で懸念されることも・・・ 日本で自閉症の診断を行えるのは、医師だけ。 その医師の中で自閉症について専門で正しく診断できる人は多くありません。 そういった中で、一本化されると ●自閉症ではない人も次々に"自閉症"と診断されてしまう可能性 ●反対に、今まで"アスペルガー"などと診断されていた人が診断基準に当てはまらなくなる可能性 ●厳密には"自閉症"と診断できる基準にないが自閉症と似た状態の人たちの診断は?? など、懸念されることも考えられます。 いずれにしても、個々のニーズに合わせて適切な支援が行われることが一番です。 また、医師以外でも自閉症について専門的な知識、技能を持った人が日本でも診断できるようになれば良いと考えています。 自閉症診断についてのブログ 「もし診断できる人が増えたら」 も、よろしければご覧ください♪ 道端で見かけたつくしんぼたち