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成人後も成長の機会を得るための18年間

私はチャンスを広げるために、学生時代があるのだと考えています。 特別支援学校だったら18歳で、4年生の大学に行ったとしても22歳で、社会に出るわけです。 定型発達と言われている若者たちでも、その約20年くらいの期間で、生きていくことに必要な最低限のスキルをすべて身に付けておくことは大変なのです。 それだったら、発達障害があったり、知的障害があったりする若者は、さらに大変だと言えますし、当然20年間では足りない人も多いはずです。 未熟な段階で社会に出ていかなければならないので、社会に出てからも成長できる、成長し続ける機会が得られることが大事になります。 そのような機会を得るためには、やはり学校に通っている間に多くのことを学び、力をつけておく必要があります。 成人になってからでは、遅い場合もあります。 それは今、成人している障害を持った方たちの現実から見えてくる部分です。 「いきなり一般就労は難しいから、作業所で支援を受けながら・・・」と言っても、その作業所で行う仕事が、今後の仕事の幅を広げるものなのか、自立するための練習になっているものなのか、を見極めないと、希望通りのステップは踏んでいけないことにもなりかねません。 昨日、お話ししたお母さんが、「人生の本番を迎える前の18年間、できることは何でもしようと思ってきた」と言っていました。 先を見通した素晴らしい考え方で、子育てをされてきたことがわかります。 当然、その子は成長をし続け、成長につながるための就労を得ることができました。 その就労先で一生なんては考えていませんでしたし、私もその考え方に同意します。 その就労先で、まだ未熟な部分を学び、成長し続けることで、より良い機会を選びにいっても良いと思います。 40年間、同じ場所で働き続ける時代ではありません。 それは障害を持った人でも同じこと。 学校の卒業がゴールではありません。 それはスタートの始まり。 成長につながる機会を広げるためにも、約20年の歩みが大切になってくるのです。

時代に左右されない力

一つ前のブログにも書きましたが、国の考えを見通す力が大事だと思います。 これから就労支援の補助金が減っていきます。 たぶん次は、児童デイでしょう。 最初はたくさんの予算をつけておいて、一定数事業所ができれば、補助金を減らしていく。 予算を握っている方からしたら、当然の戦略ですよね。 そうやって数を確保しつつ、あとは徐々に補助金を減らしていき、ぎりぎりのところで事業者の努力に委ねる(利用者がいたら、やすやすと撤退はできないですよね)。 予算は無限にはないので、福祉と特別支援教育の充実は、現実からどんどん夢の方へ変わっていくでしょう。 じゃあ、みなさん、日本から出ていき、福祉や教育がより充実している国へ行きますか。 それとも、日本で夢を追い続けますか。 私は、日本で、しかもこの時代に生まれたので、現実的な道を選択します。 それは国の考えや制度に左右されない部分を充実させること。 つまり、その人が持つ能力を発揮させ、成長をサポートすること。 どんな時代、どんな政権、どんな制度ができようとも、本人に力があれば、より良い未来へと進んでいけると思います。 時代も、国も、個人の能力まで手が出せませんから。 この10年間は、蛇口を開き、水がジョボジョボと注がれ続けてきた時間でした。 これからは、蛇口が反対側にひねられて行く時間です。 また、溜まった水は、他に必要な人のところに運ばれていきます。 蛇口を閉める手を制止するには、それに伴うだけの余程のメリットが示せなければなりません。 他に運ばれている先の人よりも、必要性があり、それだけではなく、有効利用できるだけの事実が必要なのです。 草の根運動を否定するわけではありません。 でも、この瞬間にも、本人も、親御さんも、年をとっているのです。 私は、これからも時代に左右されない力をつける意義と、そのお手伝いを続けていこうと考えています。

自分たちで作業所を作れば…

他害がある思春期真っ只中の男の子。 その子の親御さんが「将来、自分で作業所を作るから良いんです」と言って、学校と距離をとったという話を聞きました。 親御さんには、問題行動が良くならないことに対する苛立ちと、それによる余裕のなさがあるのだと思います。 学校側の至らないところもあったのでしょう。 でも、学校と距離をとることは、本当に本人のためになるのでしょうか。 そして、働く場を親御さんが作り、そこで働くことは本人にとって幸せか、また一生働くことができるのでしょうか。 学校って、問題行動をなくす場所ではありません。 将来の自立に向けた学びの場所です。 児童デイや療育機関に通っているから、それで良いやってことにはなりません。 学校という環境だからできる学びがあるはずです。 そこをすっぽり抜かすということは、それに代わるだけの学びを用意する必要があります。 ホームティーチングという方法もありますが、それは一定以上の学ぶ力を持っている子どもの話だと思います。 発達障害、特に知的障害がある子ども達は、知識を身に付けるような学習だけではなく、脳の根本的な部分から発達を促していく必要があります。 それを家庭の力だけで行おうとしたら、相当難しいと言えます。 就労支援に対する補助金は減っていく流れになっています。 その次は、児童デイへの補助金カット。 国の人口構成から考えても、障害者福祉の予算が減っていくのは明らかです。 こういった流れの中、大きな法人以外の、しかも個人が作業所を作ることは相当なリスクがあることです。 お金に余裕があるご家庭なら大丈夫なのかもしれませんが、人を雇うにはある程度のお金がいります。 補助金の中だけでやろうとしたら、パートでしか雇えないでしょう。 また給料が安いところに、即戦力、専門性を持った人はこないはず。 障害者支援、自閉症支援が進んでいると思われている欧米でも、支援者として働いている人の多くは、パートタイムの人ばかりです。 主婦が空いている時間に仕事しています、というのが一般的なのです。 (私が研修で見た事業所は、利用者の人たちが働いている隣で携帯電話をいじっている支援者さんでしたよ) 当然、日本もそのような状況になってくるでしょう。 そういった状況で我が子だけでなく、他の利用者の方たちにも、長い期間

子も、親も、成長できるのを支援することが"協働"じゃないかな

雨脚が強くなってきましたね。 ちょうど午後からの予定がキャンセルになったので、外に出ず、仕事ができています。 朝早い時間に走っといて良かった♪ 遅くなるほど荒れるようだから、今日は早めに保育園に迎えに行こうかな。 「いつも丁寧に教えてくださり、感謝しています」と言われました。 お金を払って利用して頂いているのですから、どんな意図で、どんな支援を行っているかを丁寧に説明するのは当然なこと。 また、実際のセッション以外でも、電話やメールでの相談をいただきますが、それに関しても、親御さんがお子さんのことをより深く知り、成長につながる引き出しを増やすのは望ましいことです。 私のイメージでは、依頼を受けたお子さんの成長はもちろんのこと、親御さんも含めて一緒に成長してもらう感じです。 ですから、セッションを通して知り得た情報や、お子さんに合った支援方法があれば、どんどんお伝えしています。 それで「大久保の支援はもういらないわ」となってもいいのです。 ヤブ医者になって小銭を稼ぐよりも、どんどん成長してもらえる方がずっと気持ちが良いものです。 私が当然だと思っているこのような対応も、公的な機関では難しいのは当たり前。 公的な機関では、結果よりも、数の方でお金が決まってくるのですから。 特に税金からお金を貰っているところは、より多くの人にサービスが行き渡ることが大切です。 ですから、「〇〇では、どんな療育を行っているか教えてくれない」とか、「結果が伴っていない」とか、「同じ支援がうちではできない」とか、言っても仕方のないことです。 そもそもの仕組みが違いますから。 「お金がかからず、何でも教えてくれて、しかも結果が伴う」なんていうのを期待していてはだめですよ。 それができていたら、もっと多くの人たちが自立した生活を送られています。 もし公的な機関の人で、自分に時間も、労力も割いてくれているのなら、それはその人のプライベートな時間か、他の誰かが利用できていたかもしれない時間を貰っていると考えた方が良いと思います。 公的な機関のみを利用されている方は、親御さん自身で勉強する必要があるということです。 ただ利用されているだけでは、お子さんは変わっていくかもしれませんが、親御さんは変わっていきません。 結構、公的な機関を長年使われていた方が私の

「良い支援」と「悪い支援」

「私の支援が悪くて・・・」と仰る親御さんって少なくないです。 先週の相談時も、同じようなことを言っていました。 そのとき、私は尋ねました。 「悪い支援って、どのような支援のことだと思っていらっしゃいますか?」と。 悪い支援って、お子さんが理解できなかったり、混乱したり、成長できなかったりする支援のこと。 これは私も同じように考えます。 ただ私は商売として支援をしていますので、もっとツッコんで結果が出ない支援は悪い支援だと考えています。 しかし、親御さんがどうして悪い支援になってしまうかと言ったら、「私がちゃんと勉強していない」とか、「構造化の仕方が悪かった」とか、「感情的になって一貫性のある支援ができていない」とかが多いです。 つまり、視覚的構造化でも、ABAでも、ソーシャルストーリーでも、その療法をきちんと理解していない、決められた手順を踏むことができていない、応用することができていないので、お子さんにポジティブな変化が見られず、結果として"悪い支援"と考えているようです。 確かにどんな療法にも、中核となる考え方、決められた方法と手順、評価基準などがあります。 でも、これは専門家、職業として支援している人たちの間での話です。 きちんと理論を学び、技法を身に付けるためには型が必要です。 型がなければ、教えることが難しい、習得できたか判断できない、看板だけ掲げて勝手に実践してしまえる・・・。 つまり、お墨付きを与えるために型があるのです。 でも、実際の場面で、目の前にお子さんがいるとき、ナントカ療法の型どおりか違うか、なんてどうでも良いと思いませんか? 目の前にいる人にポジティブな変化があれば、それでOKじゃないでしょうか。 私もトレーニングに行ったとき、「それは違う方法だ」とか言われましたよ。 でもね、それは研修の場だから。 実際は、理解でき、成長できたら、それは良い支援でしょ。 職業にしている人が勝手なアレンジをして「〇〇療法です」と言ったら問題になるけれど、親御さんが我が子の支援を行うのに正しい方じゃなければならないということはありませんよね。 良いとこどりでも、つぎはぎでも、ごった煮でも、なんでもいいんですよ。 それが良い支援か、悪い支援か、の答えは、お子さんの中にあります。 答えを外に求

スモールステップとは、情報整理の手段の一つ

今朝、とても嬉しい報告がありました! 目標だった試験に合格したとのことでした!! その方との付き合いは、もう2年以上になります。 でも、ここ半年くらい敢えて連絡をとらないようにしていました。 それまで小さなステップを一緒に超えてきましたが、本人の口から「コツを掴んだような気がします。ここからは自分の力で頑張ります」という言葉が聞けたからです。 時間がかかるのは分かっていましたが、それでも支援を受けることなく、「自分自身の足で乗り越えることができた」という経験をしてもらうことが、彼の人生を一変させると考え、判断しました。 挫折を繰り返し、何をしても途中で止めてしまっていた人生でしたから、まず1つ自分の力で乗り越えて欲しい、その喜びを感じて欲しい、というのが、その試験でした。 早速、次の目標へと意識が向いているようです。 1つの山を越えたから、次の山を見ることができる。 そうやって歩いているうちに、気が付いたら人は成長しているのかもしれません。 今回も、社会に飛び立っていくときの"踏み台"として役目を果たすことができて嬉しかったです。 このように一気に目標を目指すのではなく、段階を分けて最終目標を目指していくというのを「スモールステップ」というのでしょう。 特別支援界隈で良く聞く言葉です。 でも、私は「ステップを細かく分けて、確実に目標を達成する方法」というような捉え方はしていません。 それよりも「スモールステップ」とは、情報整理の手段の一つだと考えています。 目標が遠すぎると、偏った想像をしてしまったり、反対に情報が多すぎて圧倒されてしまったりする。 だから、その人に合わせて情報を区切る。 そうすることで、向かうべき道が明確になり、"脳"力を存分に使うことができる、というように考えています。 よく感じるのが、ただ「とにかくステップを細かくすることが良い」と捉えているのではないか、と思ってしまうような療育が多いということ。 「こんなに細かく分ける必要があるの?」 「なんでみんな同じステップなの?」 「そもそも分ける必要があるほどのものなの?」 という疑問が湧いてきます。 人によっては、一気に目標を目指した方がわかりやすく、身につきやすい場合もあります。 また、そんなちっちゃなス

親御さんの"揺らぎ"

最近、ある親御さんからの依頼を断ることがありました。 以前にも、他の親御さんですが、断ったことがあります。 別に依頼の内容が突拍子もないことでも、目標達成の可能性がないことでもありません。 お引き受けすることもできた依頼です。 私はボランティア活動ではなく、商売として支援、療育を行っていますので、本来なら受けるべき依頼なのだと思います。 学校や支援機関では断られることが多い依頼にも、積極的に引き受けてきました。 事業開始当初より、「NO」と言わないてらっこ塾で売っています。 それなのに引き受けなかった理由とは・・・。 それは親御さんに"揺らぎ"を感じたからです。 この"揺らぎ"とは、悩んでいるとは別の意味です。 そもそも悩んでいない親御さんはいませんし。 揺らいでいる親御さんは、ご自身の中に選択肢も、方向性もお持ちではない、といった印象を受けます。 何かしなければならないことは分かっているけれど・・・ 「何が問題だか分からない」 「何から手をつけていけばいいか分からない」 「どんな方向に向かえばよいか分からない」 「自分自身、何が困っているか分からない」 その結果、(表現は適切ではないかもしれませんが)手あたり次第、いろいろな支援機関を訪ねたり、書籍やネット、親御さん同士の交流から情報を得ようとしたりする。 そして、私が意見を述べたり、質問したりすると、言っていることがコロコロ変わる。 こういった雰囲気を感じると、私は親御さんの中に"揺らぎ"を見ます。 別に、揺らぐことがいけないとか、間違いだとか言っているわけではありません。 ただ、この揺らぎの幅が大きいときに、支援者が介入することに危険性を感じているのです。 親御さんが定まっていないときには、支援者に依存してしまう危険性があります。 親と子の間に支援者が入り、親子の距離を広げてしまう危険性があります。 親御さんの養育力を高める機会を奪い、親御さんの手の中から我が子の支援を奪ってしまう危険性があります。 そして、最も懸念されることが、親御さんの揺らぎが支援の揺らぎになり、結果としてお子さんの揺らぎ、成長の揺らぎが起きることです。 土台がしっかりしていない子の場合、その揺らぎが積み上げてきたものを一

知識を与えられれば、できるようになるわけではない

自分で「忙しい」と言っちゃうのは、恰好が悪いと思っているので言わないけれど、最近というか、11月に入って1日中、動き回っていることが続いています。 だから、ブログもゆっくり書けない。 このブログも書いていたら、電話が鳴っています(本日、3度目)。 だから、最近では余計に、私の支援から卒業してもらうこと、自立してもらうことに意識が向いていますね。 ちなみに今月だけで、3名の方が卒業されました! 私を踏み台にして羽ばたいていただければ、大いに結構なことです!! 私は言いたいことがあったら、すぐに吐き出したいタイプなので、便秘状態。 ネタは貯まるけど、表出できずにモヤっとした感じです。 こうして考えると、いつの間にか、自分の健康のためにブログを書いていたのが分かります。 健康と言えば、ランニングはまだ続いていますよ。 まあ、どうでもいい文章はこれくらいにして、最近、ビックリしたのが、「知識の量=できる量」だと思っている人が案外多いということ。 「知識が増えれば、できることが増える」 「できることが増えるように、知識をたくさん与えよう」 というような考えで支援している人たちがいる。 でもね。 知っているからって、できるようになる方たちではなかったっけ。 知識を実際の場面に応用させることが苦手だと思うんですけどね。 本人がなかなかできずにいると 「教え方が悪かったのでは」 「視覚的な手立ての作り方がまずかったのでは」 と思われる方がいます。 もちろん、教え方や手だての問題もあります。 でも、できない理由はそれだけではありません。 知識はあるけど、実際の場面でどうやったら良いかわからなくてできない場合もあります。 つまり応用、般化の問題。 他にも、実際の場面では環境からくる刺激に圧倒されてしまってできない。 体調が悪くてできない。 そのとき、求められていることがわからなくてできない。 知識以外の面で、発達していない部分があり、実行できる準備ができていない。 そもそも「やりたくない」というのもあります。 「知識があれば、できる」というのは、定型発達の人の視点ですね。 自分たちがそうだから。 「刺激に圧倒されてできない」「脳みそが疲れてるからできない」とかあまりないですし。 でも、定型発達の人は、身体面での

これ以上、傷ついてほしくないのなら、きちんと指摘する

当事者の人が失敗したり、問題を起こしたりしたとき 「本人がかわいそう」 「これ以上、傷つけたくない」 と周囲が感じることがあります。 失敗や問題の原因が、本人の勘違いや未学習などの場合が多く、"意図的に"とか、"わざと"ではないことがわかると、なおさら、このような感情になります。 本人の気持ちを察し、寄り添うことが支援者というか、誰だって大切なことですよね。 ここまでは良いんです。 でも、「これ以上、傷つけたくない」と思った先の行動に過ちがある支援者が多い。 本人が失敗や問題を起こしたとき、それを指摘しなかったり、何となく曖昧にした表現を使ったり。 これって大問題だと思います。 きちんと指摘しなかったらどうなるか? 本人が失敗する →支援者「本人がかわいそう」 →支援者「これ以上、傷つけたくない」 →支援者「間違いの指摘なし」 →支援者「不適切な情報提供」(*ここポイント) →本人「誤った認識」 →本人「再び失敗」 →本人「傷つく」 →支援者「本人がかわいそう」 →支援者「これ以上、傷つけたくない」 →・・・以下略 このような負のスパイラルが出来上がってしまいます。 実際、多いですよ、抜け出せていない人。 定型発達の人だったら、間違いの指摘をされなくても、文脈や状況から想像し、「やってはいけないことをしたな」とか、「敢えて指摘しないでおいてくれてるんだな」とか、「今度は、こうしたらうまくいくだろう」とか自然に理解したりできます。 しかし、自閉症の人はこのような思考に至らない場合があります。 それよりも、「間違いの指摘がない=やってもいい&間違いではない」という受け取り方をする場合が多いです。 間違いの指摘がされないと、改善へとつながるのも難しくなります。 負のスパイラルの中にいる人は、周囲から不適切な情報提供をされたり、そもそも情報が受け取れていなかったりすることが多いです。 その結果、「私は悪くない」「〇〇が悪いんだ」「社会が私を恨んでいる」とか、歪んだ認知が形成されてしまうこともあります。 このように一旦歪んだ認知が形成されたら、それを整えていくのは本当に難しく、労力もいります。 ですから、失敗や過ちを犯したときは、きちんと「失敗は失敗であること」「

ズバッと言えない支援者ってどうなの??

ご家族や支援に携わっている人に、私は自分の支援、指導、接し方を見てもらうようにしています。 やっぱり実際に見てもらう方が、感じるもの、伝わるものがはるかに多いと思うからです。 私の支援を見てもらったあと、多くの方たちから頂く感想が「ズバッと表現している」ということ。 別に性格、言い方がきつい人間だから、私がこのような表現をしているのではないです。 ズバッという言い方は、自閉脳の人に合わせたものだからです。 情報の取りこぼしがあったり、情報の一部分を強く捕まえたりする特徴を持つ脳の方たちですよ。 相手を傷つけないようにしてかの親切心かもしれませんが、オブラートに包んだ表現、気づいてほしいなというような遠回しの表現、くどくどした説明は、はっきり言って迷惑。 自閉脳を余分に疲れさせるだけでなく、誤った認識、世界観、誤学習へとつながっていきます。 情報の取りこぼしがなるべくないように、そして的確に情報を受け取ってもらうためにも、直接的な表現で、端的に伝えるのです。 情報不足で困っているのが、自閉症の方たちです。 きちんと情報を伝えるのが支援者の役割です。 社会一般的な的確な評価を伝えるのが支援者の役割です。 ズバッと言うことに対して躊躇してしまう人の多くは、「相手を傷つけてしまうのではないか」という恐怖心だと思います。 (でも、情報不足&誤った情報の取り方をしてしまい、結果的に現実世界で失敗してしまう方が傷つきますよ!) 心と心の繋がり合いを大切にする福祉関係者は特に抵抗があるようです。 しかし、ズバッと言うのと、心に寄り添うのが共存できないと思っていること自体が誤りです。 私がズバッと言うのは、言動に対してです。 人格や心は否定するのではありません。 誤った言動をしてしまったら、きちんと「誤っている」と言います。 一般社会から考えて高すぎる自己評価には「高すぎる」と言い、低すぎる自己評価には「低すぎる」と言う。 つまり、これは情報提供です。 ズバッと言うのは、自閉脳の人たちに分かりやすいように情報提供しているだけです。 ズバッと言う私だって、自閉症の人たちと一緒にご飯に行ったり、遊んだり、悩みを聞いたり、共感したりします。 感情や気持ちなどのパーソナルな部分に対しては、人間同士の付き合いをしています。 これって当たり

自分の力でネガティブな記憶を塗り替えた!

昨日は嬉しいことがありました。 自分の足で大きな山を越える姿が見れたのです。 偶然にもちょうど一年前、彼はプレゼンの発表の際、パニックを起こしました。 前日の夜遅くまで準備をしたこと。 発表に対する不安と緊張。 それに想定外の質問がきたのをきっかけとし、感情を爆発させてしまいました。 そのため、プレゼンの発表はネガティブな出来事として彼の頭の中に強く記録されました。 昨日、彼と会うと、表情がこわばっており、全身にも力が入っていることがわかりました。 翌日に大事な予定が入っているときは、体調を整えることを優先し、ベストコンディションを目指すこと。 それは「やりました」と。 プレゼンの英語のスピーチも、スライドも、準備は「大丈夫」 そして、私のサポートは「いりません。自分で頑張ります」とはっきり言ってくれました。 彼は自分一人の力で乗り越える決心をしたのです。 彼とは一年以上の付き合いです。 それまでの成育歴を考えると、糸が絡まり、課題も山積みというのが当初の印象です。 でも、彼は良く学び、一年前とはまったく違った姿を見せてくれました。 堂々とした発表。 そして、聴衆からの質問に対して的確に答えることができたそうです。 「彼が今日のベストプレゼンターであり、素晴らしい準備ができていたことがわかった」という評価を発表会後、担当教官から聞くことができました。 彼は自分自身の力でネガティブな記憶からポジティブな記憶へと上書きすることができたのです。 彼が「自分で頑張ります」と言ったとき、一瞬迷いました。 もし昨年同様なことになってしまったら、ネガティブな記憶がさらに強化されるからです。 でも、私は彼の言葉を信じようと思いました。 彼は一年前とは大きく変わりました。 自分でコンディションを整えること、感情をコントロールすることを学びました。 そして何よりも、私が部分的にでも手を出してしまったら、それはサポート付きの"できた"になってしまいます。 それでは、サポートがあったから"できた"であり、サポートがなかったら"できなかった"になります。 結果として、一年前のネガティブな記憶が塗り替えられることにならないのです。 担当教官からの評価は、彼には伝えません

取り組みを始める前には、「目的」と「ゴール」を伝える

取り組みを始める前に、目的を伝えることは大事です。 「何のため、この取り組みを行うのか?」 「どんな苦手さがあり、それを改善することで、どんなポジティブな結果が待っているか?」 をきちんと理解してもらいます。 何のためにこの取り組みを行っているのかがわからなければ、当然意欲も湧きませんし、持続しません。 また「意識が向いていないと学習効率が悪くなる」とマイナス点もありますので。 この目的を伝えることと同じくらい大事なことが、もう一つあって、それは「ゴール」を具体的に伝えることです。 例えば、「5回連続して、一人で登校できたら目標達成」とか、「家を出て、グループホームに入居できたら終わり」とか。 とにかく“終わり”を明確に伝えることが大事です。 それでなければ、「いつ終わるのか」が分からなくて不安にさせてしまったり、次々、新しい取り組みをやっていたら、彼らが苦手な変化のボディーブロー状態にしてしまいます。 「いつになったら終わるんだ!」 「いつになったら変化がなくなるんだ!」 というような叫びを聞くことがあります。 そして何よりも、「支援が一生続く」と思ってほしくないのです。 支援の目的は自立度を上げることです。 完全に自立できる人は自立してもらい、完全な自立が難しい人は少しでも自立度を上げて、支援を減らしていく。 そうすることで、本当に支援が必要な人に、"人"と"お金"と"資源"を使ってもらう。 支援は椅子取りゲーム状態なので、一人の人が椅子に座り続けている限り、他の人が座ることができなのです。 だからこそ、支援には期限があること。 支援者から自立するために支援があることをしっかり理解してもらいたいのです。 (ここが曖昧だと、支援を受けること自体が普通になってしまい、必要のない支援を減らすことでさえ、「支援が減る=不安」になってしまう人もいるので要注意です。つまり支援が自立を妨げることもあるのです) 特に発達障害の人たちは、発達"しない"人たちではありません。 取り組みによっては、どんどん発達していけるのです。 発達していける部分と発達することが難しい部分。 支援には、この2つの側面に対するアプローチがあることを忘れてはいけません。

身体先行型の人に「おやっ!?」という仕掛けを

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時々、身体先行型の人を見かけます。 慣れている活動は、パターンで次々とこなしていく。 とにかく動きが多く、まるで刺激に対し反応を繰り返しているような感じ。 こういった方たちを見ると、「頭と身体のつながりがどうなのかな」と思ってしまいます。 衝動的に行動することもありますが、多くの人たちは考えて行動したり、考えながら行動したり、行動したあと、考えたりします。 しかし、身体先行型の人は、このような“考える”が抜けているようにも見えます。 “考える”のプロセスがないと、変化に対応できなかったり、他の場面に応用できなかったり、失敗を繰り返してしまったりすることにつながります。 ですから、“思考”と“行動”のつながりを良くすることが大事です。 私は「あまり考えて行動していないな」「パターンだけで動いているな」と感じたら、「おやっ!?」という場面を意識して作るようにしています。 いつもなら考えずにパターンでできちゃう活動の中に、仕掛けを入れます。 例えば、手洗いのときに使うタオルを無くしておいたり、いつも行う勉強の教科の順番を変えてみたり、「おはようございます」という挨拶に「さようなら」と言ってみたり。 本人が「おやっ!?」と立ち止まってくれたら成功です。 その瞬間だけかもしれませんが、頭と身体がくっつきます。 行動→行動→行動の中に“考える”が入れば、思考と行動の間に交流が生まれます。 そういった機会を増やしていくことで、思考と行動のつながりが良くなることを目指していきます。 もちろん、ルーティンで行うことがダメだと言っているのではありません。 脳みそを無駄遣いしないためにも、ルーティン化できるところはした方が良いです。 ここで挙げた「おやっ!?」の取り組みは、身体先行型で、日常生活の中であまり考えて行動していないと思われる方に対してのものです。 また、ここでは身体先行型の人についてを中心に書きましたが、頭先行型の人で頭と身体のつながりが良くないと思われる場合には身体を動かす機会を設ける取り組みを行います。 考える→考える→考えるの中に“行動”を入れることで、思考と行動の間に交流を起こしていきます。

「徐々に支援を減らしていく」と相性の悪い子もいる

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「徐々に支援を減らしていく」って、子どもによっては相性の悪い方法だと思う。 どういう子どもにとって良くないかと言ったら、ルーティン化で学んでいくタイプの子。 あとは、物事の概念や意味の理解が難しく、それよりも形で覚えちゃう子も。 ルーティンで学んでいく子なら、最初に受けた支援も活動の一部になってしまう。 また、物事の概念に気が付かないのなら、自分でやる部分と支援の区別がわからなくなってしまう。 こういった子どもにとっては、自分が受けた支援もひっくるめて1つの活動にパッケージングしてしまう。 そのため、支援の回数や方法が変わってしまうと、まるで別の活動になったかの如く混乱したり、できなくなったりしてしまう。 支援者がこういう子どもの特性や様子に気が付いていないと… 「支援を減らしたら、またできなくなった」=「まだ支援が必要だ」 なんていうズレが生じてしまい、導入段階の支援を続けてしまう。 そして、いくら経っても自立できず、支援もどんどん活動の一部として固まっていく。 この前、見せてもらった支援計画書に「徐々に支援を減らしていく」と書いてあったので、「今、どれくらい減ったのですか?」と尋ねると、最初のままだと言う。 徐々に支援を減らし、最終的には自分の力だけで、と考えていたのだろうけれど、半年間、取り組みをやって支援が減らせないのなら、上記のような要因が考えられる。 それか、そもそも支援のやり方自体が合っていなかったか、その目標をやること自体、まだ早かったのか。 とにかく半年も支援して自立しないのなら、見直すべきだろう。 ルーティン化で学ぶ子、物事の概念の理解が難しい子の場合は、指導の場面と実践の場面を明確に分ける必要がある。 そうすることで、本人に「今は教わっている」「今は自分でやる」という違いを意識してもらう。 また、実践しながら指導をしないようにするため、実践するために必要なスキルはすべて自立してできるようにしておく。 そうすることで実践の場面では、活動の順番を学ぶことだけに集中できるように導く。 1つの活動を行うためには、「知識」と「動作(身体の動かし方)」と「順番」の理解と獲得が必要である。 例えば、靴ひもの結び方だと、靴の結ぶ意味や完成形がわかり(知識)、紐を結ぶのに必要な指先の動きができ(動作)、靴を履いてか