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8月, 2015の投稿を表示しています

都合よく出てくる偉人、天才、著名人

どうも発達障害と犯罪を結びつけるのは絶対に嫌だけど、天才とは結びつけたいという人が多いらしい。 それくらい偉人や天才と呼ばれる人は、発達障害に関する書籍や講演会に、度々登場する。 ときどき、空の上にいる偉人たちは、どういった気持ちでこのような自分の取り上げ方を見ているのか、と想像してしまう。 「私が発達障害でなければ、今頃、ロウソクで灯をともしていただろう」とエジソンは言うのだろうか。 「落ち着きなく、日本中を駆け巡ったのは、ADHDの特徴があったからぜよ」と坂本龍馬は言うのだろうか。 彼らが発達障害の特徴を持っていたのは確かなようだ。 そして、彼らには良き理解者がいて、才能を開花させることをサポートしてくれていたようだ。 だから、書籍や講演会で、偉人や有名人を登場させる人は 「発達障害は才能である」 「才能を伸ばせば、このような人たちのようになれる」 「良き理解者がいれば、才能を開花させることはできる」 と伝えたいのかもしれない。 しかし、伝えるべき事実はこれだけではないと思う。 それは、彼らには資質を開花させ、活躍できるくらいの身体があったことと、最低限の生活ができるだけのスキルと仕事をしていたこと。 いくら絵がうまく描けても、素晴らしい発明や研究ができても、それに耐えるだけの身体がなければ、作品を完成させることはできなかっただろう。 また、いくらよき理解者がいたとはいえ、基本的な生活ができない人は、活動を続けられなかっただろうし、世に作品がでることはなかっただろう。 私が空の上にいる偉人の一人だったら、自分の業績を"才能"もしくは"発達障害"という言葉のみで説明されたら憤慨すると思う。 「どれだけ努力して作品を世に出してきたのか、わからないだろう」と。 きっとエジソンは同じ考えだと思う。 現在、活躍している著名人を指して「あの人は発達障害に違いない」と言う人がいる。 診断を受けていたり、公表していたりする人は良いと思うが、そうではない人に関しては良くないと思う。 それは、自分が障害者であることを認めたくないのではなく、人からは決して見えない陰の努力についても「発達障害」だからというように、才能に近い言葉で、特別扱いされることに対して。 著名な人たち、活躍している人た

「痛みが分かる=良い支援者」とは言えない

子どもの頃、身体が弱くて、よく入院していた人が、将来、お医者さんを志すことがある。 そういったお医者さんは、"痛み"がわかるので、患者さんの立場になって診療することができる評判の先生になったりする。 友人にも医師として活躍している人がいるので、その仕事の過酷さは何となくわかる。 だから、もちろん医師は健康な身体が必要なのだが、それでも「痛みが分かる」医師は患者の立場から言えば、ありがたいものです。 でも、だからといって「痛みの分かる医師=素晴らしい医師」とは限りません。 何故なら、医師は治すことが仕事だから。 いくら痛みが分かっても、治すことができない医師は、素晴らしい人物かもしれませんが、素晴らしい医師とは言えませんよね。 当たり前のことなのですが、やっぱり医師は"うで"が必要です。 時折、当事者の人に対して、「あなたは痛みがわかるから、支援する側になったらいいよ」なんていう無責任なアドバイスをする支援者がいます。 もちろん、冒頭の医師のように痛みがわかること、つまり共感できることは良い支援者になる条件の1つだと言えます。 でも、やっぱり支援者も"うで"が必要です。 税金だろうが、依頼主の財布だろうが、お金を受け取る以上、成果を出さなければなりません。 (成果を出さなくても、就職試験に合格しただけでお金を貰い続けられるような仕事なんてあるのでしょうか?_?) 支援者は成果を出せるだけのスキルが必要ですし、そのスキルを獲得し、向上させていくためにも、日々、努力を続けているのです。 だから、共感だけの人は、あくまでボランティアです。 施設で働いてた頃、実習生を受け入れたり、新人の研修を担当したりしていました。 そんなとき、「私のきょうだいが障害を持っていて」と言う人は少なくありませんでした。 確かに、家族や親せきに障害を持った人がいて、その人と一緒に時間を過ごしてきたことは、ある意味、支援者としての強みになります。 しかし、やっぱりそれだけでは一人前の支援者にはなれないのです。 家族として求められるものと、支援者として、職業人として求められるものは違うのです。 中には、家族としての経験や想いが邪魔をする場合もあって、専門的な知識、技能ではなく、感情によって支援をして

仕事とボランティアの違い

北海道の学校では、2学期がとっくに始まっていますし、お盆を過ぎたあたりから涼しいというか、寒いくらいになっていたので、「まだ今日が8月か」というような感じです。 8月の頭の頃が、ずっと前のような気がします。 8月は夏休みということもあり、たくさんのイベントが催されていました。 支援に携わっている学生さんも、ボランティアとしてイベントに参加しており、真っ黒に日焼けした肌を見せながら、どんな活動をしたのか、どんなことを学んだのかを話してくれています。 ボランティアをしている方も、多くのものを得ているのだと思います。 ボランティア活動なのに、まるで仕事のように尽力されている人を見かけると、私自身も多くの刺激を貰います。 当日に向けて入念な準備を行い、そして当日を迎える。 当日は、その人が持っているスキルを余すことなく提供する。 それは何の見返りも求めずに。 そして、終了後には次に向けて省み、淡々とレベルアップを目指していく。 一方で、仕事なのにボランティアのような姿勢の人もいます。 ちゃんと責任感を持って臨んでいるのか。 ちゃんと陰で努力し、職業人としてのスキルアップをしているのか、と。 立場にお金が出ているのではなく、労働に対してお金が出ていることが分かっていない人もいるような気がしてしまいますね。 で、なんで今日はこんなことを書いているかと言ったら、自閉症の人の中にも、仕事に関する見えない部分が抜けている人がいるからです。 就職試験に受かれば、職業人になることができる。 自分が希望する仕事が、具体的にどんな労働を行うかは知っている。 でも、その働いている人たちが見えないところで努力し、スキルアップを行っていること。 仕事に対してベストな状態で臨めるように、日々の生活や週末の過ごし方などを工夫していることに気が付かない場合があります。 また、仕事には理不尽なこともあり、苦労や我慢が必要なこと。 反対に、仕事で得るのは、賃金だけではなく、喜びや成長、充足感などがあることも。 こういったことも仕事に教えるときには、必要な情報じゃないかなと思うことがあります。 仕事って、ただ労働して、それに見合う賃金を受け取るといった単純な話ではありませんよね。 仕事を立体的ではなく、平面に捉えている人が多いような印象を受ける人がいたの

構造化して「何を教えるのか?」

小学生の子に算数の勉強を教えたと思えば、成人の人と進路を考える。 大学生と一緒に社会性の勉強を学んだと思えば、高校生と就職に向けたトレーニングを行う。 ADHDやLDを併せ持つ人もいれば、精神疾患を持っている人もいる。 他人から仕事の内容を尋ねられると、説明は難しいが、やっている私はおもしろい。 働けば、働くほど、お金が入り、働けば、働くほど、幅広い内容の仕事ができるので、支援者としてのレベルアップにもなる。 幅広い支援を行う→お金が貰える→支援者としてレベルアップ→依頼が増える→幅広い支援を行う・・・という構想段階の理想的なサイクルに近づきつつある。 構想を考えていた10年間は、バリバリ構造化して療育する姿を思い描いていた。 20代の頃は、寝ても覚めてもTEACCHだった。 でも、ふっと最近思ったのが、「この頃、構造化してないな」ということ。 ちなみにここで言う構造化は、THE自閉症支援みたいなスケジュールとか、COMカードとかのこと。 いつでも構造化グッズが作れるように、ラミネートも、マジックテープも、色紙も、変わらず用意してある。 でも、久しく触っていない。 何故、この頃、THE自閉症支援みたいなことをしなくなったのかと言えば、依頼してくる方の多くが知的障害を持っていないからかもしれない。 これは「知的障害のない自閉症の人たちには、構造化が必要ない」と言っているわけではない。 私は、知的障害のない自閉症の人たちに対しても構造化している。 しかし、その構造化の形態が"より自然な形"ということ。 構造化の辿り着く先は、「自然な形でコンパクトなもの」なのだから、理想的な形態で支援ができているのだろう。 今にして思えば、本場の地で行われている構造化が「テキトー」に見えた理由は良く分かる。 スケジュールの表示レベルや数はバラバラだったし、紙の切れ端にちょちょっと書いて「はい、ワークシステム」なんていうのもあった。 別に、提示の仕方がどうだとか、レベルがどうだとか、きれいに作ってあるとか、どーでも良い。 大事なことは「わかること」であり、もっと言えば、構造化ではなく、「何を学ぶか」ということ。 それはTEACCHのスタッフが再三強調していたこと。 その意味が今なら良く分かる。 独立してから思うのが

"今"に続くストーリーを描けているか

現在、表れている言動だけを見て支援しているうちは、まだまだ二流でしょうね。 目の前にいる人の言動は、"今"という一瞬を切り取っただけにすぎません。 その一瞬が独立している存在するわけではないです。 つまり、今、見えている姿、言動は、過去とつながっている。 だから、"今"だけを見て支援するのは、その人をしっかり理解してからの支援とは言えません。 対処はできるかもしれませんが、その人の根本に響かせるような支援はできないでしょう。 突然、問題行動が出てきたように感じることもあります。 でも、その問題行動には必ずストーリーがあります。 「こんな辛いことがあった」というエピソードも、 「あんな勘違いをして理解してしまった」というエピソードも、 「多くの人が当たり前のように気が付くことに気づけなかった」というエピソードも、いろいろなエピソードが現在へと続くストーリーです。 だから、問題行動がパッと突然現れることはないのです。 私は、目の前の人を片方の目で見ながら、もう片方の目で過去を見るように心掛けています。 決して"今"だけを見て判断したり、支援を始めたりしないようにしています。 それでないと、見誤ってしまうからです。 行動は、反応しているだけかもしれません。 言葉は、別の意味を含んでいるかもしれません。 この一瞬の言動が、その人の過去とつながっているのかを確かめる必要があります。 過去と続いていることがわかったとき、見立てが正しいことが確認でき、支援へと展開することができます。 過去は現在につながっています。 そして現在は未来へとつながっていきます。 過去からのストーリーが見えたあと、現在から未来のストーリーが見えてきます。 その見えてきた未来のストーリーをより面白いものにするために、今、できることはより良い脚本を書くことです。

センスが問われる仕事

この業界、なかなか人が育たないのは、センスのウエイトが大きいからだと思っている。 センスをもう少し自分なりに噛み砕くと、嗅覚のような動物的感覚に近い。 日進月歩である自閉症研究から次々と知識を得ようとも、たくさんある療法を習得しようとも、目の前の人に対して最適な支援に作り変えていく必要がある。 脳の凸凹は一人ひとり異なるし、成長によって様相も日々、変わっていく。 いくら細かく、何時間もかけてアセスメントしたとしても、それはそのときを切り取ったに過ぎない。 だから、支援者には紙面以上のことを嗅ぎ分けるセンスが必要になってくる。 自閉症の人たちが悩んだり、困ったりしていることの背景には、誤学習&未学習が隠れていることが圧倒的に多い。 独特な視点で世の中を切り取っていることがあったり、「当然、身に付けているはず」と思われるようなところが、スポッと抜け落ちていることがある。 こういった誤学習&未学習は、本人自身も気が付かず、また「当然」と思っていることが多いので、言動から探偵のように読み解いたり、スピリチュアルカウンセラーのように過去、現在、未来からイメージを広げたりしなくてはならない。 肩書や経歴、トレーニングや勉強をたくさんしている人が、素晴らしい支援ができるとは限らない。 いくら優れた知識と技能を持とうとも、目の前の人から読み取れなければ適切な支援は行えないし、その人に合わせて作り変えることができなければ、ただの乱暴者になる。 どんな療法も、どんな知識も、「多くの自閉症の人に有効」というだけであって、目の前の人に合うかどうかはわからない。 だから、技能や知識を活かすためには、センスが重要になってくる。 全国的に見ても、ちらほら若手が出てきているようだが、相変わらずメインの顔ぶれは変わらない。 やっぱり知識や技能は教えられても、センスは教えられないからだろう。 まあ、有名な支援者の中にも実践は「からっきしダメ」という人も少なくないが。 時々、自閉症支援はクリエイティブな仕事ではないか、と感じることがある。 最適な支援を様々な知識、技能、療法から結集させて創造する。 そして、その人の今と未来をより良いものへと創造していく。 こういった創造することが支援には求められるから。 これも所謂、1つのセンス。 私は直感を大事にす

放課後、校門の前にズラッと並ぶ児童デイの車

もうすっかり夏は去ってしまいましたね。 朝晩は寒いくらいですし、日中も25度を超えなくなりました。 そして、先週から北海道の子ども達は2学期に突入しています。 学校が始まれば、また放課後、校門の前に児童デイサービスの車がズラッと並びます。 10年前、私が学生だった頃は、4年間、ほぼ毎日、どこかしらのお宅に訪問し、子ども達の放課後の余暇支援を行ってきました。 「たった1時間でも、手を貸してもらえると、本当に助かります」なんていう心の叫びに近いような言葉を聞いてきた私ですので、「今の親御さんは恵まれているな」と思う反面、多くの学齢期の子ども達が車に乗り込む姿に違和感を持たずにはいれません。 私の抱く違和感には、2つの理由があります。 1つ目は、親御さんが子どもと接する時間が減ること、見える場面が限られること。 ある学校の先生が、「個別支援ミーティングをやっても、学校で取り組んでほしい目標も、将来の希望も"わからない"と答える親御さんが増えた」と言って嘆いていました。 これでは個別支援ミーティングにならないと。 もちろん、学校側にも改善すべき点はあると思います。 でも、朝、学校に登校させたら、夕方まで帰ってこなくて、あとはご飯食べて、寝るくらいの毎日。 目標も、将来も考えられないのは、無理のないことなのかもしれません。 そして、もう1つは、「親御さんは、自分のお子さんが、その児童デイでどうやって過ごしているかを知っているのだろうか?」ということです。 私もいろいろなところに見学に行きました・・・以下自粛。 子ども時代の頭が柔らかい時期には、多くの刺激を与え、学ぶこと、成長することを重視してほしいと思います。 子ども時代に、時間つぶしをする時間はありません。 ですから、どういった内容か、スタッフはどういったスキル、経験を持った人かをきちんと確かめる必要があると思います。 「うちの児童デイ、構造化してるんです♪」なんて喜んでいる場合ではありません。 大事なことは、構造化ではなく、何を学んでいるかです。 この地域特有の洗脳から脱する必要があります。 税金が投入されいますので、どこも個別支援計画のようなものを作成し、見せられると思いますが、文章では何とでも書けるのですよ。 文言に騙されてはいけません。 表面

選ぶ時代から選ばれる時代へ

いや~、親御さんに面と向かって 「一般就労できたら、学校の良いアピールになるんです」 「できれば、公務員にしてください。公務員の方が印象が良いんです」 と言っちゃう無神経さに驚いてしまいました。 学校のアピールのために、12年間頑張ってきたわけではありませんし、就職するのではありませんよね。 学校が定員割れしようと、その子と親御さんには関係がありません。 生徒さんと、親御さんに対する失礼だと思う気持ちを通り越して、ただただ呆れてしまいます。 民間、自営業で悪かったですね。 こういった発言が出る背景には、個人の資質の他にも、理由が考えられます。 それは「選ばれる時代」になったということです。 来年の3月に卒業する今の高校3年生の代から、就労も、入所も、通所も、かなり厳しくなります。 現在、各学校の進路指導の先生たちが頭を抱えている状態です。 これは今までのように希望すれば、みんなどこかしら入れるという時代は終わったことを意味します。 ただでさえ、空きのない枠なので、競争は熾烈になってくる。 実際、数年前まで、知的障害の重い人、家庭で生活することが困難な人を積極的に受け入れてきた施設が、より知的障害が軽く、手のかからない人を選んで入れるようになっています。 施設によっては、がらっと雰囲気が変わったところも少なくありません。 施設側も、人材面、資源面で厳しい状況なので、より支援の必要がなく、リスクが少ない人を選ぶのは自然な流れですし、これからますますそうなるでしょう。 ですから、これからは「選ばれる人間」になる必要があります。 と言いますが、やっと特別支援の世界も、社会と同じになったのです。 学校だって入試がありますし、就職だって試験があります。 希望する人、全員がOKという場所でなければ、競争があるのは当然なことです。 今、ちょうどテレビでやっているように(私は決してみませんが)、「障害がある人すべてを受け入れよう」というのは作られた世界です。 「競争が嫌だ」「弱肉強食の世界はよくない」と言う人も、付き合う人は選んでいるはずです。 高校3年生になって慌てて取り組みを始めても遅すぎます。 小学部のときからのツケを一気に払うには、代償が大きすぎます。 ですから、「放課後、学校に迎えに行ってくれて、時間を過ごしたあと、

強みを活かせる仕事に就き、一人前を目指す

よく就労支援では、「強みを活かせる仕事を目指そう」などと言う。 しかし、実際の様子を見ていると、強みと得意、または好きなことが混同しているのではないか、という疑問をもってしまうことが少なくない。 例えば、パソコンいじりが好きで、操作に詳しい人がいるとする。 この人にとってパソコンは好きなことであり、知識が豊富ならそれは得意なことと言える。 じゃあ、「この人の強みは?」といったら、それは表面的なことではなく、資質の部分のことを指す。 パソコンに関してなら、何時間でも集中できるのなら、この集中力が強みであり、難しい場面に出くわしても、自分でとことん調べ、答えを探求するのなら、この粘りが強みになる。 また、莫大な量の中から、ほとんどの人が気づかないような間違いをすぐに探すことができるのなら、この間違いに気が付くことが強みとなる。 学校や家庭では、強みだけではなく、得意や好きなことが多く用いられている。 得意なことは、自尊心を高め、好きなことは集中力を高める。 でも、これは自分だけの視点。 仕事に関しては、自分からの視点だけではなく、他者の視点が大事になる。 つまり、いくら自分が「得意なこと」「好きなこと」と思っていても、雇い主やお客さんが満足できる基準に達していないものは、仕事としてなりたたないということ。 学校や家庭の中では、自己評価で良かったが、仕事に関しては相対評価になることは押さえておく必要がある。 他人に負けないくらいのレベルの得意なこと、好きなことなら言うことはない。 でも、実際にこんなレベルの人は、ほとんどいない。 ほとんどいないから、こういったレベルの高い人たちのことを「天才」と呼ぶ。 天才ではない大多数の人は、資質の中にある強みを活かせることに注目しなければならない。 資質の中にある強みを活かせる仕事なら、仕事をしながら成長できるから。 その仕事の天才にはなれないかもしれないが、一流になれる可能性はあるし、一人前にはなれるだろう。 「パソコンが得意なら、コンピュータ関係の仕事が良いね」 「絵が得意だから、イラストレーターなんてどう?」 なんていうアドバイスに耳を傾けてはいけません。 パソコンが得意な人も、絵が得意な人も、世の中にはごまんといる。 その中で、そういったことを仕事にできるのは限られた人であ

子ども時代の自分を教育、支援している人たち

子どもと関わる仕事をしている人の中には、子どもを支援、教育しているのではなく、"子どもの頃の自分"を支援、教育している人がいるように感じる。 つまり、どういうことなのかというと、自分が子どもだったときにやってほしかったことを目の前にいる子どもに投影し、実践している。 子どもの頃から引きずり続けている心の傷や穴を埋めようとしているかのごとく。 こういった人たちは、よく言うのは「自分はこの子の気持ちがわかるんです」ということ。 こんなセリフが出たら、要注意だ。 冷静に考えれば、子どもというか、他人の気持ちを100%理解することはできないし、そんなことを大人に対して言ったら、相手から「何が分かるんだ」と言って顰蹙をかってしまう。 そもそも、例え子どもに対してだったとしても、一人の別の人間として捉えられないような人に支援も、教育もできないだろう。 自分と他人の境界線が曖昧な人は、その子の評価を見誤る。 子どもの姿に自己を投影している人は、支援や教育に対する信念が非常に固い。 固いというか、融通が利かない。 まあ、融通が利かないというか、他の視点を受け入れられないのだろう。 何故なら、他の視点を受け入れることは、自分の支援、教育観を否定されることであり、それは子どものときに自分が望んでいたことを否定することにつながるから。 もっと言えば、「こうしてもらいたかった」と思っていた子どもの頃の自分が否定されるように感じる。 福祉でも、教育でも、医療でも、子どもの関わる仕事をしている人の中に、おやっと思う人と出会うことがある。 そういった人たちと一緒に仕事をしてみると、引っかかったままの子どもの頃のエピソードを話してくれることがある。 無意識のうちに、子どもと関わる仕事を選び、そして自分自身を癒そうとしている。 ある意味、子どもと関わる仕事は、生活するお金を得るためであると同時に、生き続けるためには必要な営みなのかもしれない。 子どもの成長を促すには、その子どもに合った支援方法、教育方法が必要である。 別の言い方をすれば、自分が受けてきた教育やしつけ、価値観から離れられる必要がある。 その子の資質を開花させるためには、己の教育観、価値観が邪魔になる場合もある。 子どもに自分の教育観、価値観を押し付けてしまえば、成長

腹を据えて、地に足つけて

やっぱり支援者には"覚悟"が必要だと思う。 一度、引き受けたのなら、最後まで付き合い続けるべきである。 目の前でどんなことが起ころうとも。 非常に厳しいケースであったとしても。 自分には手に負えなくなった時点での丸投げは、なんとも悲しい。 福祉の世界で働いていたから、丸投げされた方の気持ちもわかる。 本人の手の中にあった選択なら良いが、選択肢を与えられぬままの丸投げ。 厳しい状況の依頼も少なくない。 どこから手をつけてよいのか、と思ってしまうこともある。 でも、私は依頼を受けたからには、結果を残すまで投げ出さない覚悟で支援に携わる。 何故なら、こういった方たちの多くは、別の支援機関、医療、学校などで、丸投げされてきた人たちだから。 丸投げした側の支援者と会うと、 「よく引き受けたね」 「改善するのは難しいでしょ」 「最後は福祉に行くしかない」 などと、言われることもある。 そのたびに、私の中の覚悟はより強いものに磨かれていく。 丸投げしたい人たちは、どんどん丸投げすれば良いと思っている。 そうされたら、私が手を伸ばせば良い。 どんな状態、状況であったとしても、その人の中にある自己治癒力、成長力はなくならないと思う。 だから、やり方を変えれば、きっとその人は変わっていくと確信している。 支援者と呼ばれる人たちよ、引き受けたからには覚悟を持とう。 腹を据えて、地に足つけて。 人の人生に関わっているという自覚を持って。 支援者は逃げられても、本人たちは自分の人生から逃げることはできないのだから 。

普通学級→特別支援学級は一方通行という現実も

普通学級に在籍できるなら、特別支援学級に転籍するよりも、在籍し続けた方が良いと思っている。 特別支援学級の良い面もあるけれど、どうしても教科学習の時間が減ってしまうマイナス面が大きいと個人的には思う。 「勉強ができなくても、手に職がつけれれば生きていける」という人もいるけれど、自立して生活している人たちは、生きていく上で必要な基礎学力は習得している。 以前にも書いたように、小学校4年生レベルの学力の習得が大きな境目となる。 とにかく基礎学力の習得は大切だし、そのためには学習の機会が多いほど良い。 私が学生の頃とは異なり、だいぶ特別支援学級でも教科学習をやってくれるところが増えた。 また一人ひとりに合わせて教え方や内容を変えて、丁寧な指導をしてくれる先生も多くなった。 でも、その一方で相変わらず、昔の養護学校みたいなところもあるし、教科学習を重要視していないところもある。 特別支援学級は、本来、普通学級で汲み取れない個別のニーズを拾い上げ、その子に合わせた教育がなされる場所である。 つまり普通学級に在籍するよりも、特別支援学級に在籍して学ぶ方が、より多くの学力と成長が期待できるという意味である。 だったら、特別支援学級で学び、学力の向上、心身の成長があった子どもが、普通学級に転籍する場合もあるはずである。 しかし、実際はどうだろうか? 普通学級から特別支援学級に転籍することはあっても、その逆はほとんどない。 一度、特別支援学級にいってしまえば、そのまま小学校、中学校と特別支援学級で過ごし、高校は高等養護学校、または定時制の高校、通信制の高校に進んでいく場合が多い。 別に高等養護学校、定時制、通信制の学校を低く見るわけではないが、4年生の大学や短大など、その他の道への選択肢が狭まってしまうのが勿体ないと思う。 ある程度、自分で物事がわかり、判断できるような年齢の子が、自分の進路を選ぶなら良いが、小学生くらいの子どものときに、親御さんや学校の勧めなど、本人以外の大人の選んだ結果が将来を決めてしまうというのはどうだろうか。 もし将来、その子が「大学で学びたい」「専門学校に行きたい」などと思ったときに、最低限の学力を身に付けていなければ、進学することはできないし、例え進学できたとしても、そこで学び続けることが難しくなる。 実際、何とか

「僕って褒めて伸びるタイプなんですよ」と言う人にツッコミを

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いつから多くのなったのだろうか。 「僕(私)って、褒められると伸びるタイプなんですよ」と、自分で言う人。 時々、私よりも年上の人が言ったりするもんだから、驚いてしまう。 いい歳になった大人が、自分から逃げ道を作るのは格好悪いね。 「褒められると伸びる」って言うのは、「成果が出ないのは、褒められていないからです=私ではなく、褒めない周りが悪いんです」と言い訳しているようなもの。 よく「褒めて伸ばす!」という言葉を見たり、聞いたりする。 でも、"褒めたから伸びた"という人は、ほとんどいないだろう。 褒めたから伸びたのではなく、褒められる成果が出るまで本人が努力し続けたからだし、周囲が成果が出なくてもストップを掛けず、成長し続けられる環境を用意できたからに違いない。 第一、褒められるには、褒められるような成果をあげなければならない。 褒められて伸びる人が褒められるのは、実際に褒められたあと、"伸びたことがある"人だけです。 いい大人になっても「私は褒められたら伸びるんです」と言う人は、まず先に褒めてもらいたい人の前で、褒められるような成果をあげる必要がある。 私は家族以外の他人から褒められたら、まず疑い、別の意図を解読しようとする。 それが同業者なら、なおのこと。 私の行動に対して感謝されることがあっても、褒めるっていうのはおかしいと思う。 きっと私をいい気にさせて、何かを企んでいるに違いない(笑) それに他人から褒められるっていうのは、その人から下に見られている証拠。 だから、仕事に関して褒められているうちは、まだまだ修行が足りない二流、三流だと思っている。 「褒められて自尊心が育つ」っていうのは、嘘だと思う。 だって、自分に達成感がないのに、褒められても意味ないでしょ。 自分でやってみて、成果が出たあとに、他人から褒められて"より"嬉しくなっているだけ。 結局、自尊心を育てるのは、他人からの美辞麗句ではなく、自分の身体を通して得られた成果にです。 一見、自閉症支援に関係ないように思われるかもしれないが、私が支援に携わっている中で憂慮していることとつながっている。 褒めれば、自尊心が育っていくと思っている支援者が、箸の上げ下げでも褒めちぎっている姿に。 そ

運動→勉強→運動

小学2年生の親御さんの依頼で、学習指導を始めました。 その子の診断名は、自閉症。 通常級に在籍しているものの、徐々に勉強の遅れが見られるようになり、個別指導で補助してほしいという依頼でした。 勉強している様子を見ると、指は常に動き、身体もフラフラ。 親御さんは勉強させたいし、本人も勉強したいと思ってはいるものの、身体の方が「動きたい」と言っている。 ですから、身体を動かす活動を勉強の合間に入れるようにしました。 プリント1枚やったら運動。 運動が終わったら、再びプリント。 これの繰り返し。 「今までプリント1枚を終わらせられたことがない」と驚く親御さんを尻目に、算数と国語のプリントを次々に積み上げていきました。 最初、親御さんに「運動を取り入れます」と言ったら、「えっ(勉強には関係ないのに、ますます集中できないんじゃない)」という予想通りのリアクションでしたが、彼女は予想に反する頑張りと集中を見せてくれました。 彼女の身体は動きたいという欲求を持っていました。 その欲求を運動することで満たすと、勉強への体制が整います。 身体の声を聞くことは大事ですね。 内なる声に耳を傾けず、「勉強やれ」と言っても、勉強はできません。 大事なことは学力をつけることです。 だから、学習スタイルはそれぞれ違っても問題はありません。 効率よく学力をつける方法が、彼女の場合は運動を合間に入れることだっただけのこと。 まだまだ小学2年生ですが、将来のリスクを減らすために小学校4年生レベルの読み書きの学力をつけるべく、一緒に頑張っていきます!

内省を続けても変化が見られないときは

内省とは、自分の行動や考えを深く顧みること。 そういう意味では、カウンセリングを受けるのも、当事者会に参加するのも、居場所のような場所で過ごしたりするのも、ブログを書いたりするのも、内省という側面が強いといえる。 内省を通して、自分自身が癒され、次のステップへと進んでいける人も多くいると思います。 自己分析の結果、自分の悩みの根本がわかったり、自分の強み、弱みを知ることで活かし方が見えてきたりする。 でも、内省では次のステップへと進めない人もいるのは確か。 いくら自己分析を行っても、具体的にどうしたら良いかが表れるわけではない。 また、悩みの根本が本人のスキル不足なら自己分析をしても、現実的な改善はみられない。 自己分析は、自己肯定感を高めてはくれない。 何年も、何年も、自己分析ばかりしている人もいる。 そういう人たちは、自己分析という方法が合っていない、または相性が良くないのかもしれない。 もともと自閉症の人たちは、学びたい人たちだと思うので、具体的なアドバイスを貰えたり、一緒に動いてくれたりするような支援の方が相性が良いといえる。 長年、自己分析の支援を受け続けているが、まったく変化がなく、むしろ悪くなっている人からの相談を受け、このようなことを記してみました。

来年からの「大学における合理的配慮義務化」を前に

来年度から義務化になる「大学における合理的配慮」 今、全国の大学は、その準備に追われています。 そういった中で、先行事例としてどのような配慮を行ったのかについての冊子が配られています。 その冊子を私も先日、見せてもらいました。 その発達障害の学生に関する事例は、正直驚くものばかり・・・。 合理的配慮とは名ばかりで、「予算をつけろ」「支援者をつけろ」というような要求だったり、講義や試験、課題の方法、期限、内容を変えろという要求だったり。 これだと、合理性のないただの特別扱いの要求です。 現在、まだまだ準備段階で、現場の大学も試行錯誤の最中ですので、特に障害に関する学部やノウハウのない大学は、「合理的配慮」という名で強く要求されると、断ることができず、そのまま、要求をのんでしまっているそうです。 要求する側も、高校の先生、支援機関の人、保護者が合格が決まったあと、大学の方に何度もやってきては要望を出していくそうです。 まず大事なのは、合理性があることだと思います。 それは、本人だけではなく、大学側にとっても。 今までの事例の多くは、本人にとっては配慮があっても、他の学生や大学には配慮が抜けている場合があります。 「障害を持っているから」「かわいそうだから」というだけでは、大学側の負担をただ多くしているだけです。 実際問題として、すでに「できることなら発達障害の学生は入れたくない」という声もあちこちの大学から上がっているという話があります。 そして、もう1つ大事なことは、その配慮をすることで、本人がより良く学べるか、他の学生と同様な学ぶ機会が得られるかということです。 字を書くことが苦手な学生、文章の構成を考えることが苦手な学生、課題や試験を筆記ではなく、口頭試験にすることは、長い目で見て本人のプラスになるでしょうか。 発達障害の学生だけ課題の提出期限を伸ばしたり、試験時間を伸ばしたりすることは、どうでしょうか。 人とコミュニケーションを取るのが苦手だから、グループ活動は免除、すべてメールのみでやりとりすることの許可を与えるのは、どうでしょうか。 もしかしたら、こういった配慮があることで、単位が取れたり、卒業ができたりする学生も増えるかもしれません。 でも、就職したら、このような配慮が受け入れられることは、ほとんどないでしょう

お金の使い方だけではなく、仕組みも

先日、来春に就職を控える生徒さんに「お金」についてのセッションを行いました。 テーマは「お金はどこから来て、どこに行くのか」です。 具体的には、販売の仕組みと税金の仕組みです。 その生徒さんは、軽度の知的障害を持っている自閉症の人です。 一人で出かけたり、買い物したりすることはできますし、基礎的な読み書き計算は行えます。 親御さんがどんな仕事をしているかはわかります。 でも、その親御さんのお金は、どうして得られるのかがわかりませんでした。 すべてのお金は、銀行が持っていると考えていたのです。 また、お店でお金を払うと、そのお金がどうなるのかわかりませんでした。 お金の計算や支払いの仕方は理解しています。 しかし、その1つ1つの行動がどうつながっていくのかがわかりませんでした。 ですから、お店の品物は、その品物を生産する人がいること。 そして、その品物をお店の人に販売してもらうことでお金を得ること。 でも、売ったお金はすべて品物を生産した人が得るのではなく、お店で販売した人とお金をわけることなどを勉強しました。 また、直接、現金のやり取りを行う販売という方法だけではなく、みんなのお金を少しずつ集め(税金)、サービスを行ってもらう仕組みがあることも勉強しました。 用意してきたプリントや具体例を用いながら、1つずつ丁寧に勉強していきました。 1時間のセッションでしたが、それぞれの仕組みが分かったようで、「社会の中に、このような仕組みがあることは知りませんでした」と言っていました。 お金の仕組みを通して、社会の仕組み、成り立ちを理解していってもらいたいと思っています。 通常級では、お金の仕組み、社会の仕組みを小学校の内から学びますが、特別支援学校では、どちらかというとお金の使い方がメインの学びになっているように感じます。 物事の結びつきを想像し、理解することが苦手な子ども達も多くいますので、普通学校の子どもたち以上にしっかり取り上げ、指導してもらいたいと思います。 お金の仕組み、世の中の仕組みがわからなければ、働いてお金を得ること、お金を使い消費することは、ただの動作で止まってしまいます。 お金は世の中をぐるぐる回っていること。 自分が働いたお金、消費したお金はすべて自分のためだけにあるのではなく、それによって世の中が