2020年8月31日月曜日

【No.1096】代替という視点

「自閉症=視覚支援」というのは、「自閉症の人達は視覚優位だから」という話から来ています。
海外の当事者の人が「私達はビジュアルラーナー(視覚的に学ぶ人)」と著書の中で述べたことも影響していたでしょうし、自閉症支援の歴史を辿れば、初期は言葉の遅れ、知的障害がある子が中心で、その子達に言葉を主とした検査では本当の能力が発揮できない、だから、音声言語を用いない検査を、彼らには言葉ではなく、絵や文字で伝えよう、という具合に、自然と「自閉症=視覚支援」になっていったといえます。
私も学生時代から施設職員時代にかけて、一貫してそのように教わりました。


もう10年以上前になりますが、ある親御さんからこんな相談を受けました。
「うちの子、検査したら、視覚優位じゃなくて、聴覚優位って出たんだけど、このまま視覚支援をしたほうが良いの?」と。
その子は、何年も前に「自閉症」という診断を受けていました。
ですから、検査者は困ったそうです。
「自閉症なのに、視覚優位って結果が出ない…」
親御さんは、その辺りを検査者に尋ねたのですが、検査者はごにょごにょ。
他の支援者に尋ねたら、「それは検査者のやり方が悪かっただけ」「もしかしたら、自閉症じゃないんじゃない(笑)」などと言われたとのことでした。
それで私のところに相談があったわけです。


基本的に私は、形式的な検査自体、ほとんど信用していませんが(笑)、実際にお子さんを見たところ、やっぱり聴覚からの情報処理が優れていました。
ですから、視覚支援にこだわることなく、本人がわかりやすくて、学びやすい方法である聴覚からの情報提供、いわば、普通の子に教えるように言葉を中心にしていった方が良いとアドバイスしました。
その後、あまり得意ではない視覚支援、スケジュールとか、視覚的な教示とか、その子にとってはメンドクサイ手数が減り、勉強がはかどっていったそうです。
まあ、今から考えれば、宗教に近い、いや、伝説のような「自閉症=視覚優位・支援」という時代があったわけです。


最初に視覚支援云々と言われたのが、1970年代です。
そこから半世紀が経ちました。
未だに「自閉症=視覚優位・支援」と言っていたら、笑われてしまいます。
2020年を生きる私達は、視覚優位に見えていたのは、聴覚の発達の遅れの裏返しであり、その聴覚の遅れは三半規管の未発達と繋がっていることもわかっています。
視覚優位も、神経発達の表れ方のバリエーションの一つ。


アセスメントとは、固定化された自閉症像に子どもを合わせるのではなく、神経発達の表れ方を確認することを言います。
その表れ方は、ぴょんと突然変異的に現れるのではなく、受精した瞬間からの発達の流れの中で生じるのです。
ですから、どことどこが繋がっているか、どういった流れで生じているかを掴むことが重要になります。
視覚を優位に働かせた裏側には、周囲の環境の中からの情報を得るために必要なもう一つの感覚である聴覚が働かない、という理由があるように。
耳から情報を得られないからこそ、視覚に頼らざるを得ない。


子ども達の言動を見ていますと、"だましだまし"が見えてきます。
ハイハイを飛ばした子が、頭の中で「右・左・右・左」と言って走っている。
前庭覚が育っていない子が、目に頼って、不安定な道を歩いている。
嗅覚が育っていな子が、口周辺の感覚を過敏にさせ、危険の察知をしようとしている。
このように別の感覚を鋭くさせたり、無意識でやるところを意識させてやったりして、だましだまし行動している姿がみられます。


子ども達の"だましだまし"には、動物としての原形と美しさが表れていると思います。
ある機能が働かないのなら、別の機能で補おう。
そこに神経発達のたくましさと意思を、そして生き抜くための代替手段を編み出す生命力を感じます。


子どもたち自身で、動く機能を使って、どうにか活動しよう、課題をクリアしようとする姿。
その姿に気が付くことが、周囲の大人、特に発達に関わる者に求められます。
昔は、「過敏性は自閉症の特性」「ぎこちない動きは自閉症だから」と言われていました。
でも、今は違います。
ある感覚を鋭敏にする裏には、本来機能しているはずのものが機能できていない状態があるのです。
もし彼らがぎこちない動きを選択しなければ、家から一歩も出ることができないかもしれません、机に座って学ぶことを始められないかもしれません。
彼らは、どうにか未発達の動きを別の動きでカバーしながら、学校に行き、学ぼうとしているのです、社会の中で生きようとしているのです。
その意味を感じとれなければ、発達援助に携わる資格はないのです。


子ども達の感覚の偏り、ぎこちない動きには、必ずトレードオフの関係になっている感覚・機能・動きがあるはずです。
そしてそこが育て直しの必要な箇所。
子ども達の姿、言動を見るとき、代替という視点と、手持ちの札で乗り越えようとする力強さを感じてほしいと思います。
これもまたアセスメントの幅を広げるコツの一つです。




2020年8月28日金曜日

【No.1095】生き抜くための自立、社会の中で生きるための自立

当事者会や親の会に、居場所や情報を求めて来ている人たちが大部分だといえます。
しかし中には、役割を求めて来ている人たちもいるように感じます。
できるかできないかは別として、代表や広報、会計などを引き受けた人というのは、なんだか活き活きとしている。
そんな姿を見て、これも代償行動であり、自己治療なんだと思います。


今はほとんど依頼はありませんが、ひきこもりの人達の相談を受けていた時期があります。
家庭に伺うと、みなさん、必ずこう言います。
「衣食住、すべて息子(娘)のためにやってあげている。本人の生活は満たされているはずなのに…」
この認識が大きな間違いと言うか、本人とのズレなんですね。


物理的な生活を満たすことは、親御さんにとって大事な役割でもあります。
でも、それは子ども時代という期間限定の話。
そこだけ満たされていたら「私、満足」というのは、幼い子であって、幼稚園や保育園に入る頃には、頼まれたことを行う、自分以外の人のために何かを行う、お母さんの真似をして家のことをやってみる、といった行動を通して内面的な満足を得ようとするものです。
そういった体験の積み重ねが、家族の中の自分、幼稚園の中での自分、学校の中、地域の中、そして社会の中の自分という実感を育てていきます。
子ども時代のお手伝いは、社会に出る準備なんですね。


ひきこもりの人とお話をすると、発達の偏りを持っていると感じることも多くあります。
でも、そこが根っこではありません。
彼らからひしひしと伝わってくるのは、「生きている実感がない」という訴えです。
「確かに親から援助を受け、不自由なく生活できているけれども、生きづらい」
その"生きづらい"という彼らの言葉に、どうしても発達障害という言葉をくっつけたくなる。
しかし、彼らは発達障害である以前に、ヒトです。
それも社会的な動物としてのヒト。
親御さんの中には、「親意外に話す人がいないのが良くないのかも」「友達がいないのが…」などと言われる人もいますが、それもまた根っこではありません。
親御さんは知らなくても、彼らにはSNSの世界でつながっている人たちがいるからです。


生きている実感の根っこは、前庭覚であり、固有受容覚。
つまり、重力との付き合い方ができることが、生きている実感の始まりになるのです。
その一方で、社会的な役割という部分も、生きている実感に大きな影響を与えます。
長年、ひきこもりをしている人で、このどちらにも課題がある人がいました。
ですから、まずは役割の部分で提案しました。
「今できる動き、身体のパワーで、家のことをやってみましょう」
内容は子どものお手伝いみたいなものではありましたが、毎日、続けていく中で、少しずつ変わっていきました。
そんな彼がある日私に、「親も年をとってきたから、自分が頑張らないといけない」と言ったのです。
彼の言葉に、生きている実感を得た喜びを私は感じました。


こういった仕事をしていますと、神経の発達に注目が集まっている昨今ですと、あまりこういった内面の発達について訊かれることがありません。
もちろん、すべてのベースである身体、神経の発達があっての愛着であり、内面の発達ではありますが、発達相談では神経発達のアセスメントと同じくらい、愛着、内面の発達についても私は注目しています。
どんな簡単なことであっても、大人がやった方が何百倍も早いことであっても、お手伝いをしている、役割がある、ということは将来の自立にとって重要だといえるのです。


神経発達、身体の育ちは、動物としてのヒトの自立へとつながります。
一方でヒトは、社会的な動物でもありますので、社会生活を営むという意味での自立もあります。
生き抜くための自立と社会の中で生きるための自立。
その両輪がグルグル回るようになって、自分の人生を「ああ、今日も私は生きている」と感じながら進むことができる。
物理的な生活が満たされても満足感を得られないのは、動物の中において私達ホモサピエンスだけだといえるでしょう。
いわゆる社会性とは、神経発達を通って、家庭でのお手伝いに芽を出すのです。




2020年8月27日木曜日

【No.1094】自らを助ける会

この前、ある人と話をしていて、どうして全国どこでも親の会や当事者会があるのだろう、という話題になりました。
まあ、一言で言えば、標準治療が治せないから(笑)
治せたら、そこで問題が解決したら、わざわざ自分たちで集まる必要はないでしょ。
それこそ、自助会なんて言われるくらいですから、いろんな会は「自分を救えるものは、自分しかいない」という決意表明のようなものです。


時々、親の会や当事者会の代表やアドバイザーに、専門家、支援者の名前があることがあります。
これは、どういうことだろうか、といつも疑問に思うのです。
本業である本人の課題を解決するがままならないから、当事者の人達は当事者の会を起ち上げる。
でも、当事者同士だとトラブルが起きる、その解決が自分たちでは難しいことがある。
だから、地域の専門家、支援者をメンバーに入れる。
優しく言っても意味不明です。
100歩譲って専門家が入っているのなら、当事者会から卒業していく人が出なければなりません。


当事者会、親の会が居場所であり、共感し合える場所として機能しているのが本来の姿なのかもしれません。
しかし、それに対しても、私は悲しみを感じます。
同じ悩みを持った同士の集合体だからです。
悲しみの共感は、次の一歩、より良い未来への変化にはつながりません。
人は頑張ったこと、達成感のあることなどのポジティブな共感に対して、自らの原動力へと変え、変わるきっかにすることができるのです。
以前、いくつかの会のアドバイザーに、というお話をもらったことがありますが、陰の雰囲気が漂っていたので、いずれも断った経緯があります。


結局のところ、自分を助けるものは、自分しかいないのだと思います。
たとえ同じ診断名だったとしても、その原因は一人ひとり異なっています。
ですから、本当の意味での共感は得られないのです。
共感という名の幻想にすがっているのです。
じゃあ、何故、そういった幻想にすがるかと言えば、専門家、支援者が役に立たないから。
今なら1歳、2歳で診断名をつけるのに、一向に本人たちの課題解決、幸せ、将来の選択肢の広がりへと繋がっていきません。
それは入り口と出口が決まっているため。


日本の制度では、医療が入り口になっています。
そして診断名が付くのが、幼児期だろうが、就学後だろうが、成人した後だろうが、出口は支援を受けながらの自立(?)です。
つまり、支援云々は出口までの道のりで見える景色の違いみたいなもので、制度上は自分で働き、自分で生活を維持する、ということは想定されていないのです。
その悪しき根源が、『治らない』という言葉。


理由は問わない診断をしておきながら、なぜか、みんながみんな、「治らない」ということになってしまう。
近頃、私は「自閉症」という存在すら幻想なのではないか、と思うのです。
目の前にいる人は、一人の人間である。
違いがあるとすれば、発達のパターンとその表れ方ではないか。
脳の欠損自体を障害と言うのなら、そこは治らないのかもしれません。
でも、発達パターンの違い、表現の違いだとしたら、それは治る、治らないとは別次元の話になります。


今現れている症状、課題には、必ず背景、理由があります。
突然、ポッと現れるものではないのです。
しかし現在の「自閉症」「知的障害」「ADHD」などの言葉には、この雰囲気が漂っています。
ポッと現れたものだから仕方がない。
仕方がないから、支援を受けながらの自立だ。
でも、本人の内側にある苦しさは解決しないままだから、せめても共感し合える仲間を求める。
本来、求めるものは、問題解決に導いてくれる専門家なはずです。


「自閉症は脳の機能障害」というのはフィクションです。
「治らない」もフィクション。
数十年前の専門家が、「たぶん、そうだろう」とエビデンスもないまま、その証拠も示せないまま、言ったことなのですから。
そのようなものに、自分の人生、我が子の未来を委ねて良いのでしょうか。
発達も、神経も、その人の内側にあるその人だけのものなのですから、自らを救うべく歩んでいってもらいたいと思います。
試行錯誤しながらも、失敗して立ち止まりながらも、前に進んでいく中に、生きている実感、自分の人生を歩んでいるという実感があるのですから。
自分の人生と可能性を他人に渡してはいけません。




===========================

9月13日(日)zoom講座『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』の参加受付が始まりました→詳細・お申し込み方法はこちら


2020年8月26日水曜日

【No.1093】生きている実感を得るために、自らを育てようともがいている

まずは業務連絡から。
先週末、九州でお会いした皆様。
今朝、郵便局より報告書を郵送いたしました。
コロナの影響で、通常よりも3~4日、遅れるとのことです。
もうしばらくお待ちくださいませ。


ということで、先週末は九州に出張していました。
九州の匂いというのでしょうか。
外を歩くと、北海道とは異なる植物、田んぼ、花や木々の匂いが、子ども時代、私が確実に「ここにいた」という実感を持たせてくれます。
そしてまた、自分の意思と決断、選択により、こうやって自由に行きたいところに行き、やりたい仕事を行うことができている。
これも私の中で「今、私は生きている」という実感を得ることに繋がっているのだと思います。


発達相談において、この実感も、大事なアセスメントの視点になります。
常時動きまわっている子、ピョンピョン跳ねている子、クルクル回っている子、大きな声を出している子、唸っている子、他人にとにかくぶつかっていこうとする子。
こういったお子さん達を見て、専門家は「それがADHDだから」「それがASDだから」というかもしれません。
しかし、それは表面的な話であって、子ども達の内面を捉えたものではありません。
子ども達の行動には、必ず目的、意図があるものです。
こういった行動の背景には、子ども達自ら発達させよう、育てようとする目的を感じます。
そしてその目的へと向かわせる内なるエネルギーとは、「今、私はここにいる」という実感を得るためなんだと思うのです。


発達のヌケが埋まり、感覚や身体が育ってくると、「自分がいることがわかった気がします」というようなことを言う人たちがいます。
彼らは学生だったり、社会人だったりするのですが、そんな彼らでも自分という実感が乏しかったことが分かります。
前庭感覚や固有受容覚が育っていなければ、動くことで感じる自分がわかりません。
身体の軸が育っていなければ、自分が空間のどこにいて、何が好きで嫌いかがわかりません。


自分という存在がはっきりして初めて、目の前にいるあなたのことも、実感を持って感じることができる。
自分という存在がはっきりして初めて、実社会の中に出ていくことができる。
ですから、神経発達症を持つ人達の中には、他人との関係を築くことが難しかったり、外部との関係を持とうとしなかったり、はたまた一部の人や情報、環境に大きく影響を受けたりするのだといえます。
そういう意味では、神経発達症の人たちは支援との相性が良いのです。
自分が乏しい→支援に寄りかかる→自分が育たない→支援に依存する…。
こうやって支援者にとっては、コントロールしやすい利用者が作られていく。
いくら支援を受けても自立できないのは、自己が育っていかないからです。
「失敗させない支援」など、お膳立てされた生活の中に、生きている実感が入る余地はありません。
いろんな成功や失敗を体験することで、人は「今、私は生きている」という実感を得ることができるのです。


発達相談でお子さんを見たとき、どのくらいの実感が得られているかを感じとります。
そこから、どのくらい発達のヌケ、遅れがあるかがわかるからです。
多くのヌケがある子は、他人に気づかず、自分だけの世界の中にくるまっている感じがします。
次の段階は、世の中をテレビを観ているように見ている子。
周りの存在に気がついているんだけれども、そこに登場人物としての自分がいません。
その次の段階は、関わりがあると反応する子。
そして、自ら対象に近づいていく子→一方的な関わりをする子→相手の反応を受け止められる子というように進んでいきます。
その発達の進み具合は、神経発達のヌケ、未発達の育ちとリンクしているように感じます。
身体&感覚の発達があっての社会性なので、社会性はSSTなどで教えるものではなく、育つものなのです。


発達援助、身体アプローチは、単に本人のラクを生むためのものではありません。
身体という土台の発達は、自分という実感を得ることに繋がります。
自分があって初めて他人の存在に気が付くことができる。
その他人との関係性を築くことができる。
最初の他人が家族であるように、家族・家庭こそが最初の社会です。
最初の社会の中で、しっかり育ち、育むことが、次なる社会に出ていくための準備になりますし、それが将来の自立と主体的な人生へとつながっていきます。


「生きている実感を得るために、自らを育てようともがいている」
そういった雰囲気を感じられると、共に暮らす我が子の姿に、自らの子育てに奥行と幅が出るような気がします。




===========================

9月13日(日)zoom講座『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』の参加受付が始まりました→詳細・お申し込み方法はこちら


2020年8月20日木曜日

9月13日(日)『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』zoom講座

昨日、このブログでも紹介した『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』zoom講座の参加申し込みが開始しました。
お申し込み先、また講座の詳細につきましては、企画・主催をしてくださる花風社の浅見さんのブログをご覧ください。


今回、私が対談させていただくお相手は、6月に函館で開催する予定でしたコンディショニング講座での講師をお願いしていました『からだ指導室 あんじん』主宰の栗本啓司さんです。
6月の特別講座のご案内でも紹介させていただいた通り、全国各地を飛び回り、老若男女、障害の有無を問わず、一人ひとりの身体に合わせたコンディショニングの指導をされている方です。
現在、日本にいる治せる実践家のお一人です。


そして栗本さんと私の対談をより分かりやすく、また深めていただくのが、編集者さんであり、花風社を設立し、長年、発達障害の人たちとその人たちと関わる専門家と共に仕事をされてきた浅見淳子さんです。
通称赤本『自閉っ子、こういう風にできています!』(2004年)は、多くのご家庭の本棚にあると思います。
赤本から一貫して自閉っ子達がラクになる方法を探し、また彼らが社会の中で自由に、そして資質を活かしながら生きていけることを願いながら、多くの書籍を世の中に送りだしてくださいました。
正直、私もまだ明確に言語化できていない部分もありますので、その辺りも含めて、言葉のプロフェッショナルである浅見さんに対談をより良いものへと導いていただきたいと思っております。


講座の形式がzoomを使用したものになっていますが、スマホでも簡単に観ることができます。
また主催者さんの工夫により、当日、参加できない人向けに、後日録画を観る方法も用意されています。
ご興味ある方は、是非、お申し込みくださいませ。
どうぞよろしくお願い致します!


2020年8月19日水曜日

【No.1092】治り方の選択の時代に生まれた新たなニーズ

世の中には、治せる実践家の人がいます。
その場でトラウマを処理することができたり、発達のヌケを見抜いて、そこを育て直す施術をすることができたり、短い時間でのセッションによって参加者の表情・身体をガラッと変えることができたり…。
そういった治せる実践家の人たちの姿を見るたびに、私も同じように、そのとき、その場で治せるようなスキルを身に付けたいと思っていました。


しかしあるとき、ふと思ったのです。
幸運にも、同じ時代に治せる実践家の人たちがいる。
だったら、そこはその実践家の人たちにお任せして、私自身は違う道で神経発達症の子ども達が治るお手伝いをするべきではないか、と。


そもそもが選択肢を作ることを目的とした起業でもありました。
発達に遅れがみられれば、どの子も同じ病院に行き、同じような診断名を受け、同じような療育を受ける。
療育を受けたからといって何かが劇的に変わることはなく、みんな揃って特別支援教育の世界に入り、12年後にもみんな揃って福祉の世界に入っていく。


無料で食事はできるけれども、いつものり弁。
たまに、漬物がついたり、タマゴがついたり、昆布がのったりするけれども、のり弁はのり弁。
「無料だから、いいだろう」なんて言って、のり弁を配る支援者に文句も言えず、他のメニューがあることも知らずに、黙々と食べ続ける姿。
私が当地で見てきた障害を持った子ども達を取り巻く環境は、このようなイメージでした。
誰一人満足はしていないけれども、冷え切ったのり弁を食べているような感じ。
だからこそ、自分には何ができるかはわかりませんでしたが、「のり弁以外もあるよ」「カレーも食べれますよ」と、選択肢の一つになることを目標にしました。


お蔭さまで全国各地に呼んでいただけることが増えましたが、まだまだ各地域には選択肢がない状態が続いています。
のり弁が好きで食べているのなら、何も言うことはありません。
でも、のり弁しか知らず、それを食べているのだったら、残念なことです。
「脳の機能障害」「生まれつきの障害」「治らない」
これは一つの見解であり、過去に信じられていたものです。
今は脳ではなく、神経の問題、それも神経同士の繋がりの問題が常識になっています。
神経の問題なら、刺激や環境、運動によって神経ネットワークが変化します。
ですから、「治らない→支援と療育」ではなく、「治る→身体アプローチ」「治る→栄養」「治る→遊び」という治り方、子育ての仕方の話になったのです。


「治るか、治らないか」の選択ではなく、治り方の選択の時代。
そのような時代において、今、子育てをされている親御さん達には新たなニーズが生まれたと思います。
それは『治り方の選び方』。
つまり、我が子にどの治り方、子育ての仕方、アプローチの仕方が良いのか、望ましいのかを判断するという点で悩みが生じていると思います。
みんな治らず、地域にも選択肢がない状態ですと、そのような悩みを持つ必要はなかった。
治るからこそ、治り方を選ぶために必要な我が子の状態、発達を見る目、確認する力が必要になっているといえるのです。


子どもの状態、発達とは、ひと時も同じことはありません。
日々、神経発達は変化しますので、今日行ったアセスメントが1ヶ月後にも役立つとはいえないのです。
日々の生活の中で、タイムリーにアセスメントすることが、より適切な治り方を選ぶために有効だといえます。
子育ても、発達援助も、その子一人のためのオーダーメイドでなければなりません。


治せない私だからこそ、アセスメントの道で、親御さん達の"治す"を後押ししようと考えました。
私の発達相談を受けても、その場で子どもさんが変化することはありません。
でも、親御さんの子どもを見る目、アセスメントの力が深まれば、同じ子どもさんだけれども、違った側面、姿が見えてくるものです。
子ども達の行動、遊びには、必ず意味があるものです。
その意味の多くは、自分自身に必要な発達を遂げようというもの。
日々の生活の中で、子ども達が今、何を育てたがっているのかがわかれば、何をしたらよいのだろうと悩んだり、「あれもこれもしなきゃ」と焦ったりすることが減ると思います。
私が目指すアセスメントとは、今、子どもが育てたい発達課題を知るための視点です。


このたび、大変ありがたいことに、花風社の浅見さんに栗本さんと対談させていただく機会を作って頂きました。
テーマは、『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』です。
まさに私が追求してきた内容であり、全国各地でご活躍されている治せる実践家の栗本さんに、私の見解を問い、深めていただきたいと思っております。
そして深めていただいた見解を、参加される皆様と一緒に共有できたら嬉しいです。


日時は9月13日(日)13時半から15時半くらいまでの予定です。
花風社さんで本を注文されたことがある方には、今朝、講演会のお知らせが届いたと思います。
今後、それ以外の方の参加申し込みの案内もあると思います。
その際は、このブログでも改めて紹介させていただきますので、どうぞ、よろしくお願い致します。
この企画の意図を書いてくださった花風社さんのブログは、こちらです。




2020年8月18日火曜日

【No.1091】「感覚が育っていない」とは?

親御さんからのご質問の中に、「感覚が育っていないという、その"育っていない"の意味が分からないんです」というものがあります。
例えば、目が見えないのでしたら、視覚情報が入ってきませんので、「目が育っていない」というのはイメージできると思います。
しかし、神経発達症の子ども達は、機能としての感覚器は正常に働いています。


音が鳴れば、そちらを向くことがあるし、好きなワードが聞こえたら、すぐに反応する。
だから、まったく音が聞こえていないわけではないけれども、呼びかけてもこちらを向かない、言葉の理解が積み上がっていかない。
テレビは集中して見ていて、登場するキャラクターの名前を知っている。
だから対象の違いはわかるはずなんだけれども、周囲の人の区別ができない、相手の目を見ることがない。
このような姿は、発達障害に関する書籍やネットの情報などに、よく登場します。


感覚器は機能しているのに、それが認知できていない。
それこそ10年以上前は、『脳の機能障害』と言われていましたので、感覚器で受け取った刺激を脳で処理することができない、つまり、脳の機能的な問題であり、問題が脳なのだから、どうしようもない、という結論で支援が展開されていました。
だからどの子も、音や視覚刺激が統制された環境の中へと誘導されて行きました。


しかし今は違います。
脳の機能の問題ではなく、神経発達の問題、もっといえば、神経同士の繋がりの問題だということがわかったのです。
感覚器も、脳も問題がない。
課題があるとすれば、感覚器と脳をつなぐ神経ネットワーク。
そういった視点で子ども達の姿を見れば、彼らに必要なのは、身体で受け取った刺激をちゃんと脳まで届けることであり、脳からの指令を身体へと送る作業だといえます。


胎児期からすでに、視覚や聴覚、触覚、嗅覚、味覚、固有受容覚、前庭覚が機能しています。
誕生後すぐの赤ちゃんでも音や匂い、口や手にモノが触れた感覚がわかっています。
でも、赤ちゃんには、その刺激が何かという認知はできていませんし、刺激に対し、自分の意思で適切に身体を動かすことはできません。
じゃあ、どうやって感覚器と脳を繋げていくのか、神経ネットワークを築いていくのかと言えば、遊びです。


子どもの遊びには、快の感情が伴うものです。
「楽しい」「ワクワクする」
そういった感情は、子どもの内側に意識を生みます。
意識がある、別の言い方をすれば、主体性があるとき、身体で受け取った刺激はただ流れていくのではなく、はっきりとした形で脳へと届けられます。
楽しいときに感じた刺激が『認知』を形成するのだと思います。
海の匂いを嗅ぐと、家族で行った海水浴を思い出す。
これは匂いという感覚刺激と快の感情が結びつき、さらに私の楽しい思い出という認知と繋がっているのでしょう。


2学期が始まると、ガラッと変わる子がいたり、学習の面で大きな伸びを見せる子がいます。
そういった子ども達は、夏を楽しんだ子ども達です。
身体と五感をフルに使い、自然の中で思いっきり遊んだ子ども達。
刺激⇔快の感情⇔認知のネットワークが作られていき、結果的に認知、知能の面で大きな成長に繋がったのだと考えられます。
同じように、就学前の子ども達も、思いっきり遊べるようになると、感覚や情緒だけではなく、認知の面でも伸びていきます。
ですから、就学前の子ども達は遊びこそが発達であり、発達援助とは、子どもが思いっきり遊べるように育てることだといえます。
神経発達症の子ども達に必要なのは、神経のネットワークづくりなのです。


感覚が育っていない子は、IQが伸びる可能性が高い子だといえます。
「IQは変わらない。伸びるどころか下がる一方だ」
そんなことを言う支援者がまだいます。
でも、そういった支援者は、脳なら脳だけを、感覚なら感覚だけを、なんなら数値や障害名だけを見ている人です。
発達相談において、検査結果等を見せてもらうことがありますが、それが固定化されたものか、たまたま今の状態を切り取ったものかはすぐにわかりますし、今後どのくらい数値が伸びるかもわかります。


未発達がたくさんあって軽度なら、本来は優秀なお子さんです。
未発達がたくさんあって中度なら定型の範囲に入る可能性は十分にあります。
未発達がたくさんある重度の子だって、未発達の多さと知的の重さがリンクしているようだったら、中度、軽度というように育っていく可能性があるといえます。
少なからず、未発達がある子の検査結果は、将来の姿を表したものではありません。
話が逸れてしまいますが、検査結果、数値とは今の状態を知るためのものであり、過去の数値と今回の数値を比べて、どのくらい伸びたかを知るものです。
決して、何かを決めたり、諦めたりするものではないのです。


「実りの秋」とは、子ども達の発達に関してもいえることです。
夏に思いっきり遊んだ子が、秋に大きな成長、変化を見せます。
SNSやメールを見る限り、今年もたくさんの子ども達、ご家庭で「実りの秋」を迎えそうだと感じました。
私は今から秋が楽しみです。(でも、2020年の夏はまだ終わっちゃいない!)




2020年8月17日月曜日

大阪出張のご案内(9月21~23日)

 すべての訪問予定が決まりました!受付を終了いたします。


昨日、大阪にお住まいのご家族から正式な依頼を受けました。

いつもでしたら3泊4日で出張するのですが、今回は2泊3日になります。

9月21日(月・祝)と22日(火・祝)の午前中は予定が決まっておりまして、22日の午後でしたら、ひと家族、予定を入れることができます。

もし9月22日(火・祝)の午後、発達相談を希望されるご家族がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。

2020年の関西出張は今回で3回目になりますし、7月に行ったばかりですので、ニーズはないような気もしますが…、ご依頼をお待ちしております!


お問い合わせ先→てらっこ塾HP

現在の空き情報:9月22日(火・祝)の午後→予定が決まりました(8/24 9:00)



2020年8月13日木曜日

【No.1090】理由を問わない診断

先日、伺ったご家庭では、親御さんが「うちの子、目が合わないんです」と心配されていました。
実際に確認しますと、確かに目が合わない。
まあ、目が合わないというよりも、私の目を見ているようなんだけど、見ていない感じってところでしょうか。


他の親御さんと同じように、スマホの検索画面に「目が合わない 幼児」と打ち込んだそうで、するとすぐに「自閉症」「発達障害」という結果が表れます。
今はご丁寧に、広告料を払っている療育機関なども一緒に表示されます。
すると、親御さんはビックリするわけです。
「うちの子は自閉症かもしれない」
そうなると、次からは「自閉症の特徴」「自閉症の育て方」「自閉症の進路」「自閉症の将来」など、自閉症についての検索が始まるのです。
「ああ、これはうちの子にも当てはまるかもしれない」
「じゃあ、普通の学校は難しいかもしれない」
「早く診断を受けて、早く療育とやらを受けなきゃならない」
そうやって知らず知らずのうちに、特別支援の世界に迷い込んでしまう。


自閉症のお子さんで目が合わない子がいます。
しかし、「目が合わないから自閉症」ではありません。
目が合わない理由は、たくさんあるのです。
ハイハイを飛ばしたり、肩甲骨の動きが育っていなかったりすると、立体視が育たず、結果的に目が合いづらくなります。
ヒトも動物なので、奥行きのある自然の中で目そのものを育てていくのですが、今のように家ばかりにいると、目を育てる機会が乏しくなり、焦点が合いづらくなる場合もあります。
同じように、幼少期からメディア視聴の時間が長くなると、狭い範囲でしか目を動かさず、また二次元ばかり見ていることになるので、見る力が育ちません。
身体の軸が育っていなくて目を寄せることができなかったり、身体の大きな動きが育っていないことで、目の動きという小さな動きの育ちが滞っている場合もあります。
あとは、目の育ちと言うよりも、周囲の人に気がついていない=自己の未確立もあり、その背景には感覚系の遅れも考えられます。
このように「目が合わない」という姿には、多くの理由が考えられるのです。


さらに「目が合わない」というのが今だけのことなのか、それとも今後も長く続くことなのか、で意味が大きく異なります。
以前、1歳代のお子さんで「目が合わない」と心配されていた親御さんがいらっしゃいましたが、私との発達相談が終わったあと、少しずつ目が合うようになったというお話がありました。
幼少期のお子さんの発達は、独立しているように見える発達同士が連動しているのが特徴です。
目自体をピンポイントで育てたわけじゃないのに、ほかの部分が育つと、それに引っ張られるようにして目が育つということもあります。
つまり、幼児さんは発達途中であり、未発達があるのは当然のことですから、一時的に目が合わなくても問題はありません。
問題があるとすれば、その発達課題が何年も、何十年もクリアされずに残り続けたときです。
ある一時期、特に小さなお子さんのひと場面を切りぬいて、「それが異常だ」というのはナンセンスなのです。


でも、このナンセンス状態なのが、こんにちの診断であり、特別支援だと言えます。
自閉症のお子さんの中には、目が合わない子がいるのは確かですが、目が合わないからといって、どの子も一色単に「自閉症ですね」「発達障害ですね」「じゃあ、治りませんね」とやっちゃうのが今の特別支援の世界なのです。
「目が合わない」だけじゃなくて、「こだわりがある」とか、「言葉の発達が遅れている」とか、「クルクル回る」とか、ただある自閉症の子に見られた行動が、あたかも自閉症全体に見られるように、またそれがあると自閉症になってしまうがごとく語られています。


元気いっぱいの幼児さんが、昔でいうやんちゃな子が、幼稚園や保育園、中には保健師からの指摘により通院し、そこでADHDという診断がつくなんてことも、頻繁に起きています。
未発達である幼児期の子どもさんを発達障害専門の病院に連れていけば、なんかしらの診断名が付くのは当たり前になっています。
理由は問わない発達障害の診断なのですから、未発達の子が行けば、みんな発達障害に当てはまってしまうのです。
親御さんとすれば、子どもの専門である人から言われたのだから、きっと子どものより良い育ちのために言ってくれたはずだから、といって無防備で受診すると、そこで療育を受けることが決まってしまう、精神科の薬を飲むことが決まってしまうなんてことが起きてしまいます。
最初はそんなつもりで言っていないのに、振り返れば、子の人生を左右させるような出来事になるなんてこともあるのです。


理由を問わない診断に、何かメリットがあるのでしょうか?
その診断があることで、子ども達がより良く育ち、家族もみんな、前向きに幸せな時間を過ごせるようになるのでしょうか。
「診断を受けてよかった」という人はいないでしょう。
いたとしても、それは診断という逃げ場を得たメリット、公的な補助が得られるというチケットを得たメリットというだけだといえます。
一方で、診断という逃げ場は、同世代と同じ学ぶ機会、体験する機会、働く機会を失います。
月にもらう数万円で、同世代が就職してもらう得る金額との差額を失います。
「我が子をより良く育てたい」という親御さんにとってはデメリットだらけ。
当事者会で「良かった」という本人、親の会で「良かった」という親御さん。
でも、その断片的な良かったのために、多くのものを失っているのです。


理由を問わない診断をいくら受けても、その子がより良く育つアイディアは生まれてきません。
子どもがより良く育つには、その行動、課題となっているものの背景、理由が分からなくてはなりません。
なぜ、目が合わないのか、目が合わないことで、今後、どんな不都合があるのか。
そういった部分が明らかになることで、子育ての方向性とアイディアが見えてくるのです。


時々、「療育に行ったから、うちの子は成長できた」という親御さんもいます。
でも、それも理由を問わない診断と同じです。
発達期にある子どもは、みんな、ほっといても発達するし、成長をします。
もし療育に行ったから伸びたというのなら、行かない時間、行かない子どもは、まったく発達・成長しないことになります。
しかし実際は、家庭でも伸びる。
というか、家庭のほうが伸びる。
というか、自然の中で自由に遊ぶ機会があれば、子は十分に育つ。
それは、今年の4月・5月・6月を体験した私達ならよくわかります。
学校がなくても、療育機関に行かなくても、子は伸びた。
療育機関で伸びたというのなら、家庭生活で過ごしたときの何倍もの早さで伸びたと言わなければ、正しいとはいえません。
結局、入り口が理由を問わない診断なのですから、理由が分からず、ただ診断名だけで療育をしようとしても伸びるわけがありません。


「うちの子は自閉症だから」という親御さん、支援者というのは、育てることを諦めてしまったようにもみえます。
子どもをより良く育てるには、まずは子どものことを知らなければなりません。
それ「自閉症だ」「ADHDだ」「LDだ」なんて言ったって、それは子どものことを知ったことにはならないのです。
子どもの行動の背景を知ることが、子どものことをよく見ることであり、子どもをより良く育てるための一歩ではないでしょうか。
診断名にとらわれている人の目には、子どもの目が入っていないのだと思います。




2020年8月6日木曜日

【No.1089】障害の程度、あるなしよりも、対処できるかどうか

家族や本人から、いろんな困ったことを相談されます。
年齢も様々、課題も様々。
一人として同じ悩みはありません。
そんなこと、わざわざ文字にする必要もないくらい当たり前の事実なのですが、意外に勘違いされている人が多いように感じます。
悩みの数だけ対処法があるはずなのに、原因が一緒、アイディアが一緒。


何かトラブルが起きると、すぐに「自閉症だから」「発達障害があるから」と言いがちですし、思いがちです。
しかしトラブルの詳細を聞けば、なにも発達障害がある人だけに起きる問題ではないことがわかります。
それは発達障害ゆえに起きたトラブルではなく、同年代の子なら起きることがあるよね、一般的に出くわすトラブルだよね、っていう感じです。


自閉症の人ばかりに困難があり、一般の人には困難が少ない、というのは真実ではありません。
生きていれば、面白くないことも、辛いことも起きるものです。
じゃあ、なんで自閉症の人ばかり「生きづらい」と言い続けているのでしょうか、発達障害を持つ子の親御さんが「大変だ大変だ」と言っているのでしょうか。


それは「対処」の違いだと思います。
トラブルが起きたとき、困難な状況と出くわしたとき、「どうするか?」で違いが大きいのだと思います。
自閉症の人達は、情報が抜け落ちたり、情報を誤って捉えたりすることが多くあります。
そのため、次の対処の段階で失敗することが多い。
それが小さいときからずっと続くもんだから、失敗の上に失敗が積み重なっていき、最後には身動きがとれなくなる。
その「動くんだけれども、うまくいかない」「やってもやっても失敗する」が、本人たちの「生きづらい」という訴えの中に滲み出ているように感じるのです。


こんなことを言うと、「じゃあ、特別支援の世界で言われている『失敗させない子育て・支援』が正しいのではないか」と言われそうですが、それこそが彼らの「生きづらさ」を助長させている要因だといえます。
大事なことは失敗を回避することではなく、失敗に対処できることです。
失敗したあと、どのように振る舞えるか、行動できるかが大事なのは、社会で生きる者として、いや、生き物として皆、同じ。


特別支援の方向性は、本人のスキルアップと周囲の支援によって、トラブルと出くわす機会を減らそうというものです。
だからいつになっても、自立できる人たちが育っていかない。
自立とは、トラブルを回避する技を身に付けることではなく、トラブルに対処できる力を養うことが必要です。
ある若者は、同級生との協働作業に悩んでいました。
ですから、一緒に対処法を考え、実行し、失敗しては試行錯誤しながら進んでいきました。
そうすると、あるときから協働作業ができるようになり、本人の顔もガラッと変わりました。
でも、この若者の自閉症という脳のタイプは、また発達のヌケは変わっていないのです。
失敗しながらも、試行錯誤して自分なりの対処法を身に付けた。
それが本人の悩みの解決につながったのだといえます。


トラブルが起きると、支援者は安易に自閉症や発達障害と結びつけようとします。
そして「自閉症や発達障害は治らないから、トラブルは仕方がない」となり、周囲の理解や支援、そもそもトラブルを生じさせないように転ばぬ先の杖で動こうとします。
結果的に、彼らは対処法を学ぶことができずに、自立が遠のいていく。
また生きていればトラブルをゼロにすることはできないのですから、何度も同じような失敗を繰り返し、そこで終わってしまうために「生きづらい」と叫ぶしかなくなってしまう。
本当に多いです、なんでもかんでも自閉症や発達障害のせいにする人達。
でも、因果関係が「失敗=自閉症」となっている限り、前に進むことはできません。


子育てで言えば、ちゃんと失敗できる身体に育てておくことが重要です。
自閉症や発達障害の子ども達に起きる失敗は、同年齢の子ども達も同じようにする失敗です。
繰り返しになりますが、違いは失敗が糧にならないことです。
つまり、失敗という情報をうまく捉えることができていないということ。
感覚が育っていなければ、情報・刺激の抜け落ちや誤った解釈が生じます。
当然、情報が抜ければ、正しい対処が身につかない。
ただ失敗しただけでおわってしまう。
同じように、身体や動きが育っていなければ、同年代の子が体験するような失敗すら味わうことができなくなってしまいます。
対処とは行動なので、身体が育っていることが必要です。
発達のヌケや遅れを育てるのは、単に本人がラクになったり、勉強ができるようになったりすることだけではなく、失敗に対処するという自立に必要なサバイバルスキルを身につけるためにも必要なのです。


失敗を自閉症や発達障害と結びつけている限り、なんの発展もありません。
私の感覚では、「自閉症ゆえに失敗した」なんてことは稀であって、ほとんどは対処の問題だと思います。
自閉症や発達障害が影響するのは、情報と刺激の受信のところであって、たとえ受信を間違えても、対処が適当なら問題は生じません。


特性やヌケは重いんだけれども、うまく自立できている人たちがいます。
そういった人達を見ると、対処が上手。
反対に、ずっと「生きづらい」と言っていて自立できない人達というのは、対処が下手だし、自分が対処すべきところを他人に肩代わりしてもらっています。


下手な対処をさせないのではなく、下手な対処をうまくするのが支援であり、成長するということ。
子どもの発達と自立を支援するとは、失敗を回避することではなく、子ども時代に存分に失敗できる身体を育て、環境を提供していくことだと私は考えています。




==================================

【福岡出張に関して(8月21~23日)】

お蔭さまで8月23日(日)に訪問させていただくご家庭が決まりました。あとは、22日(土)のみになります。もし福岡県内のご家族の依頼がなければ、お問い合わせいただいている他県に伺っても良いかなとも思っています。もう少し福岡県内でのご依頼をお待ちしております。



2020年8月4日火曜日

【No.1088】特別支援によって救われた未来と、奪われた未来

件数は少ないものの、「うちの子が発達障害ではないことを確認してくれませんか」というような依頼が来ることがあります。
「発達のヌケを確認してほしい」「今後の子育てについて助言がほしい」
そのような依頼をされる親御さんと比べて、「ないことを…」という依頼をされる親御さんに障害受容がないというわけではありません。
親御さんは本能的に気がついているのです。
「うちの子は違う。だけれども…」


「だけれども」に続く言葉は、親御さんにその言葉を連想させてしまうのは、保健師さんだったり、保育士さんだったり、幼稚園・学校の先生だったりします。
今は少しでも何かあると、「発達障害では」と言う人が多いと感じます。
それも年々増えている印象を受けます。
でも、実際はその人が思う"疑い"であって、単に発達がゆっくりな子、単にその人の指導力が足りないだけということも少なくないと思います。


他人に指摘されるまで、我が子の発達の遅れ、自閉的な特性にまったく気づかない親御さんは、どのくらいいるのでしょうか。
「家では問題なく生活できている」
「今まで我が子の発達で気になったことがない」
そういった親御さんが、他人からの指摘や促しにより、病院に行く。
ドクターに、「家では問題なく生活できているのですが、園の先生から『一度、発達専門の病院で診てもらってください』と言われまして…」と告げると、園でのトラブルについて根掘り葉掘り訊かれる。
そして、発達障害という診断名が付き、療育・支援のレールの上にポンと置かれる。
平成の時代の教科書には、「自閉症の子は、場面が変わると混乱する。普段できていたことができなくなることがある」と記されていたので。


私はいつも不思議に思うのです。
家で問題なく生活できている子、今までの発達の中で気になるところがなかった子は、本当に発達障害といえるだろうか、と。
こういった場合、まず疑うのは発達障害ではなく、崩れている場所の環境ではないでしょうか。


ビックリするような話ですが、小学校1・2年生は普通級で問題なく勉強できていた子が、3年生になり、集中力や学力の低下、離席等の行動が見られるようになる。
すると、担任から「発達障害ではないですか」「特別支援担当の先生に一度」「病院で診てもらっては」などと言われる。
でも、その前に他の要因も確認する必要があると思います。
担任の指導力は?
級友との関係は?
心理的な変化はないだろうか?
前の担任に様子を訊いてみよう。
そういった確認をしたうえで、初めて「発達障害では?」という話になる。
でも、その場合だって、受診するかどうかは家族の話です。
何よりも本人に利するところがなければ、他人がとやかくいう話ではありません。
しかし「受診させなければ、そのまま支援級へということになります」などのプレッシャーをかけてくる学校もあり、気が付いたら診断名が付き、特別支援の世界に入っているご家族もいるのです。


こういった親御さんは、「受診すれば、うちの子には『発達障害はありませんよ』『自閉症ではありませんよ』と証明してくれると思っていました…」と言われます。
病院は診断名が付くことで、その診断名に従って治療方針を決め、治療を始めていく場所ですので、多くの場合、診断名が付きます。
ですから、受診すれば、なんらかの診断名が付く可能性が高いといえます。
そうなると、発達障害を疑った他人にお墨付きが与えられることになり、学校や園などでは、「そういった子」ということで体制が組まれていきます。


本来、子どもと関わる仕事をしている者は、その子がよりよく育つことを一番に考えるはずではないでしょうか。
学校の先生なら、診断のあるなしに関わらず、「この子がどうやって伸びていくか」を考え、試行錯誤しながら指導していくのが本来の姿だと言えます。
でも、その自分の指導力不足を棚に上げ、すぐに課題の理由を障害という言葉に置き換えてしまう。
幼稚園でも、保育園でも、なんだかすぐに特別支援の世界に丸投げしようとする姿が見えます。
「お子さんがかわいそうなんで…」と言いつつ、本当は自分がこういった子を担当して"かわいそうだから"と言っているようにも聞こえます。


「発達障害がないことを」という依頼をされる親御さんは、自分の感覚と他人からの指摘のギャップに苦しまれます。
自分の感覚を信じたいのに、その感覚を、そういった感覚を持つ親という存在までを否定され続ける。
それによって心身を病む親御さんもいます。
特別支援は、その子がよりよく育つために、より良い未来のためにある存在なのに、子どもの未来を奪い、学びの機会を奪い、挙句の果てに家族にまでネガティブな影響を与える。
特別支援によって救われた未来と、奪われた未来。
どちらが多いと言えば、私は後者のほうがまだまだ多いと感じます。


ちなみに、「発達障害がないことを」という依頼に対しては、発達障害がないことを確認しようとはしません。
反対に、全力で発達障害がある部分、自閉症やADHDなどの特性が現れている部分を見つけようとします。
そうやって全力でヌケや遅れ、特性の部分を見つけ出そうとし、見つけた部分が同年齢の子の発達と比べて大きく違うのは、定型発達のバリエーションの範囲に入るのかを確認していきます。
そうすると、本当に発達障害と呼ばれる状態なのかが見えてくるだけではなく、より良い子育ての方法が見えてくることがあります。
結局、必要なのは診断基準に当てはまるかどうかではなく、その子がよりよく育つアイディアです。
私は、子どもに関わる者が「目の前の子がよりよく育つには?」という問いに対する答えを自分自身で見つけようとしなくなったことが、こんにちの特別支援の混乱を招いていると考えています。




2020年8月3日月曜日

福岡出張のご案内(8月21日~23日)

あと20日もありませんが、急遽、福岡県に出張することが決まりました。
8月21日(金)の夕方に着く便で福岡に移動します。
今回、お声掛けくださったご家族への訪問が、8月23日(日)の午前中になっております。
もし今回の機会に、発達相談を希望される方がいらっしゃいましたら、てらっこ塾までご連絡ください(お問い合わせ&ご質問も)。
お待ちしております。


21日(金)は、17時以降、ご希望があれば承ります。
22日(土)は、一日、空いています。→午前、午後ともに訪問するご家庭が決定しました(8/11 13:00)
23日(日)は、午後、空いております。→午前、午後ともに訪問するご家庭が決定しました(8/4 15:00)