2019年10月30日水曜日

支援サービスと対価、支援サービスと結果

ある親御さんが、「近頃、ボランティアが集まらない」という話をしていました。
ボランティアが集まらないから、余暇活動がどんどん乏しいものになっていく、ということも言っていました。
確かに親御さんも年齢を重ねていけば、子どものペースで活動に付き合うことが難しくなってくるもの。
でも、この話を聞いて、あたかもボランティアが来ることが前提、当たり前というような話ぶりに違和感を持ちました。


ボランティアは、あくまでボランティア。
ボランティアだって、意思があり、プライベートな時間がある。
しかし、ボランティアが来ることに慣れてしまった人からすれば、来ないのが異常になってしまう。
そういった現状に、「学生のやる気が」「社会の理解が」「障害児の余暇は乏しくて良いのか!」などという言葉が連なってくると、社会が離れて行っているのではなく、自分たちで社会を遠ざけてしまっていると思うのです。


以前、読んだ本に、難民キャンプの子ども達は「貰い慣れ」してしまっているために、自ら行動しよう、向上しよう、現状を抜け出そうという意思がなくなってしまう、という話が載っていました。
各国から、支援団体から食料や衣服、勉強道具、おもちゃまでが届きます。
ですから、貰うことが当たり前になる。
そんな環境に長くいれば、どんどん意欲が失われていくのは想像が難しくありません。
「だから、無条件に物資を与え続けるのはやめてくれ。彼らに必要なのは、モノではなく、教育とチャンスなんだ」というメッセージがあったと記憶しています。


この難民キャンプの話は、上記のボランティアを当たり前に感じてしまう姿にも重なります。
もしボランティアが来ないが前提だったら。
どうやれば、一人で、家族のみで、休日を過ごせるか、外出先で活動できるか、そういったことを考え、新たな学び、成長へと舵が切れたかもしれません。
手を借りるのが当たり前であれば、自立を想像するのが難しくなる。
学生時代、毎日のように余暇支援ボランティアとして活動していた私としても、彼らの余暇を支援していたようで、もしかしたら、彼らが自立する機会を妨げていたのでは、と思うことがあります。


発達障害の子ども達に必要なのは、生活を支援することではなく、学ぶ機会を支援していくこと。
失敗させないように環境を調整し、転ばぬ先の杖になるのではなく、失敗を失敗経験のままにしておかない手助け、転んだ時の差し出す手。
発達の凸凹を受け止める心ではなく、発達の遅れ、未発達の部分を埋める援助なんだと思います。
しかし、ボランティアにしろ、教育にしろ、福祉にしろ、行政にしろ、身体に障害を持つ人達と同じような感じで、生活自体の支援が必要な支援となってしまっている。
だから、本当は自立できるような人、一般的な高校や大学で学べる人、一般の人と同じように働ける人が、幼いときから支援を受け続け、それが子も親も先生も支援者も当たり前になり、どんどん受け身の人間が出来上がってしまう。


「治らないのに、治さないのに、どうして病院に通うんだろうか」
そういった疑問の声が、どんどん大きくなっているように感じます。
一般の人からすれば、治らないものに、どうして多額の税金が使われるのか疑問に思うのは当然だといえます。
症状の緩和、改善のための薬の処方なら理解できますが、中には話を聞くだけの診察で終わっているのもあります。
それがカウンセリングだと言われたら、そうかもしれませんが、傾聴し、肯定し続けるだけだったら、それこそ、ボランティアで良いのではないかと思います。


どんな人でも、少ない負担で医療を受けられるのは、日本の健康保険制度の素晴らしい面だといえます。
でも、少ない負担が当たり前、地域によっては自己負担なしというのが当たり前になってしまうと、意思や目的、また変わろうとする意欲が失われていくように感じます。
以前、高齢の方達が病院の待合室で井戸端会議をしているのが問題になっていました。
治療よりも、通うことが日課であり、余暇になってしまっているとの指摘が。
結局、当たり前じゃない当たり前がもたらした副作用といえるでしょう。


極論ではありますが、治ることを目的としない診療なら、患者負担を増やすべきだと思います。
10割負担になったなら、治さない病院には行かないはずです。
「もし全額負担なら」
そういった視点で選び、行動することが、本人の成長、改善だけではなく、サービス自体の質を向上させることにつながるかもしれません。


サービスを受けたら、対価を渡す。
その対価が高すぎても、低すぎても、良くない結果を招きます。
発達障害に関するサービスにおいては、まずその価値を見抜く目が必要になります。
大前提として、特に子どもなら尚更のこと、何もしなくても発達は進んでいくもの。
ですから、現状維持は「0」ではなくて、「マイナス」という意味です。
盛んな発達期にある子どもが、一年も、二年も、状態が変わらない方が異常です。


また発達しているけれども、緩やかというのも、必ずしもプラスに作用しているサービスだとはいえません。
その子の発達の流れ、ストーリーから見て、同じペースで発達しているのなら、それは単にその子の持つ発達がそのままの形で表れているだけ。
つまり、そのサービスを受けても、受けなくても、変わらないという意味。


よく「発達障害の子も、発達するに決まっているだろう」という人、支援者がいますが、大事なのはその発達のスピードと幅です。
本来持っているその子の発達の流れが、加速した、よりバリエーションが増え、豊かになった。
そのとき、初めてそのサービスに価値があると判断できるのです。
「あの支援者の指導、助言を受けてから、ググッと発達のスピードが速くなったような気がする」
そういった印象が、実際の変化が見られないと、支援者の腕、サービスの質に疑問が付きます。
たとえ自己負担が少なくても、そういったサービスを選択し続けることは、社会の負担を増やしているといえるのです。


発達障害が治る水や数珠、壺などが売らていることがあります。
でも、水で150円くらいなら、治らなくても対価として正しい。
また、こういった類のものが、社会的な問題にならないのは、全額自己負担だから。
これが、一部でも税金が使われていると、大問題になります。


サプリやプロテインは、それ自体に価値がありますし、その対価が販売値となっています。
本も一緒。
私のような民間の支援も、サービスの質、結果に対する対価を貰っているのです。
でも、公的な支援、サービスは話が別。
1割自己負担なら、利用していない人が9割負担しているのです。
それで、現状維持、発達のペースが加速しない、では問題ありです。
傾聴する、見守る、受け入れるだけなら、家族や友人、ボランティアでも担える。


発達障害が治る水も、治さない支援も、結果で見れば、同じ結果。
水なら飲めるが、支援は喰えない。
喰えない支援は、受け身の姿勢、人生につながっていく危険性がある。
支援には、支援を“受ける”という言葉がついてくる。
発達とは、本人の主体性と能動性が必要。
つまり、支援を受け続けている限り、発達も、自立も、成し遂げられないということです。
そう考えると、この15年余り進んできた特別支援の道が正しかったか、否かが見えてきます。
今、子育て中の親御さん達は、この15年間の結果を見て判断ですね。



2019年10月29日火曜日

専門家の土俵ではなく、子の土俵で闘う

初っ端から私のところへ相談に来る人はあまりいません。
ほとんどの方は公的機関に相談し、療育、支援も受け、学校の先生に相談し…という具合に、多くの支援者、専門家と出会っています。
それでも、「なんだかしっくりこない」「もやもやが消えない」という方が情報を集め、辿りついたというのが、大方の流れ。
セカンドオピニオンというよりも、サード、フォース…オピニオンといった感じでしょうか。


支援者や専門家など、多くの他人と関わりを持つのが、発達障害を取り巻く環境の特徴だといえます。
これは、よくある話なのですが、同じ子ども、行動を見ているのにも関わらず、言っていることが支援者によって全然違うということ。


例えば、過敏性があり、学校に行けなくなっているお子さん。
心理系の支援者は、過去の嫌な出来事、引っかかっている言葉が過敏性を生んでいると解釈する。
教員は、クラス内の人間関係になにか問題がないかと考え、同時に家庭生活に問題がないかと推測する。
医師は、起立性調整障害、睡眠障害などを疑い、発達系は、それが障害特性だから周囲の理解環境調整を提案する。
そして不登校メインでやっている人達は、心の休息と受容、プレッシャーを掛けないことの重要性を説く。


これは例え話ではありますが、似た出来事、相談は少なくありません。
結局、自分たちの土俵の上で闘いたいのが、専門家というもの。
ですから、私が再三言っているように、専門家になるほど、治せなくなるのです。
発達とは生き物であり、流れですので、部分を切り取ると必ず誤ります。


本人、親御さんは、サービスの利用者です。
利用する者が、利用される者に利用されてしまうと、問題が大きくなります。
発達の軸が、子育ての軸がブレブレになってしまうから。
「あの専門家が良い」と行ってみる、「この方法が良い」と試してみる。
それぞれの専門性、アイディアは素晴らしいもので、効果があるものだとしても、発達とは一つの段階をやり切ることで達成されます。
子どもさんが、一つの段階をやり切る前に、「次!」となっている家庭があるように感じます。


素晴らしい専門家、英知を集めれば、子どもが治るか、どんどん成長するか、問題がなくなるか、といったら、そういうことにはならないでしょう。
何故なら、知識は知識であり、部分にしかならないから。
「策士策に溺れる」ではないですが、良い情報、アプローチを集めすぎると、子どもが見えなくなる、と言いますか、子どもの発達の流れが掴めなくなります。


専門家の助言がしっくりこないのは、それは本能的に「No」と言っている証拠です。
部分的に見れば、素晴らしいアイディアで効果があるかもしれませんが、我が子の発達の流れからしたら、ズレているということ。
そのズレが、親御さんに違和感となって伝えてくれるのです。
専門家は部分で勝負しますが、発達は受精から今までの流れの中で生じています。


〇番目のオピニオンとして相談に来る方も、そうではない方も、皆さん、まず最初に私が行うことは、その子の発達の流れを掴むこと。
時に、その子の生に繋がっている親御さんの生き方、流れを辿ることもあります。
当然、どのようにこの世に生を受けたか、生まれ出たか、そこが始まりですので、重要なポイントになります。
とにかく、今の発達の課題、問題ある言動だけではなく、その子の生のストーリー、流れを通して事象を感じてみる。
そうすると、どの人物の助言、アイディア、考えが合うかがわかります。
自然なストーリーを描ける人ほど、治すための根っこを掴むのが上手。
親御さんも、その人からの話を聞いて、すっきりする。


親御さんは、支援者、専門家がやりたい支援ではなく、子どもの発達の流れ、ストーリーから見て、今、何が必要で、その自然な流れを邪魔しないのか、加速できるのかを見ていく必要があるといえます。
そうすれば、専門家の手を借りるにしろ、依存することなく、その時々で必要な人、アイディアを選択することができます。


情報が手軽に得られる時代ですし、支援者の専門化がますます進んでいる時代です。
そういった中で、発達に障害のある子どもを育てていく。
どうしても、親も子も、情報過多で、刺激過多になるのは仕方がないことです。
情報がある分、待てなくもなっている。
ですから、常に子どもの発達の流れ、ストーリーの中で子育てをしていくことが大事なのです。


発達を促すための「刺激」というような言葉を使うと、「より良質な刺激を、より多く」という連想を生んでしまいます。
ですから、表現の仕方、説明の仕方を考えないと、と思うこともあります。
同年齢の子ども達と比べて、明らかに情報過多、刺激過多、忙し過ぎになっている子どもさん、ご家庭があるように感じます。
年齢が幼いうちに治った方が良いけれども、徒競走をしているわけではありません。


学校に行き、放課後は児童デイに行き、合間で療育施設、という子ども達にほとんど発達が起きていないのは、刺激の質の問題もあると思いますが、余白がない、流れのリズムが悪いというのもあると思います。
発達も生き物ですから、強弱と揺らぎ、活動と休息が必要です。


関わる多くの支援者との関係に参っている、情報過多で何が良いんだか悪いんだか分からなくなっている。
そういった親御さんには、何もしない、とことん子どもだけを見ることに集中する、という助言をすることがあります。
子どもがやりたいこと、自ら行動すること、熱中することに任せてみる。
そうすると、今、その子にとって、発達にとって必要なことが見えてきます。


ある親御さんは、いつも遊んでいるおもちゃを全部片づけました。
何もない状況を作った。
そして子どもさんは、クルクル回り始めた。
勉強もできるし、同級生と同じような遊びをしていたけれども、実はまだ土台の感覚の部分にヌケが残っていた。
勉強も、遊びも、学習であり、ある意味、教えられた文化です。


専門家は、自分の土俵からしか見ようとしないけれども、子どもは自分の人生という土俵から常に物事を見ています。
また、傍で見ていた親御さんは、子どもの発達の流れ、生きたストーリーを一番知っている存在。
なので、子どもの流れから見て、どの支援者が必要で、どのアイディアが後押しになるか、を選択できます。
もし、発達の流れを見失っていたら、一度、フラットな状態、文化の介入しない状態に、我が子を誘ってみる。
今、必要な発達、刺激を知っているのは本人だけですから。
わからなければ尋ねてみる、専門家ではなく、子ども自身に。




2019年10月24日木曜日

障害として対処した方が望ましいか、定型発達として対処した方が望ましいか

日頃、特別に意識しているわけじゃないのに、できない姿を見ると、障害を感じ、ふとした瞬間に、同年齢と変わらない我が子の姿を見る。
同じ我が子を見ているはずなのに、「障害児の我が子」と「健常児の我が子」の間で揺れ動く。
「本当は、どっちなのでしょうか」
そんな心の叫びに近い質問、相談を受けることは少なくありません。


発達障害は、障害という言葉が使われていますが、明確な線引きができるようなものでも、実態として具体的に示されるようなものでも、ありません。
神経発達の障害ですから、当然、不具合がある部分もあれば、同年代の子ども達と何ら変わりのない発達を遂げている部分もあります。
むしろ、正常な部分が大部分であり、定型発達の人と何が違うかと言えば、その不具合が発達の初期に起きたかどうかだと思います。
脳の深部、神経発達の初期、土台となる部分に生じるがゆえに、それ以降の発達、神経ネットワーク作りに不具合が生じるのでしょう。


身体障害、遺伝子の障害など、すべての障害を一括りにすれば、発達障害は軽微な障害の側に位置するといえます。
また、さらに発達障害のみで括り、考えてみると、軽度やボーダーなどと言われているグレーゾーンの人達は、限りなく定型発達側に存在するといえるでしょう。
それこそ、つい10年前、20年前までは、普通の人達でした。


グレーゾーンと呼ばれる人達は、定型発達側から見れば、普通の人、ちょっと変わった人。
一方、障害側から見れば、少ないけれども、困難を抱えた障害を持った人。
発達障害と定型発達の間に位置する、また重なり合う部分にいるグレーゾーンの人達は、どの視点から見るか、捉えるかによって、ある意味、障害者にもなるし、健常者にもなる。
当然、その見え方が、親御さん、先生、支援者の子育て、指導、援助に影響を与えます。


2000年以降、アスペルガーブームに乗じて、グレーの人達も、障害を持っている人達として支援対象にしよう、という動きができました。
つまり、「障害側からグレーゾーンの人達を見よう」という動きです。
それによって、早期診断が押し進められ、どんどん支援対象の子ども達が増えていきました。
子育てよりも療育、指導よりも支援。
支援を受けることが権利になっていけばいくほど、本人たちからしたら支援が義務のようになってしまったように感じます。
放課後、否応なく、校門前に並んだ車に乗せられていく子ども達の姿を見れば、もう一つの義務教育か、なんて思ってしまいます。


大学を卒業するような若者たちが、障害者枠で働き、また福祉的就労をしている人達までいる。
同じような大学を卒業した人達が、一般就労で貰える金額と比べれば、その差は歴然としています。
当然、その人の人生設計も大きく違うはずです。
しかも、一度、障害者枠、福祉的就労で働けば、それは履歴として残り続けます。
当地のような地方なら、そういった情報はすぐに知れ渡るため、一般企業に転職しようにも難しくなる。
私が関わった若者たちの中にも、当地を飛びだし、自分のことを誰も知らない土地に行った人達がいます。
どうして前科者のように、人目を忍んで、知らない土地に行かねばならないのでしょうか。
必要だったのは、部分的なサポートだったのに。


グレーゾーンの人達を障害側から捉えることによって、必要な支援、援助を受けられた人もいるでしょう。
一方で、障害側から捉えられてしまったばかりに、必要ではない支援を受け、結果として同年代の子ども達が得られていた学習機会、経験、体験ができなかった子もいるはずです。
問題なのは、障害側からの視点が強調されすぎてしまったばっかりに、普通の子として育てようとする行為が、よくない子育て、教育をしているように見られてしまうこと。


グレーゾーンという概念は、困っている人達にとっては助けになる。
でも、本当に助けが必要だったのか、本人が求めていたのか、と疑問に思う子ども達の存在があります。
彼らは、部分的には支援が必要だったかもしれないが、多くは同年代と同じような学び、経験、発達の機会だったのではないか、と思うことが多々あるのです。
いつの間にか、グレーの子ども達がまるまる障害児のような扱いをされていることに危惧しています。


グレーゾーンの子ども達に必要なのは、診断名ではなく、発達を促すアイディア。
いつも私は、診断をつけずに援助できないものか、教育できないものか、と思うのです。
と言いますか、「グレー」「グレー」と言われる前は、親子の自然な育みの中で発達を促し、自立できる子を育てていた。
学校教育の中でも、子ども達に合わせた指導が蓄積され、受け継がれていた。
教育の質が問題に挙げられることが増えましたが、教育の質を下げたのは特別支援だと考えています。
特別支援は、個(子)を見ているようで、障害を見ているから。


相談される親御さんには、定型発達側から見る視点の重要性を伝えています。
そうすると、定型の中にある障害というイメージができるから。
障害はそもそもその子の部分でしかありません。
定型発達から見ることで、定型発達とのズレ、違いに気がつき、そこを埋めるアイディアへと繋がります。
それが発達のヌケを埋める、未発達を育てるという視点に繋がるのです。

2019年10月17日木曜日

受け継いだ自閉脳、作られた自閉脳

「自閉症とは、脳のタイプの違いである」
若い頃、このようにトレーニングの中で教わりましたし、15年ほど経った今でも、そう思っています。
一言で言えば、情報処理の仕方に特徴がある、ということ。
ですから、それ自体、良いも、悪いも、ありませんし、障害とは違う話だと思います。
自閉症のままで自立し、幸せな生活を送っている人達がいますので。
自閉症自体が障害だとしたら、すべての自閉症者が自立できず、生きづらさを抱えることになります。


自閉症が脳のタイプ、情報処理の仕方の一つだとしたら、障害の部分、生きづらさの根っこは、別のところにあるのだといえます。
多くの自閉症者が苦しむところは、情報処理の仕方というよりも、感覚の違いであり、自律神経の乱れであり、内臓や運動機能の不具合です。
こういった不調、不具合は、自閉症の人だけに生じるものではありません。
なので、同じ悩みを持つ人達が改善し、治していったアイディアが、その自閉症の人にも当てはまる場合が大いにあります。
同じ不調、不具合なのに、自閉症以外の人は治り、自閉症という脳のタイプを持つ人だけが治らない、ということは考えにくいのです。
不調が治った自閉症の人と、治らない自閉症の人がいるのが、何よりの証拠です。


感覚も、自律神経も、内臓も、運動機能も、育てられることがわかっていますし、そういった育て方のアイディアを持っている実践家の人達は、特別支援の世界の外にたくさんいます。
自閉症ではなく、人としての悩みなのですから、その悩みに応えられる専門家、実践家を頼るのが一番です。
自閉症という脳のタイプ、情報処理の仕方に合わせた子育て、教育をしたいのなら、特別支援という括りにこだわる必要があるかもしれませんが。


自閉症が脳のタイプの一つだとしたら、その多くが親やその上の世代の人達から受け継いだものだと考えられます。
実際、発達のヌケや未発達の部分が育ったあとも、自閉症が残り続ける子ども達がいます。
同じ自閉症という診断名を受けた子どもさんでも、未発達ゆえの自閉症っぽい情報処理の仕方か、もともと持っているタイプとしての情報処理の仕方か、は全然違いますし、すぐにわかります。


子どもさんから感じる雰囲気、空気感、佇まいが違いますし、そういった雰囲気を感じた際は確認の意味で、親族に似たような方がいらっしゃらないかを尋ねます。
だいたい親御さんのどちらかが、世の中の切り取り方、捉え方に特徴があります。
その場合は、未発達の部分を育て切ったあとでも、いわゆる自閉症らしさは残り続けますし、その特徴にあった学び方、生き方をしていけば良いですね、というお話をします。


未発達ゆえの自閉症っぽさと、本来の資質として、脳のタイプとしての自閉症らしさは、まったく異なります。
しかし、今の診断方法では、また特別支援の世界では、一緒くたにされてしまっているのが現状です。
私のところに相談にみえるお子さんで、「自閉症」と言われてきた子の多くは、ヌケや未発達の部分が育つと、同世代と変わらない普通の子になります。
イメージとしては、発達が進んでいくと、それに合わせて自閉症っぽさが薄れていき、本来の資質が表に出てくる感じです。
治ってくると、ガラッと性格、表出、表現、表情、雰囲気が変わってくるのが特徴だといえます。
ようやく、その子らしさが出るようになったね、というお話は良くしますし、治り具合を確かめる指標にもなります。


ただ最近、自閉症の雰囲気は感じないんだけれども、親御さんや親類にもそういった特徴を持った人がいないんだけれども…。
何よりも原始反射が残っていたり、運動発達にヌケがあったり、感覚等に未発達があったりしないんだけれども、自閉症のような世の中の切り取り方、処理の仕方をする子がいます。
どう考えても定型発達だし、そういった発達を進んできた子なのに、自閉症らしい。


そういった子ども達と関わる機会が増えていく中で、やっぱりテレビやタブレット、ゲームからの影響を感じます。
赤ちゃんのときから、スマホで動画を見せていた。
幼稚園から帰ってきたら、ずっとタブレットで動画を観ている。
ゲームを始めたのは、就学前…。


脳が作られる時期、環境に合わせて脳を作り上げている時期というのは、その分、脳が柔らかい時期だといえます。
聴覚等の発達の遅れのために、偏って視覚に頼らざるを得ないゆえの自閉症っぽさ。
持って生まれた脳のタイプとしての自閉症らしさ。
そうではなく、強烈な視覚刺激と非現実的なスピードの場面展開に脳が合わせていった結果、視覚処理に、時間の流れよりも早い情報処理に特化した脳が作られた子ども達。
自然な流れに合わせられなくて、生きづらさを感じている子ども達が増えてきたように感じます。


こういった話をすると、「今の子ども達は、みんな、ネットも、ゲームも、動画も、観ている。もし、その影響で自閉症になるのなら、みんな、自閉症、発達障害のはずだ」と言う人もいます。
しかし、ポイントは、脳が作られる時期、8歳までに、どのくらい触れたか、またどれくらい早い時期から触れ始めたか、ということです。
始まりが幼ければ、幼いほど、時間が長ければ長くなるほど、自然の刺激と人工的な刺激のバランスが崩れてしまいます。
当然、ヒトは生まれた環境により良く適応する戦略をとった種ですので、早くからの刺激に、長くいる環境に脳は馴染んでいくのです。


自閉症の子ども達の多くがタブレットやゲームを好むのは、脳のタイプとして心地良いから。
でも、環境、刺激に合わせて脳を作ったから、タブレットやゲームが心地良くなった子ども達もいます。
自然な流れとのズレ、違和感ですので、実際は、それが当たり前だと思い、生活している子ども達もいるはずです。
子どもに見せているわけではないけれども、テレビがずっとついていたり、親御さん、兄弟がゲーム、タブレットを使用していたりすると、幼い子もそれを見ている場合があります。
実際、相談でもありました。
0~8歳までのお子さんがいるご家庭は、お気をつけください。

2019年10月16日水曜日

身体性を伴わない言葉

「言語訓練を受けています」というお話は、実際、親御さんの口から聞かなくても、お子さんを見ればわかるものです。
単語レベルで止まっていたり、2語文、3語文を話したとしても、その文章が1つのパターンになっていたりします。
そして何よりも、コミュニケーションとしての言葉ではなく、「音をそのまま覚えました」「言いました」というような発し方が特徴的だといえます。


動物としての発声から発語という発達の流れとは異なり、知能でカバーし、暗記した言葉。
そういった言葉からは、どうしても感情が伝わってきません。
その雰囲気を感じると、言語訓練を連想するのです。


驚くことに、未だに具体物や絵、写真を見せて、それに答えさせるような言語訓練が、専門家の療育として行われているようです。
それは、小学生の英語の授業と同じレベルです。
りんごの絵を見せて、「アップル」と言うみたいな。
発声から発語、会話、コミュニケーションというような発達の流れを進んだ子、また話すための脳と身体を培ってきた子なら、そういった覚え方でも効果があるでしょう。


でも、発達障害の子どもにおける言葉の遅れは、外国に行った子が初めてその地の言葉に触れる、覚えるといったものではありません。
言葉を知らないのではなく、言葉を発する準備が整っていない、ということ。
同世代の子ども達と同じように、周囲に言葉があるのだけれども、それが意味ある言葉として捉えられない、耳にした言葉を声に出すことができない、という部分に課題があるといえます。


言葉を聞く準備が整っていない子に、言語訓練をしたら、どうなるでしょうか。
真面目な子どもほど、相手の口元に注目し、必死にその口の形にしようとするでしょう。
言葉を話す準備が整っていな子に、言語訓練をしたら、どうなるでしょうか。
素直な子どもほど、聞いた音をそのままの調子で、リピートするでしょう。


こういった覚え方をしてきた子ども達は、場面と一緒に言葉を覚えてしまいます。
実態を伴わない、意味を伴わない言葉ですから、どうしても場面をフックにしなければ、覚えられないし、思いだせないのです。
ですから、彼らの会話は般化が難しいし、文章丸ごと、一つの型として覚えている。
文章の一文字でも変われば、理解できなくなるのは、そもそも理解を伴った言葉ではないから。


そのような姿を見て、支援者達は「それが自閉症だ。特性だ」と捉えます。
でも、ヒトの発達の流れに逆らった療育がなされた結果、こういった丸暗記の言葉が生まれることもあります。
成人した方達ともお会いしますが、このような言葉の使い方をされる人達が少なくありません。
どう見ても、知的な問題は大きく感じないような人でも、意味を伴わずに言葉を使っているような人もいます。


驚いたことに、大学生の若者は、言葉を数式のように当てはめながら会話をしている、と言っていました。
思ったことがすぐに言葉になる私からしたら、ひと手間も、ふた手間も、多く労力を使っている感じがします。
それでは、会話すること自体に苦手意識を持ちますし、相当な疲労感があるのだと思います。
当然、その場の空気を読んだり、他者支点の想像したりすることに手が回らない、回ったとしても、おろそかになってしまいます。


「言葉が出ないのなら、言葉を覚えさせたらいい」
そういったヒトの発達を無視した療育は、とっくの昔に終わっているものだと思っていました。
定型発達の子どもは、そういった覚え方はしませんし、それは外国語を学問として学ぶやり方です。
言語発達とは似て非なるものです。


強弱のない特徴的なしゃべり方は、自閉症、発達障害特有のものではなく、学習によって身に付けた部分だといえます。
だって、言葉の習得自体が学習だから。
赤ちゃんは、周囲に溢れる言葉を聞いて、内側の言葉のストックをしていきます。
同時に、舌を動かし、いろんなものを嘗めたり、食べたり、空気を出したり吸ったりしながら、発語の準備をしていきます。
そうやって一年以上かけて準備を整え、発声から言葉へ発達させていくのです。
赤ちゃんは、発達と同時進行で、母国語を学習している。


この発達の部分に課題があるのが発達障害の子ども達であって、学習の部分には問題ない子がいます。
そういった子が、型にはまった訓練を受けると、学習の脳力を使って音を覚える。
意味の伴わない、身体性を持たない言葉、しゃべり方はこうやって造られていくのです。


訓練的な、身体性を伴わない言葉の学習は控えた方が良いと思います。
やるとしても、発達のヌケ、未発達の部分を育て、発声から発語への準備が整った後にやられた方が良いといえます。
親心として言葉を教えたいし、早く言葉が豊かになってほしいと願うのもわかりますが、言葉には発達の順序、進化の流れがありますので、それに従って育んでいく方が良いのです。


言葉には、発達の側面と学習の側面があります。
脳の表面にだけ働きかけるのが、学習であり、ひと昔前、ふた昔前の療育だといえます。
この両側面から、子どもの言葉を育んでいく。
言葉も道具の一つですから、使いこなすための身体性も重要なのです。
身体を通して、五感を通して、言葉を発達させていくイメージを持たれると、より良い育みへと繋がっていくと思います。

2019年10月15日火曜日

LDと言われている子ども達の中に

発達障害の“引き金”である環境リスク要因を見ると、現代社会において、それらを避けて通ることはできないと感じます。
山にこもるか、無人島に行くか。
いや、山は空でつながっていて、島は海でつながっている。
そうなると、この地球上、どこに居ても、違いは「リスクの程度の違い」だといえます。


相談の中には、「LDという診断を受けた」「読み(書き)で課題がある」といったケースもあります。
小学校低学年くらいは、本人の認知の部分でカバーできたり、同級生との違いが大きくなかったりすることがあります。
しかし、3年生くらいから学習内容も、求められる処理スピードも、グンとレベルアップしますし、同級生との違いも目立つようになります。
そうなると、親御さんも、周囲も、見て見ぬふりができなくなり、当然、本人がだんだんしんどく感じるようになってきます。


今は、だいぶ合理的な配慮が認められるようになり、タブレット等の学習をサポートする機器を使って学習する子ども達が多くなりました。
当然、勉強の目的は知識や技能を獲得すること、考える力を養うことですので、どんな道具を利用しようとも、その子に力がつけば良いわけです。
なのに、親御さんの中には、単にタブレットを利用すれば良いとは感じない人達がいて、私みたいなのに相談に来るわけです。


相談に来る親御さん達は、我が子のしんどさに目を向けています。
タブレットを使えば、学習面は大丈夫かもしれない。
でも、本人のしんどさは、タブレットでは改善できない。
文字を読むのにも、書くのにも、相当な苦労があるとしたら、それは生活すること自体、もっと言えば、見ること、手を動かすこと、そういった一つ一つの動作に生きづらさを抱えているということになる。
その生きづらさをどうにかしたい、改善したい、治したい、というのが親御さん達の願いです。


LDも、神経発達障害ですので、発達のヌケや未発達の部分、原始反射や脳のバランス等を確認し、神経発達を後押ししていくのが基本となります。
発達のヌケ等が育ってくれば、見ること、聞くこと、身体を動かすことがラクになってきます。
それが結果的に、読み書き計算などの学習面へつながっていくのです。
学習スタイルとしてタブレット学習を続けていく子もいますし、そういった機器を使わなくても学習できるようになる子もいます。


しかし、相談に来る子の中に、上記のような子ども達と雰囲気が異なる子がいます。
発達のヌケ、未発達も、ほとんどない。
原始反射が残っているわけでもないし、定型発達そのもの。
でも、学習面で課題がある、LDを指摘されている…。


こういった子ども達に共通して感じるのは、眼の違和感です。
表情は自然で豊かなのに、眼が止まっている感じ。
目だけ表情がないと言えばいいでしょうか。


眼が止まっている感じのお子さんには、他にも共通点があります。
ひらがなや漢字は読めるんだけれども、文章も読めるには読めるんだけれども、文字を飛ばして読んでしまう。
そして、幼少期からテレビやタブレットで動画を長時間観ていた、ということ。


脳がいろんな刺激を受け、形作られている乳幼児期。
その時期に、自然界と異なるスピード、光刺激を受け続けると、それに脳が適応してしまいます。
そうなると、自然な時間の流れよりも早く脳が反応し、処理しようする。
文字を読む、物体を見るスピードと、脳のスピードのバランスの崩れ。
脳にリードされるように文字を読もうとすると、文字が飛んでしまいます。
ですから、一つ一つの文字は読めても、流れで読もうとしたら、脳との間でバグが生じるのです。


大人たちが忙し過ぎると、子どもにしわ寄せがいくものです。
テレビを観ている間に食事の準備。
良くないとは分かっていても、静かにしていてもらうためにスマホやタブレットで動画、ゲーム。
やりたくてやっている親はいないでしょうが、少なからず、いや、大いに影響を与えるのが自然界にはないスピード展開と強い光刺激。
頭の柔らかい乳幼児期の子ども達の脳は、今この瞬間も環境に適応しようと躍動しているのです。
600万年の人類の歴史から見れば、ヒトはタブレットに対応できるほどの身体を持ってはいないといえます。


「見せていたのは教育テレビだけです。子どものアニメだけです」とおっしゃる親御さんもいます。
しかし、非自然界の刺激には変わりありません。
ですから、脳が柔らかい時期、特に8歳までのお子さんには、親が配慮する必要があると思います。
コントロールできる環境リスク要因は減らしたり、避けたりするべきです。


上記のような文字が飛んでしまう子ども達、背景に早い時期からの長時間のメディアがあった子ども達は、改善、治すまでに、とても時間がかかります。
私の印象では、発達のヌケ、未発達の子の方が早く治る。
何故なら、気づくのが小学校中学年くらいからだから。
ヌケや未発達は育てれば良いけれども、脳が適応しちゃった、その刺激に合わせて作り上げられたあとから、もう一度、どうにかしようとするのは、とても難しいし、時間がかかるのです。
脳の可塑性もあるけれども、育っていないのを埋めるのと、育ったのを変えるのは、また違った意味あいになります。


それに脳が適応しているということは、メディアがある生活が、その子にとって普通だということです。
改善の方向としては、まずメディアを制限することですが、本人からの激しい抵抗があるのが一般的です。
メディアを取り上げようもんなら、発狂するような子どももいるくらいです。
ですから、相談に来られた方で、ある程度、大きくなったお子さんの場合は、習い事など、別の楽しい活動を生活の中に取り入れていくことで、メディアに触れる時間を減らしていく、というのが現実的な話になります。


そういった点で、まだ脳が作られる段階で、親御さんがリードしやすい乳幼児期に気を付けていく、治していくのがベターだといえます。
もちろん、ベストはまったく触れないことです。
でも、どうしてもメディアの力を借りないといけない生活場面があるときは、限定的に、1時間を超えない範囲で利用するように配慮する。


かつて、「自閉症=構造化、視覚支援」だったように、「LD=タブレット」みたいな図式ができてきているのが、私の心配しているところです。
支援者としてもラクだし、本人にも効果が見られる。
そうなると、そういった単純な図式が一般化し、子ども自身の内的な世界が見捨てられていく。
LDの子ども達が勉強できるようになることは素晴らしいこと。
でも、内的なしんどさを抱えながら生きていくことに対する援助と治療は忘れてはいけません。
もしかしたら、背景に発達のヌケや未発達があるかもしれない。
もしかしたら、メディアからの刺激による影響があるかもしれない。


環境リスク要因を無くすことはできなくても、減らすことはできます。
親のラクだけではなく、子の生きるラクに目を向けていくこと。
それが文明、科学の恩恵を受けながら生きている私達の責任でもあります。

2019年10月11日金曜日

退行することで発達のヌケは埋まる

「わかりました。自然の中で思いっきり遊ぶようにします!」
相談やセッションのあと、山や海、川、公園の中で遊ぶようになるご家族が多くいらっしゃいます。
それまで室内で療育的なことを行っていた方も、休みのたびに遠出したり、キャンプを行ったり、できるだけ自然の中で刺激を受けながら過ごすように、と変わっていかれます。


発達障害を持つ子ども達は、言語を獲得する以前、2歳までの発達過程の中にヌケがあることが多いです。
なので、多様な刺激を全身で浴びることで感覚系を育てる、複雑で揺らぎのある自然の中で身のこなし方、基本的な運動機能を養う。
そういったことが、発達のヌケ、未発達な部分を育むことに繋がります。


それまでの生活とは異なり、できるだけ自然の中で遊ぶようにしているのに、順調に発達する子どもさんと、そうではない子どもさんがいることがわかります。
見立てでは、「もうその発達課題はクリアしていてもいいのに」「もう治っている頃では」という具合なのに、イメージよりもゆっくり進んでいる感じです。


実際に確認したり、状況を伺う中で、なんとなく、その違いがわかるようになりました。
「遊ぶ」と「遊ばせる」の違いです。
その子の持つ発達の流れどおりに進んでいるご家庭は、とにかく一緒に遊んでいます、親御さんが。
親御さんも泥んこになり、びちょぬれになり、とにかく思いっきり遊んでいる。
その姿からは、子どもと大人が遊んでいるのではなく、子どもと子どもが遊んでいる雰囲気を感じます。
どちらかといえば、親御さんの方が楽しんじゃってるって思うこともあるくらいです。


一方で、自然の中で遊ぶようにしたんだけれども、本人の発達の流れからしたら、ゆっくりだなと感じるご家庭は、子どもを遊ばせているような気がします。
子どもが遊ぶ様子を傍で見ている感じ。
「今、我が子に必要な発達刺激は“揺れる”だから」と頭で考え、ブランコや吊り橋に誘うような、準備したよ、さあ遊べ、みたいな雰囲気があります。


「遊ぶ子どもと、それを観察する大人」では、同じ発達刺激でも、同じ遊び、運動でも、発達するスピード、刺激の伸びやかさは変わってきます。
何故なら、子どもが子どもに戻り切れないから。
もっと言えば、動物であるヒトに戻り切れないから。
大人の目は、指示は、誘導は、文化に染まっていて、少なからず、頭が主導で動いています。
ですから、子どもとしても、そういった雰囲気を感じ、影響を受けるのです。
遊ばせている大人と、遊んでいる子ども、という関係性が成り立っているとき、子は期待された動きをするようになります。


発達のヌケを育て直す、言葉以前の段階を育てるには、その時期のヒトに戻る必要があります。
7歳児のまま、2歳児の発達のヌケは育てられない。
同じように大人も、大人のままでは、言葉以前の段階を埋めることはできません。
つまり、発達のヌケを育て直すキーワードは退行です。
子どもも、成人も、そして育てる親も、退行する必要があるのです。


「天気が悪い日以外は、必ず外で遊ぶようにしているのですが…」
そういった報告、相談を受けることがあります。
そのとき、私は「〇〇くんを遊ばせているんじゃないですか?」と返します。
そうすると、みなさん、ハッとされるのです。
毎日、外で遊んでいたけれども、遊ばせているだけだった、自分はそばで守っているだけだった、と。


どこか良い遊び場がないか、とネットで探す。
この遊びが、今、必要な遊びだろうと、遊具へ誘う。
スマホで時間を確認しながら、遊んでいる様子を見守る。
変化があれば、ネットに上げようと、スマホのカメラを構える。
すべて大人が、頭主導で行っていること。
これでは、遊ばせる関係性を脱することはできません。
ですから、大事なことは、親御さんも退行すること。


もちろん、事情があって一緒に遊べない親御さんもいるでしょう。
でも、気持ちだけでも、心構えだけでも、退行することはできます。
「ああ、汚してしまって」
「同じことを繰り返しても、あまり意味がないのでは」
「別の遊びに促そう」
「このアングルで、動画が撮れたら最高だな」
そういった大人の考え方、そういった雰囲気の視線を止めることは大事です。
言葉以前の段階を育て直したいのなら、親御さん自体も、2歳以前の子どもの心に戻る。


2歳以前の子ども達は、見たもの、聞いたもの、触れたもの、すべてが興味関心の対象であり、想いのまま、存分に味わおうとします。
好きな動き、心地良い動きなら、何度も何度も繰り返す。
親御さんも、そういった興味関心のまま、心地良いを中心に置いた子ども時代へ、ヒトの時代へ退行するのです。
すると、子どもさんは安心して、自身も退行することができる、自分の発達のヌケの段階に戻り、そこからやりなおすことができる。


子どもと一緒になって遊んでいるご家族は、退行がうまくいっているので、発達のヌケを育てるのがスムーズです。
「どれくらいヌケているか」よりも、「思いっきり遊びきれるか」が育ちのスピードの違いとなって表れるような気がします。
また、親御さん自身も退行することによって、ご自身の発達のヌケを埋めたり、退行自体が日頃の文化、脳みそ主導の習性から解放されるので、心身共に元気になられたりします。
大人から子どもへ、人間からヒトへ、退行するのは、より良い発達援助のコツともいえます。


子どもは、そばにいる親御さんの雰囲気から、少なからず影響を受けるものです。
ですから、発達援助以外でも、「勉強をさせると、勉強をする」関係性、「サプリを飲ませると、飲む」関係性など、改める必要があると思います。
自分の子ども時代を思いだしましょう。
させられる勉強はやりたくなかったし、おもしろくなかったし、大人になった今、内容は覚えていないはずです。
させる勉強ではなく、共に学ぶ勉強の方が身につきます。
特に、勉強する意図、目的が想像しにくい子ども達にとっては。


同じように、飲ませられるサプリは、同じサプリでも、飲む際の心地良さが違います。
親御さんが「飲ませよう」と思えば、真面目な子ほど、「飲まなきゃ」という義務感が生じます。
他人のために飲むサプリは、心地良いものではありません。
ですから、一緒に飲もう、元気になろう、という雰囲気を出すことが大事。
「サプリを飲まないんですけど」という相談の背景には、親御さんの「飲ませなきゃ」が隠れていることが多々あります。
本人のための栄養なので、本人が飲みたくなければ飲まなくていい。
そういった共に考える、歩む姿勢は、子どもの安心感へつながります。


遊ばされている子どもの心は、どこか自由になれないものです。
「アセスメントでは、ハイハイの段階のヌケがあり、平衡感覚に未発達があり…」と頭主導で考えるのを一度止めてみる。
うちの子は、今、何を観ているのか、どのように感じているのか、本人の目の前には、どのような世界が広がっているのか。
そういったことを想像してみる。
それが退行への入り口です。
そして、本人が見て聞いて感じている世界を心地良く感じたなら、退行できている証。


「ヌケている発達段階に必要な刺激を与えればいいんでしょ」というのは、大人の考え。
本当にヌケを育て直そうと思えば、もう一度、その時代に戻るしかありません。
その方法は、退行。
「やり切ると、発達課題はクリアされ、次の段階へ進む」というのは、やり切り方も重要。
ですから、発達が生まれる家庭、親子間での雰囲気も大事になってきます。
「遊ばせる」から「共に遊ぶ、遊び切る」へ。

2019年10月9日水曜日

引き継がれないのが普通です

担任の先生が代わると、それまでの指導がガラッと変わるなんてことは、よくある話です。
相談にいらっしゃる親御さんの中にも、「せっかく支援ミーティングしたのに」「引き継ぎ資料を作ったのに」と言い、前年度のような指導、学習がそのまま引き継がれないことに不満を述べられる方もいます。


特別支援が始まって15年くらい経ちますので、全国どこでも引き継ぎは行われます。
同じ学校内でも、年度末には引き継ぎ資料を作成するものです。
しかし、「引き継ぎ資料を作る」「引き継ぎの会議を行う」というのと、「引き継ぐ」は異なります。


学校の先生も多様ですから、考え方の違いによって、前年通りの指導を引き継がない、という場合もあります。
でも、ほとんどの場合は、「中途半端なものを引き継がない」のだと思います。
たとえば、「箸を使って一人で食事ができる」ですとか、「大便の拭きとりは一人でできる」ですとか、自己完結できるようなスキル、活動は、そのまま、引き継がれます。
敢えて、一人でできていることをやらせない、なんてことはないからです。


一方で、「平仮名は書けるが、漢字は1年生のものを練習中」「足し算、引き算はできるが、2桁以上になると難しい」「プリント学習は、大人がそばにいないとできない」「時々、言葉が不明瞭で伝わらないことがある」など、完全にできないわけではないんだけれども、まだ指導、支援、介助が必要みたいなものは、だったら、「平仮名の練習だけやればいいのでは」「プリント学習やらなくていいのでは」「不明瞭な言葉なら、カードを使えば」という具合になりやすいといえます。

もちろん、指導途中のものを、そのまま引き継いで指導していこうという先生もいますが、人が代わるので完全に同じような指導はできません。
また、厳しいことを言うようですが、一年間、同じ先生が指導しても身につかなかったという子は、できているように見えることでも、その先生自体がきっかけ、ヒントになっていることが多いものです。
そういった子は、先生との関係性の中で再現している行動であることが多々ありますので、代わった先生が同じようにしようとしてもできないし、できていたこともできなくなることもあるのです。


同じ学校内でも、なかなか前年度のまま、引き継ぎができない現状があります。
じゃあ、他の学校へ転校する場合、進学する場合、さらに福祉から学校、学校から福祉の場合はどうでしょうか。
当然、人が異なりますし、教育に携わる人と福祉に携わる人ではバックボーンも、考え方の核となる部分も、まったくもって異なります。
同じなのは、障害を持った子に携わっている、その一点だけです。


私も福祉の世界にいましたので、学校と同じようにやれ、と言われても不可能なのはわかります。
そもそも環境も、資源も、違いますし。
学校は学ぶ場所ですので、できないこともやれるようにしていきます。
でも、福祉は生活の場であり、自立、一人で完結できることが最も重視されるところ。
ですから、できないことはやらせない、が基本です。


福祉の中にも、「できないことをできるように」という場面もありますが、それはそういった目標を立てるように決められているから、公的なお金を貰うために。
あとは、職員がやった方が早ければ、職員がやっちゃう。
だって、すべてにおいて余裕がないのが福祉の世界だから。
福祉施設へ見学、コンサルで行くこともありますが、だいたい活動にのれない人は、全国どこでもほっとかれていますね。
「来てくれさえすれば、お金になるんです」
いくら「支援」という言葉を使っても、介護の名残は消えないものです。


私が学生だった頃、療育施設の職員さん達が、「引き継ぎ資料を作っても、支援ミーティングに時間を割いても、学校へ引き継がれない」と教えてくれました。
実際、学校に入学すると、それまでやっていたことがなかったかのように、まっさらな状態から教育が始まります。
学校の先生の机の中には、封がされたままの引き継ぎ資料がそのまま入っている、なんてことも見てきました。
「なんで、教員免許を持っていない人の指導を引き継がなきゃならないんだ」という発言を耳にするたびに、先進地域と呼ばれていた教育も下っていくだけだな、と思いました。


就学時は学校がイニシアチブを取りますが、卒業間近となると、立場は逆転します。
「単独でできないんだったら、ダメ」「施設ではやらせない」「施設で過ごしやすいように、別の形に変えてくれ」
「だったら、うちは受け入れないから」という懐刀をちらつかせ、中途半端な指導はバッサリ切り捨てられるのです。
就学の恨みを卒業で晴らす、みたいな。
「今年度できなければ、来年度もやってもらえばいいや」みたいな考えが通用しない現実を突き付けられる3年生と担任、家族といったところでしょうか。


結局、引き継ぎなんてされないのが現実です。
同じ学校内でも、担任が代われば、それまでとはガラッと変わるなんてことがあるのですから、まったく文化も、環境も、考え方も異なる他業種との引き継ぎなんて、期待する方が間違っています。
ですから、引き継ぎはされない前提で手を打っておくことが大事。
と言いますか、昨日と繋がるのですが、先生、支援者、環境が変わったくらいで左右されない土台作りが必要だということです。


あとは、年度内、その機関に通っている間に、完結しておくこと。
よく言われる「芽生え」の段階ではなく、一人でその活動の最初から最後までできるようにしておく。
どんな小さなことでも、誰からの支援、見守りも必要なく、単独でできるスキル、活動を増やしていく。
一人でできるようになったことは、引き継ぎがされようがされまいがおかまいなしに、人生いつでもどこでも行い続けられます。


「自立できる人に育てる」
それは、どんな環境でも、自分の足で立ち続ける、倒れても起き上がれる、ということなのかもしれません。
未発達な部分が育てば、それ以降、どんな環境でも育ったまま。
同じように、一つ治れば、そこはずっと治ったまま、一つできるようになれば、できるようになったまま。


特別支援の方向性は、いかに本人ではなく、環境、周囲を変えていくか、ですが、本人が発達しちゃえば、治しちゃえば、できるようになっちゃえば、環境に左右されることなく、生きていける。
多様で、不確定なものばかりの環境が社会なら、そういった力をコツコツ身につけ、治し、育てていった子ども達の方が、社会の中で自立していけるのだと思います。
不確定な世界だからこそ、確実なものを増やしていく。
それこそが、子育ての方向性ではないでしょうか。

2019年10月8日火曜日

親御さんにとっての就学相談

例年、この時期は、就学に関わる相談が増えます。
就学時健康診断で指摘があった。
普通級と支援級、支援級と支援学校、どちらにしようか。
我が子の発達障害を認識して子育てをされてきた親御さんも、そういった認識を持つことなく子育てをされてきた親御さんも、悩まれるのは当然だといえます。


答えのない答えを出さなければならない。
しかも、日々、来年の4月が近づいてきている中で。
就学が子の一生を決めるわけではないけれども、成長と将来の選択肢に大きな影響があるのはわかる。
他のおうちは参考になるけれども、我が子が同じようにいくわけではない。
就学や進路選択においては、どう頑張っても「n=1」から逃れられることはできないのです。
どういった選択が、我が子にとってベストになるか、には答えをくれるエビデンスはありません。


今まで多くの方達の相談にのらせていただきましたし、有難いことに選択後のお子さんの様子も教えてくださる親御さん達がいます。
子ども達は、どこに行こうとも、皆さん、その場に適応しようとしますし、その場できちんと学んでいこうとするものです。
就学時、「ああ、僕には他の選択肢があった。他にも学ぶ環境があった」とは思わないもの。


いろんな子ども達を見てきて感じるのは、土台が育っている子は、どんな環境でも成長していけるということです。
「学校の担任ガー」「交流学習ガー」「カリキュラムガー」「同級生ガー」
「普通級だから」「支援級だから」「支援学校だから」
環境はコントロールできないものですし、不満を挙げればきりがないものです。
学校だって、いろんな人がいるわけですし、それぞれのシステムがあり、文化があります。
予測不能で、常に自分に都合の良いことばかり起きるわけではない。
そういった環境の中で、何を学ぶか、どう学んでいくか。
まさに、子ども自身の姿勢、行動が問われているのであって、もっと言えば、家庭の姿勢、行動が問われているといえるのです。


土台が育ち、主体的に学び、成長していく子は、時期が来たら、自らの意思で学ぶ場所を変えていくものです。
最初、支援級で学んでいた子も、感覚的にそこが合わなくなったと感じれば、普通級へと意識が向くようになります。
反対に、普通級で学んでいた子が支援級を希望し、そこで伸びやかに学び、成長していける場合もあります。
支援学校の場合は、本人の問題というよりも、システム、文化の話で、途中から支援級、普通級へ転籍することは難しいですが、それでも義務教育が終わるタイミングで、卒業するタイミングで、別の学び舎に、一般企業への就職に、向かっていく若者たちも出てきます。


「特別支援教育」という言葉が、なにか優しく寄り添ってくれるような雰囲気を醸し出します。
しかし、学校も多様な文化が織りなす社会であり、自分の方へ環境がすり寄ってくれるような場所ではないということです。
「特別支援を受ければ大丈夫」
そういった主体性の乏しさが、先生によって、学校によって、子どもが左右されてしまう結果を生みます。


担任が誰であろうとも、学校がどこであろうとも、そういった環境に左右されることなく、学んでいける子。
そういった子を育てるのが、自立への道になります。
私が見てきた現実として、担任に左右される、翻弄されるような子ども達は、社会の中で自立していけない。
支援学校から一般就労した若者の親御さんは、「担任が変わっても、それに影響されなくなった我が子を見て、一般就職も大丈夫だと思った」と仰っていました。
環境に揺れるということは、地に足がついていない証拠。


子育ての大きな目標の一つとして、環境に左右されない土台作りがあります。
誰が担任だろうとも、どこで学ぼうとも、その中でしっかり学び、成長していける。
そういう子は、就学時に希望を述べなくても、途中でより自分に合った場所を目指し、訴えてくるものです。
そのとき、親御さんは全力で、子どもが出した答えに応えれば良いのだと思います。


就学時の相談は、子どものためというよりも、親御さんのためである、と私は感じています。
答えのない答えを出す際、大事なのはその答えではなく、答えの出し方だといえます。
つまり、子どもが自らの意思を表明するまでの間、責任を持つという決心をすること。
子の代弁者として選択したからには、その環境でより良く学んでいけるような後押しをしていく。
そのために腹を決める。


腹が決まった親御さんは、「担任ガー」「学校ガー」「同級生ガー」などと言いませんし、そもそもそんなことに捉われている暇がありません。
むしろ、「学校の中で、きちんと学び、成長していく姿勢を養うことは、社会に出てから役に立つ」と、前向きに考え、将来の自立を意識した本当の学び、生きた教育をすることに繋がります。


同じような障害、症状を抱える子が、ある地域では普通級、別の地域では支援級、支援学校、なんてことはよくありますし、同じ地域でも年度によって違うこともあります。
親御さんの希望を重視する地域もあれば、親御さんの希望よりも、検査の数値で判断されるという地域もあります。
第一、たまたま同じ時期、同じ地域にいただけの子ども達が、同じ学校で学ぶように決められる。
ある意味、最初から理不尽といえば、理不尽なわけです。
よって、「どんな環境でも、自らの足で立ち、成長し、進んでいける子に育てなきゃ」と、改めて決心するのが、親御さんにとっての就学。


この秋、初めて発達障害を指摘された子の親御さんには、腹を決めるだけの時間が少なすぎます。
言われるままに、診断を受け、特別支援の手続きをし、気が付いたらずっと支援級、支援学校、なんていうご家庭も実際に少なくないのです。
ですから、そういった親御さんには、普通級にするか、支援級にするかの選択、意思表明の最終期限はいつなのかを確認するようアドバイスしています。
結構、2月までとか、3月初旬まで大丈夫、と言ってくれる地域もあります。


たとえ、限られた時間であったとしても、発達の後押しをすることはできますし、そういった子育てを通して、徐々に親御さんの心づもりができてくることもあります。
過去には、発達のヌケと未発達の部分を集中して育み、普通級に入学した子もいます。
一斉指示がわかり、離席がほとんどなく座っていられる。
そして他害等の問題がないこと。
小学校低学年くらいの学力は、短期間で一気に学び、追いつけるくらいのものですから。
それに普通級の中にも、高学年になる頃まで落ち着かない子もいますし。


少しでも前向きな気持ちで、入学式を迎えられますよう願っています。

2019年10月4日金曜日

支援者はサービス業

遺伝的な要因が基盤であり、引き金が環境要因。
それが発達障害発症のメカニズムだと言われています。
膨大な数の遺伝子の中で、どれが関わり、どういった組み合わせなのか。
そして、その遺伝子に影響を与えた環境要因は、何で、どのくらいなのか。
その発症パターンを明確にするには、まだまだ時間がかかりそうです。


言葉の遅れや感覚の異常、特異的な行動や不適応行動。
そういった姿を見ると、人はその原因を明らかにしようという心の動きが生じます。
因果関係をはっきりさせたいのは、未知の環境が命の危険と隣り合わせだった頃の名残かもしれません。
分からない状況、先の読めない真っ暗な環境は、不安を喚起する。
同時に、認知の部分を異常に発達させた人は、なんでもすぐに答えを求めてしまう文化に慣れた人は、曖昧な状態が脳への大きな負荷となり、それに耐えられなくなっているのだと思います。


我が子に発達障害が発症したメカニズムも、表面化した課題に対する因果関係も、本来、それ自体は価値のないことであり、「労多くて得るものなし」といったものです。
何故なら、因果関係がシンプルにまとめられるようなことは、ほとんどないからです。
しかも、その答え合わせはできません。
「一つの要因があって、一つの結果になる」ということはなく、中心となる複数の要因とそれに影響を及ぼした無数の要因が合わさり、ある状態を表面化するというのが真実に近いといえます。


「どうして我が子に発達障害が発症したのでしょうか?」
そういった質問をされるご家族は少なくありません。
「どこに発達のヌケがありますか?未発達の部分がありますか?」
こちらの質問は、ほとんどのご家族がされます。
当然、これらの質問に対し、正確な答えを返すことはできません、と言いますか、言葉で表せるほど、単純な表現はできないのです。
しかし、実際は「〇〇が理由だと考えられます」「〇〇が育っていないですね、ヌケていますね」という具合に、単純明快な言葉を使って返答します。


本当は、誰にも確かめることのできない複雑系なものを、あたかも因果関係がはっきりしているようなことを言う。
その理由は、あくまでサービス業だからです。
子どもさんにとって、家族にとって、より良い変化、利益が生じる方法を選択するのは当然です。
相談して、利用して、支援を受けて、何も状況が変わらない、状態にポジティブな変化が見られない。
それは、本人、家族を裏切る行為であり、公的、私的に関わらずお金が生じているのなら詐欺と言われても仕方がありません。


親御さんの心をより苦しめるのは、我が子に発達障害があったことよりも、どうしたらよいかわからない、何が正しくて間違っているか分からない、といった分からないことだらけの状況と、それに伴う無力感の方だと思います。
ですから、何か一つでも理由がわかれば、どこに未発達、ヌケがあり、育てていく部分がわかれば、心が晴れ、子どものために行動することができるようになります。
わからない環境と、動けない状態は、動物としてのヒトがもっとも恐れる状況。
命は自由自在に動くからこそ、輝いていく。
相談が終わったあと、パッと表情が明るくなる様子を見て、今日その瞬間から育みを始められる様子を見て、「私は最低限の仕事はできた」と実感するのです。


発達には順番があるということは、前後でつながっているといえます。
行動、能力、知能は、ボタンのスイッチの関係ではなく、複雑な機能、身体、細胞、神経が複雑に絡み合う連係プレイによって成り立っています。
とすれば、「〇〇が未発達ですね。そこを育てましょう」という言葉は、あながち間違えではないということになります。
つまり、何か一つでも育てば、必ずそこと繋がっている神経、細胞、機能、感覚、身体が影響を受けるのです。
「治しやすいところから治す」というのは、とてもシンプルな表現ではありますが、まさに発達援助における真理を表した言葉だといえます。


当然、発達援助に関わる者は、それを仕事にしている者は、未発達な部分、ヌケている部分を見たてられなければなりません。
ただし、常に「私が見たてたものは、答えではなく、答えの一部である」という意識は持ち続ける必要があります。
完全な答えを述べられないという事実が、自分の発した言葉、仕事、関わった本人、家族の出した答えに、責任を持つ姿勢へと繋がるからです。


未発達な部分、ヌケている部分が分かれば、その育て方は、本人が心地良い方法、親御さんの資質にあった方法で行えば良いのです。
「こうしなければならない」「この方法しかない」というようなことはありません。
むしろ、特定の方法を勧める人の方が怪しく、一つの方法にこだわる方が部分的な発達だけに留まってしまう可能性があります。
とにかく育てばいい、どんな方法でも。
それが真実です。


因果関係があるように説明するのは、支援者もサービス業だから。
曖昧な状況よりも、たとえ答えの一部であっても、なにか明確になる方が、子どもにも、家族にも、利益があると考えられるため、そうしているのです。
ただし、100点満点な答えではなく、「1点くらいだな」の意識は持つ。
それが仕事への責任、結果への責任を持つことに繋がる。
1点をとれなければ、2点、3点と上がっていかない。
同時に、1点取るお手伝いは支援者がやっても、残り100点を目指して積み上げていくのは、本人、家族である、と意識する。


未発達な部分、発達のヌケを確認してもらうのは、治すための入り口を開いてもらうくらいなもの。
あまり支援者、専門家を過大評価してはいけません。
そもそも自分で未発達、ヌケが分かるのなら、頼る必要はないのです。
どっちにしろ、育てるのは本人であり、家族ですから。
「勝てば官軍」のように、育てばOK、自立できればOK。
「どうやって育てたか」は家庭によって違うもの。
だって、原因も、根っこも、遺伝子も、環境も、神経も、身体も、一人ひとり異なるから。
まさに「発達障害、治るが勝ち!」なのです。

2019年10月3日木曜日

子育てが親自身の発達援助になる

大きな変化、成長が起きるのは、子どもだけではありません。
子育てをされている親御さんにも、大きな変化、成長が起きることがあります。
久しぶりにお会いすると、ガラッと変わった親御さんが立っていることも少なくありません。
親が子どもを育て、子どもが親を育てる。
子育て自体が、親の発達援助になっているのかもしれません。


相談に来られる親御さんの中には、ご自身でも発達障害、自閉症やADHDなどを持っている方がいらっしゃいます。
そういった親御さん達のお話を伺うと、ただでも大変な子育てがより一層苦労に感じられているような印象を受けます。
資質でもある真面目さ、一生懸命さが、子育てに向かう。
それ自体は素晴らしいことだといえるのですが、限度を超えて頑張ってしまうことがある。
子どもさんの発達援助よりも、まずはお母さん、お父さんが元気にならなければ、というようなご家庭も少なくありません。


子どもは育てたいようには、育たないものです。
たとえ赤ちゃんでも、自分とは異なる別人格の人間だからです。
どう動くか分からない、どう育つか分からない、変化に富んだコントロールできない存在。
その先の読めない曖昧さ、不規則性、そして何よりも「子育てには正解がない」という真理が、親御さんによっては人一倍脳に負荷をかけているように感じることがあります。


しかし、この負荷は、親御さんの脳を育てる負荷にもなります。
もちろん、心身が疲弊する状態では、過度な負荷、有害な負荷といえますが、心身が整った状態で向き合うと、それが発達につながるような気がします。
駆け込み寺のような状態でいらっしゃった親御さんでも、心身が整ってくると、「自分ではどうにもならないことがある」という具合に受け入れられるようになります。
すると、子育ての一つ一つにどう対処していくかを考え、行動するようになる。
行動して出た結果に対し、また自分で考え、工夫し、さらなる行動へ移していく。
こういった繰り返しが、脳に柔軟性を持たせ、脳を育てることに繋がる。
いろいろなアイディアが浮かぶようになったり、不測の事態に対応できるようになったり…。
親御さんの変化に「脳の余白の広がり」を連想します。


他にも「一緒に自然の中で、思いっきり全身を使って遊んでください」と提案させてもらった親御さんが、その通り、ご自身も泥だらけになって遊び切った結果、発達のヌケが埋まることもあります。
同時に、自然とご自身が子ども時代に心地良かった遊びをすることが多いですので、退行にもなって心身が解放され、ラクになるようなこともあります。
「隠れていた資質が表に出た」というような雰囲気を感じたとき、こういった育ちがあると思います。


私の仕事は、家庭支援です。
本人だけが変わればいいという話ではありません。
何かしら子育てに悩むというのは、親御さんの現状では対処できない、適応できない何かがあるということです。
我が子に発達障害があるから悩むのではなく、家庭、子育てという環境への不適応が生じているからだと考えています。


その不適応から脱するには、親御さんも変わる必要があります。
子ばかり、「あれができるように」「これができるように」というのは虫が良すぎる話です。
私が関わるご家庭には、子の成長だけではなく、親子、家族そろって成長していってもらいたいと願っています。
子どもの育ちにとって、親は、家庭は、もっとも影響のある環境です。
その環境がより良く変化、成長していかなければ、子の成長の限界が先にやってきてしまいます。


まだ子どもさんが幼いのに、子育てを丸投げしている家庭を見かけると、子どもだけではなく、親御さんにとっても、最大の発達する機会を放棄してしまっているように感じます。
「専門家に任せた方が良いから」という言葉をよく耳にしますが、それは表であって、本心である裏ではないような気がします。
心身に、脳みそに余裕がない人が、脳の表面で体裁を整え着飾り言っているだけ。
身体、感覚からの声が聞こえる人は、いくら余裕がなくても、決してそのような判断はしないものです。
それこそ、本能のまま、想いのまま、たとえ自分の身が滅んでも、一生懸命子どもを育てようとする。


社会に出たら答えが一つではないのは、いろんな答えをもった多様な人々が存在しているから。
そのフラクタルが家庭であり、仕事であり、子育て。
ご自身でも発達のヌケを埋めながら、一生懸命子育てされていた親御さんが、一息つき、苦手だった「働く」に挑戦される方もいます。
まさに子育てを通して、発達、成長された現れ。
また仕事を一生懸命している人、してきた人、仕事で評価されている人は、子を治す後押しも上手だと感じます。


結局、家庭も、仕事も、学校も、自分自身が育つ場であり、同じ社会なので、すべてが繋がっているということ。
ですから…
「放課後、土曜日は児童デイに丸投げでいいの?」
「就労は目指さなくていいの?」
「作業所に通い続けることは成長に繋がるの?」
「学校に行かなくていいの?」
「お母さん、専門家の私達にまかせてください、でいいの?」
「問題が起きれば、服薬で対処でいいの?」


発達の機会は、社会の中に、身近なところに、溢れています。
「大人になっても治る」というのなら、まずは大人である私達も発達し、成長し、治っていくことが必要だと思います。
発達障害という診断を受けた子ども、人達にだけ、「治る」を求めるのは失礼だと言われても仕方がありませんね。

2019年10月1日火曜日

生き物である発達に委ねる

土台が育っていない人、整っていない人が苦手とする季節の変わり目。
その季節の変わり目を自然と迎え、翻弄されることなく、過ごせる人というのは、それだけで発達、成長しているのが分かります。
さらに、「大きな変化がありました!」「ドカンが来ました!」というようなお話を聞くと、「知」を超えた「生」の姿、ヒトの持つ力に、感動を覚えるのです。


夏、思いっきり遊んだ子ども達は、秋を迎える頃に、大きな変化を見せます。
9月に入ってから、そのような素晴らしい発達、成長を遂げた子ども達、親子のエピソードをたくさんお聞きしました。
喃語や単語が出るようになった子、普通級に転籍後、友達ができた子、一斉授業を理解し、学力を積み重ねていけるようになった子、IQがボーダーを超え、正常域に入った子、不登校から学校に通い始めた子…。
若者たちの中にも、アルバイトが決まり、休むことなく働いている人、正社員として働き始めた人などもいました。


まさに「実りの秋」という表現がピッタリな方達です。
しかし、この「実りの秋」は、養分を蓄え、陽を浴び、根や葉を伸ばしていくという準備段階の育み、培う時期をちゃんと過ごしたからこそ、迎えられたものです。
何かをやったから、パッと実ができた、大きな変化があった、などではありません。
小さな積み重ね、目に見えないような変化を積み重ねていった結果、土台がしっかりし、一気に開花したのだといえます。


いろんなご家庭を拝見してきましたが、大きな変化、ドカンが来る子の親御さんは、どちらかといえば、粘り強い人が多い気がします。
「ドカン」という表現になるのですから、それまでほとんど変化が見られない、見られても小さな部分で、というのがほとんどです。
ですから、そういった変化がない時期を、ブレずに育み続けられるか、一つ信じた道を結果が出るまで待てるか、ということがポイントだといえます。


今日から下半期が始まりますが、これは世の中が決めたことであって、子どもが決めたことではありません。
特に年少の子ども達は、その生まれ月で、同じ学年とはいえ、発達&成長が大きく異なります。
世の中の流れの影響を受ける親御さんが、子どもの歩むスピードを見て、余計に遅く感じてしまう、焦ってしまう。
こういったことは多々あることで、特別なことではありません。


子どもを愛するがゆえに、親御さんは焦ります。
でも、焦ったからといって、急激な発達、成長が起きるわけではありません。
何故なら、発達も生き物だから。
とにかく走りまくれば、足が速くなるかと言ったら、そうではありません。
一日でも早く、タイムを縮めたいと、走ったり、筋トレしたり、別のスポーツをやったり…。
そんなことをしていたら、結局、一番大事な走力が育ちませんし、怪我だってします。
脳も、神経も、生きているので、生命としてのリズムがあるのです。


脳、神経の発達には刺激が必要です。
でも、同時に、休息も大事なのです。
刺激のシャワーから解き放たれて、ゆっくり休み、整理し、次の発達に備える時間。
やったらやっただけ伸びるわけではないのは、生き物としての宿命だといえます。


「ドカン」が来る子の親御さんは、一つのことを、信じた道をコツコツと積み重ねていける人です。
たとえ、変化が見られない時期が長かったとしても、待つことができる。
いや、待つことができるというよりは、委ねられる、という表現の方が実態に合っていると思います。


待っているような親御さんでも、内心焦っている人は多いはずです。
でも、どこかで、発達は本人のもの、という意識があるのだと思います。
その本人の持つ発達する力、それこそ、生命体としての発達に、その可能性に委ねている。
「この子は、きっと治ると思う」「大丈夫だと思う」という親御さんの言葉を後押ししているのは、子の発達する力を信じ、それに委ねることができているからだと思うのです。


親子とは言え、資質は異なっていて、同じ波長で育めない親御さんもいます。
焦ると、余計にあれこれと動きたくなる、という親御さんもいます。
それが単に、焦りからくるのでしたら、その焦りを緩めていけばいいのですが、資質として生きているスピードが異なっている人もいます。
そういった人をADHDの器質というのかもしれませんが、どうしても子の発達する力、スピードに委ねられない人、自分の方の身体が先に動いてしまう人だといえます。


このような親御さんは、何も変化の見られない準備の時期がとても苦痛に感じるようです。
すると、余計に焦って行動してしまい、あれもこれもとなって、子が、脳や神経が休息の時期を味わえません。
結果的に、さらにストレスが溜まり、お互い負のスパイラルに入ってしまうことも。
ですから、こういった資質の親御さんは、気を散らすことが大事だといえます。


子どもだけのことに、あれこれ手を出すのではなく、生活全般、人生全般にあれこれ手を出す。
趣味を始めたり、仕事で新しいことに挑戦したり、動物を飼ったり、旅行に行ったり…。
親御さんのエネルギーに、子が負けてしまっている、参ってしまっている場合もあるように感じます。
「委ねる」という静的な動作ができない親御さん、資質に合わない親御さんもいるので、そういった場合は、エネルギーを分散する、注意を分散するのがコツです。
子は、自分にエネルギーが向けられていない時間に、休むことができますので。


「ドカン」が来たというのは、それまで変化がない時期が長かったという話でもあります。
その変化のない時期をどう後押しできるか、親として子育てをコツコツ続けられるか。
土台作りは、本人がやりきるまで待つ必要があります。
しかも、脳も、神経も、生き物ですので、休息の時期も必要。


生き物である発達と向き合うとき、それに委ねられることができるか。
発達の環境を用意する、発達を後押しするのは親ですが、実際、発達させるのは子ども自身です。
ですから、どの道、委ねるしかないのです。
子どもの成長を信じ、発達する力に委ねる。
それが「ドカン」への一番の近道のような気がします。