2018年12月15日土曜日

『藤家寛子の沖縄記:治ってよかったの旅』(花風社)を読んで

昨晩、更新された藤家さんのブログを拝見し、新刊が発売されたことを知りました。
そして即効で購入!
Kindle版、電子書籍の良い面は、このように読みたい本を、出版された瞬間に読むことができることですね。
全国どこにいても、「時間の差が生まれない」というのは、「住んでいる場所に関係なく治していけるんだ」という花風社さんのメッセージを連想します。


一方で、今回の新刊は、「時間の差」「時間の移り変わり」を強く意識する内容でした。
今年の5月に沖縄に行かれたときのお話を軸に、最初に沖縄に行かれたときのお話、学校時代、闘病していた頃のお話、作業所から一般就労、そして現在のお話とを結びながら、私達読者に「時間の差」を感じさせてくれます。
時間の差とは、つまり、治っていくまでの経過、治ってからも、さらに治り続けていく時の流れです。


私も、ある程度の経験を積みましたので、どのくらいで変化が出てくるか、どのような順序で発達していくのか、本人の発達の流れを見て、将来の姿をイメージすることができます。
そういったお話を、親御さんにしますと、皆さん、喜ばれ、希望を感じられる方もいます。
でも、その喜び、希望は、朝の占いで「今日の〇〇座が一位!」というレベルなのです。
私が、今後いくら経験を積み、発達の流れが読めるようになったとしても、朝の2分間の占いから脱することはできません。


私には、ご本人や親御さんに、心からの希望を与えることはできません。
しかし、それができるのは、当事者の方の声であり、体験であり、その人が一生懸命歩まれてきた時間の流れなのです。
特に治っている方のお話は、今まさに治る道を歩まれている子ども達、親御さん達の内面、内側に届く希望です。
だからこそ、今回も私は藤家さんの本を読まれることをお勧めします。
藤家さんの本、文章、メッセージは、内側を響かせるパワーを持っているから。


藤家さんの本は、すべて読みましたし、持っています。
最初の頃の本と比べると、文章から伝わってくる雰囲気が全然違います。
文章からも、治っていることが伝わってきます。
しかも、どんどんまろやかに、伸びやかに、楽しさが伝わってくる文章に変わっています。
それは、今もなお、治り続けているから、そしてご自身の資質が磨かれ、それを人生、社会のためにどんどん活かされているからだと思うのです。


親御さんに「治る」話をすると、治った姿、ゴール、基準があるように思われる方がいらっしゃいます。
でも、「はい、この症状とこの症状が見られなくなったから、治りました」というような決まった姿があるわけではありませんし、症状がなくなり、一般の人と同じような状態になったら終わりというわけでもありません。
治ったあとも、治り続ける。
そんなことを藤家さんは教えてくれているように感じました。


ヒトは、生命が尽きるその瞬間まで変化、発達し続けます。
「治る」というのは、本人を苦しめ、生きづらさを生んでいる症状を治していくことを指すのかもしれません。
でも、そこがゴールではないのは、発達障害のあるなしに関わらず、みんな同じです。


多くの人間が、食事や生活習慣の改善を目指したり、より良く働けるよう学んだり、考えたりしていきます。
健康も、仕事も、人生も、これがゴールということはなく、生涯をかけて、より良く変わっていこうとします。
子どものときのような盛んな神経発達は起きないかもしれないけれども、より良い発達を望み、行動しているのです。


そのように考えると、治ったあとも、治り続けるのは、自然なことのように思えてきます。
どんどん良い変化が起きてくる、休むことなくより良く発達していく。
ですから、生きている間、ずっと治り続けられる姿が、目指すべき姿なのかもしれません。


今、発達障害を抱えている子どもを目の前にしますと、「すぐに治さなければならない」「早く治さなければならない」と思われる親御さん達が多いと思います。
でも、藤家さんの歩まれた“とき”からは、「大人になっても治り続ける」「子ども自身が、大人になって治し続ける」という心地良さを感じられるはずです。
「この子も、大人になって、自分自身で治していくよね」
そう思えると、今の子育てに伸びやかさが出てくるように思います。


藤家さんとは、ほぼ同世代で、私も『あぐり』は毎朝、熱心に見ていましたし、『ちゅらさん』は続編2,3,4のDVD、ゴーヤーマンのフィギアも持っているくらい好きでした。
BSで朝観てから、登校する毎日(笑)
『君の名は』『おんなは度胸』くらいから記憶アリ。
同じ時代を生きる方として、私にとっても元気や頑張る意欲、刺激を頂ける存在です。
沖縄のような温かい空気が漂う、クスッと笑えて、エネルギーを頂ける新刊でした!
高校の修学旅行以来、沖縄に行っていないので、私も旅行したくなりました。


 

2018年12月13日木曜日

未発達ゆえに、十分な発達の保障がされなかったゆえに

友人から、「教室の中には発達障害の子がいっぱいる」という話を聞きました。
他人の感情が読めない子。
離席や衝動的な行動が目立つ子。
ボーとしていて集中できない子。
一つひとつ指示がないと動けない子。


確かに症状や様子を聞けば、発達障害が疑われますし、ギョーカイ系の医療機関にかかれば、すぐに診断名もつくでしょう。
でも、私は「未発達な子ども達」のように感じます。
どちらかといえば、遺伝的な要素よりも、後天的に、育つ環境の中で、発達障害になっていったという雰囲気を感じます。


就学前の子ども達の中にも、夜の10時、11時になっても起きている子ども達が増えているそうです。
子どもは、夜になれば、起きていたくても起きれないのが自然なのに。
まだ言葉がはっきりしていない時期からタブレットで動画を何時間も観て過ごしている子どももいます。
食事も、食べたくないものは食べない、また食べなくてもいい、という家庭が普通になっている。
こういった話を聞くたびに、子どもの発達する権利は守られているのだろうか、と思います。


「寝られない子」ではなく、「寝れない子」
「食べられない子」ではなく、「食べない子」
「タブレットの刺激に圧倒されている子」ではなく、「タブレットが好きな子」
私が、子どもの神経発達について指摘すると、こういった言葉が返ってきます。
あたかも、それがその子の「個性」であるかのように。


大人の中には、寝られない人もいるし、食べられない人もいます。
四六時中、タブレットを見たり、スマホをいじったりしている人もいます。
もちろん、大人であっても、それは不健康な状態といえますが、大人ならなんとかやり過ごすことができます。
しかし、それが子どもとなれば、しかも、乳幼児となれば、影響の大きさは比べものになりません。
ある程度、神経発達が完成し終わった大人と、今まさに神経発達をしている最中の子ども。
人類の歴史の中で、たった数年、数十年の間に生まれた刺激に対し、適応できるだけの身体にはなっていないのです。


不登校の子ども達の相談もよくきます。
学校の人間関係、トラブルなどが理由として挙げられ、それに対しカウンセラーが、教員が、学校が、家庭が話し合いを続けたりします。
そして、それでも解決の糸口が掴めなければ、医療機関にかかり、発達障害という診断を受ける。
「そうか、発達障害があったから、学校に行けなくなったんだ。人間関係でトラブルが起きたんだ。勉強、学校というシステムに馴染めなかったんだ」と、周囲が一応の納得をするための答えとして診断を受けるのが、お決まりのパターン。
でも、日々の生活を振り返れば、「そりゃあ、朝起きれないよね」「学校行けないよね」「一度のトラブルで心が折れるよね」「勉強に集中できないよね、ついていけなくなるよね」ということが多いのです。


夜通し起きていれば、朝学校に行けないのは当たり前。
栄養が偏っていれば、登校する力、授業を受ける力、何事にも意欲が出なくなるのは当たり前。
しかも、それが乳幼児期から続いているとしたら。
神経発達に問題が出るのは、自然と言うか、必然だと言えます。


人類史上、経験したことのないような急激な変化、強烈な刺激の中で子育てをしている現代の私達。
当然、人間の脳みそも、身体も、そういった環境に適応するだけの準備はできていないわけです。
昔は、「子どもは勝手に育つ」なんて言われていました。
でも、今は違います。
環境の揺り戻しを、親自らが行わなければなりません。
今ある環境のまま、育てようとすると、未発達な子ども達の神経は、強い刺激の中に吸い込まれていくのです。
ですから、これからの親は、学ばなければなりません、知らなければなりません。
そして、その家庭の差が、今まで以上に、子どもの発達、成長の差になって表れるはずです。


未発達ゆえに、十分な発達の保障がされなかったゆえに、「発達障害」と診断されてしまう子ども達。
正直、いろんなご家族と関わらせてもらっていますが、「遺伝的要素って、親御さんから、そんなに感じないな」という発達障害の子が増えたように感じます。


現状の医療、診断基準なら、未発達の子も、発達保障がされてこなかった子も、「発達障害」となります。
そういった子ども達が、ギョーカイの推進するスローガン「発達障害は治りません」によって、支援と配慮と環境調整にまみれ、発達障害者っぽくなる。
挙句の果てに、飲む必要のない精神科薬を処方され、福祉の世界に収まっていく。
これは、本人、家族、社会にとって不幸なことです。


この哀しさのねっこは、乳幼児期の環境に繋がっていることもあります。
なので、知ってほしい。
子どもは、大人ではないこと。
子どもは、神経発達の真っ最中であること。
子どもと大人では、その刺激の大きさ、インパクト、影響力がまったく異なることを。
せめて、未発達、発達保障がされなかった子ども達だけでも、全員治ってほしい、いや、治すべきだし、治さないといけないと私は思うのです。

2018年12月10日月曜日

支援者が評価されるとすれば、2つしかない

「早期から療育してきたのに…」「何年間も、療育機関に通ってきたのに…」、一向に改善がみられない、課題が解決しないままでいる、といった場合があります。
その理由は、そこの療育が、子どもさんに、子どもさんの発達のニーズに合っていなかっただけ、というシンプルなもの。
しかしかながら、親御さんの中にはそう思わない人が少なくなく、「我が子の障害が重いから、改善や解決が見られないんだ」「ゆっくりしか成長できない子なんだ」と捉えるのです。


子ども自身、発達障害があろうがなかろうが、発達、成長する力を持っています。
ですから、基本的な栄養や睡眠、心身の安全が守られていれば、自然と伸びていくもの。
支援者が仰々しく、「私達の支援でここまで伸びた」なんて言うことがありますが、本人の発達の流れから見れば、ただ単に本人の持っている発達の力で進んだだけ。
支援者が関わろうが、関わらまいが、「それくらいは伸びるよね」というのが少なくありません。
第一、週に数時間関わっただけで、良いも悪いも、変化を与えられるわけはないのですから。


支援者が評価されるとすれば、2つしかありません。
本人の発達を堰止めているものを取り除いたとき。
具体的に言えば、発達のヌケを埋める、本人の誤学習をぶった切り、修正する。
もう一つは、本人の持っている発達の力、スピードよりも加速させれたとき。
「発達の流れからいって、自然とこれくらい発達するだろうな」という地点より先に、より早く進んだ場合、良い後押しができたと評価されて良いと思います。


つまり、あの支援者と関わって、「止まっていた発達が動き出したな」「発達の大きさ、スピードが変わったな」という実感を得られなければ、あまり意味がない、ということ。
「公的な機関だから」「有名な先生だから」「一回通ったら、途中で止めにくいから」「どうせ無料だし」というのは、言っちゃあ悪いけれども、親御さんの趣味嗜好。
療育を受けるのも、支援を受けるのも、子どもが主体であるのですから、子どもにとって効果があるかないか、可能性を広げるものか、という視点で考えなければなりません。


「療育に通って効果が得られないのは、我が子が重いから」というのは、支援者にまんまと洗脳されてしまっています。
「障害が重いから効果が出ない」のでしたら、支援者も、療育も、そもそもが必要ないということになります。
障害が重い子に何もできないのなら、通う必要がないのです。
じゃあ、何をしに行っているの?ですね。


障害が軽くても、重くても、症状を改善し、より良く発達、成長させるために支援者がいて、ほら、早期診断、早期療育といっているんでしょ。
それに、そもそも障害が軽い、軽度だと言っていた子ども達だって、療育機関に通えば通うほど、ギョーカイの支援を受ければ受けるほど、障害者っぽくなっていき、特別支援の世界に留まることが多い現実。
大学出た若者に、福祉的就労させて喜んでいるレベルです。
生活面だって、作ったグループホームに住まわせて、「はい、自立です」と言うのです。


ですから、「障害が重いから」は、自分たちが責められないように先手を打っているだけの話。
少しでも成長が見られれば、本人の持っている発達、成長する力には触れず、「自分たちの療育、支援のおかげ」。
もし変化が見られなければ、「それは障害が重いから」となる。
挙句の果てには、「障害受容できていないね、お母さん」と責められる始末。
そんな療育、支援を受け続ける必要、意義はどこにあるのでしょうか。


ある親御さんが、専門機関に通っていたときの話をしてくれました。
うちの子が定期的に通っていたとき、大きいお兄ちゃん、お姉ちゃん、成人した本人とその親御さんの姿をたくさん見てきた、と。
その姿を見て、「ここを利用するのは止めよう」と決心がついた、と言っていました。
つまり、ここに通い続けても、何年療育を受け続けても、改善、解決はしないと悟ったのです。
様々な世代、若者、大人たちを見てきて、障害の重さが理由ではなかったことに気がつけたそうです。


大事なのは、本人の持っている発達の力を加速できるかどうか。
その発達の後押しができるのは、親御さんだと思います。
よって無条件に療育機関や支援者に頼る必要はないのですから、ちゃんと子どもの発達、成長を加速させられているか、という視点で判断してもらいたいと思っています。

2018年12月7日金曜日

心地良いリズムを作っていく

一生懸命、子どものために情報を集めたり、試行錯誤されたりするのと、子どもにあれもこれもさせるのは、ちょっと違う話だと思います。
「早く治ってほしい」と願うのは自然な感情だといえますが、植物が水や肥料をあげ過ぎると枯れてしまうように、子どもも多すぎる刺激は、却って良くないこともあるのです。


子どもが起きている時間は、「なにか発達に繋がるものを」というように、いろんな活動をされる家庭があります。
そういった想いを持たれるのは自然だと思いますが、いつしか「そう動かなければ、うちのこは治っていかない」というようなプレッシャーを自らにかけている親御さんも少なくないように感じます。
そういった親御さんに対し、私は空白の時間の大切さを伝えています。


何もしない時間、していない時間というのは、外から見える世界です。
子どもの内側に目を向ければ、脳内のネットワークを繋げている時間であり、刺激によって起きた興奮を静め、次の発達に向けて整え、準備している時間だといえます。
特に幼少期の子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですので、特別なことをしていない時間だったとしても、内側では神経が伸びたり、繋がったり、整理したりしているのです。
ですから、空白の時間、刺激が少ない時間を過ごすのは、決して無駄な時間ではなく、むしろ、今まさに神経発達が行われている瞬間と言うこともできます。


また、空白の時間は、子どもが自ら主体的に、自分に必要な刺激、動き、遊びに向かっていける時間だといえます。
どんなに頑張っても、子ども本人になることはできません。
なので、どうしても、良かれと思ってやっている活動、与えている刺激、環境も、本人が求めているものとズレが生じてしまいます。
本人が今、求めている発達刺激と、こちらが与えようとしている発達刺激とのズレです。
そのズレを埋めるのが、空白の時間であり、その空白の時間を使って、本人が主体的に、自由に自らを育てていくのだと考えています。


子どもを治すため、より良く育てるために、日々頑張られている親御さん達の中から、「もう限界です」「私には無理です」という相談を受けることがあります。
お話を伺うと、親御さんがヘトヘトであり、子どもさんもヘトヘトという場合が多いのです。
こういった親御さん達は、能力や頑張りが足りないのではなく、バランスが崩れている、リズムが良くないだけだと思います。


朝起きてから寝るまで「強・強・強」の生活を送っていると、じっくり育つ時間、育つ準備をする時間がありません。
結果的に、親子共々、一日をこなすだけで精一杯になってしまい、ヘトヘトな毎日を過ごされることになります。
一日を終えたとき、心地良い疲れ、やりきった疲れと、ヘトヘトになる疲れは、意味合いが大きく違うと思います。
ですから、その家族、親子に合ったリズムを作っていくことも大事になります。


私の仕事のメインは家庭支援ですので、「強・強・強」のご家庭には、「弱」「静」「間」の大切さを伝えています。
つまり、発達や成長を促す頑張る部分の他に、子どもさんが休み、整理し、主体性と自由を謳歌する時間を作るということです。
そういった個々の状況や状態に合わせたリズムができてくると、親御さんもただ疲れるだけではなく、一日やり切ったという心地良い疲れを感じながら布団に入ることができます。
発達障害を治すのも、子育てするのも、短距離走ではなく、持久走です。
リズムを感じ、リズムよく歩を進めることが、継続できること、確実にゴールすることにつながります。


「治ってほしい」が、いつしか「治さないと」「治さねばならない」となると、空白の時間が苦しく感じてしまうような気がします。
でも、子どもは自分に必要な刺激、発達がわかっていて、自ら育んでいこうとすることが多々あります。
ですから、空白の時間を「何もしない時間、していない時間」ではなく、子どもが自ら育つ時間と捉えられると良いと思います。
それでも「何かしないと気が休まらない」というのでしたら、子どもが主体的に選択し、遊んでいるものを一緒になって遊ぶ。
思いっきり子どもがやりたい遊びを一緒にやるのも、発達援助です。


「あれもこれもやらなきゃ」と、しんどい思いをされているのでしたら、家族の心地良いリズムを見つけ、作られていくと良いような気がします。
心地良いリズムは、子どもの発達を伸びやかにし、心地良い疲れを得ることができます。
心地良い疲れは、明日へのエネルギーになるはずです。

2018年12月5日水曜日

言語発達とリズム

「言葉の遅れ」と一言で言っても、その状態には幅があります。
まったく言葉を発しない、発声のみの状態から、言葉は話すけれども、単語レベルだったり、語彙が少なかったり、心情などの抽象的な概念の表現ができなかったり…。
当然、状態によって、背景や課題が異なりますから、ざっくり「言葉の遅れ」などとはいわず、詳しく確認する必要があります。


同時に、言葉に関して、どのような流れ、変化があったかを確認することも必要になります。
例えば、ずっと言葉を発しない状態が続いているのか、それとも、同世代の子ども達と比べて、1,2年の遅れはあるものの、ゆっくり発達、変化が見れれているのか。
ある程度の段階まで順調に発達が見られていても、ある段階にきたら、そこで急に止まった、なんてこともあります。


でも、大事なのは、変化があるか、あったのか、です。
変化が見られたなら、そこに発達の芽があるということ。
ゆっくり発達しているのなら、方向性は間違っていないので、あとは加速させる後押しを考えれば良いだけです。


以前、関わったご家族から「言葉が出るようになりました!」というお話を聞くことができました。
まだ幼い子どもさんだったのにもかかわらず、専門家からは「言葉の遅れがあるのが自閉症だから」ということで、言葉が出るのを望むよりも、代替手段を使ってコミュニケーションすることを勧められたとのことでした。
で、ご縁があって、相談に乗らせていただいたのです。


その子とお会いしたとき、確かに言葉は発していませんでした。
でも、多分、この子は言葉が出るんじゃないか、と思ったのです。
「もう少ししたら、しゃべると思いますよ」とも言いました。
その理由は、私が話している言葉の理解があったこと。
そして何よりも、「あー」とか、「うー」といった発声の段階ではありましたが、節が見られたことが大きな理由です。
節、つまり、リズムですね。
ただ「あー」とか、「うー」とか伸ばすだけだったり、空気を吐くに近いような短い音だけだったりすると、まだ言葉が出るのは先かな、と思いますが、そこに長短や強弱、リズムが出だしたら、そろそろ言葉が出るな、言葉の準備を頑張っているな、と思います。


どうして「節」「リズム」が言葉が出る予兆になるのか、と言われたら、経験則に基づくというのが正直なところ。
「言葉が出る前には、節の段階があったな」
「単調な発声だったはずだけど、なんか節が見られるようになったな」
そういった経験の積み重ねが、いつしか発達の予測に繋がりましたし、言葉を促す発達援助の方法として『リズム』をキーワードにするようになりました。
「言葉が出るようになりました!」と教えていただいたご家族にも、『リズム』から連想した遊び、運動を提案したのでした。


後付けの理由としましては、「音楽、メロディーに合わせて身体を動かす乳幼児は、言葉の発達が早い、豊かになる」という話と、まだ言語を持たなかった私達のご先祖様も、踊りやダンスはしていたそうですし、ヒト以外の動物でもリズムのある動きをするという話。
つまり、言葉、音声言語の前段階として、リズムがあると考えられます。


『リズムに合わせて身体を動かす』から…
「動きに強弱をつけられる身体」
「一定のリズムから変更ができる身体」
「リズムがわかる耳」
「空気振動がわかる耳、感覚、身体」
「重力と付き合える身体」
「刺激過多ではなく、刺激にも強弱、リズムを」
「生体のリズム、リズムのある生活」
なんていうような連想が生まれます。


施設で働いていたとき、利用者のほとんどの方は、明確な音声言語を持っていませんでした。
ですから、みなさん、「言葉の遅れ」があった。
でも、一人ひとりをみれば、「言葉の遅れ」にも段階、違いがあったのです。
ということは、ざっくり言えば、「言葉の遅れ」は診断基準にもなっている障害特性ではありますが、段階があるということは、発達してきた過去があり、発達する芽があるということだと、当時、私は思いました。
発達した過去があるのなら、可能性のある未来だってあるはずです。


言葉の遅れは、選択肢を狭めるのが現状です。
就学時、言葉の遅れがあれば、十中八九、支援級、支援学校を勧められます、というか、ほぼ決定されてしまいます。
そうして特別支援の世界に入っていくと、ざっくり「言葉の遅れ」になって、代替手段の使用、獲得、訓練へと進んでしまうのが大部分の子ども達。
ですから、「障害特性」などと言わず、できるだけ早い時期から取り組み、発達を促しておく必要があると思います。


極論ではありますが、意味が伴わなくても、意味理解まで育っていなかったとしても、ベラベラしゃべっていれば、ある程度、明確な言葉でしゃべっていれば、普通級にいけます、いける可能性が高いのです。
現実の話として、診断を受けていないアスペルガー、高機能の子ども達は、普通に教室の中にいますので。
また小学校低学年、中学年くらいまでは、どの子も、結構、意味不明なことを言っています。
まあ、そうやって定型発達と呼ばれる子ども達も、経験し、学び、言葉、言語の面でも発達していくということ。
つまり、話すのも、理解するのも、「完璧!」だから普通級に入るのではないということです。


定型発達の子ども達には、言語の面に関しても発達の猶予が小学校時代にあるのに、診断を受けた子ども達、特に言葉の遅れがある子ども達には、その猶予が与えられない場合もあります。
私は、学力の面で普通級で学んだ方が伸びるか、支援級、支援学校で学んだ方が伸びるか、だと思っています。
トラブルを起こさず、席に座ることができて、授業がわかったら、普通級で学べばいいと思います。
でも、現実は「言葉」の部分のウエイトが大きい。


いつになったら、真の特別支援教育、一人ひとりに合わせた学びができるのかはわかりませんので、言語発達の後押しを頑張ることですね。
まずは、言葉の遅れは障害特性という頭を切り替えることから。
重度、最重度で、行動障害も激しかった方達も、言葉の発達には違い、グラデーションがありました。
ですから、諦める必要はなく、子どもの内側にある発達の芽を見つめることが大事だと思います。

2018年12月3日月曜日

発現する前に治す時代

仕事の関係で、また我が子の学校行事等で、幼稚園や保育園、学校へ行くことがあります。
そういったとき、感じるのが、定型発達と言われている子ども達の発達の課題。
特に、身体面、運動面で課題がある子、まだ未熟な子があっちも、こっちも、といった感じです。


私も子育てしていて思いますが、自然に任せておけば、勝手に発達していく、だいたいの発達課題をクリアして育っていく、というのは難しい。
遊びがどんどん乏しくなっていると感じます。
まだ私が子どもの頃なら、放課後も時間がいっぱいあったし、遊ぶ場所もたくさんありました。
公園の遊具だって、今みたいに守られたものではなく、スリルやワクワクがあったものでした。 
虫もたくさんいたし、川とか、木登りとか、あまり何々してはいけない、どこどこにいってはいけない、なんてことはなく、自由な時間を謳歌することができました。
そういう中で、当然、私の中にもあった発達の課題はいつしか育まれ、クリアされていったのだと想像します。


一方で、今の子ども達は忙し過ぎます。
学校も、小学校一年生から15時近くまで授業があるし、みんな、習い事で忙しい。
結局、親も忙しいから、子どもも習い事や学童で時間を埋めているのでしょう。
チコちゃんに怒られそうですが、ボーと生きる時間が、子ども達の脳を育む時間だったりすると思うのです。


創意工夫、身体が遊び道具の遊びから、インスタントで、部分的な遊びへの変化。
子ども達の遊びが乏しくなれば、当然、発達課題のやり残しが出てくるし、刺激の乏しさが脳の偏りを作ります。
また、食事もどんどん貧しくなっています。
長年、浴び続けてきた農薬と化学肥料により、土の栄養が貧しくなったから。
当然、その土から育った作物は、昔のような栄養素を蓄えていません。
野菜を食べても、得られたのは水分のみ、なんてことも。
栄養の偏り、乏しさは、子ども達の心身の発達にダイレクトに影響します。


私達、親世代の体内にも、いろんな要素が蓄積されているでしょう。
環境面のリスク因子を体内に貯め込み、それを子どもの世代に渡してしまったのは確かです。
そう考えると、子ども達の世代、そしてその次の子ども達の世代へと移っていくたびに、発達の課題やリスクを持った子が増えていくのは、想像に難しくありません。


きっと近い将来、赤ちゃんや幼児を対象にした運動教室、訓練が一般的になると思います。
現在でも、スポーツクラブや運動教室に通おうとしても、その前段階、基礎となる運動ができていない、身についていない子ども達も多いのですから。
基本的な動作に遅れがあるということは、乳幼児期に根っこがあるということ。
ですから、そういった子ども達が当たり前に見られる未来は、ハイハイ運動や寝返り運動など、生きる上で土台となる運動、動作を習ったり、敢えてやり直したりするニーズが生まれているはずです。
「呼吸教室」なんていって、呼吸を育てるための習い事ができたりして。


つい数年前までは、仕事で出会う親御さん達はみんな年上の方ばかりでしたが、いつしか、年下の方ばかりになりました。
子どもさんの年齢が幼いですし、その下に兄弟児もいたりします。
ですから、近頃、発達に課題がある本人だけではなく、兄弟児も一緒にみるようにしています。
最初は、自然な運動発達を見て感じてもらうため、本人の子育てのアイディアとして、兄弟に協力してもらっていたのですが。
兄弟児もより良く育ってほしいという想いから、気づいたことをアドバイスさせてもらっています。


兄弟児ですから、遺伝的要素も少なからず持っていると考えられます。
なので、早期から、お兄ちゃん、お姉ちゃんに課題が見つかる前の年齢から発達援助をやれば、発達障害の有無に関わらず、より良く育つだろうし、もし要素を沢山持っていたとしても治りが早いはずです。


次の世代、その次の世代の子ども達と併せて考えれば、発現する前に治す時代がくるでしょう。
本当の早期療育とは、そのことを言うはずです。
今みたいに、早い段階からギョーカイが唾をつけておくシステムとは根本的から違っているのです。


神経発達に課題やヌケがある子ども達に対して、神経発達を促す刺激、環境を整えれば、治っていくのも、脳内で代替のネットワークが構築されるのも、当たり前の話。
ですから、もうちょっとしたら、発現する前の子ども達を治す仕事をやろうかな、なんて思います。
あとは、治っていった元発達障害の大人たちが、家族を作り、子どもを授かったとき、その子の発達援助サービスも。
社会を変えるのも、子ども達の環境を変えるのも、土壌や食物を変えるのも、私にはできませんので、将来的には発現する前に治す仕事ですかね。
その時代を見据えて、今から準備、日々精進です。