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私の価値はご縁によるもの

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昨日までに、すべてのご家庭へ報告書を発送することができました。 子どもさんの一日、一時間、一分は、かけがえのない時間であり、その瞬間に発達の息吹が詰まっていると思っています。 ですから、できるだけ早く、特にこのお正月休み、冬休みを親子の育み合いのより良い時間にしていただきたいと願っていますので、「どうにか年内に。いや、絶対に完成させる!」という思いで報告書を作成していました。 12月中旬くらいまでは余裕があったのですが、気がついたら大晦日って感じで、ブログを書いています。 2018年の始まりは、福岡出張で、最後が北海道の旭川。 ありがたいことに、函館以外のご家族、支援者から声をかけていただくことがあった一年でした。 依頼してくださることは大変嬉しかったのですが、そのたびに「どうして私なのだろうか」と思うのでした。 私は、今まで出会った子ども達や家族から教わったこと、素晴らしい実践家の皆さんから教えてもらったことを自分なりに咀嚼してお伝えしているだけです。 私自体に、何かスペシャルなものがあるわけではありません。 ですから、わざわざ交通費や宿泊費を負担して頂いてまでも、私がお伺いする価値があるのだろうか、と悩むことがありました。 実際、「ご家庭でできることがあります」「私を呼ばなくても、方法はあります」「小田原の方が近いですよ」「同じお金で、鹿児島に行けます」などお伝えし、ご依頼を取り下げていただいたご家族もいました。 改めて、こうして一年を振り返ってみますと、自分に価値があるから依頼があったわけではないのだと感じます。 そして、訪問したご家族、相談のやり取りをさせてもらったご家族が、みなさん、我が子を治し、より良い育みをされているから、私に依頼があったのだと思いました。 みなさんがどんどん治し、子どもさん達が伸びやかに成長していく姿を見せてくれるから、「じゃあ、うちも相談してみようか」となるのでしょう。 なので、私が持っているのは、素晴らしいご家族との縁だと考えています。 いろんな縁や経験、知見をいただいた一年でした。 いただいたものを、また次の人へ、新たなご家族へ、少しグレードアップしてお渡しするのが、私の役割のような気がしています。 私に依頼、仕事が来るのは、我が子の将来を世界のだれよりも真剣に考え、より良い子育

内側に流れている時間がズレている

「学校の授業に集中できない」 「指示されたこと、やらなければならないことを、すぐに忘れてしまう」 「人の話を聞くことができない」 こういった状態像を報告すれば、すぐに発達障害、ADHDの診断名が付きますね。 それで、お決まりの服薬が始まります。 集中力の問題で、診断を受け、それから相談に来られる方は少なくありません。 「うちの子、集中できないんです」 「注意散漫で困っています」 と親御さんは言われるのですが、子どもさんは横でゲームに没頭しているんですね。 相談の間中、ずっとゲームしていますので、「お子さん、集中力あるじゃないですか」と言うと、ゲームに関しては、自分が好きなことに関しては、と返ってきます。 ゲームに集中するのが、「好きだから」と捉えている限り、一生答えは出ませんね。 じゃあ、授業が面白くなれば、集中するのか、と言ったら、そうではありませんし。 第一、興味関心の問題だとしたら、服薬する意味がなくなってしまいます。 こういった子ども達の多くは、ゲームが好きだからやっているのではなく、ゲームに主体、身体、生活が浸食されてしまっているんです。 発達の物語を見ても、特に発達のヌケが見当たらない。 親御さんからも、遺伝的な雰囲気を感じない。 でも、本人はADHD。 そうなると、環境要因が匂います。 私は、子どもさんに訊きますね、「ゲーム、面白いの?」と。 すると、ほとんどの子どもさんが「わからない」と答えます。 わからないけれども、やっている。 本人たちも、どうして、こんなにもゲームをしているか、わからなくなっているんですね。 それくらい、圧倒されてしまっている、生活の一部になってしまっている、ということなんです。 ゲームをすること自体は、悪いことではないのかもしれません。 でもね、700万年の人類の歴史の中で、こんなに強い光、スピードの速い刺激は存在しなかったのです。 700万年中、699万9980年くらいは、自然界になかった刺激。 それに対応できるだけの脳も、身体も、まだ進化していないといえます。 ですから、まず第一に、「ゲームのやり過ぎが、人体に影響しているんじゃね」と思わなくちゃいけません。 タブレット、動画、DVDも同じです。 目から、耳から入ってくる刺激に対し、子どもの感

『藤家寛子の減薬記』(花風社)を読んで

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先週に引き続き、花風社さんから藤家寛子さんが書かれた新刊(Kindle版)が発売されました。 今回の内容は、薬。 長年、薬を服用されてきた藤家さんが減薬を遂げるまでの出来事、内面の変化。 それがリアルに伝わってくる文章でした。 文章の中には、具体的な薬の名前が出ていました。 出てきた精神科薬を見て、正直、私は驚きました。 もちろん、どのくらいの量を飲まれていたかまではわかりませんが、出てくる薬の名前は、私が施設で働いていたとき、強度行動障害を持った方、しかも、みなさん、重度、最重度、測定不能とまで言われるような知的障害を持たれた方が日常的に服薬されていたものでした。 薬の管理と服薬の介助は、職員である私達が行っていましたので、「あの薬を藤家さんも飲まれていたのか」と思うと、驚くばかりでした。 藤家さんが服薬されて体験されたこと、感じられたことは、当然、施設にいた方達も同じように体験され、感じられていたと思います。 もしかしたら、彼らのみせた激しい行動、気分の上下も、副作用の表れだったかもしれない、と感じました。 すべてがすべて、彼らの特性であり、強度行動障害ゆえ、だったとは言えないかもしれません。 服薬の種類や量が変わったとき、彼らはそれまで以上に不安定さをみせることがありました。 しかし、それが副作用かどうか、薬の変化から起きたものなのかを証明することはできませんでした。 何故なら、薬を体内に入れた本人しか、その感覚はわからないからです。 ましてや、薬が変わるということのほとんどは、本人の状態や行動障害がネガティブな方向へ進んだからであり、それらを落ち着かせるために処方がされたのです。 薬の変更後の“荒れ”は日常であり、医師からも「ある程度、飲み続けないとわからないから」と言われますので、ときが過ぎるのを待つわけです。 一方で、薬の変更後、すぐに激しい行動が収まることもあります。 でも、その場合の多くは、激しい行動と同時に、覇気、精気まで失うのです。 行動障害が収まったのではなく、行動障害が起こせなくなるから収まった、というのが実態だと思います。 そのため、「覇気や精気、気力が失ってしまいました。これでは学校や作業、日常生活に支障が出ます」と報告しますが、「じゃあ、元の激しい行動のときに戻っていいの?」と返って

『藤家寛子の沖縄記:治ってよかったの旅』(花風社)を読んで

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昨晩、更新された藤家さんのブログを拝見し、新刊が発売されたことを知りました。 そして即効で購入! Kindle版、電子書籍の良い面は、このように読みたい本を、出版された瞬間に読むことができることですね。 全国どこにいても、「時間の差が生まれない」というのは、「住んでいる場所に関係なく治していけるんだ」という花風社さんのメッセージを連想します。 一方で、今回の新刊は、「時間の差」「時間の移り変わり」を強く意識する内容でした。 今年の5月に沖縄に行かれたときのお話を軸に、最初に沖縄に行かれたときのお話、学校時代、闘病していた頃のお話、作業所から一般就労、そして現在のお話とを結びながら、私達読者に「時間の差」を感じさせてくれます。 時間の差とは、つまり、治っていくまでの経過、治ってからも、さらに治り続けていく時の流れです。 私も、ある程度の経験を積みましたので、どのくらいで変化が出てくるか、どのような順序で発達していくのか、本人の発達の流れを見て、将来の姿をイメージすることができます。 そういったお話を、親御さんにしますと、皆さん、喜ばれ、希望を感じられる方もいます。 でも、その喜び、希望は、朝の占いで「今日の〇〇座が一位!」というレベルなのです。 私が、今後いくら経験を積み、発達の流れが読めるようになったとしても、朝の2分間の占いから脱することはできません。 私には、ご本人や親御さんに、心からの希望を与えることはできません。 しかし、それができるのは、当事者の方の声であり、体験であり、その人が一生懸命歩まれてきた時間の流れなのです。 特に治っている方のお話は、今まさに治る道を歩まれている子ども達、親御さん達の内面、内側に届く希望です。 だからこそ、今回も私は藤家さんの本を読まれることをお勧めします。 藤家さんの本、文章、メッセージは、内側を響かせるパワーを持っているから。 藤家さんの本は、すべて読みましたし、持っています。 最初の頃の本と比べると、文章から伝わってくる雰囲気が全然違います。 文章からも、治っていることが伝わってきます。 しかも、どんどんまろやかに、伸びやかに、楽しさが伝わってくる文章に変わっています。 それは、今もなお、治り続けているから、そしてご自身の資質が磨かれ、それを人生、社会のためにどんどん

未発達ゆえに、十分な発達の保障がされなかったゆえに

友人から、「教室の中には発達障害の子がいっぱいる」という話を聞きました。 他人の感情が読めない子。 離席や衝動的な行動が目立つ子。 ボーとしていて集中できない子。 一つひとつ指示がないと動けない子。 確かに症状や様子を聞けば、発達障害が疑われますし、ギョーカイ系の医療機関にかかれば、すぐに診断名もつくでしょう。 でも、私は「未発達な子ども達」のように感じます。 どちらかといえば、遺伝的な要素よりも、後天的に、育つ環境の中で、発達障害になっていったという雰囲気を感じます。 就学前の子ども達の中にも、夜の10時、11時になっても起きている子ども達が増えているそうです。 子どもは、夜になれば、起きていたくても起きれないのが自然なのに。 まだ言葉がはっきりしていない時期からタブレットで動画を何時間も観て過ごしている子どももいます。 食事も、食べたくないものは食べない、また食べなくてもいい、という家庭が普通になっている。 こういった話を聞くたびに、子どもの発達する権利は守られているのだろうか、と思います。 「寝られない子」ではなく、「寝れない子」 「食べられない子」ではなく、「食べない子」 「タブレットの刺激に圧倒されている子」ではなく、「タブレットが好きな子」 私が、子どもの神経発達について指摘すると、こういった言葉が返ってきます。 あたかも、それがその子の「個性」であるかのように。 大人の中には、寝られない人もいるし、食べられない人もいます。 四六時中、タブレットを見たり、スマホをいじったりしている人もいます。 もちろん、大人であっても、それは不健康な状態といえますが、大人ならなんとかやり過ごすことができます。 しかし、それが子どもとなれば、しかも、乳幼児となれば、影響の大きさは比べものになりません。 ある程度、神経発達が完成し終わった大人と、今まさに神経発達をしている最中の子ども。 人類の歴史の中で、たった数年、数十年の間に生まれた刺激に対し、適応できるだけの身体にはなっていないのです。 不登校の子ども達の相談もよくきます。 学校の人間関係、トラブルなどが理由として挙げられ、それに対しカウンセラーが、教員が、学校が、家庭が話し合いを続けたりします。 そして、それでも解決の糸口が掴めなければ、医療機関

支援者が評価されるとすれば、2つしかない

「早期から療育してきたのに…」「何年間も、療育機関に通ってきたのに…」、一向に改善がみられない、課題が解決しないままでいる、といった場合があります。 その理由は、そこの療育が、子どもさんに、子どもさんの発達のニーズに合っていなかっただけ、というシンプルなもの。 しかしかながら、親御さんの中にはそう思わない人が少なくなく、「我が子の障害が重いから、改善や解決が見られないんだ」「ゆっくりしか成長できない子なんだ」と捉えるのです。 子ども自身、発達障害があろうがなかろうが、発達、成長する力を持っています。 ですから、基本的な栄養や睡眠、心身の安全が守られていれば、自然と伸びていくもの。 支援者が仰々しく、「私達の支援でここまで伸びた」なんて言うことがありますが、本人の発達の流れから見れば、ただ単に本人の持っている発達の力で進んだだけ。 支援者が関わろうが、関わらまいが、「それくらいは伸びるよね」というのが少なくありません。 第一、週に数時間関わっただけで、良いも悪いも、変化を与えられるわけはないのですから。 支援者が評価されるとすれば、2つしかありません。 本人の発達を堰止めているものを取り除いたとき。 具体的に言えば、発達のヌケを埋める、本人の誤学習をぶった切り、修正する。 もう一つは、本人の持っている発達の力、スピードよりも加速させれたとき。 「発達の流れからいって、自然とこれくらい発達するだろうな」という地点より先に、より早く進んだ場合、良い後押しができたと評価されて良いと思います。 つまり、あの支援者と関わって、「止まっていた発達が動き出したな」「発達の大きさ、スピードが変わったな」という実感を得られなければ、あまり意味がない、ということ。 「公的な機関だから」「有名な先生だから」「一回通ったら、途中で止めにくいから」「どうせ無料だし」というのは、言っちゃあ悪いけれども、親御さんの趣味嗜好。 療育を受けるのも、支援を受けるのも、子どもが主体であるのですから、子どもにとって効果があるかないか、可能性を広げるものか、という視点で考えなければなりません。 「療育に通って効果が得られないのは、我が子が重いから」というのは、支援者にまんまと洗脳されてしまっています。 「障害が重いから効果が出ない」のでしたら、支援者も、療育も

心地良いリズムを作っていく

一生懸命、子どものために情報を集めたり、試行錯誤されたりするのと、子どもにあれもこれもさせるのは、ちょっと違う話だと思います。 「早く治ってほしい」と願うのは自然な感情だといえますが、植物が水や肥料をあげ過ぎると枯れてしまうように、子どもも多すぎる刺激は、却って良くないこともあるのです。 子どもが起きている時間は、「なにか発達に繋がるものを」というように、いろんな活動をされる家庭があります。 そういった想いを持たれるのは自然だと思いますが、いつしか「そう動かなければ、うちのこは治っていかない」というようなプレッシャーを自らにかけている親御さんも少なくないように感じます。 そういった親御さんに対し、私は空白の時間の大切さを伝えています。 何もしない時間、していない時間というのは、外から見える世界です。 子どもの内側に目を向ければ、脳内のネットワークを繋げている時間であり、刺激によって起きた興奮を静め、次の発達に向けて整え、準備している時間だといえます。 特に幼少期の子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですので、特別なことをしていない時間だったとしても、内側では神経が伸びたり、繋がったり、整理したりしているのです。 ですから、空白の時間、刺激が少ない時間を過ごすのは、決して無駄な時間ではなく、むしろ、今まさに神経発達が行われている瞬間と言うこともできます。 また、空白の時間は、子どもが自ら主体的に、自分に必要な刺激、動き、遊びに向かっていける時間だといえます。 どんなに頑張っても、子ども本人になることはできません。 なので、どうしても、良かれと思ってやっている活動、与えている刺激、環境も、本人が求めているものとズレが生じてしまいます。 本人が今、求めている発達刺激と、こちらが与えようとしている発達刺激とのズレです。 そのズレを埋めるのが、空白の時間であり、その空白の時間を使って、本人が主体的に、自由に自らを育てていくのだと考えています。 子どもを治すため、より良く育てるために、日々頑張られている親御さん達の中から、「もう限界です」「私には無理です」という相談を受けることがあります。 お話を伺うと、親御さんがヘトヘトであり、子どもさんもヘトヘトという場合が多いのです。 こういった親御さん達は、能力や頑張りが足りないのではな

言語発達とリズム

「言葉の遅れ」と一言で言っても、その状態には幅があります。 まったく言葉を発しない、発声のみの状態から、言葉は話すけれども、単語レベルだったり、語彙が少なかったり、心情などの抽象的な概念の表現ができなかったり…。 当然、状態によって、背景や課題が異なりますから、ざっくり「言葉の遅れ」などとはいわず、詳しく確認する必要があります。 同時に、言葉に関して、どのような流れ、変化があったかを確認することも必要になります。 例えば、ずっと言葉を発しない状態が続いているのか、それとも、同世代の子ども達と比べて、1,2年の遅れはあるものの、ゆっくり発達、変化が見れれているのか。 ある程度の段階まで順調に発達が見られていても、ある段階にきたら、そこで急に止まった、なんてこともあります。 でも、大事なのは、変化があるか、あったのか、です。 変化が見られたなら、そこに発達の芽があるということ。 ゆっくり発達しているのなら、方向性は間違っていないので、あとは加速させる後押しを考えれば良いだけです。 以前、関わったご家族から「言葉が出るようになりました!」というお話を聞くことができました。 まだ幼い子どもさんだったのにもかかわらず、専門家からは「言葉の遅れがあるのが自閉症だから」ということで、言葉が出るのを望むよりも、代替手段を使ってコミュニケーションすることを勧められたとのことでした。 で、ご縁があって、相談に乗らせていただいたのです。 その子とお会いしたとき、確かに言葉は発していませんでした。 でも、多分、この子は言葉が出るんじゃないか、と思ったのです。 「もう少ししたら、しゃべると思いますよ」とも言いました。 その理由は、私が話している言葉の理解があったこと。 そして何よりも、「あー」とか、「うー」といった発声の段階ではありましたが、節が見られたことが大きな理由です。 節、つまり、リズムですね。 ただ「あー」とか、「うー」とか伸ばすだけだったり、空気を吐くに近いような短い音だけだったりすると、まだ言葉が出るのは先かな、と思いますが、そこに長短や強弱、リズムが出だしたら、そろそろ言葉が出るな、言葉の準備を頑張っているな、と思います。 どうして「節」「リズム」が言葉が出る予兆になるのか、と言われたら、経験則に基づくというのが正直な

発症する前に治す時代

仕事の関係で、また我が子の学校行事等で、幼稚園や保育園、学校へ行くことがあります。 そういったとき、感じるのが、定型発達と言われている子ども達の発達の課題。 特に、身体面、運動面で課題がある子、まだ未熟な子があっちも、こっちも、といった感じです。 私も子育てしていて思いますが、自然に任せておけば、勝手に発達していく、だいたいの発達課題をクリアして育っていく、というのは難しい。 遊びがどんどん乏しくなっていると感じます。 まだ私が子どもの頃なら、放課後も時間がいっぱいあったし、遊ぶ場所もたくさんありました。 公園の遊具だって、今みたいに守られたものではなく、スリルやワクワクがあったものでした。  虫もたくさんいたし、川とか、木登りとか、あまり何々してはいけない、どこどこにいってはいけない、なんてことはなく、自由な時間を謳歌することができました。 そういう中で、当然、私の中にもあった発達の課題はいつしか育まれ、クリアされていったのだと想像します。 一方で、今の子ども達は忙し過ぎます。 学校も、小学校一年生から15時近くまで授業があるし、みんな、習い事で忙しい。 結局、親も忙しいから、子どもも習い事や学童で時間を埋めているのでしょう。 チコちゃんに怒られそうですが、ボーと生きる時間が、子ども達の脳を育む時間だったりすると思うのです。 創意工夫、身体が遊び道具の遊びから、インスタントで、部分的な遊びへの変化。 子ども達の遊びが乏しくなれば、当然、発達課題のやり残しが出てくるし、刺激の乏しさが脳の偏りを作ります。 また、食事もどんどん貧しくなっています。 長年、浴び続けてきた農薬と化学肥料により、土の栄養が貧しくなったから。 当然、その土から育った作物は、昔のような栄養素を蓄えていません。 野菜を食べても、得られたのは水分のみ、なんてことも。 栄養の偏り、乏しさは、子ども達の心身の発達にダイレクトに影響します。 私達、親世代の体内にも、いろんな要素が蓄積されているでしょう。 環境面のリスク因子を体内に貯め込み、それを子どもの世代に渡してしまったのは確かです。 そう考えると、子ども達の世代、そしてその次の子ども達の世代へと移っていくたびに、発達の課題やリスクを持った子が増えていくのは、想像に難しくありません。 き