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家でできる将来の生活の疑似体験

将来、自分でアパートを借りたり、グループホーム、入所施設などの利用を考えている人たちに提案です。 それは「家で疑似体験をしてみる」ということです。 例えば、自分の部屋を間借りした一室だとします。 その部屋の中に、一人分の衣類が干せる洗濯物ポールを置いたり、テレビ、冷蔵庫、掃除機、衣類一式などを置いたりします。 つまり一通りの生活ができるものを部屋に準備します。 そして、その環境の中で、どのくらい一人で生活できるかを体験してみます。 体験することによって、将来の生活の中で必要なスキルはどのくらい獲得できているか、を確認することができます。 また、現状を確認することによって、どのスキルを今後教えていったらよいのか、どのようなスキルは手助けが必要なのか、についても確認することができます。 本人たちにとっても良い点があります。 自閉症の人の中には、変化に対応することが苦手な人が多くいます。 疑似体験をしておくことで変化が少なくなり、まったく何もしていなかった場合よりも、将来、生活環境が変わったときに本人の負担を減らし、スムーズに移行することができる可能性が高くなります。 これは将来の変化への準備です。 そして、完全な自立した生活とは言えないまでも、予め似たような状況で練習をすることにもなるので、練習したことをそのまま新しい場所でも行える可能性が高くなります。 疑似体験は生活に必要なスキルだけではなく、自閉症の人たちに様々なことを教える上で有効な方法になります。 例えば、買い物の仕方を学習するとします。 そのとき、身近にあるものでお店をつくり、支援者が定員の役をし、本人がそこで買い物の練習をします。 いわゆる実物大のお店屋さんごっこをするようなものです。 このような教え方が有効な理由は、上記で挙げたことと同じです。 いきなり実際のお店に行くと、環境の変化が大きく、本人にとって負担が多くなりますので、その変化を少なくする効果があります。 また、机上で学んだことを実際の場面に応用することは苦手なので、実際に近い環境で学ぶことの方が学んだことをそのまま生かせるので、学習の効果が高くなります。 このように疑似体験をすることは、本人の様子を確認することができ、また、自閉症の人たちの学び方に合っていますのでお勧めできます。 もし部屋がなく

言葉を理解しているか、確認する方法

昨日のブログと関連して、「言葉を理解している」と判断するには、1つ注意しなければならないことがあります。 それは言葉を聞いて「その意味を理解しているのか」と「パターンで動いていないか」を見極めることです。 自閉症の人たちは、物事の意味を理解するよりも、パターンで行動を覚える方が得意です。 過去の記憶から、「同じ状況で、声を掛けられ、このような行動をした」ということを1つのパターンとして覚えていて、それを再現しているといった場合もあります。 例えば、食事の前に手を洗うように言ったとします。 「手を洗って」と言ったら、洗面所に行って手を洗うので、言葉を理解しているように見えます。 しかし、本人の視点で物事を捉えると、「テーブルの上に食事が用意される」→「お母さんが声を掛ける」→「手を洗う」→「ご飯が食べられる」という一連の流れを1つのパターンとして記憶している場合があります。 この場合、言葉を理解していなくても、適切な行動を過去の記憶から導き出すことができます。 では、言葉を理解しているかどうかを見極めるには、どのようにすれば良いのでしょうか? それは、いつもとパターンを変えてみることでわかります。 例えば、状況を変えてみます。 いつもは食事の前に「手を洗って」と言っていたのを「食事の後」や「寝る前」など、別の状況で行ってみます。 もし本当に言葉の意味を理解しているのなら、どのような状況でも適切な行動ができるはずです。 また、いつもはお母さんが言う言葉をお父さんが言ってみる、お祖父さんや兄弟など、いつもと人を変えて言ってみるといったことも有効です。 そして、場所を変えて、同じ言葉を言ってみるのも良いと思います。 ここでは言葉の理解を確かめる方法を書きました。 反対に、言葉の理解を伸ばす場合は、自閉症の人たちが得意な「パターンで覚える」ことを活かし、1つのパターンで覚えた言葉を他の状況や人でも理解できるように練習し、少しずつパターンに幅を持たせることで、言葉の理解を確かなものにしていくといった方法があります。

言葉を"話す"ことと"理解する"ことは別

昨日まで言えなかったことが、朝起きると、はっきり言えるようになっている。 こんな息子の様子をこの頃、よく見ることができます。 「あ~」とか、「ば~」とかしか言っていなくても、物事の名前や大人が言っていることが分かっていたのだ、と知ることができます。 自閉症の人の中には、言葉で話すことが苦手な人が多くいます。 しかし、彼らがはっきり言えないからといって、言葉を理解していないか、といったらそうとも言えません。 私がアメリカの専門家たちから教えてもらったことに、「言葉を"話す"ことと"理解する"ことを別々に捉えなければならない」ということがあります。 一見、言葉が話せないと、言葉の理解もしていないのでは、と思ってしまいがちです。 しかし、話すことと理解することは別の能力だと言えます。 ですから、「話すことはこれくらいできる」「理解することはこれくらいできる」といったように、別々に確認することが大切です。 目標もそれぞれのレベルに合わせて、計画していく必要があります。 言葉を話すことが苦手だからといって、「こちらから言葉で話しかけることはやめよう」と思う必要はありません。 言葉でうまく話せなくても、私たちの言葉をちゃんと理解している可能性があります。 言葉で話すことと理解することとを分けて考えることによって、自閉症の人たちの可能性に気が付くことがあるかもしれません。

メガネ論争の終焉

「社会に出たら、構造化された支援なんてないのだから、このような支援は外していく」と言う人がいる。 それに対し、「構造化された支援は、目が悪い人にとってもメガネのようなもの。だから、外して生活しろ、というのはおかしい」と反論する人がいる。 このような主張の違いは、私が学生だったときから存在していた。 10年経った今でも、同じような主張が繰り返されている。 では、私はどのように考えているかというと、「それが本人にとって必要な手立てなら、取り上げてしまうことは間違っている」という意見である。 つまり、メガネ必要派の立場だ。 そもそも本人のものである構造化された支援を他者が取り上げるという意味が私にはわからない。 必要かどうかを決めるのは、本人である。 もし本人がうまくコミュニケーションが取れなかったとしても、構造化された支援があるのと、ないのとを比べ、あることで落ち着いたり、周囲から求められている内容がわかったり、学習の効果が上がったりするなら、本人にとって必要な手立てだ、と言える。 確かに社会に出たら、本人のための構造化された支援はほとんどない。 しかし、だからと言って、構造化された支援を使わなくていい、という話にはならない。 ときに、「社会に近い環境にし、慣れさせる」と言う人がいる。 でも、社会に近い環境の中で過ごして慣れられるなら、そもそも構造化された支援という発想自体が必要なくなる。 "慣れ"でどうにかなるなら、初めから普通学校で定型発達の子どもたちと学べば良い。 自閉症の特性は、"慣れ"などでは乗り越えられないので、構造化された支援が存在している。 また、メガネを外す派の人たちは、構造化された支援の本質を捉えていない場合もある。 「将来、使うか、使わないか」について議論することはあまり意味がない。 構造化された支援は、簡単に言うと、自閉症の人たちの学習の効果を最大限に高めるための手だてである。 構造化することが目的ではなく、構造化することによって、自閉症の人たちがよりよく学べることが目的である。 支援者が自閉症の人たちに学ぶことの最適な環境を準備することに対し、否定する人はいないはずである。 しかし、最後にメガネ必要派の人たちも頭に入れておかなければならないことを言いたい。

「ロボットみたいな支援」と見られないように

「ロボットみたいな支援」だと、構造化された支援が見られてしまうには、支援者側にも問題がある。 構造化された支援は、自閉症本人のためのものである。 それが支援者側に構造化された支援があると「ロボットみたいな支援」に見えてしまう。 支援者が構造化された支援を、自閉症の人たちをコントロールするためだけに使っていると、「ロボットみたいな支援」に見えてしまう。 自閉症の人たちは、支援者が提示した構造化された支援からはみ出すことを制止される。 指示された通り、提示された通りに動くしか選択肢がないのなら、そこに本人の意思が入る余地がなく、ただ決められた通り動いている、ということになる。 それはまさしく「ロボットみたいな支援」である。 では「ロボットみたいな支援」にならないにはどうしたら良いのだろうか。 それは「選択」と「悩み」の要素が必要である、と私は考えている。 「選択」があることでどちらが良いか、どのような方法が良いか、「悩み」があることでどのように対処して良いか、自分で考えることになるし、主体的に行動することにつながる。 つまり「自分で考える」という要素を入れることにより、構造化された支援は自閉症本人のためのものになり、自ら行動することを助ける道具になる。 構造化された支援によって、自閉症の人たちが学びやすい状況を作り出し、主体的に学ぶことができるようになる。 見る側も、見せる側も、本質を見抜く力が必要である。 印象だけで、物事の良し悪しは決まらない。

「ロボットみたいな支援」の意図

構造化された支援を「ロボットみたいな支援」と表現する人がいる。 確かに、カードを手に持ち、目的地まで行く姿。 言葉ではなく、カードや物を手渡すことで、相手に要求を伝えている姿。 衝立に囲まれた中で、活動する姿。 人と人との交流が少なく見えるそのような姿に、ロボットのような支援と感じてしまう気持ちもわからなくない。 予期せぬことに対し、不安を感じやすい自閉症の人たちは、構造化された支援によって、これから起こることを理解し、安心して学習に取り組むことができる。 周囲の刺激に対し、影響を受けやすい自閉症の人たちは、構造化された支援によって、余計な刺激に注意を奪われることがなく、目的の活動に集中することができる。 もし、構造化された支援がなければ、自閉症の人たちは刺激に翻弄され、不安の中で学ぶことになる。 集中して学習するには、常に支援者の手助けや指示を受けなくてはならなくなる。 つまり、構造化された支援は、自閉症の人たちが主体的に学習することを助け、学習の効果を高めるという意図がある。 このような意図を知らない人が見れば、「ロボットのような支援」と感じてしまうのも無理がない。 支援者は、どうして構造化された支援が自閉症の人たちに必要かを説明できなくてはならない。 見ただけの印象で構造化された支援が敬遠されるなら、自閉症の人たちにとって、これ以上マイナスなことはない。

教え、育てること

教育という言葉は、「教える」という字と「育てる」という字が並び、成り立っている。 「教える」ことと同様に、「育てる」ことも大切だ、という意味があると私は解釈している。 私は自閉症の人たちの支援に関わるとき、一人ひとりに合わせて教えていくことと同様に、一人ひとりが自らの力で育っていけることについても配慮している。 "育っていけることの配慮"を具体的に書くと、「悩ますこと」と「環境を整えること」になる。 自閉症の人たちは、失敗から学ぶことが苦手なので、支援者が先回りして本人が躓かないようにすることがある。 しかし、そればかりであると、自ら考えることが少なくなる。 ときには、「敢えて悩ませる場面を作り出し、過去の経験や周囲の状況から答えを導き出す」といった自らで考えることも、本人たちが育っていけることにつながる、と思っている。 自閉症の人たちは、周囲の状況や意味を読み取ることが苦手である。 また、周囲の刺激に影響され、学習に注目や集中が向きづらいこともある。 だからこそ「環境を整えること」により、周囲の状況や意味を読み取れるようになったり、学習に集中できるようになったりすることで、自ら学び、育っていけるようにする、ということである。 家庭や学校を一歩出ると、いろいろな物事に対し、自分の頭で考え、対処していくことが多くなる。 すべての物事を側について教えていくわけにはいかない環境である。 日々の学習や生活の中に、少しでも自分で考える場面を入れていくことで、自ら育っていける人間へと成長していく。 教えるだけではなく、自ら育つような状況へ導いていくことも重要である、と私は考えている。

4000本のヒット

大リーグのイチロー選手は、私たちに大事なことを教えてくれていると思う。 大記録である4000本のヒットを打った日、イチロー選手は「4000本のヒットを打つには、8000回以上は悔しい思いをしてきている」とコメントしている。 私たちはどうしても結果に目が向いてしまう。 記録の後ろには、努力や苦労があることに気が付けないことがある。 どのような記録も数字を積み重ねた結果である、と教えてくれているようだ。 突然、世界のイチローになったわけではない、と。 自閉症の人たちも何かができるようになるまでには、数多くの積み重ねがあった、と思っている。 本人たちの頑張りはもちろん、陰で支えたり、一緒に練習を重ねてきたりした保護者の人たちや支援者の人たちがいる。 長い年月をかけて、一歩ずつ歩んできた結果、できるようになった、というお話を保護者の人たちから聞かせていただくことがある。 そんなとき、やっていることは一人ひとり違うかもしれないが、その歩んできた歩数は誇れる数字であり、本人と同じくらい保護者の人たちも努力や苦労を重ねてきた数字だと思う。 中には結果だけを見て、コメントする人もいる、と思う。 でも、私はその結果の後ろにある歩んできた数と支えてきた人たちに敬意を持てる支援者になりたい。 本人や支えてきた人たちの努力の結果だ、と気づいている人間は必ずいる。 てらっこ塾の1本目のヒットは私が打った。 しかし、2本目、3本目のヒットは、私が打つのではない、と思っている。 次のヒットを打つのは、利用してくれる自閉症の人たちだ、と思っている。 私はイチロー選手のようなスーパースターではない。 だから一人でヒットを重ねていくことはできない。 1回サービスを利用してくれるたびに、ヒットの数が重なっていく。 そして気が付いたとき、大きな数になり、結果として地域が変わっているのだ、と思っている。 まだまだ遠い道のりではあるが、一つひとつが大事であり、どのヒットも同じ価値がある。 本人が変わるにも、地域が変わるにも、一つずつの積み重ねが必要である。

手に持てる自閉症支援

私は「難しいことを分かりやすく説明できる人」に出会うと、本物のプロフェッショナルだ、と感じます。 難しいことを難しく説明することは、ある程度勉強した人ならできる、と思います。 しかし、難しいことを分かりやすく説明するには、専門的な知識はもちろん、豊富な経験や幅広い視点を持っている必要がある、と思います。 専門家同士なら問題ありませんが、保護者の人たちに対し、専門用語や横文字を多用することは考えものです。 もちろん、保護者の人たちも知っておいた方が良い言葉はたくさんあります。 そのときは、専門用語などを使いますが、必ずその言葉について分かりやすく説明する必要がある、と考えています。 せっかく専門的な人と一緒に支援を行っていこうとしているときに、専門用語や横文字が出てくると、支援が自分たちの手から離れ、遠くに行ってしまう、というような印象を持たれる保護者の人たちの話をよく耳にします。 私は、『保護者の人たちが手に持てる支援を行っていきたい』と考えています。 そのためには、保護者の人たちが「わかった!」と感じてもらえることが大切です。 自閉症の人たち同様に、保護者の人たちも"わかりやすい"ことがやる気につながっていく、と考えています。 自閉症に関する知識や本人の行動の背景等をわかりやすく説明することにより、保護者の人たちが自閉症支援を身近なものに感じてもらえることを目指しています。 私は自閉症と保護者の間に入る通訳のようになりたい、と思ってきました。 自閉症支援は専門家のものではありません。 自閉症の人たちに関わるみんなが参加できるものです。 身近な課題を保護者の人たちと一緒に解決していくことを通して、みなさんに自閉症の人たちと関わることが楽しくなってもらえれば、と思っています。

私の思い

「大きな組織には、大きな組織の役割がある」と思います。 反対に、「小さな組織には、小さな組織の役割がある」と思います。 私は、『どちらの役割も大切であり、共存できる』と思っています。 私は、今まで施設や学校、TEACCHプログラムから学ばせてもらったことを地域の自閉症の人たちとその家族のために還元したい、と考えています。 本人や家族の人たちが、少しでも「生活しやすくなった」「できることが増えた」「前向きになれた」と感じてもらえるような仕事がしたいだけです。 小さな組織だからできる「一人ひとりに時間を掛けて向き合う」「どんな些細なことでも一緒に考えられる」「時間や場所の融通」を大切にしています。 自閉症の人や家族の人たちをサポートできる人間は、地域に一人でも多くいる方が良い、と思います。 自閉症支援に関わる人たちが、みんなプラスになることをやっていきましょう!

自分の感情を自分でコントロールする

自分の感情をコントロールできることは大切です。 ストレスを感じたとき、どのように対処するか? 気分が落ち込んだとき、どのようにして平常心を取り戻すか? 気分が上がりすぎたとき、どのようにして気分を落ち着かせていくか? 我慢や罰を与えるなどの精神論では、感情をコントロールできるようにはならない、と思います。 それは自閉症の人たちが、その我慢や罰の先にある目的まで気付けず、ただ苦痛を感じただけになる可能性が高いからです。 やはり具体的な行動を学習することの方が、自閉症の人たちの学習の仕方に合っている、と考えられます。 年齢が高くなり、身体が大きくなって周囲の大人が制止できなくなってから、自分の感情をコントロールする練習を始めようとすることがあります。 自分の感情をコントロールできることは、すべての人にとって共通する大切なスキルだと言えます。 ですから、幼いときから将来を見通して、どのような行動をするかを学習していくことが大切だと考えています。 ストレスを感じたときは、自分の中に溜まったパワーを発散させられるような行動をとるようにします。 気分が落ち込んだときは、何か本人が癒されるものを使ったり、身体を動かしたりして気分を変えていきます。 気分が上がりすぎたときは、興奮状態であるともいえるので、場所を変えたり、特定の行動をしたりして、刺激を徐々に遠ざけていくようにします。 もちろん、一人ひとり異なっていますので、これらはあくまで方向性です。 また、行動を学ぶ前段階として、自分の感情がいまどのような状態であるのかを見える形で具体的に示すことで知る、といった支援もあります。 ここまで自閉症の人たちについて書きましたが、現在のいじめや虐待などの問題についても、自分の感情をうまくコントロールできるようになれば、減っていくのではないか、と思います。 今までの日本ではあまり注目されていませんでしたが、アメリカのように子どものうちから、自分の感情をコントロールする練習や学習を積み重ねていくことが大切だ、と私は考えています。

人と人をつなぐ「日曜トーク」

「こんなサービスをずっと求めていました」 昨日の北海道新聞の記事を見た保護者の方が電話をかけてきてくださいました。 このような言葉を頂くたびに、「独りではないんだ」「なかなか表に出せなかっただけで、自閉症の人たちのニーズはあるんだ」と感じました。 自閉症の人たちは、定型発達の人たちとは異なり、自然に物事の意味を理解し、周囲から求められる行動を自ら学習して身につけることが苦手です。 ですから、24時間トータルで考え、療育を行っていく必要があります。 このことは、7年間働いた自閉症児施設で実感したことでもあります。 現在、その療育を学校以外では、ほとんど保護者の方が担っている状況です。 保護者の方が担っている療育を、私が今までに学んできたことを基にお手伝いしたい、と考えています。 自閉症の人たち、一人ひとりが生きていく上で必要なスキルを身につけ、与えられる人生ではなく、"完全に"とはならないかもしれませんが、少しでも自らの足で歩める人生を送ってほしい、と思っています。 そして、地域で活動できる幅が増えれば増えるほど、地域の人たちの考え方も少しずつ変わっていく、と思っています。 インタビューに不慣れで、きちんと説明できなかった部分が多かったのですが、北海道新聞の記者の方は一生懸命私の思いを文字に表してくださいました。 少しでも多くの人たちに、「一人ではないこと」「サポートする人間がいること」が伝わったのなら、とても嬉しく思います。 民間で自閉症の人たちの療育を行う機関は、全国で見てもほとんどありません。 皆さんと一緒に、この函館、北斗、七飯、道南から、自閉症の人たちの新しい未来を気づいていけたらと思っています。 応援していただいている皆様、まだ始まって4か月の事業を記事に取り上げて頂いた北海道新聞様、本当にありがとうございました!

どうして民間なの?

だって、本音で話せるでしょ だって、顔が見えるでしょ だって、良いと思ったことは、直ちに行動に移すことができるでしょ だって、融通が利くでしょ だって、どこへでも飛んでいけるでしょ だって、どんな人とでもつながれるでしょ だって、人と人の付き合いができるでしょ だって、関わる人がみんな主役になれるでしょ だって、自由に事業の形を変えられるでしょ だって、障害=福祉のイメージを変えられるでしょ だって、官民関係なく、みんなで自閉症の人たちを支えるんでしょ

私の自閉症に対する捉え方

「自閉症だからできない」のではなく、 「自閉症に合わせた教え方をしていないから、できない」 自閉症は脳の機能障害です。 欠損していたり、働かないわけではありません。 脳の使い方が定型発達の人とは異なっているのです。 だから周囲の情報に対する注意の向け方、捉え方、整理の仕方に違いがあります。 その結果、定型発達の人たちと同じ方法で、学習することが苦手なのです。 自閉症を嘆くなら、 その人に合った教え方がされていないことを嘆いた方が良い。 学習の仕方は一人ひとり違う。 その一人ひとりの違いにどれだけ近づけるかが、求められている。

気づかれずに・・・

自閉症の人たちは、障害に気づかれないことがあります。 そのため、一般の人に誤解されることもしばしばあります。 例えば、自閉症の人で、バスや電車などの公共交通機関を利用されている人も多くいます。 そのとき、突然声を出してしまうことや乗っている人の顔をじっと見てしまうことがあります。 本人たちにしたら、まったく悪気はないのですが、相手からしたらびっくりしたり、にらまれたりした、と勘違いされたりすることもあります。 他にも、近くにお年寄りが立っているのにも関わらず、席に座り続けていたため、文句を言われた、という話がありました。 自閉症の人たちは、相手の視点に立って物事を捉えることが苦手だったり、周囲の状況に気づき、その場に応じた行動をとることが苦手だったりします。 また、バスの乗り方は教わっても、そのような望ましい振る舞い方については教わっていないので、できない、ということもあります。 公共の交通機関を利用できるスキルは持っているのに、車内でトラブルがあったため、利用できなくなったり、利用しなくなったりする人たちは少なくありません。 上記のような行動の背景には、自閉症の人たちの苦手な部分が存在しています。 その苦手な部分は、周囲の理解やサポートが必要だと言えます。 せっかく練習してできるようになったことを本人以外の理由で止めてしまうのは勿体ない、と私は思います。 ある保護者の方は、「首から "自閉症"と書かれたプレートを下げさせたいと思うことがある」と言っていました。 自閉症のプレートよりも、何か周囲の人が見て、自閉症について気づける物があれば良いと私は思いました。 そうしたら、誤解されることが少しでも減ったり、反対に手助けしてくれる人が現れたりするかもしれないと思います。 その物もつけていて恰好が良いデザインで、一言「話すことが苦手です」「簡単な受け答えしかできません」「笑っているけれど、楽しくて笑っているわけではありません」など、つけている人のことが書ける欄があったら良いかもしれません。 せっかくだから地元の地域色が出るものが良いですね。 あっ、素晴らしい技術を持った面白い人が知り合いにいました! 今度、その人に相談してみよう♪ もしこのアイディアが具体的な形になることがありましたら、また紹介させてい

負けられない挑戦がそこにはある

年齢や立場なんて関係ない それは単なる記号でしかないから 記号が人や意見の価値を決めるわけではない 自閉症の人たちの生活の質の向上を目指す人 自閉症のままで生きられる地域・社会を作りたい人 今ある価値観に限界を感じ、新しい価値観を生み出したい人 みんな仲間だと思う 地域・社会を変えることは難しい 人の考え方を変えることは、もっと難しい でも、現状に嘆いているだけでは何も始まらない 否定に否定で返しても意味がない 否定に否定で返している時間がもったいない 一人ひとりが動き出すとき どんな人でも受け入れる どんな考え方の人でも受け入れる 自閉症の人たちが笑顔で暮らしていけるその日まで

内から変える?外から変える?

都合の悪い話には、耳に手を当てることができる 都合の悪い話には、否定で返すことができる 都合の悪い話には、左から右に聞き流すことができる 都合の悪い話には、「うんうん」と縦に頷き、心の中で横に首を振ることができる 都合の悪い話には、極端な、特殊な、あいつだから、の話にすり替えることができる でも、都合の悪い状況には、自然と動かざるを得なくなる これが私の選んだ道

あと3日

硬直した現状を打破するには、新しい価値観が必要 新しい価値観を生み出すには、行動が必要だ 批判しているだけでは、古い価値観は変わっていかない 古い価値観を変えなくてはならない状況を作っていくことが大切だ 人はなんだかんだ言っても、自分が一番大切 変化よりも現状維持の方が楽だ 本当の挑戦がもうすぐ始まろうとしている

真夏のジャンパー

夕方のだいたい同じ時間、ジャンパーを着た男性が家の前を通ります。 近所に福祉作業所がありますので、そこで働いている利用者さんかな、と思います。 いつも真っ赤な顔で、大粒の汗を拭いながら歩く姿に、"気候に合わせて服装を変える"ことは難しい、と感じています。 直接、そのジャンパーを着ている男性のことは知りませんので、ここからは想像で書きます。 真っ赤な顔で、汗も出ていることから、身体は暑さを感じているようです。 ちなみに自閉症の人の中には、感覚の違いから、暑さをあまり感じず、真夏でも汗をほとんどかかない人もいます。 また、暑いことはわかっていても、"暑い"と言った気持ちよりも、外出するときはジャンパーを着るものだ、というようなこだわりの方を優先させる人もいます。 そして、過去にジャンパーを着るように教えられた記憶が鮮明に残り、いつまでも記憶が消えていかないこと。 ジャンパーを着ることは教わったが、暑い日はジャンパーを着ないということを教わっていないこと。 ジャンパーを着る、着ないをどうやって判断していいかわからない、といったことなどが男性の行動の背景に考えられます。 独りで通勤されているようですし、作業所の職員はこんな気候ですので、ジャンパーを着ない方が良い、と伝えているはずです。 それでも毎日、ジャンパーを着ているということは、私たち定型発達の人たちが自然にできている"気候に合わせて服装を変える"ということが、彼らにとっては難しいことである、と言えます。 同じ気温だったとしても、人は暑く感じたり、寒く感じたりします。 例えば、気温が15度だったとします。 前日の気温が10度だった人は暑く感じ、前日が20度だった人は寒く感じます。 また住んでいる地域や季節、個人によって感じ方も変わります。 ちなみに私が旭川に住んでいるとき、冬の最高気温が0度になったら、みんな「今日は温かいね」と言っていました。 自閉症の人たちは、暑さや痛さなどの感じ方が定型発達の人とは違います。 具体的に物事を捉える人たちなので、抽象的な暑さなどの感覚を理解することが苦手です。 このような特性を持っている人が多いので、"気候に合わせて服装を変える"ことは、自然に身に付くことではあ

継続できる余暇

私は「継続できる余暇」を持つことが大切だと考えています。 "継続できる"とは、「大人になってもできる」、「独りで完結できる」という2つの意味が含まれています。 「大人になってもできる」余暇は、年齢を問わず、行える活動のことです。 例えば、テレビゲームだったり、読書、音楽鑑賞、〇〇の収集などです。 (*ゲームや本、聴く音楽が子ども向けの内容でも構いません。あくまで活動自体が大人になってもできるか、ということです) 反対に、大人になってできなくなる余暇は、"高い高い"などの身体接触を伴う遊びや追いかけっこ、ブランコなどのいわゆる幼児向けの遊びです。 自閉症の人たちの中には、年齢の概念がうまく捉えられない人もいます。 また、周囲からどのように思われているかを想像することが苦手な人もいます。 ですから、このような遊びを年齢が高くなっても行おうとすることがあります。 身体が大きくなった人を"高い高い"することは体力的に難しく、かけっこやブランコなどの遊びは、場所などの環境の面で現実的に難しくなります。 「独りで完結できる」余暇は、自分独りの力で、準備から実施、片付けまで行える活動のことです。 誰かの手を借りないとできない活動は、自分以外の理由で継続できなくなる可能性があります。 ですから、「継続できる余暇」には、独りで完結できるということも重要な要素になります。 私は、大人になってできなくなる余暇は初めからするのではない、と言っているのではありません。 身体接触遊びが好きな子も多いですし、自閉症の人たちが苦手なやり取り、コミュニケーション能力を養うきっかけになることもあります。 身体を使ったダイナミックな遊びは、ストレス発散や運動機能の成長につながっていくと思います。 しかし、このような遊びでしか、余暇の時間を過ごせなくなると、将来、継続できず、本人が困ってしまうかもしれない、と言っています。 家族や支援者とある時期まで一緒に遊び、楽しい余暇を過ごしていたのに、突然その遊びができなくなる。 そんなとき、急に別の活動で余暇を過ごしなさい、と言われても本人たちが困ってしまいます。 「だって、私はずっとこの遊びしか余暇の過ごし方を教わってきてないもん」 ですから、このような遊

他人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる!

てらっこ塾のホームページ、チラシ、ポスター、そして私の名刺には、「自閉症のままで生きられる地域・社会を目指す」という文言を必ず入れています。 「自閉症のまま」という意味は、自閉症という特性の部分を変えることを目指しているわけではないことを表しています。 どうしても私たち定型発達と言われる多数派の人の方に、少数派の自閉症の人たちを合わせようとする動きがあります。  しかし、自閉症の人たちはどうしても変えられない部分があります。 それは、"自閉症"の部分です。 自閉症の特性は、個人の様々な思考や行動に影響を与えます。 その思考や行動を変化させることはできるかもしれませんが、"自閉症"の部分は変えられません。 ですから、私たちは自閉症の人たちと接する上で、「どうしても変えられない部分があるんだ」という意識が必要だと思っています。 自閉症の人たちを私たちの方に引っ張るような支援はしたくありません。 もちろん、社会で生きていく上で、改めないといけない行動は変える必要がありますが、"自閉症"の部分はそのまま受け入れることを大切にしています。 私は定型発達の人たちと自閉症の人たちが共に受け入れられる妥協点を探っていくお手伝いをさせていただいています。 いつの日か、"自閉症"の部分を変えたり、隠したりしないで生きられる地域・社会を作っていけたら、と思っています。 あるとき、父から言われた言葉があります。 「他人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる」 この言葉は人生においても、自閉症支援においても、大切なことを教えてくれています。

仕事への動機づけは人それぞれ

働くことでお金を得ることができる。 でも、人が皆、お金のためだけに働いているか、と言ったらそうではないと思います。 働く意欲を高めるものは、お金をもらえることだったり、人から感謝されることだったり、仕事自体が好きだったり、職場の人間関係だったり、働いている自分が好きだったり、人それぞれではないでしょうか? このことは自閉症の人たちでも同じだと思います。 自閉症の人たちは"概念"で物事を捉えることが苦手です。 お金という概念、つまり、この細長い紙や銅の丸い塊にどのような価値があるのか、それぞれの価値の違いは、なぜお金が物と交換できるのか、などの理解です。 具体的に物事を捉える特徴がある自閉症の人たちの目を通すと、お金はただの紙切れであり、金属の塊です。 他の身の回りにある紙、金属とはどのような違いがあるのか、を理解することが難しい人もいます。 また、自閉症の人たちは物事の結びつきを捉えることも苦手です。 働く行為がなぜ、お金と結びつくのか? 例えば、パンを作っている人の場合、生地をこねているのはパンを作るためであり、その先にお金があると* 自然に 理解できる人は多くないです(*視覚的な手立てを用いれば、理解できる人もいます)。 中には、パンを作るという結果と結びつけることが難しく、生地をこねているのはパンの形に丸めるため、求められる生地の状態にするため、というような近い結果とでしか結びつけられない人もいます。 働く行為自体も概念であり、お金も概念です。 概念を理解することが苦手な自閉症の人たちが、また苦手なお金と仕事の結び付けを行わなければなりません。 さらにお金を得ることで好きなものが買えたり、遊びに行けるなどということを理解するには、仕事→お金→好きなもの、というような関係性を結びつけられなければなりません。 自閉症の人たちの中には、知的障害を持っている人も多くいます。 ですから、みんなが「お金を得るために働いている」とは言えません。 「働くことでお金がもらえる」「働いたら、〇〇ができるよ」といった伝え方や教え方では理解できなかったり、モチベーションが上がらなかったりする人もいることを理解しておく必要があると思っています。 仕事とお金が結び付けられない人がいても良いと思います。 仕事は仕事、お金の使

ちょうど一年前

ちょうど一年前、私はアメリカの地に立っていた。 どうしても行きたかったノースカロライナ州。 学生時代、「ノースカロライナ州に住む自閉症の人たちの90%以上が施設や精神病棟ではなく、地域で生活している」という話に驚きと疑いの感情を持った。 「どんな優れた療育、システムがあるのだろうか?」 「90%以上という高い数字には何か裏があるのではないか?」 「でも、本当にそのような場所があるのなら・・・」 私はノースカロライナ州で行われているTEACCHプログラムのビデオを何度も繰り返し見た。 本も論文も研修報告書もTEACCHプログラムに関わることなら、何でも読んだ。 TEACCH部のスタッフが行うトレーニングにも参加した。 でも、自閉症の勉強を始めて10年間、頭の片隅には「いつか、この目で」という思いが常にあった。 成田を出発し、アメリカで乗り継ぎ、アメリカ・ノースカロライナ州へ。 15時間の長旅だったが、10年の月日と比べれば、あっという間だった。 私は「本に書かれていないこと」を聞いたり、見たりすることを研修の目的とした。 なぜ、このプログラムは成功を収めているのか? 成功していると言われている一方で、課題はないのか? 今後、どのような方向に向かっていくのか? そして、実際に自閉症支援に携わっている人たちが、どのような考えを持ち、どのようなことを目指しているのか、を尋ね続けた。 等身大の、実物の、生の自閉症支援を見たかった。 研修中、毎日が刺激的だった。 見るもの、聞くもの、そして、一緒に行った仲間たちとの日本の話に。 今まで学んできたことの一つひとつが結びつき、知識として頭にあった文字が立体的なものに変わっていくことを感じていた。 日本へ向かう飛行機の中、何か使命感を得たような気がしていた。 今まで学んできたことを、函館に住む地域の自閉症のみなさんに還元したい。 いや、実際に目にしてきた者が優れた部分を伝えなくてどうする! 見たもの、教わったものをそのまま、地域に取り入れてもうまくいかないだろう。 大切なのは、模倣ではなく、融合だ。 ノースカロライナ州で成功したプログラムは、ノースカロライナ州の文化と融合して生まれたものである。 だから、そのまま持ってきてもうまくいかない。 日本、函館の文化と融合し、

自閉症の前につく"軽度"と"重度"の意味

「重度自閉症」「軽度自閉症」という言葉が独り歩きしている、と感じることがあります。 インターネットで"自閉症"を検索すれば、重度や軽度の言葉が一緒についてきます。 なぜ、自閉症と言わず、わざわざ"軽度(重度)"とつけるのかな、と疑問に思うことがあります。 私は支援を行う上で、"軽度(重度)"という情報に対して、あまり重要とは思っていませんし、反対に意識しないように心掛けています。 どうして重要と思っていないかと言いますと、その評価の仕方に関係しています。 簡単に書くと、自閉症の特性を多く持っていたり、その一つひとつの特性が本人の行動や思考、反応に強い影響を与えていたりすると、"重度"の自閉症ということになります。 反対に、自閉症の特性が少なかったり、特性の表れ方が弱かったりすれば、"軽度"の自閉症であり、"軽度"と"重度"の間だったら、"中度"自閉症と評価されます。 評価はすべての項目の合計点で決められますので、どんなに表れ方が強い特性があったとしても、他の特性が弱かったりすると、"軽度"と評価されることもあるのです。 ここでのポイントは、 表れ方 を見て、評価するということです。 表れ方ですので、いつ、どのような状態のときに見るのかで評価が変わってきます。 感覚の過敏性なら、年齢や心身の状態によって変わることがあります。 身体の使い方やコミュニケーション、変化への対応などは、学習によって様子も変わってきます。 また、評価は年齢の低い子どもが対象となっていますので、年齢の高い人で"軽度(重度)"というのは、いつの時点で言われたものか、に注意する必要があります。 私が"軽度(重度)"という情報を意識しないようにしているのにも理由があります。 それは先入観によって、自閉症の人の行動を歪だ目で見てしまう恐れがあるからです。 例えば、重度の自閉症という角度から行動を見ると、すべての行動が自閉症の特性の影響を受けているように見えてくることがあります。 その行動の背景には、様々な理由があり、自閉症の特性以外にも性格や学習、