投稿

10月, 2017の投稿を表示しています

支援を選べるけれど、捨てられない

選挙後、排除発言が話題になりましたが、どうしてそんなに騒ぐのか、私にはわかりませんでした。 あの発言があろうがなかろうが、勝つところは勝つし、負けるところは負けます。 ですから、「排除する」という言葉を強く受け取ってしまう人達が多くいて、排除自体を好まない文化があるのだと思いました。 排除といいますか、捨てるということは、子どもを育てることにおいても大切なことです。 子育てに正解はないのですから、特定の人や方法にこだわる必要はありません。 我が子に必要なもの、合っていると思うものをその時々で選び、カスタマイズしていけばいい。 良いとこどりが基本であり、必要なくなったものは捨てていく、選ばないというのの繰り返しです。 子どもの発達を後押しするのが上手な親御さんというのは、その時々で何を選ぶのか、何を捨てるのかが上手だと感じます。 その一方で、どうも後押しがうまくいっていない親御さんは、選んでいるけれど、捨てることができない、そんな風に感じます。 一度、良いと言われた方法があれば、それをやり続ける。 エビデンスがある、有名な支援者がやっているからといって続けるのも同じです。 「我が子に良いかも」と思った方法をあちらこちらから持ってくる。 だけれども、方法だらけになって、結局、何を育てたいのか、何を育てているのか、本人も、家族もわからなくなってしまう状態に陥ってしまう。 選べるけれど、捨てられない、止められない、という方を見ていますと、自ら選んでいるようで、本当は選べていないようにも感じます。 つまり、その取捨選択に主体性がない。 もし、主体的に選べているのなら、きっと「我が子のここを育てたくて、この方法を選ぶ」というように子ども発信で、具体的な目的があるはずです。 それだと、子どもが育ち、具体的な目的が達成されれば、その方法を捨てることができます。 ですから、選んでいるのも、自分の主体性からではなく、「良いと言われているから」「みんなやっているから」というような他者だったりするのです。 子どもは常に変化し、発達成長しますので、同じ方法で良いということはありません。 以前は良い影響を与えていたものが、却って妨げになるということもあります。 ですから、その時々で、子どもの変化を見ながら、必要だと思うものを選択し、そ

問題を起こすのは障害くん!?

イメージ
問題が起きたとき、問題を起こしたとき、障害が擬人化されることがあります。 「この子には障害があって…」 「本当は、問題を起こそうと思っていなかったんだけど…」 中には、迷惑をかけられた方に向かって、「あなたの〇〇という言動が、本人に誤って伝わったかもしれない」などと言うことも。 あたかも、障害という本人ではない何者かが、そうさせているような雰囲気を出します。 問題を起こす主体を本人から切り離すこと。 本人ではなくて、障害が問題を起こさせているとすること。 これを支援者がやるのなら、それは接待であり、本人や家族がやるのなら、それは責任転嫁です。 特別支援の世界では、あくまで本人、そして家族は、お客様です。 ですから、加害者側だったとしても、「一番困っているのは、一番苦しんでいるのは、本人なのです」と言います。 いやいや、一番困っているのも、一番苦しんでいるのも、被害を受けた人。 自己肯定感がどうのこうのと言っていますが、結局のところは、お客様の気分を害さないようにしているのです、加害者を障害くんのせいにすることによって。 今までにも、問題を障害のせいにする本人や家族と関わってきました。 そういう人たちに共通しているのは、問題がいつまで経っても直らないこと。 問題を自分から切り離すこと、問題を起こさせているのが自分以外であること。 そう思うことにより、今、ラクでいられることを選んでいるように見えます。 また同時に、「問題を誰かが解決してくれる」というような受け身の姿勢も見られます。 話をしていて、自分の問題なのに、どこか他人事のような雰囲気を醸し出すというのは、主体性が育っていない人であり、接待慣れしている人なのだと思います。 世の中の切り取り方の違い、想像のズレ、衝動性などが、問題とつながることもあります。 しかし、そうだとしても、問題を起こすのは、その人なのです。 問題を本人から切り離してしまうと、問題のきっかけになるようなことを排除する、刺激にならないように配慮するというように、周囲が気を使う対処療法が中心になってしまいます。 対処療法では、問題は解決しないといいますか、もともと問題を根本から解決しようとしていない、できないのです。 ですから、本人や家族が今、ラクのために、自分から問題を切り離したとしても、対

子育ての主導権をしっかりと握っておく

ヒトとしての土台作りは、家族と家庭生活が中心だと思っています。 特に、発達障害の子ども達は、お勉強が始まる前の時点で遅れやヌケがあり、それも脳の表面ではない深い部分で起っていますので、幼少期からの子育て、親御さんの主体性と選択が重要になってくると思っています。 「支援」や「療育」という言葉は、子育ての主導権を自分たちの方へと移すためのギョーカイ用語です。 職業支援者は、いろんな言葉を使いますが、結局、やっていることは子育てなのです。 子育ては、発達障害という概念が生まれる前から営まれていたこと。 生きていくために治しておいた方が良いことは治す、できないことはできるように教える、遅れている部分があれば発達を促す。 これらは、人だけではなく、動物たちも行っているのです。 私は、ギョーカイが持っていこうとする子育ての主導権を、親御さんに取り戻してもらう、持ったままでいてもらうようにしたい、と思い活動しています。 しかし、それは昔のような子育ての姿に戻そうとしているのではありません。 今、発達障害の人達、家族が利用できるサービスが存在しています。 ですから、子どもの成長や発達に必要なサービスは上手に利用しながら子育てを行っていけば良いと考えています。 ただそこには、親御さんの主体性が必要です。 「早期療育が必要です」「放課後は児童デイの利用が良いでしょう」という支援者の言葉を鵜呑みにしてはいけません。 本当にそのサービスが必要なのか? それを利用することによって、子どものどの部分を育てているのか? そういったことを考えた上で、選択し、利用することが大事だと思います。 「内容には満足していないけれど、利用できるから」と言って、児童デイや相談支援、療育をルーティンワークのように利用し続ける。 確かにお金は使っていませんが、子どもの成長の時間は確実に消費しているのです。 「親の私が、この子の発達の遅れを取り戻させる、発達のヌケを育て直す」という意識が生まれたとき、生活の見直しが始まります。 私が関わらせてもらっている親御さんも主体性が出てくると、児童デイに通う日数を減らしたり、止めたりします。 また相談や療育機関も、必要なものとそうでないものの選択をするようになります。 これは、私が誘導したのではなく、親御さんの考えによる

個別相談会 @ Gスクエアのご案内

イメージ
この世界に入ったスタートラインは、学生時代の余暇支援ボランティア。 どうして障害を持った子の親御さんは、活き活きと子育てができないのだろうか? 他人に子育てを委ねる必要があるのだろうか? どうして子育てに専門家の力が必要なのだろうか? どうしてそんなにも専門家を有難がるのだろうか? そんな疑問が始まりでした。 それから、障害を持った人の支援をしていくにも、寝食を共にし、生活してみないと本当の理解はできないと思い、入所施設に就職。 そのあと、支援学校の教員になり、訪問支援の仕事を始めました。 私の中心は、常に『家庭での子育て』です。 福祉の未来は、決して明るくありません。 職員の労働環境の問題。 職員の人権が守られていない状況。 「きちんと育っていれば、利用しなくて済んだのに」と思われる人が利用している一方で、本当に必要な人に福祉の手が届いていない状況。 学校の先生がいくら頑張ってもできないことがあります。 きちんとした生活習慣を身に付けることと、勉強できる状態で登校させることです。 「学校の対応が悪いから」 「指導の仕方が悪いから」 「学校で我慢してるから」 と言われることがありますが、学校は子どもを落ち着かせ、安定させる場所ではありません。 新しいことを学び、挑戦し、試行錯誤する場所です。 学校も集団であり、社会なのですから、そこで認められないことは注意され、直されるのは当然のことです。 学校でより良い学びができるのは、先生の力だけではなく、家庭の力も重要なのです。 私は、福祉の中にいた人間だからこそ、本当に必要な人に福祉が届く世の中にしたいと思っています。 それには、家族が主体的に子育てができるようにすることが大事だと考えています。 子育ての主導権を奪おうとする他人と出会う前に。 子育てを諦めさせる他人と出会う前に。 障害の重い軽いに関係なく、発達の遅れやヌケがあるところを育てていく、治しやすいところから治していく。 それを家族が中心となって行えること、行なえる人が増えていくこと。 これが私の目指しているところです。 本気で、私を含めた「支援者」という商売を無くしたいと考えています。 必要なのは、本当にケアが必要な人に寄り添える福祉職員と、子どもの成長と未来のために教え育てる学校の先

聞きたいのは、エビデンスではなく、エピソード

親御さんは、エピソードトークが始まると、真剣な眼差しに変わり、一言も聞き逃さないようにと耳を傾けられます。 親御さんとお話しして感じるのが、我が子の話と同じくらい、またはそれ以上に、他人のエピソードを知りたがっていること。 我が子と似ている子が、どのように成長していったのか。 どういった取り組みをして、どのように変わっていったのか。 そして何よりも、治った人とその家族のエピソードを聞きたいと思われている。 この仕事をしていると、支援者側の人達から「論文を書いたら良い」と言われることがあります。 「支援級から通常学級へ転籍できた子のケースを」 「取り組みの結果、症状が治まった人のケースを」 確かに、助言をくれた人たちのように、論文を書くことは、治った人達の姿を多くの人達に知ってもらうための手段の一つだと思います。 それによって、新たな縁が生まれ、私がお手伝いできる人が増えたり、「治る」という道があることに気づいてもらえるかもしれません。 しかし、私は、そういった話を貰うたびに、嫌悪感しか出てこないのです。 私は『事例』という言葉が嫌いです。 事例研究、事例発表、事例検討…。 事例という言葉で表された瞬間、その人の命の躍動感を奪うような気がするのです。 大事な一人の人間が、情報の一つになってしまう。 その人の持つ主体性を、事例を扱う人間が奪っていくような気がしてならないのです。 事例の多くは、事例を扱う人間のための“道具”になる、とすら思っています。 私は、主体性のある、本人にとっても、家族にとっても、大切な“人”の支援をしています。 論文を書くために、事例として研究するために、おのれの立身出世のために、この仕事を始めたのではありません。 一人ひとりの人と真剣に向き合うために、この仕事を始めたのです。 だから、その一人ひとりを事例の一つとして情報にしてしまうことなどできません。 ましてや、「あなたを、あなたをお子さんを事例として論文を書かせてほしい」などという言葉は私の内側から生まれてはきません。 論文を書くというのは、エビデンスを示すための方法でしょう。 でも、親御さん達が聞きたいのは、エビデンスがあるという情報ではなく、その人の息吹を感じられるエピソード。 だから、私はエピソードを大切にします。

発達のヌケを埋めたあと、やり残した発達課題へ戻る

ある親御さんから相談を受けました。 近頃、子どもが「これ何?」「あれ何?」「どうしてなの?」と質問攻めしてくる、と。 こういった質問攻めは、だいたい4歳前後に見られます。 相談を受けた子は、小学生で、しかも高学年。 親御さんは、「急に幼い子みたいになった」と心配していました。 しかし、こういった「幼い頃に戻る」姿は、珍しくありません。 特に、発達のヌケが埋まったあとに、やってくることが多いですね。 簡単に言えば、発達のヌケの育て直しが終わったあと、やり残していた時代に戻り、今度はそっちを育て治すのです、本人が。 上記の子の場合、4歳前後は落ち着いて成長できる、何かを学べるような状態ではなかったそうです。 当然、定型発達の子たちが辿るように、質問攻めは見られませんでした。 数か月間、発達のヌケを育て直し、脳の深い部分が埋まり育ったので、「じゃあ、あのとき、できなかった発達を」ということで、脳の上部の育て直しが始まったのでしょう。 こういった姿を見ると、本当に子どもの身体は賢いし、人間の発達する力は素晴らしいなと思います。 ですから、親御さんには「退行が始まったわけでも、精神的に不安定になったわけでもありません」とお話ししています。 4歳の頃、できなかった発達課題を、今、自ら育て直し始めたんですね。 言語以前の発達のヌケが埋まると、それ以降の発達のヌケを育て治そうとする動きが、子どもの方から見られることがあります。 こういった視点を持つことは大事だと考えています。 大きな子が質問攻めを始めると、問題行動と捉える人もいます。 そして、無視したり、視覚的にルールを教えたり、自分で調べる手段を教えたりします。 もちろん、質問を繰り返す子の場合、想像通りの返事があることを狙って質問を繰り返す他人をまきこんで安定しようとするパターンもあります。 そういった場合には、上記のような対処が必要なこともありますが、相談があった子のように育て直しを行っている場合もあるのです。 そんなとき、無視しても、視覚的にルールを教えても、育て直しは進んでいきませんし、質問攻めはますます激しくなるばかりです。 ですから、「もしかしたら育て直しが始まったのかも?」という視点が大事になってきます。 発達のヌケが埋まると、やり残した時期に

「治って嬉しい」

昨晩、放送されたNHKスペシャル『人体 神秘の巨大ネットワーク』を観て、革命と言われるくらい医学が発展し、変わっていることを知りました。 以前は、治らなかった病が治るようになっている。 それは技術面の発展とともに、「病気を治したい」「患者さんを救いたい」という想いで、臨床に励み、研究されている多くの医師たちの存在を感じました。 この番組内でもそうですが、いろいろな番組、文章で、山中教授は「治って嬉しい」と発言されます。 とてもシンプルな言葉ですが、こういったシンプルな想いが人を医師にするのだと思います。 治ってほしいから、治したいから、医師を志す。 不治の病と呼ばれている病気、障害を治そうとしている人達がいる。 人類がガンを克服する日のために、挑んでいる人達がいる。 そして、自閉症、発達障害の完治を目指し、原因の特定、薬の開発を目指している人達がいる。 それぞれの道で、それぞれ「治す」というゴールを目指し、歩んでいる。 医学界の中にも、発達障害を治そうとする人達がいます。 でも、臨床医の中には、特にギョーカイ活動をしている医師たちは、「治りません」と言います。 ここで、いつも私は疑問に思うのです。 「治りません」と言う医師は、多くの医師が持っているであろう「治ってほしい」「治したい」という想いを持っていないのだろうか、と。 「現代、医療では治らないけれど、いつかは治したい」と思っているのか、それとも、「これからも治らないし、治ってほしくない」と思っているのか。 どうも、治そうという意志が伝わってこないですし、治らない現状を良しとしている印象を受けます。 医師を志したからには、皆さん、治ってほしいという想いを持っているのではないのでしょうか。 治したいという想いを持ち続ける人が研究者の道へ、治したくない人が臨床の道へ進む、なんてことにはなっていないと思いますが…。 とにかく医師の中で「治らない」とはっきりと言い、治さない、治そうとしない自分自身の診療に堂々としていられる人がわからないのです。 思想や腕の問題で、自分の食い扶持のために「治りません」と主張するのは、想像がつきます。 しかし、治そうと研究している同じ医師に対し、揚げ足とりをしたり、その治そうとする姿勢を否定したりする意味がわかりません。 治そうと