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6月, 2016の投稿を表示しています

体力作りの前に、ラクな身体を作りましょう!

函館マラソンでは、多くのランナーの背中を見て走りました。 すると、走り慣れている人と、そうでない人の違いがわかるんですね。 速い人、走り慣れている人って、全然力みを感じないんです。 終盤になってしんどいはずなのに、身体はリラックスしている感じです。 そして、軸がまっすぐでブレない。 一方、走り慣れていない人は全身に力が入っていたり、傾いていたり、身体の上下左右の動きが多かったりしていました。 経験の浅い私から見ても、「これでは最後まで走り続けられないな」と感じる姿でした。 こういったランナーの走る姿を見ていて思い浮かべたのが、時々、出くわす特別支援学校の子ども達の姿です。 働くための体力作りの一環で、ランニングしている学校は多いですね。 平日でも時間を見つけて私もランニングをしていますが、そんなとき、彼らと一緒になることがあるんです。 軽快に走っている生徒さんがいる一方で、しんどそうに走っている生徒さんが多いんですね。 そんな生徒さん達の姿を見ると、身体の力みや傾き、ブレがあります。 これじゃあ、長く走ることはできないし、このランニング自体、とても辛い活動になっていると感じます。 ランニングをして働くための体力作りをするのは良いと思うのですが、その前に走れる身体作りをした方が良いと思うんですね。 力んだり、傾いたりする身体のまま走っても、心肺機能は向上するかもしれませんが、身体はしんどいままです。 こういった身体では、就職したとしても、その日の仕事で疲れ切ってしまう可能性があります。 だって、身体にエネルギーをとられてしまうのですから。 余計な力みがなく、リラックスして動かせる身体の方が、働くことにエネルギーを注ぐことができるはずです。 子ども時代にしんどいと思った活動って、大人になってからやるかって言ったら、強制されない限り自分からはしないと思うんですよね。 しんどそうにランニングしていた生徒さん達は、大人になったら、きっとランニングしないと思います。 だったら、しんどい身体のままで走らせて体力をつけるよりも、就職後も、生涯に渡っても活きていくようなラクな身体を作る方に時間をかけた方が良いと私は考えますね。 別にハーフマラソン完走できなくても、ほとんどの仕事は続けられますので。 それよりも、身体に多くのエネルギーを

全力で頑張るのは、まず支援者や親などの大人たち!

1年前から始めたランニング。 そして昨日、人生初のハーフマラソンに参加してきました。 目標は2時間を切ること。 強風&雨という悪条件でしたので、「ちょっと難しいかな」と思いましたが、目標を10分ほど速く更新できました。 風が強いことは予想していましたので、日頃から風の中を走り、函館山の坂道を走ってトレーニングしていたのが、功を奏しましたね(笑) 女性ランナーは、漁火通りで強風に煽られよろけていましたし、道外から参加したランナーは寒さにビックリされていたようでしたので、地元以外のランナーの方達は大変だったと思います。 大変だったといえば、大会の運営スタッフ、ボランティア、沿道で声援を送ってくださっていた大勢の人達の方だったと思います。 走っている最中、ランナーを支えてくださっている皆さんの姿を見て、本当にありがたいことだと思いましたし、励まされました。 悪天候の中、見ず知らずのランナー達に「頑張れ」「もう少しだ」「大丈夫、完走できる」などと声を掛けてくださったのでした。 声援を送ってくれた人達の中に、私の家族の姿もありました。 大会に出場する最大の目的は、息子に親父の頑張る姿を見せること。 親が、大人が、全力で物事に臨んでいる姿こそ、幼子心にも大きな意味を持つのではないかと考えたのです。 息子には、勉強ができなくても、運動ができなくても構わないと思っています。 ただ他人から好かれる人間、愛される人間になってほしいということだけを願っています。 他人から好かれる人間、愛される人間とは、頑張る人間のことだと思います。 人って頑張る人間のことが好きです。 例え失敗したとしても、全力で頑張っている人には温かい眼差しが向けられます。 「社会は冷たい」などと言われることもありますが、頑張る人には優しい社会だと思います。 ですから、息子には「全力で頑張る」ということを学んでほしかった。 それには、まず親が「全力で頑張る」を見せることが必要です。 大人の本気を見たことがない子どもが、全力で頑張るはずがありません。 言葉で大脳新皮質に「全力で頑張れ」と言っても無駄なのです。 もっと深い部分に語り掛ける必要があるのです。 雨の中、息子も大変だったとは思いますが、雨にびちょぬれになりながらも、全力でゴールする親父の姿を見て、「お父さんは

「人間脳を育てる~動きの発達&原始反射の成長」(花風社)を読んで

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ページをめくるたびに、自然と首を縦に振っている。 読み進めているうちに、点在していた知識が統合されているのが、自分でも分かりました。 「動きの発達」 「原始反射」 「脳の機能」 「学習」 「コミュニケーション」 「言語」 「情緒」 「身体」 これらの知識は大学で学びましたし、社会人になってからも学び続けることが必要な知識でした。 しかし、自分の中で知識は更新されていっても、きちんと統合ができていなかったと気づかされました。 それぞれがどのように影響し合い、どのように関連しているのか? このことを改めて著者の方に教えていただきました。 この本は、明らかに専門書だと思います。 お偉い先生方々が書かれている書籍と深さは変わりがありません。 でも、この本には深さだけではなく、広がりがあります。 広がりとは、アイディアの広がりです。 「我が子のここを観てみよう!」 「こんなことを一緒にやってみよう!」 「今日からできることは、これかな!」 というように読んでいる最中、大切な人の姿が浮かんできて、自然とアイディアが連なっていくのです。 そして気が付いたら、カスタマイズされた支援が出来上がってくる、そのようなイメージです。 読み手の着想を刺激してくれるというのは、基礎となる原理原則、メカニズムが明瞭でとてもわかりやすく記されているからだといえます。 でも、それだけでは動きが出ません。 専門的な知識という深さに、横の広がりが加わると、「今日からやってみよう!」という動きが生まれるのだと思います。 この横の広がりを生みだしているのは、著者の方が実践家であり、子ども達の姿から学んでいるからだと思います。 「背筋を伸ばし、お茶碗と箸をもって食事する姿」 「子どもは発達に必要な遊びを知っている」 「発達はシャンパンタワー」 「動きの発達の遅れやヌケ」 など、発達援助の核となるキーワードがたくさん出てきます。 特に私がこれから大切にしていこうと思うキーワードは「回数券を使い切らせてあげる」です。 この本を読めば、子どもはもちろんのこと、成人してからも遅くないことがわかると思います。 ぜひ、一人でも多くの方に読んでいただき、お子さんを、またはご自身を発達させていってもらいたいです。 今日からご家庭でできることがあ

「信頼関係のある支援」ってなんだ?

親子でも、本人と支援者でも、支援者同士でも、「信頼関係を築きましょう」と言われる。 問題が起きれば、「信頼関係が築けていないから」と言われ、順調にいってれば、「信頼関係ができているから」と言われる。 親子では幼少期から信頼関係を築くように促され、他人との間でも、新しい関係が生まれれば、まずは信頼関係を築けることが大事と、支援の始まりが信頼関係の構築から始まる。 でも、どうやったら信頼関係が築けるのだろうか? そもそも信頼って何? 信頼も、信頼感も、目に見えないもの。 それをどうやって自閉症の人たちに理解してもらう? というか、支援者の方だって、どうすれば信頼関係が築けるか分かっていない。 だから、やみくもに何でも要求を受け入れたり、とにかく遊びまくったり、注意はしないで褒めて伸ばそうとしたり、顔を見合わせれば無駄にハイタッチしたり…。 みんな、良く分かっていないから、てんでんばらばらな行動をとる。 「見えないものは、ない」人達に、支援者自体が分かっていな信頼感を教えることも、築くことも難しい。 でも、私も対人援助の仕事をしている以上、相手との間に信頼感を育む大切さは感じている。 信頼感と言うべきか、安心感みたいなもの。 支援が安心感包まれている雰囲気があると、落ち着いて支援できるし、落ち着いて成長することができる。 では、その空気感をどう作っていくのか? 他人に対し、信頼感、安心感を持てるときとは、予測ができることだと考えている。 「たぶん、自分がこういったら、相手はこのように言うだろうな」 「自分が嬉しいときには、こういった反応をし、自分が落ち込んでいるときには、ああやって反応するな」 というように、相手の反応が予測できると、信頼感、安心感を感じることができる。 相手がどうくるかわからない、相手の考えが分からない、というときには、どちらも感じることができないだろう。 つまり、予測できる関係性になることが、お互いの信頼感、安心感を深めていくことにつながると、私は考えている。 親子の関係性の中では、特に自分が失敗したとき、落ち込んだときに、「お母さんは、お父さんは、必ず守ってくれるだろう、味方でいてくれるだろう」という予測が立つことが、信頼関係につながるといえる。 親が感情的であったり、一貫性のない反応であったりして

問題行動を解決するコツは、問題行動を直視しないこと

問題が起きると、その原因を突き止めたくなる…というのは、誰にでも抱く感情。 子どもが学校に行かなくなれば、友達関係?いじめられた?授業がわからない?心配なことがある?行事?先生?体調?トラウマ?失敗経験?となる。 周囲も不安からとにかく問題の原因を特定したくなる。 原因を特定することは、周囲の人をひとまず安心させる。 でも、効果はそれくらいなもの。 原因を特定することは意味がないとまでは言わないが、やるだけ時間が無駄ということが多い。 何故なら、そもそも特定などはできないから。 1つの原因が問題と直結しているわけではない。 複雑な要因が絡み合って問題が起きている。 その複数ある要因を1つ1つ特定することなどできるわけがないし、それを特定している時間があるのなら、実際の支援を始める方が良いに決まっている。 よく実践の場で起こる過ちが、問題の原因を1つに特定してしまうこと。 例えば、学校での暴力行為があり、その問題の原因をコミュニケーションスキルの乏しさと特定したとする。 そうすると、支援の方向性はコミュニケーションスキルの向上となって進んでいく。 しかし、コミュニケーションスキルの乏しさは、暴力行為の原因の1つではあるかもしれないが、それだけということはあり得ない。 感情のコントロールができないことも要因の1つかもしれないし、体調が悪かったのも要因の1つかもしれない。 本人の持つ過敏性や衝動性、過去の経験、フラッシュバックも関係しているかもしれない。 コミュニケーションスキルの乏しさというように原因を特定することは、このような他の要因をすべて捨てることとも言える。 これでは、ずっと問題は解決しないし、特定した1つの要因自体に誤りがあった場合には、問題の糸をさらに絡ませてしまう危険性すら出てくる。 問題が起きれば、せっせと記録をとり、直前に何があった、直後に何があった、環境はどうだったとかやりますが、だいたい真面目にそういった記録を書いているタイプの人には問題解決は難しい。 相手にしているのは、問題行動ではなく、人間だから。 人間は複雑な生き物。 原因を特定すること自体が無謀なチャレンジといえる。 だから、問題行動解決にはシンプルな頭が必要。 治しやすいところから治す。 改善できるところから改善していく。 これしか

「変わりたい」と口では言いながら、心のブレーキをかけている人

口では「成長したい」「自立したい」「働きたい」と言うのですが、実際の行動を見ると、そうは思えない人が時々、います。 「どうにかしてほしい」などという依頼があって伺うのですが、何だか後ろ向きな発言。 実際に取り組みを始めたとしても、ノル気じゃないんですね。 状況から見ても、本人の様子を見ても、「このままじゃいけない」「変わった方が良い」と思えるのにも関わらず、自らで変わることにブレーキをかけている感じです。 会議や学習会に呼ばれて伺うこともあるのですが、やっぱりここでも同じような感じの人がいますね。 「助けて欲しい」「今が辛い」なんて訴えるんです。 でも、周囲の人が手を差し伸べようとすると、さっと手を引っ込める。 そして、何も変わらないまま、以前の場所へと帰っていく…。 こういう人達は、怖いんだと思いますね、変わることが。 もちろん、感覚として現状の辛さは認識しているし、変わらないければいけないことも分かっている。 でも、変わらない怖さよりも、変わる怖さの方が大きいと感じているのだと思われます。 辛い状況にいる自分だからこそ、周囲からの同情や注目、時間などの得られているものがある人。 辛い状況にいる自分だからこそ、競争や責任、労働などから回避できているものがある人。 内面の土台が不安定であり、未知の世界に飛びだせない人。 今までの経験から、社会自体に恐怖感を持っている人。 今までの経験から、他の人と同じようにすることは無理だと思いこんでいる人。 障害自体を自分のアイデンティティーにしちゃっている人。 変わることに対して自分でブレーキをかけている人達は、その態度からだけではなく、成長度合いからも、すぐにわかります。 本気で変わりたい、現状から抜け出したいと思っている人は、事の重大さ、障害の重さに関わらず、どんどん成長していきます。 セッションをしていても、一週間前とは別人に感じることが多々あります。 それくらい短期間で変わっていきます。 一方で、ブレーキをかけている人達は、例え真面目に取り組んだとしても、例え課題や障害が軽微だったとしても、なかなか成長していきません。 もちろん、途中で本気で変わりたいと思うようになれば、そこから急速に成長していくこともあります。 自分自身で「変わりたい」と強く心の中で思えることが、取

グレーゾーンの子の発達を正常に戻す

就学前の子ども達と接している方たちの集まりに参加しました。 そうしたら、やたらと「グレーの子」って言うんですね。 「うちのクラスにも、グレーの子がいる」 「あの子の兄弟児は、たぶんグレーだ」 って。 保育園とか、幼稚園とかでは「グレー」と言うのが一般的で、実際にはそういった子も多いのでしょう。 まあ、立場上「発達障害」とは言えませんし。 みなさんの話を聞くと、「グレーの子」って言うのは、きっと軽度発達障害の子だと思われます。 軽度の子の場合、後天的な要因から発達に遅れや歪みが出ていることが多いので、しかも就学前の子なら治すことができますね。 治すといっても、特殊な水やサプリメントを飲むわけではありません。 発達を阻害している要因を排除して、凹んだ脳の部分を刺激すればよいのです。 8歳くらいまでの子どもの脳みそは、とっても柔らかいです。 その分、刺激によって歪みやすいとも言えます。 軽度の発達の遅れが出ている子の場合、生活の中に不自然な、または刺激が強すぎるものがあると推測されます。 まずは、その脳の発達を阻害している要因を特定し、それをコントロールします。 それだけで、これ以上の歪みや遅れは見られなくなるはずです。 そして、次に歪んでしまった脳を整える作業に移ります。 就学前の子どもの脳は、まだ未分化の脳ですので、1つ刺激するとその周辺の脳機能まで刺激されます。 ですから、脳に歪みがある部分を特定したら、そこを刺激できるようなトレーニングをします。 トレーニングといっても、子どもですし、まだ脳みそが柔らかい時期なので、身体面、遊びからアプローチしていきます。 何も特殊な器具など必要はありません。 歪んだ部分が刺激される遊びをすれば良いだけです。 親子でできることを毎日、ちょっとずつやるだけです。 また誕生から数年間しか経っていませんが、その発達過程の中で抜けていることがあれば、それを行います。 発達過程を戻っても良いのです。 「〇〇という発達過程を飛ばして大きくなっちゃった」と嘆く必要はなく、あとからでもやれば大丈夫です。 抜けたままにしておく方が、まずいですね。 敢えて具体的な記述はしないようにしましたので、「怪しい~」と思われたかもしれません。 でも、これで「私にしかできない方法です」とか、「〇〇

「エビデンスがー」という人は、食べログを見なきゃ食事場所を決められない人と同じ匂いがする

首長に関わらず、セコイ人は好きではありませんね。 お金の使い方は、その人の人柄が表れます。 ケチケチしている人は、きっと他人のため、社会のためになるような大きな仕事はできないでしょう。 お金なんて持っているだけでしたら、ただの紙切れです。 おしりを拭くなら、トイレットペーパーには勝てません。 無駄遣いする必要はありませんが、生きた使い方をしなければなりませんね。 必要なときに出し惜しんだり、集めることばかりにとらわれている人間は、自分で自分のケツが拭けない人。 つまり、自分自身で判断し、結果を受け止めるだけの度量がなく、人としての土台が安定していないんだと思いますね。 自閉症ギョーカイでも、「エビデンスがー」という人がいます。 エビデンス、つまり、「科学的根拠がないものはやらない」「科学的根拠が認められたものだけを信じる」と言うのです。 でも、そう言っている人達は、どうやってその療育方法が「科学的根拠がある」という結論が出たのか知っているのでしょうかね。 「エビデンスがある」=「すべての人に効果がある」ではないことは知っているのでしょうかね。 「エビデンスが―」と言う人は、食べログで星とコメントを見て食事に行く場所を決める人と同じ匂いがします。 自分の舌と直感で判断すれば良いものを他人の評価に頼るのです。 それは「失敗したくない」「自分で責任を取りたくない」「美味しくなったとき、食べログのせいにできる」という心理が見え隠れします。 自閉症療育だって一緒。 自信&自身の無さや信念の無さ、「どうにかしよう」という想いよりも、自己愛の方が勝っているのです。 こんな人には、支援者を名乗る資格がないと思いますね。 「エビデンスがー」と言って、エビデンスのある療育方法をしているはずなのに、全然効果が得られていない支援者なんて、あちこちにいますね。 つまり、エビデンスがその子の成長を担保するわけではないのです。 大事なのは、目の前の人なんです。 人間の発達、成長には、食事、睡眠、排泄、運動、勉強、遊び、生活環境、人との関わりなど、様々な要因が絡み合っています。 エビデンスがある療育だけが、その人の発達と成長を決定するわけではないのです。 そんなこと、考えれば一瞬で分かるものです。 それでも「エビデンスが―」と言い、こだわってい

取捨選択が求められる子育て環境

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金曜日から週末にかけて、どこに行っても「七飯の子、無事に見つかって良かったね」という話題になりました。 そんな中で、一人や二人ではない親御さんが「うちの子も」という話をしていました。 どんなところが「うちの子も」というと、「うちの子も、ふてくされたら親の方ではなくて、反対側に行ってしまう」ということ。 「フツー車を追いかけるか、その場に立ち尽くすよね」という世間の声とは、別の感じ方をし、別の視点で肝を冷やした親御さんがいたのでした。 私も子育て世代ですので、子育ての難しさを日々、感じています。 「子どもは勝手に育つ」と言われていましたが、今の世の中は、配慮しなければならないことが多いように感じます。 ですから、親が何もせず、「勝手に」ということはないと思っています。 例えば、食事一つとっても、農薬の問題、添加物の問題、海外からの輸入品の問題もあります。 「安くておいしいから」では、子どもの体内に異質なものが溜まったり、脳の発達の影響を及ぼしたりします。 また刺激の多すぎる電子機器、偏った教育、大気汚染、遊び環境の変化、夜型生活など、挙げ出したらキリがないほど、以前はなかったものが生活に溢れかえっています。 過刺激、不自然な環境の中に、そのままの状態で野ざらしにしていたら心身への影響、特に脳の発達に歪みをもたらします。 ですから、できれば勝手に育ってもらったら良いのですが、そうはいかないのが現実だと思います。 どこまで書いていいのか分かりませんが、「もともとは発達障害じゃないよね」と感じる子どもが増えています。 その増え方も、想像を超える勢いで。 根っからの自閉っ子よりも、後天的な自閉っ子、発達障害の子の方が、これから益々増えていくような気さえしています。 こういった実態、また次々と明らかになっていく自閉症、発達障害の研究結果…。 知れば知るほど、「子どもは勝手の育つ」という言葉が、遠い昔の言葉に感じていくのです。 自閉症、発達障害の存在を否定はしませんが、ならなくて済むのならならない方が良いと思っています。

選択肢のある人生

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支援の先に、私達は何を見ているのだろうか。 「ラクになること」 「生きやすくなること」 「心身共に健康になること」 「成長すること」 「できることが増えること」 「自立すること」 「自分の手で稼げるようになること」 これらは、支援のゴールではない。 支援のゴールは、その人が幸せになること。 幸せになるっていうのは、 周りが何でもやってあげることでもなく、 苦労や困難を避け続けることでもなく、 満ち足りる環境で生きることでもない。 幸せって、自分で自分の人生を決められることだと私は思う。 与えられる生活、与えられない生活ではなくて、自分のことは自分で選択し、生きたい方向へと歩んでいける生活こそが幸せ。 自分の意思で選択できる場面のない生活とは不幸なこと。 世界を見渡すと、選択肢を持っていない日々を送っている人達がどれほど多くいることか。 「今の日本は最悪だ」 「私の人生はお先真っ暗」 なんてことを言う人がいるが、そんなことはない。 そこに向かうまでの努力や工夫、労力は必要だが、自分で好きなところに住み、好きな仕事をし、好きな生活ができるという選択肢があるから。 そもそもの選択肢すらない人間が世界中に溢れている。 自分で選び、自分でその結果を味わえる人生は、とても豊かな人生といえる。 そういった豊かで、幸せな人生を送るためにも、心身の健康を整え、自分の可能性を広げることが必要であり、その支援こそが私達に求められていることである。 「自分の人生を決めるのは、他人ではなく、自分自身だ」 こんな実感を持って人生を歩んでいってもらいたい。

情報提供に、支援者の価値観はいらない

「なんか、みんなから見られてる気がするんです」と言ってきた学生さん。 「見られている気がするんじゃなくて、見られてるんだよ」と、私は即答。 そして、ちゃんと説明します。 「独り言を言いながら笑っていたら、周囲の人からは気持ち悪く見えるから」 「急に立ち上がったら、周りの人は驚くから」 「顔を揺らしたり、腕をフニャフニャ動かしていたら、奇妙に見えるから」 本当はみんなから見られているのに、「いいや、気のせいだよ」「みんな、見てないから」と言うのは、適切な支援じゃないですよね、特に自閉症の人達の。 「見られていないのに、見られてる感じが続く」って本人の頭の中を混乱させたり、別の機会に指摘されて、本人が傷ついたり…。 事実を伝えないのは、問題の先送りであり、支援者の逃げですね。 だって、事実を掴み損ねるのが、自閉症の人達ですから。 「良い情報も、悪い情報も、きちんと教えて欲しい」という本人たちからの訴えを聞いたことはありませんか。 (自称)障害を持った人達の立場に寄り添う優しい支援者は、奇妙に見える仕草を指摘しないでしょう。 そして、本人がわからないところで、周囲の人達にこう訴えます。 「独り言を言うのは、頭の中で処理できない情報を整理しているのです」 「決まったフレーズを自分で言って、それを聞くことで、ストレス状態から自分を守ろうとしているのです」 「身体を突然動かしたり、同じ動作を繰り返したりするのは、本人の意思とは別の反応なんです」 だから、「理解してください」と言い、奇妙に思うこと自体をコントロールしようとする。 どう感じ、どう思うのは、その人の自由なのに。 こうやって、周囲の人達の“見て見ぬふり”を促進させ、ますます障害を持った人との間の距離を作っていく結果になるのです。 「行動が気持ち悪く見える」って言うのは、事実であり、本人にとって必要な情報です。 自分の行動が周囲から気持ち悪く見えるという事実を知れば、みんながいるところでは止めよう、別の行動で代替しよう、という工夫が生まれ、以前よりも、自分も、周囲も、生きやすくなるのですから。 こういったポジティブな変化に繋げることこそが支援なのです。 周囲の人間をコントロールしようとするのは、支援とは呼びません。 本人の成長につながらないから。 ただでさえ情報を掴

動物性とその発達過程を大切にした支援

新しい知識や技能を学ぶっていうのは、支援者として当然のこと。 日進月歩で解明されていく発達障害とその有効な支援方法。 当然、自分の中にある知識も、技能も、日々、更新していかなければならない。 そういった作業を行っている一方で、忘れてはいけないのが、「ヒトはサルである」ということ。 人類の祖先がチンパンジーの祖先と分かれたのが、600~700万年前くらいと言われている。 そこからとてつもない時間が経って今の自分たちがいる。 ロボットだとか、ITだとか、ここ数十年で、文明的にはすさまじい進化を遂げた。 自閉症、発達障害に限っても、様々な研究がなされ、医療、福祉、教育面で大きな発展を遂げた。 でも、ここで間違ってはいけないのは、発展、進化したのは文化の方であること。 人間が進化したわけではない。 人間の進化の過程と比べれば、文化の進化は、ほんの一瞬にすぎない。 つまり、人類の身体は、現代の文化仕様にはなっていないということ。 限りなく野生の動物たちに近い存在なのだ、私たちは。 新しい知識、技能を得て、何でもわかったフリをするのは、傲慢の一言である。 薄っぺらい知識をかざし、ヒトを語るのはよした方が良い、みっともないから。 「自閉症支援」「自閉症療育」なんてカッコよく言っているが、「ヒトの発達をどう支援していくか」ということ。 ヒトの発達の仕方なんて、ここ数千年で変わるわけはない。 発達の仕方は動物と一緒。 その発達の過程に違いや遅れ、抜けがあるから、そこを支援していくだけのこと。 より良い発達の支援の仕方が見つかるなら、それは喜ばしいこと。 でも、知識や技能などの文化がヒトを超えると思ってはいけない。 ヒトの発達に沿った支援方法なのか、この視点が大事。 「障害よりも、人が先に来るんだ~」なんて声高々に叫んでいる人がいるが、それではまだ浅いと私は思う。 人が先に来るのは当然のこと。 でも、その人も、ヒトでなくてはならないと思う。 そのヒトとは、「人も動物である」ということ。 真の支援とは、ヒトを大事にする支援。 つまり、動物性を大事にする支援。 私は、動物性とその発達過程を大切にした支援を行っていこうと心に決めている。

「僕の将来の夢は、総理大臣になることです」という発言に、どんな言葉をかけるか

先日、ある会に呼ばれたとき、参加していた中学生の男の子が次のように発言しました。 「僕の将来の夢は、総理大臣になることです」と。 総理大臣になって住みやすい社会に変えるのが、目標だそうです。 周囲には、支援者と呼ばれる人達がいました。 彼の発言を聞いて、ある人は「総理大臣になるためには、話す練習をしなきゃね」と言い、別の人は「それじゃあ、中学校の勉強を頑張らなくちゃね。宿題もちゃんと一人でできるようにね」と言いました。 どこでも聞くような定型の発言だったので、そこまで驚きませんでしたが、次の発言には絶句しました。 「総理大臣になったら、一緒に写真を撮ってね」と、また別の人が言うのです。 私は夢を語ることも、夢を見ることも、否定しません。 でも、現実を教えることも重要だと思います。 ですから、私ははっきり彼に伝えました。 総理大臣になるには、選挙に出て当選し、国会議員になる必要があること。 総理大臣、国会議員に選ばれるためには、交渉する力、高度なコミュニケーション力、社会性、さらに目に見える形での実績が求められるし、それがあったとしても、選ぶのは他人であるということを。 その場にいた私以外の人間が絶句したのは、言うまでもありません(笑) 無責任な発言をした人達も、心の中では無理だと思っているのでしょう。 どうせ時間が経てば、「別の夢に」とか、「私は彼の進路のときには関わらないし」とか、思っているのでしょう。 でも、その人達にとって“軽い発言”だったかもしれませんが、彼はそのように受け取っていないのです。 言葉通り受け取る子です。 言葉の裏が読めないのです。 彼の視点に立つと、こう思ったでしょう。 「僕の夢は支持された、応援されている」 「総理大臣になるために、中学校の勉強を頑張ろう」 「中学校の勉強を頑張ったら、総理大臣になれる」 これって私のオーバーな想像ではないんですよ。 自閉症の人達の誤学習の中には、こんな何気ない他者の言動が多いんです。 定型と非定型のコミュニケーションのギャップから、相手が自分に好意があると勘違いしてストーカーしたり、「自閉症には才能がある」という言葉を信じ、でも、社会でうまくいかず、世の中を恨んだり…。 社会の中で起きるトラブルの多くは、その背景に誤学習があるんです。 どうしますか