2020年10月25日日曜日

【No.1118】他の家の育ったエピソードは「希望」と「考えるきっかけ」

人間、「ない」を目標にすることはできないんですね。
「ない」というのは具体的ではありませんし、だからこそ、そういったもんを思い描きながら何かをするって言うのは難しいんです。
よって「二次障害がない」っていうのは目標になりませんね。
二次障害が起きないようにするために、早期から療育に通う、療育を頑張って受ける。
イメージできないものを頑張ることはできませんので、そういったことを目標に掲げ、療育を受けていると、いつの間にか受けることが目的となり、振り返れば何のための年月だったのかと思うことになってしまいます。


ですから、「ない」ではなく、「ある」を目標にしなければなりませんね。
たとえば、「一人で宿題を始めて、終えることができる」とか、「自分で尿意を感じて、トイレで排泄できる」とか。
これだったら目指すべき姿が明確ですので、ちゃんと終わりがはっきりしていいんです。
何より、その子の顔、姿が浮かびますね。
お子さんにとってそうですし、親御さんにとっても待つ姿勢が保てて良いと思います。


親御さん達のお話を伺っていると、我が子の発達の遅れやなかなかヌケが埋まっていかないことのみに悩んでいるわけではないんですね。
むしろ近頃では、他の神経発達症の子どもが育っていく様子と自分たちを比べて、それが新たな悩みになっている場合が多いように感じます。
「ああ、あの子は順調に育っている(我が子は…)」
「同じようなアプローチをしているのに、うちの子と伸びが違う…」
「育った」「治った」という声は希望であると同時に、心を締め付ける作用もあるのだと思います。


そういった親御さん達に私はお話しするのですが、「診断が外れた」とか、「普通級で大丈夫になった」とか、「症状が治った」というのは、明らかに希望なんですね。
私が学生時代の親御さん達なんて、希望らしい希望すらなかったんですから。
「将来、どんなことを希望されますか?」と学生時分の私が親御さん達に尋ねると、ほとんどの親御さんが、「卒業後、家にいるのではなくて、どこか施設に入れること」「施設職員から嫌われないで生きていけること」「他人に迷惑をかけないで生きていってもらうこと」「できるだけ自分たちが長生きして、この子を置いて死なないこと」などとおっしゃっていました。
まさに、「ない」「ない」「ない」ばかりだったんですね。
なにかが「ある」姿が描けなかったんだと思いますよ。
当時は今以上に、「生涯、支援」「現状維持できたら儲けもの」「問題行動は嵐が去るのを待つのみ」なんてギョーカイ支援者たちから言われていましたから。
「治る」とか、「発達する」とか、「自立する」とか、そういった言葉も、人もいなかったですし。
だから、他の家庭のお子さん達が育っていく姿は希望以外ないのです。


その希望のみを享受できずにいる親御さんは、大きな勘違いをされていると感じます。
そうやって育ったよエピソードを発信する親御さん達は、「発達障害の子も発達する」と伝えたいという想いが中心なんですね。
決して自分が選択した方法、同じアプローチを「やってみて」と勧めているわけではないんですよ。
ある子が発達した方法を、うちの子もやったら、「同じ成果が出る」というのはあり得ませんね。
実験用のモルモットではないんですから。
同じ発達に遅れがある子でも、発達の仕方が違いますし、それまでの歩みが全然違います。
確かに同じような発達段階にヌケがある場合がありますが、こっちの子でうまく言った方法を、今目の前にいる子にアドバイスなんてことはしません。
なぜ、そこにヌケが起きたのかが違いますし、何よりも育っている環境も、本人の資質、個性も違います。
だからこそ、私たちのような支援者は、本人と家族、そして環境を見ながら、個別の助言をしているのです。
「はい、自閉症には視覚支援」
「はい、みんな、スケジュールを作りましょう」
なんていうようなのは、支援者っぽい仕事であって、一人の人間を支援する仕事ではないんですね。
一斉指導の講座に参加しても、受講者一人ひとりに合わせて助言を変えている人が本物です。


「育った」「発達した」というエピソードも、捉え方は人それぞれで、どういった状態があっての「育った」「発達した」かはわかりませんね。
万人が見て「これはまさしく発達したと言える状態ですね」とはならないでしょうし、そんなことはあり得ないと思います。
しかも、私も再三伝えているように、何で発達したかなんて因果関係がすっきり明確に示せることなんてありません。
どんなアプローチだって、その子に合わせて個別化するのは当たり前です。
厳しい言い方になりますが、本やネットで書かれていることをそのままやって「ああ、うちはダメだった、難しかった」は安易すぎです。
「育った」「発達した」「治った」と喜ばれている親御さん達は、誰かの助言、本やネットで書いていることをそのまま行っているわけではなく、必ず目の前のお子さんに合わせてアレンジしているものです。
アレンジなく、そのままコピー&ペーストは、単なる信仰です。
「信じたのに、結果が出なかった、裏切られた」と思うだけ時間の無駄ですね。


「一度、付いた診断名を外そうとしない」というのは、「発達障害の人も発達する」ということを信じていない証拠です。
いまだに、日本の特別支援の世界は、「発達に遅れがある子は遅れたまま」と考えられているのです。
だからこそ、一人ひとりの「発達したよ」というエピソードが重要なのです。
その発達を後押しするアプローチは無限にありますし、どれが良くて悪いかなんてわかりません。
それにどんなアプローチであったとしても、個別にオーダーメイドで作り上げていく必要があります。
何故なら、その子が発達するには、その子の持つ発達する力を引き出し、後押しすることが重要だからです。
結局、一にも、二にも、本人の発達する力です。
それがあってのアプローチ。
そのアプローチもすべてきっかけであり、本人の発達する力が伸びやかに発動した結果が、「育った」「発達した」「治った」になるのだと感じています。
何が本人の力を引き出すきっかけになるか、そんなものは人それぞれ違って当然ですね。


発達障害の子ども達に必要なのは、「支援」と「理解」なんていうのはチャンチャラおかしな話です。
「いつまで、何十年バカにしてるんだ、支援者たち」と言いたいですね。
発達障害の人も発達します。
その発達する方法は、子どもの人数だけある。
「専門的な支援を受けなきゃ」「早期から療育を受けなきゃ」なんてことはなく、親子の中にも、家庭の中にも、同年代の集団生活の中にも、外に、世界中に、どこでも発達する機会、きっかけはありますね。
専門的な支援、特別な支援だけが発達させるなんていうのは既に騙されている証拠。
だって、その専門家たちは「発達障害の人は発達する」なんて思っていないから。
診断基準を飛び越えて育っていくことを信じられない人たちが、どうしてその子達を発達させることができるのでしょうか。
すべて結果オーライで、育ったのはその子の発達する力が発動したから。
あるのは、一人ひとりの育つ力。
ないのは、みんなに共通するアプローチですね。




2020年10月22日木曜日

【No.1117】その「多動」って障害ですか??

発達相談では、ほんまかいな自閉症も多いんですが、ほんまかいな多動も多いんですね。
「ADHDの診断も受けているんです」というお母さんに、「それって、不注意のほうですかね」と訊くと、「いいえ、多動でついているんです」というパターンが少なくありません。
いやいや、家で静かに遊んでいるし、「それやめてね」と言われれば、自分で行動を制止できてるし…。
幼児さんが、公園とか、幼稚園・保育園とかでワーッとなっちゃうのは当たり前。
むしろ、ワーッとならないで、一人でぼんやりしている子のほうが心配ですね。
同じくらいの年代の子が集団になれば、テンションが上がるの普通だし、公園とか開放的な空間に行けば自然と走り回りたくなるのは普通だし。
子どもが子どもらしくして「障害児」になっちゃうんだったら、その診断の付け方が問題ですよ。


どうしてこんなことが起きるのかといえば、1つの診断キットというか、複数の視点や検査で診断していないからなんですね。
家の中で終始動きまわり、テーブルの上に上がる、声を叫びまくる、大人からの制止が利かないというくらいだったらわかりますが、そのようなお子さんはほとんどいなくて、結構、集中して活動できている時間があるんですね、家だと。
まずその家の姿をみれば、その「ADHD」という診断が適切ではないことがわかると思うんです。
だけれども、あるひと場面の様子のみで診断してしまうから、当然、そこで多動や落ち着きの無さを強調しちゃえば、それがすべてになってしまうのです。
でもね、診断ってかなり重いものだと思いますよ。
その診断名一つで、学校や進路、それこそ、服薬するかどうかまで決まっちゃう子とあるんだから。
それなのに、いまだに生物的なマーカーではなくて、親御さんからの聞き取りと、その場での行動のみで診断が決まってしまう。
今、どんな病気でも、それこそ、画像や数値などで客観的に判断できるものまでも、複数の医師が集まって、複数の検査を行い、この病気は本当にこの診断でいいのか、治療法でいいのかを慎重に検討するんですよ。
町医者が喉を見て、「ああ、風邪ですね」というのとは重みが違うんですよ、障害と診断するってことは。


障害というからには、その多動も、自分自身ではどうしようもない、コントロールすることができないというくらいの生活に支障が出るレベルのものだと思うんです。
私も、本当のというか、実際に生活に支障が出ているなと思うくらいのADHDの方たちにお会いしたことがありますが、その激しさというか、自分自身で自分の行動をコントロールできない苦しさ、脳が制御不能に陥っている大変さを感じましたね。
このような方達と対面したときには、薬の力を借りてでも、いち早くこの状態から抜け出してもらいたい、と思いました。
ですから、インスタントに多動と付けられた子ども達を見ると、そうじゃないよな、別の要因があるよな、やりようがあるよな、と思うんですね。


24時間、場所に関係なく動きまわっている子ではなく、ある場面で、一定の時間の中で多動になるお子さんで考えられることがいくつかあります。
まず本人の内側からの要因として…


●呼吸が浅いことによる自律神経優位からくる多動
●動き・身体・筋力の未発達があり、脳からの指令にそれらが応じられる段階にないことからくる多動
●反対に首・背骨が育っておらず中枢神経↔末梢神経がスムーズに繋がっていないことからくる多動
●内耳(前庭系)に未発達があり、自分と空間の位置関係を確かめたいがための多動
●過剰な糖質摂取とそれを代謝しようとする身体の中で生まれる多動
●愛着形成のヌケからくる「世の中がなんだか信じられない、怖い」というソワソワ感からの多動
●背中や身体地図が育っておらず、他人が背面や傍に来ることに対して反射的に行動してしまい、それが多動に見える(主に集団内のみ)
●乳幼児期からの長時間のメディア視聴により、脳の情報処理形態がずれてしまったことによって過剰で速い刺激を求めた結果の多動
●嗅覚の未発達による危険の察知や探索活動としての多動
●聴覚過敏等、未発達からくる過敏さによる回避行動としての多動
●フラッシュバックからの多動
などが考えられます。
もちろん、複合的ですよ。


あと環境側の要因としては、授業がつまらない(笑)、先生が嫌い、友達が嫌い、言っていることが分からない(内耳の未発達→聴覚の未発達も含む)、目に入る刺激が多い(聴覚の未発達からくる視覚優位)、新しい人・知らない人がいる、新しい物がある、何かが変わった、魅力的なモノがある、など。
環境要因は、無限にありますね。


でも一番多いのは、今朝栗本さん(からだ指導室 あんじん 主宰)も仰っていたように『何気ない動きや一見多動と思われる動きの中に自らを発達させていっていることがある』ということですね。
多動とか、落ち着きがないとか言っちゃうと何だか悪いことのように聞こえますが、本当は喜ぶべき姿であり、応援すべき姿なんですね。
家庭訪問でお子さんの様子を拝見させていただくと、「今、一生懸命、〇〇を育てているな~」と感じることが多いですよ。
実際、そういった動きをやり切ると、子どもさん自身で満足されると、スッと静かになったり、別の遊びを始めたりしますね。
こういった場合の多動は、ほとんどが一過性です。
だから決して、24時間、自分でどうしようもなくて動いてしまう多動とは様相が全く違います。
動きが伸びやかだし、何より心地良さそうですもん、子どもさん達。


動物園でチンパンジーや猿などの動物の子ども達を見ても、ヒトの子ども達を見ても、みんな、よく動きまわっています。
そりゃあ、当たり前ですよね。
動くことで自らを育てる必要があるんですから。
幼稚園や保育園、公園に行ってもそうです。
彼らにとって、この世界はまだ知らないことばかり。
だから、自分の身体を動かし、五感をフルに使い、この新しい世界を知ろうとしているのです。
大人から見れば、気付きもしないような虫や草花も、子ども達にとっては興奮し、知りたいと思う存在になります。
ヒトは動くことで自らを育て、人は動くことで世界を知り、広げていく。


時々、大人でも年がら年中動きまわっている人がいますが、そういった人達は脳がまだまだ勢いがあって若いんですね。
そして、「まだ知らない世界を見たい!」という想いが人一倍強い人。
そういった人を、クダラナイ専門家が「ADHDだ」なんて言いますが、自らの資質を磨き、活かして生きている人が障害というカテゴリーに入るわけがありません。
彼らの努力に対して失礼だし、意味のない分類なんてしていないで、彼らのような人に育つような後押し、アイディア、育て方の一つでも出してみろよ、と思いますね。
つまり、私が言いたいのは、「子どもの育ちを邪魔するな、専門家たち!」です。




2020年10月21日水曜日

【No.1116】なんで発達したかなんて、わかりっこない

ほんとに驚いてしまいます。
未だに「これだけの人数で抑えられているのは、多くの人が感染予防に努めているから」と言っているなんて…。
単なる負け惜しみか、自分が宣言したことを撤回できないだけなのか。
欧米で亡くなった方達も、そのほとんどが基礎疾患を持っている高齢者というデータが出ていますね。
「日本人はきれい好きで、予防の意識が高い」なんていうのも、屁理屈もよいところで、だったら、日本よりも決して衛生状態が良くないといえる東南アジアの国々で、どうして感染者数が少ないのか、死者数が増えないのか。


でも、一番腹立たしいのは、こういった発言をしている専門家が一般の人たちをバカにしていることですよ。
「緩めたら感染者数が爆発する」というのは、こちらが指示しなきゃ、自分たちで自己防衛は無理だろう、どうせすぐに好き放題、元の生活に戻るんだろう、という専門家特有の上から目線ですね。
そんなにいうのなら、世界的に基礎疾患を持っている人たちが重症化し、亡くなっているのですから、そっちの基礎疾患を治すほうを頑張ってくれよ、と思うのです。
私達は今回の騒動で今一度、立ち止まり、「医療とは」と問い直す必要があるのではないでしょうか。


立ち止まると言えば、今回、緊急事態宣言が出され、ほとんどの療育機関がストップした時期がありましたね。
未だに制限があったり、以前のような講演会、研修会が執り行われていない状況です。
今一度、考えましょう、「特別支援ってなんなのだろうか?」「療育ってなんなのだろうか?」と。


私がこの世界に入ったときには既に「早期療育は良いもの」「特別支援を受けることは当然のこと」とされていました。
でも、なんで早期療育を受ける必要があるのでしょうか。
どうして、支援級や支援学校に通う子ども達は、放課後は児童デイに行き、定期的に療育機関や病院に通うのでしょうか。
その目的と答えがよくわからないのです。


学生時代、確か療育も、支援も、「本人の"自立"へ繋げるものだ」と教わりました。
でも、いくら早期から療育を受けようとも、私達一般の人たちがイメージする自立をしている人はほとんどいませんね。
早期から療育や支援を受けた子は、大人になっても支援を受け続けています。
「自立」を掲げていたのは、輸入元である欧米の理念をそのまま持ってきたからでしょう。
私も実際に見てきましたが、日本で言えば、絶対に入所施設だよね、という人たちが地域のグループホームや家で生活していました。
あちらは、学校を出たら、どの人も家を出て暮らすという文化がありますので、それが特別支援の世界にも表れているのだといえます。
「家を出て一人前」「納税をして一人前」
それがあちらの文化です。


あとは環境の違いも大きいと思いましたね。
家の壁がぼこぼこだったり、一晩中、大きな声で叫ぶ人も、アパートというか、日本で言えば一軒家みたいなところで生活していました。
いくら叫んでも、大きな家に住んでいて、隣の家が離れていれば、そこまで問題にはならないでしょう。
言うならば、北海道でもさらに人が住んでいないようなところで、ポツンポツンと家があり、そこで暮らしているのです。
そういった文化と場所で生まれたものを、そのまま、日本に当てはめるのは無理がありますね。
だって言っちゃ悪いけれども、視覚支援がどうのこうのとか、支援方法がどうとかじゃないんだもん。
すべて食事はデリバリーでも、「彼は自立して生活できている」
食器洗いの仕事で洗い残しがあっても、「彼は自立して働いている」
まあ、食器洗いに関しては、職員さんも汚かったですが…。


ちょっと脱線しましたが、あちらの現状をしている人は気づいているんですね、「こりゃあ、療育や支援だけでは自立しない」と。
当時のギョーカイメジャーの有名支援者も、日本の講演会では絶賛し、推奨しつつ、内々で話したときは、「これを日本に持ってきても無理だよ」と言っていましたので。
ここは日本人特有というか、専門家とか、教授とか、理事長とか、肩書が付くと、全部まるまる正しいことを言っていると思ってしまうところがありますね。
今回もすごい賞を採った人が「10万人」と言ったきり、どこかに消えてしまいました。
専門家とはいえ人間ですし、いろんな関係性の中で生きているのですから、間違うこともあるし、本音と建前がある。


そういった「こりゃ、自立は無理だな」と気づいた専門家たちが、いつからか「早期から療育や支援を受けるのは、二次障害にならないためだ」と言うようになりました。
(そういえば、近頃、誰も自立って言いませんね)
これもおかしな論理ですね。
二次障害に"ならない"ため、なんですよ。
そんなもの、どうやって証明するの??
自閉症や知的障害を持つ人の中にも、二次障害を起こさない人はたくさんいます。
でも、それが療育や支援のおかげか、なんてどうやって言うことができるのです。
一卵性双生児の兄弟を連れてきて、片方は療育アリ、もう片方は療育なし、で育てて証明でもするんですかね。
ほんとうにばかばかしい話です。
デタラメを言うなら、もう少しまマシな文言を作るべきですね。


確かに診断を受けずに大人になり、精神疾患になってから初めて「自閉症」というような診断名が付くことがあります。
でも、「早くに気づかれなかった」「療育や支援を受けていれば違った」は、仮説の一つにすぎません。
だって、子ども時代に診断を受け、療育や支援を受けた人達の中にも、精神疾患になったり、自立できずにいる人が大勢いるのですから。
そんなことを言うと、「理解が足りなかった」と別の仮説を話し始める人がいますが、同じ時代を生きている人達の中にも、自閉症という特性を持ったまま、働き、自立し、家族を持っている人たちがいます。
それはただの仮説であり、その人の意見でしかないのに、あたかもそれが事実のように主張する。
そして、それを信じ実行した人たちの未来には、何の責任を持たない、言いっぱなし。
特別支援という閉鎖的でニッチな世界だけの話かと思えば、今回のコロナ騒動で、「ああ、どこも同じパターンの古典的な方法だったのね」と分かるのでした。


私の結論から言えば、受けても受けなくても大差はないし、子ども本人からしたら受けなくて困るようなことはないだろう、ということです。
むしろ、就学時、普通級に行っている子や今、自立して生活できている若者たちを見ると、できるだけ幼少期は同年齢の定型発達の子ども達とともに活動している人のほうが伸びているのがわかります。
私の20年弱の経験の範囲でしかありませんが、幼児期に療育機関や支援が必要な子が通う園にフルで通って、そのあと、就学時に普通級という子はほとんどいませんし、いたとしても、途中で支援級に移っていますね。
幼児期がっつり支援の子は、成長していっても、支援が切れない感じがします。
まあ、圧倒的に同年齢の子ども達が体験したり、学んだりできていることが抜けていますからね。


私はこの仕事をしていて、他人ができる支援なんて微々たるもんだな、と思います。
関わった子どもさん達の中には、普通級に転籍した子もいますし、幼児期に困っていた症状が見られなくなった子もいます。
「生涯、支援だね」と言われた子どもさんが、今は大学に行ったり、普通に就職したりしています。
だけれども、私が教えたアイディアとか、相談に乗った時間とかは、ほぼ影響なし。
結局は、本人が自分で感じ、考え、選択し、行動した結果なんですね。
そういった子ども達の親御さんとお話ししても、よくわかります。
誰も「私が〇〇したから」とか、「〇〇療法をしたから」とかって言わないんですね。
「ああ、この子が無事に自立できてよかったな」
「あのときの生きづらさがよくなって良かったな」
そんな感じです。


「早期療育があったから」
「うちの専門的な支援を受けたから」
そんなことをいうのは、自分に注目してもらいたい人間と、それを宣伝に使いも受けようとしている人間だけです。
だって、全部仮説だし、意見の一つだから。
もっといえば、本人ではない他人の勝手な解釈でしょ。


私も発達について一生懸命学んでいます。
でも、いくら発達について学び、詳しくなったとしても、その子がどうして変化したのかなんてわかりっこありません。
前後を比べて、発達したかどうかは現象として捉えることはできますが、それだってもっと遠い未来から見れば、完全に発達できたといえるのか、やりきったといえるのかはわからないのです。


ヒトの発達とは、目に見えるものではありません。
だから、誰々が言ったからとか、みんな利用しているからとか、そんなもんで選択してはなりません。
大事なのは、主体である子ども本人。
本人が前向きに療育機関に通っているのなら、そこに何か学びや成長があるのでしょう。
反対にそういった様子が見られないのなら、誰のために通っているのか、問い直してみることが必要だといえます。
それが「子どものことをよく見る」ということです。


私は多少経験がありますし、納税者でもありますので、療育が唯一の場所ではないことも、結果に見合わない額の税金が使われていることも分かります。
一般的な幼稚園だって、地域の公園だって、家族の旅行だって、親子の関わりだって、子ども達の発達を後押しするわけです。
どこが優れているとかはなく、いうならばその子の発達段階と時期によって、必要な場所が変わっていくのが自然です。
今の療育のレベルで言えば、発達段階の初期の子には意味があるでしょう。
でも、子どもの発達が進んでいるのに、通い続けるメリットはないと感じます。
まとめますと、療育に特別な効果の有意さはなく、家でも、普通の園でも、公園でも、親子だけでも育ってしまうとバレてしまうとまずいから必死に「自立」「二次障害」「専門性」と連呼しているだけですね(爆)
なんか(自称)専門家が言ってきたら、「先生からの意見、仮説の一つとして受け止めますね、ニコッ」と微笑み返し!




2020年10月20日火曜日

【No.1115】専門的な(?)対処法って

「エビデンス」同様、この界隈では「専門性」という言葉がよく出てきます。
「専門的な支援」
「専門的な療育」
「専門性を持った職員が指導を行います」
こうやって強調している様子を見ると、よほどご自身の専門性に疑念を持っているのかと思います(笑)
料理人がいちいち「私、包丁さばきの専門家です」なんて言いませんよね。
まあ、「創作フレンチの店」くらいは言うでしょうが、あえてその専門性を強調したりしません。
そりゃあ、その仕事をしているんだったら、腕の良しあしは別にして専門家には違いないのですから。


あまり他の職業というか、一般的な社会の中で生きていると、自分で自分のことを専門性があるとかないとかは言いません。
だから、この世界に入ってから、ずっと違和感を持っていたんですね。
みんな、恥ずかしげもなく「専門性」という言葉を自分たちに使っているから。
フツー、そういうのって、利用してくれた人とかが評価して言うものだと思うのですが。


そう考えると、なんで特別支援の世界にいる人間が「専門性」にこだわるのかよくわかります。
結局、外からは評価しづらいんですね、特別支援の世界って。
療育でも、支援でも、特定の支援者の関わりでも、本当にそれが子どものポジティブな変化に繋がったかどうかわかりません。
私も20年近くこの世界にいますが、そりゃあ、短期的に、今この瞬間のレベルでいえば、よい変化につながったかなと思うこともありますが、そんなのはわからないし、評価なんてできません。
まあ、これは将来的にネガティブな変化に繋がるな、というのはビシバシ分かりますが(笑)


「よくなった」という姿が、単に本人の発達と成長によるもの。
そういった場合がほとんどだといえます。
週に1回とか、一日1時間とか、療育・支援を受けたからって、なにがどうってことはありませんね。
そんなのでうまくいくなら、早期療育を受けた子ども達が「診断が外れないのはナゼ?」「卒業後の進路が福祉一択なのはナゼ?」「幼いときの問題行動が大人になっても続いているのはナゼ?」
やってもやらなくても変わらないのが大部分。
だから私はいつも「趣味嗜好」と表現してるんですね。


揺れ動く親御さんにとっては、優しい言葉をかけてくれる人が、しかも、その人が自分のことを「専門性がある」って言っているし、専門性がある支援者の人が私に「大丈夫だよ」と言って寄り添ってくれる。
一昔前の結婚詐欺みたいな感じ、「ぼく、東大」「ぼく、年収1千万」。
話を遡れば、そもそも揺れ動かしたのは最初に出会った専門家が不治の病みたいな表現で脅すのが悪いのですが。
「専門」という言葉もそうですが、特別支援の支援者って、その瞬間、その瞬間のみの短期的な存在なんですね。
ほぼやっているのが、親御さんの話を聞く、優しい言葉をかける、ヘタなカウンセラーみたいな別名、問題の先送り。


あとは、高々に(自らが)掲げる専門的な支援・療育は、対処療法。
「うちの子、睡眠障害なんです」
「息子さんは布団に入ってから、なかなか眠れないのですか?」
「そうなんです。布団中でずっとタブレットで動画を観ているんです」
親御さんを否定しないがギョーカイルール、ギョーカイ全体の誤学習なので、「そのタブレットを自由にさせているのが悪いんじゃ」と喉もとまで来てもグッと堪える。
そして「寝る時間を絵で示したらどうですか」というTHE平成の視覚支援、伝統芸能みたいな代々伝わる型を令和のママ達に伝授する。
全国を見渡せば、「眠れる身体を育てよう」という方向で、その子の土台から、根っこから育てようとしている親御さん達が大勢いるのに。
もうすでに、親御さんの興味関心は、根本からの解決に進んでいますね。


私は思います、専門的な対処療法ってなんだろうか、と。
対処の専門、対処の専門家と言うことです。
それは「その場しのぎ」ともいえますので、時間をかけて待つことが大切な発達の仕事は向いていないと思います。
せめて本人自ら対処できるようになるために、子どもさんに、もしくはその親御さんが自力できるような技術転移をしなければ、「仕事をしている」とはいえませんね。
「専門的な」というのが「対処」の前に来るのもおかしな話なんですが、対処法をその子が習得するためではなくて、対処法を受けるためにどこどこに通うというのは理解に苦しみます。


療育機関で「対処」が必要なら、その療育機関に行かなければ、対処する事柄に出会わないからいいわけです。
もし家で対処すべき何らかの出来事があるのなら、そんなものは現場である家で対処をしなければ意味がない。
支援者が家に来てくれて対処してくれるのなら、なんぼか意味があるかもしれませんが、家で対処すべき困ったことがあり、それを療育機関に行き、対処療法を受けることでどうにかしようというのは、アクロバティックな動きすぎ。
療育機関で対処を受けたあと、家で困っていたことが起きなかったとしたら、それは疲れていたか、ちょうどその行動の止め時とタイミングが合っただけですね。
問題行動は、根っこにある課題を根本解決しなければ収まるわけはないのですから。
それは成人以降も続いている問題行動の一つも解決できない今までの特別支援が証明してくれています。
行動障害を持つ人が減らずに増え続けているのも、そうですね。


重い知的障害を持つ自閉症者、発達障害児への支援は、対処で良かったというか、許されていたんですね、数十年前までは。
だって治らないし、教育の効果、受ける意味すらモヤモヤしたものがあったから。
その時代の親御さんからしたら、たとえ対処であっても、何よりも見捨てず関わってくれること、関わり続けてくれることが有難かったのだと想像します。
しかし、もうそんな時代ではありません。


知的障害を持つ子も、認知的にも向上し、同じ状態にとどまり続けるわけではないこと、中には診断名がそぐわなくなるくらいまで育つ子がいることが明らかになりました。
実際、私もそうですが、重度判定だった子が今は大人になって一般就労しているのを知っています。
脳の機能障害から神経発達の不具合に認識が変わり、自閉症の特性と言われていたものが、未発達・ヌケの状態ということが明らかになってきました。
「聴覚過敏はイヤーマフ」という対処が、聴覚の未発達なら育てられるよね、に変わったのです。
ずっとイヤーマフをつけて人生を生きていくよりも、聴覚の未発達を育てて、ラクな耳になったほうがいいと望むのは、親御さんの自然な感情だと思います。


みんな根本解決がわからなかったから、対処法でも「専門」を語ることが許されていたんですね。
でも、その根本的な原因と解決するための育て方がわかった現在、対処法に「専門」という言葉をつけるのは、そして自分たちでそういうのも、より恥ずかしいことだと感じるようになりました。
幼児でもタブレットを使い、学習しているときに、おじさん、おばさんが「私、タブレットを使える専門家」と言うくらい愉快な状況だと思います。


私個人的な感想なのですが、これからの時代、特別支援において「専門」という言葉を使うのは相当勇気がいること、よっぽどの何かがないと難しいと思います。
持っている情報は、そこら辺の支援者も、親御さんも変わりないから。
知識で言えば、子の人生がかかっている親御さんのほうが一生懸命学びますし、収集しているといえます。
そもそも未だに「脳の機能障害」とか言っている支援者がいるくらい情報更新が苦手なのですから。
少なからず、どこの誰でも言えるような対処法しか答えることのできない支援者、支援機関は淘汰されていくでしょう。
対処と根本解決を比べれば、どちらのほうがその子の人生にとって良い選択になるのか、考える必要もないくらい明らかですから。
顔オムツ同様、その役目を終えたら丸めてポイです。




2020年10月19日月曜日

【No.1114】短期的な有効性、長期的な有効性

有効な治療法が確立されている場合、その診断名には意味があるといえるでしょう。
しかし、発達障害や自閉症、近頃で言えばHSPなどは、診断名に対応する治療法が存在しませんので、一時的な効果があるかもしれませんが、本人の生きづらさの根本を解決につながるわけではありません。
最近も、「ホント、診断受ける理由って、なんなんですかね」と訊かれましたので、「まあ、"分かった気"にさせてくれるという効果はありますね」と答えています。
「過去に自閉症の人と関わったことがある」
「発達障害について本で学びました」
一人ひとりがまったく異なるのに、なんだか知った気分にしてくれるのが「自閉症」「発達障害」という言葉の起源なのでしょう。


同じような印象を持つのが、エビデンスという言葉です。
「エビデンスがある療育」なんていうと、それだけで我が子にも、自分が担当している子にも効果がある、と思ってしまう。
これだけ療育という言葉が浸透したこんにちにおいても、いまだに療育が将来の自立につながるというエビデンスが出ていないのに。


現在、エビデンスのある療育と言われているものの多くは、対症療法です。
ですから、そのあると言われるエビデンスも、長期的な効果、有効性ではなく、短期的な効果、有効性になります。
その療法を受けて1週間後、1ヶ月後、3ヶ月後、1年後の有効性をフォローできるかもしれませんが、はたしてその持続している効果が療育だけの効果なのか、単に1年経ってその子が発達したためできているのか、学習や理解ができるようになってできているのか、そんなのは時間が経てば経つほど、わからなくなるものです。
ですから、いくらエビデンスがあろうが、短期的な効果になってしまうのです。


確かに視覚支援は有効です。
それは、まだ言葉や理解が進んでいない乳幼児にとって。
そのくらいの子ども達は、言葉よりも、目で見たほうが理解できます。
確かに行動療法は有効です。
それは、まだ十分に考える力が育っていない子ども達にとって。
今、次の瞬間、良いことがある、悪いことがある。
幼い子どもにとっては行動を変える力になりますが、成長するにつれて短期的な未来のみでは行動を変えなくなります。
長期的な視野、展望、自分の考え、過去の経験、私という自我と感情、そして体調も。
それらが複雑に絡み合いどういった行動をとるかが決まってくるのです。


2013年より前は、脳の機能障害と考えられ、誰も診断が外れるとは思っていませんでした。
特にいまある一般的な療育の多くは、知的障害を持つ自閉症者が中心というか、そういった人しか想定していなかった時代に生まれたものです。
なので、乳幼児くらいの発達段階にある人に有効であれば良いのであって、その次の段階、その次の段階というように発達していく子ども達が想定されていません。
そりゃあ、誰でも視覚的な支援、ABAのような行動療法、SSTで行われているルールの丸暗記が有効な時期があるでしょう。
でも、それは定型発達で言えば一時的であって、神経発達症の子ども達にとっても発達のヌケや遅れが育っていけば不必要になるのです。


大学生の相談で、いまだに視覚支援を勧める支援者がいるそうです。
大学生になるくらいの認知的な発達があるのに、乳幼児の段階の支援を勧める意味が分かりません。
確かに就学前の混乱期には、視覚支援や行動療法、丸暗記のSSTが助けになったかもしれません。
でも、その必要な時期は一時です。
標準療法はエビデンスがあり、有効ですが、ある発達段階においてのみです。
生涯助けてくれるような療法はありません。
「発達障害も発達する」
それはどの人も思っているのに、どうして選択している療育が幼いときのままなのか、いつまで対処、対処の対処療法を行っているのか。
短期的な有効性が、長期的な有効性を証明するものにはなりません。


対処療法は、どこまでいっても対処療法です。
ですから、根本的な解決を目指さなければなりません。
それこそ、対処療法がいらなくなることが根本的な解決になるのです。
神経発達症の子ども達は、土台となる神経発達の部分にヌケや遅れがあります。
発達とは、時間をかけてじっくり育てていくものです。
対処療法が今、短期的な未来しか見ていなのと異なり、長期的な視野に立ち、社会人としての自立を目標にしながら進めていくものだと思います。
その自立だって、18歳とか、20歳とかではなく、ひとにとっては30歳からの自立、40歳からの自立になります。


ヒトは生涯、発達を続けるものなので、本当に発達なのかどうかは人生を振り返ったときにしかわかりません。
私達が「発達した」と喜んでみている姿も、途中経過でしかないのです。
本当のところは誰も分からない。
だからこそ、その場しのぎで対処しているだけではなく、根本からの育ち、本人が発達し続けられるような環境づくりと後押しが重要なのだと思います。
短期的なモノにばかり目が奪われてしまい、子どもさんが自立できること、生涯発達、成長し続けられることを見失ってはならないのです。
一喜一憂は対処療法の専売特許。
まあ、だからみんなはまりやすく、抜けにくいといえますが。




2020年10月15日木曜日

【No.1113】批判的な視点と合理的な判断

夕食のとき、上の子が「マスクするのって"日本のルール"なの?」と訊いてきました。
即否定しようと口先が動きましたが、せっかくの気付きでから、どうしてそのような疑問を持ったのか尋ねてみると、学校にマスクをつけたがらない子がいて、先生がその子を注意(?)するときに、「日本のルール」という言葉が出たとのことでした。
そのとき、なんだか変だなと思って、私に訊いたそうです。


まだ生まれて1桁しか生きていない子です。
なので、日本が法治国家であるとか、科学的な根拠がどうだとかの理解は難しいでしょう。
でも、自分なりに学校の外ではマスクしていないし、外を見ればマスクしていない大人がいるし(父さんしていないww)、なんかおかしいなと思ったようです。
私は基本的に、上の子が自分でつけようと思えばつければいいし、いらないと思えば外せばいい、と伝えています。
そして、マスクをつけていないことを指摘されて、嫌なことや自分で解決できないことがあれば、父さんに言いなさい、と言っています。
「そのときは徹底的にやっつけてやる」と(笑)


まあ、とにかく自分で疑問に思うこと、自分で考え行動することは、これからの長い人生の中でとても重要なことです。
今回のコロナ騒動は、子ども達にとってウィルスの害よりも、社会から受ける害のほうが圧倒的に多かったといえます。
しかし、そんな中でも唯一良かったことは、こうやって大人は嘘をつくことも、間違うこともある、という事実を体験することができたことでしょう。
上の子には常々、大人も、先生も、親である私も、間違うことがあるし、嘘をつくことがある、と伝えています。
大事なことは、「誰かが言ったから」というだけで思考停止して信じることは間違いであり、まず自分で考えること、例え多数派ではなかったとしても、自分がおかしいと思ったことはきちんと批判的に考えることだと思っています。


「もし自粛しなかったら、42万人が死ぬ」
今年も変わらず夏があり、お盆があり、シルバーウィークがあり、そしてGOTOもあった。
明らかに緊急事態宣言のときとは異なり、みんな、自粛はしていなかったのに、お亡くなりになった方は1600人ちょっと。
まあ、いまだに自粛して引きこもっている人もいるとは思いますが、この数字の開きはどういうことでしょうか。
私なんて、2月も出張していたし、緊急事態宣言が解除された日に飛行機に乗って出張していたし、その後は毎月2回のペースで全国に行っていたし。
42万人が正しければ、私もその中の一人だった可能性は高いでしょうし、少なくとも発症くらいはしていたでしょう。
ある程度、合理的に物事を考える人でしたら、最初の計算、想定値が誤りだったと気づくはずです。
しかも、そのお亡くなりになった方達の平均年齢は、日本人の平均寿命とほぼ一緒というか、それよりもやや高いくらい。
コロナが原因でお亡くなりになったのか、寿命がきてお亡くなりになった方の身体の中にコロナウィルスがいたのか。
この辺りの論理的な思考についても、中学校の数学レベルの話だと思いますね。


ついで言ってしまえば、毎日、東京都には周辺の県から多くの社会人や学生、私立に通う小中学生、幼稚園や保育園に行く乳幼児が電車に乗って移動してきます。
私も高校時代は、そんな満員電車に揺られて通学していました。
あのね、密が問題だったら、完全にアウトでしょ。
東京が多い(?)のは、人口と検査数の話であって、感染力は首都圏も、地方も変わらない。
ということは、密がどうのこうのではなくて、結局、長い時間、感染した人の飛沫を浴びれば、そりゃあ、感染するわな、という話。
若い人がバタバタと倒れていく。
ウィルスが1つでもついたら感染する。
そういった次元の話ならわかりますが、1月に騒動が始まって、もう10月。
なぜ、頭の中が1月・2月のままで更新されないのか、私には理解不能です。


私はこの騒動を通して最初に思ったのは、これほどまでに日本人の考える力は弱いのか、育っていないのか、ということです。
今までも仕事を通して、「どうして脳の機能障害のままで止まっているのだろうか」「私が学生時代に言われていたことを今もなお、発信し、行い続けているのだろうか」と疑問に思い続けていました。
今回、私はよくわかりました。
たぶん、日本の教育の仕方、方向性が悪かったのでしょう。
「御上の言うことに従っていれば」の精神が、学校教育の中にも流れ、先生の言うことを聞けば、先生の言った通りの答案を書けば、返事をすれば良い点数と評価が貰える、という限定的で誤った文化が多くの国民の中に根付いているのだと思います。


私は、私立や高等教育には期待している部分もありますが、公立の学校教育には1ミリも期待していません。
冒頭で紹介したエピソードのように、その子どもにとってはよい気づき、学びの機会だったのにもかかわらず、「日本のルール」というようなことしか言えない学校教育であり、何よりも先生自体が自分の考えで行動することができていないからです。
率直に言って、上から言われた通りにしか動けない、自分の頭で考え行動することのできない人には、これからを生きる子ども達を育てることはできないと私は思います。
コミュニケーションが苦手な子に、さあ、社会性を教えようかというときに、マスク姿でどうやって行おうというのでしょうか。
口では「子ども達の発達を」と言い、偉そうに学校の目標に、児童デイの窓にベタベタと掲げているのにもかかわらず、子ども達の酸素不足や他人の表情が見えないことに対する発達の影響が考慮されていない、いや、無視しているようにすら見える。
結局、子どもの発達、成長よりも、自分が批判されないことを、上から言われたことに従うことを選択しているのでしょう。
私は、親も、先生も、支援者も、専門家も、大局観的に物事を考えられない人は子どもの教育に向いていないと思っています。
発達も、成長も、今行ったことが今実を結ぶのではなく、5年後、10年後、それこそ、人生を振り返ったときに結果となって表れるからです。
本当の発達、成長は、5年、10年、20年と長いスパンで見ないとわかるわけはないのです。


早期診断を受け、早期療育を受け、特別支援教育も受け、そしてその子はどんな人生を歩んでいるのか。
そういった「良いこと」と言われたことを全部やって、それこそ、家族の時間、思い出よりも、優先させてきたのに、学校卒業後は福祉の支援を受けて生活している。
それだけのことをやって、社会人として自立した生活ができるようになっている人がたくさん。
そうだったら受け続ける意味はあるといえますが、やっても、やらなくても、行き先が同じなら「良いこと」という前提が間違っていると合理的に考えられるはずです。
むしろ、早期からの診断、療育は、誤診のリスクを高めますし、同年齢の子どもが体験していることが体験できないというネガティブな面もあります。


「マスクしなければならない」と言ったのは誰なのか?
それと同じように、「早期診断、早期療育を受けなければならない」と言ったのは誰なのか?
「42万人死ぬ」と言ったように、「療育を受けなければ、二次障害が」と脅した人間は誰なのか?
その言葉を信じ、自粛した先に、お店や職、希望ややりたかったこと、夢、人生の計画、そして命までをも失った人たちがいるのです。
同じことが、この特別支援の世界に起きていないでしょうか。
必死になって、年端もいかない子を抱え、診断を受けに行った、電車で1時間かけて療育機関に通った、専門家を集めた個別支援会議もやった、でも、今は福祉利用の待機待ち。
そんなご家族を見ていますと、特別支援という選択の裏に、どれほどのものを諦め捨ててきたのか、と思いますよ。


他の専門家の人達からの指摘によりますと、まず42万人という答えを出す前の元のデータの時点で誤りがあったといわれています。
まあ、その辺りは私にはわかりませんが、とにかく42万人は死んでいないし、「大変な2週間後」がいつまで経ってもやってきていない。
どんなに優秀な人でも、間違うことはあります。
特に現代のような、日々、情報が更新されていくような時代、しかもボーダレスに、今日正しかったことが明日過ちだったことなんて当たり前にあるのです。
科学的な論文だって、どんどん否定されて、新しい現象、結果が出る時代に、数年おきに改訂される学校の教科書がすべて正しい、事実だということなんてあり得ません。
そんな時代を生きる私達大人と、これから生きていく子ども達。


正しいと考えられていたことがひっくり返ることなんて当たり前。
だからこそ、過ちをすぐに認め、訂正・修正できる、情報を更新できる力が必要になってきます。
しつこいようですが、私が学生時代に正しいと言われていたのが「早期診断」「早期療育」「視覚支援」「脳の機能障害」ですよ。
あれから15年くらい経ち、いろんな研究が行われ、情報が更新されて、しかも、そういった正しいと言われていたことをすべて行ってきた人たちが大人になっているのです。
どこの誰が行ったか分からないような上記の言葉を、なぜ、批判的な視点を持つことなく令和の子ども達に当てはめようとするのか。
どうして自分の頭で考え、検証し、合理的な判断ができないのか。
本当に、心から、私は今の日本人の考える力の弱さにガッカリしています。


開業時から始めたこのブログも、更新回数が1100を超えました。
最初の頃のブログを読み返すと、恥ずかしくなるような、典型的な凡支援者が誰でも言えるようなことを綴っています。
本当は消去したい気持ちもありますが、こうやって情報が更新されていく姿、その当時はどんなことが信じられていたのか、正しいとされていたのかが、あとから読んでくださった方にもわかるようにと思い、そのまま残し続けています。


今日綴っていることが明日否定されるかもしれません。
一年前、私が助言したことが間違っていることだって多々あると思います。
そんなとき、ちゃんと謝罪し、訂正できる人間でありたいものです。
そしてそのためには、日々、学び続け、情報を更新し続ける必要があると考えています。
昔から「子は親の背中を見て育つ」と言われていますので。




2020年10月13日火曜日

【No.1112】関係性から見る「療法」と「支援者」

函館ではほとんどそんなことはないんですが(笑)、出張での訪問となると、お父さんも遊びには行かず、中にはわざわざ仕事をお休みして、ご両親、ご家族そろって発達相談を受けられる場合が多くあります。
数年前までは、「どうして俺もいなきゃいけないんだ」というオーラぷんぷんのお父さんもいましたし、隙あらば席を立とうとするお父さんもいましたが(笑)、今は積極的なお父さんばかりで、私も楽しい時間を過ごすことができています。


もちろん、母子だけという相談もあります。
しかし、家のその場にお父さんがいなくても、いろんな理由から離れて暮らしていたとしても、子どもさんの中には、きちんと関係性が表れています。
「普段はこうやって遊んでいるのかな」
「こういった部分は、お父さんからの影響を受けているのかな」
「お父さんは、我が子をこのように育てたいと思ってのかな」
母子関係ばかり強調されますが、男の子は特に父親との関係性の中から学び取ろうとする本能的な力を感じます。


私は家庭訪問をしているので、自然な親子、家族の関係性が見えるという利点があると思ってます。
というか、発達相談なので、その関係性が見えなければ、仕事になりませんね。
よく子どもだけとか、お母さんだけとか、単独での検査や面談が行われますが、それでは課題の本質は見えてこないだろう、と思います。
そして何よりも、検査も、面談も、やっておしまいではなくて、その後の未来、家庭生活の中にフィードバックされるからこそ、意味が出てくるのだといえるでしょ。
子どもが家庭の中で、親子間で、家族との関係の中で見せる姿が本当の姿。
子育てとは特にヒトにとっては関係性を中心に営まれるものなので、関係性を通して子どもさんを見て、その関係性をより豊かにしていくことがより良い育ちへと繋がっていくのです。


まあ、ここまでが前フリで、今日のメインはここからです(相変わらず、前置きが長い)。
一旦、特別支援の世界へ足を踏み入れると、いろんな名称の専門家が出てくるし、勧めてくる療法も様々だし、子どもよりも、支援者、専門家との付き合いのほうが疲れる、という親御さんは少なくないと思います。
そういった親御さんは、「関係性」というのをキーワードにして烏合の衆を見ていくと、すっきりしていくでしょう。


たとえば、視覚支援。
視覚支援は、なんだかんだ道具が出てきますが、結局のところ、本人と私との関係性を良くしようとしています。
その"私"は、親御さんも含まれますが、支援者も、先生も、当てはまります。
別に家庭や子育てに特化したものではなく、いうならば、本人自体の育ちをサポートしているわけではなく、より良い関係性を築くためのコミュニケーションツールという側面が強いといえます。
ABAに関しては、モロ関係性を使った指導方法で、賞罰を使いながら関係性を構築していき、関係性と一緒に何かを身に付けさせようとする方法だといえます。
つまり、その子との関係性の中でより良く育っていくというよりも、教える側と教わる側、支援する側と支援される側という関係性をはっきりさせることがポイントです。


専門家、支援者、先生を見るときも、関係性から見るとわかりやすくなります。
子どもの発達の相談に行っているのに、「お母さん、よく頑張ってますね」「辛くないですか」「無理しないで支援を」ばかり言ってくる。
それは相手がお母さんとの関係性を結ぼうとしている証拠です。
そんな人のところに通っても、子どもは育っていきませんね。


また、子どもをやたら褒めたり、子どもに気にいられるようなことばかりをやる人は、子どもとの関係性を結ぼうとしている証拠です。
裏を返せば、長く支援していこうという魂胆があるということ。
とすれば、自立させる気がないか、自立できるとハナから思っていなか、はたまた自立できるだけの腕を持ち併せていないか。
「本人と良い関係が築けないと指導、支援できない」というのは、幻想です。
その子の目を通してみれば、自分にとって有益な人だからこそ、関係性が出てくるのです。
関わっても何の得もない、自分の成長に繋がらない人間が結びたがる関係性は、ただのストーカー。
腕が無いから、「せめて、この子に気にいられるように」と思っているかはわかりませんが、プロだったら技術から先に見せんしゃい!
ただ関係性を築くだけだったら、ホスト、ホステスさんのほうが何百倍優れていて、楽しいですよね。


ということで、関係性を結ぼうとしてくる支援者はケアの人達です。
自立を促す人、教育する人、発達を後押しする人ではありません。
もちろん、そのときの心身の状態によってケアを求める人、特に親御さんはいるでしょうが、結局、子どもさんが生きづらさを解消できなければ、自立に向けた発達成長ができなければ、状況は変わっていきません。
神経発達症の子ども達が、生涯生きづらいまま、発達の課題を抱えたままというのでしたら、ケアを求めることは必要なのかもしれませんが、彼らは発達するし、求めているのは発達を後押ししてくれること。
親御さんから見れば、我が子との関係性を結んでくれる人が多いほうが良いと思うでしょうが、それは特別支援の世界の人間に限ることではありませんね。
むしろ、地域の、社会の、いろんな人たちとの関係性のほうが良いはずです。
あくまで支援者は、有期限の、お金を貰って関わっている人間たちだから。


親と子の関係性は、自然であり、子が伸びやかに育つ環境に近いといえます。
親と子の関係から親戚、園の先生、友達、学校、職場、地域、社会というように伸びやかに育つ環境が広がっていくイメージです。
社会に出てからも成長し続ける若者たちをみれば、人生の始まりの頃に豊かな関係性の原形があるように感じます。
それは母子であっても、父子であっても、兄弟であっても、祖父母との関係性であっても。


関係性は、自然と結ばれていくもの。
人工的に、人為的に結んでいくものではありませんね。
自然と結ばれた関係性の中には、心地良さがあるものです。
ですから、親子一緒の面談のときには、子どもさんの自然な姿が見られます。
言葉に表現できないような雰囲気としての心地良さ。
それが維持され、豊かになっていくことが、子どもの豊かな発達と成長へと繋がっていると私はいつも感じるのです。




2020年10月12日月曜日

【No.1111】発達に必要なのは「時間」

子ども達の発達に何が一番大事かと問われれば、私は迷うことなく「時間」と答えます。
神経の発達には、タンパク質等の「栄養」が重要です。
でも、生きていくための最低限の栄養があれば、神経発達は生じます。
人類の歴史のほとんどが飢えとの闘いだったことを考えると、それがわかるでしょう。
同じように「酸素」も神経発達には重要になりますが、こちらも生きていくための最低限が確保されていれば大丈夫。
もちろん、栄養と酸素の充足具合が神経発達の広がり方に影響を及ぼしますが。
最後に「刺激」ですが、たとえ無刺激な空間があり、そこにいたとしても、身体の内部では変化が生じ、刺激が生まれ続けます。
ですから、「栄養」「酸素」「刺激」に関しては、生きていくための必須ではあっても、神経発達の必須条件ではないといえます。


しかし、「時間」だけは違います。
ヒトが生きているように、神経も生きています。
生きている神経が変化するには、時間が必要なのです。
別の言い方をすれば、「時間があるから変化が生じる」になります。


発達相談をしている中で感じるのは、8割は時間が解決してくれる(誤学習は時間が解決しません)ということです。
前回のブログで、秋になると年中さんの相談が増える、相談者の低年齢化が進んでいる、というお話をしました。
でも、これらの問題は、子どもさん自身の問題でも、家庭の子育ての問題でもありません。
言うならば、本人の発達のペースと社会が求めるペースとのミスマッチが原因です。
一人ひとり子どもには発達のペースがあり、それは必ずしも社会の区切り、年齢の区切りと一致するわけもない(というか、同学年でも4月生まれと3月生まれは全然違う)。
なのに、今はどんどん余白が失われていき、発達がマニュアル化されてしまっています。


社会、大人のほうに余裕がなくなり、効率化の波が子育て、教育にも入ってきたともいえるでしょう。
しかし、こういった子育てのマニュアル化、定型発達か否かを明確に区切り始めたのは、特別支援に関わる人間だと思っています。
もともと学校、教育には寛容さがありました。
いろんな課題、凸凹、発達のペースの違いを持つ子ども達がいるのが当たり前でした。
それが2000年以降の高機能ブームに乗っかり、専門家、ギョーカイ団体が誤った認識を広げ、あらゆる分野に侵食していきました。
令和になってもそれまでと変わらず、小学校の1年生の教科書は、ひらがなの読み方、そして書き方を教えます。
それなのに、年長児の就学相談で「文字が読めない」「書けない」というと、すぐに支援級が勧められます。
自分たちで1年生の学習内容を設定しつつ、年長児を基準にしてはじこうとすることの愚かさ。
同じように、生まれて1年、2年しか経っていない子に対して、発達障害前提で特別支援へとつなげようとする保健師、医療、行政もナンセンスです。


学生時代からこの世界に入り、いろんな人や出来事を見てきましたが、ギョーカイの専門家、支援者の一番の問題は、子ども達、親御さん達から時間を奪ったことだと考えています。
以前にもお話ししましたが、10歳くらいから一気に伸びる子が少なくありません。
他にも、いわゆる大器晩成と呼ばれるような発達の仕方、広がり方をする人たちがいます。
だけれども、そのような子ども達は、その時間が満たされる前に、多くは就学時に振り分けが行われてしまいます。
私も時々お会いしますが、あと1、2年あれば、普通級で普通の子として学び、生きていったのにな、と感じるお子さんがいます。
そんな子が、特別支援の中に入れられ、勉強の機会も、同世代との集団活動の機会も奪われ、挙句の果てに薬や支援という名の介護の世界に放り込まれている。
知的障害は作られることもあるのです。


また、どう考えても、年端もいかない子を抱えて、療育機関に通う姿は異常です。
本来、発達に遅れや気になることがあったときに、最初に相談する人間は、子育ての中でどのように育てて行けばよいかを伝えるべきでしょ。
それが「じゃあ、発達障害専門の医療機関へ」「療育機関へ」と案内するだけなら、子育て相談という看板を掲げた特別支援への勧誘です。
あと、乳幼児期の子ども達にとって基本的な生活習慣の確立と、何よりも母子を中心とした愛着形成が大切なはずです。
幼い子どもさんが親御さんとの関係性の中で、ゆっくり愛着という土台を築いていく。
そのことをどう考えているのか、その時間を奪っていることに気が付かないのか、訊いてみたくなる人たちがいます。
でも、愛着障害を抱える人が多い特別支援の世界ですから、そこに気づかないのも無理ないかもしれませんね。


スペクトラムと言いながら、定型と非定型と明確な線を引こうとしてきたのは、特別支援の人間たちです。
時間があれば、境界線を飛び越え、定型発達の範囲に入る子ども達をも、6歳で区切り、3歳で区切り、それが1歳、0歳までに及ぼうとしています。
たまたまそのとき、発達が遅れていた子が搾取されていく。
搾取という言葉を使うのは、「一生涯、障害は変わらない」という前提で支援が展開されて行くからです。
早期に診断をつけるのは、早期から始めれば予後が良くなるからという理由しかないのに、やっているのは介護しやすい子を育てる方法ばかり。
だから、子ども達の未来、育つ可能性、そのための時間を"搾取"しているというのです。
早期診断早期療育で救われた子よりも、奪われた子の方が圧倒的に多いでしょう。
早期診断も、早期療育も、いらない。


「〇〇をしたら、良くなった」というのは、物語としては気持ちが良いものです。
しかし、「〇〇」をしなくても、良くなったかもしれません。
たまたまタイミングがあった、その子の発達には時間が必要だった、という可能性があるのです。
といいますか、私はそう思って仕事をしています。
神経発達とは、本人の身体の内側で生じていることです。
つまり、その子の持つ伸びる力、発達する力によるところが大きい。
子ども達がより伸びやかに成長する環境になることはできても、直接手を突っ込んで伸ばしてあげることはできない。
だからこそ、目の前の子どもが、心地良く伸びていける時間を守ることが重要なのです。
そのことを私は、「子ども達の発達を保障する」と表現しています。


子ども自身、自分の発達に必要な環境はわかります。
ただし、アクセスが限られるために、親御さんがそのニーズを察し、導いていく必要があります。
親御さんが子のニーズを察するのはセンス、選び準備するのは行動力&体力、何を選ぶかは運と縁、選んだモノの同士の価値は団栗の背比べ。
神経発達に必要なのは時間であり、その時間の価値に気が付くことが、子どもの発達する力を信じることになる。
「私がダメだから、遅れたまま」というのは、傲慢にも聞こえます。
遅れも、成長も、治ったも、子どものものであり、子ども自身で成しえたものですから。




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【関東出張について】

11月下旬の関東出張ですが、告知後すぐに多数お申し込みをいただき、予定がすべて決まりました。
あまりにもすぐに決まってしまったため、昨日から今日にかけてもお問い合わせをいただいております。
検討中だった方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。
今回、お申し込みに間に合わなかった方で、次回を希望される方がいらっしゃいましたら、告知前に優先してご連絡いたします。
ご希望の方はメールください。


2020年10月10日土曜日

関東出張のご案内(11月27日~29日)

お陰様で予定がすべて決まりました(2020年10月11日8:00)

本日、正式なご依頼があり、11月27日~29日の間で関東に出張することになりました。
まだ航空券等に余裕がありますので、他のご家族でお申し込みがあれば、それをお受けしてから日程を決めたいと考えています。


【訪問可能な日時】
11月27日(金)午前「✖」 午後「△」*ご希望があれば調整します。
11月28日(土)午前「〇」 午後「〇」*「午前午後可」という形で1家族決まりました。
11月29日(日)午前「埼玉」午後「〇」


たぶん、2020年は最後の関東出張になると思います。
お子さんの発達の確認、2021年に向けたより良い子育てなど、「この機会に」というご家族がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。
お問い合わせ先→てらっこ塾HP
どうぞよろしくお願い致します。


【No.1110】2030年以降、『予防』が中心になっていく

近頃は、口に関する勉強をしています。
医学的な咀嚼や嚥下の話はもちろんのこと、機能改善のためのリハビリ、保育の方面からも離乳食、幼児の食事について改めて学び直しています。
それはコロナ後を見据えた準備です。
既にちらほら影響が聞かれてきていますが、来年以降はもっと口に関するトラブルを抱えている子ども達が表面化してくると思います。
咀嚼や嚥下は生きるための基本であり、そこに遅れが出るということは、多方面へ波及してしまいます。
酸素不足、口呼吸によるダメージ、歯茎からの情報探索、言葉の遅れ、手との協調運動、味覚、聴覚の育ち…。
それがさらに、対人面、認知面、運動面の発達に影響を及ぼしていきます。
乳幼児期の子どもにとって、モデルとなる大人の口元が見えないということは大問題です。


私は民間の経営者ですので、今のニーズだけを見て仕事をしていけば、すぐに倒産してしまいます。
生き残っている民間企業を見れば、どこも時代のニーズの半歩から一歩先を歩いているのがわかります。
私で言えば、今のニーズは家庭でのアセスメント、子育ての仕方ではありますが、近い未来はコロナ禍で作られた発達障害の子の遅れをフォローすることであり、その先は発達障害の予防になると考えています。
今までは発達に遅れが見られてからの相談であり、ニーズでしたが、今後も、少子化は歯止めが利かず、一方で診断を受ける子が増えるでしょうから、妊娠が分かった親御さん、出生後、さあ、子育てを始めていこうという親御さんからの相談、ニーズが出てくると予想しています。
2030年代には、「発達の遅れが出てから」から「発達の遅れが出る前に」になると思います。


以前からそのように考え、準備していましたが、ここ1、2年でさらに強く思うようになりました。
それは発達相談の低年齢化です。
もう今では2歳代の子のご家族からの依頼には驚かなくなりました。
1歳代の子も珍しくはなくなったのです。
1歳代で診断をつける意味がわかりませんが、実際、診断をつけられる子が増えているのも事実。
この先、0歳代の子のご家族から依頼があったらどうしようかと思う一方で、それが将来のニーズである「予防」を連想させるものでもあります。


同じように「先に先に」という流れを感じることがあります。
来年度に就学を迎えるお子さん達は、夏から秋にかけて就学相談や就学時健康診断が行われる時期です。
就学は一つの重要なポイントになりますので、就学に関する相談や準備についてのニーズは高いのですが、夏を過ぎると今の年長さんからの依頼がガクッと減ります。
そして年中さんからの依頼が一気に増えていきます。
3年前くらいまでは、就学を控える年長さんからの相談が中心だったのに、ガラッと年中さんに中心が移り、年少さんくらいから「就学までの準備として、できることを」というご家庭が増えてきました。
お受験とは違うのですが、できるだけ早い時期から就学の準備を、就学に支障が出るような発達課題のクリアを、と希望される姿が重なって見えることがあります。


タイムリーな情報とともに生きてきた世代の親御さん達が増えていけば、「より早く、より効率的に、リスクは最小限で」という方向で進んでいくと思います。
当然、それは子育てにも表れていくでしょう。
「より良く育てよう」という中に、発達のリスクを最小限にという部分も入ってくるはずです。
そういった2030年以降の未来から今を見れば、ここからの10年間は移行期になります。


就学までに、6歳までに発達の課題をクリアしておくというのは、スタンダードになるでしょう。
ですから、乳幼児期の子どもさんを想定した発達援助を磨いていかなければなりませんし、当然、この時期の主はお子さん本人というよりも、親御さんになりますので、その親御さんへの説明、助言の仕方の工夫と、親御さん自身の健康、主体性、発達課題、愛着の課題などをクリアすることの助言が重要になっていきます。
今は7対3くらいの感じで、お子さんと親御さんのアセスメントと助言を行っていますが、もしかしたら逆転するくらいがよいのかもしれません。


一方で低年齢化が進めば、6歳までに課題をクリアしきれない家庭も多く出てくるはずです。
そうなれば、クリアできないことの不安と、6歳が近づいてくる焦りを抱える家庭が増えていくと思います。
そういった家庭に対する助言と前向きな子育てに繋がるための後押し、そして次のポイントに向けた準備の提案ができなければなりません。
発達のパターンとして、ゆっくり神経が繋がっていく子がいて、それが青年期、成人期になる人がいるのも事実。
長い時間をかけて育っていく家庭の力になれるよう、そのように時間をかけて育ち、課題をクリアしている今の若者たちから学ぶ必要があると思っています。


「予防」が主になれば、私の仕事はとてもシンプルになりますし、あまり悩む必要はなくなると思います。
当然、私の仕事のニーズもなくなっていくはずです。
リスク要因は明らかになっていますし、仕事を通した関わりの中で蓄積され、見えてきた要因もあります。
それぞれの運動発達におけるポイントも決まっていますので、あとはそれを辿っているかを確認し、できていなければ親御さんにフォローの仕方をお伝えする。


今のところの結論からいえば、もともとその要素をもっていたかどうかよりも、環境要因のほうが発達に大きな影響を与えると思います。
「発達に遅れが出る状態、環境をそのままにしておかない」
これが「予防」のポイントであり、2030年以降の援助の柱になると考えています。
あとは親御さんに「動物としての育ち」「動物としての子育て」を改めてお伝えし、気づき、実感してもらうことも。


10年後もこの仕事をしているかはわかりませんが、10年後に向けた準備はしています。
私は民間企業であり、過去ではなく、未来をよりよくするための仕事をやっていますので。




2020年10月8日木曜日

【No.1109】口は愛着の入り口

出張に行くと、普段よりもタンパク質を欲するのが分かります。
その土地のものを、地元の人が行くようなお店を目指していくのですが、どうしても身体が「タンパク質を!」と叫ぶのです。
出張は現代版の狩りですから、私の中に流れる狩猟民族の血が騒がしくなるのでしょう(笑)
コロナの3ヶ月以外は、月に2回のペースであちこちに行っていましたが、体調を崩すことがありませんでした。
それは身体の声に従っていたことも大きな要因だったと思います。
急激に乾燥し始めた近頃は、温かい汁もの、ネギ類、柑橘系が美味しく感じますね。


私は今までずっと自分が食べたいものを食べて生きてきました。
なので、どの人も同じような感じだと思っていたのですが、そうではない人も少なくないようでビックリしたことがあります。
昨年からの相談で、子どもが「プロティンを飲んでくれない」「サプリを口から出す」という話を伺います。
体内に入れるのは、親御さんではなく、子どもさん自身です。
ですから、その子どもさんが飲みたくないということは、飲む必要がないものだと私は思います。
大人よりも、感覚が鋭く、本能に近い子ども達なのですから、何かを察したに違いありません。


以前、ある親御さんに注意したことがあります。
嫌がっているお子さんに飲ませようとしていたので。
有名な先生が一日の目標量を示したのかもしれません。
でも、それにとらわれてしまって、目の前の子どもが見えなくなってしまっているのは問題です。
食は、愛着形成にとって重要なポイントになるのです。


神経発達症の子ども達は、胎児期から出生後すぐの段階で感覚系に未発達があるために、親御さんからの愛情をそのまま受け取ることが難しい場合があります。
本来、心地良いはずの身体接触が、感覚器の未成熟によって受け取ることができなかったり、反対に不快な刺激として受け取ってしまったりすることがあります。
そのため、親御さんが愛情たっぷりに育てていたとしても、子ども側の感覚の状態によって、うまく愛着形成がなされていかないのです。
神経発達症の子ども達には、運動や感覚だけではなく、愛着形成の遅れも見られることが多々あります。
ですから、愛着形成も注意してみていく必要があるのです。


そういった子ども達にとって、愛着を育てていく関係性にある親御さんから、自分が本能的に察して食べないと判断したものを食べさせられる…。
食は命と直結することですので、そのインパクトは小さな子どもにとって想像以上に大きなものになるでしょう。


胎児はへその緒、胎盤を通じて母体と繋がっています。
まさに母子一体の状態ですので、母親の愛情はストレートに伝わり、ここから愛着形成の始まりです。
出生後は、母体と離れますが、授乳でおっぱいと口が繋がり続けます。
お互い愛着と信頼があるから、無防備に繋がっていられる。
そして口から食べ物を食べる時期へ。
生まれて初めての飲みこむという行為は、信頼なくてはなし得ません。
動物が獲ってきた食べ物を子ども達に分け与えるのは、哺乳類に見られる愛着の姿であり、私達の愛着形成の原形です。


私は発達相談において、家族で一緒にご飯を食べているかを尋ねることがあります。
それは生きづらさを抱えている若者たち、特に愛着の課題を持っている人たちに共通していることがあるからです。
「家族で一緒にご飯を食べることはなかった」
「いつもバラバラに食事していた」
「みんな、食べるものが違っていた」
彼らの愛着形成の流れを確認している際に気がついたことです。
動物としての愛着形成、食べ物を囲み、一緒に食べる、分け与えながら食べる、そういった経験の乏しさがあります。
なので、そのような雰囲気を感じたとき、私は食事に誘い、同じ場所で同じメニューを食べるようにすると、彼らの表情、身体が弛むことがあります。


プロティンを飲む飲まない以外にも、食に関する相談は多くあります。
確かに、その背景には口や咀嚼の問題、嗅覚&味覚の課題などがあることが多いですが、一方で愛着形成の課題も観て取れることがあるのです。
食べられないことに意識が集中してしまい、親子共々、楽しく食事ができていないことがあります。
忙し過ぎて、インスタントなもので食事が終わっていたり、スプーンや箸の使い方を教え込もうとして訓練の場になっていることもあります。
子どもは、大人のことをよく見ているもので、大人が美味しそうに食べていると、自分も食べてみようとするものです。
逆に言えば、大人が食べないものを、先に食べてみせないものを、食べておいしそうにしていないものを、さあ、子どもに食べさせようとしても難しいと思います。


神経発達症の子ども達にとって、栄養は大事です。
しかし、栄養だけが大事なわけではなく、トータルで考えていく必要があります。
そういった部分にこだわるのは専門家の仕事。
総合的に、子どもの発達、生活、人生を考えられるのが親御さんです。


食事に関して、偏食や道具の使い方などで心配なことがあると、なんか全部だめみたいな親御さんもいます。
でも、食事の量が少なくても、食べられるものが少なくても、元気に遊び、動きまわっているのなら良いのではないでしょうか。
再三申し上げている「快食快眠快便」だって、「快食」「快眠」「快便」ではなく、すべてつながっているのです。
食べるから出るのであって、出るからぐっすり眠れる。
眠れるから、お腹が空くし、いろんなものが食べられるようになったら便の状態だって良くなる。
私が余計な点などを入れず「快食快眠快便」と続けて書いているのは、トータルで発達を、子育てを考えて欲しいからです。


食事は3度3度のことで、園などでも指摘されるポイントになるので、ナーバスになるのはわかりますが、基本は生きるために食べているということと、食べるのは子ども本人であること、そして何よりも食べる行為も運動であり、身体や感覚が育ち、整うことが大事で、愛着形成も関わっていることをもう一度、意識してもらえたらと思っています。
ASDゆえの偏食と言われていた子が、家族みんなで笑いながら食べるようにしてから、いろんなものを自ら食べるようになった、というエピソードもあります。
これから鍋が美味しくなる時期です。
家族みんなで食卓を囲み、わいわい食べるのも良いかもしれません。
身体と共に、心も温まるはずですから。
味覚同様、愛着も育っていきますね。




2020年10月5日月曜日

【No.1108】治療法がないのに診断する意味ってあるの?

私がトレーニングを受けたときのドクターは、「今、アメリカでは、どんどん診断がつけられるようになっている。以前は自閉症に該当しなかった子ども達までも」と嘆いていました。
50年前は稀な障害だったのにもかかわらず、今ではすっかり珍しくない障害になり、発達障害のブームすら起きている状況です。
この調子で増え続ければ、2030年代には子どもの半数は発達障害ということになるかもしれません。
そうなれば、今以上に残酷な分断が生じるでしょう。


診断という枠が広がれば広がるほど、揺り戻しが起きるのも、今までと同じです。
今のHSPというのがそれでしょう。
なんとか症候群は出ては消えの繰り返しです。
結局、過敏さの根っこを辿っていけば、そういった人種が突然現れたのではなく、前庭覚や聴覚、皮膚の未発達だったり、愛着形成の不具合、つまり神経発達と繋がっていくと感じます。
10年後、20年後も、自閉症や発達障害のように、その症候群の名が残り続けるとは思えません。


現在の診断は行政サービスへの通行手形のようになっています。
支援者や先生が、あたかも住民票をとってくるかのように、「診断を受けて来てください」と言われるくらいです。
その重さ、ニュアンス、質感がだいぶかわったような印象を受けます。
でも、ここで浮かんでくるのが、「そもそも診断ってなんのためにあるのだろう?」という疑問です。


最初に自閉症に気づいた医師も、今のような診断基準を作った専門家たちも、行政サービスの通行手形をイメージしていたのではないと思います。
たぶん、症状でグループ化することは、治療に繋げるためのはずです。
虫の分類のように、当事者の人たちを「当たりはずれ」と表現する医師はもっと後になって生まれた人達だといえます。
そうやって共通する症状で、特定の診断名をつけたのは、診断名をつけることによって「この障害には、こういった治療が有効」というのを見出したかったからでしょう。


で、ここで新たな疑問が浮かび上がるのです。
「自閉症には構造化」「発達障害にはSST」「知的障害にはABA」といった具合に、診断名とここでいえば治療法ではなく対処法を結びつけようとする動きがありました(今も?)。
でも、あくまで対処法ですので、診断名とマッチするようなシロモノではありません。
そもそも治療ではありませんので、同じ自閉症という診断でも合う人、合わない人、必要な時期といらなくなる時期があります。
例えるのなら、「40代からの保険」「膝が痛くなったらコン〇ドイチン」「ファイト一発オロナミン〇」みたいな感じ。
必要な人には必要がある、効果がある人には効果があるみたいな広告と一緒だと思います。


結論から言えば、有効的な治療に繋がるための診断はないんですね。
薬についても、診断名によって使える薬が決まっていますが、その薬が有効かは別問題です。
あくまで「ADHDの人に使えますよ」というぐらいなもの。
ですから、日本という社会の中では、日本得意(特異?)のお墨付きというやつで、ある意味、福祉という国への通行手形になっているんです。
なので人が作った仕組み、制度、ルールってやつですね。
治療法がないのに診断する意味ってある??


症状を、発達を細かく切り刻んでいけば、なにかしら不具合が見つかるはずです、どの人も。
「あなたも私も発達障害」はある意味、正しい。
ですが、生活に不具合が生じている時点で違いがあるのだと思います。
発達の凸凹があって崩れている状態と、調和がとれている状態。
発達の凸凹が発達の初期にあり、他の発達に影響を及ぼしている状態と、根っこではなく枝葉にある状態。
育ちきる前と育ちきったあとの状態。


有効な治療法と合致するレベルまで、症状と発達を細かく分け、「〇〇症」という名が付けられれば、始まりの専門家たちのような想いが達成されると思います。
しかし、神経発達症に関しては、その可能性は限りなくゼロに近いはずです。
たぶん、症状と発達を細かくしていくと、グループができる前に、個人と行きついてしまう。
神経発達のバリエーションの一つとして、その個人に支障が生じているのですから、結局、自分自身でより良く育つしかない、育てるしかないのです。


現在、神経発達症における有効な治療法も、治療薬もありません。
あるのは、名を変え、手を変え、品を変え、残り続ける特別支援ビジネスです。
ビジネスでやっているのですから、彼らが喜ぶのは「使い続けてもらうこと」
生活に出ている支障を今、ラクにしたいのなら有効なのかもしれませんが、明日も、明後日も、1年後も、10年後も、根本が解決しない限り、支障や不具合と付き合い続けることになります。


神経を育てるには近道もなければ、単に真似すれば良いという方法もありません。
あるのは、その個人がよりよく育つこと。
隣の子に有効だった育て方が、我が子の育て方に有効なわけはありません。
身体が違えば、神経も、環境も、成育歴も、遺伝子も、まったく違います。
自閉症の子に有効な育て方がないように。
試行錯誤しながら、根本的な解決を目指していく、全体的な発達、成長、伸びを目指していく。
そこに診断名や特別支援ビジネスが入り込む余地はないのです。




2020年10月2日金曜日

【No.1107】入口と出口を押さえられた教育

教育大に入学したのだから、子ども達への"教え方"について学べるものだと思っていました。
1年目は、「最初だから座学が多いのかな」「教養や知識の習得の講義が多いのかな」と思いきや、それが2年目、3年目となり、気が付けば4年目になり、卒業してしまいました。
実践的な教え方を学んだと言えば、教育実習の期間中でしょうか。
あとは、教育の歴史だとか、障害の種類だとか、パブロフの犬やアヴェロンの野生児、ボウルビィの愛着理論とか、そんな感じです。
教育大なのに、教えている教授の教え方が悪い。
何年も使い回しのレジュメを配って(コピーのし過ぎで端が切れてる…)、声も聞こえないような一方通行の講義。
地方の国立大ですから、これで許されているのでしょうが、それにしてもつまらない講義ばかりで、だからこそ、自分で地域活動やボランティア活動、社会人を対象にした講演会などに潜り込むような4年間を過ごしていたのだと思います。


私も教員免許を持っていますが、結局、これは自動車免許と同じなんだと思いました。
教員の資格を得るための4年間であり、大学は学科、実習が実地、自動車学校で基本的なことは学べるけれども、運転の上手い下手は個人のセンスによるし、何よりも実際に運転するようになってからの練習と経験がものをいう。
今こうして子ども達や育ちに関わる仕事をしていますが、ほぼ大学で学んだ知識は使われていない。
他の仕事と同じように、やはり社会人になってから学んだことが主になっています。
というか、大学で学んだことだけでできる仕事なんてありませんね。


教育大ですので、同期はほぼ教員です。
学生時代、生意気にも「あの先生の教え方が悪い」「あんな教師にだけはなりたくない」「俺だったら、こんな授業をする」なんて言っていた仲間たちですが、皆さん、見事に"あんな教師"になっています。
共に学び合った仲間なので、それぞれの学校で頑張り、中堅になった今頃は学校も、地域も少しは良くなっていると期待していたのですが、あいも変わらず、構造化、惰性でやっている朝の会&帰りの会、とにかく「仕事には体力!」で校庭をランニング、エスケープゾーンという名の出口のない部屋、問題行動は無視、令和にその仕事ある?というような木工・陶芸の職業訓練、自立を掲げながら進路は福祉ばかり…。
これって私が学生時代から見ていた学校の姿と変わりません。
高等部の先生たちが「どうして小・中と今まで自立に向けた教育をしてこなかったんだ」と憤り、また小・中の先生たちが「どうして卒業後の進路が福祉ばかりなんだ。あの子はもう少しできたはずなのに」と嘆くのも毎年、秋から冬にかけてです。


先日、施設内の虐待が発覚したとニュースになっていました。
ここ10年くらい人気があった施設で、道南地域の学校からも多くの生徒が入所、利用しています。
ある進路担当の先生は、「ここに入れたらラッキーですよ」なんて言っていました。
それが今回の件です。
当然、既に利用している本人、親御さんは不安になるでしょう。
ですが、「じゃあ、出ます」といえないのが、福祉の闇です。
施設を出てどこに行くのでしょうか。
他の施設?家?自分でアパートを借りる?
そういった選択肢とスキルを身に付けてこなかったから、卒業後の進路で向かい、そのときは「有難い」と思ったのではないでしょうか。


学生時代からずっと思っていたのですが、どうして学校の先生は卒業後の進路で福祉施設を勧めるのか、それで「卒業生を送りだせた」とすがすがしい気持ちになれるのか、はなはな疑問です。
だって皆さん、口々に「施設職員だけはやりたくないよな」なんて言っていたのですよ。
私が施設に就職しますと言ったときも、全員、「やめた方がいい」と言っていたくらいです。
たぶん、これは労働条件的な印象だったと思います。
月に休みが6日で、24時間勤務がコンスタントにやってきて、給料は先生の初任給より10万円くらい少ないし、ほぼ上がっていかない。


また私も施設職員になって分かったのですが、先生たちの多くは、施設で暮らす人達がどのような生活を送っているかを知らないのでしょう。
「決まり決まった生活と日課があって息苦しい生活」「人里離れた場所での生活」くらいなものでしょう。
でも、実際はそんな生易しいものではありません。
常に人に見られ、監視されている息苦しさ。
同じ日課が今日も明日も明後日も何年も続いていくという未来。
自分の意思が主張できる機会の少なさと、それが通ることのない現実。
言葉に表しきれないような現実が施設にはあるのです。
皆さんは、本当の姿を知らない。


同期を見ていても感じますが、学校が、教育が本気で自立を目指さないのは、卒業後の60年間を知らないからだと思います。
自分たちは良い思い出として笑顔で卒業式を行い、生徒たちを送りだしているのかもしれませんが、その後の生活を想像したら、笑ってはいられないと思います。
「困ったら、福祉があるんだ」「福祉が彼らの生活を支えてくれるんだ」
それは実際に利用しないからこそ言える言葉です。
福祉を利用するのも大変、利用してからも大変、利用しなくても大変。
それが現実です。


もう遅いかもしれませんが、学校をフォローするとすれば、問題の大元は福祉であり、医療です。
先生と親御さん、双方から学校の様子を伺うこともありますが、とてもじゃないけれども、十分な教育ができるだけの準備が整っていない子ども達が多すぎます。
学校の先生は教育をする人であって、子ども達の排泄、着替え、健康、食事のお世話をする人ではありません。
障害とか、認知機能とか以前に、基本的な生活習慣としつけの問題があり、「遅刻、早退、欠席なんて当たり前ですよ」と先生たちに言わせてしまうことに問題があります。
でも、それは就学前の段階の課題だし、そこに関わっているのは幼稚園、保育園だし、もっといえば、診断と療育で関わった人間がそういった親御さん達を育てているといえるのです。
なんでも障害のせいにする親は、なんでも障害のせいにする専門家、支援者によって作られる。


「どうせ、治んないし、一生福祉だし、支援だし」
そういった言動が、親御さんの親として育つ意欲と機会を奪い、基本的な生活習慣やしつけといった部分までも諦めたり、丸投げしたりする態度を養ってしまう。
もし親として歩みだした最初の6年間の間に、「基本は子育てです」「快食快眠快便を整えることが子どもの成長に繋がります」「神経の発達の不具合なので、遅れても発達するんです」「社会の中で自立している人たちもたくさんいます!」と言ってくれる専門家、支援者と出会えていたら…。
「頑張らなくて良いよ、お母さん」という言葉が、そういった親御さんを育て、頑張ることを知らない子を育てることになる。
この子ども達が学校に入学して、勉強や級友との関わりを頑張れるというのでしょうか。


学校という12年間があるので見失いがちですが、結局のところ、福祉が種をまき、間12年水やりをやってもらい、再び福祉が刈り取りを行うのです。
こんにちの特別支援の問題が"入り口"にあるのは確かです。
その入り口で待ち構えている専門家というのが医療であり、福祉です。
療育と言っていますが、教育機関ではなく、教育者が行っているわけではありません。
その多くは、福祉系の大学、専門学校で学んだ者。
あとは旧来の「脳の機能障害」に固着する医療関係者です。
福祉の人間がイメージする未来は福祉の世界。
医療の人間がイメージする未来は医療の世界。
自立を本気で目指すのが、本来教育者のはず。
しかし、入り口と出口をふさがれた学校は、おのずと福祉抜きには、福祉の影響を避けることも、福祉をイメージしないこともできないのです。


私が思い描く理想の姿は、学校が教育に集中できること。
それが子ども達の自立するための後押しになると信じているからです。
そのために、就学前の子ども達の育ちが大事であり、私が家庭に入り、親御さんと共により良い子育てを考え、後押しすることの意義があると思っています。
今の特別支援教育は福祉までの中継ぎ、ある親御さんの言葉を借りれば、福祉という世界に入る前の思い出作り。
学校が思い出作りじゃ、悲しいではありませんか。
人生100年時代の始まりの20年。
子どもも、親も、先生も、皆が成長を喜び、成長し合える未来を願っています。




2020年10月1日木曜日

【No.1106】自分で育てているときと、そうではないときの見分け方

9月13日(日)のzoom講座のあとから、こういった質問を多く受けるようになっています。
「自分でなにか(発達)を育てているときと、そうではないときの見分け方は?」
確かにその見分け方までは説明しなかったと思います。
途中で質問タイムがあり、そういった行動についての相談がありましたが、答えることがメインで根拠までは説明しませんでした。
昨日で録画した動画を視聴できる期間が終わりましたので、この辺りのお話をしようと思います。


言ってしまえば、雰囲気です。
実際に見れば、良く分かりますが、何かを育てているときの姿は雰囲気がぜんぜん違います。
伸びやかで、自然で、明るく、内側から突き動かされている感じがします。
でも、これは私個人のイメージであり、現在まで多くの人たちと関わってきたからこそ、感じる部分だと言えます。
なので、答えているようで答えになっていませんし、これでは講座を視聴してくださった方達への後押しになりません。
ちなみに、メール相談でも、電話相談でも、親御さんの言葉を通してお子さんの雰囲気は伝わってくるものです。


そこで、どのようなところを具体的に見ているのか、どのような勉強を通して身に付けた技術なのかを紹介しようと思います。
まず大まかな枠組みとして、子ども達の行動には「育てる」「(純粋な)遊び」「防衛」が考えられます。


自分自身で発達を育てているときは、必要な刺激、足りていない刺激を求めていますので、型はどうでもいいわけです。
どんなやり方、どんな環境を使おうとも、同じ刺激が得られれば良いのです。
ですから、内耳を育てている子は、移動するときもピョンピョン跳ねているし、縁石をみればその上を歩こうとするし、ソファーに上がってはそこから跳び下りようとするし、おんぶされていても頭をたくさん動かすし、公園に言えば、とにかくブランコだし、自分も回るし、扇風機など回るモノも好きだし…という具合に、生活全般の中で「ああ、内耳を育てたいのね」というまとまりがあります。
一方で遊びは趣味嗜好なので、ある程度、決まった型があります。
いつも同じ場所で行う、いつも同じものを使う、遊びは変わっても遊ぶもの自体は、やり方自体は変わらない、ということがあります。


また育てる行動は、一種の退行ですので、その子の認知機能からいえば、行動レベルが幼いことをやります。
普通級で勉強しているような子でも、家に帰ったとき、グルグル回ったりします。
しかし遊びは、その子の愉しさと繋がるものですから、つまり、認知樹的な好奇心を満たすものですから、認知機能と合ったものを選択することが多いです。
IQや認知機能が変わると、遊びもより複雑なものへと変わってきます。


そして育てる行動は一過性のものが多いといえます。
乳幼児期の子ども達の姿を見ればわかるのですが、ハイハイを育てる時期は、朝起きてすぐにハイハイ、寝ているとき以外、ハイハイという具合に、1つの発達課題に没頭する傾向があります。
そのような四六時中、ハイハイの時期があったかと思えば、ある日を境にピタッと止め、とにかく伝い歩きに没頭する時期へ移行していきます。
親御さんのお話を伺っていても、「ある日、パタッとやらなくなった」「急に先週くらいから、毎日、〇〇をするようになった」ということがありますので、この場合は、ある発達課題をやりきった、ある発達課題を育て始めた、と解釈できると思います。
遊びの場合は、それこそ、小学生になっても、中学生になっても、大人になっても、遊びの大枠、型は変化しません。
虫が好きだった子が、図鑑や生物の仕組みに興味が出るように、車を並べて眺めていた子がブロック制作が好きになったり。
親御さんは子どもさんの遊びを見ていると、「そういえば、小さかったときから〇〇が好きだったもんね」というように、遊びの歴史、繋がり、きっかけがわかると思います。


なんとなく「育ち」と「遊び」の違いは分かったと思うので、「防衛」に話題を移します。
防衛は、遅延性や即時性のストレス回避行動です。
簡単に言えば、ストレスから身を守るために行っている対処行動になります。
聴覚過敏の子が、子どもの鳴き声を聞いて耳をふさいだり、学校で疲れた子が家に帰ってきて布団の中にくるまったりする行動です。
こういった行動は"明らかに"ですので、他の二つとの違いはわかると思います。
当然、自傷・他害なども、育てたり、遊んでたりはしていません。


「育ち」は刺激を求めていて、「防衛」は刺激を遠ざけています。
時折、嫌悪刺激から身を守るために常同運動(顔の前で手をパタパタさせる、ピョンピョン跳びはねるなど)をする場合もありますが、嫌悪刺激が止まれば、こういった行動も止まります。
「育ち」の場合は、周囲の環境が変わっても続きますので、ここが違います。
あとは、「防衛」がストレス始まりの行動なので、表情が硬く、身体に力が入っていて、動きがぎこちない、動きのバリエーションが少ないという特徴があります。
一方で「育ち」はリラックスしていますし、幼い段階に戻る行動ですので、動きがなめらかです。
細かいところで言えば、「育ち」や「遊び」は周囲からの声がけにパッと応じられますが、「防衛」のときはそれが難しい、ストレスレベルが下がるまで続く、ということがあります。


上記までの説明では、雰囲気を無理やり言語化した感じになります。
たぶん、経験則的に「こういった方向性で提案したほうがうまくいく」というのがわかるのだと思います。
でも、それだけだと間違いを起こしますので、勉強&補助として定型発達を理解することになります。
「育ち」の場合は、定型発達の子ども達も、どこかの年齢で行うことが多いといえます。
あまり自己流ということはなく、子ども達に共通して見られる行動です。
そこにプラスして、成育歴、発達の流れ、そして今の発達段階を確認し、「汗をあまりかかない。砂遊びを嫌がる。触られるのがイヤ。寝返りの際、反動をつけて回っていた」からの「お風呂からなかなか出ようとしないのは、皮膚を育てようとしているかも。水の時期だからかも」という見立てになります。
そこから、「じゃあ、足を使った遊びを」「じゃあ、海へ」「波打ち際を裸足で歩こう」というような刺激のバリエーションを増やすことからの発達の後押しへとつなげていきます。


たぶん、ほとんどの親御さんは、この3つの違いが感覚的にわかるはずです。
こういった質問をされるというのは、今、不安な気持ちがあるからであり、「解釈を間違えたらどうしよう」という想いからだと想像します。
たとえ解釈を間違えても、基本的に見守りでOKです。
ストレスに対する防衛行動だとしても、自分自身で動き、乗り越えようとしていますので、またその乗り越えた経験が生きていく上での武器になりますので、本人や周囲に危険と迷惑がかかる行動でなければ、特段介入する必要はないといえます。
ただし、親としてそのストレスが何なのかは確認する必要がありますが。


まずは子ども育つ力、乗り越える力を信じること。
そうすれば、ひとつ冷静になって、子どもの姿を見ることができます。
アセスメントのコツは、見ている側の感情を乗せないことになりますので。