2020年6月29日月曜日

【No.1076】親にもある赤ちゃんからの積み重ね

子どもがそうであるように、親御さんもまた赤ちゃんからの積み重ねがあるものです。
ですから、その積み重ねを大事にしてほしいと思いますし、子育ての中でも、ある意味、自己流を貫いてほしいと思っています。


赤ちゃんからの積み重ねを押し込め、後から学んだ知恵で子育てをするのはもったいないことです。
そんな親御さんをたくさん見てきました。
学生時代にお会いしたときは、子ども想いで、どこにでも普通にいるお母さんだったのに、数年後、私が社会人になってお会いすると、学生時代に私が感じていたその雰囲気がすっかり失われてしまっている、なんてことがありました。
最初は愛する我が子のために、と思って始めた勉強も、いつしか勉強のための勉強になり、お母さんという役割から支援者の役割へと変わっていった。
我が子が泣き叫んでいるのに、無表情で絵カードを見せている姿に、ぞっとしたものです。
以前のお母さんなら、我が子に駆け寄り、ぎゅっと抱きしめたはずなのに。
子どもを支援の対象として、つまり、子どもを子どもの内側から見えなくなることが、支援するものになる、ということなんだと思います。


発達相談の依頼をお受けする際、事前に子どもさんの情報をメールで送ってもらうようにしていました。
でも、それはよくないなと思い、リクエストするのをやめました。
何故なら、それだとどうしても、支援する側と支援される側という関係性が築かれてしまうからです。
事前にお子さんの情報を知っていると、知らず知らずのうちに、発達相談が答え合わせみたいになっています。
「うまく走れないんですが。そして、よく躓くんです」
「それは、ハイハイを飛ばしたことが関係してるのでしょう。肩甲骨の動きが固ければ、立体視もできていないかもしれませんね」
「そんなことが影響するんですね」


こんな発達相談は、その場限りで何の役にも立ちません。
大事なことは、親御さんが主体的により良い子育てを考えていくことです。
私とお子さんの関係はその日限り、ほんの一瞬ですが、親御さんと子どもさんの関係は長く続いていきます。
この"長く続く"に子育ての本質があります。


親御さんだって、子の生きた年数しか親になっていないのです。
2歳の子の親なら、親になってまだ2年、10歳の子の親なら、親になってやっと10年。
支援者も2年目の支援者、10年目の支援者という者がいますが、親御さんのような連続性はありません。
親子で積み上げてきた10年間と今後成人するまでの10年間の未来が連続している。
さらに、親御さんが赤ちゃんから積み上げてきたものと、我が子の人生、子育てが連続している、繋がっていることが重要だといえます。


親子の関係性の中でで行われる子育ては、すべてオリジナルです。
それが「自閉症の子には、まず構造化ですね。視覚的に示すことですね。見通しを持たせて」という目の前にいる一人の子と何もつながっていないような知識の伝達を行っても、発達は生じないし、ただその場しのぎの支援を行っているだけになります。
発達は支援と違って、介護と違って、支援者と違って、ぶつ切りでは生じないのです。
子どもさんの人生、生きた年数という流れで見ていかなければなりませんし、親御さん自身の赤ちゃんからの積み重ねともつながる必要があります。
発達とは流れです。


私が事前に頂いた情報をもとに発達相談をしていては、その大事な連続性、流れが失われてしまいます。
問いかけに対して答える、問いかけに対して答える、では、対面式のキャッチボールです。
本来、子どもの視線に立って、それこそ、子どもさんの内側から見る、という具合に進めていかなければならないのです。
親御さんと子どもさんが繋がり合い、子どもの視点からその辛さ、希望、望み、発達の力を感じることができるようになるのが理想ですし、それができるのが親子という関係です。
親と子の一体化がなされると、子育ての迷いが少なくなり、どこを育てたがっているか、どのくらいで治っていくかが見えてくるものです。


発達相談において、なるべくライブ感を出すことを大事にしています。
事前に知っている情報を確かめるのではなく、「どこの課題と繋がっているだろうか」「どうしたら、より良く育っていくだろうか」「こんな様子は見られないでしょうか」という具合に親御さんと一緒に悩み、探求していきます。
そうすることで、親御さんの中に今後の我が子の発達、より良い子育てを探求し続ける力を養っていけると考えています。


我が子が泣いているとき、スッと抱きしめられるか、スッと支援グッズを出すか。
その違いは、子どもが発達していけるか、子どもが適応という学習をしていくかへと繋がっていきます。
より良く育ってほしいと願うのが親であり、子どもの内側からの視点。
問題を起こさず支援しやすい人になってほしいと願うのが支援者であり、子どもの外側からの視点。
泣いたり、笑ったりしていたお母さんが、疲れ切った支援者のような顔をして我が子と対峙している。
子どもとのつながりが薄くなると、親御さんの表情が薄くなるものです。
親御さんは支援する必要はないし、支援者になる必要もない。
だから、支援者が教える支援なんか忠実に行う必要なんてないのです。
その家独自の子育てでいいんです。
診断名に共通した子育てなんてないのですから。




2020年6月26日金曜日

【No.1075】「他人の気持ちがわかりません」という自己紹介

「自閉症の人は、他人の気持ちが分からない」と言われることがあります。
実際、そういった記述も、自閉症・発達障害に関する書籍などで見かけますし、医師から、専門家から、支援者から「そうやって言われた、説明された」とおっしゃる本人や家族とも私はお会いします。
しかし私は、この説明・文言と出会うと非常に違和感を感じるのです。
まるで「人でなし」と言っているような言葉に憤りを感じるのです。
私が施設で関わっていた子ども達、今、仕事で関わっている人達はそんな人達ではない。


確かに現実問題として、他人の感情が読めずに、周囲とトラブルになってしまう人たちもいます。
でも、その人達がまったく他人の感情が読めないか、想像できないか、していないか、と言ったらそうではないと感じます。
ある重度の知的障害を持つお子さんは、お母さんが泣いていたとき、スッとティッシュを差し出しました。
それを見て、意地悪な支援者は「たまたまだ」「泣く→ティッシュというパターン行動だ」というかもしれません。
しかし私は思うのです。
完全にではないが、いつもではないが、他人の感情を察する瞬間がある、と。


自閉症の人達に感情を読む機能の欠落があるとは、私は思いません。
彼らと時間を共有していますと、感情に共感する瞬間がありますし、他人の感情を読もうとしようとすることがあります。
でも、共感の幅が狭かったり、共感したことを表現する手段が限られていたりします。
他人の感情、場の空気感を推測しようとするのですが、解釈の部分でズレていたり、そもそも推測に必要な刺激を受け取る感覚、身体が育っていなかったりするのだと思います。
はじめから感情を持たずに生まれてきた人達ならそうなのかもしれませんが、本人たちに感情はありますし、その感情も成長と共に豊かに育っていきます。
同時に、他人と感情を交わらせ、共感できるようにもなっていく人達も大勢います。


幼少期、「この子は一生施設ね」と言われた若者が今は一般就労し、そこで接客業をしています。
さらに上司から、「〇〇さんは、とても気が利くね」と褒められることがあったそうです。
いわゆる自閉症の人達が得意としているパターン化だけで、接客業は続かないし、他人から「気が利くね」とは言われないと思います。
つまり、「他人の気持ちがわからない」というのは障害特性ではなく、背景には未発達があり、身体と感情のズレ、繋がりの悪さがあるのだと私は考えています。


他人の気持ちがわかるには、まず自分の気持ちがわからなければなりません。
それには感覚的に自分という存在が把握できていなければなりませんし、当然、その前段階に自分を感じられるための感覚、身体が育っている必要があります。
周囲からの刺激を感じ、自分を感じることができる。
その身体で感じた刺激を脳と繋げるための中枢神経も重要になります。


また周囲は、「他人の気持ちが分からない」のか、「他人の気持ちが分かるけれども、行動しない」のかの区別ができません。
特に、「自閉症とはこうあるべきだ」というデジタル脳の人は難しいでしょう。
「他人の気持ちが分からない」と言われるようなお子さんでも、実際は他人の感情が分かっている。
でも、そのあとの行動が伴っていない、どう行動していいかがわからない、という子も少なくありません。
こちらは動きの発達、または愛着の発達と関わっている部分だといえます。
動きがちゃんと発達している子は、パッと行動に移せますし、愛着の土台が育っている子は、自ら行動することに対して自信を持っているものです。
気持ちはあるけれども、自信がなくて一歩が踏み出せない子もいるのです。
それって障害ですか?
それって生涯変わらないものですか?
その子達に、他人が「他人の気持ちが分からない」と言うのって、大変失礼なことだといえないでしょうか?


こうやって自信を持って言えるのは、実際に他人の気持ちに共感し、気遣いや行動ができるようになった自閉症の人達、発達障害の人達と出会ってきたから。
そしてもう一つ、いわゆるサイコパスと言われる人とも関わったことがあるからです。
他人の感情を読みとるのがうまく、そこを利用するといったサイコパスの人もいるようですが、私が関わった人は、最初から人を人と思っていないような感覚がありました。
私が今までに出会ってきた人たちからは感じない違和感を持ったのは確かです。
もしかしたら、未発達ではなく、なにかを失っている人はいるかもしれません。
でも、ほとんどの自閉っ子、発達障害の人は、未発達ゆえだと思います。
それに他人がひと様のことを、「こういう人間である」なんて言うのはおこがましいことであり、誰にもそんな権利はないでしょう。


「他人の気持ちがわからない」というような専門家がいるのでしたら、「それは先生のことですか?」と訊き返しましょう。
きっと自己紹介をされただけですから。




2020年6月18日木曜日

【No.1074】未来を認識する力を育む3ステップ

我が家の下の子も、最近、"未来"がはっきりしてきました。
つい数か月前までは、「また今度」「〇回寝たらね」「明日やろうか」など、大人の言葉を場面と合わせて暗記していただけに過ぎませんでしたが、今ははっきり未来があるのがわかっている様子があります。
カレンダーを見ながら保育園での遠足を楽しみにしたり、出かけるのがわかったら、すぐに片づけを終えたり…。
未来があるのはヒトだけですので、下の子の人間脳も育ってきているのがわかります。


発達相談においても、お子さんに未来を理解する力があるか、どのくらいの未来が認識できているのかを確認します。
この未来を認識する力は、その子の発達段階を知る上で、今後の学習の伸びを予測する上で、とても重要なポイントになります。


未来が理解できるようになり、その認識が育っていくのは、3歳前後です。
ということは、0歳から3歳までの間に、他の動物にはない未来を認識する力を養う課程があるのです。
その最初の芽生えは、いないいないばーだといえます。
大人の顔が手で隠れる。
その瞬間、赤ちゃんはその大人がいなくなったと認識する。
でも、次の瞬間、手が開き、顔が現れ、ホッとする。
このいないいないばーの一連の流れがわかるようになることこそ、未来の芽生えです。
顔が隠れたあと、「また、お母さんの顔が現れるだろう」というほんの1秒に満たない未来が予測できるようになる、が最初の一歩です。


いないいないばーの次のステップは、繰り返し行動だと考えられます。
まだしゃべり始める前のお子さんは、何度も同じ行動を繰り返します。
おもちゃを掴んでは床に捨て、おもちゃを掴んでは床に捨てる。
これは、まるで理科の実験をしているようです。
いないいないばーの段階とは異なり、自分主導で今と近未来を行ったり来たりするのが特徴だといえます。
「僕がこうしたら、〇〇はこうなる」


そして第3のステップは、自分の身体を通した未来予想です。
いないいないばーが視覚を中心とした現在と近未来の行き来、次が視覚とモノを結びつけてだとしたら、五感と身体を結びつけてということになります。
「椅子から飛び降りたら、自分はあのあたりにつくだろう」というように行動してみる。
そうやってモノの変化で感じていた未来を、自分の身体を使って感じようとする。
同時に、身体を動かしますので、感覚のフィードバックも生じてきます。
「椅子から飛び降りたら、足がジーンとした」
これも自分の行動後の感覚の変化を感じることで、「未来が確実に存在する」というのをまさに体感して認識しているのです。
未来は知識や情報ではなく、目に見える変化、モノの変化、自分の身体の変化という過程を経て、その存在を実感するものなのです。


発達相談において、この未来を認識する力が育っていないお子さんとも出会います。
親御さんは落ち込まれることもありますが、この未来を認識する力も育てられるのです。
知的障害だから、ここは育たない、育てることが不可能だ、ということはありません。
もちろん、そのお子さんによっては、3歳前後の段階までいくことが難しい子もいるかもしれませんが、上記のステップを少しずつ、1つでも上げていくことはできるのです。


まずは、自分のお子さんが、どの段階にいるのか、確認する必要があります。
3歳前後の段階までいけば、あとは体験を通して本人が育てていきますので、我が子がステップ1なのか、2なのか、3なのか、ということです。
もしステップ1なら、本人が視覚的に認識できる変化をどんどんやってみる。
他の発達同様、やりきったあと、味わい切ったあと、次のステップに進むものです。
ステップ1だから、モノの変化を使ってステップ2に押し上げよう、というのは適さない方法です。


未来を認識する力が重要なのは、それが向上する意欲のもとになるからです。
なぜ、勉強するか、練習するか、といえば、変化した自分が認識できるからです。
もちろん、完全にその変化を予測することはできませんが、「未来は変わる」ということを体感的に知っている人は頑張れる人です。
反対に言えば、その未来が認識できなければ、その子には今しか存在せず、闘うか逃げるかの2択になってしまいます。
勉強ができるのに、勉強することにネガティブな感情を持っている子の中には、この未来を認識する力が弱い子もいます。
体感的に未来がない子は、今行っていることの意味も、意義も、理解できずに意欲が培われていかないものです。


未来の意義とは、選択できることだといえます。
自分の意思と行動によって未来は変化する。
未来を変えられることを知っている人は、前向きに行動できる人になります。
その根っこを辿っていけば、いないいないばーから始まる未来を認識する力を育てるステップです。
感覚的に、体感的に未来がわかる人に向上心が宿る。
ですから、私がお子さんと向き合うとき、この力に、発達段階に注目するのです。




2020年6月17日水曜日

【No.1073】神経発達症を治すのは、特別なことではない

2013年以降、発達障害が「神経発達症」に変わってから、世界の流れは確実に「治す」に向かっています。
日本では、まだ「自閉症」や「知的障害」「発達障害」という診断名と言葉が中心ですが、神経発達症という状態には変わりがないのですから、本人が目指すところは、より良い神経発達であり、親御さんの目指すところは、その後押しになります。
より良い神経発達が進んだ先に、診断基準を飛び越える状態があり、治った姿があるのだといえます。


私も、読んでくださる方がわかりやすいように、「自閉症」「発達障害」という言葉を使ってきました。
近頃、これもよくないのかなと思うようになりました。
「自閉症」という言葉には、長らく「脳の機能障害」という言葉がくっついてきました。
「発達障害」という言葉には、もろ「障害」という言葉がついています。
「発達障害を治す」と言うと、「治らないんだから、障害なんだ」という決まった問答が繰り返される。


既に「自閉症」も、「発達障害」も、障害ですらなくなったのですから、障害を連想させる言葉を使わないほうが、これからの人のためになるかもしれないと思いました。
今、現時点で、成育歴を振り返ると、神経発達に滞りがある状態。
その滞りは、人それぞれ違うけれども、同じ人であったとしても、今日と明日では状態が変わっているけれども、神経発達の滞りは、みなさん、同じね。
だから、その人達を「神経発達症」と呼びましょう。
行政的な判断をするのに、決まった言葉があると良いから、といったところです。


神経発達の滞りを環境、刺激、栄養の面から治していくのは当たり前ですし、それによって治る人が大勢いるのも当たり前。
治るものを、「治らないんだ」と言い張り、指をくわえている方が今の世の中、トンデモと言われるでしょう。
義務教育を受ける世代の子ども達に教科を教えないのが「おかしい!」と言われるように、治る部分を治そうとしないのもおかしな話なのです。


親御さんの中には確固たる信念や理解があるわけではないけれども、「我が子は治らない」と思っている人達もいます。
実際、そのような方達の発達相談も行ってきました。
そこで感じるのは、治る部分と治らない部分・治すべきではない部分が一色単になっている、ということです。
たぶん、「治る」というと、一気に同世代の子どもと同じようになり、あれこれができるようになる、と思われているのでしょう。
しかし、それは間違いです。


私が発達相談で行うのは、まずどこが治り、どこが治す対象ではないか、を見極めることです。
持って生まれた性格や親御さんから引き継いだ資質などは、治す対象ではありません。
あくまで、治るところを治す、治すべきところを治すのです。
治るところとは、育てられるところと言い換えられるかもしれません。
実際、知的障害が重度と言われる子や行動障害を持っている子、医師や支援者にさじを投げられた子も、丁寧に見ていけば、治せる部分、育てられる部分をたくさん持っています。
私は、この道に入って15年以上経ちますが、まったくやりようがない、育てられるところが一つもない、という人にはあったことがありません。
もし、そのような発言(「やりようがない」)をする支援者がいるとしたら、それは本人に問題があるのではなく、その支援者に見抜く目がないからだといえます。


では、具体的に治る部分、育てられる部分とは?
それは、感覚・身体・運動などの未発達の部分です。
それは、愛着形成という人と人との関係性で育てる部分です。
それは、問題行動や誤学習という間違った形で適応してしまった部分です。
未発達・愛着・誤学習は治せるし、やりようがある。
こういった部分を、「発達障害だからね」という言葉で片づけてしまうのは、とても勿体ないことであり、一人の未来と人生を他人が奪うことにもなります。


神経発達症の子を見て、「治らない」と思ってしまうのは、育てられる部分と育てられない部分、治る部分と治らない部分が区別できていないからです。
繰り返しになりますが、神経発達症は1つの決まった状態、測定できる状態を表しているのではなく、「その人によって違うけれども、神経発達に滞りがあるよね~(ざっくり)」というものなのです。
それこそ、自閉症も、自閉"スペクトラム"症という具合に、症状に濃淡があり、定型発達と連続している状態だと言っているのですから、育てられる部分、治せる部分は大いに治していけば良いのです。
今どき、神経発達症の人達のことを、「固定された状態の人」と捉えている人が珍しい人になります。


「性格を治す」「低い身長を高く治す」「親から受け継いだ遺伝子を治す」と言えば、トンデモです。
でも、「未発達を治す」「愛着を治す」「不適応行動(誤学習)を治す」というのは、至極、当たり前なこと。
その当たり前なことをするのが親御さんであり、そこを本人が治すのを、我が子を治す後押しをするのを、支援するのが私達、支援者の仕事になります。
神経発達症を治す後押しをするのは、バナナジュース屋がバナナジュースを作るようなものであって、特別なことではないのです。




2020年6月10日水曜日

【No.1072】with-コロナ時代の発達援助

星野リゾートの社長さんが「道内の人に来てもらえるホテルづくり」という話をしていました。
既に体制を変え、動き出しているようで、今までのようなインバウンド頼みではなく、国内の、北海道なら北海道内に住む人に向けたホテルに変えていくそうです。
どの世界でも、素早く変化に対応できる人が結果を出していくのだと思いました。


そういう経営者がいる一方で、いまだに「補助金ガー」と言っている人達もいます。
これを機に、with-コロナに向かって走りだしている人もいれば、「保障ガー」「国ガー」と言っている人もいる。
どんなことが起きようとも、国が中小企業、一つ一つの世話をしてくれるわけはないのですから、そんなこと言っている暇があるのなら動き出すしかありません。
だって、自分を救うのは自分しかいないのですから。
誰かに救ってもらえる子どもの特権であり、まさに甘えの一種です。


2月の時点では、「若い人が媒介者になる」「無症状者もうつす」と言われていました。
専門家とはいえ、初めての出来事ですから、限られた情報の中で判断する必要があったのでしょう。
実態がわからないときは、やりすぎるくらいやるというのはリスクマネジメントで重要なことだと思います。
しかし、今は6月であり、あれから比べると、いろんなことがわかってきました。
「無症状者が他人にうつすことは稀である」
そういった実態が見えてきたのですから、2月・3月に言っていたことを撤回すれば良いのです。
時間の経過とともに、言っていたことが、信じていたことが変わるなんて、よくあることですから。


「ごめんなさい。あのときは、無症状者が感染に気づかず、他人と接触することでうつすと考えていました」で済む話だと思います。
しかし、どうも、権威がある人、「間違いが許されない」と認識される仕事の人は、謝ることができないし、それがゆえに前言撤回、素早い訂正ができない傾向があると思います。
身近なところで言えば、学校の先生も謝らない。
謝らないからズルズルいって、結局、取り返しのつかないところにきて、どうしようもないから動き出すパターンが往々にしてあるのです。


2013年、『脳の機能障害』が『神経発達の障害』に変わりました。
別に2013年より前、脳の機能障害と考えていた、捉えていた、それに応じて支援・教育を行ってきた、というのは悪いことではないのです。
でも、それから7年が過ぎ、いまだに自閉症は、発達障害は「脳の機能障害である。治ることのない障害である」なんてことを言い続けることが悪いと言えます。


どの世界でも、情報は塗り替えられ、概念や常識が変わっていくのは自然なことです。
そうやって人類は、文化は、テクノロジーは向上していったのですから。
新しい概念・技術を生むのは専門家という一部の人なのかもしれませんが、その概念・技術を選択するのは、利用するのは消費者です。
特別支援の世界で言えば、「神経発達の障害」「診断基準を外れ、治る人もいる」という概念を選択するのは、本人であり、親御さんです。
それを新しい概念が出ているのにもかかわらず、「それは間違いだ」「脳の機能障害と思え」と指示するのは専門家という傲慢さが生んだ越権行為だと言えます。


新しい概念を生むことは大事なことです。
それを研究することも大事なことです。
しかし、研究する人も一人の人間なら、それを知り、利用する人も一人の人間です。
どのように子育てしていかを決めるのは専門家ではなく、その家庭の個人です。
発達に遅れがある子の子育てだけ、その決定権が専門家にあるというのはおかしな話。
専門家はあくまで、その子の、その家族の選択肢を提供するにすぎないのです。


函館は海もあり、山もあり、異国情緒溢れる街並みがある良い場所です。
それなのに、歴史的な建造物のあるエリアに、ドラッグストアが次々と出店し、軒を連ねています。
まさにインバウンド狙い。
しかし今は、ほとんど誰も歩いていません。
パッケージだけ北海道で、中身は道内産ではないお菓子も大量に売れ残り、山積みになっています。
そのようなものを地元の人は、国内の観光客は買ってはいかない。
函館が生き残るには、選択肢を豊かにし、これからの時代に選んでもらえるように変わらなくてはいけません。
函館の観光業が廃れるとすれば、それはコロナのせいではなく、変化できなかった自分たちに問題があるのだと思います。


中小企業の経営者の言う「補助金ガー」は、自閉症の・発達障害の「理解ガー」と一緒です。
インバウンド頼みの大量生産大量消費は、とにかく怪しい子はすべて発達障害にして支援に取り込んじゃえ、とにかく療育を受けさせちゃえ、中身はそれからだ、と一緒です。
これからは個人の豊かさの時代だと思います。
他人がどうだとか、みんながそうしているとか、そんなもので決められる世の中ではないのです。


コロナというウィルスは一緒でも、人それぞれ身体も違いますし、生活・仕事も違います。
とにかく診断名が付けば障害者として生きればいい、みんなが支援を受けているから私も受ける、というのは違います。
一人ひとりが自分で選択し、生活を、人生をカスタマイズしていく必要があります。
子どもだけではなく、親御さんも自立が求められる時代になります。
支援者からの自立、先生からの自立、専門家からの自立も求められていくと私は考えています。
親御さんが自立できるような援助が、with-コロナに向けた私の仕事の変化です。



2020年6月9日火曜日

【No.1071】自らの意思で自らを支援している状態こそ、『自立支援』と言える

私がまだ「構造化された支援」にどっぷり浸かっていた頃、あるベテランの施設職員がこんなことを言っていました。
「今は、どこでもここでももてはやされているが、日本で根付くことはないだろう」
その理由を私が尋ねると、一言、「コストがかかるから」という答えでした。
金銭的なコストだけではなく、時間的、労力的なコストがかかるという意味です。


そのときは、「そうなのかな~」と思うくらいでしたが、それから15年ほどが経ち、現実となりました。
私も視覚支援を頑張っていた時期がありますので、良く分かりますが、とにかく時間と労力がかかります。
特に子どもさんの場合、発達・成長が著しいですから、せっかく丁寧に作った視覚支援も、すぐに作りかえる必要が出てきます。
その都度、作っては変え、作っては変えを繰り返していましたが、それを仕事以外で、つまり、家庭でやろうと思えば、とにかく大変です。
親は支援者ではありませんので、支援グッズだけ作っていれば良いわけではありません。
仕事や家事、兄弟がいれば、他の兄弟のこともする必要があります。


あるとき、泣きながら電話をくださった親御さんがいましたが、某支援者から「構造化が合っていないから、問題行動が起きるんだ」と責められたということがありました。
一時期、それこそ、当地でも構造化ブームがあったとき、結構、構造化のダメ出しをされた親御さんが多く、子どもが寝たあと、夜なべして支援グッズを作っていた、なんて話も良く聞いたくらいです。


確かに、構造化、支援グッズ制作にはコストがかかります。
コストがかかる分、できる人とできない人が出てくるのは当然なことであり、結局は一部の熱狂的な人がいろんなものを投げ打ってやり続けたというのが実際のところだと言えます。
しかし、構造化された支援だけではなく、その後もいろんな療法が流行っては消え、流行っては消えを繰り返した様子を見ていると、「コスト」だけが理由だったようには思えないのです。
私が思うに、本人ができないものは根付かない。


つまり、どの療法も、その療法を行う支援者なり、親御さんなりが必要なわけです。
本人がいくら必要性を感じ、アクセスしようとしても、それができない。
また自分なりにカスタマイズするにも、支援者や親御さんの手が必要なことがほとんどです。
常に他者の手を必要とするものが、文化として根付いていかないのは当然の結果でしょう。


支援者とは、本人の自立を支援するための存在です。
ということは、その支援も、本人のもの、血肉とならなければならないのです。
口では「自立」と言いながら、いつまで経っても、支援を受ける者と与える者の関係性を続けるのは矛盾しています。
支援とは本人が自由にアクセスでき、自由に作りかえることができる形になっている必要があります。
本人が自分で自分のことを助けていけるモノ。
それが支援グッズの本来の姿です。


今後も特別の支援の世界は、流行り廃りが繰り返されると思います。
そんな中でも忘れてはいけないのは、「主体は本人である」ということです。
子どもさんの場合は、親御さんや支援者がその発達・成長を促すこともあるでしょう。
しかし、あくまでその子が自分のために発達する、成長する、ラクになる、ということは忘れてはなりません。
「この子が将来、自立してほしい」「今、少しでもラクになってほしい」
これは親の願いです。
それとは別に、「僕ができるようになりたいから頑張る」「私が今、心地良くなりたいから続けてみる」という本人の想いにこそ、支援の原型があるのだと思います。


発達障害を治すのは、家族や周囲、社会のためになることもありますが、それは結果です。
それよりも大事なのは、自分のために発達障害を治すということ。
他の誰のためでもなく、その子が自分のために、自分の将来と可能性のために治すのだと思います。
心身を心地良い状態に持っていくのも、発達の課題をクリアするのも、すべて自分のための行動です。
その本人の自らを助ける行為に対して支援するのが、親御さんであり、支援者という存在。
支援者が主導している限り、その行為は自助努力とはいえません。
自助努力ができている状態とは、自らの意思で自らを支援している状態なのです。





2020年6月4日木曜日

【No.1070】世代特有の発達

この前、息子たちを連れて郊外の大きな公園に行ったら、驚くことがありました。
公園の入り口のところに『三密に注意してください』と書かれていたのです。
おいおい、ここは札幌ドームが2つくらい入るくらいの広さ。
三密を作ろうと思えば、10万人は集めなきゃなりません。
どう見ても100人もいませんでしたし、函館の人口の3分の1が一堂に会するとも思えません。
つまり、これも脊髄反射の人たち向けのお仕事で、「ちゃんと対策やってますから」と言いたいがためなのでしょう。


そんな広い公園にも関わらず、子ども達の中にはマスク姿の子もいました。
さんさんと陽が降り注ぐ中、マスクをつけて走り回る子ども達。
やっと「熱中症の危険がある」という声明が出ましたが、真っ赤な顔をしている子ども達を見ると、本当に大丈夫かなと思ってしまいました。
ここでコロナに罹るリスクと、熱中症になるリスクはどちらが大きいのか。


これからの季節、熱中症も心配なのですが、それ以上に酸欠、息が深く吸えないことが子ども達の発達に及ぼす影響のほうが私は気になります。
幼児さん達は走り回ることで呼吸を育てますし、呼吸を育てたいから走り回るともいえます。
そうやって酸素が思いっきり摂り込める身体を作り、それが加速する脳や神経の発達に繋がっていく。
当然、息が深く吸えないというのは、それだけで心身にも影響を及ぼすことになります。


赤ちゃん時代からの運動発達がひと段落し、さあ、ここから呼吸を、動きを育てようという時期の子ども達。
そのような子ども達にとってこのマスク生活は、後々に影響を及ぼしていくのでは、と心配しています。
既に夜の寝つきが悪くなったお子さんや、学校や幼稚園などですぐに疲れてしまう子ども達が出ているようです。


子ども達だけではなく、親御さん、特に妊娠されているお母さんへの影響も心配しているところです。
それはコロナに罹る心配ではなく、お母さんが浅い息を続けることで体調が悪くなったり、胎児への酸素の供給が少なくなったりする心配です。
胎児が生きるためにも、神経発達を続けるためにも、母体から届けられる酸素が必要になります。
その酸素の量が減れば、胎児期の神経発達に影響が出るのは自然なことです。


また、今胎児期を過ごしている子ども達、春以降生まれてきた子ども達の中には、背中を丸めた子、背中が固い子が多くなるような気がしています。
ただでも不安が強い妊娠の時期に、さらに不安を感じやすい世の中で多くのストレスを感じたと思われるお母さん達。
それは胎児に伝わり、恐怖麻痺反射(『人間脳を育てる』花風社 参照)が発動され続けている子も少なくないと想像できます。
たぶん、この年代の子ども達は、呼吸の面で課題を抱えている子が多いでしょうし、ここをより丁寧に育てていかなければ、全体的な発達の遅れとなって表れる子も出ると思います。


全国の実践家の人達は知っていると思いますが、東日本大震災のときにお母さんのお腹の中にいた子ども達の中にも、背中を丸めた子、背中が固い子、呼吸が浅い子、呼吸を止めちゃう子が多いことが知られています。
今から3、4年前でしょうか、2011年生まれの子ども達からの相談が他の年代と比べて極端に多くなった時期がありました。
そして、どのお子さんも呼吸と背中に課題を抱えていたのです。
ちょうどその時期はHSPなどが流行りだした時期でしたので、「もしかしたら、うちの子もHSP、極端に繊細な子?」みたいな相談も多かったです。
でも、驚いたときに息を止める子が多かったので、胎児期から続く発達の遅れが主だと感じました。


東日本大震災のときは、心理的なストレス、不安が大きかったですが、今回はそこにプラスしてマスク、酸欠、巣ごもり状態があります。
2011年生まれの子ども達と同じように、2020年生まれの子ども達が年中、年長さんになった頃、また一気に課題を持った子ども達からの相談が増えるかもしれないと心配しています。
もちろん今から、妊娠されているお母さん達に「呼吸を丁寧に育ててください」「背中の固さを取ってあげてください」とは伝えることができません。
しかし、これから数年後相談があったとき、2020年生まれの子ども達を「呼吸」「背中」という視点から見ていくことはできます。


最後に余談になりますが、幼稚園や保育園、学校の先生から、「ちょっとこの学年は違うよね」と相談されるのがやっぱり2011年代の学年でした。
出張先の土地でも言われるので、どの地域でも、どの業種でも、うすうす気づいている人達は多いようです。
そんなとき私は、「災害の記憶は世代をまたぐ」という話を思い出します。
親の世代が体験したことなのに、まだ当時生まれていなかった子どもが同じような場面で同じような反応を示すことがあるそうです。
遺伝子にその体験が組み込まれて次の世代に行くのかはわかりませんが、既に命を宿した胎児なら同様の体験をしたと考えても良いと思います。
発達は環境の影響を受けますので、世代特有の発達というものもあるでしょう。



2020年6月3日水曜日

【No.1069】"感覚的"に分かるために

栄養を摂取する面から、「危険の察知」という生き抜く面から、そして何よりも、そこが発達の始まりである面から『口』に注目しています。
小児科の医師の中には、乳児のおっぱいの吸い方を見て、発達のリスクを捉えるという人もいるくらいです。
飲む力が弱いということだけではなく、むせたり、吐き戻したり、口からこぼし続けるようなお子さんは、経過観察の対象になるとも記されていました。
確かに、私が関わるご家族の中にも、「おっぱいが上手に吸えなかった」と言われるお子さんがいらっしゃいます。
赤ちゃんは、胎児期に羊水を飲んだり、吐いたりして哺乳の練習をしますので、胎児期からすでに何らかの発達のズレ、課題が始まっていたのだと考えることができます。
ということがわかれば、育て直しの箇所が絞られてくるのです。
 
 
習慣として口に注目していますと、近頃、面白い関係性が見えてきました。
それは他人の感情が読めない子の中に偏食の子が多く、その偏食の根っこは味覚の課題と繋がっている、ということです。
 
 
味覚も育ち、育てるものですので、当然、そこに発達の遅れが出る子もいるわけです。
味覚が育っていないと、栄養の偏りに繋がり、それが神経発達、日々の生活にも影響を及ぼす可能性があります。
ですから私は、味覚を育てることも提案してきました。
 
 
すると、あるとき、「偏食が直った」と仰っていた親御さんが、「近頃、私が機嫌が悪いと、それに気づくようになったんです」という変化を教えてくれたことがありました。
最初は、「味覚は発達の土台になる部分だから、そこが育って社会性の発達に繋がったのだろう」と思っていましたが、気になって他のご家族、お子さんにも注目してみました。
すると、同じようなお子さんが複数いらっしゃって、どうも味覚と感情を読みとる、理解するが繋がっているような気がしたのです。
 
 
その答えは、ヒトの進化に関する本の中に記されていました。
「進化の初期で獲得した脳機能を転用させ、脳を大きくしてきた」
つまり、ヒトで言えば、生きるために必要な機能、呼吸や感覚、消化吸収などを人間らしい機能、発達へと転用してきたということです。
どうも、イメージでは、進化と共にヒトは高度な脳機能を獲得していった姿が思い浮かばれますが、そうではなかった。
もともとある機能を別のものへと転用しながら、その種類、働きを増やしてきたのです。
よく考えれば、ゼロから1を作るよりも、1を2にも、3にもしたほうが効率が良いわけです。
そうやって人類も、動物としての機能を転用しながら、言葉や社会性など、いわゆる人間らしい機能を獲得していったのでしょう。
 
 
身体的な"痛み"と心が痛むときの"痛み"、どちらも同じ脳部位が活動していることがわかっています。
そういえば、少し転んだだけで激しく痛みを感じる子は、心理的にも傷つきやすく、反対に身体的な痛みに鈍感な子は、意地悪されてもケロッとしていることがあります。
たぶん、こういった身体で感じる感覚と心理的な感覚はつながっていて、進化的に言えば、感覚の神経回路を、心理的、より高度な脳機能へと転用したのだと思います。
 
 
ですから、単純に「原始的な脳機能が育ったから、より高等な脳機能が育っていった」というのではなく、味覚が育ったため、転用先の脳機能が育っていったのでしょう。
調べると、苦味と嫌悪感が繋がっているそうです。
他にも、甘みがポジティブな感情と、酸味がネガティブな感情と繋がっているかもしれません。
私達は、身体的な感覚を通して、心理的な感覚、さらに他人の感覚・感情を知ることができるのだと思います。
 
 
自閉症の人の説明の中に、「他人の感情が読めない」などの記述をよく見かけます。
その文脈の流れでは、セオリーオブマインド、ミラーニューロンなどの脳機能の課題として述べられることが多いですが、もしかしたら、もっと原始的な脳の部位・課題とつながっているかもしれません。
自閉症の人の中には、そもそも自分の感情がわからない、自分の気持ちがわからない、といわれる方もいます。
そういった方の多くは、身体性の乏しさを抱えています。
 
 
身体面からのアプローチに関して「単なる健康法」と捉えている人もいるようですが、決してそれだけでも、それが目的でもありません。
ヒトの進化と発達は決して切り離すことができないのです。
700万年という長い時間をかけて、いや、動物で言えば、もっともっと長い年月をかけて進化し、ヒトとしての脳機能を獲得していったといえます。
つまり、身体という土台の上に、ヒトという発達が乗っかっている。
身体が十分に機能していなければ、育っていなければ、当然、ヒトとしての機能と生活に支障が出ます。
身体を通して社会生活をするのだから、人間として自立して生きていけるのだから、まずは身体を育てることが重要になります。
 
 
学校や職場、家庭生活など、人と人との関わりの中での課題があると、どうしても知識として、ルールとして教えようとしてしまいます。
でも、それは土台である身体の発達が整ってから。
感覚的に分からないことを教え込まれると、それはパターンの一つとして覚えるだけになります。
そういったパターン学習は、実生活の中でほとんど意味をなしません。
ですから子育て・発達援助では、「感覚的に分かる」ための感覚を育てていく。
もし、お子さんに感覚的な課題があるとしたら、その課題が他のどんな課題と繋がっているか、連想してみると良いかもしれません。
「障害特性」という言葉からは見えてこない解決の糸口が見えてくるはずです。