投稿

1月, 2021の投稿を表示しています

【No.1139】親御さんにこそ、身体アプローチ

イメージ
昨日、愛着障害を訴えられる親御さんがいらっしゃいますが、ほとんどの方は愛着障害というよりも、孤独感からの不安や迷いなどではないか、というお話をさせていただきました。 すると、そのあと、花風社の浅見さんから「他人軸とありえない恐怖感」を持つ親御さんが多いと感じているというお話がありました。 浅見さんだから同意するわけではありませんが、この「他人軸とありえない恐怖感」を持っている親御さんは実際に多いと私も感じていました。 実はこの点については、私はピンときません。 もちろん、そういった方達と多くお会いしてきましたし、愛甲さんの著書 『愛着障害は治りますか?』 、灰谷さんの著書 『人間脳を育てる』 で学ばせていただきましたが、私の実感として、どうして他人軸で生きるのか、ありえない恐怖感の意味が実感としてわかりません。 私は、子どものときから自分ですべて決めてきましたし、決めようとしてきました。 あまり他人がどうとかこうとかは考えていないというか、眼中にありませんね。 あと、直感的にまずいな、危ないな、ということは感じますが、なんとなくいつも不安感がある、というのは感じたことがありません。 ということで、真に愛着障害のことがわからないので、私は「他人軸とありえない恐怖感」を持つ人たちと接したとき、「心身一如」を頼りに助言させてもらっているのだと思います。 他人軸で生きる人は、背骨に課題を持っている方が多いですね。 背骨が固いというか、自由自在に動かすことができません。 あと、背面の意識が乏しいとおっしゃる方も多いと感じます。 やはり自分という軸=背骨、体幹が確立できて初めて、自分の意思で選択し、行動できるようになるのだと思います。 あとついでで申しますと、四六時中、スマホで検索し、一喜一憂している方は、首が前傾し、猫背の方が多い気がします。 首が痛い、肩がこる、しかも学生時代から、という方が少なくないです。 たぶん、私の見立てでは、首から下の感覚が乏しい、首で身体との繋がりが切れていまっている、という感じがします。 情報に振り回されて、決断ができない、という方も同じような雰囲気を感じます。 他にも、我慢できない、思わず言わなくても良いことをぽろっと言ってしまう(笑)方は、腹筋が弱い、腰が後傾しているような気がします。 腹に力が入らず、ぽろって感じです。 あとは考える前に口で

【No.1138】自分は「愛着障害では…」と思う

イメージ
近頃、気がついたのですが、親御さんのおっしゃる「紆余曲折」がぜんぜん紆余曲折になっていませんね(笑) どういうことかと申しますと、ほとんどの親御さんというのは、保健師(園の先生)からの指摘→診断→療育→特別支援教育…という歴史があり、途中から「なんかおかしいぞ」「このままでは良くならんぞ」と思ってグーグル先生に尋ねたところ、身体や言葉以前のアプローチ、根っこから育てる、という方法や実際に治った方達と出会うわけです。 そこまでの間が何年もあることから、以前は「もっと早い時期に出会っていたかった」とおっしゃる親御さんが多かったのです。 でも、最近は違います。 お話を伺うと、「発達の遅れを指摘されたのが数か月前です」とか、「診断がついたけれどもすぐに療育に行かず、自分で調べました」とか、一般的な(?)の親御さん達が通ってきた「療育、支援に期待からの幻滅」という流れを通っていないのです。 今の親御さんも「もっと早く私が見つけられたら」なんてことをおっしゃいますが、その"もっと早く"が年単位ではなくて、数か月単位なので、私もびっくりしています。 その要因として、やはりネット環境と、それを使いこなすのが上手な人達が子育て世代になったのが大きいと思います。 あとは、20年前くらいは今のような雨後の筍状態ではなく、まずは親同士、横の繋がりを強くしよう、そして社会に、行政に訴えていこう、支援サービスを勝ち取っていこうという状況だったのと、今の希望すれば利用できる支援サービスの環境との違いもあると思います。 これだけ利用できる資源が増えれば、別に親同士が結びつく必要はなく、各家庭で判断すれば良くなります。 そういえば、以前は著名な支援者と繋がっていることがステータスのような扱いになっていましたが、最近の親御さんからどこどこ大学の教授、〇〇医師なんていう話は聞かなくなりましたね。 著名な支援者&専門家とその地域の親の会の長が仲良くなる。 そうすると、講演会やあわよくば直接指導が受けられるようになり、だからこそ、その地域の長に対して若いママ達は忖度し、接待し、仲良くなろうとする。 著名な支援者>>>>>地域の長>>>若いママというピラミッドがあったために、どこの親御さんもお金と労力とプライベートを投げ打って、いろんなことに尽くされていました。 みなさん、言っていましたよ

【No.1137】診断と治療の関係

イメージ
先日の対談に臨むにあたり、DSM-Ⅳの作成委員長アレン・フランセスDr.が執筆した本『<正常>を救え』を読みました。 全体的な内容としましては、DSM-Ⅳがもたらした問題に対する嘆きと、DSM-5に対する警告です。 DSM-5が発表された同じ年に執筆された本ではありますが、まさにこの本の中で懸念されていたことがそのままアメリカでも、日本でも生じているという印象です。 本の帯には「2013年、診断マニュアルDSMが大改訂!このままでは健康な患者も薬漬けになる」と記されています。 治すための本ではありませんが、精神医学の実情を知りたい方、これから対峙しようとしている方は読まれると良いかもしれません。 この本の中に本筋とは違いますが、こういったことも述べられていました。 「診断基準ができてから治療法ではなくて、治療法が確立されてからの診断基準という流れだ」 本当にその通りだと思いました。 今の発達障害の診断基準って、診断するための診断基準になっていますよね。 診断基準というものは、本来、ちゃんと該当する人を見分けるためであり、じゃあ、どうしてちゃんと見分ける必要があるかといったら、適切な治療をするためですよね。 今の診断って、分類だけしてあとは薬か、福祉に丸投げ。 有効な治療法がなければ、標準療法なんていえるようなものがないのが現状です。 医師も、専門家も、支援者も、みんながみんな、「治らない」というのですから、治すことは目指していないわけですし、治療しないんだから治療法とやらも存在しないわけです。 じゃあ、治すことを目的としない医療って何しているの? 専門家や支援者は、何を目指して支援しているの?療育しているの? そこで出てくるのが「自立」という目的ではありますが、医療で処方された精神科薬を飲むことで自立できている人はどのくらいいるのでしょうか。 反対に、精神科薬を飲むことで、日常生活がままならない人はいないのでしょうか。 うつ病でいえば、精神科薬を飲むことで自殺率が高まるという報告もあります。 というか、そもそも精神科薬がその人の自立に寄与するという研究結果、調査結果があるのでしょうかね。 今回のコロナ騒動でもそうですが、医師や専門家という肩書だけで、内容やエビデンスあるなしに関わらず、盲目的に信じすぎじゃありませんか。 専門家、支援者の言う「自立」は、支援を受けなが

【No.1136】「心地良い」を科学する

イメージ
発達援助において「心地良い」は重要なキーワードになります。 「子どもさんが"心地良い"と感じる刺激、活動、遊びを行いましょう」 「親御さん自身も発達援助、子育ての中で"心地良い"と感じられることが大切です」 このように発達援助において、また心身の養生において「心地良い」は、その活動を続けるかどうかを決める中心的な指針となります。 しかし、この「心地良い」という言葉を聞いた人の中には… 「"心地良い"って感覚がわからない」 「そもそもなぜ、"心地良い"が重要なのか、発達に影響するのか」 というような感想や疑問を持つ方達もいます。 「エビデンスはないけれども、飲食店で感染が広がっている」 全国の保健所は、一人ひとり聞き取りをし、その情報一年分を記録し、所持しているわけです。 なので、「エビデンスは無い」というのは、データと感染の相関関係が見られなかったけれども、政治的な意図か、個人的な直感で言っている、という意味なんだと解釈できます。 私はエビデンスがないこと自体は、否定されるべきではないと考えています。 何故なら、この複雑系の世界において、すべての事象が証明できることなどはなく、また個人の見解や実例の中には、まだエビデンスを導き出すだけの手段、方法がないものも多数あるからです。 ただそのように考えている私ではありますが、今回の件は、ひと様の生活、人生を左右しかねない発言になりますので、たとえ専門的な知見と経験による直感&直観だったとしても、その根拠を示す努力と、今分かっているところまでの情報、データを示すべきだったと思います。 「じゃあ、"心地良い"の根拠は?」という問いが、私のほうにもやってくるでしょう。 実を言えば、最初は神田橋條治医師の受け売りの言葉で使っていました。 それから発達援助の中で、「心地良い」という指針を伝え、実践していく中で、確かにポジティブな変化が見られる子ども達、若者たちが多くなっていったのが流れです。 しかし、商売として行っている以上、このエピソードレベルで満足してはいけません。 必ず、その裏打ちされる情報、知識を得る必要があるのです。 で、その根拠となる研究、情報、知識が集まり、自分の中でも「心地良い」の根拠はこれだという段階まできているのが

【No.1135】2030年の未来

イメージ
ついこないだまで「2030年問題」という文字をいろんなところで目にしていましたが、コロナ騒動があってからはどこかにきえてしまったかのようです。 2020年代に入ったかと思えば、もう2021が始まっており、そのときまであと10年を切ったわけです。 10年なんてあっという間。 10年後の未来は、今の中学生より上の世代の若者たちが社会に出るときです。 2030年の社会で注目すべき点は、労働人口の減少であり、しかも労働人口が足りなくなるということだと思います。 足りなくなる労働人口が644万人という試算もあり、これはだいたい千葉県の人口くらいです。 人口の多い都道府県順で6位の千葉県丸々の人数が足りないとなれば、好き嫌いに関わらず、外国からの労働力に頼らざるを得ませんし、というか、既に外国人の労働力がなければ、この国は成り立たないわけですし、働ける人はいくつになっても働くことが求められる社会になるということです。 こういった未来は皆さん、肌感覚で分かりますし、実際の人数としても出ているわけです。 だから、コロナ騒動でワーワー盛り上がっている暇はなく、この2030年を迎える前に社会のシステムを変えていかなければなりません。 労働人口が減るということは、現在の国の豊かさを保つことは難しくなることにつながり、当然、民間のサービスだけではなく、公的なサービスの低下を招きます。 今回のコロナ騒動によって地方の財政は破たん寸前であり、既に予定していた事業の見直し、中止が行われているのです。 だから、「医療を守って、国が亡びる」みたいな発言を繰り返している人達は、勝ち逃げを図っている人か、未来を見ることができない人なのでしょう。 特別支援教育が始まったのは、2007年4月。 そのとき、既に「高齢化社会」の問題が上がっていましたし、このような未来はみえていたわけです。 だけれども、特別支援の世界はどのような方向に進んだのでしょうか。 私には、端から特別支援教育を受ける子ども達を将来の働き手に、とは考えていなかったように感じるのです。 確かに発達に遅れがあるかもしれない。 発達に凸凹があるかもしれない。 でも、そういった子ども達一人ひとりに合わせた教育を行うことにより、社会の中で働き、自立できる若者たちを育てようとするのが、その理念だったのではないでしょうか。 それなのに、やっていることとし

【No.1134】発症の前、発症のあと

イメージ
コロナ騒動も一年が経つのに、いまだに医療の専門家から示されるアイディアは、「三密の回避」「アルコール消毒」「マスク」です。 「ステイホーム」なんていうのもありましたが、今は家庭内感染の割合が一番高いので、むしろリスクを助長しているのでは、とも思ってしまいます。 とにかく私たちにできることは、人混みを避け、手洗いとマスクをし、ひきこもれ、というものなのでしょう。 でも、ここで不思議に思うのです。 ウィルスは私達の周りに常に漂っていまして、新型コロナだって日々、私達の体内に入っているはずです。 ですから、体内に入ったとしても発症しなければ良いのであって、発症したとしても鼻水や咳の段階で治してしまえば良いわけです。 とすれば、どうしてここに対するアイディアを言ってくれないのでしょうか、専門家は。 たとえば、奈良県医科大学の研究結果のような「お茶のカテキンがウィルス不活性化させる」などです。 「外から帰って来たらお茶を飲みましょう」 「職場や学校、飲食店では積極的にお茶を飲みましょう」 個人ができる発症予防と回復のアイディアを具体的に言ってくれたほうが、多くの人たちが助かると思います。 そんなことを考えていると、発達障害の人達に対する医療も同じだよなと思います。 グレーと言われる子ども達、軽度や自閉傾向、発達の遅れと言われるような子ども達は、例えるのなら発症前の段階だといえます。 まだ診断基準は満たいしていないけれども、その兆候や症状が確認できるという状態です。 ここで必要なのは、その子と家族が発症(診断基準を満たす)する前に治しちゃうアイディアではないでしょうか。 発達障害は病気ではないので、「ここを育てたら」「この辺を重点的に発達させたら、大丈夫ですよ」と言ってあげることが必要な専門家としての支援、援助だと思います。 でも実際は、診断基準を満たしていないのだから、「普通の子」であるのにも関わらず、発症前提でというか、発症した子ども達が受けるような療育や支援、サービスを受けさせようとします。 またくどいようですが、診断基準を満たしていない普通の幼児さん、小学生の子ども達に精神科薬を処方したりする場合もあります。 発達の遅れは薬による治療対象なのでしょうか? 1月23日の講演会に向けて医療関係の本や資料も読んでいますが、どうも医療というのは、「出た症状を抑える」というのが中

【No.1133】何も変化のない時期が、真の発達している時期

イメージ
お正月は本をじっくり読もうと思ったのが昨年の暮れ。 大量の本を買い込み、お正月を迎えたのですが、読んでいるうちに止まらなくなり、それから何度も書店に行っては本を買い足し、今日に至ります。 ジャンルは関係なく、気の向くままに。 時々あるんですね、このように無性に本を読みたくなる時期が。 今は入力する時期なのでしょう。 発達障害の診断もそうなのですが、子ども達の発達状態、評価は主に出力を見て判断されます。 発達、知能検査には言語理解など、どのくらいの言葉の理解があるかを調べるものがありますが、これも単にお子さんが聞いて分かっているだけではなくて、聞いて理解し、それを表出できてはじめて「理解できている」と評価されるものばかりです。 ですから、「検査結果では、言葉の理解が乏しい、難しいと判定されたけれども、家では問題ないんです」と仰る親御さんが多いのです。 動作を含め、どのくらい表出ができるかで診断や発達、知能指数が決められてしまうのが現状です。 いくら「うちの子、わかっているんです」「〇〇という行動ができる能力は持っているんです」と訴えても、第三者から見て、それが確認できなければ、「ない」という評価になります。 では、この表出されていない内なる言語、理解、動作、能力は本当に「ない」と評価しても良いのでしょうか。 言葉の遅れがある子に対して、りんごを見せて、「りんご」と言わせるような出力の訓練法があります。 言葉じゃなくて、りんごの絵カードを使って表出させようとするのも同じですね。 でもこれは人間の子がどのように言葉を覚えていくか、またヒトがどのように進化し、言葉を習得してきたかをみれば、誤った方法だというのがわかります。 赤ちゃんは胎児期から母親の声(実際は音律、音程など)を聞き、出生後は周囲の人の言葉を聞いて、そして1歳を過ぎたあたりから表出が始まります。 進化の過程をみても、ヒトが言葉を使い始めたのはつい最近の話(7万年前)であって、それより前の祖先たちは身体、動作でコミュニケーションをとっていたわけです。 となれば、言葉の表出の土台は身体と動作であり、その前段階は意味の理解だということがわかるのです。 同じように、特定の動作、年齢相応の動作ができないというのは、その前段階である準備が整っていないということになります。 はさみが使えない子に、はさみを持たせてたくさん紙

【No.1132】症状が重くなってから始まる医療、の前に

イメージ
発熱がなくて、咳も鼻水も出てなくて、身体のだるさもない。 そんな普通に生活している人が、病院に行っても薬は貰えないはずです。 というか、「何しに来たんですか」と怪訝な顔で帰されたと思うんです、今までの病院は。 ところがどっこい、新コロは違う。 何も症状がない人が入院させられたり、自宅療養や待機をさせられてしまう。 挙句の果てには、他人から批判され、謝罪までさせられてしまうなんてことも。 ずっと無症状者は医療の対象ではありませんでした。 でも、ルールを変えたから、無症状者も医療の対象になった。 そもそも2020年1月に出た論文、「無症状者が他人に感染させる」という根拠となった論文だって、ある症例(成人・中国人)をもとに執筆されたもので、まとまった人数を調べたものではありませんね。 その「無症状者」とされていた人だって、あとから「解熱剤を飲んでいた」ことがわかり、本当に無症状だったかも今となっては怪しいわけです。 「無症状者が感染させる可能性がある」というのが、どの程度、どのくらいの割合で感染させるかもわからないまま、世界に広がり、マスコミにとっておいしいネタにされてしまったのが、騒動の大元だと思います。 無症状者がまったくゼロではないとしても感染させないのなら、「新しい風邪が流行ったね」くらいで終わっていたでしょうに。 新コロの場合は無症状者も医療対象になってしまいましたが、基本的には症状があって初めて医者と患者の関係になり、治療が開始されるわけです。 それは発達障害の子ども達もそうで、基本的には一定数症状がある=診断がついたところから治療や療育、支援が始まります。 ということは、ある程度、症状が濃くならないと治療が始まらない、症状が複数現れないと療育が始まらないのです。 未診断や軽度、「サービスを利用するために無理くり診断名をつけた」というような子ども達と関わることの多い私から見れば、それって症状が重くなってからやり始めるという意味だから、「根本から解決しづらいよな」「課題がクリアされるまで余計に時間がかかるよな」と思うのです。 周りに火花が散っている状態では消火せずに、建物に火がつき、燃え上がった瞬間、消火活動を始めるようなイメージです。 そもそもある程度、症状が濃くなるまで、集まるまで待ってからの診断ですので、診断を外そう、外れるところを目指そうと考える医療従事