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【No.1373】いつの間にか、人間一般の、発達障害児の育て方を求めていたりして

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みんな、ハウツーが大好き。 「どうすれば、感覚過敏が治りますか?」 「どうすれば、自傷行為が収まりますか?」 「どうすれば、治りますか?」 こころがハウツーを求めるとき、それは「一刻も早くこの状況から逃れたい」というメッセージ。 もちろん、その「一刻も早く」の主語は”私”。 私が今の状況に耐えられないから、治ってほしいし、治したい。 だから私と我が子とのずれが生じて「治る」から遠ざかっていく。 遠ざかるからこそ、さらに新たなハウツーを求め、負のスパイラルに入り、結局、「この子の発達障害は治るわけないんだ、だって生まれつきの障害だからね、だって重度だからね」と自己完結に至る。 そういった自己完結できた親御さんが、自分の脳内お城を崩されないように、せっせと「発達障害は生まれつきの障害で治るとかそういうもんじゃないんです」とニューカマーの親御さん達に善意の皮を被って近づいていく。 医療だけじゃない「早期発見」、別名「先手必勝」。 しかし同じハウツーを求める親御さんでも、この負のスパイラルに入らない人たちがいます。 それはそのハウツーを外に求めない人。 自分の内側、育ってきた道。 そして自分の親とのつながり、祖先とのつながり、故郷とのつながりの中に「どう育てればよいの?」と尋ねることができる人はハウツーではなく、「我が子をよりよく育てる方法」へと昇華させることができる。 何が違うのか? そこに主体である我が子の、唯一無二の存在があるかどうか。 専門家が唱える方法は、人間一般における共通点でしかない。 発達障害の専門家も、その専門家の中にある一般化された発達障害児像があり、そのいわゆる偶像に対して「効果がある」と述べているに過ぎないのです。 「この症状には〇〇が効きます」と「〇〇くんのこの症状には〇〇が効きます」との違い。 その「〇〇くんのこの症状」はその子単体で生じているものと、親である自分や祖父母、きょうだい、親戚にもみられるものがあります。 前者の場合は人間一般、発達障害児の多くに、で解決できることもあるが、大部分は後者であって代々のつながりの中で顕在化した症状ばかりです。 つまり、専門家から出てくるハウツーの守備範囲はごくわずか。 そのごくわずかを集めてきて、「ああ、治らない」というのは当たり前の話。 ハウツーの問題ではなく、そのハウツーに過度な期待をしたまで。 一言

【No.1372】治ってほしくない>>>>>治したい>>>本気で治ってほしい

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みなさん、こんにちは。 久しぶりの更新になりました。 最近は息子たちの少年野球のお手伝いが忙しく(笑)、先週も土日、審判をやっていたら真っ黒けになってしまいました。 私は高校時代で体中からゲボが出るほど硬式野球をやりましたので、もうそこからは「観る専門」ということで生きてきました。 だから息子たちに野球を教えることも、野球をやらせたいとも思っていませんでしたが、まさか二人とも野球をやるなんて、そして私が野球の審判をやるなんて。 審判はプレイヤーとは違った難しさや緊張感がありますので、やってみると楽しいですね。 「難しい」と思えるものほど燃えるタイプなので、YouTubeで「野球の審判講座」などを視聴し勉強しています(笑) 発達障害の方面でのご報告と言えば、やっぱり本気で治したい人は「少数派」ということですね。 口では「治したい」「治ってほしい」と言っていても、その言動からは「治ってほしくない」「治ったら(自分が)困る」というのが伝わってきます。 だって、みんな、根本には目を向けないから。 目を向けようとしたら、脊髄反射で逃げようとするから。 典型的なのが「この子の発達障害を治してほしい」という言動ですね。 間違ってはいけないのは、この子だけに発達障害があるわけではないことです。 もっといえば、発達の課題はその子と周りの共同作業です。 いくらその子に素因があろうとも、周りの環境が適切なら発達の後押しはできるわけで、また反対にいくらその子に素因がなかろうとも、周りの環境が不適切なら発達は遅れていく。 こういったことは本能的に親御さん、とくにお母さんは気付いているけれども、「いやいや、私の課題じゃなくて、この子だけにアプローチしてほしいの」と逃げてしまう。 自分の過ち、過去に向き合うことができなければ、我が子は治っていかない。 だって、自分と我が子はつながっているから。 そもそも発達障害は、というか、発達が遅れた状態は周りにいる親御さんや支援者が臨んでいる状態だというのは忘れてはいけないことです。 なので、やっぱり「治る」ってことは、親御さんが過去と今と本気で向き合うことなんだと思うのです。 どんなに辛くても、見たらゲボを吐きそうになったとしても、自分のクソなところ、ダメなところ、醜いところと向き合って、いったん落ちるところまで落ちる。 そして「陰極まれば陽となる」で、ど