2019年1月28日月曜日

運動発達のヌケも世代をまたぐ

ハイハイをやらずに立った子。
実は、その子の親も、赤ちゃんのとき、ハイハイを飛ばしていた、なんてことはよくある話です。
親子2代で、ハイハイを飛ばす。
こういった運動発達に関しても、遺伝が疑われることもあります。
我が子が特徴的なハイハイをしているのを見て、「私もそんな感じだったって聞いたことがある」なんて思いだすことも。


なので、若者たちの相談に乗るときは、将来、親になったとき、自分が飛ばした発達のヌケを同じように子どもも飛ばす可能性があるということを伝えるようにしています。
また、こちらは主に子どもさんの場合ですが、兄弟がいる場合、その兄弟にも、発達援助を見てもらい、どういった理由で何を育てているのか、説明するようにしています。
すると、若者たちも、兄弟児たちも、真剣に聞いてくれます。


もちろん、遺伝的な観点から、お伝えした方が良いと思っている部分もあります。
しかし、それよりもまず知ってもらいたい、頭の片隅にでも治っていくんだ、あとからでも育つんだ、育てていけばいいんだ、ってことを残してもらいたい想いの方が強くあります。
そうすれば、将来、もし子どもが生まれたとき、早く立って歩くことよりも、発達段階を一つずつやりきることが大事だと分かったうえで、子育てをしてくれるかもしれません。
もし、運動発達を飛ばすようなことがあれば、「足りないかも」と感じるようなことがあれば、そこですぐに気づくことができ、発達の後押しができるかもしれません。
そうすれば、以前ブログに書いたように発現する前に治っている、治す時代がやってくるのだと思います。


若者は、自分の発達のヌケを育て直していく過程で、治るを実感し、変わっていく素晴らしさを実感しています。
また兄弟児たちも、間近で兄弟が変わっていく姿、発達、成長してく姿を感じることができています。
彼らが大人になったとき、親になったとき、治ること、育むことの素晴らしさを我が子に、同世代の親たちとその子達に伝えていってほしいと思います。


未来の大人、親たちをイメージしながら今の仕事をすることも、どういった振る舞い、発言をするかも、大事な姿勢であり、役割だと考えています。
それが結果的に、未来の子ども達の発達を後押しすることに繋がるからです。
私は直接、未来の子ども達の援助はできないけれども、今の若者たち、子ども達を通じて後押しすることは可能だと思っています。
今の若者たち、子ども達が、未来の社会を作っていく。
子どもの発達する力を信じ、育んでいける未来には、発達障害という診断名の価値はなくなっていると思いますね。

2019年1月27日日曜日

情報量で優位さを持てなくなった専門家

若い世代の人達とお話をすると、元気が出てきます。
自分の意見をちゃんと持っているし、「絶対に治してみせる」「自立してみせる」「幸せになってやる」、そんな強い気持ちがひしひしと伝わってくるからです。
自分で立てた目標のために、調べ、行動する姿からは、明るい未来、より良い社会を感じることができます。


「ゆとり世代」などと、どちらかといえば、ネガティブな感じで語られることが多い世代ですが、全然そんなことはなく、むしろ、その主体性と行動力は素晴らしく、見習わなければならないと思います。
だいたい、「ゆとり世代」などと言っている人間は、自分が社会からどんどん取り残されていくことを感じていて、その反動として、自分より下の世代を揶揄しているだけですね。
自分の不安を、下の者を想定することで安心しようとする、といった古典的な対処法。
自分が常に向上心を持って成長できているのなら、「〇〇世代」などとクダラナイことを言って、自分を慰める必要はないのです。


今の若者たちも、いずれ結婚し、家族を持つことでしょう。
そういった世代の人達に、発達に遅れのある子どもが生まれたとします。
そのとき、彼らはどういった行動をとるでしょうか。


今の若い親御さん達もそうですが、発達に遅れがあるなしに関わらず、子どもの発達、子育てについてネットで小まめに調べています。
保健師さんが気づく前に、発達障害に気が付いていた親御さんが多くいます。
健診を待たずとも、手元で情報を得られますし、それが当然の環境で育ってきた親御さん達。
情報量だって、ベテラン保健師さんよりも多い可能性だってあるのです。


以前ですと、持っている情報量は、圧倒的に専門家の方が多かったといえます。
だから、論文、原書を平気で誤訳したり、意訳したり、自分の都合の良いように端折ったりしても、大丈夫だった。
だって、一般の人は自分で調べる手段がなかったから。
江戸や明治と一緒。
留学した人達が言ったことを、権威が言ったことを、御上が言ったことを、「ははぁ~」と聞いて、それに従うのが一般庶民であり、ムラ社会で生きる術だった。


しかし、現在は、調べようと思えば、誰だって調べられる社会です。
圧倒的、優位さを持って抑えられていた情報量において、専門家も、素人も、違いはなくなってきました。
むしろ、素人の方が、新しい情報を持っている可能性だってあるのです。
そうなれば、情報を持っているかどうか、つまり、専門的な勉強をした、免許や資格を持っている、だけでは、支持されないし、そこが評価対象、信頼とはつながらなくなったということです。
知識オタクが専門家を名乗れなくなったのです。
知識勝負ではなく、実力勝負。


発達障害に関して言えば、これからますます結果が求められるようになるでしょう。
つまり、行っても行かなくても変わらないところには、誰も通わなくなる。
ただ知識を持っているだけで、「様子を見ましょう」「成長と共によくなりますよ」としか言えない専門家は淘汰されていくはずです。


自分が立てた目標、願いをとことん、どこまでも果てしなく調べ、追及することが身についた人達には、「地元には、良い施設がないけれども、仕方ないから通います」「〇〇ちゃんちが通っているから、うちも」なんてことはあり得ません。
情報はボーダレスなので、地域にこだわる必要はありません。
それに、得た知識を元に行動できる人達ですので、自分で色々やってみようとする。
すると、専門家に頼らずとも、地元の支援機関とつながらずとも、自分たちで治していく人が増えていくでしょう。


みなさんの地域で、でかい顔をしている専門家の姿を思い浮かべてみてください。
その人達は、5年後、10年後、そのままトップでい続けることができるでしょうか。
年齢的なものもそうですし、今の10代、20代の若者たちが親となったとき、その人達のニーズに応えられるようなものを提供できているでしょうか。
その世代の親御さん達に対し、堂々と「治りません」と言えるのか、対処法だけで満足させられるのか、「一緒に建物を青くしましょう」と言えるのか…。


どこの地域とは言いませんが、相変わらず、「治るなんてインチキだ」「あそこを利用したら、うちを利用させないぞ」「文句があるなら、仕事(利用者)を回さないぞ」など言っている。
昭和の任侠映画ですかって感じ。
それにおびえて、「この地域で生きていくなら」「将来的にお世話になるから」と顔色を伺い、同時に親御さん同士で飛び抜けないようにけん制し合っている。
「私も辛いけれども、あなたのうちも辛いのね。だったら、私は安心」


だから私は、若い世代の親御さん達、これからの世代の人達の方を見て、そしてその人達のニーズに応えられることを目指していこうと思っています。
昨年あたりから、2歳、3歳の親御さん達からの相談、援助が増えました。
地域だって、道外ばかり。
自分で良いと思ったものに、どんどん飛び込んでいける親御さん達です。
ですから、若い世代の親御さん達に、家庭での発達の後押しの仕方、育み方をお伝えすることで、どんどん治していく、それこそ、DSM-5で記されているように、『diagnosis is no longer appropriate』な状態にまで育っていくことを目指していくのです。


その地域で治した人がいても、「もともと違った」「軽かった」といえば、一応、抑えられていた時代があったわけです。
でも、今は、一家族が治せば、同じ時代を生きる、いや、未来の子ども達、家族たちの希望にもなれる時代です。
ブログやツイッターなどのSNSで、どんどん発信していけるから。


これから10年も経てば、治った子ども達、大人たちの情報は、今よりもずっとすぐに見つけられる、検索に引っかかるようになるでしょう。
そうなれば、治った子ども達、治した家族たちの間で、情報交換がなされ、より良いものが作り上げられていくはずです。
だって、自分で目標をたて、それに必要な情報を集め、そこから行動や創造をしていける世代の人達だから。
なので、私の賞味期限も、残すところ10年なわけです。
治ることが、家庭で、子育ての中で治っていくのが自然になれば、知識量でも、技術の質でも、専門家のニーズはなくなるのです、私は待ちどおしい!

2019年1月26日土曜日

興奮→抑制の順番で育つ

幼児期から、座る練習をしたり、指示通りに動ける練習をしたりするのを見ると、悲しくなります。
だって、子どもは小さな大人ではないのですから。
大人と同じ基準で、大人と同じ視点で、子どもが育てられている。
「小学生になったら、ちゃんと座っていられる子の方が良いから、今のうちに練習しておこう」
「文字は少しでも早く理解している方が、後々、勉強でも有利になる」
そんな風に、早く早くと急かされ、「大人になって必要はことは今のうちに」と先に先にと背中を押される。


こんな雰囲気は、発達障害の子ども達が受けているソーシャルスキルトレーニングでも感じます。
「この子が話を聞けないのは、話を聞くことの大切さ、意図がわかっていないからだ」
「先生が話をしているときは、どのような振る舞い方が良いのか、教えてあげよう」
そんな風に、教える人間が考える望ましい生徒像に近づけようと指導がなされる。


巷のSSTがうまくいかないのは、子どもの視点、発達の視点が抜け落ちていることが大きな理由として考えられます。
でも、もう一つ、「興奮ではなく、抑制ばかり」という育ちも関係していると私は思います。


幼児教育を見てもそうですし、特別支援の中で行われているSSTもそうですが、どうも抑制することばかり求め、教えているような気がします。
自分の本能、欲求、思いよりも、それを律することばかり。
しかし、それは本来の子どもの発達とは逆だと思うのです。


確かに、成長と共に、自分を律する力、コントロールできる力を身に付けていくことは必要なことです。
でも、だからといって、抑制することだけを教え、訓練しても、そういった力は身についていきません。
何故なら、発達の順番から言えば、大いに興奮する体験をやりきることで、思いっきり力を出せるようになったあとで、抑制の力が育っていくからです。


興奮→抑制という流れがあるのに、その流れを切って、抑制ばかり訓練する。
これもある意味、興奮という発達段階のヌケを人工的に作っているということ。
だから、幼少期から抑制ばかり教わり、しっかり興奮がやりきれなかった子どもは、大きくなっても自分を律する力が育っていかない。
お行儀の良い幼稚園に行っていた子が、小学校で暴れる、家ではわがまま放題という話は珍しくありません。
これも、ある意味、発達のヌケを自ら育てようとしている行動ですね。


抑制系のSSTは、発達のヌケを持った子ども達との相性は最悪だといえます。
発達の順番で言えば、自分を律する脳の部位は、最後の最後で育つからです。
つまり、発達のヌケがあるため、脳の前頭葉(自分を律する働き)がまだ十分に育っていない。
それなのに、律すること、抑制することを指導される。
例えるなら、まだジョギングすらままならないのに、マラソンを走れと言っているようなもの。
できないのは当然なのに、それでいて指導者からは、「どうしてできないんだ」「それも障害特性か」「結局、“重い”からね」「家庭での過ごし方に問題でも」なんて言われてしまう。


発達のヌケ、特に言葉以前の段階にそれがある場合、まずそこをしっかり育て直し、埋めていかないと、脳の前頭葉は十分に発達していけません。
ですから、発達にヌケがある子は、同世代の子ども達と比べて「幼い」と言われたり、そういった印象を持たれたり、実際に幼かったりするのです。
抑制は最後に育つ部分で、それよりも先に発達のヌケを育てる必要があるのに、SSTで抑制ばかりが指導される、また学校教育も抑制に重きが置かれる。
だから、いつまで経っても、いくらSSTをやろうとも、自分を律する力が育っていかない。


運動発達だけではなく、興奮→抑制ですとか、数の概念→言葉の概念ですとか、親指の発達→言語の発達ですとか、いろんな順番、繋がり、関連性があるわけです、発達には。
ですから、「これができないから、これをとことん教えよう、訓練しよう」というような考え方では、うまくいかないことが多いのです。
それがうまくいくのは、ある程度、全体的な発達が完了した人の場合。
発達にヌケのある子や、大人の都合で十分に子ども時代、発達課題、遊びをやりきれなかった子、もちろん、小学校低学年くらいの子ども達は、一人ひとりに合った発達、土台作りが何よりも大事です。


子どもは子どもの発達があります。
そして、その発達にも順番があります。
その発達を一つひとつやりきることが、より良い成長、自立への道とつながっていくのです。
子ども達は、小さな大人ではありません。


 

2019年1月25日金曜日

「〇〇“だけ”で」という言葉が漂わす寒々しさ

「遊ぶ“だけ”で」「運動“だけ”で」「栄養“だけ”で」
「治るはずがない!」「良くなるはずがない!」と言う人がいます。
こういう言葉が出てしまう背景には、「自分はいろんなことをやったけれども、ダメだった」という無念さや喪失感、敗北感などの思いがあって、「そんなはずはない」と言わなきゃやってられない、言うことで何とか過去と現在と向き合えている、自分自身のバランスが取れている。
そんな風に捉えていました。
でも、そういう思いだけの問題ではない人もいるような気がしてきました。


私は、この“だけ”という言葉に引っかかりがありました。
“だけ”と聞くと、無機質で、血の通っていない冷たさを感じるのです。
どうして、そこに冷たさが漂うのか。
子どもの発達、成長を諦めている感じがするための冷たさ…。
でも、それよりも、もっと底冷えするような冷たさなのです。


“だけ”という言葉には、その大人の子育て感、子ども感がにじみ出ていると感じます。
「プロテイン飲むだけで、治るわけないだろ」
もちろん、素晴らしい発達、成長をみせているご家族、治っていくご本人たちは、いくらプロテインが発達の後押しになったとしても、それだけを飲んでいるわけではありません。
栄養面からも、運動面からも、遊びや学習面からも、いろんな試行錯誤をし、より良い子育て、育みを日々実践され、積み重ねられています。
それに発達に関わることだけやっているわけでもありませんし、むしろ、発達の後押しに一生懸命なご家族ほど、日々の生活や家族での思い出作り、自分たちの趣味、楽しみを味わっていられるように思えます。


「〇〇が良かった、効果があった」という発言を、「〇〇“だけ”で治った」という風に変換してしまうのは、その人自身の脳内において。
つまり、子育てに効率性を求めているわけです。
少ない労力で、大きな成果。
そんな論理を、子育てに、子どもの姿に当てはめようとしてしまっていること自体、寒々しさを感じてしまいます。
そういえば、こういった「だけ」と言ってしまう人は、一つの療育や療法、特定の医師や専門家にこだわっている場合が多いですね。


子育てに、“だけ”は存在しません。
子どもも、大人も、たくさん試行錯誤していく過程に、発達があり、成長があり、自立があるからです。
「〇〇療法だけやっていれば、子どもは良くなる」
そこには子育てではなく、子どもが伸びやかに成長してほしいという願いではなく、あるのは、ただ大人のエゴのみ。
まるで、子どもを投資かなにかと捉えているのか、自分自身をより良く見せるためのアクセサリーの一つなのか、はたまた自分が仕事や家庭、人生でうまくいかない理由、言い訳に使っているのか。


「だけ」には、血の通っていない関係性が表れていると思います。
そして、冷たさの本質とは、その言葉が出てしまう人にある。
そうです、自然と使ってしまっている人、違和感すら覚えない人というのは、自分自身が親から、大人からモノとして見られた、育てられた原体験があるのです。
親の見栄のために、受験勉強を頑張った、大きな会社に入った。
親の世間体のために、自分がやりたいことを抑えてきた、親の願いが自分の願いと、自分自身を騙し生きてきた。
そういった人間としての悲しさが、いつしか、子どもを見る目となって表れてしまっている。
だから、「〇〇だけで」と言う人を見ると、底冷えするような寒々しさを感じてしまうのだと思います。


ずっと私は、一つの療法や支援、支援者、支援機関にこだわる人達の意味がわかりませんでした。
子育てとは、いいとこどりですし、子どもは日々変化するものなので、それに合わせてカスタマイズしていく必要があるからです。
機械を組み立てているのではないのですから、同じ手順、同じ環境で、黙々と淡々と、では子育てができるわけがありません。
でも、モノのように育てられた人というのは、我が子にも、それを当てはめてしまう。
モノなら、少ない労力で、良いものができる方に価値が生まれるから。


人とモノの関係性では、治るが想像できないのも無理がありません。
自分の想像を超えて、親の意向を飛び越えて変わっていくことが理解できないからです。
医師や専門家など、権威は親の象徴。
親を疑うという視点を持たずに、持てずに生きてきたわけです。
親の言う通り、親のために、歩んできた人生。
ある意味、モノとして自分の価値を高めることに心血を注ぎ、親に気にいられることが愛情だとしてきたのです。
だからこそ、医師などの権威が言った「治らない」は絶対であり、人と人との関係性で育まれる子育てがイメージできないのだと思います。


血の通った人と人との営み。
一方向ではなく、双方に刺激し合い、育み合うのが、子育て。
子どもや子育てに関することなのに、「〇〇だけで」という言葉が出てしまう人を見ると、子だけではなく、親に対しても、悲しみを感じてしまいます。

2019年1月23日水曜日

発達とは、「気持ち良い」の探索

せっかくお問い合わせいただいたのに、せっかく出張のご依頼をしてくださったのに、断らざるを得ない状況が続いています、申し訳ございません。
本当に生意気だし、自分でも嫌になってしまいます。
私一人の個人経営ですし、共働きで子どももいますし、函館からどこかに行くにしても、一度羽田をバウンドさせないと行けませんし…。


このように物理的に難しいケースもありますし、何よりもお金の負担が大きくなってしまうことが気になってしまいます。
正規の旅客券に、宿泊場所もどこでも、となれば、良いのかもしれません。
でも、皆さんが働いて得た大事なお金ですし、「我が子のために」という想いの詰まったお金ですので、そういった計算はできません。
一番安いチケットで、一番安いホテル。
物事には妥当な値段というのがあります。
依頼してくださったご家族が納得してくれる金額があり、私自身、仕事をする上で気持ちよく仕事ができる金額があると思っています。


私が訪問し、直接的な関わりをすれば、その子の発達のヌケが忽ちに埋まってしまう、言葉が出なかった子がしゃべるようになる、長年抱えていた生きづらさから解放される。
そんなことができるのなら、金額で悩むことはなくなるでしょう。
でも、実際、私が行っているのは、直接的なかかわりというよりも、後方支援。
自分自身で課題の根っこを掴み、そこを自ら育んでいけるような後押し。
親御さんが手繰り寄せられなかった課題の根っこを一緒に見つけ、我が子に必要な育み方を提案、伝授することで、より良い子育てを作り上げていくための後押し。
本人、親御さんに主体があり、育てる力があるのですから、私は補助であり、考えるきっかけ、アイディアの一つでしかないのです。
ですから、その役割には、適正価格が存在します。


親御さんが変わり、それによって子どもが変わっていく。
子どもがより良く変わっていく、発達、成長する姿を見せてくれる。
それがまた親御さんのエネルギーとなり、より良い育みにつながっていく。
そういったポジティブな循環が家族の中に生まれると、私は自分の役割が果たせたと感じます。
こういったポジティブで、お互いを高め合えるような空気感が生まれると、自然と治る道を進むことになり、その先には自立が待っているからです。


訪問すると、なんらかの要因で、親御さんが一歩を踏み出せていないこともあります。
親御さんも、子どもが変わる様子が見られれば、頑張っていけるのに、もう一歩、もう一歩と進んでいけるのに、それができない。
発達の根っこを掴み損ねている場合もあるし、手前の部分、言葉以前の段階にあるヌケが埋まっていないために、後押しが実を結んでいない場合もあります。
そうなると、子どもは変わらないし、親御さんも試行錯誤の手が徐々に止まってしまいだす。


だからこそ、自分みたいな仕事があるのだと思います。
発達の根っこを掴み損ねているのなら、一緒に掴んで、お渡しすれば良い。
発達のヌケがあるために伸びていけないのなら、そこを埋め、育て直す方法をお伝えすれば良い。
そうやって親御さんが一歩を踏み出す、変わっていく後押しができれば、自然と子どもさんも変わっていきます。
親御さんが行った育みで、子どもさんがちょっと変わった、少し成長がみられた。
それが何よりも、親御さんのエネルギーとなる。
私みたいな他人が、いくら言葉で励ましても、気持ちよくさせようと接待しても意味はないのです。


親が変わるから、子も変わる。
子が変わるから、親も変わる。
こういったお互いを高め、成長し、喜びを感じ合える家族の歯車が回っていくことこそ、理想的な形だと思います。
最初からバチッと我が子の発達のヌケを掴める親御さんはそんなにいないはずです。
なので、その最初の一歩の背中を押す。
そして一歩踏み出し、歩き始めたら、そこからはその家族が主役の物語が始まるのです。
よって、私の訪問は、その日が最初で最後。


私自身も、最初で最後の訪問だと考えているからこそ、すべての依頼にお応えしたいと思っています。
ですから、これからは今までの反省をもとに、出張の依頼があった場合は、HPやTwitterなどでアナウンスするようにしますし、過去にお断りしたご家族には移動できる範囲の場合、ご連絡するようにします。
複数のご家族で割れば、みんなが気持ちよく、その日を迎えることができるからです。
こういった気持ちよい雰囲気、空気感を作るのも、大事な発達援助。
気持ちよく始められないと、子どもさんの“気持ち良い”が掴めなくなってしまいます。
発達とは、「気持ち良い」の探索なのですから。

2019年1月21日月曜日

発達のヌケを育てることに、どんな副作用があると言うのだろうか

タンパク質の量を増やしたり、鉄を意識的に摂ったり、食事+サプリで栄養素を補助したり…。
食事の面から子どもの発達を後押ししようとされている親御さん達がいます。
ヒトは生き物ですから、食べ物が必須なわけで、その食事の量と質が神経発達に関わるのは、当然だといえます。
それなのに、「栄養面からのアプローチのエビデンスは?」と言ってしまう人もいます。
家庭での食事にエビデンス(笑)
どっかの誰かが出したエビデンスとやらがなければ、食事も作れない人がいるのかと思うと、それはもうギャグでしかありませんね。


家庭での食事にエビデンスが必要ないように、家庭での子育てにだってエビデンスが必要なわけはありません。
「専門家の指示通りに、療育機関と同じように、家庭でもやらなければならない」
「家庭での取り組みは、一度、専門家に相談してからじゃないと、やっていはいけない」
こういった類のことを信じている人は、少なくないように感じます。
人生で最も揺れ動く時期に、「専門家」という既存のイメージから、冷静な判断ができず信じてしまう人がいるのも分かります。
でも、普通に考えれば、親御さん達の願いは、この子に合った子育てがしたい、より良い子育てができるようになりたい、というもの。
決して我が子の支援者になる方法を知りたいのではありません。
我が子の支援が上手になる方法を知りたいのではありません。


支援者というのは、利用してもらうことで成り立つ仕事です。
子どもが自立できたとか、親御さんが主体的に子育てができるようになったとか、そこは評価になりません。
シンプルに回数が大事。
1回で終わる人より、10回利用してくれる方が良いお客さん。
10回よりも定期的に一生涯、せめて自分が仕事をしている間は利用し続ける人が何と有難いことか、といった感じです。
だから、土足でズカズカと、家庭の子育てに踏みこんでくるのです。


たとえば、普通の子の家庭に、「あなたのおうちの夕食にエビデンスはあるのですか?」と言う人がいますか。
「あなたの子が、タンパク質を多く摂るのは間違っている!」
「ちゃんと専門家に確認してから、トイレットトレーニングしているの!?」
「その勉強の教え方、資格でもお持ちですか~」
そんなことを言ってくる人がいたら、怒るのは当然ですし、いちいち聞く耳など持たないでしょう。
それが、子に発達の遅れがあると分かった瞬間から、同等のことを支援者がしてくるのです。


親御さんにとって大事なのは、評価すべき部分は、子どもの発達のスピードです。
ある取り組みをしたあと、子どもの発達のスピードが加速したと感じれば、それは良いアプローチ。
子どもは、何もしなくても発達するエネルギーを持っていますので、普通にその子のペースで発達していたら、それは効果がないアプローチか、子の発達を邪魔しないアプローチということ。
で、最悪なのが、子どもの発達のスピードが止まった、逆に悪い方に進んだというアプローチ。


「ずっと同じ課題を抱えている」というようなご家族がいますが、「それは発達障害だから仕方がない」でも、「進歩も、後退もしていない」でも、「現状維持ができています」でも、ありません。
睡眠障害とか、感覚過敏とか、問題行動とか、何年も同じ状態が続くということは、普通のアプローチではなく、悪いアプローチということです。
だって、子の持つ発達する力、自然治癒力、環境との適応力が発揮できていないのだから。
足を引っ張っているのなら、別の方法、アプローチへ転換すべきです。
その転換ができないとしたら、周囲の大人に問題があるということ。


「発達のヌケを育て直す」「発達の遅れを育んでいく」というのは、普通の子育てです。
発達のヌケを育て治すために、運動面からアプローチしたり、食事を工夫したり、遊びや刺激を試行錯誤したり。
それらを行うのに、どうして専門家の指示、確認が必要なのでしょうか。
精神科薬のような副作用はないのです。
刺激が統制された環境への適応も、指示なしでは動けないようになることも、介護しやすくなるためのSSTを身に付けてしまうこともないのです。


やったらやっただけ、子どもの成長の糧になる。
やったことが子に悪影響を及ぼすとしたら、それは子どもの成長を止めてしまうような状態、アプローチを続けること。
完璧な子育てなどないのですから、子どもの発達が加速しないものはやめる、加速したら、その状態が続く限り続ける。
とてもシンプルな話です。


運動面からのアプローチに対し批判する人間に限って、子どもに精神科薬を飲ませ続けたりしています。
運動を通して、発達のヌケ、未発達の部分を育てていくのと、精神科薬を飲ませ続けること。
どちらに悪影響があるといえるのでしょうか。
運動するのに、副作用は出ませんね。
親子で遊ぶのに、過食や便秘、不眠などの症状は出ませんね。
副作用を受け入れつつ、薬の力で神経伝達物質をコントロールするよりも、神経伝達物質の元であるタンパク質と、生成に必要なビタミンを摂る方が、子も、親も、安心じゃないですかね。


我が子の発達するスピードが加速するアプローチ。
それが唯一の評価です。
加速できるアプローチを見つけるまで、探し続けることができるか、試行錯誤することができるか。
スピードが変化しない、むしろ、減速する、後退するアプローチにこだわるのは、盲目的に信じる宗教と一緒。
救われるのは、親の一時的な感情のみです。

2019年1月20日日曜日

発達が子育ての中に存在するからこそ

一般的なお父さんよりは、ヒトの発達について知っていると思います。
発達のヌケを見つける眼も、育て直すアイディアも、少しは多く持っていると思います。
でも、じゃあ、自分の息子たちに良い子育てができているか、自信を持って父親をやれているか、と言ったら、ぜんぜんそんなことはなく、みなさんと同じように、悩み、考え、試行錯誤し、一喜一憂する親の一人です。


自分の中の父親像のベースは、私の父でしょう。
だって、私は、自分の父以外に育てられたことも、一緒に暮らしたこともないから。
でも、私と父の関係と、私と息子の関係はまた違いますし、育つ環境、時代、社会も異なっています。
ですから、私自身も学び、試行錯誤しながら、同時に、主に仕事を通して関わったご家族、お父さんの姿から学ばせてもらっています。
私がいくら教員免許を持ち、発達に関わる仕事をしていたとしても、父親になるのは初めてのこと。
子どもが生まれてから成長を続けているように、私自身も成長しなければなりません。


私の仕事は、直接的な発達援助というよりも、親御さんがより良い子育て、育みができることを目指す後方支援になります。
ですから、話題の中心は、子育てです。
子育ての話になると、どうしても後悔の感情に触れてしまうことになります。
「より良い子育て」について話せば話すほど、「もう少し早く、それが分かっていれば、もっと良い育みをしてあげられたのに」という後悔。
でも、この後悔は、我が子を愛するが故。
自然な親心がもたらす後悔です。


相談の最中、涙を流される親御さんは少なくありません。
でも、涙を流すことは、決して悪いことではないと思います。
むしろ涙は、身体を弛ませ、心を弛ませる。
涙を流された親御さんは、その瞬間からずっと背負っていた緊張を解かれていく。
完璧な親がないように、完璧な子育てなどありません。
弛んだ身体は、完璧な親を演じていた自分自身を気づかせてくれる。
弛んだ心は、完璧な親から、より良い子育てへと、視点を変えさせてくれる。


より良い子育てなら、いつからでも、我が子がいくつになっても、大丈夫。
子どもが自立するまでが子育て。
「もっと良いものを」と、親自身が歩み続けるからこそ、子どもも成長し続けられる。
「子どもが変わらない」「子どもが成長しない」と嘆いている親ほど、親自身が変化を拒んでいる。


「発達のヌケを育てる」というのは、特別支援でなければ、療育でも、支援でもありません。
自然な親子の子育ての中に、それがあるのです。
ですから、支援者や専門的な知識、技法、施設などは必要ありません。
必要なのは、子どもと共に、子どもの成長と共に、自らが動くこと。


「発達障害が治るなんてインチキだ」
そうやって信じない、拒否するのは、問題ありません。
でも、それに替わるアイディアを持っているのか、より良い子育てを目指し、歩み続けているのか。
ただ批判し、拒否しているだけでは、子どもは変わっていきません。
大人が固く、視野が狭いと、それだけで子の可能性は狭まっていきます。
何故なら、親も、子どもが育つための大事な要因、環境の一つだからです。


一方で、「少しでも子どものためになるのなら」と思い、いろんな情報、人を尋ねる親御さん達がいます。
こういった親御さん達は柔軟であり、常に子育てがアップデートされています。
親御さん自身が、子どもの成長と一緒に歩み、変化するからこそ、子ども自身が自立まで歩み続けることができているのだと感じます。


子どもが発達、成長するために、なにをしているのか。
より良い子育てのために、なにをしているのか。
支援や配慮、理解や啓発は、直接的な発達、成長の後押しにはなりません。
それは子育てではありません。
子どもが求めているのは、自分自身の発達、成長の後押しです。


「発達のヌケは、いつからでも育て直していける」
「より良い子育ては、いつからでも目指していける」
発達が子育ての中に存在するからこそ、どちらの言葉も同じ雰囲気が漂っています。


「発達障害の子どもに対して、親ができることといえば、支援と環境調整、社会の理解を促すこと」
そんなはずはありません。
より良い子育てのために行動することができます。
子どもの横に立って、一緒に成長することができます。
そこには、専門家の了解なんて必要はない。
必要なのは、自分自身の心ひとつ。
さあ、今日も、より良い子育てを目指して、手と足を動かしましょう!

2019年1月18日金曜日

いくつになっても、専門家に頼らずとも、今この瞬間からできることはある

私のキャリアは、自閉症児施設、入所施設が始まりです。
たった7年間ではありましたが、濃密で、強烈な時間を過ごさせてもらったといえます。
ですから、当時、関わっていた子ども達、若者たちの姿。
そして、私が感じ、考えたことは、常に頭の中にあります。
「あのとき、今の知識と経験があれば、彼らにどんなことができただろうか」
時々、私はその当時に呼び戻させることがあるのです。


もし、今の私が当時に戻り、彼らの支援をしたとしたら、同じように治す後押しができるだろうか、と想像します。
できることは多々あるだろうし、中には薬を飲まなくてよくなる子も、入所施設のような24時間型のサポートが必要なくなり、家庭やグループホームなどに移行できる子もいたと思います。
でも、正直、私が今、関わっている子ども達、大人たちのように、ドカンと発達したり、就職、自立までいけたりするような子は、ほとんどいないとも思います。
中には、同じような姿を思い描くことができる子ども達もいますが、施設にいた大部分の子は、若者、成人した人達は描くことができません。


何故なら、彼らは、今、生きているだけで精一杯で、苦しみや混乱の世界を歩いているから。
成人した人もいましたが、とても重い症状と知的障害を持った方達がほとんどでした。
いま、自分が何者であり、どこを生きているのかすら、わからないと感じる人達がいたのも事実です。
彼らに、発達する力がまったくないということではなく、その力は限定されているし、伸ばす方へエネルギーが向けられない、それよりも今、生きるだけで大変だということ。
長年の投薬、誤学習、恵まれない環境…。


生きる上で基本となる食べる、寝る、排泄する。
それすら、ままならない、それを保つことで精一杯。
支援や発達援助を受け入れる余地がない子ども達、そういった人生を何十年と歩んできた大人たちを想像すると、当時に私が戻ったとして、今、関わっている人たちのような姿は望めないと思うのが正直なところです。


なので、私は思うのです。
知的障害を持つ子も、発達障害に気づかず、また生きづらいままの人生を送ってきた大人たちも、やれることはたくさんあるし、いつからでも、自分一人の力でも、発達のヌケは埋められるし、育んでいける、ということを。
知的障害の有無や年齢が、治ることを諦める理由にはなりません。
あらゆるものが治り、みんながみんな、一般就労して自立するとまでは思いませんが、当時、私が施設で関わっていた子ども達、若者たち、大人たちよりは、ずっと可能性はあると思います。


早い段階から、幼いうちから親御さんが我が子の発達のヌケに注目し、そこを育て直しているじゃないですか。
長年生きづらさを抱えていたとしても、普通級で学んできたじゃないですか、途中で辞めたりたり、転職したりしたとしても、仕事だってできたじゃないですか。
何よりも、家で生活できている。
24時間のサポートがなければ、生きることができないわけじゃない。


ある若者から、相談を受けていました。
その若者のメールは、電話での声は、絶対に変わってみせる、これから幸せになってみせる、という想いで溢れていました。
ですから、実際にお会いもした。
発達のヌケの育て方、自分一人でできる自分自身を育む方法をお伝えしました。
この若者は涙を流し、「今まで〇年間、ずっと辛くて、消えたいと思っていたけれども、人生で始めて希望が持てた」と言ってくれました。
実際、取り組みを始めてから、心身共に変化が見られ、改めて今まで自分自身がどれほど大変な身体だったのか、そうじゃない人はどれほど楽だったのか、というのに気づかされたとも言っていました。


いくつになっても、支援者や専門家に頼らずとも、今日から自分の力でできることはある。
一つ良くなれば、発達すれば、芋づる式に変わっていくのは、子どもも、大人も、みんな同じ。
違いがあるとすれば、やるか、やらないか、のただ一点のみ。
私が仕事で関わった方の最年長の人は、50代の方。
年齢は関係ありません。
住んでいる地域も関係ありません。
できない理由を探すより、発達のヌケ、生きづらさの根っこの育み方を探す方が、ずっとハッピーになれる。
さあ、やらない理由を探す暇があるのなら、手と足を動かしましょう!

2019年1月17日木曜日

発達課題を飛ばすのは個性じゃない

ハイハイをすっ飛ばして足ったり、言葉の発達が遅れたりするのを、「それがその子の個性だから」と言われました、というお話はよく耳にします。
ある親御さんは、「初めての子だったので、発達が遅いのも、この子の個性だと思っていました。マイペースで、のんびり屋さんみたいな」とおっしゃっていました。


幼い子ども達と関わる人の中には、その場しのぎで、あまり深く考えることなく、いや、お母さんを傷つけないことがあたかも役割であるという認識からか、「個性」という言葉を簡単に使う人がいます。
私はよくわからないのですが、どうも「個性的」というのをポジティブな意味で使っている人達がいます。
個性的なファッションなら、人によっては褒め言葉になるでしょうが、個性的な発達は褒め言葉にはならないでしょう。
でも、過去にビックリしたことがあって、「言葉が遅いのも、うちの子の個性です」と言い放たれたことがありましたね。


言葉が遅いのは、個性でもなんでもなく、発達が遅れているということ。
「これがこの子の個性だ」と言って、第三者が慰めるのも、親御さんが心のバランスを取るのも自由です。
でも、視点を切り替え、子どもの視点に立てば、「ポジティブな感じで個性と言ってくれるな」「個性で止まってしまうんじゃなくて、どうにかしてよ」と言いたいはずです。


言葉が遅れていれば、必然的に知能検査の結果は、「知的障害あり」となります。
その結果を見れば、特別支援の方向へ流れていくのが、今の社会であり、現実。
もちろん、本人にとっても、そのまま状態が変わらなければ、学ぶこと自体難しくなりますし、選択肢だって狭まってしまいます。
ですから、「言葉の遅れ」は、「個性ですね」と一言で終わらせられるような問題ではありません。


定型発達の子どもで言えば、2歳前後で言葉が出てきます。
ということは、2歳半を過ぎても、3歳になっても、言葉の発達が遅いから、親も、仕事で携わる人も「おやっ」となる。
ですから、その時点で「個性」という言葉で先送りにするんじゃなくて、今までを振り返ることが大事になります。
誕生後から今までの間で、何か気になるなるところはなかっただろうか?
定型の子どもが辿る発達過程で抜かしたり、足りなかったり、できなかったことはなかっただろうか?


2歳半や3歳くらいで振り返れば、明確に覚えていることも多いはずです。
そして何よりも、そこから育て直し、やり直しを始めれば、遅れを取り戻すのも早い。
今まさに、これから神経を作り、神経同士の結びついていこうとしている真っ最中であり、人生の中で神経発達が一番盛んな時期なのですから。
その時期の子ども達、親御さん達と関わるとき、それが個性なんかじゃなくて、「今の時点で発達のやり残しが生まれていますよ」と伝えることこそ、真摯に向き合うことだと私は考えています。
ちゃんと問題だと認識することが、治るための一歩です。


「どこからが個性で、どこからが障害か、特性か、わからない」と言われる親御さんは少なくありません。
そして実際に尋ねられることもあります。
しかし、どこからが個性で、どこからが障害か、なんてわかりません。
ただ一つ言えることは、治せる部分、育て直せる部分、発達を促せる部分を残した状態で、「個性だ」「障害だ」とは言えないということ。
治せるところは治し、育て直せる部分は直し、未発達や遅れている部分はすべて発達を促した。
それでも残る部分が、その子の個性だと、私は考えています。


だいたい、まだ育める部分があるのに、「これがこの子の個性です」なんていうのは、子どもにとって失礼なこと。
「個性」「個性」という人に限って、その子の個性、いや、その子自身を見ていないわけです。
個性なんて、本人以外の他人がやすやすと言うものでも、言えるものでもないでしょう。
結局、「個性」という言葉を使って、思考停止しているだけです。
本当に、その子の個性を考えるのなら、本人の生きづらさをどうにかしようとするもの。
生きづらさの中にいる子は、生きることで精一杯。
個性など発揮できる状態であるわけがないのですから。


言葉が遅れているのなら、その時点から過去を振り返る。
どんな国や気候、生活スタイルに関わらず、人類すべての赤ちゃん、子どもが教わることなく辿る発達過程です。
その過程の中に、ヌケや遅れがあったのなら、そこはそのままにしておけないでしょう。
ヌケや遅れをそのままにしつつ、「これが個性だ」「我が子はマイペースちゃん」と言っている日本人が何と多いことか。


発達過程のヌケや遅れはすべて育て直した、やりなおした。
それでも残るのなら、そこで初めて「個性」という言葉が連想されます。
「個性」と決め付けるのではなく、スルーするのではなく、「なんか、やり残しがあったかも」
そう思えるかどうか。
発達に課題を持つ子ども達は、「障害児」という別の個体じゃないのです。
だったら、辿ってきた発達の道に違いがあっただけ。
違いがあったのなら、そこをやりなおせば良いというシンプルなお話です。

2019年1月16日水曜日

知能検査は、子どもの“未来”を切り取っているわけじゃない

「IQは変わらない」
「知的障害の子は、ずっと知的障害だ」
そんな風に捉えている人がいるなんて驚きです。
まあ、以前から、そういった人もいるのは、なんとなく知ってはいましたが、あくまで“勘違い”だと思っていました。


「IQは変わらない」というのは、“本人の”IQが変わらないのではなく、書面上、検査結果で出たIQが変わらないという意味でしょう。
そりゃそうですね、検査を受けたあと、「この検査結果は、うちの子をちゃんと表していない!」などと言われたら困りますから。
IQが変わらないのは、次の知能検査を受けるまでの間でしょ。
IQが変わらないんだったら、一度受ければ済むわけですから。


定期的にIQを確認するのは、本人の発達、成長を客観的に見るため。
あとは、いろんな公的なサービスを受けるための根拠を得たいがため。
「希望者全員」とならない有限の社会資源なのですから、本人の変化を見たいのです。
つまり、前提として“変化”がある。
特に、年齢が低ければ低いほど、子どもの変化は大きいものです。


ですから、「IQが変わらない」「一度付いた知的障害という診断は変わることがない」というのは珍説でしかありません。
最初の検査で「知的障害中度」と出た。
その子が成長していく中で、当然、できることも増えるし、認知面、身体面で発達がみられる。
でも、中度の範囲を超え、ぎりぎり軽度のラインをまたぎそうになると、ピタッと発達が止まる…??


言葉の遅れから、相談→受診→知能検査という流れが多いですね。
言葉の遅れがあれば、当然、検査結果は低く出ますし、知的障害の範囲に入ることもあるでしょう。
でも、この子が言葉が出るようになったら、どうなるのか。
当然、検査結果は変化します。
言語以外にも、未発達だった部分が育てば、最初に知的障害と言われていた子が、正常の範囲に入ることなんて当たり前にあるのです。


そもそも小さい子どもが、落ち着いて検査なんか受けれるわけがありません。
子どもは特に、その日の体調や機嫌に左右されるもの。
家でできていたことが、いきなりの場面で戸惑い、実力が出せないことだってあります。
だから、検査前日にあまり寝させないようにして、当日を迎えさせようとする親がいるのです(ブ)
環境側から検査に影響を与えられるようなことができちゃうので、つまり、そういった条件で左右してしまう値なのですから、必要以上にIQにこだわったり、一喜一憂したりすることはないのです。
知能検査は、提出書類の一つくらいなもの。


確かに、我が子に知的障害があるとわかれば、親御さんのショックは経験した人しかわからないくらい大きなものだと想像します。
でも、あくまで、そのとき、その時点での結果、値でしかありません。
一度、知的障害と出たら、その状態が一生変わらない、知的障害の子は大人になっても知的障害という意味ではないことだけ押さえておかれると良いと思います。
ほとんどの子どもさんの場合、発達の途中、未発達の部分が多いことが背景にあるはずです。


以前、関わっていた若者が高校生のとき、「今回の検査でIQが15上がりました♪」と言うことがありました。
この若者は、就学前の検査で、「重度の知的障害」。
そこから年齢が上がり、本人と親御さんが育っていない部分、苦手な部分をコツコツと積み重ねていき、重度から中度、そして高校の時点で軽度の範囲に入りました。
今、この若者は、普通の人として一般企業で働いています。
極端な話になるかもしれませんが、もし親御さんが就学前の検査結果をもとに、「この子はずっと重度の知的障害のまま」と捉えてしまっていたら、子育ての仕方も、この若者の今も大きく変わっていたかもしれません。
本人の能力よりも先に、周囲の考えが未来を決定づけてしまう恐ろしさ…です。


IQは変わりません。
次の知能検査を受けるまでは(笑)
でも、子どもは日々、発達し、成長しています。
子どもの“今”を切り取る検査はあっても、“未来”を切り取ってこれる検査は存在しないのです。

2019年1月15日火曜日

治したいから。いや、より良い子育てがしたいから

帰省→出張→帰省→函館→通常業務→報告書作成→発送という1月の前半を過ごしていました。
今朝、お正月に訪問させていただいたご家庭、すべてのところに発送が完了しました。
本来なら昨日までの三連休でお届けできれば、休日の過ごし方、遊び方のアイディアの一つになれたのと思うのですが…ごめんなさい。
函館は穏やかな日々が続いていますので、順調にいけば、明日、明後日で届くと思います。
もうしばらくお待ちください。


お正月の出張では、4家族の皆様と共に、子どもさんのより良い発達、子育てについて考える時間をもつことができました。
皆様、メールや電話でのやりとりはありましたが、実際にお会いするのは、そのときが初めてです。
初めてお会いし、その日、一日をかけて考える。
そして別れるときには、「では、また」ではなく、「さようなら」
出張でお伺いする場合、ほとんどのご家族とは、その日初めてお会いし、その日が顔を合わせる最後となります。


帰りの新幹線の中で、改めて「初対面が最後の日」とは面白い仕事だなと思いました。
しかし、たった一日、その日はとことん子どもさんのこと、より良い発達と子育てについて考えぬくことができるなんて、私にとってありがたいことですし、親御さん、ご家族にとっても貴重な一日になると感じました。
貴重というのは、私の訪問のことではなく、我が子について、子育てについて、とことん考えられる機会がもてることに対してです。
日頃から子どもさんのこと、子育てについて真剣に考えられていると思いますが、流れている生活の中にその時間があるはずです。
ですから、一歩立ち止まり、改めて子どもを見てみる、子育てについて振り返ってみることは、より良い明日に向かうためのきっかけになると思います。


訪問したご家庭の親御さん達は、すでにたくさん治していて、このままの流れで行けば、いずれ治っていく子どもさん達だと感じました。
ですから、治る、治らないに関して言えば、私の訪問は関係ないのだと思います。
では、どこに意義があるのでしょうか。
それは、より良い子育てを目指すための「客観的な視点」「アイディア」「後押し」だと思います。


「治す」という言葉を使うと、実態を知らない人達は、治った人を見たことがない人達は、治すこと自体が目的であるように捉えがちです。
「さあ、私の指導を受ければ、セッションを受ければ、療育を受ければ、障害や生きづらさがなくなりますよ」みたいなイメージでしょう。
しかし、実際に治している親御さん達のほとんどは、治すことを目的としていませんし、それがゴールだとも思っていないのです。
「治る」は、ゴールではなく、途中経過。
中には、「日々の子育てを頑張り、試行錯誤していった結果、気が付いたら“治っていた”」とおっしゃる親御さんもいます。


親というのは、我が子のことを障害名で見ないものです。
「〇〇くん」「〇〇ちゃん」という雰囲気の前に、障害名が浮かんでいるとしたら、それは親ではなく、支援者ということ。
親と子ではなく、支援する側とされる側の関係なのです。
そういった関係性を築いてしまった人ほど、「治る」に対し、大きな勘違いをし、妄想を膨らませます。
支援する側とされる側という視点が固定され、関係性が確固なものになり、本来の自然な親子に戻れないところまで行ってしまった人ほど、「治る」という本当の意味、そこに流れる親心と深い愛情に触れることができなくなっていくもの。


親御さんの中には、「治る」という言葉を使い、そういった依頼、相談をされてくることがあります。
でも、親御さんの言葉の奥には、「少しでも、ラクに生きられるようになってほしい」「今よりも、もっと良く発達、成長してほしい」「将来の自立や本人の幸せのためにできることは何でもやりたい」という想いが流れているのです。
ですから、治している親御さんからも依頼、相談がくるのだと思います。
子育てのゴールは、感覚過敏を治すことではなく、我が子が自立すること。
自立するまでが子育てなのですから、1つ治ったから、「はい、おしまい」にはなりませんので。


「治っていないから、利用し続ける」というのは、大きな誤解であり、勘違いです。
子どもが治るからこそ、日々、発達と成長を見せてくれるからこそ、もっと知りたい、もっとやりたいという想い、願い、エネルギーが増していくのです。
何故なら、親が目指すのは、より良い子育てだから。
「治る」は、療育ではなく、支援でもありません。
「治る」は、日々の子育ての中にあり、より良い子育て、より良い発達、成長の後押しを続けていった結果なのですから。
そういった意味で、親子の関係性が崩れてしまっていると、「治る」は存在しなくなります。


私が訪問して最初に見るのは、親子の関係性です。
親御さんと子どもさん、そのご家庭の中に自然な家族の空気が漂っているか、それが一番気になるのです。
親御さんが我が子の発達、成長の後押しをする。
私は、そんな親御さんの子育てを後押しできる仕事がしたい。
今年も、どんな出会い、ご縁があるか、ワクワクしています。




2019年1月3日木曜日

2019年のスタートを切ることができました

新年あけましておめでとうございますm(__)m


1日、2日は、朝からお肉を食べ、お昼は軽く、そして、また夜はお肉というような生活を送っていました。
ご飯やお餅などは、お付き合い程度で、ちょぼっと食べるのみ。
とにかく「食事でたんぱく質!」のお正月。


3日の今日は、ありがたいことに、仕事始め。
昨日、お問い合わせをいただき、「では、明日伺います!」というすごいタイミング。
子どもさんやご家族にとって、「今」というタイミングでは、こうしてあっという間に予定が決まっていくものだと改めて感じました。


明日は朝から西に向かいます。
こうして、新年早々、お仕事をいただけるということは、本当にありがたいことです。
それだけ多くの方たちが、「本当に、私達にできることは、支援を求めるだけなのだろうか」「我が子の可能性を広げるための育みはできないのだろうか」と疑問に感じ、世の中には、子どもの発達を促していくアイディア、知見があるはずだという親としての嗅覚、直感が、行動に表れているのだと思います。


「遺伝」「環境」「愛着」と、一つひとつ見ていけば、まだまだやれることはあるはずです。
発達のヌケの育てなおしをせず、栄養面、生活のリズムを整えるなど、見直せる部分、育める部分がまだ残っているのにもかかわらず、「発達障害は治りません」という一言で片づけてしまっている日本人が、なんと多いことか…。


「できることをやる」
「育めることは、全部やる」
「治せるところは、全部治した」
それで最後まで残るものがあるとすれば、そこは工夫や配慮が必要な部分だといえます。
ですから、私は、育める部分、治せる部分を、親御さんがすべてやりきれるお手伝い、「やりきったぞ」という思いが持てるような後押しを行っていきたいと思います。


毎年、今年が最後でも悔いはないような仕事がしたい、やりきりたい、出し切りたいと思って、初仕事に臨んでいます。
今朝も、その決心のもと、依頼してくださったお宅へ伺いました。
この気持ちを忘れず、今年一年も頑張ります。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします!