2018年11月14日水曜日

「頑張ったから」ではなく、適応を望まない心身が『二次障害』という表現をしているのだ

私が出会ってきた人達の中に、頑張ったために心身を病んだという人はいなかった。
心身を病んだ人というのは、むしろ、頑張ることを止められた人達。
「頑張りたいけれども、頑張れない。頑張らせてくれない」という叫びが心を蝕み、向かう場所を失ったエネルギーが身体を滅ぼしていく。


おぎゃあと生まれた瞬間から、いや、精子と卵子が出会った瞬間から、ヒトはより良い次の瞬間を求めて歩み続ける。
細胞を分化させ、神経を伸ばし、環境に適応するための身体を作り上げていく。
環境に適応できるというのは、より良く生きることに繋がる。
より良く生きるために、環境からの刺激を受け取れる感覚器を育み、対応できる動き、身体を育む。
受精した瞬間から命が尽きるその瞬間まで、より良く環境へ適応しようと、ヒトは進化、発達、成長を続ける。


「頑張る」というのは、本来、心と身体が同じ方向を向く、とても心地良いことである。
「〇〇ができるようになりたい」
「この目標を達成したい」
これらも、高度な環境適応といえる。
頭で思い描いた目標、理想という環境へ、身体を適応させていく。
絶えまなく続く身体の進化に、心が一致する瞬間。
頑張ることは、心地良い。
頑張ることは、心身を一致させ、伸びやかな発達、成長を促す。
だから、頑張ることで心身が病むことはあり得ないのである。


支援者は「頑張ると、二次障害になる」と言う。
支援を受けさせるための脅し文句として使っている者もいれば、本当に信じて疑わない者もいる。
信じて疑わない者は、先人から与えられたフィルターを通して、心身を病む当事者を見たに違いない。
「ああ、やっぱり、頑張ると二次障害になる」


しかし、現実は違う。
ただの偏見、ただの解釈の誤りである。
頑張ったから二次障害になったのではなく、その人は頑張れなかったから、心身を病んだのだ。
環境に適応できなかったから、心身を病んだのだ。
ヒトは頑張って進化を求める動物であると同時に、適応を目指す動物でもある。
だから、頑張ろうとしているのを止められると、身体を病む。
だから、適応したくない環境に適応し始めると、心を病む。


「普通になりたい」と子どもが言う。
「仕事して自立したい」と若者が言う。
すると、「普通になんかならなくて良い」「一般の仕事しても続かないし、あなたには支援を受けて生きる方が合っている」と制止が入る。


自分が心地良く描いた目標、理想の環境へ向かうことを止められる。
つまり、環境適応を人為的に止められるということである。
心身が一致して、環境適応を目指し動き出している。
心は、支援者からの言葉で抑え込められる。
しかし、すでに動き出している身体、エネルギーはどうだろうか。
せっかく一致していた心身が離れ、身体だけが動き続ける。
行き場を失ったエネルギーが、自傷、他害、パニックという形で消耗される。


普通になりたい子どもが、特別支援の中に入れられると、心を病む。
働いて自立したい若者が、福祉の中で頑張らなくてもできる仕事をすると、心を病む。
頑張らなくて良い環境の方が、心を病ませる。
何故なら、身体が適応を始めてしまうから。


長く特別支援の中にいた子どもは、特別支援適応を始める。
長く福祉の世界にいた若者は、福祉適応を始める。
「自分の居場所はここじゃない」と思い続けても、長らく特殊な環境にいると、身体の方が先に適応を始めてしまう。
心は望んでいないが、身体が適応してしまっている状態。


「私には支援が必要です」「一般就労は無理です」「社会の理解があれば」と言い、言葉通りの環境に身を置いているのにも関わらず、心が晴れず、ついには病んでしまっていく人達。
その人達は、ただ言葉で心を押し込めているだけで、本当は心の中でこの環境に適応することを拒否している。
動かしたい身体が動かない。
まさに鳥かごの中にいるような心は、変わらない風景を眺め、寒々しく凍えていく。


主体性のある頑張りの機会が奪われると、心身を病む。
主体性を奪われた頑張りを強要されると、心身を病む。
本来、主体的な頑張りは、心身を解放させ、伸びやかな発達、成長へと繋がっていくのだ。
「頑張ると二次障害」の実情は、主体性を奪われた環境に対する抵抗と、「適応できず」という自然治癒力の表れである。

2018年11月13日火曜日

「選ばせない」じゃなくて、「選ばれよう」でしょ

「てらっこ塾を利用するな」「あんな、おかしい人間の支援なんか受けるな、相談するな」「治るなんて、詐欺に決まっている」と、支援者たちが言うのは、何とも思いません。


「あなたの子は、一生涯支援が必要です」
「頑張らせると、二次障害になりますよ」
「普通級には行けません。良くて支援級です」
「知的障害がなくなることはありませんよ」


そんな風に言われていた子ども達、若者たちが、次々、予言を覆し、勉強ができるようになり、姿勢や動きが自由にできるようになる。
一般の高校に入り、一般就労し、支援がなくても、自分の力で生活ができるようになる。


縁日のくじみたいに、年齢や症状、知的障害の有無に関わらず、みんなスケジュール、みんな衝立、困ったらSSTと出てくる景品は同じもの。
そして、本人に変化が見られないと、「社会ガー」と十八番の責任転嫁。
これじゃあ、「利用するな」と言うくらいしかできないでしょう。


支援者たちが、そのように言うのはわかります。
自分達を守るために仕事をしている人達だから。
でも、学校の先生はそうじゃないでしょ。


「利用するな」は、学校の先生から言われることもあります。
もちろん、直接ではなく、利用してくださっている親御さんに対して。
でも、放課後、しかも親御さんの意思で利用しているものに、どんな権限があって、教員がモノ申すのか。
だって、家庭で習い事していて、それに対して、担任が「止めた方が良い」なんて言ってこないでしょ。
「あの塾、やめてください」「野球クラブは止めた方が良いですよ」なんて言わないでしょ、普通。


来年度を見据えた時期的なものもあるのでしょう。
止めた方が良い、という理由が、「本人が頑張りすぎていると思うから」
意味不明ですね。
本人の成長は認めるが、頑張りすぎているように感じるから、利用しない方がいい。
この言葉を教員の口から聞くと、悲しさは倍増しますね。


教員って、子どもの成長を願い、そしてそれを心から喜ぶ人達ではないのでしょうか。
たとえ、塾や放課後の習い事だったとしても、子どもが成長していく姿を見て、一緒に喜ぶのが教員じゃないのでしょうか。
身体面からのアプローチ、言葉以前のアプローチで、授業をしっかり聞けるようになり、成績が上がり、支援級へと言っていた子が、普通級で堂々と学校生活が送れるようになった。
良い方向へ予想が外れたなら良かったでしょ。


結局、「田舎特有の公務員偉いんだぞ、民間よりも」と、自分たちが何年もかけて解決できなかった問題を、家庭での取り組みで解決してしまったから面白くないだけ。
なんとかコーディネーターは、学校内で権限があるのかもしれないけれど、民間人の私からしたら、どっかの知らないオヤジ、オバサンです。
私が提案したことに、家庭と一緒に取り組んだことに納得ができないのなら、「こっちの方が、良いアイディアです。取り組みです」と持ってくればいいだけのこと。
それができずに、ただ「止めた方が良い」「本人が頑張りすぎているから」なんて言うだけでは、社会人として相手にされませんね。


恨むのなら、自分たちの腕を恨んだ方が良い。
元はと言えば、ずっと必要だと言われ、受け続けてきた支援が、本人により良い変化をもたらさなかったのが問題の発端。
だから、私に依頼が来た。
しかも、本人は成長し、自ら「僕は支援はいらない。必要なのは運動とトレーニング。みんなと同じようにできるようになりたい」と意思表示している。


本人が受けたくない、必要ではないと言っているものを、「いいや、受けた方が良い」と言い続けるのは、たとえ子どもであっても、本人の意思をないがしろにすることであり、自由と権利を侵害しているといえます。
配慮や支援を求める主体は、学校の先生でも、専門家でもありません。
そこをはき違えている支援者が何と多いことか。
「あなたは支援が必要」は、他人の主観。
本人がいらないと言っている支援を押しつけるのは、人権侵害。


商売がたきがブーブー言うのは想定内。
言いたいヤツが勝手に言っていればいいだけだし、喧嘩は腕でするもの。
私のところを利用してほしくないのなら、自分たちが金太郎飴の支援から脱却し、 過去の先進地域を捨て去り、より良い支援、援助を学び、選ばれるようにすれば良いだけの話。
結局、早期から診断を受けようとも、療育を受けようとも、構造化しようとも、自立しないし、一生涯の支援だったら、今の親御さん達は別の道を探します。
一生涯支援を受け続けるか、発達のヌケや未発達の部分を探し、そこを育て直して自立を目指すのか。


こういった閉鎖的で、未だに数十年前の先進地域の幻影で支援している地域で事業を起ち上げたのは、別のアプローチを提示することで、お互い喧嘩して、切磋琢磨できたら、結果的に地域のためになると思ったから。
でも、相変わらず、「こんな良い支援があるぞ」という話ではなく、ただの悪口、妨害だけ。
ホント、レベルが低い。
しかも、上記のような学校の中からも、子どもの成長よりも、自分たちが主導権を握りたい、自分たちの教育が認められたい、という足の引っ張りがくる。


函館は住みやすいところで、海も山もあって食べ物が美味しく、好きな場所だけど、なんかがっかりすることばかり。
ちゃんとケンカすらできない。
子どもや家族を中心に討論ができない。
発達障害の人達が公共事業みたいになっている。
冬は雪が降って、外でランニングできないし、もともと暑いところの人間だから、南下したいな、なんて思うこともありますね。
仕事も、相談も、道外が増えたし、一年中走れるところで仕事を探そうかな。
満平さん、雇ってくれないかな。

2018年11月11日日曜日

我が子と一緒に歩む道は、どこか懐かしさを感じるもの

虫歯ではなく、麻酔をかけるわけでもなく、歯垢を取るだけなのに、どうしてこんなにも通わないといけないのでしょうかね。
100歩譲って、上の歯と下の歯で2回に分けるならまだしも、上の歯を3回に分け、下の歯を3回に分ける。
どうして一気にできないのか尋ねると、「歯に負担がー」と、それ以上、ツッコミを入れさせませんよ、というような定型文が返ってくる。


歯の負担というけれども、通う方の負担はどうでも良いのか。
結局、「患者さんのために」と言いながら、回数を稼ぎたいだけでしょ、と思ってしまう。
自営業だから、なんとでもなる、時間の融通が利く、と思っているのかもしれませんが、自営業は働いてナンボの世界。
働かない時間は、無収入。
だから、毎日、せっせと働いています。


訪問するお宅が、函館だろうが、泊りがけで伺う場所だろうが、一発勝負と思って仕事をしています。
発達のヌケを探り、その子の物語を完成させる。
発達のヌケの育て直し方と、そのご家庭の雰囲気、流れにあった育み方を提案する。
限られた時間で、これらすべてをやりぬくことが、私に依頼してくれた方への誠意だと思っていますし、子どもの貴重な発達の時間を守ることだと考えています。
なので、「上の歯、三本でおしまい。また来週」みたいな支援を見ると、つまんない商売してんじゃねーよ、と思ってしまいます。


お金は後からでも稼げばいいですが、時間というのは後からどうしようもありません。
ですから、私が帰ったあとから、すぐに本人が、家族が動き出せる形まで持っていく必要があります。
いや、理想で言えば、一緒にお話しし、考えている最中から、本人、家族の意識や気持ち、雰囲気が動き出している状態です。


私が確認し、見たて、提案する。
それを本人、家族が受け取り、「はい、ありがとうございました」では、つまらんのです。
私はきっかけの一つであり、本人と家族がより良い未来に向かって歩みだす後押しの一つにすぎません。
私がいくら限られた時間の中で、一つの形を作ったとしても、動きが生じなければ意味がないのです。
そういった意味で、私自身が問われます。
家族の流れに沿った発達援助ができているか、を。


家族の流れに沿いながら仕事ができていると感じられるのは、親御さんから次のような言葉が聞かれたときです。
「そういえば、自分も、子どもの頃、そうだった」
「この子の〇〇というところは、自分にそっくりなのかもしれない」
話題の中心は子どもさん。
でも、子どもを通して、過去の自分を呼び起こし、そして自分と子どもが繋がりを見せる。
その瞬間、「今日は良い仕事ができた」と感じることができるのです。


発達障害の子は突然変異で生まれてくるわけではなく、天使が「あなたのおうちに決めた」と連れてくるわけでもなく、両親から資質や特徴を受け継ぎ、生まれてくるもの。
ですから、我が子と自分の繋がりを感じることが重要です。
特に、自立した人に育てるためには。


鹿児島の神田橋先生がおっしゃられているように、親が仕事をし、結婚して、子どもを授かれているのだから、子どももそれくらいにはなれるだろう、というのがあります。
つまり、親御さんの人生の中に、子どもさんをよりよく育て、自立まで後押しできるヒントがある、ということです。
それが子ども時代、熱中したことかもしれない。
それが両親の育て方だったのかもしれない。
それが、誰々との縁であり、育った環境なのかもしれない。
その辿ってきた道に、今、親として自立し、子どもをもうけ、家族を形成している理由があるはずです。
似た遺伝子を持った自分がある意味で治り、資質を開花させられた理由が。


私が発達のヌケを確認し、その子の物語を紡ぎ、具体的な発達援助を形作る。
そこには面白みがないのです。
でも、そこに親子の繋がりが生まれると、一気に発達援助が躍動し始め、その家族ゆえの発達援助が彩られます。
そうなると、私が同じ空間にいても、家族が揃ってより良い未来へと動き始める。
支援者などという他人を介さずとも、家族の力で歩んでいける、進んでいけるのが理想であり、自然な姿だと思います。


ただ口を開けて、やられるがまま、言われるままの治療は、面白くも何ともありません。
しかも、その本人の力を引き出すことも、育てることもない。
だから、与える、与えられるの発達援助はつまらないのです。


発達援助は、子どもの力を引き出すことが肝心です。
しかし、同時に親御さんの力を引き出すことも大事。
その大事な親御さんの力とは、自分の歩んできた道から、素晴らしいアイディアとエッセンスを抜き取ること。
そのためには、我が子と自分の発達が繋がることが必要です。
私が作ったものを土台にし、家族が彩り豊かに仕上げていく。
気が付いたら、家族の自分たちだけで治る道を歩き始めているのが理想です。


我が子と一緒に進む道は、どこか懐かしさを感じるはずです。
だって、親の自分が辿ってきた道と、どこかでつながっているから。

2018年11月10日土曜日

親が治るから子も治る、子が治るから親も治る

エビデンスにこだわる人というのは、エビデンス以外の世界を想像できない人なのだと思います。
エビデンスに忠実というよりは、エビデンスのような記号的で、揺らぎや想像、解釈の余地がないものに、すがらざるを得ない脳みその持ち主なのでしょう。
そういった意味で、その人自体が実生活の中で生きづらさを抱えている。


ましてや、子育てといった原理原則が存在せず、余白こそが主戦場となる営みに対し、恐怖すら感じているかもしれません。
ですから、子どもの発達、成長よりも、子どもの健康、幸せよりも、エビデンスを取る。
いや、取るしか選択肢がないのです。
エビデンスの外を想像できないから。
揺らぎや想像、解釈といった流動的なものが脳内に侵入してくるのを防ぐために。


目の前にいる我が子よりも、どっかの誰かが唱えたエビデンスを取る、ということは、その親自身、発達障害を持った人だと想像できます。
当然、親の特徴は子どもに遺伝しますから、子どもが発達障害の場合、親にもその要素が大なり小なりあるといえます。
なので、エビデンスしか信じられないというような特徴が前面に押し出ている人以外でも、何かしら発達の課題を持って生きていると考えられます。


エビデンス原理主義のような極端に特徴が出てしまっている場合は、自ら治す方向へと踏みだすことはできませんし、もし踏みだしたとしても、治るまで歩き続けることはできないでしょう。
当然、子どもは治らない。
しかし、こういった極端な家庭でなくとも、発達障害を持つ子の親御さんは、自身の発達と向き合い、治していくことが重要です。
何故なら、治るとは親子の協働作業だからです。


発達障害が治るには、子どものみが頑張れば良いのではありません。
子どものみが発達援助を受け、それで治っていく、という話は聞きません。
親御さん自身が、自分の発達の課題と向き合い、治そうとする、治っていく。
そうすることで、子どもが治っていく。


子どもの発達に注目することで、自分の発達の課題に気が付く。
子どもの発達を促す試行錯誤が、自分の発達を育て直すアイディアへと繋がる。
ですから、子どもが治ると、親も治る。
親が治ると、子どもが治る。
このような歯車が回りだすと、家族が一緒に治るまで到達するのです。


親御さん自身に発達障害があり、生きづらさを抱えたままですと、治り切るまで踏ん張れないのです。
子どもの視点の想像、子どもの未来の想像。
より良い遊び、関わり方、刺激、環境の創造。
考え、実行し、反省し、修正と工夫を繰り返す試行錯誤。
目に見える変化が見えなくとも、発達の鼓動を感じ、より良い未来の姿を脳裏に映し出すことができること。
課題を持ち続けたままですと、これらのどこかに支障が出るものです。


親御さん自身が、自分の発達障害を強く意識し、それと向き合ってきた人ほど、子どもは治っているように感じます。
もちろん、似たような感覚を持っているからこそ、分かり合え、より良い営みへとつながっている、とも考えられます。
しかし、それよりも、「私が治ったんだから、我が子も治る」というような実感があり、揺らぎない信念があるようにも感じます。


親御さん自身が、自分の発達障害を治してきた人は強い。
エビデンスなどといった記号にすがることなく、揺らぎの世界へと突き進むことができる。
それは、ご自身の中に信念があるから。
我が子を治すための想像と創造、試行錯誤とやり切れるためだけではなく、こういった揺るぎない信念を持つためにも、親御さん自身、発達障害を治した方が良いと思います。


子どもだけ治ることは珍しい。
「親が治るから子も治る、子が治るから親も治る」
子育ての本質は、身体を使った対話であり、親子の交流ですから、これは当然で自然な姿だといえますね。

2018年11月9日金曜日

「できない現実」と「できるはず」の狭間に生きづらさが存在する

私はいつも「この子の、この家族の未来が少しでも良くなってほしい」と想い、仕事をしています。
実際に子どもと関わるときも、親御さんと発達援助の方法を考えるときも、いただいたメールに返信するときも。
「ちょっぴり成長できたな」「こうして子育てしていけばいいんだな」「気持ちがすっきりした」「少し元気が出た」
受け取り方は人それぞれでも、何か前に進む力の一つになれれば、私は嬉しく思います。


発達障害の方達と接していると、皆さん、治りたいという想いを持った人達なんだと感じます。
身体、機能障害の方達とは異なり、なんとなく、漠然とした、言葉で表せないような違和感や生きづらさを抱えている。
その掴めそうで掴めない、見えそうで見えない存在から解放されたいという想いをひしひしと感じます。
ですから、現状維持や保護された環境に身を置くと、皆さん、どんどん病んでいくのだと思います。


親御さんの中には、今はしゃべらないけれども、知的障害があると判定されたけれども、コミュニケーションが成立していないけれども、「この子は、ちゃんと理解していると思う」「この子は、普通級で学んでいける」などとおっしゃる方達がいて、十中八九正しかったりします。
こういった親御さん達は、感じることができています。
我が子の漠然とした違和感と、治る未来を。


生きづらさとは、感覚的なもの。
もちろん、何かができない、うまくいかないという行動の結果から生きづらさを感じます。
しかし、単に「〇〇ができない」のではなく、「〇〇ができると思えるんだけれど、できない」というギャップ、違和感に生きづらさを感じているのだと思います。
だからこそ、支援が一番に向かう先は、本人の気持ちであり、違和感からの解放。


治りたい本人がいて、治したい親がいる。
なので、その気持ちに添うのが支援というもの。
「少し治ったな」「一歩でも、治る方向へ進んだな」
そんな感覚を得られることが、支援の存在意義だといえます。


世の中に、治る人も、治る知見も、増えてきました。
それを見て、必死になって治そうとする人も出てきました。
しかし、中には気持ちを横に置いた、発達援助をされている人がいるような気がします。
発達援助と名を変えた行動変容。
「ここに発達のヌケがあるから、こういった動きを続けよう」
「腰を育てる遊びをどんどんしよう」


治るには、対話が必要です。
子どもの場合は、親子の対話であり、大人の場合は、自分の心、身体との対話です。
対話があるから、自らの発達、成長を、そして心地良さを感じられ、より良いアイディアへと発展していけます。
対話は言葉ではなく、心を介した交流。
心の声を聞かずして、本当の発達援助は行えないと思います。


周囲から見れば、その子の「できない」「困った」をどうにかしようとするもの。
でも、その子の生きづらさに心を傾けることも大事だと思います。
「どうして生きづらさを感じているのだろう?」
「何がクリアされれば、生きづらさから解放されるだろう?」
そういった問いを持ち続けることも必要です。
すると、ただの行動変容ではなく、ただのトレーニングではなく、発達援助になります。


生きづらさの正体である「できない現実」と「できるはず」のギャップ、ズレ。
そのズレこそ、本人の生の声であり、その人の発達が向かいたい先。
発達を援助するとは、その人の気持ちと発達が向かいたい方向へと後押しすることをいう、と私は考えています。


世の中に、より良い未来を願わない人はいません。
特に発達障害の方達の一番の願いは、物質的なものより、違和感からの解放であり、治ること。
そのために私は、気持ちが前に向かうこと、治るに近づいた感覚を得られることを願う言葉、行動、雰囲気を選んでいます。

2018年11月2日金曜日

「見えないものは、ない」は障害特性?先天的な障害?活かすべきもの?

「見えないものは、ない」というのは、自閉症、発達障害の人達に多く見られることです。
ですから、「想像力の障害」という言葉で片づけられ、それが障害特性で、それこそ、変わらない部分で、支援や配慮が必要なものとして捉えられます。
でも、本当にそうなのでしょうか。


「見えないものは、ない」人達と接して感じるのは、情報処理の問題ということです。
定型発達と言われる私達だって、見えていないものは、どう頑張っても見えません。
でも、この部分において日常生活での問題にならないのは、見えないものを想像して補っているからです。


じゃあ、どうやって見えないものを想像しているのかといったら、複数の情報を同じテーブルの上に乗せ、過去の経験や体感などを駆使し、「多分、こうだろう」と想像している。
で、もちろん、外れることもあるが、想像はだいたい合っている。
だから、見えるものと、見えていないものを総合しながら、人と付き合ったり、仕事をしたり、生活したりしている。
ちなみに、子どもが面白い、突拍子もない想像をするのは、まだ経験が少ないのと、複数の情報を同時に処理する力が育っていないなど、まだ脳(特に大脳皮質、前頭前野)が育つ過程だから。


自閉症、発達障害の人達は、定型発達と情報処理の仕方が異なると言われます。
確かに、情報処理の仕方が違うな、というのは、この「見えないものは、ない」からも感じますが、それは独特な情報処理の仕方を持って生まれたというよりは、成長の過程の中で作られた処理形式、脳の使い方のようにも思えます。


例えば、感覚面に発達の遅れ、未発達があれば、特に視覚情報などの偏った情報しか入ってこなくなって、視覚に頼った情報処理の仕方ができてしまう。
例えば、爬虫類の脳や哺乳類の脳など、脳の表面よりも深い部位に発達のヌケや遅れがあれば、ヒトの脳の部位に発達の遅れが見られ、結果的にいろんな情報を整理、統合することが難しくなってしまう。


よく「自閉症の人は視覚的な情報処理が得意なので、その得意なことを活かしましょう」などと言われます。
でも、本当に得意なことで、生きていく上で武器となるような特性だとしたら、世の中の自閉症の人達はこんなに困っていないはず。
だから、得意と言うよりは、仕方なく、そうなるしかなかったというのが本当のところだと思います。
視覚以外の部分が平均くらいで、視覚的な情報処理が飛び抜けて優れているのならわかりますが、総合的に見れば、偏りであり、偏りによって作られた情報処理の仕方じゃないですかね。


受精後4ヶ月くらいで眼ができ、開くのが6ヶ月くらいから。
しかし、器官ができても、神経と繋がって情報処理ができるようになるためには刺激が必要。
ということは、やっぱり生まれつきじゃない、出生後の発達過程で作られていくもの。
だから、「活かす」というよりは、活かさざるを得ないというのが事実であって、そうだったら、偏りの根っこにあたる未発達、遅れのある部分を育てましょ、という方が良いと思います。


「見えないものは、ない」という人が、まったく見えないものを想像できないか、と言ったら、そうではありません。
見えなくても、想像できることもある。
想像するために持ってくる情報は少ないかもしれないが、そこから考えて、導き出すことができる。


「見えないものは、ない」という人は、「見えるものがすべて」という人であり、見えた情報のみで想像してしまう人ともいえます。
当然、生きている世界が狭いし、想像が妄想になりやすい。
なので、根っこからの解決じゃないけれども、経験することが何よりも大切。
経験することで、現実と想像のギャップを埋めることができる。
経験することで、情報が増え、妥当な想像ができることにつながっていく。
経験することで、妄想から想像へ発達させることができる。


「見えないものは、ない」というのは、障害特性でもなんでもなく、誕生後、偏った刺激の中で育まれた情報処理の仕方。
もちろん、特異な情報処理がとっても優れたものなら武器にして活かした方が良いけれども、ほかの部分に発達の遅れや未発達があるのなら、そちらを育ててからじゃなければ、本当の武器にはならないし、それを活かして、より良い人生を歩むことはできません。
結局、想像するとき、テーブルの上に乗せる情報が少ないということ。
そのため、見えていないものを想像する力が弱かったり、独りよがりの想像、妄想になりやすい。


想像するために必要な情報を、より多くテーブルの上に乗せるためには、身体、感覚面の発達のヌケ、遅れを育て直し、いろんな感覚、身体全部を使って情報を受け取れるようにすること。
同時に、こういった育て直しは、脳の深部を育てることになるので、ここが埋まりだすと、脳の表面、ヒトの脳の部分に広がりが出てくる。
そうなれば、想像するための材料を置くテーブルのスペース自体が広くなるし、いろんな情報を整理して見やすく置けるようにもなる。


そして、対処療法としては、経験すること。
経験すれば、自分の想像の正しさ加減がわかるし、次の想像の材料を増やすことにもなる。
だから、「視覚的な強みを活かして」などと言って、どんどん視覚情報を与え、どんどんそれ以外の情報を制限し、どんどん偏らせちゃダメ。
一般的な感覚として、一日中、眼ばっかり使っていたら疲れるでしょ、耳ばっかり使っていたら疲れるでしょ。
いろんな感覚、身体全体を使って処理しているから、私達は自然な生活を営むことができるのです。
こうやって改めて「見えないものは、ない」を考えてみると、想像力自体に問題があるのは、支援者の方かもしれませんね(ブ)

2018年11月1日木曜日

流れを大切にした仕事をしたいから、アンケートは作りません

新規や出張支援を利用される方から、「事前に記入しておくアンケートはありますか?」と尋ねられることがあります。
療育機関や相談事業所などでは、そういったアンケートの記入が一般的なのでしょう。
でも、うちにはアンケートはありませんし、今後も作るつもりはありません。
だって、実際にお会いするから。
だって、一緒に作り上げていこうと思っているから。


アンケートとは、効率化の象徴のように思えます。
事前に情報を集めておくことで、ポイントを絞って準備ができるし、支援ができる。
より少ない労力で、その時間を収め、次から次へとさばいていく。
労力は少なく、利益は多く。
もちろん、効率的に仕事をするのは当たり前のことだと思いますが、療育に、いや、人を育てるのに、この考え方はそぐわないと思います。


きちっとしたアンケートが渡されると、記入する方は「ちゃんとやってくれる事業所だ」「事前に聞いてくれるなんて熱心だ」というように感じる方もいると思います。
しかし、私はそうは思いません。
「あなたの声を聞きますよ」と言っているようで、枠が決められているから。
「自由になんでも」と言いながらも、誘導している主は、本人でもないし、親御さんでもない。
子育てに効率化が侵入するのも悲しいですが、知らず知らずのうちに支援する側と支援される側の関係が出来上がっているのも悲しいといえます。


アンケートを書いてもらった支援者側は、どうやって、それを利用するのか、支援に繋げるのか、私にはわかりません。
と言いますか、私はアンケートを貰っても、そこから支援を組み立てていくことはできません。
何故なら、アンケートとは切り抜きだから。
その子のある部分の切り抜きであり、親御さんの見立て、想いの切り抜きであり、時間の切り抜きです。


アンケートに、我が子のすべてを記入することはできません。
また記入を求められた部分が、その子の発達のヌケ、課題の根っこであるとも限りません。
アンケートとは、作った人の視点が入るもの。
やりたい支援、得意な支援に引っかかる部分が項目になっていることもあります。
ですから、人為的な切り取りになってしまい、本当にその子が必要な援助が届かないこともあるのです。


それに、アンケートを書いた時点と受け取った時点、実際に支援する時点は、すべて別の時間になります。
時間は常に流れているものなのですから、アンケートに書かれたその子と、実際に目の前にいる子は別の人。
大事なのは、目の前のいるその子を基点とし、過去と未来を流れで見ることです。
アンケートという過去を基点とした支援を始めようとすると、ズレが生じるもの。
その子の流れ、発達の流れをしっかり掴めないと支援はできません。


私に天才的な腕があり、治す力があるのなら、次々に治していくためにアンケートがあった方が良いと思います。
でも、私にはその才も、腕もない。
だから、一生懸命、お話を聞いて、一緒に発達のヌケ、課題を探そうと思っています。
そして、本人と家族が主となり、どうやって発達の後押しをしていくか、より良い育みを行っていくかを考える補助ができれば、と考えています。


治すのは、本人であり、家族です。
だから、本人、家族の生の声が重要なのです。
その生きた声には、単に情報だけではなく、想いや願い、それぞれの視点が漂っています。
そういった雰囲気から、その子の流れ、発達の流れ、家族の流れが伝わってくるのです。


何をどういった順番でお話しされるか。
どんなときに感情が揺らぎ、想いが溢れてくるのか。
どんな場面で、家族の息、動作がシンクロするのか。
そのすべてが過去から現在に繋がっている流れの表れ。
その子の流れに沿った援助の仕方でなければ、未来は伸びやかに発達してきません。
家族の流れに沿った育み方でなければ、未来に活き活きとした家族の時間が流れません。


個人で仕事を行っている意義であり、強みは効率化と真逆の方向へ進んでいけることだと思っています。
その子に、その家族に、とことん付き合うことができる。
発達のヌケ、課題の根っこが掴めなければ、それが見えるまで、一緒に土の中を掘り続けることができる。
そこには時間の切り抜きはありません。
ある意味、その子と、その家族と同じ時間の流れの中に身を置くことができる。
同じ時間の流れに身を置くことができるのは、オーダーメイドの発達援助を作る上での第一歩。
流れを大切にした仕事をしたいから、アンケートは作りません。