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11月, 2018の投稿を表示しています

情報提供しているだけ

「出張に行った、行く予定」に対して、「売名行為だ」「自慢している」と言われました。 生きづらーい(;´∀`) 出張に行ったのも、行く予定も事実だし、何よりも道外に出張に行ったからといって、偉くもなんともない。 徒歩圏内で相談、発達援助を行うのも、飛行機に乗って相談、発達援助をするのも、何ら違いはありません。 やることは一緒。 むしろ、我が子のために、今後のより良い子育てのために、時間とお金をかける親御さんの方が何百倍も偉い。 だって、それだけ真剣に子どもと向き合い、今という時間を大切に感じているのだから。 世の中にはエラソーなことは言えるのに、行動できない人がたくさんいる。 だからこそ、私は行動できる人を尊敬するし、その人の願い、要望なら全力で応えたいと思います。 出張の話をしたのは、全国に同じ想いをしている親御さん達がいることを伝えたかったから。 時々、ブログに載せる子どもさんの話も、親御さんの話も、そう。 治る人、治った人、治るための知見やそれを持っている人は増えてきたけれども、まだまだ多数派にはなっていないし、まだまだこういった事実を知らない人が大勢います。 治る道を歩みだした人だって、身近に共感してくれる人がいなくて、孤独感を持ちながら進んでいる人だっています。 だからこそ、私が関わらせてもらった子どもさん、親御さんで、ヒントになるエピソード、励まし、希望になるエピソードがあれば、それを紹介させてもらっています。 私が関わった人達のエピソードを載せるのは、ただ単純に知っているからです。 知らないことはブログに書けません。 しかも、私が関わったから良くなった、治ったなんてことは思ってもないですし、そんなはずはありません。 何度も言うようですが、私に治す力はありませんし、治すのは本人であり、家族です。 本人が発達のヌケを育て直す行動をし、家族がそれを後押しするための行動をしたから、治ったのです。 今までにも、いろんな方達の育み方、発達のヌケの育て直し方を一緒に考え、伝えてきました。 でも、治らなかった人、治っていない人もたくさんいます。 「ああすれば、根っこが育っていき、伸びやかに成長できるのに」 「ここから育てていけば、ラクになるのに」 私がそう思っても、やるかやらないかは、本人、家族が決めるこ

支援者に手柄などあるわけがない

数年に渡って、一人の若者を鳥かごの中に押し込めようとしていたのにも関わらず、本人が仕事を始めると、「あなたは自立できる人だと思っていた」と言ってしまう、あまちゃん県の支援者。 散々、人権侵害してきたし、同県のギョーカイ人達がひどいことを行ってきたのを見聞きしていたのにも関わらず、そこで本人のことを守ろうともしなかった、「それはおかしい!」と同県のギョーカイに抗議をすることもしなかった。 本当に、この若者のことを信じ、自立できるような人だと思っていたのだったら、必死に守るし、一緒に闘うはず。 言葉なんて、あとからでも、なんとでも言えます。 100万歩譲って、本当に可能性を信じていたとしても、ボーと見ているだけだったら、それは同県のギョーカイと同じ。 身近に、自分を助けてくれる人、応援してくれる人、そして何よりも一緒に理不尽と闘ってくれる人がいなかった、その孤独感、喪失感を想像したことがあるのか、と言いたい。 行動が伴って初めて、言葉に信用が生まれるもの。 本来なら、「申し訳なかった」と謝り、自分の見る目の無さ、ウデの悪さ、行動に移せなかった卑怯者の心を悔やむのが、ヒトとして、ひと様を支援する者として自然な姿。 自らの過ちに気が付くからこそ、今までの己の支援、同県のギョーカイのあり方から、切り離すことができる。 そして、より良い支援、支援のあり方へと変わっていくチャンスを得る。 本人が変わったのに、支援する側が変わらない、というのはあり得ないこと。 結局、こういった支援者の変わり身、手の平返しは、あわよくば自分の手柄にしたい、という想いの表れです。 あまちゃん県に限らず、こういった類の話は、よくあることです。 だって、私だって、何度も経験しているから。 あれだけ「この子が、一般就労を目指すって(笑)」「IQが上がるわけないでしょ」「感覚過敏は治らないの、それが障害だから」と言っていたのにもかかわらず、治ったり、一般就労したりすると、「うちの支援が良かったから」「うちの学校の教育が良かったから」と言う。 しかも、それを対外的にも言ってしまう。 学校見学のときの実績として、講演会のネタとして。 「てらっこ塾??そんなのやめちまえ」と言っていたのにね。 ギョーカイというのは、一般就労した人、自立した人、治った人の話を欲してい

治したいと思うのは、誰か?

支援者や学校の先生からも相談や助言を求められることがあります。 自傷や他害などをどうにかしたい。 対処療法ではなく、根本から育てていきたい。 そういった熱い想いをぶつけてくれます。 根本から解決したい、育てていきたい、というのは、親御さんに近い視点です。 ということは、それだけ目の前の子どもとしっかり向き合えている証拠。 だからこそ、私はそういった支援者、先生たちを応援したいと思います。 でも、治すのは支援者でも、先生でもありません。 治すのは、本人であり、家族。 発達の土台、根本を育てようとすればするほど、家庭に突き当たるのです。 自然な家庭での営み、子育ての中に、根っこを育てる舞台がある。 いくら療育機関や学校で解決しよう、治そうとしても、時間も、環境も、日常の部分であり、断面でしかありません。 発達とは、本人の主導で育まれていくもの。 「さあ、療育の時間です」という具合にはならないのです。 生活の土台、生きる土台である家庭の中で、やりたいときに、やりたい育ちをとことんやり尽くすことによって、発達が満たされていきます。 安心した雰囲気の中、本人のペースで発達が育まれていく。 発達のヌケは、支援機関に通う前に、学校に入学する前に、できているものです。 なので、やっぱり支援機関も、学校も、“治す”にふさわしい場所ではありません。 発達のヌケは、ヌケが生じた環境で育んでいくのが良いといえます。 ですから、支援者や先生が、根っこに注目し、それを掴もうとすると、家庭と繋がっている。 家庭での育みがなければ、いくら外で頑張っても、課題の解決には至りません。 脆弱な土台の上に、何かを建てようとしても、不安定で、すぐに崩れてしまうからです。 相談やアドバイスを求められる方達の悩みの本質はここ。 結局、問題行動も、発達の課題も、根っこから育てなければ、という想いを抱いている。 でも、自分たちが関われるのは、生活の一部。 だから、どう頑張っても、自分たちの関わりが根っこを養う力までに及ばない。 支援者や先生が頑張れば頑張るほど、その支援、指導が、上辺へのアプローチになってしまい、バランスを崩すことに繋がるというジレンマを抱えている。 案外、何もしない同士の方が、子どもは安定しているもの。 家庭という土台

個人が、個人で治していける時代へと移り変わる時期

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相談にいらっしゃる方達から、「どうして、同じ地域に大久保さんのような人がいるのに、支援機関の人達は教えてくれなかったのでしょう」と言われることがしょっちゅうです。 いつものことですから、私は「組合に入っていないからでしょうね」と答えています(笑) 支援センターとは、公的な機関であり、その地域の資源でもあります。 だから、本来は「この地域には、こんな資源、サービス、人がいて、現在の相談内容からしますと、こういった選択肢が考えられます」と提示すること、そして相談者の意思と選択を尊重した上で、相手の機関とつなぐことが役割だと思います。 最初から、紹介するところ、除外するところを決めておいたり、支援者側の都合で勝手に相談者の選択を誘導したり、決めたりするのはもっての外。 なんとか“センター”というくらいですから、地域という円の中心に存在していて、相談者の利益につながるような情報とアイディアと結びつける。 でも、実際は、地域という円ではなく、自分たちを中心とした円を勝手に引いてしまい、そこに入る組織と入らない組織かを見定めている。 青いお祭りは、いわゆる踏み絵です。 だから私は、誘われても「NO」と言い続けた。 結局、自分たちで引いた円の中に入った組織、人間だけで、パスを回し続けます。 障害者支援とは、利用すればするほど、儲かる仕組みだからです。 ちゃんとパスを返してくれる組織にだけ、パスを出す。 一つの機関で抱えていたら、その機関のみしか、回数が増えていきません。 ましてや、自分自身で解決したり、家庭での取り組みだけで治ってしまったら大変です。 だからこそ、お互い裏で悪口を言いながらも、支援機関、支援者同士で繋がりを持つ。 だからこそ、相談者に提供する情報は、支援者が事前に選別しているのです。 事業を起ち上げた当初、「あそこには挨拶行っといた方が良い」「あっちとは敵対しない方が良い」「あの人とはつながっておいた方が良い」などと言ってくる人達がいました。 その人達は親切心で言っていたのかもしれませんが、私には意味が分かりませんでした。 私が組織の中にいる人間なら、そういった振る舞い、行為をすることが、組織に適応し、地域に適応することへとつながったのかもしれません。 でも、私は事業を起ち上げたのです、独立したのです。

地域が問われない時代、問われるものは?

スマホを使えば、簡単に情報が得られる時代です。 ですから、治したい人、一生涯の支援ではなく、育んでいきたい人にとっては、良い時代になったのだと思います。 以前ですと、地域によって違いがありました。 どういった資源があり、どういった学校、支援者がその地域にいるかが、子ども達、親御さん達に大きな意味をもたらせていたといえます。 「先進地域」などという言葉が使われたことが、それを物語っていたと思います。 でも、今は「先進地域」などと言われません。 何故なら、先進的な“地域”はなくなったから。 あるのは情報であり、その情報を得ているか、どうかの違いになりました。 地域に関係なく、治したい人が治していける時代になったのは歓迎すべきことだと思います。 特に、成人した方達にとって、「地域が問われなくなった」というのは素晴らしいことです。 自らの意思と主体性で支援を、生活を、人生を選択できるようになったのです。 昔のように、障害を持った人を地域の支援者、支援機関が結託して鳥かごの中に押し込めようとしても、「こんな支援、方法がある」「全国には、違った選択をし、自立できた人もいる」と闘うことができます。 そして全国の心ある人達と繋がることで、自分の身を守ることができるようになったのです。 どんなに辛い状況だったとしても、主体性を失っていない限り、自ら治していけるし、治すアイディア、育むアイディアを持っている人と繋がることができます。 ですから、どんな地域に住んでいようとも、たとえ味方が周りにいなかったとしても、応援してくれる人を求め、全国に心と身体を動かすことができるのです。 若者や成人した人達にとって、素晴らしい時代になったと言えますが、子どもにとってはそうとは言えない現実があると思います。 何故なら、自分以外の意思と選択に左右される可能性があるから。 つまり、親御さん次第で、大きく変わるということです。 情報を自由に選べるということは、偏りが生じるのです。 情報がたくさんあるからこそ、親御さんの選択によって近道にもなれば、遠回りにもなる。 ある意味、迷子になる子が出てくる時代。 地域に固定されていた時代、左右されていた時代は、みんな同じ方向に進むので、良い結果、残念な結果というゴールは違いますが、その子だけ迷子になる可能

先輩たちが歩んでこられた途中から、堂々と子育てを始めれば良い!

『 一般の教科書』と『特別支援学校・知的障害者用教科書』 というブログに対する反響が続いていまして、わざわざメールで感謝の言葉をくださる方もいらっしゃいます。 それだけ存在を知らなかった人が多かったということだと思います。 メッセージをくださる方達の様子をお聞きすると、どうも都会だから知っている、地方だから、小さい学校だから知らない、ということはなく、学校、それこそ、担任の先生たちの考え方が大きいような印象を受けました。 どんな背景があるにせよ、「その教室内で教科書がどのような扱われ方をしているか?」は、その学校、教室、先生の教科学習に対する考え方が表れていると思います。 どう考えても、プリントのみで、教科書の内容を網羅することも、教科書で得られる知識、学力を身に付けることも難しいでしょう。 いつも批判され、この地域では存在しない事業となっているので、たまに感謝の言葉を頂くと嬉しく思いますが、せっかく情報が得られたのですから、その情報を活かし、お子さんのために時間を使ってもらいたいな、と思っています。 「情報を得ながら、子育てをしていく」というのは、すでに一般的になっていますし、必要なことだと思います。 子どもの数は減る一方ですし、核家族化なんて、わざわざ言われもしなくなりました。 おばあちゃんと地域にいた先輩ママ達が、スマホに替わったのです。 「今の親はスマホばかり」と言う人たちもいますが、スマホに頼らざるを得ない現実もあるのだと思います。 遠くの親戚より、近所の知らない他人より、スマホが助けてくれる時代。 スマホが助けてくれる時代を生きているのですから、上手に利用すれば良いと思います。 特に、発達障害の子ども達の育み方は、大いに利用すべきだと思います。 治った子の親御さん達、治ってきている親御さん達の子育てにはアイディアが詰まっています。 もちろん、そのまま真似をしても、うまくいくことはないでしょうが、我が子の子育てを考えるきっかけになります。 そして、我が子に対する育みに、より多くの時間を注ぐことができるようになります。 情報を得ることは、時間を生みます。 例えば、今回の教科書の話。 これを知るだけで、知らなかったときよりも時間を有効に使うことができるのです。 「うちの子、学力が身についていかないな」 「

自然治癒力に期待し、沿う仕事

相談を受けた親御さんが仰っていました。 「公的な機関は、すべて行きました」と。 役所の相談窓口、保健所、児童相談所、教育相談所、支援センター、子育てセンター、学校のコーディネーター、カウンセラー・・・。 考えらえるところはすべて行き、相談されてきたそうです。 でも、誰一人、訊きたいことに答えてくれる人はいなかった、と。 親御さんは、お子さんの生きづらさを解決したかったのです。 親としての心構え、対応の仕方を知りたかったのでも、考え方を改め、悩む気持ちを抑え込む方法を知りたかったのでもありません。 親の代わりに支援をしてくれる場所、その利用手続きの仕方を知りたかったわけでもありません。 一緒に悩みを共感してくれること、そういった仲間、居場所を作りたかったわけでもありません。 子どもの生きづらさの原因を知り、そこへのアプローチを、どうやって育てていけばよいか、育んでいけばよいかが知りたい。 その想いを持ち続けた結果、私との縁が生まれました。 本人とお会いし、発達のヌケ、未発達の部分を確認。 そして、親御さんと一緒に、受精から今までの物語を紡いでいきました。 その物語を聞き、最後に親御さんは「数年間、ずっと靄がかった中を生きてきましたが、一気に晴れた気がします」と言っていました。 一回目の相談を終えたあと、次にお伺いすると、親御さんも、子どもさんも、一気に変わっていました。 間隔も短かったですし、具体的な発達援助のアイディアは1つ、2つと言ったところでした。 でも、これだけ一気に変わった。 ですから私は、このご家族には、「生きづらさには、原因がある。根っこがある。そして育てる方法がある」ということを知る、というのが、一番の望みであり、発達援助だったと思いました。 別のお子さんですが、最初の面談のとき、「ぼく、ふつうになりたいんです。ふつうになれますか?」と言ってくる子がいました。 私はすぐに、「ふつうになりたいんだ。いいね。おじちゃんが、普通になるお手伝いするよ」と返すと、ガラッと表情が変わり、子どもらしい笑顔が出るようになりました。 まるで、抑え込んでいたものが一気に飛びだしてきたみたいです。 あとから親御さんに聞いた話では、ずっと「普通になりたい」という気持ちを抑え込んできたそうです。 先生や支援者などに

習い事ができるようになったら、卒業!

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私の援助を卒業した子と、久しぶりにお会いする機会がありました。 子どもの1年、2年はとても大きなもの。 見違える程、たくましく成長した姿から、会わなくなってからの時間に流れた本人の頑張りを感じました。 このご家族と初めてお会いしたときから、私はこう言っていました。 「〇〇くんは、社会や地域の中で育ち、成長していく子。だから、地域の資源が利用できる、社会の中でより良く成長できる段階までお手伝いします」と。 当初の親御さんの希望、依頼内容とは異なりましたが、本人と接し、本人の気持ち、可能性を確認したあと、「地域の習い事に通えるくらいまで育ったら、卒業」と決め、それに向けて発達援助を行いました。 実際に本人と関わらせてもらったのは半年もありませんが、本人も、親御さんも、私も、発達のヌケ、課題の根っこをしっかり捕まえられたという実感が得られてからというもの、加速度的に成長のスピードが高まっていきました。 まさに発達はドカン! 本人が自分の変化、自信を感じ始めたタイミングを見て、地域のイベントに参加。 いろんな子ども向けのイベントに参加するうちに、友達ができ、これをきっかけに興味が広がる。 興味が出たものに関して、個人でやっている教室があり、そこに見学→通うようになりました。 今では、苦手だった運動に関する習い事もやっているそうです。 一般の習い事に通えるようになったとき、親御さんは本当に喜ばれていました。 まさかこんな日がくるとは思わなかった、と言います。 学校では教科学習の時間10分。 親御さんが「勉強は…」と言うと、「この子達には自立できる力を養うことが大事」と、身辺面と体力面、一人で過ごせる余暇ばかりのカリキュラム。 だから、同世代の子どもと同じような姿は想像できなかった、と言っていました。 私は、「最後のところは、社会が治す」と信じています。 それは、社会に出て、働き始めると、どんどん治っていく若者たちを見てきたから。 支援者に「まだダメだ、まだダメだ」と止められていた人が、その手を振り切り、社会に飛びだしていくと、一気に治っていきました。 社会には治す力がある。 いや、「社会にこそ、治す力があるのだ」と、そういった若者たちの姿から思うようになりました。 支援者、専門家に治せる部分は、社会と比べれば、ご

『一般の教科書』と『特別支援学校・知的障害者用教科書』

教科書が貰えない問題に対して、多くの反響がありました。 ブログのアクセス数も多かったですし、SNSやメール等で感想や経験されたこと、各地域の実態などを教えてくださった方たちがいました。 ほとんどの方達の反応は、「あり得ない!」という驚き、怒り、呆れでした。 昨日のブログで、私は意味が通るからと思い、「教科書」と記していました。 でも、よく考えたら、「教科書」という表現だけでは、普通級の一般的な教科書だと捉える方がいると思いました。 特に、まだ就学前の子ども達の親御さんは。 実は、教科書には、一般の教科書(私達が使い、イメージする教科書)と、特別支援学校・知的障害者用教科書(通称☆本:ホシボン)があるのです。 というか、多くの人は知らないですよね。 私だって、大学の講義で存在は知りましたが、実物は見たことがありません。 学生時代は、支援学校で補助をし、施設職員時代では子ども達を学校に送り、支援学校教員として働き、そして今、家庭支援事業を行っている。 でも、一度たりとも、見たことがないのです。 そして使った、使っているという声も聞かない。 私が実物を見たのは、盲学校の拡大教科書と点字の教科書のみ。 でも、それだって、普通の教科書を拡大したり、点字にしたりしていたものですから。 ですから、私にとっては、ツチノコみたいなもの(←昭和) ということで、教科書には、普通の教科書を分かりやすくした特別支援学校・知的障害者用教科書があるのです。 しかも、その特別な教科書は、☆の数によって難易度が異なっており、「☆」「☆☆」「☆☆☆」という具合に小学生版は3段階、つまり、3種類の教科書があります。 ちなみに、中学生版は「☆☆☆☆」の1種類。 私も、この事業を始めて、「教科書をくれない、やらない」「自分で買えと言われる」という相談を受けるようになってから調べ、びっくりしたのが正直なところ。 だって、こんなに丁寧に種類を分けて作られている教科書があるのです。 普通級の子は、選択肢がないのに。 だから、初めに思ったのが、どうしてこんなに配慮されて作られた教科書があるのに使わないんだ、しかもその存在すら見えてこないんだ、という疑問と憤りです。 改めて教科書を使わない、渡されもしない、というのは、どういうことなのか考えてみます。 ま

学校に教科書がないわけはない

公立の小学校、中学校の教科書は無償です。 無償の教科書を、「支援学級の子だから」ということで、最初から数に入れない、購入しないということはないでしょう。 特にこのご時世、「障害があるから、その子たちの分は購入しませんでした」なんてことはあり得ないし、教育委員会もツッコミを入れられるようなリスクは取らないはず。 ということで、子どもに教科書が渡されない、というのはおかしいですね。 学校教育法附則第9条には、特別支援学校、支援学級において、適切な教科書がないなど、特別な場合には定められた教科書以外の使用が許されることもある、と記されています。 教科書を使わなくても良い教育と、「教科書を購入しない」「教科書は必要ない」は別の話だと思います。 実際のところ、教科書を使わない学校もありますが、教科書自体はある、というのがほとんどのはず。 施設で働いていたとき、支援学校に通っていた子ども達も教科書ありましたもん。 毎年、卒業式の日に、1ページもめくられていないままの教科書6年分、持って帰ってきてましたから。 「教科書をくれない」という話は、当地の相談でよく聞きます。 いやいや、教科書使わないんだったら、何を勉強しているのって訊いたら、当地御自慢の構造化支援。 ブースの中で、ワークシステムを使い、簡単な計算、文字のプリントをやる。 いやいや、より良く学ぶための構造化された支援なのに、構造化された支援を使うことメインじゃん、6年間、ひらがな、足し算引き算でおしまいですかってことも。 どうして教科書をくれないのか尋ねると、「知的障害があるから」「発達障害があるから」と返ってきます。 知的障害も、発達障害も、教科書で学べない根拠にはなりませんね。 中には、教科書で学ぶことが難しい子もいるでしょうが、支援級にいる子全員が、ということはないでしょう。 教科書で学べる子もいれば、教科書以外で学んだ方が良い子もいる。 それが普通です。 教科書をくれない、使わないという学校とはやりあってきましたが、明確な根拠を述べられるところはありませんでしたね。 先ほど述べたように、「障害があるから」の一点張り。 で、そういうところに共通してみられるのが、教科書を使っている子がいない、ということ。 教科書で勉強できる子、勉強した方が良い子もいるのに、そ

「頑張ったから」ではなく、適応を望まない心身が『二次障害』という表現をしているのだ

私が出会ってきた人達の中に、頑張ったために心身を病んだという人はいなかった。 心身を病んだ人というのは、むしろ、頑張ることを止められた人達。 「頑張りたいけれども、頑張れない。頑張らせてくれない」という叫びが心を蝕み、向かう場所を失ったエネルギーが身体を滅ぼしていく。 おぎゃあと生まれた瞬間から、いや、精子と卵子が出会った瞬間から、ヒトはより良い次の瞬間を求めて歩み続ける。 細胞を分化させ、神経を伸ばし、環境に適応するための身体を作り上げていく。 環境に適応できるというのは、より良く生きることに繋がる。 より良く生きるために、環境からの刺激を受け取れる感覚器を育み、対応できる動き、身体を育む。 受精した瞬間から命が尽きるその瞬間まで、より良く環境へ適応しようと、ヒトは進化、発達、成長を続ける。 「頑張る」というのは、本来、心と身体が同じ方向を向く、とても心地良いことである。 「〇〇ができるようになりたい」 「この目標を達成したい」 これらも、高度な環境適応といえる。 頭で思い描いた目標、理想という環境へ、身体を適応させていく。 絶えまなく続く身体の進化に、心が一致する瞬間。 頑張ることは、心地良い。 頑張ることは、心身を一致させ、伸びやかな発達、成長を促す。 だから、頑張ることで心身が病むことはあり得ないのである。 支援者は「頑張ると、二次障害になる」と言う。 支援を受けさせるための脅し文句として使っている者もいれば、本当に信じて疑わない者もいる。 信じて疑わない者は、先人から与えられたフィルターを通して、心身を病む当事者を見たに違いない。 「ああ、やっぱり、頑張ると二次障害になる」 しかし、現実は違う。 ただの偏見、ただの解釈の誤りである。 頑張ったから二次障害になったのではなく、その人は頑張れなかったから、心身を病んだのだ。 環境に適応できなかったから、心身を病んだのだ。 ヒトは頑張って進化を求める動物であると同時に、適応を目指す動物でもある。 だから、頑張ろうとしているのを止められると、身体を病む。 だから、適応したくない環境に適応し始めると、心を病む。 「普通になりたい」と子どもが言う。 「仕事して自立したい」と若者が言う。 すると、「普通になんかならなくて良い」「一般の仕事して

「選ばせない」じゃなくて、「選ばれよう」でしょ

「てらっこ塾を利用するな」「あんな、おかしい人間の支援なんか受けるな、相談するな」「治るなんて、詐欺に決まっている」と、支援者たちが言うのは、何とも思いません。 「あなたの子は、一生涯支援が必要です」 「頑張らせると、二次障害になりますよ」 「普通級には行けません。良くて支援級です」 「知的障害がなくなることはありませんよ」 そんな風に言われていた子ども達、若者たちが、次々、予言を覆し、勉強ができるようになり、姿勢や動きが自由にできるようになる。 一般の高校に入り、一般就労し、支援がなくても、自分の力で生活ができるようになる。 縁日のくじみたいに、年齢や症状、知的障害の有無に関わらず、みんなスケジュール、みんな衝立、困ったらSSTと出てくる景品は同じもの。 そして、本人に変化が見られないと、「社会ガー」と十八番の責任転嫁。 これじゃあ、「利用するな」と言うくらいしかできないでしょう。 支援者たちが、そのように言うのはわかります。 自分達を守るために仕事をしている人達だから。 でも、学校の先生はそうじゃないでしょ。 「利用するな」は、学校の先生から言われることもあります。 もちろん、直接ではなく、利用してくださっている親御さんに対して。 でも、放課後、しかも親御さんの意思で利用しているものに、どんな権限があって、教員がモノ申すのか。 だって、家庭で習い事していて、それに対して、担任が「止めた方が良い」なんて言ってこないでしょ。 「あの塾、やめてください」「野球クラブは止めた方が良いですよ」なんて言わないでしょ、普通。 来年度を見据えた時期的なものもあるのでしょう。 止めた方が良い、という理由が、「本人が頑張りすぎていると思うから」 意味不明ですね。 本人の成長は認めるが、頑張りすぎているように感じるから、利用しない方がいい。 この言葉を教員の口から聞くと、悲しさは倍増しますね。 教員って、子どもの成長を願い、そしてそれを心から喜ぶ人達ではないのでしょうか。 たとえ、塾や放課後の習い事だったとしても、子どもが成長していく姿を見て、一緒に喜ぶのが教員じゃないのでしょうか。 身体面からのアプローチ、言葉以前のアプローチで、授業をしっかり聞けるようになり、成績が上がり、支援級へと言っていた子が、普通

我が子と一緒に歩む道は、どこか懐かしさを感じるもの

虫歯ではなく、麻酔をかけるわけでもなく、歯垢を取るだけなのに、どうしてこんなにも通わないといけないのでしょうかね。 100歩譲って、上の歯と下の歯で2回に分けるならまだしも、上の歯を3回に分け、下の歯を3回に分ける。 どうして一気にできないのか尋ねると、「歯に負担がー」と、それ以上、ツッコミを入れさせませんよ、というような定型文が返ってくる。 歯の負担というけれども、通う方の負担はどうでも良いのか。 結局、「患者さんのために」と言いながら、回数を稼ぎたいだけでしょ、と思ってしまう。 自営業だから、なんとでもなる、時間の融通が利く、と思っているのかもしれませんが、自営業は働いてナンボの世界。 働かない時間は、無収入。 だから、毎日、せっせと働いています。 訪問するお宅が、函館だろうが、泊りがけで伺う場所だろうが、一発勝負と思って仕事をしています。 発達のヌケを探り、その子の物語を完成させる。 発達のヌケの育て直し方と、そのご家庭の雰囲気、流れにあった育み方を提案する。 限られた時間で、これらすべてをやりぬくことが、私に依頼してくれた方への誠意だと思っていますし、子どもの貴重な発達の時間を守ることだと考えています。 なので、「上の歯、三本でおしまい。また来週」みたいな支援を見ると、つまんない商売してんじゃねーよ、と思ってしまいます。 お金は後からでも稼げばいいですが、時間というのは後からどうしようもありません。 ですから、私が帰ったあとから、すぐに本人が、家族が動き出せる形まで持っていく必要があります。 いや、理想で言えば、一緒にお話しし、考えている最中から、本人、家族の意識や気持ち、雰囲気が動き出している状態です。 私が確認し、見たて、提案する。 それを本人、家族が受け取り、「はい、ありがとうございました」では、つまらんのです。 私はきっかけの一つであり、本人と家族がより良い未来に向かって歩みだす後押しの一つにすぎません。 私がいくら限られた時間の中で、一つの形を作ったとしても、動きが生じなければ意味がないのです。 そういった意味で、私自身が問われます。 家族の流れに沿った発達援助ができているか、を。 家族の流れに沿いながら仕事ができていると感じられるのは、親御さんから次のような言葉が聞かれたときです。

親が治るから子も治る、子が治るから親も治る

エビデンスにこだわる人というのは、エビデンス以外の世界を想像できない人なのだと思います。 エビデンスに忠実というよりは、エビデンスのような記号的で、揺らぎや想像、解釈の余地がないものに、すがらざるを得ない脳みその持ち主なのでしょう。 そういった意味で、その人自体が実生活の中で生きづらさを抱えている。 ましてや、子育てといった原理原則が存在せず、余白こそが主戦場となる営みに対し、恐怖すら感じているかもしれません。 ですから、子どもの発達、成長よりも、子どもの健康、幸せよりも、エビデンスを取る。 いや、取るしか選択肢がないのです。 エビデンスの外を想像できないから。 揺らぎや想像、解釈といった流動的なものが脳内に侵入してくるのを防ぐために。 目の前にいる我が子よりも、どっかの誰かが唱えたエビデンスを取る、ということは、その親自身、発達障害を持った人だと想像できます。 当然、親の特徴は子どもに遺伝しますから、子どもが発達障害の場合、親にもその要素が大なり小なりあるといえます。 なので、エビデンスしか信じられないというような特徴が前面に押し出ている人以外でも、何かしら発達の課題を持って生きていると考えられます。 エビデンス原理主義のような極端に特徴が出てしまっている場合は、自ら治す方向へと踏みだすことはできませんし、もし踏みだしたとしても、治るまで歩き続けることはできないでしょう。 当然、子どもは治らない。 しかし、こういった極端な家庭でなくとも、発達障害を持つ子の親御さんは、自身の発達と向き合い、治していくことが重要です。 何故なら、治るとは親子の協働作業だからです。 発達障害が治るには、子どものみが頑張れば良いのではありません。 子どものみが発達援助を受け、それで治っていく、という話は聞きません。 親御さん自身が、自分の発達の課題と向き合い、治そうとする、治っていく。 そうすることで、子どもが治っていく。 子どもの発達に注目することで、自分の発達の課題に気が付く。 子どもの発達を促す試行錯誤が、自分の発達を育て直すアイディアへと繋がる。 ですから、子どもが治ると、親も治る。 親が治ると、子どもが治る。 このような歯車が回りだすと、家族が一緒に治るまで到達するのです。 親御さん自身に発達障害があり、生

「できない現実」と「できるはず」の狭間に生きづらさが存在する

私はいつも「この子の、この家族の未来が少しでも良くなってほしい」と想い、仕事をしています。 実際に子どもと関わるときも、親御さんと発達援助の方法を考えるときも、いただいたメールに返信するときも。 「ちょっぴり成長できたな」「こうして子育てしていけばいいんだな」「気持ちがすっきりした」「少し元気が出た」 受け取り方は人それぞれでも、何か前に進む力の一つになれれば、私は嬉しく思います。 発達障害の方達と接していると、皆さん、治りたいという想いを持った人達なんだと感じます。 身体、機能障害の方達とは異なり、なんとなく、漠然とした、言葉で表せないような違和感や生きづらさを抱えている。 その掴めそうで掴めない、見えそうで見えない存在から解放されたいという想いをひしひしと感じます。 ですから、現状維持や保護された環境に身を置くと、皆さん、どんどん病んでいくのだと思います。 親御さんの中には、今はしゃべらないけれども、知的障害があると判定されたけれども、コミュニケーションが成立していないけれども、「この子は、ちゃんと理解していると思う」「この子は、普通級で学んでいける」などとおっしゃる方達がいて、十中八九正しかったりします。 こういった親御さん達は、感じることができています。 我が子の漠然とした違和感と、治る未来を。 生きづらさとは、感覚的なもの。 もちろん、何かができない、うまくいかないという行動の結果から生きづらさを感じます。 しかし、単に「〇〇ができない」のではなく、「〇〇ができると思えるんだけれど、できない」というギャップ、違和感に生きづらさを感じているのだと思います。 だからこそ、支援が一番に向かう先は、本人の気持ちであり、違和感からの解放。 治りたい本人がいて、治したい親がいる。 なので、その気持ちに添うのが支援というもの。 「少し治ったな」「一歩でも、治る方向へ進んだな」 そんな感覚を得られることが、支援の存在意義だといえます。 世の中に、治る人も、治る知見も、増えてきました。 それを見て、必死になって治そうとする人も出てきました。 しかし、中には気持ちを横に置いた、発達援助をされている人がいるような気がします。 発達援助と名を変えた行動変容。 「ここに発達のヌケがあるから、こういった動きを続けよう」

「見えないものは、ない」は障害特性?先天的な障害?活かすべきもの?

「見えないものは、ない」というのは、自閉症、発達障害の人達に多く見られることです。 ですから、「想像力の障害」という言葉で片づけられ、それが障害特性で、それこそ、変わらない部分で、支援や配慮が必要なものとして捉えられます。 でも、本当にそうなのでしょうか。 「見えないものは、ない」人達と接して感じるのは、情報処理の問題ということです。 定型発達と言われる私達だって、見えていないものは、どう頑張っても見えません。 でも、この部分において日常生活での問題にならないのは、見えないものを想像して補っているからです。 じゃあ、どうやって見えないものを想像しているのかといったら、複数の情報を同じテーブルの上に乗せ、過去の経験や体感などを駆使し、「多分、こうだろう」と想像している。 で、もちろん、外れることもあるが、想像はだいたい合っている。 だから、見えるものと、見えていないものを総合しながら、人と付き合ったり、仕事をしたり、生活したりしている。 ちなみに、子どもが面白い、突拍子もない想像をするのは、まだ経験が少ないのと、複数の情報を同時に処理する力が育っていないなど、まだ脳(特に大脳皮質、前頭前野)が育つ過程だから。 自閉症、発達障害の人達は、定型発達と情報処理の仕方が異なると言われます。 確かに、情報処理の仕方が違うな、というのは、この「見えないものは、ない」からも感じますが、それは独特な情報処理の仕方を持って生まれたというよりは、成長の過程の中で作られた処理形式、脳の使い方のようにも思えます。 例えば、感覚面に発達の遅れ、未発達があれば、特に視覚情報などの偏った情報しか入ってこなくなって、視覚に頼った情報処理の仕方ができてしまう。 例えば、爬虫類の脳や哺乳類の脳など、脳の表面よりも深い部位に発達のヌケや遅れがあれば、ヒトの脳の部位に発達の遅れが見られ、結果的にいろんな情報を整理、統合することが難しくなってしまう。 よく「自閉症の人は視覚的な情報処理が得意なので、その得意なことを活かしましょう」などと言われます。 でも、本当に得意なことで、生きていく上で武器となるような特性だとしたら、世の中の自閉症の人達はこんなに困っていないはず。 だから、得意と言うよりは、仕方なく、そうなるしかなかったというのが本当のところだと思います

流れを大切にした仕事をしたいから、アンケートは作りません

新規や出張支援を利用される方から、「事前に記入しておくアンケートはありますか?」と尋ねられることがあります。 療育機関や相談事業所などでは、そういったアンケートの記入が一般的なのでしょう。 でも、うちにはアンケートはありませんし、今後も作るつもりはありません。 だって、実際にお会いするから。 だって、一緒に作り上げていこうと思っているから。 アンケートとは、効率化の象徴のように思えます。 事前に情報を集めておくことで、ポイントを絞って準備ができるし、支援ができる。 より少ない労力で、その時間を収め、次から次へとさばいていく。 労力は少なく、利益は多く。 もちろん、効率的に仕事をするのは当たり前のことだと思いますが、療育に、いや、人を育てるのに、この考え方はそぐわないと思います。 きちっとしたアンケートが渡されると、記入する方は「ちゃんとやってくれる事業所だ」「事前に聞いてくれるなんて熱心だ」というように感じる方もいると思います。 しかし、私はそうは思いません。 「あなたの声を聞きますよ」と言っているようで、枠が決められているから。 「自由になんでも」と言いながらも、誘導している主は、本人でもないし、親御さんでもない。 子育てに効率化が侵入するのも悲しいですが、知らず知らずのうちに支援する側と支援される側の関係が出来上がっているのも悲しいといえます。 アンケートを書いてもらった支援者側は、どうやって、それを利用するのか、支援に繋げるのか、私にはわかりません。 と言いますか、私はアンケートを貰っても、そこから支援を組み立てていくことはできません。 何故なら、アンケートとは切り抜きだから。 その子のある部分の切り抜きであり、親御さんの見立て、想いの切り抜きであり、時間の切り抜きです。 アンケートに、我が子のすべてを記入することはできません。 また記入を求められた部分が、その子の発達のヌケ、課題の根っこであるとも限りません。 アンケートとは、作った人の視点が入るもの。 やりたい支援、得意な支援に引っかかる部分が項目になっていることもあります。 ですから、人為的な切り取りになってしまい、本当にその子が必要な援助が届かないこともあるのです。 それに、アンケートを書いた時点と受け取った時点、実際に支援する時点は、