親が治るから子も治る、子が治るから親も治る

エビデンスにこだわる人というのは、エビデンス以外の世界を想像できない人なのだと思います。
エビデンスに忠実というよりは、エビデンスのような記号的で、揺らぎや想像、解釈の余地がないものに、すがらざるを得ない脳みその持ち主なのでしょう。
そういった意味で、その人自体が実生活の中で生きづらさを抱えている。


ましてや、子育てといった原理原則が存在せず、余白こそが主戦場となる営みに対し、恐怖すら感じているかもしれません。
ですから、子どもの発達、成長よりも、子どもの健康、幸せよりも、エビデンスを取る。
いや、取るしか選択肢がないのです。
エビデンスの外を想像できないから。
揺らぎや想像、解釈といった流動的なものが脳内に侵入してくるのを防ぐために。


目の前にいる我が子よりも、どっかの誰かが唱えたエビデンスを取る、ということは、その親自身、発達障害を持った人だと想像できます。
当然、親の特徴は子どもに遺伝しますから、子どもが発達障害の場合、親にもその要素が大なり小なりあるといえます。
なので、エビデンスしか信じられないというような特徴が前面に押し出ている人以外でも、何かしら発達の課題を持って生きていると考えられます。


エビデンス原理主義のような極端に特徴が出てしまっている場合は、自ら治す方向へと踏みだすことはできませんし、もし踏みだしたとしても、治るまで歩き続けることはできないでしょう。
当然、子どもは治らない。
しかし、こういった極端な家庭でなくとも、発達障害を持つ子の親御さんは、自身の発達と向き合い、治していくことが重要です。
何故なら、治るとは親子の協働作業だからです。


発達障害が治るには、子どものみが頑張れば良いのではありません。
子どものみが発達援助を受け、それで治っていく、という話は聞きません。
親御さん自身が、自分の発達の課題と向き合い、治そうとする、治っていく。
そうすることで、子どもが治っていく。


子どもの発達に注目することで、自分の発達の課題に気が付く。
子どもの発達を促す試行錯誤が、自分の発達を育て直すアイディアへと繋がる。
ですから、子どもが治ると、親も治る。
親が治ると、子どもが治る。
このような歯車が回りだすと、家族が一緒に治るまで到達するのです。


親御さん自身に発達障害があり、生きづらさを抱えたままですと、治り切るまで踏ん張れないのです。
子どもの視点の想像、子どもの未来の想像。
より良い遊び、関わり方、刺激、環境の創造。
考え、実行し、反省し、修正と工夫を繰り返す試行錯誤。
目に見える変化が見えなくとも、発達の鼓動を感じ、より良い未来の姿を脳裏に映し出すことができること。
課題を持ち続けたままですと、これらのどこかに支障が出るものです。


親御さん自身が、自分の発達障害を強く意識し、それと向き合ってきた人ほど、子どもは治っているように感じます。
もちろん、似たような感覚を持っているからこそ、分かり合え、より良い営みへとつながっている、とも考えられます。
しかし、それよりも、「私が治ったんだから、我が子も治る」というような実感があり、揺らぎない信念があるようにも感じます。


親御さん自身が、自分の発達障害を治してきた人は強い。
エビデンスなどといった記号にすがることなく、揺らぎの世界へと突き進むことができる。
それは、ご自身の中に信念があるから。
我が子を治すための想像と創造、試行錯誤とやり切れるためだけではなく、こういった揺るぎない信念を持つためにも、親御さん自身、発達障害を治した方が良いと思います。


子どもだけ治ることは珍しい。
「親が治るから子も治る、子が治るから親も治る」
子育ての本質は、身体を使った対話であり、親子の交流ですから、これは当然で自然な姿だといえますね。

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