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5月, 2018の投稿を表示しています

臆病者のSST

どうしてSST(ソーシャルスキルトレーニング)がほとんど役に立たないのでしょうか、実際の場面になると使えないのでしょうか。 そこには般化しづらい特性があるでしょうし、そもそも知識として教えようとすること自体が間違っているということもあるでしょう。 でも、それよりも根本的な問題として、そもそも伝えようとしている方向性が間違っている場合が多いのです。 取り上げる内容は様々ですが、結局、みんな同じことを言っています。 それは一言で言えば、「どうしたら嫌われないか」です。 支援者の多くは、嫌われることを恐れます。 それは支援者自身が持つ愛着面の課題からであり、嫌われないこと=仕事につながると思っているからです。 嫌われることを恐れる人間というのは、嫌われないことが生きる術として染みついています。 だから、何の疑問を持つこともなく、「嫌われないことが社会性だよ」と教えようとする。 特に困難を持った子どもに対しては、寒々しさを持って生きていた子ども時代の自分自身の姿を重ねてしまいます。 子どもと関わる支援者の中に、必死に嫌われない生き方を教えようとし、必死に自分だけはこの子を嫌いになるまいとする人がいるのをよく見かけます。 ギョーカイに属している支援者というのは、自分一人で支援するよりも、連携することを求められます。 自立させる支援者よりも、上手にパスできる支援者が良いこととされているのです。 サッカーで言うと、得点を決めるストライカーは必要とされず、とにかく仲間にパスを回す選手が良い選手になります。 何故なら、ゴールを決めれば1で終わりますが、パスを回せば、その分、数が増えていくから。 支援者が「連携連携」というのは、「こっちにも支援する回数をくれ」と言っているだけ。 一人の利用者でも、何度も通わせれば、いろんなところに誘導すれば、それだけ利用回数が増えていき、結果、お金につながります。 パスを回す方が効率的に利用回数が増やせるから、いつまでもパスばっかりしていて、「いろんな専門機関と連携して」なんて言いながら、何一つゴールが決められない。 ギョーカイ内で自立させちゃう支援者が嫌われて、反対に「連携連携」「支援支援」と言っているだけの支援者が重宝されるのは、こういったお仕事の仕組みがあるわけで、プレーヤーと外から見ている一般の人

受容すること、理解すること

「受容する」ということは、期待値を下げることを言うのだろうか。 「理解する」ということは、現状をそのまま受け止めることを言うのだろうか。 『受容』という言葉も、『理解』という言葉も、本来、より良い関係性を築いていくために必要な言葉。 しかし、その言葉が、親御さんの心の重りとなり、親と子の距離を遠ざけているように感じるのです。 私も子育て世代の一人であり、同世代の方達からの相談がきます。 中には、私よりも年齢の若い親御さんと関わる場面も出てくるようになりました。 当然、子育ては喜びや楽しみだけではありません。 でも、同世代、また自分より年下の親御さん達があまりにも苦しそうに日々子どもさんと接しているのを見聞きすると、心苦しく思うのです。 親御さん達の口からは、こんな言葉が出てきます。 「私がまだ受容できていないから…」 「私がちゃんと理解してあげられていないから…」 しかし、親御さん達の姿からは、障害を持っているという事実を受け入れ、我が子のことをより良く理解しよう、理解したい、という想いが感じ取れます。 じゃあ、親御さん達の言う『受容』とは、『理解』とは…。 親御さん達の『受容』『理解』という言葉を辿っていくと、支援者の言葉とぶつかります。 誰しもが抱くであろう自然な親心を否定する言葉です。 我が子の未来の可能性を知りたい、いや、信じたい親御さんに対して、すでに未来は決まっているかのごとく、「この子は、生涯支援を受けていく」「特別支援の世界で生きる子だ」と言う。 この子に合った育て方を知りたいのに、返ってくるのは親の振る舞い方と、世の中にはどんな支援があるかということばかり。 我が子の可能性を信じたい、より良く育つ方法を知りたい親御さん達は、支援者から返ってくる言葉によって、その想いに蓋をするようになります。 最初はどの親御さんも持っていた自然な想いなのに、段々1人消え、2人消え、と減っていく。 本当は蓋をしたくないと思っている親御さんからは苦しさがにじみ出ています。 そして、蓋を閉めるとき、親御さんは自分を納得させるためにこう言うのです。 「悩む私が間違っている」 「私が想いを捨てられないのは、受容や理解ができていないからだ」と。 特別支援の世界では頻繁に使われている『受容』や『理解』という言葉。

もう一度伝えたい『感覚過敏は治りますか?』(花風社)の意義

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当地の書店で並ぶようになったら、再び書こうと思っていました。 みなさま、もうお読みになられたでしょうか。 今月、出版された花風社さんの新刊 『感覚過敏は治りますか?』 のことです。 新刊を読んですぐに書いたブログには、時計の針を進める本と記しました。 それくらい画期的で、また今いる人だけではなく、これから生まれてくる子ども達も含め、多くの人の苦しみを解決すると同時に、その人達の可能性を広げる本だと感じたからです。 素晴らしい知見をお持ちのプロフェッショナルだと感じた方の場合、その著書だけではなく、必ず参考文献も読むようにしています。 今回の新刊にも、著者の栗本さんが学ばれた参考文献の数々が紹介されていました。 この『感覚過敏は治りますか?』は、幅広い知識と栗本さんの長年積み重ねてこられた経験が合わさり、生まれたものだとわかります。 参考文献を読めば、読むほど、私達読者に分かりやすいようにさらっと述べられている言葉の持つ深みを感じます。 改めて、この本の持つ素晴らしさと、時が経つにつれ、ますますここに記されている知見の価値と意義が高められていく未来を感じています。 私には、この本を読まない理由が見当たりません。 全国どこでも購入することができるのに、ギョーカイのように講習を受けないと手に入れられないような本ではないのに、どうして読まずにいられるでしょうか。 私は、発達援助という仕事を続けている限り、この本を何度も開き、何度も読み続けると思います。 「治る」という言葉に拒否反応がある人もいることはわかります。 また神経発達の障害である発達障害を持つ人が、刺激によってどんどん発達していき、あと一歩で診断基準も満たさなくなるし、本人の感じる困難さが消えていく段階までくると、ピタッと発達が止まる(だから、治らない)と、もはや信仰に近い考えを持っている人がいるのもわかります。 治りたくないし、我が子を治したくないと思うのは個人の自由。 発達するけれども、治る手前に限界があると妄想するのも個人の自由。 でも、治る治らないを抜きにしても、自分の、我が子の神経、感覚を育てたい、神経や感覚が育つと思わない人はいないと思うのです。 花風社さんが私達に届けてくれるものは『育ち』です。 どのようなことを確認し、どのようなことを育ててい

関わるほど、負担の増える支援者という存在

私が理想とする仕事は、1回のセッションで終わる仕事です。 私は本人の発達の課題を確認し、その育て方、目の付け方を本人や家族にお伝えする。 以降は、自分たちで試行錯誤しながら発達、成長していく。 何かまた疑問に思うことがあれば、メール等でやりとり。 実際に関わるのは、一度きり、というのが理想です。 その一度の仕事の中に、課題の根っこを的確に見抜き、その人の発達の流れを掴み、そして本人や家族に発達援助の視点を伝授する、そんな力を持ち併せてるかが問われます。 支援回数が増えて喜ぶのは、支援者くらいなものです。 どうして自分の友達でもなければ、家族でもない他人と何度も会わなければならないのでしょうか。 子どもだったらなおのこと、自分が頼んだわけでもない他人と何度も会いたいとは思わないはず。 しかも、その他人が自分の発達のヌケや遅れを育てなおしてくれるわけでもなく、自分の苦しみをとるラクにしてくれるわけでもなく、ただその人がやりたい対処療法をやる、しかもその対処療法は一生受け続けなければならない。 私だったらストレス以外のなにものでもありません。 子どもだって、自分の意思があり、自分の時間をどう使うか選択する権利があると思います。 だからこそ、私は子どもさんの発達援助に関わるときは、本人の意思を尊重し、必要以上に関わりません。 一番大事なことは、ご家族が主体となり、発達援助が行えるように導くことであり、私がやらなくても、家族ができたらそれでいい、と思っています。 家族にとっても、支援者との関わりはストレスだといえます。 自分たちでできるのなら、敢えて支援者に頼ろうと思う人などいないはずです。 ですから、できないと思っているから、必要だと思っているから関わるのであって、自ら進んで関わりを持とうと思っているのではありません。 ここは支援者が勘違いしているところだと思います。 また親御さん達とお話しすると、支援者の言葉によって、更なる混乱を招いているということがあります。 支援者というのは、自分のやりたい支援、信仰している支援、派閥に属している支援がありますから、その支援がナンバーワンであり、オンリーワンであるかのごとく、押し売りしてくるものです。 いろんな支援者が、支援者の数だけ、自分の支援を売りこんでくる。 しかも、その支援

その答えは、特別支援の中にあるのか?

始めた当初は、本人や親御さんの相談のみを想定していたのですが、現役の教員や支援者、相談機関の人達からもメールが届きます。 中には、実際にお会いしてレクチャーしてほしい、といったお話もあります。 支援者側の人達との交流が増えていきますと、私が若いときの悩みと重なることがあります。 自分の支援がしっくりしていない感じがする。 自分がしている支援は、本当に本人たちのためになってるのだろうかという迷いがある。 その答えを必死に探そうとするが、今いる職場にも、特別支援の世界にも見当たらない。 昨日のブログで、『迷子になっている特別支援』と表現しましたが、その中にいる想いのある支援者たちも迷子になっているような気がします。 私も20代の頃は、迷っている自分を打ち消すかのごとく、あらゆる療育方法や研究、新しい知識を得ようと、いろんな人や場所を訪ねていました。 私もたくさん悩み、迷ったからこそ、言えることがあります。 それは特別支援の中に答えはないこと。 こんな言葉を伝えると、みなさんは驚かれます。 多くの人達は、自分がより良い支援ができない理由を「勉強不足」「専門性の未熟さ」と捉えます。 確かに、この仕事は生身の人間と真剣に向き合う仕事ですから、幅広い知識と深い技術が必要です。 でも、いくら特別支援の知識や技能を増やしていったとしても、その人の発達を後押しすることはできません。 何故なら、例えると、発達は木の幹であり、特別支援は枝葉だから。 枝葉だけを育てようとしても難しい。 枝葉に問題があるのなら、その幹から観ていき、治していかないと、より良い枝葉には育っていかないのです。 今の特別支援は、知識偏重型で、ある程度の知能を持った人にしか使えないものばかりです。 見方によっては、支援する側がかっこよく見える作りになっています。 つまり、特別支援をしたい人のための特別支援。 ちゃんと障害を持った人がいてくれて、それを特別支援する俺、みたいな。 これまた私がよく言う言葉ですが、「特別支援がしたい人は、治せない人」ということ。 障害を持った人前提でしか支援していない人が、障害以外にアプローチはできないのです。 発達障害とは、枝葉の違いを指していっている言葉だと思います。 花が咲かない枝があるのなら、それは幹から枝が伸びて

♫迷子の迷子の特別支援

世の中に、『褒め方』を本気で勉強したい人はどれくらいいるのでしょうか。 心が動かされ、思わず出る言葉が本当の褒め言葉でしょ。 「今日は褒めてやろう、へっへっ」と思って意図的に褒めるのは調教と一緒。 曲芸したイルカに餌をあげるのと同じように、褒め言葉というものを与えているだけ。 時々、本屋で「子どもの褒め方」「部下の褒め方」なんてタイトルを目にすることがありますが、あれを買う人がいるのかなって思いますね。 自分の親の本棚にそんな本があったら、ぐれますね、私なら。 まあ、買う人がいても、問題の根っこは違うはず。 子どもが勉強しないのは、うまく褒められないからではなく、部下が育たないのは上司の自分の褒め方が悪いからではなく、本人の問題。 その本人の問題だと認識がある人は、「褒め方」を切り口に改善を図ろうと考える人であり、本人の問題だと認識がない人は、ただ自分の思い通りにその人をコントロールしたいだけの人。 まあ、ほとんどの人は、褒め方の本を見ても、「そこじゃないよな」って手を伸ばさないと思いますね。 でも、不思議なことに、「褒め方」の前に、「自閉症児の」とか、「発達障害の人のための」とかいう文字が付くと、手に取る人が増えてくる。 書いてあることは、一般向けの「褒め方」の本と大きく変わらないのに。 違いがあるとすれば、「視覚的に伝えましょう」と「何を褒めたか分かるように具体的に伝えましょう」くらいなものです。 もうほとんど行くことはないのですが、書店の特別支援コーナーを見ると、特別支援が迷子になっているのがよくわかります。 それと商売臭が強くなったのも感じます。 ブームだからって、今のうちに儲けとこ、というのが見え見えです。 なんでも、タイトルに障害の文字をつけりゃいいのかって思わないですか、みなさま。 私も、マラソンが趣味だから「自閉症児のためのマラソン練習法」なんて本を書いたら売れますかね。 一般ランナーと同じような知識と情報にプラスして、「練習のスケジュールは視覚的に示してね。休憩も大事なスケジュールですよ」とか、「始まりとゴールは明確に伝えましょう」とかですかね。 あと喰いつきの良い「自己肯定感」なんて文字もいれて、「自分で振り返るために記録をつけましょう。それを見て達成感、自己肯定感が育ちます」と入れれば完璧で

アセスメントから生まれた言葉を方法論に転用して商売にする

前回のブログに対する反応を見ていますと、もしかしたら他のスキルに関しても、ご存じない方が多いのかな、と思いました。 ソーシャルスキル同様に、コミュニケーションスキルですとか、余暇スキル、職業スキルなんていう言葉があって、それに対するアプローチみたいなのもあるような感じがしますが、そんな特定のスキルだけをピンポイントに当てて伸ばすような方法ってないですよ。 ヒトの発達は特定の部分だけが伸びたりするのではなく、全体的な発達の中で、つまり、様々な発達が繋がり合って伸びるものです。 時期によっては、特定の領域がググッと伸びるということもあるでしょうが、その背景には土台となる発達過程があるものです。 受精から胎児期、出生後のヒトの発達の姿を見れば明らかなように、細胞が組織化され身体ができ、内臓や感覚器が育ち、動きの発達に繋がっていく。 そして運動を通して、神経がより良く育っていき、言語や知能を発達させていく。 こういった複雑で、繋がり合う発達というものを、どうして「〇〇スキル」といって取りだすことができるのでしょうか。 本当に、特定の能力、スキルを伸ばそうと思ったら、全体的な発達を促すしか方法はないのです。 じゃあ、コミュニケーションスキルだ、職業スキルだ、というのは、どこから発生したものなのか。 ここがポイントですね。 ナントカスキルというのは「アセスメント」を作ったために、生まれたものだといえるのです。 『社会性の障害』という言葉が診断基準から生まれたように、『〇〇スキル』はアセスメントから生まれました。 よくいろんなところで実施される診断とは違う評価です。 本人の能力を見て、課題を見つけるために、様々な検査が行われます。 「お子さんはコミュニケーションの面で苦手さが見られますね」というやつですね。 私個人的な考えとしては、アセスメントというものは、どこかの誰かが勝手に言葉をつけて、勝手に区分けしたものという捉えです。 人間の能力をいくつかの項目で表せるはずがありませんね。 何かの目安にはなるでしょうが、具体的なアプローチにはつながりません。 だって、発達は複雑で、繋がり合うものだから。 例えば、「言語理解が弱い」と出たとしても、じゃあ、言葉がけをたくさんすれば良いか、なんて単純な話にはなりません。 なぜ言葉の理

「社会性の障害」のみを切りぬく不自然さ

「SST(ソーシャルスキルトレーニング)の指導をお願いできますか?」 「息子に対するSSTがうまくできなくて…。(私の)やり方が悪いからだと思うんです」 こんな依頼や相談を受けることがあります。 子どもが対人面で、また学校や地域などの集団の中でうまく振る舞えなかったり、トラブルが起きてしまったりすると、すぐに「社会性の障害」という文字が浮かび、その指導へと向かおうと気持ちが動く。 これは情報が増えた現在だからこその姿だと思います。 実際にお会いしたり、行っているSSTを拝見させていただいたりすると、SSTに問題は見当たらないことが多いです。 そこら辺の支援者よりも、丁寧に準備し、指導されているように感じます。 親御さん達がよく勉強され、我が子のためにと頑張る姿が見えると同時に、知識が増え過ぎて反対に見えなくなっているのだと思うのです。 ある程度やってみて効果がなければ、「我が子に合わなかったんだ」と別の道を探すのが自然だと私は思います。 でも、「自分のやり方がまずいんだ」と思ってしまうのは、「この方法を言われた通り、きちんとやれば効果がある」という情報が頭の中を占拠しているからなのでしょう。 私なんかは、いろんな宗派のあるSST、療育方法はただの道具だと思っていますし、どちらかというと、本人ではなく、支援者側が無理やり、人工的に区分けしたものだと考えています。 そもそも「社会性の障害」なんていうのは、診断するために作られた言葉であり、療育するために生まれた言葉ではありません。 だって、おかしいと思いませんか。 一人の人間の社会性の部分だけを切りぬいて療育しようなんていうのは。 どうやって、その子の社会性の部分、課題へと、ピンポイントでアプローチできるのでしょう。 社会性、対人面のスキルとは、知識なのでしょうか、情報なのでしょうか。 発達障害の人達は、その知識、情報が足りないから、適切に振る舞えないのでしょうか。 だとしたら、知的障害の有無で、社会性が身につくかどうかが決まってしまいます。 でも、現実には、知的障害があったとしても、人間関係を築き、適切な振る舞いができる人が大勢います。 反対に、大学まで出るような能力を持ちつつも、トラブルや人間関係を築き、維持することができない人もいます。 つまり、社会性とは、ソーシ

同世代の子と比べるのは、いけないこと!?

あれは何なんでしょうね。 「我が子に発達の遅れがあるかも」と思い、相談にきた親御さんに対して、支援者たちが言うセリフ。 「〇〇ちゃんは、のんびりやさんの性格かもしれませんね」「子どもの成長は一人ひとり違うから、焦らないでね」というどうにか個性の範疇にねじ込もうとする系の発言。 「愛情をたっぷり与えて育てていけば大丈夫」「まだ何かが言える段階じゃないから、様子を見ましょう」という良いこと言っていそうだけれども、結局、相談に来る前と何も変わってないよね、いや、むしろ来ただけ疲れるし、余計モヤモヤするよ系の発言。 「他人の子と比べるのはよくありませんよ」「その子の良い面を見ていきましょう」という親の直感全否定で、かつ考え方を変えましょうという精神修行かって系の発言。 私は、親御さんの直感ってとても鋭くて、そこら辺の支援者が太刀打ちできないくらい的を得ていると思っています。 確かに、支援者や専門家と比べて、知識やその状態を表す言葉は持ち合わせていないこともあるけれども、「うちの子、何か違う」「このままにしていたら、今後問題が大きくなる」というような直感というのは、親御さんの強みであり、活かすべき力だといえます。 それに真摯に耳を傾けなくて、何が“支援”者だと思います。 親御さんが、我が子に対する違和感を強めていくのは、同世代の子どもと比べたとき。 「あの子は、もうあんなことができるのに、うちの子はまだできない」 そういった積み重ねが、直感を確信に変えていきます。 そして確信から行動へと移っていく。 だから、他人の子と比べるのは悪いことではないと思います。 でも、なんだか特別支援の世界にはルールがあるのか、他人と比べることがタブーみたいになっています。 もちろん、その人間の価値などは比べられるものではないですし、比べるものでもありません。 比べるのは、同世代の子との発達です。 定型発達と比べると、どのくらい差があり、遅れているのかを観るのは、子どもの優劣を決めるわけでもなく、その子の発達を援助するには必要なことです。 ほとんどの親御さんは、我が子の優劣を見ているのではなく、他の子との発達の違いを見ています。 その理由は、子どもの課題にいち早く対処するためであり、子どもを守るため。 親御さんとお話をしていると、冒頭のよう

特別支援から子育てを取り戻す悲しさ

他人様の子を預かって、子育てをしているのなら分かります。 でも、目の前にいるのは我が子。 それなのに、なにか他人様の子を育てているような余所余所しさや緊張した雰囲気が漂っている。 そんなご家族と関わらせてもらうことがあります。 これは子育てが、特別支援になった弊害だと思います。 特別支援は新しい言葉ですが、その概念は何も珍しくも、新しくもないものです。 特別支援は、端的に言えば、一人ひとりに合った教育なり、援助なり、環境づくりを行うということ。 このようなことは、ずっと昔から家庭の中で、学校や古くは寺子屋のようなところでも行われていました。 そして今も、障害のあるなしに関わらず、また子ども、大人に関わらず、家庭や職場、学校や習い事、部活動などで自然と行われているのです。 一人ひとりをよく観て、その人に合った方法で教えていく、伝えていくというのは、人を育てる基本中の基本だといえます。 私の仕事の始まりは、その家庭の中に流れている緊張感を弛め、子育てを特別支援から取り戻すことという場合もあります。 何故なら、親御さんの緊張感はお子さんに伝わりますし、そうなると、自然な交流が生まれなくなるからです。 お子さんの発達を促し、育てていくのは私ではなく、親御さんなのですから、そのご家庭に、親子間に自然な空気感が流れていることが重要です。 大人の側が何か特別なことをしようと身構えると、子どもは瞬時に察し、受け入れるために構え始めてしまいます。 すべての動物がそうであるように、また我々の進化の過程を振り返るとわかるように、発達は自然の中で育まれ、自然な関係性、空気感の中で営まれてきました。 知識や技能の伝達は、文字や言葉など人工的なもので行われてきましたが、発達は自然の中で行われるものなのです。 私達は、発達に遅れやヌケのある子ども達に対し、特別な知識や支援を伝えたいのではありません。 彼らに必要なのは、その発達の遅れやヌケを育て、発達の遅れを取り戻すことであり、そのヌケを埋めることです。 ですから、人工的な支援ではなく、自然な環境、関係性、雰囲気が必要なのです。 家庭の中に自然な雰囲気が漂い始めますと、障害や症状の重い軽い、お子さんの年齢に関わらず、伸びやかに成長が始まります。 まるで、自然の中を駆け巡り、自由を手に入れた動

親御さんの勘違い

失敗するのが怖いからなのか、支援は完璧にやらないと問題が起きてしまうと考えているからなのか、親御さんの中には、我が子にピタッと合った支援を考え、完璧に準備し、思い描いた結果を出す、みたいに思っている人が少なくないように感じます。 機械を相手にしているのではないのですから、完璧なプログラミングをして、適切な結果を出すみたいに考える必要はありませんし、できるはずもありません。 子どもは生きていますし、自分の意思もあります。 常に動き、変化する存在ですから、いくら完璧な支援をしようとしてもズレは生じますし、思い描いた結果など出るはずもありません。 ただ私たちにできることは、彼らの発達、成長の後押しをし、より良い方向へ導くお手伝いをすることなのです。 そもそもそこら辺にいる支援者だって、完璧な支援をしているわけでも、できるわけでもありません。 一回で、ピッタリ合った支援をしているのではなく、何度も軌道修正しているのです。 ですから、親御さんは良いと感じたこと、我が子に必要だと思うことをどんどんやれば良いのだと思います。 ある程度やってみて、子どもが伸びたなと思えば続けたり、バリエーションを持たせたりすれば良い。 効果がないな、悪い方に向かっているなと思えば、止めれば良い。 極端なことを言えば、親御さんが良いと思ったことを全部やったら良いのです。 その中で、一つでも、二つでも、本人のためになったらそれで万々歳の気持ちで良いと思います。 何も百発百中みたいな支援をする必要はありません。 だって、それが普通の子育てだから。 みんな、完璧な結果を求めて習い事を決めているわけではないし、日々の声かけ、接し方を決めているわけでもないはずです。 結構、直感や何となくで物事を決めたり、その場の感情で物事を言っていたりする。 なぜ、発達障害を持った子の子育てだと完璧さを目指すのか。 なぜ、普通の子育てではなく、療育や支援を目指すのか。 実際に接していると、そんな疑問が浮かんでくる親御さんがいます。 きっと支援者の言葉に、頭でっかちになっているのだと思います。 彼らは「自閉症の子に失敗経験をさせてはならない」「その子に合った支援ができれば、問題行動は起きない」など、テキトーな理想論を語っていますが、それは自分たちの推し進める支援に振り向か

支援者の勘違い

この仕事を始めて6年目に入りましたが、「最初の支援者があなたです」というような方は一人か、二人ぐらいなもので、あとの方達は、みなさん、誰かしらの支援や助言を受けてきています。 まあ、それは当然と言ったら当然であって、公的な機関でうまくいっていれば、わざわざ私のところまでやってくる必要がないのですから。 過去に受けてきた支援や、各地の支援機関の現状、学校の先生の様子等をお聞きすると、10年前、20年前とは異なり、言うことが専門家らしくなったと感じます。 特別支援以前の支援者たちは、ただその人の人生哲学によって日々接しているという雰囲気がありました。 そのときから比べれば、どの支援者も勉強されており、多くの知識を持っていることが伝わってきます。 では、たくさん勉強し、知識を持った支援者が増えたのに比例して、本人たちの成長や可能性が増えたかというと、そうとは言えないと思います。 むしろ、特別支援以前の支援者の方が、人を育てるのはうまかった、と感じることさえあります。 とにかく、増えた知識が活かされていないと思うのです。 いろんな支援者、支援機関のお話を聞くと、どうも支援者の多くは勘違いしているのではないかと思います。 本人や親御さんよりも、知識を多く持っているのが支援者であり、専門家だという勘違い。 支援者が特別な知識や技能を与えることが支援だという勘違い。 いつから支援者は学者になり、仕事が講釈になったのでしょうか。 その支援や療法がその子に合う合わないは別にして、そんな伝え方ではうまくいかないと思うことばかりです。 支援者が持っている知識を右から左に渡すような伝え方では、いつまで経っても、その子に合った支援はできません。 知識の受け渡しは、その瞬間瞬間の支援にしかなりませんし、第一、本人や親御さんが個別化し、アレンジできる生きた力がつきません。 また、本人や親御さんに代わって支援を組み立て、実行していくのでは、考え工夫する力がつかないばかりか、本人たちの試行錯誤する機会すら奪ってしまいます。 どうして支援者は、本人や親御さんが自立できるように育てないのだろうか、と私は思うのです。 自分は、その子のどこを観て、何を感じ、どう援助していくのか、そこを教えずして、自立も、より良い成長もないと思います。 ですから、私は自

支援者の中に答えはない

誰しも、「自分の育て方が良かったのだろうか」と立ち止まり、悩むことがあります。 そんなとき、自分のもがき苦しむ姿を感じ、「ああ、自分は親なんだ」と認識するのだといえます。 子のために、もがくから人は親になり、他人の子のために、もがくから先生は教師になる。 ただ食事の用意をし、寝る場所を確保するのみでは、共に生活する者。 ただ知識の伝達をするのみでは、先に生きる者。 他人のために、もがき苦しむくらい悩むからこそ、親は親になり、教師は教師になる。 だから、もがき苦しむ姿を見て、他人が余計な手を出してはならないのです。 こういった仕事をしていますと、「こんな風にやってみたんですけど、合ってますか?」と尋ねられることがあります。 「子育てに正解、不正解がある」 「その正解、不正解を他人が持っている」 「支援者、専門家は、親の自分が知らない答えを知っている」 そんな風に思う時点で、いろんなことを想像してしまいます。 支援者の中には、親御さんに子育てではなく、支援を求める人がいます。 「こういった支援が必要です」 「この方法を使って教えれば、理解できます」 その言葉を信じ、一生懸命支援者の示す支援を行う親御さん達。 でも、支援は発達の根本にアプローチするわけではありませんので、なかなか良い結果が出ません。 そうすると、親御さんは落ち込みます。 「私の支援が悪かった」 「私の理解が足りなかった」 「だって、支援者が言うには、ちゃんと支援すれば良くなるって言ってたから」 支援者の中には、支援を通して親御さんと本人をコントロールする傾向があります。 それは支援者の持つ愛着の課題と、支援を受け続けることで儲かる仕組みがあるからです。 インチキ宗教と一緒で、結果が出ようが、出まいが、自分の示す支援をやってくれれば、それでいい。 良いことが起きれば、「それは一生懸命お祈りしたから」で、悪いことが続けば、「まだまだ信仰心が足りない」というやつです。 支援者の示す支援をやってみて上手くいけば、「ほら、私の言った支援をしたからでしょ」となり、親御さんはどんどんその支援者、支援に傾倒していくようになる。 反対に上手くいかなければ、「ほら、やり方が合っていないからだ」「もっと勉強しなきゃ」となり、講演会や研修会へ導かれ、必死に結果を

『感覚過敏は治りますか?』(花風社)を読んで

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「感覚過敏」と聞いて、すぐに思いだす子がいます。 縁あって就学前から関わっている子でした。 その子の口癖は、「あの音なんだ?」でした。 ちょっとした音が聞こえると、近くにいた大人に尋ねたり、自分でその音がした方向へ行ったりして確認していました。 その行動は、就学後まで続いていました。 あるとき、突然、それまで見られていた「あの音なんだ?」がなくなり、音を恐れるようになりました。 それを見た親御さんは聴覚過敏が強くなったのだと思い、イヤーマフを購入した方が良いか、相談されたのでした。 私は幼少期から関わらせてもらっていたその子の姿から「聴覚過敏」という言葉は連想できませんでした。 むしろ興味関心の方だと捉えていました。 ですから、興味関心が満たされたからといって、いろんな音が認識できるようになったからといって、急に恐怖感まで振り切るものなのか、疑問に思ったのです。 そんな疑問を持っていたとき、その子が耳に物を入れようとするのを見かけました。 最初に耳の内部の病気を疑いましたが、そうではありませんでした。 で、私はもしかしたら、と思いました。 そう、その「もしかしたら」がきっかけでした。 学校で耳栓をつけるようになったのです。 しかも、親御さんに報告がなく。 理由としては、授業中、いろんな音に反応し、集中できないからだと、あとから説明がありました。 報告がなかったのはもちろんのこと、発達、成長が著しい子どもさんに、大人側の理由から刺激を統制するのはひどいことだと思いました。 本人が耳から入る刺激が辛くて、どうにかしてほしいと訴えるのならまだしも、「気になる」というレベルです。 発達障害のあるなしに関わらず、まだ未経験が多く、狭い世界で生きている子どもにとっての世の中は気になることに溢れた世界だといえます。 ちょうどその頃、高機能ブームの波が当地にも来ていまして、またちょうど運よく(悪く)、高機能ブームの中心にいた有名支援者が度々来ていました。 当時、養護学校に通っていた生徒さんが突然、みなさんイヤーマフをつけだしたのを見て、「どうしたんだ」と思ったら、その方がいらした直後でした。 あれだけ「個別化が大事」「一人ひとりをよく見ることが大切」と言っていたのに、受け取った側がみんな同じ支援。 自閉症の人