2019年2月25日月曜日

やるだけのことはやってから

発達障害の人達と関わるようになってからの最初の10年間くらいは、ギョーカイが推進する標準療法を学んでいました。
良い先生がいれば、全国どこでも出かけて行って学び、トレーニングを受けてきました。
一度はこの目で見てみたいと、NC州へも行きました。
今となっては、どこにあるかわからないような資格や認定書もあります。


たった10年くらいですが、標準療法を学んで気が付いたことは、どの方法も、発達障害を持つ人の根っこには届かないこと。
最先端で、エビデンスのある療法だとしても、課題の根本を解決するわけではありません。
その課題が表に出ないように対処しているのみ。
限られた場面、環境、人との間で課題が見えなくなることはありますが、あくまでその条件がそろっていないいけない。
「良くなった」「改善した」と思えるようなことがあったとしても、よく良く見れば、ただ適応力が上がっただけ。
だから、少しでも条件が変われば、同じ課題が表面化しますし、支援を受け続ける必要が出てくるのです。


いろんな場面で、私も構造化された支援、ABAのアイディア、SSTなどを使いました。
確かに、環境を整えれば、混乱は減り、理解は促進されます。
でも、そこから先が見えてこないのです。
刺激が減れば、構造化で外付けすれば、脳内の余裕が生まれます。
その生まれたスペースに、ABAでスキルを教えても、SSTでスキルを教えても、結局は適応するための知識を増やしているのみでした。
変化に富んだ実践の場面で役に立たないスキルを教えても、本人の生きづらさは改善していきません。
というか、そもそも本人が持つ根本的な課題には触れてはいないのです。


施設でいろんな方たちを見てきましたが、彼らの生きづらさの根っこは、適応できないことではないと感じます。
夜寝られないこと、十分な食事がとれないこと、感覚の過敏性によって刺激に圧倒されること、うまく掴めない感覚によって勘違いや失敗をすること。
刺激を統制することによって、刺激自体を減らすことはできる。
しかし、それは感覚という課題の根っこを解決したとはいえません。
視覚的なアイディアで予定を伝えたり、食事で栄養を摂る大切さを伝えたりすることはできる。
しかし、寝られない身体、食べられない身体、消化できない身体を解決したとはいえません。


多くの行動障害を持った方達と出会ってきましたが、必ず最初に行うのは、彼らの快食快眠快便を整えることでした。
まずここが整わない限り、支援云々とはなりません。
またほとんどの方達は、この快食快眠快便が整うと、行動障害の程度はグッと落ち着いていくのです。
偏食が治ってから、落ち着いた。
夜寝られるようになってから、問題行動が収まった。
そういったことがほとんどです。
中には、虫歯を治したら、行動障害が見られなくなった人もいます。
ですから、強度行動障害の人への支援方法を指導する立場の人が、「標準療法が大事」なんて言っていると、現場を知らない人なんだと思うのです。
強度行動障害の人に対して、いきなり標準療法、支援なんてできませんから。


こういった経験をしていましたので、花風社さんが提言されている「言語以前へのアプローチ」との出会いは、「これこそ、私が、本人たちが求めていたアイディアだ」と思いました。
標準療法が上っ面の対処療法だっただけに、根本的な、課題の根っこからへのアプローチ、そして何よりも育んでいこうという考え方、知見の素晴らしさがすぐにわかりました。
上っ面で、蕎麦屋の言い訳のような特別支援では、障害の程度に関わらず、ずっと自立なんかできない。
でも、根本から育て、解決できれば、支援者の手の中から離れ、自由に社会人として生きていける。
本来自立とは、自らの足で立ち、自分の意思と選択によって人生を歩んでいけること。


私は、10年間、一生懸命対処療法を学び、実践し、これでは課題の根っこは解決しないこと、本当の意味で自立できる人はいないこと、そして治らないことを証明してきました。
ですから、「言語以前へのアプローチ」を核にして歩んでいるこれからで、課題の根っこを解決し、社会の中で自立し、治ることを証明していきたいと思います。
有難いことに、いろんな方達が治り、自立していく姿を見ることができています。
よって、これからは「治らない」と言っている人達が証明する番だと思います。


言語以前へのアプローチをやってみた。
発達のヌケを育て直し、栄養面を改善し、快食快眠快便を整えた。
それでも、「治らない」のでしたら、治らないことを証明できるはずです。
私は、治らない方法を実践してきました。
だからこそ、標準療法、ギョーカイの推進する方法では「治らない」と言うことができます。
「治る」と言っているアイディアを試すことなく、ただ単に「治るわけがない」というのは根拠があるわけでもなく、ただの妄想です。


ADHDに対する新薬承認のニュースに、『覚せい剤の原料含む』という文字がありました。
就学前の子ども達が、日常的に精神科薬を飲んでいる現実があります。
子どもに、こういった精神科薬は飲ませるのに、ドラッグストアに売っているサプリやプロティンを飲ますことは否定する。
幼稚園、保育園に通う年代の子どもに、精神科の薬を飲ませたいと思いますか。
それだったら、精神科薬の前に、サプリやプロティン、食事から変えてみようと思うのが、自然な感情だと思います。


やるだけのことはやって、それでも治らない、変わらない部分には配慮や支援が必要だと思います。
でも、家で簡単にできること、普通の子育てと変わらないアイディアすらやろうとしない。
それでは「治るなんてインチキだ」と証明することはできません。
以前の私のように、治すことを何にもしないで、ただその日、その日の対処を続けていれば、治るわけも、自立するわけもないのです。
治らないのは障害特性ではなく、治さず対処に明け暮れているから。
周囲の人間の課題まで、ギョーカイの障害者を食い物にする卑しい心まで、障害特性に乗っけるなよ、と思います。


建物を青くして、それで生きづらさが減るのなら、それこそ、トンデモです。
青い光に障害を癒す効果があるというのなら、それこそ、オカルトです。
治そうと思う人達が治っていく。
治そうと思わない人達が治っていかない。
相手の主張をやってみた上で否定するだけの根性がなければ、口を出さないのが社会人としての最低限のマナーですね。

2019年2月24日日曜日

「治らない」を証明したいのなら、刺激と栄養を満たしてから言ってくださいな

神経発達障害なのだから、神経を育てていけばいいのです。
神経が欠損しているわけではなく、その伸び方、スピードに課題があるのですから。
神経自体の問題じゃなくて、神経の育ち方の問題。
そう考えると、治っていくことが道理に合います。
いくら権威が言おうとも、真理は変えることができません。


神経が育つための条件は、刺激と栄養です。
いくら良い刺激を受けていたとしても、神経の基であるタンパク質、育つための栄養が足りなければ、育っていきません。
反対に、栄養が満ち足りていたとしても、刺激が限られていたり、バリエーションの乏しい単一の刺激だったりすると、育っていきません。


「快食快眠快便が整うと、発達が加速する」
今のように、栄養について情報を得る前も、こういったヒトとしての生活が発達、成長のための前提になることは知られていました。
ですから、いまだに偏食をそのままにしておく人の意味がわかりません。
偏食は障害特性なのか、脳の機能障害ゆえなのか。


施設で働いていたときも、どんなに重度で、激しい行動障害を持っていた人でも、成長していくにつれて偏食は治っていきました。
もちろん、どうしても食べられない物は一つや二つありましたが、思春期くらいになると、なんでも食べるようになります。
入所時、「激しい偏食」「〇〇しか食べません」という子ども達も大勢いましたが、形態や量、食べ方を工夫すると、他にも食べられるものがたくさんあるわけです。
つまり、偏食のほとんどは経験不足。
結局、同じものしか食べさせてこなかったから、大人の方が「これしか食べない」と思いこんでいるから、食べないだけ。


「偏食を治すのは可哀想だ」「偏食も自閉症ゆえだ」
と言われることもありました。
でも、その子の人生を考えたとき、食べられるものが限られている方が、ずっと可哀想です。
しかも、栄養の偏りが心身の傾向と、発達、成長に影響を及ぼすのは当たり前。
特に、内臓系にも発達の遅れが出る子ども達なのですから、私達が想像している以上に、偏食のある子ども達の栄養状態は悪いと考えられます。
吸収率が悪いのなら、同世代の子ども達以上に、たくさんの栄養素を摂り入れる必要があると思いませんかね。


だいたい「発達障害は治らない」という人に限って、子どもを見れば偏食持ち。
食事、食べるという生命の根源に関わる部分すら、試行錯誤をしないのですから、治るわけはないのです。
第一、栄養が足りないのだから、神経発達が鈍くなるのは当然の結果。
栄養素が乏しければ、生命を維持する働きに使うだけで終わってしまう。
神経発達よりも、生命維持が優先されれば、変化は起きない。
変化は起きないから「治らない」
からの配慮と支援で、変化は起きずの無限ループ。


偏食を治さないのは、どうぞご自由に、と思います。
でも、不思議なのは、偏食を治さない上に、プロティンやサプリを否定する人達。
えっ、子ども大丈夫?障害云々の前に、成長期の子どもが栄養不足だとマズくない??
偏食ゆえに、食べられるものが限られているからこそ、プロティンやサプリに頼るんじゃないの。
プロティンやサプリを積極的に活用する人は、偏食もそのままにしておかないし、日頃の食事もとても気を使っている。
反対に、プロティンやサプリを否定する人は、偏食そのまま、食べられるものだけを食べさせるだけ。


こうして考えると、「治る」と言う人が治って、「治らない」と言う人が治らないのは当然なのです。
「治らない」と言う人は、刺激と栄養が乏しいのですから。
偏食だけではなく、全般的に刺激を統制。
神経発達に必要な刺激と栄養を与えていないのですから、治るわけがないのです。
だから、こういった人が「治らないぞ~」と言っても、「そりゃそうですね」としか言いようがない。
本当に「治らない」を証明するのなら、刺激も、栄養も、たっぷり与えた上で治らないを見せるしかありませんね。


支援や療育、発達援助は、それなりの知識と試行錯誤が必要だと思います。
でも、偏食、つまり、食事は、どの親でも行う最初で、基本的な試行錯誤だと思うのです。
赤ちゃんが母乳、ミルクから離乳食へと移行していく。
その際、温度や固さ、見た目を工夫して、少しずつ食べられるものを増やしていく。
そういった親として最初に行う試行錯誤。
そこを省いて、そこを「障害だからね」という言葉で片づけて良いのだろうかと思います。
まあ、「治らない」と言いたいのなら、まずは刺激と栄養を整えてから、快食快眠快便を整えてからお越しください、と言いたいですね。

2019年2月23日土曜日

意図的に刺激の量をアンバランスに

「長所を伸ばすか、短所を無くすか」というのは、よく話題になります。
もちろん、その子の持つ長所を活かし、伸ばし、育んでいくことは大事だと思います。
じゃあ、短所はどうするのか、そのままで良いのでしょうか。
長所を伸ばす一辺倒の育み方で良いのでしょうか。


私は、初めて子どもさんとお会いするとき、「バランスが悪いな」と感じることがあります。
それは、表面に見える身体的なバランス、左右差だけではなく、認知や能力、育ち方全般についてのバランスの悪さです。
「このままの状態で成長していくと、ますますバランスが崩れてしまう」
そんな風に感じるとき、私は長所を伸ばすことよりも、短所を無くしていく、弱い部分を育んでいく方の大切さを伝えるようにしています。


発達障害の子どもに対し、「能(脳)力の凸凹」という表現がなされます。
そして、今までの特別支援教育は、ずっと凸の部分をどう活かしていくか、伸ばしていくか、だったような気がします。
別の言い方をすれば、凹の部分は配慮と支援、教育の対象ではなかったような感じです。
しかし、この既存の長所を活かす特別支援では、なかなか自立できない、仕事ができない、続かない、という現実があるように思えます。


ハナから凹の部分は配慮と支援前提で教育がなされているので、当然、自立するのは難しくなります。
でも、それ以上に、凹の部分をそのままにしておくのは、大きくバランスを崩す結果になると思うのです。
認知は高いけれども、社会性が乏しい。
十分働くだけの能力はあるのに、継続性、コツコツ積み重ねていくことが難しい。
多彩な表現、語彙力をもっているのに、相手の視点を想像できない。
こういったアンバランスさは、ある一面を見れば、「働けるのに」「一人で生活できそうなのに」となりますが、「でも…」があとに続いてしまいます。
こういう若者、成人は少なくないと思います。


私は、長所を伸ばすのは、大事な育みだと思います。
しかし、タイミングによっては、それよりも、短所を無くしていく方に重点を置く時期があると考えています。
「いまの時期は、凸の部分は刺激せず、凹の部分のみを刺激する」というようなこともあり得ます。


結局、凸凹がある子ども達は、その凸凹、バランスの悪さが生きづらさの原因になっているように思えます。
もし、能力が高くても、低くても、全体的に揃っていれば、本人的にはそこまで生きづらさにはならないと思います。
そして何よりも、同じペースで、どの能力も共に成長していける感じがします。
大学に行けるような能力を持った人でも働くことが難しい人が大勢います。
一方で、能力的には大学に行けるような力はないけれども、こつこつと地道に働き、自立している若者たちがいます。
私も、若者、成人した人達と関わることがありますが、能力云々よりも、バランスの良さ、全体的な発達、成長、積み重ねがある人の方が、仕事も、生活も、安定し、うまくいっている印象を受けるのが正直なところです。


学生時代の講義では、「障害を持った人の長所を伸ばし、活かす教育と社会」というような内容を散々教わりました。
でも、今思い返してみると、結局、短所に切り込むだけのアイディアも、知見もなかっただけのことのような気がします。
長所を活かせる社会とは、社会が、本人以外が相当カバーしないといけない社会だといえます。
それに、本人の側でも短所が残り続ければ、それが足を引っ張り続けることになるはずです。
短所、凹の部分は、社会、他人が担うには大き過ぎ、自分で担うにはリスクがあり過ぎる。


そして第一、ここが一番の問題ですが、「長所」「長所」と騒ぐわりには、身を立てるだけの武器まで磨かれていない。
結局、絶対評価ではなく、相対評価。
その人の中で、「ここは良いよね。マシだね」というようなところが、「素晴らしい長所」「活かすべき長所」ともてはやされているような場合も少なくないと思います。
申し訳ないですが、色と色のマッチングできる力で就職できるような場所はありません。
ネジ回しがいくら早くても、正確に箱折ができたとしても、独創的な絵が描けたとしても、それだけでは仕事に活かせる能力だとはいえません。
なんだか、そういった部分までも、親を喜ばすための接待の道具にされているような感じがして、個人的には嫌な気持ちになります。


発達の凸凹で苦しんでいる子ども達に対し、凸の部分だけに注目した育みとは、どうなんだろうと思います。
発達のヌケは埋め直した方がラクになり、根本からの全体的な成長に繋がるのと同じように、能力の凸凹も、凹を重点的に育み、バランスの良い全体的な成長を目指した方が良いと考えています。
敢えて、凸には触れず、刺激せず、重点的にヌケや凹を刺激し、育むという視点があって良いはずです。
実際、意図的に刺激の量をアンバランスにした結果、凸凹がなだらかになり、そこから一気に育っていった子どもさんもいます。


「なんだか、バランスが悪いな」「このままいくと、バランスがもっと崩れるな」と感じた方に対しては、敢えて刺激をアンバランスにする。
凸凹の凸、長所だけではなく、凹、短所を刺激し、育んでいくことが、時期によっては最優先すべきこともあると私は考えています。

2019年2月19日火曜日

『脳の機能障害』の時代でも治していた人

食事で、栄養で、「発達障害が良くなるわけはない」「治るはずはない」と言う人もいます。
当然、捉え方、考え方は、人それぞれで、こういう人は、食事をただのエネルギー補給にくらいしか考えていないのだろう、と思います。
ガソリンと車、電気と電子機械のような関係性ですかね。
栄養は、人を動かすエネルギーにすぎない。
そういった直線的で、シンプルな考えしか浮かばない人には、生命、発達、ヒトという流動的で複雑系なものとは相性が悪いのでしょう。


「発達障害」とは、一言で言い表すことのできない概念です。
同じ障害名だろうとも、一人ひとりが異なっていて、また、同じ人の中でも日々変化を続けています。
常に流動的で変化が起きている状態、まったく同じ状態が人と人との間にも、その個人の内側においても起こり得ない状態。
まさに、その状態こそが、神経発達障害と言われる所以だろうと思うのです。


発達障害は、複雑な神経の状態像です。
ある意味、掴みどころのないものだといえます。
だからこそ、なおのこと、その掴みどころのないものを「どう掴むか」が問われるのだと思います。
その複雑な概念に対し、掴もうと手を伸ばせるかどうかで、見え方と行動、そして未来が変わってくるのです。


「神経発達障害」と聞いて、『神経』に手を伸ばすか、『発達障害』に手を伸ばすか。
神経は複雑で、掴まえづらいもの。
でも、その複雑な状態の中には、変化があります。
変化、つまり、変わる可能性、息吹を感じられる人が、より良く育んでいこう、治っていくはずだと信じて疑わない人だといえます。


一方で、シンプルにしか物事を捉えれない人、複雑なものに手を出す余白がない人は、変化のない固定したものへ意識が向いていきます。
障害=変わらないもの、という捉え方は、省エネ。
いや、そもそも複雑で、常に変化が生じている生命、発達、ヒトに対して、シンプルな概念を持ってこないと対処できないくらい心身共に枯渇している人ともいえます。
ですから、「発達障害は障害だから治らない」のではなくて、その人の変化、可能性に目を向けられるだけの力がない、結果として治らない、のだと思います。


「神経発達障害」と言われる前は、脳の機能障害と言われていました。
でも、そのときだって、「脳」に注目し、手を伸ばしていた人達がいました。
脳には可塑性がある。
事故や病気で不随になった人だって、リハビリによって機能が回復したじゃないか。
だったら、“脳”の機能障害なんだから、刺激や行動によって改善したり、治ったりすることがあって当然だ。
そんな風に、変化する力に注目し、大切にしてきた人は、時代に関わらず、治ったし、治したのです。


発達障害を、変化のない一つの固定した状態だと捉えている人は、いつまで経っても治らないし、治る意味を理解できないでしょう。
神経細胞は、タンパク質でできていて、その合成、代謝には、様々な栄養素が関わっています。
だったら、食事、栄養がまったく影響ががない、改善、発達につながらないなんて、その考え方自体が反対に「トンデモ」だといえます。
感覚過敏というのは、脳に機能障害があるから生じているのでしょうか。
夜寝られないのは、脳に機能障害があるから生じているのでしょうか。
冬から春に変わるとき、崩れてしまうのは、脳に機能障害があるから生じているのでしょうか。


感覚過敏も、睡眠障害も、季節の変化に弱いのも、全部、機能障害であって、固定されたもの??
細かく見れば、受け入れられる感覚、刺激だってある。
いつも寝られないんじゃなくて、生まれたときから今までずっと寝られないんじゃなくて、寝られたときもあったはず。
赤ちゃんのとき、季節が変わるたびに崩れていたでしょうか。
このように状態像が変わるということは、それ自体が固定されたものではないという証明になります。


「障害は、個人に存在するのではなく、個人と社会、環境の間に存在する」というようなことが言われます。
しかし、発達障害に関して言えば、障害はその人の内側に存在し、障害という壁を作っているのは、障害が固定されたものであると捉えている周囲の人間だと、私は思います。
障害、つまり、神経に何らかの原因が存在する。
でも、神経だからこそ、変化を促したり、後押ししたりすることができる。
だって、神経は流動的で変化するものだから。
その変化に気づけない、理解できない人間が、「あなたは障害だから」と言って、目の前にいる人の変化、発達、成長の芽を摘み、その人自体を固定化させてしまうのです。
そういった意味で、固定された概念でしか考えられない周囲の人間が、発達障害の人と社会との間に壁を築いてしまっているのだと思うのです。

2019年2月18日月曜日

施設利用の待機中

施設利用の「待機中」という言葉を聞くと、今でも悲しみの感情が溢れてきます。
それは施設を利用しなければならない事実に対してではなく、健気に待機しているその姿勢に。


学生時代、高校年代くらいになると、「どの施設にしようか」「そろそろ利用希望を出して、待機者名簿に載せてもらおうか」なんていう話を、親御さんの口からよく聞いたものです。
私は、15歳そこらで生活の場、もしかしたら、生涯そこにいるかもしれない施設を決めなくてはならないということに衝撃を受けました。
「この子達には、生涯の支援が必要だ」と、私も信じていた頃です。


成人した方の親御さん達は、「あと何人待ち」「あと何十人待ち」などと言っていました。
入所できずに待機している時間が長くなると、親御さんも不安になります。
ですから、みなさん、定期的に施設に電話し、「今、何番目でしょうか?」と確認していました。
中には、一向に順番が変わらない人もいて、その親御さんは「新しい施設ができたら、優先して入れてくれるって約束を取り付けた」というような方もいらっしゃいました。


学生時代に、こういった話を見聞きしていましたので、施設の待機者名簿に載せる=順番待ちをしている、と私も思っていました。
しかし、その順番待ちに落とし穴があったのです。
確かに、順番は待っているのですが、その順番は、利用希望を出した順ではない。
つまり、施設利用を希望し、待機している人の名簿に載るが、空きが出たら、上から順に「利用どうですか?」と声がかかるのではなくて、その待機者名簿の中から施設側が声を掛けるということ。
あくまで待機者名簿に載るだけであり、早ければ早いほうが先に入れる、長く待てばいつか入れるというものではないのです。


措置制度から契約制度に変わり、本人(家族)と施設は対等な関係になりました。
でも、実際は、選べるだけの施設があれば、「対等」になれるのでしょうが、利用したい人が多くて、施設が少ない状態ですので、力関係ができるのです。
いくら本人、家族が「利用したい」と言っても、それに応えれるだけの施設数も、支援者もいません。
措置時代は、行政が決め、それに従うだけの施設に「断る」という選択肢ができたのです。
そして、「断る」だけではなく、「選ぶ」という選択肢も。


学生時代から知っている方達が、まだ施設に入れず、待機中です。
親御さん達は、まだか、まだか、と今も待ち続けている。
当時、支援者たちが言っていた「この子達には、生涯の支援が必要です」「支援を受け続けることが、生活の質、人生を豊かにするのです」と言葉を信じ、支援を受けることを求め、そのために尽力されてきた親御さん達。
泣く泣く高校年代の我が子の人生を「施設での生活」と決めたのに、まだ待機者名簿の中。


こういった方達がいるのに、施設に空きが出れば、すぐに入所者は決まります。
しかも、若い世代の人が選ばれる。
何故なら、長く利用してくれるから。
そして、今の若い世代の人達は、知的障害を伴わない人でも、「障害者」として利用できるから。
端的に言えば、若くて、より軽度の人が選ばれる。


福祉で働いていた人間だからこそ、私は思うのです。
本当に必要な人にこそ、福祉の手を。
本当に困っている人が、安心して利用できる福祉を。
だけれども、措置から契約制度に変わり、福祉がサービス、事業の一つになったのです。


私が経験したこと、見てきた世界は、特殊で狭い世界だと思います。
でも、今を生きる子ども達、親御さん達の中に、同じような思いをする人が出ないとも限りません。
そして何よりも、こういった制度の変化、社会の変化、他人の意思や意向が入る余地のものを無条件に信じ続けるより、確実なもの、大切なものがあるのです。
それは、その子自身をしっかり育てること。
どんな変化が起きようとも、どんな未来がやってこようとも、踏みとどまれる土台と、何度も起き上がることのできる身体です。


「治るって言ったって、軽度の人達の話でしょ」などという人もいます。
でも、「軽度だから治る」というわけではありませんし、重度なら発達のヌケを埋めることも、自立を目指して発達、成長の後押しをすることも無駄だということはありません。
たとえ、福祉を利用することがあったとしても、主導権を奪われず、主体的に選択することができるのです。
「この子は福祉しかない、入所施設しかない」というような考え方ではなく、将来の可能性、選択肢を広げるために、またそれらを主体的に選んでいけるように、子育てを、子どもの発達の後押しをしてもらいたいと願っています。
支援者は、その子の人生まで、責任を持たないのですから。

2019年2月17日日曜日

私達は未来を生きている

「支援があればー」と言っていた人達から見れば、各都道府県に発達支援センターができましたし、政令指定都市、市町村の中にも、相談できる機関ができました。
それに「放課後の過ごし方がー」と、つい15年前くらいまでは言われていたのに、今は知的障害を伴わなくても、児童デイが利用できます。
しかも、学校まで迎えに来てくれて、帰りは送ってもくれる。
「支援者の専門性がー」というのだって、各団体や欧米の大学から資格や認定を受けている支援者が多くなり、明らかに養護学校時代の支援者、教員よりも質も、専門性も向上しているといえます。


情報だって、今、書店に行けば、特別支援コーナーが大々的に設けられているだけでなく、発達障害単独の棚ができ、そこに何百冊もの本が並んでいます。
私が学生時代は、学ぼうと思っても、手に入る書籍は、決められた出版社の決められた顔ぶれが書いたものばかりでした。
今で言えば、ギョーカイ大本営からの声明文みたいな。
そういった限られた情報、専門書を何度も読み直し、日々の実践、関わりの中の答え、アイディアを得ようとしたものです。


当時は、発達障害、自閉症の診断がつけば、親御さんのほとんどは、協会や親の会に入ったものです。
そうやって入ることでしか、情報を得る機会がなかったから。
圧倒的な情報差が、支援者(ギョーカイ)と親御さんにはありました。
だから、平日も、土日も関係なく、無償の奉仕もしたし、講演会のサクラにもなった。
お金も、時間も、労力も、捧げることで、支援者が持っている情報と交換しようとした。
また支援機関、支援者も限られていたため、つながっていること、気にいられることが情報と支援を受けることとイコールになっていたような気がします。


こうやって特別支援の前後を生きていた世代、そのとき、懸命に子育てをされていた親御さん達からすれば、今は、当時の人たちが目指していた未来であり、望んでいた未来だといえます。
そこを私達は生きているのです。
今は、親の会に入らなくても、支援者に気にいられようとしなくても、自らの行動と選択で情報を得ることができます。
大本営以外の書籍もたくさん出ていますし、ネットを使えば、先輩たちや同世代で子育てをしている親御さん達とつながれますし、ブログやツイッターだって読むことができます。
特別支援の世界の外にある有益な情報、知見、非組合員の専門家、実践家ともつながることができます。


圧倒的な情報さと限られた支援の時代は、主が支援者であり、従が本人、家族でありました。
でも、今は違います。
誰でも情報にアクセスできるようになり、支援だって公的、民間関わらず、自由に求められるようになったのです。
私は今の当事者、家族を見て思います。
支援者への従からの脱却、つまり、支援者が奪っていた主体性を取り戻し、いびつな関係性をぶっ壊せたことこそが、特別支援が始まって20年弱で得た一番の成果ではないか、と。


せっかく主体的に情報と支援を選べる時代になり、そこを今、生きているのです。
しかも、冷蔵庫マザー、脳の機能障害の時代を経て、神経発達障害の時代になったのです。
機能に対しては、支援と配慮が中心。
でも、神経だったら、支援と配慮の前に、『育む』がきます。


支援や配慮、理解を求める時代から、育んでいける時代への変化。
求める対象は、常に外側にありました。
しかし、今は内側にある。
神経は、その人の内側に存在します。
その神経を育てるのは、誰でしょうか。
そうです、本人であり、本人が生活している環境、生きてきた道です。
支援者でも、専門家でも、療育機関でもないのです。


このような主体性を発揮できる時代を生きているのに、いまだに支援者、専門家の顔色を伺うのなら、それは愛着形成に課題があるといえるでしょう。
子ども時代、常に親の顔色を伺って生きてきた人が、親と専門家、権威を重ね合わせて顔色を伺う。
専門家との圧倒的な差があった時代は止むを得ず顔色を伺っていた。
でも、今は愛着という土台に弱さがある人のみが、専門家の顔を伺うのです。


未来を生きる私達は、今を謳歌しないといけません。
主体的に、自分の選択と行動によって、子どもを育み、神経発達を促し治していける時代。
治せない専門家、養護学校時代の機能障害を未だに使い続けている専門家に、「バカ野郎~」「必要なし!」と思いっきり言えるのです。
ちゃんと結果と成果で判断できる。
だったら、ちゃんと断捨離をする。
使えない支援、いらない支援には、はっきり「No」をつきつける。
負の遺産を未来の子ども達、親御さん達に残さないのが、今を生きる私たちの役目。


支援を求め、勝ち取る前世代。
負の遺産をきちんと処分する現世代。
治すことと、「No」と明確に表明することが、より良い未来を築く原動力になるのだと私は思います。

2019年2月16日土曜日

そんなに良い方法と、エビデンスがあるというのなら、実際にやっておくんなまし

強度行動障害に対する支援について講演したり、指導したりする人の中で、どれくらいの人間が実際に支援したことがあるのでしょうかね。
私も、研修としてそういった類の講演会やワークショップに参加したことがありますが、「だったら、うちの施設に来て、同じことやってみればいいじゃん」「それで問題行動が収まり、安定するなら、是非やってみてくださいよ」と思うことばかりでした。


人が側を通っただけで、手足、噛みつきが出る人に対して、攻撃が出なかったら、おやつをあげる!?(いやいや、おやつを持っていくだけで、攻撃されるから)
壊せるものはすべて破壊する人に対して、構造化して刺激を減らす!?(いやいや、すでにモノは置けない状況で、部屋には何もないよ)
夜寝れなくて一晩中興奮状態の人に対して、寝る時間をスケジュールで提示する!?(いやいや、寝る時間が分からないんじゃなくて、寝れないことが問題だから)


コンサルテーションで有名支援者が来ることもありましたが、すべて教科書通りの机上の空論。
だって、実際に本人を見ないから、怖いからって。
ていうか、実際に指導しているところを見たことがない。
まあ、そんなもんです。
口では何とでも言えます。
だから、現場にいた職員はみんな、コンサルも、研修も、冷めまくっていました。
自分たち以上に、強度行動障害の人と関わっている人間がいない、って。


こういった経験をしてきましたので、私は実践できる人、結果を出せる人しか、信じません。
ね、エラソーに講演している人、資格を与える立場の人が、現場経験がなかったり、問題に対処できなかったりするんですから。
そんなに素晴らしい技法で、エビデンスがあるのなら、目の前の人で、その素晴らしさ、エビデンスを見せてくれって思うのです。


有名支援者の元で指導を受けている、発達障害専門医に定期的に通っている。
それで良くならないのなら、やり方が悪いか、その人に合っていないか、でしょ。
そんなところに通い続けるのは、別の方法、人を探すだけのエネルギーが脳みそ的にも、身体的にもない人だってこと。
つまり、子どもなら、そんなところに通わせ続けられること、より良い道を探してもらえないことが可哀想で仕方がない。
だって、自分の選択ではないから。
大人だったら、治らない支援者、事業所を頼るのは自己責任になる。


結果が出ないところに通うのは、趣味嗜好のレベル。
「何言ってるんだ、良くならないんじゃなくて、変わらないのが障害なんだ」と言う人もいますが、どうせ変わらないのに、通い続けている方が意味不明です。
結局、当事者の人なら自分を客観的に見る力や、身体の感覚が育っていなくて掴めていないだけ。
だから、結果や効果よりも、肩書やブランドで判断せざるを得ない。
親御さんなら、しっかり子どもを見ていない、その一言に尽きます。
良くならない、変わっていかない我が子を見て、「それが障害だから」と思えるのなら、親心を捨てたか、そう思い込もうと自分自身を騙し続けているのでしょう。
「うちの地域には、よい支援者、施設がない」
江戸時代で脱藩するわけじゃないんだから、ネットもあるし、それは別の選択肢を探すだけの力がない自分を隠すための言い訳。


強度行動障害の人へ支援について指導している人が、全国の施設や学校、家庭を巡って、片っ端から治していけばいいのです。
そしたら、全国からお金をかけて集まる必要もないし、資格の習得、更新に何万も、何十万も払わなくてもいいですね。
そんな伝わるかどうかわからない言葉や知識よりも、講師の先生方が全国を回って、その場で治していく方が、当事者、家族、施設共に救われます、でも、実際に治せたら、ですけれども。


私は、その人の肩書や所属よりも、その人が過去に何をしてきたか、そして今、どんなことをしているか、その行動のみを見て、判断するようにしています。
ですから、治せない医師、実践したところを見たことがない有名支援者よりも、子どもの発達のヌケを埋め、遅れを取り戻し、治している親御さんをリスペクトしますし、学ばせていただきたいと思っています。


肩書や権威が支援の質の保証にならないことは嫌と言うほど、見てきました。
でも、そういった経験だけではなく、自分にはそれに気づくだけの脳みその余裕と察する感覚が育っている。
逆に言えば、脳みそ、身体に余裕と育ちがなければ、肩書や権威などでしか判断できないのだと思います。


よく「トンデモだ」などと言う人がいますが、トンデモかどうかは、やってみないと実際はわからないのです。
やらずにそういった言葉が出てしまうというのは、「私には、新しい知見を試すだけの余裕がありません」と言っているようなもの。
だから、そんな人の意見は聞くだけ無駄。
やったことがないのに、その文字や情報だけで「トンデモ」と判断しちゃう人の方がトンデモ。


ちなみに私は、構造化も、ABAも、SSTも、勉強しましたし、研修も、トレーニングも受けて資格も持っています。
そうやって学び、トレーニングを受け、実践し続けてきたからこそ、今、言葉以前のアプローチがベストだと考えていますし、それを核に仕事をしています。
だって、実践し、成果を出すことが、支援者として唯一の存在意義なのですから。

2019年2月12日火曜日

発達過程に注目しないんだったら、そりゃあ、治せないよね

うちの上の子は、ハイハイをちょっとやっただけで、すぐにつかまり立ちをしました。
つかまり立ち以降も、立ったかと思ったら、すぐに歩き出しました。
そんな我が子の姿を見て、「この子は、運動神経が良いのかもしれない」なんて思い、親バカになったものです。


でも、その親バカ期間はすぐに終わりを迎えました。
歩いている様子が、どうもぎこちがない。
なんだか、無理して歩いているような気がしたんですね。
「ああ、この子は、運動神経が良いんじゃなくて、次々と発達の階段を駆け上っているだけ」
だから、こりゃあ、マズイなと思い、ハイハイや足の指を使う遊びをやったり、素足で公園や砂浜で遊んだり、運動発達を中心に置いた保育園に通わせたりもしました。
今思えば、ハイハイという発達段階が抜けていたのでしょうし、その前の寝返りの仕方、身体の使い方が違ったのでしょう。
そのヌケが埋まってからは、まさに足元、土台からしっかりしたように感じます。


私は発達に関わる仕事をしていましたし、人類の進化なども興味がありました。
ですから、直感的にマズイなと思ったのを、知識と経験が確信まで後押しできたように思えます。
でも、このマズさは、医師や保健師さんには、なかなか伝わらなかったのです。
むしろ、「ちゃんと立って、歩いているから問題ないでしょ」「近頃、ハイハイを飛ばす子が多いから、それもその子のペース、個性かもしれませんね」といった具合です。


たまたま私が上の子のときに出会った人たちが、そういった考えだったのかもしれません。
しかし、「歩ければ、問題ない」「言葉が出てれば、問題ない」といったように、その子の歩んだ発達のプロセスよりも、結果のみにしか注目していないような発言をする人は、少なくないように感じます。


確かに、歩けなかったら、言葉が出なかったら、障害や病気が疑われます。
だけれども、どの時代の、どの国の赤ちゃんも、胎児期と乳幼児期に進化の過程を辿るのです。
人類が始まって、700万年くらい。
その700万年間、脈々と続いていた進化の過程を辿るという発達の流れが、「近頃、多いのよ」「この子の個性かもね」などという軽い表現で当てはまるわけがありません。
人類の歴史から見れば、10年、20年で人に変化が起きるわけはないのですから。


赤ちゃんが歩けるようになるのは、素晴らしいことであり、成長の証だといえます。
でも、その歩き方こそ、注目すべき点だと思うのです。
ちゃんと指で地面を掴んで歩いているか。
ちゃんと身体の軸を中心に歩いているか。
ちゃんと腰が安定して歩いているか。
つまり、歩いている結果ではなく、歩くに至る過程こそ、注視すべきだということです。


私が上の子のときに出会い、感じたように、意外にも専門家と呼ばれる人は、過程を重視していないし、気にしていないこともあります。
そりゃあ、結果だけに注目して、「歩いているから問題ない」と言ってしまうような専門家には、発達障害を治せるわけがないのです。


神経が発達する、まさにそのプロセス、過程に何らかの課題が生じている。
だからこそ、発達障害の子ども達をよりよく育てていくには、そのプロセスに注目し、ヌケている過程があるのなら、そこをやりなおし、埋めていくことが必要になります。
そういった意味で、やっぱり発達障害を治すのは、家庭であり、親御さんだといえるのです。
家庭には過程があり、その過程を見ている親御さんがいるから。


週に1回、数か月に1回しか会わない人には、神経発達のプロセスを見ることができません。
見えるのは、歩いているか、言葉が出ているか、といったような結果のみ。
ですから、専門家を過度に頼る必要はなく、その言動に一喜一憂する必要などないのです。
だって、その診察室で、施設で見えた結果のみからの言動だから。
結果は見ればわかるのですから、むしろ、毎日、見ている親御さんの方が詳しいのですから。
親御さんには、「この子の発達のプロセスを一番見ているのは私です!」という想いで、主体的にどんどん治していってもらいたいと思っています。

2019年2月3日日曜日

子ども達の持つ発達する力を信じることから始める

先日の『カンブリア宮殿』では、インフルエンザの新薬が紹介されていました。
すでに耐性菌の話も出てはいますが、従来のタミフルと比べて効きがよく、しかも1回の服用のみで良いそうです。
この薬のおかげで、うなされる期間が短くなり、助かる人も大勢いるのだと思います。
こういった薬を研究し、世に送りだしている人達の努力の結晶が、私達の健康を後押ししているように感じます。


私は、親御さんに対して発達援助を説明する際、医療行為に例え、お伝えすることがあります。
たとえば、発熱があったとき、病院に行くとします。
そうすると、そこで問診や視診、触診などが行われ、「これは風邪だ」「インフルエンザが疑われる」「溶連菌だろう」と見たてが行われる。
そして、多くの場合、薬が処方され、「水分を小まめにとって、寝ていれば治ります」と助言がされます。
2,3日も安静にしていれば、自然と快方に向かい、元気になる。
じゃあ、この場合、治したのは医師なのでしょうか?


医師は、見たて、または検査を行い、原因を特定する。
薬を処方し、助言や注意事項を伝える。
でも、実際に病気を治したのは医師ではありません。
医師に病気を治す力はありません。
治したのは、他でもなく、自分自身。
自分の体内にある免疫細胞と自然治癒力の発露により、健康を取り戻したのです。


身体に傷ができたとき、その傷口を縫うことがあります。
人はぬいぐるみではありませんので、傷口を縫うのは、自然治癒力を発揮しやすいように後押しする行為だといえます。
傷口をくっつけるのは、自分の細胞です。


つまり、発達援助というのは、その子の内側にある自然治癒力、この場合で言えば、発達する力が発揮できるような後押しをすることです。
そのために、栄養面からサポートする、睡眠や生活を整える、伸び悩んでいる根っことなっている発達のヌケを育てる、学びやすい環境を準備する。
これらはすべて、子ども自身が持つ伸びる力を強めるための補助です。
いくら頑張っても、他人がその子の発達を行うことはできないのです。


親を含め、他人ができることは、上記のたとえに出てきた医師と同じです。
見立てと助言、技術転移です。
本当の医師には薬の処方もできます。
なので、子育てを行っていく中で、他人の力を借りる場合には、どの部分をサポートしてもらうか、という明確な意図が必要になります。
見たてなのか、助言なのか、技術転移なのか、薬なのか。
これは別の言い方をすれば、この4つ以外は、子どもの発達とは関係ない部分のサポートということです。


支援、介助は、発達を促しているわけではありません。
環境調整したり、SSTをしたり、建物を青くしたり、「理解ガー」と社会に訴えたりするのも。
本人の自然治癒力、発達する力を後押しするものではないからです。
本人の内側ではなく、外側からの、外側へのアプローチ。
ガンについて啓発することや、ガンと闘っている人も働けるような仕組みにしていくことは大事なサポートですが、直接、ガンを治すわけではないのと一緒です。


発達障害の子ども達は、病気をしているわけではありません。
彼らにこそ、必要なのは、彼らが持っている発達する力を十分に発揮できるような後押しだといえます。
ですから、彼らにとって、また親御さんにとっても、必要な存在とは、正しく、広い視点から見たてを行ってくれる人、具体的で、かつ、自分たちで実践できるアイディアを教えてくれる人だと思います。
そういった知見を持った人から学び、最終的には本人自ら発達する力を存分に発揮していけるようにすること。
それが自立につながっていき、主体的に、向上しながら自分の人生を歩んでいくことになるといえます。


発達障害の入り口が医療であったり、「専門家と私」というような図式を感じてしまいますと、どうしても受け身で、自分には何もできないような気がしてしまうものです。
しかし、発達障害は、神経発達の障害です。
神経に病気があって、そこを薬や手術で治療するわけではありません。
ましてや、神経の傷口を縫ったり、悪い部分を取ったりするなんてこともありません。
必要なのは、神経発達を促していくこと。
その神経を発達させる力は、その人自身に、内側に存在するのです。


だったら、発達を後押しする行為、人間に上下、優先順位などありません。
あるのは、本人の発達する力を後押しできているかどうか、ただ一点のみです。
でも、その前に、本人の内側にある発達する力、自然治癒力を信じている人かどうかは重要になります。
最初から、「治らない」なんて言っている人は、目の前にいる人の発達する力を信じていない証拠です。
信じていないからこそ、親御さんや社会、後付けの知識など、外からのアプローチに終始するわけです。


どんなに重い症状をもった子でも、たくさんの発達のヌケ、遅れを抱えた子でも、みんな、その子自身に伸びようとする力、発達しようとする力を持っているのです。
ですから、私達は、まず何よりも、子ども達の持つ発達する力を信じること。
そこから始めて、少しずつ必要な知見、人を集めていき、最終的には子ども自身で発達する力を発揮し、人生を主体的に成長して生きていけることを目指すのが重要だと思います。

2019年2月1日金曜日

「IQは変化しない」という迷信、言い伝え、民話?

知的障害の状態が変化するのは当たり前。
「IQが変わらない」というのは迷信であり、(子どもではなく)大人を慰めるためのもの。
幼児期に「知的障害あり」「重度です」なんていうのは、ああそうですか、今はまだ発達のヌケがあるもんね、くらいで良いのです。


発達のヌケが埋まれば、知的障害の状態が良い方に変わっていくのは自然なこと。
「快食、快眠、快便を整えた」「発達のヌケは、育て直した」「学習の土台、愛着の土台はしっかり育てることができた」「環境を整え、本人が学習できる体制を整えた上で、何年も学びを積み重ねてきた」、それでも、やっぱり知的に障害があるよね、やっぱり中度くらいだね、というのなら、「知的障害がある人」「その部分で配慮や支援が必要な人」となるでしょう。


言葉に遅れがあるから受診する。
そうすれば、知的障害が付くのは当たり前。
でも、それって、一生涯、この子は「知的障害である」ということにはなりませんね。
言葉が遅れて知的障害なら、言葉の遅れを取り戻せば、知的障害だって変わってくる。
結局、言葉の遅れ以外にも、遅れをそのままにしているから、最初についた知的障害のまま。


私が学生の頃は、講演会に行けば、「知的障害、IQは維持できていたら、儲けものと思わないといけませんよ、みなさん」と、よく聞きました。
発達のヌケを育てることなく、対処と啓発、お薬だけでは、知的に発達するわけはありませんからね。
そもそも、同世代の人達と比べれば、勉強の時間が圧倒的に少ない特殊学級に、養護学校。
ですから、年齢が上がっていけばいくほど、軽度は中度になり、中度は重度になる。


専門家が対処と啓発、学校が十分な学びの機会を与えられていない。
そりゃあ、なんのための支援、療育だ、学校だ、となる。
その不満を抑えるために、「IQは維持できて儲けもん」「年齢が上がれば、下がるのは当然」という宣伝をギョーカイ人たちはしていたんですね。


というか、「維持できない」「下がって当たり前」と自分たちで言うってことは、「私達は無力です」と言っているようなものです。
そんなグダグダな専門家が専門家ヅラできてたのが、私が学生時代。
あれから15年くらい経ちますが、その間に、何人も、何十人も、IQが変わっていく人達に会いました。
実際に知能検査の結果を見せてもらったこともあります。
私が直接、関わらせてもらったった子ども達、若者たちの中にも、一度、知的障害と診断を受けた子で、標準域に入った子も、手帳を返納した子も、何人もいます。


このように、現実の世界では治っている子ども達、若者たちはたくさんいるんですね。
IQが10、20上がるのだって珍しいことではありません。
就学時、発語なし、最重度だった子は、今、普通の人として一般企業で働いています。
だから、「維持ガー」「下がって当然」とか言っているのは、親御さんに不満を言わせないためのおまじないであり、自分たちが無能なのではなくて、「全部が全部、障害のせいだからね」「IQをあげようと頑張るのではなく、みんなで支援(ギョーカイ)の輪の中に入って暮らそうね」と言っているだけ。


IQが変化するのも、知的障害という診断が適さないくらい発達するのも、親御さん、非組合員(非ギョーカイとも言う)の現場の人達は知っていたわけです。
そして、DSM-5(2013)でも、その状態の変化が記述されるようになった。
ということは、この5年間は何だったのか、ということになります。


アメリカから太平洋を渡る際、この記述は落ちてしまったのでしょうか。
ハワイ辺りに、「知的障害、治るよー」「アスペルガーの人達は働いて暮らしていけるんだよー」というメッセージが落ちているかもしれません。
まあ、冗談ではありますが、この日本の中に嘘つきがいるということだといえます。
でも、私はまだ嘘をついている方が良いくらいだと思うのです。


端的に言えば、バカにされているんですよ、みなさん。
どうせ、一般人にはわからないだろう、親は素人だし、親にも問題があって子育ては難しいくらいなんだから。
そんな発言が、堂々と出版物の中に書かれている。
また、誰も原書なんて読まないだろう、原書より私が言ったことを信じるだろう、正しいと思うだろう、という同じ専門家に対する姿勢の中にも奢りすら感じます。


未だに、「IQは変わらない」「知的障害は治らない」「一度付いた障害が治って、なくなるわけはない」、そんなことを言っている人がいたら、平成という元号と共におさらばする時間となりました。
ギョーカイ内、医療界には上下関係、ムラ社会の掟があるのでしょう。
でも、一般人には、それは通用しません。
その掟を外に持ちだすから、わけがわからなくなる。
そして、そんなムラ社会の掟に従う一般人も、助長させる原因でもありますよ。


IQが変わるのは当たり前。
人は生きているんだし、子は日々発達し、神経発達盛んな時期を過ごしているから。
だから大事なのは、どうやってIQをあげていくか、治していくか、より良く学び、働ける姿を目指していくか。
治る、治らない議論は時間の無駄。
だって、治るんだから、アメリカでも、日本でも。


「治らない」という人は、治す腕のない人か、治った人を見たことがない人か、DSM-5を知らない人。
そして、治ると困る人か、治らないと嘘をついても大丈夫だろうと子ども達、親御さん達、他の支援者を下に見ている人間ですね。
だったら、そういう人とは関わる必要はありません。
治せない人、治す気のない人、子どもの発達する力と親御さんの子育ての力をバカにするような人に用はないのですから。


知的障害を治す知見は、治した親御さんと治せる実践家が持っていますね。
そういった方達の知見からアイディア、発想をもらって、どんどん治していきましょう。
治る可能性は、ギョーカイの外側にある!
だって自分たちで治す気がない、嘘をついてまでも治そうとしないのですから。