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家庭の空気に馴染む発達援助を

出張で発達援助をする場合、可能な限り、前日から入るようにしています。 そして街を歩き、その土地の雰囲気を感じます。 風土によって、発達の仕方、発達援助の方法も、それぞれだと考えているからです。 その土地に馴染む発達援助でなければ、一過性のものになってしまう。 そんな感覚もあります。 私は、その土地の雰囲気を感じ、その風土の流れに沿った発達援助が提案できることを目指しています。 土地が子どもを育てる舞台であるのと同じように、家庭も大事な舞台です。 ですから、家庭に流れている空気を感じなければなりません。 家庭に伺った私は、非日常の遺物的な存在です。 そんな私が、その空気を乱す存在になってはならないのです。 家庭に流れている空気に身を委ねつつ、空気が停滞している箇所があれば、そこがスムーズに流れていくようなお手伝いをする。 家族の一人ひとりが持っている空気が重なり合い、自分たちで心地良い風を流し続けられるようなお手伝いをする。 私はその家庭の自然な空気になれませんので、そよ風みたいな扇風機になれたらいいな、なんて思っています(笑) 私の主の職場は、各ご家庭です。 同じ家族だといっても、その一人ひとりは、異なる資質を持っています。 異なる資質を持った者同士が、一つの家庭を築いている。 ですから、目指すべき姿は、一人ひとりの資質が発揮され、馴染んだ形だと思っています。 それは子育ての仕方、発達援助の仕方も同様で、同じ胎児期に発達のヌケのある子を育てるにしても、各家庭で育て方が違うのが自然だと思います。 どんなことを通して育てていくのか、どのように育てていくのかは、親御さんの資質によっても変わってくるはずです。 親御さんの資質を活かした子育てでないとしたら、息が続かないものです。 その息苦しさは、当然、子どもにも伝わります。 子どもが伸びやかに発達、成長していくためにも、家庭の中に自然な空気が流れていること、そして、その空気は、親御さんの資質から流れていることが大切です。 子どもさんに成長や良い変化が見れたなら、それが親御さんの気持ちを穏やかにさせ、もっと子育てを頑張ろうというエネルギーを生む。 そうやって子育てを頑張れば、また変化が見られ、新たなエネルギーを生む。 そういった良い流れは、どのご家庭も一緒だと思い

プロセスにこだわる支援者、結果にこだわる支援者

治す支援者と治さない支援者、良い支援者と悪い支援者の見分け方は簡単です。 その人の言動をみれば、一発です。 良い支援者というのは、行動がシンプルで、分かりやすい言葉を使います。 難しい言葉、また意味が分かりづらい言動になればなるほど、支援を受ける側にとっては良くない支援者になる。 治すためには発達を語る必要がある。 そうなれば、シンプルな方向に向かうのは当然です。 また、シンプルで分かりやすい言動は、受け手を第一に考えていることの現れです。 自分主体の言葉を使っているか、相手主体の言葉を使っているか。 それこそが、その支援者の腕と、どの視点からモノ申しているかを教えてくれるのです。 支援者とは、支援する相手がいて、初めて存在価値が生まれるものです。 特別支援に関わる支援者で言えば、本人が今よりもラクになり、成長発達し、可能性を広げ、自立した人生へと向かう後押しができればよい。 だから、本人がどう変化したか、つまり、結果がすべて。 そのプロセスや方法は、二の次、三の次、いや、本人からしたらどうでも良いのです。 しかし、特別支援に関わる支援者というのは、どうも結果よりも、プロセス、方法の方が大事なようです。 本人がいくらもがき苦しんでいても、自分の選択する手法以外は用いないし、それらを否定すらする。 本人が「自分には合わないから、別の方法を」と言い始めると、自分の選択する手法が唯一無二のものであると言い放ち、良くならないのは障害のせいだと屁理屈をこねる。 そして、それでも別の方法を選ぼうとする人に対しては、「問題行動あり」というレッテルを張り、周囲の人間から洗脳し、逃げられないようにする。 これを一般社会では、人権侵害と言います。 本人により良い変化が訪れれば、それで良いのです。 どんな方法を選ぼうとも、まったく構わないのです。 サプリでも、体操でも、プラセボ効果でも、支援の世界と全然関係ない人の助けでも、何でもよい。 唯一悪いのが、何も変わらないことであり、そればかりか悪くなる一方なこと。 目の前にいる子が、少しでもラクになり、成長し、気持ちが穏やかになれば、それだけで嬉しくなるのが、親御さんであり、支援者というものです。 本人の心身の安定、成長を心から喜べない人間、それを第一の望みであると自分の腹の底

感情の伴わない発達援助は、存在しない

まず前回のブログの補足からです。 ブログを読んでくださった方から率直な感想をいただいたことで、浮かんできた内容です(気づきをを頂戴し、ありがとうございます!)。 家族での思い出は、特別なイベントに限ることはありません。 遊園地や旅行に出かけなくても、また出かけられなくても、一緒に誕生日を祝ったことでも、近くの公園に家族で遊びに行ったことでも良いと思います。 自分の両親ではなくても、おじいちゃんやおばあちゃんとの思い出でも良いでしょうし、生まれたとき、祖父母の腕の中で抱かれた写真が心の支え、愛されたことを実感するものになる場合もあると思います。 大事なのは、そこに温かい感情があるかどうか。 子どもは、自分の赤ちゃんのときの写真もよく見ますし、大人になってからも、自分が幼い頃の写真を見て、心が温かくなることがあると思います。 みんな頭の中ではそのときのことを覚えていないのに、です。 きっと記憶として残っていなかったとしても、身体はそのときの感情、周囲の空気感を覚えているのだと思います。 思い出の写真は、そのときの感情、心地良さを呼び起こすきっかけ。 ですから、子育て中のご家庭やおじいちゃん、おばあちゃんには、みんなで共に過ごした時間を写真として残しておいてほしいと思います。 また、そういった写真が残っていない、そういった思い出が残るような子ども時代ではなかったという方は、これから思い出を作っていけば良いのだと思います。 友だちと一緒に撮った写真が、10年後、20年後の自分へのメッセージになるかもしれません。 思い出の写真のように、感情の伴う活動こそが発達につながると私は考えています。 もし、感情がないまま活動をしていたとしたら、刺激は身体を通して脳に送られると思いますが、ただ脳内に刺激の通り道ができるだけだと思います。 その新しくできた通り道は、同じ活動を行う際、スムーズな動作をもたらすでしょう。 でも、動作を身に付けること、その動作をスムーズに、効率よくできるようになることが発達だとは思いません。 脳内全体で、同時に電気が走るような、脳の奥底から連動し合うような、そんな変化が発達と言えるのではないか、と私は思うのです。 発達を促すために、いろいろな遊び、活動を行います。 でも、発達とは、動作の獲得ではないと思い

発達援助と思い出の家族写真

実際にお会いすると、その人の発達のデコボコは想像以上でした。 私は「相当、生きづらかったでしょう」と、感じたままの言葉が出ていました。 本人は生きづらさを抱えたまま、必死に生きてきたことを話してくれました。 「これだけ発達の課題を抱えたまま、どうして頑張ってこれたのだろう」と、私は率直に思いました。 しかし、その人の物語に心を傾けていると、理由がわかりました。 その人には、親から愛されたという実感がある。 そして家族で過ごした楽しい思い出があったのです。 成人した方達と接すると、感じることがあります。 みなさん、生きづらさを抱えたまま生きてこられたのは同じですが、その中でもなんとか自立した生活が送られている人達がいます。 じゃあ、生きづらさを抱えて、仕事ができない、一人で生活できない人と何が違うのか。 そこで感じるのが、子ども時代に家族との楽しい思い出があるかどうかが大きいのではないか、ということなんです。 どんなに今、生きづらかったとしても、最後の最後で踏ん張れるのは、愛された記憶と楽しい思い出だと私は思います。 発達のヌケや遅れを育て直すことは、子どもの人生を考えれば、とても大事なことです。 でも、子ども時代の中心が、「発達のヌケや遅れを育て直すこと」であって良いのだろうか、私は正直思います。 子どもが大人になり、自分の子ども時代を振り返ったとき、一番に思いだす記憶が発達援助というのは、本人にとって悲しいことではないでしょうか。 私は、発達援助とはシンプルな育みだと考えています。 ですから、親御さんにはシンプルな発達援助を提案します。 でも、そうやってシンプルにし、余裕のある発達援助にするのは、親御さんに伸びやかになってほしい、子どもさんに存分に刺激を味わってほしい、という願いからだけではないのです。 私のもう一つの大事な願いは、家族での思い出を作ってほしい、ということ。 発達課題の根っこを掴み、発達援助をシンプルにしたあとは、必ず「あとは家族みんなで、いろんな思い出をたくさん作ってください」と言っています。 それが将来、自分自身を支える杖になるからです。 人生、発達障害があるなしに関わらず、失敗や挫折もすれば、転んで起き上がれないこともあります。 そういったとき、踏ん張れる支えになるのが、起き上が

治そうとすればするほど、発達援助はシンプルになる

私が直接、相談や支援に関わらせていただくときは、やることを増やしていくよりは削っていく方が圧倒的に多いと言えます。 それまで、一生懸命いろいろな試みをやられていた親御さん程、「これだけでいいんですか」と驚かれます。 私がやってもらうことを削っていくのは、親御さんの力を信じていないからではなく、むしろ、子どもさんの発達のヌケを育て直せるのは親御さんしかいないと心から信じているからです。 親御さんの育てる力を信じているからこそ、私は発達の根っこを掴もうとするのです。 行ってもらう発達援助がシンプルになっていくのは、発達課題の根っこを手繰り寄せていくからです。 発達課題は一部分として存在するわけでも、いろいろなところに点在しているわけでもありません。 発達とは全体の調和と連動です。 ある発達課題があるとして、その発達課題は様々な部分と連動し合っています。 同時に、その発達課題の手前には別の発達があり、その別の発達の前にも発達がある。 発達は幾重にも重なり合っていながらも、全体としてつながっているのです。 発達にヌケや遅れがある子は、姿勢が保てなかったり、勉強ができなかったり、会話が難しかったり、人間関係が築けなかったり、様々な課題が見て取れます。 しかし、姿勢が保てないから体操、勉強ができないから家庭教師、会話が難しいから言葉の教室、人間関係が築けないから児童デイというように、表面に表れている課題を一つずつクリアしていこうとすると、やるべきことがどんどん増えていきます。 まるでモグラたたきをしているかのようです。 課題が出ては叩き、課題が出ては叩く。 そもそも課題が全くない人生などあり得ないですし、その子の持つ課題を親でも、他人でも、対応し続けることは不可能だといえます。 私は、その人の課題と向き合うとき、見えている課題とは枝葉だと考えています。 ですから、その枝葉が出ている幹を辿り、そして土の中の奥深くまで掘り続け、その課題の始まりである根っこを探ります。 掴んだ根っこを本人と親御さんに手渡し、そこを育ててもらうまでが私の仕事だといえます。 根っこの部分といえる発達のヌケから育てていくと、土台から元気になっていきます。 土台がしっかりし、幹がたくましくなり、枝葉が輝き始める。 発達障害の子どもの成長は「ドカン」

子育てをきっかけに、溢れ出てくる自分の課題

子育てをきっかけに、自分の内側にある課題が表れてくる人がいます。 「どのように育てたら良いか分からない」 「どのように愛したら良いか分からない」 「何が正しくて、何が間違っているか分からない」 こういった発言は、発達障害を持つ子ゆえの悩みにも聞こえます。 でも、実際は、子どもと向き合うこと自体の悩み。 大なり小なり、子育てに悩みはつきもの。 ただ悩みの根っこが違うのです。 子どもと向き合おうとすると、子ども時代の自分が投影される。 その自分の顔が穏やかなら、“我が子”の子育てについて悩みます。 しかし、投影された子ども時代の自分の顔が辛そうだったり、悲しそうだったり、寂しそうだったりすると、我が子と向き合うこと自体に悩むのです。 いや、本当は、子ども時代の“自分”と向き合うことに悩み、苦しんでいる。 地域には、「子育て相談室」のようなものが常設されているが、いつも閑古鳥が鳴いています。 そんなにそんなに、第三者の他人に、我が子の子育ての相談はしないもの。 だけれども、我が子に「発達の遅れ」が見つかった瞬間から、第三者に相談する機会がやってくる。 子どもに発達の遅れがあると、第三者に子育ての相談をすることが違和感でなくなる。 だからこそ、本来は発達障害の子を育てるための相談をしているはずが、いつしか私の子どもとの向き合い方、そして最後の砦、私の子ども時代の苦しみまで辿りついてしまう。 普通、特別支援の世界に入らなければ、最後の砦まで辿りつくまで相談の機会は得られないもの。 特別支援の世界は、愛着に課題を残したままの人で溢れています。 そういった支援者は、悩み、苦しんでいる親御さんを傍に置くことで、自分の存在価値を確認し、自己治療を行います。 よく仕事上だけではなく、プライベートまで入っていく支援者がいます。 仕事の時間が終わったあとも、親御さんに連絡したり、個人的な携帯で連絡をとりあったり、自分の職責が及ばないところまで介入しようとしたり…。 子ども時代、満たされなかった想いがある親御さんが支援者に依存し、丸抱えされることを心地良く感じてしまう。 支援者は、悩み、苦しむ親御さんが、自分の傍から離れないことを実感することで、自己治療を行う。 その両者の間には、子どもの存在が見えなくなっている。 子

スケベ読者

当地には、スケベ読者がいるようですね。 私が言ったこと、書いたことを、そのまま言ったり、実践したりしている人達がいるそうです。 「大久保さんが書いたまんま、言っていましたよ」 なんて話も聞きます。 でも、私は気にも留めません。 別に、特別な情報を載せているわけでもありませんし、私しか知り得ない情報でもありませんから。 書いてある情報をどのように料理するかは、個人にかかっていますので。 私が「スケベ読者」というのは、言葉をそのまま持っていくからではありません。 本当は実際の発達援助が気になるし、「治る」をもっと知りたいのに、個人的にアプローチしてこないからです。 「なんかおいしい情報がないかな」と、陰からこそっと覗き見て帰っていくその姿からの連想です。 しかも、覗き見だけで止めてしまう理由が、地元の支援者に目を付けられないためって、オイ。 たとえ利用回数を減らされたとしても、嫌味の一つ二つ言われたとしても、治ってしまえばこっちのものなのにね。 いろんな方から、「ブログに情報を載せ過ぎじゃないか」と言われることがあります。 まあ、考えてみれば、匂わす程度に情報を抑え、「ご利用はこちら」とすれば、商売としては利益につながるのかもしれません。 でも、私の仕事は、本人や家族の間で治っていくための後押しですし、腕の見せ所は、発達の物語を描くことと、発達のヌケと育て方を見抜くこと。 ですから、私がいくらブログに情報を載せようとも、仕事のニーズに変化はないと思います。 それに時々、ブログを読んでくださった方からメールを頂くことがあります。 ブログからヒントを得て、発達援助を行ったら、治っていった、と。 こういった方たちのように、私がブログを書く意図を見抜き、書かれている情報から着想を得て、治していける人たちもいます。 事業としては利益を出すことが大事ですが、それよりもより良い社会になる方がずっと大事。 私が情報を小出しにして小銭を稼ぐよりも、ブログを読んだ方の中から治っていく人が一人でも出る方がはるかに社会のためになると思います。 事業を起ち上げたのも、ブログを書くのも、必要があるからこそ、やっているのです。 そういった意味では、いくらスケベ読者が増えようとも構いません。 どんどん情報を持っていけば良いのです。 だから

変化に強いはずだよ、構造化された支援は

イレギュラーな状況にこそ、構造化された支援は力を発揮するのだと思います。 スケジュールやワークシステム等で、見通しを持たせると同時に、変更を伝えていく。 常日頃から変わらない部分と変わる部分を知り、経験することで、状況や環境の変化に対応できるようになるのです。 10年前、私が熱心にトレーニングを受けていたとき、まず最初に「日課、活動のルーティン化は避けなければならない」と教わりました。 “変化が苦手で、同じパターンを好むタイプの人達だからこそ、変化に対応できることを彼らは学ばなければならない。 もし変化に対応できず、同じパターンでしか行動できないとしたら、彼らの生活、人生は乏しいものになってしまうのだから。” 日本では、構造化された支援は「情報を整理し、彼らにわかりやすく伝える」「混乱を避けるためのもの」という側面ばかり強調されていますが、どちらかというと、トレーニングでは「変化に対応できる」という側面の方が強調されていたと感じます。 まあ、それは考えてみればわかることです。 もし、安定だけを目指すのなら、日課も、手順も、すべてパターン化してしまえばよいのですから。 まったく変化のない環境と日課を用意し、いつも同じようなことをやり続けさえすれば、混乱することはないでしょう。 でも、それではいけないから、構造化された支援を通して、変化と変更に対応できるように学んでいくのです。 今回もそうですが、自然災害等でイレギュラーな状況が起きたとき、常日頃、構造化された支援を熱心に行っている人達から悲痛の叫びと「配慮を」「理解を」の訴えが聞こえてくるのが不思議でなりません。 こういったイレギュラーな状況でも、落ち着いて生活できるために、日々、構造化された支援を学び、実施していたのではないでしょうか。 変化を伝え、変化に対応できるように育てるための構造化された支援なのに、「変化で困っています」「落ち着ける環境を用意してください」というのは、おかしなこと。 待ってましたとは言わないけれども、こういった状況でも、「私達は対応できるし、落ち着いて生活できています!」と日頃の成果を見せ、本領発揮するときだと思いますが…。 構造化された支援の本質を見抜き、大事なことは、ただ「視覚的に示す」「衝立を立てて刺激を統制する」「情報を整理する」ではなく、

当事者をお客様扱い

深夜の緊急地震速報に驚いて目を覚まし、スマホの画面を見ると、「北海道 道南」という文字が目に飛び込んできました。 ちょうど一年前くらいはミサイルが何発か飛んできましたが、北海道が大きな地震の震源地になるのは1、2度あったかな、という感じ。 ですから、「こりゃ、マズイな」と思った瞬間、家族で身を寄せ合っていました。 地震の揺れが止まって、テレビをつけようとしても、つきません。 そこで停電に気が付きました。 地震で停電になるのは初めてのことでしたので、北海道で大変なことが起きたと直感しました。 スマホやラジオで情報を集めると、胆振地方で震度7の大きな地震があったことがわかりました。 カセットコンロで調理した朝食を摂ったあと、小学生の息子を連れて街を歩きました。 止まったままの信号、真っ暗なお店、次々に出動する救急車、警察の方達が交通整理している姿…。 食材はストックがあったので、カセットコンロのガスボンベを買うためにお店にも並びました。 薄暗い店内で、何とも言えない重苦しい雰囲気の中、並び続け、1つだけガスボンベを購入しました。 余震が続いている中でしたので、息子を家において、私だけ買い出しに行くというのが適切だったかもしれません。 でも、息子には肌身で、今回のことを感じてほしかった。 当事者であることを求めたのです。 家にいて、ただの停電、お客様のような感じにはなってはならないと思ったのです。 函館の停電は、当日の夜くらいから段階的に復旧していきました。 私の家も、比較的早い段階で電気が通りましたので、充電やお手伝いすることがあれば、と思い、現在、発達援助で関わっているご家庭に連絡をしました。 すると、すぐに皆さんから返事が来て、無事であることがわかりました。 そして、子ども達が成長した様子も伝わってきました。 以前は、変化があるたびに不安定になっていた子が、急遽、学校が休みになっても、電気がつかないで、いつもの生活ができなくても、いい意味で淡々と過ごしていました。 家族を手伝うために買い出しをする子もいました。 親戚や知り合いの家に物を届けたりしていた子もいました。 真っ暗な中、反対にその非日常的な生活を楽しみ、遊びを考えていた子もいました。 震源地周辺の方達やこの夏の豪雨災害に遭われた方達と比べれば

決められた回数をこなしても、発達にはつながらない

この前、書いた 『発達のヌケが埋まると、赤ちゃん返り、幼児返りが始まる」 というブログにアクセスが集中しています。 これは日々、実践している人なら珍しくない現象ですし、ヒトの発達から考えれば、当然のお話。 初めての子育てで、こういったことがわからないというのは不思議ではありませんが、そんな親御さんのそばには一人や二人、支援者という人がいるはずですから、一言伝えれば済むだけだと思います。 タイトルの通り、「〇〇くんが赤ちゃん返りしているのは、発達で抜けたり、遅れていたりした部分が埋まったため、赤ちゃんのときにできなかった課題を育て始めたのですよ。退行が始まったわけではありません」と。 そうすれば、親御さんも悩むよりも、ポジティブに捉えられ、 「じゃあ、またそこの部分を育てていこう」と進んでいけるのに、と思うのです。 ナントカ療法も良いですが、発達障害の人達と関わっているのですから、もう少し、いや、ちゃんと発達について学ぶ必要があると思います。 「ちゃんと発達について学ぶ」といえば、最近、「運動を通して、発達を促そう。脳を育てていこう」という事業所が増えたような気がします。 発達障害の人達の身体や感覚、脳に注目し、運動を通して育てていく方向性を持ったところが増えたのは好ましく思いますが、中身を見ると、う~んと感じてしまうことも多々。 「これって、私が学生時代のとき、やっていたのと同じじゃん」と思うこともあります。 あの~、そろそろ回数の絵カードを使って、その提示されている数がすべてなくなったら終わり、みたいなのやめませんかね。 一回、抱っこされたら、一枚カードを処理する。 タイマーが鳴ったら、トランポリンを止めて、次のスケジュールに向かう。 確かに、運動を通して刺激し、育てていくことにはなっているのでしょうが、発達って、そういったもんじゃないでしょ。 支援者が決めた回数やって、「はい、10回、トランポリン跳んだから、発達ね」みたいなのは、違和感でしかないです。 発達って、子ども自身の内側にあるものであって、支援者が見たり、コントロールしたりするものではありません。 発達には回数も大事な要素ですが、それよりも、子ども自身が自主的に、楽しんで、やりきる、遊びきることで満たされ、進んでいくもの。 結局、回数を決めているのは、発達

診断名は範囲であり、どの人にも飛び越えるチャンスがある!

「どうして、その支援方法なんですか?」と尋ねると、「自閉症だから」「LDだから」「発達障害だから」という言葉が返ってくることがあります。 「いやいや、障害名を訊いているのではなくて、その支援方法を選択した根拠、理由を尋ねているんです」と言っても、同じことしか返ってきません。 こういった噛みあわない問答が支援者同士で繰り返されるのですから、一般の人との間で理解し合える日は、当分、来ないと思います。 「自閉症」という診断名が付いたとしても、自閉症という人種や違う惑星から来た人というような意味ではありません。 でも、なんだか「自閉症」という言葉を、あたかも、そういった個体がいるような意味で使っている人が少なくないような気がします。 「自閉症」という略語です。 本当の意味は、「自閉症という人工的な診断の基準を満たす人」という意味です。 つまり、「ここからここまで自閉症ね」と、誰かが便宜上、引いた線と線の間の中に入っているよ、ということ。 ですから、私が尋ねる「どうして、その支援方法なんですか?」という質問に対し、「自閉症だから」は答えたことになりません。 「自閉症という人工的な診断の基準を満たす人です」と言っているようなものですから。 私が聞きたいのは、その個人のどういった部分に対し支援が必要で、その支援を選択したのかということなのですから。 その支援方法を選択した理由を尋ねて、その子の状態から導かれた説明が返ってこなければ、その支援方法は、支援者の趣味嗜好のレベルです。 それか、とにかく教科書通りに、「自閉症だから視覚支援」「LDだから、電子機器を使って」というようなマニュアルに従って支援しているフリをしているだけ。 そもそも人と向き合う仕事、それも発達という複雑でバラエティに富んだものと向き合っている仕事に、マニュアルなど作れるはずがありません。 マニュアルが存在するというのなら、それは下手くそでも支援者のフリができる道具にすぎません。 だいたいマニュアルが存在する組織や、マニュアルやメソッドなどをせっせと作ろうとする組織に、一人ひとりの個人と向き合った支援ができるわけありません。 マニュアルやメソッド、ナントカ資格、レベルⅠ・Ⅱ・Ⅲがでてきたら、その支援者の目はすでに仲間、支援者の方を向いているという証拠です。