2018年9月26日水曜日

家庭の空気に馴染む発達援助を

出張で発達援助をする場合、可能な限り、前日から入るようにしています。
そして街を歩き、その土地の雰囲気を感じます。
風土によって、発達の仕方、発達援助の方法も、それぞれだと考えているからです。
その土地に馴染む発達援助でなければ、一過性のものになってしまう。
そんな感覚もあります。
私は、その土地の雰囲気を感じ、その風土の流れに沿った発達援助が提案できることを目指しています。


土地が子どもを育てる舞台であるのと同じように、家庭も大事な舞台です。
ですから、家庭に流れている空気を感じなければなりません。
家庭に伺った私は、非日常の遺物的な存在です。
そんな私が、その空気を乱す存在になってはならないのです。
家庭に流れている空気に身を委ねつつ、空気が停滞している箇所があれば、そこがスムーズに流れていくようなお手伝いをする。
家族の一人ひとりが持っている空気が重なり合い、自分たちで心地良い風を流し続けられるようなお手伝いをする。
私はその家庭の自然な空気になれませんので、そよ風みたいな扇風機になれたらいいな、なんて思っています(笑)


私の主の職場は、各ご家庭です。
同じ家族だといっても、その一人ひとりは、異なる資質を持っています。
異なる資質を持った者同士が、一つの家庭を築いている。
ですから、目指すべき姿は、一人ひとりの資質が発揮され、馴染んだ形だと思っています。


それは子育ての仕方、発達援助の仕方も同様で、同じ胎児期に発達のヌケのある子を育てるにしても、各家庭で育て方が違うのが自然だと思います。
どんなことを通して育てていくのか、どのように育てていくのかは、親御さんの資質によっても変わってくるはずです。
親御さんの資質を活かした子育てでないとしたら、息が続かないものです。
その息苦しさは、当然、子どもにも伝わります。
子どもが伸びやかに発達、成長していくためにも、家庭の中に自然な空気が流れていること、そして、その空気は、親御さんの資質から流れていることが大切です。


子どもさんに成長や良い変化が見れたなら、それが親御さんの気持ちを穏やかにさせ、もっと子育てを頑張ろうというエネルギーを生む。
そうやって子育てを頑張れば、また変化が見られ、新たなエネルギーを生む。
そういった良い流れは、どのご家庭も一緒だと思います。
しかし、必ずしも、お子さんの変化が一番のスタートになるとは言えない場合もあります。
「このご家庭は、お母さんが資質に合わない子育てをしているから、子どもさんが伸び悩んでいるんだな」
「お父さんがネガティブな空気を出しているのが、母子に影響を与えているんだな」
中には、ジジババが空気を歪ませているケースもあります。


もちろん、私の仕事、依頼されていることは、子どもさんの発達援助です。
しかし、アイディアの提供のみなら価値のないことだと思っています。
「遠く北海道から支援者を呼んだ」
「我が子のための発達援助のアイディアをもらった」
それだけでは自己満足に終わってしまいますし、治っていきませんし、これからも続いていく子育てを本当の意味で後押しできたことにはなりません。


やっぱりその家庭に馴染む発達援助でなければ、流れが途絶えてしまいます。
治る、発達、成長するというのは、継続こそ大事なのですから。
また、より良く子どもさんが発達、成長していくためには、伸びやかさが重要です。
「伸びやかさ」=親御さんの資質の開花であり、その資質を活かした子育ての形だと考えています。


「子どもさんの発達のヌケを埋める前に、お父さん、お母さんの方が先ですね」ということも、少なくありません。
そうやって、親御さんのモヤモヤや資質の向け方、活かし方を調整すると、グッと家庭の空気が心地良く流れていくこともあります。


習ってきた型にハマった療育ではなく、資質に合った子育てを始めたら、お母さんが活き活きし始め、子どもが伸びやかに発達した、というご家庭。
お父さんの資質を活かせる子育ての場面ができたら、お父さんの持っていたネガティブな感情が消え、それを感じたお母さんが前向きになり、主体的に子育てができるようになった、というご家庭。
両親がパーフェクト、統一した支援などを捨て、お互いの資質を活かしながら分担した子育てに方向転換したら、家族みんなの気持ちが楽になって、良い空気が流れるようになった、というご家庭。


私は家庭支援を行ってきて、私が具体的な発達援助のアイディアを提供するよりも、そのご家庭の一人ひとりが自分の資質を発揮した子育て、お互いが良い影響を与え合うような空気感を作っていける方が重要なことだと思うようになりました。
どうしても、発達援助を仕事としている身になれば、中心が発達援助になりがちです。
でも、そのご家庭にとっては、発達援助はすべてではなく、一部。
私がその一部に気持ちを込めて仕事をするのは当然ですが、それよりも家庭の中に良い空気が流れている方が大事なこと。


発達援助をきっかけに、家族の一人ひとりが自分の資質に気が付き、その資質を活かしながら、一つの家族の形として馴染ませていく。
その形を作る部分に、発達援助があり、子育てがある。
究極を言えば、家族が幸せを感じながら生きていければよいのだと思います。
資質を活かすとは主体性を発揮することにつながり、主体性こそ、発達援助に必要なこと。
子どもの発達に必要なことを主体的に選択していった先に『治る』がある。
ですから、良いアイディアの発達援助を取り入れるのではなく、その家庭の空気にあった発達援助を作っていく方が大事だと考えています。

2018年9月25日火曜日

プロセスにこだわる支援者、結果にこだわる支援者

治す支援者と治さない支援者、良い支援者と悪い支援者の見分け方は簡単です。
その人の言動をみれば、一発です。
良い支援者というのは、行動がシンプルで、分かりやすい言葉を使います。
難しい言葉、また意味が分かりづらい言動になればなるほど、支援を受ける側にとっては良くない支援者になる。


治すためには発達を語る必要がある。
そうなれば、シンプルな方向に向かうのは当然です。
また、シンプルで分かりやすい言動は、受け手を第一に考えていることの現れです。
自分主体の言葉を使っているか、相手主体の言葉を使っているか。
それこそが、その支援者の腕と、どの視点からモノ申しているかを教えてくれるのです。


支援者とは、支援する相手がいて、初めて存在価値が生まれるものです。
特別支援に関わる支援者で言えば、本人が今よりもラクになり、成長発達し、可能性を広げ、自立した人生へと向かう後押しができればよい。
だから、本人がどう変化したか、つまり、結果がすべて。
そのプロセスや方法は、二の次、三の次、いや、本人からしたらどうでも良いのです。


しかし、特別支援に関わる支援者というのは、どうも結果よりも、プロセス、方法の方が大事なようです。
本人がいくらもがき苦しんでいても、自分の選択する手法以外は用いないし、それらを否定すらする。
本人が「自分には合わないから、別の方法を」と言い始めると、自分の選択する手法が唯一無二のものであると言い放ち、良くならないのは障害のせいだと屁理屈をこねる。
そして、それでも別の方法を選ぼうとする人に対しては、「問題行動あり」というレッテルを張り、周囲の人間から洗脳し、逃げられないようにする。
これを一般社会では、人権侵害と言います。


本人により良い変化が訪れれば、それで良いのです。
どんな方法を選ぼうとも、まったく構わないのです。
サプリでも、体操でも、プラセボ効果でも、支援の世界と全然関係ない人の助けでも、何でもよい。
唯一悪いのが、何も変わらないことであり、そればかりか悪くなる一方なこと。


目の前にいる子が、少しでもラクになり、成長し、気持ちが穏やかになれば、それだけで嬉しくなるのが、親御さんであり、支援者というものです。
本人の心身の安定、成長を心から喜べない人間、それを第一の望みであると自分の腹の底から思えない人間には、支援者は無理なのです。
後付けの知識や技能を身に付けても、人を癒し、発達成長させることはできません。
主が自分だから。


結果ではなく、プロセスや方法にこだわる支援者というのは、目の前にいる人を支援しているのではありません。
支援しているのは、自分自身。
自分自身の過去と愛着の課題を癒すために支援しているのです。
ですから、自分のプロセスと自分の方法にこだわっている。


彼らは、自分が関わったことで、本人に良い変化が起きることを望んでいるのです。
つまり、自分の関わっていない変化は望んでいない。
むしろ、自分が関わらない中で良い方向へ進んでいくのなら、それは自分の内側にある淋しさ、孤独感が揺さぶられるため、否定、妨害したいという想いすら噴き出してしまうのです。


敢えて専門用語、横文字を使ったり、表現に癖を付け、相手に「う?」と思わせたり、そんな敢えて分かりにくくするような表現を使う支援者がいます。
また、すでにあるアイディアを寄せ集めてきて、「うち、オリジナルのアセスメントシートです。療育方法です」などというように、「中身は一緒、でも、パッケージングだけ違う」みたいな売り方をする支援者がいます。
こういった人達は、敢えて複雑にしていくことで、自分がいないとダメ、自分が関わって初めて意味が通る、というような状況を作っているのです。


本人と家族のことを一番に考えたら、分かりやすい言葉を使うし、大変にならないようにシンプルな方向性に持っていくはずですね。
寄せ集めのアセスメント、療育に、何十万も払わせようとするのではなく、「一度かかった獲物は放さないよ」みたいに何度も何度も通わせようとするのではなく、「息子さんは、この部分だけでいいですね」「このアセスメント形式、項目は、過去の〇〇と一緒ですよ」「家でできることなんで、全部教えましょうね」とすると思います。
だって、それが本人も、家族も、喜ぶことだから。


自分が支援に携わっているとき、その人が自発的にいろんなことを試すのも、自分以外の人の支援を頼るのも、問題ないばかりか、むしろ喜ばしいこと。
そうやって自発的に試行錯誤ができるのは、心身の安定や将来の自立の可能性を見ることになるから。
そして何よりも、自らの内側から溢れ出ている良くなるための行動なのですから、一緒に喜べばいいのです。
もし支援者が喜んでいないとしたら、面白くなさそうな態度をしていたら、それこそ、自分自身を主にしたヤブ支援者です。


世の中には、福祉に携わる人間=善人、マザーテレサのような博愛の精神の持ち主みたいな勘違いをされている人がまだまだ多い気がします。
もし本当にそうだとしたら、本人がより良くなることだけを願い、一緒に喜んでくれるはずです。
分かりやすい言葉で話してくれて、シンプルな方向へと導いてくれるはずです。
敢えて複雑で分かりにくい言葉を使い、本人と家族の負担よりも、自分との関わりを深めようとする支援者が、目の前の人の心身と未来を明るくしてくれるはずがないのです。
その瞳に映っているのは、淋しくて、孤独な自分自身の姿。


支援者というのは、「連携」「連携」言う割には、他の支援者、派閥の違う支援者のことを、本人、家族に紹介しませんね。
自分よりも、目の前の人のためになる、と思う支援者がいるのなら、その人を紹介するのが自然だと思います。
でも、決して紹介しない。
紹介しているのは、自分と利益を共有する支援者のみ。
「紹介されて頼った支援者が、紹介してくれた支援者と同じことを言う」のって、よくあることでしょ。


結局、本人と家族の幸せは第一ではなく、小さな特別支援というムラ社会の中で、陣地と利益の取り合いっこをしているだけ。
そろそろ気が付いた方が良いですね、「治るVS治らない」「エビデンスありVSなし」は対外工作であり、障害者支援という既得権益を守ろうとしているだけのことを。


一番大切なことは、本人がより良く変化し、幸せになること。
そこに辿りつく道は、一人ひとり違っても良いのです。
その道を通せんぼしているのが誰か、その顔をしっかり見て、覚えていた方が良いですね。

2018年9月18日火曜日

感情の伴わない発達援助は、存在しない

まず前回のブログの補足からです。
ブログを読んでくださった方から率直な感想をいただいたことで、浮かんできた内容です(気づきをを頂戴し、ありがとうございます!)。


家族での思い出は、特別なイベントに限ることはありません。
遊園地や旅行に出かけなくても、また出かけられなくても、一緒に誕生日を祝ったことでも、近くの公園に家族で遊びに行ったことでも良いと思います。
自分の両親ではなくても、おじいちゃんやおばあちゃんとの思い出でも良いでしょうし、生まれたとき、祖父母の腕の中で抱かれた写真が心の支え、愛されたことを実感するものになる場合もあると思います。
大事なのは、そこに温かい感情があるかどうか。


子どもは、自分の赤ちゃんのときの写真もよく見ますし、大人になってからも、自分が幼い頃の写真を見て、心が温かくなることがあると思います。
みんな頭の中ではそのときのことを覚えていないのに、です。
きっと記憶として残っていなかったとしても、身体はそのときの感情、周囲の空気感を覚えているのだと思います。
思い出の写真は、そのときの感情、心地良さを呼び起こすきっかけ。


ですから、子育て中のご家庭やおじいちゃん、おばあちゃんには、みんなで共に過ごした時間を写真として残しておいてほしいと思います。
また、そういった写真が残っていない、そういった思い出が残るような子ども時代ではなかったという方は、これから思い出を作っていけば良いのだと思います。
友だちと一緒に撮った写真が、10年後、20年後の自分へのメッセージになるかもしれません。


思い出の写真のように、感情の伴う活動こそが発達につながると私は考えています。
もし、感情がないまま活動をしていたとしたら、刺激は身体を通して脳に送られると思いますが、ただ脳内に刺激の通り道ができるだけだと思います。
その新しくできた通り道は、同じ活動を行う際、スムーズな動作をもたらすでしょう。
でも、動作を身に付けること、その動作をスムーズに、効率よくできるようになることが発達だとは思いません。
脳内全体で、同時に電気が走るような、脳の奥底から連動し合うような、そんな変化が発達と言えるのではないか、と私は思うのです。


発達を促すために、いろいろな遊び、活動を行います。
でも、発達とは、動作の獲得ではないと思います。
その動作を通して、脳全体を刺激し、奥底から脳全体を育てているといったイメージです。
そこが学習や技能獲得とは違うのだと思います。
新しい神経回路を作るのと、脳全体を育てていくのとの違い。
発達障害の子ども達が困っているのは、新しい神経回路を作っていけないからではなく、脳全体の育ちに課題があるからではないでしょうか。
だからこそ、私達は、上辺だけのテクニック獲得ではなく、発達のヌケの育て直し、土台から育てていこうとしています。


活動を発達に繋げる方法は、動作に感情をプラスすることだと思います。
感情を伴う動作、行動にこそ、発達を促す力があるのだと思います。
感情が司る部位は、脳の表面ではなく、中心部、土台に存在します。
だからこそ、脳全体的な発火が起き、刺激が駆け巡っていく。


感情を伴う活動は、脳全体を刺激し、育てていくと思います。
でも、その感情は、本人だけではなく、発達の後押しに関わっている人達も大事な要素になるはずです。
発達の後押しをしているものが、感情を伴っていないと、本人と感情を共有できていないと、活動自体が「動作をこなす」と意味になってしまうから。
本人の感情の動きに意識が向いていなければ、動作しか目に入ってこなくなります。
そうなると、いかにその動作をやらせようか、たくさん、しかも上手にやらせようか、になってしまうのです。


「言われた通りにやってみたんですが…」と言われる方は、子どもさんの感情に意識が向いていませんし、その感情と共有できるだけの気持ちを持っていないことが多いといえます。
ただ「発達を促そう」「とにかく今日の分は、ここまでやらせよう」
そんな一方的な感情しか持っていないこともあるように感じます。
それでは発達は起きません。
やっているのは、新しい神経回路を作っているだけ。
巷の療育が場面限定、応用が利かないのは、支援者が決めた行動を脳に刻んでいるだけだから。
そういった療育、支援、子育ての仕方が嫌だからこそ、発達援助、発達のヌケを育て治す道を選択されたのではないでしょうか。


私は、施設で働いていたとき、感情を伴っての支援していませんでした。
一つひとつ感情を持っていたら、一日として仕事ができなかったでしょう。
限られた人数で、大勢の利用者さんを見なければならない、また守らなければならない、しかも24時間連続勤務の中で。
そうなったとき、感情を捨て、淡々とこなすしかなかった。
支援する側がこなしている支援の中で、発達は起きません。
あるのは、支援者が管理しやすい行動を身に付けていくこと。
これは、支援者が描いた神経回路を脳内に刻んでいく作業ともいえます。


こういった過去を経験してきた私だからこそ、特に親御さん達にじっくり子どもと向き合うこと、発達を育んでいくことを願うのです。
そのためには、親御さん自体が忙しく、感情を伴わない私のような施設職員みたいな接し方をしてほしくないのです。
悲しいことに、まるで施設職員を見ているような親御さんがいます。
忙しくて、忙しくて、今日一日を終えるだけで精一杯。
そうなると、いつしか感情を伴わない関わりになる。
感情を伴わない時間では、思い出の写真も、発達も残っていかない。


子どもの発達を一番促すのが遊びなのは、そこに感情が伴っているからです。
また親御さんが、一緒になって楽しんで遊ぶと、発達がより進んでいくのは、感情を共有することで、より大きな感情を生み、そして親御さん自身も、その感情の動きに注目できるようになるからです。
発達援助がうまくいかないのは、やり方が間違っているわけではありません。
それよりも、親御さん自身の感情が伸びやかではないことの方が問題の場合があります。


感情を伴うからこそ、その動作は脳全体を育てることになる。
脳全体が育っていけば、新しい神経回路を作るのも、どんどんできるようになる。
私達は、新しい神経回路をその子の脳内にどんどん作っていきたいのでしょうか。
それとも、新しい神経回路を自分自身でどんどん作っていけるような脳を育てていきたいのでしょうか。
感情の伴わない発達援助は、存在しないはずです。

2018年9月16日日曜日

発達援助と思い出の家族写真

実際にお会いすると、その人の発達のデコボコは想像以上でした。
私は「相当、生きづらかったでしょう」と、感じたままの言葉が出ていました。
本人は生きづらさを抱えたまま、必死に生きてきたことを話してくれました。


「これだけ発達の課題を抱えたまま、どうして頑張ってこれたのだろう」と、私は率直に思いました。
しかし、その人の物語に心を傾けていると、理由がわかりました。
その人には、親から愛されたという実感がある。
そして家族で過ごした楽しい思い出があったのです。


成人した方達と接すると、感じることがあります。
みなさん、生きづらさを抱えたまま生きてこられたのは同じですが、その中でもなんとか自立した生活が送られている人達がいます。
じゃあ、生きづらさを抱えて、仕事ができない、一人で生活できない人と何が違うのか。
そこで感じるのが、子ども時代に家族との楽しい思い出があるかどうかが大きいのではないか、ということなんです。
どんなに今、生きづらかったとしても、最後の最後で踏ん張れるのは、愛された記憶と楽しい思い出だと私は思います。


発達のヌケや遅れを育て直すことは、子どもの人生を考えれば、とても大事なことです。
でも、子ども時代の中心が、「発達のヌケや遅れを育て直すこと」であって良いのだろうか、私は正直思います。
子どもが大人になり、自分の子ども時代を振り返ったとき、一番に思いだす記憶が発達援助というのは、本人にとって悲しいことではないでしょうか。


私は、発達援助とはシンプルな育みだと考えています。
ですから、親御さんにはシンプルな発達援助を提案します。
でも、そうやってシンプルにし、余裕のある発達援助にするのは、親御さんに伸びやかになってほしい、子どもさんに存分に刺激を味わってほしい、という願いからだけではないのです。
私のもう一つの大事な願いは、家族での思い出を作ってほしい、ということ。


発達課題の根っこを掴み、発達援助をシンプルにしたあとは、必ず「あとは家族みんなで、いろんな思い出をたくさん作ってください」と言っています。
それが将来、自分自身を支える杖になるからです。
人生、発達障害があるなしに関わらず、失敗や挫折もすれば、転んで起き上がれないこともあります。
そういったとき、踏ん張れる支えになるのが、起き上がるときの支えになるのが、家族との思い出だと思うのです。
本人が身に付けた技術や知識と同じように、家族との思い出も、生涯、誰にも奪われることはありません。


発達のヌケを育て直すのは、他人にはできません。
そして家族との思い出を作るのも、他人にはできないことなのです。
だからこそ、発達援助はシンプルに、あとは家族での思い出を作ることを心掛けてほしいと願うのです。


発達のヌケや遅れがなくても、生きづらさを抱えている人はいますし、自立した生活を送れない人もいます。
でも、発達のヌケや遅れがあり、生きづらさを抱えたままでも、自立して生活している人がいます。
そう考えると、弱肉強食のサバンナで生きる動物ではなくなったヒトにとって、愛されたという実感の方が生きてく上での支えになるのだと思います。


子どもというのは、自分の映った写真を見るのが大好きです。
何度も、何度も、アルバムを引っ張りだしてきては、同じ写真を一つずつ眺めていきます。
これは施設で働いていたとき、関わっていた子ども達も同じでした。
写真を眺める子ども達を見て、私は思うのです。
子ども達は写真を見ることで、そのときの感情を再び味わっているのではないか、と。
写真は、そのときの感情を呼び起こすための入り口。
実際は、写真を見ることで、愛されていた実感を、家族で伴に過ごした時間を感じ、愛着という土台を育てている。


発達援助を謳っている私が「家族での思い出を」と言うと、おかしなことのように感じられるかもしれません。
でも、成人した方達と関わる中で、家族との思い出のあるなしが大きな違いを生んでいるように感じるのです。
私の仕事は発達援助ですが、願っているのは、その人が自分の人生を伸びやかに、そして自立して生きていってもらうこと。
だから、発達援助と同じように、家族での思い出を作ってもらうことを提案しています。
発達のヌケを育て直すのと、家族での思い出作りは、自立した人生を歩んでいくための両輪だと思っています。


大人になっても、発達のヌケを育て直すことはできます。
でも、家族みんなの思い出を作れるのは、子ども時代という限られた時間であることが圧倒的に多い。
実際、過去には「家族でいっぱい写真を撮ってください」というアドバイスしかしていないご家庭もありました。
愛されている実感を得ると、発達のスピードが安定し、加速するということもあります。


家族みんなで過ごせる時間は、思っているより短いもの。
発達援助も大事ですが、それだけにならないようにしていただければと思います。
家族での思い出作りこそ、どんな有名な専門家にもできないことなのですから。

2018年9月15日土曜日

治そうとすればするほど、発達援助はシンプルになる

私が直接、相談や支援に関わらせていただくときは、やることを増やしていくよりは削っていく方が圧倒的に多いと言えます。
それまで、一生懸命いろいろな試みをやられていた親御さん程、「これだけでいいんですか」と驚かれます。


私がやってもらうことを削っていくのは、親御さんの力を信じていないからではなく、むしろ、子どもさんの発達のヌケを育て直せるのは親御さんしかいないと心から信じているからです。
親御さんの育てる力を信じているからこそ、私は発達の根っこを掴もうとするのです。


行ってもらう発達援助がシンプルになっていくのは、発達課題の根っこを手繰り寄せていくからです。
発達課題は一部分として存在するわけでも、いろいろなところに点在しているわけでもありません。
発達とは全体の調和と連動です。
ある発達課題があるとして、その発達課題は様々な部分と連動し合っています。
同時に、その発達課題の手前には別の発達があり、その別の発達の前にも発達がある。
発達は幾重にも重なり合っていながらも、全体としてつながっているのです。


発達にヌケや遅れがある子は、姿勢が保てなかったり、勉強ができなかったり、会話が難しかったり、人間関係が築けなかったり、様々な課題が見て取れます。
しかし、姿勢が保てないから体操、勉強ができないから家庭教師、会話が難しいから言葉の教室、人間関係が築けないから児童デイというように、表面に表れている課題を一つずつクリアしていこうとすると、やるべきことがどんどん増えていきます。
まるでモグラたたきをしているかのようです。
課題が出ては叩き、課題が出ては叩く。
そもそも課題が全くない人生などあり得ないですし、その子の持つ課題を親でも、他人でも、対応し続けることは不可能だといえます。


私は、その人の課題と向き合うとき、見えている課題とは枝葉だと考えています。
ですから、その枝葉が出ている幹を辿り、そして土の中の奥深くまで掘り続け、その課題の始まりである根っこを探ります。
掴んだ根っこを本人と親御さんに手渡し、そこを育ててもらうまでが私の仕事だといえます。


根っこの部分といえる発達のヌケから育てていくと、土台から元気になっていきます。
土台がしっかりし、幹がたくましくなり、枝葉が輝き始める。
発達障害の子どもの成長は「ドカン」というように表現されますが、それは根っこが元気になったため、土台から一気に成長したためだといえます。
しっかり発達課題の根っこを掴み、そこを育てた子は、急激な発達と成長を見せるものです。


「LDの子に合わせた学習支援」
「ASDに特化したソーシャルスキルトレーニング」
「発達障害の子向けの運動教室」
枝葉に合わせた支援や療育が溢れています。
でも、こういったところに通ったとしても、根本から生きづらさ、課題が治っていくことはありません。
課題の根っこに手が届いていないからです。
またサービスを提供する側も、枝葉を整えるというお客様が見て実感できる部分を整えているにすぎないからです。
別の言い方をすれば、私を含め、本人でも、家族でもない第三者の人間に、根っこを育てることはできないからこそ、枝葉を整えるしか提供できないのです。


土の上から出ている幹や枝葉は育てられますが、根っこは本人と家族にしか育てられません。
土の上は成長であり、根っこは発達だからです。
発達は、じっくり時間をかけて、育んでいかなければなりません。
また、それには発達の流れ、その子の物語を感じ、それに沿って行う必要があります。
第三者にはそれができないのです。


発達障害の人達は、受精から出生後、主に言語を獲得する以前の段階に発達のヌケや遅れが見られます。
この時期の自然な発達を見ると、主体である本人は、育む運動を存分に、時間という概念の無い世界で、とことんやり切ります。
言語を獲得した後の成長と比べると、明らかに違うのです。
勉強やスポーツなど、学習や技術の習得は、時間という概念の中、効率的に、かつ表面的に繰り広げられます。
しかし、ヒトとして生きていく上での大事な土台作りは、知識や技術、情報のやりとりではないのです。


「勉強ができるように育てる」と、「勉強ができる身体に育てる」は、全然違います。
その違いは、成長と発達、学習と育み、部分と全体、マニュアルとオートマの違いと似ています。
私達は、勉強ができる身体を育てたいわけですし、彼らの課題も、勉強ができないことではなく、勉強ができる身体に育っていないことが根本になります。
発達にヌケや遅れのある人は、勉強する年代になったから困っているのではなく、勉強、いや、言語を獲得する以前から困っていて、その生きづらさが勉強をきっかけに表面化しているに過ぎないのです。


以前関わっていた親御さんは、我が子のことを心から愛し、将来、自立できるようになってもらいたいと願っていたからこそ、いろんなところに通い、いろんなことを実践していました。
しかし、その子を目の前にして、どれも枝葉に対するアプローチにしかなっていないことがわかりました。
枝葉に対するアプローチがまったく無意味か、発達成長の刺激になっていないかと言われれば、そうではないと思いますが、発達課題の根っこが育たない限り、ドカンというような成長は見られませんし、治っていきません。
ですから私は、改めて親御さんと一緒にその子の発達課題の根っこを探っていき、突き当たった部分のみを集中して育ててもらうように提案しました。


私の提案に納得していただいた親御さんは、とことんその部分を育てるようになりました。
幾日も、幾日も、我が子がその発達課題と刺激を味わい尽くせるように付き合い続けました。
その結果、ドカンがやってきた。
発達の根っこから育ったその子は、ガラッと変わり、自らの足で発達、成長を始めました。
自らの足で歩み始めた子は、それまでの枝葉の刺激をも養分とし、たくましく育っていったのです。


私は、枝葉の療育、支援が好きではありません。
その療育や支援をしている人間が、「発達障害に特化したことをやっている」という雰囲気を出すのも嫌いです。
私は特化した療育、支援など、必要ないとすら思っています。
発達障害を持つ子に必要なのは、発達のヌケを育て直すことであり、根本から育っていくこと。
決して、特化した支援、サービスを受けるのがゴールではないと思います。
それに、その人自身の内側には、特化した療育、支援を飛び越えられるだけの成長する力、可能性を持っていると思います。
なんだか、「特化した療育、支援」には、提供する側が決めた枠が見えるのです。


発達課題の根っこから育てようとすれば、どんどん発達援助はシンプルになると思います。
私はできるだけシンプルになるようなお手伝いをし、その部分を家庭の中でじっくり育てて欲しいと願っています。
シンプルになればなるほど、その子は十分に発達と刺激を味わい返すことができます。
私は、発達の土台がしっかり育つと、自らの力で発達、成長していく子ども達をたくさん見てきました。
決して、彼らと二人三脚するのが素晴らしい支援だとは思いません。
それは真の意味で自立したことにならないからです。


私の仕事、役割は、土の中を掘っていき、課題の根っことなる部分を探り当てること。
課題の根っこを掴んだら、それを本人と家族に手渡し、じっくり育むことをお願いします。
今、定期的に利用してくださっている皆さんは、私の次の訪問まで、とことん根っこを育ててもらいます。
そして私は育ち具合を確認し、感想と今後の見通しを伝えます。
枝葉の仕事は、生きている限り、永遠に仕事を作り続けることができます。
しかし、根っこから育てれば、必ず終わりが来るもの。
ドカンが来れば、私の援助は終了です。

2018年9月13日木曜日

子育てをきっかけに、溢れ出てくる自分の課題

子育てをきっかけに、自分の内側にある課題が表れてくる人がいます。
「どのように育てたら良いか分からない」
「どのように愛したら良いか分からない」
「何が正しくて、何が間違っているか分からない」


こういった発言は、発達障害を持つ子ゆえの悩みにも聞こえます。
でも、実際は、子どもと向き合うこと自体の悩み。
大なり小なり、子育てに悩みはつきもの。
ただ悩みの根っこが違うのです。


子どもと向き合おうとすると、子ども時代の自分が投影される。
その自分の顔が穏やかなら、“我が子”の子育てについて悩みます。
しかし、投影された子ども時代の自分の顔が辛そうだったり、悲しそうだったり、寂しそうだったりすると、我が子と向き合うこと自体に悩むのです。
いや、本当は、子ども時代の“自分”と向き合うことに悩み、苦しんでいる。


地域には、「子育て相談室」のようなものが常設されているが、いつも閑古鳥が鳴いています。
そんなにそんなに、第三者の他人に、我が子の子育ての相談はしないもの。
だけれども、我が子に「発達の遅れ」が見つかった瞬間から、第三者に相談する機会がやってくる。


子どもに発達の遅れがあると、第三者に子育ての相談をすることが違和感でなくなる。
だからこそ、本来は発達障害の子を育てるための相談をしているはずが、いつしか私の子どもとの向き合い方、そして最後の砦、私の子ども時代の苦しみまで辿りついてしまう。
普通、特別支援の世界に入らなければ、最後の砦まで辿りつくまで相談の機会は得られないもの。


特別支援の世界は、愛着に課題を残したままの人で溢れています。
そういった支援者は、悩み、苦しんでいる親御さんを傍に置くことで、自分の存在価値を確認し、自己治療を行います。
よく仕事上だけではなく、プライベートまで入っていく支援者がいます。
仕事の時間が終わったあとも、親御さんに連絡したり、個人的な携帯で連絡をとりあったり、自分の職責が及ばないところまで介入しようとしたり…。


子ども時代、満たされなかった想いがある親御さんが支援者に依存し、丸抱えされることを心地良く感じてしまう。
支援者は、悩み、苦しむ親御さんが、自分の傍から離れないことを実感することで、自己治療を行う。
その両者の間には、子どもの存在が見えなくなっている。
子どもは、子どもの発達障害は、大人たちの自己治療のきっかけになる。
だから、支援者と親御さんの距離が近すぎる家庭の子は、成長しないし、生きづらさを抱えたまま。


「発達のヌケを育てるには、どうしたらよいか分からない」と、「どのように育てたらよいかわからない」は、意味することが全然違います。
前者が、我が子の子育てに関する悩みであるのに対し、後者は自分の存在が掴めずに悩んでいる。
そもそも子どもの育て方にマニュアルも、正解もありません。
だからこそ、自分自身の土台がしっかりしている必要がある。
主体性が育っていることが大事で、その主体性を発揮することで、そのとき、そのとき、ベストだと思う選択を繰り返していく。
主体性が育っていないから、「どのように育てたらよいか分からない」という疑問が出てくる。


自分自身の土台は、胎児、乳幼少期、子ども時代に培われる。
しかし、その土台作りが十分に行えず、課題を残したまま、大人になり、親になると、再びその課題と向き合わなければなくなる。
学校の中ではマニュアル人間でも卒業できるし、仕事も選べば、主体性や選択をしないで済むものもある。
でも、子育てにマニュアルはないし、親としての主体性が求められる。
なので、子どもと向き合ったとき、自分自身の課題が表面化してくるし、特別支援の世界は、とことんその課題を味わい尽くそうとする支援者がいるために、課題の大部分が溢れ出てしまう。


支援者に依存している親御さんは少なくない。
また親御さんを丸抱えすることで自己治療をしている支援者も少なくない。
だから、居場所をなくした子どもが別のところに行ってしまう。
自己治療に忙しい支援者と親御さんが、子育てを外注してしまう。


子育てとは、育むもの。
その育みは、家庭、親子の間で、十分に交わり、味わい、やり切ることで、実を結ぶ。
じっくりと子どもの発達と向き合い、育んでいくには、親御さん自体、しっかり地面を掴み、立てている必要がある。
子どもを育んでいくには、親御さんの踏ん張れる身体、土台が必要なのです。
そのために、インスタントに支援者に依存するのではなく、自分の課題と向き合い、治していく必要があります。

2018年9月12日水曜日

スケベ読者

当地には、スケベ読者がいるようですね。
私が言ったこと、書いたことを、そのまま言ったり、実践したりしている人達がいるそうです。
「大久保さんが書いたまんま、言っていましたよ」
なんて話も聞きます。
でも、私は気にも留めません。
別に、特別な情報を載せているわけでもありませんし、私しか知り得ない情報でもありませんから。
書いてある情報をどのように料理するかは、個人にかかっていますので。


私が「スケベ読者」というのは、言葉をそのまま持っていくからではありません。
本当は実際の発達援助が気になるし、「治る」をもっと知りたいのに、個人的にアプローチしてこないからです。
「なんかおいしい情報がないかな」と、陰からこそっと覗き見て帰っていくその姿からの連想です。
しかも、覗き見だけで止めてしまう理由が、地元の支援者に目を付けられないためって、オイ。
たとえ利用回数を減らされたとしても、嫌味の一つ二つ言われたとしても、治ってしまえばこっちのものなのにね。


いろんな方から、「ブログに情報を載せ過ぎじゃないか」と言われることがあります。
まあ、考えてみれば、匂わす程度に情報を抑え、「ご利用はこちら」とすれば、商売としては利益につながるのかもしれません。
でも、私の仕事は、本人や家族の間で治っていくための後押しですし、腕の見せ所は、発達の物語を描くことと、発達のヌケと育て方を見抜くこと。
ですから、私がいくらブログに情報を載せようとも、仕事のニーズに変化はないと思います。


それに時々、ブログを読んでくださった方からメールを頂くことがあります。
ブログからヒントを得て、発達援助を行ったら、治っていった、と。
こういった方たちのように、私がブログを書く意図を見抜き、書かれている情報から着想を得て、治していける人たちもいます。
事業としては利益を出すことが大事ですが、それよりもより良い社会になる方がずっと大事。
私が情報を小出しにして小銭を稼ぐよりも、ブログを読んだ方の中から治っていく人が一人でも出る方がはるかに社会のためになると思います。
事業を起ち上げたのも、ブログを書くのも、必要があるからこそ、やっているのです。


そういった意味では、いくらスケベ読者が増えようとも構いません。
どんどん情報を持っていけば良いのです。
だからといって、治るかどうかは別の話ですから。
というか、情報を得ただけでは治りません。
その情報からキモを読み解き、自分や我が子に作り変えなければ無理です。
私のブログは、マニュアルではなく、日々の子育てに活かすアイディアの欠片。


笑った話が、私が花風社さんの本を皆さんにお勧めしていたら、当地で5本指ソックスを履く人が増えたこと。
「お腹の中の育ちが」といえば、プールに通い始めた人がいて、身体を育てるといえば、体操教室に通い始めた人がいる。
どこまで素直なんだか、ものを考えていないのか分かりませんが、得た情報を目の前の子に落とし込まないとダメでしょ。


私が書いたブログや他から得た情報をそのままやっていたら、一週間、いくら時間があっても足りません。
私は「刺激の幅」「バリエーション」などとも言いますので、ありとあらゆる良いと思うものをどんどんやらせようとする親御さんがいます。
で、実際に私と接点があった方はお分かりでしょうが、やることを増やす方向性ではなく、削っていきますよね。
そして、本当に今、その子の発達で必要なものだけを残していく。
発達援助とは、ヒトを育てるとは、シンプルなんです。


さあ、ここからが当地在住のスケベ読者さんのお待ちかね、今日のおいしい情報。
私達は、子どもの発達のヌケを育てたいわけです。
発達援助がシンプルになるのは、ヒトの育ちをみればわかります。
たとえば、お腹の中の発達をやりなおそうとしたら、胎児の姿を連想する必要があります。
胎児は羊水の中で、たくさん動いていますね、その中にいる間中。
つまり、お腹の中をやり直す=プールや海で遊ぶ、までは良いのですが、プール教室に週に1回2回、1時間や2時間通っても足りないということ。
発達に必要な時期には、それをやりつくさなければならないのです。


ハイハイする赤ちゃんは、一日中、ハイハイしています。
ハイハイして疲れては休み、またハイハイをする。
それを眠る直前まで繰り返すのが赤ちゃん。
「今日の午前中は、ハイハイを頑張って、午後からはつかまり立ちをやろう。明日は、ズリバイの復習」などとはしないのです。
必要な時期に、とことんそれだけをやりつくすのがヒトの発達。
ハイハイをやり切ったあと、次の発達課題へと移っていくのです。
それが自然な発達の姿です。


不安や焦る気持ちから、いろんなことを目一杯に詰め込む親御さんは少なくありませんし、その気持ちもわかります。
でも、詰め込んで、いろんな経験をさせようとするのは、親御さん自身の焦りから目を背けているだけ。
親御さんが疲れて、こなしている活動に、子どもはその活動を楽しみ、育ちを味わうことができているといえるでしょうか。
大人が疲れるのですから、子どもはもっと疲れているはずです。


今、必要な刺激、今、必要な発達を、とことんやりつくす。
それこそが、発達することであり、ヒトを育てること。
週に数回、プール教室に行くよりも、毎日、ちょっとの時間でも、一緒に水で戯れる。
バリエーションをつけるとは、水での遊び方を変えたり、プール、お風呂、海など、環境を変えたりすること。
やみくもに、いろんな刺激を与えているだけでは、子ども自身が楽しめませんし、タスクのようにこなすだけになってしまいます。


赤ちゃんを見れば、発達がわかります。
赤ちゃんは、その時期、その時期でとことんやり続ける。
しかも、自ら楽しんで行っています。
ですから、情報を集めるだけではダメなのです。
その情報から着想しなければ。
「今、我が子は、何を育てたいのだろうか」と想像することが大事なのです。
そのためのアイディアの欠片です、このブログに書かれていることは。

2018年9月11日火曜日

変化に強いはずだよ、構造化された支援は

イレギュラーな状況にこそ、構造化された支援は力を発揮するのだと思います。
スケジュールやワークシステム等で、見通しを持たせると同時に、変更を伝えていく。
常日頃から変わらない部分と変わる部分を知り、経験することで、状況や環境の変化に対応できるようになるのです。


10年前、私が熱心にトレーニングを受けていたとき、まず最初に「日課、活動のルーティン化は避けなければならない」と教わりました。
“変化が苦手で、同じパターンを好むタイプの人達だからこそ、変化に対応できることを彼らは学ばなければならない。
もし変化に対応できず、同じパターンでしか行動できないとしたら、彼らの生活、人生は乏しいものになってしまうのだから。”


日本では、構造化された支援は「情報を整理し、彼らにわかりやすく伝える」「混乱を避けるためのもの」という側面ばかり強調されていますが、どちらかというと、トレーニングでは「変化に対応できる」という側面の方が強調されていたと感じます。
まあ、それは考えてみればわかることです。
もし、安定だけを目指すのなら、日課も、手順も、すべてパターン化してしまえばよいのですから。
まったく変化のない環境と日課を用意し、いつも同じようなことをやり続けさえすれば、混乱することはないでしょう。
でも、それではいけないから、構造化された支援を通して、変化と変更に対応できるように学んでいくのです。


今回もそうですが、自然災害等でイレギュラーな状況が起きたとき、常日頃、構造化された支援を熱心に行っている人達から悲痛の叫びと「配慮を」「理解を」の訴えが聞こえてくるのが不思議でなりません。
こういったイレギュラーな状況でも、落ち着いて生活できるために、日々、構造化された支援を学び、実施していたのではないでしょうか。
変化を伝え、変化に対応できるように育てるための構造化された支援なのに、「変化で困っています」「落ち着ける環境を用意してください」というのは、おかしなこと。
待ってましたとは言わないけれども、こういった状況でも、「私達は対応できるし、落ち着いて生活できています!」と日頃の成果を見せ、本領発揮するときだと思いますが…。


構造化された支援の本質を見抜き、大事なことは、ただ「視覚的に示す」「衝立を立てて刺激を統制する」「情報を整理する」ではなく、「変化に対応できる人に育てること」と理解している人もいるでしょう。
でも、大部分の人は本質ではなく、表面的なマネだけで終わっているのだと感じます。
だって、日本の構造化、ティーチ系支援者、保護者たちは、環境調整ばかりを訴える。
だから、自然災害が起きたときですら、避難所の環境ガー、周囲の理解ガーと、一般的な感覚とズレた主張を展開するのです。


私も、20代のときは熱心にティーチと構造化された支援を学んでいましたので、とても多く感じるのです。
ティーチや構造化に熱心な人というのは、ラクをしたがる人だ、と。
別の言い方をすれば、頑張れない人、コツコツと積み上げられない人、批判されると立ち直れない人が、ラクな方法へと飛びつく。


「構造化された支援は、準備が大変だし、みんな熱心に多くの支援グッズを作っているじゃないか」と言われるかもしれません。
確かに見た目では、スケジュールを作ったり、部屋の環境を整えたり、準備、手数が多いように見えます。
でも、私には「支援グッズを用意し“さえ”すればよい」「部屋の環境を整え“さえ”すればよい」という風に見えるのです。


支援グッズをたくさん作り、部屋を改良すれば、それで万事うまくいく、というのは勘違いですし、浅はかな考えだと私は思います。
その人のことをしっかり見て、人を育てようとしたら、そんなインスタントな発想にはなりません。
中には、自分がちゃんとやっていないと見られないために、支援グッズをせっせと作っている人もいるように感じます。
支援グッズが、支援する側のエクスキューズになっていることも。


いつも構造化された支援を推奨している支援者たちが、緊急時に不安定になっている人達を目の前にしても、「配慮ガー」「理解ガー」とやっている。
あなた達の推し進める支援とは、変化に対応でき、本人たちの生活と人生の幅を広げる支援ではなかったのか。
結局、平時も、緊急時も、社会や環境側に変わることを求めるのなら、その支援は無力ということではないのか。


社会と環境が問題の本質だとしたら、支援センターも、早期療育も、全部やめてしまえばよいのです。
そして、その分の人とお金で、まったく変化のない頑丈なシェルターを各地域に作ればよいと思います。
でも、そういった発想は出てこない。
ということは、当事者の人達というのは、支援者にとっての金を産むメンドリであり、主義主張のための道具なのです。
本当に目の前の人に幸せになってほしいと心から願うのなら、その人自身がより良い変化をし、自立した人生を歩めるような後押しに心血を注ぐはずですから。


変化のない環境を用意するよりも、変化に対応できる人に育てる方が現実的ですし、近道です。
確かに、変化に苦手な人達といえるでしょう。
でも、だからといって、変化に対応できる可能性がない人、ではありません。
変化が苦手なら、変わらない部分と変わる部分を作り、幅を広げていけば良いのです。
刺激にバリエーションをつけ、幅を広げていくのは、人を育てていく基本中の基本です。


日頃の刺激を統制しつつ、緊急時になって慌てて「ここに変化があります」と、いくら視覚的に伝えても、対応できるわけがありません。
だって、そもそも、その人自身、幅が狭いから。
でも、それは本人の特性ではなく、周囲の人間が刺激を統制し続けた結果だといえるのです。


構造化された支援を熱心にやっていたはずなのに、「うちは、構造化された支援やってます」と誇らしげに言っていたはずなのに、肝心なときに、その力が発揮できていない。
それは、日頃、手抜きをしているから。
人を育てるというのは、時間がかかるし、結果がすぐに出るものではありません。
でも、少しずつ手を変え、品を変え、受け入れられる刺激を増やしていくという試行錯誤を通して、その人自身の幅を広げていく。


これは感覚を育てるのも一緒。
「うちの子、発達障害で~、食べれるものが限られているんです。でも、私が甘やかしているからではないんですよ。特性です、特性。だから、配慮をー。残しますカードをー」
じゃなくて、食べられるものの幅を広げていこうと、試行錯誤するのが育てるということでしょ。
そして、食べられるものが増えるということは、それ自体、より良く生きることに繋がる、不測の事態でも生きぬける力となる。


「育てる手間を省くために、構造化された支援を頑張る」じゃあ、悲し過ぎます、本人が。
私は、本人の中に幅を作ってあげたいと思います。
育てるというのは、地味で、コツコツと積み上げていく時間のかかる営みではありますが、本人たちがどんな状況でも生き抜き、豊かな人生を歩んでいけるようにしていきたいのです。

2018年9月10日月曜日

当事者をお客様扱い

深夜の緊急地震速報に驚いて目を覚まし、スマホの画面を見ると、「北海道 道南」という文字が目に飛び込んできました。
ちょうど一年前くらいはミサイルが何発か飛んできましたが、北海道が大きな地震の震源地になるのは1、2度あったかな、という感じ。
ですから、「こりゃ、マズイな」と思った瞬間、家族で身を寄せ合っていました。


地震の揺れが止まって、テレビをつけようとしても、つきません。
そこで停電に気が付きました。
地震で停電になるのは初めてのことでしたので、北海道で大変なことが起きたと直感しました。
スマホやラジオで情報を集めると、胆振地方で震度7の大きな地震があったことがわかりました。


カセットコンロで調理した朝食を摂ったあと、小学生の息子を連れて街を歩きました。
止まったままの信号、真っ暗なお店、次々に出動する救急車、警察の方達が交通整理している姿…。
食材はストックがあったので、カセットコンロのガスボンベを買うためにお店にも並びました。
薄暗い店内で、何とも言えない重苦しい雰囲気の中、並び続け、1つだけガスボンベを購入しました。


余震が続いている中でしたので、息子を家において、私だけ買い出しに行くというのが適切だったかもしれません。
でも、息子には肌身で、今回のことを感じてほしかった。
当事者であることを求めたのです。
家にいて、ただの停電、お客様のような感じにはなってはならないと思ったのです。


函館の停電は、当日の夜くらいから段階的に復旧していきました。
私の家も、比較的早い段階で電気が通りましたので、充電やお手伝いすることがあれば、と思い、現在、発達援助で関わっているご家庭に連絡をしました。
すると、すぐに皆さんから返事が来て、無事であることがわかりました。
そして、子ども達が成長した様子も伝わってきました。


以前は、変化があるたびに不安定になっていた子が、急遽、学校が休みになっても、電気がつかないで、いつもの生活ができなくても、いい意味で淡々と過ごしていました。
家族を手伝うために買い出しをする子もいました。
親戚や知り合いの家に物を届けたりしていた子もいました。
真っ暗な中、反対にその非日常的な生活を楽しみ、遊びを考えていた子もいました。
震源地周辺の方達やこの夏の豪雨災害に遭われた方達と比べれば、直接的な被害があったわけではないので大したことはないかもしれませんが、子ども達の様子からは不測の事態の中でも、たくましく生きる姿を感じました。


今年の夏は、ご縁を頂き、広島に伺いました。
広島に伺う前には、休校になった学生たちや子ども達が、ボランティアとして復興のために汗を流していることを知り、伺ったときには、発達障害を持つ若者が仕事を頑張り、また仕事が終わったあとや休日などに、地域のために頑張っていることを知りました。


東日本大震災のときもそうでしたが、大きな災害が起きると、発達障害の人達は、こういったことに困っています、こういった配慮が必要です、と訴える支援者たちがいます。
しかし、私には違和感でしかありません。
訴えている内容が、平時のときと同じなのです。
「視覚的に伝えよう」
「見通しを持たせよう」
「一人になるスペースを作ろう」
「落ち着ける活動ができるようにしよう」


誰一人、見通しが持てない状況の中で、発達障害の人には「見通しを持たせよう」と訴える。
平時と同じ環境や活動は用意できないのに、「刺激の少ないスペースを用意しよう」と訴える。
中には、変化に弱いから、「なるべく日課は変えないようにしましょう」という人さえいる。
当然、こういった要望は叶えられるわけはないのに、「配慮が足りない」と周りのせいにしてしまう。
でも平時と同じことを言っているのですから、緊急時には役に立たない支援をしているということ。
責めるべきは、不測の事態に対応できるだけの育ちがない支援をしている自分たち、支援者ではないでしょうか。


人によっては、自然災害が起きたとき、配慮が必要な人もいるでしょう。
でも、みんながみんな、配慮を求めるだけの存在というわけでもないですし、いつまで経っても、配慮を求めるだけの存在でい続けるのも違うと思います。
自然災害が起きるたびに、「配慮を」「理解を」と訴える支援者の姿を見るたびに、発達障害の人達の持つ力、可能性を信じていないのだな、彼らの力を見くびっているのだな、と感じます。
どうして、発達障害の人達を、いつまでもお客様にしておこうとするのでしょうか。


同じ場所で被害にあったなら、彼らも同じ被災者。
そして、広島で地域の復興のために汗を流す若者たちと同じように、彼らも地域を担い、その地域を作っていく当事者のはずです。
社会、地域の一員として力を発揮できるように支援するのが、私達の大事な役割の一つだと思います。
いつまでも、「特別な存在」「配慮と理解を求めるだけの存在」に、彼らを留めておくのは間違っている。


オバケが怖い息子は、いつもあちこち電気をつけまくっていました。
でも、停電が終わったあと、自ら「ここは電気つけなくていいや」と、必要以上に電気をつけないようになりました。
息子は、今回、当事者になり、いろいろ感じたのだと思います。


日頃、発達援助で関わっている子ども達も、不安定にならないだけではなく、当事者として家族の手伝いをしていました。
たった数日の出来事ではありましたが、彼らは傍観者ではなく、当事者として主体的に過ごしたのだと思います。


息子や関わっている子ども達、若者たちの長い人生を考えると、彼らは何度も自然災害や不測の事態に遭遇するでしょうし、当事者になることもあるでしょう。
そんなとき、自分の命を守れることはもちろんのこと、守った命を誰かのために、地域、社会のために使える人になってほしいと思います。
そのための発達援助なのだと、今回、改めて感じました。


発達のヌケが埋まり、土台がしっかりすると、不測の事態が起きたときに、身体が自在に動かせるようになると思います。
まさに地を足に付けているからこそ、変化に合わせて動くことができるし、主体的に力を発揮できる。
土台がフワフワしていると、いつまで経っても、当事者意識が芽生えず、傍観者になってしまいます。
広島は大変な状況でしたが、汗を流す若者たちの姿に希望と未来を感じました。
そういった地域、社会の希望と未来になる若者たちを育てられるよう、私は発達援助を通して、子ども達と家族の後押しをしていきたいと思います。


今回、震災直後から、沢山の方達に心配して頂きました。
メールやSNS等で心配してくださった方たちの顔を想像すると、過去に災害の当事者になったことがある方であり、そういった不測の事態にすぐに身体が動く方達だったと感じました。
我が身のことのように感じたあと、そのまま怖がり続けるのではなく、行動に移せること。
そういった方達から頂いたメッセージには、力強さと優しさが溢れていました。
心配してくださった皆様、本当にありがとうございました。

2018年9月4日火曜日

決められた回数をこなしても、発達にはつながらない

この前、書いた『発達のヌケが埋まると、赤ちゃん返り、幼児返りが始まる」というブログにアクセスが集中しています。
これは日々、実践している人なら珍しくない現象ですし、ヒトの発達から考えれば、当然のお話。


初めての子育てで、こういったことがわからないというのは不思議ではありませんが、そんな親御さんのそばには一人や二人、支援者という人がいるはずですから、一言伝えれば済むだけだと思います。
タイトルの通り、「〇〇くんが赤ちゃん返りしているのは、発達で抜けたり、遅れていたりした部分が埋まったため、赤ちゃんのときにできなかった課題を育て始めたのですよ。退行が始まったわけではありません」と。
そうすれば、親御さんも悩むよりも、ポジティブに捉えられ、 「じゃあ、またそこの部分を育てていこう」と進んでいけるのに、と思うのです。
ナントカ療法も良いですが、発達障害の人達と関わっているのですから、もう少し、いや、ちゃんと発達について学ぶ必要があると思います。


「ちゃんと発達について学ぶ」といえば、最近、「運動を通して、発達を促そう。脳を育てていこう」という事業所が増えたような気がします。
発達障害の人達の身体や感覚、脳に注目し、運動を通して育てていく方向性を持ったところが増えたのは好ましく思いますが、中身を見ると、う~んと感じてしまうことも多々。
「これって、私が学生時代のとき、やっていたのと同じじゃん」と思うこともあります。


あの~、そろそろ回数の絵カードを使って、その提示されている数がすべてなくなったら終わり、みたいなのやめませんかね。
一回、抱っこされたら、一枚カードを処理する。
タイマーが鳴ったら、トランポリンを止めて、次のスケジュールに向かう。
確かに、運動を通して刺激し、育てていくことにはなっているのでしょうが、発達って、そういったもんじゃないでしょ。
支援者が決めた回数やって、「はい、10回、トランポリン跳んだから、発達ね」みたいなのは、違和感でしかないです。


発達って、子ども自身の内側にあるものであって、支援者が見たり、コントロールしたりするものではありません。
発達には回数も大事な要素ですが、それよりも、子ども自身が自主的に、楽しんで、やりきる、遊びきることで満たされ、進んでいくもの。
結局、回数を決めているのは、発達を保障しているのではなく、支援者がその子とその場をコントロールしているだけに感じます。
運動、身体を通して、より良く発達を促していくと謳っているのなら、子どもの発達を中心とした営みが行われるべきだと思います。


当地で言えば、構造化一辺倒の支援から、少しずつ変化しようとしているのでしょうが、まだまだ根深く残っているようにも感じます。
それは親御さんも同じで、「提示されたカードの枚数だけ行う」という支援が子育ての中にも入っていることがあります。


自分の親に対し、ベタベタしたり、身体接触や抱っこを求めたりする子がいます。
その理由は、発達が遅れているからかもしれませんし、発達のヌケが埋まり、やり残した課題を育てようとしているのかもしれません。
いずれにしろ、子どもの場合は特に自分自身を育てている場合が多いといえます。


しかし、そこで視覚的なコントロールをしてしまうと、十分に育っていけないのです。
本当は、親の匂いや感触、温かさを感じ、安心感を味わいたいのに、目の前でカードが減らされていく。
親御さんの方も、支援者の言葉を鵜呑みにしてしまい、「大きくなってもやったら問題になる」「他人にやってしまったら問題になる」と、親子の育みや交流よりも、回数とルールに意識が向いてしまう。
こうなると、子育てが療育になり、発達が満たされていかなくなります。


確かに、大きくなった子が、母親に抱っこを求めたらおかしいですし、体力的にも応じられないでしょう。
でも、そこで発達の欲求に応じず、制限を掛け続けていたら、そこの部分の発達は育っていきません。
ですから、現実的な姿で応じていくのが、基本だと考えています。
幼児の子なら抱っこはできますが、小学生くらいからは難しくなる。
だったら、本人が育てたい課題、要素を見極めた上で、抱っこじゃなくてハグにする、身体接触を伴う運動を一緒に楽しむなどに代えていくのです。


しかし、現実問題として限界がありますので、早いうちに、子どもが小さいうちに、発達を満たしていくのが良いのは確かです。
あまり詳しいことはいえませんが、性に関する問題を抱えている人達とも関わりがありましたし、あります。
そういった人達を見ていると、身体接触、求める欲求が赤ちゃん、幼児期の発達課題のやり残しからくるものという点で始まりは同じですが、問題となる人は、そこに思春期と重なった、という要件が加わった人ともいえます。
赤ちゃん、幼児期の発達課題のやり残しの上に、思春期が加わったとき、大きな問題となる。


いくら発達課題が残っていたとしても、身体面の発達は同世代の人達と同じように進んでいきます。
小学校の高学年、中学生くらいになれば、第二次性徴が始まり、身体的変化、ホルモンの盛んな分泌が行われます。
そういったときに、本当は母子の間での身体接触を通した発達だったのに、異性を求める欲求があらぬ方向へと向かわせます。
性に関する問題を抱える子、若者には、母子間の身体接触のやり残しが、異性の身体を執拗に求める行為として表れることがあるように感じます。


発達とはやり切ることで満たされ、そこには本人の主体性と楽しむ心が必要です。
決められた回数をやるという行動には、本当の意味で発達は存在しません。
発達とは、誰かが決めたメニューをこなせば達成するものではありません。
ましてや、親子での子育て、育みの中に、「5回やったら終わりね」「3分のタイマーが鳴ったら終わりね」などはあり得ないのです。
親が支援者になった途端、子育てが療育になり、支援になり、最後には介護になります。
時間や言葉を飛び越えた自然の中にこそ、本当の発達があるのです。
家庭こそ、自然であって欲しいと私は思います。

2018年9月1日土曜日

診断名は範囲であり、どの人にも飛び越えるチャンスがある!

「どうして、その支援方法なんですか?」と尋ねると、「自閉症だから」「LDだから」「発達障害だから」という言葉が返ってくることがあります。
「いやいや、障害名を訊いているのではなくて、その支援方法を選択した根拠、理由を尋ねているんです」と言っても、同じことしか返ってきません。
こういった噛みあわない問答が支援者同士で繰り返されるのですから、一般の人との間で理解し合える日は、当分、来ないと思います。


「自閉症」という診断名が付いたとしても、自閉症という人種や違う惑星から来た人というような意味ではありません。
でも、なんだか「自閉症」という言葉を、あたかも、そういった個体がいるような意味で使っている人が少なくないような気がします。


「自閉症」という略語です。
本当の意味は、「自閉症という人工的な診断の基準を満たす人」という意味です。
つまり、「ここからここまで自閉症ね」と、誰かが便宜上、引いた線と線の間の中に入っているよ、ということ。


ですから、私が尋ねる「どうして、その支援方法なんですか?」という質問に対し、「自閉症だから」は答えたことになりません。
「自閉症という人工的な診断の基準を満たす人です」と言っているようなものですから。
私が聞きたいのは、その個人のどういった部分に対し支援が必要で、その支援を選択したのかということなのですから。


その支援方法を選択した理由を尋ねて、その子の状態から導かれた説明が返ってこなければ、その支援方法は、支援者の趣味嗜好のレベルです。
それか、とにかく教科書通りに、「自閉症だから視覚支援」「LDだから、電子機器を使って」というようなマニュアルに従って支援しているフリをしているだけ。


そもそも人と向き合う仕事、それも発達という複雑でバラエティに富んだものと向き合っている仕事に、マニュアルなど作れるはずがありません。
マニュアルが存在するというのなら、それは下手くそでも支援者のフリができる道具にすぎません。
だいたいマニュアルが存在する組織や、マニュアルやメソッドなどをせっせと作ろうとする組織に、一人ひとりの個人と向き合った支援ができるわけありません。


マニュアルやメソッド、ナントカ資格、レベルⅠ・Ⅱ・Ⅲがでてきたら、その支援者の目はすでに仲間、支援者の方を向いているという証拠です。
本当に、一人ひとりと真剣に向き合い、個人に合わせた支援をしているのなら、そんなマニュアルなど作れないこと、作っても意味がないことがわかりますし、そもそもそんなものに時間を使っている暇がないものです。


私は親御さんにこのようなお話をします。
マニュアルのない営みなのですから、専門家も、親御さんも、意見の重みに違いはない。
むしろ、親御さんの方が、ずっと側で子どもと発達と向き合ってこられたのですから、感じるものは貴重であり、重みのあること。
だからこそ、支援者というのは、子どもの発達が躍動するように、また親御さんが資質を活かして伸びやかに子育てできるよう後押しするのが仕事であり、役割。
あたかも、支援者が答えを持っているかのように振る舞うのは誤りである。
本当は、そんなもの、持っていないのだから。


「自閉症」や「アスペルガー」、「LD」や「ADHD」「知的障害」など、その診断名にとらわれる必要はないのです。
そして、その診断名に、親御さんの心や行動、願い、直感、本能が制限をかけられてはならないのです。
あくまで、人工的に引いた線と線の間に、現時点で入っているということだけ。
範囲に入っているのなら、その範囲から飛びだせば良いのです。


一気にジャンプして飛びだすのは難しいかもしれません。
でも、一歩、一歩だったら、その線のそばまで進んでいけます。
それが「治しやすいところから治す」ということ。
発達のヌケがあるのなら、一つずつ育て直していけばいい。
そこにマニュアルも、専門知識も、資格も存在しないのです。
あるのは、親子の間で育まれる日常。


同じ診断名の範囲に入っていたとしても、一人ひとり飛び越える線までの距離は違います。
でも、それは歩みを止める理由にはなりません。
障害の程度や重さ、課題の多さは違っても、歩を進める機会、可能性はみんなが平等にあります。


ブログには、どちらかといえば、軽度や知的障害のない人の話題が多いですが、実際にはとても重い子からの依頼もあります。
当然、障害の範囲を飛び越えるまでの距離は遠いです。
でも、親御さんが歩を進めようする限り、私は全力でお手伝いしています。
それに、その子を見れば、同じように発達するエネルギーを持っているのです。


「どうせ軽度の人しか治せない」
「重い子には、何もできないのだろう」
と言われることがあります。
でも、その子の発達する力を信じ、後押しすることはできます。
診断名は範囲であり、範囲ならどの子にも、その線を飛び越えるチャンスはあると私は信じているのです。