2020年7月31日金曜日

【No.1087】「自閉症」「発達障害」という言葉を使わずに

私が出張するときは、移動がありますので、午前ひと家族、午後は1~2家族という具合に行っています。
ですから、3日で15名の発達相談はさすがに大変でした。
同じ市内とはいえ、各家庭に訪問しますので、まさに分単位での移動。
決められた時間までにアセスメントをし、親御さんの悩みに答え、今後の方向性を提案する必要がありました。
しかし、こういった制限があるからこそ、それこそ無茶ぶりをしてくれたからこそ、突破できる何かがあると感じています。
ちなみに、報告書が完成し送付しましたので、後日、支援員さんから配布されると思います。


私は発達相談のとき、なるべく「自閉症」「発達障害」という言葉を使わないようにしています。
そういった言葉を使ってしまうと、下手くそになる気がするからです。
「自閉症が~」とか、「発達障害ですから…」などと言って説明を始めると、聞いているほうは、なんだか正しいことを言われている気がするものです。
私も若手のときは、講演会などで、事例研究などで、「Aさんには自閉症がありますから…」なんていう言葉を聞くと、それ以降の支援、対処法が正しいような気がしていました。
でも、詳しく聞くと、それはAさんへの支援ではなくて、自閉症の支援だったりするわけです。
Aさんじゃなくても、自閉症の人なら誰でも良いわけで、っていうか、その自閉症も、学生時代に習った、教科書に載っているような、それこそレインマンのイメージだったり…。


「自閉症」という言葉は、支援者を甘やかせる言葉です。
詳細を語らずとも、提示する支援、対処法へと、相手を誘導することができるからです。
しかし、重要なのは、その詳細なのです。
詳細に語るというのは、詳細にその子を見る必要があります。
やってみればわかるのですが、「自閉症」「発達障害」という言葉を使わずに、その子のことを説明しようとすると、支援者自身に負荷がかかります。
そしてその負荷から抜け出すには、支援者の言語力とアセスメント力がなければなりません。


支援者同様に、親御さんの中にも、「うちの子、自閉症で…」「発達障害があるから…」と枕詞のように使われる人がいます。
そういう人は、率直に言って、子どもさんのことが見えていません。
見ているのは子どもさんではなく、障害であり、障害児というその人の内側にあるイメージです。
発達相談で成育歴や現在の悩みをお聞きする際、何度も「自閉症の困り感ではなくて、お子さんの困り感を教えてください」ということがあります。
確かに、それは典型的な自閉症の人の困り感、特性ではあるけれども、その子自身のものを答えているのではありません。


「自閉症」も、「発達障害」も、いうならばイメージでしかありません。
そのイメージも、特定の姿があるわけではなく、各々がイメージする障害像です。
残念な支援者は、実生活での困り事をすべて「自閉症」という言葉で片づけている人もいます。
「自閉症だから」という言葉、説明は、自然な子どもの姿を見えなくする呪文です。


こんなことを考えるようになったのは、全国どこでも検査所見が「自閉症」「発達障害」という言葉で語られているのを知ってからです。
北から南まで、テンプレートがあるのかなと思うくらい検査所見には、イメージの中の自閉症者について語られていて、一向にその検査を受けた子どもの顔、姿が見えてこないのです。
「これだったら、検査をしなくても、検査所見が書けますね」というのは、私の持ちギャグにもなっています。


「自閉症だから視覚優位。よって視覚支援」
「自閉症だから見通しが持てない。よって、スケジュールの提示」
「自閉症だから言語理解が難しい。よって、言葉ではなく、見える形で伝える」
「自閉症だから新しい場所が苦手。変更が苦手…」
その最終形が、「自閉症だから治らない」という説明になるのだといえます。
なぜ、自閉症だと治らないのでしょう?
生涯支援を受け続けるのが決定事項なのでしょう?
100歩譲って自閉症は治らないかもしれないけれども、それだからといって我が子が治らないということにはならないと思いますがね。


支援者さんや先生から助言を求められるとき、私は「自閉症」「発達障害」という言葉を使わないことをお勧めしています。
この言葉を使わなくなるだけで、言葉が磨かれますし、子どもさんをしっかり見る目が養われて行きます。
これは親御さんが子どもさんをしっかり見るときも使えるアイディアだと思います。
短い夏休みが終わったあと、担任の先生との面談があったり、就学相談が始まったりすると思いますので、是非、この言葉を使わずに伝えることを意識してみてください。
きっと、もう一段研ぎ澄まされたアセスメントに、我が子のことを深く見て、知るきっかけになるはずです。




2020年7月21日火曜日

【No.1086】アセスメントは仮説力

親御さんからしばしば「子どものどこを見ているのですか?」というご質問を受けます。
他にも、「どういった順番で、子どもの発達を確認していけばいいのですか?」ということを尋ねられる方もいます。
「発達には順番がある」
「この課題は、ここの部分とつながっている」
そういった知識を持たれた親御さんが増えたからこその質問だと、私は感じています。


「発達には順序性と関係性があるのだから、支援者には決まったアセスメントの流れ、確認すべきポイントがあるのだろう」
そんな風に思われている親御さんもいるように感じます。
実際、私のアセスメントが始まりますと、「今、どこを確認したんですか?」「どこから見ているのですか?」「次は?」と質問される方もいます。
しかし、どこを最初に確認するかとか、ここを確認した後はここをとかはありません。


じゃあ、どういった流れでアセスメントをしているのか?
一言で言えば、雰囲気です。
「このお子さんは、身体から確認したほうが良いかな」
「認知や言語力かな」
「遊びから発達の状態を確認しようかな」
そんな風に、その子の雰囲気から感じたままでアセスメントを行っていきます。


こういう風に言うと、「やっぱり、アセスメントは専門家だからできるんだ」「アセスメントは経験豊富な人しかできないんだ」などと思われてしまいます。
でも、これは私の意に反しますし、私の仕事のゴールとは異なってしまいます。
私に対する依頼の多くはアセスメントになりますが、そのアセスメントの仕方、視点を親御さんにお渡しすることが仕事の目的だと考えています。
著しい変化が見られるお子さんのアセスメントを、その都度、支援者に依頼して行うのでは子ども達のためにもなりません。


アセスメントの基本は、一緒に生活する親御さんがタイムリーに行うことです。
素早く変化に気づくからこそ、そのとき、必要な刺激、環境、子育てを創造し、実行することができるからです。
「アセスメント」というと、高度で、専門的な雰囲気を醸し出しますが、やっているのは子どもを丁寧に見ること、その変化をしっかり捉えることです。
アセスメントは特別なイベントではなく、日々の子育ての一部です。


「支援者は」と言うと大げさになりますが、私のアセスメントの仕方はこうです。
まずは、お子さん全体を見る。
イメージで言えば、部分を詳細に見るのではなく、ぼやっと全体を見る、その子の雰囲気を見る感じです。
ここでなにがポイントかと言いますと、全体の調和を確認することです。
お子さん全体を見て、何か違和感を感じるところはないか、それがあったら、まずそこを切り口に確認していきます。
また、発達障害のお子さんに関しては、全体的に発達が遅れているのか、部分的に遅れているのか、または進んでいるのか、を捉えます。
事前情報をあまり入れないのは、この最初の全体を掴むときに純粋に感じたいからです。


全体的な姿を見たあと、すぐに仮説を立てます。
アセスメントは、見るポイントが決まっていて、そこを1つずつ確認するのではなく、支援者が感じたことを元に仮説を立て、それを確認していく作業を言います。
「動きのちぐはぐさは、ハイハイのヌケじゃないだろうか」
「全体的に発達が遅れているのは、首が育っていないからじゃないだろうか」
「よく躓くのは、立体視が育っていないからかもしれない」
「話が聞こえていない。じゃあ、三半規管の育ちを確認してみよう」
こんな感じに、自分の頭の中で仮説を立て、次々に確認していきます。
そうやって、その子のどこに発達のヌケがあるのか、課題の根っこはどこか、どこを育てると生きやすくなるか、を探っていきます。


私が考えるアセスメント力とは、この仮説を立てる力、豊かさです。
経験が浅いときは、この仮説を立てることが難しいのです。
なんとなく、全部、障害特性に見えてしまいますし、どこか課題のポイントを見つけたとしても、それが何と繋がっているのか、どこを確認すれば明らかになるのかが分かっていませんでした。
そういった段階から経験を積んでいき、多くの仮説を立てられるように。
そして、たくさん仮説を立てられるようになったあと、余分な仮説を立てずに的確なアセスメントができる段階になります。
今振り返っても、「えらい遠回りしてアセスメントをしていたな」と自分でも思います。
発達相談後にお送りする報告書が年々シンプルになってきたのは、すこしずつでも前に進んでいると気づかせてくれます。


気づかせてくれると言えば、明日から広島出張です。
ありがたいことに、今年で3年連続の訪問になります。
某市の支援員さんと3日間、発達相談を行わせていただく予定です。
いつもは一人で家庭訪問をするので、客観的に私の仕事を評価してくれる人がいませんが、この広島出張では支援員さんから私に対してもいろいろと感想を聞くことができます。
私より経験豊富で、信頼できる支援員さんです。
支援員さんからどんな言葉を貰えるか、一年前の自分と比べてどうか、ちゃんと成長できているか、その辺りも楽しみにしています。
明日移動で、明後日から3日間、広島の皆様、どうぞよろしくお願い致します。




2020年7月20日月曜日

【No.1085】「正しい診断が正しい治療に繋がる」という考え方

ある医師は、診断についてこのようなことを言っていました。
「医療が診断にこだわるのは、正しい治療を行うため。正しい診断が正しい治療に繋がると信じている」
この話を聞いて、なるほどと思いました。
確かに診断を間違えば、治療方針を間違えてしまい、患者さんに不利益を与えてしまいます。
ですから、治療方針を間違えないように、まずは正しい診断という考えなのでしょう。


日本において神経発達症の診断も、医療の範疇になります。
しかし、病気や他の身体的な障害とは異なり、客観的な正しい診断ができない状況です。
そうなると、「正しい診断が正しい治療」というのから、『正しい』の文字が消えてしまいます。
「申請が通りやすいように、症状を重く書いておきましたから」
「お母さんが受けたい療育、支援に合わせて、診断名つけておきますから」
「とりあえず、自閉症をつけておけば、今後も支援が使いやすいですしね」
こんな話は、しょっちゅう耳にします。
そういえば、数年前、北海道で聴覚障害を偽装し、障害者年金をだまし取っていたという事件がありましたね。
本人の状態ではなく、親御さんの希望や医師のさじ加減で診断が変わるとしたら、それは正しい診断ができているとは言えないでしょう。


医療の外から診断を見ていますと、治療ありきの診断のような気がしています。
「この地域には、こんなサービスが利用できるから」
「うちの系列の療育に通わせるためには」
そんな感じで、地域の実情、資源に合わせて診断がされているような印象を受けます。
ある地域では、どの子も同じ診断名で、どの子も同じパターンの療育、支援を受けていました。


こういったことに、私は大きな違和感を持ちます。
私は医療ではない診断のトレーニングを受けました。
欧米では心理士も診断ができますので、そういった方面からの勉強です。
その際、重点的に教えられたのが、その子を深く知った結果が診断名で、診断はより良い支援を創造するための入り口である、ということです。
神経発達が盛んな子どもさんなら、なおのこと、発達・成長と共に診断名が変わっていくのは当然のことなのです。
客観的なデータ化、数値化ができないのですから、状態の変化が診断名の変化になります。
ということなので、あまり診断名自体が重視されていません。


ところが日本は、いまもなお、診断名重視で、一度、診断名が決まれば、それに合わせて行政も、学校も、支援も一直線に連なっていくイメージです。
「医師がつけたものを、医師以外の人がくつがえすなんて…」などと言われます。
そりゃあ、脳波や血液検査などの医学的で、かつ客観的な診断ができるものに対しては否定するつもりはありませんが、そもそもが「"正しい"診断ができない」「状態の変化とともに診断も変わる」という属性のものなのですから、というか日本以外は医師じゃなくても診断ができるものなのですから、否定もなにもありません。
「"正しい"診断ができない」という点では、医師も、私のような支援者も、親御さんも同じなんだと思います。


そもそもが「正しい診断が正しい治療に繋がる」と言える類のものではないのでしょう。
"正しい"診断がなければ、"正しい"治療もありません。
あるのは、その子がよりよく育つアイディアであり、神経発達を後押しするアイディアです。
「この診断名には、この方法」と系統立てることなどできないのです。


一人ひとり症状や状態は異なります。
神経発達は日々、変化していくものです。
ですから必要なのは、ある決まった日に付られた診断名ではなく、今日、この瞬間の子どもを見る目だといえます。
同じ「自閉スペクトラム症」だからと言っても、状態も、発達の仕方もみんな同じではありません。


「アセスメントも、育てる方法も、寄せ集めである」というのが、私の考えです。
「大久保さんが学んだ学派はなんですか?流派は?師匠は?」などと訊かれることがありますが、特別「これ」というものはありません。
私の知識、知見は、今まで歩んできた道で学び、拾ってきたものの寄せ集め。
たぶん、1つの流派では対応できないでしょう。
神経発達は無限ですから。
療育でも、自分が学んだ流派を押してくる支援者は治せないのは、お子さんと流派が一致したときだけ効果があり、まさに運次第だからです。


人は、正しさを求めると系統や秩序を求めます。
神経発達症を正しく診断しようとすると、〇✖クイズのような診断基準、マニュアルが出来上がります。
正しい治療をしようとすると、同じ診断名は同じ治療という不自由さが生まれます。
しかし、神経発達症に正しい診断も、治療も存在しません。
あるのは、一人ひとりにあった育て方のみ。
寄せ集めたアイディアの中から、我が子にあった、自分にあったものを選び、最適な育ちを作り上げていくことこそが発達援助なのだと私は考えています。
よって、「正しい診断が正しい治療に繋がる」のではなく、「その瞬間を見ることが、より良い選択に繋がる」だと思います。




2020年7月17日金曜日

【No.1084】「できる」と「できない」ではなく、「できる」を掘り下げる視点

日々、共に生活している親御さんの目からは「できる」「できている」と見える我が子の行動が、実際はそうではないことも多々あります。
「言われるまで、できている、大丈夫だ、クリアしていると思っていました」などという言葉をお聞きすると、訪問して良かったなと私は思います。
このアセスメントのズレに気が付き、そこを伝えていくのも発達相談の大事な仕事になります。


両足ジャンプができる。
スプーンで食事ができる。
相手に要求を伝えることができる。
文字が理解できる。
子どもの生活の中には、たくさんの「できる」があります。
その「できる」が増えていくことが発達、成長であり、より良い子育てである、というのは正しい考えです。
なので、なにかできるようになると親御さんは安心し、また次の「できない」から「できる」に意識が向いていくのは自然なことなのです。
しかし、その「できる」にはバリエーションがあります。


できないことに対して、「なぜ、できないのだろうか?」「どうしたら、できるようになるのだろうか?」と考えるように、できることに対しても、「なぜ、できるのだろうか?」「本当にできているのだろうか?」というように考えていきます。
なぜなら、一見すると問題なくできているような行動の中に、「"見せかけ"のできる」「"無理をして”のできる」「"意識して"のできる」が混じり込んでいるからです。
私の感覚では、こういった感じの「できる」はできると考えません。


「"見せかけ"のできる」とは、パターンや学習、適応の結果としてできているという意味です。
たとえば、飲み物が欲しいときに、「ジュースちょうだい」と言う。
でも、それが音の丸暗記ということもあるのです。
とにかく「ジュースちょうだい」といえば、飲み物が貰えると学習している子どももいます。
他の飲み物が欲しいときや食べ物が欲しいときにも、同じように「ジュースちょうだい」と言ったり、コミュニケーションの核である「相手に伝える」というところが抜けていたりすると、「"見せかけ"のできる」だと考えられます。
要求する相手のほうを見ていない、うわごとのように言う、といったのは、コミュニケーションしているとはいえないからです。
数多くのコミュニケーションカードを使っているが、人と人とのやりとりが成立していない子がいます。
カードの豊かさが、その子のコミュニケーションの豊かさにならないのは、「"見せかけ"のできる」をできると評価してしまうことに原因があります。


「"無理をして”のできる」とは、端的に言えば、そこにエネルギーの大部分を使ってしまっている、ということです。
学校を休まず登校できている、毎日、宿題をやり遂げることができている。
でも、学校から帰ったら横になって動けなくなる。
でも、宿題を終えるだけで何時間もかかる、宿題以外、なにもできなくなる。
そういった「できる」は、無理をしてなんとかできているのだといえるでしょう。
これを「できる」と評価してしまうと、本人に限界が来るまで、周囲からも、もしかしたら本人自身も見過ごすという結果になってしまいます。
不登校やひきこもりの人からの相談もありますが、親御さんも、先生も、同じようなことをおっしゃいます。
「大変そうだったけれども、本人が頑張ってできているから大丈夫だと思った」
「そうやって頑張って続けているうちに、力がついてくると思った」
これも「できる」という勘違いが生みだした悲劇です。


「"意識して"のできる」というのも、「"無理をして”のできる」と重なる部分があります。
もしかしたら、この二つを分ける必要がないのかもしれません。
でも発達相談において、「今のは、意識してできているのですね」と私は指摘します。
どういうときにそれが見られるかと言いますと、本人の意識が他のことに向いたときです。
たとえば、コップを片手で持ち、飲んでいる。
でも、話しかけられ、それに応えようとしながら飲む際、両手でコップを持って飲んでいる。
片手での操作は、右脳と左脳の分化、利き手の確立、同側性の動きなどといえますが、咄嗟に持ったとき、意識が他へ向いたとき、両手で持つというのはまだ前段階の発達が本当のところとみます。
他には、スプーン食べできているけれども、疲れてくると手づかみ食べが出る、「スプーン使って」と言われないとスプーンで食べないなどもあります。
大人のかたでも、意識しないと寝返りが打てない、座った姿勢から立ち上がれない、走ったりジャンプしたりできない、相手の気持ちが想像できない、空気が読めないといったこともみられます。
「意識してできるんだったら、いいじゃないか」と言われそうですが、特別な技術や運動以外で、ほとんどの人が無意識に行えるような基本動作、思考が意識しないとできないようでは問題ですし、そこにクリアすべき発達課題があると考えるのは当然です。


じゃあ、本当に「できる」ってどういうことを言うのでしょう?
ある行動に注目したとしても、その行動の背景にはいろんな発達があり、他の発達ともつながっていますので、実際のアセスメントでは、一つの行動だけをとりだして評価をすることはありません。
ですが、敢えて言葉にするのなら…
その行動が「別の場所、人、行動に応用している、応用できている」
その行動が「その人の持つエネルギーの大部分を占めない。それを行っても、他の活動、生活に支障が出ない」
その行動が「咄嗟の場面でも、他に意識が向いたときでも、一定の水準で行うことができている(例:意識して走ると早いが、無意識になるとガクンとスピードが落ちる、転ぶことがあるなど)」
といったところでしょうか。
私の場合は、ある行動を見たとき、その姿から滑らかさの雰囲気を感じないと、「おやっ」と思い、アセスメントの掘り下げを行っていきます。


支援者の習性として、彼らは子どもの「できないところ」が大好物なものです。
「ここができない」「あれもできない」
そう指摘すると、支援者である自分に、親御さんの意識が向いてくるからです。
それこそ、濃密な1対1関係への希求です。
そういった影響もあり、我が子を見る際、「できる」と「できない」というシンプルな視点になってしまいがちです。
でも、「できない」だけではなく、「できる」も掘り下げていくことが重要です。
それもより良い子育て、その子の豊かな生活には必要な視点になるからです。
是非、親御さんには我が子の「できる」に関しても、深く感じ、深く見て頂きたいと思います。




2020年7月15日水曜日

【No.1083】求めてくる関係性から治す人か、治せない人かを見る

新大阪から伊丹空港へ向かうバスに乗ると、隣の席にご年配のグループが後からやってきました。
ツアーかどうかまではわかりませんでしたが、みなさんで地方へ旅行に行くようです。
「わしら、コロナが終息するのを待っとったら、生きてるか分からんしな」とある男性が言うと、グループの仲間もそうだそうだと大笑い。


移動した先でコロナの発症者と出会う確率。
出会ったとして、その発症者と自分が濃厚接触者になる確率。
濃厚接触者になって、自分が発症する確率。
自分が発症し、そこから重症になる確率。
重症になったあと、回復しない確率。


そういった確率を掛け合わせ、宝くじで億万長者になる確率よりも低い可能性と、自分の人生をよりよく生きようとするための選択。
「1年の自粛、2年の自粛」
そんなことを許容できるのは、1年後も、2年後も、生きているという前提があるから。
ご年配のグループのかたじゃなくても、そう、私だって1年後、2年後、確実に生きているとは限りません。
人の生死をいつも見ている医療関係者だから、個人の想い、息づかいが見えなくなっているのかもしれないと思います。
誰のための自粛なのか、医療に個人の選択を規制する権利があるのか、医療従事者以外、一般の人には健康を保ち、病気から身を守ることができないとお思いなのか。


6月以降の出張では、みなさん、口を揃えて、こうおっしゃいます。
「このコロナ自粛期間中に、子どもがグンと伸びた」
南は行っていませんが、北も、東も、西も、どこに行っても、「家で過ごしているときが一番伸びた」とおっしゃっていました。


この理由はとてもシンプルです。
発達障害の子ども達の多くは、胎児期から2歳前後の発達過程にヌケや遅れが生じます。
この時期のヒトの発達というのは、主に1対1関係、または環境との関係性の中で育まれて行きます。
幼稚園や保育園などの集団生活の中で刺激され、発達する部分もありますが、そこが発達の遅れの根っこだということはあまりありません。
ですから、親子で濃密な時間が過ごせた自粛期間中に、根っこの育て直しが進んだのだと考えられます。


また商業施設等に行かなかった分、公園や自然の中で過ごす時間が増えた。
自然の中は五感を刺激しますし、何より自分の身体が遊び道具となります。
これまた胎児期から2歳前後で育てる部分とマッチします。
あるご家庭では、1年以上、療育機関に通っても変化がなかった部分が、この自粛中にクリアできたと言っていました。
1対1の関係性の中で、五感や運動を刺激する自然の中で、発達のヌケが埋まっていくのは当たり前なことなのです。


1対1の関係で言えば、親子なら良いのですが、支援者とはいけません。
1対1の関係は、感情を共有し、濃密な関係性を築くためのものです。
親子の濃密さは、子どもの心身の安定を生み、発達に向かうための力になりますが、支援者との濃密さは依存を生みます。
依存は、自立を阻む最も大きな障壁です。


ですから私は、発達相談において、1対1の関係性にならないように、そこを求められても濃厚になっていかないように注意しています。
あくまで私は、その子の発達課題を直接クリアする存在ではなく、クリアできるために共に考える存在でいようと心掛けています。
「私が治しましょう」ではなく、「より良い子育てを一緒に考えましょう」です。
対象が人ではなく、発達課題であり、より良い子育てになります。
治すのは本人、それを後押しするのは家族、アイディアを出すのが支援者。
ここのところを間違うと、治らないし、依存が生まれるし、自立からどんどん遠くなっていきます。


愛着障害を持つ支援者、治せない支援者というのは、この1対1関係を築こうとしますし、この関係性を築くことが支援である、仕事であるという大きな勘違いをしているものです。
やたらと親御さんに共感し、褒めたたえる支援者。
やたらと「子どものため」といって、手とり足とり、なんでもやってしまう支援者。
そういう支援者が一番自立を阻みます、親も、子も。
1対1関係は、その二人の間で関係性を深めるためのものですから。


このように言うと、「じゃあ、成人の当事者から相談があったとき、お前はどうしてるんだ」と言われそうです。
当然、本人と私の1対1ですので、自然と関係性を深める方向へと進みがちです。
しかし私との関係性を深めても、自立できませんし、発達のヌケは埋まっていきません。
ですからこういった場合にも、対象を「私とあなた」ではなくて、「発達のヌケ・課題」とします。
本人と私が結びつくのではなく、課題を通して結びつくのです。
そうすることで、本人の「私が自分の課題と向き合う、解決を目指す」という姿勢を妨げないで済むことができるのです。


医療の話に戻れば、医師の中にも、1対1関係で進めようとする人が少なくないような気がします。
「私と患者」の濃密な関係を築こうとし、本人の自助努力よりも、「私に従っておけ」という姿勢が見られます。
それが端的に現れるのは、発達障害の診断の際。
親御さんは子どもの発達の課題と解決を中心に関係性を結ぼうとするのに、それを拒否する医師。
だから、「この子は自閉症です」「療育を受けてください」「生涯、このままですよ」と、濃密な関係性で成り立つ、もっといえば、主従関係でのみ成り立つような無礼なことを口にしてしまうのだと思います。


ここには書けませんが、どれほど多くの親御さんが、診断時の医師の言葉に傷つき、苦しんできたか。
「何様のつもり」というエピソード満載です。
中には、その言葉で親御さんが精神的な疾患になった人もいるくらいです。
病院に行って、病気になってどうするんだ、って感じです。
親御さんは我が子に発達の遅れがあることよりも、専門家の言葉や態度に傷つくことが多い。


愛着障害を持つ人は、1対1関係を求めます。
ですから、本人も、親御さんも、支援者も、自立するためには治す必要があるのです。
親子での濃密な時間は、胎児期から2歳前後の発達課題をクリアさせますが、濃密な関係性のベースに愛着障害があれば、依存を生みます。
愛着障害を持つ支援者が、当事者の自立を阻むのと同じように、親御さんが我が子の自立を阻むケースも少なくありません。
そういった意味で発達相談のとき、他人である私とどのような関係性を求めてくるかで、愛着の発達状態を見ます。
愛着障害を治すほうが、発達のヌケを治すより優先すべきケースもあります。


今回のブログは、話があっちこっちに言ってしまいましたが、支援者を見抜くアイディア、「求めてくる関係性から見る」というお話でした。
今の支援者、過去の支援者、これから会う支援者を見抜くための視点としてお持ちいただければと思います。
あと業務連絡です。
今回の関西出張の報告書、郵便局で出してきました!




2020年7月9日木曜日

【No.1082】発達は前にしか進まない。だから子も、親も、前に進む

「療育を受けられるのなら、死んでもいぃ~」みたいな親御さんって、10年前くらいまでよく見かけたものです。
いや、大袈裟じゃなくて、本当に。
生活すべてが"療育のため"みたいな感じで、家庭のことは二の次、三の次。
今の親御さんはビックリされるかもしれませんが、結構このことでもめて離婚する家族もいました。
コロナ離婚じゃなくて、療育離婚。
「夫が療育を受けることに理解がない。協力的ではない。だから別れた」なんて言われるのを私も聞いたものです。
今振り返れば、それもまた療育、支援、特別支援の副作用だったような気がします。


この「療育を受けられるのなら」みたいなのって、他のアプローチが知られていなかったことが、療育を受けても根本的な解決にはつながらないことが、今のように周知されていなかったという理由もあるのだと思います。
でも、それ以上に、親御さんから伝わってきたのは、無力感からの解放です。
親御さんにとって一番つらいのは、耐えられないのは、子どもさんに発達障害があることではなく、親として、家族として何もやってあげられないという無力感だと思います。
「いやいや、療育や支援を受けるために頑張っているじゃないか」という声もありますが、そこは本質的な部分ではないと思うのです。


親御さんとお話ししていると、「毎日、頑張って療育に通っているけれども、なにか満たされない気持ちがある」ということをお聞きします。
同じように、良いと言われている早期診断・早期療育を受けても、検査を受けて詳細なデータを貰っても、権威ある大学病院・有名支援者のところに通っても、なにか気が晴れない。
たぶん、それは子育てではなく、また子どもの発達を後押しすることにつながっていないからだと思います。
良いと言われているこれらは、親じゃなくても、家族じゃなくてもできることです。
たとえば、私が依頼され、お子さんを連れていくことはできます。
で、得られる結果は同じ。
そのことに無意識的にも気がついている親御さんは、心にもやっとしたものが残るのだと思います。


発達相談で私が出会う親御さんの中に「何が何でも我が子を治してやる」みたいな人はほとんどいません。
治す方向で共に歩んでいるけれども、そこが目的ではない。
やっぱり親として、家族として、やれることを知りたくて、やれることをやりたいんだと思います。


前世代の特別支援はまさに「やれることはない」というメッセージに溢れていました。
「親としてできることは、より早く診断を受け、より早く療育を受けることである」
「イメージしているような普通の子育てではなく、特別な子育てが求められる」
「親よりも、支援者の役割を」
実際に、そのような言葉を言われた親御さんは少なくありませんでした。
「親になることを否定された感じがした」
「あなたには何もできないと言われた感じがした」
そうやって涙ぐむ親御さんにもあってきました。
子どもの未来を否定されたうえに、親としての可能性までをも否定される。
想像しただけでも、どれほど辛い出来事だったかと思うのです。


発達の本質は未来です。
アイディアとして『退行』や『発達のヌケを育て直す』というものがありますが、発達は後戻りしません。
積み上がったものが消えてなくなることはなく、やったらやっただけ糧になります。
もちろん、ピンポイントでヌケが埋まらないこともありますが、発達に後戻りはなく、無駄も無い。
そういった流れをみれば、誰よりも我が子を詳細に、丁寧に見て関われる親御さんの力を活かさないなんてあり得ません。
親として、家族として、前に進もうとする力を活かすことが、子どもさんの発達を前に前にと進ませる力となります。


発達が凸凹している。
だけれども、その凸凹は固定されたものではなく、生涯変化し続けるものです。
ある若者は「この年になって初めて世の中が立体的に見えるようになった」と喜んでいました。
発達は前にしか進まないから、ある段階を過ぎれば、治るのは当然です。


身体アプローチ、言葉以前のアプローチには、親御さんの無力感を解き放す力もあるのだと思います。
また支援者として、本人だけではなく、親御さんにも「ここが育てられる部分。ここが手助けする部分」といった丁寧な仕分け作業を行うのが役割だと思います。
そういった意味で、誰でもつけれる、誰でも同じ結果のアセスメントではなく、個々に合わせた、その子個人を大切にするアセスメントが必要なのです。




2020年7月8日水曜日

【No.1081】私達が医学の土俵の上にあがる必要はない

新型コロナに関する専門家の発言やメディアでの捉え方を見ていますと、その言葉の中に個人の息吹を感じることができません。
同じコロナウィルスとはいえども、それが発症するか、重症化するか、実際に罹るかは、個人によるところが大きいといえます。
でも、その個人が語られることはありません。
いや、むしろ、一生懸命個人を排除しようとしているようにすら感じます。


ウィルスを研究するのは、医学の話でしょう。
私達一般の人達は、医学ではなく、実学が必要なのです。
このウィルスとの折り合いの仕方が知りたくて、よりよく生きるという目標に向かっている中で出会った一つの環境要因でしかないのだと思います。
新型コロナに罹らないために、無人島に行くか、誰にも会わず家に閉じこもるか。
新型コロナに罹らないために医学があるのかもしれませんが、それは個人の生き方、命の全うの仕方とは次元が異なる話なのです。


これは医療に共通する話なのかもしれません。
現在の神経発達症に関する診断基準を見ても、見事に個人が排除されています。
私達が知りたいのは、その子に感覚過敏があることではなく、何故、感覚過敏が生じているかという理由です。
しかし、どう頑張って読んでも、その「何故」が見えてきません。
しかも同じ症状の中にも、個人によるバリエーションがあるのにもかかわらず、そこすら見ようとされていません。
あるのは、できるだけ個人が排除された基準だけ。
本来、診断とは、その個人がよりよく生きるためのものであるはずなのに、その個人、家族に利するところがほとんどありません。
むしろ、医学という土俵の上で、医師が診断をつけやすいような形式に、どんな医師でも同じような結果が出るような形式になっているような気がします。


アメリカでは、医師以外の人でも診断を行います。
私だって、診断をつけるトレーニングを受けたくらいです。
つまり、誰でも診断できるがコンセプト。
いろんな人が診断しても、だいたい同じような結果になるように曖昧な部分、その個人という要因を削り落としているのです。
その子が今後、どのような発達を遂げていくかは考慮されていません。
その子が何故、発達が遅れているのかは考慮されていません。
それを入れてしまうと、診断が成り立たなくなってしまうから。


新型コロナと同じように、その個人は診断のために生きているのではありません。
自閉症という診断をもらうことが、人生の目的ではないのです。
その診断を受けることが、その人の人生に彩りを与えることがあるのかもしれませんが、ゴールではありません。


診断や療育、服薬が大きなことのように語られますが、それは医学という分野、土俵においての価値観、話だといえます。
自閉症の有病率だとか、感覚過敏を持っている人が〇%だとか、この薬が効くだとか、新しい薬は副作用が少ないぞとか、それってお医者さんの話でしょ。
「薬は効いたけれども、家から一歩も出られなくなった」
「療育を週20時間受けれたけれども、幼稚園での生活ができなくなった」
「診断がついたけれども、仕事が続かないのはかわらない」
医療の豊かさ、目標の達成度が、個人の幸せ、目標と一致するとは限らない。


現在、早期発見、早期診断がもてはやされ年端もいかない子ども達が、どんどん診断を受けている時代です。
でも、幼少期の子どもさんにとって診断は、その子個人のためでも、願いでもないはずです。
欧米では10年ほど前から、日本でもここ数年で、「どれだけ早く診断できるか、低年齢でつけられるか」が医師、クリニックの評価になり、競い合う項目の一つになっています。
1歳とかで診断をつけられるのは、どう考えても、その子のためではなく、医療側のためだといえます。
「医学の発展に寄与できた。でも、その子の人生は無茶苦茶だ」「正しい診断のために、人生を棒に振る」ではいけないのです。


診断はあくまで医療、医学の話です。
その子がよりよく成長する、よりよく生きるとは土俵が違うのです。
だから、診断を受けなくても、発達する子はいるし、治る子もいる。
というか、個人を排除している診断をいくら受けても、よりよく育つアイディアは出てきません。
個人は数値化できない曖昧なものだから。


親御さんは「なんとなく、これが良いと思って」と言いながら、子どもさんを治していく。
でも、医療は「"なんとなく"ではダメだ。それは曖昧なものだから」と言う。
両者がかみ合わないのは、目的が違うから。
親御さんは、我が子がより良く育つことを願い、医療は医学の発展を願う。
だから、『自閉症』『ADHD』『知的障害』などの括りで話がされる。
「この子は、どうなんですか?」と尋ねる親御さんに、「自閉症の子は、〇〇で~」と返す医師が多い。
親御さんが訊きたいのは、自閉症の育て方ではなく、我が子の育て方。


新型コロナがどのような遺伝子を持ち、どのような発症率で、経過をたどるか、どんな治療が良いかはわかりませんし、私の興味関心はそこではありません。
大事なのは、私の生活、仕事において、どのくらい影響があるか、どのくらい対策をすれば良いのか、ということ。
結局、罹っても自分の自然治癒力に頼るしかありません。
同じように、診断されようがされまいが、我が子をよりよく育てること、自立を目指して育てることは変わりませんし、信じるのは我が子の内側にある発達する力です。


専門家は、他の人も自分と同じ土俵にいると勘違いしがちだといえます。
特に自分たちがサービス業であるという自覚がない仕事の人達は、それが顕著です。
サービス業の人は、相手の言葉で、相手の土俵の上で勝負をしようとします。
四六時中、医学という土俵の上の話ばかりが続くメディアにはうんざりです。
知りたいのは私個人とコロナの関係性であり、医療とコロナの関係性ではありませんね。




2020年7月7日火曜日

【No.1080】思考の仕分け作業

私もようやく「治す系」の支援者と認識され始めたせいか(笑)、以前のように「私達の自立には、社会が理解する必要があるんです!」「もっと支援と支援者を増やさないといけないんです!」「私達は、一日8時間労働は無理なのですから、金銭的な補助を受けるべきなんです!」といった成人の人達からの相談がこなくなりました。
私が「社会が理解したとしても、あなた個人の内側にある生きづらさは変わらない」と返すからでしょうかね。
しかし、こういった認識を持った子がいる、関わっている利用者さんがそうだ、という周囲からの相談は来ていますので、まだまだ実際のところは多いのだと思います。


自閉症ゆえに自分は「保護されるべき存在だ」「理解されるべき存在だ」という主張をする人は少なくありません。
また、そういった人に対して同意"以外"の助言をすると、「わかってくれない」「障害の理解がない」と言って拒否反応を示します。
このような人達は、同意してくれる人を見つけるまで動き続けます。
結局、彼らが求めているのは、彼らの思考の丸抱えなのです。


こういった主張をする人たちに共通するのは、「整理統合する力が弱い」ということです。
「自閉症だから◎◎」というのは、とてもシンプルな図式です。
小さい子が「りんごは赤い」という図式を頭にえがくのと一緒です。
初めて青いりんごを見たとき、小さな子はびっくりします。
ですから、「自閉症だから8時間労働は無理」と言う人に、「いや、8時間働いている人もいるし」と言うと、ビックリしているのです、それが拒否反応になっているだけです。


小さな子が経験や成長と共に、赤いりんごだけではなく、緑も、黄色もあることがわかるようになる。
これは脳内で情報が整理統合され、概念が作られていくからです。
大人になっても、「りんごは赤だ。それ以外は認めない」と主張したら、おかしいでしょ。
でも、それと同じことが起きている。
自閉症の人達は「思考が固い」と言われることがあります。
『こだわり』と表現されることもあって、道順を変えると…といういつものやつです。


結局のところ、「理解ガー」とか、「自閉症だから◎◎だ」とか言っている人の多くは、整理統合の問題を抱えているのです。
当然、自閉症が、発達のヌケが影響して難しい部分、苦手なことがあるでしょう。
でも、同じ人の内側に得意な部分も、できる部分もある。
自閉症だからすべてがダメなわけではなく、自閉症が全人格&人生すべてを支配しているわけではありません。
そんなことは、大人なら瞬時にわかるはずです。
逆に言えば、それが瞬時にわからないところに課題があるのです。


以前、そういった人達の相談を受けていたとき、彼らに必要なのは頭の中を整理、統合するお手伝いだと考えていました。
「これは自閉症の特性が関係して」「これは発達のヌケが影響して」「これは自閉症とは関係なく」「ここはできる部分で」など。
私のイメージでは、思考の仕分け作業です。
思考の仕分け作業ができていないから、「自閉症だから全部だめだ」「(自分ではなく)社会の理解が必要だ」といった思考停止が生まれている。
「生きづらい」と言っている人は年がら年中、同じことを言っています。
今の状況が生きづらいのなら、何かを変える必要があるのに、止まっていないで動く必要があるのに、そのそぶりを見せないのは、思考停止が動きの停止を生んでいるからです。
思考停止が独自の解釈、独自の自閉症像、障害観を生むため、皮肉にも彼らが求める"理解"を得ることは難しい。


思考が整理できてくると、自閉症が人生を決めるわけではないのがわかるようになります。
また、できる部分、大丈夫な部分と、できない部分、苦手な部分がわかりますので、対処がうまれてきます。
自分が苦手とする部分が必ずしも社会の理解を欲していないということがわかるだけでも、一歩踏み出すきっかけになるのです。


このように考えると、道順の"こだわり"というのも、自閉症特有の特徴というわけではなく、思考が幼いからということがわかります。
こちらも身体や運動の発達同様、「未発達なら育てればいい」という方向へ進めます。
いろんな発達のヌケ、遅れがありますと、整理統合というヒトの脳の部分の発達が遅れるのは当然です。


こういった当事者の人たちを生むのは、周囲の人間の言語力の乏しさだと感じています。
親御さんの中にも「うちの子、自閉症だから◎◎」という人がいますが、できない理由をすべて『自閉症』という言葉で片づけてしまっている印象がぬぐえません。
本来なら、できない理由を細分化すること、できないことの中にあるできる部分と、対処で乗り越えられる部分と、学習・発達・成長で可能になる部分と、手助けが必要な部分を仕分けることが必要です。
それができなければ、本人は何も変わっていきませんし、そのためには周囲の人間の言語力が必要になります。
言葉は思考を整理するために存在するのですから。


「A=B」はもっともシンプルな数式です。
「自閉症=できない」
「自閉症=理解が必要」
「学校へ行く道=コンビニの横を通る道」
「ミニカーで遊ぶ=一列に並べる」
内容にはレベルがあっても、課題の根っこは同じです。
人間脳を育てるために、土台である感覚・運動・身体などの発達のヌケを埋めていく。
「A=B」の段階の人へは、周囲の言語力によって思考を整理し、統合し、本人が理解を深めていく。
問われるのは、支援者、先生、親御さんの言葉の力、豊かさだといえますね。




2020年7月4日土曜日

【No.1079】いくらアセスメントしても、本人の生活の質の向上につながらない理由

支援者は大抵、アセスメントを叩きこまれます。
1にアセスメント、2にアセスメント、3にアセスメント、という具合に。
他人を支援するわけですから、また自閉症やADHDなど、特性を持った人の支援をするわけですから、当然、相手のこと、障害のことを知らなければ、どうにも始まりません。
私も新人の頃、自閉症などの診断基準を暗記するように言われたものです。


支援者の仕事は、アセスメントをし、支援を組み立て、評価する、そしてまたアセスメントをして…の繰り返しです。
食事や排泄、生活全般の支援は、支援じゃなくて介護になります。
支援者は、本人の生活の質が向上するような支援を考え、実行する人達。
そのためには、その人のことを多面的に、立体的に見る目が必要になってきます。
本人のことを見ていない人に、支援はできない。
だから、特別支援の世界に支援者は少なく、介護者ばかりなのでしょう。


「ちゃんとうちの子を見てくれているんですか!?」と言う親御さんに、「はい、ちゃんと見ていますよ」と返事をする支援者、先生たち。
親御さんは、子どもの小さな変化を捉えられているかという目について問いており、支援者は「(怪我しないように)(表面的に)見ていますよ」と答えている。
ここに、本人の生活の質が向上するための目と、ただ見ている目の違いが生じているのです。


支援するための目を持たない支援者は、「今」「そのまま」「表面」を見るだけで終わってしまっているので、終始介護しかできないのでしょう。
だけれども、それは支援者の資質だけの問題ではないと思っています。
私も受けた支援者育成の方針、システムの問題だといえます。
1にも、2にも、3にも、アセスメントという育成の仕方。


確かにアセスメントは重要です。
でも、特別支援の世界で言われるアセスメントに問題があるのだと思います。
アセスメントと言うと、診断基準を覚える、障害特性を覚える、本人たちの行動を記録する、検査を行う、検査結果から読みとる、専門書&論文を読み込む…という具合です。
何が言いたいかと言えば、「すべて言語化されている」ということ。
特別支援の世界のアセスメントとその育成のほとんどは、言葉を介して行われている。
ということは、言葉に表現できない部分は扱われていないということです。
特に発達障害の場合、その課題の根っこは、言葉を獲得する前の段階、胎児期から2歳前後に生じた発達のヌケ、遅れなのですから、そこを言葉のみで伝えよう、学ぼう、表現しようとしても無理な話です。


言葉で表現できるアセスメントなんて、本人のごく僅かに過ぎません。
この辺りがわかっていないと、必死に診断基準や検査結果、専門書&論文から学び、アセスメントをしようとしてしまいます。
言葉にならない本人の状態、発達、課題の根っこがわからないからこそ、言葉に頼らざるを得なくなる。
「それって、〇〇くんに合わせた支援じゃなくて、典型的な自閉症像に合わせた支援ですよね」という話がたくさんです。
今もなお、昭和、平成から続く典型的な自閉症像が言葉によって引き継がれている。


支援者はアセスメントを重視します。
ですから全国どこでも、独自のアセスメントシートを作り、アセスメントをしていきます。
支援者はアセスメントシートを埋めた時点で満足感と達成感を得る。
「こんな検査結果が出ました」と、ルンルンで親御さんにその紙を見せる。
でも、1ミリも役に立たない。
だって、言葉に表現できる部分は本質ではないから、本人の課題の根っこではないから。
事業所で見えた我が子の姿は、家庭で見せる姿の一部。
その一部を見せられても、見えている部分は私も見えているし、じゃあ、今後どうしたらいいの?課題の本質はどこなの?に対する答えは記されていないもん。


発達は見ることができません。
言葉で表現するのも難しいものです。
だからこそ、それができる支援者を見つけることが大事ですし、そういった支援者を育てていかなければなりません。
本人の生活の質の向上につながるような支援ができる支援者というのは、言葉で表現できない部分を見ることができる人です。


でも、これは親御さんにもできます。
親御さんは胎児期から共に生きていますので、感覚的に捉えることができるものです。
そこら辺の支援者よりも、ずっと深いアセスメントができています。
しかし、その状態をキープできる親御さんが少ない。
何故なら、言葉でがんじがらめにされるから。
健診も、診断も、教育相談も、発達相談も、すべて言語化されたやりとり。
誰一人として、その子の発達の流れを見てくれるわけではなく、表面から見える姿で判断している。
他人に見える部分は、親御さんにも見えている。
本来、親御さんが感じている発達と課題に対して、「そうですよね」「そこがポイントですよね」と共に感じ、一緒に本質的な部分を見てくれる人が必要なのです。


本やネットなどで情報を得るときも、その文字にフォーカスし過ぎてはいけません。
その文字、発言に漂う雰囲気を感じるのです。
その著者、専門家が何を見ているのかを想像する。
決して表面的な目に見える部分だけを言っているのではありません。
表面しか見えていない人に、その子の発達を掴むことも、後押しすることもできません。
文字にフォーカスし過ぎる親御さんが、書かれていることをそのまんま我が子にやって、よろしくないことが起きている場合が少なくないのです。


支援者が目の前にいる人を多面的に、立体的に、それこそ、見えない部分まで見て支援した結果がそれです。
なので、親御さんも、そういった支援者のように見えない部分まで感じながら、お子さんのことをしっかり見ることが重要だといえます。
見るには、見えている部分と見えない部分、両方を見る、という意味があります。
両方が見えると、支援者の提示するアイディアの意図がわかり、子どもさんに合わせて自由自在に作りかえることができるようになります。
見えない部分を感じる力、想像する力が、アセスメントには必要なのです。




2020年7月2日木曜日

【No.1078】家族とつながり、子の内側から発達を見る

本州のご家族のもとへ伺うと、「大久保先生」と呼んでくださることがあります。
本州から見れば、北海道は遠い印象なのでしょう。
ですから、「わざわざ遠くからはるばるやってきてくださいました」という意味で、先生という敬いが付くのだと思います。
私からすれば、道内を回るより、飛行機でシュッとひとっ飛びですから、ラクなのですが(笑)
しかし、最後までこの「先生」が付いたときには、「今日の発達相談は失敗だったな」と反省します。
途中から、もちろん、ベストは最初から、さん付けで呼ばれるようでなければダメなのです。


どんな素晴らしい知識、技術、方法だとしても、それが伝わらなければ意味がありませんし、何よりも実際にやらなければ、どうしようもないのです。
たとえば、首を育てるアイディアをお伝えしたとします。
でも、そのとき、「はい、わかりました」で終わって、そのとき、一緒にやってみて、その後、家庭でやらなければ何も変わってはいきません。
首の未発達を抱えたまま、同じ日々が続いていきます。


また、知識、技術、方法を伝える際、受け手が窮屈になるような伝え方をしてもいけません。
これは私の過去の失敗でもあるのですが、具体的、かつ詳細に伝えたばかりに、受け手の親御さんが忠実に再現しようとしてしまったことがあります。
当然、未発達の部分が育ってはいくのですが、発展していかないのです。
治ったけれども、治り切らないといった感じでしょうか。
他の親御さんですが、「次はどうしたら良いですか?」と数週間、1ヶ月単位で尋ねてこられる方もいらっしゃいました。


発達相談、援助において、そのアイディアの伝え方が難しいところです。
親切丁寧に、そして何よりも具体的に伝えることは大事ですが、そこで発想が止まってしまうようではいけないのです。
私との時間が終わったあと、私が帰ったあと、「あんな方法も良いかも」「こうした方が、うちの子には合っているかも」という具合に、自由な連想が始まっていくようでなければなりません。
実際、治すご家庭はたくさんありますが、治しきるまでいけるご家庭は少ない気がします。
その違いが、この自由な発想、連想が出るか出ないかだと感じています。


今の子ども達は違うのでしょうが、昭和を生きた私達は、「先生」という言葉に対するパターンが染みついているものです。
「先生」という言葉には窮屈さが漂っていますし、その窮屈さは、先生の意図した答えを正確に出す、というパターンからきています。
ですから、私の発達相談が終わっても、先生という呼称が付いていると、問題であり、失敗なのです。
私の伝え方が、雰囲気が、ご家族に窮屈さを生んでしまっている。
そして私が帰ったあと、伝えた内容を忠実に行おうとする、行うことが善であるという危険性をはらんでいる。


私が意識しているのは、素人っぽさです。
実際、まだまだ実力不足の私ですから、素人に毛が生えたような者なのですが(笑)
とにかく素人の私が、四苦八苦しながら、悩みながら発達の課題を確認し、その育て方を考えていくような感じ。
イメージで言えば、施設職員時代、わからないことだらけで、うまくいかないことばかりだったけれども、子ども達と一緒に生活し、どうにかより良い明日が迎えられたら、と願う姿です。
そういった素人っぽさが、親御さんの今、子育てに悩まれている状況とつながり、一緒に試行錯誤していくような、「なんだ、こういう風に見ればいいんだ」「なんだ、育て方は一つじゃないんだ、もっと自由なんだ」と思ってくれるような感じで伝わってほしいな、と思いながら私は仕事をしています。


この仕事は、自分ではなく、「子の人生」という強い想いの親御さん達と関わる仕事です。
なので、熱心な親御さんほど、切羽詰まっている親御さんほど、発した言葉が重くて強く伝わってしまう可能性があるのだと感じます。
ですから素人っぽい雰囲気は持ち続けないといけませんし、私が四苦八苦するプロセス、どうしてその育て方が良いのか、という種明かしもしっかり伝えていく必要があると考えています。


また親御さんの中には、厳密に捉えがちの人がいるのも当然です。
ある人は「親御さんにも自閉症の特性がある人は、そうしがちだ」と言っていましたが、私は真逆のことを思います。
お子さんと同じ特性を持っている親御さんのほうが、自由な発想で子育てを展開されていく。
むしろ、自分とはかけ離れていると感じている親御さんのほうが、戸惑い、専門家の言葉を忠実に実行しようとする、と。


親である自分と似たところがある、自分も昔そうだったな、と思う親御さんは、自分の赤ちゃんからの積み重ねの中に発想の材料があるものです。
「他にも、こんな育て方があるかも!」という発想が浮かんでくる親御さんは、歩んできた道の中に試行錯誤した経験があるように感じます。
そういった部分で困ってこなかった親御さん、つまり、自分に特性が少なく、定型発達ということを意識すらしてこなかった親御さんは、いざ、我が子の発達の遅れ、ヌケと向き合ったとき、身体に力が入ってしまうのだと思います。
それが支援者の言葉を過剰に強く受け取ってしまう要因の一つになっているような気がします。


「神経発達症を治す」という同じ方向で日々頑張っている親御さんであっても、他の親御さんの状況や思考まではわからないものです。
ですから、同じアイディアを見聞きしても、捉え方が異なるのです。
「教わった通りにやっているのだけれども、なかなか治らない」と悩む親御さんがいます。
「他のお母さんのように、いろんな取り組みをしたいのに、子育てを楽しみたいのに、私にはそれができない、余裕がない」と悩む親御さんもいます。
そのような親御さんを見て、「もっと自由に、楽しんでやればいいのに」と思う親御さんもいます。
そのような親御さんのヒントになれば、と思い、今日のブログを書きました。


ポイントは、繋がること、重なることです。
支援者は、家族と繋がること、お子さんと重なることを通して、本人の望み、訴え、行動の背景を感じ、家族と同じ目線でより良い子育てを考えていく。
一緒により良い子育てを考えていくことが、親御さんの自立と自由な発想につながり、結果的にお子さんが治ることへとつながっていく。
知識、技術、方法を与え、受け取る関係性の中には、治るが存在しません。


そして親御さんは、我が子とつながり、我が子の内側から発達を、課題を見ることが大事だと思います。
客観的に、外側から子どもを見ても、発達、課題は見えてはきません。
見えないからこそ、専門家の言葉にすがってしまうのかもしれません、大きく捉えすぎるのかもしれません。
そういった意味で、自分にも似たような特性がある親御さんは、より自由になれるのでしょう。
我が子と自分が重なり合うから。
重なり合うと、過去の自分の経験の中から新たな発想が生まれてきますので。


ということで、7月にお会いする皆様、素人の兄ちゃん(?)、おじさんが来てもがっかりしないでください(笑)
一緒に悩みながら、そのプロセスも味わいながら、子どもさんのより良い子育てを考える楽しい時間が過ごせれば、と思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。




2020年7月1日水曜日

【No.1077】未発達のない自閉症者を目指す

発達相談の際、親御さんにお話しすることがあるのですが、「未発達のない自閉症者は、障害者と言えるのか?」という話です。
皆さんは、どう思われるでしょうか、考えられるでしょうか。
私は自閉症児施設で働いていましたし、今も自閉症の若者、子ども達とかかわりがあります。
そんな中で、一度も「自閉症を治そう」などと思ったことはありません。
治すのは、未発達と発達のヌケです。
あとは、誤学習と問題行動は、こっちの字で直そうとします。


多くの自閉症者と関わってきて感じるのは、自閉症という特性、ある意味、脳の情報処理の仕方が生きづらさの根っこではない、ということです。
ほとんどの人は、未発達と発達のヌケから、生きづらさが生じていると思います。
世の中を見渡せば、自閉症の人はたくさんいるわけで、でも、その多くの人が特別支援を受け、生涯に渡る支援を受けているわけではありません。
診断だって受けていない人の方が多いでしょう。


たぶん、そういった自閉症だけれども、社会の中で自立して生きている人達というのは、自閉症という特性とうまく折り合いがつけれているからだと考えられます。
つまり、別の言い方をすれば、特性と折り合えるくらい、未発達の影響が少ない、もしくはほとんどない、ということなのでしょう。
こだわりは工夫次第で折り合いをつけることができますが、背中の感覚がないこととは折り合いがつけられません。
同じように、聴覚や触覚の過敏さとも、右と左の未分化とも、重力に抗うことのできない筋肉とも。
ですから、本人の生きづらさの背景である、本人の自立を阻む根っこである未発達とヌケを育てていく、そこを治していくのです。


こういう話をすると、必ず「自閉症と未発達の違いは?見分け方は?」というご質問があります。
シンプルに言えば、未発達を育て切ったあとで残るのが自閉症の部分、といえます。
しかし、これでは答えているようで答えていない回答になります。
じゃあ、本当のところは、実際のところは…。


これはあくまで私の経験と学びによる見解です。
自閉症やADHDなど、特性と言える部分、ここは変えられるところじゃない部分と見分けるのは、本人、子どもさんではなく、親御さんからです。
つまり、親御さんの子ども時代、もちろん、今の姿から特性の部分を確認します。
自閉症でいえば、やっぱり親御さんのどちらか、または両方に、または祖父母、親戚の中に似たような人がいるものです。
そういった部分は受け継ぐものであって、急にお子さんだけにポッと出る特性、特徴ではないと感じます。
ある程度、年齢が上がったお子さんや大人の場合は、ベースにあった未発達が環境と適応し続けた結果、一見すると自閉っぽい人もいますが。


ですから、ご両親、親戚、家族に自閉症の特性を持つ人がいなければ、未発達とヌケが根っこで、そこが育っていない姿が自閉症の診断基準にひっかかっただけだと考えます。
私の相談でも、8割以上の人が未発達のみ(+環境要因)です。
今は未発達と自閉症が区別できる診断キットがありませんので、どうしても治る子ども達まで「治らない障害」とされてしまいます。
未発達の子が、そこを育て直せば、治るのは当然のこと。
フィクションでも、超能力でもなく、発達のヌケが埋まれば、元の発達の流れに戻るのは当たり前の話です。
今の問題は、多くの治る子ども達が「治らない障害」と一体化して語られてしまうこと。
そして未発達と特性の区別ができない下手くそな支援者が増えてしまったことだといえます。


未発達のない自閉症の人は、普通の人です。
「ちょっと変わった人」などと言われることもありますが、私に言わせれば、世の中、変人ばかりです。
まったく変わったところのないすべて標準で普通の人なんて会ったことがありません。
つまり、どんな人でも完ぺきとは言わずとも自立できていれば良いわけで、それを妨げるような生きづらさが少なければ良いのです。
またあったとしても、折り合いがつけれるくらいに未発達とヌケが育っていれば良いのだと思います。
ですから私の仕事は、未発達とヌケを確認し、そこを育てるアイディアを親御さんと一緒に考えていくことです。


親御さんに自閉症の特性があるのなら、それは子どもさんにも受け継がれることがあるでしょう。
だからこそ、家族の子育てが大事なのです。
そうやって特性を持ちつつも、家族を持ち、自立した生活を営むことができている。
ということは、その親御さんの生きてきた歴史が、試行錯誤した日々が、子どもさんがよりよく生きるアイディアとなる。
発達相談中、親御さんが「私も小学校に上がるまで言葉が出なかった」「他人の気持ちがわからず、よく失敗したものです」などと話してくれることが少なくありません。
そのとき私は、「では、お父さんは、お母さんは、どのようにして工夫されてきたのですか?克服されてきたのですか?」と尋ねます。
それこそがお子さんの道標になるのです。


子育てとは、生活力、自立に必要なスキルを身に付けさせることだけを言うのではないと思います。
こういったお父さん、お母さんの生きてきた道、人生で感じたこと、考えたこと、試行錯誤したことを我が子に伝えていくことも言うのだと思います。
それは私のような他人ができることではなく、いくら自閉症の勉強をしたからといってできることではなく、まさに親御さんだからできる育て方です。


受け継いだ特性なら、親御さんの生き方そのものが教科書になります。
「もう少し、お子さんが大きくなったら、その話をしてあげてください」
そのようにお願いすることがあります。
また未発達とヌケは、どの子も育てた方が良いですし、未発達ゆえに発達障害と言われているのなら治さなければなりません。
自閉症だから生きづらいのではなく、未発達とヌケがあるから生きづらいのだと思います。
未発達のない自閉症者を目指すのです。