2020年2月29日土曜日

【No.1021】変化に混乱する子は作られる

花風社さんの講演会、集まりは、とても心地が良い風が流れています。
きっと、みんなで諦め合うのではなく、慰め合うのでもなく、より良い子育てを、今よりも良い未来を、という前向きな想いで全国から集まってこられるからだといえます。
私も、来週の「質問する会」を楽しみに、募集と同時に飛行機をとって、という具合にしていたのですが、昨日の北海道緊急事態宣言のため、参加を見合わせる結果となりました。


幼い我が子達を残しておくことも、不安な状況にしておくこともできませんでした。
ひと様の発達、生き方に関わらせてもらっている私ですから、何よりもまず我が子の、家族のことを大事にし、それを行動として現せないといけないと思います。
ご挨拶したい人や、お子さんの様子などをお聞きしたい人がいらっしゃいましたが、次の機会を楽しみにしております。
そして、ご依頼くださった関東での出張相談にお応えできず、申し訳ございませんでした。
必ず機会を作り、伺います。


今朝の新聞を読んでいて、「障害を持った子ども達は、日常の変化に混乱する」という専門家のコメントを目にしました。
3月2日から全国の学校が休みに入るということに対してです。
こういった不測の事態が起きると、必ずといっていいほど、専門家が出てきて、障害を持った子ども達への影響をコメントします。
2011年も、同じ文言を多く目にしました。


結論から言えば、「変化に混乱する」というのは、固定された障害特性ではありません。
ひと言で言えば、身体が育っていない、感覚系の未発達です。
未発達ゆえに、視覚的に処理できる部分に頼って生きているだけ。
だから、いつも目にしていたものが崩れると、たちまちわからなくなるのです。


また、変化への混乱は、後天的に作られた場合が多いと感じます。
みんなが背景にある未発達に気づかなかった時代は、スペクトラムという概念がなかった時代は、自閉症のこだわりがあたかも固定された障害特性のように捉えられていました。
今思えば、道順へのこだわり、車を並べるなどの固執は、未発達ゆえに限られた感覚を使い、なんとか対処していた行動であったのに。
パターンを崩されると混乱するのは、周囲の情報、環境からの刺激を得られる機能が制限されていたからでしょう。
私たちから見れば、「たったそれだけ?」と思われるような情報も、限られた機能で世の中を見ざるを得ない人にとっては、見失うと大変な苦痛と混乱になるのだと想像します。


こういった時代が長く続きましたので、いつしか、親御さん、支援者の中にも、「変化が苦手」が染みついてしまいました。
その結果として、不安定にさせたくない親御さん、支援者は、変化のない環境を用意することへと突き進んでしまった。
そうなると、ますます悪循環。
根っこは、身体、感覚の未発達だったのに、つまり、未発達ゆえの刺激の乏しさ、偏りだったのに、周囲の人間までもが「なるべく変化のない環境を」なんてしてしまうもんだから、ますます偏りは加速する。


そうなると、お決まりの支援や療育を受ければ受けるほど、グレーが黒くなる、障害者っぽく育っていくというやつです。
本人がコントロールしたいように、周囲が合わせていく。
こういったら、ああ答える、などのパターンの会話。
最初から混乱させないように、刺激を減らし、本人が望むような環境を先回りして準備しておく。
パターン学習と失敗させない環境づくり、育つよりも本人の安定。
未発達を育てる機会がどんどん減っていき、刺激はますます偏り、当然、脳も、発達全体も偏っていく。
はい、支援によって育てられた障害者のでき上がりです。


100歩譲って、3.11の頃は、まだ神経発達障害と言われていませんでしたので、古い概念で支援が展開されていても仕方がないかもしれません。
でも、そこから9年経ったのです。
その間、進歩はなかったのでしょうか。
ずっと、「変化に混乱する人達」で良いのでしょうか。
というか、そこに対するアイディアは、未だに周囲が理解しましょう、なのでしょうか。
民間企業で、結果を求められる仕事で、10年前と同じことを言っていては、同じサービスしかできなければ、一瞬で倒産です。
つまり、普通だったらあり得ない質のものに対して、税金を払い、そしてあたかも正しいことをしているかのように、専門家たちも、それを受け取る保護者達も、有難いように言い、有難がっていることは異常です。


10年前と同じことを言っている。
やっていることも、周囲への理解。
で、本人の苦しみは何一つ解決せず、親御さんの想いは、満たされないまま。
どうして、そういったものを利用し続けるのか、ちゃんと「NO!」と表明しないのか。
私は常々申していますが、一番悪いのは、向上心のない、古いコピーの使い回しで仕事をした気になっている支援者たちではありますが、利用者である親御さんも悪いと思います。
なぜ、意味がないと分かっているのに、療育に通い続けるのでしょう。
治す気がなく、我が子の将来なんて一ミリも考えていないし、責任を持つわけでもない専門家のところに行き、毎度、暗い気持ちになって帰ってくるのでしょう。


私も、こういった特別支援は潰れるべきだし、潰すべきだと思います。
何故なら、子どもの人生を大きく捻じ曲げることになるから。
ただの発達の遅れ、発達が遅れていますね、というお子さんが、療育に行き、発達の機会が奪われる。
年端もいかないうちから、将来、支援者が支援しやすい、いや、介護しやすいような訓練をさせられる。
未発達を育てる機会を取り上げられる。
同年齢の子ども達が体験するような遊びと学びの時間を取り上げられる。
それは子どもさんだけではなく、親御さんも。
きらめく、一番子供が可愛く、愛おしい時期なのに、そういった家族の時間、思い出まで奪われてしまうのです。


未発達は、障害でしょうか?
発達のヌケは、特性でしょうか?
発達が、同年齢と比べて、ゆっくりなのは異常なのでしょうか?
もう一度、神経発達障害の意味を各々がとらえ直す時期だと思います。


障害者は作られることもあります。
それは無知な支援者と、「NO!」と言えない親御さんによって。
直接喧嘩する必要はありませんが、ちゃんと拒否することが大事だと思います。
だって、大事な我が子だし、我が子の人生も一度きりだから。
10年前と同じことしか言えない人達に、大事な我が子の子ども時代の時間を手渡して良いのでしょうか。
もし、違う、それが嫌だというのなら、行動すること。
未発達、発達のヌケは、家庭で親御さんが育てていけます。
たとえ、そうやって育てられなくても、古い支援者たちのような「介護しやすい子に育てる」なんてことはないはずです。


緊急事態宣言から、私のような対面式で、実践的な発達相談は、しばらくお休みになるでしょう。
しかし、そんなことを嘆いていても、知事や首相をののしっても、何も始まりません。
せっかく、このような機会が得られたので、チャンスに変えなければなりません。
対面式ではないサービス、たとえば、今までの経験、実践をまとめたり、オンラインの相談を始めたり、ブログだけではなく、YouTubeによる情報発信なんていうのも良いかもしれません(笑)
まあ、読みたい本も、たくさんあるので、そちらで自分の腕や知識を磨き、またお仕事をいただけるようになったときに、バージョンアップしたものを提供できるようにしておくのも大事ですね。


この状況も、きっといつか、終わりがやってきます。
その終わりまでに、何をしておくかが、次のステップへつながると思います。
季節の変わり目でもありますので、皆さま、お体ご自愛下さいませ。
なんとかなるさ!ですね。

2020年2月28日金曜日

【No.1020】「正しく怖がる」までの発達過程

先日、飛行機に乗っていて、ふと思ったのですが、どうしてコロナ感染者の中にCAさんがいないのでしょうかね。
今日だって、中国に向けて飛行機は飛び立ち、中国からの飛行機が到着している。
クルーズ船の乗務員の人達に多く感染者がいたのにも関わらず、全国の空港職員に感染者が出ていない。
つまり、感染者がいないのではなく、検査を受けていない、または症状が重くない、軽症や無症状の人が多くいるのだと思います。


ヒトは、未知のものに対して、不安や恐怖を感じます。
これは知性が発達したヒトゆえの想像力がもたらすものです。
ですから、こういった実態の掴めないものを怖がるのは、ヒトとしての脳が育っている証拠です。
子どもがオバケを怖がるのは、ちゃんと脳が育っているからです。
赤ちゃんは、オバケを怖がりません。


しかし、これが極端に表れると、問題となります。
このたび、よく見聞きする「正しく怖がる」というのができない状態です。
何故、正しく怖がることができないか。
それは、脳と身体、脳と感覚のバランスが崩れているからです。


赤ちゃんは、身体が危険な状態にさらされると、激しく泣いて本能的に訴え、反射によって乗り切ろうとします。
その段階から、身体と脳が発達していき、少しずつ感覚的に危険かどうかがわかるようになります。
この「感覚的にわかる」というのは、身体を通して受け取った刺激に対し行動を起こし、さらにフィードバックを通してわかる(学習)ようになるのです。


乳幼児期の子どもさんは、なんでも口の中に入れますし、危ないと思われるような場所でも、どんどん進んでいきます。
上れるのなら、どんどん高いところまで上っていくのが、この時期のお子さんの特徴です。
まだ「感覚的にわかる」という段階を歩んでいる途中ですから。
そういったいろんな「危ない」を体験し、少しずつ感覚的に、「この辺でやめなきゃまずいな」「ここまではいけるな」という危険認知力を養っていきます。
これは、お母さんに「危ないから、やめなさい」と言葉で教わるのではなく、知識としてストックしていくのではなく、やはり自分の身体を通した体験から磨かれるものだといえます。


そういった意味でも、身体の発達、感覚系の発達は重要になります。
これらが未発達のままですと、身体を使った体験が乏しくなりますし、刺激と行動のフィードバックが限定されたものになってしまいます。
このような未発達が土台にある人達が、「正しく怖がる」ことができずに、頭でっかちで、限られた情報、狭い視野の中で妄想を膨らませ、脳内でどんどん恐怖に苛まれているのだといえます。


私の発達相談でも、幼いお子さんの場合は特に、この「危険の認知」は大事な確認ポイントになります。
だって、ここの育ちは、生命に直結しますし、大人になれば社会に背を向ける人になる可能性を高めますので。
「正しく怖がれない」人は、環境によって、自分が左右されます。
同時に、自分の脳内で膨れ上がった不安に耐えられなくなると、周囲の環境に向かって不安を吐き出し、安定を得ようとします。
自分の脳内で作り上げられた「不安」なのに、その妄想と整合性を取るために、「誰々が悪い」と何かのせいにしたり、周囲に対して同じように怖がることを強要するようになります。


乳幼児期で言えば、ちゃんと反射から体験の段階に進んでいるか、もう少し大きくなれば、体験から感覚を磨けているか、が重要になります。
よく見られるのが、反射を卒業し、体験の段階に進めているんだけれども、動きや感覚に発達の遅れがあり、十分なフィードバックが得られていないお子さんです。
そういったお子さんは、4歳、5歳になっても、危険を感じず、危ないことも平気で行っています。
ある程度、無鉄砲なのは、子どもさんの特徴で自然な姿なのですが、危険を察する場面が“増えていかない”というのは問題になります。


身体や感覚が育つと、急に「怖がるようになった」というお話を親御さんから良く聞きます。
「怖がらない」というのは、これも一つの未発達であり、ヒトは「怖さがわからない(反射)」→「怖さがわかるようになる(感覚)」→「怖いものとそうではないものが区別できるようになる(認知)」→「この程度なら大丈夫。ここからはマズイ(知恵)」という具合に、最終的に正しく怖がるまで発達していきます。
ですから、お子さんが、どういったものに、どれほど怖がるか、または怖がらないか、を確認することも大事な子育てのヒントになります。


私は出張相談を行っていますので、日頃からマスクや風邪薬、除菌セット等の準備は行っています。
ですから、あと数週間分の出張は大丈夫なようになっています。
ビタミンもストックOKですし、出張前後はビタミンCとDを盛ります。
コロナもウィルスの一種ですし、そのウィルスをゼロにすることも、リスクをゼロにすることもできないでしょう。
風邪に治療薬がないのと同じで、全くかからないようにするというよりも、かかっても重症にならないような準備が現実的な手段ではないでしょうか。
ウィルスと共存している我々人類ですので、今回のウィルスとも共存の道しかないのだと思います。


自分の身体を基準にしたリスクを想像し、それに見合った対策を取る。
それが人類の知恵ですし、人類の生存戦略です。
一定数リスクにさらされ、命を落とすことを前提とした他の生物とは選択が異なるのですから。
そのための余白を持って生まれた脳ですし、ヒトがヒトを長期間にわたって育てていく意味だといえます。


人生100年時代を生きる子ども達なので、今後も同じようなことがあるでしょう。
そのときの備え、親としてできることが、「正しく怖がる」段階まで発達を後押ししていくことだといえます。
危険を危険と感じるところから。
それには、危険を体験する身体と感覚の育ちが必要です。


発達障害を治している人達、子ども達は、こういったときに真価を発揮します。
将来、自立して生きていく姿の中には、このような危険の認知、発達も含まれるのです。
不測の事態だからこそ、見えてくる我が子の課題もあるはずですので、この機会を活かすくらいの気持ちでお子さんと関わってもらえれば、と思います。

2020年2月26日水曜日

【No.1019】発達が遅れているよりも、早いほうが問題

昨日も、親御さんからのお話を聞いていて思ったのですが、「この子、本人にニーズはあるのだろうか?」と疑問が浮かんできます。
幼児さんからの相談が多くなればなるほど、「どこのニーズ?」「誰のニーズ?」と思ってしまいます。


私のところに相談にいらっしゃる幼い子を持つ親御さんの多くは、「他の子よりも発達が遅れているな~」という感じだったり、そもそも健診で指摘されるまで問題だと捉えていなかったりします。
しかし、ふとネットで検索してみると、「発達障害の子に見られる行動」などの記述があり、不安に思い、公的な機関へ相談に行く。
そうすると、専門家は待っていましたと言わんばかりに、その不安を助長せるようなことを言ってくる。
中には、その場で障害名を告げるような医師や専門家、支援者もいるくらいです。


そうなると、最初は「遅れているな~」くらいな心持ちだったのに、いつの間にかただの不安が確証へと変わっていく。
それも、周囲からの言動、圧によって。
発達の遅れが障害となり、障害が支援を要する子どもとなる。
で、気が付けば、「支援を受ける」ニーズが作られている。
でも、この「支援を受ける」ニーズって、その子自身のニーズなんだろうかと思うのです。
これって、専門家が人為的に作ったものじゃないですかね。


私が親御さんによく言うのは、「発達が遅れているよりも、早いほうが問題です」ということです。
このご時世、少しでも発達に遅れがあると、すぐに「発達障害だ」「支援が必要だ」などという専門家気取りの輩が多すぎ。
私のところに来る相談の中に、その地域の権威や有名な専門家、公的な機関において、「発達の遅れを指摘された」と言われる方達がいらっしゃいます。
でも、その遅れとやらを確認しますと、ただ単に“今は”遅れているだけで、発達の流れ、成育歴を尋ねれば、少しずつ成長していることがわかったりします。


本当に問題なのは、その点において、まったく発達、成長が見られないことでしょ。
ゆっくり伸びているのなら、それのどこに問題があるのでしょうか。
子ども達は、どれだけ早く発達できるか、をみんなで競っているんですかね。
他にも、産婦人科医や小児科医の書いた専門書を見れば、「異常ではない定型の範囲」「発達の個性の範囲」と記されているのを、「発達の遅れ」とあたかも、それが異常のごとく、問題のごとく、告げられた、なんていうのも少なくありません。
産科医、小児科医と、発達障害専門の医師は仲が悪いのでしょうか。
教わる教科書が違うのでしょうか。
発達障害の子ども達は、定型発達の子ども達とはまったく異なる種の人間、という捉えなのでしょうかね。


「這えば立て立てば歩めの親心」はわかります。
でも、発達が早いということは、発達課題、プロセスの中に、短い部分、飛ばした部分があるということだといえます。
多くの方が勘違いしているかもしれませんが、この「十分にやり切らず」という方が問題ですし、実際、私が発達相談、援助を行っていく中で、飛ばしている子たちの方が、課題が複雑になっていて、治るまで時間がかかるのです。
単に遅れているだけの子は、その遅れになっている原因、ストッパーを外すと、すぐに本来の発達の流れに戻り、治っていきます。


「発達が止まっている」は問題だといえますが、「発達が遅れている」はどこが問題なのでしょうか。
発達が遅れている子、本人のニーズはどこにあるのでしょうか。
発達が遅れている、ゆっくりな子どもさんを見れば、この子たちからニーズの声が聞こえてはきません。
発達はゆっくりという面はあるかもしれませんが、家族の元で幸せに毎日を過ごしている姿があります。
そうやって子ども時代の心地良い時間を過ごしている子を捕まえて、「ほれ、発達が遅れている」「このままだと、問題が大きくなる」「将来、支援を受け続ける子だ」なんて、悪徳商法の一種ですか、「あなたあなた詐欺」ですか、なんて思ってしまいます。
「あなた、発達障害ですよ!支援の手続きしてください」
「わかりました。すぐに申請するね」
こうやって税金からなる支援が雪だるま式に大きくなり、続いていく。
障害という診断がついて、誰が一番喜んでいるのだろう。


1歳、2歳、3歳の子ども達に、「発達の遅れがある」。
「じゃあ、療育、支援」じゃなくて、どうして遅れているのかな、それは正常の範囲かな、と確認することが先でしょ。
チェックシートを持ってきて、当てはまるかどうかじゃなくて。
発達の遅れが、正常の範囲に入るのなら、「子育ての中で大丈夫。ちゃんと育っていくから」が、専門家として伝えるべき言葉。
原因があって、発達が遅れているのなら、その原因を指摘し、改善案を提示するのが、専門家としての役割。
同じように、発達のヌケ、未発達が今の課題となって表れているのなら、そこを伝え、育て直し方を教えるのが専門家としての仕事。
それをやらずして、単に遅れを指摘するだけ、チェックシートに丸つけるだけなら、専門家じゃなくていい。
それこそ、AIか、アプリか、でいい。
人が人の発達と向き合う意義を考えた方がよいのです、無条件に有難がるのではなく。


専門家に指摘され、不安が増し、ニーズが作られる。
これは、その子、本人の内側から発せられたニーズではないはずです。
我が子をそばで見ていて、内側から発せられたニーズを感じたとき、初めて専門家を頼るのが自然な流れだと私は思います。
専門家よりも、日々、それこそ、この世に生を受けた瞬間から共に歩んでいる家族に勝る存在はありません。
その家族が感じていないニーズは、本当のニーズではないのです。


親御さんの中には、「今は遅れているけれども、この子はちゃんと理解しているし、成長していく」とわかっている方達がいます。
そういった親の直感、感覚を大事にしてください。
その直感の多くは、正しいです。
だって、発達が遅れているのは、ゆっくりなのは障害ではないから。
子育ての中で、発達、成長し、治っていくお子さん達です。


発達のヌケや未発達を育て切っても残る課題が、障害。
でも、残った障害だって、本人が成長の中で折り合いを付け、工夫し、乗り越えていくことだってできるのです。
子ども達の持つ発達する力を見くびるんじゃない、専門家!
親の直感、育てる力を見くびるんじゃない、専門家!

2020年2月25日火曜日

【No.1018】関西出張(+広島)を終えて

昨日、3泊4日の関西出張を終え、函館に戻ってきました。
新型コロナが騒がれていますので、お断りされるご家族もいらっしゃるかな、とも思っていましたが、予定していた4家族の皆さんは大変温かく、反対に私の方を気遣ってくださいました。
本当にありがとうございました。


今回の出張を終え、一番に思ったのは、私の妻への感謝でした。
金曜日から移動しましたので、3連休をまるまる息子たちと過ごしてもらいました。
全国あちこち出張して一発勝負で発達相談をしている仕事に対して、いろんな方からお褒めの言葉を掛けてもらいますが、本当にすごいのは私ではなく、妻だと思っています。
家族の理解と協力がなければ、いくら治すアイディアを持っていたとしても、届けることはできません。


真っ先に家族のことを思ったのは、今回、お会いしたご家族の皆さまの影響だと考えています。
当然、訪問するご家族はお互いについて知りません。
ですが、今回はお子さん達の年齢が皆さん近く、そして何よりも、身体全身を使って我が子を思いっきり愛しているご家族でした。
どのご家庭に訪問しても、とても雰囲気が良いのです。
お子さんが、ご両親の愛情をたっぷり受け取っているのが、本当に良く分かりました。
そんな愛情たっぷりのご家族と関われたからこそ、自分の家族を一番に思い浮かべたのだと思います。


我が子を心から愛し、全身で表現しているご両親。
しかし、その家族のエネルギーを奪おうとする存在がいます。
幼い子を前にして、この子の将来がすでに決まっているかのように告げる専門家。
乳幼児期の中心は家庭であるのにも関わらず、そこでの様子、成長に耳を傾けることなく、チェックシートとにらめっこして、診断名をつける医師。


大事なのは、親御さんが知りたいのは、チェックシートに当てはまるかどうかではありません。
100歩譲って当てはまってもいいし、診断名がついてもいい。
でも、それ以上に、どうすれば、この子がより良く育っていくか、そこが知りたいのです。
そんなにチェックシートが大事なら、各家庭に配って、親御さんにつけてもらえば良い。
お金を貰って仕事している身なら、腐っても「専門家」と名乗っているのなら、より良い未来について具体的な助言ができなければなりません。


往復の飛行機で、ちょうど読めるくらいなのが新書なので、いつも1冊持って移動します。
今回、読んだのは『子どもの発達障害 誤診の危機』(ポプラ新書)です。
Eテレの『すくすく子育て』など、よくテレビにも出ている榊原洋一医師が著者です。
タイトルのように誤診や過剰診断についてが中心に書かれていましたが、私が読んで良かったと思ったのは、第6章の『発達障害は治る』という部分です。


発達障害を治すのは、子ども自身です。
どうして、子ども自身かというと、発達する力は、その子の内側に存在しているからです。
著者の榊原医師は、「outgrow」という言葉を使い、その様子を表現されています。
まさに、私達が行いたいのは、子ども達の内側にある発達する力を後押しすること。
そういった後押しを受けて、子ども自身で、障害を乗り越えていってほしい、というのが願いです。
障害が固定化されたものなんていうのは、ひと昔も、ふた昔も、前の認識です。
便宜上、引いた障害と定型の間の線。
そんなもの、子どもが自らの発達する力で飛び越えてしまうのです。
それこそ、「発達障害は治る」です。


今回、訪問させてもらったご家族は皆さん、しっかり我が子との愛着関係が築けていました。
子どもさんの表情、雰囲気からも、子どもさん自身が、親御さんからの愛情に気づいている様子が何度もみられました。
ですから、子どもさんが、今ある障害を飛び越えていく、発達の遅れを取り戻していくことが十分に可能と言いますか、あるのは「いつ飛び越えるか」という時間の問題だけだと思います。
何が発達のストッパーになっているか、今の遅れは何と繋がっているのか、についてお伝えしましたので、その点を今までの子育てにプラスして育んでいかれると、本来の発達の流れに戻っていくはずです。


せっかく我が子を愛し、家族の生活を楽しんでいる人達に対して、「今、発達が遅れている」「チェックシートに当てはまる」なんてことだけで、水を差す専門家は百害あって一利なしです。
家族の喜び、育む力を奪おうとする専門家なんていらないのです。
必要なのは、発達の遅れがあり、気持ちが揺らぐ、または後ろ向きになりそうな家族に対し、専門的な視点から具体的な助言と、それに伴うポジティブな未来、将来の可能性を伝えること。
家族、子育てと関わる専門家なら、その家族が、子育てがポジティブな方向へと進むための仕事ができなきゃいけません。


もちろん、単なる慰めや接待ではなく、核心をつく具体的な助言です。
ただ「遅れている」ではなくて、なぜ、今、遅れが見られているのか。
その遅れは、どういったことで育っていくのか、どのくらいで育ちきるのか。
「診断基準に当てはまる」ではなく、当てはまるのは、脳の特性からなのか、発達の遅れの積み重なりか、発達のヌケの影響か。
定型の子ども達でも行う動作も、通る発達過程も、すべて「自閉だから」「発達障害だから」というのは、自分自身で「私は勉強不足です」「定型発達を知らずに、ただの専門として発達障害をやっています」と言っているようなもの。


どう頑張っても、診断のチェックシートがつけれても、その人に発達障害を治す力も、知見もありません。
今の時代、診断に当てはまるかどうか、なんて大したことではありません。
たとえ、今、障害があろうとも、発達の遅れがあろうとも、その子の発達する力を信じ、自らの足で飛びこえていくことを後押しするのが、真の発達援助であり、自然な子育ての姿です。
診断とは、支援を受けるための手続きであり、支援を受けることは、支援を受けながら生きるという子の将来を他人が決めてしまう行為なのです。


支援を受けても、発達はしない。
発達したのは、その子の内側にある発達する力が発動しただけ。
支援を受けて発達するのなら、早期療育の子ども達は、大人になるまでにどれほど発達するのか、どれほど多くの人達が自立して生きていくのだろうか。


親がすることは、子の可能性を最大限に広げてあげること。
そのための1つが、発達障害を治すことであり、そのための後押しをすること。
発達障害を治すのは、子の将来の可能性、選択肢を広げるための子育ての一つです。


子どもの成長はあっという間です。
幼いお子さんのご家族からの相談では、「今しかない、この“とき”を大切にしてください」とお伝えしています。
特に就学前は、我が子が一番かわいいときであり、家族としても一番幸せを感じられる時間だと思います。
でも、その時間も、少しずつ短くなっているのです。
ですから、発達障害を治すのは大事だけれども、それが家族の時間のすべてにはなってもらいたくありません。
特別なことをしなくても、一緒にご飯を食べ、一緒に公園に出かけ、一緒に笑うだけでいい。
そういった今しかない家族の時間を積み重ねていくことも、子どもの発達には大事なことです。
主体的に、自らの意思と選択によって生きていける人は、子ども時代が家族でのきらめく時間で埋まっている人。


是非、今までの子育て、家族での生活をベースに、ちょっと今回お伝えした視点、方法、アイディアを加えていただければ、と思います。
どの親御さんも、我が子の発達する力を信じているのが、とてもよく伝わってきました。
きっと、子どもさん自身で「outgrow」、課題を乗り越えていかれると思いますし、私も信じています。
今回お会いしたご家族の皆様、誠にありがとうございました。



2020年2月20日木曜日

【No.1017】「障害がある子に見えない」という言葉の意味の変化

一昔前は、「障害がある子に見えない」「本当に、自閉症なの?昔は、こういう子、普通にいたよ」なんて口にすると、「そういうのが一番傷つくんです!」「そうやって、本人の自己肯定感が失われてくんです!」なんてことを言う人が大勢いました。
ですから、一般の人も含め、一度、診断を受けた子に対しては、ちゃんと障害者っぽく、障害者として接することが求められました。
これは、本人に対しての配慮というよりも、親御さんに対する配慮だったように感じます。
「見えない障害なんだから、周囲が理解して」というのは、未だに言う人がいるのかもしれませんが。


独立、起業してからは、誰に忖度する必要もありませんし、そもそも思ったことをストレートに表現する私ですので、「本当に、障害があるんですかね」「診断基準、満たしていますか?」なんてことを言います。
ここ最近は、どう考えても、本人の特性ではなく、単なる発達の遅れ、未発達だと感じるケースが多くなっています。
自閉症の中核的な特性は、社会性の部分です。
それなのに、1歳、2歳、3歳の子が、「自閉症」という診断名を受けています。
こういった幼い子ども達の社会性って…。
私が思うに、社会性の障害の部分が出てくるのは、もっと年齢が高くなってから生じるでしょうし、そもそも同年齢の子ども達の発達を見ても、みんな、まだ社会性が芽生え始めたばかりですね。


過剰診断やその原因まで問わない診断形式ですので、「本当に、障害なの?」と思うようなケースが増えていく一方だと思います。
しかし、最近、私が思うのは、治っていくアプローチを教わり、実際に治っていく人達が多くいるからこそ、その障害を疑う場面が増えたということです。
つまり、以前は、私の無知により「障害」と見えていた人、部分が、今は育み方が見えるし、治る可能性が高いと感じられるようになったのです。


私が施設で働いていた頃、いや、この事業を始めた当初は、「治る」が見えていなかった。
だからこそ、対処療法を学んだし、実践もしてきた。
「治らないんだから、少しでもラクに」という具合に。
当時、私が治す方向へ支援できていなかったのは、今のような過剰診断が多くなかったからでも、超早期診断が行われていなかったからでもありません。
単に、私が知らなかったから。
今振り返れば、治る可能性があった子ども達も多くいたと思います。
ですから、子ども達の“障害”のせいではなく、彼らの育みにかかわる者の問題だったのです。


発達のヌケや未発達の部分を育む方法を知っているか、知っていないか。
実際に治った人を知っているか、知らないか。
「知る」ということは、本当に大事なことだと思いますし、親御さんや先生なら、子の将来を左右しかねないとすら感じます。
何故なら、固定された障害と見ている限り、治そうなどとは思いもしないから。
そして何よりも、「障害児」「障害者」として見て、接することは、その子に「障害者として生きなさい」というメッセージを常に与え続けることになってしまうから。
メッセージとは、言葉だけではなく、その接し方、態度、生活全般を通して伝えられ、影響を及ぼします。


言葉を発しない子が、周囲から「想いも、考えもない子」と見られ、ずっと分からない子として育てられてきた。
その子が大人になり、ようやく自分の想いに気づいてくれる人と出会った。
伝える手段がなかっただけで、しっかりとした想いと考えを持った子。
子ども時代から、そこに気づいていれば、彼の人生、学ぶ機会はまったく違ったものになったのに。
失われた時間は、どう頑張っても戻ってはこない。
こんな話、幾度となく耳にしました。
これもまた本人ではなく、周囲の人間の「知らない」が及ぼした悲しい結果だといえます。


せっかくネットがあり、行こうと思えば、全国どこでもすぐに行ける時代を生きているのですから、その恩恵は十分に味わったらよいと、私は思います。
令和の時代、住んでいる地域に治った人がいない、治そうなんて言う専門家がいない。
そんなの理由にはなりません。
野村克也監督がよく言っていた言葉の中に、「先入観は罪、固定観念は悪」というものがあります。
もしかしたら、子が治らないのは、その地域の問題ではなく、治らないという先入観を持ち、「障害者は、周囲が支援し、理解してあげる存在だ」という固定観念を持っている、周囲の大人が原因なのかもしれません。


どの道もそうですが、自信のない人間ほど、専門書を買いあさり、新書をバカにし、権威に惹かれ、名も無い実践家をバカにする者です。
しかし、実力がない者は、専門書を読んでも、理解できない。
別の言い方をすれば、本質を見抜く目があれば、専門書も、新書も、ブログも、権威も、実践家も、
親御さんも、みんな同じに見える。
本にせよ、人の発信にせよ、その価値を決めるのは、受け取った人間の“目”なのかもしれません。


私には、何よりも質の高い、貴重な情報が溢れている空間だと感じます。
特に、ライブ感のある生きたやりとりが展開されているところが素晴らしいといえます。
実際に治った人、その人が治った道筋を知ることは、目の前にいる子の未来を変えていくと思います。
まず知ること。
そして、自分の内側にある先入観と固定観念を壊すきっかけを与えてくれる。
是非、『治そう!発達障害どっとこむ』  https://naosouhattatushogai.com/  を覗いてみてください。
私は自信を持ってお勧めいたします!

2020年2月17日月曜日

【No.1016】『知的障害は治りますか?』(花風社)を読んで

著者の愛甲さんの文章、言葉を目にすると、いつも目の奥に人の姿が現れてきます。
人を大切に、人との関わり合いを中心に、臨床をされている方なんだと想像します。
ですから、その語られている言葉には、必ず繋がっている人物の存在があるのでしょう。
臨床、現場を大切にされている方の言葉は、一緒に雰囲気まで運んでくれる。
それは、言葉以前の段階まで含めたアプローチをされている何よりの証拠だと、私は思います。


今回は、花風社さんから出版された新刊のご紹介です。
冒頭でもお名前を記させていただいた心理士の愛甲修子さんの著書になります。


「治りますか?」という題名の著書は、今までにも花風社さんから出版されてきました。
最初に、その「治りますか?」という言葉が入った書籍は、2010年に出版された『発達障害は治りますか?』です。
このときの著者の中に、愛甲さんのお名前もあります。


この『発達障害は治りますか?』は、時々、読み返す本の一つでもありますが、今感じるのは、「?」に疑問の雰囲気が強かったこと。
でも、それから10年経った現在、出版された『知的障害は治りますか?』の「?」には、ほとんど疑問の雰囲気を感じません。
つまり、10年前、「本当に治るの?」という想いを持っていた段階から、私達は「治るよね」という自信、確信を持つことができた、ということ。
それは、この10年の間で、実際に治る人が一人、二人の話ではなく、あっちもこっちも、という状態に変化したということなんだと思います。
発達障害はもちろんのこと、知的障害を持った人の中にも、IQが伸び、手帳返納する人が珍しくない時代となりました。


読者の一人として、このような印象をもつ一方で、「治りますか?」とタイトルにあったのには、そのこと自体に意味があるような気がします。
著書を読めばわかるのですが、やっぱり全国には、まだ「治りますか?」と疑問を持っている人がいて、さらにいえば、疑問すら持てずに過ごしてしまっている人がいる、ということなんだと思います。
ですから、そういった方達に向けた花風社さんのメッセージであり、応援の意味がこもっている「治りますか?」という問いかけのような感じがします。


著書の中で、愛甲さんは「目詰まり」という言葉を使って、神経発達を滞らせる要因、状態について説明されています。
私も常々、発達障害とは1つの個体という意味でなく、その人の発達の流れの中に生じた目詰まりから形作られた今という捉えですので、とても共感しました。
生来的に、発達障害になるということが決まっているのではなく、目詰まりを起こした結果である。
そのように本質を理解すると、「治りません」と諦める必要はありませんし、「目詰まりを起こしているのなら、そこを取ってあげれば良い」という具合に、前向きな行動へと進むことができます。


個人的には一読して、やっぱり治っていく家庭には共通点があるな、と改めて感じることができました。
そして、まだまだ臨床の力はあまちゃんではありますが、家庭支援という仕事をしている中で、伝えてきたこと、強調してきたことの方向性は間違っていなかった、と愛甲さんの言葉から読みとることができました。
同じように、「子育てを通して、我が子をより良く育てていきたい!」と思われている親御さんに対しても、「その方向性は間違っていませんよ」と背中を押してくれる言葉が、本の中にちりばめられているように感じます。


知的障害に限らず、発達障害も「治ってきたな」「一つひとつ課題がクリアされてきたな」と感じられている親御さんにとっては、「そうか、今までのこの子の歩み、私の子育てで、これが治ることに繋がったんだ」と確認できる本になると思います。
また、今まさに揺れ動く感情の中で子育てをされている親御さんにとっては、これからの子育ての軸を教えてくれる本になると思います。


子どもの発達は一直線ではなく、停滞したり、急に伸びたり、戻ったりを繰り返しながら進んでいきます。
ですから、その時々で、「私の子育ては、この道で合っているのだろうか?方向性は良いのだろうか?」と悩まれることが度々あると思います。
そんなときに、今回の著書『知的障害は治りますか?』を読み返すと、そっと愛甲さんが背中を押してくれるような気がします。
子育てで悩むのは当たり前、一喜一憂するのも当たり前。
だからこそ、子ども自身の発達する力を信じ、また親御さんの子育てを応援する愛甲さんのメッセージがそばにあると、心強いのだと思います。


なぜ、特別な療育、支援を受けずに、家庭で治っていったのか?
これから、どういった方向で、子育てしていけば良いのか?
そのような問いを持たれている親御さんに、特にお勧めいたします。
より良い子育てを考える上で、とても良いメッセージ、ヒントに溢れた新刊だと感じました。


 
 

2020年2月14日金曜日

【No.1015】原始反射がなかなか卒業できない子は、触覚と固有覚を確認しましょう

数年前までは、発達相談でも原始反射の説明から始めていました。
しかし、近頃は、そんな説明をする必要はなく、多くの親御さんが「原始反射ですね。うちの子の場合は…」という具合に話がポンポンと進んでいきます。
ですから、以前は半日から1日くらいかけて行っていた発達相談も、今では半分くらいの時間で完了できるようになりました。


そもそも原始反射は、私のような教育系の大学や医療系の大学で学ぶものです。
なので、あまり一般的な知識、情報ではなかったのですが、多くの親御さんが知ることとなりました。
これは、花風社さんのお蔭だといえます。
2016年に出版された『人間脳を育てる』という書籍の中で、とてもわかりやすく、またポイントが押さえられて説明されています。
いろんなご家庭に訪問しますが、みなさん、本棚にこの本があるのを拝見します。
親御さんが、我が子の原始反射の統合を目指されるのなら、この1冊が手元にあれば、十分だといえます。


原始反射が普通に使われる言葉になり、各ご家庭で原始反射統合に向けた試みが行われています。
そうやって、家庭で原始反射を統合させていく方達がいる一方で、どうも、うまく育っていかない、卒業していかない、という方も中にはいらっしゃいます。
そんなご家庭に訪問し、エクササイズの方法を拝見しますと、「やりかた自体に問題があるわけではない。でも、なかなか統合しない」という場合があります。


その原因を突き止めるには、原始反射について、もう少し深く見ていく必要があります。
そもそも原始反射とは、いつから芽生えるものでしょうか、始まるものでしょうか?
それは、もちろん、胎児期であって、もう少し具体的に言えば、在胎10週頃と言われています。


「在胎10週」と聞いて、「だから、なんだ」となりそうですが、この在胎10週頃というのは、とても重要な意味が含まれています。
この時期に、触覚が出現するのです。
触覚が出現するから、原始反射が始まるのか、原始反射が出現するから、触覚が機能し始めるのかはわかりませんが、とにかく原始反射と触覚は相互作用にある、ということがわかります。


さらに私のウンチクが続いて申し訳ないのですが、出生後の原始反射の誘発には、触覚だけではなく、固有受容覚がちゃんと機能していることが必要となります。
たとえば、まだ歩けない赤ちゃんを縦にして立たせるような格好をさせると、まるで歩くように足を動かします。
これは、足の裏が床につくことがきっかけになりますが、足の裏に伝わってきた触覚刺激と筋肉から伝わってくる位置情報があってからこそ、誘発されるものです。
同じように足の裏を刺激すると出現するバビンスキー反射(足の指が開く)がありますが、違いは触覚刺激の場所と位置情報によるものです。


簡単に言えば、原始反射の統合には、それを誘発するために必要な触覚と固有覚の機能、発達が重要だということです。
どうしても、触覚に発達の遅れがあったり、重力との付き合い方がうまく育っていなかったりすると、原始反射を統合させる動きをしても、なかなか育っていきません。
「原始反射がなかなか統合されなくて…」と相談されるお子さんの多くは、触覚か、固有覚、もちろん、二つともの場合もありますが、こういった部分も確認する必要があると感じます。


原始反射を統合するエクササイズは、『人間脳を育てる』の中でも紹介されていますし、YouTubeなどでも検索すれば観ることができます。
エクササイズ自体は、そこまで難しいものはなく、親御さんが刺激することで統合されていくものもあります。
だからこそ、「なんで??」と悩まれる親御さんも少なからず出てくるのだと思います。


発達とは、誕生後のみを指すわけでも、そこから始まるわけでもありません。
発達とは、受精後、胎動を始める頃より、ずっと続いているのです。
私達が「発達」を捉えるときには、必ず胎児期からの連続として見る必要があるのです。
その一つが、原始反射であり、統合についてになります。


原始反射が残っていれば、統合するのは、大事な子育ての一つ。
でも、その前に、「触覚はちゃんと育っているかな」「重力との付き合い方は、ちゃんとできているかな」という視点をもって、胎児期からの流れで発達を捉えられると良いかと思います。


こうして考えると、原始反射が統合されていない状態のお子さんというのは、"触覚の未発達"、"固有覚の発達の遅れ"があるから「残っているんだ」「今も、生後一年以上たっても原始反射が残っているんだ」といえるかもしれません。
原始反射の統合を目指されているご家族のヒントになれば、幸いです。

2020年2月13日木曜日

【No.1014】「Special Needs」を持った子ども達

現在の特別支援の混迷は、「Special」を「特別」と訳したことに始まると思っています。
日本で「特別」という言葉は、区別や例外、通常とは異なる状態という意味と雰囲気をまとっています。
本来、Specialという言葉は、Needsにかかる言葉です。
「特別なニーズ」をもった子ども達へのサポート、教育であって、「特別な子ども達」のニーズではないのです。


特別支援は、まさに特別な子ども達を造ってきました。
その最たるものが、「頑張らなくて良い」というものでしょう。
「あなた達は、特別な人、つまり、区別される、例外的な人なのですから、他の人たちのように頑張る必要はない」
生きとし生けるものはすべて、植物でも、動物でも、光の方へ状態を変え、餌のある方へ身体を向ける。
動物は特に、生き抜くには、自立して生きていくには、頑張るしかない。
頑張ることをやめた瞬間、誰かの体内の一部になるから。


野生の動物のように、ヒトは頑張ることを止めても、生きていくことはできます。
でも、それは肉体的に、という意味。
心は、野生動物のように、誰かの体内の一部になってしまうのです。
どれだけの子ども達が、特別支援によって、支援者の食い扶持の一部になったことか。
子ども時代に、頑張る機会を与えられなかった人は、自分の足で立つという実感を持たないまま、大人になる。
それが支援者がいないと生きられない人につながっていく。


年少の子どもが、同年齢の子ども達と関わることなく、衝立の中で黙々と課題をさせられたら、どうだろうか。
学校に行っているのに、教科学習はプリント1枚、あとは余暇エリアで過ごす、っていうのは、どうだろうか。
放課後、同級生は友達と遊び、習い事に通い、各々の時間を楽しんでいるのに、校門から乗用車に乗せられ、古い一軒家の中の片隅で、何時間もDVDを観て過ごすのは、どうだろうか。
年端もいかない子どもが、本人が何を飲まされているかも理解できないうちから、精神科薬を飲み始めるのは、どうだろうか。
一般の子ども達には憚れることが、特別な子ども達には許容されている現実。
彼らは特別な子どもだからと言って、一般の子ども達なら絶対にやらないこと、望まないことをやってもよいといえるのでしょうか。


特別なニーズの“ニーズ”とは、どういったことを指すのでしょうか。
子ども達のニーズで言えば、より良く発達すること、成長すること、学ぶこと。
通常の道筋では満たされない、それらのニーズに対して、環境を整え、機会を提供するのが大人の役割です。
ですから、「頑張らなくて良い」というのは、子ども達のニーズを満たすのと、真逆の行為だといえるのです。


特別な子ども達に、言葉ではなく絵カードのみでやり取りさせたり、賞罰で行動を身に付けさせたり、対人関係のマニュアルを必死に覚えさせたりするのは、間違っていないことのかもしれません。
でも、子ども達に必要なのは、彼らを特別扱いすることでも、同年代の子ども達と分離することでもありません。
必要なのは、その子その子に合った特別なニーズを満たしていくことです。
つまり、より良く発達し、成長できる機会を設けること。
より良く発達していけるのなら、成長していけるのなら、どんなアプローチでも構わないのです。
いわゆるナントカ療法以外でも、より良く発達してけるのなら、それで良い。


特別支援は、家庭の中にも入り込んでいきました。
我が子なのに、特別扱いをする親御さん、特別扱いを要求する親御さん、それが権利だと勘違いする親御さん。
あなたの目の前にいる子は、特別な子ではなく、あなたの大事な我が子なのに。
違いがあるとすれば、発達を後押しするアプローチの違いだけ。
それは、子どものニーズの違い。
ですから、子育てのベースの上に、ちょっと個別のアプローチが必要なだけであって、発達の機会、同年齢と交流の機会、同じような体験、学びの機会が必要ない、ということではないのです。


発達相談で、ぼろぼろと涙を流す親御さんの中には、「普通の子育てをしていいって初めて言われました」と言われる方が少なくありません。
まだこの世に生まれて1年、2年、3年とかしか経っていないのに、こんなにも「普通の子育て」が否定されてきたのか、それがダメだというメッセージを受け取ってきたのか、と思うことがあります。
「あなたの子は、特別な子なんだ」という言動、視線に、嫌というほど、触れてきたのだと思います。


はっきり言って、支援するための支援者、専門性を示すことで専門家として存在していける専門家が、増えすぎたのです。
それこそ、支援者、専門家が食いつなぐために、障害児者という存在が必要となっている。
だから、特別な子ども達を造り出そうと、せっせと診断を付け、療育や支援に送り込む。


特別が、『子ども』とくっつくか、『ニーズ』とくっつくか、では大違い。
支援者は、子どもにくっつけたい。
何故なら、特別な子と関わっていること自体が仕事になるから。
でも、それは本来の意味とは異なります。
その子のスペシャルなニーズを満たすということが、唯一の評価ポイントです。


その子の「より良く発達、成長、学習」というニーズが満たされれば、それがどこでも、誰とでも、どんなアプローチでも、構わないのです。
特別な子用に作られた特別な支援、療育なんかにこだわる必要は微塵もなし。
必要なのは、結果です。
我が子の「より良い発達」というニーズが満たされれば、すべてOK。


そろそろ、「特別」を子どもにくっつけて、サボっている支援者達を一掃しなければなりません。
そのためには、まず親御さんが、正しい知識をつけること。
「Special」は、子どもに付く言葉ではなく、子どもの「Needs」に繋がる言葉。
これがわかれば、専門家、支援者に対抗することができます。
「どうして、普通の子育てではダメなんですか?」
「どうして、幼稚園、保育園よりも、療育が良いと言い切れるんですか?」
「どうして、家庭の仲間で、親子の仲間で、特別なことをさせようとするのですか?」
「特別な支援を受けて、同年代と同じように社会の中で自立していった人はいるのですか?」


私達は、特別な子ども達を育てているのではありませんね。
子ども達を特別な人間に育てようとしているのでもありません。
ただ、その子の持った資質を活かして生きていってほしい、同年齢の子ども達と同じように、よく育ち、よく学んでいってほしい、というだけ。


確かに、発達障害を持つ子ども達は、同年齢の子ども達とは違った発達の仕方、成長の仕方を見せるかもしれません。
でも、必要なものは、どの子も同じ。
普通の子育て、同年代の家庭と同じような体験に、ちょっとひと手間を加ええるだけ。
それが特別なニーズを満たすということ。
親が子を育てる、家庭でより良く育てるという根本までひっくり返して、特別なことをする必要はないのですから。

2020年2月12日水曜日

【No.1013】「子どもとどうやって遊んだら?」という戸惑い

まだ子どもが小さいので、家族で動物園に行くことがあります。
子ども達は、日頃、見ることのないその動物の姿、形、色や動きに心を奪われます。
そして、動物が活動する様子を見て、「あれがお父さんで、こっちがお母さん」「お腹空いたって、言っているんだ」「子ども達で、一緒に鬼ごっこをして遊んでいるんだね」などと、擬人化して解釈します。
そんな子ども達の会話を聞き、私は子ども時代とは違った動物園の愉しみを感じるのです。


前回のブログでは、学校の先生や支援者からの相談について、感じることを綴りました。
今回は、親御さんの相談から感じることです。


親御さんからの相談の中に、気になる相談がちらほらと見られます。
それは、「どうやって遊んだらいいか分からない」というものです。
発達相談を受け、その子の発達の流れを読み、発達課題を確認していく。
発達のヌケに関しては、「ここがポイントで、こんな風に育んでいけば」というお話をすることで、一生懸命実行される親御さんが多くいます。


一方で、発達援助、子育てには、発達のヌケや課題をクリアするだけに留まりません。
発達のヌケや課題を育てなおすことは、とても重要なこと。
でも、子育てには、その子の発達を後押しする、という意味合いも含まれているといえます。
ヌケや未発達ではないんだけれども、発達が遅れている部分へのアプローチです。
これには、ヌケや未発達が育ったあと、遅れていた部分を育てていくことも含まれます。


遅れていた部分を発達させていく。
これは、発達全体がそうであるように、やはり子どもの自発的な活動、名も無い遊びが中心となります。
その際、親御さんが介入することで、その自発的な活動、遊びにアクセントやバリエーションを加えることができます。
一人遊びを他者との交流のある遊びへ変える。
活動から得られる刺激を豊かにする。
そして何よりも、親子という安心感の中で、活動する喜びと、その活動を喜んでくれる体験を積み重ねていくことが、親御さんが活動に、遊びに、入っていく意義だといえます。


親御さんは、子どもさんにとって、一番身近で、一番影響力のある環境です。
しかし、その環境も、ただ刺激を与える一方向の関係性では留まりません。
相互に作用していくことで、発達を後押しし、加速させることができる。
特に、遅れていた発達を取り戻していく過程においては、親御さんの育み方というよりも、その介入の仕方、その遊び方が重要になってくるといえます。


真面目で一生懸命な親御さんが多いので、こういったアイディアで発達のヌケが埋まっていく、原始反射が統合されていく、というお話をすると、毎日、コツコツやっていかれます。
しかし、そのヌケが埋まってきて、原始反射が統合されたあと、「さあ、他の子どもたちのように、遊びを通して、発達を後押ししていきましょう」というと、戸惑ってしまう方がいらっしゃいます。
「どうやって遊んだら…」
発達のヌケ、未発達、原始反射の統合とは異なり、遊ぶには型や枠がありません。


どうやって、発達につながるような遊びを行うか?
その答えは、頭ではなく、感覚、身体に存在しています。
それは、子どもの感覚や身体だけではなく、親御さん自身の感覚や身体にも、です。


子どもと遊ぶのが上手な親御さんを見ると、子どもの感覚、身体を通して世の中を見ることができる人だと感じます。
「子どもがこの刺激を欲している」
「こういったことに興味関心を持っている」
そのことを瞬時に感じ、子どもが主導する遊びの中に飛び込んでいくことができる。
ですから、発達に繋がる遊びが何倍も豊かなものになり、遅れていた発達が加速していく姿があります。


当然、その子どもから見た世界を感じられるには、親御さん自身が感じられるために十分な身体を持っている必要があります。
発達のヌケを育てなおしたり、原始反射の統合したり、栄養療法などはできるけれども、一歩、自由な遊び、子ども主体の遊びへの介入と言われると、戸惑ってしまう親御さんの中には、ここが整っていない人が少なくないように感じます。


動物園で過ごすと、動物たちの自然な振る舞いを見ることができます。
子ども同士でじゃれあったり、親と子で触れ合ったり…。
そういった姿を見ると、「ああ、これこそが発達援助の原形」と思うのです。
動物たちは、本能のまま、興味がひかれるままに、行動している。
発達のヌケを育て直そう、発達を促そうなどとは微塵も思わず、動き、食べ、眠る。
その繰り返しの中に発達があり、その積み重ねた先に自立がある。
もっと人間の家族も、本能のままに、想いのままに、じゃれ合い、遊べばいいのに、と思います。


子どもと遊ぶのに、子どもの発達を後押しするのに、マニュアルも、型のある方法もありません。
あるのは、子どもの主体性であり、それを感じる周囲の人間の身体です。
「どうやって遊んだら?」と訊かれたら、「動物のようにじゃれ合って遊べばいいんです」と、私は答えています。
子どもの遊びは、本能と繋がっています。
頭じゃありません。
「全般的な発達」と繋がっているのは、唯一、子どもが主体的に行う遊び、活動だと思います。
だって、発達障害の子ども達が抱えている課題は、胎児期から2歳前後の間に生じているから。
そこは、知性というよりも、人間の発達課題というよりも、限りなく本能と、動物であるヒトに近い部分です。


発達障害の子ども達は、いわゆる知性の部分で遅れや課題が目立ちます。
ですから、どうしても、人間的なものさしで、知性を刺激するような遊び、グッズ、活動を用意しようとしてしまいます。
でも、そこじゃあ、根っこは育ってはいかない。
トランポリンを用意しても、そこで跳ぶ以前の発達、たとえば、足の親指が地面を掴めていないとか、そもそも内臓の感覚に遅れがあるとか、そういった問題を抱えている場合があります。
鉛筆を持たせて勉強させても、そもそも身体の軸、中心ができていない、手の平で体重、重力を感じる経験が乏しいなどの課題がある場合もあります。
焦る気持ちもわかりますが、小学校の教科学習の土台作りは、読み書きそろばんではありません。
私達が考えている以上に、もっと原始的で、動物的な部分に課題があるのです。


文字が書けるようになるには、絵をたくさん描く必要があります。
その絵を書くためには、自然の中での身体活動が必要であり、感覚が育っている必要があります。
そして、水の時期、泥の時期、砂の時期という具合に、手足を使って遊び、感覚系を育てる段階が必要。
で、その前には、十分な手づかみ食べの期間が必要ですし、十分な手づかみ食べができるには、内臓系の発達はもちろんのこと、手で重力を感じる、つまり、適切な運動発達が必要となります。


子どもの全般的な発達を後押ししたいのなら、動物のようにじゃれ合って遊ぶことです。
子どもの内側に「快」が生じ、関わる親御さんの中にも「快」が生じるような。
子どもが名も無い遊びで発達を遂げていくのですから、親御さん自身も名の無い遊びをするのです。
そこに唯一、指針があるとすれば、ただ一つ。
「心地良い」ということだけ。
子どももそうですが、親御さんも、心地良さを感じない遊びは、発達にはつながりません。


「発達の遅れを取り戻さなきゃ」なんて考える必要なし。
ただただ、動物たちのように、子どもとじゃれ合って遊ぶだけ。
「子どもと遊んで、私も心地良かったな」
そう思えれば、上手に遊べたといえるでしょう。

2020年2月10日月曜日

【No.1012】職務を全うした先に、「治す」が顔を見せる

こう見えて、学校の先生や支援者からも、相談を受けることがあります(笑)
以前は、「こういうお子さんの、こういう行動に困っている」「なにか助言を貰えないいか」という内容が多かったです。
でも、最近では、「担任している子を治したいです」からの助言を求められることが増えたような印象を受けます。
これだけ親御さんの中に、また実際に治った子ども達、若者たちが増えてきたのですから、学校の先生や支援者の中にも、「治したい」「そういった支援、教育がしたい」と思う人達が出てくるのは自然な流れだと思います。


学校の先生からの質問で多く見られるのが、「どういった勉強をされていますか?」というもの。
これに対しては、私の答えは決まっています。
「そんなの自分で考えんしゃい!!」
親御さんのように、我が子のみを育てる、治したい、という方には、そのご家族にあった書籍やブログ、実践家の方などをお教えしますが、少なからず、お金を貰って仕事をしている者が、そんなことを言っちゃあ、おしまいですね。


「どういった勉強をしているか?」という言葉が口から出るということは、何かノウハウや特別な情報があると、想定している。
その特別なものを手に入れられれば、同じようにできるんだ、という考え自体が浅はかであり、私から見れば、プロ失格。
一人ひとり子どもさんが違うように、教師、支援者だって、一人ひとり違う。
だからこそ、自分に足りないものを補い、そして、こういった知識や技術が今の、未来の関わる子ども達に役に立つかもしれない、という想像力を働かせながら、日々、研鑽を積むのが当然の姿勢。
そこを、「どんな勉強を?」などと、インスタントに捉えていてはダメですね。
第一、同じ知識を得たとしても、その人の技量や経験によって、見え方が、どこまで深く理解できるか、は違います。


そしてもう一つ多い質問が、「私は治したいと思っている。でも、同僚ガー、親御さんガー」というもの。
自分が関わっている子に、「治ってほしい」「治してあげたい」という感情が出るのは当然のこと。
しかし、再三言われているし、私自身も申し上げているように、治すのは教師でなければ、支援者でもない。
治すのは、その身体を、神経を持っている本人です。
本人が自発的に動かなければ、発達は生じません、いくら周りが促したとしても。


じゃあ、周囲の人間は?というと、それはすべて環境の一部だと思っています。
ただ、その中でも、家庭が一番の発達の場であり、唯一、その子の発達の流れ、すべてを感じ、肌身で知っているのは親御さんですので、子どもさんが治る環境は家族となります。
0.001%くらい、その場で治しちゃう達人がいますが、あとの人は、みんな同じ。
先生も、支援者も、専門家も、イルカも、馬も、ブランコも、砂場も、海も、匂いも、光も…その子にとっては環境の一部であり、刺激の一部です。
もちろん、その頻度、濃度の違いはありますが、基本的にその質に優劣はない。
あるのは、そのとき、その子に必要な発達刺激か、そうじゃないか、ということのみ。


ですから、治したいけれども、治せないのは、自分の技量不足でも、同僚のせいでもありません。
強いて言えば、最大の環境である家庭が治す方向じゃなかったり、発達につながるような後押しを続けられなかったりすれば、治るもんも治らないといえるかもしれません。
まあ、とにかく、支援者、教師がいくら頑張っても、そもそもが治せないのです。


もし、学校で治せるのなら、療育機関でも治せるでしょう。
専門的な環境を用意し、そこで専門的な人が子ども達の発達を促し、治していく。
でも、現実は不可能です。
何故なら、発達に必要なものは、その発達刺激だけではないからです。
「安心」も必要なのです。


発達障害の子ども達に共通している発達のヌケは、胎児期から言葉を獲得する2歳前後の間に生じています。
この時期を思い浮かべればわかりますが、赤ちゃんの伸びやかな発達、自発的な行動の土台は、安心感があるということ。
生後、不安定な環境、特殊な環境にいた赤ちゃんに、発達の遅れ、違いが見られるのは、知られていることです。
つまり、胎児期から生後2歳前後の間に必要なのは、適切な発達刺激と自発的な行動ができる環境、そして濃密な安心感を得られる存在です(もちろん、栄養も)。


どんなにその子と仲良くなっても、私には親御さんのような安心感を与えることはできません。
自発的な行動、伸びやかな言動が出るような環境になりうることができない。
ここが環境の一部としての支援者の限界です。
なので、私は、より良い発達の場に変わっていきたい、子の発達を後押ししていきたいと思う親御さんに向けた仕事をしています。
学校や支援機関のように制約があり、流動的で、来る人、去る人を決められない仕事ではないからこそ、可能な部分もあるはずです。
私から見れば、コントロールできない環境の中で、ベストを尽くすのが、そういったお仕事をされている人達だと思います。


敢えて厳しい意見を申しますが、特別支援教育の混迷は、福祉と教育(ちょっと医療的なのも)、どっちつかずの道で突き進んだ結果だと思います。
学校には指針があり、学習指導要領というものがある。
その学習指導要領もベースは普通教育。
昨今、アクティブラーニングが押し進められていますが、それが支援級でも、支援学校でもベース、方向性になります。


普通級以外の先生からは、「この子達にアクティブラーニングは無理だろう。無理があるだろう」という声も聞かれます。
私は支援者の立場でなく、一人の社会人、納税者として、「無理じゃなくて、やりなよ」と思います。
だって、学校は教育機関だから。
日中を穏やかに過ごす場所でも、リハビリをする場所でも、子ども達を接待し、その親御さんを慰める場所でもない。
学校が本気で教育、勉強を教えなければ、そこに存在意義があるのだろうか、と思うのです。


「発達障害を治す」というのを、突き詰めていけば、「胎児から2歳前後の発達のやり直し」だといえます。
「そこを学校でやりますか」「療育機関でできますか」「教師や支援者という他人が適切ですか」ということです。
ですから、学校の先生や支援者で治したい、そういった仕事をやりたい、と思うのなら、一番は治したいと思っている親御さんに対して、自分が得た情報や知識、技術を伝えていくこと。
でも、本分は忘れてはなりません。
治そうと思っていない、治すための行動をしていない家族のお子さんも、教育や支援の対象ですし。
自分の教育や支援に、治るアイディアを取り入れるにしても、それはより良く教育ができるための、より良く支援できるためのアイディアとなります。
目的はあくまで、治すじゃなくて、より良い教育であり、支援だと思います。


「ここが治っていないと、ここを治さないと、よい学びや成長に繋がらない」
そのように感じ、日々、もがいている先生や支援者の存在も知っております。
でも、それって仕方がないことじゃないですかね。
与えられた環境、条件の中で、自分の持てるものを発揮するのが、プロではないでしょうか。
私はいつも、そのように思って仕事をしています。
「子どもさんを治すことも、親御さんを変えることもできない。
だけれども、子どもさんが治るきっかけの一つになれるかもしれない。
親御さんが変わる環境の一つになれるかもしれない」


ただし、その意味ある環境になるのにも条件があります。
それは本分を正直に、真面目に、一生懸命行うこと。
治ることは、誰がどう見ても、喜ばしいこと、素晴らしいこと。
でも、人間は、損得のみで動くのではなく、心が動くから、行動が動くもの。
仕事で接点を持ち、関わっている以上、素晴らしい知識、治す知見を持っている点ではなく、やはりその仕事で心を動かしていくことが先なのだと思います。
偉そうに綴ってしまいましたが、学校の先生や支援者の人から相談を受けると、このような感情が湧いてくることが多いのが正直なところです。

2020年2月7日金曜日

【No.1011】だましだましで生きてきた

1歳代の子ども達と関わっていると、「ああ、まさに発達障害の根っこは、ここと繋がっているんだな」と改めて感じます。
この時代から始まっている発達のズレを、そのままにしておくか、ちゃんとクリアし、本来の流れに戻しておくか。
そこが、これから続く長い人生に大きな影響を及ぼしていく入り口となる。


小さなお子さんから急に大きな人達からの相談があると、「だましだましで生きてきた」というフレーズが頭に現れてきます。
現在、困ったことがあり、相談に来られている。
しかし、「現在の困った」は、だましだましの結果である。
そんな風に思います。
何を“だましだましか”と言いますと、その手の使い方であり、その皮膚の感じ方であり、身体のバランスの取り方です。


私達は、空気を読みます。
でも、これはデジタルにではなく、瞬時に、特に意識することなく、その場の空気がわかる、察することができます。
一方で、発達に課題のある人達も、空気を読むことができます。
でも、その読み方は、経験や学習によるものが多い。
つまり、結果的に、その場の空気を読んでいるのには違いないけれども、瞬時に皮膚感覚として捉えられているか、知能知識として捉えられているか、に違いがあるということです。


ヒトは、スキンシップや自然からの刺激によって、皮膚を育てます。
その皮膚を育てきれなかった子が大きくなり、経験値の中から空気が読めなくなると、ショート起こし、「現在の困った」となる。
「現在の困った」に対処しようとすると、その場からの回避や周囲の配慮など、環境側をいじくりたくなるものです。
でも、そこじゃないし、それを続けていく先には、社会との分離しかまっていません。


認知的には問題なさそうに見える人も、よくよく見れば、だましだまし生きている。
左右非対称の動きをしていたり、足の裏に重力を感じることができていなかったり。
立っているようで立てていない。
歩いているようで歩いていない。
自分が存在しているようで、重力との付き合い方ができていない。
言葉で会話しているようで、そこにやりとりが存在していない。
一見すると、ちょっと変わった人くらいだけれども、本当は自分自身をもだまして生きている。
その本人も気づいていない“だましだまし”に騙されないのが、その人の支援者になり得るかどうかの答えになる。


ある程度、大きくなると、その身体、状態が通常になるため、本人も発達のヌケを抱えたまま、なんとなく適応できていることがあります。
「生活に適応できているから、いいじゃないか」という想いが浮かぶ一方で、それは今だけのサポートであり、人生のサポートにはなっていないんじゃないか、と私の中で葛藤が生じます。
成人した人達と関わってきて思うのは、なにかあったときに、踏ん張れるか、ぼきっと折れるかに、発達のヌケ、土台がしっかり育っているかが問われるように感じるのです。


ある若者は、親御さんは反対しましたが、「私はやる」と言って、ハイハイや寝返りなどを続けています。
親御さんからしたら、成人した我が子が、「何を今さら」「そんな赤ちゃんがやることで治るもんか」という想いがあるのもわかります。
でも、だましだまし生きてきた生活を育て直すには、やっぱり乳幼児期の発達、動きに戻る必要があるのです。
大人なんだから、「ハイハイではなく、ヨガなどのエクササイズ」では育たない。
ハイハイには、左右交互の動きを獲得するだけではなく、重力との付き合い方、首を動かすことでの視野の広がりなど、多岐にわたる神経発達が含まれているから。


胎児期のテーマは、安心と準備。
母体という安定した環境の中で、生命としての安心感を感じ、その中で手足を伸ばし、羊水を飲んで吐いて、呼吸の準備を行う。
乳幼児期のテーマは、重力とのお付き合い。
母体という前後左右のない環境から、下のある世界へと飛びだしていく。
まず、下である重力との付き合い方を身に付けていくことで、前後左右が現れ、運動発達が始まっていく。
重力を感じ、ちゃんとお付き合いできるようになることで、ようやく重力に抗う準備が整っていく。
「運動発達とは、重力に抗うこと、抗う力を身に付けること」といえるかもしれません。


幼い子ども達の中には、下を、重力を存分に味わう前に、付き合い方を身に付ける前に、なんとなく身体を動かせるようになっている子がいるように感じます。
見た目にはわからないんだけれども、なんとなく、だましだまし、手を使い、立って、歩いているなんてことを感じることもあります。
ですから、「そんなに急がなくていいよ、ちょっと戻ってやり直そう」が、子育てのメッセージになります。


ヒトの脳は、環境に適応するために作られている。
ですから、適応するために発達するし、適応しちゃったら、その部分で発達しない。
発達のヌケを抱えたまま、適応することもある。
だけれども、その適応は、環境の変化に弱くて、脆い。
その脆さを見通し、土台から発達を後押しするのが、支援者の役目。


“だましだまし”に一緒に騙されているのでは、支援者とは言えませんね。
1歳代の子ども達から改めて多くのことを教わっている今日この頃です。


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【業務連絡】

関西出張(2月21~24日)の空いていた1枠は、広島のご家族の発達相談にしました。
ちょうどタイミングよくご依頼がありましたので。
関西出張のアナウンスに協力してくださった皆様、誠にありがとうございましたm(__)m
只今、関西出張募集のブログは削除しました。
またの機会に、よろしくお願い致します。

2020年2月3日月曜日

【No.1010】違和感と繋がっているお子さんの行動に、「持続性」と「非対称性」がありますか?

今までもそうだったのですが、1件あると、その後、続くということがあります。
昨年までは、ほとんどなかったのですが、今年に入ってから1歳代のお子さんの相談が続いております。
実際に訪問させていただいたご家族もいます。


お子さんの様子を拝見すると、皆さん、「よく気づかれました」と感じるような小さな兆候をしっかり捉えられていました。
確かに、定型発達と呼ばれる流れとは違った流れが生じており、ズレは既に始まっていました。
でも、そのズレは胎児期を合わせて2年間の中にあります。
ですから、子育てや家族の関わりの中で、十分軌道修正ができますし、そういったアイディアをお伝えしてきました。


今までは、1歳半健診をスルー、または「様子を見ましょう」と言われ、その後、親御さんの中で「やっぱりおかしい」ということで、情報収集→公的な機関→療育を勧められる→見学→でも、やっぱり違う、からの発達相談という流れが多かった印象があります。
なので、早くても、2歳、だいたい3歳になってからの発達相談が中心でした。


しかし、これはネットの良い面だと思うのですが、自分の中の違和感を確かめられるようになったことが、1歳代での発達相談へと繋がっていると感じます。
〇〇という動き、様子がある。
それをネットに打ち込むと、似たようなお子さんがいることが瞬時にわかります。
名前も知らない親御さん、お子さんだけれども、誰かの背中を押す力になって、「このままじゃいけない」と行動が生まれます。
今までも、赤ちゃんのときから、すでに違和感を感じられていた親御さんがたくさんいらっしゃいましたが、次の行動までタイムラグがあったり、そもそも次の行動の選択肢が限られていたりしたようなことがあったと思います。
その“違和感”が肯定も、否定もされない時間があるかないかが、今の親御さんとの違いになっている気がします。


一方で気を付けないといけないのは、「当てはまる/当てはまらない」に捉われすぎてしまうことです。
これは現在の診断の課題とも重なる部分ですが、当てはめようと思えば、いくらでも当てはまる、ということです。
神経発達が今まさに行われているお子さんと、発達のズレが生じているお子さん。
どちらも、神経は日々、「発達する」という方向で進んでいますので、似たような行動が表れるものです。
定型発達のお子さんでも、不思議な動き、行動、反応をすることがありますし、母子手帳などに書かれている発達の仕方とは違った個性的な発達過程を通る子もいます。
ですから、一般的な発達過程とは異なる=発達障害でもありませんし、個性的な発達過程=発達障害でもありません。


では、どうやって、その違いを見抜くのか。
私の場合は、受精から現在に至る物語、発達の流れから確認してきますが、もっとシンプルなのは、『持続性』と『非対称性』です。


『持続性』とは、親御さんの違和感と繋がっているお子さんの行動が、1ヶ月も、2ヶ月も、半年も続く、ということです。
先ほど述べたように、どの子も、発達過程の中に、「不思議だな」「特徴的だな」「他の子と違うな」と感じるような行動があるものです。
でも、発達のヌケや遅れがある子は、その発達段階から次に進んでいかない、その段階が長い、続くということが往々にしてあります。
ですから、訪問させていただいたときに、「どのくらい前から、その行動が見られますか?」と質問をしています。
一概に何週間続いたら、何か月続いたら、と言うことはできませんが、違和感に繋がる行動が続く場合、その動きがクリアされずに次の発達段階に進んだ場合、気にする必要があるかもしれません。


もう一つの『非対称性』とは、大きく分けて身体の右と左で違いがある、ということです。
年中、年長さんくらいになれば、身体の右と左で別々の動きをしたり、連動させる複雑な動きができるようになったりしますが、小さなお子さんの場合、基本的に発達は左右対称で進んでいきます。
利き手、利き足もまだはっきりしませんし、初期の神経発達は左右対称で進みますので、右も、左も、同じように発達していくものです。
それが、「片方だけ手が動くのに、もう一方が動かない」ですとか、「右手はちゃんと開くのに、左手がパーできない」ですとか、「歩くとき、右足と左足の動かし方が違う」ですとかがあると、神経発達に何かあるかな、と推測することができます。


これから、ますます相談者の低年齢化が進んでいくかもしれないと思いました。
それは早期診断の技術が上がったとか、啓発が進んだとか、そういった類のものではないと思います。
昔から、最初に気づくのは、母親であり、家族であった。
ただ、その違和感を相談しても否定されることが多かったり、確かめる手段がなかっただけ。
現在の〇✖クイズみたいな診断よりも、親御さんの感覚の方が確かに決まっています。
直感が確かだからこそ、医師や専門家が見抜けない発達のズレ、小さな兆候を捕まえられるのだと思います。


大事なのは、その小さな兆候を掴んだあと、どういった選択肢に進むか、行動するか。
幼い時期から発達のズレがわかったとしても、そのズレを修正したり、発達自体をより良くする方向へ進まなければ、とても勿体ないと思います。
小さな兆候、ズレは、いくらでも修正することができる。
本来のその子の発達の流れに戻っていけるような選択肢、アイディアと繋がってもらいたいですし、そういった希望を持たれる親御さんへの後押し、情報の発信ができれば、と考えています。
一人でも多くの子ども達が、子ども時代を存分に味わってもらえることが、幼いお子さんの発達相談をお受けするときの私の願いです。