【No.1013】「子どもとどうやって遊んだら?」という戸惑い

まだ子どもが小さいので、家族で動物園に行くことがあります。
子ども達は、日頃、見ることのないその動物の姿、形、色や動きに心を奪われます。
そして、動物が活動する様子を見て、「あれがお父さんで、こっちがお母さん」「お腹空いたって、言っているんだ」「子ども達で、一緒に鬼ごっこをして遊んでいるんだね」などと、擬人化して解釈します。
そんな子ども達の会話を聞き、私は子ども時代とは違った動物園の愉しみを感じるのです。


前回のブログでは、学校の先生や支援者からの相談について、感じることを綴りました。
今回は、親御さんの相談から感じることです。


親御さんからの相談の中に、気になる相談がちらほらと見られます。
それは、「どうやって遊んだらいいか分からない」というものです。
発達相談を受け、その子の発達の流れを読み、発達課題を確認していく。
発達のヌケに関しては、「ここがポイントで、こんな風に育んでいけば」というお話をすることで、一生懸命実行される親御さんが多くいます。


一方で、発達援助、子育てには、発達のヌケや課題をクリアするだけに留まりません。
発達のヌケや課題を育てなおすことは、とても重要なこと。
でも、子育てには、その子の発達を後押しする、という意味合いも含まれているといえます。
ヌケや未発達ではないんだけれども、発達が遅れている部分へのアプローチです。
これには、ヌケや未発達が育ったあと、遅れていた部分を育てていくことも含まれます。


遅れていた部分を発達させていく。
これは、発達全体がそうであるように、やはり子どもの自発的な活動、名も無い遊びが中心となります。
その際、親御さんが介入することで、その自発的な活動、遊びにアクセントやバリエーションを加えることができます。
一人遊びを他者との交流のある遊びへ変える。
活動から得られる刺激を豊かにする。
そして何よりも、親子という安心感の中で、活動する喜びと、その活動を喜んでくれる体験を積み重ねていくことが、親御さんが活動に、遊びに、入っていく意義だといえます。


親御さんは、子どもさんにとって、一番身近で、一番影響力のある環境です。
しかし、その環境も、ただ刺激を与える一方向の関係性では留まりません。
相互に作用していくことで、発達を後押しし、加速させることができる。
特に、遅れていた発達を取り戻していく過程においては、親御さんの育み方というよりも、その介入の仕方、その遊び方が重要になってくるといえます。


真面目で一生懸命な親御さんが多いので、こういったアイディアで発達のヌケが埋まっていく、原始反射が統合されていく、というお話をすると、毎日、コツコツやっていかれます。
しかし、そのヌケが埋まってきて、原始反射が統合されたあと、「さあ、他の子どもたちのように、遊びを通して、発達を後押ししていきましょう」というと、戸惑ってしまう方がいらっしゃいます。
「どうやって遊んだら…」
発達のヌケ、未発達、原始反射の統合とは異なり、遊ぶには型や枠がありません。


どうやって、発達につながるような遊びを行うか?
その答えは、頭ではなく、感覚、身体に存在しています。
それは、子どもの感覚や身体だけではなく、親御さん自身の感覚や身体にも、です。


子どもと遊ぶのが上手な親御さんを見ると、子どもの感覚、身体を通して世の中を見ることができる人だと感じます。
「子どもがこの刺激を欲している」
「こういったことに興味関心を持っている」
そのことを瞬時に感じ、子どもが主導する遊びの中に飛び込んでいくことができる。
ですから、発達に繋がる遊びが何倍も豊かなものになり、遅れていた発達が加速していく姿があります。


当然、その子どもから見た世界を感じられるには、親御さん自身が感じられるために十分な身体を持っている必要があります。
発達のヌケを育てなおしたり、原始反射の統合したり、栄養療法などはできるけれども、一歩、自由な遊び、子ども主体の遊びへの介入と言われると、戸惑ってしまう親御さんの中には、ここが整っていない人が少なくないように感じます。


動物園で過ごすと、動物たちの自然な振る舞いを見ることができます。
子ども同士でじゃれあったり、親と子で触れ合ったり…。
そういった姿を見ると、「ああ、これこそが発達援助の原形」と思うのです。
動物たちは、本能のまま、興味がひかれるままに、行動している。
発達のヌケを育て直そう、発達を促そうなどとは微塵も思わず、動き、食べ、眠る。
その繰り返しの中に発達があり、その積み重ねた先に自立がある。
もっと人間の家族も、本能のままに、想いのままに、じゃれ合い、遊べばいいのに、と思います。


子どもと遊ぶのに、子どもの発達を後押しするのに、マニュアルも、型のある方法もありません。
あるのは、子どもの主体性であり、それを感じる周囲の人間の身体です。
「どうやって遊んだら?」と訊かれたら、「動物のようにじゃれ合って遊べばいいんです」と、私は答えています。
子どもの遊びは、本能と繋がっています。
頭じゃありません。
「全般的な発達」と繋がっているのは、唯一、子どもが主体的に行う遊び、活動だと思います。
だって、発達障害の子ども達が抱えている課題は、胎児期から2歳前後の間に生じているから。
そこは、知性というよりも、人間の発達課題というよりも、限りなく本能と、動物であるヒトに近い部分です。


発達障害の子ども達は、いわゆる知性の部分で遅れや課題が目立ちます。
ですから、どうしても、人間的なものさしで、知性を刺激するような遊び、グッズ、活動を用意しようとしてしまいます。
でも、そこじゃあ、根っこは育ってはいかない。
トランポリンを用意しても、そこで跳ぶ以前の発達、たとえば、足の親指が地面を掴めていないとか、そもそも内臓の感覚に遅れがあるとか、そういった問題を抱えている場合があります。
鉛筆を持たせて勉強させても、そもそも身体の軸、中心ができていない、手の平で体重、重力を感じる経験が乏しいなどの課題がある場合もあります。
焦る気持ちもわかりますが、小学校の教科学習の土台作りは、読み書きそろばんではありません。
私達が考えている以上に、もっと原始的で、動物的な部分に課題があるのです。


文字が書けるようになるには、絵をたくさん描く必要があります。
その絵を書くためには、自然の中での身体活動が必要であり、感覚が育っている必要があります。
そして、水の時期、泥の時期、砂の時期という具合に、手足を使って遊び、感覚系を育てる段階が必要。
で、その前には、十分な手づかみ食べの期間が必要ですし、十分な手づかみ食べができるには、内臓系の発達はもちろんのこと、手で重力を感じる、つまり、適切な運動発達が必要となります。


子どもの全般的な発達を後押ししたいのなら、動物のようにじゃれ合って遊ぶことです。
子どもの内側に「快」が生じ、関わる親御さんの中にも「快」が生じるような。
子どもが名も無い遊びで発達を遂げていくのですから、親御さん自身も名の無い遊びをするのです。
そこに唯一、指針があるとすれば、ただ一つ。
「心地良い」ということだけ。
子どももそうですが、親御さんも、心地良さを感じない遊びは、発達にはつながりません。


「発達の遅れを取り戻さなきゃ」なんて考える必要なし。
ただただ、動物たちのように、子どもとじゃれ合って遊ぶだけ。
「子どもと遊んで、私も心地良かったな」
そう思えれば、上手に遊べたといえるでしょう。

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