2020年2月10日月曜日

【No.1012】職務を全うした先に、「治す」が顔を見せる

こう見えて、学校の先生や支援者からも、相談を受けることがあります(笑)
以前は、「こういうお子さんの、こういう行動に困っている」「なにか助言を貰えないいか」という内容が多かったです。
でも、最近では、「担任している子を治したいです」からの助言を求められることが増えたような印象を受けます。
これだけ親御さんの中に、また実際に治った子ども達、若者たちが増えてきたのですから、学校の先生や支援者の中にも、「治したい」「そういった支援、教育がしたい」と思う人達が出てくるのは自然な流れだと思います。


学校の先生からの質問で多く見られるのが、「どういった勉強をされていますか?」というもの。
これに対しては、私の答えは決まっています。
「そんなの自分で考えんしゃい!!」
親御さんのように、我が子のみを育てる、治したい、という方には、そのご家族にあった書籍やブログ、実践家の方などをお教えしますが、少なからず、お金を貰って仕事をしている者が、そんなことを言っちゃあ、おしまいですね。


「どういった勉強をしているか?」という言葉が口から出るということは、何かノウハウや特別な情報があると、想定している。
その特別なものを手に入れられれば、同じようにできるんだ、という考え自体が浅はかであり、私から見れば、プロ失格。
一人ひとり子どもさんが違うように、教師、支援者だって、一人ひとり違う。
だからこそ、自分に足りないものを補い、そして、こういった知識や技術が今の、未来の関わる子ども達に役に立つかもしれない、という想像力を働かせながら、日々、研鑽を積むのが当然の姿勢。
そこを、「どんな勉強を?」などと、インスタントに捉えていてはダメですね。
第一、同じ知識を得たとしても、その人の技量や経験によって、見え方が、どこまで深く理解できるか、は違います。


そしてもう一つ多い質問が、「私は治したいと思っている。でも、同僚ガー、親御さんガー」というもの。
自分が関わっている子に、「治ってほしい」「治してあげたい」という感情が出るのは当然のこと。
しかし、再三言われているし、私自身も申し上げているように、治すのは教師でなければ、支援者でもない。
治すのは、その身体を、神経を持っている本人です。
本人が自発的に動かなければ、発達は生じません、いくら周りが促したとしても。


じゃあ、周囲の人間は?というと、それはすべて環境の一部だと思っています。
ただ、その中でも、家庭が一番の発達の場であり、唯一、その子の発達の流れ、すべてを感じ、肌身で知っているのは親御さんですので、子どもさんが治る環境は家族となります。
0.001%くらい、その場で治しちゃう達人がいますが、あとの人は、みんな同じ。
先生も、支援者も、専門家も、イルカも、馬も、ブランコも、砂場も、海も、匂いも、光も…その子にとっては環境の一部であり、刺激の一部です。
もちろん、その頻度、濃度の違いはありますが、基本的にその質に優劣はない。
あるのは、そのとき、その子に必要な発達刺激か、そうじゃないか、ということのみ。


ですから、治したいけれども、治せないのは、自分の技量不足でも、同僚のせいでもありません。
強いて言えば、最大の環境である家庭が治す方向じゃなかったり、発達につながるような後押しを続けられなかったりすれば、治るもんも治らないといえるかもしれません。
まあ、とにかく、支援者、教師がいくら頑張っても、そもそもが治せないのです。


もし、学校で治せるのなら、療育機関でも治せるでしょう。
専門的な環境を用意し、そこで専門的な人が子ども達の発達を促し、治していく。
でも、現実は不可能です。
何故なら、発達に必要なものは、その発達刺激だけではないからです。
「安心」も必要なのです。


発達障害の子ども達に共通している発達のヌケは、胎児期から言葉を獲得する2歳前後の間に生じています。
この時期を思い浮かべればわかりますが、赤ちゃんの伸びやかな発達、自発的な行動の土台は、安心感があるということ。
生後、不安定な環境、特殊な環境にいた赤ちゃんに、発達の遅れ、違いが見られるのは、知られていることです。
つまり、胎児期から生後2歳前後の間に必要なのは、適切な発達刺激と自発的な行動ができる環境、そして濃密な安心感を得られる存在です(もちろん、栄養も)。


どんなにその子と仲良くなっても、私には親御さんのような安心感を与えることはできません。
自発的な行動、伸びやかな言動が出るような環境になりうることができない。
ここが環境の一部としての支援者の限界です。
なので、私は、より良い発達の場に変わっていきたい、子の発達を後押ししていきたいと思う親御さんに向けた仕事をしています。
学校や支援機関のように制約があり、流動的で、来る人、去る人を決められない仕事ではないからこそ、可能な部分もあるはずです。
私から見れば、コントロールできない環境の中で、ベストを尽くすのが、そういったお仕事をされている人達だと思います。


敢えて厳しい意見を申しますが、特別支援教育の混迷は、福祉と教育(ちょっと医療的なのも)、どっちつかずの道で突き進んだ結果だと思います。
学校には指針があり、学習指導要領というものがある。
その学習指導要領もベースは普通教育。
昨今、アクティブラーニングが押し進められていますが、それが支援級でも、支援学校でもベース、方向性になります。


普通級以外の先生からは、「この子達にアクティブラーニングは無理だろう。無理があるだろう」という声も聞かれます。
私は支援者の立場でなく、一人の社会人、納税者として、「無理じゃなくて、やりなよ」と思います。
だって、学校は教育機関だから。
日中を穏やかに過ごす場所でも、リハビリをする場所でも、子ども達を接待し、その親御さんを慰める場所でもない。
学校が本気で教育、勉強を教えなければ、そこに存在意義があるのだろうか、と思うのです。


「発達障害を治す」というのを、突き詰めていけば、「胎児から2歳前後の発達のやり直し」だといえます。
「そこを学校でやりますか」「療育機関でできますか」「教師や支援者という他人が適切ですか」ということです。
ですから、学校の先生や支援者で治したい、そういった仕事をやりたい、と思うのなら、一番は治したいと思っている親御さんに対して、自分が得た情報や知識、技術を伝えていくこと。
でも、本分は忘れてはなりません。
治そうと思っていない、治すための行動をしていない家族のお子さんも、教育や支援の対象ですし。
自分の教育や支援に、治るアイディアを取り入れるにしても、それはより良く教育ができるための、より良く支援できるためのアイディアとなります。
目的はあくまで、治すじゃなくて、より良い教育であり、支援だと思います。


「ここが治っていないと、ここを治さないと、よい学びや成長に繋がらない」
そのように感じ、日々、もがいている先生や支援者の存在も知っております。
でも、それって仕方がないことじゃないですかね。
与えられた環境、条件の中で、自分の持てるものを発揮するのが、プロではないでしょうか。
私はいつも、そのように思って仕事をしています。
「子どもさんを治すことも、親御さんを変えることもできない。
だけれども、子どもさんが治るきっかけの一つになれるかもしれない。
親御さんが変わる環境の一つになれるかもしれない」


ただし、その意味ある環境になるのにも条件があります。
それは本分を正直に、真面目に、一生懸命行うこと。
治ることは、誰がどう見ても、喜ばしいこと、素晴らしいこと。
でも、人間は、損得のみで動くのではなく、心が動くから、行動が動くもの。
仕事で接点を持ち、関わっている以上、素晴らしい知識、治す知見を持っている点ではなく、やはりその仕事で心を動かしていくことが先なのだと思います。
偉そうに綴ってしまいましたが、学校の先生や支援者の人から相談を受けると、このような感情が湧いてくることが多いのが正直なところです。

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