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大学に入ってくる自閉症の学生たちのソーシャルスキルって誰が教えるべき?

これは単純に疑問に思うことなんだけど、「大学に入ってくる自閉症の学生たちのソーシャルスキルって誰が教えるべき?」ということ。 大学に入るぐらいの学力があるのだから、うまく適応して問題がなさそうだけど、実際は違うこともある。 まったくと言っていいほど、自閉症に関する部分は何のアプローチがされてこなかった学生が多い。 学力は問題ないから、周囲もなんとなくうまくいくだろう、変わっていくだろう、などと見がちだったんでしょ。 また高校までは"特別扱い"の特別支援が行われて、どうにか大きな問題になることもなく、大学まで進学できた場合もある。 でも、大学生活は違う。 よっぽど小さな大学でなければ、ほっとかれるのがほとんど。 問題があれば、「はい、さようなら」が現実。 いちいち手とり足とり、一般の学生なら身に付けていて当然のスキルについて教えてくれたりはしない。 だって大学は学術研究を行う教育の最高機関だから。 障害のあるなしに関わらず、大学で一緒に学ぶことは大切だけれど、特別支援"学校"ではない。 まあ、このように厳しいことを書いているけど、実際には勉強のできるソーシャルスキルが乏しい学生はたくさんいる。 こういった学生は、勉強以外の部分で躓くことがあり、留年、退学のリスクは高い。 そして何とか卒業できたとしても、"働く"または"働き続ける"ことが難しい。 "働く"というのは、大学名で測れないことの方が圧倒的に求められるからね。 優秀な若者が十分に力が発揮できないことは、大学にとっても、企業にとっても、社会にとっても大きな損失だと思う。 じゃあ、大学がソーシャルスキルの部分を担えっていうのも腑に落ちない。 だったら、誰が自閉症の部分にアプローチしていく責任があるの? ずっと子どものときから見てきた親御さん? それとも、将来のリスクに気づけなかった、また先送りしてきた学校の責任? いや待てよ、やっぱりその個人の責任じゃない? 自閉症の特性を持っているけれど、診断も受けずに、進学し、就職して頑張っている人もたくさんいる。 この人たちは、自分自身で努力し、工夫している。 もちろん、圧倒的少数派なので、社会で生きていくには大変なことも

〇〇療法をゴリ推してくる支援者には要注意!

この仕事をしていると、特定の療法をやたら「良い」「成果がある」と言ってくる人と出会うんです。 支援している人がどんな療法を専門的に学ぼうとも、「〇〇療法は素晴らしい!」と宣伝しまくっても、私は構いません。 でも、よく考えて欲しいのは、支援しているのが『十人十色』の自閉症の人たち。 自閉症の特性はもちろんのこと、その特性が個人にどのような影響を与えているかは千差万別。 一人ひとりニーズが異なっているのだから、「すべての自閉症の人に〇〇療法は最適です」とは言えないはず。 「個別化が大事」と言っている一方で、特定の療法のみで支援しようとする人って"ナニ?"と思ってしまうことも多々あります。 特定の療法を強く推してくる人たちは危険性がある、と一歩引いて見るようにしています。 何故なら、すべての事象を特定の療法に辻褄が合うように解釈してしまうから。 うまくいったら「やっぱり〇〇療法はサイコー!」で、失敗したら「〇〇が悪い」と個人や環境のせいにしてしまうような人もいる。 その個人が成長したり、状態が良くなったりする要因は1つだけじゃないと思う。 人が変わるって、そんなに単純じゃない。 凝り固まった〇〇療法信者は、物事を単純化してしまうからイヤ。 そういう私もTEACCH®自閉症プログラムを熱心に学んでいたが、それは療法ではないから。 ノースカロライナでTEACCH®の実践を観てきたけれど、良いとこ取りのごちゃまぜの支援(個人的な感想)。 もちろんベースはTEACCH®の考えがあるのだけれど、その個人に良いと思ったことは何でも取り入れる。 「だって、その人がHappyになれば、それでいいじゃない!」っていう考え方。 とっても分かりやすい考えで、自閉症の人たちに合っている柔軟な考え方。 私の実践もごちゃまぜ支援。 目の前にいる人が良くなるのだったら、何でも使う。 その人が元気になって、前向きに、成長できたらOK! そのためにも、「自閉症の人が良くなった」という話を聞けば、何でも勉強し、取り入れていきます。 この頃は漢方も勉強中。 えっ、怪しいですって。 そう感じるあなたは、頭がガチガチさんですね。 もし支援者だったとしたら、幅が狭まってしまいますよ。 漢方が合う人だっているはずです。 だって、十人十色の自

自閉症の人は「笑点」が好き!

日曜日の夕方、日本テレビの「笑点」を楽しみにしている方は大勢いると思います。 お年寄りから子どもまで、幅広い世代の人たちに愛されている番組です。 私も息子と一緒に観ています。 この頃、「笑点が好き」「毎週、欠かさず観ている」という自閉症の人が多いということに気が付きました。 私が関わっている、または関わっていた自閉症の人で、笑点を観ている人は9割くらいになります(てらっこ塾調べ)。 何故か、世代に関わらず、また一人ひとり余暇の過ごし方も、好みも異なっているのに、「笑点」だけは共通しています。 笑点の笑いは明確でわかりやすい オチが想像しやすい 登場人物が変わらない 長年、変わらず放送されている 放送がつぶれることがほとんどない 会場の笑い声や拍手で、「今が笑うところ」ということがわかりやすい 言葉遊びがツボに入る などが、理由として挙げられるかもしれません。 まあ、分析はともかく、みんなに愛されている番組だということには違いがありません。 日曜日の夕方のひと時、難しいことは忘れて「はっはっは」と笑える「笑点」が、今後も長く続いてもらうことを願っています。

道南に自閉症の人たちが働く農場を作る!

自閉症の人と農作業って相性が良いんじゃないかな、と思っています。 動物や植物など、人間以外の生きものを愛する方たちが多くいます。 そんな彼らの様子を見ていると、人間とその他の生きものの境目の捉え方が、私たちよりもフラットなように感じます。 人間とその他の生きものというような区別がなく、そのものを純粋に見ているように感じます。 農作業は"脳"作業じゃないかな、と私は考えています。 手を使い、土や植物の匂いを感じ、天気や気象によって対応を変化させる。 そして最後には収穫して、舌で味わう。 まさに人間の持つ五感を刺激する"脳"作業だといえます。 農業を従事することは、心身の健康と成長に大きなつながりがあると思います。 例えば、不安定な土の上を歩くだけでも、自閉症の人が苦手なバランス感覚等を養うことになると思います。 道南の米や野菜は、野菜本来の味がする安全でおいしいものばかりです。 しかし、どの農家さんも後継者、労働者不足に困っていて、10年後、20年後も今と変わらず、私たちが地元のおいしい米や野菜を食べられるかわからない状況です。 函館の隣の北斗市では、新規に農業に携わる人に市からお金を出しています。 そこで私が考えていることが、「自閉症の人たちが働くファームを作る」ということです。 上記に挙げたように自閉症の人は農作業と相性が良いと考えられ、心身の安定や成長に良い影響を与えると思います。 また高度なコミュニケーション力を用いる必要がない職場で、収入も得ることができます。 農家さんからしても、労働力不足を解消できるという良い点があります。  そして地域に住む消費者としても、美味しくて新鮮な地元の米や野菜を変わらず食べ続けられることができる。 自閉症の人も、農家さんも、地域の人も、みんなにとって利点があると思います。 若者の人数自体が減っているので、ますます農業を志す若者が減ることは確実です。 今後、日本の農業を支えていくのは、自閉症の人、知的障害がある人など、今まで"働けない"というレッテルを貼られてきた人たちではないか、と思っています。 あとは農家さんとそういった人たちの間に入る人材とシステムが必要です。 近い将来、実現できるように志を共にする仲間と歩み始め

脳を整えて、スキルを教える

てらっこ塾を始めた当初より、生きる上で必要なスキルを教えることを中心に考え、実践していました。 しかし、近頃ではスキルを教えるだけでは不十分であると考えるようになりました。 依頼があるときは、「〇〇のスキルを身に付けさせてほしい」という話なのですが、いざ目の前に行ってみると、スキルを教えられる状態でない場合が多くあります。 シンプルに表現すると、「脳が疲れている」と感じるのです。 脳が疲れているということは、身体が疲れている、または気持ちが疲れていることです。 脳と身体、心はつながっていますので。 私が尋ねると、ほぼ全員が「身体が疲れている」「気持ちが落ち込んでいる」など、身体か、気持ちの面での不調を訴えます。 このように脳が疲労状態ですと、こちらが教えようとしていることを受け入れられなかったり、教わっていることのごく一部しか本人に入っていきません。 もちろん、集中の持続も難しくなります。 反対に、脳の疲労がとれている状態ですと、こちらが教えることをスポンジが水を吸うごとくどんどん吸収していきます。 また前向きな考え方にもなっているので、興味関心が広がりやすく、「こうなりたい」というような将来に目が向きやすく、療育にもとても協力的になります。 このような経験を度々するようになりました。 「脳の疲労」を感じ、意識するようになってから、スキルを教えることの前に、脳を整えることにも取り組むようにしました。 脳の疲労をとるためには、一定のリズムのある運動が効果があります。 またストレッチや身体を意識して緩めることを通して、身体をリラックスさせることで、脳をリラックスさせることを目指します。 そして自閉症の人は、身体の変なところに緊張感があったり、身体の使い方がぎこちないことがあるので、バランス感覚を養うことをしたり、目と手の協応をするような動きを行います。 そうすることで、自閉症タイプの脳が苦手な部分を刺激していきます。 自閉症の人は、脳が情報を処理するときに多大なエネルギーを使うこと、そして情報処理の過程に苦手さがあることは研究からわかっています。 つまり定型発達の人よりも疲れやすい脳を持っているのが、自閉症の人たちだと思います。 一時期、考え方を変えるためのアプローチに重点を置いたことがありました。 しかし、なかなか効果

「その人の中に入れる支援者」を目指しています!

自閉症支援で必要な力を挙げるとすれば、私は第一に「想像する力」を挙げます。 私はセッションしているときに、「目の前にいる人になりたい」と思うことがよくあります。 そうすれば、その人がどのようにこの世界を捉えているか、が分かり、望ましい方向へ導くことができるからです。 しかし、実際にそのようなことはできません。 私は自閉症の人とは異なるタイプの脳を持っていますので、自閉症の人の世界を覗くには想像するしかありません。 想像するためには、自閉症に関する知識や経験、そして多くの自閉症の方たちと実際に接する必要があります。 いくら研鑽や経験を重ねたとしても、目の前にいる人のことをすべて正確に想像することはできません。 ですから、支援を組み立てていくときには"仮説"と"検証"を繰り返します。 現在の本人の状況や環境、過去の学習や様子から、その言動の理由の仮説を立て、実際の支援を行います。 そして支援がうまくいけば、仮説が正しかったと判断し、そうでなければ、仮説に誤りがあったと考えます。 自閉症の人は実態と支援がピッタリあったときに、ポジティブな変化が見られます。 そのために何度も仮説を立て、検証する必要があります。 日頃から想像力を養うため、物事の理由を考えるようにしています。 この道がまっすぐではないのは、昔は川だったからではないだろうか。 北海道の家には塀がないのは、除雪を考えてのことではないだろうか。 あの人の言動の背景、いつもと違う様子には何があったのだろうか、など。 また、専門バカになっては反対に想像の幅を狭めてしまうと思いますので、自閉症支援以外のことにも興味関心を持ち、学ぶ姿勢を大切にしています。 このブログを書く理由の一つに、私の経験を共有したいと考えたからです。 私の支援方法や考え方がすべて正しいとは思っていません。 でも、みなさんの目の前にいる人の支援を考える上での1つの仮説になるのでは、と思っています。 まったく何から支援を始めたらよいか分からないと思っている方のヒントになってもらえたら嬉しいです。 そして、過去に一緒に働いていた仲間たちに、その当時、きちんと教えられなかったことを伝え、応援し続けられることを願っています。 私が目指す究極の支援者は「その人の中に入

"支援学校免許"の保有率は教育の質の担保になるのか?

今朝の朝日新聞に「特別支援教育 足りぬ先生」という記事が掲載されていました。 その記事によると、「昨年度の"支援学校免許"の保有率は、特別支援学校で71.5%、特別支援学級で30.5%にとどまっている(*特別支援学級は支援学校免許保有の定めはない)」とのことでした。 発達障害等の診断を受ける子どもの増加に、教育現場が追い付いていないといえます。 特別支援教育に携わる先生の"支援学校免許"保有率100%が望ましいかもしれません。 でも、免許の保有=教育の質の担保、と言われれば・・・。 地域で活動をしていると、いろいろなお話しをいろいろな立場の人から聞きます。 また実際に利用してくれる子どもの支援をしてみると、学校でどのような指導を受け、対応されているのかが手に取るようにわかります。 そこで気が付く課題は、その先生が"支援学校免許"を持っているかではなく、"柔軟な頭"を持っているかという点だと感じます。 "支援学校免許"を持っていなくても、そして通常学級の経験しかなくても、良い教育ができる先生はいます。 (もちろん、"支援学校免許"を持っている先生の中に、素晴らしい実践をされる先生はたくさんいます) 実際にその先生が担当している子どもは精神状態が安定していますし、成長していることも見て分かります。 そのような先生に共通しているのが、子どもに合わせて柔軟に教育の方法や内容を変えることができ、そして何よりも他者からの意見に耳を傾け、取り入れることができる頭の持ち主です。 反対に、子どもが学校に行きたくなくなり、全然成長が見られなくなるような場合は、先生や学校のシステムなどに"固さ"が見られるときだと感じています。 ですから、免許うんぬんの話ではなく、専門家を教育現場に入れ、きちんとそのアドバイスを教育内容、指導方法に取り入れるような"決まり"を作る方が意味のあることだと考えています。 システム作りだけでは、今のように現場の先生が「やらない」ということも起きますので、しっかりとした"決まり"が日本にも必要です!

曖昧にひきこもるのではなく、時間を決めてひきこもる

自閉症や発達障害という診断を受けている人で、不登校やひきこもり状態である人の支援に携わることもあります。 私は不登校やひこもりを専門に学んでいるわけではありませんので、やはり自閉症支援の視点からアプローチしています。 不登校やひきこもりの当事者の方と接すると、「脳が疲れやすい人たち」ではないかと感じます。 本人たちは周囲の刺激を遮断することによって心身を休めている。 それがその方の防衛手段であり、回復手段なのだと思います。 本人が必要だから不登校やひきこもり状態になっているとは言え、その状態を無制限に続けること、続けられる環境は本人にとってマイナスなことが多いと思います。 無制限ということは、時間が決まっていないということであり、このような曖昧な状態は自閉症の人が不安に感じることでもあります。 この方は不登校やひきこもりの人ではありませんが、「楽しいことをいくらでもやって良いよ」と言われると、とても不安に感じ、楽しめなくなってしまう、と言っていた人がいます。 どんなに楽しいことでも、終わりが見えない曖昧な状況は、かえって自閉症の人を不安にさせることがあるのだと思います。 「不登校やひきこもり状態である」ということは、そういった状態が必要だから行っている、と私は解釈しています。 ですから、その状態を本人から取り上げることはやってはいけませんし、ますますそういった状態に固執してしまう危険性が出てくると思います。 きちんと本人がわかる形で明確にルールを決め、脳をしっかり休めることのできる環境と時間を確保することが大事であり、そういった時間がきちんと生活の中に確保できれば、次のステップへと進んでいけるのだと考えています。 不登校やひきこもり状態が長期化している方たちの様子を見聞きすると、家族も、本人も、曖昧にひきこもっている場合が多いように感じます。 いつ刺激を受けるか分からない状態だと、常に刺激に備え、ひきこもる必要が出てくるのではないでしょうか。

"ネガティブな出来事"を"過去の経験"にする

自閉症の人たちとお話をしていると、過去の出来事を長く引きずっている人が多くいることが分かります。 背景には、時間という「抽象的な概念を捉えること」が苦手だという特性と関連があると思います。 また「記憶の違い」もありますので、強いインパクトを受けたことがらについて詳細に、生々しく記憶されるという特性とも関連があると思います。 そういった様子やお話を聞くと、フラッシュバックやPTSDなどが思い浮かびますが、私は医師や心理士ではありませんので、自閉症支援の考え方でアプローチしています。 私が行うことは、簡単に表現すると「ネガティブな出来事を"過去"の経験にする」ということです。 私たちが見ると、すでに"過去の出来事"だと思われるのですが、本人からしたら現在進行形のような捉え方をしているといったことがあります。 そんなときは、本人の中で「時間の整理ができていない状態」であると考え、「現在、過去、未来」を一緒に整理しています。 人それぞれ違うのですが、具体的に整理することが有効だと考えています。 そして、本人からしたら"現在進行形"の出来事を"過去"に位置づけられるような支援を行います。 自閉症の人たちは、「忘れることができない」という特性を持っています。 ネガティブな出来事を、特にインパクトの強い出来事ならなおさら"忘れる"という支援は、自閉症の人たちには合っていない方法だと思います。 ですから、きちんと整理して向き合えるような支援を目指しています。 いろいろな方と接して感じるのですが、"ネガティブな出来事"を"過去の経験"へと移せた瞬間から未来へと足を進めていけるのだと思います。

発達障害の人たちの中から被害者も、加害者も出さないように!

先週、書いたブログ 『井出草平氏の「アスペルガー症候群の難題」(光文社新書)を読んで』 のアクセス数が1,000近くになりました。 著者である井出草平氏が、このブログをツイートして頂いたことを始め、他にも著名な方たちに紹介して頂いた結果だと思います。 そして、それ以上に、この「発達障害と触法行為」という事柄に対しての社会(特に関係者の間)の関心が強いことの表れだと思います。 ある親御さんは、私に「この子を犯罪者にはしたくないんです」と言って、支援を求めてきています。 この親御さん以外にも、「このままいったら・・・」「今は年齢が低いので、済まされているけれど・・・」などと言い、切実な問題として訴えてこられる方たちがいます。 また、支援している立場の者の中でも、「学校を卒業したら犯罪を起こすんじゃないか」「施設内だから大きな問題にはならないけれど」「地域には出せない・・・」などという会話が聞かれます。 実際、一般の人なら逮捕や検挙されるようなことを起こしてしまった人も知っています。 これまでの自閉症啓発の仕方や私の住む地域の文化と歴史というのも関係し、発達障害と触法行為を結びつけることを拒絶し、反発する親御さんは多数であり、その親御さんを先導している支援者もたくさんいます。 しかし、親御さんの中には、「いま起きている問題」「将来起きるかもしれない不安」に目をそらさずに向き合い、どうにかしようと行動している方たちもいます。 また、現場の支援者たちも早急に対応しなければならない、と肌身で日々、実感している者が多数います。 私は自閉症の方たちの支援、療育を生業にしていますが、もし私自身、そして家族が被害に遭ったら、例え発達障害を持っていたとしてもその加害者のことを許すことはできません。 これが一般的な人の感覚であり、どんな人も安心した生活を送りたいと願っています。 だからこそ、せめて私が関わっている自閉症の人たちにはもちろん被害者にも、加害者にもなってほしくないと思い、支援に携わっています。 結論ありきの揚げ足取りをしているときではないというのが、私の実感でもあります。 切実な課題意識を持った親御さん、現場の支援者たちの声が、今までの啓発の流れを変える力があると思います。 そのきっかけを作って頂いた井出氏に感謝し、声の大きな人に負けない

相談に来ない自閉症の人たち

あるスクールカウンセラーの方とお話をして、改めて自閉症の人たちにとって"相談する"ということは難しいんだなと思いました。 学校や生活の中でトラブルがあったとしても、実際に相談に来る人はほとんどいないそうです。 私の仕事の依頼でも、本人からの相談がくる場合はほとんどなく、周囲が本人が困っていることに気が付き、連絡されてくる場合が圧倒的に多いです。 自閉症の人たちが相談にたどり着くには2つの関門を超えなければなりません。 まず1つ目の関門は、「自分が困っていることに気が付く」ということだと思います。 「明らかにあなたは困っていますよね~」というような状況でも、本人が気が付いていないことがあります。 例えば、「友人関係で困っているんじゃない?」と質問しても、「困っていないです」と言ったり、「心配なことはありません」と言ったりします。 「じゃあ、〇〇さんと口論にならずに、仲良く話ができるようになったらいいなと思うんじゃない?」と具体的に聞くと、「そうなんです!」と言ったりします。 自閉症の人たちは言葉を厳密に受け取る傾向がありますし、言葉の概念も一人ひとり違いますので、このように尋ね方にとって受け取り方に違いが出てくることがあります。 困ったことはなくても、改善したいことはある場合があります。 自分自身が困っていることに気が付くには、自分自身を客観的に見る力が求められます。 また周囲の状況を適切に読み取り、事の重大さに気が付く必要もあります。 そして"トラブル"という複雑な要素が絡み合っていて、かつ抽象的な概念を正しく理解しなければなりません。 これらのことは、自閉症の人たちが苦手とする部分と関係しているので、大部分の人がこの第1関門で止まってしまいます。 (本人たちが気が付く"困ったこと"は、目に見えてわかる失敗や具体的な心配事の場合が多いです) 第1関門を通り抜けられたとしても、再び立ちはだかる第2の関門があります。 それは「相談を実行する」ということです。 相談するには、相談相手を決めなければなりません。 そして日時を決め、自分の予定と相手の予定を調整しなければなりません。 相談したあとは、どうなるのか、また、どうするのか、といった点も考える必要があります。 実

井出草平氏の「アスペルガー症候群の難題」(光文社新書)を読んで

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業界内では、話題の著書 井出草平氏の「アスペルガー症候群の難題」(光文社新書) 私も発売日に購入し、一気に読んでしまいました。 なかなか発達障害と触法行為についての書籍や論文がありませんので、発売前から楽しみにしていました。 今までの書籍や論文とは異なり、事象だけではなく、日本の自閉症支援をリードしてきた専門家や機関がどのような言動を行ってきたのか、まで記されていました。 この本を読んだ率直な感想は、「こんなことまで書いて大丈夫かな」という思いでした。 その予想通りの結果となり、発売して間もないのですが、関係者たちから酷評されています。 私もいろいろな意見を見聞きしました。 普通の新書なら「嫌だったら読まなければいい」ということになると思うのですが、そうとも言えない事情があるようです。 確かに「発達障害=危険な人たち、犯罪者」というようなイメージが世の中に広まるのは避けなければならないと思います。 でも、だからといって、このような課題に取り組まなくて良いということにはなりません。 この著書に対する批判の中に「発達障害者が起こす犯罪数は、定型発達の人の起こす犯罪数よりも多いということはない」というような意見がありました。 しかし、そんなことはどうでも良いのではないかと思います。 定型発達の人の中にも犯罪を犯す人もいます。 だから、発達障害の人の中にも犯罪を犯す人がいるのは容易に想像できることです。 注目すべき点は、「発達障害を持った人が犯罪を犯してしまった」という事実ではないでしょうか。 注目すべき点は、「定型発達の人が犯した犯罪と、発達障害を持った人が犯した犯罪の"違い"」ではないでしょうか。 私が関わる自閉症の人たちの中にも、このままいったら犯罪を犯してしまうのではないか(もう起こしている!?)というような人もいるのが実際のところです。 いじめや周囲の無理解といったネガティブな経験が誤った行動と結びつくといった後天的な要因もあります。 でも、それだけでは説明できない事例もあり、やっぱり自閉症の特性、具体的に言えば、"想像性の違い"という中核的な特性と関係していると感じることもあります。 詳しく書けませんが、「他者からどう見られるか」「自分の言動がどのような影響があるか」など、想像

受容から一歩前へ

「この子たちは、生きているだけで素晴らしいんですよ!」 「この子たちは、十分頑張っています。変わるのは社会の方なんです!」 などと、有名な先生は仰っていた。 確かに、この世に生まれてきた人は、すべて意味があって生まれてきたと思っている。 生きていることは素晴らしい。 でも、だからと言って、その人自身は成長しなくても良いのだろうか。 でも、だからと言って、社会だけが変われば良いのだろうか。 障害を持って生まれてきたことが分かったとき、親御さんの気持ちは絶望、不安、ショックなどという言葉で表せないと思う。 そんなとき、親御さんの心に寄り添うことは支援者として唯一できること。 冒頭の言葉は、受容できる前の親御さんへのメッセージ。 でも、いつまでも温かいメッセージを受け取り続けるわけにはいかない。 子ども自身は、日々、大人へと向かい歩み始めている。 私たちが生きる社会は、夢の国ではなく、現実の社会。 厳しい社会の中で生き、充実した人生を送るためにも成長が必要だし、子ども達自身もそれを望んでいる。 それに合わせて親御さんも足を前に進めていかなければならない。 敢えて耳触りの悪いことを言うのも支援者の役目。 過去に、そして今も、親御さんたちを夢の国に連れていこうとする支援者の功罪は軽くない。 私は夢の中ではなく、現実に生きる支援者でい続けよう。

周りをコントロールすることは難しい

先日のセッションでの話。 トイレで手を洗っていたら、トイレに入ってきた同級生に「お前は手を洗っていない」と言われたとのこと。 そのとき、腹が立ち、相手に言い返そうとしたが、我慢した。 でも、その日は一日気持ちが収まらず、ずっと部屋にこもっていたということでした。 よく話を聞くと、同級生の態度や言い方に腹が立ったわけではなく、自分は手を洗っているのにその事実と異なることを言われたことに腹が立ったそうです。 (ここは定型発達の人と注目するポイントが異なると感じました) どうしてそのようなことを同級生が言ったのか、まではわかりませんでした。 もしかしたら、相手はからかって言ったのかもしれまんし、手の洗い方が不十分だったかもしれませんし、過去に手を洗っていなかったことを指摘したのかもしれませんし、見間違いの誤解かもしれません。 こういった場合、同級生に本人の特性などを伝え、接し方の留意点を伝えるという支援方法もあります。 でも、私はこの支援方法は選択しませんでした。 理由は、周りをコントロールすることには限界があるからです。 たとえコントロールできたとしても、最後には必ず行き詰まってしまう。 限られた世界で、限られた人間としか接しないのなら、もしかしたら周囲の環境をコントロールできるかもしれません。 でも、それができたとしても、不測の事態はどうしても起きますので、完全にコントロールすることは無理でしょう。 一般的な生活を送っていれば、自分が嫌だと思う出来事も、人も、避けることはできません。 ですから、私は周りをコントロールする支援方法に懐疑的な立場です。 では、実際にどのようなセッションを行ったというと、本人と一緒にその出来事を振り返り、対応の仕方と考え方の勉強をしました。 言い返そうとしたが、自制できたことは良かったこと もし言い返したら、さらなるトラブルが考えられること 腹が立ったという高まった気持ちを静める方法 世の中には、事実以外を言う人もいること などを一緒に学びました。 「我慢して言い返さなかったことは、大人の対応だったと思うよ」と伝えると、「そうですか」と言い、表情が穏やかになっていました。 周囲をコントロールしようとしても限界があります。 また原因を外に求めるため、"本人の成長"

問題なのは"対応の仕方"ではなくて"教育の質"!

学校や支援機関などで繰り返される誤った解釈による責任のなすり合い。 「〇〇さんの対応の仕方がよくない」 「〇〇さんのときだけ、子どもが問題行動を起こす」 「新人や実習生、見学者が入ると子ども達は落ち着かないよね」 このような会話を耳にするたびに思うことがある。 それは、問題なのは支援者の対応の仕方ではなく、"支援者の教育の質"ということ。 支援者の対応に左右されるということは、自分の中に正しい行動規範を持てていないということであり、そのような状態の人に育ててしまっている教育の至らなさの方が問題である。 そもそも支援者は一人ひとり経験も、専門性も、センスも異なるのだから、全員が同じ対応ができるわけはない。 また特定の集団の中だけ統一した対応ができたとしても、世の中に出たら障害特性について理解し、正しい対応ができる人はほとんどいない。 だからこそ、周囲からどのような対応をされようとも、適切な行動がとれるように教育をしていく必要がある。 適切な判断基準を自分の中に築き上げていくことが教育に求められること。 厳しいことを言うようだが、ちょっとやそっと変な対応をされたからといって、行動がゆがんだり、混乱しているようではいけない。 自己の中に正しい価値判断を確立できている人は、たとえ障害を持っていたとしても社会の中でたくましく生きている。 子ども達の中にも、周囲からどんな対応をされようとも、実習生や見学者が来ようとも、まったく動じず望ましい言動ができる子たちはたくさんいる。 将来、社会に出たときに生き抜いていけるように導くことが教育の目的だろう。 だから今すぐくだらない責任のなすり合いは止め、今までの自分たちの教育を反省し、未来に向かって改善しなければならないと思う。 正しい価値基準を他者ではなく、自分の中に!

「協力」と聞いたら、役割分担を始めます

この前、「ああ、自閉症の人らしい捉え方だな」と思ったことがありました。 それは、ある講義で「協力して課題を完成させなさい」と先生より指示を受けた場面でした。 定型発達の人たちのチームは、お互い意見を出し合ったりしながら、内容や方法、主張などを変化させ、1つの課題を完成させていました。 しかし、自閉症の人のチームは、最初にそれぞれの役割分担を行い、それぞれで課題を行い、最後に1つにまとめて課題を完成させていました。 結果から言えば、どちらのチームも"協力して課題を完成させた"ことにはなりますが、自閉症の人のチームは"協力する"という意味に気が付いていないようでした。 協力するということは、一人で行うよりも様々なアイディアが出やすく、より高い質と効率性が得られます。 また協力することによって、チーム内の人と人との交流が増え、団結心や友情、達成感の共有などを育み、より良い人間関係を築くといった側面もあります。 しかし、効率性以外は目に見ることができません。 自閉症の人の目を通すと、協力するということは「役割分担する」というようにしか見えないのだと思います。 確かに、他のチームの様子から見える部分は役割分担している姿だけです。 誰も「協力するっていうことは、お互いの意見を調整して、より良いものを完成させることだよね」とか、「協力すると、団結心が育まれるよね」とは言っていませんでした。 「協力して課題を行うと、このような意味や効果があるんだよ」と自閉症の人のチームのメンバーに伝えると、皆さん一様に驚いた表情をし、「そんな意味があるんですね!」と言っていました。 幼いときから遊びや学校生活を通して経験してきた"協力する"でしたが、見えない意味や効果を教えてくれる人はいなかったそうです。 定型発達の人たちが経験を通して自然に気が付く点も、自閉症の人には気が付かないということがわかる場面でした。

どんな職場を選べばいいの?

一般就労を目指す方から「どんな会社が良いですか?」と尋ねられることがあります。 大前提は、「その仕事を行うだけの能力が本人にあること」だと思います。 そして、「その仕事自体に本人の興味関心があることがあるか」という点だと思います。 この2点は、働く側で確認しておくポイントだと考えています。 では、会社側の確認ポイントと言われたら、私なりにいくつかあります。 例えば、その会社の離職率です。 年がら年中、「職員募集」となっているところは危険です。 それだけ職員が辞めてしまうということは、仕事自体が大変か、働きやすい職場ではないことが想像できます。 そうなると、そこで働いている職員は余裕がないことが多く、また多くのストレスを抱えていると考えられます。 もし、そのようなところで自閉症の人が働こうとすれば、丁寧に教えてくれなかったり、最悪の場合にはストレスのはけ口になってしまう危険性があります。 例え事業拡大による人材不足の「職員募集」であったとしても、事業が拡大とするということは場所や人、システムの変化が多く、落ち着きのない職場になりがちなので、どっちにしろお勧めはしていません。 あとは経営システムです。 全国的な会社なら障害者雇用に関するシステムが整っている可能性が高いので良い反面、融通が利きづらいということがあります。 その支店の店長に決定権がない場合が多く、採用や待遇面で柔軟的な対応ができないことがあります。 その分、地元の小さな会社なら融通を利かせてもらいやすいですが、障害を持った人に対するノウハウはあまり期待できません。 この他にも、社員とアルバイトの比率、社員の人数、経営状況、社外活動の有無、そして1番大事なことが「過去に障害を持った人を雇ったことがあるか」という点です。 雇ったことのある人は、どのような障害を持っていたのか? その人はどのくらい働いているのか? いつから障害を持った人を雇い始めたのか? 障害を持った人の離職率は? などの点を確認することも仕事に就いたときのことを想像するのに参考になると思います。 よく「障害を持った人が働きやすい職場はどこですか?」と質問を受けますが、はっきり言えば、福祉的な職場を除いたら、全国を探してもほとんど見つからないのが現状だと思います。 最初から障害者雇用に意識の高い

正しいときこそ、"正しい"という評価を伝えよう!

昨日は"褒めること"について文章を書きました。 でも、私が言う"褒める"は一般的な意味よりも、「"正しい"という評価を伝える」という意味の方が強くあります。 自閉症の人は、自分自身のことを客観的に見ることが苦手です。 また周囲からどう思われているかを想像することも苦手です。 そうなると、自分自身が行った言動に対する評価が良く分からないことがあります。 失敗したときは、自分が失敗したことに気が付きやすいと思います。 何故なら、"失敗"というのはできないことを指すことが多く、自分の目で見てできなかった状態というのはわかります。 また対人面での失敗なら、相手から叱責されるといったようなネガティブなリアクションがあるからわかります。 でも、正しいことをしたときというのは、その言動自体が正しかったということを自分自身で気が付くことは難しいといえます。 例えば、TPOに合った服装を選んだり、きちんとお礼が言えたりしても、自分自身で正しいかどうかを見て分かりませんし、一般常識からいって当たり前のことに対しては、誰も褒めてはくれません。 ですから、失敗したときに比べて、正しいことをしたときはそのことに気が付きづらいといえます。 よって、自閉症の人は自分が行っている正しいことには気づかずに、失敗したことばかり気が付いてしまうため、自己評価が低くなってしまうことが多々あります。 このような理由から、私は自閉症の人が正しいことや望ましいことをしたときには、そのことを伝えるようにしています。 そうすることにより、自閉症の人が「自分のやっている行動は良いんだ」と気が付いてもらえるからです。 自分の言動が正しいことが分かれば、「その言動をまたやってみよう」という自信や動機づけにつながると考えています。 ただ闇雲に褒めているわけでありませんし、褒めるということ自体にモチベーションを上げるという効果が強くあるとは思っていません。 「その習慣は良いと思うよ」「その考え方は素晴らしいね」など、「私はあなたの考え方(行動)を指示します」というメッセージはきちんと伝えようと心掛けているだけです。 あくまで本人の気づきのための"褒める"ということです。

「自閉症の人を褒めましょう」というトレーニングは受けていません(笑)

自閉症の人からは 「大久保さん、本当に僕(私)のことをよく褒めてくれますよね」 親御さんや支援者からは 「この子の良いところを見つけることが上手ですよね」 などと言われます。 「どうしてそのような見方ができるの?」 「特別なトレーニングを受けているの?」 「強調して褒めることが〇〇という療育なの?」 などと質問されることもあります。 どうしてその人の良い点が見つけられるかといったら、幅広い年齢、特徴の自閉症の人たちと出会ってきたからだと思います。 どうして褒められたことが相手の印象に残るかといったら、具体的に褒めているからだと思います。 褒め方も自閉症の人への伝え方なので、この伝え方に関しては専門的なトレーニングを受けた成果だと思います。 しかし、「自閉症の人に対しては意識して褒めましょう」などという指導は受けたことはありません。 ただノースカロライナに行ったとき、支援者たちがよく自閉症の人たちの素晴らしい点を本人たちに伝えている姿を目にしました。 私が自閉症の人たちに対して良い点を伝えるのは、自閉症の人たちの視点や能力は素晴らしいと心から思っているからです。 決して「自閉症の人たちは障害があって可愛そうな人たち」だとは思っていません。 ですから、私が称賛しているときは、本当に素晴らしいと感じているときです。 今まで無意識にやっていたことなので、改めて振り返ってみると、このようなことが背景にあるのかな、と思いました。 過去に「褒めましょう」などというトレーニングは受けたことがありませんでした(笑) 自閉症だから褒めるのではなく、素晴らしいと感じたから相手にその気持ちを伝え、改めた方がよいと思ったからその点を伝えているだけです。 自閉症の人たちに称賛する気持ちが伝わったときは、私自身も嬉しく思っています。

褒められると戸惑ってしまう

困ったことや失敗したときの表情やしぐさはできる。 でも、褒められたり、ポジティブな感想を言われたりすると、無表情になったり、戸惑った表情をする、といった自閉症の人に多く出会います。 不安や緊張は本能に近い感情ですので、学習しなくても自然とそのような表情ができるのだと思います。 でも、褒められることなど相手から称賛されることは社会性を持つ動物間にのみ見られるので、どのような表情や行動をとったら良いか、学習していく必要があるのだと思います。 ですから、相手から称賛されるときの適切な反応の仕方を学んでいない人は、どう反応したら良いか分からず、無表情になったり、戸惑ったりするのだと思います。 このような未学習という要素以外に、こんなことを言う自閉症の人もいます。 「今まで褒められたことがなかった」と。 人生でまったく褒められたことのない人はいないでしょう。 ただ"褒める"という行為自体、抽象的なので本人に褒められていることが伝わっていないことが多いのだと思います。 また自分自身の立ち位置や状況を自分自身で把握することが難しいため、どうしても他者と比べて自分はどうなのか、と見てしまう。 そうすると、他人と比べてできないところばかり意識してしまい、褒められたことよりも、ネガティブな記憶ばかりが強くなってしまうのかもしれません。 相手から褒められたときのリアクションの仕方を学ぶこと。 褒めるときは具体的にどんなことに対して称賛しているのかを伝えること。 この2点の必要性を感じます。

美味しいご飯の喫茶店に入ったら、そこに障害を持った人が働いていた

地域に"障害"を前面に出したお店がたくさん(ほとんど?)ある。 中には看板に"障害"という文字を入れているところまである。 "障害"を前面に出し、大きくPRする意図はなんだろうか? "障害"を前面に出すことで、そのことを知らないで入ってくるお客さんを減らし、誤解から生まれるトラブルを減らそうとしているのだろうか。 それとも、「"障害"を持っているけれど、頑張ってます。是非、買いに来てね」と言っているのだろうか。 商売を行うということはお客さんからお金を貰うことであり、対価に見合うサービスを提供する必要がある。 「"障害"があるから対価に見合うサービスは提供できないけれど、勘弁してね」というのでは、お客さんは納得しない。 第一、"障害"が全面に出たお店を目にしたとき、一般のお客さんはどのように感じるのだろうか。 結果的に、"障害"を持った子どもの家族や、学校や福祉施設の支援者ばかりがお客さんになってしまうのではないだろうか。 これは本当に当事者の方たちにとって幸せな就労の形だといえるのか。 障害を持った方たちのコミニティーとして存在しているお店があっても良いと思う。 でも、中には"障害"を前面に出したお店で働きたくない、という当事者の方もいる。 「障害のない人と一緒に働きたい」と思う、また働ける能力を持った方たちも、この地域にはたくさんいる。 そういった方たちのためにも、敢えて一般の人たちとの間に境目を作るようなことは減らしていってほしいと願っている。 私の理想は、美味しいご飯の喫茶店に入ったら、そこに障害を持った人が働いていた、というようなお店がこの地域に増えること。 やっぱりお客さんはたくさん来てほしいし、対価に見合ったサービスを提供できることは働くことの喜びにつながると思う。

程よい距離感を持った支援者

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支援や療育で関わらせてもらっている親御さんたちから「この子が大人になっても一生、力になってくださいね」と言ってもらえることがあります。 『てらっこ塾』は大きな組織や行政の機関ではないので、大久保という個人を信頼してくれていただけていると感じます。 このような言葉は本当に励みになります。 民間で自閉症支援を行わせてもらっている強みとして、長期にわたって同じ支援者が関わることができるという点が挙げられます。 ですから、この地域にいる限り、彼らの生活が豊かになるような実践を行っていきたいと思います。 ただ関わり方自体は、年齢や本人の状態に合わせて変化していかなければならないと思っています。 ときに、支援者は本人の成長の妨げになることもあると考えています。 同じ支援者が長期にわたって支援していると、依存関係になりやすいと感じています。 それは本人ももちろんですが、親御さんも「〇〇さんに任せておけば良い」という気持ちになりやすくなります。 支援者と依存関係になると、敢えて難しいことや苦手なことに挑戦しようという意識が薄くなったり、狭い視点で支援が展開されたりする危険性が出てきます。 長い目で見て、私は敢えて手を貸さないことも、本人の成長にとっては大切だと考えています。 自閉症という障害を持っているかもしれませんが、その人の人生はその人のものです。 良いことや悪いことも含めて本人の人生です。 自分の人生を主体的に歩めるようになるまでは積極的に関わっていきます。 でも、ゆっくりかもしれませんが、本人の足で自分の人生を歩み始めた人に対しては、徐々に距離を離れていき、本人が困ったときに、そっと駆けつけられるような程よい距離感を持った支援者になっていきたいと思っています。 紅葉し始めた大沼からの景色

自閉症の人たちと食事をすると

「職場の同僚から食事に誘われて行くんだけれど、ご飯食べたらすぐに帰ってくるんですよ~」 と、ある親御さんは息子さんのことを言っていました。 私も自閉症の人たちと食事をする機会が多くありますが、同じような様子はよく見られます。 食事が運ばれてくるまでは話をしたりしますが、ごはんが目の前に来たとたん、そちらの方に意識が切り替わります。 定型発達の人だったら、他者と一緒に食事をしていると、食べながら話をしたり、相手の食べるペースを意識したりしますが、そのような様子はほとんど見られません。 自閉症の人は一点に意識を集中させる傾向がありますので、食べるんだったら食べる、話をするなら話をする、というように態度がはっきりしています。 私はこのような自閉症の人たちの好みがわかりますので、黙々と食事をしていることが気になりませんし、話がしたいときは食事が運ばれてくる前か、食べ終わったあとにお話をするようにしています。 ただ注意しなければならないのは、食事が運ばれてくる前は良いのですが、食べ終わったあと、すぐに帰ろうとすることです。 食事が終わったのだから目的は達成されています。 食事が終わったら、席を立つのが当然だと思いがちなのが自閉症の人です。 ですから、お話がしたいときは、「食事が終わったら、〇分くらいお話がしたい」と、事前に伝えるようにしています。 このように事前に伝えられれば、相手の気持ちに気が付き、一緒に会話を楽しむことができますので。 この文章の最初に示した親御さんのエピソードの彼は、同僚からの食事の誘いを字義通りに受け取っているかもしれません。 食事の誘いは、食べることがメインのように表現されていますが、本来は「一緒に話をしようよ」という意味合いが強いといえます。 「本人はそのことに気が付いていないかもしれませんね」とお話しさせていただきました。

未来を創造する大学!

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大学の中にカウンセラーだけでなく、自閉症の専門家を入れるということは、すごいことだと思いませんか! このお話をいただいたとき、自閉症の人たちが安心して学べる環境づくり、システム作りの大きな一歩になると確信しました! 以前に 「東京大学に自閉症の専門家を!」 でも書いたのですが、絶対これから必要になってくることだと思いますし、近い将来当たり前の姿になると思います。 昔と違い自閉症と診断を受けて、大学に進学する人が多くなりました。 自閉症の発症率も増加しています。 各大学や専門学校で自閉症の学生に対応した環境を提供することは、これからやらざるを得ない時代にますますなってくると思います。 少子化で、どんどん大学がつぶれる時代です。 ですから、特色のある大学づくりの1つに「自閉症の人に安心して学んでもらえる大学です」というのも当然入ってくるでしょう。 大学になると、高校時代までとは異なり、自分で学びを組み立てたり、チームで学びを進める機会が多くなります。 ディスカッション形式の講義も増えています。 また大学以外でも、親元を離れて暮らし始めたり、アルバイトなどを行ったりすることもあるでしょう。 だからこそ、大学でも、大学生活でも、自閉症を専門にしたサポートが必要なのです。 大学と自閉症の専門家のコラボレーション。 まだまだ全国的には珍しい取り組みをこの函館から、そして自分が携われることに興奮しています。 このような柔軟で、時代の先を読む大学と出会えたことに心から感謝し、まさに未来を作る若者のために頑張っていきたいと思っています! 常に時代の先を見て、若者たちを育てる大学

自閉症のポジティブな情報の数を増やしていこう!

自分が「自閉症じゃないかな」と感じている人や、自閉症と診断された人が、インターネットや本などで自閉症について調べたことがある、という話は良く聞きます。 こういう話を聞くたびに思うのですが、とても危険なことだな、と思います。 特にインターネットで「自閉症」を検索すると、圧倒的にポジティブな情報よりも、ネガティブな情報が出てきます。 自閉症の人が苦労している話や「こんなことが苦手です」といった内容、自閉症者に対して中傷する内容も多く出てきます。 定型発達の人の場合、インターネットに書かれている内容はすべての事実を表していないことや、極端に強調されて表現されていること、ネガティブな情報ばかりだがポジティブな情報も実は書かれていないだけで存在していることを想像することが自然にできます。 しかし、自閉症の人の場合、書かれている内容以外を想像することが苦手であったり、視覚的情報に強く反応する傾向があるため、書かれている文字が強烈に脳にインプットされることがあります。 また単純に目の前に現れる分量で比較して「ポジティブな情報よりも、ネガティブな情報の分量が多いのだから、自閉症とはネガティブなものだ」と捉えてしまうこともあります。 ですから、実際にお会いする自閉症の人の中で、ネットなどの情報から判断し、「自閉症はネガティブなもの」と思っている人が多くいます。 自閉症の特性として、いろいろなことがありますが、その特性は長所と短所が表裏一体になっているといえます。 決められたパターンを好むという特性は、良い面で言えば、きちんと物事を行うことができるということであり、悪い面で言えば、融通が利かないということになります。 私が日々、自閉症の方たちと接する中で大事にしていることは、自閉症のポジティブな情報を彼らに伝えることです。 ネガティブな情報は、嫌と言うほど目にし、経験している方たちです。 ですから、本人たちの持っている自閉症情報の中で、ネガティブな情報の量よりも、ポジティブな情報の量が増えるように、と心がけています。 よく自閉症のポジティブな部分を伝えると驚く当事者の方がいます。 それだけ自閉症のポジティブな情報は少なく、本人たちも気が付いていないといえるのだと思います。

久しぶりに出会った「自閉傾向」の人

自閉傾向って何だろう?? 学生時代、とても疑問に思ったことです。 自閉症の診断基準が決められて存在しているのですから、自閉症か、自閉症ではないか、しかないのでは、と当時、私は思っていました。 まあ、10年以上前のことですから、まだまだ診断できる医師も少なく仕方ないのでしょう。 時が過ぎ、最近、久しぶりに「自閉傾向」と診断された方にお会いしました。 未だに「自閉傾向」などと診断する医師がいるのか、と驚いてしまいました。 その方に「自閉傾向ってどういうことだろうね?」と尋ねると、「ちょっと状態が悪くなると、自閉症になるということですかね」と言っていました。 「自閉傾向」という診断名の功罪は小さくないと思います。 診断された本人や親御さんとしたら、「状態が良くなれば、自閉症ではなくなる」「ちょっと自閉症の特徴があるだけ」などと考えることもあります。 また"傾向"という曖昧さに、「自分(我が子)って何だろう」と、不安に感じることもあります。 結果として、自閉症の特性の部分へのアプローチが遅くなるということが見られます。 診断する方からしたら、本人や親御さんの気持ちに配慮しているのかも知れません。 でも、結果的に本人やその家族をより不安に感じさせたり、適切な支援が受けられなくなったりすることにつながります。 自閉症の診断は専門的な知識とトレーニングが必要ですので、もしかしたら「自閉症」と確定するのには自信が無いのかもしれません。 だったら、自閉症の専門の医師を紹介したり、「自分には難しい」と言ってほしいと思います。 「自閉傾向」と診断された方の多くは、告知のときに、きちんと自閉症について説明されていません。 それはそうだと思います。 診断する側がきちんと自閉症であると捉えられていないのですから。 今は1,2歳から診断できる時代です。 適切な自閉症の部分へのアプローチを開始するためにも、きちんと診断が受けられるようになってほしいと思う最近の出会いでした。

2014年後半戦突入!

10月に入り、2014年度も後半に突入しました! 9月に大学と業務提携という契約を交わし、下旬より大学の中に入り、支援を行わせていただいています。 まだ携わって日が浅いですが、発達障害を持った学生が少なくない印象を受けました。 発達障害の学生は、学力はあるものの、チームで活動を行ったり、自分で計画を立てて講義や論文を作成したりしなければならないことに苦労している場合が多くあります。 高校までの学校生活とは大きく異なる大学生活を安心して学ぶことができ、社会へ飛びだってもらえるように応援していきたいと思います。 全国的に見ても、カウンセラーではなく、発達障害専門のスタッフを中に入れることは珍しいことだと思いますので、是非、大学の職員の方たちにも「大久保を入れてよかった」と思っていただけるように頑張っていきます! 全国の大学に、発達障害専門スタッフが入る日が来るまで☆

季節の変わり目が苦手

「季節の変わり目が苦手」という自閉症の人は少なくないと思います。 変化が苦手な人は、衣類や使用する物が変わることに不快感を持つ人もいます。 また感覚の違いを持っている人の中には、定型発達の人が気がつかないような光や湿度、においなどの気候の微妙な変化に気づき、不快感を持つ人もいます。 てらっこ塾を利用してくれる人の中にも、先月あたりから心身の不調を訴える人がみられるようになりました。 過去に関わっていた人の中にも、季節の変わり目が苦手で不調に陥る人もいました。 関わりのある自閉症の人を数年単位で見ていくと、同じような時期に、同じような不調を訴える傾向があるように感じました。 「年度の変わり目や行事の前後など、イベントの前後に不調になるな」 「やっぱり夏から秋に変わる時期に調子が悪くなる」 など、感覚的に気が付いている本人や周りの人もいます。 年間のバイオリズムを記録することは、有効な工夫の一つだと思います。 年間の心身の状態を把握することができれば、不調になる前に対策、準備をとることができます。 勉強や仕事のペースを緩めたり、引っ越しなどの予定を別の時期にずらすことができます。 また支援者としても、心身の不調になったからといって慌てて対応する必要はなく、どのくらいに調子が戻るかが予測でき、落ち着いて支援に臨むことができます。 支援方法自体に問題があれば、すぐに変える必要がありますが、もし年間のバイオリズムから見て不調になる時期でしたら、問題のなかった支援方法を変えることで、さらに不調にさせてしまう危険性があります。 そのときの心身の状態を把握することは大切ですが、年間を通した心身の変化を把握しておくことも同じように大事だと思います。

良い支援者は自分の役割を認識している

自閉症支援を実践する力があるからといって、他者に説明することがうまいとも限らない。 反対に、他者に説明することがうまいからといって、良い実践ができるとも限らない。 自閉症に関する知識をたくさん持っているからといって、実践がうまいとも限らない。 反対に、実践がうまいからといって、自閉症に関する知識をたくさん持っているとも限らない。 いろいろな支援者とお会いしたり、一緒に仕事をしたりしますが、「実践する力」と「他者に説明する力」はイコールではないと感じています。 実践する力と、説明する力は別々のスキルで異なっている。 ですから、両方のスキルアップには、それぞれトレーニングが必要なのだと思います。 また、同じように自閉症に関する知識や経験値イコール実践力にもならないと思います。 支援者の役割は、それぞれの仕事で異なっています。 啓発することが役割であったり、他者にわかりやすく説明することが役割であったり。 支援者を育てることが役割の仕事もあれば、支援者同士が円滑に支援できるようにコーディネートする役割の仕事もあります。 それぞれの仕事には、それぞれの役割があるので、その人が「どんな力を持っていて、どんなことができるか」ということよりも、役割に応じた行動とそれを担える適当な人を充てることが大切だと日々、感じています。 この前提が崩れてしまうと、より良い支援を行うために存在する支援者が支援の足を引っ張ってしまうということも起きてしまいます。 私の仕事の役割の1番は、より良い実践をすることです。 そして、その実践を本人や親御さんに分かりやすく説明することが、自分に与えられた役割だと考えています。

自閉症の人が『雑談』が苦手な理由

自閉症の人の中には、「雑談が苦手」と言う方が多くいます。 実際に話をしている様子をみてみると、雑談ではなく、結論を出そうとしていて議論のような会話をしているな、と感じることもあります。 雑談はそもそも「意味がない」ことが大切です。 意味がある会話、結論の出る会話は、議論になってしまうからです。 定型発達の人は、雑談には意味がないことや、言葉のやり取り自体が目的であることを感覚的に知っています。 しかし、自閉症の人は、この雑談の目的に気が付きづらく、言葉を字義通りに受け取る傾向があるため、1つ1つの会話の内容に真剣に答えようとします。 また雑談ですので、会話の内容が次々に変わります。 そうなると、会話の意味を追いかけて理解するだけで疲れてしまいます。 結論を出してしまうと会話が終わってしまうので、結論を出さないで目まぐるしく会話の内容が変わる雑談についていくことは大変なことです。 雑談は言葉のやり取りを行うことが目的で、そのやり取りを通して人間関係を円滑にしています。 その雑談が苦手な場合、学校や会社などでの人間関係を築くことが難しかったり、雑談に参加すること自体に大きなパワーを使ってしまうこともあります。 会話を行う相手も、論理的な話し方で常に結論を出そうとする人とは会話を楽しめないと感じやすいものです。 定型発達の人が自然と意味を理解し、意識しなくてもできてしまう"雑談"についても学ぶ必要があります。 雑談には、「結論を出さない」というルールがあること。 話の内容自体はどうでもよく、会話のやり取り自体を楽しむことといった意味があること。 (過去に意味のない会話をする意味があるのか!と怒る方もいました) 相手の話したことに対する返事は相槌くらい軽いものでよく、会話の内容は聞き流しても構わないこと(実際、ほとんどの人は雑談の内容を真剣には聞いていない!) などを1つ1つ学んでいく必要があります。

『樹陽のたより』に参加してきました!

今日は、ひきこもり当事者・経験者の集い「樹陽のたより」に参加してきました。 一言で表現すると、大変居心地の良い空間&時間! 当事者の人たちが、自分の心に浮かんだことを自分の言葉で語ってくれて、気づかされることも多く、楽しい時間を過ごすことができました。 話題の中で出てきた「BeingとDoing」という言葉。 世の中全体、余裕がないため、常に何かをすること(Doing)が求められます。 でも、そんな状態ばかりですと、疲れ果ててしまいます。 ですから、いてくれているだけでOK(Being)という実際の場所でも、心の空間でも、このようなところが必要だ、という話でした。 私も前々から「自閉症の人たちが心を開放できる場所を作りたい」と考えていました。 サークルのような形態もいいのですが、それよりも常時開放されているような場所ができたら、と思っています。 ふらっと立ち寄って、そこに行けば、理解者がいる。 日常生活の中では、自閉症を隠して生活している人たちもここにくれば、自閉症をオープンにできる。 私が目指している「自閉症のままで生きられる」を場所で表現したいです。 場所と空間をコーディネートする人員が課題ですが、是非この函館で実現したいと思っています! 一緒に行った発達障害の友だちが「有意義な時間だった」と言っていたように、私にとっても有意義な時間でした。

「〇〇君の支援に携わって、いろいろと勉強になりました」って言ってイイの!?

よく謙遜の気持ちからか「〇〇君の支援に携わって、いろいろと勉強になりました」「〇〇ちゃんから教わることが多くて、私にとって先生のような存在です」などと言う支援者がいます。 しかし、このコメントを聞いた親御さんの多くの本音は、「私の子で勉強しないで」というもの。 私もいろいろな世代の親御さんたちとお話しますが、皆さん、このようなことを言われた経験があり、ほとんどの方が不安や不快な気持ちになっていることが分かります。 定型発達の子ども達もそうだと思いますが、自閉症の子ども達の時間というものは、とてもかけがえのないものであり、将来の生活まで大きな影響を与えると思います。 定型発達の子どもの場合、まだ未熟な先生が担任になったとしても反面教師にして成長の糧にしたり、どうやって補っていけばよいか想像することもできます。 しかし、自閉症の子ども達にとっては「反面教師」という存在はなく、みんなが正しい先生であり、そのままの形で大きな影響を受けることがあります。 「この先生は、まだ経験が浅いな」とか、「この先生の言っていることすべてが正しいわけではない」などと、想像力を働かせて解釈し、その結果、行動を起こすことが自閉症の人は苦手だからです。 私も偉そうに言いますが、すべての療育が成功するわけではありません。 でも、自分の療育が目の前の人に大きな影響を与えることは認識しています。 ですから、極力、誤ったり、失敗したりしないように準備や勉強を重要に捉えています。 言った方は何気ない発言かもしれませんが、「勉強になりました」という言葉は親御さんを不安な気持ちにさせます。 どの親御さんも、携わる支援者の影響の大きさを認識していますし、子どものうちに多くの正しいスキルを身に付けて欲しいと願っています。 我が子との時間を支援者のスキルアップのためだけに使ってほしくないのです。 よく本で読んだことや研修してきたことをすぐに実践したり、流行の支援方法を取り入れたりする支援者もいますが、これも考え物だと思います。 自閉症支援の基本は『一貫性』です。 「今までの積み重ねは?」「これからも引き継がれていくの?」 これも受け取り方にとっては、我が子を実験台に使っているような印象を受けることもあります。 謙虚な姿勢や子どもから学ぶ姿勢は大切だと思います。 でも、自

頑張る部分と頑張らない部分

現在、てらっこ塾を利用してくれる方のニーズとしては、スキルアップしてほしいというような依頼が全体の1割程度であり、残りの9割が本人や周囲の人が困っていることをどうにかしてほしいという依頼です。 圧倒的に困った行動に対する依頼が多いのですが、そのとき、気をつけていることがあります。 それは、その困った行動の背景に自閉症の特性があるか、ないか、という点です。 「奇声を上げて困っている」 「ネガティブな考え方から脱せなくて困っている」 「自傷や他害行動に困っている」 「学校の授業を受けられなくて困っている」 など、いろいろな内容で依頼が来ます。 しかし、すべての行動が自閉症故の行動かといったら、そうでないことも多いと感じます。 自閉症の人の中には、奇声を上げる人がいます。 しかし、自閉症だからと言って、みんなが奇声を上げるわけではありません。 奇声を上げてしまうことの背景、つまり自閉症の特性がどのように影響しているのかに注目します。 そして、その背景に自閉症の特性の部分が絡んでいれば、その部分にアプローチするようにしています。 例えば、言いたいことがうまく表現出来ないことであったり、環境からの刺激に圧倒されてしまっていたり。 中には奇声を上げることで、自分がやりたくないことから逃げ出そうとする人もいます。 こういたった場合、注意が必要です。 奇声を上げることはコミュニケーションの苦手さという自閉症の特性の部分と関連していますので、適切で分かりやすい伝え方を練習する必要があります。 この部分は、自閉症支援です。 しかし、自分がやりたくないからと言って、何でもやらなくて良いということにはなりません。 嫌でも歯は磨かないといけませんし、好きなゲームもずっとはすることはできません。 この部分は、人としての幼さがあり、自己をコントロールする未成熟さが関係しています。 ですから、この人の部分は変わったり、成長してもらうために頑張ってもらわなければなりません。 自閉症の特性の中には、どうしても変わらない部分があります。 この部分は、頑張る部分ではなく、自閉症支援として妥協点を見つけたり、様々な手立てで補助していきます。 しかし、人の部分は変わる可能性がありますし、成長できると思います。 よって、その人に頑張ってもらう。 こうい

成長したい気持ちを大切にする

自閉症は変わらないかもしれない。 でも、人は成長すると思っています。 「自閉症は先天性の障害で我が子は変わらないのだから、親が変わらなければならない」 「自閉症の人が働けるようになるには、自閉症を理解する企業を増やさなければならない」 というお話を耳にすることがあります。 もちろん、周囲の人間が変わることは大事だと思います。 でも、当事者の人たちも変わることが大事だと思います。 お互いが歩み寄ることによって、理解し合い、共生できる社会へとつながっていくのではないでしょうか。 私は、自閉症の部分を変えようとは思いません。 私がアプローチするのは、本人の人ととしての成長の部分です。 自閉症の人に合わせた学びを提供しているだけです。 ある当事者の方は「自分自身が変わらないと、何も良くならないことは分かっている。だけど、1人の力じゃ変われる自信がないから手伝って」と言っていました。 いろいろな世代の自閉症の当事者の方たちとお話をしましたが、誰一人として「自分はこのままでいい」「成長なんかしたくない」というような人はいませんでした。 みなさん、心から学びたがっているし、変わりたい、成長したい、と思っています。 ですから、そのような本人たちの気持ちを周囲の人間は大切にしていかなければならない、と思います。

当事者は本当に啓発活動を求めているのか?

自閉症に関する啓発活動は、「社会に正しい自閉症の理解を求めていこう」という目的で行われる。 ということは、やはり社会の中では、自閉症の理解が進んでいないってことになる。 では、社会の中で自閉症の理解が進んでいないことに誰が一番困っているのだろう? 私のところにも"困っている"自閉症の人たちからの連絡が入る。 でも、誰一人「社会からの無理解で困っているんです」という相談は受けない。 もちろん、私は発達障害者支援センターなどのような公的な機関ではないので、このような相談が来ないのかもしれないが。 「親子関係に困っています」 「就職できなことに困っています」 「友だちとうまくつきあえないことに困っています」 「会話が続かないことに困っています」 「余暇の過ごし方に困っています」 「不適切な行動がやめられなくて困っています」 てらっこ塾を利用してくれる多くの人は、自分自身の"今"の生活に悩んでいる。 そして、自閉症に対する社会の無理解ではなく、ごく近い、日常的に接する人たちに"今"、理解されないことに困っている。 当事者の人たちは、社会の無理解に苦しんでいるのではない。 本当に困っていることは、もっと自分の近くにある世界。 彼らは"今"の生活に困っている。 「社会のみなさん、自閉症について正しい理解をしてください!」 というよりも、 「今すぐにでも生きやすい生活が送れるようにしてくれ!」 これが多くの当事者の心の叫びではないだろうか。

地域の自閉症啓発について思うこと

この地域で活動していると、自閉症に関する啓発の仕方に間違いがあったのではないか、と感じることがあります。 どうも自閉症者の苦手な部分を強調し過ぎた啓発をし続けてしまったのではないかと。 だいぶ地域の人たちは自閉症という存在について分かるようになったのですが、その反面、自閉症者と関わることを避けようとしている傾向があります。 でも、このような一般の人の反応は自然なことかもしれない、と思います。 やっぱり「自閉症者はコミュニケーションが苦手」「こだわりがあって、柔軟性に乏しい」「人間関係でトラブルを起こしやすい」などと聞くと、一般の人は引いてしまうのも無理はありません。 誰だって、「苦手なことがたくさんあって迷惑をかけることもあるかもしれませんが、どうぞよろしく」と言われても、積極的に関わろうとは思いません。 また苦手な部分を強調し過ぎたことと同じようにまずかったのではと思うことが、視覚的構造化をアピールし過ぎた点です。 正直、支援者だって準備することが大変で、常に改良していくことが必要な視覚的構造化です。 そんな視覚的構造化を「これがないと自閉症者は生活できないんです!」みたいなことを言われたら、「そんな面倒くさいなら関わりたくない」と一般の人は思います。 長年、上記のような方向性で自閉症の啓発を行ってきたので、この地域に住む一般の人の意識を変えることは難しいように感じます。 しかし、自閉症と関わる者、そして何よりも自閉症者本人にとっても地域への啓発は重要なことです。 これからの啓発の仕方は、自閉症者の得意な面を強調していく、また苦手なことをアピールするにしても、同時に得意な面もアピールすることが良いと思います。 また視覚的構造化についても、自閉症支援の一部であり、補助するものでしかありませんので、この点については最初からあまり強調し過ぎないことと、「実践は専門家が主体となってやりますので、ご心配なく!」というメッセージを伝えていくことが望ましいと思います。

『THE自閉症支援』以外も、自閉症支援です!

本人の様子を見ながら、アセスメントシートにペンを走らせる。 スケジュールやコミュニケーションカードを作り、部屋に衝立を立てていく。 本人と絵や文字を書きながら会話をしていく・・・。 これこそが「THE自閉症支援」と思っている人も多いかもしれません。 実際に支援をしていることがわかりやすいので、保護者にとっても、支援者にとっても好まれる支援であるといえます。 でも、これは自閉症支援の一部でしかありません。 極端な人は「構造化すること=自閉症支援」であると考えていることがあります。 しかし、構造化することは教えるための準備をしているということです。 そして、教えることの準備は構造化だけではありません。 体調を整えること、しっかり食事や睡眠をとること、余暇を充実させること、ストレスを発散すること、自分自身を理解し、好きになること・・・。 自閉症支援とは、自閉症という特性を持つ"人"を支援することです。 人を支援することは、教育的なことだけではなく、心身の安定を図ることや充実した生活を送ることなど、その人に関わる全般をサポートすることです。 感覚面の特異性により、心身の不調を訴える自閉症者はたくさんいます。 過敏性により、音や触れるものに対して苦痛を感じたり、睡眠が乱れたり。 私は自閉症は身体障害とも言えるのではないか、と思うことがあります。 ですから、このような点へのアプローチも大切な自閉症支援だと考えています。 本人の体調が優れていなかったり、気持ちが落ち着いていなかったりするのに、そんなことお構いなしに指導しようとする支援者もいます。 繰り返しになりますが、自閉症という特性を持っているかもしれませんが、私たちは"人"を支援しているのです。 まず、目の前にいる"人"を尊重し、その"人"の生活全般を意識した支援を展開していかなければ、真の自閉症支援とは言えないと思います。

自閉症の人に見られる価値観の形成の仕方の特徴

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いろいろな影響を受け、人は自分の中に価値観を形成していくのだと思います。 過去に体験したことだったり、親から教わったことだったり。 本や人との出会い、所属する社会の文化の影響などもあるでしょう。 個人の価値観は、さまざまな事柄に影響を受けながら変化し続け、また年齢によっても、社会や時代によっても、変わっていくものだと思います。 自閉症の人と接していて感じるのですが、この"価値観"について定型発達の人との違いを感じます。 それは「同一性」と「揺らぎの少なさ」です。 自閉症の人とお話をしていると、親御さんとまったく同じことを言っていたり、特定の支援者の考え方や本に書いてあることに基づいて動いていたりすることが、手に取るように分かることがあります。 例えば、お母さんが否定するものを子どもも嫌うことがあったり、特定の支援者の支援方法以外を「私には絶対合わない」と言って拒否したり。 言い方や口調まで似ていることもあります。 それ自体は何ら問題のあることではありませんが、あまりにも影響を受けた人や言葉、考え方と一緒であることに定型発達の人との違いを感じます。 定型発達の人も同じように影響を受けますが、すべてがその人や物と一緒であるということはありません。 例えば、定型発達の人の場合、Aさんの言ったことと、本に書いてあったこと、そして過去の体験から それぞれ 影響を受けます。 また影響の受け方にも幅があり、Aさんの言ったことは10%、本に書いてあったことは2%、過去の体験は50%というようにさまざまです。 ですから、一人ひとりの価値観は異なっており、多様な価値観があるのだと思います。 しかし、自閉症の人は、例えば親御さんの言動からの影響が90%というように大きなウエイトを占めることがあり、そのため親御さんの価値観とほぼ同じということがあるのだと思います。 また「揺らぎの少なさ」も実際のセッション等の中で感じます。 一度形成された価値観を変えることがとても難しいです。 「こういう価値観もありますよ」と提案してみても、「いや、私はこの価値観でいきます」というように。 年齢や社会、状況などで変化することも少ないです。 これらの価値観に関する違いは、複数の情報を整理することや比較すること、変化に対応することが苦手だったり

スキルアップ+定型発達の視点

自閉症の人たちに具体的な方略をはもちろんですが、同時に定型発達の捉え方も教えていくことが大切だと考えています。 これはあくまでも自閉症の人に「定型発達と同じように振る舞いなさい」というものではありません。 定型発達の視点を知ることで、定型発達の人を理解することにつながるからです。 実際の療育の場面で、自閉症の人に「定型発達の人は、このように捉えているんだよ」と伝えると、驚いた表情をしたり、「そういうことだったのか」と納得したりすることが多くあります。 定型発達の私たちからしたら「そんなこともわからない!?」と思うようなこともありますが、目まぐるしく変わる状況から的確な意図をくみ取ったり、見えない意味を想像することが苦手なこともありますので、このような反応は無理もないことだなと思います。 定型発達の脳も、自閉症の脳も、どちらかに優位性があるのではないと思います。 お互いの脳には、得意なところもあれば、苦手なこともある。 ただ脳の機能の仕方が異なっており、タイプが違うのだと思います。 自閉症の人に定型発達の視点を伝えることは、自分との違いを知ることになり、自分を知ることにもつながります。 また自分の違いに気が付いていた自閉症の人にとっては、定型発達の人を理解し、定型発達の社会の中での対処の仕方を身に付けることにつながります。 私が自閉症の人の捉え方を知りたいと思っているのと同じくらい、自閉症の人も定型発達の人の捉え方を知りたいと思っているのだと、日々感じています。

いいとこ取りの支援!

「大久保さんはTEACCH系なんですよね」と言われることがあります。 確かに、ノースカロライナに行ったり、TEACCH®のトレーニングを受けたりしています。 でも、だからと言ってTEACCH®の人間ということではありません。 私が何故TEACCH®について熱心に勉強するのかと言いますと、それは「自閉症支援の枠組み」だからです。 目の前にいる自閉症の人と向き合うには、基本となる考え方が必要になります。 思い付きでは支援することはできません。 自閉症の人たちの支援を考える上で、どのようにアプローチしていけばよいのかをTEACCH®は教えてくれます。 TEACCH®の実践を見たことがある人はわかると思うのですが、実際はTEACCH®以外の自閉症アプローチの仕方もどんどん取り入れています。 「これは他のアプローチだから、うちでは用いない」なんてことはありません。 大事なことは自閉症の方たちに有益であるかどうかであり、それが確認できれば柔軟に取り入れていきます。 私自身、自閉症支援を考えるときの枠組みは、TEACCH®から学ばせていただいたものです。 そして、実際に支援するときには、目の前にいる人に有効であると考えられるアプローチの仕方を用います。 研究や啓発を行う立場ではありませんので、結果が出れば、どのようなアプローチを用いるかは大したことではないと思っています。 未だに特定のアプローチが嫌だとか、それ以外は方法として用いない、というような支援者がいます。 そういった支援者に共通していることは、勉強不足、勉強の偏りがあるということだと思います。 現在、自閉症支援で有効性が確認されているアプローチは20以上あります。 それらのアプローチを学べば、それぞれの互換性に気づくと思います。 自閉症支援に携わる者は柔軟性を持っていることが必須条件ですので、目の前にいる人にとって有効な方法があれば、教育的なことにしろ、医療的なことにしろ、何でも取り入れば良いと思っています。

自閉症支援に対する立ち位置

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近頃、気になることがあります。 それは、自閉症支援に対する立ち位置です。 「自閉症について理解がないことが問題だ!もっと自閉症のことを社会に知ってもらって、自閉症の人たちが生きやすくなるようにする」 という考え方と、 「自閉症者自身、生きやすくなるために、努力してスキルアップしなければならない」 という考え方の2つのベクトルがあり、それぞれ個人(本人・家族・支援者)によって、どちらを重視するか、またどちらとも同じくらい重視しているか、などの立ち位置が決まってくるのかなと思います。 それぞれの考え方の根底には「障害観」があるように感じます。 どちらの考え方も「自閉症の人たちが生きやすくなる」ことがゴールですが、そのアプローチの仕方に違いがあります。 私自身を考えると、後者の自閉症者自身のスキルアップを、という方に重きがありますし、てらっこ塾自体も、自閉症者自身のスキルアップを手助けする機関となっています。 私も社会全体に広く自閉症について知ってもらい、理解してもらうことが大切だと考えています。 しかし、自閉症に対する社会の認知の高まるスピードと、自閉症者の成長のスピードにはギャップがあると感じています。 過去を振り返ってみても、個人が年齢を重ねていくよりも、社会での自閉症に対する理解のスピードはゆっくりです。 自閉症に対する理解の高まりを待っていては、すぐに今の子ども達も大人になってしまうと思います。 また現実的に考えると、どうしても自閉症と関わりのない一般の人に、自閉症について理解してもらうことには限界があると思います。 自閉症者の家族や支援者と同じように、とはなりません。 ですから、私は今、目の前にいる本人が生きやすくなるような支援を行っていきます。 そして、それぞれの人が力をつけ、地域に出ていけるようにする。 地域に出て、活躍する自閉症者が増えれば、それだけ一般的な人にも知ってもらう機会が増えますし、そのこと自体が自閉症啓発へとつながると考えています。 これが私なりの社会への啓発の仕方であります。 ときどき、障害を盾にしたり、何でもやってあげようとする人を見かけます。 しかし、これ自体、自閉症者に対して失礼なことだと思います。 障害を持っているからと言って、「努力しなくては良い」ということにはならないと思いま

素晴らしい学びの機会

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夏休みは、TEACCH®アドバンストピックセミナーに参加してきました。 講師はシャーロットTEACCHセンターの所長のジョイス先生とルース先生でした。 前回、6年前のTEACCH5dayアドバンスの実技研修でも、ジョイス先生のチームから指導して頂きましたし、2年前、ノースカロライナに行ったときもシャーロットTEACCHセンターで検査等についての講義を受けさせていただきました。 お話を聞かせていただく度に感じるのですが、短い言葉や表現の中にとても深い意味がある。 端的に自閉症支援の中核を表現し、伝えることのできるのは、本当のプロフェッショナルだと思いますし、その言葉を直に聞くことができることは幸せなことだと思いました。 今回のトレーニングも大変多くの学びがあり、日々の支援を確認する上でも重要な機会となりました。 詳しく書くことはできないのですが、「自閉症カリキュラム」というキーワードが今回、1番印象に残りました。 将来の自立のためには、"教科カリキュラム"だけでは不十分であり、"自閉症カリキュラム"も行っていく必要がある。 この"自閉症カリキュラム"という視点の大切さを再確認することができ、今いる地域で求められている日々の支援も"自閉症カリキュラム"に関する部分だと思いました。 また、「認知の柔軟性の指導」「コンサルテーションの仕方」「インフォーマルアセスメント」なども勉強になりました。 これらの学んできたことは、日々の実践を通して、地域のみなさんに還元していきたいと考えています。 今回の受講生を見渡すと、本を執筆されている方や講演をされている方、この分野では有名な専門家の方たちが多くいたことに驚きました。 そして、私が後援組織を持たず、しかも低料金で、民間の自閉症療育を行っていることに大変驚かれました。 「家庭訪問+療育」という形は、日本ではほとんど行われておらず、でも大変重要な部分であるという意見を有難いことに多くの方にいただくことができました。 民間で教室を開き、自閉症療育を行っているところもありますが、だいたいの相場が50分1万円ということでした。 そう考えると、私は訪問ですし、大変リーズナブルな料金設定かなとも思いました(笑) しかし、自閉症

自閉症の子ども達にどのようにして「命の教育」を行えばよいのか?

佐世保の事件を受けて「命の教育」が大きな話題になっています。 教育関係者の中では、「命の大切さをもっと教えていくべきだ」という意見の方も多くいます。 しかし、この意見には自閉症の子ども達の視点が抜けているように感じます。 「命の大切さを教える=自分や他人を傷つけない」ということにはなりません。 命の大切さを教えるのでしたら、自分や他人を傷つけてはならないことも教える必要があります。 「命の大切さが分かったなら、自分や他人を傷つけてはいけないことぐらい分かるだろう」というのは、定型発達の人たちの視点です。 以前にこういうことがありました。 ある少年は、命が大切なものであることを理解していました。 でも、他人の命を奪ってはならないということに対して、ピンときていませんでした。 それはそうだと思います。 だって、命は見えないですし、自分の命が奪われた経験がないのですから。 ですから私は、「命を奪うってことは、〇〇くんの大事な△△のカード(プレミアムなトレーディングカード)を取られて、ビリビリに破かれるようなことだよ」と伝えました。 そうすると、その少年は真っ青な顔になり、「命を奪うってことは、絶対にいけないことだね。僕は絶対に他人を傷つけたり、殺したりしない」と言っていました。 彼は命がなくなったら修復できないことも知っていましたので、彼が具体化し、実感できるような表現に置き換えて伝えました。 自閉症の子ども達に命の大切さを教えるときにも、やはり個別化が重要になります。 私たちが「それくらい当たり前だろう」と思うことに気が付いていなかったり、自然に物事を関連付けることの苦手さから"命の大切さ"と"傷つけてはならないこと"などが結びついていなかったりすることがありますので、それぞれ子どもに合わせて療育を進めていく必要があります。 「ゲームの中では死んでも生き返るが、実際の世界では人は死んだら生き返らない」 このようなことは、ある年齢に達した子どもなら誰もが知っている、と思われがちですが、ゲームの画面に「ゲームの中では生き返りますが、実際の世界では生き返りません」などの表示が出るわけではありませんので、人は死んでも生き返るものだと思っている子どももいます。 このように、その子がどんなことに気が

「うちの旦那も・・・」

最近、お子さんとあわせて、旦那さんのことを相談されることが増えました。 自分の子どもについて勉強していくほど、「うちの旦那も!?」というように思えてきたなんて話があります。 「自閉症の脳は男性脳である」という専門家もいるくらいですし、親子ですので似ている特徴を持っていることも不思議ではありません。 ですから、お父さんも自閉症かどうかは置いておいて、夫について疑問に思う言動などについて、自閉症支援の観点からお話ししています。 お話ししてくれる皆さん、本当に悩んでいたり、諦めていたり・・・。 でも、相手に悪気がないことが分かったり、どうすれば伝わりやすいかがわかったりすると、本当に喜んでいかれるお母さんたちがいらっしゃいます。 お子さんの相談できたつもりが、いつの間にか夫の話になる。 そんな場合も喜んでお話ししています。 夫婦関係や職場でのトラブルなど、お悩みの方がいらっしゃいましたら、お子さんと一緒にご利用ください!

自閉症支援は面倒くさい!?

最近、立て続けに「自閉症支援って面倒くさいですね」と言われました(笑) 確かに、自閉症支援をきちんとやろうとしたら、とても多くの労力がかかります。 例えば、手を洗うことを教える場合、手を洗うということはどういう意味があるのか、どんなときに 行えばよいのか、どんな手順があるのか、手洗いの概念を具体的に示し、かつ手洗いの順番を教えていく必要があります。 人によっては、石鹸について、ばい菌についてなども学んでいく必要があります。 定型発達の子どもでしたら、「手洗いしなさい!」で済む話ですが、自閉症の人の場合は、他人の手洗いを見て模倣することが苦手だったり、石鹸やばい菌の概念を直感的に学習することが苦手だったりするため、上記のような過程が必要になります。 自閉症の人たちは、意味が理解できないことには注意が向きづらい特徴があります。 自閉症支援が上辺だけで、本質的な部分まで伝わっていかないこと。 支援者が育っていかないこと。 これらの理由には、自閉症支援の持つ深さが関係していると考えています。 ちょっとやそっと勉強したからといって、自閉症支援はできません。 また、ちょっとやそっとの労力で自閉症支援はできません。 自閉症支援は、本人を育てるのも、支援者を育てるのも、インスタントではなく、1つ1つ丹精込めた手作りが必要なのです。

自閉症の子ども達をいじめから守る!

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今まで幅広い年代の自閉症の方たちと多く接してきましたが、みなさんいじめられた経験を持っていました。 言動に特徴があったり、集団行動が苦手だったり、いわゆる空気を読むことが苦手だったり・・・。 学校等の集団の中で目立ってしまって、反対に大人し過ぎるために、いじめのターゲットになりやすい。 それでいて相手の意図を想像することが苦手で、自分を客観的に見ることも苦手。 だから、いじめられていることに気が付いていない場合も多くあります。 それと、コミュニケーションに苦手さを持っていることで、適切な表現で、適切な人にいじめられていることを伝えられないことがある。 結果として、いじめが長期化しやすく、周囲から気づかれる頃には、心身ともにボロボロの状態になっていることが少なくありません。 子ども時代にいじめられたことが、後々の人生に大きな影響を及ぼしている人も多くいます。 ですから、絶対にいじめから彼らを守らなくてはなりません。 自閉症の子ども達は、いじめのターゲットになる可能性が高い。 だったら、「いじめられる前からいじめ対策チームを作り、いじめの予防に努めるべきだ」と私は考えています。 常にその子がいじめに遭っていないか、大人たちが注意している。 そして、もし何か変わったことがあれば、すぐに対応する。 これくらい徹底しないと、自閉症の子ども達をいじめから守ることはできないと思います。 ある学校の校長は、「自分の学校にはいじめがない!きちんと対策がとれている」と豪語していました。 しかし、その学校の子どもが私のところに来て療育を受けています。 その子はいじめから学校に行けなくなっているからです。 いじめという辛い経験は、その後の人生に大きな影響を与えていると実感することばかりです。 彼らは、いじめという辛い経験によって、認知(考え方)が歪められてしまっている。 その彼らの認知を修正することは、支援される側も、支援する側も大変な労力がいることです。 だからこそ、学校、大人たちが本気になって「いじめを見つけだす」という意識で立ち向かう必要があるのです。 「いじめが起きない」という前提を捨て去るべきです。 いじめが起きてからでは遅い! いじめが起きる前に、対策を!! みんなきれいな花を咲かせる種を持っている

そのIEPの目標、"測定"できますか?

仕事柄、学校や支援機関、児童デイなどで作成された個別支援計画を見せてもらうことが多くあります。 IEPミーティングなどにも呼ばれて参加させてもらうことがあるのですが、いつも疑問に思うことが「この目標はどうやって評価するのかな?」ということです。 「公共のバスに乗って通学する」 「自分の気持ちを適切に表現できるようにする」 「読む力を高めることを目指していく」 みなさんも、このような目標を目にすることが多いと思いますが、疑問を持つ方は少ないと思います。 何故なら、目標自体は本人のニーズに合っているものであり、保護者の方の希望とも合致している場合が多いからです。 では、何が問題なのか? それは達成基準が具体的に示されていないからです。 公共のバスに乗って通学するというのは、親御さんが一緒にバスに乗って通学しても目標達成となります。 1人でバスに乗ることができたとしても、車内で騒いでしまうなど、マナーの面で未学習の部分があっても、 たまたま1回、バスに乗って通学できたとしても、 先生が側でず~と見守っていても、 行き先が違うバスに乗って、違うバス停で降り、そこから歩いて学校に行ったとしても、 降りるバス停の1つ前のバス停から乗り、次のバス停で降りても、 お金を払わずに降りていったとしても、 「公共のバスに乗って通学できました」ということができてしまいます。 でも、本当にこれでいいのでしょうか。 アメリカのIDEA(障害者教育法)には、IEP(個別の教育プログラム)は測定可能な年間目標に関する記述を書くように、と明記されています。 ですから、「公共のバスに乗って通学する」ではだめで、「家の近くの〇〇というバス停から、××行というバスに乗り、△△というバス停で降りる。これが車内でも問題なく、一週間連続してできる」というように、測定可能な目標にしなければなりません。 このように測定可能な目標にすることにより、保護者も、教師も、子どもが進歩しているのか、退行しているのか、同じ段階に留まっているのかを確認することができます。 逆に言うと、測定可能な目標が立てられていなかったとしたら、書き方、表現の仕方で何とでも評価してしまうことができてしまうのです。 もうすぐ1学期が終わり、評価が返ってくる時期だと思います。 お子さんの評

"かにかま"の支援を見抜くには?

以前の職場で尊敬できる先輩が、「大久保くん、"かにかま"みたいな人が増えているからこそ、本物の"蟹"にならなくてはならないよ」と話してくれていました。 つまり本物の専門家を目指せ、ということを"かにかま"の例えで教えてくれていました。 この先輩は、自閉症の専門家ではありませんが、その道では素晴らしい技術と発想を持って縦横無尽に活動されている人です。 自閉症支援においても、"かにかま"の支援だと感じることがあります。 その"かにかま"の支援に共通していることは、支援の根拠が"経験のみ"であることです。 「過去の〇〇くんの支援でうまくいったから」などと、経験を元に支援を組み立てている。 支援の根拠を経験のみに頼ってしまうと、その支援者しか支援ができなくなってしまい、一貫した支援を継続して受けられなくなってしまいます。 支援者が変わるたびに、支援の方法や考え方が変わってしまったら、本人と保護者が振り回され、結局中途半端な支援、スキルしか身につかない危険性があります。 また、支援の基本は「アセスメントから始める」と「個別化」です。 本人の支援は、本人からのアセスメントを基にし、個別化する必要があります。 他の人にうまくいった支援は、その人に合う支援であって、他の人に合うとは限りません。 支援の根拠は、「自閉症に関する知識」と「実証された理論」です。 常に自閉症の特性を踏まえ、実証された理論を根拠にし、支援を組み立てていきます。 そうでなければ、思い付きの支援になってしまいます。 自ら修正することが苦手な自閉症の人たちは、思い付きの支援をそのままの形で受け取ってしまい、あとからの修正に苦しむこともあります。 "かにかま"の支援を見抜くことが、日本の自閉症支援の質の向上へとつながっていく、と考えています。 "かにかま"を本物の蟹だと思って食べていれば、いつまで経っても"かにかま"を食べ続けるしかありませんし、どんどん"かにかま"ばかりがはびこってしまいます。 ここで簡単に"かにかま"の支援を見抜く方法をお伝えします。

療育は理想主義ではなく、現実主義で

私は、社会に対してはいろいろと理想を持っています。 いつか自閉症の人たちが、自分が自閉症であることをオープンにすることが自然にできる社会になってほしい! そのためには、てらっこ塾の活動を通して、療育の有効性や自閉症の人たちの強み等、発信していくことが大事だと思っています。 しかし、社会や未来については理想主義である私も、実際に療育で個人と向き合うときは、かなりの現実主義になります。 療育の目標にすることは、今、その本人が困っていること、身に付けたら良いことに取り組みます。 いつ目標のゴールになるか分からないようなことは、目標にすら挙げません。 何故なら、今まで中途半端な取り組みをされた結果、ぐちゃぐちゃになってしまった自閉症の人たちを多く見てきたからです。 定型発達の人であったのなら、取り組みが中途半端になっても、そのあとは自ら学び、進んでいくこともできます。 しかし、自閉症の人たちの場合、自ら計画を立て、実行していくことが苦手だったり、学ぶことの意図が読みづらく、そのために動機づけが難しかったりするため、中途半端に終わったものは、そのまま停滞するか、自分なりの解釈で学習を進めてしまうことがあります。 結果として、取り組んできたことが身につかないだけではなく、適さない行動や考え方を身に付けたり、頭の中が中途半端な教えばかりになり、整理が付かない混乱状態になってしまうことがあります。 支援や療育に関わる人間が、個人の考え方や経験に頼ることなく、一定の専門性を持っているのなら、取り組みが継続され、中途半端に終わることはないと思います。 しかし、今の日本ではすべての支援者に標準化された研修や方法はなく、独自で勉強するか、経験でなんとなく支援するか、というのが現実です。 ですから、始めから継続した取り組みは難しいと考え、自分が担当しているときに、自立まで完結するような療育を行うことが良いのだと考えています。 今、子どもが7歳で、どうやって18歳のときの目標が立てられるのでしょうか? 思春期の様子や環境の変化、本人の成長、ニーズなど、そのときにならなければ誰もわかりません。 一気にときが進むことはないのです。 将来は、今日1日の積み重ねから成り立ちます。 短いスパンで、今、本人が必要なことを、今、取り組みます。 できる、できるが増

"見守り"も支援していることになりますよ

"見守り"が手助けの一種だということに気が付いていない支援者は意外と多い。 「見てくださいよ。ほら〇〇くん、一人でカレーが作れるんですよ」 本人の様子を見てみると、側に支援者が立っており、その支援者自体がヒントになってしまっている。 ときどき、小さく指さししたり、顔の表情を変えてヒントを与えている場合も(笑) 「自立してます」という支援者に限って、自分が大きなヒントを出していることに気が付いていないことが多い。 本人が「自立した」と評価できるのは、支援者が誰もいない状態で、一人でその活動が行えることを言う。 誰も台所にいない状態でカレーが作れれば、自立であり、側で支援者が見守っていれば、それを自立とは言わない。 「側で見守っていないと危ないじゃないですか」と言うなら、そもそもその活動を目標に挙げ、自立させようとすることに無理がある。 自分で危険を回避できることも活動の中に含まれるし、療育すべき点である。 成人したとき、ずっと側に支援者がいるわけではない。 支援者とセットの活動は、支援者がいないと"できない"ということになる。 だからこそ、支援者の見守りがなくても、一人で活動ができるようになることが目標となる。 「見守っているだけだから支援していない」ではなく、「見守っていることも支援に入る」という認識を持ってほしい。 それは自閉症の人の目から見ると、支援者も環境の1つであり、その活動の一部として捉えてしまうからである。 自閉症の特性を踏まえると、どうしても見守りも支援、ヒントの1つと言わざるを得ない。

誰が白いキャンパスに絵を描くの?

教育は、しばしば「子ども達の白いキャンパスに絵を描くこと」という例えがなされる。 じゃあ、その白いキャンパスに誰が絵を描くのか? それは子ども自身。 時々、子どもの手から筆を取り、絵を描き始める支援者がいる。 これは大きな間違い。 時々、子どもと一緒に筆を握り、絵を描き始める支援者がいる。 これも間違い。 子どもが描く絵は、子ども自身の人生。 それを他人が手を出してはいけない。 「自閉症の子ども達は、自分で上手な絵が描けないのだから、手を貸すことは当たり前だろう」という支援者もいるかもしれない。 でも、よく考えて欲しい。 みんなが同じきれいな絵を描く必要はない。 いびつな形の絵だっていい。 奇抜な色を使ってもいい。 想いもよらない組み合わせだっていい。 それが完成したとき、その子どもの味となり、主体的な人生の歩みとなる。 本当の支援者とは、絵を描く子どもの側で、その姿を温かく見守る人のこと。 ときに、絵の素晴らしいところを述べ、困ったことがあれば、解決までの選択肢を提供する。 決して指示したり、書き直しを命じる者ではない。 私が考える素晴らしい支援者とは、子どもが集中して絵が描けるような環境を整え、絵が好きになり、自分らしい絵がのびのびと描けるように導くことのできる人のことだと思う。

自閉症療育の評価は"実践の場面"で!

自閉症療育の評価は、ズバリ「実践の場面」で評価されます。 例えば、買い物の学習をしたのなら、実際にスーパーやコンビニで買い物ができて、初めて「療育の効果があった」ということができます。 つまり、反対の言い方をすると、いくら療育場面でできていたとはいえ、実践の場面でできなければ、それは「療育自体に誤りがあった」「効果がなかった」といえます。 自閉症の特性として、般化が苦手だということがあります。 1つの場面でできていたことが、他の場面になるとできない。 ですから、般化も念頭にした、般化も含めたものが療育となります。 「学校(施設)だとできるんですが・・・」という言葉をよく耳にします。 学校や施設内でしかできないということは、それは療育をしているのではなく、学校適応、施設適応者を作っているだけです。 また、もし"般化"について考えられなかったのなら、自閉症療育に携わる者としては失格になると思います。 それくらい"般化"について考慮することは大事であり、実践の場面でできることが最も大切なことです。 学校や施設でできるからといって、そこで評価してはいけません。 実践の場面での評価が真実です。 ですから、いくら学校や施設で失敗しても良い。 実践の場面でできるようになったのなら。

「〇〇理論を実践!」という広告を見たら、気をつけて!

「〇〇理論を実践」「開発〇〇メソッド」「〇〇アプローチやってます」などという言葉や文字をよく目にします。 もちろん、それぞれはしっかり研究され、実践されてきたものですので、素晴らしいのだと思っています。 でも、そのナントカ理論やメソッドが全面に出てくると、私は違和感をもちます。 あくまで自閉症療育の目的は、本人たちの生活の質の向上であり、幸せです。 生活の質の向上や幸せが得られるのなら、特定の理論や方法でなくても構いません。 誰もがこのことを分かっているはずなのに、特定の理論や方法が全面に出て、強調されるということは別の意図を勘ぐりたくなります。 ときどき、特定の組織が独自の理論や方法を作りだすこともありますが、その組織内でしか通用しない方法や言語を作りだすことは、特定の組織から出られなくなる、出られなくすることになるのでは、と疑問に思います。 どんなに素晴らしい専門家が考えた理論や方法であっても、すべての人に適することは決してありません。 それは、自閉症療育の核は、一人ひとりに合わせた"個別化"であり、すべては本人への"アセスメントから始まる"ということです。 自閉症療育は、唯一無二の完全オーダーメイドです。 TEACCHプログラムの素晴らしいところは、他の理論や方法であっても、TEACCHの考える自閉症療育の方向性と同じであるのなら、取り入れるところです。 つまり目的は、個人の成長と幸せということがはっきりしている。 だから、素晴らしい理論や方法があるのなら、それが別の組織だろうが、別の国だろうが柔軟に取り入れていきます。 いろいろな理論や方法を学ぶことは、一人ひとりに合わせた柔軟な療育へとつながっていきます。 でも、その理論や方法が本人たちよりも前面に出てはなりません。 理論や方法は、目的ではなく、手段なのだから。 目的は、その人が幸せな人生を送れること。

個別指導の時間はありますか?

「個別指導の時間はとれません」 このように学校から言われましたと、教えてくれる親御さんは少なくありません。 特に通常学級にいるお子さん達です。 時々、特別支援在籍のお子さんもいますが・・・。 新しいスキルを身に付けるとき、一番大切なことは1対1の個別指導の時間です。 環境が整った中で、学ぶべきポイントに集中して指導を進めていきます。 この個別指導の時間で身に付けたあとで、実際の場面でスキルが実行できることを目指していくことが、自閉症の人たちに最も適した学び方です。 現在の多忙な状況を考えると、通常学級では教員の数も限られており、個別指導の時間を設けることは難しいといえます。 そうなると、教科以外の部分で新しいスキルを身に付けたい場合は、家庭が担わなくてはならないということになります。 近頃、通常学級在籍の方と接して感じることが、1対1で丁寧に学ぶ機会がほとんどない、ということです。 みなさん、教科学習に関してはほとんど問題なくきていましたが、大なり小なり人間関係等で多くのトラブルを抱えてきていました。 お話を聞くと、社会性に関わる部分など、「誰も教えてくれなかった」というようなことをおしゃる方もいます。 TEACCH部のスタッフにコンサルテーションしてもらうと、必ず「どこが1対1の個別指導をするエリアですか?」と尋ねられます。 つまり療育機関において、個別指導とその場所があることは必須の条件であり、とても重要であることを表しています。 集団の中では、その場に応じた振る舞い方ができているように見えても、実際は他人の動きを見て、なんとなく動いているようなこともあります。 物事の理解や新しいスキルを身に付けるには、やはり個別指導が大切です。 この時間が確保できるかどうかが、現在の生活、そして将来の生活へと重要な意味をもたらす、と考えています。 特に通常学級に在籍している子ども達とその親御さん達には、この個別指導の大切さを伝えていく必要があると危機感に近い感情をもっています。

発達障害の子どもの子育ての経験は?

親御さんとお話をしていると、自分の親たちからの"無理解"に苦しんでいる、と言う方が多くいることがわかります。 祖父母の世代の人たちに、特に見えない障害を持っている子どものことを理解して、ということは難しいのかもしれません。 祖父母の世代では、発達障害という概念も確立されていませんでしたし、知的障害を持っていない発達障害の子ども達に日本でスポットライトが当たりだしたのは、2000年以降のことです。 ですから、「落ち着かない子どもは昔からいた」「しつけの仕方が悪いのではないか」「甘やかしすぎ」など、過去の経験からの言動が多くなってしまうのだと思います。 祖父母の世代の人たちにも、発達障害について理解してもらいたいと思っています。 でも、すぐには難しいので、保護者の方にこんなお話をしています。 「祖父母の世代は、子育ての経験は私たちよりもあるのは確かです。 でも、発達障害の子どもの子育ての経験はありません。 ですから、発達障害の子育ての経験で言ったら、お母さんの方がたくさん経験し、お子さんのことを誰よりも理解されていると思います」と。 子どもを育てていくことは、とても大変なことです。 しかも、発達障害という私たちとは異なった捉え方をする子どもです。 ただでさえ不安の多い毎日なのに、祖父母からいろいろなことを言われると、さらに追い詰められてしまう親御さんがいます。 でも、発達障害を持つ子どもの子育ての経験は、親御さんの方が豊富であり、お子さんのことを誰よりも理解していることに気が付いてほしい、と思っています。 子どもへの愛情は、時間が遅れて届くものだと思います。 子どものときに受けてきた愛情は、大人になり、自立し、また家族を持ち、やっと気がつく。 こんな経験、実感はありませんか? 今は、大変な子育ての日々かもしれません。 でも、我が子が大人になったとき、現在の親御さんの想いがその子の"成長"となって表れるはずです。 ですから、たくさん弱音を吐きながら、一緒に頑張りましょう!

安定しているときにこそ、支援を!

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状態や状況が悪くなってから、相談や支援を求めることが一般的です。 でも、状態や状況が悪くなる前、できれば安定しているときにこそ、相談や支援を求めて欲しい、と考えています。 状態や状況が悪いと、まずは安定させることから始めなければなりません。 本人が落ち着いていない場合、アドバイスや支援、療育がほとんど届きません。 また「忘れられない脳」を持っている自閉症の人には、ネガティブな事柄を整理し、新しい記憶へと更新する作業がとても大変です。 本来は本人の考え方や行動をより良いものへと導いていくことが、私たち支援者の役割の中心なのですが、その前の段階で立ち止まってしまうことになります。 自閉症という特性は、生涯変わることはありません。 ですから、自閉症という特性に対し、この社会で生きやすい毎日を送られるようにサポートが必要です。 それは状態が悪いとか、悪くないとかに関係なく。 定型発達の人だって他人のサポートを受けながら生活しています。 自閉症の人たちは、自閉症の部分を理解してくれる人のサポートが必要なだけで、特別なことではないと思います。 てらっこ塾を始めた当初は、地域にいる自閉症のみなさんが、少しでも生きやすくなるようなスキルやアドバイスを届けたい、と思っていました。 しかし、現状は「どうしようもなくなり」「こんな問題が起きて」というような状況で利用のお話をいただくことがほとんどです。 困ったときに頼っていただける存在になれることは嬉しいのですが、もっと安定しているときにこそ利用していただきたい、と思っています。 「起きていないことを想像すること」は、自閉症の人たちにとっても、初めていろいろなことを経験する親御さんにとっても、難しいことだといえます。 ですから、困ったことが起きる前に、そして「こうすれば、今よりももっと生きやすくなりますよ」という見えない"未来"とその"価値"を伝えていくことが、今後の課題だと思っています。 澄みきった青空と函館山

"不登校"を自閉症の視点から読み解く

「学校に行かせた方が良いですか?」 「学校を休ませたら、まずいですか?」 と、不登校状態のお子さんを持つ親御さんから尋ねられることがあります。 私は"不登校"に関しては、経験も浅く、専門ではありません。 ですから、自閉症、発達障害を持つ方たちの支援者として、いつもコメントさせていただいています。 もし学校生活の中で傷ついたり、辛い思いをしているのなら、学校に行くべきではない、と考えています。 何故なら、自閉症の人たちは「忘れられない脳」を持っているので、ネガティブな体験をした場所に行き続けることは、彼らの傷をさらに深いものにし、心身の回復を遅らせるからです。 自閉症の人たちの脳の特性を考慮すると、ネガティブな場所や状況からは遠ざかることが支援の方向性になります。 よく辛い状況であっても「慣れさせる」など、という支援を選択する人もいるのですが、それは定型発達の脳の人への支援の1つでしかありません。 自閉症の人の場合は"慣れる"のではなく、"辛い思いをし続ける"ことになるため、このような支援は適切ではありません。 私自身、学ぶ場所は"学校"でなくてはいけないことはない、と考えています。 しかし、だからといって「学校は行かなくていいですよ」とは言えません。 それは、学校に行かなくなった場合の"学び"の保証がされていないことが多いからです。 傷ついた場所から遠ざかることは大切です。 でも、遠ざかっているだけで代わりとなる"学び"がなければ、そのことも子どもにとっては不幸なことだといえます。 子ども時代の"学び"は、どのような子どもにとっても大切です。 この他にも自閉症の特性である"社会性の違い"、"想像性の違い"から、自己流のルールややり方で空白になった時間を埋めていったり、学校を休むことを別のメッセージとして受け取ってしまったりするという懸念もあります。 自閉症を専門にしている立場から"不登校"を読み解くと、このような見解になります。

公式キャラクター誕生!

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てらっこ塾に公式キャラクターが誕生しました! その名は「うりっこ」です☆   モデルは、函館市恵山地域から出土したイノシシの幼獣(ウリボウ)をかたどった動物土偶です。 縄文時代に造られた土偶だと言われています。 "ウリボウ"と"てらっこ塾"から名前は考えました。 この絵は、絵を描くことが好きで、とても上手な発達障がいを持つ成人の方に描いていただきました! 私は自閉症の人たちの文化を大切にし、彼らの才能を発掘していきたい、と考えています。 この土偶も縄文時代の素晴らしい文化であり、発掘されたことによって多くの人たちに伝わりました。 こんな共通点もあり、函館で発掘されたウリボウの土偶をモデルにしたキャラクターが誕生しました。 みなさん、末永くよろしくお願いします!! 名刺やパンフレット、ホームページ等に登場します♪

200号記念「どんな人と組むのか?」

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2年目に突入したということもあり、いろいろな人や組織から「一緒にやろう」という声をかけていただけるようになりました。 お金の面を考えると、良いお話もあるのですが、実際にはお断りしたこともあります。 それは、自分の中で大切にしている考え方と、相手の方の方向性が異なっているからです。 私は自閉症の人たちを「かわいそうな人たち」とは思っていません。 また、私たち定型発達の人間が「手を差し伸べなければならない存在」だとも思っていません。 今までに多くの自閉症の人たちと接してきましたが、誰一人「自閉症だから、不幸である」とは思ったことがありません。 確かに辛いと感じる状況や状態の自閉症の人とも数多く出会ってきました。 でも、その原因は自閉症だからではなく、一人ひとりに合った学びや支援、周囲の理解がなかったことが不幸である、と考えています。 自閉症の人たちは、自閉症であること自体が決して不幸なことではないし、私は自閉症の人たちが持つ視点や考え方は大いに活かすべきものである、と考えています。 ですから、決して「助けてあげよう」などという気持ちはなく、どうしたら自閉症の人たちの視点や考え方を活かし、社会に還元できるのか、ということを考えています。 その一つの行動として、自閉症の人たちの学ぶ機会を提供したい、という考えのもと、てらっこ塾は歩みだしました。 「公的なお金を受けたら良い」というような助言をいただくこともあります。 でも、私自身にその考えはありません。 何故なら、自閉症の人たちのユニークな視点や考え方に応えていくには、柔軟性が最も大切だから。 公的なお金をもらうということは、制限が加わることを意味します。 みんなから集めた税金を自由に使うことはできません。 私は安定よりも、自由と柔軟性を手にしたいと思います。 「自閉症の人たちの視点を活かした地域づくり」を目指す人たちとは一緒に仕事をしていきたい、と思います。 現在、どんな分野であっても、発達障害についての知識は必要です。 いろいろな人や機関とお互いの長所を活かしたコラボレーションを目指していきたいです! 今回で200号となりました。 いろいろな方たちに「読んだよ」と声を掛けてもらい、いつも有難く思っています。 応援して頂いているみなさま、本当にありがとうございます!

「学校恐怖症では」と思う

通常学級に在籍している自閉症の子どもたち。 その中で、学校に行くことができない子ども達と関わっていると感じることがあります。 学校に対して恐怖を感じている子どもたちがいるということを。 恐怖を感じていることは、一人ひとり違います。 情報が整理されていない教室や他の子ども達の声や動き。 整えられていない環境からの刺激に圧倒され、恐怖を感じている子どもがいます。 周囲の子ども達とうまく関われなかったり、目立つような行動をしてしまう。 その結果、いじめの対象になり、そのことで恐怖を感じている子どもがいます。 担任の先生が自閉症に関して無理解で、激しい叱責や強引な指導をする。 先生の方は事の重大さに気が付いていないが、たった1回のことであっても恐怖を感じている子どもがいます。 不登校支援は「体も、心も、ゆっくり休むことが大事」という話を聞きます。 学校という中で疲れ果てている子ども達は心身の休息をとることが必要だと思います。 しかし、自閉症の子どもにとっては学校という環境を安心できる環境へと変える必要性があると思います。 それがなければ、心身の休息ができたとしても、恐怖を感じる場所、学校へは行けませんし、行ったとしても心身はすぐに疲れてしまいます。 日本では一般的ではないと思いますが、「学校恐怖症」という診断がおりる場合があります。 何らかの心理的な要因により、学校に行けなくなること。 私が関わっている自閉症、発達障害の子ども達の中には、「学校恐怖症じゃないか」と思う子どもがいます。 インクルージョンが進み通常学級で、自閉症、発達障害の子ども達が学ぶことが一般的になっていますが、自閉症に関する理解が乏しい限り、子ども達が安心して学ぶことができないと思います。 自閉症、発達障害の子ども達が安心して学べる場を!

不登校支援と自閉症支援の融合

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昨年から不登校関係の支援を行っている支援者の方たちと交流があります。 交流していて感じるのですが、不登校の子ども達の中に、発達障害の特性を持つ子どもが多くいる、ということです。 「発達障害だから不登校になる」とは思いません。 「現在の学校のシステムに合わない子どもが不登校になっている」のだと思います。 画一的な教育。 柔軟性が乏しい教育。 同一性を求められる教育。 学び方がユニークな発達障害の子ども達には、多様な学びに応えられるような教育が必要だと考えています。 相談を受ける子ども達の学校の様子をお聞きすると、 ①嫌な出来事があった(ex.いじめ、先生からの言動) ②環境側の問題(ex.本人の持つ感覚の違いに配慮されていない教室) ③スキル不足(ex.社会性、コミュニケーション面の未学習) というような要因が考えられます。 ①に関しては、記憶力の特性から出来事自体を忘れることは難しいため、原因の排除・回避か、子どもさん自身の認知の仕方を少しずつ変えていくような支援の方向性になります。 ②に関しては、環境の調整を直接行うことはできないため、アイディアを保護者の方にお伝えするくらいしかできません。 ③に関しては、1対1の個別指導でスキルの向上を目指したり、メンタルフレンドなどを通して、モデリング(観察学習)によるスキルの獲得を目指したりします。 4月からフリースクールのお手伝いをさせていただくようになってから、今まで以上に相談を受けることが増えました。 不登校支援と自閉症支援の融合。 今後ますます必要になってくる新しい支援の形ではないか、と考えています。 あと少しで見ごろの藤の花

発達障害を乗り越えた!?

「発達障害を乗り越えたスタッフ」というナレーションを聞いて、残念に思いました。 私は、発達障害は"乗り越える"ものではなく、"活かす"ものである、と考えています。 発達障害は治癒するというものではありません。 生涯付き合っていく脳の使い方です。 脳の使い方に良し悪しはない、と思っています。 多数派、少数派にどちらにも優劣はありません。 また感覚の過敏性なども和らいでも、無くなることはありません。 乗り越える壁があるとするならば、それは発達障害の人たちの能力を活かせない社会との間に存在しているのだと思います。 発達障害=壁ではありません。 発達障害の人と社会との間に立つ壁。 発達障害の人が壁を乗り越えるような力をつけるだけではなく、壁を小さくして乗り越えやすくすることも大切だと思います。 「発達"障害"」という表現が誤解を生んでいるのかもしれません。 「ASD」という表現で、"脳の使い方が異なる"という点も、"感覚の違い"と合わせて伝えていくことが大切だと、先日の放送を見て思いました。

「発達障がいについては、まずこちらにご連絡を」

「発達障がいについて相談」といったら、どんな機関を想像しますか? 私が住む地域では、 発達障がい者支援センター 医療機関 保健センター 児童相談所 学校 などが挙げられます。 相談できる機関が多ければ多いほど、相談できる機会は増えますし、多様なニーズにも応えてもらいやすくなります。 でも、その弊害もあると思います。 相談できる機関が多いほど、まずどこに相談したらよいのか、現在の悩みに一番適切に応じてもらえる機関はどこか、など分かりづらいというものがあります。 また機関の方の弊害として、それぞれの機関での連携が難しかったり、機関ごとに異なった助言や支援を展開し、結果的に親御さんの負担を増やしてしまうこともあります。 私は相談の窓口を一本化したら良いのでは、と考えています。 発達障がいについて悩みがあったら、まず〇〇という機関に連絡する。 そして〇〇という機関が、相談を受けた内容や本人の特性から考えて一番適切と思われる機関につなぐ、または必要な支援者を選定し、チームを編成する。 このような窓口の一本化を実現したら、親御さんを本人のこと以外で疲れさせたり、混乱させたりすることが減る、と思います。 「発達障がいについてお悩みの方、サポートを受けたいことは、まずこちらにご連絡ください」というようになれば、効率的かつ地域の資源を最大限に活かして支援を展開することができるようになる、と思っています。

「子どもの未来を支援する道南ネットワークの集い」のご報告

本日、『登校拒否と教育を考える函館アカシヤ会』主催のイベントに参加してきました。 そこで私は次のような発表をしました。 昨年の4月2日より函館市で、この事業を起ち上げました。 この1年間で、とても多くの方から「ありがとう」という感謝の言葉や「こんなサービスを待っていました」「とても嬉しい」というような有難い言葉を頂戴しました。 しかし、私はどちらかというと、自分のためにこの事業を起ち上げたというような気持ちです。 私は自閉症の人たちと関わることが単純に好きであり、部分的な関わりではなく、24時間トータルでの関わり方をしたかった。 でも、このような仕事はありません。 ですから、自分でやりたい仕事を作った、というのが現実に近いと思います。 事業開始当初は、以前知的障害を持つ自閉症の方たちの施設で働いていたことと、学生時代に養護学校の子ども達の支援を行っていたことから、知的障害を持った自閉症の方の利用だけでした。 しかし、現在では知的障害を持っていない普通の学校などに通われている、または通っていた自閉症の方が主な利用者になっています。 この事実を分析すると、世の中にある一般的なサービスは利用しにくいけれど、福祉サービスの対象にはならないエアーポケットにいる人たちともいえるのではないか、と思っています。 一般的なサービスと福祉サービスの狭間にいて、適当なサービスが今までなかった人たちが利用につながっていると考えられます。 2040年には、函館市の総人口が現在より約10万人減ると予想されています。 このままでは函館市で商売をやっている人たちは成り立たなくなることは目に見えています。 また若い働き手がいない地域になってしまいます。 そうなったとき、私は自閉症の人たちの力が必要になってくると思います。 自閉症の人たちの一点集中型の特徴や正確性、真面目さなど大いに活躍できると思いますし、現在そのような力を活かしきれていないことがもったいないと思います。 ある職場で支援させて頂いたとき、「自閉症の人のための支援は、私たちにとってもわかりやすい」と感想を述べられた方がいました。 「自閉症の人が働きやすい職場にしたら、他の人たちも働きやすくなった」というようなことを言った方もいます。 これからは「自活」の時代だと思います。 自閉症の人たちの

10年前と比べて減った2つのこと

私が学生だった10年前と比べて、2つのことが減ったと感じています。 それは「子どもの世代が異なる親御さん同士の交流」と「子どもと親御さんの接する時間」です。 以前ですと、例えば就学前のお子さんを持つ親御さんと成人したお子さんを持つ親御さんといった異なる世代同士での交流がありました。 しかし、今はそのような機会がほとんどない、と言います。 縦のつながりはもとより、同世代の横のつながりすらほとんどないそうです。 子どもの世代が異なる親御さん同士の交流は大変意義のあることだと思います。 年齢の低い子どもの親御さんは年齢の高い親御さんの経験や話を聞くことで、将来我が子がどのように成長していくか、またどのようなことに気を付けて育てていけばよいか、のヒントを得ることができます。 よく親御さんの口から出ていた言葉で、「うちの子は、〇〇さんにタイプが近いと思う。だから、〇〇さんの成長の様子を聞いて、我が子の子育てや進路に活かしたい」というものがありました。 しかし、現在の親御さんたちから多く聞く言葉は、「我が子が将来どうなるかわからない。想像すらできない」というものです。 これでは将来に向けた準備もできませんし、不安ばかりが募っていきます。 10年前と比べて、放課後利用で来る場所が地域に格段に増えました。 障がいを持った子どもも受け入れてくれる学童クラブ等も増えましたし、デイサービスも増えました。 しかし、その結果として親御さんが我が子と接する時間が減りました。 今はどこの養護学校でも学校が終わる頃になると、デイサービスの車が並んで待っており、子ども達をそれぞれのデイサービスの場所まで連れていきます。 「学校から帰ってきてからが長くて長くて」と悩んでいた以前の親御さんたちと比べて、家族の負担という面では大変軽減されたと思います。 でも、その分子どもと接する時間が減り、平日は起きてから登校までと、夕方帰ってきてからご飯食べて寝るまでの時間のみしか接していないことになります。 夏休みや休日なども「朝から夕方までデイサービス等に行っている」という家庭が増えました。 端的に言って我が子のことを知らない親御さんが増えました。 「お子さんの好きなことは何ですか?」「得意なことは何ですか?」「将来、どうなってほしいと考えていますか?」という問いかけに

「子どもの未来を支援​する道南ネットワーク​の集い」のお知らせ

来週の日曜日、函館市にあります総合福祉センターで、『登校拒否と教育を考える函館アカシヤ会』主催のイベントが行われます。 【子どもの未来を支援する道南ネットワークの集い】   □日時:2014年5月18日(日)13時30~   □会場:函館市総合福祉センターあいよる21   □第1部:関係団体の活動紹介(13時30分~15時) 4階会議室   ・函館圏フリースクールすまいる     ・はこだて若者サポートステーション   ・発達障害者支援センターあおいそら  ・昴の会~不登校をともに考える会   ・道南ひきこもり家族交流会「あさがお」、当事者の会「 樹陽のたより」   ・てらっこ塾(自閉症のままで生きられる地域・ 社会を目指し、家庭訪問支援を実施)   ・ふぉろ~ず( 思春期以降に自閉症スペクトラムの診断を受けたか、その可能性の           ある方のご家族の勉強会)   ・登校拒否と教育を考える函館アカシヤ会   □第2部:各団体を囲んでの懇談会(15時10分~17時) 4階会議室   ・不登校関係グループ(すまいる、昴の会、アカシヤ会)   ・ひきこもり関係グループ(サポステ、あさがお、樹陽のたより)   ・発達障害関係グループ(あおいそら、てらっこ塾、ふぉろ~ず)   □個別相談(15時10分~17時)1階研修室、要予約   □主催:登校拒否と教育を考える函館アカシヤ会    (連絡先)野村 090-6261-6984   □後援:函館市 函館市教育委員会 北海道教育庁渡島教育局・檜山教育局      北海道渡島保健所 北海道発達障害支援センターあおいそら      一般財団法人北海道国際交流センター      函館弁護士会子どもの権利と法教育委員会     函館市で 、さまざまな"生きづらさ"を感じている人たちの支援を行っている組織が、一堂に集まるユニークな取り組みになっています。 事前の予約はいりませんし、入場は無料ですので、もしお時間がございましたらいらしてください♪ お待ちしております!  

「もう1回、実習に来てください」の意味は?

養護学校で行われる現場実習。 実習先から「もう1回、実習にきてください」と言われたら、どのような意味で受け取りますか? 実習先が作業所だったり、福祉施設だったりすると、 「もう1回、実習して良いということは、相手が好意的に受け止めてくれているんだ」 「これはほぼ決まりということだから、卒業までに本人のことを詳しく知っておきたいのだろう」 など、前向きに捉えられることが多いです。 しかし、この実習先が民間の企業だったりすると、意味合いが異なってきます。 民間企業の側からすると、何度も実習を受け入れることのメリットはあまりありません。 実習に来れば、少なからず気を使わなければなりませんし、仕事の能率は低下することもあります。 障害を持った人を積極的に雇おう、と考えている民間企業でなければ、「もう1回、実習に来てください」という意味は好意的なものではなく、雇うのには不安がある、という意味の方が強いと考えられます。 第一、「是非我が社に来てほしい」と思うような人材でしたら、1度の実習で内定、採用となります。 実習先が民間企業なのに、「もう1回、実習に来てください」という意味を反対の意味で捉えてしまうと大変です。 「もう就職は大丈夫だ」というように安心していると、大どんでん返しということもあります。 一般就労、民間企業を目指す養護学校の生徒と言いますか、進路指導をする立場の支援者は特に上記のことを心する必要があると思います。 「障害を持った子ども達に理解がある、好意的である、受け入れてくれる」といった福祉的な尺度で、現場実習、一般就労を考えていると危険だ、ということを改めて考えさせられるエピソードを聞き、このような文章を書きました。

泥だらけの靴

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4月から保育園に通い始めた息子。 毎日、「よくこんなに汚してこれるね」というぐらい服や靴を泥だらけにして帰ってきます。 泥だらけの衣類の洗濯は大変ですが、五感を使っていろいろな感覚を養っている貴重な時間だと思っています。 「そっと持って」とか、「ザラザラしているね」とか、具体的に表現出来ない言葉。 このような言葉を理解したり、想像できたりするには、やはり五感を通して経験することが大切だと言われています。 タンポポの綿毛が飛ばないように"そっと"持ったという経験。 タンポポの茎を触ったときの"ザラザラ"という触り心地。 将来、傷ついた友だちがいたとき、「そっとしてあげてね」と言われたら、子どものときに経験した"タンポポの綿毛"と結びつき、感覚として理解することができる。 子どものときの五感を使った経験は、感情や表現の幅を広げることにつながっていきます。 自閉症の人たちは、定型発達の人たちとは異なる"感覚の違い"を持っています。 同じようにタンポポを持ったとしても、茎のザラザラしている触覚の刺激を過度に受け取ってしまったり、反対に指の感覚がまったく無かったり。 これでは持っていることに注目がいっていない場合があり、そのため記憶に残っていないこともあります。 また何事も見たままで具体的に捉える傾向がありますので、"そっと"持とうが、"強く"持とうが、持っていることには変わりないので、「持っている」という認識しかない場合もあります。 1対1対応で捉える傾向もありますので、タンポポを持っているときに「そっと持ってね」と言われると、「そっと持つ」=「タンポポを持つこと」というように結びつけることもあります。 こうなると、傷ついた友だちがいたときの「そっとしてあげてね」の意味がちんぷんかんぷんになってしまいます。 定型発達の子ども達ですと様々な経験を通して"感覚"を学んでいきますが、自閉症の子ども達は、同じような経験をしたとしても、感覚の幅を広げることがうまくできないこともあります。 こうなると、結果的に感情や表現の幅が狭かったり、それらの違いを理解することが苦手だったりすることにつながっていきます。

「失敗経験をさせない」という意味

「成功体験を積み重ねる」 「失敗体験をさせない」 は、今や自閉症支援の常識となっています。 でも、この言葉を知っていて実践している支援者の中にも、その理由をよく理解していない人もいます。 よくある誤解が「成功させる=良い教育」という視点です。  「失敗ばかりしていると、本人が傷ついてしまう。やる気もなくなるし、苦手意識だって持ってしまう。だから、その活動が楽しいと感じて、やる気を持って学習してもらうために、レベルを調節して成功体験を積み重ねるようにしていこう」 そして、もう一つの誤解が「自閉症=失敗が多い」という視点です。 「自閉症の人は、人間関係でトラブルを起こすことが多く、コミュニケーションも苦手だし、変化にも弱い。だから、どうしても失敗することが多いから、なるべく失敗させないように教育していこう」 人は誰でも失敗をします。 それは自閉症の人でも、定型発達の人でも同じです。 圧倒的に自閉症の人の方が、定型発達の人よりも失敗をしている、とは言い切れないと思います。 むしろ自閉症の人の中には、周囲から見たら失敗しているように見えることも、自分では気が付いていないこともあると思います。 では、なぜ「成功体験を積み重ねる」「失敗経験をさせない」ということが、自閉症支援の常識となっているのでしょうか。 それは自閉症の人たちの持つ"記憶の特性"が関係しています。 自閉症の人たちは記憶力が優れていると言われています。 また、"忘れられないことが障害"という人もいます。 つまり、自閉症の人たちは記憶が大変優れているため、過去のことも鮮明に、しっかりと覚えている場合が多くあります。 私たち定型発達の人なら、"忘れる"ということを通して、過去の嫌なこと、失敗を記憶の外に追いやることができます。 だから、同じ失敗を繰り返す(笑) でも、自閉症の人たちは"忘れる"ことができないため、過去の嫌なこと、失敗を現在進行形で向き合っている場合があります。 そんな状態ですと、ずっと「自分は失敗ばかりしている」「自分はダメな人間だ」というように、マイナスな感情ばかりが溢れてしまい、どうしても自己肯定感が乏しくなってしまいます。 自閉症の人でも、定型発達の人でも、失敗

最高の褒め言葉

今週、また「てらっこ塾で働きたい!」と言ってくれる方と出会いました。 この言葉は私にとって最高の褒め言葉です。 だって、その方は自閉症の特性を持っている人だから。 「とっても柔軟で、自分たち側に立っていて、そして身近に感じる支援サービス」という点が、当事者の方たちに伝わっていることはとても嬉しい。 まだまだ開業2年目の小さな企業なのに、いろいろな方から「てらっこ塾で働きたい」と言われることがあります。 でも、やっぱり嬉しいのが当事者の方たちから「働きたい」という言葉が聞けたときです。 当事者の方で「働きたい」と言ってくれる人の共通点として、「自分が子どもの頃、こんなサービスを使いたかった」「こんな人が側にいて、いつでも相談や手助けをしてほしかった」という気持ちがある場合が多いです。 裏を返せば、それだけ辛い思いや経験をしながら、今日まで過ごしてきたことが垣間見られます。 学校や家庭でのトラブル、日常生活のすべてに関してサポートが必要だったわけではないけれど、やっぱり日々の生活の中で感じる"生きづらさ"を一緒に解決してほしかった。 このような思いも伝わってくることがあります。 「働きたい」と言ってくれる当事者の方に理由を尋ねてみると、「こんな支援がしたい」「こんなサービスを作りたい」という答えが返ってきます。 深く深く掘り下げて尋ねていくと、やっぱり最後は「ずっとこんなサポートがあったら良いのに、と思っていたから」という理由にたどり着きます。 お金を稼いで生活する仕事として成り立つのか? ピアカウンセラーとして"共感"はできるが、"療育"はできるのか? 保護者の方へのサポート、支援者同士の調整ができるのか? など、当事者の方が当事者の方を支援するといった場合、このような疑問が投げかけられることが多くあります。 でも、私は本人の"自閉症の人たちと支援を通して関わっていきたい"という気持ちを大切にしようと考えています。 本人ができること、得意なことを活かしてもらえば良いと思います。 生業としては成り立たないかもしれないけれど、支援、サービスを提供し、少額でもお金を得ることは可能だと思います。 今は無理ですけれど、将来的には当事者の方たちをスタッフ

「好きなこと」と「仕事」は別なのか?

当事者の方から就職について相談を受けることがあります。 「自分にはどんな仕事が向いているのか?」というような相談の場合には、その方の興味があること、また得意なこと、心地良いことなどから一緒に考えるようにしています。 しかし、「自分は〇〇という仕事がしたい」と明確な目標を持っている方からの相談の場合、私は悩むことがあります。 希望している仕事がその方の持っているスキルを活かせるものであれば、何も悩むことはありません。 でも、中にはその方の興味関心とは合っている仕事ではありますが、スキルに注目した場合、苦手な部分や難しい部分がある、と考えられるときには悩んでしまいます。 当事者の方たちに「やりたいことと仕事は違う」ということを明確に伝えるべきだ、とおっしゃる専門家の方たちは多くいます。 支援者の中にも、「あなたは〇〇が苦手じゃない?」「休まずにその仕事を続けられるの?」などと言って、現実に目を向けさせようとする人もいます。 確かに当事者の方の中には、自分の興味関心に注目がいっており、客観的に自分の持っているスキルと仕事で求められるスキルとの比較ができていないこともあります。 しかし、だからといって「あなたの希望している仕事は無理ですよ」などというようなことは、私には言えません。 自閉症支援の基本は、彼らの"興味関心を活かす"ということです。 興味関心があることに対して、強力で、持続的な注意を向けることができます。 また興味関心があること自体が、強力な動機づけにもなります。 このことは自閉症の人たちの強みであり、仕事に関しても活かすべき特徴であると考えています。 また支援者や専門家の意見でその方の仕事、進路が左右されて良いのか、という点に疑問があります。 どんな仕事であっても、自分の得意なスキルばかりで成り立つ仕事はないと思います。 どんな仕事の中にも自分の得意なスキルを用いる部分もあれば、苦手なスキルを用いる部分もあります。 いくら周囲が「その仕事は無理」と思っていても、実際に働いてみたらうまくいったりすることもあると思います。 働く前から、「その仕事が向いているかどうかなんて誰にもわからない」というのが、私の考えです。 その方が持っている「この仕事がやりたい」という思いを否定することよりも、「こんな仕事が

共通する部分から本人の"クセ"を見抜く

新しい出会いの時期。 私も仕事を通して、新しい出会いが増えています。 そんな新しい出会いのきっかけは、保護者の方からの依頼がほとんどです。 「〇〇ができないので、できるようになってほしい」 「〇〇という行動に困っている」 私の仕事の場合は、特定の技能の獲得や特定の行動の軽減など、依頼が具体的で、どうすれば良いのかが明確です。 でも、最初にその本人と会うときには、あまり依頼された部分のみに注目し過ぎないようにしています。 この前来た依頼は「片づけられないことをどうにかしてほしい」というものでした。 部屋の中に入ると、お世辞にもきれいな部屋とは言えませんでした。 保護者の方の依頼もそうですし、本人の部屋の状態もそう。 部屋の片づけ方の学習をする必要があることは明確でしたが、すぐに片付けの学習はやりませんでした。 もちろん"いきなり学習"というよりも"人間関係を築く"必要がある、という理由もあります。 でも、それだけではなく、学習を始める前に、本人の"クセ"を見抜く必要があるからです。 自閉症の人たちは、同じ"自閉症"という特性を持っていますが、その表れ方は一人ひとり異なっており、個人差が大きいと言われています。 ですから、まず初めに、その本人だけが持っている捉え方や学習の仕方、注意の向け方、興味関心について知る必要があります。 本人に片づけについて尋ねてみると、本人は片付けの必要性を理解しており、実際に片付けも定期的に行っていました。 しかし、時間が経つと、元の場所に片づけなかったり、そのままにしておいたりして、どんどん部屋が汚れていくとのことでした。 ここまでの情報だけで支援を進めると、「一日の中で片付けの時間を作ろう」とか、「わかりやすいように棚に片づける物のラベルを貼ろう」という具合に、『THE自閉症支援』みたいなことしかできません。 ですから、私は他にも家での様子、学校での様子などについても尋ねました。 そのような会話を行っていく中で、 「洗濯洗剤をめもりに合わせて入れようとして、めもりから少ないときは良いが、めもりから少しでも多くなってしまうと、面倒に思えて量に関係なく洗剤を入れてしまう」 「お小遣いを計画的に使おうと月の始めはし

新学期は落ち着かないのが普通!?

毎年、この時期になると、違和感を感じる会話があります。 「新学期が始まったばかりだから、落ち着かないのは仕方がないよね〜」という会話。 確かにいろいろな変化があるこの時期は、変化が苦手な自閉症の人たちにとって大変な時期だと思います。 でも、だからといって「落ち着かないことが普通だ」みたいな発言には疑問を持ってしまいます。 予期しない突然の変化だったら仕方がないでしょう。 でも、新学期が来るのは、ずっと前から分かっている事実です。 しかも、この変化は毎年やってきます。 ということは、変化が苦手だという特性だから仕方がないのではなく、端的に言えば、支援する側の準備不足以外の何ものでもありません。 支援者が交代するときの引き継ぎはきちんと行われていたのか。 その引き継ぎはただの文章だけの形式的なものではなく、本人の特性から学習スタイル、過去の取り組みまできちんと情報の共有ができていたのか。 本人に対して、事前にその人がわかる形で変更があること、また具体的にはどんな変更があるのかをきちんと伝えていたのか。 そして一番重要なことが、変更があったときに対応できる支援の手だてがあり、その使い方、対処の仕方まで日頃から学習することができていたのか。 「支援者が替わるんだから、大きな影響が出て、落ち着かなくなるのは当たり前だろう」というようなことを思われる方がいるかもしれません。 でも、別の捉え方をすると、支援者が変わって落ち着かなくなるということは、その前の支援者の影響を大きく受けていた証拠とも言えます。 同じ支援者が一生側にいることはありません。 変更がない世の中はありません。 目指すべき本来の姿は、支援者が替わろうとも「自分で今、求められている活動を理解し、そして独りで実行できる」ことです。 このようなきちんとした支援の方向性で療育を受けている自閉症の人たちは、支援者が替わろうとも、新年度がこようとも、まったく動じず、日々の生活を送ることができています。 私の知っている自閉症の人たちの中にも、このような人は多くいます。 4月は「"ふりだし"に戻る月ではなく、"前に進む"月に」と強く思う毎年のこの時期です。

就労支援、あなたはどっちの考え方?

将来の就労に関して心配されている親御さんは多く、「学校を卒業後、働くにはどのような力を身につけておけば良いですか?」と相談されることがあります。 それに対する私の答えはこうです。 「マニアックな力を身につけましょう!」です。 就職に対する考え方には、大まかに分けると2通りあると思います。 それは「就職口が広がるように、いろいろな技能を身につける」というのと、 「ある一点の技能を深く身につける」というものです。 私の考え方は後者になります。 いろいろな技能を身につけると、就職できる場所が増えていくと思います。 例えば、料理ができるなら飲食店で働ける可能性が出てきますし、レジ打ちができるならコンビニやスーパーなどで働けるかもしれません。 しかし、このような方向性で就労支援を行うには、頭に入れておかないといけないことがあります。 それは「時間」と「ライバルの増加」です。 「時間」というのは、「就職するにはあれも必要。これも必要」というように幅広く技能の獲得を目指すため、時間が足りなくなってしまうということです。 自閉症の人たちは、見たり、聞いたり、想像したりして自然に適切な方法を学ぶことが苦手なため、個別指導が必要になります。 また特別支援学校に通う子どもなら18歳まで、大学や専門学校に通う子どもでも22歳くらいまでに就労に必要な技能を身につける必要があります。 このように限られた時間で、ある程度の技能を身につけておく必要があるので、時間が足りなくなる可能性があります。 「ライバルの増加」は、一言でいうと、「多くの人ができる仕事は、それだけライバルが多くなる」ということです。 現代の厳しい社会では、「同じ仕事ができるなら、自閉症じゃない人を雇おう」と思う経営者が大部分なのが実際のところです。 ですから、あらゆる技能を身につけることは就職口を広げることになるかもしれませんが、それだけライバルが多くなることを意味しています。 私が長年、自閉症の人たちと接して感じることは「一点集中型を活かした就労支援」の有効性です。 自閉症の人たちに「幅広い技能を身につけなさい」というのは、彼らの"好み"には合っていないと思っています。 例え定型発達の人たちが自然にできるようなことができなかったとしても、何か1つでも秀でてい

2年目突入!!

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昨日は『世界自閉症啓発デー』でした。また『てらっこ塾』も、めでたく(?)2年目に突入しました! 個人事業で、コネもない状況で始めた『てらっこ塾』ですので、利用してくれる皆さま、応援してくれる皆さまがいなければ、2年目を迎えることはできなかったと思います。 皆さま、本当にありがとうございました! また、今後ともよろしくお願いします。 今年に入り、新規で利用してくれる方たちが増えてきました。 みなさん、いろいろな"生きづらさ"を感じながら生活されている方ばかりです。 不思議な縁で結ばれた方たちだと思っています。 そんな縁を一つずつ大切にしていきたいです。 4月から函館圏フリースクール「すまいる」の仕事も兼任するようになりました。 スタッフのみなさんから、いろいろな刺激をいただいています。 不登校支援と自閉症支援のコラボレーションが、今後どのような化学反応を起こすか、大変楽しみに思っています。 2年目も謙虚に、貪欲に学び、専門性の向上と視点の幅の広がりを目指していきますので、引き続き応援よろしくお願いします! 「すまいる」の駐車場に車を止めると、正面に函館山が見えます☆

特別支援学校に通う子ども達に"進学"の機会を!

どうして特別支援学校に通う子ども達は、18歳で卒業し、社会へと出ていかなければならないのだろう 同世代の子ども達の多くは、大学や専門学校へと進学し 専門的な知識や技能を学び アルバイトをして働くことを学び 一人暮らしを始め、自立を学ぶ 同世代の子ども達は、高校を卒業したあと、ゆっくり社会へ出ていくための準備を行っている それだったら、特別支援学校に通う子ども達だって、このような期間が必要ではないだろうか 現在の特別支援学校に専門学校のような機能を持たせても良い 高等部を卒業した子ども達の中で、希望者は数年間、延長して教育が受けられるようにしても良い 新たに特別支援学校の専門学校を作っても良い 現在ある専門学校に、特別なニーズがある子ども達も通えるようにしても良い 十分な準備が整っていないまま、高等部を卒業し、社会へ出されていく子ども達を見るたびに思う 特別支援学校に通う子ども達に"進学"の機会を!

禁止事項を伝えるにはどうしたら良い?

"禁止事項"をもう少し掘り下げてみると、それは「〇〇しない」という"約束"だといえます。 「〇〇しない」というのは、ただの文字でしかありません。 この文字に効力を持たせるには、マイナスの要因をくっつける必要があります。 ここで、ある知的障害を持つ自閉症のお子さんがいる保護者の方の実践例を紹介します。 このお子さんは、トイレに靴下などをよく流していました。 そこでお母さんは、お子さんに対し「トイレにトイレットペーパー以外は流しません」という約束を伝えました。 禁止事項を伝えたあとも、やっぱりトイレに物を流してしまう。 そのとき、お母さんは「あなたが約束を破るなら、私も約束を破る」と言って、買ってあげる予定だったおもちゃを買うことを止めました。 これ以降、トイレに物を流す行動が無くなりました。 この実践例のポイントを解説します。 まずは「トイレにトイレットペーパー以外は流しません」というただの文字に効力を持たせたことです。 この約束事を破ると、マイナスなことが起きる(おもちゃが買ってもらえなくなった)ということを経験したため、「約束事を破る=よくないこと」ということを本人にとって分かりやすい具体的な手段で伝えた点にあります。 そして、"罰"を与えたのではなく、"契約破棄"という状況にしたことも重要なポイントです。 ここで、トイレに靴下を流したときに、夕食を抜きにしたり、本人が大切にしているおもちゃを取り上げたりしたら、これはただの"罰"を与えているだけです。 本人にとっては、ただショックなだけで、意味がわかりません。 それは、何もしなくても通常なら得られるものが取り上げられてしまうからです。 ですから、「おもちゃを買ってあげる」という特別な契約を破棄する方法をとっています。 罰を与え続けることは、一般的な感覚を持つ支援者なら辛くなり行うことができません。 また、罰を与え続けることは、罰がないと動けない人間を作ることになりますし、徐々に慣れてくるので、罰のレベルを上げていく必要が出てきます。 この実践例は、あくまでこのお子さんに対しうまくいっただけで、他のお子さんに当てはまるとは言えません。 大前提の考え方は、 『禁止事項への

禁止事項への対応の仕方

自閉症の人たちは、一般的な善悪で物事を判断するよりも、自分の内から湧き出る自然な欲求に従って行動しているように見えることがあります。 特に知的障害を持っている方や子どもの場合です。 例え、友だちを叩いてしまうようなことがあっても、良いことをしている、悪いことをしている、というような視点からではなく、「叩きたい」という内的な欲求から行動している場合があります。 そして多くの場合、友だちを叩くことで得られること(ex.友だちが振り向いてくれる、先生の注目を集められる)が本人の欲求を満たしてくれることになります。 本人は「悪いことをしても、自分の欲求を満たしてやろう」と考えているのではなく、ただ自分の欲求を満たす方法が、一般通念上、「悪いことであった」ということにすぎません。 ですから、自分の欲求を満たせるなら他の方法でも構いません。 支援者は、本人の内的な欲求を分析し、「叩くよりも、こんな方法でも欲求を満たすことができるよ」と適切な方法へと導くことが大切です。 ポイントは、ここでいう「叩く」行動よりも、容易に、素早く、本人の要求を満たせる手段を提示することです。 『禁止事項を伝えるにはどうしたら良い?』 に続きます。

禁止事項が増え続ける"負のスパイラル"

 こういった自閉症の人の視点を理解していないと、負のスパイラルに陥ってしまうことがあります。 「友だちを叩かなくなったけれど、今度はキックするようになった。だから、『友だちをキックしません』という禁止事項も加えよう」 などといって、キックに関する禁止事項を加える。 そうしているうちに、今度はチョップするようになり、チョップを禁止したら、噛みつくようになる・・・。 気が付いたら、禁止事項が教室中に貼ってあるような状態に。 また、「一部の友だちを叩かなくなったけれど、まだ叩いてしまう子がいる。だから、叩いてはいけない人の写真を撮って、禁止事項の下に貼っておけばいいんだ」 などといって、クラスメイトの写真を撮り、先生の写真を撮り、どんどん貼っていく。 クラスが替わったり、新たに叩く人がいたら、その写真を加えていく・・・。 時々、禁止すること自体が目的になってしまっていると感じる支援を目にすることがあります。 上記のような負のスパイラルに陥ってしまうと、永遠に問題は解決しないでしょう。 すべての禁止事項を書き表すことはできないからです。 また、支援される立場から見て、禁止事項だらけの支援、世界をどのように感じるでしょうか。 私だったら、そんな人に支援してもらいたくありませんし、そんな禁止事項ばかりの世界では疲れ果て、逃げ出したくなります。 目的は禁止事項をやらなくすることではなく、望ましい行動を身につけることのはずです。 「自閉症の人には、文字に書いて見せれば良い」 というような表面的な理解だけで支援を行っている人は少なくありません。 上記のような場合ですと、文字に書いて禁止するのではなく、叩いてしまう行為の背景を分析すること。 そして、禁止事項ではなく、望ましい行動(ex.上手な友だちとの関わり方、意思の伝え方)を教えること。 この2つの視点が、自閉症の方たちへの支援の基本になると、私は考えています。 『禁止事項への対応の仕方』 に続きます。

禁止事項が伝わらない理由

禁止事項を視覚的に伝える方法は、人によっては誤ったメッセージを受け取りかねません。 例えば、「友だちを叩きません」という禁止事項を紙に書いて、掲示したとします。 この禁止事項を見て、「友だちを叩いてはいけないんだ。今度からしないようにしよう」と思う人もいるかもしれません。 しかし、人によっては「友だちを叩いてはいけないんだ。だったら、キックしても良いんだ」というように受け取る人もいます。 支援者としたら、暴力行為全般を禁止しているつもりかもしれませんが、本人から見たら「だって、キックは禁止事項になってないもん」と思っているでしょう。 この他の誤ったメッセージの受け取り方として考えられることは、 友だちを叩いてはいけないなら、"先生"や"友だちとは思っていないクラスメイト"なら良い。 この禁止事項が掲示してある場所では叩いてはいけないけれど、"他の教室"や"家"、"外出先"なら良い などが考えられます。 自閉症の人たちは字義通りに意味を受け取る傾向があります。 ですから、私たちが「友だちを叩きません」という文字を見たとき、「人に対する暴力行為を禁止しているんだな」というように、文字に表されていない禁止事項を書いた人の"意図"や"社会通念"などを想像する一方で、自閉症の人たちはそのことに注目できず、文字通りの意味で受け取ることが多々あるのです。 そしてこのような場合に、定型発達の人たちは「禁止事項が伝わっていない」と判断してしまうのです。 『禁止事項が増え続ける"負のスパイラル"』 へと続きます。

この支援方法を想像して、モヤモヤした方のみお読みください

「言ってはいけない言葉を言わなかったので、ご褒美をあげる」 この支援方法を想像してみて、気持ちがモヤモヤした方のみ読み進めてください↓ 自閉症支援は 「褒めて伸ばす」 「失敗経験をさせない」 「成功体験の積み重ねていくことが大切」 などの言葉が独り歩きしている気がしています。 もちろん、言っていることは正しいですし、私も自閉症支援の基本的な考えとして頭に入れ、実践しています。 しかし、どうも深い意味も分からないで、「とにかく褒めて、失敗経験をさせない」というような頭で支援を実践している人が少なくないように思えます。 冒頭に書いた例がその典型です。 私は褒めるポイントがずれているように感じます。 では、なぜ冒頭の支援方法がずれているのでしょうか? それは、本来は言うべきではない言葉を言わないという"通常の状態"に対し、ご褒美を与えることがおかしいからです。 ご褒美は、望ましい行動をしたときや頑張ったときに与えられるもの。 また、知的に障害を持つ自閉症の子どもさんの場合、何に対してご褒美が与えられているのかがわからないと思います。 100歩譲って、四六時中、言ってはいけないNGワードを言い続けているならわかります。 そうでなければ、NGワードを言っていないときも一日の中でたくさんあるのですから、それに対しても常にご褒美を与え続ける必要が出てきます。 しかし、実際にすべてのときにご褒美を与え続けることができないのですから、結局何に対してのご褒美かが、本人には伝わりづらいと思います。 最悪なのが、「これが言ってはいけない言葉です」と言って、紙などにNGワードを書いて見せる支援です。 ただでも、本人はNGワードを言いたいという欲求を持っているのに、自閉症の人たちにインパクトを与える視覚的にNGワードを見せてしまう。 そうなれば、余計に気になるし、注目を向けさせてしまう結果になるでしょう。 これは例えるなら、目の前に好物のケーキがあるのに、「ケーキは食べてはだめだよ」と言われているようなものです。 みなさん、街を歩いていて、急に「あなたはNGワードを言わなかったので、ご褒美をあげます!」と言われたら、どう感じますか? こんなトンチンカンなことは、現実にはあり得ない話です。 例え、子どもが学校などで言っ

登校してランニング、授業でもランニング、給食のあともランニング・・・

「就職するためには体力が必要なんですよね?」と保護者の方から尋ねられることが多いです。 特に特別支援学校に通っているお子さんのお母さんたちから。 一般的な高校や大学に通っているお子さんのお母さんたちからはほとんど聞きません。 どうもお母さんたちのお話を聞いていると、体力がないと夏場にバテてしまったり、毎日働くことができない、という情報を刷り込まれている様子があります。 確かに体力はある方が良いに決まっていますし、不健康だと仕事は続けられません。 でも、体力面ばかりに注目しすぎるのは・・・。 仕事に必要な体力は、仕事に就いてから付いてくるのでは、と思っています。 就職した初めの頃は、朝の早起きも、営業の外回りもとにかく辛い。 でも、時間が経って慣れてくればどうってことはなくなる、という経験はないでしょうか? 仕事を続けている中で、"その仕事の身体になる"というようなこと。 やっぱり仕事が続けられるかどうかは、仕事自体が好きかどうか、ということだと思います。 特に自閉症の人たちは、仕事をする"意義"のような抽象的なことに対する理解は苦手です。 だから、苦手な仕事や好きではない仕事は、素直にやりたくないと感じるので続きません。 また、今やっている仕事がどんな意味や価値があるのか、が分かりにくい仕事も続けていくことは難しいと言えます。 給料という具体的なものが最大の動機づけという方もいますが、やっぱり続けるには「仕事自体が好き」という点が重要であり、本人にとっても分かりやすい動機づけになると思います。 就活中の学生に、「就職するために体力をつけるような運動をしていますか?」と尋ねても、ほとんどの学生はそんなことに注目すらしていないと思います。 それだったら、特別支援学校に通っている学生たちも一緒ではないでしょうか? 定型発達の学生たちと同じように、就職に必要なことは、その仕事に必要な技能や知識を身につけることだと思います。 厳しい言い方かもしれませんが、体力がいくらあっても、働くために必要な技能と知識がない人は、どこも雇ってはくれません。 昔の養護学校のような「とにかく校庭を走る」というような教育から脱却しなければならないと考えています。 あくまで体力作りは健康的な生活を送るために必要

生物学的な生きづらさ、社会的な生きづらさ

ある人が「医学の進歩により、将来的には自閉症が治るかもしれない」と言った。 私はそれを聞いて、「そんな世界は面白くないな」と思った。 自閉症の人たちが持つ感覚の過敏性や衝動性などは、新薬や治療法の確立により無くなるなら、それに越したことはない。 でも、自閉症の人たちの注意の向け方や考え方などは、無くなってほしくないと思う。 世の中に定型発達の脳の使い方をする人しかいなかったら、それこそつまらない世の中になる。 一つのことに情熱を傾けたり、決められたルールや順序をきちんと守ろうとする姿勢。 同じものを見ても、別の角度から物事を捉えるユニークな視点。 私は自閉症の人たちと接する中で、彼らの姿勢から教わることは多いと思っている。 また、彼らのユニークな視点が新たな発見と発想につながり、世の中をワクワクさせてくれていると感じている。 生きづらさを感じている自閉症の人たちから、私はお叱りを受けるかもしれない。 しかし、生きづらさには"自閉症"からくる部分と、"社会"からくる部分があると思う。 「生物学的な生きづらさ」は、できるだけ早く医学の進歩により良くなって欲しいと思う。 「社会的な生きづらさ」は、自閉症の人たちの視点を生かせる社会にしていければ良いと思う。 私が生きているうちには、自閉症を根本から治療する方法は確立されないだろう。 だから私は「社会的な生きづらさ」を改善することが役割だと思っている。

職場内だけで解決することは難しい

「仕事をしながら、同時に発達障害を持つ同僚のサポートも行う」 というのは難しいことだと思います。 仕事も、人員も余裕がある職場ならいいかもしれません。 しかし、多くの職場は余裕がない状況です。 自分の仕事もしなければならないのに、他の人のことも意識しなければならない。 いくら障害を持った人たちに対する理解があったとしても、余裕がなければマイナスな感情を持ってしまうことも自然だと言えます。 先日、研修会を行わせて頂いた職場でも同様のことが起きていました。 障害を持った方たちに対する理解はありますし、どうにか一緒に働いていきたいと考えている皆さんでしたが、なんせ仕事に余裕がない。 余裕がないから丁寧に仕事を教えることまで手が回りません。 結局、本人に仕事を任せるよりは自分たちでやってしまった方が良い、という状況になっていました。  そこで私は1つ提案をしました。 同僚と本人の間に入ることを。 まずは通訳として「同僚の人たちが期待していること」を本人に伝える。 また「本人がどのように考えているか」を同僚に伝える。 このようなコミュニケーションの交流が必要だと思いました。 そして、本人の学び方に応じて、仕事を教えることもやらせてほしい、と提案しました。 提案に対し、職場の人たちは大変喜んでもらい、「是非お願いしたい」という返事を頂きました。 同僚と本人の中だけで、物事を解決していくことは現実的には難しい場合が多いです。 ですから、間に入ってお互いの風通しを良くする第三者の必要性があるのだ、と改めて感じる場面でした。

自閉症通訳士の仕事

昨日は「発達障害と私たちの違い~"自閉症"という国の人たち~」というテーマで、ある職場での研修会を行わせて頂きました。 「掃除をして」と言われると、他にも仕事があるのに何時間でも掃除をし続けている。 この様子を見た職場の同僚は「なんて要領の悪い人だ」と思ってしまう。 だから、「そんなに丁寧に掃除しなくていいから」と声を掛ける。 以降、それまで丁寧過ぎる程、掃除をしていた本人がゴミが落ちていてもすぐに掃除を終えるようになる。 また、その様子を見た職場の同僚は「"サボる"ことを覚えた」と再びネガティブな印象を持ってしまう。 結果的に、この人に仕事は任せられなくなるし、職場の人たちの中に不穏な空気が流れてしまっていました。 職場の同僚の人たちの気持ちも十分に理解できます。 やらなくてはいけない仕事は迫ってくる。 でも、同僚から見たら、トンチンカンな行動をしている。 そうしたら、どんな人でもイライラしてしまいます。 しかし、自閉症の人の捉え方を知ったあと、みなさんの反応が変わっていきました。 「掃除をして」と言われたから、本人は一生懸命掃除をしています。 本人は何も間違ったことはしていません。 ただ定型発達の私たちなら読み取れる「掃除の質」と、他の仕事を考慮して「どのくらい時間をかけたら良いのか」というメッセージを受け取ることができていなかったこと。 そして、本人は「"サボる"ことを覚えた」ではなく、「そんなに丁寧に掃除しなくていいから」という指示を字義通りに受け取っただけ。 サボっている人というよりは、むしろ指示されたことに一生懸命応えていた人とも言えます。 このようなお話をさせて頂いたあと、同僚の方たちから「それは悪いことをしたな」「サボっていたわけではなかったんだ」というような声が聞こえてきました。 私は「わかりやすかった」という声よりも、このような声の方が嬉しく感じました。 自閉症の人たちは、障害の部分が目に見えないので、誤解されやすいです。 上記のような出来事は、耳の聞こえない人の耳元で大きな声を出して、「なんでわからないんだ。イライラする!」と言っているようなもの。 耳の聞こえない人に手話通訳士の人が必要なように、自閉症の人にも自閉症通訳士のような人が

心のエネルギーを溜める

昨日は「親や教員は不登校の子どもにどのように対処したらよいか」というテーマの学習会に参加してきました。 「フカフカの布団を用意してあげる」 「美味しいご飯を食べさせてあげる」 このような家族だからこそできることをまずはやりましょう、というお話がありました。 心にエネルギーを溜めることの大切さを強調されていました。 この心にエネルギーを溜めることは、親御さんにとっても大切なことです。 同じアドバイスや言葉でも、親御さん自身に余裕がなく、心のエネルギーが溜まっていない状態ですと、受け入れることができなかったり、否定的に意味をとってしまうことがあります。 このような状態では、子どもに対しても前向きに向き合うことができなくなってしまいます。 ですから、親御さんのマイナスな感情を吐き出してもらい、また心のエネルギーを溜めてもらうことも大切です。 親御さんの中には、一生懸命になり過ぎてしまいポキッと折れてしまう方や、自分の時間を持つことをためらう方もいます。 支援者の代わりはいますが、親御さんの代わりはいません。 特別なことはいらないと思います。 親御さんだからこそできることをやってもらい、子どもの心のエネルギーを溜めてもらう。 子どもは心のエネルギーが溜まれば、より多くのことに挑戦できることになるでしょう。 また、親御さん自身も頑張りすぎずに、自分の心のエネルギーを溜めることができれば、子どもに対しても前向きな関わりができると思います。 「心のエネルギー」というキーワードで展開された学習会。 不登校に対する捉え方が以前よりも明確になったような気がしましたし、私の行っている仕事にも多くのヒントが頂けたと感じました。 またお話を聞いてみたい、と思えるような有意義な時間でした。

最終目標は『何でも屋』

『てらっこ塾』の最終目標は、何でも屋。 「自閉症に関することなら、何でもやります!」というような看板を掲げたい。 療育、相談はもちろんのこと、 保護者の方が急病や用事があるときに、預かるサービス 就職活動をサポートするサービス 一緒に外出するサービス 家庭の中を本人が住みやすい環境に整えるサービス お見合いや結婚生活のサポートサービス などなど。 自閉症支援の中核は、個別化。 だったら、サービスも個別化していく。 ニーズの数だけ、サービスの種類があるはずだ。 最初からサービスがあるのではなく、一人ひとりのニーズに合わせてサービスを作っていく。 「何を夢みたいなことを」と思われるかもしれない。 でも、私は必ず実現できると思っている。 というか、行動に移して、実現させれば良いだけと考えている。 『てらっこ塾』を作ったときのように。

お金よりも、支援者を遺す

子どもの将来のためにお金を遺すことも大事かもしれません。 でも、それと同じくらい、またはそれ以上に大事なことは、子どもの支援者を遺すことだと思います。 子どものことを理解してくれている支援者は、何人いますか? その人は、子どもが大人になっても支援してもらえますか? その人は、小さいときからのことを知っていますか? 学校に行っている間は、先生が子どもの理解者かもしれません。 しかし、学校はいずれ卒業しなければなりません。 ですから、学校の先生以外でも、自分の子どものことを理解してくれている支援者の存在が大切です。 小さいときからのことを知り、子どものことを本当に理解している支援者が家族だけ、という状態では、家庭内で落ち着いて過ごせなくなったとき、家族の身に何かあったときに、子どもの支援がプチッと切れてしまいます。 そのとき、一番困るのは子ども自身です。 お金に関しては、いざというときには福祉や行政の枠組みの中で、どうにかなるものです。 しかし、子どものことを本当に理解している支援者は、すぐには現れません。 子どもの味方は多ければ多いほど良いと思います。 「子どもが小さいときから、地域に子どものことを理解してくれる支援者を増やすことが大切ですよ」と、私は特に若い保護者の方たちに伝えるようにしています。

原因は「自閉症だから」!?

自閉症がすべての原因であるようなことを言う人がいます。 自閉症だから 「問題行動が起きても仕方がない」 「友達とトラブルが絶えない」 「通常学級ではやっていけない」 など。 極端な例だと、犯罪と自閉症を結びつけるようなこともあります。 確かに、犯罪を起こす人の中には、自閉症の人もいると思います。 でも、犯罪を起こす人の多くは、定型発達の人たちです。 何故なら本来、自閉症の人たちは、決まりやルールをきちんと守る人たちです。 また、人を騙したり、嘘をついたりすることは、相手の視点を想像し、それに合わせて様々な行動を選択しないといけないので、自閉症の人たちには難しいことだと言えます。 ですから、自閉症の人が犯罪を起こしたとしても、そこに至るまでには別の要因が複雑に絡み合っている場合がほとんどだと思います。 そして、できない理由を「自閉症だから」と結びつけてしまう人もいます。 我慢ができないこと、座って勉強ができないこと、規則正しい生活ができないことなど。 どんな本や講演会でも、自閉症の特性に「我慢ができない」などが挙げられることはありません。 つまりできない理由は、自閉症だからではなく、環境の要因が大きくかかわってきます。 例えば、本人に分かる形で学ぶ機会が与えられていないこと、誤学習をしてしまったことなどです。 この前も残念なことに、支援者の中に「自閉症だから」と発言する人がいました。 そんなとき、私はただ否定するのではなく、「その行動の背景には、どんな自閉症の特性が関わっていますか?」と尋ねるようにしています。 キャリアや役職に影響されることなく、「おかしいな」と思ったら常に自閉症の特性に立ち返って物事を考えることが大切です。

自閉症の専門家よりも、子どもの専門家

「私、自閉症について全然勉強してなくて・・・」 と申し訳なさそうにおっしゃる保護者の方がいます。 私はそんなとき、決まって「そのために私たちがいますから」と明るく言うようにしています。 自閉症の特性を持っているお子さんがいるなら、自閉症のことについて知っておいた方が良いと思います。 でも、専門家のような知識や技能を習得する必要はない、と私は考えています。 自閉症は子どもの一部分であって、自閉症が子どものすべてではないからです。 時々、支援についての話がお互いの知恵比べのような状況になることがあります。 構造化が、個別化が、ABAが、環境の調整が、PECSが、SSTが・・・ 子どもの話が中心なはずなのに、子どもの情報よりも、「こんなことも知ってます」というような専門用語のオンパレードってこともあります。 私は支援を組み立てていくときに、素晴らしいなと思う保護者の方は、自閉症について詳しい人ではなく、お子さんの専門家である人です。 子どもが好きなこと、過去の支援の経過と結果、長所に短所、性格など、あらゆる子どもの情報について的確に答えることができる人。 そんな子どものことを誰よりも理解している保護者の方は、自閉症の専門家にとって心強い仲間のような存在です。 自閉症の専門家は第三者だからこそ、客観的に支援を組み立て、実践することができるのだと思います。 また、自閉症の専門家になるには、個人差の多い自閉症の人たちですから、より多くの自閉症の方たちの支援に携わっていることが必須条件になります。 もちろん、子どもから成人した自閉症の人たち、幅広い年代の支援の実践も。 自閉症の部分ばかりに注目してしまうと、一人の人間としての本来の子どもの姿が見えなくなってしまうこともあります。 ですから専門知識や技能の習得に時間をかけるよりも、保護者の方には、まず子どもの一番の理解者になって頂きたいと思っています。 そのためには自閉症の専門家と言われる人たちが多くなり、保護者の方に自閉症の専門家と子どもの専門家両方を担ってもらう必要がないくらいにしなければならない、と考えています。 自閉症の専門家になれる人は多くいますが、子どもの専門家になれる人は唯一保護者の方だけですよ。