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10月, 2018の投稿を表示しています

本人の前に立つ支援者、本人の後ろに立つ支援者

下手くそな支援者というのは、本人の前に立つ。 うまい支援者というのは、本人の後ろに立つ。 これは、実際の立ち位置のことではなく、支援の立ち位置のことです。 「私は支援をしています」と言いながら、子どもの前をスタスタ歩く支援者がいます。 スタスタ歩いて、どこに連れていくかといったら、自分たちの推し進める支援の中、一生涯支援の囲いの中。 ギョーカイというのは、「支援している」と言いながら、誘導しているのです。 ギョーカイの支援を受けて、心身共に不調をきたす人達がいます。 そういった人達は、身体が賢い人達です。 頭では支援を受け入れていますが、身体が受け入れていません。 あらぬ方向へと引っ張られているから、身体がそれに対して反発しているのです。 一見すると、従順に支援を受けているように見える人でも、心のベクトルは逆の方向へと進んでいる。 親御さんに対して、私は「リードではなく、後押しです」と言っています。 公的機関、標準療育を通る中で、たくさん悔しい思いをし、たくさん不満を持った親御さん程、支援ではなく育てる方法、治る道を知ると、勢いよく、その一歩を踏み出します。 でも、子どもの前に出てはいけないのです。 私は、一生涯の支援を受ける道ではなく、治る道があると確信しています。 しかし、同じ治る道を進んでいる子でも、その治し方、治り方は一人ひとり異なっています。 「この道を通れば、治る」という道があるのではなく、それぞれの歩き方で、それぞれの道を通り、最終的にその人の治るがあるのだと思います。 発達の仕方が一人ひとり違うのと同じように。 私達がしたい支援とは、子どもを特定の場所に誘導することではなく、子どもの発達を後押しすることではないでしょうか。 何らかの理由から、発達にヌケがあり、遅れが生じている。 だから、その部分を育て直そう、より良く発達してもらおうとするのが、望む支援のあり方。 生きづらさの根本に対する支援ではなく、子ども達の発達を支援するのではなく、第三者が決めた世界に誘導していくから、公的機関、標準療育から離れていくのです。 発達援助は、子どもの前に立ってはできないと思います。 子どもの後ろに立って、発達が伸ばしていきたい方向、その子が進みたい方向を見定める必要があるからです。 向かいたい方

親子の育み合いに誘うために

「それは、何回くらいやればいいですか?」 「一日、何分ですか?」 「登校前がいいですか?それとも、寝る前がいいですか?」 具体的な発達援助を提案すると、このような質問が返ってきます。 以前は、「本人の様子を見て、判断してくださいね」「本人が要求するなら続けてください」「本人が乗る気じゃなくなったら、無理してやることはないですよ」などとお伝えしていました。 でも、こういった表現ですと、戸惑ってしまったり、悩んでしまったりする方が少なくありません。 一番良くないのは、それが一歩を踏みさせないことにつながってしまうこと。 「何もしない」では、お子さんの発達の後押しはできません。 それに、いつまで経っても、「こんな感じかな」という雰囲気が掴めないままになってしまいます。 発達援助に、「良い発達援助と悪い発達援助がある」と思うのは勘違いです。 あるとしたら、やるか、やらないか、の二つだけ。 子どもの発達を後押しするとは、答えを見つけることでも、ある基準に近づけることでもありません。 創造すること、クリエイティブな営みです。 もし理想的な発達援助があるとするならば、それは、その子に合った発達援助を作ること。 もし良い発達援助があるとするならば、それは、その子が昨日よりも今日、今日よりも明日が良くなっていること。 我が子に合った発達援助を創造できなくなっているのは、子どもの変化、反応に気づけなくなっているからのように感じます。 親御さん自体が忙しくて気づけていない場合もあれば、子育てを外注してしまい、子どもを見る時間が少ない場合もあります。 あとは、親御さんの持つ課題として、主体性が育っていないこと、他人軸で生きていること、身体の感覚が乏しいことなどが挙げられます。 発達援助の核として、「心地良い」があります。 本人が「心地良い」と感じるとき、伸びやかな神経発達が起こるのです。 そういった本人の「心地良い」を感じるには、親御さん自身が「心地良い」が分からないといけません。 発達援助の最中とは、親子の交流、親子の一体化が生じます。 親子で交流し、一体化したとき、親御さんの身体に「心地良い」という受容器がなければ、我が子の「心地良い」は掴めないのです。 そうなると、「何回やればいいか」「どのくらいの頻度でやればいいか」とい

諦めさせるのは、支援じゃない

繰り返される激しい行動障害を目の当たりにすると、どこから支援していけばよいか、わからなくなり、いっそのこと、逃げ出してしまいたい、と思うことが多々ありました。 でも、施設職員を続けていく中で、気が付かされることがありました。 「この子達は、逃げだしたくても、逃げ出すことすらできない」のだと。 職員の入れ替わりは頻繁でした。 3年も続けていれば、ベテランみたいな役回りと扱いになります。 それだけ辞めていく人が多かった。 新人が入ってくれば、「この子は、いつまで持つか」なんていう音のない言葉が漂っていた。 次々に、職員は辞めていく。 でも、利用者の人達は、そこに居続ける。 本来なら、行動障害が収まり、生活が整い、自立するための力を養って、家庭や地元に帰っていくのが社会的な役割だったのに…。 施設職員として数年が経ったとき、気が付いたのです。 職員は辛くなったら、辞めることができる。 同じ福祉だとしても、ここ以外の場所はあるし、仕事を選ばなければ、いろんな選択肢がある。 でも、この子達には選択肢すらないのではないか、と。 当然、施設ですので、物理的にも逃げれないようになっています。 しかし、そもそも彼らに選択肢はなかった。 家庭や前の施設から離れた方が、心身が安定し、良かったと思える子達もいました。 でも、誰一人、望んで、自らの意思と選択で来た子はいなかった。 いくら措置制度から、契約制度に変わったとしても、子ども達の手の中に選択肢があったわけではなかったのです。 この子達に選択肢がなかったことに気づいてから、「逃げだしたらいけない」と、私は思うようになりました。 できることは少ないかもしれないが、しっかり向き合い続けようと決心したのです。 すると、以前は頭の中が真っ白になっていた大変な状況に、ある言葉が浮かんでくるようになりました。 どんなに激しい行動障害を持っていたとしても、「生まれたときは、強度行動障害ではなかった」という言葉です。 赤ちゃんのとき、幼児のときは、強度行動障害じゃなかったのなら、何かやりようはあるんじゃないか、環境によって行動障害が作られたのなら、環境によって良くしていくことができないだろうか。 そんな風に考えるようになりました。 そこから退職するまでの間、一度たりとも「逃げ出す」

『自傷・他害・パニックは防げますか?』(花風社)を読んで

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花風社さんの本が出版されると、私は必ず読みます。 本の中に、知識や情報だけではなく、希望が詰まっているからです。 私は今、発達援助で関わっている子ども達、若者たち、大人たちに不便なところは治ってほしいと思っていますし、開花した資質を自分の人生と社会のために活かしながら自立してほしいと願っています。 これは親御さんの想い、願いと同じだと思います。 だからこそ、「本人と親御さんのより良い明日と人生のために」という想いがあっての本ですから、素晴らしい著者の方達の知見だけではなく、そこに希望も感じるのです。 希望を感じない知見は、ただの自己満足であり、読み手の着想を生みません。 受け取った人の中でアイディアの自由な発展に繋がる動力は、花風社さんや著者の方達の希望という力だと思っています。 私は、多くの読者の方達と同じように、花風社さんの本から希望を感じます。 でも、それだけではないのです。 私は、新刊を手にし、読むたびに、希望だけではなく、後悔の気持ちに苛まれるのです。 新刊を読み、新しい知見、素晴らしい知見と出会うたびに、「これで、もっとその子に合った発達援助ができるかもしれない」と思い、「ああ、あのとき、あの子に、この知見があれば…」と思います。 私の言う「あのとき」は、施設で働いていたとき。 特に、栗本さんが著者である本が出版されるようになってからというもの、後悔の気持ちは強くなるばかりです。 施設で働いていた私は、対処療法しかできませんでした。 苦しむ彼らを見て、ただただ一緒に悲しむことしかできませんでした。 投薬の量が増えていく場面に立ち会い、彼らの想い、願いを代弁することができませんでした。 あのとき、言語以前のアプローチを知っていれば…。 あのとき、心身をラクにする方法を知っていれば…。 あのとき、四季を上手に乗り越えるアイディアを知っていれば…。 そして今回の新刊で教えてもらった身体作り、対応法を知っていれば…。 そうすれば、対処ではなく、育むことで、彼らの発達を支援できていたかもしれない。 そうすれば、彼らも、支援者も、お互い傷つかずに良い関係が築けていたかもしれない。 読み進める中、当時関わっていた子ども達の顔を思いだす頻度は、今回が一番多かったように感じます。 基本的に入所施設の職員の役

「行政に訴えてやるぅ~」と言うだけの人は大概、睡眠に問題あり

「治る」という言葉を発すると、ああだこうだ言ってくる人達がいます。 「医学的にー」とか、「脳の機能障害だからー」とか、いろんな理由を言ってきますが、結局、「治る」という言葉を使われるのが、「嫌だ」ということ。 たった一言で済む話なのです。 それを言葉を塗りたぐって、ダラダラと文字をつないでいく。 シンプルな表現ができないのは脳の無駄遣いであり、脳も、身体も育っていない証拠ですね。 中には、「消費者庁が」「弁護士が」「厚生労働省が」などと言ってくる人もいます。 もうそのネタは飽きましたね。 私のところに監査や指導が入るなら、「そのとき、その人にきちんと説明します」と言っています。 だけれども、事業を始めて6年半。 一度も、そういったことはありません。 つまり、言葉で脅しをかけているつもりなのでしょう。 言葉で脅しをかけているつもりなら、それは想像力の問題がある人だとわかります。 本当に脅しをかけるのなら、行動が伴わなければなりませんし、そのためには行動できる身体と、情報を整理し、計画を立て、実行できる脳みそが必要です。 それがないから、安易に言葉で脅そう、脅せるはずだなどと考える。 こういった人には、相手が見えていないし、相手の周りにいる人、支持する人達の姿が見えていない。 「自分が嫌だと思うから、みんなも嫌だと思う」という思考は、問題です。 「自分が嫌だと思うから、行政に訴えれば、聞いてくれる」と思うのは、妄想です。 今回は「治る」に関してですが、これが「自分が好きだから、きみも僕が好き」となればストーカーになり、独りよがりの正義を振りかざせば、迷惑者、犯罪者になる。 想像力の問題は、妄想段階ならまだマシだが、行動と結びつくと大問題になるのです。 だから私は、想像力の問題は重く捉えます。 どんな小さな芽だろうとも直言しますし、できるだけ早く想像力の土台から育て直していきます。 「行政に訴えてやる」と言ってくる人には、共通する部分があるように感じます。 そういった人はみんな、睡眠に問題を抱えている。 SNSの更新時間を見ても深夜ですし、脇が甘い人になると、自分で睡眠薬を飲んでいることまで呟いている。 結局、寝れないから妄想するし、寝れない身体だから頭がグルグルするし、想像を外す。 健康体の人から見れば、

支援者の多くは、「今」を切り取っているだけ

「この子は、治りますか?」と、尋ねられることが多いです。 でも、私は未来を視ることができませんので、「治る」とも、「治らない」とも、言い切ることはできません。 ただ、その可能性の大きさ、今後の成長の様子、大人になったときのスタイルは、想像できます。 こういったことを想像するのは、何も難しいことではありません。 言語化できなかったとしても、親御さんの多くは、我が子の未来を直感的に捉えることができています。 違いがあるとすれば、それは、いろんな方たちの人生を見させて頂いたかどうか、です。 支援者の多くは、「今」を切り取ります。 当然、医師や支援者の前にいるのですから、今、何らかの課題を持っているのは確かでしょう。 でも、その課題が、この先もずっと続くとは限らない。 むしろ、今の課題は治る途中経過だったりする。 その流れを掴めない人には、「この子は、高校くらいになれば、普通学校に行きますね」「この子は、将来、働いて自立しますね」「この子は、治る子ですね」という言葉が、戯言にしか聞こえません。 医師も、支援者も、出会った専門家たちも、みんな気づかず、むしろ否定的な見解を述べるばかりだった。 でも、最後の最後まで、我が子の未来、可能性を信じたのは、親御さんだけだった、ということは、よくある話です。 これを「単なる親バカ」「独りよがりの想い」と捉える人もいるでしょう。 しかし、こういった親御さん達には、本当に見えているのです、我が子の未来の姿が。 何故なら、流れの中で、我が子を見ているから。 ちゃんと受精、誕生、現在までの我が子の物語を捉え、描けている親御さんには、今後の流れる先が分かる。 だからこそ、ただ一人になろうとも信じられるし、その流れを見て、上手に軌道修正もできる。 私は、いつも思います。 どうして流れを見て、支援できないのだろうか。 どうして今を切り取っただけで、未来の姿を決め付けることができるのだろうか、と。 支援者と意見がぶつかるのは、いつもここです。 発達のヌケが埋まっての「今」とヌケが埋まっていない「今」では意味合いが違います。 今までの発達のリズムとスピードを見れば、今、重度かどうかは、将来の決定因子にはなりません。 問題行動のある子の今を切り抜けば、自立は不可能かもしれませんが、問題

「この子が小さいときに戻って、“子育て”をやりなおしたい」

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先日、私よりも年齢が上の方の発達援助に行ってきました。 依頼の電話をくださったのは、その方の親御さんです。 発達援助の始まりは、その人の物語を掴むことからですので、数十年間に渡る物語を本人と家族の方達との会話から一緒に辿っていきました。 そして課題の根っこを見たて、今日からできることをお伝えしてきました。 すると、親御さんは涙を流し、「できることなら、もっと早くにお会いしたかった」と言ってくださったのです。 「もっと早く出会いたかった」というのは、年齢を重ねたご家族だけではなく、成人していない子の親御さんも、就学前の子の親御さんも、そう言われます。 それは、私に会いたかったというよりは、「表面の課題ではなく、根っこを教えて欲しかった」「具体的な育て方を知りたかった」という意味だと感じます。 皆さん、お子さんの年齢に関わらず、「できるだけ早く」「もっと早くに」と思われるのです。 「早くに出会いたかった」と親御さんに言わせるのは、何でしょうか。 迷っていた過去、右往左往して動けなかった自分、遠回りしてしまったという後悔もあるかもしれません。 でも、お話ししていて一番に感じるのは、「なんだ、療育じゃなくって、子育てだったんだ」という気づきです。 発達援助に特別な技術や知識はいりません。 だって、子どもの発達を後押しするというのは、子育てそのものだから。 発達とは育んでいくものです。 特に受精から言語獲得する前の段階の育みは、家族の中で営まれます。 そんな自然な現象を何故見失うようになったのか。 それは、子育てを否定する言葉の数々。 「療育」「支援」「連携」「〇〇療法」…。 テレビ業界の言葉が、日常会話で使われるようになったように、特別支援ギョーカイの言葉が子育てを浸食したのです。 主体を自分たちに移し替えるために、「子育て」を「療育」にした。 発達のヌケの育て直しは、いつからでも行えますし、成人した方達もどんどん発達し、治っている姿があります。 でも、そのスピードで言えば、子どもには敵いません。 同じ子どもでも、神経発達が盛んな時期というのがあります。 また少しでも早く発達のヌケを育てておいた方が、その上に重なっていく発達のデコボコも、それに伴う困難も小さくすることができます。 「過去の苦労も愛おしい」などと

疑い尽くした先に、その子の本質がある

「うちの子、睡眠障害があるんです」と、相談がある。 それで、詳細にお話を聞いていくと、寝る前にゲームをやっていることがわかる。 「じゃあ、そのゲームの刺激が眠りを遠ざける可能性もあるので、寝る前は止めるようにしたり、時間をずらしたりするのは、どうですか?」と提案すると、「ゲームは本人のこだわりだから」「禁止すると、怒るから」と返ってくる。 この子は、本当に睡眠障害があるのかもしれません。 でも、その結論を出す前に、やるべきことがあるのではないか、と思います。 他にも似たケースがあって、「授業中、ボーとして、注意散漫だ」という子の相談がありました。 ADDの診断を受けていましたが、話を聞くと、朝食を食べずに学校に行っているという。 脳を動かすエネルギーが足りなければ、頭が働かず、ボーとするのは当たり前だと思います。 発達障害の前に、ヒトであり、動物なんですから。 水分摂って、陽にあたっていれば生きていける植物とは違う。 衝動的に手が出てしまう子の話を聞けば、甘いお菓子ばかりを食べている。 何年も引きこもっている人の相談に伺えば、カップ麺とコンビニ弁当しか食べていないという。 快食、快眠、快便は、基本中の基本。 発達障害とか、知的障害が重いとか、まったく関係がありません。 施設に子どもが入所してきたとき、まず最初に整えていくのが、この快食、快眠、快便です。 ここがクリアされない限り、特に強度行動障害の人達の支援は始めることができません。 だから、上記のようなケースの相談があるたびに、本人ではなく、周囲が障害、困難さ、生きづらさを決めてしまっている、と感じます。 本来なら、やれることがあれば、それをすべてやってから、受診なり、支援なり、相談を受けるべきだと思います。 上記のようなケースの中には、そのまま、つまり、やれるべきことをやりつくす前に、医療、支援者と繋がったばっかりに、その子の本質的な問題として投薬、治療、支援が行われてしまった人がいます。 寝る前に何時間もゲームをしたり、布団に入ってからもテレビをつけ続けていたりしているのを伝えず、ただ「眠れない」「睡眠が乱れている」だけが伝わる。 そうすると、睡眠薬が処方される、「9時になったら寝ます」という絵カードが提示される、9時までに布団に入れたら、ボーロが貰えるという

「全員、治らない」と、どうして言えるのだろう

もう過去の話になりますが、自閉症、発達障害の人たちは、「脳の機能障害」と言われている時代がありました。 2013年5月に「神経発達の障害」と改訂されたのですから、もう5年以上前のお話になります。 でも、いまだに「脳の機能障害」と言い続けている人がいます。 しかも、発達障害が治らない根拠として、それを用いているのです。 まあ、100歩譲って、「脳の機能障害」でもいいです。 しかし、じゃあ、なんで「脳の機能障害」なら、治らないといえるのでしょうか? 機能障害とは、損傷とか、機能不全の状態のことを表しています。 発達障害は、脳に損傷ができたためになる障害ではありませんので(だって、先天的な障害なんでしょ)、脳に機能不全の状態の箇所があるということ。 脳に機能不全の箇所があるのなら、その状態を回復させればよいのです。 というか、専門家なら、医師なら、その方法を研究し、目指すのが当たり前。 欠損した脳を回復させるのは難しいでしょうが、機能不全の状態を回復させるのは不可能ではないはずです。 だって、脳の素晴らしい性質である「可塑性」があり、病気や交通事故で脳に損傷した人たちには、当たり前のように昔からリハビリが行われているのですから。 必要な刺激を与えることで、脳の機能不全を改善しようとするのは自然なことで、可能性のないことだとは思えません。 現に、発達障害の子ども達も、ずっと赤ちゃんのような発達段階のままということはなく、定型ではなくとも発達し、成長するのですから。 排せつや身辺処理、勉強や運動など、成長とともにできるようになっている姿は、ただ単に適応や暗記しているだけではなく、発達している、発達する可能性があることを示しています。 だったら、脳の機能不全の部位だって、その状態のレベルだって、発達のスピードだって、一人ひとり同じなわけはないのですから、「発達障害」というラベルが同じでも、みんながみんな、治らない、治る可能性がないとは言えないのです。 「脳の機能障害」だから発達障害は治らない、というのは答えになっていません。 それは発達障害が治らないんじゃなくて、脳の機能不全の状態を回復させるアイディアを持っていない、という意味。 むしろ、発達障害、本人の問題というよりは、専門家の方の問題ではないでしょうか。 そもそも誰が最

身体と選択の育ちが主体を育み、主体の育ちが想像力の育ちと繋がっている

この仕事をするまで、「主体性」なんて考えることはなかったですね。 自分に主体があるのは当たり前ですし、自分以外の人だって、それぞれ主体を持っている。 自分に主体があるから選択し、行動することができる。 他人にも主体があるから、その選択、行動を侵すようなことはしてはならない。 そんな風に思っていました。 でも、この主体が「わからない」人がこんなにもいるのか、と感じるのが、この仕事を始めてから続いています。 「自分と同じように、他人にも主体がある」という視点がない人は、自分の脳内のみで物事を完結させます。 また、自分から見える他人の行動のみで、物事を判断します。 だから、平気で他人に対し、自分の価値観を押しつけてくるし、自分と異なる意見や考えを理解することができません。 これは、想像力の問題。 そんな想像力の土台になっているのは、感覚、内臓、身体、動きなど。 一言で言えば、自分という主体がちゃんと育っていないということです。 自分が分からずして、他人の視点を想像することはできません。 はっきりしない自分が、想像力の問題の正体です。 それを、いつまで経っても「それが障害特性ですから」というレベルから抜け出せない人が、「理解をー」と叫び、応用の利かないパターンで想像力を補うことを教えます。 でも、これは想像力の問題を補っているのではなく、当然、想像力を育てようともしていません。 ただのその場しのぎであり、支援者が「ちゃんと支援やってますよ」とアリバイを作っているだけ。 真の支援者、専門家だったら、想像力を構成する神経発達に目を向け、その発達自体を促せなければ責務を果たしているとは言えないでしょう。 他人の主体を侵すまでに至らなくても、主体が乏しいと感じる人は、親御さんの中にもいます。 その人の物語を辿っていくと、主体を育てる機会の乏しさと突き当たります。 親が常に先回りしていた子ども時代。 自分の意思よりも、親の意思が優先された子ども時代。 親が思い描く姿になることが、自分のすべてだった人が大人になり、子どもを授かると戸惑います。 また、子ども時代の親の意思というよりも、環境、空気感を読み、自ら主体を無くしてきた人もいます。 それが主体性のない支援者であり、有名支援者、エビデンスなどの言葉に従ってしまい、自らの意思

想像力の問題は、自立を妨げる本丸

いつも疑問に思うのですが、「治るなんてインチキだー」「トンデモだー」と言っている人、それは何を見て、そう言っているのでしょうか? そうやって、見ず知らずの当事者の方や親御さん達のことを批判し、また治るという考えの元、発達援助、後押しをしている人達のことを、人を騙して儲けているかのように表現する。 それくらいの発言をしているのですから、それなりの覚悟と根拠があるのでしょう。 「治る」と言っている人達が、どのような育て方をしているのか、また「治った」と言っている人が、どういう人なのか、それを自分の目で確かめない限り、本当の意味で批判することはできないと思います。 というか、そういった確認をしないで、相手のことを調べもせず、ただ自分の考えのみで批判するのは、便所の落書きレベル。 本来なら、見向きもされないのが普通です。 でも、ツイッターとかで反応を貰っちゃうと、あたかも自分が正しいことを言っているかのように勘違いする。 何故なら、こういった自分の身体を通した確認ではなく、自分の頭の中で作った物語で生きているから。 つまり、想像力に問題があるから、勘違いを起こすのです。 昔、発達障害の子ども達は天使だ、なんて言っていた支援者がいました。 天使なんかであるものですか。 発達障害の人も、定型発達の人と同じように他人を傷つけることもある。 特に、想像する力の問題が、引き金になることが多い。 相手の気持ちを想像することの欠如。 自分勝手な脳内論理で善悪を判断し、独りよがりの行動を起こすことは珍しくない。 社会や周囲の理解よりも、この想像の問題が問題なのです。 支援者から「様子を見ましょう」と言われた経験は、どの親御さんもあることだと思います。 でも、その理由が「敢えて引き延ばすことで、自分たちの推奨する支援を利用してくれること」という本音を聞いたら、みなさん、どう思うでしょうか。 治る道を進む人、標準療育の道を進む人、そんなのは関係なく、どの親御さんも怒りがこみあげてくるのではないでしょうか。 自分の命を分けて生んだ子に障害があると分かったとき。 そして、その子の障害と向き合うことを決め、我が子のためにできることは何でもするという腹をくくり、頼った専門家が「様子を見ましょう」と繰り返す。 様子を見たいから、相談に行ったのでは

「問題行動は無視」は、半分あおい

「問題行動は無視」という標語は、腐るほど、耳にしました。 で、この「問題行動は無視」というのは、ある部分は合っていて、半分足りません。 自閉症児施設で、かつ、強度行動障害の人達の支援をしていましたので、問題行動と向き合うことが仕事とも言える状態でした。 問題行動に対して、その知識や技能がない、何ら手立てが浮かばない、というのでは、仕事ができませんし、何より自分の身を滅ぼすことにもなります。 ですから、その当時、良いと言われているものは、すべて学びましたし、有休は使えなかったので(そもそも存在していない!?)、休みをどうにかやりくりし、全国どこでも行って研修を受けました。 今から10年以上前になるその当時から、「問題行動は無視」という標語はよく耳にしていました。 でも、これは問題行動なら何でも無視すればいい、という話ではありませんし、大事な後半部分が抜けているのです。 問題行動は無視ししても、良くなることはありません。 いや、良くなることなんか、あり得ません。 私が施設で働いていたときも、そんなことをする人なんか、現場に一人としていませんでした。 もし、それをやっていたとしたら、支援者は死んでいます。 私も、臨時で急遽、いつもとは違う寮に入ったとき、ちょっと気を抜いた瞬間、ある利用者の人が後ろ向きに倒れ掛かってくることがありました。 その利用者は、体重100㎏オーバーで180㎝以上の大きな人。 その人の側を通った瞬間、倒れ掛かってきたので、そのまま、下敷きになりました。 一人勤務でしたし、持ち上げることも、抜け出すこともできない状態でしたので、こりゃあ、終わったかな、とも思いました。 でも、この利用者さんが男性だったから、助かった。 まあ、このように飛んでくるのは大男だけではなく、手も、足も、食器も、家具もです。 噛みつき、頭突きは日常茶飯事。 だから、現場の職員は、問題行動を無視しないし、そもそも単に「無視しましょう」という話ではなかったはずです。 私が学んだ知識としても、現場での経験としても、他人を巻き込む問題行動はコミュニケーションとして捉えます。 どういった意図を持ち、相手に向かって来ているか、その意図、伝えたいことを確認します。 そのとき、例えば、「喉が渇いた」「水が飲みたい」という要求の意図で、

「現状維持」という負の遺産

未だに「現状維持できていたら、良い支援」と言っている支援者がいるそうですね。 それって、私が学生時代に、支援者たちがよく言っていた言葉です。 脳機能の障害から神経発達の障害だと明らかになった今でも、そんなことを堂々と面前の前で言える根性がすごいと思いますよ。 だって、「私には現状維持できることで精一杯ですから」と言っているようなものだからです。 この発言を最初に聞いたときは、感じませんでしたが、仕事を続けていく中で、この言葉の持つ意味の恐ろしさを感じるようになりました。 「現状維持を目指す支援」とは、どういった支援のことでしょうか。 ヒトは現状維持できない生き物です。 外面的には変化はないように感じますが、その内部を見れば、1秒たりとも同じ状態はないのです。 特に、神経発達が盛んな時期を過ごす子ども達は、環境から伝わってくる刺激に反応し、発達と成長へ向かって常に変化し続けています。 ということは、「現状維持を目指す支援」とは刺激を与えない支援のことを表しています。 なるべく変化はなく、いつもと変わらない一定の刺激を与える、または刺激自体を調整し、遮断してしまう。 これは、「いつも同じ日課、スケジュール、流れを崩さない」といった独自の解釈で構造化された支援を続けていた人達の姿と重なります。 あの当時、「現状維持」と言っていた支援者たちは、みんな視覚支援、構造化信仰の人達だったので、自分たちの支援の妥当性を「現状維持」という言葉で表していたのでしょう。 「現状維持」を鵜呑みにしていた人達は、どうなったか。 一日、一日をなるべく変化がなく、混乱のきっかけになるような刺激をすべて排除していった。 感覚過敏で苦しまないように、いつも同じ食事を用意し、苦手な音が聞こえてこないように神経をとがらせ、本人を誘導していった。 その結果、当然、発達の機会は奪われたために課題は残りっぱなし。 現状維持を目指しいても、どんどん課題は大きくなるばかり。 結局、現状維持は、生きづらさの現状維持という意味になったのです。 名のある支援者の「現状維持」という言葉を聞いて、それを信じた親と支援者。 でも、この人達には想像する力が足りなかった。 その支援者の言葉の裏に隠された意味を。 そして、自分の目の前にいる子どもが、その言葉を聞いたら、ど

「治る」は甘い言葉なのか?

睡眠障害や行動障害で悩んでいた子が、寝られるようになり、落ち着いて、みんなと活動できるようになった。 「一生、支援を受けて生きる人です」と言われていた子が、クローズで一般就労して何年も経っている。 支援級の子が、普通級で学べるようになり、手帳を持っていた子が返納している。 そういった姿を間近で見てきた人達が、その様子を見て「治った」と言う。 それのどこが甘言になるのか、わかりませんね。 何らかの理由から、神経発達にヌケや遅れが生じた人達がいる。 だから、そのヌケや遅れの根っこを確認し、そこから育て直していけば、神経発達が起きるでしょうし、障害と言われている状態から飛びだして発達していく人がいても不思議ではありません。 そういったことが想像できない方が問題な脳みそなんだと思います。 治った本人、治った人を傍で見てきた人が「治る」と言うと、その歩みに興味がひかれ、自分でもやってみよう、そのアイディアを取り入れてみようとする人達が出てくるのは自然な流れです。 でも、「自分も治りたい」「我が子も治ってほしい」と願い、治る道を選択する人達を見て、「甘い言葉につられてしまう可哀想な人」というように捉える人がいます。 これまた想像力の欠如と言わざるを得ません。 「発達障害は脳の機能障害だから一生治らない」と思うのも、考えるのも、信じるのも、個人の自由です。 自分自身の、我が子の課題が、ずっと直らず、改善せず、むしろ現状維持もできていない、だからこそ、治るなんて嘘だ、と思いたいのはわからなくもありません。 でも、自分の見える範囲以外にも、事実があり、現実がある、という想像ができないのは、大問題だと思います。 というか、それでは人生、生きづらい。 というか、見える範囲がすべての人間、想像する力が乏しい人間には、人を育てることはできません。 できるのは、現状維持のみ。 最初から、他者の視点を想像できない人間には、育つも、発達も、治すも、生まれる余地がないのです。 「治る」に惹かれ、心から望む本人と親の自然な内面の動きが想像できず、あたかも「治るなんて現実的ではない言葉に騙された可哀想な人達」と捉えてしまう人。 その人が間違えているのは、他者の心情だけではなく、「治る」が甘い言葉だと捉えていることもです。 本人や親御さん、家族に

障害者雇用の水増し問題で、まだ頭を下げていない人達がいるのでは?

なにか勘違いをされているのではないでしょうか。 確かに、障害者雇用の水増しはいけないこと。 でも、雇用する側ばかりが責められている論調には納得ができませんね。 水増しは表面の問題。 その下にある問題の根っこは、特別支援でしょ、ギョーカイでしょ。 「雇いたくないな」と思わせるような人ばかりを送り込んできたのは誰なのか。 それ早期発見だ、それ早期療育だ、と言って、発達障害を持った人達を囲いこんできたのは誰なのか。 「障害の特性に合わせた専門的な療育、支援を受ければ、自立するんです。彼らも働けるようになるんです」と言っていたのではないでしょうかね。 でも、実際は一般就労しても仕事が続けられないし、そもそも大学出るような人にまで福祉的就労を勧める始末。 何のため、10年も、20年も、療育や支援、服薬を続けてきたのでしょうか。 みんな、こうやって専門的な支援や教育を受けて頑張れば、きっと自立できる、仕事ができる、と思って歩まれてきたのだと思います。 それなのに、「一般就労?無理ですね。みんな、すぐに離職しますし。それより無理して二次障害になったらどうするんですか??」と言って、はい、終わり。 結局、一般就労して自立していく人達は、支援のおかげじゃなくて、本人と特に親御さんが頑張ってきたご家庭ですね。 知的障害、特性の重い軽い、早期から療育を受けたかどうか、職場の理解があるかどうか、そんなのは、自立や一般就労を左右するような要因にはなりません。 何よりも、本人が自立したいと願い、親御さんもそれに向けて、幼少期からしっかり育み、準備をされてきたかどうかが一番大きな要因です。 普通に考えて、「特別支援にお任せしておけば、将来、就職も、自立もさせてくれる」と思っているような人では無理に決まっています。 働くのは本人ですし、働く土台は、本人の身体だから。 利用してくれることで儲かる仕事の人達が、やすやすと手を離してくれるわけはありません。 それに、もう特別支援が始まって10年以上経つのですから、支援を受け続けてきた人達の中から自立できる人も、一般就労できる人も少ないという事実が明らかになっています。 そもそも特別支援、特別支援教育がうまくいっていたら、このたびのこれ程大きな水増しは起きなかったのではないでしょうか。 ですから、

今を切り取った育みではなく、明日へ、未来へと続いていく育みを

開業当初から幼い子を持つ親御さんからの相談のほとんどが「言葉の遅れがあるんです」というものです。 「うちの子、なんか違うかも」という感覚は、みなさん、それよりずっと前に持たれています。 でも、「言葉が出ない」「同世代の子と比べて発語が遅れている」という我が子の姿、事実が、その違和感を確信へと変えるきっかけになっている場合が多いと感じます。 言葉の遅れが、親御さんを相談へと向かわせる一つの大きな出来事になるのは、今も、昔も変わりがないと思います。 相談や発達援助を依頼される親御さんの多くは、私のところに来る前に、公的な機関で相談、療育を受けられています。 当然、そこで言葉の発達が促されたなら、私のところに来るわけはないので、子どもさんや親御さんのニーズが満たされなかったということになります。 私の仕事は、発達のヌケを見つけ、言葉の遅れと繋がっている根っこを育て直すことですから、そういった公的な機関で、どのような相談や療育を受けたのか、敢えて知る必要がないものです。 しかし、どうしても話の展開として耳にすることになります。 もう最近では、なるべく聞かないようにしてるのですが…。 やっぱりここでも、時間が止まったまま、ずっと昔と同じことが繰り広げられています。 言葉が出ないから、たくさん話しかける、一音ずつゆっくり話すように促す。 まったくもって発達の視点が抜けた療育ですね。 言葉に課題があるから、言葉でどうにかしようとする。 これは誰にでもすぐに思いつくアイディアです。 そんなのは言われなくてもやっています、親御さんは。 一方で、「お母さん、気にし過ぎですよ」「男の子は、一人っ子は、そんなもんですよ」「成長は、一人ひとり違うから、焦らないで」という下手くそなカウンセリング。 そりゃあ、10年も、20年も前の世代の親御さん達には通用した手でしょうが、今の親御さん達はスマホで瞬時に情報を集めている世代ですよ。 相談機関に向かう前に、ネットで知識も、実際の子育て、当事者さんの様子も調べ尽くしている。 調べ尽くし、ヘタな支援者、相談員より情報と知識を持った親御さんに対し、気休めは通用しません。 ネットで得た情報と同じか、それ以下の支援者というのは、ただただ不信感を持たれるだけの存在になってしまうのが今の時代というもの。 こ

そのエビデンスとは、科学なのか、宗教なのか

エビデンス原理主義の人達を見ると、どうしてそんなにエビデンスを気にするのかが、ずっと不思議でした。 多分、そのデータが意味するところよりも、宗教に近いんだろうな、と解釈していました。 そのエビデンスの元になる論文をしっかり読んでいる人はほとんどいないでしょうし、「誰それが言っているから」くらいなもんでしょ。 でも、ある本を読んでいて、それまでの私の解釈が違ったのかも、と思うことがありました。 多くの人は、「エビデンス=効果がある」と思っているのでは?と気が付いたのです。 学生時代、私は教育心理学が専門でした。 心理学ですから、統計についても学びます。 研究結果を評価するには統計学の知識が必要ですし、研究論文を読むのにも必要な知識です。 ちなみに卒論のテーマは、「生活習慣が心身の健康に及ぼす影響」というので、どういった生活習慣が、どのくらいの頻度から、心身へ影響を与えるのかを研究しました。 一言で言えば、生活習慣の中で、心身と関係があるものを探したのです。 こういった経験と知識は、就職してからも活かすことができ、いろんな「効果がある」と言われている療法の論文を読んで勉強することにつながりました。 今で言う「エビデンスのある療法」の元になった論文は、内容は違えど、学生が学ぶ基本的な統計学で進められたものがほとんどでした。 ですから、特定の介入と、介入後の変化の関連性を調べているのです。 とってもシンプルな表現をすれば、こうです。 Aという方法があります。 グループを二つに分けます。 1つのグループは何もしない、もう1つのグループはAという方法を行います。 結果、何もしないグループと、Aという方法を行ったグループに違いがあるのか?を調べます。 Aという方法を行ったグループに変化があって、それが偶然の違いじゃなければ(←ここで統計学)、じゃあ、Aという方法は、〇〇という効果があるよね、っていうこと。 私の卒業論文もそうでしたが、特定の方法や活動が、個人に変化を与えることは確かめられます。 でも、どうして変化が起きたのか、何が変化の元、理由なのかは分かっていないのです。 よくエビデンスが「科学的根拠」と表現されていますが、「全然科学的じゃないじゃん」「関係性があっただけしかわかってないじゃん」というもの少なくないのです

母体のような変化の少ない環境

構造化された支援は、愛着障害と親和性が高い。 愛情や信頼など、手に取ることができないものを実感できない支援者は、見える形の支援を作り続けることで、愛情や信頼を確かめようとする。 愛着という土台が脆い親御さんというのは、変化に対処するための支援を、いつしか変化が生じないための支援へと変えていく。 我が子のもとに変化が訪れようとすると、必死にその変化から遠ざけようとする親御さんがいる。 我が子が不調になるたびに、以前の落ち着いていた頃の環境に戻そうとする親御さんがいる。 そんな親御さんと接すると、まるで我が子をお腹の中に戻そうとしているかのように見えてくることがある。 ヒトは十月十日、変化の少ない母体の中で心身を育んでいく。 親御さんの本能が、我が子に生じた胎児期の発達のヌケを見抜き、変化の少ない環境の中で、もう一度育もうとしているように見える。 だが一方で、親御さん自身が「自分の親の母体に戻りたい」、そんな想いから変化の少ない環境を求める場合もあると感じる。 母体のような変化の少ない環境は、生きていく上で土台となる部分をじっくり育て、発達させるには適した条件だといえる。 特定の刺激を十分に味わい尽くすことができるから。 変化の少ない環境が育む環境だとしたら、実生活の中で「変化のない環境を」「構造化された環境を」と求めることが違和感に感じる理由もはっきりしてくる。 学校や職場、社会の中は、発達のヌケを育む場所ではない。 言語獲得後の発達、成長の場ではあるかもしれないが、言語以前の部分を育て直すことが主ではない。 言語獲得後の学びと育ち、そして身につけ、磨いた資質を活かし、実践する場である。 私は、あくまで母体は親御さんであり、家族、家庭なのだと思う。 つまり、変化の少ない環境を用意できるのは、親子の関係の間だけであり、家庭の中だけの話ということ。 「学校が構造化してくれない」「行事に参加させようとする」「変化に対する配慮が足りない」と言う人達がいる。 「学校でも、児童デイでも、療育機関でも、発達のヌケを育て直すことをやってくれたらいいのに」と言う人達がいる。 しかし、学校は学校の目的があり、先生も一人ひとり違う。 その多様性こそ自然な姿であって、多様な刺激だからこそ、育つ部分がある。 家庭の外を母体化するのに