2018年10月30日火曜日

本人の前に立つ支援者、本人の後ろに立つ支援者

下手くそな支援者というのは、本人の前に立つ。
うまい支援者というのは、本人の後ろに立つ。
これは、実際の立ち位置のことではなく、支援の立ち位置のことです。


「私は支援をしています」と言いながら、子どもの前をスタスタ歩く支援者がいます。
スタスタ歩いて、どこに連れていくかといったら、自分たちの推し進める支援の中、一生涯支援の囲いの中。
ギョーカイというのは、「支援している」と言いながら、誘導しているのです。


ギョーカイの支援を受けて、心身共に不調をきたす人達がいます。
そういった人達は、身体が賢い人達です。
頭では支援を受け入れていますが、身体が受け入れていません。
あらぬ方向へと引っ張られているから、身体がそれに対して反発しているのです。
一見すると、従順に支援を受けているように見える人でも、心のベクトルは逆の方向へと進んでいる。


親御さんに対して、私は「リードではなく、後押しです」と言っています。
公的機関、標準療育を通る中で、たくさん悔しい思いをし、たくさん不満を持った親御さん程、支援ではなく育てる方法、治る道を知ると、勢いよく、その一歩を踏み出します。
でも、子どもの前に出てはいけないのです。


私は、一生涯の支援を受ける道ではなく、治る道があると確信しています。
しかし、同じ治る道を進んでいる子でも、その治し方、治り方は一人ひとり異なっています。
「この道を通れば、治る」という道があるのではなく、それぞれの歩き方で、それぞれの道を通り、最終的にその人の治るがあるのだと思います。
発達の仕方が一人ひとり違うのと同じように。


私達がしたい支援とは、子どもを特定の場所に誘導することではなく、子どもの発達を後押しすることではないでしょうか。
何らかの理由から、発達にヌケがあり、遅れが生じている。
だから、その部分を育て直そう、より良く発達してもらおうとするのが、望む支援のあり方。
生きづらさの根本に対する支援ではなく、子ども達の発達を支援するのではなく、第三者が決めた世界に誘導していくから、公的機関、標準療育から離れていくのです。


発達援助は、子どもの前に立ってはできないと思います。
子どもの後ろに立って、発達が伸ばしていきたい方向、その子が進みたい方向を見定める必要があるからです。
向かいたい方向とは異なる方向へ引っ張ろうとすると、綱引きの綱がピンと張るように反発が起きるものです。
綱を引くのではなく、子どもが進みたい方向へ、ポンと背中を押す。
それこそが、発達を後押しすることだと考えています。


発達の仕方が一人ひとり異なるのですから、そもそもリードなどできないのです。
どの道を辿ったら、その子が治るかなんか、誰にも分からないからです。
そのとき、そのときで、子どもが進みたい方向、発達が伸びていきたい方向へと後押ししていった積み重ねが、治るであり、振り返ってその子の治った道になるのだ思います。


私達は、発達を支援してほしいのであって、子ども達の人生を誘導していってほしいのではありません。
どうも支援者というのは、子どもの前に立ちたがります。
そして視界を狭めようとする。
でも、本来、どの道を進むのか、選択するのかは、本人が決めること。
だから、本人が主体的に、より多くの選択肢の中から選べるようにするために、可能性を広げるのが支援者の仕事。
支援者にできる可能性を広げる方法とは、発達の後押しに他なりません。
そのために、本人の前ではなく、後ろに立ち、進みたい方向を見極める必要があるのです。

2018年10月27日土曜日

親子の育み合いに誘うために

「それは、何回くらいやればいいですか?」
「一日、何分ですか?」
「登校前がいいですか?それとも、寝る前がいいですか?」
具体的な発達援助を提案すると、このような質問が返ってきます。


以前は、「本人の様子を見て、判断してくださいね」「本人が要求するなら続けてください」「本人が乗る気じゃなくなったら、無理してやることはないですよ」などとお伝えしていました。
でも、こういった表現ですと、戸惑ってしまったり、悩んでしまったりする方が少なくありません。
一番良くないのは、それが一歩を踏みさせないことにつながってしまうこと。
「何もしない」では、お子さんの発達の後押しはできません。
それに、いつまで経っても、「こんな感じかな」という雰囲気が掴めないままになってしまいます。


発達援助に、「良い発達援助と悪い発達援助がある」と思うのは勘違いです。
あるとしたら、やるか、やらないか、の二つだけ。
子どもの発達を後押しするとは、答えを見つけることでも、ある基準に近づけることでもありません。
創造すること、クリエイティブな営みです。
もし理想的な発達援助があるとするならば、それは、その子に合った発達援助を作ること。
もし良い発達援助があるとするならば、それは、その子が昨日よりも今日、今日よりも明日が良くなっていること。


我が子に合った発達援助を創造できなくなっているのは、子どもの変化、反応に気づけなくなっているからのように感じます。
親御さん自体が忙しくて気づけていない場合もあれば、子育てを外注してしまい、子どもを見る時間が少ない場合もあります。
あとは、親御さんの持つ課題として、主体性が育っていないこと、他人軸で生きていること、身体の感覚が乏しいことなどが挙げられます。


発達援助の核として、「心地良い」があります。
本人が「心地良い」と感じるとき、伸びやかな神経発達が起こるのです。
そういった本人の「心地良い」を感じるには、親御さん自身が「心地良い」が分からないといけません。
発達援助の最中とは、親子の交流、親子の一体化が生じます。
親子で交流し、一体化したとき、親御さんの身体に「心地良い」という受容器がなければ、我が子の「心地良い」は掴めないのです。
そうなると、「何回やればいいか」「どのくらいの頻度でやればいいか」といった枠組みが必要になる。


最近、私は「育み合い」という言葉を使うようになっています。
我が子の発達を後押ししているつもりでも、親御さんが育てられている場合がある。
そんな風に感じるからです。
発達援助という営みの中で、親子で交流し、一体化する。
その際、身体を動かし、身体を通して「心地良い」を感じる。
我が子の「心地良い」を感じようとすればするほど、自分の内側にある「心地良い」が育っていく感じです。


我が子の発達を後押しする。
そのためには、親御さん自身の身体、感覚、主体性が必要です。
でも、中にはそれらが育っていない親御さんもいます。
じゃあ、親御さんが育つまで、発達援助はできないか、しない方がいいか、と言ったら、そうでもないと思います。
先ほど、言った通り、「何もしない」では、発達を後押しすることはできないから。
それに発達援助自体が、親御さんの課題を育てる作用があるから。


以前は答えないようにしていたのですが、今は「何回やればいいですか?」と訊かれれば、「〇回ですね」と具体的に言うようにしています。
その数字は、私の見立てです。
そうして、言われた通りに行っていくうちに、徐々に親御さんの方も育っていき、感覚が掴めるようになっていく場合があるからです。
なんとなく、「これくらいかな」というのが掴めてくれば、自然と「何回やれば」が出なくなってきます。


「何回やれば」がなくなれば、具体的な回数を言うのを止めます。
親御さん自ら主体的に考え、試行錯誤が始まれば、距離を置くようにします。
そして、我が子に合った発達援助を創造するようになれば、サヨナラします。


発達援助自体のゴールは、親御さんが創造できるようになること。
発達援助にマニュアルも、正解不正解もないのですから、創造できるところまで親御さんを後押しするのが、私の仕事の役割だと考えています。
そのためには、親御さん自身も、課題をクリアし、育ってもらう必要があるのです。
その入り口が「〇回、やってくださいね」という具体的な言葉であり、育つ場が親子の交流と一体化の中だと思っています。
親子の育み合いに誘うために。

2018年10月24日水曜日

諦めさせるのは、支援じゃない

繰り返される激しい行動障害を目の当たりにすると、どこから支援していけばよいか、わからなくなり、いっそのこと、逃げ出してしまいたい、と思うことが多々ありました。
でも、施設職員を続けていく中で、気が付かされることがありました。
「この子達は、逃げだしたくても、逃げ出すことすらできない」のだと。


職員の入れ替わりは頻繁でした。
3年も続けていれば、ベテランみたいな役回りと扱いになります。
それだけ辞めていく人が多かった。
新人が入ってくれば、「この子は、いつまで持つか」なんていう音のない言葉が漂っていた。
次々に、職員は辞めていく。
でも、利用者の人達は、そこに居続ける。
本来なら、行動障害が収まり、生活が整い、自立するための力を養って、家庭や地元に帰っていくのが社会的な役割だったのに…。


施設職員として数年が経ったとき、気が付いたのです。
職員は辛くなったら、辞めることができる。
同じ福祉だとしても、ここ以外の場所はあるし、仕事を選ばなければ、いろんな選択肢がある。
でも、この子達には選択肢すらないのではないか、と。


当然、施設ですので、物理的にも逃げれないようになっています。
しかし、そもそも彼らに選択肢はなかった。
家庭や前の施設から離れた方が、心身が安定し、良かったと思える子達もいました。
でも、誰一人、望んで、自らの意思と選択で来た子はいなかった。
いくら措置制度から、契約制度に変わったとしても、子ども達の手の中に選択肢があったわけではなかったのです。


この子達に選択肢がなかったことに気づいてから、「逃げだしたらいけない」と、私は思うようになりました。
できることは少ないかもしれないが、しっかり向き合い続けようと決心したのです。
すると、以前は頭の中が真っ白になっていた大変な状況に、ある言葉が浮かんでくるようになりました。
どんなに激しい行動障害を持っていたとしても、「生まれたときは、強度行動障害ではなかった」という言葉です。


赤ちゃんのとき、幼児のときは、強度行動障害じゃなかったのなら、何かやりようはあるんじゃないか、環境によって行動障害が作られたのなら、環境によって良くしていくことができないだろうか。
そんな風に考えるようになりました。
そこから退職するまでの間、一度たりとも「逃げ出す」「諦める」という考えは出てきませんでした。


私は、発達障害の人達と関わる仕事をしてきて、一番心が痛むのは、以前の私のような「逃げ出す」「諦める」気持ちを持った人と出会ったときです。
本人が自分の可能性を、きっと良くなるという想いを、自分の人生を諦めていないのに、周囲の人間が諦めるなんてもっての外だと思います。
でも、実際は、「障害受容だ」「頑張らせない」「ありのままを受け入れよう」というきれいな言葉を使い、諦めている人が多い。


みんな、どうせ治らない、どうせ変わらない、どうせ福祉のお世話になるんでしょ、という想いを持っている。
だから、真剣にその人の課題と向き合おうとしないし、その課題を絶対に解決してみせるんだ、という熱意を感じない。
上辺だけの、その場だけの、表面的で取り繕われた対処療法をして、「僕は、支援をやってます」「私の子は支援を受けてます」と言い合っているように見えるのです。
「諦め」の気持ちをさとられないように。


今は、激しい行動障害があったとしても、過去は違った。
だから、未来も違う可能性はある、と思って施設職員をしていました。
その想いは今も続いていて、今、困難がある子も、今、言葉が出ない子も、今、知的障害が重い子も、未来は違う可能性はあるし、その可能性を信じて頑張ろうと思い、仕事をしています。


成人した方でも、長年、困難を抱えていたかもしれないし、今、自立できていないかもしれない。
でも、1年後、2年後はわからないわけです。
本人たちが、治そう、自立しよう、幸せになろう、と思っているのなら、その可能性を信じ、自分にできる応援をするのが、真の支援者だと思います。
知識を振りかざし、「今のあなたが、これからのあなただ」というような諦めさせ方をさせるのは、自らの利益のために動いている者。
ひと様を支援する者とは言えないのです。


数々の困難、課題をクリアし、治っていっている人達は、こういった諦めの雰囲気の中でもがいている本人たちの希望だと思います。
私は、そのような希望にはなれませんが、最後まで未来と可能性を諦めない他人もいる、というメッセージを姿勢を通して送り続けられたら、と思っています。


今、言葉が出ない、知的障害が重い、できないことがある、問題を抱えている、自立できていない、働いていない、がなんですか。
人間は常に発達し、動き続けている生き物なのです。
今までうまくいっていなかったのは、やり方が合わなかったのかもしれない、足りない部分があったのかもしれない。
そうではなく、じっと蓄え、大きな発達、成長を遂げるための準備期間なのかもしれない、しっかりとした根を伸ばしている時期なのかもしれない。


今の姿を求めるのは、諦めた人間と、「シメシメ、今の姿のままの方がありがたい」と思っている人間。
本人と家族は、今のままを求めているわけではありません。
悪い状態なら良い状態に。
良い状態ならより良い状態に。
育ってほしいし、歩んでいってもらいたいと願うのが親心。
そして、その道を歩んでいくのが、自分の人生の主人公である本人。


施設にいた子ども達に選択肢はなかった。
でも、誰一人、自分の人生を諦めようなどという想いの子はいなかった。
だから私は、その人が自分の可能性、未来を信じている限り、応援し続けようと思います。
諦めさせるのは、支援じゃない!

2018年10月22日月曜日

『自傷・他害・パニックは防げますか?』(花風社)を読んで

花風社さんの本が出版されると、私は必ず読みます。
本の中に、知識や情報だけではなく、希望が詰まっているからです。
私は今、発達援助で関わっている子ども達、若者たち、大人たちに不便なところは治ってほしいと思っていますし、開花した資質を自分の人生と社会のために活かしながら自立してほしいと願っています。
これは親御さんの想い、願いと同じだと思います。


だからこそ、「本人と親御さんのより良い明日と人生のために」という想いがあっての本ですから、素晴らしい著者の方達の知見だけではなく、そこに希望も感じるのです。
希望を感じない知見は、ただの自己満足であり、読み手の着想を生みません。
受け取った人の中でアイディアの自由な発展に繋がる動力は、花風社さんや著者の方達の希望という力だと思っています。


私は、多くの読者の方達と同じように、花風社さんの本から希望を感じます。
でも、それだけではないのです。
私は、新刊を手にし、読むたびに、希望だけではなく、後悔の気持ちに苛まれるのです。


新刊を読み、新しい知見、素晴らしい知見と出会うたびに、「これで、もっとその子に合った発達援助ができるかもしれない」と思い、「ああ、あのとき、あの子に、この知見があれば…」と思います。
私の言う「あのとき」は、施設で働いていたとき。
特に、栗本さんが著者である本が出版されるようになってからというもの、後悔の気持ちは強くなるばかりです。
施設で働いていた私は、対処療法しかできませんでした。
苦しむ彼らを見て、ただただ一緒に悲しむことしかできませんでした。
投薬の量が増えていく場面に立ち会い、彼らの想い、願いを代弁することができませんでした。


あのとき、言語以前のアプローチを知っていれば…。
あのとき、心身をラクにする方法を知っていれば…。
あのとき、四季を上手に乗り越えるアイディアを知っていれば…。
そして今回の新刊で教えてもらった身体作り、対応法を知っていれば…。
そうすれば、対処ではなく、育むことで、彼らの発達を支援できていたかもしれない。
そうすれば、彼らも、支援者も、お互い傷つかずに良い関係が築けていたかもしれない。
読み進める中、当時関わっていた子ども達の顔を思いだす頻度は、今回が一番多かったように感じます。


基本的に入所施設の職員の役割は、利用者さんの命を守ることと、生活介助です。
当然、生活介助ですから、いろんな生活場面で身体接触しなければなりません。
身体接触が必要な場面で、何より悲しいのが、利用者さんが身体を触らせてくれないこと。
特に、新入所できた方が、身体接触を拒む姿が悲しかった。
拒み方を見れば、それまでの人生で、どのような介助をされてきたか、がわかるからです。
どこに立たれるか、どこに触れられるか、で反応の仕方が一人ひとり異なります。
触れられた後の行動も。


自閉症や発達障害の人達、強度行動障害の人達が、身体に触られるのを嫌がるのは、「感覚の問題」と言われていました。
でも、現場の職員は知っています。
感覚面の問題よりも、どういった身体接触、関わられ方、介助のされ方をされてきたのかが大きく関係していることを。
初めて会ったはずなのに、私に向けられる「不信感」という眼差しが辛かったのを覚えています。


この本の中で、距離感、間合いについて記されていた箇所がありました。
こういった知識はありませんでしたが、拒絶する方との距離をどう近づけていくか、大丈夫だと思ってもらえるか、また行動障害の方とは、どの位置で、距離で関わるかを真剣に考えていました。
と言いますか、これが掴めなければ、支援ができないので、やらざるを得なかったのです。
もし心身の距離が縮められなければ、身体に触れることを受け入れてもらえなければ、服薬も、怪我の治療も、歯の仕上げ磨きも、入浴支援もできません。
そうなれば、施設職員が一番に守らなければならない利用者さんの命が守れなくなってしまいます。


本で紹介されました介助法を開発された廣木道心氏は、武道家であり、介護士であり、自閉症の子のお父様でもあります。
だから、単にテクニックではなく、その介助法には心があり、対話がある。
そして育みもある。
ここに一番、心が揺さぶられました。
素晴らしい希望と共に、深い後悔です。
施設職員だった私が一番知りたかったこと、望んでいたことは、彼らとの対話であり、育みだった。


確かに、経験年数が上がっていく上で、自分が傷つくことも、彼らが傷つくことも少なくなりました。
でも、私は月日が経てば経つほど、自分が嫌になっていきました。
「こんな施設職員になんかなりたくない」と、新人の頃から思っていた施設職員になっていったのがわかった。
利用者さんのことはわかるようになったけれども、対処療法はうまくなっていたけれども、対話と育みをどんどん失っていった。
利用者さんの人に対する不信感に溢れた眼差しが辛かったのに、もしかしたら自分自身がその眼差しを作る一人になっているかもしれないことに気が付きました。
だから、私はこのまま仕事を続けてはいけない、と思ったのです。


私は、この本から「対話」と「育み」を感じました。
副題にもある「二人称のアプローチで解決しよう!」という言葉に表されていると思います。
ですから、現在、自傷や他害、パニックと向き合っているご家族、支援者はもちろんのこと、子どもの発達、成長と関わっているすべての人に大切なことを教えてくれるように感じます。


自傷や他害、パニックという行動だけではなく、言葉や発信の問題から、周囲の人間に解釈される行動というものがあります。
見ている側がその行動の意図が分からないとき、不適切な行動、障害故の行動として制止されることがある。
だけれども、そんなときこそ、「対話」と「育み」の視点が大事なのだと思います。


「対話」と「育み」のある対応は、子ども達に不信感を芽生えさせないと思います。
人に対する不信感を育てるのは、対処そのものです。
療育を受ければ受けるほど、辛くなる本人たちがいるのは、そこに対話も、育みもない対処のみだから。
対処療法しかしないのは対話の拒否であり、そんな関係性に信頼など生まれるはずはありません。


是非、多くの方にも、著者の御三方の素晴らしい知見に触れられ、「対話」と「育み」のある子育て、支援に繋げていって頂きたいと願っています。
自傷や他害、パニック等、大変な状態にある人達のことを遠ざけるのではなく、見て見ぬふりをするのではなく、見過ごすのではなく、本気で考え、真剣に治したいと思う人達がいるということは、本人、家族、そして社会にとって希望です!


 
   
 

2018年10月19日金曜日

「行政に訴えてやるぅ~」と言うだけの人は大概、睡眠に問題あり

「治る」という言葉を発すると、ああだこうだ言ってくる人達がいます。
「医学的にー」とか、「脳の機能障害だからー」とか、いろんな理由を言ってきますが、結局、「治る」という言葉を使われるのが、「嫌だ」ということ。
たった一言で済む話なのです。
それを言葉を塗りたぐって、ダラダラと文字をつないでいく。
シンプルな表現ができないのは脳の無駄遣いであり、脳も、身体も育っていない証拠ですね。


中には、「消費者庁が」「弁護士が」「厚生労働省が」などと言ってくる人もいます。
もうそのネタは飽きましたね。
私のところに監査や指導が入るなら、「そのとき、その人にきちんと説明します」と言っています。
だけれども、事業を始めて6年半。
一度も、そういったことはありません。
つまり、言葉で脅しをかけているつもりなのでしょう。


言葉で脅しをかけているつもりなら、それは想像力の問題がある人だとわかります。
本当に脅しをかけるのなら、行動が伴わなければなりませんし、そのためには行動できる身体と、情報を整理し、計画を立て、実行できる脳みそが必要です。
それがないから、安易に言葉で脅そう、脅せるはずだなどと考える。
こういった人には、相手が見えていないし、相手の周りにいる人、支持する人達の姿が見えていない。


「自分が嫌だと思うから、みんなも嫌だと思う」という思考は、問題です。
「自分が嫌だと思うから、行政に訴えれば、聞いてくれる」と思うのは、妄想です。
今回は「治る」に関してですが、これが「自分が好きだから、きみも僕が好き」となればストーカーになり、独りよがりの正義を振りかざせば、迷惑者、犯罪者になる。
想像力の問題は、妄想段階ならまだマシだが、行動と結びつくと大問題になるのです。
だから私は、想像力の問題は重く捉えます。
どんな小さな芽だろうとも直言しますし、できるだけ早く想像力の土台から育て直していきます。


「行政に訴えてやる」と言ってくる人には、共通する部分があるように感じます。
そういった人はみんな、睡眠に問題を抱えている。
SNSの更新時間を見ても深夜ですし、脇が甘い人になると、自分で睡眠薬を飲んでいることまで呟いている。
結局、寝れないから妄想するし、寝れない身体だから頭がグルグルするし、想像を外す。
健康体の人から見れば、「何言ってんの、この人」となるようなことを、論理を恥ずかしげもなく、堂々と語るのは、頭の中の世界で生きている人だからですね。


問題を抱えている子がいて、その子の親御さんがいる。
当然、問題の根っこ、想像力の問題なら、その前に自他の区別、そして自分という存在、主体性、身体から育てていく必要があります。
でも、同時に快食、快眠、快便へ整えていくことでも対処はできます。


「問題行動を治そう」と掲げると、遠く、難しいような気がします。
しかし、日付が変わる前に寝られるようにしよう、ぐっすり寝られるようにしよう、というのなら、できそうに思えますし、何よりも家庭が主で行えることに変わります。
睡眠が変わるだけでも、妄想の大きさは小さくなると思います。


施設では、利用者の命を守ることが最優先でしたし、コミュニケーションを取るのが難しい方達が多かったので、「食べる」「寝る」「排泄する」には特に注目していました。
「食べる」に偏りがあれば、気分の上下、小食なら鬱っぽい
「寝る」に乱れがあれば、イライラ、自傷、衝動的。
便が緩ければ過敏で、便秘なら停滞、活動の低下。
もちろん、個人差、個体差がありますので、大まかな見立てではありましたが、とにかくチームで意見を出し合い、「食べる」「寝る」「排泄する」に気になるところがないか、と「快食、快眠、快便」を目指していました。


施設で働いていた当時の私は、経験則で見立てたり、改善を目指したりしていましたが、今は素晴らしい知見をお持ちのプロフェッショナルな方がいらっしゃいます。
花風社さんから出版されている『自閉っ子の心身をラクにしよう!』『芋づる式に治そう!』などを読まれると、快食、快眠、快便を整えるためのアイディアが頂けますし、直接、著者の栗本先生のセッションを受けられるのも良いと思います。
全国どの県にも空港はありますし、羽田までは直通便が出ているはずです。
羽田からは小田原までリムジンバスも出ていますし、電車でも乗り継ぎ1回で行けます。


せっかく同じ時代を生きていて、素晴らしい知見をお持ちの方と会えるチャンスがあるのなら、すぐに行動に移されるのが良いと思います。
「どうしようどうしよう」と思っているだけでは時間が過ぎるだけで、何も解決していきませんし、何より動かないと、妄想ばかり膨らんでいってしまいます。
身体を整えるのは、ただ健康になるだけではなく、問題の回避と自立への後押しになりますので、子どもさんはもちろんのこと、育む親御さんも留意し、整えていっていただければ、と思います。

2018年10月18日木曜日

支援者の多くは、「今」を切り取っているだけ

「この子は、治りますか?」と、尋ねられることが多いです。
でも、私は未来を視ることができませんので、「治る」とも、「治らない」とも、言い切ることはできません。
ただ、その可能性の大きさ、今後の成長の様子、大人になったときのスタイルは、想像できます。


こういったことを想像するのは、何も難しいことではありません。
言語化できなかったとしても、親御さんの多くは、我が子の未来を直感的に捉えることができています。
違いがあるとすれば、それは、いろんな方たちの人生を見させて頂いたかどうか、です。


支援者の多くは、「今」を切り取ります。
当然、医師や支援者の前にいるのですから、今、何らかの課題を持っているのは確かでしょう。
でも、その課題が、この先もずっと続くとは限らない。
むしろ、今の課題は治る途中経過だったりする。
その流れを掴めない人には、「この子は、高校くらいになれば、普通学校に行きますね」「この子は、将来、働いて自立しますね」「この子は、治る子ですね」という言葉が、戯言にしか聞こえません。


医師も、支援者も、出会った専門家たちも、みんな気づかず、むしろ否定的な見解を述べるばかりだった。
でも、最後の最後まで、我が子の未来、可能性を信じたのは、親御さんだけだった、ということは、よくある話です。
これを「単なる親バカ」「独りよがりの想い」と捉える人もいるでしょう。


しかし、こういった親御さん達には、本当に見えているのです、我が子の未来の姿が。
何故なら、流れの中で、我が子を見ているから。
ちゃんと受精、誕生、現在までの我が子の物語を捉え、描けている親御さんには、今後の流れる先が分かる。
だからこそ、ただ一人になろうとも信じられるし、その流れを見て、上手に軌道修正もできる。


私は、いつも思います。
どうして流れを見て、支援できないのだろうか。
どうして今を切り取っただけで、未来の姿を決め付けることができるのだろうか、と。
支援者と意見がぶつかるのは、いつもここです。


発達のヌケが埋まっての「今」とヌケが埋まっていない「今」では意味合いが違います。
今までの発達のリズムとスピードを見れば、今、重度かどうかは、将来の決定因子にはなりません。
問題行動のある子の今を切り抜けば、自立は不可能かもしれませんが、問題行動が前面に出てきてるために、まだ隠れている資質、本来の姿を見れば、十分、働いて生きていける子だとわかることもあります。


支援者の多くは、「今」を切り取る。
でも、「今」だけを切り取っても、未来は見えない。
大事なのは、その子の流れであり、物語。
その子の持つ流れを掴めさえすれば、行く先が見え、より良い流れを作ることもできます。
その子の物語を感じさえすれば、1年後、5年後、10年後の未来の姿を描くことができます。


「この子は、知的障害もあるし、言葉も出ていないし、将来は福祉と施設です」と、医師からも、支援者からも言われ続けた子が、今、一般就労で働いている。
この子の親御さんと、「専門家なのに、何でわからないんだろうね~。うちの子は、一般就労できると思うもん」と、よく言っていたものです。
流れが分かるから、ここさえ埋まれば、一気に変わることがわかる。
物語が分かるから、大人になった我が子の姿がちゃんと描ける。


案外、知らない親御さんが多いのですが、支援者というのは「今」を切り取って助言や支援をするものです。
彼らの言う「将来はわかりませんよ、お母さん」は、本当に分かっていないということ。
彼らの言う「将来、他人のサポートを受けながら」「将来は福祉で、施設で」「この子はずっと特別支援」という予言は、血液型占いと一緒。


今を切り抜いただけで、未来が分かるのは、神様くらいなもの。
だけれども、その子の流れと物語をしっかり掴めば、未来の姿を見ることができます。
それが一番できるのは、親御さん。
だから、支援者みんなが否定しても、最後まで信じ切れる。
今を切り取って、検査結果の数値だけを見て、助言や支援をする者は二流、三流であり、親御さんには敵わないのです。
支援者の意見に惑わされることなく、親御さんご自身で想像できる我が子の未来の姿を信じて頂ければ、と思います。

2018年10月16日火曜日

「この子が小さいときに戻って、“子育て”をやりなおしたい」

先日、私よりも年齢が上の方の発達援助に行ってきました。
依頼の電話をくださったのは、その方の親御さんです。
発達援助の始まりは、その人の物語を掴むことからですので、数十年間に渡る物語を本人と家族の方達との会話から一緒に辿っていきました。
そして課題の根っこを見たて、今日からできることをお伝えしてきました。
すると、親御さんは涙を流し、「できることなら、もっと早くにお会いしたかった」と言ってくださったのです。


「もっと早く出会いたかった」というのは、年齢を重ねたご家族だけではなく、成人していない子の親御さんも、就学前の子の親御さんも、そう言われます。
それは、私に会いたかったというよりは、「表面の課題ではなく、根っこを教えて欲しかった」「具体的な育て方を知りたかった」という意味だと感じます。
皆さん、お子さんの年齢に関わらず、「できるだけ早く」「もっと早くに」と思われるのです。


「早くに出会いたかった」と親御さんに言わせるのは、何でしょうか。
迷っていた過去、右往左往して動けなかった自分、遠回りしてしまったという後悔もあるかもしれません。
でも、お話ししていて一番に感じるのは、「なんだ、療育じゃなくって、子育てだったんだ」という気づきです。
発達援助に特別な技術や知識はいりません。
だって、子どもの発達を後押しするというのは、子育てそのものだから。


発達とは育んでいくものです。
特に受精から言語獲得する前の段階の育みは、家族の中で営まれます。
そんな自然な現象を何故見失うようになったのか。
それは、子育てを否定する言葉の数々。
「療育」「支援」「連携」「〇〇療法」…。
テレビ業界の言葉が、日常会話で使われるようになったように、特別支援ギョーカイの言葉が子育てを浸食したのです。
主体を自分たちに移し替えるために、「子育て」を「療育」にした。


発達のヌケの育て直しは、いつからでも行えますし、成人した方達もどんどん発達し、治っている姿があります。
でも、そのスピードで言えば、子どもには敵いません。
同じ子どもでも、神経発達が盛んな時期というのがあります。
また少しでも早く発達のヌケを育てておいた方が、その上に重なっていく発達のデコボコも、それに伴う困難も小さくすることができます。
「過去の苦労も愛おしい」などと言う人もいますが、発達のヌケ、生きづらさで生じる苦労などはしない方が良いに決まっています。
同じ苦労をするのなら、自分の全身を使い切ったチャレンジに伴う失敗、挫折の方がいい。


冒頭で紹介した親御さんの「できることなら、もっと早くにお会いしたかった」という言葉に、表現できない重みを感じました。
ですから、今、子育て中の方は、すぐに動いた方が良いと思います。


「情報の乏しいまま、気持ちが安定しないまま、親御さんが動くと、失敗する、判断を誤る」というようなことを言う失礼極まりない支援者がいました。
何を寝ぼけたことを言ってるんだと憤りを感じます。
みんな、初めての子育てで迷い、悩むのは当然なことです。
子育てに正解はないのですから。
こういった寝ぼけたことをいう支援者というのは、子育てじゃなくて、療育をしようとしているから、「情報がー」「正解がー」とか言うのです。


療育の中に育みは無いのです。
発達障害の子ども達に必要なのは、どこかの場所、特定の人に適応するためのテクニックではありません。
必要なのは、より我が子に合った育みです。
そのために、いろんな人に会い、場所に行き、あれこれ情報や知見、アイディアを集めてくる。
それで我が子に合ったものを選び、合わなかったら捨てる、不十分なら別のところに行く。
そういった親御さんの主体的な動き、試行錯誤が、我が子に合ったオリジナルの子育ての形を創造していくことになるのです。


「どうしようかな」と立ちどまっているのは、周囲の人間の都合です。
50分で、しかも治らない療育に、1万5千円払うなら、今すぐ飛行機のチケットを取って、神奈川県の小田原や鹿児島に行けば良いのです。
その人の持つ何十年もかけて積み重ねてきたものを、我が子のより良い子育てのために活かしていけるのなら、こんな贅沢なことはないと思います。
お金は稼ぐことができますが、時間はどうやっても後から手に入れることはできません。


冒頭の親御さんは我が子を前にして、こうも言っていました。
「この子が小さいときに戻って、“子育て”をやりなおしたい」
皆さんには、その子育てをしている時間が、今あるのです。
是非、子どもさんの神経発達が盛んな時期を大事にしていただきたいと思います。
親御さんが心を込めて手と足を動かせば、必ずお子さんの身体と心に響き、より良い発達として返ってくるはずですから。




2018年10月15日月曜日

疑い尽くした先に、その子の本質がある

「うちの子、睡眠障害があるんです」と、相談がある。
それで、詳細にお話を聞いていくと、寝る前にゲームをやっていることがわかる。
「じゃあ、そのゲームの刺激が眠りを遠ざける可能性もあるので、寝る前は止めるようにしたり、時間をずらしたりするのは、どうですか?」と提案すると、「ゲームは本人のこだわりだから」「禁止すると、怒るから」と返ってくる。
この子は、本当に睡眠障害があるのかもしれません。
でも、その結論を出す前に、やるべきことがあるのではないか、と思います。


他にも似たケースがあって、「授業中、ボーとして、注意散漫だ」という子の相談がありました。
ADDの診断を受けていましたが、話を聞くと、朝食を食べずに学校に行っているという。
脳を動かすエネルギーが足りなければ、頭が働かず、ボーとするのは当たり前だと思います。
発達障害の前に、ヒトであり、動物なんですから。
水分摂って、陽にあたっていれば生きていける植物とは違う。
衝動的に手が出てしまう子の話を聞けば、甘いお菓子ばかりを食べている。
何年も引きこもっている人の相談に伺えば、カップ麺とコンビニ弁当しか食べていないという。


快食、快眠、快便は、基本中の基本。
発達障害とか、知的障害が重いとか、まったく関係がありません。
施設に子どもが入所してきたとき、まず最初に整えていくのが、この快食、快眠、快便です。
ここがクリアされない限り、特に強度行動障害の人達の支援は始めることができません。
だから、上記のようなケースの相談があるたびに、本人ではなく、周囲が障害、困難さ、生きづらさを決めてしまっている、と感じます。


本来なら、やれることがあれば、それをすべてやってから、受診なり、支援なり、相談を受けるべきだと思います。
上記のようなケースの中には、そのまま、つまり、やれるべきことをやりつくす前に、医療、支援者と繋がったばっかりに、その子の本質的な問題として投薬、治療、支援が行われてしまった人がいます。
寝る前に何時間もゲームをしたり、布団に入ってからもテレビをつけ続けていたりしているのを伝えず、ただ「眠れない」「睡眠が乱れている」だけが伝わる。
そうすると、睡眠薬が処方される、「9時になったら寝ます」という絵カードが提示される、9時までに布団に入れたら、ボーロが貰えるという異質なルールが誕生する…。
こうやって、本質からどんどんズレていき、これが何年も続けば、作られた生きづらさの完成です。


私は、発達援助をする上で、必ず疑いから入ります。
「睡眠導入剤を飲んでいるけれども、本当に薬が必要なのだろうか?本当に睡眠障害なのだろうか?」
「検査結果では、重度の知的障害となっているが、本当に重度なのか?これ以上、伸びていかないのだろうか?」
そんな風に、一旦、必ず疑問を持つようにしています。


この姿勢は、施設職員時代に形成されたのだと思います。
強度行動障害の人の支援をする際、その人のことを「強度行動障害」と見た瞬間、何も支援ができなくなるのです。
いろんな施設を渡り歩き、辿りついた人もいる。
実際の行動、日々は激しいもの。
そんなとき、疑うことをしなければ、向かう先は抑制、抑圧。
物理的に制限を加えるか、薬の力を使って行動を起こせないようにするか。


疑うことは、着想を生みます。
「こだわり」と言われているけれども、それ以外、知らないからかもしれない。
傍を通る人に手を出してしまうのは、周囲の空気を感じる感覚が育っていないのかもしれない。
身体をつねってくるのは、相手を呼ぶための手段を持ち併せていないからかもしれない。
疑問から着想が生まれ、実際にやってみる。
そうやって繰り返していく中で、直ることも多々あります。


睡眠障害、一つとっても、本当にやり尽くして、最後に残ったのがその症状なのか、と思うことがあります。
寝やすい環境を整えること、睡眠に入りやすいリズムを作ること、眠れる身体を育てること…。
それらをやり尽くす前に、「はい、睡眠障害だ」「はい、不登校になった」では、その子の本質を見誤ることになる。
そして何よりも、その子の未来の選択肢を、周囲の頭の中で狭めてしまうことにもなる。
このように不幸になってしまう子ども達は、少なくないように感じます。


人と関わる仕事、ヒトを育む営みに、100%はありません。
だからこそ、疑う視点が大事なのです。
脳画像を見せられ、「この子の言語野は白くなっていますから、一生しゃべることはないでしょう」と告げられた子が、今、普通にしゃべっている。
就学時に言葉がなく、知的障害も重度だった子が、今、普通の人として一般就労している。
こういった若者たちの陰には、専門家から言われたことに対しても、ちゃんと疑う視点を持てた親御さん達がいます。
治す親御さんと言うのは、みなさん、こういうのです。
「あのとき、そう言われたけれども、私は違うと思ったんだ」
「具体的な方法はわからなかったけれども、別のところに解決する方法があると思ったんだ」と。


「発達障害は治りません」
「この子は、一生支援を受けて生きていく子です」
そんな専門家の言葉を聞いて、「はい、そうですか」と思う人が治るわけないのです。
人が人の人生をどうやって見通すことができるでしょうか。
医学免許を持っていたら、ナントカ療法の免許を持っていたら、その子の神経発達の仕方が見えるというのでしょうか。


神経発達の仕方がわからないのだったら、必要なのは神経発達を促すアイディアです。
治る治らないという結果ではなく、プロセスが重要なのです。
プロセスを豊かにしていくには、試行錯誤。
その試行錯誤の源は、疑問に思うことです。
睡眠障害という結果からは何も生みません。
でも、睡眠障害を疑うことで、解決の糸口が見えてくる。
そして、その子の本質を見ることに繋がります。


症状で診断される発達障害。
ということは、見える部分だけでレッテルがついてしまうということ。
疑問という視点がなければ、生きづらく見えることが本質になってしまう危険性があります。
全国から相談をお受けしていますが、まるで流れ作業のようにレッテルがついているように感じます。
「本当に、発達障害なのだろうか?」という疑問が削ぎ落されている雰囲気の中、元気な子まで発達障害になっている姿を連想します。


「治らない」に疑問を投げかけることで、治る部分と治る道が見えてくる。
だから、専門家の言う「治らない」は罪なのです。
疑う姿勢を否定し、プロセスを排除するから。
「治る」は結果。
神経発達を促すはプロセス。
そのプロセスとは、子育てそのもの。
つまり、「治らない」というのは、専門家からの子育ての否定なのです。
子育てを奪おうとする専門家に対して、親御さんは疑問に思うことで対抗してもらいたいと願っています。

2018年10月14日日曜日

「全員、治らない」と、どうして言えるのだろう

もう過去の話になりますが、自閉症、発達障害の人たちは、「脳の機能障害」と言われている時代がありました。
2013年5月に「神経発達の障害」と改訂されたのですから、もう5年以上前のお話になります。
でも、いまだに「脳の機能障害」と言い続けている人がいます。
しかも、発達障害が治らない根拠として、それを用いているのです。


まあ、100歩譲って、「脳の機能障害」でもいいです。
しかし、じゃあ、なんで「脳の機能障害」なら、治らないといえるのでしょうか?
機能障害とは、損傷とか、機能不全の状態のことを表しています。
発達障害は、脳に損傷ができたためになる障害ではありませんので(だって、先天的な障害なんでしょ)、脳に機能不全の状態の箇所があるということ。


脳に機能不全の箇所があるのなら、その状態を回復させればよいのです。
というか、専門家なら、医師なら、その方法を研究し、目指すのが当たり前。
欠損した脳を回復させるのは難しいでしょうが、機能不全の状態を回復させるのは不可能ではないはずです。
だって、脳の素晴らしい性質である「可塑性」があり、病気や交通事故で脳に損傷した人たちには、当たり前のように昔からリハビリが行われているのですから。


必要な刺激を与えることで、脳の機能不全を改善しようとするのは自然なことで、可能性のないことだとは思えません。
現に、発達障害の子ども達も、ずっと赤ちゃんのような発達段階のままということはなく、定型ではなくとも発達し、成長するのですから。
排せつや身辺処理、勉強や運動など、成長とともにできるようになっている姿は、ただ単に適応や暗記しているだけではなく、発達している、発達する可能性があることを示しています。
だったら、脳の機能不全の部位だって、その状態のレベルだって、発達のスピードだって、一人ひとり同じなわけはないのですから、「発達障害」というラベルが同じでも、みんながみんな、治らない、治る可能性がないとは言えないのです。


「脳の機能障害」だから発達障害は治らない、というのは答えになっていません。
それは発達障害が治らないんじゃなくて、脳の機能不全の状態を回復させるアイディアを持っていない、という意味。
むしろ、発達障害、本人の問題というよりは、専門家の方の問題ではないでしょうか。
そもそも誰が最初に「脳の機能障害だから、発達障害は治らない」と言い出したんでしょうかね。
というか、脳の機能障害と言われ始めたのは、もう何十年も前のことですから、いつまでその当時の知識をひっぱるのか、と思います。
「脳の機能障害」は、冷蔵庫マザーを否定するという意義は十分果たしたのですから。


「神経発達の障害」と言われてから、もう5年以上が経ちました。
どう見ても、知的障害の重い軽いに関わらず、発達障害の子ども達はみんな、神経発達が起きています。
決して、神経発達が起きる可能性がない人たちではありません。
発達障害のあるなしに関わらず、神経発達の仕方は多様ですし、受精後の環境と刺激の影響を受けて変わっていきます。
定型発達の子との違いがあるとすれば、発達の順序。
発達の順序が違ったり、段階を抜かしたりすることが、「治らない」という証明にはなりません。


この5年間の間にも、神経発達を促すための知見や情報、実際、子ども達で見られた素晴らしい結果が集まってきました。
神経発達の仕方は、一人ひとり違う。
そして、その子にあった促し方、育み方も、一人ひとり違う。
だからこそ、こういった知見や実践で得られたものは、本人、親御さん、支援者にとって貴重な着想となります。
発達障害全体を一色単にしたような概念的な知識は、目の前の子のより良い発達の仕方には役に立ちません。


発達障害を概念、文字、知識として捉えている人の前には、治る人も、治った人も現れないでしょう。
学問の発達障害は固定されたものになるが、目の前の人に固定など存在しません。
神経発達の仕方も多様。
神経発達のヌケや遅れている箇所の多様。
その人自身を見ても、今と次の瞬間には、異なる神経発達が起きている。


ですから、常に変化し、神経発達が起きているヒトに対して、「全員治らない」とは言えないのです。
確かに治らない人はいるかもしれない。
でも、確実に治る人はいるし、全部が治らなくても、部分的に治る人はいる。
だって、みんな発達する力、可能性を持っているし、生まれた後の環境と刺激の影響を受けて発達の仕方が変わっていくから。
発達の可能性があるのなら、その可能性にかけ、できることは何でもしようとするのが親心。
その親心が向かう先は、学問としての言葉、概念ではなく、全国で積み重なってきた知見と実践の成果だと思います。
そうして試行錯誤し、得られた結果が、また誰かの神経発達を後押しすることになるのです。

2018年10月11日木曜日

身体と選択の育ちが主体を育み、主体の育ちが想像力の育ちと繋がっている

この仕事をするまで、「主体性」なんて考えることはなかったですね。
自分に主体があるのは当たり前ですし、自分以外の人だって、それぞれ主体を持っている。
自分に主体があるから選択し、行動することができる。
他人にも主体があるから、その選択、行動を侵すようなことはしてはならない。
そんな風に思っていました。
でも、この主体が「わからない」人がこんなにもいるのか、と感じるのが、この仕事を始めてから続いています。


「自分と同じように、他人にも主体がある」という視点がない人は、自分の脳内のみで物事を完結させます。
また、自分から見える他人の行動のみで、物事を判断します。
だから、平気で他人に対し、自分の価値観を押しつけてくるし、自分と異なる意見や考えを理解することができません。
これは、想像力の問題。
そんな想像力の土台になっているのは、感覚、内臓、身体、動きなど。
一言で言えば、自分という主体がちゃんと育っていないということです。
自分が分からずして、他人の視点を想像することはできません。


はっきりしない自分が、想像力の問題の正体です。
それを、いつまで経っても「それが障害特性ですから」というレベルから抜け出せない人が、「理解をー」と叫び、応用の利かないパターンで想像力を補うことを教えます。
でも、これは想像力の問題を補っているのではなく、当然、想像力を育てようともしていません。
ただのその場しのぎであり、支援者が「ちゃんと支援やってますよ」とアリバイを作っているだけ。
真の支援者、専門家だったら、想像力を構成する神経発達に目を向け、その発達自体を促せなければ責務を果たしているとは言えないでしょう。


他人の主体を侵すまでに至らなくても、主体が乏しいと感じる人は、親御さんの中にもいます。
その人の物語を辿っていくと、主体を育てる機会の乏しさと突き当たります。
親が常に先回りしていた子ども時代。
自分の意思よりも、親の意思が優先された子ども時代。
親が思い描く姿になることが、自分のすべてだった人が大人になり、子どもを授かると戸惑います。
また、子ども時代の親の意思というよりも、環境、空気感を読み、自ら主体を無くしてきた人もいます。
それが主体性のない支援者であり、有名支援者、エビデンスなどの言葉に従ってしまい、自らの意思や感覚が押しだせない支援者たち。


想像力の問題は、固定された障害ではなく、未発達という意味。
だから、必要なのは、育んでいく機会です。
でも、想像する力を養おうとして、いくら相手の気持ちを考えさせる練習をしても意味がありません。
想像力が育つには、主体が育っている必要がある。
それには身体を育てていくことが重要です。
またそれと同時に、選択する機会が重要。


自らで選択することで、自分が何が好きで、何が嫌いかがわかってくる。
最初は、食べ物や遊び道具など、具体的なものから。
そして徐々に、何がしたいか、したくないか、抽象的なものの選択を行っていく。
そうすることで、自分というものが何なのかはっきりしてきて、自分という主体が掴めるようになってくる。
主体を育むというのは、身体からと選択からの両方があると考えています。
先回りする親も、失敗させない支援者も、この選択の機会を奪うことに繋がるため、その子の主体性が育たず、結果的に想像力の問題へと繋がっていくように思います。


私も施設では、自閉症、行動障害だけではなく、重度、最重度、また測定不能と言われるような方達の支援に携わっていました。
今も、知的障害の重い方の発達援助に関わっています。
でも、知的障害が重かったとしても、選択することはできますし、選択する力は養っていけると思います。
それが例え限られた範囲で、具体的な物だったとしても。
どんな重い子でも、私は選択する機会を尊重し、大事な育ちだと考えています。
拒否だとしても、それは本人にとっては、大事な主体の一部です。
拒否できない、拒否できなかった姿は、愛着障害の人の姿と重なります。


決められたスケジュールを淡々とこなしているようでは、主体は育っていきません。
生活、育ちの中に、選択がないからです。
特に支援者というのは、当事者の主体性を嫌いますので、こういった選択のない支援が横暴しているのです。
ですから、いつまで経っても、「想像力の障害」から抜け出せませんし、育もうなんていう視点は出てきません。


主体の育ちと想像力の育ちは繋がっていると思います。
主体は、身体という土台の育ちと、選択の機会が育んでいくと思います。
選択の発達過程は、具体的なものから抽象的なものへ。
2つの選択から3つの選択、そして最後は選択肢のない中での選択です。
「これが好きだから、このおやつ」ではなく、「こっちとこっち、どっちにする?」というひと手間が大事な育ちになるかもしれません。
選択の機会だったら、今日、今からすぐにおうちで行うことができますね。

2018年10月10日水曜日

想像力の問題は、自立を妨げる本丸

いつも疑問に思うのですが、「治るなんてインチキだー」「トンデモだー」と言っている人、それは何を見て、そう言っているのでしょうか?
そうやって、見ず知らずの当事者の方や親御さん達のことを批判し、また治るという考えの元、発達援助、後押しをしている人達のことを、人を騙して儲けているかのように表現する。
それくらいの発言をしているのですから、それなりの覚悟と根拠があるのでしょう。


「治る」と言っている人達が、どのような育て方をしているのか、また「治った」と言っている人が、どういう人なのか、それを自分の目で確かめない限り、本当の意味で批判することはできないと思います。
というか、そういった確認をしないで、相手のことを調べもせず、ただ自分の考えのみで批判するのは、便所の落書きレベル。
本来なら、見向きもされないのが普通です。
でも、ツイッターとかで反応を貰っちゃうと、あたかも自分が正しいことを言っているかのように勘違いする。
何故なら、こういった自分の身体を通した確認ではなく、自分の頭の中で作った物語で生きているから。
つまり、想像力に問題があるから、勘違いを起こすのです。


昔、発達障害の子ども達は天使だ、なんて言っていた支援者がいました。
天使なんかであるものですか。
発達障害の人も、定型発達の人と同じように他人を傷つけることもある。
特に、想像する力の問題が、引き金になることが多い。
相手の気持ちを想像することの欠如。
自分勝手な脳内論理で善悪を判断し、独りよがりの行動を起こすことは珍しくない。
社会や周囲の理解よりも、この想像の問題が問題なのです。


支援者から「様子を見ましょう」と言われた経験は、どの親御さんもあることだと思います。
でも、その理由が「敢えて引き延ばすことで、自分たちの推奨する支援を利用してくれること」という本音を聞いたら、みなさん、どう思うでしょうか。
治る道を進む人、標準療育の道を進む人、そんなのは関係なく、どの親御さんも怒りがこみあげてくるのではないでしょうか。
自分の命を分けて生んだ子に障害があると分かったとき。
そして、その子の障害と向き合うことを決め、我が子のためにできることは何でもするという腹をくくり、頼った専門家が「様子を見ましょう」と繰り返す。


様子を見たいから、相談に行ったのではなく、何でもするし、したいから相談に行く。
「様子を見ましょう」という答えのない答えを聞くために、相談する親御さんなどいないはずです。
相談に行けるまでの心情の動きを想像するだけで、親御さんの悲しみや苦しみが伝わってきます。
完全に親御さんの心情を理解し、共感することはできなくとも、想像することはできます。
でも、もしこの想像する力に問題があったとしたら、そんな親心を踏みにじる行動をしてしまうのでしょう。
それがまさに自分の利益、自分の脳内論理のみで、引き延ばしをする行為なのです。


想像力の問題は、他人を傷つけることになり、またそれによって自分も孤立し、傷ついていくことになる。
極端なことをいえば、身の回りのこと、収入を得ること、移動や余暇のサポートは他人にやってもらうことができる。
でも、それだけでは、社会の中で生きていくことはできません。
想像する力が重要なのです。
そこに大きな問題があれば、自分をサポートしてくれる人がいなくなってしまうのです。


どこに他人のことを平気で傷つける人のことをサポートしたいと思う人がいるでしょうか。
例え仕事だったとしても、そんな人と関わりたくないと思うのが人の心です。
実際、福祉の仕事を離職する理由の中で、仕事が金銭的、体力的、心理的にきついのもそうだけれども、もうこの人達の支援がしたくなくなった、関わりたくなくなった、と言う人が多いのです。


ヒトは損得のみで行動するのではありません。
ここが分からない人は、行動療法を盲信するように感じます。
心があり、意思があり、主体性がある。
ここが分からない人は、自分の意思で選択した「治る」という道で頑張る親御さんを見て、「騙されている」「甘言につられてしまった」と解釈するように感じます。
どっかの新興宗教と違って、一度入ったら抜けられない、などということはないのです。
自分の意思で選択、行動し、育んでいるのが、多くの親御さん。
もし、良いと思った育て方が我が子に合わなくなったと感じたら、すぐに止めるに決まっています。


「治るなんてインチキだ」という人は、その治るという方法も、人たちのことも自分の目で確かめることをしない。
すべて自分の脳内でできた物語で、独りよがりのことを言っているだけ。
普通、「治るなんてインチキだ」というのは、実際にやった人達が言うものです。
「治ると言っていたけれども、全然、治らないじゃないか。子どもは成長しないじゃないか、変わらないじゃないか」という声は、実際を知らない、知ろうともしない者が言うセリフではありません。


治る道を歩んでいる本人、家族からは、「この知見と出会ってよかった」「子どもはどんどん発達するし、課題が解決していっている」という声ばかり。
そして、「インチキ」「トンデモ」と言っている人は何も知らない人であり、聴こえてくるのは、自分は、我が子は「生きづらーい」という声ばかり。
この図式を見れば、特別支援の知識があるとかないとか関係なく、想像する力がちゃんと育っている人は真実を理解することができます。


想像する力が育っていないとしたら、ちゃんと育てなきゃなりません。
「ここの場面では、こう振る舞う」などといった方法ではなく。
空気が読めないのなら、自分の感覚面を育て直す。
他人の心情、視点が想像できないのなら、まず自分の主体性を、内臓、背骨など身体面から育て直していく。
「私、発達障害があって、相手の気持ちがわからず、傷つけてしまうことがありますので」と言われても、許されないのが自然な社会。
想像力の問題は、自立を妨げる本丸なのです。

2018年10月9日火曜日

「問題行動は無視」は、半分あおい

「問題行動は無視」という標語は、腐るほど、耳にしました。
で、この「問題行動は無視」というのは、ある部分は合っていて、半分足りません。


自閉症児施設で、かつ、強度行動障害の人達の支援をしていましたので、問題行動と向き合うことが仕事とも言える状態でした。
問題行動に対して、その知識や技能がない、何ら手立てが浮かばない、というのでは、仕事ができませんし、何より自分の身を滅ぼすことにもなります。
ですから、その当時、良いと言われているものは、すべて学びましたし、有休は使えなかったので(そもそも存在していない!?)、休みをどうにかやりくりし、全国どこでも行って研修を受けました。


今から10年以上前になるその当時から、「問題行動は無視」という標語はよく耳にしていました。
でも、これは問題行動なら何でも無視すればいい、という話ではありませんし、大事な後半部分が抜けているのです。
問題行動は無視ししても、良くなることはありません。
いや、良くなることなんか、あり得ません。
私が施設で働いていたときも、そんなことをする人なんか、現場に一人としていませんでした。
もし、それをやっていたとしたら、支援者は死んでいます。


私も、臨時で急遽、いつもとは違う寮に入ったとき、ちょっと気を抜いた瞬間、ある利用者の人が後ろ向きに倒れ掛かってくることがありました。
その利用者は、体重100㎏オーバーで180㎝以上の大きな人。
その人の側を通った瞬間、倒れ掛かってきたので、そのまま、下敷きになりました。
一人勤務でしたし、持ち上げることも、抜け出すこともできない状態でしたので、こりゃあ、終わったかな、とも思いました。
でも、この利用者さんが男性だったから、助かった。


まあ、このように飛んでくるのは大男だけではなく、手も、足も、食器も、家具もです。
噛みつき、頭突きは日常茶飯事。
だから、現場の職員は、問題行動を無視しないし、そもそも単に「無視しましょう」という話ではなかったはずです。


私が学んだ知識としても、現場での経験としても、他人を巻き込む問題行動はコミュニケーションとして捉えます。
どういった意図を持ち、相手に向かって来ているか、その意図、伝えたいことを確認します。
そのとき、例えば、「喉が渇いた」「水が飲みたい」という要求の意図で、噛み突きを行っていたとしたら、噛み突かれて、すぐに水を手渡すのではなく、噛み突き自体には要求に応えるという反応はしないで(ここが無視)、コップを持ってくる、蛇口を指さしする、「ミズ」と言葉で言うように促す、といったように、適切な要求の仕方を教えます。
つまり、他人に向けられた問題行動は、コミュニケーションと捉え、その意図を分析し、適切な行動を教えていく。
だから、「問題行動は無視」は、部分的に合っていて、教える部分が表現されていないので足りないのです。


あと、問題行動と一口に言っても、状況や本人の発達状態によっても様々です。
上記のような他人を巻き込まない問題行動だってある。
たとえば、排泄物をいじったり、衣類や置いてある物を破壊したり、叫んだり、自傷したり、不適切なものを食べたり。
こういった一人で完結する問題行動は、背景に虫歯や病気が隠れていたり、睡眠や食事、栄養、トラウマ、フラッシュバックなどが影響していたり、感覚や内臓、身体、動きなどの発達課題をクリアするための自らの育ち直しだったりします。
当然、こういった問題行動に対処、直していくには、細かい分析と根気がいる指導、支援が必要です。


「問題行動は無視」が現実を表していないのは、時間を部分で区切れない入所施設の職員と親御さん、家族は分かっています。
逆に言えば、こんなことを信じるのは、現場を知らない支援者、情報を得ただけで勉強した気になっている支援者くらいなもんです。
というか、一般的な感覚なら、「無視しても意味ないでしょ」「ちゃんと教えなきゃダメでしょ」となる。
というか、特別支援に少しでも関わっているのなら、これだけ問題行動に困っている本人、家族、支援者がたくさんいるのだから、無視だけでうまくいかないのは、考えれば分かるはず。
問題行動を無視しただけで解決するなら、専門家はいらない。


「問題行動は無視」という言葉を聞くと、小学校のクラス目標を連想します。
先生役の専門家が、「問題行動は無視ですよ」と言う。
それを児童役の支援者たちが「分かりました」と言って、それに沿った行動をしようとする。
何故、それが正しいのかを教えない先生と、「先生が言ったから」と理由を深めていこうとしない児童。
そんな姿が、「問題行動は無視」と聞いただけで、実際にやってしまっちゃう支援者たちと重なります。


「問題行動は無視」もそうですが、他の療育方法でも、なんだか表面的な意味で捉え、しかもそれを頑なに信じ、実行していることが少なくないように感じます。
どうも支援者というのは、自分の頭で考えるのが苦手なようです。
誰か有名な先生が言っているから、正しいみたいな人が多すぎです。
多分、支援者の多くは、発達障害の人と部分的にしか接していないからでしょう。


学校や療育機関、児童デイなど、問題行動を無視していても、時間が経てば、子ども達は帰っていきます。
だから、「その時間だけでも」とか思って、無視し続けることができてしまう。
でも、家庭ではそうはいかない、入所施設も。


私が施設職員だった当時ではありますが、行動障害がある子ども達は学校に行っても、教室の隅に作られた小さな囲いで一日を過ごし、また移動や活動をするのにも、横に先生が付き、でも、一言も話さず、関わらず、そんな学校生活を送っていました。
いくら「無視しだけしても仕方がない」「ちゃんと学習、勉強させてください。正しいことを教えてください」と言っても、施設職員の言葉に耳を傾ける人はいませんでした。
学校で刺激のない時間、また関わろうとしても無視され続けた子ども達は、いくら施設で正しいことを教えようとしても、一日の感情を爆発させるだけで、そしてその爆発し散らばった感情、心身を拾って集めるだけで、学びが入る余地がなかったのです。


あるとき、研修で招かれた講師が、エラソーに行動障害の支援の仕方について語ったのです。
でも、その人に訊いたら、家族に発達障害、行動障害の人がいるわけでも、入所施設で働いた経験があったわけでもなかった。
つまり、お勉強として、たまたま関わっているだけ、研究対象になっただけ。
別に、行動障害を持つ人じゃなくても、イルカでも、モルモットでも、良かったのです。
そんな人が語る支援方法を、そのまま信じる方も悪いと思います。
誰が言ったかではなく、自分がどう感じ、どのように考えるか。
それこそが大事なことですし、一人ひとり違うヒトと関わり、支援し、育む人達は、自分の頭で考える癖と他人の言っていることを一度疑う癖を持つ必要があると思います。


本を読んだだけで、研修に行っただけで、分かった気になっている。
そんな人に、良い支援ができるはずはありませんし、人を育てる仕事はできません。
別の言い方をすれば、そんなレベルで支援者面ができるのが、支援者という仕事なのです。
いろんなことを疑ってみる。
そして、自分の頭で考えてみる。
わからなければ、その本人に会いに行き、実際の支援の様子、考え方をこの目で、この身体で感じてみる。


リアルを拾う。
想像は負ける。
好きなやつがいたらガンガン会いに行く。
空想の世界で生きているやつは弱い。
心を動かされることから逃げてはならない。
そこに真実がある。


それをやらない支援者がいたとすれば、そういった支援者が多数だとしたら、支援者も、特別支援の先生も、介護者になるのだと思います。
発達障害の人も、行動障害を持つ人も、必要なのは介護をしてくれる人ではなく、正しいこと、適切なことをしっかり教えてくれる人なのです。

2018年10月7日日曜日

「現状維持」という負の遺産

未だに「現状維持できていたら、良い支援」と言っている支援者がいるそうですね。
それって、私が学生時代に、支援者たちがよく言っていた言葉です。
脳機能の障害から神経発達の障害だと明らかになった今でも、そんなことを堂々と面前の前で言える根性がすごいと思いますよ。
だって、「私には現状維持できることで精一杯ですから」と言っているようなものだからです。


この発言を最初に聞いたときは、感じませんでしたが、仕事を続けていく中で、この言葉の持つ意味の恐ろしさを感じるようになりました。
「現状維持を目指す支援」とは、どういった支援のことでしょうか。
ヒトは現状維持できない生き物です。
外面的には変化はないように感じますが、その内部を見れば、1秒たりとも同じ状態はないのです。
特に、神経発達が盛んな時期を過ごす子ども達は、環境から伝わってくる刺激に反応し、発達と成長へ向かって常に変化し続けています。


ということは、「現状維持を目指す支援」とは刺激を与えない支援のことを表しています。
なるべく変化はなく、いつもと変わらない一定の刺激を与える、または刺激自体を調整し、遮断してしまう。
これは、「いつも同じ日課、スケジュール、流れを崩さない」といった独自の解釈で構造化された支援を続けていた人達の姿と重なります。
あの当時、「現状維持」と言っていた支援者たちは、みんな視覚支援、構造化信仰の人達だったので、自分たちの支援の妥当性を「現状維持」という言葉で表していたのでしょう。


「現状維持」を鵜呑みにしていた人達は、どうなったか。
一日、一日をなるべく変化がなく、混乱のきっかけになるような刺激をすべて排除していった。
感覚過敏で苦しまないように、いつも同じ食事を用意し、苦手な音が聞こえてこないように神経をとがらせ、本人を誘導していった。
その結果、当然、発達の機会は奪われたために課題は残りっぱなし。
現状維持を目指しいても、どんどん課題は大きくなるばかり。
結局、現状維持は、生きづらさの現状維持という意味になったのです。


名のある支援者の「現状維持」という言葉を聞いて、それを信じた親と支援者。
でも、この人達には想像する力が足りなかった。
その支援者の言葉の裏に隠された意味を。
そして、自分の目の前にいる子どもが、その言葉を聞いたら、どう思うのか。
「私にできることは、あなたの今の状態を保つことよ」と言っている人の支援を受け続けないといけない子の絶望感を。
私が子どもだったら、自分の可能性を否定する人、信じない人の元で生きていくのは、生きづらさが変わらないことと同じくらい辛かったと思います。


「現状維持」という言葉は、子どもの視点に立てば、恐ろしい言葉。
でも、視点を変えれば、もう一つの恐ろしさがあります。
それは、一般の人たちに与えるイメージがもたらす恐ろしさ。


身近に発達障害の人がいない、特に発達障害を意識して生活していない人が、ぽっと「現状維持」という言葉を聞いたらどうなるでしょうか。
「発達障害の人達は、現状維持を目指すことしか望めないような人達なのか」と、まったく変化も、成長も、発達もない人達だと誤った印象を持たれるかもしれません。
本人たちが望んでいる特別支援教育や福祉サービスなども、介護の名前が変わっただけという印象を持たれるかもしれません。
そうなれば、「現状維持」と言っている支援者、親たちだけではなく、一般の人達からも、その人の持つ発達、成長の可能性を否定されることになります。
こんなに悲しいことはありません。


これから、時代が進み、どのような未来がやってくるか、わかりません。
超高齢化社会が続いていけば、国としての余力も、成長も乏しくなっていくでしょう。
大きな自然災害、経済の混乱、国同士のトラブルに巻き込まれたり、当事者になったるすることも十分に考えられます。
そんなとき、「どうせ、現状維持しかできないのなら、そこまで予算も、人も割く必要がないんじゃないか」という意見が出てこないとも言えません。
現在でも、早期療育の効果に対する疑問、特別支援教育、福祉サービスに対する疑問が上がってきているのですから。
歴史を振り返れば、可能性がない人、乏しい人とみなされた人たちには、 支援や制度の充実ではなく、効率化という方向への道が用意されてきたのです。


「現状維持」という言葉の持つ恐ろしさとは、可能性の否定なのです。
本人の発達、成長する可能性の否定。
彼らを支援していく可能性の否定。
本当は、「現状維持」という言葉しか出てこないような支援者、実際、現状維持することもままならない支援しかできていない者たちが自らの至らなさを謝罪する必要があるのに。
いつしか、本人の可能性の問題としてメッセージを送り続けている結果になっているのです。


社会の空気、流れを変えるのは、当事者の方達だと考えています。
決して、現状維持がゴールとなるような私達ではない。
きちんとした育み、サポートがあれば、どんどん発達も、成長もしていき、自立した人生を送ることだってできる。
そういったメッセージを言葉だけではなく、行動として、実際の姿として見せていくことが、未だに「現状維持」などと言っているような人達を退場させることと、これから生まれてくる子ども達の未来を後押しすることになると思います。
「発達障害の人達は、発達もするし、成長もする。仕事もするし、自立もする」
そんな風に思う人達が増えてくれば、支援というバトンを次世代につなぐことができる。
「現状維持」などという言葉を、これ以上、残しておくわけにはいかないのです。

2018年10月6日土曜日

「治る」は甘い言葉なのか?

睡眠障害や行動障害で悩んでいた子が、寝られるようになり、落ち着いて、みんなと活動できるようになった。
「一生、支援を受けて生きる人です」と言われていた子が、クローズで一般就労して何年も経っている。
支援級の子が、普通級で学べるようになり、手帳を持っていた子が返納している。
そういった姿を間近で見てきた人達が、その様子を見て「治った」と言う。
それのどこが甘言になるのか、わかりませんね。


何らかの理由から、神経発達にヌケや遅れが生じた人達がいる。
だから、そのヌケや遅れの根っこを確認し、そこから育て直していけば、神経発達が起きるでしょうし、障害と言われている状態から飛びだして発達していく人がいても不思議ではありません。
そういったことが想像できない方が問題な脳みそなんだと思います。


治った本人、治った人を傍で見てきた人が「治る」と言うと、その歩みに興味がひかれ、自分でもやってみよう、そのアイディアを取り入れてみようとする人達が出てくるのは自然な流れです。
でも、「自分も治りたい」「我が子も治ってほしい」と願い、治る道を選択する人達を見て、「甘い言葉につられてしまう可哀想な人」というように捉える人がいます。
これまた想像力の欠如と言わざるを得ません。


「発達障害は脳の機能障害だから一生治らない」と思うのも、考えるのも、信じるのも、個人の自由です。
自分自身の、我が子の課題が、ずっと直らず、改善せず、むしろ現状維持もできていない、だからこそ、治るなんて嘘だ、と思いたいのはわからなくもありません。
でも、自分の見える範囲以外にも、事実があり、現実がある、という想像ができないのは、大問題だと思います。
というか、それでは人生、生きづらい。
というか、見える範囲がすべての人間、想像する力が乏しい人間には、人を育てることはできません。
できるのは、現状維持のみ。
最初から、他者の視点を想像できない人間には、育つも、発達も、治すも、生まれる余地がないのです。


「治る」に惹かれ、心から望む本人と親の自然な内面の動きが想像できず、あたかも「治るなんて現実的ではない言葉に騙された可哀想な人達」と捉えてしまう人。
その人が間違えているのは、他者の心情だけではなく、「治る」が甘い言葉だと捉えていることもです。


本人や親御さん、家族にとっては、「治る」は希望の言葉になると思います。
しかし、決して甘い言葉にはなりません。
むしろ、ある意味、厳しい言葉でもある。
何故なら、「治る」は、「あなた次第」と言っているのだから。


想像力が欠如した人というのは、「治る」と言っている支援者に騙され、お金と労力、時間を獲られてしまう、と誤った解釈をしています。
実際、治す支援者は何万も、何十万も、料金を要求しないで、一般的な料金で経営しています。
逆に、治さない支援者の方が、50分、1万5千円とか、アセスメントだけで何十万円も請求している。
こういった事実を見ようとしないのも、いつまで経っても想像力が発達していかない理由の一つですが、何よりも誤った解釈の始まりは、治すのは本人であり、家族ということなんです。


「治る」と言っている人達の中に、私が「治す」と言っている人はいないのです。
ここも想像すればわかることですが、本人と家族が動かないと神経発達など起きるわけがありません。
気功でも、治る塩でも、何か他者が与え、勝手に神経発達が起きるのなら、こんなラクなことはありませんし、世の中の発達障害の人、みんな治って、いなくなっているはずでしょ。
神経発達を促すには、本人が行動し、家族が育んでいかなければならないのです。


そういった意味で、「治す」は厳しい言葉になるのです。
本人は受け身ではなく、主体的に行動していかないといけませんし、コツコツと積み重ねていく必要があります。
親御さんは、課題がクリアされるまで試行錯誤を続け、育み続けなければなりません。
ある意味、「治らない」というままの方が、「治る」という言葉と出会わない方が、ラクな場合もあるのです。
だって、支援者という他人に任せられるから。
治らなくて、問題がそのままでも、障害のせいに、支援のせいに、社会のせいにできるから。
少しでも成長が見られれば、頑張っている親として見られ、何か起きても自分は責められない。


私はいつも思います。
「治りたいんです」と言われる方、治る道を選択し、歩んでいる方は、本当に強い人間だと。
朝、学校に出したら、夕方、児童デイの車が家の前に着くまで、子の責任を持たなくてもよい選択もあったのです。
何かトラブルが起きれば、「うちの担任、普通級から来たばっかりだからダメなんだよ」「この子達が生きづらいままなのは、多様な子の個性を理解できない社会が悪いんだよね」と言っていられたのです。


でも、自ら子の人生、未来に責任を負うことを選択し、そして日々、試行錯誤と地道な積み重ねの道へと歩まれた。
きっと我が子は治ると信じていても、それがいつなのか、必ず来るかはわかりません。
そんな不安も、心細さもある道を、我が子の視点を想像しながら歩んでいく。
「この子自身が治ることを望んでいるし、大人になった我が子は、治っている方が幸せになる」と。


治る道を選択した人達は、決して甘言につられた弱い人達ではありません。
むしろ、我が子の未来も、自分自身の人生も、受け止める覚悟と責任がある強い人達。
本当に強い人間は、弱い人間のことも、ちゃんと想像できるものです。
弱い人間こそ、強い人間のことを想像することができない。
弱い人間は、みんな弱い人間であって欲しいと願うものです。
弱い人間に合わせて、自分も、我が子も、弱くなる必要はありません。
厳しい道だとしても、力強く歩き続けた先に、発達と成長、自立と幸せが待っているのだと思います。
弱い人間が望むように、幸せの方からやってきたはくれないのですから。

2018年10月5日金曜日

障害者雇用の水増し問題で、まだ頭を下げていない人達がいるのでは?

なにか勘違いをされているのではないでしょうか。
確かに、障害者雇用の水増しはいけないこと。
でも、雇用する側ばかりが責められている論調には納得ができませんね。
水増しは表面の問題。
その下にある問題の根っこは、特別支援でしょ、ギョーカイでしょ。


「雇いたくないな」と思わせるような人ばかりを送り込んできたのは誰なのか。
それ早期発見だ、それ早期療育だ、と言って、発達障害を持った人達を囲いこんできたのは誰なのか。
「障害の特性に合わせた専門的な療育、支援を受ければ、自立するんです。彼らも働けるようになるんです」と言っていたのではないでしょうかね。
でも、実際は一般就労しても仕事が続けられないし、そもそも大学出るような人にまで福祉的就労を勧める始末。


何のため、10年も、20年も、療育や支援、服薬を続けてきたのでしょうか。
みんな、こうやって専門的な支援や教育を受けて頑張れば、きっと自立できる、仕事ができる、と思って歩まれてきたのだと思います。
それなのに、「一般就労?無理ですね。みんな、すぐに離職しますし。それより無理して二次障害になったらどうするんですか??」と言って、はい、終わり。
結局、一般就労して自立していく人達は、支援のおかげじゃなくて、本人と特に親御さんが頑張ってきたご家庭ですね。


知的障害、特性の重い軽い、早期から療育を受けたかどうか、職場の理解があるかどうか、そんなのは、自立や一般就労を左右するような要因にはなりません。
何よりも、本人が自立したいと願い、親御さんもそれに向けて、幼少期からしっかり育み、準備をされてきたかどうかが一番大きな要因です。


普通に考えて、「特別支援にお任せしておけば、将来、就職も、自立もさせてくれる」と思っているような人では無理に決まっています。
働くのは本人ですし、働く土台は、本人の身体だから。
利用してくれることで儲かる仕事の人達が、やすやすと手を離してくれるわけはありません。
それに、もう特別支援が始まって10年以上経つのですから、支援を受け続けてきた人達の中から自立できる人も、一般就労できる人も少ないという事実が明らかになっています。
そもそも特別支援、特別支援教育がうまくいっていたら、このたびのこれ程大きな水増しは起きなかったのではないでしょうか。


ですから、水増しした行為は責められても、公官庁が、雇う側がすべて悪い、みたいなことはおかしいと思うのです。
財源や権限を要求するときには、こぞって出てくるギョーカイがダンマリしています。
誰か、「雇いたくないと思わせるような支援、療育しかできていなくて、ごめんなさい」というような筋の通ったギョーカイ人はいないのでしょうかね。
まあ、いないか。
彼らの主張の根底は、「支援と理解が足りないから」ですから。
根っこがヒトのせい、他人のせい、僕のせいじゃないよ、の人達には、本当の支援はできないでしょうし、他人様の人生と向き合う気概はない。


国や行政、社会にいろんな要求をしてきたギョーカイ達、そして実際に財源や権限を受け取り、本人たちと関わってきた支援者たち。
本当に頭を下げないといけない人達は、この人達だと私は思います。
社会のみんなから預けられたお金や権限を、ギョーカイはこれまでどのように使ってきたのでしょうか。
12年間の特別支援教育は、福祉につなぐための時間をただ埋めるものだったのでしょうか。


結局、支援がなければ働けない、理解がないと働けないと言うのなら、「そもそも自立は無理です」と言っているようなもの。
「自立は無理」と言っている人達に、何を期待するのでしょう。
だったら、特別支援なんか止めてしまって、その分の財源と人材を本人と家族に渡せばよいのです。
ヘンに間に支援者が入るんじゃなくて、本人と家族が人生を設計していけば良いのだと思います。


子育て中の親御さん達に向けて記します。
今、一般就労して働いている人達の多くは、クローズの人達。
つまり、発達障害の特性は持っているし、持っていたかもしれないけれども、子ども時代に課題はクリアし、就職するときには周囲に問題があると認識されないくらいまで治っている人。
就職や自立を左右するのは、子ども時代の過ごし方であり、親御さんの子育てにかかっています。
実際、一般就労している人達の親御さんは、子育てを頑張ってこられた人達。


将来、我が子が働いている姿を思い浮かべ、今の食事ではどうか、生活ではどうか、体力ではどうか、コミュニケーションではどうか、と常に考え、試行錯誤されてきた方達です。
決して、療育熱心だったから、障害、支援に対する知識が豊富だったから、ではなくて、障害の有無に関係なくヒトとして大事な育ちを諦めず、コツコツと積み重ねられた、それだけ。
障害や特性が、我が子の育み方を変えたとしても、ヒトとして自立するために必要なことは、定型の子と一緒。
「障害があるから、ヒトとして自立するために必要なことはやらなくていい。そこは免除ね。そこは特別支援が担ってね」という姿勢では、子が自立できないのは当然です。
自立する力がない人は、自立できない。
働く力がない人は、働くことができない。
これって至極当然のことだとは思いませんか。


療育の中には、神経発達はありません。
神経発達とは、日常生活の中にあり、家族との交流の中に存在するのです。
その子の土台を作るのも、未来を作るのも、家庭が舞台だと思います。
今日できることからやっていく。
自立に必要なことは教え、育てていく。
家庭、子育てという基盤がしっかりしているからこそ、子ども達は上へ上へと大きく育っていけるのだと思います。


子どもの姿を思い浮かべながら、夕食の献立を考えるのも、思いっきり一緒に遊び、心身共に交わることも、発達援助であり、自立への後押し。
何も特別なことはありません。
特別にしたいのは、特別なことのように見せることで儲かる人達なのですから。

2018年10月4日木曜日

今を切り取った育みではなく、明日へ、未来へと続いていく育みを

開業当初から幼い子を持つ親御さんからの相談のほとんどが「言葉の遅れがあるんです」というものです。
「うちの子、なんか違うかも」という感覚は、みなさん、それよりずっと前に持たれています。
でも、「言葉が出ない」「同世代の子と比べて発語が遅れている」という我が子の姿、事実が、その違和感を確信へと変えるきっかけになっている場合が多いと感じます。
言葉の遅れが、親御さんを相談へと向かわせる一つの大きな出来事になるのは、今も、昔も変わりがないと思います。


相談や発達援助を依頼される親御さんの多くは、私のところに来る前に、公的な機関で相談、療育を受けられています。
当然、そこで言葉の発達が促されたなら、私のところに来るわけはないので、子どもさんや親御さんのニーズが満たされなかったということになります。


私の仕事は、発達のヌケを見つけ、言葉の遅れと繋がっている根っこを育て直すことですから、そういった公的な機関で、どのような相談や療育を受けたのか、敢えて知る必要がないものです。
しかし、どうしても話の展開として耳にすることになります。
もう最近では、なるべく聞かないようにしてるのですが…。


やっぱりここでも、時間が止まったまま、ずっと昔と同じことが繰り広げられています。
言葉が出ないから、たくさん話しかける、一音ずつゆっくり話すように促す。
まったくもって発達の視点が抜けた療育ですね。
言葉に課題があるから、言葉でどうにかしようとする。
これは誰にでもすぐに思いつくアイディアです。
そんなのは言われなくてもやっています、親御さんは。


一方で、「お母さん、気にし過ぎですよ」「男の子は、一人っ子は、そんなもんですよ」「成長は、一人ひとり違うから、焦らないで」という下手くそなカウンセリング。
そりゃあ、10年も、20年も前の世代の親御さん達には通用した手でしょうが、今の親御さん達はスマホで瞬時に情報を集めている世代ですよ。
相談機関に向かう前に、ネットで知識も、実際の子育て、当事者さんの様子も調べ尽くしている。
調べ尽くし、ヘタな支援者、相談員より情報と知識を持った親御さんに対し、気休めは通用しません。
ネットで得た情報と同じか、それ以下の支援者というのは、ただただ不信感を持たれるだけの存在になってしまうのが今の時代というもの。
これからどんどん淘汰されていく時代になるので、ギョーカイにとっては厳しい未来が、本人と家族にとっては素晴らしい未来がやってくると思いますね。


チンパンジーがしゃべらなくて、ヒトはしゃべる。
子どもが言葉を話すようになる前には、古今東西、今も昔も、共通した発達過程を通る。
この2点だけで、言葉をいじくりまわしても、言葉が出るようにならないのは明らかです。
大事なのは、言葉が出るように促すのではなく、言葉が出る身体に育てること。
言葉が自然と出るような身体に育っていないのに、無理やり声を出さそうとしても、お互いに辛いだけですし、遠回りもいいとこです。
足りないのは言葉ではなく、言葉を話す準備。


以前、「食事で発達障害を改善する」というアプローチを、全然治りも、改善もしていない人達が批判していたのを目撃しました。
目の前の子を良い方向へと導けない人達が批判するということは、もしかしたら「食事で発達障害を改善する」と言っている人の方が正しいかも、と思い、そこから情報を集め、勉強したことがあります。


そこでも感じたのですが、食事は生きる上でも、発達成長する上でも土台には違いありませんが、目指すべきド真ん中ではないということ。
つまり、何らかの理由から、発達障害の人が栄養素を十分にとり込めていない、吸収できていないことは十分に考えられることではありますが、じゃあ、栄養を十分に与えれば万事解決とはならないし、そこが目指すべきところでもないということです。
やっぱり栄養素を普通の食事からちゃんと吸収できる身体に育てることが一番ですし、偏食が合って栄養が偏っているのなら、それを治すことが先だと思いました。


偏食がある子はもちろんのこと、受精から現在に至るストーリーの中で「栄養」が連想できる子の場合には、食事のお話、アイディアを提案することもあります。
実際、自分が子どもだったら、その食事、栄養じゃあ、心身共に落ち着かないわ、というご家庭があるのも事実。
でも、私の捉え方、考え方としては、食事、栄養は、より良く神経発達を促すための補助。
大事なこと、私が目指す中心は、その子の神経発達を後押しすることで、生きやすい身体、学習できる身体、自立できる身体を育てていくことです。
生きていく上で土台となる身体をしっかり育てるためのアイディア、後押しの一つとして栄養がある、といった捉え方をしています。


言葉が出ることも、十分な栄養素をとり込むことも、今、必要なこと。
でも、受精から現在、そして未来という一人の人間の物語で見れば、それは部分であり、ゴールではありません。
大事なことは、その子の未来へと繋がる土台作りです。
土台がしっかり育つから、次の発達へと進むことができる。
土台がしっかり育つから、自分の人生を自分の足で歩いていくことができる。
未来の我が子に、言語指導も、配慮された食事も、サプリも、与え続けることはできなくても、言葉が出る身体、栄養をとり込める身体が育めれば、その子、自ら発達、成長していくことができます。


今を切り取った育みではなく、明日へ、未来へと続いていく育みを。
表面を見るのではなく、根っこを見る。
それこそが発達援助の中心であり、一番の近道だと私は考えています。

2018年10月2日火曜日

そのエビデンスとは、科学なのか、宗教なのか

エビデンス原理主義の人達を見ると、どうしてそんなにエビデンスを気にするのかが、ずっと不思議でした。
多分、そのデータが意味するところよりも、宗教に近いんだろうな、と解釈していました。
そのエビデンスの元になる論文をしっかり読んでいる人はほとんどいないでしょうし、「誰それが言っているから」くらいなもんでしょ。
でも、ある本を読んでいて、それまでの私の解釈が違ったのかも、と思うことがありました。
多くの人は、「エビデンス=効果がある」と思っているのでは?と気が付いたのです。


学生時代、私は教育心理学が専門でした。
心理学ですから、統計についても学びます。
研究結果を評価するには統計学の知識が必要ですし、研究論文を読むのにも必要な知識です。
ちなみに卒論のテーマは、「生活習慣が心身の健康に及ぼす影響」というので、どういった生活習慣が、どのくらいの頻度から、心身へ影響を与えるのかを研究しました。
一言で言えば、生活習慣の中で、心身と関係があるものを探したのです。


こういった経験と知識は、就職してからも活かすことができ、いろんな「効果がある」と言われている療法の論文を読んで勉強することにつながりました。
今で言う「エビデンスのある療法」の元になった論文は、内容は違えど、学生が学ぶ基本的な統計学で進められたものがほとんどでした。
ですから、特定の介入と、介入後の変化の関連性を調べているのです。


とってもシンプルな表現をすれば、こうです。
Aという方法があります。
グループを二つに分けます。
1つのグループは何もしない、もう1つのグループはAという方法を行います。
結果、何もしないグループと、Aという方法を行ったグループに違いがあるのか?を調べます。
Aという方法を行ったグループに変化があって、それが偶然の違いじゃなければ(←ここで統計学)、じゃあ、Aという方法は、〇〇という効果があるよね、っていうこと。


私の卒業論文もそうでしたが、特定の方法や活動が、個人に変化を与えることは確かめられます。
でも、どうして変化が起きたのか、何が変化の元、理由なのかは分かっていないのです。
よくエビデンスが「科学的根拠」と表現されていますが、「全然科学的じゃないじゃん」「関係性があっただけしかわかってないじゃん」というもの少なくないのです。


観察する目と治す腕のない支援者というのは、エビデンスにすがるものです。
実際、目の前の人が発達、成長し、可能性を広げて自立できれば、それでいいのです。
そういった支援者は、「私のやる方法にはエビデンスがあるから」「エビデンスが無い方法は、インチキだ」と言います。
でも、じゃあ、その根拠、理由を尋ねて、答えられるか、といったら、難しいでしょう。


私が、「『エビデンスがある方法』と言われるが、どうして〇〇さんに効果があると言い切れるのですか?」と尋ねると、「だって、エビデンスがあるから」と返ってきました。
でも、「エビデンスがあるから」は、全然答えになっていないんですね。
だって、「その介入と介入後の変化には関係がある」と言っているだけだから。
関係があるのはわかったから、どうして〇〇さんに効果があると言い切れるのか、それを知りたかったのですし、それが分からないままじゃ、同意することはできませんね。


巷にあふれる「エビデンスがある方法」というのは、やると変化があるのはわかるけれども、どうして変化が起きたのか、本当のところは分かっていないものばかりなんですね。
しかも、その「関係性があります」と示された研究だって、欧米の会ったこともない子ども達に、発達障害の人達に「関係がありました」ということ。


先日書いたブログの内容の通り、住む場所が違えば、環境も、育ちも違うものです。
同じ日本でも、北海道と沖縄の子ども達の発達の仕方、適した発達援助の仕方は異なるはずですし、実際、私の感じ方、助言の仕方に違いがあります。
気候や風土、食べ物が、その子の発達と関係するのは当然ですし、同じ地域に住む子でも、もちろん、兄弟であっても、その発達の仕方、環境からの影響の受け方は違います。
なので、文化も、風土も、環境もまったく異なる欧米の子ども達、発達障害の人達、それも十人とか、数十人とかの単位で「この方法と、その後の変化には関係性がありますよ」と言われても、どこまで信じてよいものかと思いますし、目の前の人にそのまま当てはめて考えてはならないと捉えるのが妥当だと思います。


エビデンス原理主義の人達が、宗教を連想させるのは、そこにサイエンスがないからです。
科学的根拠というのなら、どうして効果があるのか、特に発達障害の人たちへの介入方法だとしたら、こういった理由で神経発達に影響を与え、結果的に課題が解決する、より良い発達へと繋がる、と明らかにできなければ、目の前の人に「絶対に良い」「効果がある」とは言い切れないのです。
ですから、ナントカの一つ覚えのように「エビデンス」「エビデンス」と言っている支援者が介入しても、全然良くならない。
挙句の果てに、「僕の療育方法はエビデンスがあるし、資格も取ったのにおかしいな」なんてモンダイナ思考になり、ちゃんと効果が出ないあなたが悪い、と本人や家族を責める始末。
本当の意味がわからないのに、「エビデンスがー」と叫ぶ人達を見ると、蟹の甲羅を借りるカニカマ支援者みたいです。


エラソーに「エビデンス」と言っている人達も、その意味が分からず、ただやっているのが現実です。
それだったら、何を信じ、どう行動するのが良いか。
その答えを知っているのは、自分自身であり、目の前にいる我が子。
自分が良いと感じる方法を、どんどん取り入れて、その人オリジナルの方法を創造していけばいいのです。
そのためにも、子どもの日々の変化をしっかり見つめつつ、いろんなアイディア、知見を求め、実際に手と足を動かすという行動を起こすことが重要です。


パソコン画面で検索してるだけでは、地域にある機関に外注しているだけでは、「エビデンスがあるって言ってたもん」と言って、自分の頭で考えずにただ特定の方法をやっているだけのおさぼりさん達と同じになってしまいます。
「治ったらいいな」「問題が解決したらいいな」では、何も変わっていきません。
自分で行動するから、子どもが変わっていく、家族が変わっていく、現状が変わっていく…そして未来が変わっていく。
そんなことを、勉強会が開催されれば、いつも全国から大勢の方達が集まってきて、終了後は参加者の皆さまの熱気と変化に包まれる様子を見聞きして、私は感じたのでした。

2018年10月1日月曜日

母体のような変化の少ない環境

構造化された支援は、愛着障害と親和性が高い。
愛情や信頼など、手に取ることができないものを実感できない支援者は、見える形の支援を作り続けることで、愛情や信頼を確かめようとする。
愛着という土台が脆い親御さんというのは、変化に対処するための支援を、いつしか変化が生じないための支援へと変えていく。


我が子のもとに変化が訪れようとすると、必死にその変化から遠ざけようとする親御さんがいる。
我が子が不調になるたびに、以前の落ち着いていた頃の環境に戻そうとする親御さんがいる。
そんな親御さんと接すると、まるで我が子をお腹の中に戻そうとしているかのように見えてくることがある。


ヒトは十月十日、変化の少ない母体の中で心身を育んでいく。
親御さんの本能が、我が子に生じた胎児期の発達のヌケを見抜き、変化の少ない環境の中で、もう一度育もうとしているように見える。
だが一方で、親御さん自身が「自分の親の母体に戻りたい」、そんな想いから変化の少ない環境を求める場合もあると感じる。


母体のような変化の少ない環境は、生きていく上で土台となる部分をじっくり育て、発達させるには適した条件だといえる。
特定の刺激を十分に味わい尽くすことができるから。


変化の少ない環境が育む環境だとしたら、実生活の中で「変化のない環境を」「構造化された環境を」と求めることが違和感に感じる理由もはっきりしてくる。
学校や職場、社会の中は、発達のヌケを育む場所ではない。
言語獲得後の発達、成長の場ではあるかもしれないが、言語以前の部分を育て直すことが主ではない。
言語獲得後の学びと育ち、そして身につけ、磨いた資質を活かし、実践する場である。


私は、あくまで母体は親御さんであり、家族、家庭なのだと思う。
つまり、変化の少ない環境を用意できるのは、親子の関係の間だけであり、家庭の中だけの話ということ。
「学校が構造化してくれない」「行事に参加させようとする」「変化に対する配慮が足りない」と言う人達がいる。
「学校でも、児童デイでも、療育機関でも、発達のヌケを育て直すことをやってくれたらいいのに」と言う人達がいる。
しかし、学校は学校の目的があり、先生も一人ひとり違う。
その多様性こそ自然な姿であって、多様な刺激だからこそ、育つ部分がある。
家庭の外を母体化するのには、賛同できない。


愛着という土台に脆さを抱える人が、変化の少ない環境を求め、引き寄せられていくのはわからなくもない。
しかし、学校や職場、社会に変化の少ない環境を求めることと同じように、それは甘えなのだと思う。
変化に苦手な我が子だから、社会に変わることを求める。
本当は、変化に苦手な我が子を育てる方が先なのに。


私に「発達のヌケを育て直してほしい」という依頼がくることがある。
ひと様の子を私のおなかの中に入れて育てることはできない。
それに子育ての丸投げはいただけない。
親子で育む部分を、他人に外注する人が増えたのも、その違和感を感じなくなったのも、昨今の治せないことによる発達障害の増加に繋がっていると感じることもある。


胎児期から始まる発達のヌケ、遅れは、本人か、親御さんにしか育て直すことができない。
他人が治し、育てられることがあるとすれば、言語獲得以降の発達と成長だろう。
社会に変化の少ない環境を求めるのも、他人に言語以前の発達のヌケ、遅れを育て直してもらおうとするのも、甘えがその根っこにあるように思える。