母体のような変化の少ない環境

構造化された支援は、愛着障害と親和性が高い。
愛情や信頼など、手に取ることができないものを実感できない支援者は、見える形の支援を作り続けることで、愛情や信頼を確かめようとする。
愛着という土台が脆い親御さんというのは、変化に対処するための支援を、いつしか変化が生じないための支援へと変えていく。


我が子のもとに変化が訪れようとすると、必死にその変化から遠ざけようとする親御さんがいる。
我が子が不調になるたびに、以前の落ち着いていた頃の環境に戻そうとする親御さんがいる。
そんな親御さんと接すると、まるで我が子をお腹の中に戻そうとしているかのように見えてくることがある。


ヒトは十月十日、変化の少ない母体の中で心身を育んでいく。
親御さんの本能が、我が子に生じた胎児期の発達のヌケを見抜き、変化の少ない環境の中で、もう一度育もうとしているように見える。
だが一方で、親御さん自身が「自分の親の母体に戻りたい」、そんな想いから変化の少ない環境を求める場合もあると感じる。


母体のような変化の少ない環境は、生きていく上で土台となる部分をじっくり育て、発達させるには適した条件だといえる。
特定の刺激を十分に味わい尽くすことができるから。


変化の少ない環境が育む環境だとしたら、実生活の中で「変化のない環境を」「構造化された環境を」と求めることが違和感に感じる理由もはっきりしてくる。
学校や職場、社会の中は、発達のヌケを育む場所ではない。
言語獲得後の発達、成長の場ではあるかもしれないが、言語以前の部分を育て直すことが主ではない。
言語獲得後の学びと育ち、そして身につけ、磨いた資質を活かし、実践する場である。


私は、あくまで母体は親御さんであり、家族、家庭なのだと思う。
つまり、変化の少ない環境を用意できるのは、親子の関係の間だけであり、家庭の中だけの話ということ。
「学校が構造化してくれない」「行事に参加させようとする」「変化に対する配慮が足りない」と言う人達がいる。
「学校でも、児童デイでも、療育機関でも、発達のヌケを育て直すことをやってくれたらいいのに」と言う人達がいる。
しかし、学校は学校の目的があり、先生も一人ひとり違う。
その多様性こそ自然な姿であって、多様な刺激だからこそ、育つ部分がある。
家庭の外を母体化するのには、賛同できない。


愛着という土台に脆さを抱える人が、変化の少ない環境を求め、引き寄せられていくのはわからなくもない。
しかし、学校や職場、社会に変化の少ない環境を求めることと同じように、それは甘えなのだと思う。
変化に苦手な我が子だから、社会に変わることを求める。
本当は、変化に苦手な我が子を育てる方が先なのに。


私に「発達のヌケを育て直してほしい」という依頼がくることがある。
ひと様の子を私のおなかの中に入れて育てることはできない。
それに子育ての丸投げはいただけない。
親子で育む部分を、他人に外注する人が増えたのも、その違和感を感じなくなったのも、昨今の治せないことによる発達障害の増加に繋がっていると感じることもある。


胎児期から始まる発達のヌケ、遅れは、本人か、親御さんにしか育て直すことができない。
他人が治し、育てられることがあるとすれば、言語獲得以降の発達と成長だろう。
社会に変化の少ない環境を求めるのも、他人に言語以前の発達のヌケ、遅れを育て直してもらおうとするのも、甘えがその根っこにあるように思える。

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