「治る」は甘い言葉なのか?

睡眠障害や行動障害で悩んでいた子が、寝られるようになり、落ち着いて、みんなと活動できるようになった。
「一生、支援を受けて生きる人です」と言われていた子が、クローズで一般就労して何年も経っている。
支援級の子が、普通級で学べるようになり、手帳を持っていた子が返納している。
そういった姿を間近で見てきた人達が、その様子を見て「治った」と言う。
それのどこが甘言になるのか、わかりませんね。


何らかの理由から、神経発達にヌケや遅れが生じた人達がいる。
だから、そのヌケや遅れの根っこを確認し、そこから育て直していけば、神経発達が起きるでしょうし、障害と言われている状態から飛びだして発達していく人がいても不思議ではありません。
そういったことが想像できない方が問題な脳みそなんだと思います。


治った本人、治った人を傍で見てきた人が「治る」と言うと、その歩みに興味がひかれ、自分でもやってみよう、そのアイディアを取り入れてみようとする人達が出てくるのは自然な流れです。
でも、「自分も治りたい」「我が子も治ってほしい」と願い、治る道を選択する人達を見て、「甘い言葉につられてしまう可哀想な人」というように捉える人がいます。
これまた想像力の欠如と言わざるを得ません。


「発達障害は脳の機能障害だから一生治らない」と思うのも、考えるのも、信じるのも、個人の自由です。
自分自身の、我が子の課題が、ずっと直らず、改善せず、むしろ現状維持もできていない、だからこそ、治るなんて嘘だ、と思いたいのはわからなくもありません。
でも、自分の見える範囲以外にも、事実があり、現実がある、という想像ができないのは、大問題だと思います。
というか、それでは人生、生きづらい。
というか、見える範囲がすべての人間、想像する力が乏しい人間には、人を育てることはできません。
できるのは、現状維持のみ。
最初から、他者の視点を想像できない人間には、育つも、発達も、治すも、生まれる余地がないのです。


「治る」に惹かれ、心から望む本人と親の自然な内面の動きが想像できず、あたかも「治るなんて現実的ではない言葉に騙された可哀想な人達」と捉えてしまう人。
その人が間違えているのは、他者の心情だけではなく、「治る」が甘い言葉だと捉えていることもです。


本人や親御さん、家族にとっては、「治る」は希望の言葉になると思います。
しかし、決して甘い言葉にはなりません。
むしろ、ある意味、厳しい言葉でもある。
何故なら、「治る」は、「あなた次第」と言っているのだから。


想像力が欠如した人というのは、「治る」と言っている支援者に騙され、お金と労力、時間を獲られてしまう、と誤った解釈をしています。
実際、治す支援者は何万も、何十万も、料金を要求しないで、一般的な料金で経営しています。
逆に、治さない支援者の方が、50分、1万5千円とか、アセスメントだけで何十万円も請求している。
こういった事実を見ようとしないのも、いつまで経っても想像力が発達していかない理由の一つですが、何よりも誤った解釈の始まりは、治すのは本人であり、家族ということなんです。


「治る」と言っている人達の中に、私が「治す」と言っている人はいないのです。
ここも想像すればわかることですが、本人と家族が動かないと神経発達など起きるわけがありません。
気功でも、治る塩でも、何か他者が与え、勝手に神経発達が起きるのなら、こんなラクなことはありませんし、世の中の発達障害の人、みんな治って、いなくなっているはずでしょ。
神経発達を促すには、本人が行動し、家族が育んでいかなければならないのです。


そういった意味で、「治す」は厳しい言葉になるのです。
本人は受け身ではなく、主体的に行動していかないといけませんし、コツコツと積み重ねていく必要があります。
親御さんは、課題がクリアされるまで試行錯誤を続け、育み続けなければなりません。
ある意味、「治らない」というままの方が、「治る」という言葉と出会わない方が、ラクな場合もあるのです。
だって、支援者という他人に任せられるから。
治らなくて、問題がそのままでも、障害のせいに、支援のせいに、社会のせいにできるから。
少しでも成長が見られれば、頑張っている親として見られ、何か起きても自分は責められない。


私はいつも思います。
「治りたいんです」と言われる方、治る道を選択し、歩んでいる方は、本当に強い人間だと。
朝、学校に出したら、夕方、児童デイの車が家の前に着くまで、子の責任を持たなくてもよい選択もあったのです。
何かトラブルが起きれば、「うちの担任、普通級から来たばっかりだからダメなんだよ」「この子達が生きづらいままなのは、多様な子の個性を理解できない社会が悪いんだよね」と言っていられたのです。


でも、自ら子の人生、未来に責任を負うことを選択し、そして日々、試行錯誤と地道な積み重ねの道へと歩まれた。
きっと我が子は治ると信じていても、それがいつなのか、必ず来るかはわかりません。
そんな不安も、心細さもある道を、我が子の視点を想像しながら歩んでいく。
「この子自身が治ることを望んでいるし、大人になった我が子は、治っている方が幸せになる」と。


治る道を選択した人達は、決して甘言につられた弱い人達ではありません。
むしろ、我が子の未来も、自分自身の人生も、受け止める覚悟と責任がある強い人達。
本当に強い人間は、弱い人間のことも、ちゃんと想像できるものです。
弱い人間こそ、強い人間のことを想像することができない。
弱い人間は、みんな弱い人間であって欲しいと願うものです。
弱い人間に合わせて、自分も、我が子も、弱くなる必要はありません。
厳しい道だとしても、力強く歩き続けた先に、発達と成長、自立と幸せが待っているのだと思います。
弱い人間が望むように、幸せの方からやってきたはくれないのですから。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題