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AIまでの中継ぎ

自分の仕事、専門を極めるために、日夜、学び、精進するのは当たり前の話。 すごいとか、すごくないとか、えらい、えらくない、とかじゃなくて、お金を貰ってやることなんだから、それが普通で、息をするみたにやれていなきゃ、問題外。 ただこなしていくような姿勢は、その仕事と共にその人間までをも、AIに、外国人に取って代わられるでしょう。 将来的に、生物学的マーカーが見つかれば、発達障害の診断はAIが行うようになると思います。 AIの方が正確に判断できるでしょうし、何より忖度しないですし。 薬を処方したいがための診断ですとか、支援を利用するための診断ですとか、なくなります。 もし、そういった生物学的マーカーが見つからなくても、どうせ今も、行動観察と問診で診断しているくらいなのですから、成育歴とか、発達障害に関わる因子を答えていけば、AIが判定!みたいにしても大差はない、むしろ、忖度分だけ正確度が増して良いかもしれません。 生物学的マーカーなら、その部分を経過観察することで、症状の変化がわかるようになるでしょう。 これまた人為的な意図が入る余地を消すことができます。 「治ったんじゃなくて、一時的に症状が薄れただけ」 「完治じゃなくて、寛解です」 こういった言葉遊びをする意味がなくなりますので、治ったか、治っていないか、になる。 そうなると、社会全体として一気に見る方向、進む方向が決まっていきます。 治るんだったら、治す方向へ動いていく。 経過が良くなることがわかれば、良くなるためのアプローチが明確になり、様々な情報が精査されていく。 今のように、治せないし、できることは限られているけれども、「専門家」を名乗れる時代は、近い将来終わりを迎えると思います。 診断はAIが行って、それを見て、医師が処方する。 環境調整だって、「ヒトも刺激になるんです!」と、その道の専門家たちが言っているくらいですから、タブレットが予定や指示を出すようにしたり、本人の生活の様子を見て、AIが刺激をコントロールしたりする。 行動療法は、何かうまくできたら、ロボットがおやつを運んでくるようにする。 SSTも、どうせ知識獲得、パターン学習でしかないので、学習プログラムのアプリで十分。 結局、こうやって考えると、治そうとしない、治すアイディアを持たない支援者、

向上心を発揮する場があるのか

久しぶりに当地のデパートに行きました。 すると、店員さんは私語ばかり。 お客さんが近くに来ても、お構いなくペチャクチャ。 私には、売る気もなければ、仕事人としての意欲も、プライドもないように映りました。 もう一つあった老舗のデパートは今年の一月で閉店。 「数少ない地元のデパートだから、開けときゃお客は来るだろう」みたいな雰囲気は、閉店したところと同じ雰囲気を感じます。 「デパートで買うのがステータス」世代がいなくなれば、潰れるのは必至。 何だか、「療育受けるのがステータス」に似ていますね。 特に治すわけでもなく、何年経っても同じ支援に、誰が来ても同じアドバイス。 「開けときゃ来るでしょう」という態度の支援者と「療育受けるのがステータス」の親御さん達が、地元の支援機関を支えてます、みたいな。 以前、相談に乗っていた若者が、「公務員は、年齢が上がると、給料も上がるから就きたい」と言ったのを、私が叱ったことを思い出しました。 確かに公務員は、年齢給みたいなものがあるから、年齢、勤続年数が上がれば、給料も上がります。 でも、その給料の上りは、ただの年数の上がりではない。 働いた時間の中での技能向上、経験や責任が増えたことが給料にも反映されている、というような話をさせてもらいました。 こういったのはうわべの情報だけで判断してしまうこともあるでしょうし、身近な大人たちがそんな話を子どもにしていたのが影響しているのだと思います。 結構、働いている大人たちの中にも、プロとしての向上心に欠けるような人が少なくないように感じます。 独立するまで、2つの職場を経験しましたが、給料をもらいに出社しているみたいな空気感がとても嫌だったですね。 父親は「働いてからも勉強。生涯勉強」と言っていましたし、実際、その姿を見て育ちましたので、それが当たり前だと思って働いていますし、それができない人を見ると、ドン引きします。 特に私は自営業ですから、技術向上と知識の更新は当たり前ですし、それが事業としての命に直結すると考えています。 もし自営業の私が、一年前と同じレベルの助言、発達援助しかできないとしたら、即刻廃業になります。 公的な補助は貰っていない100%利用してくれた方のお金だけで事業を行っていますので、利用者がいなくなれば終わりです。 常

会話に発達が表れる

自閉症の人の話は、「長い」と言われることがあります。 要点を掻い摘んで話すのが苦手だから。 どうしても、詳細に、順を追ってすべて話そうとするから、クドクド長くなってしまいます。 自閉症の人から相談を受けるときは、時間に余裕を持たせるようにしています。 上記のように、話が長くなる傾向がありますし、途中で割り込むと、話が飛んだり、見失ってしまうことがあるので。 そして、こちら側も、ニュアンスや前提条件など、通常の会話で端折っている部分についても言葉に表す必要があるため、どうしても時間が長くなります。 しかし、そんな話の長さ、クドクドした説明も、自閉症の人の特性だとは思いません。 だって、発達のヌケ、遅れが育ってくれば、段々、会話がシンプルになってくるから。 つまり、自閉症の特性なんかじゃなくても、ただ単に発達の問題。 だから、あとからでも治るし、変わってくる部分。 支援者の中には、あたかも、こういったしゃべりが特性であるかのごとく、対応する人がいます。 もちろん、私も、相談時にはそのしゃべりに合わせますが、それは本人の発達のヌケ、遅れの具合を確認するという意味あいもあります。 決して、そのしゃべりのままで良いとは思っていませんし、聞いてて「もっと端的にしゃべって」と思うことも多々あります。 この長いしゃべりは、聞いている方も疲れるし、本人の脳だって疲れるのを感じます。 だから、治した方が良くて、そのために、育てた方が良いと思います。 端的に言えば、論理的に偏って話そうとするから長くなる。 つまり、左脳と右脳のバランスが悪いだけ。 ヒトは、言葉を介して会話をしつつも、肌感覚など、察することでやりとりしている部分もあります。 同じ共有した経験、感覚があれば、そこは端折る。 空気感で、「この話はもう良いかな」「これ以上、言わなくても、その先は察してくれた」などわかれば、端折る。 そして、臨機応変に話の内容に濃淡をつけていく。 これができるのは、感覚も使って会話しているから。 感覚面に発達のヌケや遅れがあれば、当然、ほかの部分に頼るしかなくなります。 それが論理的な部分、左脳です。 右脳<左脳の働き。 脳は右から左に発達していきますので、右脳を育てる時期に何かあったのかな、と推測できます。 右脳を育てるのは

「重度」とは、何を持って重度というのか

「対象は、軽度の人でしょうか?」「知的障害が重い子は利用できませんか?」などと、問い合わせを頂くことがあります。 特に障害の程度でお受けするしないは決めていませんし、実際、知的障害がある人も、知的障害が重度と判定を受けている人も利用されています。 だけれども、この仕事をしてから、「この人は重いな」「発達していくのも難しいな」と感じる人とは出会っていません。 私は、この仕事を始める前、いろんな方たちと関わってきました。 自分で立ったり、移動したりすることができない人。 自力で息をするのも難しい人。 食事を摂ることができない人、その食事だって、口からではなく、胃から直接。 「この子は、〇歳を迎えることはできないだろう」というようなことを言われた人もいました。 実際、悲しいお別れもしました。 そして強度行動障害を持つ人達。 自分の身体が変形してしまうくらいの自傷、自らの命を危険にさらすくらいの行動がある人もいましたし、知能検査が受けられない人、他人と接触できない人もいました。 知能検査を受けて、「重度」「最重度」と付くならまだよくて、「測定不能」という人達とも関わってきました。 ですから、今、この仕事をしていて、「知的障害が重度です」「言葉が全く出ません」などと言われても、正直、過去出会ってきた人達と比べれば、圧倒的に軽いですし、「どんどん治るじゃん」「可能性いっぱいじゃん」と思うのです。 あと、ちょっと話はズレますが、普通に電話やメールで相談や依頼してくる人で、「支援者から『あなたは自立できない。よくて障害者枠。本当は就労支援B型だね』なんて言われました」という若者たちの存在に、最初、衝撃を受けまくっていました。 普通に大学出ているような若者に、福祉的就労を勧めるバカがどこにいるって感じです。 しかも、その理由が「あなたは重いから」 この若者たちが重いんだったら…以下、上記と同じ。 「障害が“重い”」の重いという言葉に重さを感じません。 だから、「重い」というのは、支援する側の無力さを隠すための造語だと思うのです。 施設では、軽々しく「重い」なんて言えない人達、そういった言葉で言い表せないような人達の支援に携わっていました。 そのときは、治る方法も、治るということも知りませんでしたし、必死にギョーカイ本、ギョー

プロテイン治療!

なんてあったら、それこそ、ヤバいでしょ。 「プロテインを飲んだら、発達障害の症状が治ります」なんて(笑) 治そうとしている親御さん達がプロテインを用意するのは、子どもの神経を育てたいから。 神経の大元であるアミノ酸が十分満たされるアイディア、方法の一つとして、プロテインを選択しているだけ。 プロテインも、サプリも、薬じゃないんだし、より良い神経発達のための条件の一つ。 「食事のメニューをどうするか」「おやつをどうするか」と同じ話。 どうも、「治療」と「子育て」を混同している人がいるようです。 治そうと頑張っている子ども達、親御さん達、支援者達は、治療をしようとしているわけでも、治療によって治そうとしているわけでもありません。 だって、神経発達に遅れがある子ども達ですよ。 発達に遅れがあるのなら、取り戻せば良いだけ。 そのアイディアとして、発達のヌケを育てなおしたり、身体アプローチをしたり、栄養面から後押ししているのです。 これらは治療でなく、すべて神経発達を促すための子育て。 「脳の機能障害」から脱せられない人が、いつまで経っても治療だと勘違いをする。 自閉症の特性があって、ADHDの特性があって、LD、知的障害の特性がある。 それはすべて生まれつきで、脳の機能障害。 だから、金魚体操も、プロテインも、身体アプローチも、一色単に「そんなんで、生まれつきの脳の機能が変わるわけない。症状がなくなって、治るわけがない」と見誤るのです。 定期的に出てくる「エビデンスガー」もそうです。 治った人が、治療によって治ったと思っている。 だから、親御さんや支援者を捕まえて「医療では~」「医学会では~」「お医者さんが~」「医師法が~」と的外れなことを言い続ける。 「私、お医者さんではありません」 「一般の主婦です」「支援者です」 なんて言っても、ピンとこないのは、「発達障害=医療、治療」という頭が切り替えられないせいです。 どこの世の中に、胎児期から2歳前後の発達を、「エビデンスが必要だ」「専門家、専門機関じゃないとやってはいけない」という人がいるのでしょうか。 赤ちゃんの発達って、専門機関で行うもの? どの子も、みんな、お母さんのお腹の中と家庭、自然の中で発達させていくでしょ。 「その寝返りの仕方に、エビデンスがない

発達は文化ではない

親が美味しそうに食べるのを、子どもに見せる。 大人が一生懸命働く姿を、子どもに見せる。 まずは大人がやってみて、それが刺激になって、子どもの成長に繋がることもあるでしょう。 でも、それは文化の伝承において。 やっぱり発達に関しては、子どもが主体であり、先行しなければならないと思うのです。 では、どうして発達は“子ども先行”なのか。 それは、発達が本能であり、遺伝子レベルのお話だから。 進化の歴史の中で、脈々と受け継がれてきたものが発達そのもの。 どの時代の、どの文化圏に生を受けようとも、ヒトは一定の発達過程を辿ります。 言葉を獲得する前の発達は、時代や文化が手出しできるものではない。 発達障害の子ども達というのは、主に言葉を獲得する前の発達段階に、やり残しやヌケがあります。 胎児期からだいたい2歳前後までのヌケであり、遅れです。 そのヌケを埋めるのに、言葉は役には立ちません。 文化の伝承とも違う。 となると、そもそも大人が、他人が手を出せるものでもないのです。 子どもは、自分に足りない発達刺激を自然と求めます。 子どもは、抜かした発達課題を、自ら埋めようと動きます。 何故なら、発達のヌケ、遅れは自分の内側にあるから。 「あなたには、発達の遅れがあります」 これは推測の域を出ることはないのです。 発達に関して言えば、その子、本人しか知る由もありません。 いいえ、本人の意識レベルにすら上がってこないものですので、その子すらわかっていないのかもしれません。 子どもの目を通してみれば、その時々で、内側から突き動かされるエネルギーをぶつけた先が、自分自身に必要な発達だった、という感じなのでしょう。 この時期になりますと、大人は揺らぎます。 学年末の振り返りがあり、すぐそこに次の学年が待っているから。 でも、これは文化的なお話。 子どもの発達とは関係ないことなのです。 産休後、入園する赤ちゃんが、「そろそろ四月になるから、いっちょ、ハイハイの段階クリアしとくかな」なんて思わないはずです。 発達課題は、あくまで本人がやり切ることでクリアされるもの。 「育児休暇が終わる」とか、「新年度が始まる」とか、「担任が変わる」とか、「今年度、思ったよりも伸びなかった」とか、そんなの全部、その子の発達とは直接的な関係

リードするのは親でも、支援者でもなく、子ども自身

プロテインを飲ませたいのは親御さんであり、飲むのはお子さん。 このことを忘れてはいけませんね。 もし、お子さんがプロティンを飲まないのでしたら、親ができることは二つだけ。 どうしたら、心地良く飲んでくれるか、試行錯誤することと、プロティンが飲める身体に育てること。 たとえ、本人に必要な栄養素だとしても、嫌がるのを無視して無理やり飲ませるのなら、私はそれも一つの虐待だと思います。 子どもは、自分に必要な発達刺激がわかります。 自ら能動的に、また時間を忘れるように熱中する遊び、活動というのは、“今”その子にとって必要な刺激であり、今まさに発達課題をクリアしようとしている瞬間なのです。 同じように、自分に必要な食べ物もわかります。 言葉がまだはっきり出ていないような子でも、「これが食べたい」「もっとほしい」と主張することがあります。 「一時期、〇〇ばっかり食べていた」なんていうお話も、いろんなご家族からお聞きします。 子どもが欲する食べ物、栄養素は、本能レベルで自分に必要だと気がついているのだと思います。 ですから、発達に関して言えば、子どもの声に耳を傾けるべきだと思います。 親がリードするのではなく、子どものリードに親がついていく、または横について伴走する感じです。 もちろん、学習や躾、心身を育むことに関して言えば、親がリードする方が良いこともありますが、発達はあくまで子の前に出ない、子の気づき、本能、伸びる力を信じてついていくことだと思います。 私は訪問型の仕事をしていますので、すぐに感じます、親子の距離感が。 子どもが前にいるか、親が前にいるか。 親が子どもにちゃんとついていけているか、子どものペースを無視して、親が前を走っていないか。 理想的な親子、「ああ、この調子で行けば、ドカンという発達が来るな」「治って、ちゃんと自立していくね」と感じる親子というのは、子が前を一生懸命走り、それ後ろからついていって後押ししている親御さん。 あくまで、発達のリードは子どもさんで、「私は、我が子の伸びる力を信じます」という姿勢があるご家庭では治っていくし、子どもさんが成長とと共に自ら手と足で治し、自立していくように感じます。 犬の曲芸みたいな療法とは、「ここまで来たら、ご褒美をやるぞ」「これができたら、お菓子をあげるぞ」、そん

子どもが治った姿は、子育ての延長上に

治している親御さんと、その子どもさんの間には、自由で心地良い雰囲気が流れているものです。 今まで、多くの治している、治そうとしている親御さんとお会いしてきましたが、誰ひとりとして強制も、矯正もしていませんでした。 主は常に子ども。 子どもさんがやりたいことを、育てたいことを、一生懸命後押しする姿。 それは自然な親子の関係であり、「治す」と言っても子育てに変わりはないのです。 「治す」という言葉に対し、過剰に反応する人達がいます。 で、治している親御さん達というのは、そういった人達を見て、理解ができなくなります。 治している親御さんというのは、我が子に「少しでもラクになってほしい」「より良く育ってほしい」と願い、子育てをしているだけだから。 嫌がる子どもをよそに、無理やり訓練したり、食べたくないものを食べさせているわけではないから。 治している親御さんと、治るに過剰反応する人達。 その違いは、「治る」の捉え方。 過剰反応する人達というのは、一見すると普通の人達。 普通の家庭で、普通に育ち、普通に学校に行き、普通に就職する。 でも、その歩みの中で、常に親から、周囲から“普通になれない自分”を責められた経験を持つ。 みんなができることが、できない。 みんなと違った行動をとる。 それがいじめや、親からの叱責、学業や仕事の失敗となる。 過剰反応する人達は、「治る」と聞いて思いだすのだろう。 「どうして、あんたは“普通に”できないの!?」という叱責の声が。 自分も、親も、学校の先生も、職場の人達も、発達障害という概念がなかった。 だから、怠けているように見えたし、自分はダメな人間だと思っていた。 親から、先生から、何度も何度も、繰り返し叱責され、できるようになるまで指導されていた。 そんな歴史が、先着一名様の思考とあいなって、治る=普通になる=矯正&強制となっているのでしょう。 治している親御さんで、我が子に「普通になれ」と言う人も、普通を目指して訓練するような人もいません。 ただただ、我が子に治ってほしい、より良く育ってほしいと願っているだけ。 あくまで、より良い子育てのアイディアを求め、発達と成長の後押しをしているのです。 栄養療法も、毎日の食事の延長。 我が子に合ったより良い食事を目指し、試行錯誤し

「治るか、治らないか」ではなく、「やるか、やらないか」

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「発達障害が治るか、治らないか」 私の中では、前から結論が出ていました。 実際に治っている人達を見てきたからです。 そして同じように、全国にも結論が出ている人達がいます。 神経の発達障害なのだから、治るに決まっています。 治らないとしたら、神経がないか、すでに神経を発達させられる状態にない、つまり、生きていないか、になります。 ですから、「発達障害が治るか、治らないか」ではなく、「治すか、治さないか」。 いや、もっとシンプルに、「やるか、やらないか」、ただそれだけだと思っています。 世の中に、しかも同じ時代を生き、同じ日本に住む人達の中に、治っている人達がいるのです。 しかも、世界的な診断基準にも、「治らない」なんて書かれていない。 むしろ、介入によって、診断名が適さなくなることも、知的障害の状態が変わっていくことも、記されている。 ここまでくれば、「治らない」と主張する人のその言葉が、単に「やりたくない」「やれない」という風に聞こえてきます。 当事者の人は、先着一名様の思考のために、支援者、親の言っていた「治らない」が頭の中から出ていかないのでしょう。 治らないことで得られていた生活、小さな小さな自尊心、言い訳にできる理由を手放したくないがために、「治らない」と言い続ける人もいるでしょう。 途中から特別支援の枠に入った20代、30代の当事者の人達の中に、治ってラクになるよりも、自分の過去の後悔、辛かった歩みに押しつぶれないようにするために、「治らない」に必死にしがみついている人が少なくないようにも感じます。 親御さんで言えば、「治らないから!」のではなくて、「今さら、治ると言われても…」が真実のように感じます。 「治りません」という絶望の言葉を送られ、しかも、普通の子育てすらできないと、我が子も、親である自分自身も否定される。 そんな否定し続けてきた専門家の言う通りにしてきてしまった自分がいて、さらに今、その選択すら木っ端みじんに否定される。 それに耐えられないからこそ、「治らない」にこだわる、いや、「治らないでくれ」というような悲痛な叫びにすら聞こえてくるのです。 親御さんの中には、「軽度の子は治るんでしょ。でも、うちの子は、重いから」というような人もいます。 しかし、これは言い訳。 しかも、とても卑怯な

『NEURO 神経発達障害という突破口』(花風社)を読んで

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今週、ある若者から連絡を頂きました。 「アルバイトを始めました!」という連絡です。 この若者は、長年、支援センターに通い、病院にも通い、そしてひきこもっていたのです。 昨年12月にお会いし、脳のバランス、発達のヌケの確認をし、その育て方のアイディアを紹介。 また花風社さんの本と、藤川徳美医師の本を紹介し、あとはご自身で本を見て実践したり、プロティンやサプリを飲んだりしたそうです。 そして長年、変わらなかった状態を、専門家、医師がどうにもできなかった状態を、ご自身で突破されたのです。 本人も、家族も、涙を流して喜ばれていました。 この仕事を始めてから、多くの涙を見てきました。 上記の若者、家族のようなうれし涙だけではありません。 「本当は、みんなに理解してほしいんじゃなくて、その辛さを分かってほしいんだよね。そして少しでもその苦しさを取ってほしいんだよね」 そんな言葉を聞いて、泣き崩れる若者に何人も、何十人も会いました。 「障害者枠で働いていることが辛いんだよね。障害者として生きることが辛いんだよね。一人の人間として生きていきたい。自由になりたいんだよね」 このように本人たちは、理解よりも、保護される中で生きることよりも、少しでもこの苦しみから逃れられてラクになること、同世代の人達と同じような自由で、成功も、挫折もあるような人生を送ることを望んでいる。 若者たちと話すと、いや、小学生の子ども達ですら、治りたいと思い、治る方法を知りたがっている。 ある小学生の子は、治ることを知り、「学校の先生も、病院の先生も、みんな『治らない』っていうけれども、治るんだって。僕だって、普通になれるんだ!僕は頑張りたい!」と言って行動し、今は普通の生徒として学校生活を送っています。 当然、本人たちが治りたいと思うように、親御さん達も治ってほしいと願っています。 だからこそ、「治る」という言葉を聞いて、治すアイディアを聞いて、実際に治っていく様子を見て、涙を流されるのだと思います。 「普通の子育てはできない」「家庭でできることはない」というメッセージを専門家から送られ、ずっと「治ってほしい」という想いに蓋をしてきた。 「治らない」という絶望的な言葉の上に、普通の子育てすらできないという親としての否定すら受け続ける。 親御さんが流す涙は、うれ