2019年3月29日金曜日

AIまでの中継ぎ

自分の仕事、専門を極めるために、日夜、学び、精進するのは当たり前の話。
すごいとか、すごくないとか、えらい、えらくない、とかじゃなくて、お金を貰ってやることなんだから、それが普通で、息をするみたにやれていなきゃ、問題外。
ただこなしていくような姿勢は、その仕事と共にその人間までをも、AIに、外国人に取って代わられるでしょう。


将来的に、生物学的マーカーが見つかれば、発達障害の診断はAIが行うようになると思います。
AIの方が正確に判断できるでしょうし、何より忖度しないですし。
薬を処方したいがための診断ですとか、支援を利用するための診断ですとか、なくなります。
もし、そういった生物学的マーカーが見つからなくても、どうせ今も、行動観察と問診で診断しているくらいなのですから、成育歴とか、発達障害に関わる因子を答えていけば、AIが判定!みたいにしても大差はない、むしろ、忖度分だけ正確度が増して良いかもしれません。


生物学的マーカーなら、その部分を経過観察することで、症状の変化がわかるようになるでしょう。
これまた人為的な意図が入る余地を消すことができます。
「治ったんじゃなくて、一時的に症状が薄れただけ」
「完治じゃなくて、寛解です」
こういった言葉遊びをする意味がなくなりますので、治ったか、治っていないか、になる。
そうなると、社会全体として一気に見る方向、進む方向が決まっていきます。
治るんだったら、治す方向へ動いていく。
経過が良くなることがわかれば、良くなるためのアプローチが明確になり、様々な情報が精査されていく。


今のように、治せないし、できることは限られているけれども、「専門家」を名乗れる時代は、近い将来終わりを迎えると思います。
診断はAIが行って、それを見て、医師が処方する。
環境調整だって、「ヒトも刺激になるんです!」と、その道の専門家たちが言っているくらいですから、タブレットが予定や指示を出すようにしたり、本人の生活の様子を見て、AIが刺激をコントロールしたりする。
行動療法は、何かうまくできたら、ロボットがおやつを運んでくるようにする。
SSTも、どうせ知識獲得、パターン学習でしかないので、学習プログラムのアプリで十分。


結局、こうやって考えると、治そうとしない、治すアイディアを持たない支援者、専門家というのは、技術革新とともに消えていく存在だといえます。
というか、それまでの中継ぎのような存在。
反対に言えば、子育て自体は、AIなどの技術に取って代わられることはできないので、これからどんな時代、世の中になろうとも、子どもを育むアイディアを持った人達の仕事、ニーズはなくならないと思います。


いま、エビデンスだ、論文だ、と言っているような人達も、これから5年、10年後の社会がどうなっているかはわからないはずです。
現時点で、どの人が発達障害で、どの人が自閉症か、といった客観的な指標、違いの見分け方すらないのです。
「そのアプローチの効果のエビデンスを出せ」「治ったという証拠を出せ」と言う前に、そもそもその人が発達障害であるというエビデンスも、証拠もないのですから。
そんなレベルの、曖昧なもので展開されている特別支援の世界が唯一絶対なわけはありません。


だからこそ、私達は、一人ひとりとちゃんと向き合う必要があるのです。
エビデンスだ、論文だと言う前に、目の前にいる子をちゃんと見ているか、感じられているか、が重要なのです。
ちゃんと一人ひとりと向き合えている人なら、目の前の子の変化を感じることができます。
より良い変化があるならば、どっかの誰かが書いた論文や、その地域のメジャー支援者のお墨付きなんかなくとも、信じてやりきることができます。
そもそもが発達障害であるというエビデンスが曖昧で、主観的なものなのですから、唯一絶対なのは、目の前の子がより良く変化すること以外あり得ません。


論文の多くは、まだ世の中の人が知らないこと。
ということは、証明されていない真実がいっぱいあるということです。
「論文がないから信じない」というのは、笑い話、滑稽話。
だったら、求めている論文が出るまで、指をくわえて待ってな、という感じです。
でも、子どもの時間は戻ってきませんがね。
治る治らない以前の問題として、子どもとちゃんと向き合えない大人というのは、ただ給料をもらいに出社しているような仕事人のようであり、それだったら仕事も、子育ても、AIに任せた方が良いなと思われるような人のように感じてしまいます。
まあ、まだそういった論文は出ていませんが(笑)

2019年3月28日木曜日

向上心を発揮する場があるのか

久しぶりに当地のデパートに行きました。
すると、店員さんは私語ばかり。
お客さんが近くに来ても、お構いなくペチャクチャ。
私には、売る気もなければ、仕事人としての意欲も、プライドもないように映りました。
もう一つあった老舗のデパートは今年の一月で閉店。
「数少ない地元のデパートだから、開けときゃお客は来るだろう」みたいな雰囲気は、閉店したところと同じ雰囲気を感じます。


「デパートで買うのがステータス」世代がいなくなれば、潰れるのは必至。
何だか、「療育受けるのがステータス」に似ていますね。
特に治すわけでもなく、何年経っても同じ支援に、誰が来ても同じアドバイス。
「開けときゃ来るでしょう」という態度の支援者と「療育受けるのがステータス」の親御さん達が、地元の支援機関を支えてます、みたいな。


以前、相談に乗っていた若者が、「公務員は、年齢が上がると、給料も上がるから就きたい」と言ったのを、私が叱ったことを思い出しました。
確かに公務員は、年齢給みたいなものがあるから、年齢、勤続年数が上がれば、給料も上がります。
でも、その給料の上りは、ただの年数の上がりではない。
働いた時間の中での技能向上、経験や責任が増えたことが給料にも反映されている、というような話をさせてもらいました。


こういったのはうわべの情報だけで判断してしまうこともあるでしょうし、身近な大人たちがそんな話を子どもにしていたのが影響しているのだと思います。
結構、働いている大人たちの中にも、プロとしての向上心に欠けるような人が少なくないように感じます。
独立するまで、2つの職場を経験しましたが、給料をもらいに出社しているみたいな空気感がとても嫌だったですね。
父親は「働いてからも勉強。生涯勉強」と言っていましたし、実際、その姿を見て育ちましたので、それが当たり前だと思って働いていますし、それができない人を見ると、ドン引きします。


特に私は自営業ですから、技術向上と知識の更新は当たり前ですし、それが事業としての命に直結すると考えています。
もし自営業の私が、一年前と同じレベルの助言、発達援助しかできないとしたら、即刻廃業になります。
公的な補助は貰っていない100%利用してくれた方のお金だけで事業を行っていますので、利用者がいなくなれば終わりです。
常に利用してくれる人に対して、相手の希望よりも上の返しができなければ、自営業はできません。


よく「奇を衒って“治る”なんて言ってやがる」と揶揄されましたが、奇を衒うだけでは事業が続けれるわけはありません。
もし私が詐欺やインチキをやろうもんなら、即刻、通報されますし、第一、お客さんが来なくなります。
今月で6年目も終わり、来月からは7年目に突入しますが、逆に奇を衒う作戦で「治る」と言い、6年も公的な補助もなく、事業を続けられたとしたら、それこそ、すごいこと、才能があるといえるでしょう。
私の奇を衒った作戦が功をなしたのなら、そちらの方の才能を活かした商売をしますね。


人間と動物の違い、境目は、向上心の有無だと考えています。
動物は獲物を捕るために全力を尽くしますが、獲ってしまえば、変わらず獲り続けられるのなら、技能向上は目指しません。
でも、人間は、想像力を働かせ、試行錯誤を繰り返しながら、そして事前に知識や技能を得て準備することで、自分自身を高めようとします。
結果のみに注目するのが動物であり、プロセスも含むのが人間。


「見えないものは、ない」という本人の想像性と、形を教え込もうとする療育が合わさると、プロセス、向上心の大切さに気づけないまま、大人になる人が少なくないように日々、感じています。
若者たちと話していても、どうも職業観が狭すぎるというか、幼い。
「お給料をもらうため」「生活するため」「自立するため」
どれもすべて合っています。
でも、それだけだったら、必ずしも一般就労で、フルタイムで働かなくてもいい。
というか、働かなくても、できちゃうのが現在の日本の福祉制度。
しかも、ギョーカイは、発達障害の人達に、診断がついていない人に診断名をもらうように勧めてまでも、結果的にお金が貰えて、生活でき、自立できる(もれなく支援者付き)道へと導いていく。


こういった現状と若者たちの相談を通して、私は思います。
子ども時代から学ぶこと、自分自身を成長させること、向上心を持つことの大切さを伝えていくべきだと。
そのためには、想像力が育っていくような援助をしていくのと同時に、見えない部分をはっきり教えていくことを心掛けています。
そして、子どもにとって重要な環境でもある親御さんが、向上心を持って、自分自身が学び、成長していく姿を見せることが重要です。
そういった意味で、実際に試行錯誤して治していくことだけでなく、その試行錯誤する親御さんの姿自体も、子どもにとっては良い影響と成長に繋がるのだと思います。


親御さん達も、支援する我々も、子どもが治ることが目的ではないのはわかっていると思います。
あくまで、より良い人生を歩んでほしい、自由な生活を謳歌してほしい、その子の資質を活かして生きていってほしいというのが願いであり、そちらが目的だといえます。
そういった軸がブレなければ、「一般就労して二次障害になるくらいなら、福祉を利用すればいい。お金ももらえるし、親がいなくなっても生活できるから」という支援者の甘言に惑わされないはずです。


今まで、どれくらい多くの人達が、その甘言に引きづられていったのか。
確かに、彼らはお金ももらえているし、生活もできている。
でも、向上心を発揮する必要のない仕事、生活、人生の中に、人間としての喜び、生きている実感があるのでしょうか。
私語を続けるデパートの店員。
大型バスに乗せられ通勤している成人した人達。
そこに向上心を発揮する場があるのか、と思うのです。

2019年3月21日木曜日

会話に発達が表れる

自閉症の人の話は、「長い」と言われることがあります。
要点を掻い摘んで話すのが苦手だから。
どうしても、詳細に、順を追ってすべて話そうとするから、クドクド長くなってしまいます。


自閉症の人から相談を受けるときは、時間に余裕を持たせるようにしています。
上記のように、話が長くなる傾向がありますし、途中で割り込むと、話が飛んだり、見失ってしまうことがあるので。
そして、こちら側も、ニュアンスや前提条件など、通常の会話で端折っている部分についても言葉に表す必要があるため、どうしても時間が長くなります。


しかし、そんな話の長さ、クドクドした説明も、自閉症の人の特性だとは思いません。
だって、発達のヌケ、遅れが育ってくれば、段々、会話がシンプルになってくるから。
つまり、自閉症の特性なんかじゃなくても、ただ単に発達の問題。
だから、あとからでも治るし、変わってくる部分。


支援者の中には、あたかも、こういったしゃべりが特性であるかのごとく、対応する人がいます。
もちろん、私も、相談時にはそのしゃべりに合わせますが、それは本人の発達のヌケ、遅れの具合を確認するという意味あいもあります。
決して、そのしゃべりのままで良いとは思っていませんし、聞いてて「もっと端的にしゃべって」と思うことも多々あります。
この長いしゃべりは、聞いている方も疲れるし、本人の脳だって疲れるのを感じます。
だから、治した方が良くて、そのために、育てた方が良いと思います。


端的に言えば、論理的に偏って話そうとするから長くなる。
つまり、左脳と右脳のバランスが悪いだけ。
ヒトは、言葉を介して会話をしつつも、肌感覚など、察することでやりとりしている部分もあります。
同じ共有した経験、感覚があれば、そこは端折る。
空気感で、「この話はもう良いかな」「これ以上、言わなくても、その先は察してくれた」などわかれば、端折る。
そして、臨機応変に話の内容に濃淡をつけていく。
これができるのは、感覚も使って会話しているから。


感覚面に発達のヌケや遅れがあれば、当然、ほかの部分に頼るしかなくなります。
それが論理的な部分、左脳です。
右脳<左脳の働き。
脳は右から左に発達していきますので、右脳を育てる時期に何かあったのかな、と推測できます。
右脳を育てるのは、2歳前後、言葉を獲得する前まで。
だから、身体アプローチで治っていく、感覚が育つから、言葉以前の発達段階のヌケが埋まるから。


「自閉的な思考」などと言われることもあります。
でも、それだって、本当に特性なのか、脳のタイプの違いなのか、変わらない部分なのか、怪しいと思います。
所謂、こだわりだって、情報キャッチがうまくいかないから、感覚面の育ちの偏り、バランスが悪いから、結果的にこだわる、とも考えられる。
全体ではなく、部分に注意が向くのも、そういう脳のタイプとも考えられる一方で、全体を感覚的に掴む脳力に弱さがあるから、どうしても部分にしか注意が向かない、とも考えられる。
こういったステレオタイプの自閉っぽさだって、発達のヌケが埋まっていった人たちは、薄まっていくし、柔軟さも出てきます。
ですから、「ただ感覚面で未発達、ヌケがあるだけでしょ」「右脳が育つ前に、左脳が育ち始めたのね」と思うのです。


脳の中を見ることはできませんが、脳の育ち、働き、状態は、その人のしゃべりに表れると思います。
会話の長さ、一文の長さ、声の抑揚&ピッチ、内容の濃淡、表現の仕方、同じ言葉を応用して使うか、表現の豊かさ&幅、会話の組み立てのパターン、割り込みへの対応…他多数。
こうして文字にして挙げてみると、会話の中身以外から感じている部分が多いことに気づきました(私の場合)。
でも、誤学習、誤認識、妄想を崩すときには、チャットみたいな感じで、とにかく文字にこだわり、論破を目指しますが。


自閉っぽさって、姿勢だけではなく、会話や思考にも表れますし、そのように紹介、表現されることが多いと言えます。
しかし、発達のヌケ、遅れが育ってくれば、そういった自閉っぽさも薄まってくるし、目立たなくなるし、治ったり、柔軟さが出てくる人だっています。
だから、久しぶりにかかってきた電話の声で、発達の進み具合がわかります。
治っていっている人は、会話が短くなるし、話がわかりやすくなる。
それに冗談が出たり、気づいたりするスピードが早くなる。
ヘンな四字熟語じゃなくて、わざとらしくない自然なたとえが出てきたりもします。


自閉症の特性と捉えると、そこで発達が止まってしまいます。
それが自閉っぽさと捉えると、そこで育もうとする手が止まってしまいます。
クドクド話すのを、ただ聞いているだけじゃ変わらない。
何が言いたいか分からない説明に対し、「要点よく話す会話術」みたいな自己啓発本を読んでも、ソーシャルストーリーで「どういう会話が望ましいか」みたいな文章を見せても、変わらない。
長いしゃべりを治す方法はなくても、感覚、右脳を育てる方法はありますね!

2019年3月15日金曜日

「重度」とは、何を持って重度というのか

「対象は、軽度の人でしょうか?」「知的障害が重い子は利用できませんか?」などと、問い合わせを頂くことがあります。
特に障害の程度でお受けするしないは決めていませんし、実際、知的障害がある人も、知的障害が重度と判定を受けている人も利用されています。
だけれども、この仕事をしてから、「この人は重いな」「発達していくのも難しいな」と感じる人とは出会っていません。


私は、この仕事を始める前、いろんな方たちと関わってきました。
自分で立ったり、移動したりすることができない人。
自力で息をするのも難しい人。
食事を摂ることができない人、その食事だって、口からではなく、胃から直接。
「この子は、〇歳を迎えることはできないだろう」というようなことを言われた人もいました。
実際、悲しいお別れもしました。


そして強度行動障害を持つ人達。
自分の身体が変形してしまうくらいの自傷、自らの命を危険にさらすくらいの行動がある人もいましたし、知能検査が受けられない人、他人と接触できない人もいました。
知能検査を受けて、「重度」「最重度」と付くならまだよくて、「測定不能」という人達とも関わってきました。


ですから、今、この仕事をしていて、「知的障害が重度です」「言葉が全く出ません」などと言われても、正直、過去出会ってきた人達と比べれば、圧倒的に軽いですし、「どんどん治るじゃん」「可能性いっぱいじゃん」と思うのです。
あと、ちょっと話はズレますが、普通に電話やメールで相談や依頼してくる人で、「支援者から『あなたは自立できない。よくて障害者枠。本当は就労支援B型だね』なんて言われました」という若者たちの存在に、最初、衝撃を受けまくっていました。


普通に大学出ているような若者に、福祉的就労を勧めるバカがどこにいるって感じです。
しかも、その理由が「あなたは重いから」
この若者たちが重いんだったら…以下、上記と同じ。
「障害が“重い”」の重いという言葉に重さを感じません。
だから、「重い」というのは、支援する側の無力さを隠すための造語だと思うのです。


施設では、軽々しく「重い」なんて言えない人達、そういった言葉で言い表せないような人達の支援に携わっていました。
そのときは、治る方法も、治るということも知りませんでしたし、必死にギョーカイ本、ギョーカイ研修で学んでいました。
でも、快食、快眠、快便は整えると思っていたし、治せると思って仕事をしていました。
だって、自閉症の診断基準、3つ組の特性に、食事、睡眠、排便の障害は載っていなかったから。
つまり、ここは障害と関係ないところだから、変えられる部分という認識でした。


実際、快食、快眠、快便が整う人達がほとんどでした。
そして代々、経験則的に、この3つが整いだすと、本人の理解や学習が進むこと、心身共に安定していくことも知られていましたし、そう教わり続けていました。
いま、振り返ると、このヒトとして、動物としての基本、土台が整うと、心身、脳に余裕が生まれ、結果として理解、学習が進んでいくのだと思います。
心身&脳の余裕→理解が高まる→情報がキャッチできる→学習→適応力が上がる→ストレスが減る→心身&脳の余裕の好循環。


よく「発達の多様性」「症状、特性の表れ方も個性である」などと言われます。
だから、「治すなんて、おかしい」と主張する人もいます。
じゃあ、偏食は個性ですか?寝られないのは、その人の特性ですか?うんちが出ないのは発達の多様性?


安っぽく、一色単になんでもかんでも、「障害特性だ」「多様性だ」「それが資質だ」という人達がいます。
聞いてみると、「いやいや、それってただ未発達なだけ」「特性とか、個性とか、資質とかじゃなくて、そういう状態なだけでしょ」ということがほとんど。
HSP??
ただ感覚の発達に遅れやヌケ、未発達があるだけじゃないの。
「寝られないのも、理解してください!」????
夜遅くまで起きて寝られないのは、ただ寝られない身体の状態ということじゃないの。


ナントカの一つ覚えみたいに、すべてその人の資質や個性、特性にしてしまう。
「子どもの個性を大切にします」という人ほど、本人の視点が抜けている。
食べられないこと、寝られないこと、排泄がうまくいかないこと、そういったヒトとして、生きるものとして基礎基本の部分に生じている苦しさを、「それも、あなたの個性ね」と言われる子の気持ちを想像したことがあるのか、と疑問に思います。


本人が苦しんでいる状態が「その子の個性」だといえるのでしょうか。
その子の未発達な部分も、「その子の個性」だといえるのでしょうか。
苦しみ続ける個性、資質など、あり得ないし、本人以外が勝手に諦めるなよ、と言いたい。
少なからず、身体的な問題がない限り、快食快眠快便は整えることはできる。
そして、快食快眠快便が整えば、理解と学習が進み、適応力が上がっていく。
ということは、DSM-5で語られているように、知的障害の状態だって改善していく。
これは、私が施設で見てきた実態と合致するのです。


私が関わってきた、私が本当に重いと感じる人達が、適応力を上げ、知的の状態を改善していった姿。
その姿をそばで見てきたからこそ、今の仕事で関わる子ども達、若者たちは、みんなに可能性があると思いますし、どんどん発達し、治っていくと感じています。
医療機関や支援機関から「重い障害」と告げられ、悲壮感を漂わせて連絡をくださる親御さんもいますが、実際にその子とお会いすれば、育つ可能性、伸びる可能性に満ちた子、まだ持っている素晴らしい資質が表に出るまでに至っていない子と思うことばかりです。
そんな「重度」と言われた子ども達も、今では普通級で勉強、今では大学生、今では一般就労ってことになっています。


「重度」とは、何を持って重度というのか。
また、重度=発達しない、自立しない、良くならない、という意味になるというのか。
そして、他人が言った「重度」という言葉で、育む手を止め、支援と理解の世界に、我が子を委ねてしまっていいのか。
目の前の子が、自分で身体が動かせ、口から食事が摂れ、自ら息ができている。
その子の身体に、躍動する神経がある限り、どの子にも可能性があると思い、私は仕事をしています。

2019年3月14日木曜日

プロテイン治療!

なんてあったら、それこそ、ヤバいでしょ。
「プロテインを飲んだら、発達障害の症状が治ります」なんて(笑)
治そうとしている親御さん達がプロテインを用意するのは、子どもの神経を育てたいから。
神経の大元であるアミノ酸が十分満たされるアイディア、方法の一つとして、プロテインを選択しているだけ。
プロテインも、サプリも、薬じゃないんだし、より良い神経発達のための条件の一つ。
「食事のメニューをどうするか」「おやつをどうするか」と同じ話。


どうも、「治療」と「子育て」を混同している人がいるようです。
治そうと頑張っている子ども達、親御さん達、支援者達は、治療をしようとしているわけでも、治療によって治そうとしているわけでもありません。
だって、神経発達に遅れがある子ども達ですよ。
発達に遅れがあるのなら、取り戻せば良いだけ。
そのアイディアとして、発達のヌケを育てなおしたり、身体アプローチをしたり、栄養面から後押ししているのです。
これらは治療でなく、すべて神経発達を促すための子育て。


「脳の機能障害」から脱せられない人が、いつまで経っても治療だと勘違いをする。
自閉症の特性があって、ADHDの特性があって、LD、知的障害の特性がある。
それはすべて生まれつきで、脳の機能障害。
だから、金魚体操も、プロテインも、身体アプローチも、一色単に「そんなんで、生まれつきの脳の機能が変わるわけない。症状がなくなって、治るわけがない」と見誤るのです。


定期的に出てくる「エビデンスガー」もそうです。
治った人が、治療によって治ったと思っている。
だから、親御さんや支援者を捕まえて「医療では~」「医学会では~」「お医者さんが~」「医師法が~」と的外れなことを言い続ける。
「私、お医者さんではありません」
「一般の主婦です」「支援者です」
なんて言っても、ピンとこないのは、「発達障害=医療、治療」という頭が切り替えられないせいです。


どこの世の中に、胎児期から2歳前後の発達を、「エビデンスが必要だ」「専門家、専門機関じゃないとやってはいけない」という人がいるのでしょうか。
赤ちゃんの発達って、専門機関で行うもの?
どの子も、みんな、お母さんのお腹の中と家庭、自然の中で発達させていくでしょ。
「その寝返りの仕方に、エビデンスがない」「寝返りが完了としたという科学的根拠は?」と赤ちゃんに言うのですか(笑)


どれくらいの回数、強度、距離をズリバイしたらクリアになり、次のハイハイへ移行するか、なんてデータの取りようがないし、個々によって違うもの。
だから、「エビデンス」「エビデンス」というけれども、最初から胎児が、赤ちゃんが、幼児が、どのような流れで発達していくかは、エビデンスとは別次元のお話なのです。
治るには、エピソードで十分。
というか、エビソード以外出てくるわけはないのです。
だって、子育てだから、自然なヒトの発達だから。


胎児期の発達は、誰が行うのですか?
お医者さんじゃないですよね。
そして環境も医療機関、専門機関ではない。
胎児期の発達の主は、胎児自身であり、母体が育つ環境。
同じように、出生後だって、赤ちゃん自ら刺激を感じ、刺激に反応し、自分の神経を育てていく。
育つ環境は、普通の家庭であり、親子、家族の関係性の中で。


私達は、最初から治療しようなんて思っていない。
特性を治療によって、「治そう」なんてしていない。
いろんな理由から、特に胎児期から言語を獲得する前の2歳前後の発達の中にヌケや遅れが出ている。
だったら、そこに戻って、今から育て直そうよ、子どもが育てる神経を後押ししようよ、ということ。


育ってない神経、未発達の神経を育てたい。
そして、そういった神経が育っていけば、その人の持つ自然治癒力と発達する力によって、心身共にバランスが取れてくる。
症状が症状として表れる前に、症状が出ていたとしても、神経発達と新たな神経回路の接続が状態を変化させる。
未発達の神経が育てば、症状が消え、治っていくのは、自然な流れだといえます。


神経が未発達の部分を、治療しますか?育てますか?
胎児も、赤ちゃんも、未発達な部分があって、それを育てていくじゃありませんか。
未発達だからといって、薬を飲ませたり、治療したりしないでしょ。
未発達な神経は治療対象ではなく、育む対象だから。
そうやって人類は、700万年もの間、育み、命のバトンを渡してきたのです。


親が、支援者が、いつまで経っても、発達障害が治療対象だと考えている限り、治りはしないし、障害は残ったまま。
むしろ、未発達をそのままにして積み上げていくもんだから、歪み、凸凹は大きくなるばかり。


子は親を選べない。
親が選べるのなら、痛ましい虐待を受けた子ども達は、その親を選んだということになるから。
そんなわけはないに決まっています。
多くの子ども達と出会ってきましたが、誰ひとりとして治療してほしいなんて望んではいません。
ただ、みんなと同じように、伸びやかな発達、成長がしたいだけ。
その願いが聞けるのは、親御さんだけ。
ですから私は、親御さんに子育てをしていただきたい。
子育てこそが、子どもの願いであり、その流れの中に「発達」と「治る」があるから。

2019年3月13日水曜日

発達は文化ではない

親が美味しそうに食べるのを、子どもに見せる。
大人が一生懸命働く姿を、子どもに見せる。
まずは大人がやってみて、それが刺激になって、子どもの成長に繋がることもあるでしょう。
でも、それは文化の伝承において。
やっぱり発達に関しては、子どもが主体であり、先行しなければならないと思うのです。


では、どうして発達は“子ども先行”なのか。
それは、発達が本能であり、遺伝子レベルのお話だから。
進化の歴史の中で、脈々と受け継がれてきたものが発達そのもの。
どの時代の、どの文化圏に生を受けようとも、ヒトは一定の発達過程を辿ります。
言葉を獲得する前の発達は、時代や文化が手出しできるものではない。


発達障害の子ども達というのは、主に言葉を獲得する前の発達段階に、やり残しやヌケがあります。
胎児期からだいたい2歳前後までのヌケであり、遅れです。
そのヌケを埋めるのに、言葉は役には立ちません。
文化の伝承とも違う。
となると、そもそも大人が、他人が手を出せるものでもないのです。


子どもは、自分に足りない発達刺激を自然と求めます。
子どもは、抜かした発達課題を、自ら埋めようと動きます。
何故なら、発達のヌケ、遅れは自分の内側にあるから。
「あなたには、発達の遅れがあります」
これは推測の域を出ることはないのです。
発達に関して言えば、その子、本人しか知る由もありません。
いいえ、本人の意識レベルにすら上がってこないものですので、その子すらわかっていないのかもしれません。
子どもの目を通してみれば、その時々で、内側から突き動かされるエネルギーをぶつけた先が、自分自身に必要な発達だった、という感じなのでしょう。


この時期になりますと、大人は揺らぎます。
学年末の振り返りがあり、すぐそこに次の学年が待っているから。
でも、これは文化的なお話。
子どもの発達とは関係ないことなのです。


産休後、入園する赤ちゃんが、「そろそろ四月になるから、いっちょ、ハイハイの段階クリアしとくかな」なんて思わないはずです。
発達課題は、あくまで本人がやり切ることでクリアされるもの。
「育児休暇が終わる」とか、「新年度が始まる」とか、「担任が変わる」とか、「今年度、思ったよりも伸びなかった」とか、そんなの全部、その子の発達とは直接的な関係はありません。


よく「この子の発達のスピードを尊重します」「一人ひとりに合った歩み方がある」と言う人がいますが、呪文のように自分自身に言い聞かせている人が少なくないような気がします。
だって、年度末に焦るから。
そして、言葉に出す出さないにせよ、自分の中では「ここまでできている」といった発達の道筋を描いてしまっているから。
本当に、その子の発達ペース、歩みを尊重するのなら、年度で区切らないし、子どものペース、波長に合わせていくものです。
それが「子どもがリードする」ということ。
学校の先生から何か言われても、「それは学級経営上の話ね」「発達の話と別次元の話ね」と受け流せるかどうか、です。


私のところに来る相談、依頼で、「何をしたらいいか分からない」という内容があります。
「自分自身でやってみたけれども、どうもうまくいかない」「いろいろやって伸びてはいるけれども、もっとより良い子育てがしたい」というような依頼には応えますが、上記のような方からの依頼はお断りしています。
「お金なら出します」というようなお話もありましたが、結局、受けることはありませんでした。
それは、私が「治したい」と思って仕事をしているからです。


もし私が、「何をしたらいいか分からない」というような人の依頼を受けたら、どうなるでしょうか?
きっとその人は、子どもではなく、私を見るようになります。
私が提案したことをやり、課題がクリアされれば、再び「次は何をしたら?」となる。
こうなれば、発達援助ではないし、子育てでもない、宗教です。
そして何よりも、子どもが治っていかない。
子どもの発達を感じ、求めていることに目を向け、気が付かなければ、発達の後押しはできません。


私が基本的に一回だけの訪問にこだわるのは、私の方ではなく、子どもさん、そして子どもさんの内側に流れる発達の息吹を見て欲しいからです。
私はあくまでも、伺ったその日、そのときの発達を感じ、お伝えしているだけ。
端的に言えば、一緒に発達の息吹を感じることを通して、子どもさんとの波長合わせのお手伝い。


文化や時代、大人の話、都合に揺らいではいけません。
だって、私達は、言葉を獲得する前の発達のヌケを育てたいから。
赤ちゃんが自由気ままにハイハイするように、それを一緒に楽しむように。
これこそが自然な発達の姿であり、発達を後押しする姿。
子どもの発達を感じ、常に波長を合わせていれば、揺らがないし、自然と発達のヌケは育っていくはずですね。

2019年3月12日火曜日

リードするのは親でも、支援者でもなく、子ども自身

プロテインを飲ませたいのは親御さんであり、飲むのはお子さん。
このことを忘れてはいけませんね。
もし、お子さんがプロティンを飲まないのでしたら、親ができることは二つだけ。
どうしたら、心地良く飲んでくれるか、試行錯誤することと、プロティンが飲める身体に育てること。
たとえ、本人に必要な栄養素だとしても、嫌がるのを無視して無理やり飲ませるのなら、私はそれも一つの虐待だと思います。


子どもは、自分に必要な発達刺激がわかります。
自ら能動的に、また時間を忘れるように熱中する遊び、活動というのは、“今”その子にとって必要な刺激であり、今まさに発達課題をクリアしようとしている瞬間なのです。
同じように、自分に必要な食べ物もわかります。
言葉がまだはっきり出ていないような子でも、「これが食べたい」「もっとほしい」と主張することがあります。
「一時期、〇〇ばっかり食べていた」なんていうお話も、いろんなご家族からお聞きします。


子どもが欲する食べ物、栄養素は、本能レベルで自分に必要だと気がついているのだと思います。
ですから、発達に関して言えば、子どもの声に耳を傾けるべきだと思います。
親がリードするのではなく、子どものリードに親がついていく、または横について伴走する感じです。
もちろん、学習や躾、心身を育むことに関して言えば、親がリードする方が良いこともありますが、発達はあくまで子の前に出ない、子の気づき、本能、伸びる力を信じてついていくことだと思います。


私は訪問型の仕事をしていますので、すぐに感じます、親子の距離感が。
子どもが前にいるか、親が前にいるか。
親が子どもにちゃんとついていけているか、子どものペースを無視して、親が前を走っていないか。
理想的な親子、「ああ、この調子で行けば、ドカンという発達が来るな」「治って、ちゃんと自立していくね」と感じる親子というのは、子が前を一生懸命走り、それ後ろからついていって後押ししている親御さん。
あくまで、発達のリードは子どもさんで、「私は、我が子の伸びる力を信じます」という姿勢があるご家庭では治っていくし、子どもさんが成長とと共に自ら手と足で治し、自立していくように感じます。


犬の曲芸みたいな療法とは、「ここまで来たら、ご褒美をやるぞ」「これができたら、お菓子をあげるぞ」、そんな大人がリードし、それに子がついていくという流れです。
これでは芸は身につくかもしれませんが、発達のヌケが埋まっていくことも、治っていくこともないでしょう。
そして何よりも、自らの足で立とうとする意思と力が身につきません。
療育を受けた子ども達が一向に自立しないのは、こういった大人、支援者が常にリードする育て方をされ続けたから。
芸をする動物が自立して野生に戻らないのと同じ。
芸を身に付けさせるには、意思はいらない、むしろ邪魔なので、その余白を作らないように常にリードする者と、それについていくだけの者という関係性を作るのです。


神経発達に栄養は重要な要素になります。
しかし、その重要な栄養も、吸収できるだけの内臓、口に入れ、咀嚼し、飲みこめるだけの力、育ちが必要です。
また、「この食べ物は安全だ」「食べてみたいな」と感じられる嗅覚も。
そういった発達、育ちはできているのか。
ちゃんと食べ、吸収できる身体に育っているのか。
もし、まだ育っていない部分があるのなら、そこを育てていこう。
そのように思えることが、子どもの発達を後押しすることであり、意思を尊重することだと思います。


その食べ物を食べるのは誰か?
その遊びをするのは誰か?
発達のヌケを埋め、育てていくのは誰か?
この答えは、すべて目の前にいる“子ども”自身。
ですから、発達に関して言えば、先頭を走るのは、常に子どもなのです。

2019年3月9日土曜日

子どもが治った姿は、子育ての延長上に

治している親御さんと、その子どもさんの間には、自由で心地良い雰囲気が流れているものです。
今まで、多くの治している、治そうとしている親御さんとお会いしてきましたが、誰ひとりとして強制も、矯正もしていませんでした。
主は常に子ども。
子どもさんがやりたいことを、育てたいことを、一生懸命後押しする姿。
それは自然な親子の関係であり、「治す」と言っても子育てに変わりはないのです。


「治す」という言葉に対し、過剰に反応する人達がいます。
で、治している親御さん達というのは、そういった人達を見て、理解ができなくなります。
治している親御さんというのは、我が子に「少しでもラクになってほしい」「より良く育ってほしい」と願い、子育てをしているだけだから。
嫌がる子どもをよそに、無理やり訓練したり、食べたくないものを食べさせているわけではないから。


治している親御さんと、治るに過剰反応する人達。
その違いは、「治る」の捉え方。
過剰反応する人達というのは、一見すると普通の人達。
普通の家庭で、普通に育ち、普通に学校に行き、普通に就職する。
でも、その歩みの中で、常に親から、周囲から“普通になれない自分”を責められた経験を持つ。
みんなができることが、できない。
みんなと違った行動をとる。
それがいじめや、親からの叱責、学業や仕事の失敗となる。


過剰反応する人達は、「治る」と聞いて思いだすのだろう。
「どうして、あんたは“普通に”できないの!?」という叱責の声が。
自分も、親も、学校の先生も、職場の人達も、発達障害という概念がなかった。
だから、怠けているように見えたし、自分はダメな人間だと思っていた。
親から、先生から、何度も何度も、繰り返し叱責され、できるようになるまで指導されていた。
そんな歴史が、先着一名様の思考とあいなって、治る=普通になる=矯正&強制となっているのでしょう。


治している親御さんで、我が子に「普通になれ」と言う人も、普通を目指して訓練するような人もいません。
ただただ、我が子に治ってほしい、より良く育ってほしいと願っているだけ。
あくまで、より良い子育てのアイディアを求め、発達と成長の後押しをしているのです。


栄養療法も、毎日の食事の延長。
我が子に合ったより良い食事を目指し、試行錯誤しているのです。
身体アプローチだって、言葉以前のアプローチだって、子ども自身がやりたがらないことはやらせません。
すべて遊びの延長、すべて親子のコミュニケーションの延長。
第一、本人がやりたがらないことは、発達課題とリンクしていないのですから、治したい人ほど、そんな方法は選びません。
本人が主体的に、自らやり切ろうとする活動こそ、食べようとする栄養素こそ、本人の発達に必要なものなのですから。


私は思います。
「治す」が強制、矯正といえるのなら、標準療法、療育のほとんどが虐待ではないか、と。
就学前の子どもに、精神科薬を飲ませる。
やりたい行動を止め、ボーロ一つで釣る。
自分の親に甘えたい、コミュニケーションしたいと思っている子に、「それは年齢にそぐわない行動だから」と言って、親が反応せず、無視し続ける。
刺激を統制することが大事だからと、何も置かれない部屋で、狭い衝立の中で一日中過ごす。
自分の意思が入る余地がないスケジュールを朝から淡々とこなすように求められる生活。
「これが適切な振る舞いだから」とマニュアルを暗記させられ、支援者が支援しやすいような行動を身に付けさせられるSST…。


治している親御さんというのは、怒っていることが多い。
それは、根拠なく「治らない」と嘘をつくことに対して。
そして、我が子のために日々、一生懸命子育てをしているだけなのに、「それはおかしい」「かわいそうだ」と、我が子ではない他人が茶々入れてくることに対して。
治している親御さんにとっては、自分の親との間での不完全な想い、愛着障害、先着一名様思考で治すこと=普通になることの矯正、強制だと連想しパニックになっている他人など、関係ないし、どうでもよいこと。
我が子ならまだしも、他人の子まで「甘えてくんじゃね~」といった感じでしょう。
知らない他人の甘えに応じられるほど、世の中の大人は暇じゃない。


「我が子を治したい」というのは、親御さん自身の心で叫んでいることであって、それを子どもに強要しているわけじゃないですね。
「普通になれなきゃ、愛されない。親から、社会から捨てられる」
そういった想いになるのは、その人個人の問題であって、治している親御さんの問題ではありません。


治すに、強制や矯正の要素が少しでもはいれば、子どもは応じないし、治っていかないのは、「治そう」と頑張る親御さん達が一番分かっていることです。
支援者の立場だって、「私が治そう」なんていう想いがちょっとでもあれば、子どもは見向きもしてくれないし、近づかせてもくれないことは、何度も経験していることです。
子ども自身が育てたいこと、治したいこと、心地良いと感じることを後押しするのが、発達援助。
子どもが治った姿とは、子育ての延長上に見えるのですから。

2019年3月8日金曜日

「治るか、治らないか」ではなく、「やるか、やらないか」

「発達障害が治るか、治らないか」
私の中では、前から結論が出ていました。
実際に治っている人達を見てきたからです。
そして同じように、全国にも結論が出ている人達がいます。
神経の発達障害なのだから、治るに決まっています。
治らないとしたら、神経がないか、すでに神経を発達させられる状態にない、つまり、生きていないか、になります。
ですから、「発達障害が治るか、治らないか」ではなく、「治すか、治さないか」。
いや、もっとシンプルに、「やるか、やらないか」、ただそれだけだと思っています。


世の中に、しかも同じ時代を生き、同じ日本に住む人達の中に、治っている人達がいるのです。
しかも、世界的な診断基準にも、「治らない」なんて書かれていない。
むしろ、介入によって、診断名が適さなくなることも、知的障害の状態が変わっていくことも、記されている。
ここまでくれば、「治らない」と主張する人のその言葉が、単に「やりたくない」「やれない」という風に聞こえてきます。


当事者の人は、先着一名様の思考のために、支援者、親の言っていた「治らない」が頭の中から出ていかないのでしょう。
治らないことで得られていた生活、小さな小さな自尊心、言い訳にできる理由を手放したくないがために、「治らない」と言い続ける人もいるでしょう。
途中から特別支援の枠に入った20代、30代の当事者の人達の中に、治ってラクになるよりも、自分の過去の後悔、辛かった歩みに押しつぶれないようにするために、「治らない」に必死にしがみついている人が少なくないようにも感じます。


親御さんで言えば、「治らないから!」のではなくて、「今さら、治ると言われても…」が真実のように感じます。
「治りません」という絶望の言葉を送られ、しかも、普通の子育てすらできないと、我が子も、親である自分自身も否定される。
そんな否定し続けてきた専門家の言う通りにしてきてしまった自分がいて、さらに今、その選択すら木っ端みじんに否定される。
それに耐えられないからこそ、「治らない」にこだわる、いや、「治らないでくれ」というような悲痛な叫びにすら聞こえてくるのです。


親御さんの中には、「軽度の子は治るんでしょ。でも、うちの子は、重いから」というような人もいます。
しかし、これは言い訳。
しかも、とても卑怯な言い訳。
だって、自分ができないのではなく、「この子が重いから」と我が子のせいにしているのです。
私は、この言葉を聞くと、とても悲しくなります。
自分の親に、「あなたが重い障害だから」と言われる子の気持ちを想像すると。
私が子どもなら、「僕のせいにしないで、少しでもラクになる方法を探してやってみてよ」と思うはずです。


ずっと言葉が出なくて、重度の知的障害と言われていた子。
実際に診断も受け、支援学校にも行った。
この親御さんの涙は幾度となく見た。
でも、この親御さんは「我が子が重度で言葉がなくても、学校から、支援者から見放されていたとしても、私がしっかり育てていく。だって、私がこの子を信じなければ、誰が信じてあげるの。この子の可能性と明るい未来を」
そうやって、コツコツ育てられた結果、まだ知的障害はあるものの、一人の社会人として働く若者に育った。


こういった親御さんの姿を見るたびに、治るか治らないかの議論はクダラナイと思うのです。
だって、治るから。
「治らない」と言っている人は、やりたくないだけ、治らない方が良い理由があるだけ。
だったら最初から、「私はやりたくない」「できません」と堂々と言えば良いと思います。
やりたくない人、治りたくない人にまで、治ってほしいと願う人はいない。
少なくとも、私は1ミリもそう思わない。
我が子の発達の違いに気づいた親御さんと、その子どもの未来にとって迷惑だから、「治らない」という嘘を言うのだけは止めてくれ、と率直に思います。


私の事業の指針は、社会です。
社会にとっては、やれない個人を慰めるより、治る人が増えていく方が良いのです。
そのためには、やろうとする人、治ろうとする人を後押しするのが正しい道。
ですから、私は治す人、治りたい人と共に歩んでいきます。
治りたくない人に使える程、私は多くの時間も、気持ちも、志も持ちあわせていませんので。




2019年3月7日木曜日

『NEURO 神経発達障害という突破口』(花風社)を読んで

今週、ある若者から連絡を頂きました。
「アルバイトを始めました!」という連絡です。
この若者は、長年、支援センターに通い、病院にも通い、そしてひきこもっていたのです。
昨年12月にお会いし、脳のバランス、発達のヌケの確認をし、その育て方のアイディアを紹介。
また花風社さんの本と、藤川徳美医師の本を紹介し、あとはご自身で本を見て実践したり、プロティンやサプリを飲んだりしたそうです。
そして長年、変わらなかった状態を、専門家、医師がどうにもできなかった状態を、ご自身で突破されたのです。
本人も、家族も、涙を流して喜ばれていました。


この仕事を始めてから、多くの涙を見てきました。
上記の若者、家族のようなうれし涙だけではありません。
「本当は、みんなに理解してほしいんじゃなくて、その辛さを分かってほしいんだよね。そして少しでもその苦しさを取ってほしいんだよね」
そんな言葉を聞いて、泣き崩れる若者に何人も、何十人も会いました。
「障害者枠で働いていることが辛いんだよね。障害者として生きることが辛いんだよね。一人の人間として生きていきたい。自由になりたいんだよね」


このように本人たちは、理解よりも、保護される中で生きることよりも、少しでもこの苦しみから逃れられてラクになること、同世代の人達と同じような自由で、成功も、挫折もあるような人生を送ることを望んでいる。
若者たちと話すと、いや、小学生の子ども達ですら、治りたいと思い、治る方法を知りたがっている。
ある小学生の子は、治ることを知り、「学校の先生も、病院の先生も、みんな『治らない』っていうけれども、治るんだって。僕だって、普通になれるんだ!僕は頑張りたい!」と言って行動し、今は普通の生徒として学校生活を送っています。


当然、本人たちが治りたいと思うように、親御さん達も治ってほしいと願っています。
だからこそ、「治る」という言葉を聞いて、治すアイディアを聞いて、実際に治っていく様子を見て、涙を流されるのだと思います。
「普通の子育てはできない」「家庭でできることはない」というメッセージを専門家から送られ、ずっと「治ってほしい」という想いに蓋をしてきた。
「治らない」という絶望的な言葉の上に、普通の子育てすらできないという親としての否定すら受け続ける。
親御さんが流す涙は、うれし涙よりも、悲しみで溢れています。


私自身、二人の子を育てる親、子育て世代です。
私は近頃、同世代の親御さん、治している親御さんにこう言います。
「私たちの世代で、悲しみの涙を流すのは終わりにしましょう」と。
当然、子育てをしていれば、生きていれば、楽しいことだけではなく、辛いこと、苦しむことがあります。
でも、私が見てきた親御さん達の涙は、必要な涙だといえるのでしょうか。
治すために今、頑張っている親御さん達も、最初は絶望の涙を流したこともあるでしょう。
その絶望の涙は、流す必要がある涙だったのでしょうか。


先週の日曜日、3月3日に花風社さんの講演会に出席してきました。
今まで花風社さんの講演会には二度行ったことがあります。
一度目が浅見さんと南雲さんの講演と、栗本さんの実践の会。
ここで私は、本気で治したい、本気で子ども達の未来を良くしたい、という想いを強くし、また社会性の土台が身体から育っていくことを肌身で感じました。
二度目は、栗本さんのコンディショニング講座。
支援者としての、子どもと向き合う人としての心構え、身体の使い方を教わりました。
どちらも、その講演会が、私の支援者として、事業として転機になったと思っています。


そして今回の講演『神経発達障害という突破口』
私は、浅見さんの講演を聞き、やっぱり私たちの世代でケリをつけないといけない、終わりにしないといけないという想いを強くしました。
子ども達の人生よりも、親御さんの願いよりも、支援者側の都合で展開されてきた特別支援の世界。
しかも、絶望の涙の大元の「治りません」は事実ではなく、嘘であった。
浅見さんの講演は、会場にいた私達に向けられていたようで、違うような気もしました。
浅見さんの言葉、想いは、もしかしたら、未来の子ども達、これから親になる人達に向けられているのではないか、そんな風に私は感じたのです。


私は、このブログで紹介させていただく花風社さんの新刊『NEURO 神経発達障害という突破口』を読んで、これこそが最初に読むべき本だと思いました。
最初に読むとは、我が子の発達が気になったとき、診断を受けたとき、これからどうしようと思ったとき、最初に読んでほしい、という意味です。
この本は、今までの親御さん達が流した絶望の涙を、これからの親御さんに流させないための本。
そして神経だからこそ、「あのとき、私がああすればよかった」などと後悔するところから一歩踏み出す希望を与えてくれる。
神経だからこそ、やりようがある、育てようがある…治るんだ!!


本が届いたとき、仕事に出る前でしたので、郵便局にまず振り込みに行き、そしてチラチラッと最初の方のページをめくりました。
巻頭に出てきたマンガを見て、感情が揺さぶられました。
絵を描くプロというのは、絵がうまい下手だけではなく、人の心を動かす絵、人の心が宿った絵が描ける人のことをいうのだと私は初めて知りました。
あのマンガは、著者である浅見さんの想いと、全国の当事者の方達、親御さん達の想いが宿り、表現されていた絵だと感じました。


私も、この仕事をあとどれくらい続けるかはわかりません。
でも、これから出会う親御さん達に、この本を紹介し続けると思います。
また私自身も発達障害の人達と関わっている限り、そのとき、そのときで読み返し続けると思います。
もう絶望の涙を流すのは、私たちの世代で最後にしましょう。
これからは、どうやって治していくか、どうやってより良く子どもを育てていくかに涙と汗を流していくのです。


今回の講演会、新刊を読んで私は思います。
私たちの世代は、浅見さんから宿題とエールを送られた、と。
今の子ども達、親御さん達、そして未来の子ども達、親御さん達のために、一人ひとりができることを行っていく。
それは治った者同士で手をつないでいくこと。
治ったエピソードが積み重なっていけば、未来の子ども達、親御さん達の希望になることができるのですから。