2020年9月30日水曜日

【No.1105】因果関係ではなく、育つための糸口として捉える

神経発達症の子ども達は、神経に「未成熟や未発達の部分がある」ということだといえます。
ですから、もし彼らに有効な薬があるとすれば、神経の発達を促す薬になるでしょう。
しかし残念ながら、そういった薬はありません。
今ある薬、処方されている薬は、彼らの症状を抑えるためのものになります。


表に出ている症状によって、生活に支障が出ている人もいるでしょう。
そういった人たちにとっては緊急事態ですから、一時的に症状を抑える必要があると思います。
でも、緊急事態は緊急事態であって、生涯、永遠に、ということはないはずです。
根本的な解決を目指すとすれば、彼らの神経をよりよく育てていく以外ないのです。


実生活で何らかの支障が出る。
そして受診し、薬が処方される。
ドーパミンやノルアドレナリンなど、神経伝達物質を調整することで症状の緩和や抑え込みを目指していく。
しかし、ここでしっかり考えなければならないのは、神経伝達物質の問題が症状と直接結びつているかどうかです。


たとえば、授業に集中できない子がいるとします。
そこで中枢刺激剤が処方され、服用するというのが一般的な流れですが、授業に集中できないのは、神経伝達物質の問題だけではないはずです。
そもそも中枢刺激剤は、神経発達症以外の人が服用しても集中力が上がるものでもあります。


本来、医学的な処方をするのでしたら、他人の身体の中に何かを入れるという判断をするのでしたら、それなりの根拠が必要になります。
しかし全国を探して、わざわざ学校まで子どもの様子を見に来てくれる医師はいるのでしょうか。
というか、ここに神経発達症における医療の限界があるのだといえます。
つまり、因果関係がはっきりしているものに対して強いのが医療。
だけれども、いろんな影響と可能性が考えられる複雑系のものに対しては限界がある。
(授業に集中できないのは、聴覚(≠前庭系)の未発達、身体の軸が育っていない、腰が育っていない、脳の未分化、栄養不足、睡眠の乱れ、汗がかけない、そもそも授業がつまらない、先生が嫌いなど無数&複数の重なり合い)


神経発達なんて、複雑系の最たるものです。
神経発達症の子ども達に多く見られる言葉の遅れ、不器用さ、こだわりなど、何か一つの原因で説明できるものなどありません。
遺伝というベースに、胎児期からの環境からの影響を受け、複雑に絡み合い、現時点で表に出ている部分がその症状の一つに過ぎないのです。
同じ言葉の遅れでも、一人ひとり、理由は異なりますし、その影響のバリエーションといったら無限にあります。
ですから、そもそも神経発達症において、因果関係をはっきりさせようとすること自体、不可能なのです。


掴めないものだからこそ、不安になり、不安になるからこそ、膨大な情報の中からシンプルな答えを求めようとする…。
でも、それは子ども自身ではなく、親御さんにとって、支援者にとって。
「自閉症は視覚優位だから、視覚的に提示すれば、よくなる」
「神経発達にはタンパク質が重要だから、プロテインを飲ませれば、よくなる」
「普通の子とは違うのだから、専門家に任せれば、よくなる」
【自閉症→視覚支援】【神経発達→タンパク質】【特別支援→専門家・療育】
こういったのはすべて一方通行であり、部分的な仮説の一つにすぎません。
視覚支援は、すべての自閉症の人に合うか?
タンパク質を摂れば、神経発達が起きるのか?
そもそも我が子の神経発達の遅れがタンパク質不足だからなのか?
専門家・療育を受けなければ、神経発達は生じないのか?
家でできることはないのか?


さらにいえば、こういったシンプルな図式は迷いを払しょくし、ひと時の安心感を得られますが、失うものが大きい。
自閉症の子ども達に視覚支援ばかりした結果、聴覚を育てる機会が極端に減ってしまった。
タンパク質にこだわるばかりに、通常の食事においての味覚を育てる機会、消化器系を育てる機会、咀嚼をする機会を失ってしまった。
療育に突き進んだ結果、親子の愛着形成が遅れてしまった、園などで同年代の子ども達と集団で過ごす体験を失ってしまった。
多くは申し上げませんが、栄養療法が流行してから、口、舌、嗅覚&味覚、言葉、咀嚼からの認知の遅れで相談される子が増えたように感じます。
物事を単純化するということは、因果関係をシンプルにするということは、それ以外の多くの影響を切り捨てることでもあります。
それは精神科薬と同様、副作用が大き過ぎます。


私も「背骨の過敏さをとりましょう」「ハイハイをやり直しましょう」「水遊びをしましょう」「親子でのスキンシップ遊びを増やしましょう」「内耳を育てましょう」などと提案することがあります。
しかし、これは因果関係で申し上げているのではありません。
あくまで基本は、「治しやすいところから治す」「育てやすいところから育てる」です。
神経発達の一部分でもつながれば、引っ張られるようにしてほかの部分も育ち始めるのは、子ども達の特徴になります。
つまり、数ある糸口の一つをお伝えし、そこを育てる後押しをしてもらうことで、結果的に子どもさん自身の発達する力、自然治癒力を発揮してもらおうと考えているのです。
たぶん、他の実践家の人たちも、複数の要因・影響が見えつつも、一番効果的な一本(糸口)を伝えているのだと思います。
症状を抑え込むためではなく、症状をより良い発達への入り口とするための糸口です。


一方で、この無限にある影響、要因をすべて明らかにすることができないからこそ、快食快眠快便を整えること、親子での関わりを大切にすることを強調しています。
神経発達症の子ども達の発達のズレが、言葉を獲得する以前の胎児期から2歳前後に生じていることからも、この時期の育ちを、動物としての原理原則をもう一度見直し、そこから育てなおすことが重要だといえます。


因果関係に固執すると、その周辺にある大事なものが見えなくなります。
ですから、動物としての育ちを大切にし、糸口をたくさん見つけていくことが必要です。
その糸口は仮説で構いません。
神経はいろんなところと繋がっていますので、1つが育てば、いろんな面に影響を及ぼすのです。
まさに「ラクになってほしい」「より良く育ってほしい」という親心が、表に出ている症状を抑え込むのではなく、症状からより良く育つための糸口を見つけていく連想への一歩になるのだと思います。




2020年9月28日月曜日

【No.1104】人それぞれの成育パターン

親御さんと話をしていると、「小学校低学年くらいまでは先生の話が全然聞けなかったんです」「他人の気持ちが想像できるようになったのは、小学校高学年くらいからですね」「小学生の間は、落ち着きがなく、いつも走り回ってきました」なんていうことをよくお聞きします。
だいたい10歳くらいですね、そんな皆さんがガラッと変わるのは。
親御さんの発達の流れを見ていますと、バラバラに発達していたものが、一気に繋がったという雰囲気を感じます。
細かい部分で見れば、こうやってお話ししている今も、多少の発達の凸凹がありますが、社会の中で、家族を作り、生活することができているのです。


「今の時代に子どもだったら、私も診断がついていたでしょうね」
これも、親御さんからよく聞くフレーズになります。
確かに、青田買いの現代では、生後3年間の中で、少しでも発達が遅れていれば、すぐに指摘され、診断→療育→支援へとつながれていたと思います。
そうだとしたら、今の親御さんの人生、生活、そして我が子と暮らす日々もなかったでしょう。


このように10歳を過ぎたあたりから、一気に神経が繋がっていく人達は、発達障害の人達なのでしょうか。
私はそうは思いません。
ただ神経ネットワークができるのがゆっくりな人達であり、環境と成育パターンの違いなのだと考えています。
生後すぐに生まれ出た環境に、脳・神経を合わせようとする発達パターンの人もいれば、10年くらいかけて環境を見極め、よりよく適応できるようにと発達するパターンの人もいるでしょう。
ヒトの目的は、生き抜くことと子孫を残すこと。
その「生き抜く」ためにも、「子孫を残す」ためにも、まずは環境適応が重要なことになりますので、そこに個としての多様さ、生存戦略の違いがあっても不思議ではありません。


ですから、発達障害というのは、現代病なのでしょう。
環境の急激な変化によるリスク要因の増大とともに、端的に言えば、人それぞれの成育パターンを待ちきれない社会が作りだした病なんだといえます。
3歳でグッと繋がる子、5歳でグッと繋がる子、7歳で、10歳で、20歳で、グッと神経が繋がる人達がいるのにもかかわらず、教科書通りの成育パターンで判断され、1歳、2歳、3歳でつまみとられていく。
つまみとられた先に、子ども達が伸びやかに"育つ"環境が用意されていれば良いのですが、あいも変わらず、カナー型を想定して始まった支援へと繋がれてしまう。
育ちが必要な子ども達に、手をとり足を取りの支援は却って発達を阻む結果にもなります。


時々、「大久保さんに見てもらってから、子どもが大きく成長しました」などとおっしゃる親御さんがいますが、それは違うと思います。
発達のストッパーやヌケを確認し、お伝えした場合は、多少影響はあったかもしれませんが、そうではない場合は、たまたまタイミングが合っただけです。
子どもが育つタイミングで、私が関わっただけ。
子どもの発達・成長する力を侮ってはなりません。
ちょっとやそっと外部から刺激を与えたくらいで変化させられるようなものではないのです。
もしそうだとしたら、とっくの昔に人類は滅んでいます。


10歳でいろんなものが一気に繋がり、世界が開けたという元子ども達の皆さん。
そのような方達は、支援級で勉強したのでしょうか、早期から療育を受けたのでしょうか。
もっといえば、プロテインやサプリを摂ったのでしょうか、原始反射の統合や発達のヌケを育てなおすことを日々行っていたのでしょうか。
私も「発達援助」を掲げて仕事をしていますが、もう少し親御さんの、ご自身の内側にあるものに注目し、そこからより良い子育てへと繋げて欲しいと思っています。


発達相談と聞くと、発達のヌケやストッパーを私が確認し、それをどうやって育てたら良いか、アプローチしたら良いかを伝えるという一連の流れを想像されるかもしれません。
でもそれは私の仕事のやり方の一つであって、メインは親御さんの内側にある知恵を引き出すことです。
なので、子どもさんのアセスメントをしているようで、実際は親御さんのアセスメントをしていることが多い。
結局、療育も、特別支援も、栄養療法も、身体アプローチもない状況で育ち、自立しているのです。
無数にある成育パターンの中で近いものを持っている親子なのですから、その歩みの中にこそ、中心となる発達援助があるといえます。


この領域で、医療が子ども達の未来をより良いものへと変える力になれないのは、つまるところ子育てだからです。
子育ての中心は、親子の関係に他なりません。
親子で触れ合い、戯れ、同じものを共に食べ、共に排泄し、共に眠りにつく。
こういった親子という原始的な、1対1の関係性の中でしか育たない部分があるのに、そこが生きるための土台の発達になるのに、その時間を削って外部を頼るのは間違っていると思います。
また外部の知恵を求めるよりも、まずは自分たち親が育ってきた道、歩んできた道の中に、我が子をより良く育てる知恵を探すべきだと思います。
それこそが命をつなぐ、命を伝えることではないでしょうか。


私のような外部の者が、親子の子育てに新しい知恵を与えることはほとんどありません。
たぶん、私の仕事のメインは、親御さんが気づいていない、無意識に育てきった知恵を言語化することなのでしょう。
発達相談の際、親御さんが私の提案を聞いて共感するのは、既にご自身の体験の中にそれがあったからだと思います。
まずはご自身の内側にある知恵を求め、もしあとになって繋がったという意識があるのでしたら、その年齢まで我が子の育ちを待つことも大事なのかもしれません。
大器晩成という成育パターンの子も少なくないのですから。




2020年9月25日金曜日

【No.1103】複雑から単純へのプロセスを見る

発達のヌケや未発達が育ってくると、課題が集約されていきます。
「ここも育てなきゃ」「あそこも育てなきゃ」という状態から、「この困り感も、あの困り感も、すべて○○と繋がっていますね」という状態へ変わります。
ですから、発達相談でアセスメントを行っても、その時間に大きな違いが出るのです。
10分くらいで結論が出るご家庭もあれば、2時間以上かかるご家庭もあります。


子どもさんの困っているところをお聞きすると、「それってすべて内耳の発達と繋がっていますね」「背骨の過敏さが、全体的なストッパーになっていますね」というように展開する場合は、ヌケや未発達が少ないか、既に大部分が育ち直されたご家庭です。
反対に、運動発達も、呼吸も、感覚も、愛着も、背骨も、口も、脳の偏りも…という具合に、あれもこれもとなるご家庭は、まだまだ課題の本質、根っこに届きづらい状態です。


対人面、コミュニケーション、身辺面、身体の動きなど、表に出ている課題は多くあるのに、課題の根っこが1つに集約されている状態。
同じように、対人面、コミュニケーション、身辺面、身体の動きなど、表に出ている課題が多くあって、それぞれ別の根っこと繋がっている状態。
表面に出ている課題ではなく、その課題と繋がっている根っこを見抜くのがアセスメントになります。
神経発達症の子ども達が育っていく過程は、複雑から単純へ。


「複雑から単純へ」というのは、子どもが育っていく過程以外にも見てとれます。
たとえば、親御さんの特別支援との向き合い方です。
最初は、あらゆる情報を集める、あらゆる療育を受けさせる、あらゆる専門家のところに行く。
そうやって我が子の発達の遅れと向き合った瞬間から、どんどん複雑な方向へと進んでいきます。
そして子どもが発達・成長し、自分の中でいるいらないがわかってくると、単純化へ向かっていきます。
いらない情報は捨てる、いらない本は捨てる、特定のブログを読まなくなる、療育に通うのを止める。
結局、神経発達症は病気ではありませんので、シンプルに言えば各家庭の子育ての話です。
その本質に気づくと、余計なことをやらなくなり、子どもと純粋に向き合えるようになるので、発達が加速していくものです。


ですから反対の見方をすれば、複雑化を進んでいる親御さんは、子どもの発達を後押しすることが難しい状態だといえます。
そこら辺の支援者より情報をたくさん持っている親御さんがいます。
「どこにそんな時間があるの!?」と思ってしまうくらい、あちこちに顔を出している親御さんがいます。
支援者も使わないような資格を何万円も出して習得するような親御さんもいます。
以前は、子どもの障害が分かってから、大学に入り直す親御さんも少なくありませんでした(そして支援者や教員になる…)。
で、情報や知識、掛けた時間に反比例するように自分の子が伸びない。


何故なら、先ほども言った通り、神経発達症の本質は、子育てだから。
生き物としての土台である快食快眠快便を整えること。
安心できる家、生活、親子関係を築いていくこと。
そういった動物としてのシンプルな部分をないがしろにして、いくら情報や知識、資格を手に入れても、子どもの発達を後押しすることはできません。
発達相談でよく「私は、あんなお母さんみたいにはできない」と言われることがありますが、「あんなお母さんになる必要はありませんよ」と答えています。
私も多くの親御さん、ご家庭の発達相談を行ってきましたが、子育てを大事に頑張ってるご家庭の子が一番良く伸びています。


私の仕事、発達相談では、いち早く複雑から単純へと進めるように後押しすることだと考えています。
子どもさんの複雑な課題の根っこを、できるだけわかりやすく整理して伝えること。
子どもさんの課題の根っこが既にシンプルなものへと集約されてきているのなら、それを伝えること。
神経発達症は、神経をより良く育てることが重要なのであって、対処療法が求められているわけではないと伝えること。
どんな知識、情報、資格、専門家も、集めるのは親御さんの趣味であって、子どもにも、子どもの発達にもほぼ無関係だと伝えること。
あれこれやり過ぎると却って、本人が育てたいところが十分に育てられず、また神経ネットワークを作る"間"ができないために発達の滞りが生じると伝えること。


人は不安になると、なんでもかんでも集めたくなる性質を持っています。
マスクはウィルスを通すのに、必死に買い集めようとしている人たちがいまだにいます。
マスクは症状がある人がするものであって、無症状の人が、健康な人がわざわざつけるものではありません。
本当はそういった真実も知っているのに、まだ外さないのは、周囲の目が気になるから。
結局、必要がない療育に通わせているのは、うちだけ通わなくなった場合に向けられる周囲の目を気にしているだけ。
そういったくだらない意識のために、子どもの貴重な時間を消費しているのです。


あらゆることに複雑から単純へは当てはまります。
素晴らしい専門家、実践家ほど、子どもの発達を後押しできている親御さんほど、言っていることがシンプル。
ややこしい物言いをしているのは、本質が見えていない人の特徴ですね。
権威や専門家、専門知識と用語を求めるのは、不安だから。
不安な人は複雑を求めます。




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【業務連絡】
9月22日・23日に訪問させていただいたご家庭の皆様、昨日、報告書を郵送いたしました。目を通されて質問したいこと、さらに相談したいことがございましたら、メールください。お返事いたします。どうもありがとうございました!


2020年9月18日金曜日

【No.1102】どの本にも書かれている「家庭のような自然な環境を作る」という配慮事項

多くの支援者と同じように、私も最初から身体アプローチを中心に据えていたわけではありません。
私が学生時代には、既に日本におけるTEACCHの先進地域として突っ走っていた当地です。
TEACCHは、何度もトレーニングを受け、いくつかのレベルの認定証を貰っています。
ソーシャルストーリーも、コミック会話も、PECSも、同じような認定証を貰っていますので、その認定証をもとに支援者の指導はできませんが、私自身が実践するにはお墨付きがあるわけです。


それくらい勉強してきた私ですから、標準療法に関する書籍や論文はある程度、読んできました。
そこで面白いのが、環境設定に関する記述です。
いろんな療法、アプローチがあり、診断やアセスメントの種類がありますが、共通して主張されていることがあります。
それは、「家庭のような自然な環境を作ること」です。
今、私が家庭支援を中心に行っていますので、改めて見ると、笑ってしまいますし、私の仕事の方向性は間違っていないのだと思います。


「診察室は、子どもたちにとって慣れない場所なので、検査者の準備と環境設定、提示の仕方が重要になる」
「診察室では、普段、見せない姿が出ることがあるので、注意して観察する必要がある」
「子ども達が家庭のように自然な姿、動きが出るように、療育部屋は家にあるようなものを配置する」
だったら、家でアセスメントすればいいじゃん。
だったら、家で療育すればいいじゃん。
そうは思いませんか??


自閉症の子ども達は、場所によって見せる姿が異なる、と言われています。
ですから、診察室で見せる姿と家で見せる姿が異なっていてもいいはずです。
というか、幼い子どもなら、いつもと違う場所に行けば、テンションが変わるのが普通です。
でも、診察した医師に、「いや、家だと〇〇ができるんです」と訴えても、「それは違う」と全否定されるなんて話はよく聞く話です。
片方では、自閉症の子ども達は場所によって能力が異なると言いつつ、家でのアセスメントは行っていないし、情報としても医師の所見と対等には扱ってくれない。
始まりは家庭生活の中で困ったことが起きていての診察になるのですから、本来なら家に専門家がいってアセスメントするべきだと思います。


療育に関しても、どうして、わざわざ施設に出向いて受けなければならないのでしょう。
幼い子にとっては、移動も負担になります。
親子共々、電車を乗り継ぎ、ヘトヘトになって療育機関に向かう。
幼稚園や保育園の時間を削って。
夕食や掃除など家事の時間を削って。
兄弟との時間を削って。
それでいて、トランポリン??バランスボール??やっているのかやらされているのかわからないカードゲーム??
家のトランポリンのほうが、思う存分、跳び続けられると思いますが…。
バランスボールで揺れているのなら、近所の公園に行ってブランコに乗っていたほうが早いと思いますが…。


施設側も「家庭のような雰囲気づくり」を謳っていて、やっていることも家でできることばかり。
結局、診断も、療育も、家でできることをわざわざ来てもらってやっているんですね。
それじゃなきゃ、お金にならないし。
あと、どの専門書を読んでも、根底に流れているのは、専門家たちの「専門家じゃなきゃできない」「家では、つまり、親は無理」という傲慢さだと感じます。
TEACCHでいえば、初期の頃は専門施設に来てもらって、そこでアセスメントをやり、指導の仕方を見極め、その後、支援者が家に行き、親御さんにレクチャーするという流れがあったのですが、いつの間にか、特に日本ではそんなことをやっているところはありませんね。


診断も、検査も、療育も、いろんな考え方、流派がありますが、みなさん、「家庭的な雰囲気」を環境づくりのポイントとして挙げています。
わざわざ家庭的な雰囲気を作らなくても、家庭ならその必要はありません。
そして、子どもからしたら、どこの誰かも知らないおじさん、おばさんにあれこれされるよりも、親御さんからアプローチされたほうが受け入れやすいに決まっています。
「最初の数回は、無理にセッションを行おうとせず、子どもとのラポートを築くように努める」なんてことも言っているくらいですから、だいたい1年くらいの付き合いにあるおじ&おばさんと信頼関係を築く必要はないでしょう。
というか、その時間、保育園や幼稚園、公園や家で過ごしていたほうが、よっぽど発達、成長に繋がります。


こうして見ると、既に診断、検査、療育は、産業の一つになっているんですね。
同じ効果があるのなら、家庭で、それも親御さんができたほうが良いに決まっています。
それなのに、そこをやろうとしない。
相変わらず、人工的な空間に親子を呼び、そこでなんか特別なことをやっている感を出しているだけ。
本来、ペアレントメンターが、そういった役割を果たすべきですが、結局、支援の勧誘、専門家の下請け機関にしかなっていません。
標準療法も、創始者の考え、アプローチは素晴らしいのですが、どうも太平洋を渡る間に、人為的な変異が起きてしまうんですね。


家庭で、子育ての中で、親子の関わりの中で、子ども達の課題が解決し、よりよく育っていくのが理想だとは思いませんか。
というか、それが自然な話だと思います。
発達に遅れがあるのは病気ではないので、どう考えても、子育ての話なのです。
その子育てを、より良いものになるように、それこそ、親御さん自身も成長していけるように後押しするのが、専門家の本来の役割だと思います。


この前も、年端もいかない子に、「ここに通う回数を増やした方が良い」なんていう支援者がいました。
療育の前に、子どもの健康だろ、安心できる時間と環境だろ、親子の愛着形成だろ、と私は思います。
本当に子どもの発達を考えている人は、頻繁に診察室、検査室、療育施設に呼ばないものです。
むしろ、減らしていき、負担が軽くなるように努めるものです。
支援者である前に、親子の時間、家庭での時間、家族での育みを一番に考える人でありたいと私は思っています。




2020年9月17日木曜日

【No.1101】療育はずっと前からマスク姿だった

大人の私達だって、マスク姿の人間を見れば、異様に感じるのですから、子ども達はさらにその異様さを感じていると思います。
特に、言葉を獲得する前の段階にいる乳幼児さんからすれば、顔は大事な情報源です。
生きるための情報を得るための顔、言語&コミュニケーション&社会性を育むための顔が、半分隠れている。
その影響は、新型コロナが終息したあとも、子ども達の発達の中に残り続けるでしょう。


幼少期の養育環境が、自閉症やADHDなどに見られる症状を作る、というのは有名な話です。
海外でも、日本でも、そういった研究結果がとっくの前に出ています。
研究対象が養護施設の子ども達ではありましたが、母子間の濃密な時間の欠如が発達を歪ませていくのだと思います。
何故なら、養護施設を出て、里親の元で育てられた子ども達には、そういった症状が消えていく子が多いからです。


コロナ禍でググッと育った子ども達が多かったのは、親子間の濃密な時間が過ごせた、という点が大きいと考えています。
やはり人間には、1対1という関係性の中で育つ部分があるのだと思います。
というか、そういった原始的な、動物的な育ちが必要なのでしょう。


以前、相談があったご家庭は、とても熱心に幼少期から療育機関にあれこれと通っていました。
月曜日はここに行って、火曜日はこの先生のところで、水曜日は…という具合に、我が子の発達にプラスになることを、と頑張っておられました。
お子さんの発達を確認しますと、確かに最初の頃よりは育っていると感じました。
でも、大事な愛着関係が育っていません。
療育施設では順応しているのに、家に、親御さんに順応していない感じです。
それをみて、専門家は「自閉症ゆえの対人スキルの欠如」というかもしれません。
でも、私にはそうは見えませんでした。


0歳から3歳くらいまでは、親御さんと濃密な1対1の時間が必要です。
さらに強すぎる刺激も、発達に繋がるどころか脳、神経へのダメージにつながります。
今でも妊娠中の母親教室などでは、「誕生後、1年間は静かな環境を作ってください」と指導されますので、それくらい赤ちゃんの脳や神経は影響を受けやすいのです。
それなのに、一度、発達の遅れのラインに乗ると、「早期療育」が最優先となり、母子の濃厚な時間よりも、乳幼児の脳を守る静かな環境も、どこかに行ってしまう。
はっきり言って、定型発達の一番後ろのほうを歩いている子を、個性の範囲での発達の遅れの子を、一時的な発達の遅れが出ている子を、障害児にしているのは早期診断、早期療育を進める人間だということが少なくないのです。
療育機関に通う回数を減らし、親子でゆっくり過ごすようになったら、発達の遅れを取り戻し、一般的な幼稚園、保育園に通えるようになった、なんてことはよくあることなのです。


2000年代以降、早期診断、早期療育が押し進められてきました。
今では1歳代のお子さんも、療育に通っています。
でも、最初の頃に早期診断、早期療育を受けた今の若者たちはどうでしょうか。
将来の自立のための早期診断、早期療育だったのに、どのくらいの若者が自立できているのでしょうか。
未だに福祉を利用し続けている若者たちをみると、むしろ、彼らは気づかれなかった方が自立できたのではないか、将来の可能性の幅があったのではないかと思うのです。
世の中を見渡せば、発達の凸凹を抱えつつも、自立している大人たちがたくさんいるのですから。


療育というのは、受けている子ども達の目からみれば、顔の半分がマスクに覆われているようなものなのでしょう。
濃密な1対1の関係性での育ちが得られるわけではなく、原始的な、動物としての発達刺激が得られるわけでもない。
子どもの発達全体を育んでいるのではなく、「ここを見なさい」と部分を見せられ、切り取った刺激を渡され続ける。
それじゃあ、ただでも凸凹がある子が、さらに凸凹が大きくなってしまいます。


私は思うのです。
やはり原始的な刺激でしか埋まらない発達段階というのがあるのではないか、と。
あるご家族は、自粛期間中、近所の海に毎日、出かけたそうです。
何をするわけでもなく、とにかく子どもと一緒に過ごし、遊んだ。
子どもさんは、砂を触ったり、海の水を触ったりするだけだったけれども、その後、ドカンという発達が起きたそうです。
いろいろ発達援助をしているけれども、それにしては伸びていかない、というご相談があったご家庭。
たぶん、進化の過程での魚類、海との時間、戯れ、信頼関係が築けていなかったことが、発達のストッパーになっていたのだと思います。


療育や支援を利用するにしても、原始的な育ちの時間は保障してあげなければなりません。
海、泥、砂、植物、虫、太陽。
これらは700万年、ヒトにとって重要な発達刺激でした。
同時に、未熟なままの脳・神経・身体をもって生まれてくるヒトにとって、1対1の濃密な関係性と時間が生きるためにも、人間として生きるためにも、必要でした。
1対1の濃密な関係性と時間が保障されていない子に、社会性が育つわけはありません。
養護施設で育てられた子のように、自閉症やADHDの症状は環境によって作られることがあるのです。


まさに今、社会性を育み始めようとしている子ども達がいる親御さんには、よく考えてもらいたいと思います。
マスクをつけて子育てを続けるのか、子ども達はマスクが当たり前の社会を生き続けていくのか。
「他人の表情が読めない」「他人に対する意識が乏しい」「言葉の遅れ」「一方的な関わり方」という子ども達が、今後数年、増えていくでしょう。
子どもの発達を奪うのも、守るのも、大人たちなのです。




2020年9月16日水曜日

【No.1100】雰囲気の言語化

施設で働き始めた1年目。
先輩職員たちは、利用者さんの未来を次々に当てていました。
「ああ、30分後くらいにパニックになるかもね」
「今晩は寝ないと思うよ、〇〇さん」
「週末は荒れるから気を付けてね」
「発作がそろそろくるよ」
ビックリするくらい、よく当たりました。


知的障害や行動障害が重く、ノンバーバルな利用者さんが多かった施設です。
本人たちから訴えることはほとんどなく、私から見れば、どの変化も突然のように見えました。
ですから、先輩職員にその前兆はどこから見えるのか、何に注目しているのか、尋ねました。
当然、マニュアルのようなものがあるわけではなく、その職員の経験とカンが主であり、教えてくれた内容も人それぞれ違いました。
排泄や睡眠の状態、特定の行動の頻度、水を飲む量、こだわりの強さ、余暇の過ごし方など、本当に様々でした。


これらは、私達、他人が外部から見て確認できることです。
なので、私も年数が経てば、この前兆に気づくことができるようになりました。
でも、やはり先輩たちのようにはいきません。
きっと目に見えること以外でも、察しているんだ、先輩たちは、と私は思いました。
そして私は気づいたのです。
本人たちの声を聞いているんだ、と。


声というのは、言葉ではありません。
リズムだったり、発し方だったり、大きさだったり、音程だったり…。
今振り返れば、動物の発声の部分だったと思います。
どういった響きをしているかに意識を向ければ、なんだか本人たちが訴えていることがわかるような気がしてきました。
たぶん、言葉の段階では伝えられなかったとしても、発声という言葉以前の段階では訴えていたのだと思います。


私達、支援者は、『雰囲気』という言葉をよく使います。
それは、こういった発声の響きであったり、表情であったり、動きであったり、佇まいであたったり。
「今日、〇〇さんの雰囲気良くないね」
「そうですね。雰囲気がまずいですね」
なんていう会話もしょっちゅうしていましたので、目に見える変化と目に見えない雰囲気を私達職員は感じて判断していたんだと思います。


私のベースは、施設職員として働いた7年間です。
ですから、発達相談においても、本人の声、響きに注目しています。
言葉は文化ですので、どういった環境にいたかに大きく左右されます。
なので、どんな言葉を知っているか、どんな言葉で表現しているかは、ほとんど注目していません。
それよりも、言葉のあるなしに関わらず、声の響きに注目しています。


今はあの時とは異なり、人間の発達や身体の勉強もしましたので、どういった感情が乗っているか以外にも、発達の観点で見るようにしています。
声が細ければ、呼吸の遅れを。
詰まったような声ならば、首の課題を。
唸るような声ならば、内耳の未発達を。
混じった声ならば、舌の未発達を。
言葉に間があれば、脳の未分化、脳梁の課題を。
もちろん、これらは例えですし、発達はこんなにスッキリ因果関係が明確になりませんのでお間違えなく。


施設で働いていた頃、「あの職員だから、寮内が落ち着いている。誰々さんが問題を起こさない」という話が嫌いでした。
私は、そういった職員には、言語化できない何か雰囲気みたいなものがわかっている、察することができているから、事前に対処できているんだと思っていました。
ですから、支援者の言う「雰囲気」という言葉を言語化することが大事だと考えています。


私の今の仕事もそうです。
大久保を呼んで、アセスメントや援助をしてもらったから、「良くなった」とは思ってほしくありません。
私が見ている雰囲気を言語化しなければ、「大久保だからできる」「専門家だからできる」「(素人の)私にはできない」と勘違いさせてしまうからです。
ですから、実際の発達相談では、私が感じている雰囲気を言語化するように努めています。
その1つが言葉ではなく、発声、声の部分です。


耳にタコができる話になりますが、神経発達症の人達の課題の根っこは、言葉以前の段階にあります。
つまり、文化が侵入していない部分。
どんな言葉を話し、どんな文字を書き、どんな知識を持っているか、は発達援助で見るべきポイントではありません。
文化の影響を排除した部分を見なければなりません。
それが食べ物であり、排泄物であり、睡眠、顔色、動き、身体のバランス、筋肉の張りとなっていきます。
さらに目に見えない声の響きなどの雰囲気も見る必要があります。


私が施設で学んだこと、培ったことを社会に貢献することが重要だと思っています。
現代社会において施設は負の側面が大きくなりました。
しかし、このような職員の中で脈々と受け継がれていったことは、とても貴重な知見だと思っています。
「雰囲気の言語化」
これは私の仕事のテーマでもあります。




2020年9月15日火曜日

【No.1099】zoom講座「医者が教えてくれない育ちのアセスメント」を終えて

大学1年の夏、サマースクールのボランティアに参加したあと、放課後の余暇支援ボランティアにも参加するようになりました。
そこで初めて担当したのが、自閉症の男の子でした。
こちらが話しかけても反応はありませんし、男の子からの訴えも理解することができませんでした。
パニックだってしょっちゅうでした。
それでも、その子の親御さんはいつも「ありがとう、ありがとう」と言ってくれて、私にボランティアを依頼してくださいました。


生まれて初めて「自閉症」という言葉と、そういった障害を持っている子どもさんと出会った私は、とにかく彼のことを知りたいと思いました。
そこで向かったのが、大学近くの書店です。
『障害児教育』と書かれていた棚に向かうと、すぐに目に入ってきた本がありました。
当時は少なかった障害児関係の本の中でしたが、1つだけ真っ赤なカバー。
しかも、赤色は私が好きな色であり、ラッキーカラーでもありましたので、迷うことなく手に取り、中を開きました。
『自閉っ子、こういう風にできています!』
私が初めて買った障害児関係の本です。


そのときから、今年でちょうど20年。
まさか、あのとき、初めて読んだ本をこの世に送りだした浅見さんと、そして15年近く特別支援教育、療育を突き進んでいた私を変える知見を教えていただいた栗本さんと、対談させていただくなんて…。
そのときはわからなくても、ときを経て繋がっていく縁があるもんだと感じました。


大学1年の秋、私が赤本を手にしていなければ、自閉症の男の子との関わりを続けていなかったかもしれません。
そうなれば、入学当初の目標であった小学校の先生を今頃、やっていたかもしれません。
少なからず、今のように起業して支援者を行っていなかったのは確かだと思います。


栗本さんとの対談は、私にとって幸せな時間でした。
本当は、仕事として依頼されたことですので、このような感情を持つことも、ここで表明するのも間違っているのかもしれません。
でも、それが私の正直な気持ちです。
対談が始まる前の浅見さん、栗本さんとの打ち合わせも、その後の振り返り、打ち上げも、心地良さを感じていました。
表現やキャリア、立場は違いますが、見ている先は一緒。
浅見さんも、栗本さんも、未来を見てお話をされている。
社会が、人類が、今よりも良い未来を迎えられるように。


浅見さんは、10年くらい先を見ているような気がします。
と言いますか、10年先の未来の物語を綴っているように感じます。
2030年代に入れば、浅見さんが仰っていることも、出版されている本の中で語られていることも、当たり前になっているでしょう。
赤本が出された当時、誰一人として、自閉っ子の身体や感覚に注目していた人はいませんでした。
でも、2010年代に入ると、自閉っ子の内側の世界に、親御さんも、支援者も、注目し、理解しようとする動きが出ましたし、実際、そこへのアプローチを始める人たちが当たり前になっていました。


ですから、私の対談での個人的なテーマは、未来でした。
未来を綴っている浅見さんの主催です。
栗本さんも、今の子どもさんの状態を見るプロフェッショナルではありますが、想いはこの子ども達が思春期を迎えたとき、大人になったとき、そしてその次の世代までをも見ながら指導されています。
私に10年先を綴る力も、次の世代を見つつ指導する力もありませんが、視聴してくださった方達の明日がより良いものになってほしいという想いをもって言葉を発していたつもりです。
一人でも多くの方に、その想いが伝わってもらえれば、私も嬉しく思います。


「テレビに出ていたアイドルと結婚する」なんていう話もあり、そこまではいきませんが(笑)、学生時代、初めて手に取った障害児関係の本を作った浅見さんと、支援&療育一辺倒だった私に大きな気づきを与えてくださった栗本さんと一緒にお仕事をさせて頂いたことは、私にとって大きな出来事であり、幸せな時間になりました。
講演者の最大の利点は、対談以外のよもやま話です。
お二人の言葉、雰囲気の中に、私の心や考えを揺さぶるようなものがたくさんありました。
これは、お二人との共有の中で生まれたものなので、そのまま、お出しすることはできませんが、これからの発達相談やブログ等の発信で、その揺さぶりの雰囲気を皆様にもお伝えしていこうと思っております。


まず、お金を払ってご視聴頂いた皆様、誠にありがとうございました。
そして企画や告知、受付等、今も録画の配信を行われている主催してくださった浅見様、ありがとうございました。
zoomでの講座は、ボリンゴ様の知識と力があってのことだと思います。
どうもありがとうございました。
事前の配信環境の準備は、浅見さんの旦那様にお手伝いいただきました。
本当にありがとうございました。
そして、私の話を温かく頷きながら聞いてくださり、惜しげもなく深い知見を披露しつつ、対談を導いてくださった栗本様に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました!!




2020年9月8日火曜日

【No.1098】子どもの「発達段階」「資質」「流れ」「ニーズ」を見る

今日、久しぶりにブログを開いてみたら、アクセス数が普段の何倍にもなっていました。
何かまずい発言でもしたかなと思っていたら、そうです、たぶん、9月13日に行われる花風社さん主催の講演会に参加される方達が見に来られたのでしょう。
当然、私は「なんだチミは!?」状態ですから(笑)


ここ数日間、当地での家庭訪問が続いていました。
改めて、今の親御さん達、考え方が変わったな~と思いました。
「自閉症は脳の機能障害です」
「障害なので、治りません」
「自閉症は視覚支援です」
で、「はい、わかりました」とはなりません。
おかしいと思ったら、別の道、方法、情報を探そうとします。
「当地で暮らしていれば、あの先生と仲良くなって、将来、あそこの施設でお世話になって」などとは考えず、この子がより良く育つ方法がないだろうか、と意識が向きます。
田舎のメジャー支援者より、グーグル先生です。


以前は、支援者より「様子を見ましょう」と言われれば、「はい、様子を見ます」となっていた親御さんが多かったと思います。
それは様子を見ることの重要さを感じていたというよりも、「専門家が言ったから=従順でいることの利益」を考えてのことでしょう。
当時は選択肢がなかったから、ローカル支援者に気にいられることが親御さんの気持ちの大部分を占めていたのかもしれません。
でも、時代なのか、専門家から「様子を見ましょう」と言われても、「具体的にどこを?」「いつまで見てればいいんですか?」「それよりも変わる方法はないんですか?」と言う親御さんが増えました。
そこで専門家がビシッとと具体的なことを言えなければ、「じゃあ、いいです」と言って、グーグル先生へと向かいます。
世代間でいろんなことが言われますが、10年前、20年前の親御さんより、今の親御さん達の方がずっとたくましくて主体性があると感じます。


当然、私に対する相談の中にも、「具体的にどこを見ればいいんですか?」「子どもをちゃんと見るの"ちゃんと"を教えてください」という依頼もあります。
子育てをするのにも、発達援助をするのにも、まずは子どもをきちんと見ることが重要です。
そういった言葉を耳にしたことがあると思います。
ただ「子どもを見る」というのには、複数の意味合いがあるのです。


まずは、子どもの『発達段階を見る』という意味です。
小学生になれば、教科学習が始まります。
だから、1年生になったら1年生の勉強を、2年生になったら2年生の勉強を、と思いがちです。
でも、その子がちゃんと勉強ができる準備が整っているか、を見る必要があります。
鉛筆を持つだけの指が育っているか。
黒板を見るだけの目が育っているか。
授業を受け続けるための姿勢が育っているか。
抽象的な概念が理解できるだけの脳が育っているか。
一斉指示が分かるだけの耳が育っているか。
いろんな発達段階を見ることが重要です。
他にも発達のヌケはどこか、遅れているところはどこか、反対に同年齢よりも育っているところはどこか、などの発達を見ることも大切です。
「子どものことをちゃんと見ましょうね」の見ましょうねには、発達段階を見る、という意味があります。


次に『キャラクターとしての子どもを見る』というのもあります。
持って生まれた資質と言える部分でしょうか。
何が好きで、どんなことに熱中するのか。
幼い頃の名も無い遊びはどんな感じだったか。
行動が先か、考えることが先か。
そういった子どものキャラクターを踏まえることが、教え方、促し方、生活の組み立て方に影響を及ぼします。
情報が頭の中でいっぱいになってしまっている親御さんの中には、全部、自閉症、発達障害で説明しようとする人もいます。
どちらかといえば、発達障害は部分であり、核はその子の資質です。
その子の人間の部分が見えなくなっている親御さんに対して、「ちゃんと子どもさんを見ていますか?」と尋ねることがあります。


キャラクターの次は、『子どもの流れを見る』です。
流れとは、つまり、生育歴であり、受精から現在まで続く物語です。
いきなり目の前に自閉症の我が子、発達障害の我が子が現れたわけではありません。
いずれも、受精した瞬間からの流れの中で生じたことで、バラエティに富む発達の表現型の一つにすぎません。
時々、今の状態、発達段階はわかるんだけれども、子どもの育ってきた流れから見れば、どうなのかなと思うことがあります。
問題行動だって、突然、出てきたわけではなく、その前に積み重ねがあったわけです。
そういった生きてきた流れの中で、今の子どもさんはどういった状態なのか。
その発達の流れの中で、今の成長具合は早いのか、そのままのペースなのか、遅れ始めているのか。
その辺りも重要な見るポイントになります。


最後に、これは支援者の中から聞かれる言葉ですが、「親御さん、ちゃんと子どものこと、見ているかな」というものです。
これは発達段階や資質、流れなどを見ているかどうかの話ではありません。
親子の不一致感を指している言葉になります。
子どもさん自身は、今、ここを育てたがっているのに、親御さんが別のことを育てようとしている。
子どもは根っこから育つことを、根本解決を望んでいるのに、親御さんが支援をやっちゃっている。
子どもが今どうなのかよりも、習ってきたこと、ある支援者から言われたことを忠実に行おうとしている。
親御さんの勢いがすごくて、展開するスピードが早くて、想いが強くて、子どもの状態、発達、気持ちが追い付けていない、処理しきれていないというのもあります。
そういった親子の不一致を見て、「親御さん、ちゃんと子どものこと、見ているのかな」というのです。
私も時々感じますが、親御さんが育てたいところと、子どもさんが育てたいところが違うことがあります。
親御さんが問題だと思っているところでも、本人が問題だと思っていないということもあります。
まあ、そもそも他人が問題意識を持つことと、それが問題だと押しつけることは違うのですが。


一昔前まで支援者が言っていた「様子を見ましょう」は、「(具体的なアイディアは持っていないし、今、私がもう状態は変わりませんよ、一生このままですよというのは言いたくないし、できれば別の人が言ってほしい。それに親御さんを傷つけることになるので)様子を見ましょう」という感じでした。
でも、今の「様子を見ましょう」は、子ども達がより良く育っていくための「様子を見ましょう」になります。
ですから、とても具体的。
親御さんに家庭生活の中で見てもらいたいのは、子どもさんの「発達段階」「資質」「流れ」「本人のニーズ」です。
どれか一つだけ重点的に見ているだけではより良い子育てにはつながりません。
子どもを立体的に、そして神経発達に関連するところをすべて、です。
13日の栗本さんとの対談の中で、そんなお話もできればと思っております。




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9月13日(日)zoom講座『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』の参加は、まだ間に合います→詳細・お申し込み方法はこちら
開催まであと5日!


2020年9月1日火曜日

【No.1097】外部刺激と継続性

夏が始まる前にお会いしたご家族から、「この夏を思いっきり親子で楽しみました!」という報告をいただきました。
海も、山も、川も、公園も、キャンプも、とにかく外で遊び切ったそうです。
そうすると、2学期が始まり、「あれだけ集中できなかった授業に落ち着いて臨めるようになった」「あれだけ何度教えても難しかった算数が、テストで100点をとれるようになってきた」という変化が見られるようになったそうです。


小学校1年生、2年生で、「授業が理解できない」「テストの点数が取れない」というのは、ほとんどの場合、学力の問題ではありません。
小学校3年生になると概念の問題が出てくるので、また別の話になってしまうのですが、基本的に低学年の授業が分からないというのは、勉強のやり方とか、勉強時間の足りなさとか、教え方の善し悪しとかではなく、学ぶだけの準備が整っていないのです。
つまり、小学校低学年の学力=6歳の子の発達課題をクリアしてるかどうか、身体の問題です。


ですから、低学年の子が勉強できないからといって、勉強時間を増やしてもあまり効果は期待できません。
勉強時間を増やせば、暗記はできるかもしれませんが、授業の内容を"理解する"は伸びていきません。
ここを勘違いされると、とにかく勉強時間を増やし、で、子どもは算数の計算や国語の問題などをパターンで覚えてしまう→一応、小1、小2はクリア→小3になって概念と理解が求められる段階になってから、ガクッと成績が落ち、支援級という流れができてしまいます。


夏休み、自然の中で全身を使って思いっきり遊んだお子さんが、身体&運動面だけではなく、学習面に大きな変化が出るのは当然だといえます。
子ども達は、就学までに思いっきり遊び切ることを通して、学習の準備を整えていきます。
それができなかった子が、小学校低学年から授業についていけなくなる。
だからこそ、発達援助では遊び切れるために、身体と動きを育てる、ヌケを育て直すのです。
それはすべて就学の準備、学習の準備に繋がり、その先には高等教育、社会への準備と繋がっています。


実は、これが今日、言いたいことではありません。
今日、ブログを書こうと思ったのは、次のことを伝えたくてです。
夏休み、思いっきり遊んだお子さんが、この秋に大きく成長するのは、みなさん、ご存じのこと。
でも、思いっきり遊んだから、「発達した」「新たな神経ネットワークが生じた」というのは違うと思います。
私も助言の一つとして、「この夏、思いっきり遊んでくださいね」とは言ってきましたが、それ自体が発達に繋がるとは考えていません。


家族の、親子の物語としては、「夏に思いっきり遊んだ。そうしたら、2学期から良い変化が見られた。大きな成長が見られた。ハッピー」という感じで完結できます。
しかし私は支援者ですので、もう少し別の角度から見る必要があります。
私が見る角度は、神経からの角度です。


神経からしたら、ある一時期、普段よりも強い刺激、普段と異なる刺激を受けたからといって、すぐに神経を伸ばそうとするでしょうか。
一時的に必要となった神経同士で、新たなネットワークを構築しようとするでしょうか。
私が神経の立場(?)だったら、そうはしないと思います。
やはり、人類は飢餓の時期が長く、一時的な刺激にすぐに対応するだけの余裕さは持ち併せていないはずです。
きっと神経ネットワークは、何度も何度も刺激が通過し、「ああ、これは生きていくために必要な動き、連携なんだな」と感じたところから構築が始まると思います。
赤ちゃん時代は、生まれ出た環境にいち早く適応するために、迅速な神経ネットワーク作りが起きていますが、その時期を超えた人でしたら、頻繁に使われる、継続して刺激されることに焦点が絞られると考えられます。


何が言いたいかと申しますと、夏休み、海で遊んだことが発達につながったわけではないということです。
じゃあ、どうして運動、身体、学力の面で伸びたのか、変化があったのかといえば、一時的な刺激が日常生活に影響を及ぼしたからだと思います。
たとえば海に行けば、砂浜を歩くときに、普段以上に足の指を意識して使います。
足の親指の発達にヌケがあった子は、普段の生活では感じられない刺激がふんだんに入ってきます。
そして自然と、一時的であったとしても、足の親指が使えるようになる。
その効果は、海から上がった瞬間、帰りの車に乗った瞬間に消えるわけではありません。
子どもの身体には、その余韻、雰囲気、感覚が残るものです。
すると、帰ったあとも、家の中でいつもと違った感じで足の指が使えている。
また感覚が残っているから、子どもも本能的にそこを刺激しようと、足の指を使った遊びを家の中でもし始める。
その結果、海で遊んだことをきっかけに、家での動きが変わり、日常生活の中で継続されるもんだから、「そうか、これは必要なネットワークだ」と、新たな神経ネットワークが構築される、というイメージです。


神経発達症の子ども達は、神経が少ない子でも、神経が伸びない子でもありません。
繋がるべきネットワークが構築できていない子だといえます。
「発達の"ヌケ"」という言葉は、見事にそれを表現していると思います。
ヌケは"無い"ではなく、繋がるべき部分が抜けている、というイメージです。
ですから支援者は、神経からの視点を持っていなければなりません。
「ああ、夏休み、思いっきり遊んだ子が、良く伸びるな。だから、夏休み、外で思いっきり遊びましょう、とアドバイスしよう」では薄っぺらすぎます。


身体からのアプローチが有効。
だったらなぜ、有効なのか、どこの部分で効果があり、効果がないのか。
そういった部分まで深く理解できていることが求められると思います。
どうも、綺麗な物語で終わろうとしている支援者が多い気がします。
綺麗な物語、素晴らしい夏の思い出は、家族だけのもの。
そこに支援者という他人が立ち入るべきではないと思います。
支援者はあくまで外部刺激です。
本人、家族の外側から刺激を与え、変化を生じさせるのが役割になります。
その変化も、一時的な変化ではなく、継続的な変化になって初めて意味をなします。


私が冒頭のご家族から報告を頂いて嬉しかったのは、お子さんが勉強できるようになったことではありません。
私からの刺激が、親御さんの考えと行動に影響を及ぼし、結果的に夏休みを自然体験、親子の遊びで継続して過ごされたことです。
神経ネットワークと同様に、継続することで親御さん自身も変わっていく。
大久保を呼んだ。
だから、週末思いっきり頑張った。
でも、次の週からいつも通り、では、お子さんの神経発達は進んでいきません。


「親が変わって子が変わる」
「子が変わって親が変わる」
親御さんが子どもと一緒に遊ぶようになって、子どもさんが変わっていく。
子どもが変わっていく姿を見て、親も「もっと頑張ろう」「この方向性の子育ては間違っていない」と自信が芽生え、また変化が起きる。
そういったポジティブなサイクルをどう作っていくか。
そこで出てくるのが、私達、外部刺激である支援者だと思います。
外部刺激に徹することと、神経発達を理解することは重なり合います。
ですから、エピソードで終わってはならないのです。
なぜ、夏休み、思いっきり遊んだ子が伸びるのか、それが説明できる必要があるのです。




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