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7月, 2013の投稿を表示しています

もし診断できる人が増えたら

もし日本でも、医師以外の専門家が自閉症の診断ができるようになったらどうなるだろうか? まず物理的に診断できる人数が増えることから、今よりも各地域で診断を受けられる機会が増えるだろう。 またトレーニングを受けた自閉症の専門家が診断することから、"自閉傾向"といった曖昧な診断や「様子を見ましょう」などの先延ばしが減り、療育の遅れが少なくなると考えられる。 療育と言えば、自閉症の専門家が診断するので、診断から療育へのスムーズな移行が可能になる。 現在の日本の場合、診断は医師で、療育は別の専門機関となっているので、移行がスムーズに運ばないこともある。 「診断を受けたけど、この後、どうしていけばいいの?」という心理的負担。 療育をうけるには、別の機関を探さなければならないという物理的負担。 診断を受け入れることだけでも大変な時期に、さらにこのような負担を強いられる保護者の方たち。 診断と療育が一体となった機関は日本にもあるが、まだ少ないのが現状である。 このような機関が増えることは、保護者の方たちの負担を減らし、療育へのスムーズな移行を可能にする。 そのためには、医師以外でも自閉症の診断ができるようになることが望まれる。 しかし、良い面だけではない。 診断ができる人が増えれば弊害も考えられる。 それは自閉症について専門的に学んだ者が、"自閉症"と診断をするということ。 想像してみてほしい。 自閉症の専門家からしたら、自閉症の人が多い方が良いのか、少ない方が良いのか・・・。 自閉症の人たちが多ければ多いほど、仕事は増えるだろうし、本人や家族、社会に対しての影響力は大きくなるだろう。 自閉症は血液を採って数値で表せたり、脳波や身体の特徴に現れるものではない。 ということは、診断する者の意思が診断結果に入る隙があるということである。 そのような専門家は少ないだろうが、まったく出てこないとも言えない。 このような弊害が起きないように、診断は複数の専門家で行うというルールにすれば良いと考える。 複数の目で見ることによって、客観性が増し、正確な診断へとつながっていくだろう。 できれば、いろいろな立場の人が診断に携わるのが良い。 診断を受けないと前に進めないなら、診断のシステムを変えていくことが望

"自閉傾向"ってナニ??

盲傾向、聾傾向、肢体不自由傾向とは言われないのに、"自閉傾向"と言われることがある。 確かに自閉症は盲や聾のように医学的に診断できないので、傾向と言うことがあるのかもしれない。 しかし、自閉症には国際的に認められている診断基準があり、その診断基準に当てはまれば"自閉症"ということで、基準を満たさなければ"自閉症"ではないことになる。 では、いったい"自閉傾向"とはなんだろうか? 日本では"自閉症"と診断できる人は、医師に限られている。 もしかしたら、医師以外の支援者が診断できないため、診断基準を満たしている人に対し"自閉傾向"と表現しているのかもしれない。 また、医師の中でも自閉症について専門的に学んだ人でなければ、目の前にいる人の言動を客観的に捉え、その言動の背景にある自閉症の特性の部分を読み解くことは難しいと考えられる。 ましてや年齢が低い子どもの場合は、その言動が単に幼さからきているものなのか、未学習なのか、自閉症の特性なのか、がより一層判断が難しいと言える。 日本人特有の文化である"曖昧"や"先延ばし"によって、保護者にショックを与えないようにしているのかもしれないし、保護者の方が望んでいる場合もあるかもしれない。 "自閉傾向"と言う不思議な表現には、このような背景があると想像できる。 私は日本でも医師以外の人が、自閉症の診断を行えるようにするべきだと考えている。 もちろん、誰でも診断できるというわけではなく、自閉症について専門的に学んだ者が、ということである。 自閉症の人たちは、88人に1人の割合でいると言われている。 それだけ高い割合でいる自閉症の人たちの診断を医師だけで行うには無理がある。 ましてや日本全体で考えたとき、自閉症について専門的な知識と経験を持った医師が各地域にどれほどいるのだろうか。 診断の遅れは、療育の遅れにつながる。 早期療育の有効性は立証されており、専門的に学んだ者の中では常識になっている。 そのため、2歳前後で自閉症を診断できる検査も開発されており、実際に実施し、早期療育につなげて成果を上げている地域もある。 一

地域の書店の障害者関係の書籍コーナー

書店の障害者関係の専門書のコーナーに行くと、気が付くことがないでしょうか? 自閉症関連の本が多く並べてあるのに対して、知的障害について書かれた本がほとんど置いてないことに。 置いてあったとしても、何年も前に出版された本だったりします。 2000年以降、知的障害を持っていない自閉症の人たちがより注目されるようになりましたが、依然として知的障害を持った自閉症の人たちは多くいます。 ですから、自閉症の人たちと関わる学生や支援者は、自閉症についてだけでなく、知的障害についても勉強する必要があると思います。 自閉症の人たちの支援に携わる中で、自閉症者本人のあらゆる行動を"自閉症"と関連付けようとする支援者を私は時折見かけます。 もちろん、自閉症の特性は個人の思考や行動に大きな影響を与えます。 しかし、あらゆる行動が"自閉症"で説明できるかといったら、そうではありません。 以前のブログ( 「自閉症のA君?A君は自閉症?」 )で書いたように、"person with Autism"です。 個人が自閉症の特性を持っているのです。 ですから、自閉症と同じように、知的障害の個人に与える影響についても考える必要があります。 自閉症だから『視覚的な支援』でOKではありません。 その視覚的な支援を組み立てる上で、本人の認知の仕方や身体の使い方について知ることが必要ですし、どのような目標や支援方法が適当かを決めていく上でも、知的障害の影響は重要な要素となります。 また、個人の思考や行動には、育ってきた環境や学習、性格、その日の体調など、様々な影響があるということも頭に入れておかなければなりません。 幅広い視点を持つことで、より本人に合った支援ができると考えています。 函館に大きな書店ができます。 その書店には、知的障害について書かれた良質な専門書も置いてほしいと願っています。 自閉症支援に携わる者、特に学生の人たちが知的障害について学ぶことが支援の質の向上につながっていくと考えています。 地域の書店にどのような本が置いてあるのか、その影響は少なくないと思います。

自閉症の人にとっての"心の教育"とは

人は、悲しい気持ちになるから涙が出るのではなく、涙が出るから悲しい気持ちになるそうだ。 感情よりも先に行動がくるとのこと。 そう言われれば、転んで足から血が出たとき、血が出たあとに痛いという気持ちがやってくる。 フラットな感情のとき、「辛い」と言っていたらどんどん辛くなってくる。 反対に、笑顔で笑っていれば、いつの間にか楽しい気持ちになる。 「辛いときこそ、笑ってみよう!」というのは、理に適っているようだ。 自閉症の人は、気持ちの面で誤解されやすい。 「ありがとう」と口では言っているのに、顔が笑っていなかったり、相手とは別の方を見ていたりする。 自閉症の人たちは、自然に表情を作ることが苦手で、表情を作るのにも意識しなければならないし、人によっては顔のどこの筋肉を動かすか、など表情を作る練習が必要な人もいる。 相手からすると、「本当に喜んでいるの?」と思われてしまうことがある。 相手から叱られているとき、笑うことがある。 自閉症の人たちは、気持ちにおいても"0"か"100"であり、楽しいときには大きな声で笑い、悲しいときには激しく泣くことがある。 喜びと悲しみの間の微妙な気持ちの表現が苦手な人が多い。 だから本当は困っているのに笑ってしまうことがある。 また、自分が相手からどう見られているかに注目が向きづらいため、相手から期待されている表現と異なる場合がある。 叱っている方からすると、「反省しているの?」「ふざけているの?」と誤解されてしまうことがある。 いろいろなところで、自閉症の人たちに対する"心の教育"が叫ばれている。 私も(自閉症の人たちに限らず)心理面の成長を促す教育は大切だと考えている。 しかし、そのプロセスにおいて、私が良いと考え実践している方法は、一般的に行われているものとは異なっている。 なぜ「ありがとう」と言うのか意味を教えるよりも、「ありがとう」を言うときの動きを教えることに重きを置く。 相手の目を見る→「ありがとう」と言う→頭を斜め45度まで下げる→2秒数えたら頭を元の位置に戻す。 叱られていることの意味や反省という倫理面を教えるよりも、叱られているときの態度を教えることに重きを置く。 顔を30度くらい下げ、床の方を見て話を聞く(

自分にプレッシャーをかけない夏休み

夏休みが始まると「学校に行っててもらった方が良かった」と思われる保護者の方もいらっしゃると思います。 学校に行っているときに、行えていた家事もお子さんがいたら、いつものようにできないこともあると思います。 またお子さんの中には、独りで時間を過ごすことが苦手だったり、活動の切り替えがうまくできなかったりする子もいると思います。 自閉症の人たちは時間の概念を捉えることが苦手なため、昼夜逆転など生活のリズムが崩れてしまうこともあります。 コミュニケーションの仕方が十分に身についていない子の場合、お子さんの要求に応えることや答え続けること、こちらから伝えたいことがうまく伝わらないことなどに、お互いストレスを感じてしまうこともあると思います。 夏休みはお子さんと向き合う時間が多く、閉鎖的になりやすい。 そして、このようなお子さんの様子もあったりすると、「将来のために、いろいろやらなくては・・・」と感じる保護者の方も多いと思います。 しかし、家庭で起きていることだからといって、保護者のみなさんがすべて抱え込む必要はないと思います。 見えてきた本人の課題は、支援者と共有し、一緒に指導や支援によって解決していくことです。 地域の専門家や2学期になって学校の先生を頼れば良いと思います。 そうはいっても夏休みは心身ともに大変です。 そんなときは、地域の資源を利用しましょう。 お子さんを預かってもらえるところがあれば、日中のひと時でも、数日間でもどんどん利用すれば良いと思います。 また、支援者やボランティアの手を借りることも良いと思います。 一生懸命な保護者の方ほど、お子さんの状況を直視し、「自分が何とかしなければ」と思ってしまいがちです。 保護者のお子さんに対する願いを一緒に叶えていくため、専門的に学んだ人たちがいるのです。 ただでも大変な夏休み、自分にプレッシャーをかけるのはやめてみませんか? 夏休みは長いので、学校に行っていたときよりも自分の体調と心のバランスに気をつけ、上手に地域の資源を利用しながら過ごしてほしいと思います。

夏期療育のお誘い♪

夏休みは"チャンス"です。 新年度が始まって環境や人など、いろいろの変化があったと思います。 まさに変化の渦の中にいた4ヶ月間だったのではないでしょうか!? 渦の中からすぐに出られた人もいれば、溺れかかっていた人もいたと思います。 でも大丈夫! 夏休みは変化や情報でいっぱいになった頭の中をリセットし、整理することのできる時間となります。 施設で働いていたとき、子どもたちが夏休みに入ると、「スキルを身につけるチャンス」だと思っていました。 新学期が始まってから夏休みに入るまで、子どもたちはなかなか落ち着かないことが多く、日々の生活を安定させるだけで手一杯の状況でした。 ですから、夏休みに入ると変化や情報が少なくなりますので、集中して指導できる時間となっていました。 夏休みが終わり、精神的に落ち着きを取り戻し、いろいろなスキルを身につけ、心身ともに成長した子どもたちを学校に送り出すことが楽しみでした。 1学期の間、「あんなこと、こんなこと、我が子に身につけさせてあげたい」と思い続けた毎日を過ごされていた方。 「今のうちに、うまくいかなかった支援や環境を整えておきたい」と考えられている方。 夏休みはチャンスです! 家庭での療育に集中できる時期に、新しいスキルを身につけさせたり、生活を見直してみてはいかかがでしょうか? てらっこ塾はそのような希望をお持ちの道南にお住いの自閉症のみなさん、保護者のみなさんのお手伝いを喜んでさせていただきます♪

1学期の通知表を開いてみましょう!

連絡ノートに「元気でした」という文字を見つけると、「元気だから登校させました‼」とツッコミを入れてしまう。 もらってきた通知表を見たとき、「こんなに我が子はできる子だったのね!?」と家とのギャップに驚いてしまう。 こんな経験をした保護者の方は多いのではないでしょうか(笑) 日本の特別支援教育は、できなかったことや失敗したこと、改善した方が良いことなどを明確に示すよりも、曖昧にしたり、触れない傾向があると思います。 一方、私が学んだアメリカの専門家たちからは、その点について明確にしていくことを教わりました。 その表現の仕方は、行動を具体的に示すこと。 そして行動の背景にどんな自閉症の特性があるのかを明らかにしていきます。 できない部分や躓いている部分にこそ、次につながる教育の重要なヒントが隠されていることを学びました。 このような違いは、日本とアメリカの文化の違い、また日本の特別支援教育が持つ文化が影響しているのだと思います。 保護者の皆さんが我が子の苦手な部分を知らない訳はありません。 連絡ノートや通知表は、保護者を喜ばすものではないですし、支援者の身を守るものでもないと思います。 私は「敢えて触れないことが丸く治まる」といった考え方を変えていかなければならないと思います。 できない部分や躓いている部分は、『自閉症の人たちが成長できる可能性を持っている部分である』という考え方を広めていけたらと思っています。

「新型出生前診断」に思う

いつの日か、自閉症も出生前に診断される日が来るのだろうか。 ニュースや新聞等で報道されているように、新型出生前診断で染色体異常の陽性反応が出たあと、羊水検査によって確定診断された人の中で、人工中絶を選択した人がいたということだ。 いろいろと悩んだ結果のつらい選択だったと思う。 もしかしたら、周囲から生むことを止められたのかもしれない。 理由はわからないが、診断の結果を聞いたとき、マイナスの感情を持ったことは確かだと思う。 「障害も個性の一つ」などと言われることもあるが、私はそうは思わない。 障害は障害だと思う。 10年以上、自閉症の人たちと関わってきたが、その障害ゆえに本人たちがつらい思いや生きにくさを感じていると思うことが多々あった。 周りから見てこのように思うなら、本人たちはなおさらのことだと思う。 私は自閉症の人たちを前に、「障害も個性の一つ」とは、とても言うことができない。 生まない選択をした方に対して、他人がとやかく言うべきではないと思う。 私たちがしなければならないことは、どのような子どもが生まれてきたとしても「子どもを育てていこう」と思える社会にすることではないだろうか。 そのためには、親だけではなく社会全体で子どもを育てていくといったシステムも必要。 私たちのような療育に関わっている者たちは、障害を持った人たちが生き生きと社会で活躍できるようにするため、専門性を高めていくことが必要だと思う。 アメリカの大学で、将来のダウン症の治療に応用できる可能性がある研究結果が出たことも、同じ日に発表された。 自閉症の治療もできるようになってほしいと思う。 自閉症の症状が改善したとき、「あ~、こんなにも楽な世界だったんだ」と本人たちに感じてもらいたい。

曖昧な一票よりも具体的な一票

今日、期日前投票に行ってきました。 障害を持った人たちが住みやすい社会に変えてくれる人はいるのかな? いつの日か「私は障害を持った人たちが生活しやすい社会を作るために頑張ります!」と言って立候補する人出てこないかな? 「〇〇党の障害者支援の法案は間違っています。我が党の方が良い改革ができる」なんて。 構造化VS脱構造化の攻防、TPPじゃなくてTEACCHに関しての討論会(笑) まあ、出たとしても少数派の支持じゃ当選も難しいし、当選したとしても国会で多数派になって議論の中心になることはもっと難しいかな。 「いちお障害を持った人たちのことも私たちは考えています!」みたいなアピールメインの議論では、抜本的に障害を持った人たちの環境を変えていくことは難しいだろう。 だったらやっぱり自分たちで動くしかない。 必要だと思うことを必要な人たちが動いて、社会を変えていけばよい! その行動の中の一つがてらっこ塾の開業。 未来が見えにくい曖昧な一票よりも、地域が変わることを実感できるはず。 民間は利用者と対等な関係で、意見も届きやすい。 良い意見や要望があれば、直接言ってサービスを作らせればいい。 民間が大きくなればなるほど、胡坐をかいていた人たちに大きな刺激となる。 このような社会の変え方もあるのではないだろうか? 自分の行動一つは、具体的な一票を投じたことと一緒だと思う。 選挙は一人一票だけれど、行動は一人で何票も入れられる。 「私たちは少数派」と言っているよりも、自分たちで行動することによって、一緒に多数派にしていきましょう!

「我が子よりも一日でも長く生きる」

「私、これから飲み会♪」 こう言って子どもを施設に預けていくお母さんがいました。 私はいつも「楽しんできてくださいね」と言って、お子さんをお預かりしました。 障害を持って生まれてきた子どもを育てていくことは大変なことだと思います。 でもその中で、自分の時間を作って楽しめることは素敵だなと思っていました。 施設に我が子を預けることに対して、後ろめたさを持っている保護者の方は少なくありませんでした。 でも、施設を利用することで良いこともあります。 先のお母さんのように、自分の時間を持てたり、リフレッシュすることができます。 お母さんのストレスの増加が、お子さんに対する養育力の低下をもたらすという研究結果もあります。 明日からの療育のパワーを向上させるためにも、お母さんが元気になることが大切です。 "障害"は愛情だけでは乗り越えられないこともあると思います。 24時間365日、家族がケアをしなければならないというのはそもそも無理があります。 そんなときには、福祉の力を借りることも選択肢の一つだと思います。 また子どもにとっても良いことがあります。 自閉症の人たちが頭の中に入ったたくさんの情報をリセットすることができます。 日頃の情報過多の疲れを非日常の場所で空っぽにし、整理して、切り替えることができます。 そして家を出てみることで、将来どのようなスキルが必要か、今どのようなことができているか、改善しなければならないことは何かなどを知ることができます。 施設を利用してくれたお母さんの中には、子どもを預けているうちに家の模様替えをすると言っていた方もいます。 目の前で変化させられるよりも、帰ってきたらガラッと変わっているという状況を作る。 まさに環境の"リセット"と言えます。 「利用したい施設がない」という方は無理に利用する必要はないと思っています。 しかし、利用したいけれど、後ろめたさがあったり、周囲の目が気になったりする方には、施設の利用は決してマイナスなことばかりではないということを知ってもらいたいです。 「我が子よりも一日でも長く生きる」というお母さんの言葉を耳にします。 半分は冗談もあると思いますが、現在の障害を持って生まれた子どもの子育てをしているお母さんの状況を表してい

公教育も投資

それが公的な教育であったとしても、子どもの未来への投資だと思う。 みんなから集めた税金で賄われているのだから、掛けた時間とお金に見合う結果が求められる。 小学生の我が子が、学校で読み書きなど基礎的な学力を身につけてこなければ、学校へ改善を求めるだろう。 では、特別支援学校の高等部を卒業した我が子が、生活する上で必要なスキルやコミュニケーションのスキルを身につけていなかったとしたら・・・。 普通学校と比べて、手厚い教員配置とスペースの確保。 小学部に入学してから高等部卒業までの12年間、時間と人数とお金をかけて教育が行われている状況。 高等部を卒業したとき、身の回りのことに関するスキルを身につけていないのは親の責任になるのだろうか? 高等部を卒業したとき、自傷や不適応行動が改善されていないのは障害だからしょうがないのだろうか? 入学した姿と卒業した姿が大きさ以外変わらないというのはあまりにも悲しすぎる。 「卒業後は、はいっ、福祉へ」というのでは、やむを終えない理由がない場合、12年間の教育は何だったんだろうかと思ってしまう。 障害のあるなしに関わらず、学校に対しては同じ見方をしても良いと思う。 学校は決して子どもを預かってくれる場所ではない。 子どもたちの未来を作るための教育が行われる場所である、と。 保護者の方たちは我慢する必要がないと思う。 親として子どもに期待することは当然の感情であり、適切な教育が受けられていないときには改善を求めても良いと思う。 アメリカのように保護者の方たちが、訴訟を起こすまでは必要がないと思うが。 卒業後、我が子のすべての生活を一人で抱え込んでしまっている保護者の方たちと接するたびに、私が思ってしまうことでした。

自閉症の人たちにとって大変な大学生活

大学に入る能力があったとしても、学生生活に適応することが難しい。 このような自閉症の人たちは多くいます。 大学の講義は変化が多くあります。 講義によって教室を移動しなければなりません。 教室に移動したあとも、座る席は決まっていません。 教室の数も多い分、環境の違いがあります。 教授の人数も多く、それぞれ教え方やレポートの提出の仕方の違いがあります。 その変化の多い講義も半年で終了し、また新たな講義が始まります。 このように自閉症の人たちの苦手な変化が、大学生活の中には多くあります。 また自分で計画を立てて行動しなければならないことも、自閉症の人たちが大学生活に適応することを妨げます。 大学の講義は自分で何を受講するか決めなければなりません。 講義ごとにレポート提出があり、それぞれまとまりがなく提出期限が伝えられます。 卒業論文は何をテーマにするかからすべて自分で決めて研究を進めていかなければなりません。 そして一人暮らしを始めた学生は、プライベートの生活全般に関わることも計画を立てて行動していく必要があります。 小学校から高校までの学校教育では、自分が決めることよりも学校側の決めたカリキュラムに沿って行動すれば良い環境だったと言えます。 また知識の習得に重点が置かれており、社会性のスキルの部分はおきざりにされていると言えます。 せっかく大学に入るだけの高い学力を持っている自閉症の人たちが、大学生活に適応できずにいる状況はもったいないことだと思います。 先を見通して高校を卒業するまでの間に、独りで生活できる力を身につけることや社会性のスキルについて学習しておくことが大切です。 また大学側も自閉症の人たちが学生生活に適応できるように、レポートの提出期限や試験時間の延長、代筆、カリキュラム作成の手助け、講義や研究に打ち込める環境の調整など柔軟な対応が必要だと言えます。 私は極端な意見かもしれませんが、大学4年間、自分の興味関心がある分野について研究するだけで良いのではないかと考えています。 それこそ大学4年間、卒業論文の研究のみ。 自閉症の人たちが持っている狭い興味関心は、専門的な研究に生かされる素晴らしい特性だと思います。 一般教養や基礎的、総合的な講義のために大学生活自体に負荷がかかるなら、それらの単位を取らなくても

自閉症の人たちにとって『生活の質の向上』とは

自閉症の人たちの支援を行っている者同士で話していると、『生活の質の向上』に対する考え方に違いがあると感じることがあります。 「本人ができないことは支援者が手伝って、生活に不自由を感じないようにしてあげよう」というようにして、「生活の質の向上」を目指す人がいます。 このような考え方を持っている人は、福祉関係の支援者に多いと感じています。 支援者が積極的に出かけることや楽しめるイベントを実施することなどを大切にし、本人が楽しいと感じてもらい、その結果、充実した毎日の生活へとつながっていくと考えている傾向にあります。 一方、教育関係の支援者は、本人が生活に必要なスキルを身につけることによって、『生活の質の向上』を目指す人が多いように感じます。 支援者の手助けを借りずに、自分の力で生活できることが、充実した毎日へとつながっていくと考えている傾向にあります。 簡単にまとめると、福祉関係の支援者が「サポートの質、回数の増加=生活の質の向上」であり、教育関係の支援者が「独りでできることが増える=生活の質の向上」であるというような違いが両者にあると感じています。 福祉関係の支援者からすれば、「何もそこまで厳しく教えなくても、手伝ってあげればいいじゃない」「もっと一緒に楽しい活動をすればいいじゃない」と思われる教育関係の支援者。 教育関係の支援者からすれば、「そんなことまで手伝う必要があるの」「手伝ってもらうことが本人にプラスになるの」と思われる福祉関係の支援者。 私が経験した福祉と教育の現場で、それぞれこのような意見を持つ支援者は多くいました。 てらっこ塾でも、利用してくれた自閉症の人たちの『生活の質の向上」を目指しています。 私は本人が生活に必要なスキルを身につけ、独りでできることが増えることが『生活の質の向上』につながると考えています。 自閉症の人たちは、見通しを持って自分一人の力で活動を行うことにモチベーションが高く、喜びを感じる人たちであるからです。 では、支援者の手助けが『生活の質の向上』につながらないのかと言われれば、そうではないと思います。 知的障害があるなしに関わらず、自閉症の特性からも情報が複雑で、変化の多い世界で完全に独りで生活することは難しいからです。 私は自閉症の人たちが1つでも多くのことが独りでできるようになること

精神科の薬を飲ませることに悩んだら

精神面で落ち着かず、精神科の薬を服用される自閉症の人も少なくないと思います。 自閉症の人たちは、私たちと感覚の違いがあるため、音や匂い、視覚的な情報に対し、私たち以上に大きなストレスを感じやすいと言えます。 また、周囲からの誤解や人間関係でうまくいかないこともありますので、その点でも私たちよりも多くストレスを感じていると思います。 保護者の方の中には、特に年齢が低い子の場合、我が子に精神科の薬を飲ませることに悩まれる人もいらっしゃると思います。 成長過程での服用の影響は・・・。 一度飲み始めたら、ずっと薬を飲み続けるようになるのでは・・・。 精神科の薬と聞くと、他の薬を飲むよりも躊躇してしまうのはもっともなことだと思います。 しかし、私は精神科の薬を飲むことは悪いことではないと考えています。 理由としては、この文章の初めに書いたような自閉症の人たちの特性から来るストレスが多いことが挙げられます。 自閉症の特性なので、自然に良くなるということはありません。 ですから、精神科の薬を飲むことによって少しでも気分が落ち着くなら、本人にとっては良いことではないかと考えます。 このように私は精神科の薬を飲むことは悪くないと考えていますが、一つ注意しなければならないと思っていることがあります。 それは精神科の薬を飲んだからといって、ストレスの根源はなくならないということです。 精神科の薬によって気分は落ち着くかもしれませんが、ストレスを生み出している点を改善しなければ、『薬に慣れる→再び気分が落ちる→薬の増加』の繰り返しになってしまう危険性があるからです(精神科の薬の増加は、素人目にも心身への負担が大きいと感じることが今までに多々ありました)。 精神科の薬は、自閉症の人たちの特性や考え方、認知の仕方自体を変えるものではありません。 支援している自閉症の人が精神科の服用を始めたり、飲んでいた薬が増量になったりしたときには、「猶予が与えられた」と私は思うようにしていました。 薬の力を借りて気分が落ち着いているうちに、環境の調整によってストレスの元を改善したり、必要なスキルを教えたりすることが重要だと考えています。 時に精神科の薬の力を借り、医療とも協力しながら、教育や支援を組み立てていくことも良い方法の一つだと私は考えています。

所属なし!しがらみなし!!

私の強みはどこにも所属していないことだと考えています。 どこかに所属していると守ってもらえたり、助けてもらえたりします。 しかし、その一方でその所属する組織の意向が自分の行動に影響しますし、大なり小なりの制限も出てきます。 所属がないということは、すべて自己責任という部分もありますが、それよりもしがらみがなく、誰とでもつながっていける、協力していけることが強みだと感じています。 これからの仕事は『つながり』がキーワードになると思います。 今までのように、同じ業種や組織の同じような考えを持っている者同士では、新しいものが生まれていかないと思います。 一人ひとりが持っている特徴や長所を結び付け、新しいものを生み出していく。 必要な部分、お互いがプラスになる部分、興味や考え方が同じ部分など、部分的なつながりによって柔軟に動くことができると考えています。 大きな組織や団体、行政が中心に行ってきた障害者支援の行き詰まりも、このような考え方が打破していくのではないでしょうか。 お年寄りと障害を持った人たちが結びつくと何か新しいものが生まれるかもしれません。 家を貸したい大家さんとつながり、障害を持った人専用のアパートだったり。 新聞やテレビ、ラジオとつながり、障害を持った人自身が記事を書いたり、番組に出演したり。 企業、農業、観光、行政、職人、留学生と障害を持った人たちがつながり・・・。 今まで一般的ではなかったつながりが、新しい価値観を生み出し、障害を持った人たちの就労や支援サービス、地域資源を作っていく可能性があると思います。 地域のいろいろな人たちつながり、お互いがプラスになる活動を通して、障害を持った人たちの生活の質の向上を目指していきたいと考えています。

"違い"が身近になる時代

息子が大人になったとき、外国の人と同じように、障害を持った人とも当たり前のように一緒に働くことになると思う。 子どもの数自体は減っているが、障害を持った子どもの割合は増えている。 この傾向は今後も続いていくだろう。 働く若い人たちが減るのだから、障害を持った人たちの働く力が今よりも必要になっていくからだ。 もうすでに障害を持った人たちが利用できる施設はほとんどなくなっている。 今後も施設自体がどんどん増えるということは考えにくく、障害を持った人たちは地域のグループホームやケアホーム、また自分でアパートを借りてサービスを受けながら生活する人が主流になっていくと予想できる。 そうなれば、現在の私たちよりも障害を持った人たちが身近な存在になり、一緒に地域のコミュニティーを築いていくパートナーとなるだろう。 息子には成長していく中で、障害を持った人と関わる機会を多くもたせたいと思っている。 そして経験と同時に、障害について"教える"ということも大事にしていきたい。 幼い頃は何も気にすることなく、障害を持った人と関わる息子も、いつか自分との違いに気が付くときが来るだろう。 そんなとき、その違いを遠ざけるか、知ろうとするかでそのあとが違ってくると思う。 違いに気が付いたとき、何故その違いがあるのかを知ることができれば、自分にとって相手は特別で遠い存在にはならないだろう。 息子たちの時代は、多種多様な価値観、文化を持つ人たちと一緒に社会を作っていくことになると思う。 今よりも"違い"が身近な時代になる。 障害も外国との文化の違いくらいの認識に変わっていくだろう。 自分との違いを理解し、違いがある人たちとうまく協同していく力が求められる時代は、もうそこまで来ている。 これから健常児と呼ばれる子どもたちに、障害について正しい知識を教えられる人材が求められてくると思う。 健常児も、障害を持った子も、共に学びあえ、プラスの経験ができる機会が提供できるようなサービスも行っていきたいと考えている。