2019年6月28日金曜日

『断薬の決意』(花風社)を読んで

福岡出張の報告書を郵便局に出しに行こうとしたら、ちょうど配達員さんが届けてくれました。
著者の藤家さんは、九州にお住まいの方ですので、九州に送ろうとしたら、九州から贈り物がきた感じがして面白かったです。
でも、レターパックを開け、本の題名、帯から、そして手に持った感じから、著者の方と出版に携わった方達の真剣な想い、なんだか手を通して迫ってくるような気迫を感じました。


私が講演会等でお会いした藤家さんは、すでに治っていましたし、お会いする度に輝きや前向きに進もうとするエネルギーが増しているような印象を受けていました。
ですから、同世代ということもあり、「自閉症の」ですとか、「当事者の」ですとか、そういったことを感じたことはなく、勝手にではありますが、同じ風景を見ながら育ってきた同世代の一人というような気持ちでおります。
しかし、藤家さんが執筆される本は、今のお姿からは想像できないような歴史を、そしてその辛さ、苦労のほんの一部を垣間見させてくれます。


今回の新刊のテーマは、精神科薬です。
個人的なつながりの中で、断薬に向けて励まれていることは知っていました。
ただ、それでも、本に書かれている様子、藤家さんが体験した内面の感覚と副作用の記述には、相当なインパクトがありました。


藤家さんがもがき苦しみながらも、薬に頼り、生活していたとき、私は施設職員として働いていました。
働いている中で、新薬が出てきて、その移り変わりも、実際に服薬の援助も行っていました。
本の中に出てきた精神科薬は、私が利用者さん達に飲ませていたものばかりです。
だからこそ、なおのこと、衝撃を受けるのです。
私が働いていたのは、知的障害も、自閉症の症状もとても重い方達ばかり。
しかも、強度行動障害の方たちへの支援も行っていました。


藤家さんは、自分の身に起きたこと、内面で生じたこと、感じたことを詳細に言葉や文字で伝えることができます。
だからこそ、今回、私達は、服薬が及ぼす変化、影響を実感に近い状態で想像することができました。
では、一方で、そういった伝える方法を持っていない方は、まだ伝えられるだけの年齢に達していない子ども達は、どうだろうかと思うのです。


彼らの内面の変化、彼らの訴えに耳を傾けることができているだろうか。
内面で生じたことに対する苦しさの表れに対し、「それが障害だから」と一方的な解釈をしていないだろうか。
気になっていた行動が収まり、「薬のお蔭」「薬は必要な支援」などとポジティブな解釈はしていないだろうか。
問題行動が収まったのではなく、もしかしたら、気持ちが悪いだけ、何か行動を起こすだけの力がでないくらいぐったりしているだけかもしれないのに…。


私の経験からは、断薬は信じられないこと。
長年服用している方ほど、ちょっとでも服薬のタイミングがずれたり、一回でも忘れようもんなら、激しい苦痛、行動をしていたのを見てきたからです。
当然、「薬を減らす」などとは、主治医から受け入れてもらえるわけはなかったのです。
薬は増えても、減ることはない、というのが私の認識でした。


藤家さんの薬の量を減らしていく様子を拝見していると、想像した以上の辛さ、苦痛が生じることがわかりました。
主治医の先生の理解と協力、家族や友人の支え、そして何よりも、一度決心したことをやりぬこうとする藤家さんの心と、それに耐えるだけの身体があったからこそ、断薬に向かって進むことができたのだと思います。
その一つでも欠けていたら、また異なる文章になっていたと思います。


だからこそ、率直に思います。
知的障害を持つ人、多くの発達のヌケを抱えている人は、一度飲み始めた精神科薬を止めることは難しい、と。
まず、その内なる変化、内なる声に、誰も耳を貸してはくれないでしょう。
たとえ、親御さんが本人の苦しみ、訴えを感じることができても、「もし、やめて、心身の安定が崩れたら」という想いを完全に払しょくすることは不可能だと思います。
ましてや、藤家さんがやられていたような体験を、最後までサポートし、やりきるまで支えきれる家族はそうそういません。
子どもの頃から、長期にわたって服薬を続けてきた人は、断薬後の喜びよりも、今、服薬を止めることの、減らすことのこの瞬間の苦しさに耐えることは難しい。


私達は、必要のない精神科薬を飲むことはできません。
ましてや、薬の出方、副作用は、一人ひとり異なりますので、どう頑張っても、理解することはできません。
だからこそ、藤家さんが記されたことから、想像を膨らますことが必要なのだと思います。


飲んだことのない薬だからこそ、一生懸命想像することが大事。
親御さんだったら、我が子の体内に人工的なものを入れるかどうかの判断をしなければなりません。
決して、服薬する、しないに正解はないと思います。
でも、正解はないかもしれませんが、服薬する前にできることはあるかもしれません。
そのできることは何か?
私達は、藤家さんの執筆された『断薬の決意』という書籍を通して、その“できること”を考えることができる。
服薬から断薬の物語、内面の変化がわかるものは、ほとんどありません。
読むことができ、良かったです。


2019年6月27日木曜日

「私の地域は遅れています」のそのあと

6月21日~24日まで福岡県に出張していました。
なんせ北海道から九州ですし、福岡県内も広いですので、今回は移動に時間がかかってしまいました。
それでも「1分でも長く」という想いから、電車の乗り換えは常に早歩き、時々、ダッシュ。
日頃のジョギングの成果を発揮(笑)
食事は、買いこんでいったプロテインバーを頬張りながら、4日間を過ごしました。
チャンポン、水炊き、鹿児島の黒豚は食べられたのですが、豚骨ラーメンは食べられず…。
食事に関しては心残りがありましたが、それでもより良い子育て、成長に関する話し合いについては、私の持っている力をすべて出しきれたと思っています。


福岡は私の生まれ育った土地でもあり、大好きな土地でもあります。
私の新しもの好きで飽きっぽい性格も、福岡の血かなと思います(笑)
福岡は常に新しいものを生みだす地域であり、ファッションや流行などは全国をリードするような土地でもあります。
しかし、特別支援に関しては、どうでしょう。
今回お会いしたご家族以外にも、相談でのやりとりをさせてもらっている方達がいらっしゃいますが、「今、それですか??」というのが正直なところ。
「中央から流されてくる地域」という想いがあるのかないのか、どうも中央に憧れているようなところも感じます。


率直に言って、時代遅れ。
それは先進地域と呼ばれていたところが、10年も、20年も前にやっていたこと。
それを必死にマネして、「ほら、療育やってる、支援やってる、すごいだろ」って感じ。
利用している親御さん達も、「うちは療育受けられたサイコー」と喜んでいる感じ。
言っちゃ悪いが、先進地域の惨状はすでに知るところ。
当時、「進んだ療育」「世界的な支援」と言われ、それを必死に受けてきた子ども達がどうなったのでしょうか。


「療育を受けることが、この子の幸せになる。自立になる」
それから10年、20年。
結局、今も「社会の理解ガー」とやっている。
自閉症、発達障害が治らないからじゃない。
療育も、支援も、対処療法であり、その子の生涯を支え、自立へ後押しするものではないということ。
連絡が取れなくなった若者、大型バスに揺られて一点を見つめている若者。
彼らは、彼らの家族は、必死に療育を、支援を受けていなかっただろうか。
自分たちで種を撒き、結局、自分たちで刈っている先進地域の支援とやらに、私は辟易しているのです。


「私の地域は遅れています」
そのようにおっしゃる親御さんは少なくありません、
これは福岡のような大きな都市でも言われますし、東京や神奈川、愛知のような場所でも言われます。
それはどういうことなのでしょうか。


私は思うのです、地域の支援が、療育が遅れているのではなく、すでに親御さんの意識、情報量、考えが、既存の支援を超えているということ。
親御さんの真剣な想い、願いに応えられるくらいのもの、希望を叶えてくれるようなものはないのです。
私もありがたいことに、各地から出張の依頼や相談がくるようになりました。
そこで感じるのが、公的な組織、機関というのは、失敗を恐れる。
だからこそ、既存の、権威や肩書があるようなものを取り入れたがる、責任をとりたくないから。
そして地方あるあるが、かつての先進地域の落ち武者がリーダーになるケース。
「俺は、私は、先進地域にいましたけど」という顔をして、そのまま、過去の栄光をコピーする簡単なお仕事。
また都会のちょっと外れに、寄せ集めの知識や支援者なんだけれども、「〇〇式療育!」なんてのをコソッと起ち上げる、みたいな。
とにかく模倣と、落ち武者に溢れている。
どうせなら模倣じゃなくて、今、時代に求められているものをやればいいのに、と私は思います。


これからの時代、「満足する療育」なんていうのはあり得ないと思います。
あったとしても、その子の部分的に役に立つ、効果があるだけであって、根本から発達させるような、課題を解決するような、長年に渡って受ける必要があるようなものは、自分ちの近くにできないし、そもそもそんなものは存在しません。
やっぱり発達は、家庭で、子育てで、遊びの中で育まれるもの。
どうしても基本は、家庭であり、家族なのです。


「私の地域は遅れていて…」
そんなことを言っている人は、子どもの発達を後押しすることはできないでしょう。
そもそも主体性がないですし、だったらどうするか、という動きが出る身体を持っていませんので。
今回、福岡でお会いしたご家族は、みなさん、「子育ての中で、この子をより良く育てていきたい、発達を後押ししていきたい」と考えていた親御さん達です。
確かに、「遅れていて」「地域の支援に疑問を持って」とは言っていたけれども、そこで止まることなく、ご自身でいろんな情報を集め、そして、少しでも良いものを吸収したい、ヒントを得たいと呼んでくださった。
どのご家族も真剣そのもの。
私の行動、言葉、雰囲気から、ちょっとでも発達の後押しになるものを、より良い子育てに繋がるものを、という主体性があり、また迫ってくるような気迫すら感じました。
それくらい真剣だし、それくらいご家族で、ご自身で、この子を育てるんだ、自立させるんだ、という想いが強いということです。


お会いしたご家族の中には、2度目という方もいらっしゃいました。
お会いしたのが、一年半前。
そのときは、まだたくさんの発達のヌケがありました。
でも、今回お会いしてビックリ。
この短期間の中で、前回お話しした発達のヌケをほぼ育て上げられていました。
運動面で言えば、基本的な部分でヌケがあったのにも関わらず、今では同世代の子ども達と比べても同じか、それ以上の身のこなし、動き、遊び方をされていました。
このご家族から私は、改めて子どもの持つ発達する力の素晴らしさと、親御さん、家族での育む力の素晴らしさを教えていただいたのです。
もし、このご家族が「うちの地域は遅れていて…」と言っているだけの時間を過ごされていたら、このようなお子さんの輝く発達はなかったと思います。
自由自在に動かせる身体は、挑戦する力、学習する力、何よりも自分自身を大切にすることができます。
家族での育みを大切にされていたからこそ、大きな発達の後押しができたのだと思います。


先ほど、レポートを郵送いたしました。
きっとどのご家庭も、家族で、子育てを通して、より良く育んでいかれるのだと思います。
もう「遅れている」とすら言わなくなるはずです。
だって、主体的な子育てで忙しいから。
どこが未発達な部分で、「未発達な部分は育てていけばいい」と分かったはずですから。


どんな地域に住んでいようとも、未発達な部分は育てていけます。
家族の育みによって、主体的で自由な人生を歩めるような子育てはできます。
特別な器具も、高価な教科書、資格もいりません。
あるのは、そのご家族にあった、その子にあった子育てであり、発達援助。
地域が関与することがあるとすれば、その土地土地の環境を活かした遊び、身体育てです。
福岡は海もあるし、山もある。
美味しいものもたくさんあるし、明るく気さくな土地柄でもある。
その家庭、地域、環境を活かした子育てを。


私のルーツでもあり、大好きな土地でもある九州、福岡の子ども達のために働くことができ、大変うれしかったです。
出張の際、全国にいる志を共にする方達からの応援も頂戴しました。
素晴らしいご縁を結んでいただき、感謝申し上げます。
皆様、本当にありがとうございました。
これからマラソンモードに入ります(笑)


 


2019年6月19日水曜日

誰のため?何のため?早期診断

つい数年前までは、就学前の子どもさんの相談がくれば、「早いな~」と思っていたのですが、近頃は、2歳、3歳の子からの相談も珍しくなくなりました。
中には、1歳代の子の親御さん達からも相談があります。


私が若手の頃から「早期診断、早期療育」と叫ばれていましたが、3歳くらいの子の診断は一般的ではありませんでした。
どちらかといえば、そういった幼児期から診断を受ける子は、症状や知的障害が重い子だったと思います。
でも、今は同世代の子の発達と比べて、少しでも言葉や運動が遅れていたら、少しでも特異的な行動が見られていれば、1歳でも、2歳でも、3歳でも、診断名が付き、療育、支援への道へ誘導されていくような印象です。
日本でも、早期診断を熱心に推し進めている人物、集団がありますので、そういった人達の影響もあるのだと思います。


本来、早期診断というのは、とても意義のあることだと思います。
私も早期診断は、その子、家族にとって、良い方向へ進むきっかけだと考えています。
実際、私のところに相談にいらっしゃる幼いお子さん達は、親御さんの育て方によって大きな発達、成長を見せることが多いです。
神経発達がとても盛んな時期だということもありますし、いろんな学習をする前ですので、発達のヌケも見つけやすいですし、課題の根っこが近い分、そこが埋まれば、それ以降の発達が整いやすいといえます。
ですから、発達の遅れがあるのなら、すぐに軌道修正、発達のヌケに立ち返って育て直すことができるので、とても意義のあることだと考えています。


しかし、早期診断が意義のあることになるためには、その子と家族にとって、より良い未来へ進むためのきっかけになるためには、大事な前提があると思います。
それは、幼少期の診断名は仮のものであり、今現在を表すもので、その子の未来までを決定づけるものではない、ということです。
さらに、早期に発達の遅れがわかることは、その子に合った育て方をするために必要なのであって、より早く、より多く支援や療育、服薬を始められるためではない、ということです。


実際、相談にいらっしゃる親御さんの話や、いろんな方達の話、様子を見聞きしますと、早期診断の目的をはき違えている人達が多い印象を受けます。
早期診断の方向性としては、「その子の予後を良くする」だと思うのですが、その良くする方法が、支援をたくさん受けること、早期から療育を受けること、問題が大きくなる前に服薬を始めることに偏っているのです。
それって、育てられるところをすべて育てたあと、それでも残る困難、課題、特性に対して行うサポートではないでしょうか。


年端もいかない子ども達が、療育機関に通う。
いやいや、その子達に大切なのは、まずやらないといけないのは、「未発達な部分を育てることでしょ!」「快食快眠快便、生活のリズムを整えることでしょ!」と私は思うことがあります。
だって、同じ年齢の子ども達も、それを育み、整え、身に付けている最中だから。
どうして、発達に遅れがある子は、「家庭で育てる部分、ヒトとして土台になる部分を育てるのは、“置いておいて”」になるのでしょう。
そんなことをしていたら、同世代の子との発達の差は、どんどん広がっていくばかりです。


基本的な生活習慣、生きる上で土台となる発達と快食快眠快便。
そこが育っていないし、育もうとしなければ、たとえ療育が意味のある内容だったとしても、身につくわけはありません。
身についたとしても、それは形をコピーしているだけ。
特定の施設の中だけ、特定の支援者の前だけ、すること、やれることがあるのは、皆さん、よく見る姿だと思います。
結局、土台が育っていなければ、本当の意味での実生活に繋がる学習はできないし、そもそも身につく可能性、効果がある可能性も低くなります。


「昨晩も寝られなかったんですよ」という親御さんに、「それはお母さん大変でしたね」「少しずつ寝られるようになると思いますよ」なんて言うだけで、「さあ、療育の時間、始めましょう」とやっちゃう支援者。
療育機関は、決められたプログラムを進めていく必要があるのはわかります。
でも、それとは別に、寝られないことの重大さに気が付き、親御さんと共にどうしたらよいかを考えていく姿勢が大事だと思います。
寝られないことは家族にとっても大変なことですし、何より本人が一番苦しんでいます。
寝られないのは、発達への影響ももちろんですが、命、生きると関わる重要な部分でもあります。
早期に分かり、早期に子ども、家族と向き合うからこそ、形だけのソーシャルスキルを教え込むよりも、こういった土台に対する子育てを支援してほしい、と思うのです。


相談を受けながら、私はいつも思います。
現在の早期診断、早期療育は、親御さんを苦しめているだけではないか、と。
何故なら、家庭が担っている生活のリズムを整えること、快食快眠快便を整えること、そして未発達の部分を育んでいくことに対するサポートがなされていないから。
「それは障害特性でもありますので…」と表向きの言葉で慰めておいて、心の中では「それは、私達の仕事じゃないし、家庭の問題でしょ」と呟く姿。
そしていそいそと、今日も決められたプログラムを進めていく。


言葉の遅れがある子に、絵カードの使い方を教えるのは意義のあることでしょう。
落ち着いて座れない子に、静かに座っていられる時間を増やす指導も意義のあることでしょう。
他人と、うまく関係性を築けない子に、ソーシャルスキルに関する指導をするのも意義のあることでしょう。
でも、それを年端もいかない子ども達にするんかい!?
言葉が出ないのは、その土台の準備ができていないからかもしれません。
落ち着いて座れないなら、落ち着いて座れる身体が育っていないのかもしれません。
他人と関係が築けないのは、そもそも自分自身が捉えられていないからかもしれません。
そこに気づけるからこそ、早期に関わる支援者だといえるのではないでしょうか。


早期診断は、確定診断ではありません。
その子の未来を決定づけるものでもありません。
早期に気づくということは、早い段階で「未発達の部分を育てていこう!」というポジティブな動きだと思います。
1歳、2歳、3歳の子どものどれが障害で、どれが未発達かなんか、明確に区別することはできません。
だからこそ、育てやすいところから、育てていく。
治しやすいところから、治していく。
生活のリズムを整えることと、快食快眠快便は、生きるための土台です。
それらを育てていったあと、それでも残るものがあれば、そこは支援や配慮が必要な部分。


育て切る前に、未発達の部分ばかりなのに、最初から支援と配慮が提供されるというのは、早期診断の意義を見失っている証拠だと思います。
早期診断は、その子にあった子育てに向かって歩みだすきっかけ。
早期療育に求められるのは、より良い子育てに向けたサポートであり、アドバイスだと私は考えています。
幼少期の親御さんが知りたいのは、支援の仕方ではなく、子育ての仕方です。
1歳、2歳、3歳の我が子に対して、「より良い支援をしたい」と一番に思う親御さんは、ほとんどいないはずですから。

2019年6月16日日曜日

25%の涙

海外では、発達障害を診断するのは医師だけと決まっていません。
医師免許を持っていない心理士、支援者も、自閉症やADHD、LDなどの診断を行います。
日本では、診断できるのは医師だけですので、不思議に思われる方もいるかもしれません。
でも、視点を変えれば、「医師だけにしか認められていない診断」というのも不思議だといえます。


そもそも、どうして医師にしか診断が認められないのでしょうか。
脳波を取るわけでも、血液を採るわけでもありません。
発達障害は病気ではなく、成育歴&生活の様子の問診と行動観察によって診断されるのです。
医療行為はしないのに、医師にしか認められない診断。
それって不思議じゃありませんか。


問診と行動観察でしたら、数多くの発達障害の人達と関わっている人、より生活に近い状態をたくさん見ている人の方が、的確な診断ができると思います。
診察室で見せる姿は、その人の一部です。
それに診察室で困っているから診断を受けに来たわけではなく、日常生活の中に課題があるからこそ、診断に来ているのです。
その課題を見なければ、本当の診断、判断はできないと思います。


「診察室で補えない部分を問診で確認しているじゃないか」と言われるかもしれません。
でも、それだって親御さんの主観が入ります。
どう頑張っても、我が子の内側の様子をすべて伝えることはできません。
そうすると、やっぱり目に見える行動を、親御さんの表現を使って伝えるしかありません。
診察室で見えない部分は、言葉によって説明される。
その説明を聞いて、診断の根拠にもするわけですから、親御さんの表現の仕方、またそれを聞いた医師の捉え方、解釈の仕方によって診断名が変わる可能性もあるのです。


結局、数値ではなく、言葉で説明されている診断基準というのがあり、その状態像に当てはまるかどうかを見るわけです。
ある行動を見て、それを自閉症の特性か否かと判断する。
その判断には当然、判断を下す人の意思が入るわけです。


自閉症も、ADHDも、LDも、別次元の人間で普通の人とは異なる脳みそ、神経を持って生まれてきたわけではありません。
定型発達と呼ばれる人と同じ人間であり、発達の軸で見れば、定型発達と連続して繋がっている存在です。
ですから、明確に「これが自閉症の行動で、これが定型発達の行動」とは分けることができません。
行動も、状態も、当然、日によって、場面によって変わりますし、子どもなら尚更、日々の発達は目まぐるしく変化しています。


「日本で医師しか診断できないのは、それが利権になっていて、医師会が渡そうとしないからだ」と言うギョーカイメジャーの大学教授がいます。
確かにそのような理由もあるかもしれません。
ただ私は、医師にしかできないようにすることによって、診断名の正当性を担保しているのだと思います。
だって、そもそもの根拠が乏しいから。


「どうして、自閉症なのですか」と尋ねれば、「診断基準に当てはまったから」
「じゃあ、どうして診断基準、その行動が自閉症の特性、様相と判断できたのか」と尋ねれば、「診断基準に書かれた状態像と同じ、近いと判断したから(私が)」としか言えないと思います。
何故、その行動、様相が表れているのか、原因を答えられる人はいませんし、それ自体を示す必要はないのです、現在の診断には。


このように考えると、「診断名ってなんだろう?」と私は思います。
診断を受けることは、療育や支援、行政サービスを受けるための入り口だといえます。
でも、その個人の、その個人の家族の想い、願いとしては、日常生活の困難が解消され、心身がラクになり、より良く発達、成長していけることだと思います。
じゃあ、その想い、願いに寄り添うような形に、現在の診断がなっているのか?


本人や家族が本当に知りたいのは、診断基準に当てはまるかどうかではないと思います。
それよりも、どうしてその行動が表れているか、どうして発達に遅れているか、だと思います。
でも、現在の科学では答えることができない。
だったら、実際により良い方向へと変わった人から、その人と携わっていた実践家から話を聞いたり、アイディアをもらったりするのが自然な流れです。
原因がわからないからこそ、いろんな方法を試し、子育てをしていく。


将来、バイオマーカーが発見され、客観的で科学的な診断ができるようになると思います。
そうなれば、現在、診断を受けている多くの人が、障害者にはならないと思います。
何故なら、未発達ゆえに、発達の遅れが出ている、課題が表れている子ども達までひっくるめて、自閉症等の診断名が付けられているから。


栄養面や刺激、環境面をどう頑張っても、定型発達と呼ばれる状態、ラインまで届かない人もいるはずです。
でも、脳の欠損でも、神経の欠損でもない発達障害なら、まったく発達していかない、ということは考えられません。
そういった意味で、生涯変わることのない障害者である人は限られてくると思います。
発達に遅れがある子の多くは、栄養と環境と育ち方によって、より良く発達することができるし、定型発達のラインを超える子もいるのは当然です。


このような現状の診断にも関わらず、「治らない」と声高々に言い続ける人達がいます。
でも、アメリカのコネチカット大学の研究では、25%くらいの人がASDの診断を受けたにもかかわらず、その診断が外れるくらい状態が変わったと報告されています。
日本では、誤診も、未発達のチャンポンも含まれるので、50%くらいの人は診断基準を満たさないくらいに発達するし、治ると思いますね(真顔)。


だったら、「治らない」と言うことは、「治る」を認めようとしないことは、25%くらいの子ども達の未来を潰していることにもなります。
また、その25%に入らなくても、今よりもより良く育つ可能性がある子の育ちの機会、可能性を奪ってしまう危険性もあります。
因果関係がはっきりしない診断名と共に、医師や専門家が言っているからというだけの「治らない」という言葉と共に、我が子の、将来の社会を担っていく子ども達の可能性を奪ってもいいのでしょうか。


治りたくない人は治らなければいいのです。
でも、その人達に付き合うために、25%の子ども達を犠牲にして良いわけがありません。
今よりも、より良く発達、成長できる子達は100%。

2019年6月14日金曜日

「治った」主観と「治らない」主観

自閉症、発達障害は、DSM-5にて神経発達障害になりました。
でも、未だに「脳の機能障害」「生来的な障害」と言われています。
また、それが「生涯、治らない」という根拠にもなっているようです。


脳の機能障害で、生まれつきの障害ということに疑問を持たず、信じている人達が大勢いるのはわかります。
しかし、世の中に、「この子の障害は、脳の機能の問題からである」と確認できた人はいないのです。


現在の診断は、行動観察と問診で行われています。
診察室や検査室で、自閉症の子どもに見られる行動が確認できた。
しかも、診断基準に当てはまる行動が複数確認できた。
親御さんからの成育歴、生活の様子からも、自閉症のようだ。
じゃあ、あなたは自閉症ね、年齢が幼かったり、はっきり確認できなければ、自閉傾向ね、軽度の発達障害ね、となる。


でも、ここで気を付けないといけないのは、自閉症に見られる行動があった=自閉症だと言い切れるのか?
はたまた、自閉症に見られる行動があった=脳の機能障害だと言い切れるのか?
ということです。
脳内の機能を調べたわけではないのです。
自閉症に見られる行動が確認できた、というだけなのに。
子どもが見せたその行動が、脳内を確認したわけではないのに、どうして「脳の機能障害」と言い切れるのでしょうか。
立ち合い出産をしたわけではない人が、どうして「生まれつき」と判断でしょうか。
つまり、それくらい今の診断というのは、曖昧なものであり、主観が入る余地があるといえるのです。


ヒトは、受精した瞬間から発達を始めます。
そして死ぬその瞬間まで。
しかも、その発達の仕方は、個人の資質によって、また環境からの影響を大きく受けるのです。
そんな複雑で、一瞬たりとも同じ状態が生じない発達を、人為的に捉えようなどというのは無理な話です。
だからこそ、行動観察と問診というざっくりした大枠でしか捉えることができていないのです。


こういったざっくりとした診断しかできていない現状です。
なのに、表れる行動のすべての原因が、「脳の機能障害」と結論付けられています。
そのことに、どうしてもっと多くの人が気づかないのか、疑問に思わないのか、がギモンです。
唯一の根拠が、「医師がそういったから」
でも、その医師だって、脳内を調べたわけでも、受精した瞬間からのすべてを見ていたわけではない。
見たのは、その診察室での行動と、親御さんからの話。


極端なことを言えば、診断を受けなければ、自閉症にも、発達障害にもならないのが現状です。
昨日の「困り感」じゃないですが、本人が困っていなければ、医療や相談機関にかかることはありません。
ということは、自閉症か、発達障害かを決めるのは医師ですが、結局のところ、本人次第、家族次第ということになります。
いくら発達に凸凹があろうとも、本人が問題なく生活できていれば良いわけです。
いくら出生段階で発達の遅れがあろうとも、その後の生活の中で遅れている部分を育てていければ良いわけです。


こんなことを書くと、「療育機関に通わせないのはダメな親だ」「診断を受けないというのは、受容できていない証拠だ」などという人がいます。
でも、じゃあ、その療育機関に行って、診断を受けて、現状の子ども達、大人たちは発達が加速しているのか、いわゆる問題行動が解決できているのか、将来、自立できているのか、と問いたいと思います。
目に見える行動が、本当に脳の機能障害から来ているものなのかを調べることなく、「はい、脳の機能障害ですね」「はい、生まれつきで治りませんから」「はい、この子は療育、支援を受けてください」というファミレスのマニュアル対応みたいなことでいいのでしょうか。


もしかしたら、生まれつきでも、脳の機能の問題ではないかもしれません。
ただの未発達、未経験ということも考えられます。
発達マーカーの中で、抜かしたものがあり、そのため、うまく発達が繋がっていないのかもしれません。
栄養だって、刺激だって、愛着だって、環境面からの影響だって考えられます。
それなのに、専門家が言うから、言ったから、「脳の機能障害」じゃんじゃん、で良いのでしょうか。


支援者の一人として思うのは、本人の主観に寄り添うことの大切さです。
結局のところ、障害を確定するものは何もないのです。
だったら、本人の訴えであり、願いに応えていくのが支援者としての役目だと思います。
つまり、本人の主観が何よりも大切であるということ。
本人が「治った」「良くなった」というのなら、それが正解であり、すべてだと思います。


当然、「治った」も主観です。
でも、「治らない」「あなたは自閉症、発達障害」というのも、ある意味、主観です。
違いがあるとすれば、本人の主観か、他人の主観か、という点。
だったら、本人が以前よりも良くなったと感じ、「生きやすくなったな」「心地良くなったな」「成長できたな」と思えればいいのです。
支援者の主観を満足させることが、支援の目的、特別支援教育の目的ではないのですから。


一方で親御さんは、子どもに対し、「こうなってほしい」と願いを持つことは当然だといえます。
それを後押しするのも、支援者の役目です。
ただし、ここでも大事なのは、本人の主観です。
本人が心地良いと感じること、発達の力が向かいたい方向へ後押しすることが大事です。
後々のことを考えて、先回りして教えるのは、発達ではなく、適応を促しているといえます。
もちろん、それ自体は悪いことではありませんが。


親御さんは、世の中で一番我が子の主観に近づける人だと思います。
その親御さんが、子どもさんが感じている「治った」「ラクになった」「成長できた」という主観、想いを感じて、一緒になって「治って嬉しい」「成長を感じれて嬉しい」と言っている。
そのことを否定できる人は、どこにもいないのです。
いるとしたら、その子の障害の理由を客観的に確認し、示すことができる人だけ。
他人の主観が、本人の主観に、家族の主観に勝るわけはないのですから。


「治った」が主観で結構。
家族が「治った」と喜んでいるのなら、それはその家族にとって幸せなこと。
「治ったなんてインチキだ」というのも主観です、しかも、どこの誰だか分からない、その家族の生活、人生にとってはどうでも良い赤の他人の。
「治る」も、「治らない」も同じ主観。
だったら、本人と家族のために尽くすのが、支援者の役割。
主観に優劣はありません。


でも、一つだけ確実に言えるのは、「治った」と言っている人がいること。
「自分は治ったなあ~」「我が子は治ったなあ~」と感じた人がいる、その事実。
専門家やエビデンスは、時代とともに消えていきますが、「治った」人がいた事実は消すことができません。
その「治った」と感じることができて人が見せてくれた背中は、未来の子ども達、これから子育てを行っていく親御さん達の希望になります。
私の人生の時間は、こういった希望のために使いたいと思っています。

2019年6月13日木曜日

困り感を持っているのは、誰?

施設職員だった頃の仕事の一つとして、学校の連絡帳への記入がありました。
毎日、15名ほどの学校の様子を見て、それに返事をしたり、寮での様子を伝えたりします。
あるとき、突然、連絡帳に「困り感」という言葉が現れ、連日のようにその言葉が並ぶようになりました。
それまでは、見たことも、聞いたこともなかった言葉です。


後からわかったのですが、特別支援教育系の雑誌に載った言葉ということでした。
研修や講演会でも、当時、頻繁に使われていたようです。
学んだことをすぐに担任している子ども達に使いたがるのは、学校あるあるです。
長期休みが明けるたびに、言っていること、支援の方向性が変わるのは勘弁してほしい、とよく思ったものです。
子どもはモルモットじゃありませんね。


「困り感」という言葉が現れてから、子ども達は「困り感」を持つ人達になりました。
その当時の担任の先生も、「この子達は、困り感を持っているんです」「学校では、この困り感に対して、〇〇といった支援、教育をしています」「寮では、どのように考えているのですか」などと、困り感前提で話が進んでいました。
「困り感」という言葉が出てくるまでと、出てきた後で、子ども達は変わっていません。
でも、その「困り感」に対する支援、教育が計画され、なされていくようになる。


このように、本人ではなく、他人の考え方、捉え方、もっといえば、主観で物事が決められ、進んでいくことに恐ろしさを感じました。
確かに、知的にも、発達的にも、障害を持っている子ども達ですので、何らかの困難や困っていることがあるのは想像できます。
しかし、それはあくまで私の想像であって、本人からの訴えではありません。
私達が「困難だ」「困っているんだ」と捉えていることでも、本人からしたら困っていないかもしれません。
私達が「困っているはずだ」と思っているところではない部分で、本当は困っているかもしれません。


困っていることのズレは、当然だといえます。
他人がリードする捉え方が、本人の捉え方とピッタリ合うなんてことは不可能です。
本人が感じている世界、捉えている世界は、本人しかわかり得ないのです。
私もよく口頭や連絡帳を通して、「どうして困っているか、わかるのですか?」と尋ねたものです。
もちろん、明確な答えは返ってきませんでしたが。


私は支援者の立場として、意味付けすることの危険性を感じています。
特に、幼いお子さんや言葉の発達に遅れがある方に対しては。
幼いお子さんの場合は、私が行った意味付けによって、行動や成長が引っ張られてしまう危険性があります。
言葉の発達に遅れのある方の場合、本人の意思や尊厳を侵害してしまう危険性があります。
ですから、解釈はしても、意味付けはしてはいけないと考えています。


困っていることは、往々にして本人ではなく、周囲の人が「困っている」という場合があります。
もちろん、一人で学び、生活しているわけではないのですから、周囲が困っていることに対処することも必要です。
しかし、そういった周囲の困り感を出発としたものには根本的な解決、発達が含まれません。
何故なら、主体と一致していないことがほとんどだからです。


主体である本人が、治したいと思っている、発達したいと思っている。
そういった主体があるからこそ、変化が生じるのだと感じています。
周囲がいくら「問題を解決しよう」「発達させよう」と思っても、本人、主体と一致していなければ、実現するのは難しいといえます。
主体のない変化とは、発達ではなく、適応であり、対処であります。
だから、発達援助とは難しいのです。


親御さん、学校の先生、支援者の悩みは、主体とのズレ。
「私は、ここを伸ばしたいと思っている」「ここを育て、発達させたいと思っている」「この行動は、どうしてもやめさせたい」
でも、その想いが、主体の意思と一致しているとは限りません。
発達の順序、流れから言って、“今”じゃないのかもしれません。
私達は、人の中で、時間の中で、文化の中で生きていますが、発達とはそういった概念から解き放たれた次元で生じているのです。
発達には意思があり、自由な存在です。


当時、「困り感」なるものが流行ったのは、それだけ支援や教育で困っている大人たちが多かったということなのでしょう。
本人の「困り感」という名で、自分たちの困難を代弁させていたのだと思います。
そうやって振り返ると、構造化だ、ABAだ、SSTだ、と言われてきたけれども、どれも対処のみで根本解決に至るものは出てきませんでした。
結局、本人の「困った」も、周囲の「困った」も、それを解決するには、発達のヌケを育て直していくしかないのです。


子どもが幼くても、言葉が出ていなくても、発達の声は発していると思います。
どこを育てたいか、今、なにを発達させようとしているのか。
その声を、目や耳、感覚を通して、聞くことが大事です。
私は支援者であり、赤の他人ですので、特にこの声を大切にすることが、本人の尊厳と、本人の発達を保障することにつながると考えています。


困っている主体は誰か?
それを育てたい、発達させたいと考えている主体は誰か?
本人と周囲の人間の発達に対する波長が合ったとき、歯車は勢いよく回り始めます。

2019年6月6日木曜日

発達に人を介する理由

支援は、人以外でも行うことができます。
たとえば、教室や部屋をわかりやすいように、刺激に圧倒されないように、物を配置したり、情報を整理したりするのは、環境側からの支援だといえます。
また、読み書きや学習に困難がある人に対する電子機器、タブレットも支援ですし、身辺面や移動、運動面をサポートする器具、道具も支援だといえます。


このように人を介さない支援は様々ありますし、それらを利用し、より快適に、より自立的に学び、生活している発達障害の方達は多くいます。
これからも、こういったアイディア、モノの発展は続いていくでしょう。
そうなると、今以上に、支援者が行う支援は狭まっていき、その存在意義は問い直されることになると思います。


高齢者の支援には、すでに介護ロボットというようなものが導入されてきています。
近い将来、障害者支援の世界にも、介助ロボが導入されるのは想像に難しくありません。
ロボットならば、虐待やセクハラ、金銭着服などの心配はなくなりますし、支援者の数も今よりも減らせるので、財政的にも良い話だと思います。
わざわざ建物を青くしなくても、社会に理解を求めなくとも、優秀なロボットが生活の質を守ってくれる未来。


私は支援者をやってきたからこそ、 支援者が行える支援の限界と、支援者という役割、価値、意義が薄れていく流れを感じます。
今のような支援しているんだか介護しているんだかわからないようなものは、発達を促しているんだか適応を促しているんだからわからないものは、人以外のモノに取って代わられるはずです。
支援者の多くが外国人になる前に、ロボットになるかもしれません。


そういった流れ、未来が見えているのに、支援者が必死に支援の方法を身に付けようとするのも、親御さんを親ではなく、支援者にさせようとするのも、私は違うと思います。
それこそ、人にしかできない、親御さんにしかできない発達障害を持つ人達との関わり方があるはずです。
まさに、それこそが子育てであり、発達援助。


もちろん、子ども自身、自分に必要な刺激、遊びを知っていて、自ら発達させていくことがほとんどだといえます。
子どもの内側には、自らを発達させる力、自らで発達する力が存在している。
でも、より良い発達、より早い発達には、人との交流、対話が必要なこともあります。
私達は、子ども達により良く育ってほしい、と願うからこそ、懸命に子育てをし、発達の後押しをしているのです。


子どもさんの場合、自ら選択し、環境にアクセスできる機会が限られています。
また発達に遅れがある子やASDの特性を強く持つ子の場合、見たり、聞いたり、体験した利していないものを想像し、自ら求めることが難しいこともあります。
そうなると、同じ刺激を、環境を求め続けることになります。
最初は、発達のための刺激だったものが、いつしか単一的な刺激になり、『発達』ではなく『適応』になってしまう。
発達障害、ASDの子ども達と接する者にとって、この点は十分に配慮しなければなりません。


発達に人を介する理由は、まさにここにあります。
私が、親御さんに「対話が大事」というのも同じです。
我が子に発達を促す遊び、エクササイズを行っている。
そのとき、対話がなければ、一つの心地良い状態で留まってしまう可能性があるのです。


本人が心地良いと言っている。
じゃあ、その心地良い刺激を与え続ける。
それだと、時がくれば、発達から適応に変わってしまいます。
本人が心地良いと言っている。
そのあとに、「じゃあ、こういった遊び方はどう?」「もっといい心地良さがあるかもよ」と誘ってみる。
そうやって対話をしながら、試行錯誤をしながら、その時その時のベストな心地良さ、発達刺激を探っていくことが、子どもさんをより良く育て、発達を促していく方法だと思うのです。


将来、いくら技術や文明が発展しようとも、子育ては人が担い続けるのだと思います。
何故なら、子育ての中にも発達があるから。
発達は生き物であり、対話です。
ただ栄養を与え、ただ刺激を与えていれば、人は育ち、成長するかもしれないが、より良く発達していくことにはならないと思います。


より良い発達には、自発性と好奇心、興味関心が必要です。
つまり、本人の気持ち、心が重要だということ。
そのために、人が人を育てるのです。
心と心の対話が、その子の発達を後押ししていく。
親御さんが心地良いと感じているからこそ、援助を受けている子どもさんも、より心地良さを感じることができる。
そういった相乗効果もあると、私は考えています。


ですから、親御さん自身が健康で元気であること。
前向きで、主体性を持っていること。
なんにでもチャレンジし、試行錯誤できる身体があること。
そして何よりも、我が子を愛し、我が子の幸せを本気で願う気持ちが重要なのです。
心があるからこそ、発達を後押しすることができる。
気を介さない援助は、ただの支援であり、介助であり、人じゃなくて良いのです。

2019年6月5日水曜日

『発達』と『適応』は、まったく異なるもの

私が学生だったときですから、もう20年近く前の話になります。
なので、まだ今の特別支援学校で行われているかはわかりませんが、当時、サーキットという授業が盛んに行われていました。
部屋にマットとか、トランポリンとかを置いて、そのコースを子ども達がグルグル回って、回転やジャンプなど、いろんな動きをするやつです。
学生時代、授業の補助として入っていましたので、よく見ていました。


傍目から見れば、子ども達が主体的にコースを周り、いろんな動き、活動をしますので、なんだか良い効果があるように感じました。
実際、学校の先生もそう言っていましたし、大学の教授もそう言っていました。
療育機関でも、盛んにやられていたくらいです。
でも、授業に入り、その子ども達の様子を見ていると、「これで大丈夫かな」と思うようになりました。
まあ、第一、子ども達がサーキットを始めると、先生は部屋を出て、5分くらいしてからタバコの匂いをまとって戻ってきてたくらいですし。


結局、サーキットを始めた数回はいいんです。
しかし、同じコース、動きばかりしていると、子どもの達の意欲というか、姿勢というか、躍動感が段々と失われていくのです。
最初は、自分で動きや体勢などを工夫している様子も見られたのですが、「ただやってます」「こなしてます」みたいな感じになってくる。
つまり、最初は学習だったり、成長だったりするのに、ただの適応になってしまう。
だから、それ以上、発達、発展がない。


昨日のブログで、発達援助とは、親子の対話であり、育み合いというようなことを書きました。
ただ単に、発達に必要な刺激だけを与えておけば良いのなら、親子でやる必要はなく、支援者が存在する意義もありません。
ヒトの定型発達の順序、データを入れておいて、それに応じた刺激を子どもに自動的に与え続ける機械で十分なのです。
でも、実際は、そういった機械的な刺激では、より良い発達は見られないでしょう。
何故なら、それこそ、発達ではなく、刺激への適応になってしまうから。


いろんな人達とお話ししていますと、発達の捉え方が違うような気がします。
「刺激→反応→発達」というようなシンプルなものではなく、もっと複雑で、揺らぎがあり、個別的なものだと私は思うのです。
確かに、「定型発達」などという言葉もありますし、支援者としては、ヒトの発達の定型、流れはしっかり捉えておく必要があります。
しかし、その定型だって、大まかなもの。
一人ひとりの発達を細かく見ていけば、そこにその人特有の発達というものがあります。
大まかな定型、流れはあるけれども、発達にだって個性があるのだと思います。
もちろん、「障害が個性」などと訳のわからないことを言っているわけではありません。
発達の道筋、物語のことです。


結局、私達は、子ども達に適応させようとしているのではなく、発達してもらおうと考えているのです。
少なからず、「発達援助」「治る」を目指している人達は。
そうなると、やっぱり単一的な刺激のやりとりではいけないのだといえます。
同じ身体を揺らすにしても、「こうしたら、どう?」「このくらいの強さなら、どう?」「もっとやろうか、やめようか」といった対話が重要になってくる。


何故なら、発達とは揺らぎ、常に変化があるものだから。
そして何よりも、個別的なもの。
昨日の心地良さ、発達に必要な刺激が、今日も、今この瞬間も同じだとはいえません。
生きていない者は、発達しない。
生きている限り、発達する。
つまり、発達も生きている。
そうなると当然、刺激自体も生きている必要がある。
どっかの養護学校みたいに、同じコースをただ回らせておいて、そのうちにちょっと休憩みたいなのでは、発達は生じないのです。
刺激自体が死んでいるから。
刺激に息吹を感じられないから。


私が子育て支援にこだわるのは、まさにこういった理由からです。
親御さんには、子育てを通して、子どもさんの発達を後押ししてもらいたい。
ただ単に、第三者が作った枠に当てはめるような適応を目指すのではなく。
適応と発達は、明確に違うと私は考えています。


親子だからこそ、支援者なんかよりも、丁寧に、ゆっくり、その子に合わせた発達の促し方ができるはずです。
そのための対話であり、育み合いです。
発達刺激に想いを込められるし、想いを汲められるのが、親子の強み。
イキイキとした刺激が、子どものイキイキとした発達に繋がるのだと思います。
発達は生き物なのですから、刺激も生きていなければなりません。

2019年6月4日火曜日

子どもの「心地良い」が感じられない理由

発達の主体は、子どもさん自身。
ですから、「どれくらいやったらいいですか?」「どのくらいの加減でやればいいですか?」というご質問には、子どもさんが「満足するまで」「心地良く感じている加減で」とお答えするしかできません。


このような説明をしますと、ほとんどの親御さん達は、「子どもの様子をしっかり見ようと思います!」「子どもに合わせてやってみようと思います!」と返ってきます。
そうやって、子どもの反応、様子に目や耳を傾けることで、子どもの、子どもの内側にある発達の声を聞くようになります。
聞こえてきたメッセージに対し、親御さんも発達の後押しで返していく。
このようなやりとりが、試行錯誤を生み、より良い発達、伸びやかな発達へと繋がっていくのです。


「子どもの反応、様子を見る」というのは、ただ単に、その反応、動きのみを見ているわけではありません。
生き物の観察のように、「しっかり見て、それを記録する」というよりも、親子の対話だといえます。
本当に見るのは、発達の動き、息吹、息づかいであり、言葉ではなく、発達を介した会話なのです。


時々、「しっかり見たけれども、何が良いか、心地良いか、がわからない」とおっしゃる方もいます。
多分、こういった親御さんは、誰よりも、しっかり子どもさんのことを見ているのだと思います。
子どもさんの表情、身体の反応、動き、言葉の変化までも、しっかり見ている。
そのちょっとした変化、反応も、見落とさないくらいに。
逆に言うと、それくらい見ているからこそ、「わからない」のだと思います。


「わからない」とおっしゃる親御さんの多くは、見てはいるけれども、対話していないのです。
別の言い方をすれば、ご自身がどう感じたか、どうメッセージを受け取ったか、を見ていない。
とにかく、子どもの反応、子どもの動き、子どもの表情を、という具合に、子ども、子ども、子どもとなっている。
そうなると、対話にはなっていきません。
対話にならないから、試行錯誤に発展していけないのです。
発達の後押しとは、キャッチボールでもあるので、子どもからのメッセージを受け取るだけではなく、ご自身の感覚、感じたものを返す必要もあるはずです。


発達援助が育み合いだとしたら、親御さんご自身も、その発達援助、後押しをやってみて、どう感じたか、なにが伝わってきたか、という感覚も大事になります。
その感覚があるからこそ、より良い方向へと試行錯誤が生まれてきます。


たとえば、金魚体操でも、同じ揺れるのなら、同じ身体の弛みを目指すのなら、人が必ずしもしなくてもよいといえます。
揺れるマシーンを使い、本人が気の済むまで揺れていればいい。
でも、それだと単に刺激を得ているだけ。


発達とは、心地良いからこそ、生じるもの。
本人が心地良いと感じることが一番。
でも、発達を後押ししている者、育み合いをしている相手も、心地良く感じれることが大事だと思います。
何故なら、その心地良さは、後押し、育み合いを通して、子ども自身にも伝わっていくから。
そういった発達援助をしている者の心地良さが、子ども自身の心地良さをさらに大きくすることもあります。
そういった発達援助をしている者の心地良さが伝わってくることで、子ども自身も「自分の心地良さ」を感じることもあります。


子どもさんの反応を見ても、心地良さがわからないとしたら、それは援助する側の感覚が抜け落ちているからかもしれません。
「今のやり方、私自身も心地良かった」
そういった「心地良かった」という感覚は繋がり合い、子どもの「心地良い」を感じる一歩だといえます。


自分自身が、心地良いも悪いもなく、ただ単に援助しているだけでは、子どもの「心地良い」は見えてこないでしょう。
また対話は起きず、育み合いも生じない。
案外、子どもさんが心地良く感じられていないのは、その刺激、やり方が悪い、合っていないのではなく、やっている側の人間が、単に身体を動かしているだけ、感情が伴っていないため、と感じることは少なくないのです。
子育ても、発達援助も、タスクではありません。
親子の対話であり、育み合いだと、私は考えています。