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自然な姿への変化は支援の転換期

ふと、「あっ、ナチュラルになったな」と思う瞬間がある。 昨日もそんな感じだった。 1年くらい支援に携わっている学生さんだが、昨日はどこにでもいるフツーの若者に見えた。 1年前は、ガチガチの自閉症の人って感じで、身体の動きもぎこちなかった。 初対面のとき、遠目からパッと見て、すぐに自閉症の人だとわかったくらい。 ちなみに私は姿を一瞬、見るだけで、自閉症の人を見分けるのが得意です。 履歴書の特技の欄に書きたいくらい(笑) 結構の確率で当たる。 こちらも「科学的な根拠はない!」と言われるかもしれないが、自閉度の重さもだいたいわかる。 学生時代から、とにかく一人でも多くの自閉症の人と関わることを目標にし、幅広い世代の人たちに出会ってきた。 あと、「脳が違うのだから、その違いは身体に必ず現れる!」という信念のもと、若いときから姿を見るだけで、どうにかアセスメントできないかと訓練してきたのもある。 私の仕事は、短い時間でより多くの情報を得るのが必須だから、そういった意味では無駄ではない訓練だったと思っている。 話が横道に逸れてしまったが、「ナチュラルになった」というのは、その人にとっての大きな転換期だと捉えている。 硬さが取れるというのは、脳みその硬さが取れるということ。 脳に余裕ができると、どんどん新しいことを吸収できるようになるし、他人の意見や環境からの刺激など受け入れられるものの幅も広がっていく。 こうなれば、支援がなくても、本来その人が持っている成長するパワーが目覚め、勝手に成長していく。 自閉症は発達障害なのだから、発達を阻害しているものを取れば良いでしょっていうのが、私の支援に対するイメージ。 阻害しているものが取れれば、あとは自然に成長していくだけ。 「ナチュラルになった」からと言って、自閉脳でなくなることはないだろう。 でも、自閉脳ゆえの硬さが取れれば、生きやすさと成長につながっていくと思う。 だから、この状態になることを1つ大きな支援の目標とする。 別に「定型発達の人と同じように普通を目指しなさい」という意味ではない。 自閉脳のままで、どう硬さを取るか、また脳を柔らかくし、どのように余裕を作っていくか。 昨日の学生さんも、これからどんどん学び、成長していくだろう。 それは学問だけではなく、社会で生きていく

教科書が土台となる

教科を教えることが増えたので、今、子ども達が使っている教科書を見る機会が増えた。 今の教科書は、ただ覚えるのではなく、子ども達に"考える"ことをしてもらいたいのだというのがわかる。 私は教科書を熱心に読んだ記憶はないし、宿題以外は教科書を開いた記憶はない。 家庭学習は通信教材と塾がほとんどだったから、あまり教科書の大切さは感じていなかった。 でも、今、子ども達の教科書を見せてもらうと、将来の勉強につながる基礎基本が凝縮されたものが、学校の教科書であることに気が付く。 子ども達の教科学習も行っているが、そのとき、大事にしているのが、教科書の内容を理解できるようにすること。 もちろん、依頼があるのだから、学校の授業についていけない子ばかり。 でも、教科書が理解できないと、いくら将来頑張っても積みあがっていかなくなる。 これは進学の可能性が低くなるということだけではなく、自立して生活することも難しくなることにつながる。 読み書きそろばんができないと、いくら人柄が良くても、特技があっても、自立的な生活を営むことはできない。 今の社会は、"基本的な読み書きそろばんができる"という前提で構成されている。 だから、応用問題や難しい問題ができなかったとしても、社会で自立して生きていく上で大事な基礎を教えてくれる教科書の内容が理解できることが大きな目標になる。 よく「漢字が読めなくても、パソコンやスマホを使えば、調べられて困ることはない」とか、「計算ができなくても電卓を使えばよい」などと言う支援者もいる。 私が受けたトレーニングでも、代替手段の有効活用について教わった。 言葉が出ない人、うまく表現出来ない人に対しては、絵カードや電子機器を使い、コミュニケーションの指導、支援を行っていくことを学んだ。 しかし、トレーナーの人たちが重視し、強調して教えてくれたことは、「代替手段を使うことが大事なのではなく、前提となる"人とのやりとりがしたい"という気持ちを養う」ということである。 「コミュニケーションマインド」をどう育てていくかである。 つまり、コミュニケーションとは相互交流であり、その相互交流を行う気持ちを育てていないのに、情報のやりとりの仕方を教えても、それは機械的に行動しているだけにな

できない理由が「自閉症だから」なのか?

自閉症の人が"できないこと"って何だろう? 空気が読めないことかな。 でも、気遣いができる自閉症の人もたくさんいるし、定型発達の人よりも礼儀正しく、場を穏やかにしてくれる人もいる。 じゃあ、うまくコミュニケーションがとれないこと。 もちろん、"ことばの遅れ"が診断基準にも入っているくらいだから、苦手な人は多いし、言葉がでない人もいる。 でも、経験を重ね、練習を続けていけば、他人とコミュニケーションがとれる人もいるし、言葉がなくても、代替手段を使って意思の疎通を行える人もいる。 "うまく"コミュニケーションがとれない人はいても、まったくコミュニケーションがとれない人はほとんどいないと思う。 もしいるとしたら、それは知的障害などの他の障害が背景にあると考えられる。 ある事柄ができない理由を「自閉症だから」というように、あたかも自閉症がある上にできない、というような発言に抵抗を覚えてしまう。 自閉症だからできない!? 自閉脳だからできないことって、どれくらいあるのだろうか? 感覚の過敏性や鈍麻、こだわりやパターン化を好むという特徴は、"できないこと"とは違う。 自閉脳ゆえに、定型発達の人よりも極端に強く見られる傾向。 聴覚過敏なために、騒がしい人混みの中にいるのが辛いということはあるが、耳栓等の方法で対応できたり、心身が安定しているときなら聴覚過敏が穏やかになり、そのような中で過ごすことができる人もいる。 計画を立て、実行することが難しかったり、"瞬時に"状況判断することが難しかったりする人も多い。 自閉脳は複数の情報を同時進行で処理することが苦手なので、このような場面で困難さを持っている人も多いが、補助する機器や工夫、トレーニングによって可能になってくる人もたくさんいる。 だから、定型脳のように複数の情報を同時に、かつ瞬時に処理することができなくても、行動自体はできる可能性があるといえる。 このようにグダグダ書いてきたが、私が言いたいのは「自閉症だからできない」という発言は、往々にして"正しくない"ということ。 そういった発言をする人は、自閉症の知識が乏しかったり、間違って覚えていたり。 また、エクスキュ

会話の中で省略されている言葉

会話の中に省略されている言葉って結構ある。 「なんで?」 「どうして?」 「何を?」 「やっといて」 「お願いします」 「よろしく」 などなど。 定型発達の人だったら、過去の経験や状況、ノンバーバルコミュニケーションから瞬時に省略されている言葉を想像し、判断することができる。 しかし、自閉症の人が同じように行うのは難しい。 昨日、このような課題を持つ人と一緒に勉強をした。 「言っている意味がわからないことがよくあるんです」と言う。 だから、私は定型発達の人がどのように対応しているのかを、上記のように頭の中で行っている処理方法について教えた。 そのあと、オートマチックにできないのだったら、マニュアルで対応していく方向性でいこう、と話し合った。 相手が言っている意味が分からなかったら、その省略されている言葉を自分で補えばいい。 「"なんで"っていうのは、ここまで移動してきた手段のことですか?それとも、来た理由ですか?」などと尋ねるのも1つの手段。 そうして経験を積んでいくうちに、省略されている言葉のパターンがつかめてくる。 別に、定型発達の人のようにオートマチックで行うことを目指す必要はない。 定型発達の人が同時進行で行う処理を1つ1つ分解して潰していくのも構わない。 相手が今、何をしているのか? 直前に、どんな会話をしていたか? 顔の表情は? 過去のやりとりでは、どんなパターンが多かった? ただ昨日も、例外として勉強したのが、自分が過ちを犯してしまった場合の「なんで?」は、そのやってしまった理由を尋ねているのではなく、謝罪が求められているということ。 相手が怒って「なんで?」と言われて、その理由や犯行の一部始終を話せば、火に油を注ぐ結果となる。 たとえ、理由を尋ねられていると思っても、怒られているときは、最初に「すみません」「ごめんなさい」から始めるのがルールということも学んだ。 定型発達の人と同じようにできないのだから、配慮してほしいというのもわかる。 でも、それはいろいろな対応方法を試してみてからでも良いと思う。 行うべき作業を1つ1つ分解してみると、案外、自閉症の人でもできることはある。 昨日も勉強したあと、「明日から実践してみます」と言っていた。 「配慮、配慮!」だけが

夏休みの課題

昨日から始まった大学の後期。 今日から私も、大学での支援再開です。 約2か月ぶりに会ったのにも関わらず、顔を合わすと同時にプロ野球の話題に。 確かにセリーグは大混戦で面白いけどね(笑) 話したいことがたくさんあった模様。 後期が始まって早々、夏休み前にみっちり1か月間行ったトレーニングの成果がみられた。 他の学生とのコミュニケーションが円滑に行われていたし、グループワークもちゃんと参加し、協働して課題を完成させることができていた。 また、なかなか言えなかった"困ったときのヘルプ"もできるようになっていて、事前になんて言うかをノートに書いてから、そのメモを見ながら伝えていた。 曖昧な課題を自分がわかるように、どう具体的に変換するか。 ノンバーバルコミュニケーションの理解の仕方など、トレーニングで一緒に作り上げた方法を実践の場で活用することができていた。 やっぱり大学に入れるくらいの実力がある学生さんだから、障害ゆえの"できない"ではなくて、未学習だけだったのだろう。 この調子で苦手意識を成功体験で上書き保存してほしい。 こういった様子を見ると、自閉症の学生さんに対する合理的配慮は、過敏性などの感覚面での配慮を除いては、未学習、誤学習を修正し、トレーニングしていく方が実態に合っていると思う。 テストの時間を伸ばしたり、並んでいる順番を変えたりするのではなくて、どうしたら時間内に完了できるか、並んでいる間の時間をどのようにして埋めるのかを一緒に考え、トレーニングしていく方が良いだろう。 そっちの方が、社会で働き、自立できる可能性を広げる支援である。 夏休み前、「夏休みだからこそできる学びをしよう」と課題を出した。 「自分はコミュニケーションが苦手で、同級生と接するのも苦手だから」と言って、本を読むことと、地域のボランティア活動に参加することを自らの課題とした。 その通りに実行してくれたようで、今まで論理的な本しか読まなかったが、小説や自己啓発本などを読み、実家のある地元の地域の人たちと清掃活動などに従事したとのこと。 そういった大学外の経験も、若者の心身を鍛え、自信を養ってくれるのだと思う。 色白だった学生さんが、少し日に焼け、夏休み前よりも凛々しい顔立ちになっていた。 自ら心身を整えら

それって事前の市場調査とか、ちゃんとやってる?

秋は毎週のように講演会や研修会が行われますね。 私のところにも、いろいろな案内がきますが、どうもビビッとくるものは・・・。 このように考えている親御さんや支援者は少なくないようで、どこも人が集まらず苦戦しているという話を聞きます。 ということは、端的に言って、主催者側がニーズを捕まえきれていないという証拠でしょう。 こういう講演会や研修会は、毎年、予算が確保されていて、話し合いの中心は「誰を呼ぶか」ということになります。 年々、参加者が減ってきているので、「できるだけビックネームを」という方向性にまとまる。 (でも、本当は"ニーズの違い"なのに) ですから、「こんな地方に、とてもお忙しいであろう人が・・・」という方がわざわざ来ます。 わざわざ、しかも著名な先生が来るからといって、こちら側はわざわざ行こうとは思いません。 自閉症に関する新しい知識だったら、ネットや本で得ることができる時代です。 売り文句に「話が面白い」「本をたくさん書いている著名な先生」などの常套句が並びますが、面白い話を聞こうと思えば、噺家さんの方が良いですし、著名な人だったら芸能人やアスリートの方が好きです。 (こういった文言を目や耳にすると、主催者側と参加者側の"隔たり"を感じちゃいます) 第一、私は日々、実践する立場。 自閉症理解の話や社会を変えていこうという話、当事者の方のお話をわざわざ聞きに行こうとは思いません。 即、実践に活かせるのかが大事なポイントですし、当事者の方のお話は日々、聞いていますので。 10年前と比べて、自閉症に関する知識、療育の手法は手に入れやすくなりました。 また、当事者の方の話も珍しくはなくなり、いわゆる"当事者本"もあまり発刊されなくなりましたね。 つまり、世の中の関心は、ただの"自閉症の理解"の段階から、「どうすれば、成長できるか」というような成果の出る実践方法へと移っているのだと思います。 「自閉症の特性や、療育の方法はわかった。じゃあ、我が子が成長し、自立していくにはどうすれば良いの?」というのが、今の世の中のニーズでしょう。 だって、自閉症、発達障害を持った人の中に、困難を克服した人や就労し、社会で活躍している人、結婚し、出産し、子

成長とは、良い方向へと"変わった"こと

あれだけずっと「行きたくない」と言っていた保育園に(笑)、起きたらすぐに「保育園に行きたい」と言うようになった息子。 何があったかと言えば、鉄棒でくるっと回れるようになった。 運動会が近いので、保育園で鉄棒の練習が始まった中、同級生よりも早くにできるようになったらしい。 やはり自分の身体を通して得られた達成感のインパクトは大きい。 まだ幼い息子だが、「できた」という実感があったのだろう。 鉄棒が回れなかった自分から、鉄棒で回ることができた自分に変わった。 「できた」という実感は、自分が変わったことで得ることができるのだと思う。 (年度が替わり、1つ大きなクラスに変わったときも、気持ちの面での大きな成長を感じた) 「成長する」ということは、「良い方向へ変わった」と言い換えられる。 つまり、変わったことがわかるから、自分自身で成長したと感じることができる。 もし、自分自身で変わったところが分からなければ、いくら周りから「できるようになった」「成長したね」と言われても、実感することはできないだろう。 それは、ただのコミュニケーションになるだけ。 自閉症の人の中は、自分自身の成長を掴みにくい人もいる。 何故なら、"変わる前の自分"と"変わったあとの自分"を並列させ、その差を認識し、変わったことを理解したうえで、成長を感じるから。 しかも、成長とはポジティブな変化であって、ネガティブな変化のことではないから、方向性も大事でその辺の適当な認識も必要になってくるから。 自分の成長を実感できることは、誰にとっても明日へと生きる力となる。 だから、私が支援するときも、成長を実感してもらえるような工夫をする。 ある人は支援開始時に写真を撮り、またある人は成果物をファイリングする。 そして、自分自身で日記を書いてもらったり、評価してもらったりする。 すべて将来、見返しができるように。 変わる前の自分を脳みその中から取り出しておく。 これで自分の変化を比べるときに、複雑な思考をしなくても済むし、脳のスペースを空けることにもなるし、より成長を感じやすくなる。 しかし、ここまで必要のない人に対しては、明確な課題を設定することで、より自然な形で成長を感じてもらえるようにしている。 この頃、発達障害で、

紹介はしても、お勧めはしません

今日で9月もちょうど半分。 9月に入ってから動きが多くなっています。 利用してくれていた人が卒業したかと思えば、新しい人がどどっと入ってきたり。 契約更新、業務提携、学習会、会議というように、利用してくれる人、支援に携わる側の人との交流が活発になっています。 これまでは、利用してくれている方たちから宣伝してもらうことがメインでしたが、近頃は宣伝をお願いされることが増えました。 気が付いたら、てらっこ塾も3年目。 私よりも後にできた機関が増えてきたので、そちらの方から見学やアドバイスを求められ、訪問することもあります。 でも、私が宣伝しても効果があるかな(笑) 函館を中心としたこの地域は、道内の中でも保守的な地域と言えるでしょう。 しかも、戦前から障害者支援を行ってきた老舗もあり、そこを中心として地域が形作られてきたという歴史もあります。 なかなか新規が入りづらい地域性と環境があるので、私も新しくできた事業者には頑張ってもらいたいと思っています。 しかし、相談や助言すること、新しくできた機関を地域の人に紹介することはできても、お勧めすることはできません。 何故なら、実力が分からないものを大事な私の利用者さんに紹介して、満足が得られる支援ではなかったら、私自身の信用にも傷がつくからです。 第一、ヒットを打ったところを見たことがない人を「良いバッターだ」と言うことは私にはできません。 いくら「私はやる気もあって、ヒットが打てます」と言われても。 同じように時折、「働かせてください」なんて言われることもありますが、"信用"の部分を考えると、断るしかありません。 てらっこ塾は、本来なら即潰れてもおかしくない企業です。 しかし、一人ひとりの依頼に対して満足してもらえるように、また期待値以上のサービスを提供することで、今があります。 どんな球が来ても、ヒットを打ち、それを続けることでプレーすることができています。 つまり、てらっこ塾がこの地域で潰されず、存続できている理由は信用です。 大きな母体、バックアップの人物がいないてらっこ塾は、ヒットが打てなくなれば、即信用がなくなり、消えてなくなります。 今までいただいてきた信用を壊すわけにもいかず、また信用を大きくしていくためにも、自分自身がまだまだ修行の最中です。

その人は認めても、その状態は認めてはならない

アウトリーチ(訪問支援)という仕事の性質上、不登校やひきこもり状態の人からの依頼がある。 また、今年度になって、不登校の子が学校に行き始めたり、長年、ひきこもり状態だった人が新たな道へ進み始めたりしている人が数名出てきたので、その話を聞いて、別の人からの依頼が続いている。 不登校やひきこもり状態の人とお話をして感じるのが、みんな今の状態で良いと思っていないということ。 「学校に行きたくはない」「社会に出るのが怖い」などと言うものの、やっぱり自分でもこのままではいけないとわかっているし、どうにかしたいと考えている。 でも、どうやったらいいか分からない、という状況の人が大部分です。 よく不登校やひきこもり状態の人に対して、「受け入れましょう」「認めましょう」などと、アドバイスする人がいる。 確かに、不登校やひきこもり状態であったとしても、その人のことは受け入れ、認めることが大事だと思っている。 しかし、人のことは受け入れ、認めたとしても、「不登校やひきこもりの状態」は受け入れたり、認めてはいけないと思う。 何故なら、私が会った多くの本人たちは、今の状態から脱したいと願っているから。 そういった状態を本人たちは抜け出したいと考えているのに、周囲が「そのままで良いんだよ」というメッセージを与えてしまったら、どうなるだろうか。 みんな抜け出すための梯子が欲しいのに、「その場所でいて良いから」と言われたときの絶望感はない。 「本人は何も言わないし、今のままで良いようなことを言ってます」という保護者の方からのコメントは、山ほど聞きます。 しかし、それはどうしたら良いか考えられる状態ではないということであり、そのため、変わることが怖いということ。 私の専門は、自閉症、発達障害の人なので、依頼がくる不登校、ひきこもりの人はほとんど診断を受けている。 過去の失敗が印象強く記憶されたり、今後どうしたら良いかを考え、計画し、実行していくことが苦手な人もいるので、ここは自閉症の知識が必要な部分である。 不登校やひきこもりになった原因は、自閉脳ならではの要素もあるので、そこを読み解きつつ、今後、どうやって今の状態から変わっていくのかを考えていく。 そうやってきめ細やかな支援があれば、彼らは成長し、変わっていけると思っている。 親より長生きするのは子

「頑張って」よりも「頑張ったね」

私は「頑張れ」とか、「頑張って」とかいう言葉を意識して使わないようにしています。 応援したい気持ちを伝えたいときは、そのまま「私は〇〇さんを応援しています」と言います。 なぜ、私が「頑張れ」という言葉を使わないかといいますと、それは「頑張れ」が直球すぎる言葉のように感じるからです。 自閉症の人を言葉をそのまま受け取る傾向がありますので、「頑張れ」と言われると、「頑張なければならない」という指示として受け取ってしまうことがあります。 周囲は励ましのつもりで言ったとしても、本人が指示として受け取ってしまえば、プレッシャーを与えているだけになります。 そのプレッシャーを強く感じてしまうと、「失敗できない」と捉えてしまう人もいます。 また、中には周囲から「頑張れ」と言われたけれど、うまくいかなかったという経験をしている人もいます。 そういった人は、「頑張れ」という言葉を聞くと、"頑張れていない自分"を強く意識してしまう場合もあります。 「頑張れって言われるということは、自分が頑張っていないから言われるんだ」などと、ネガティブに変換する人は結構たくさんいます。 定型発達の子どもの場合は、親や周囲の人から「頑張れ」と言われても、すぐに励ましのつもりで言っていることが想像できます。 だから、よっぽど幼い子ども出ない限り、「頑張らなければいけない」「失敗してはいけない」とは感じません。 しかし、自閉症の子どもの場合は、上記のようにストレートに受け取ってしまうので、指示として聞こえることが多く、それに応えられなかった場合、頑張れなかった自分が強く心に刻まれる場合があります。 このようなストレートな受け取り方、過去の経験をしている自閉症の人が少なくないので、私は「頑張って」とは言いません。 その代わり「頑張った」という言葉は、たくさん言うようにしています。 「頑張った」という言葉は、過去形です。 つまり、本人が意識していたか、どうかに関わらず、頑張ったことに関しては、きちんと感じたままを伝えるようしています。 "頑張る"とは抽象的な概念なので、意外に自分自身が頑張ったことに気が付いていない人も多くいますので。 「頑張って」と応援したいときは、「私は〇〇を応援しているよ」と言いましょう。 そして、「頑張

旧友に再会したような感覚になれる支援者

将来、私が支援に携わっていた人と再会したとき、その人が"子ども時代の友人"にでも会ったような感覚になる支援者になるのが理想です。 「私が大変お世話になった人です」なんて言ってほしくないし、私の支援を必要としなくなった時点で、私のことなんてすぐに忘れてもらって構わないです。 それよりも、しっかり前を向き、幸せを自分の手で掴むことに集中してほしいと思っています。 支援者なんて、踏み台みたいな存在で良いと思っています。 その人が次のステップへ進んでいければ、それでいい。 今まで見えなかった世界が見えるようになったのなら、その人の後姿を見ればよいのです。 何も、「私も一緒に次の世界についていきます」みたいにする必要はない。 本人が人生を歩いている途中で、 「そう言えば、自分の足でしっかり歩けるようになっているな」 「転んだら起き上がれなかったのに、自分で立ち上がって歩き始めることができているな」 と感じるような"色の残らない支援"が理想です。 その人の人生は、その人以外、歩くことはできません。 ですから、「〇〇のお蔭で歩くことができている」と思うよりは、「自分の足で歩けている」と思ってもらう方が、より主体的に、より積極的に、より豊かに歩んでもらえるのだと考えています。 自分の足で歩いているという実感が持てているのなら、歩む道も、スピードも、自分で決めることができます。 本人が「自分の足で歩いているかも」という気持ちを持ってもらうまでが、大事な支援だと思っています。 そのために、自分の特徴、心身の整え方、自分に合った学び方、不安定になる環境とその前兆、対処方法を学んでいくのです。 私は「もう支援はいりません」と、本人の口から聞けることが最大の喜びであり、その言葉を聞くために頑張っているといっても過言ではない。 どんどん私のことを踏み台にして、空高く飛び立ち、今まで見えなかった世界を見て欲しい。 私の願いは、ただそれだけ。 こんな考えだから、「ずっとあなたの支援者であり続けたい」みたいな支援者の気持ちは、まったく分かりません。 だって、その人の代わりに人生を歩むことはできないから。 だって、その人のことを一生支援できるわけではないから。 結局、こういう支援者は、ただ支援している"

自分の支援に自分が参加する

「私が支援者です!」みたいなのって嫌なんですよね。 何だか偉そうだし、支援する側と支援される側をはっきり分けるみたいで。 支援する立場、支援される立場がはっきりしちゃうと、支援の流れが一方通行になってしまいます。 常に支援する側が支援を与え続け、それを支援される側が受け取り続ける。 支援する側始まりの支援。 このように支援の流れが一方通行になってしまうと、支援される側がいつの間にか受け身になってしまいますよね。 受け身の姿勢って、本当に面白くない。 だって、双方の交流が生まれなくなるから。 お互いの意見、捉え方、考え方が交流することによって、新しい刺激を生みだすのに、一方通行の支援では新しいものが生まれません。 生まれるとしても、支援する側に主導権があるのです。 私が支援に携わるときは、支援する立場と支援される立場の境目を消すように心掛けています。 第一の目的は、支援される側の受け身の姿勢を作らないためです。 支援者の影響なんて、高が知れてます。 支援はあくまで補助であり、ヒントです。 だから、変わるのも、成長するのも、本人の意思と行動にかかっているのです。 支援者のためではなく、自分のための支援なのですから、自分自身の頭で考えることが必要になると思います。 そうして自分自身で選択していく。 自分自身が「支援に関わっているんだ」という気持ちを持てるかが大事です。 自分が支援に関わっているという意識が芽生えると、主体的な姿勢が形成されていきます。 主体的な姿勢、体勢が整えば、支援者がいなくてもどんどん変わって、どんどん成長することができるのです。 「この当事者には、自分がいなくてはならない」なんていう愚かな考えを持つ支援者もたまに見かけます。 これは支援を"与えるもの"と捉えている証拠です。 「私はこんな有名で地位も高い人から支援を受けています」ということを喜んでいる当事者もたまに見かけます。 これは支援を"与えられるもの"と捉えている証拠です。 どうしようもない支援者は、どうしようもなくても生きていけますが、受け身の姿勢の当事者は、支援者がいなくては生きていけなくなります。 もちろん、これは死ぬということではなく、自分でどうしたら良いか考えることができず、途方に暮れて

「学校が怖いところだ」というメッセージになっていないか

新学期が始まる9月1日に、子どもの自殺が多いことが内閣府から発表されたことを受け、特にここ一週間くらい様々なコメントが出されました。 私も東京で8年間過ごしたので、あの長い夏休みが終わる頃の何となくイヤ~な感じはわかります。 別に学校で嫌なことがあったわけではなかった私でも、このような気分になっていたのですから、何とか頑張って1学期を終えた子、いじめられている子などの気の重さと言ったら表現出来ないくらいでしょう。 「死にたい」と思うくらいの子は、絶対に学校に行くべきではないと思います。 命をかけてまで学校に行く必要はありません。 様々なコメントを出した大人たちも同じ考え方だと思います。 でも、コメントの内容があまりにも「学校は怖いところだ」というメッセージ性が強いことが気になりました。 学校に行かないことを勧めることと、学校は怖いところと伝えることを同列に並べて伝えて良いものかと思います。 死にたいかどうかに関わらず、学校に行かないという選択、心身を休めるという選択を行うことはプラスに働くことが多いと思います。 でも、しっかり休んで心身ともに元気になったとき、あまりにも大人が「学校は怖いところだ」というような印象を与えていたとしたら、その子は再び登校しようとするでしょうか。 きっと元気になったとしても、学校には行くことはないでしょう。 子どもの命を守ることは何よりも大事ですが、学校に行くという選択肢を残しておくことも大事だと思います。 もちろん、それでも「学校にはいかない」という子がいても良いです。 でも、学校には問題も多いですが、教科以外にも多くのことが学べる場所でもあります。 いじめは言語道断だと思いますが、先生や級友との交流の中で人間関係を学ぶこともできますし、課題を乗り越える経験、集団における達成感、理不尽なこと、どうにもならないことなどを知る社会の縮図を学ぶこともできます。 人の中で人は育つと思いますし、人の中で自分を知ることがあると思います。 自閉症の子どもの場合、大人が出すメッセージをそのままの形で受け止めてしまう子が多くいます。 親御さんが学校の悪口を言った結果、不登校になった自閉症の子もいました(その子は学校が好きだったのに)。 ですから、ここのところメディアを賑わせたコメントを見て、「学校は怖い場所だ」

特別支援の世界の中の"引き継ぎ"にツッコミを入れる

"引き継ぎ"に関しても、ツッコミどころがあると思っている。 学年が変わる、学校が変わる、施設等に移行する、そんなときに引き継ぎは行われる。 でも、そこで交わされる引き継ぎには、多くの場合、支援してきた者の色がついている。 受け手としては、純粋な情報が欲しいのです。 つまり、その人自身の情報が。 でも、「こうやって支援してきた」「ああやって指導してきた」などばかり。 もちろん、純度の高いこれらの情報なら問題はない。 支援&指導の歴史がわかり、そこから現在のつながりがわかるから。 しかし、色が付いている情報だと、その支援者とその子の間でしか成り立たないものが多くなってしまうので、再現できないのです。 第一、同じ学校内ならまだしも、別の学校に行く、学校を卒業して福祉施設に行くとなれば、環境が大きく違うため、同じようにはできない。 また、学校と福祉の場合は、それぞれ役割も、環境も、目的も、違うのだから、どんな指導をやったと言われても、正直困るだけ。 それよりも、「何ができて、何が難しいのか」「どう伝えたらわかりやすく、どう教えたら身につきやすいのか」というより本人の中核に迫るような、そしてブレない情報が必要。 本人の純度の高い情報があれば、移行先の環境に合わせて支援や指導を展開することができる。 たま~に、「〇〇の目標は指導途中です」なんていう引き継ぎ資料を見る。 いやいや、しっかり身に付けさせてから引き継げよって思う。 そんな資料を福祉側が受け取ったら、「はい、できないってことですね」って、あっという間に切り捨てられてしまうから。 私自身も引き継ぎを行うことがある。 でも、基本的には「行った先の方にお任せします!」というスタンスです。 だって、「こうやってきました」「こうしてください」なんて言っても同じようにはできないし、言われた方もプレッシャーを感じて、ただ迷惑なだけ。 しかも、私の色がついてしまう。 中には、「このように支援してください」「このように指導してください」なんて、事細かく指示する人がいるみたいだけど、同じようにはできませんし、その方法自体が正しいかどうかも疑問ですから。 そして、こういったスタンスの理由のもう一つは、行った先で新たな一面が見えるかもと期待している面もあるからです。 もし

「情報共有」「連携(協働)」という絵に描いた餅

どうしても「情報の共有をしましょう」と言われると、「あなたが持っている情報をよこしなさい」に聞こえてしまう。 どうしても「一緒に連携して支援していきましょう」と言われると、「結果が出たら、お互いの手柄で、失敗したら、あなたにも責任があるのよ」と聞こえてしまう。 そして、「お前の物は俺の物。俺の物は俺の物」とジャイアンの名言を連想してしまう。 私は、情報は生きものであると考えていて、鮮度が大事だと思っている。 本人の姿は日々、変わっていくし、成長していく。 だから、持っている情報はすぐに古いものになってしまうし、常に情報の更新が必要だと思っている。 だから、「情報の共有をしましょう」なんて言われても、自分の方が本人とたくさん会っているし、新しい情報を持っているのも自分だったら、上記のようにしか聞こえない。 第一、特定の場所で、短時間だけで得られた情報をいくら貰っても、ほとんど足しにはならない。 また、支援者の捉え方が色濃く出る純度の低い情報も美味しいとは思えない。 連携に関しては、どうせ無理だと端から否定している。 だって、経験も、役割も、センスも、同じような支援者っていますか? どうやっても支援者の色が出てしまうので、連携して一緒に、なんていうのは無理な話。 同じ内容を教えたとしても、やり方も、評価も、同じにはできない。 反対に、教える人が変わると、人によっては混乱してしまう自閉症の人もいる。 だから、何かを教えるときは、まず一人が教え、次に人を変え、場所を変え、手だてを変えというようにやっていくのが、自閉症支援の基本ですから。 連携ができる部分があるとすれば、般化の部分だし、お互いができないところを役割分担して支援するくらいなもの。 まあ、グダグダと説明してきたけれど、「担任が変わったら一からやり直しになる」「担任と副担のやり方が違い子どもが混乱している」っていうような学校を見れば、情報の共有も、連携も、無理なことは良く分かります。 だから、私は最初っから無理だという前提で、会議(交渉?)の場に向かいます。 特別支援の世界では、「情報共有」「連携(協働)」が素晴らしいことであり、当然なことと捉えられていますが、私はただの"絵に描いた餅"だと思っています。

自閉症支援界のアウトリーチ

録画しておいた一昨日のNHKの「プロフェッショナル」を観たら、こちらから出向き、直接支援する手法を"アウトリーチ"と言うことが分かった。 今まで自分の仕事を「家庭教師」「家庭支援サービス」「訪問支援」と何だかしっくりこないまま言っていたが、「アウトリーチ」と言う方がかっこいいので、これからは「アウトリーチ大久保」でいこうと思いました(笑) 番組で取り上げられた方は、ひきこもりや不登校、非行など、若者の抱える悩みや苦しみに寄り添い、支援しているNPOを設立した人です。 対象は違えど、直接支援、訪問支援という同じ方法をやられている方だったので、その意義を理解し、実践されている姿に共感と刺激を受けました。 やっぱり直接支援、訪問支援って大事だと思いますよ。 もちろん、リスクも多いけれど。 直接、そしてこちらから出向くからこそ、本人に伝わるものもあると思っています。 他の支援機関の人と会うと、「私にはできないな」「怖いから嫌だ」「責任がかなり大きくなっちゃう」なんて率直な感想を述べてくれます。 確かに、一人ひとりに合わせて訪問していたら効率は悪いですし、家庭に飛び込むということは危険性も、責任も大きくなる一方です。 しかも、本人だけではなく、家族もひっくるめて支援することになります。 一度、首を突っ込んでしまったら、簡単には抜け出すことはできません。 でも、そうだからこそ得られるやりがいがありますし、直接的なアプローチ、家族を含めた全体的なアプローチは、相談室で、ある場面のみを切り取った支援を行うよりも、違った効果があるのだと思います。 アウトリーチの手法は、まだまだメジャーではありませんし、他の機関の人が言うように誰でもやりたいような仕事ではないと思います。 しかし、地域資源の豊かさは選択肢があることだと考えています。 相談だけでOKの人もいれば、直接支援が必要な人もいる。 相談室、療育機関でOKな人もいれば、家庭での支援が必要な人もいる。 本人だけでOKな人もいれば、家族をひっくるめて支援が必要な人もいる。 同じ特徴の資源がいくらあっても、真の豊かさにはなりません。 同じ絵柄のトランプで神経衰弱をしても、ちっとも面白くありませんから。 自閉症支援界のアウトレイジではなく(笑)、アウトリーチとして頑張って