2015年9月29日火曜日

教科書が土台となる

教科を教えることが増えたので、今、子ども達が使っている教科書を見る機会が増えた。
今の教科書は、ただ覚えるのではなく、子ども達に"考える"ことをしてもらいたいのだというのがわかる。
私は教科書を熱心に読んだ記憶はないし、宿題以外は教科書を開いた記憶はない。
家庭学習は通信教材と塾がほとんどだったから、あまり教科書の大切さは感じていなかった。
でも、今、子ども達の教科書を見せてもらうと、将来の勉強につながる基礎基本が凝縮されたものが、学校の教科書であることに気が付く。

子ども達の教科学習も行っているが、そのとき、大事にしているのが、教科書の内容を理解できるようにすること。
もちろん、依頼があるのだから、学校の授業についていけない子ばかり。
でも、教科書が理解できないと、いくら将来頑張っても積みあがっていかなくなる。
これは進学の可能性が低くなるということだけではなく、自立して生活することも難しくなることにつながる。
読み書きそろばんができないと、いくら人柄が良くても、特技があっても、自立的な生活を営むことはできない。
今の社会は、"基本的な読み書きそろばんができる"という前提で構成されている。
だから、応用問題や難しい問題ができなかったとしても、社会で自立して生きていく上で大事な基礎を教えてくれる教科書の内容が理解できることが大きな目標になる。

よく「漢字が読めなくても、パソコンやスマホを使えば、調べられて困ることはない」とか、「計算ができなくても電卓を使えばよい」などと言う支援者もいる。
私が受けたトレーニングでも、代替手段の有効活用について教わった。
言葉が出ない人、うまく表現出来ない人に対しては、絵カードや電子機器を使い、コミュニケーションの指導、支援を行っていくことを学んだ。
しかし、トレーナーの人たちが重視し、強調して教えてくれたことは、「代替手段を使うことが大事なのではなく、前提となる"人とのやりとりがしたい"という気持ちを養う」ということである。
「コミュニケーションマインド」をどう育てていくかである。
つまり、コミュニケーションとは相互交流であり、その相互交流を行う気持ちを育てていないのに、情報のやりとりの仕方を教えても、それは機械的に行動しているだけになってしまう。

パソコンやスマホ、その他の電子機器、その人の生活の質を向上させるものであったら、どんどん使っていけば良いと思う。
でも、前提となる基礎基本の部分の学習ができている必要があり、これを抜きにいくら代替手段が使えるようになっても、それは動作を身に付けたという他ならない。
買い物に行ったとき、計算機を使って合計金額がわかったとしても、何故、合計金額を求める必要があるのか、そもそも何故、引くではなく、足すなのか、どういう計算をすれば良いのかが分かる必要がある。
ボタンを押して機械が代わりに言葉を発してくれたとしても、コミュニケーションとは相手との相互交流であること、つまり一方通行ではないこと、相手にも気持ちがあることを知らなければならないし、一番大事なことはその人自身がコミュニケーションをしたいという気持ちを持っていなければならない。

いくら代替手段が豊富になり、便利なものが増えたとしても、基礎基本は学んでおく必要がある。
重い知的障害を持っている人の場合は、行動でも良いから代替手段を使って、少しでも生活の質を向上させるということは、本人にとって有益な支援の方向性だといえる。
しかし、そういった人ではない場合、安易に「代替手段を使えばよい」というアドバイスは、結果的にその人の生活の質を向上させることにはつながらず、学びの機会を減らしてしまう危険性もあるので、この点はしっかり押させていく必要があるだろう。

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