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6月, 2017の投稿を表示しています

今の時代を全力でやりきることが、次の時代を作る

構造化された支援というものがなければ、施設職員だった私は、彼らを引っ張って誘導する日々であり、禁止や制止することで一日を終えていただろう。 私が施設職員として働きだしたときは、構造化された支援と前時代の支援が混ざった状態だった。 構造化された支援は、情報や刺激に溢れていた世界に秩序を与えた。 激しい行動障害を持った子ども達も、周囲の環境が整理され、見通しが持てるようになると、落ち着きを取り戻し、その子の持つ本来の資質が顔を見せるようになった。 構造化された支援は、当時よく『車いす』に例えられた。 「足の不自由な人にとっての車いすのように、自閉症の人にとっては構造化がそれにあたるんだ」と。 それまでの支援から抜け出したかった私達は、せっせと車いす作りに励んだ。 彼らが少しでも使いやすいと思ってくれる車いすを、彼らの生活の幅が増えるような車いすを。 今考えれば、人権侵害といわれるような前時代の支援は、構造化によって明らかに減った。 彼らは心身共に安定し、生活の中での選択肢、行動の範囲が広がった。 支援する側も、労力的な負担が減り、構造化された支援はお互いを幸せにするもののように感じていた。 しかし、施設にも高機能ブームの波がやってくると、構造化された支援だけでは、彼らのニーズに応えられない現実が突き付けられる。 確かに構造化することにより、知的障害のない彼らの頭の中も整理され、心身の安定をもたらす。 だが、その次がなかったのだ。 周囲の情報や刺激が整理され、心身が安定したあと、何を彼らに教えるのか、どう成長を支援していくのか、それが見えていなかった。 本来、構造化された支援とは、教育的なツールである。 構造化したあと、何を教えるかが重要なのだ。 しかし、福祉リードで導入していた日本では、教えることよりも、安定させること、前時代の人権侵害と言えるような支援からの脱却の方で満足してしまっていた。 「車いすがなかった時代よりは、ずっと良くなった」と彼らが言い、その声を聞いた支援者は、彼らのニーズを満たせた、良い支援をしている、と思った。 だけれども、高機能の人達は、「そうではない」と言った。 「私達は、ずっと車いすに乗って生活したいとは思っていない。もし、自分の足で立てるのなら、その方法があるのなら、教えて欲しい、支援してほ

アセスメントシートは支援道具ではなく、商売道具

組織を作ると、ウデが悪くなるのか? ウデが悪くなると、組織を作るのか? どちらが正解かは分かりませんが、どうも組織を作ると、利用している人は自立できなくなるし、治らなくなる。 それは、ウデの良いトップの元には、愛着障害バリバリの支援者や出世欲に満ちた支援者、ウデの悪い支援者などが集まりやすいからかもしれないし、自分以外の支援者を養うため、余計にお金を集めないといけなくなるからかもしれない。 一人でやる場合や組織の中の一人としてやっているうちは、純粋に子どものため、親御さんのために支援していればよかったけれど、組織を維持するには利用者の固定資産化を目指さなければいけなくなる。 不良債権を抱えるために、利用者の固定資産化を図る。 固定資産化されるから、利用者はどんどん治らなくなる。 結果、「一人でやっていたときはウデの良い支援者だったのに…」と言われるようになる。 組織を維持するために、良く使われる手段が「アセスメント」ってやつですね。 どっかの誰かが作ったシートを使い、いろんなのを寄せ集めただけの“オリジナルシート(キラッ)”を使い、何時間も、何日もかけてアセスメントを行う。 「私の子をこんなにも多くの専門家の人が、こんなにも多くの時間をかけて評価してくれている(感動)」みたいな勘違いをされる親御さんもいますが、時間をかけるのは料金を上げるためですよ。 アセスメントに、何万円もお金を出すなんて、また要求するなんてボッタクリもいいとこです。 だって、そのアセスメントしたときのその人を切り取り、それを書き示しているだけだから。 流れのない、それこそ、ストーリーのないアセスメントなんて、評価してもらったという自己満足が残るだけです。 「支援はアセスメントから始める」 「継続的なアセスメントがより良い支援につながる」 というのも、セールストーク。 こういえば、こう洗脳しておけば、定期的に利用者が得られるのです。 アセスメントは、いくら行っても、その子が伸びるわけではありません。 第一、「まずアセスメント」「次は支援」というようなものではなく、どちらもくっついているものです。 私も、関わる際は、アセスメントと支援が混合している状態で、はっきりと分けてはいません。 支援しつつ、アセスメントをし、アセスメントをしつつ、支援を

自立が生き延びることにつながる我が子と、自立させないことが生き延びることにつながるギョーカイ

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ギョーカイが嫌いなもの。 それは、親の持つ本能であり、主体性である。 親は、我が子に迫った危険をいち早く察し、その危険から我が子を守る行動をとる。 これは、高等な脳があるからではなく、経験したから成しえるものでもない。 親の持つ本能が発動したのだ。 同じように、我が子を自立させる、一人で食べ物を取り、命を永らえる方法を身に付けさせるのも、学習や文化の継承などといった薄っぺらい話ではなく、本能によるものである。 ギョーカイは言う。 「一生治りません。生涯に渡る支援が必要なんです」と。 これは、親の持つ本能の否定である。 親の本能は、我が子の自立へ向かって動き始めている、それは受精した瞬間から。 しかし、ギョーカイは言葉や文字などの人工物を使い、その本能を止めようとする、それが間違いだと学習させようとする。 いつしか自分の内側にある本能に蓋がされ、見て見ぬように、気づかないように、と学習した親、ギョーカイという文化に適応した親は、主体性を失っていく。 そう、主体性のはく奪こそ、ギョーカイの最終目的である。 親の主体性ほど、ギョーカイにとって邪魔なものはない。 親が主体的に行動し始めたらどうなるか。 我が子に必要な療育を選び、不必要な療育を捨てることになる。 そもそも巷にあふれる何とか療法は、一人の子の成長と発達を完全に満たすたすものではないのだ。 だから、どんな療法も、いつかは捨てられる運命にある。 この“捨てられる”ことをギョーカイは恐れる。 ギョーカイとは、使い続けられることで、生き延びる存在なのである。 だから、自分たちの行いの不完全さ、本能に反する動きを隠すために、親の主体性を奪おうとする。 親が自分たちに我が子を完全に預けてもらうことこそ、ギョーカイの繁栄に必要なことである。 不完全なもの、本能に反することをやり続けるために、その本能自体を野蛮なものと学習させ、主体性を取り上げる必要がある。 親には見て見ぬふりをしてもらいたいのだ。 「先生にお任せします」と言ってもらいたいのだ。 本能を発揮させる親は、ギョーカイの行いが、我が子の自立から遠ざけていることに気が付く。 「このまま、言いなりになっていれば、我が子は支援がないと生きられない人間になる。一生自立することができなくなる」 本能

就学時健康診断を受ける前に知っておいてほしいこと

教員になりたての友人が、よく言っていました。 悲しいことに、学校の先生同士の中にも差別意識があるって。 通常級の先生が上で、その次が支援級の先生、最後が支援学校の先生(もちろん、指導力の違い、通常級の先生が優秀で、支援級がそうではない先生ということではないですよ!)。 友人は保守的な地域で教員になったから、そんな風に思う教員もいるのかな、とは思いましたが、それが学校間の異動にも表れていると友人は言います。 通常級の先生が、支援級へ、支援校へ、異動希望を出せばすぐに通る。 だけれど、一度、支援学校に赴任したら、そこから支援級はもちろん、通常級なんてほぼ不可能、と。 そういえば、この友人以外にも、通常級と支援級で先生になりたい人、支援級と支援校で先生になりたい人は、入り口に気を付けないといけない、とみんな話していましたね。 まあ、もう10年以上前のお話なので、当時と状況は変わっていると思いますが…。 今では、センター機能と呼ばれている支援校の先生が、そのノウハウ、専門性を伝えるために、支援級へ異動することも活発になり、その力をいかんなく発揮され、支援級が見事に支援校みたいになっていますしね。 以前にも支援級について書きましたし、昨日も支援級から通常級へということを書きました。 その意図は、就学前にきちんと実態を知り、我が子の選択について考えて欲しいからです。 私の息子もそうですが、翌年の4月に就学する子は、秋頃に就学時健康診断があります。 ここで「発達障害が疑われる」と言われる子が、最近グッと増えた気がするのです。 知り合いの保育士さん達も同じことを言っていました。 ついこの前までは、そんなことは言われなかっただろう、と感じる子までもが、「発達障害の疑い」と言われ、「検査を」「診断を」「支援級へ」となっています。 特別支援という名称に変わったことや、よく耳にする「発達障害」という言葉によって、社会の受け取り方、認識のハードルが下がったからでしょうか。 それともリスク回避のために、早々と支援級を勧めているのでしょうか。 その理由は分かりませんが、どんどん就学時健康診断で引っかかる子が出てきている。 就学時健康診断で引っかかる子の中には、それまで発達障害と思われたり、気づかなかった子が少なくない状況です。 「そのとき(就

いざ通常学級へとなると、決まって出される警告

支援学級在籍の子が、通常学級で学べるくらいの段階までくると、どうして「友達関係でうまくいかないかも」と言ってくるのでしょうかね。 「いじめられるかもしれません」 「友達ができないかもしれませんね」 「仲間外れにされちゃうかも」 「うまくかかわれなくて、トラブルが起きるかもしれませんよ」 「転籍しちゃうと、あなたの子に、先生一人つきませんよ~、お母さん」って…。 1つの学校の、一人の先生が言っているのでしたら、「その子のことを思って心配されているのだな」とも思うのですが、どの学校の親御さんも「こうやって言われたんです」と言うもんだから、裏を読みたくなるのです。 支援学級から通常学級へ行った子が、必ずいじめのターゲットにされるとも言い切れませんし、通常学級に通う子たちの中でもいじめは起きています。 それに、いじめられる方ではなく、いじめる方に問題があるのだから、それを支援学級に通う子に言って、暗に「やめときなさい」というのはおかしな話。 支援学級から通常学級へ転籍しようとする子が、いじめっ子、乱暴者だったら、止められるのもわかりますが、いじめられる可能性は、他の子と同じはずなのに、「いじめられるかもしれません」と言うのは、ただ脅しているだけ、ただ転籍させたくないだけ、と考えてしまいます。 「いじめられるかもしれないから、支援学級で」という主張は、その子が学校でより良く学ぶ機会を奪うことと同じだと思うのです。 学校というのは、やはり教科学習が基本中の基本だと思います。 小学4年生くらいの学力をもてるかどうかが、子ども達の将来の可能性とリスクに関わってきますので、障害の有無、通常学級、支援学級に関わらず、このくらいの学力をしっかり養うのが大事だといえます。 ですが、どうも学校という文化は、「お勉強ができて、友だちがたくさんいる」という子を目標としているような気がします。 確かに、地方公務員になるには、お勉強ができて、友だちがたくさんいる人の方が良いでしょう。 でも、それは狭い仕事観ですね。 別に友だちがたくさんいなくても、しっかり任された仕事を行うことができれば、働くことができますし、生活していくこともできます。 友だちだって、学校という年齢と住む地域で決められた狭い集団の中でできなくとも、趣味を通して縁が生まれる中だってあ

今さら言われても…

発達障害は治る時代になったのだから、私は「治る」という言葉を使います。 「治る」という言葉は、親御さんにとって希望を感じられる言葉ではありますが、使うのに躊躇する言葉でもあります。 何故なら、入り口で突き付けられた「治りません」という言葉が、魚の小骨のように喉元に引っかかっているから。 声に出して叫びたいけれど、違和感がある、取れない。 そんな印象を受けます。 私は、親御さんの喉元に刺さっている骨を取るようなことはしません。 だって、そんな骨なんか、初めからないのですから。 「喉に骨が刺さっているに違いない」 そのように頭が思うから、違和感を感じるのです。 同じように「治らない」と思うから、「治る」という言葉に違和感を感じる。 この違和感をとる方法は、とても簡単です。 発達のヌケを見抜き、そこから育て直せばよい。 たったこれだけです。 子どもが良い方向へと変わっていき、長年、悩んでいた症状が収まる。 そして、自らの足で学び、成長していく姿が見られたとき、いつの間にか喉にあった違和感がなくなり、自然に「治る」という言葉が出てくるようになる。 子どもの治る姿が、違和感に実態がないという事実を証明します。 親御さんとの会話の中、「治る」という言葉が流れるように行き来しだすと、「このご家庭は、治るが自然な言葉になったな」と嬉しく思い、また安心します。 一方で、どうしても「治る」という言葉を使わない人達がいます。 その人達を見ていると、ずっと喉に違和感があったために、その違和感が当たり前になった人のようです。 ハナから「自閉症は治るわけないでしょ」「治らないから、障害でしょ」という感じの人です。 何を言っても、何を見せられても、「治らない」という視点から世の中を解釈します。 その人達から言わせると、治った人は、もともと自閉症、発達障害ではなかった人になります。 しかし、このように「治る」という言葉を使わない人達の中に、「治る」を懸命に否定する人達の中に、本当は「治る」という言葉を使いたい人がいることがわかりました。 ずっと「治りません」という言葉を必死に飲みこんできた人です。 苦しいけど、それしか方法はないと思って生きてきた人。 治らないんだから、必死に支援、必死に制度、必死に啓発というように、ギョーカイが示し

支援がないから絶望するのではなく、希望を打ち砕かれるから絶望する

「我が子の障害に悩んで…」 「我が子の将来を悲観して…」 流れてくるニュースの中に、こういった言葉が入っていることがある。 こういったニュースを見聞きすると、ギョーカイは決まって言う。 「支援があれば…」 と。 しかし、流れてくる情報を集めると、まったく支援がなかったようには思えない。 日本には乳幼児健診があり、就学時検診もある。 早期から支援を受ける機会に恵まれているともいえる。 また、子どもの発達が気になった際、相談できる機関は各都道府県、地域に存在している。 だから、「まったく支援がなくて」「まったく支援を受けられなくて」ということは考えにくい。 ギョーカイの言う「支援があれば」こういった不幸な出来事、また悲しむ親御さんが減るのだろうか。 むしろ逆ではないかと思う。 我が子の発達に心配し、相談した際、生涯に渡る支援の話をされたら、どうだろう? 「そうか、我が子を生涯に渡って支援してくれるんだ」といって、明るい気持ちになるだろうか。 「親の育て方のせいではありません」といわれ、「あ~、私の育て方が悪いわけじゃなくて安心した」となるだろうか。 たとえ安心したとしても、それは自分以外に原因があったという事実が知れたことに対する安心である。 ギョーカイというのは、良かれと思ってか、「生涯にわたって支援しますよ」「親御さんのせいではないんですよ」と言う。 でも、どちらの言葉も、親御さんの心配の根本である「我が子の発達」を解決したことにはならない。 結局、彼らの言葉は、その場の慰めであり、「あなたの子は治りませんよ。だから、お母さん、気持ち、考え方を変えましょう」と言っているにすぎない。 我が子の発達が心配になった親御さんは、最初から「生涯に渡る支援」を求めて相談にはいかないだろう。 まず考えるのは、我が子の課題の解決であり、発達の遅れがあれば、それを治してほしいという願いを懐き、そして、「専門家に相談すれば、なんとかしてくれる」という希望を持って相談室の戸を叩くはず。 だから私は、支援がなかったから、親御さんが思い悩み、悲劇を生みだしているとは思わない。 むしろ、支援はあったのだと思う。 そう、希望の持てない、希望を打ち砕く支援&支援者が。 本当の悲劇は、唯一、助けてくれると思った存在である“専門

出世欲を持つ支援者

どんな仕事でも、「出世したい」「有名になりたい」「地位や名誉が欲しい」という欲を持っている人がいるものです。 こういった立身出世を夢見ることは否定されるものではなく、それが仕事人、社会人として自分を高めていくための力になるのなら、大いに結構だと思います。 特別支援に関わる者の中にも、当然、このような想いを持った人がいます。 ただ特別支援という仕事は、何か物を売ったり、作ったりという具合に、数値や形で結果が表せるものではありませんので、出世欲を持った人は悶々とし、道を誤ることが少なくないようにみえます。 学校の世界で出世といっても、教頭、校長になるくらいで、他の大多数の先生は、地位も、給料も大差はありません。 指導や生徒を成長させるのが長けているから管理職になれるわけではなく、管理職試験を受けて、合格した先生が管理職になります。 しかも、ある程度、年数を重ねないと、管理職になる権利すら与えられない。 ということは、その数十年の間、目に見える形で出世したい人は待ち続ける必要があります。 福祉の世界の出世というのは、これまた管理職になるくらいのものですが、福祉施設の管理職は名ばかり店長のようなもので、社会的地位があるわけでも、給料が良いわけでも、講演会を開けるような場があるわけでもありません。 ですから、福祉系で立身出世をしたければ、講演会を開いたり、啓発したりして地域に顔を出す機会の多い&有名支援者と顔見知りになれる何とかセンターの仕事に就くか、自分で事業所を起ち上げ、代表になるかになってきます。 または、有名支援者と呼ばれる人の元に行き、出世の機会を伺う、暖簾分けを狙うという方法もあります。 以前から私は言っていますが、支援者というのはインチキ商売なのです。 支援者の力で、課題が解決できたのか、発達&成長できたのか、本当のところはわからないですし、確かめようがないのですから。 どの人にも、課題を解決する力、成長する力、発達する力、自然治癒力というものがあります。 その内なる力が発揮されることで、望ましい姿へと変化することができる。 そのきっかけに支援者がなれることもあるかもしれませんが、実際は、内なる力が発揮された瞬間に、たまたまその支援者がいた、ということもあるのです。 支援者が、その人の内側に入って動かすことはできま

治さない方が差別である

「治す」と言うと、「差別だ」と返してくる人がいる。 どうして“治す”と“差別”になるのだろうか。 むしろ、治さない方が差別だと思う。 だって、病気の人に、「病気は治しません」「病気のままでいてください」と言ったら、病人は病気のままでいればよいんだ、ということになる。 治る方法があるのだったら、治さなければ、それこそ、差別になるだろう。 このような不思議な言動が、特別支援の中では恥ずかしげもなく、堂々と市民権を得ている。 しかし、治すと差別は、私の中では結びつかない言葉。 だから、私は考えた。 そういう人達の“治す”という概念が、私とは、一般社会の人達とは異なるのだ、と気が付いた。 差別というのは、マイノリティーの人達に向けられることが多い。 また、マイノリティーという存在を否定することに差別が生じる。 そうか、彼らの指す“治す”というのは、存在の否定という意味合いを含んでいるのかもしれない。 「治す」「治る」状態とは、変わること、変化することを意味する。 しかし、変化することに、より良い方向へ変わることに、どうして否定が入るのか、最初はわからなかった。 変わることに、否定はいらない。 現状を起点とし、変化すればよいだけのこと。 つまり、現状との繋がり、今の姿、自分との繋がりの中で変化が生じる。 だが、彼らはどうも変わるには、現状の否定から出発せねばならない、または現状の否定、今の自分自身の否定を受け入れた先に、初めて一歩が踏み出せる、と考えているのかもしれないと思った。 「治すのは差別だ」「治るのは差別だ」と、わけのわからないことを言う人達の顔ぶれを見ると、「周囲から否定された子どもの頃の自分」を背負って生きている人が多いような印象を受ける。 子どもの頃はみな、親から、教師から、大人から、いろいろなことを言われる。 「あれがダメだ」「これがダメだ」「ここを治せ」と大人から言われるのは、子どもの日課のようなものである。 親子間でしっかり愛着形成がなされていれば、いちいち「あなたの存在を否定しているのではなく、その行為の過ちを、また将来、より良くなってほしいから、言っているのです」と言わなくても、子どもは察することができる。 しかし、愛着形成の段階に脆弱性があると、注意されることを自己否定と捉え、変わる

構造化しただけでは、教育をしたことにはならない

「“構造化された支援”というのは、福祉と相性が良い」 そんな風に感じながら、福祉の世界で働いていました。 構造化された支援というのは簡単に言えば、情報を整理することで伝わりやすくし、その結果、混乱や誤解を防ぐもの。 人員が少ない福祉にとっては、一度用意しさえすれば、あとはそれを見て自分で動いてくれるというのは大助かりです。 たとえ、それがルーティンで動いていたとしても。 福祉職員にとって大変なのは、手が足りないことですから、問題行動のリスクを減らし、自分で動いてもらえる構造化された支援というのは、提供する側にとっても有難いツールになります。 ただし、福祉職員の大半は、福祉系の学校の出身者か、当事者の家族、「仕事を探していたら、たまたま。特に学歴、資格必要ないし」という人が多いので、同じ構造化を使い続ける、また構造化して一人で動いたらゴールという傾向がありますね。 教育的視点、成長や発達といった視点を持たないと、構造化された支援は、利用者をコントロールする道具に様変わりしてしまいます。 支援級でも、“構造化された支援”というのは、用いられています。 もちろん、学校内も刺激が多い場所ですから、情報を整理し、見通しを持って、落ち着いた一日が過ごせるというのは、とても大切なことです。 しかし、残念なことに、構造化した先の“学び”が見えてこない学級というのが存在します。 特に、福祉リードで構造化された支援を導入してきた当地では、子どもの学校生活に構造化を入れることに熱心な教員が多いのです。 そして、そのような福祉から学んだ教員が、今はベテランの位置にきていまして、中堅、若手に指導する立場となっています。 で、その本来の意味も分からず、せっせと構造化に勤しむ中堅、若手の教員たち。 こういうのが続きますと、いつの間にか、構造化された支援が教育活動だという誤った認識を育むことになります。 構造化された支援というのは、支援であって、教育ではありません。 約半世紀前の創始者も言っているように、構造化は準備であり、何の準備かと言うと、教育するための準備です。 つまり、より良い教育が行えるようにするための情報整理、環境の整備が中核なのです。 先ほど、お話ししたように当地は「福祉リード」の歴史があります。 ですから、支援級を見ると、ど