2017年6月10日土曜日

支援がないから絶望するのではなく、希望を打ち砕かれるから絶望する

「我が子の障害に悩んで…」
「我が子の将来を悲観して…」
流れてくるニュースの中に、こういった言葉が入っていることがある。


こういったニュースを見聞きすると、ギョーカイは決まって言う。
「支援があれば…」
と。


しかし、流れてくる情報を集めると、まったく支援がなかったようには思えない。
日本には乳幼児健診があり、就学時検診もある。
早期から支援を受ける機会に恵まれているともいえる。
また、子どもの発達が気になった際、相談できる機関は各都道府県、地域に存在している。
だから、「まったく支援がなくて」「まったく支援を受けられなくて」ということは考えにくい。


ギョーカイの言う「支援があれば」こういった不幸な出来事、また悲しむ親御さんが減るのだろうか。
むしろ逆ではないかと思う。
我が子の発達に心配し、相談した際、生涯に渡る支援の話をされたら、どうだろう?
「そうか、我が子を生涯に渡って支援してくれるんだ」といって、明るい気持ちになるだろうか。
「親の育て方のせいではありません」といわれ、「あ~、私の育て方が悪いわけじゃなくて安心した」となるだろうか。
たとえ安心したとしても、それは自分以外に原因があったという事実が知れたことに対する安心である。


ギョーカイというのは、良かれと思ってか、「生涯にわたって支援しますよ」「親御さんのせいではないんですよ」と言う。
でも、どちらの言葉も、親御さんの心配の根本である「我が子の発達」を解決したことにはならない。
結局、彼らの言葉は、その場の慰めであり、「あなたの子は治りませんよ。だから、お母さん、気持ち、考え方を変えましょう」と言っているにすぎない。


我が子の発達が心配になった親御さんは、最初から「生涯に渡る支援」を求めて相談にはいかないだろう。
まず考えるのは、我が子の課題の解決であり、発達の遅れがあれば、それを治してほしいという願いを懐き、そして、「専門家に相談すれば、なんとかしてくれる」という希望を持って相談室の戸を叩くはず。


だから私は、支援がなかったから、親御さんが思い悩み、悲劇を生みだしているとは思わない。
むしろ、支援はあったのだと思う。
そう、希望の持てない、希望を打ち砕く支援&支援者が。
本当の悲劇は、唯一、助けてくれると思った存在である“専門家”と呼ばれる人から「治りません」「一生涯、支援が必要なのです」というメッセージを受け取ることだと思う。


我が子の自立を願わない親などいないはずだ。
親は、子どもより先に死ぬことを前提に生きる。
自分が死んだあと、赤の他人の手を借り続けなければ、私の子は生きていけない、ということを知ったとき、絶望が生まれるのだ。


発達障害は治る時代になったのだ。
だから、必要なのは、支援の数でも、潤沢な予算でも、福祉施設の枠の広がりでもない。
発達にヌケや遅れがある子を育て直す発達援助であり、「我が子が治るかもしれない」という希望である。
希望の持てない支援がいくらあっても意味がない。
自分たちの食い扶持と引き換えに、本人や家族の希望を打ち砕くような支援、支援者ならない方がましなのだ。


この地域にも、事件やニュースにならないまでも、ギョーカイの支援によって希望を打ち砕かれ、辛い思いをしている人達がいる。
藁をもすがる思いで相談される親御さんに対し、専門家と言うんだったら、治さなければならないのだ。


「発達のヌケは、あとから取り戻せますよ」
この一言で、相談に来られた親御さんは、パッと明るい表情になる。
だから、私は「発達障害は治ります」と言い続け、実践し続けようと思う。

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