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1月, 2017の投稿を表示しています

タバコの気配

私はタバコを吸わない。 だから、少しの匂いでタバコの存在に気が付く。 施設で働いていた頃だった。 帰省から戻ってきた子どもからタバコの気配を感じると、すぐに着替えてもらい、その日の入浴はいつも以上に気を使った。 私の個人的な嫌悪感からではなく、「この子をこのままの状態にしていては良くない」という感覚的な行動だった。 ご家庭に訪問したとき、子どもの目の前で、プカプカとタバコを吸っている親御さんに驚いたことがある。 20歳までタバコは吸えないようになっているのだから、子どもの近くでは吸わない方が良いのは明らか。 お子さんの発達について心配している一方で、その子の目の前でタバコを吸っている。 だから私は「お子さんの前ではタバコを吸わないようにしてください」と伝えた。 「なんで、そんなことも言われなきゃならないんだ」と顔には書いてあったが、「わかりました」と返事があった。 子どもは、昨日できなかったことが今日できたり、教わったことがすぐにできたりする。 これは急激に脳が変化している表れ。 ということは、未熟であり、未完成であり、未発達の脳の持ち主なのだ。 子どもの脳は、良い刺激だけではなく、悪い刺激にも影響を受けやすい。 だから私は、子どもの発達に悪影響を及ぼしかねないことは指摘させてもらっている、タバコ以外にも。 脳の機能不全の背景には、発達の遅れ、ヌケだけではなく、脳への悪影響、ダメージという場合も少なくない、と感じている。 子どもの脳から「〇〇をやめてって伝えて」という声が見えることもある。

「支援級へ」が雑過ぎ

この頃、支援学級への勧め方が雑になったような印象を受けます。 もうちょっと昔は、自分のクラスで頑張らせようとする先生も多かったし、塾や家庭教師、家庭学習などを勧めて、学校以外の機会で学力の遅れを取り戻させようとしていた気が…。 でも、近頃は、ちょっと学力で遅れが見られたら「支援級へ」となるし、授業中、フラフラや友だちとのトラブル、学校を休みがちも、全部「支援級へ」。 意地悪な見方をすれば、「多様な学び、ニーズ」という文言を利用して、ただ学級の人数を減らしたいだけじゃない、と思っちゃいますね。 「とにかく支援を受けましょう」という意味ではギョーカイの啓発活動は目的を達成してる。 だからこそ、学校のみなさん、「負けるなよ」「騙されるなよ」「教育をやれよ」「福祉になるなよ」と言いたいですよ。 事業名に「塾」という文字が入っていたり、事業の形態が家庭教師なので、「支援級を勧められました…」「通常学級で学ばせたいです」という依頼がコンスタントにきます。 私の個人的な意見としては、きちんと学力が身につくなら通常級でも、支援級でも、良いと思っています。 でも、実際にお子さんとお会いすると、通常級で学んでいった方が良いと思う子ばかりです。 だって、その子自身のニーズとして個別対応、個別支援が浮かんでこないから。 昨年、LDという診断を受けた子どもさんの相談がありました。 確かに、授業にはついていけてないし、テストの点数もよろしくない。 読むのも苦手だし、書くのも苦手。 でも、テストの答案に書いてあった「なまえ」の文字を見ると、きれいな文字で書かれていたんですね。 これって書くのが難しいんじゃなくて、書く練習が足りないだけじゃない。 そこから毎日、書く練習をしてもらいました。 同じように教科書や本の音読も。 そしたら、ちゃんと書けるようになったし、読めるようになった。 テストの点数も上がったので、それ以降、支援級の話はなくなったし、私の支援も終了です。 私が助言したことは、何も特別な内容ではありません。 字が書けないから、毎日、書く練習をした。 読むのが苦手だから、毎日、音読をした。 ただそれだけ、当たり前のこと。 それを診断基準を満たすからって「LD」とつけた医師も雑だし、「LDなら通常級は無理」と考えた教師も雑。 書

「腕を磨く」という意味の違い

「腕を磨く」という言葉から、「新しい技術を身に付ける」「身に付けた技術を向上させる」という風に連想する人が多い…ということに改めて考えてみて、気がつきました。 私は今までもっぱら「腕を磨く」=「視点を増やす」だと思って、支援者という道を歩いてきました。 だって、支援者は自分ではなくて、他人を支援する者だから。 技術は自分に属するものであり、視点は他人に属するものです。 技術が増えれば増える程、自分がより良く見られます。 視点が増えれば増える程、他人がより良く見られます。 いくら技術を持っていたとしても、他人のために活かせなければ、それはただの所有物にすぎません。 でも、視点が増えれば、その人を深く、立体的に捉えることができ、必要な援助の創造へとつながっていきます。 私は研修でも、専門書でも、そこから教わることが具体的になればなるほど、鬱陶しく感じ、自らボヤッと捉えるよう距離をおこうとします。 具体的な手順や方法などは、実際に人と対峙するときに邪魔になるのです。 同じ発達障害でも同じ人間はいないわけで、しかも、その瞬間瞬間で臨機応変な対応が求められる仕事です。 ですから、より具体的な方法が頭に残るということは、無意識に頭の中の方法へと引っ張られてしまう危険性が出てしまいます。 必要なのは、その方法のエッセンスであり、視点です。 エッセンス、視点を自分の中に取り入れることができれば、あとはその人に合わせて援助していくだけなのですから。 物と対峙する仕事の人間は、「腕を磨く」というのは、己の技術を高めること。 それがよい仕事へとつながるから。 しかし、支援者というのは、他人を支援する仕事なので、その他人のことを第一に考えなくてはなりません。 そのためには、その他人を知ること。 ですから、支援者の言う「腕を磨く」は、他人、もっと言えば、人を知るための視点を増やす営みのことを指すのだと私は思うのです。

アセスメントシートが生まれる意味

以前、アセスメントシートを作ったことがあります。 自閉症の特性とか、コミュニケーションとか、遊びとか…。 いろんな文献、研修資料から引っ張りだしてきて、自分たちの組織で使いやすいように、とアセスメントシートをせっせと作った覚えがあります。 アセスメントシートというのは、2つの側面があると思うんです。 それは「視点」と「均質」。 視点については、私の場合は親御さんを意識し、「こんな視点でお子さんを見てみてください」「私達は、こんな部分に注目して支援しています」と分かりやすく伝えることに重きを置いていました。 均質については、なんせ離職率の高い職場でしたので、どんな職員でもある程度はできるように、という目的がありました。 「最低限、ここくらいは見てくださいな」という思いと、外に対して「ちゃんと支援しているよ」と見せかけることが目的でした。 同じシートを使って、どの利用者さんも同じようにアセスメントしていたら、なんとなくやっているように見えますよね、実態はともかく。 本当にセンスがあって、良い支援者というのは、アセスメントシートなんていりません。 有名どころの療法では、必ずと言っていいほど、正式なアセスメントシートがありますが、それは下手くそでもアセスメントできたように感じさせるためのもの。 だって、アセスメントこそ、その人のセンスが問われる部分はないのですから。 そんな支援の入り口のところで、「この療法は、私には無理」と思われたら、その療法を学んでもらえないでしょ、使ってもらえないでしょ、資格取ってもらえないでしょ。 そもそもシートに書き出せるくらいで、アセスメントが終わるはずがありませんね。 生身の人間ですよ。 今、目の前にいるその人を構成しているのは、受精からの歩みであり、環境であり、学習です。 常に揺らぎ、変化が生じ、一瞬として同じ状態のない存在なのですから、いくら事細かく項目があったとしても、そのすべてを網羅することはできませんし、一瞬を切り取ったときから、すでに違う存在になっているのです。 「先行条件」が云々かんぬんっていうのもありますが、それくらい単純化しないと支援ができないという意味であり、ハードルを低く設定して多くの人に使ってほしいという意図が見えますね。 アセスメントシートは、アセスメントを単純化

専門知識を増やすことに突き進んできた結果

ある支援者がこんなことを言っていました。 「この地域には勉強熱心な親御さんが多い。だから、親御さんが知っていることで、支援者が知らないということはあってはならない」と。 この発言を聞いて、みなさんなら、どのように感じるでしょうか? 自分が支援者という立場でしたら、「そうだよな。親御さんに尋ねられたとき、わかりません、とは言えないよな。当然、プロだったら、親御さんよりも専門知識が多くなければいけない」と思われるかもしれません。 自分が保護者という立場でしたら、「仕事としてやっている人間が、親よりも知らないなんてことはあり得ない。たくさん勉強して、専門家として頼れる支援者であって欲しい」と思われるかもしれません。 私は、と申しますと、この一言につきますね。 「くだらねー」 この支援者は、ビジネスの支援者であり、治せない支援者だとすぐに分かりましたね。 こんなくだらないことを堂々と言える姿から、この地域の問題が浮かび上がってきます。 この地域は、時間が止まったままです。 それは、この発言が表すように、支援者も、親御さん達も、誤った方向へと努力を続けてきてしまった結果だと言えるでしょう。 親御さんが知っていることを支援者が知らなくても、どーってことはありません。 そりゃあ、「自閉症って何ですか?」「発達障害って何ですか?」というようなレベルは問題ですよ。 でも、ナントカ療法のナントカっていう名称とか、方法とか、知らなくても問題ないでしょ、きちんと本人の課題をクリアし、成長を後押しし、治せれば。 親御さんと知識量比べをして、何の意味があるのでしょうか。 専門知識が増えれば増える程、良い支援ができるのなら、こんな簡単な商売はありません。 だって、とにかく勉強して、とにかく資格を取っちゃえばよいのですから。 でも、実際はそうではありませんね。 生身の人と対峙するのですから、感覚的な部分が重要になってきます。 また知識でなんとかしようとするのは、発達障害を根本的から理解していない証拠でもあります。 人間脳より深い部位と、生まれたあとだけではなく、生まれる前の物語が重要なのですから。 支援者とは腕がすべてであり、結果で評価されるものです。 腕を磨く過程で、専門知識が増えていくのは自然ですが、専門知識を増やすことが腕を上げることだと

相談の文面から伝わってくる美しさ

地元では人気のない私ですが(笑)、ほかの地域に住んでいる方から相談のメールや電話を頂くことがあります。 「ホームページを見て」ですとか、「ブログ、いつも読んでます」とか、そういったネットを通じて私のことを知ってくださった方達がほとんどです。 事業開始当初、「この地域で相談業務はやるんじゃね~」という横やりが入りましたので、表だって相談支援はしていませんが、ご縁があって連絡をくださった方達ですので、直接支援をしている方達と同じように全力で応えさせていただいています。 まあ、実際は「相談くらいでお金とるんじゃないよ」という想いがありますし、やはり直接関わること、そして本人にポジティブな変化が起きることが、この事業の中心ですので、それ以外でお金を頂くことは考えていませんでした。 相談にお応えしたあと、後日、「息子がこうなりました」「娘が成長しました」というような報告を頂くことがあります。 大変ありがたいことですし、日本のどこかに成長できた子どもさんと、それを喜ぶ親御さんがいることを感じられるので、うれしく思います。 それで、いつも「大久保さんのお蔭で」なんてことを言われますが、私にはそのような能力はないのです。 実は最近、ご相談のメール等がよく来るのです。 別に「迷惑だ」とか、「やめてほしい」とか言いたいわけではないんですね。 ただネタバレをしておいた方が良いのかな、って思って綴っているのです。 私が思うに、私に連絡をとった時点で、ほとんど課題は解決している、といえます。 何故なら、会ったこともない人間に、そして良く分からない怪しい事業をやっている人間に、飛び込みで直接連絡をとっているのです。 しかも、そのほとんどの内容が、大切な我が子に関することです。 知らない人に対する怖さ、不安と、少なからず相談することの恥ずかしさもあるのだと思います。 でも、それを乗り越えて、「我が子がより良くなるために」と、連絡をとる。 こういった強くてまっすぐな想いのある人のお子さんが、課題を乗り越えられないはずはないですし、成長できないはずもないのです。 ですから、私に相談したから、課題が解決したのではなく、親御さん自身が子どもさんの今と未来に真剣に向き合い、行動を起こしたから、課題が解決したのだと思います。 表現は適切ではないかもしれません

計画通りに舵が切られた「放課後等デイサービス」

私が学生の頃は、重宝されていました。 障害を持った子ども達の、また成人した人達の余暇活動支援においてです。 15年くらい前は、学校が終わると、ほとんどの子ども達が家で過ごしていました。 当然、働きに出ているお母さんは少なく、朝、学校に送りだしたら、子どもが帰ってくるまでに家事を済ませ、そこから寝るまでは付きっ切り、という家庭が多かったのです。 当時は、今のような放課後デイはなかったので、私達のサークルには依頼の電話がたくさんかかってきていて、学生ボランティアを集めても、集めても、足りないくらいでした。 私自身も、たくさん掛け持ちをし、4年生の頃には、月~日まで誰かしらのお宅に訪問し、家で過ごしたり、外出したりしていました。 交通費のみ、という面も大きかったかもしれませんが、1時間でも、2時間でも、一緒に過ごさせてもらうだけで、親御さん達からいつも感謝の言葉を頂いていました。 夕方に差し掛かったりすると、「夕ご飯、一緒に食べてって」と言われることも多く、学生の身としては温かい家庭料理を頂けることも、親御さん達からの有難いお返しの1つになっていました。 私が福祉施設で働き出して数年が経った頃から、児童デイができ始め、ここ数年で雨後の筍のように当地にも出現するようになりました。 学生時代の経験から、当時の親御さん達が望んでいたサービスがようやくできた、という思いで、喜んだというよりは、ほっとした気持ちになったことを覚えています。 それと同時に、「1日1万円」という事実にひっかかりを持ちました。 これは、10年くらいかけて数を増やす作戦だなって。 制度を作る人達は、いわゆるエリートと呼ばれるような人達です。 いくら10年前と言っても、超高齢化社会になることも、福祉予算がどんどん膨れ上がることも、国の制度もこのままでは立ち行かなくなることも、当然、理解していたはずです。 それなのに、出てきた制度は「1日1万円」 平日なら数時間ですし、休みの日でも8時間くらいなものです。 1日5名の利用があっただけで、5万円。 それが1ヶ月になると、5万×6日×4週で120万。 で、単純計算で年間1,440万円。 事業者からしたら、場所と人さえ確保できれば、十分利益が計算できる制度になっています。 地方でしたら、一軒家を借りても、そこまで

より良い社会を遺すのは、私達大人の「義」である

大晦日、被害妄想を膨らまし、ツイッター上で言いがかりをつけてきた人がいました。 私が「児童デイに1回1万円の税金が使われている」という情報をツイートしたことに対してです。 そのツイートを見て、脊髄反射を起こし、ありえない恐怖感を膨らましたのでしょう。 世の中に安心感を持てずに生き続けてきた姿が、やりとりの中から見えるようでした。 この人物の妄想と暴言は、ひどいものでした。 ですから、転載はしません。 ご覧になりたい方は、私のツイートを辿って頂ければ、と思います。 この人物の過去のツイートには、「役所で怒鳴り散らし、我が子の支援決定を取り付けた」というようなことが記されていました。 このツイートを見たとき、次のような連想をしました。 「役所で暴れ、支援決定を得た自分」 「私の児童デイ1回1万円のツイート」 「脊髄反射、自分が責められている」 「抑圧された生活」 「上下関係」 「上から押しつけられてきた人生」 「意思決定させてもらえなかった幼少期」 「頭ごなしに指示されることへの反発、抵抗」 そして、昨日、私は「役所で怒鳴り散らし、我が子の支援決定を取り付けた」ということに対し、以下のようなツイートをしました。 ーーーーーーーーーーーーーーー こういう人間がいることも知ってほしい。 高齢者が増えたから、社会に理解がないから、必要な子ども、家庭に支援が届かない? 予算も、資源も、増えてきている。 でも、それに群り、たかる事業所と同じように、こういう親がいるのだ。 この1枠があれば、学び、成長できた子どもがいたかもしれない。 この1枠があれば、働きに出られた親御さんがいるかもしれない。 この1枠があれば、救われた家庭があったかもしれない。 障害児を持つ親だから何をしても良いのか? 福祉課の職員の前で怒鳴り散らしても良いのか? こういう人間がいるから、本当に必要な人に支援が届かない。 こういう人間がいるから、「障害児の親ってメンドクサイよね」「関わりたくないよね」って思ってしまう人が出てしまう。 こういう人間がいるから、福祉資源を有効活用し、より良い我が子の未来を願う親御さんの足を引っ張るのだ。 どこの誰かわからない人間がどうなろうとも知ったことではない。 思春期の息子

より良い社会を目指す方たちと共に

何年ぶりでしょうか、というくらい久しぶりに函館で新年を迎えました。 今朝は雲がかかっていて、綺麗に初日の出とは言えませんでしたが、雪もほとんどなく、穏やかな元旦でした。 妻が用意してくれたおせちをいただき、神社へ参拝。 昨年の感謝と、今年も温かく見守っていただけるよう手を合わせてまいりました。 大切な家族と一緒に新しい年を迎えられたこと。 この“とき”に感謝し、「有難い」と思った気持ちを大切に、今年一年も過ごしていきたいと思っています。 今日から新たな1年が始まりますが、1年というのはあっという間だと思います。 そして、あっという間の1年が積み重なっていくのが、人の一生。 小さいときから、私は「人の一生は短いな」と思っていました。 ときに、高齢になった自分の姿を想像し、「人生、あっという間だったな」と言うんだろうな、と思うことがありました。 その気持ちは、今も持ち続けています。 高校の野球部の監督が、「俺の人生の最後は、野球をやっていて良かったと思って死にたい」と話してくれることがありました。 だから、お前たちにも野球をやって良かったと思ってほしい、というのです。 その言葉は、今でも私の心の中に熱を持って生き続けています。 私は、この仕事をして良かったと思って最期のときを迎えられるのだろうか? 親から、ご先祖様から、数えくれない人達から受け継いだこの命をちゃんと使うことができているのだろうか? 一瞬一瞬を大切に、後悔なく、信念に向かって進むことができているのだろうか? 自分自身に問いかけます。 自分が生きた社会よりも、ほんのわずかでも良くなった社会を遺こし、後輩たちにバトンを渡したい。 それが親から渡してもらった命をきちんと使い、命をつなぐことだと思っています。 ですから、今年もより良い社会のために、己の信念を貫き、行動していきます。 人の一生は、誰にも分かりません。 また、発達障害の方達と関わる者としての時間も、あとどれくらい残っているかはわかりません。 だからこそ、今のこの瞬間も大切に生きていこうと思います。 より良い社会を目指す方たちと一緒に。 本年もよろしくお願い申し上げます! てらっこ塾 大久保悠